JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.11.07
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カテゴリ: JINさんの農園
幻に終わった利根川分水路計画
幕臣に登用ー土木技術者として一
天保13年(1842) 10月2日、金次郎は幕府勘定所所属の御普請役格に登用された。
治水・利水に関する上木工事が役目で、天保の改革を進めていた老中首座・水野忠邦にその技量を
期待されてのことであった。金次郎に与えられた仕事は、利根川分水路の造成であった。金次郎は
印旛沼(千葉県)へ向かい、測量調査を行った。地質が悪く難工事が予想されたため、沿岸農民への
利益に配慮した荒地開発・用悪水路普請など、20年かけて完成させる長期計画を立てた。
うまく進まなかった幕府の計画
利根川分水路造成の目的は、表向きには新田開発・水害対策とされていたが、実際は銚子から
利根川をさかのぼり、印旛沼を経由して江戸湾へと至る舟運路の新設にあった。早期実現を
望む幕府は金次郎の長期計画は採用せず、従来の御普請役体制でのぞむが工事はやはり困難を
極め、間もなく水野忠邦は失脚、計画は幻に終わった。
金次郎の計画は幕府の思惑にとらわれることなく、実現可能な報徳仕法で貫かれていた。
日光神領仕法---雛形から実施へ---
日光神領仕法の開始
仕法雛形提出から6年半余りの後、嘉永6年(1853) 2月13日、金次郎改め尊徳は幕府から待望の
日光神領仕法開始の命令を受けた。67歳の尊徳はその頃、病気がちであったが、病を押して
7月2日から神領の村々を巡廻し、人口や実際の耕作面積、困窮の程度など個々の詳細な状況を
把握して応急処置を施した。そして荒地900町余(約9ヘクタール)の開墾のために以後30年間
にわたる綿密な復興計画を立てた。
財政難で復興資金を出せない暮府に代わり尊徳は、小田原藩から返還予定の5000両、諸家へ融資
したうちの返済予定金に1200両、相馬中村藩からの毎年500両10か年の献金などを資金にあてた。
そして神領の今市に「報徳役所」を設けて、仕法の拠点とした。
幕府領・大名領の仕法実施は容認
また尊徳はこの時幕府から幕府領・大名領を問わず、要請があれば手広く自由に仕法を行うことを
許された。願ってもない裁量権を与えられたが、尊徳には死期が迫っていた。
目標半ばにして明治維新へ
尊徳亡き後、仕法は子息の弥太郎(尊行)が引き継いだが、慶応4年(1868)戊辰戦争によって
廃絶する。復興期間は尊徳の計画の半分にとどまったが、荒地の開墾量も計画の半分に達して
いたのである。
報徳仕法の成果
桜町領復興以来、尊徳への復興指導の依頼が相次いだ。その地域は下野(栃木県)・常陸(茨城県)を
はじめ、下総(千葉県)・武蔵(東京都・埼玉県)・相模(神奈川県)・駿河(静岡県)・伊豆(同)・
遠江(同)・甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・越後(新潟県)・陸奥(福島県・岩手県)などの幕府領・
藩領・個別の村や個人におよび、再建された村は600余を数えた。
尊徳没する(享年70)
日光神領仕法のさなか、3度目の病を発し、安政3年(1856 )下野国今市村(栃木県日光市)の
報徳役所においてその生涯を終えた。享年70。
法名「誠明院功誉報徳中正居士」
尊徳語録
二宮尊徳は説教名人であった。人間の天地自然の現実との向き合い方や日常生活の心がけに
ついて平易な言葉で心を打つ語録をたくさん残している。その一部をご紹介。
《道歌》
むかしまく 木の実大木と成にけり 今まく木の実 後の大木ぞ
おのが子を 恵む心を法とせば 学ばずとても道にいたらん
(道理が解る)
何事も 事足りすぎて事足らず 徳(万物からの恩恵)に報ゆる道の見えねば
《天の恵みと人の努力》
米は地から生ずるものであるが、天から降るものでもある。
日光照射の功を積んで米となる。だから人が深く耕し草を取り、日光を地中深く入れば
実りは多い。
《分限の自覚》
天下には天下の、一国には一国の、一村には一村の一家には一家の分限があり、これは自然の
天分である。
天分によって支出の度を定めるのを分度というが、人々は贅沢を求めて分度を守ろうとしない。
そうなれば、たとえ世界中を領有しても不足を生じるのだ。



「相馬藩」と「日光神領」位置図。



次の展示コーナーへ。
尊徳の子孫と弟子たちのゾーンでは、北関東や南東北、東海や北海道におよぶ子孫や弟子
たちの実績を紹介。

彼らは各地で報徳仕法を実践したほか、のちに明治天皇もお読みになった『報徳記』
(富田高慶)の編さんなど、尊徳の思想と方法論を広く世に伝えた と。




◆相馬藩 理想的な報徳仕法のモデル
弘化元年(1844)~明治4年(1871)
仕法の導入
相馬中村藩(福島県)ては天明(1781 ~ 89)の飢饉により人口・収穫高が大幅に減少し、天保の肌饉
ではその傾向に拍車がかかった。
尊徳は同藩の過去180年間の収税額をもとに藩財政の分度を設定し、復興計画を立案。仕法は成果を
示しやすい環境にあった坪田村・成田村から始められた。
理想的な仕法
尊徳は相馬へは赴かなかったが、藩主・相馬充胤(みちたね)以下、藩全体で仕法に取り組む体制が
できていた。現地では門弟で同藩士の富川高慶や斎藤高行らが尊徳の代理として指導をした。
それはこれまでの経験を踏まえた完成度の高い仕法であった。
仕法は明治4年(1871)までに、領内226か村のうち101か村で実施され、55か村で完了した。
尊徳を尊崇する充胤は、日光神領仕法への献金のほか、今市で戊辰戦争に巻き込まれた
二宮一家を相馬へ招くなどの援助を行った。



富田高慶 とみたこうけい
文化11(1814)~明治22(1889)
相馬藩士 尊徳門弟の筆頭「報徳記』著者
奥州相馬藩士斎藤嘉隆の次男。藩の窮乏財政、農村の再建を志して江戸へ出るが果たせず、
下野国桜町領の報徳仕法の評判を知り、天保10年(1839)9月尊徳のもとに入門。相馬藩の
復興仕法においては、藩主の全面信任のもと、尊徳の代理として指導にあたった。
嘉永5年(1852)には尊徳の娘文と結婚。尊徳没後は、門弟の最長老として、子息尊行とともに
日光神領や各藩領の仕法を引き継き、明治維新以降は、報徳の新時代への活用、普及に
尽力した。」
『報徳記』
『報徳記』は明治13年(1880)に宮内省に献上され、天覧を得て、同16年に宮内省の印刷本が
近臣高官に配布された。ついで同18年にこ農商務省から、同23年には大日本農会からも出版され、
その後も各所から同書あるいはこれに題材した著作の刊行が続き、二宮尊徳の存在と事績が広く
一般にも知られるようになった。
『報徳記』成立の発端は、それより33年前の弘化4年(1847)に遡る。当時幕府のもとで報徳が
停滞の危機に直面した時、富田高慶は勘定所の幹部を訪ね、膝詰で仕法活用の意義を説いて
まわった。その数は延べ17人に及んだ。相手の関心を引くために尊徳の経歴や窮民・難村救済の
成果に関わる印象深い話を組み合わせ、熱く語りかけた。それは生きた報徳の物語となり、
『報徳記』が誕生した,
明治になって、富田はこれが宮内省て供覧に付されるという話を耳にしロ語の俗文体を懸念し
漢語の素養のある相藩士に格調のある文語体への改めを依頼した。こうして今日の伝本『報徳記』
整い、元藩主相馬充胤の名で宮内省に献上された。
『報徳記』に感銘を受けた知識人、文士は少なくなく、また、手本とすべき人間像として金次郎・
尊徳が教科書に取り上げられるなど、近代社会の文化、教育に与えた影響は大きなものが
あった。」



斎藤高行 さいとうたかゆき
文政2年 (1819)~明治27年(1894)
相馬藩士 尊徳の高弟 『二宮先生語録』著者
奥州相馬藩士斎藤完高の長男。弘化2年(1845)冨田高慶に次いで尊徳の門人となる。同4年
(1847)からは、東郷陣屋(栃木県真岡市)に赴任した尊徳から親しく教えを受けた。この時の
尊徳の説法をまとめた後に『二宮先生語録』を著した。同年12月、富田高慶に代わり相馬仕法
の実務の統括を引き受け、仕法に専念した。著書はほかに尊徳を知るうえで貴重な『報徳秘稿』
がある。」

福住正兄 ふくずみまさえ
文政7年 (1824)~明治25年(1892)
尊徳高弟 箱根萬翠楼主人『二宮翁夜話』著者
相州大住郡片岡村(神川県平塚市片岡)の名主大沢市左衛門の五男。東郷陣屋近くの神宮寺という
破れ寺に斎藤高行と共に住込み、尊徳の教説を親しく聞いた。明治期に教説をまとめた
「二宮翁夜話」と、報徳社の運営方法を解説した『富国捷径』は代表的著作。各地に民間報徳結社
の設立を指導した。また箱根の観光開発には人力車道が必要という福沢諭吉の提案を受け、
小田原・湯元間に人力車道を整備した。」

福山滝助 ふくやまたきすけ
文化14年 (1817)~明治26年(1893)
小田原の商人 三河・西遠州報徳を再現
相州小田原町古新宿(小田原市浜町四丁目)の菓子屋里見勘兵衛の次男。商人として報徳を実践、
28歳で一戸を構えた。慶応3年(1875)51歳の時、福住正兄の強い勧めで、安居院庄七亡き後、
衰退にあった三河・西遠地方の報徳社の再建につとめ、明治4年(1872)これを統括する本社
「遠譲社」を組織した。」



岡田佐平治 おかださへいじ
文化9年(1812)~明治11年(1878)
遠州地方の報徳社の設立を主導
遠江国佐野郡倉真村(静岡県掛川市倉真)名主岡田清光の次男。嘉永元年(1848 )掛川で安居院庄七
から報徳の教義を聞く。
同元年12月、倉真村に「牛岡組報徳社」を設立。掛川藩に年々米50俵を推譲するとともに、領内
十数カ村に復興仕法を実施。同6年(1853) 8月、遠州の報徳仲間6人と日光の尊徳を訪ね、教えを
受ける。明治8年(1875)12月、遠江国報徳社を設立(大日本報徳社の前身)、初代社長に就任。」

岡田良一郎 おかだりょういちろう
天保10年(1839) ~大正4年(1915)
大日本報徳社設立 国政との協調
遠江国佐野郡倉真村(静岡県掛川市倉真村)の岡田佐平治の長男。安政元年(1854) 16歳で
尊徳門人となり、5年間修行。
明治6年(1873)浜松県庁に出仕、低利・無利息で貸付を行う資産金貸付所の設立を建議し認可
される。同18年(1885)大日本報徳社規則草案を作成。諸県に報徳結社を推進。
同23年(1890)衆議院議員。同44年(1911)遠江国報徳社を大日本報徳社に改称、初代社長に
就任した。」

岡田良平 おかだりょうへい
元治元年(1864) ~昭和9年(1934)
文部省高官 大日本報徳社を継承
岡田良一郎の長男。父創設の私塾、冀北学舎に学ぶ。明治26年(1893)文部省人省。同40年
(1907)京都大学総長に就任。同45年(1912)岡田良一郎の跡を継ぎ大日本報徳社社長。
また半官半民の「報徳会」の設立、活動にも関わる。大正5年(1916)文部大臣就任。大正15年
(1926)『尊徳全集』編纂に着手。昭和9年(1934)良平死去により、実弟で政府高官を歴任した
一木喜徳郎が、大日本報徳社の第3代社長に就任する。」



安居院庄七 あごいしょうしち
寛政元年(1789)~文久3年(1863)
異色の伝道者 東海に報徳社設立
相州大住郡蓑毛村(秦野市蓑毛)の修験浅田秀峰の次男.
天保13年(1842) 7月、米相場に失敗して.桜町陣屋の尊徳を訪ね、風呂番をしながら逗留し、
報徳を理解。帰国後報徳仕法で自家を再建した。その後報徳伝道の旅に出て、弘化4年(1847)
から遠江(とおとうみ:静岡県西武地方)において報徳社の結成を指導。嘉永6年(1853)
「遠州報徳七人衆」と共に尊徳を訪ね、教えを受けた。」

大友亀太郎 おおともかめたろう
天保5年(1834) ~明治30年(1897)
札幌開発の先駆者「大友堀」を開削
相州足柄下郡西大友村(小田原市)飯倉吉右衛門の長男。安政5年(1858 )、相馬藩士新妻助惣等と
ともに幕府から函館在住を命ぜられ、近隣の木古内村や大野村の開塾に従事。
およそ100haの田畑の開発と48戸の農家の入植の事業を8年で達成。慶応2年(1866)、現在の
札幌市東区に御手作場(箱館奉行所直営農場)を開き、「大友堀」(後の創成川)を開削して、
本格的な農業開発の基礎を築いた。」

二宮尊親 にのみやそんしん
安政2年(1855) ~大正11年(1922)
尊徳の孫 北海道豊頃で組織的開拓を指導
二宮尊徳の孫として、日光今市報徳役所に誕生。明治維新後、相馬て富田高慶とともに
「興復社」を設立し荒廃地の開拓事業を推進。明治29年(1896)窮乏した相馬地方の農民を自立
させるため、北海道移住を決意。同30年、第一期移住民15戸を引率し、十勝郡豊頃(とよころ)町
牛首別(うししゅべつ)原野に入植、報徳仕法て開拓を指導した。自立の目途がついた10年後に
相馬へ戻り、報徳役所から継承した報徳資料の整理に専念した。」



相馬仕法発業(はつぎょう)礼状



相馬仕法発業(はつぎょう)礼状
弘化2年(1845) 10月8日、相馬中村藩の家老、一門の重役4人が尊徳にあてた書状、成田・坪田
両村への仕法開始を許されたことへの感謝を述べている。尊徳は、両村の仕法への取組みの機が
熟しきっており、この機を逸することができないとして、両村から仕法を始めることを指示した
のであった。」



相馬大膳亮(だいぜんのすけ)(充胤(みちたね))感謝状



相馬大膳亮(だいぜんのすけ)(充胤(みちたね))感謝状
嘉永3年(1850) 5月、相馬中村藩主・相馬充胤が尊徳にあてた感謝状。3月に成田村が、4月1日に
高瀬村が仕法「仕上げ」となったことに対するもの。「仕上げ」とは、堤・道・橋の整備、住居・
馬屋・灰小屋の給与、借財返済、備荒貯蓄などの応急措置が一段落したことをいう。」



富田高慶『報徳記』 宮内省版



富田高慶『報徳記』 宮内省版
明治16年(1883) 12月発行



富田高慶『報徳記』農商務省版



富田高慶『報徳記』農商務省版
  明治18年(1885) 3月発行



斎藤高行書



斎藤高行書
斎藤高行の数少ない書幅のひとつ。和歌は
それと見し 雲は麓に  成りゆきて まだ峰とふき(遠き) 木曽の山道 」である。」



福住正兄書



福住正兄書
福住正兄晩年のもので、「独夜坐(どくやざ)」と題し、「福翁」と署名・捺印している。
和歌は
燈火(ともしび)の かげをそむけて ただひとり 心をねるも たのしかりけり 」である。」



「木の玉」、「「木の玉」入厨子 、「木の玉由来書



木の玉
尊徳の製作とされるこの木の玉は欅(けやき)製で、直径が10.2~10.7cm、重さが400gある。
二つに割ることができ、断面の一方には6本、他方には1本の直線が刻まれている。
(三河国報徳社資料)」



木の玉由来書
福山滝助の記した由来書によると、木の玉の製作年代は尊徳のが小田原藩家老服部十郎兵衛の
屋敷に奉公していた文化期末から文政期初め(1812~19)とされている。
これを、藩士松本良左衛門が尊徳から預かり笹井与助(滝助の友人)を経て滝助が秘蔵することと
なった。
滝助は明治22年(1889)4月に、この木の玉を三河国報徳社の「御霊位」として譲り渡した。
(三河国報徳社資料)」



一木玉 壱 」。



一木玉 壱
此玉ハ天地混沌開闢に蒙り、御製り、遊ばされ候御思召と愚案仕り候
右は去ル文化の末、文政の始め、相模国小田原の城主大久保加賀守様御家老服部重良兵衛様
御屋敷へ、故二宮大先生御奉公遊ばされ候頃同家中松下良左衛門様と御懇意故え御預け置れしを、
時過て我が友笹井与助と云う者、御同家御老室様より頂戴、所持罷り在り候を、予譲り受け
ニ十有余年秘蔵致し居り候、然るに追々老衰にも及びかたがた今回右の木玉を三河国報徳社の
御霊位として、永く尊崇奉るべく、依て相譲り候なり
明治二十二年己丑年 福山滝助印
四月
三河国報徳社
社員中」



「木の玉」入厨子



「木の玉」入厨子
(三河国報徳社資料)



ニ宮尊親手帳忘備録



ニ宮尊親手帳忘備録
明治31年(1898)頃~大正8年(1919)頃のニ宮尊親のメモ帳。北海道十勝開拓時代の各種データや
方針案・講話草案、相馬帰還後の講演要旨や旅行日言己・旅費明細などが書き込まれている。」



三社燈籠万人講永代太々御神楽  金元立仕法帳写」



三社燈籠万人講永代太々御神楽(さんしゃとうろうまんにんこうえいだいだいだいおかぐら)
金元立仕法帳写(きんもとたてしほうちょううつし)
貧家でも伊勢神宮・春日大社・石清水八幡宮に太々神楽を奉納できるように、河内国(大阪府)
杉沢作兵衛という者が創始した講を引き継いだ安居院庄七は、報徳仕法の普及とともに、その
講の普及にも努めた。
庄七の意思は神谷与平治・岡田佐平治ら遠州の報徳指導者にも受け継がれた。この資料は、
文久2年(1862) 6月28日、与平治らが太々神楽を永久に奉納し得る仕組みを考案し、それを
記した計画書である。」



興復社印影 」、「 ニ宮尊親「常会講話草稿 」」、「 ニ宮尊親「暮向分台」



興復社印影
興復社の社長富田高慶以下8名の役員連名簿。興復社の社印と役員各人の印鑑が押されている。
役員のうち吉田恭重は明治15年(1882) 6月の入社であり、富田高英は同17年(1884) 8月に
没しているので、この間に作成された書類であろう。」



ニ宮尊親「常会講話草稿」」



ニ宮尊親「常会講話草稿」
北海道十勝の牛首別(うししゅべつ) (豊頃町)に人植した人々に対し、
ニ宮尊親は毎月20日に常会を開いて、講話をした。本資料は明治30年(1897) 7月~35年(1902)
10月の約40回分の草稿で、ノートに片かな、右横書きで記され、添削の跡がある。」



「ニ宮尊親「暮向分台(くらしむきぶんだい)」



ニ宮尊親「暮向分台(くらしむきぶんだい)
ニ宮尊親が自家の経済生活の基本方針を定めた書類。明治24年(1891) 1月の作成。
「分台」とは「分度」と同意義であり、尊親は祖父尊徳の遺業を継ぐために、同志と興復社を
設立し、事業を執行しているが、ニ宮家としても分度を立てて、剰余を推譲することによって、
尊徳の志を誤らないよう努力したいと、巻末で述べている。」



最後の現代につながる報徳のゾーンは、弟子たちが広めた報徳に影響を受けた近現代の先人たちに
ついての展示となっていた。



現代につながる報徳
尊徳が「興国安民」の願いを込めた報徳は、近現代の資本主義発展体制の下で変容を迫られ
ながらも、広く各界に一定の影響力を持って継承され、普及した。中でも『報徳記』の影響は
大きく、その内容は幸田露伴や内村鑑三をはじめ、各界の人士に共感を得て称揚、周知された。
明治中期頃からは少年金次郎伝説は青少年の手本として修身教科書にとりあげられ、文部省唱歌
にも登場する。さらに昭和初期頃からは負薪読書の金次郎像が全国規模で小学校に設置されて
知名度を高めた。
一方『二宮尊徳全集』のほか伝来史料などの活用により学術的、実務的な基盤を固めると共に
地道な報徳社活動により地域社会に一定の実務的な成果を残してきた。経済不況期の農村の
自立復興対策として半官半民の報徳会(後の中央報徳会)が設置され、行政との関わりが深まり
やがて昭和期の戦争体制下では、国家奉仕が優先されて報徳は危機を迎えた。
しかし戦後は占領下において、GHQから尊徳思想が民主主義に一致するとの評価を得るとともに
本来の報徳仕法を用いて開拓や復興事業に貢献した。また、その後の高度経済成長期をリード
した政財界にも報徳理念は引き継がれ、現代社会の「経済と倫理」への課題認識につながって
いる。



報徳を伝える
幸田露伴
子供たちに尊徳を伝える
内村鑑三
二宮尊徳を世界に紹介
御木本幸吉
尊徳生誕地整備に尽力」




尊徳没後50年の報徳運動
留岡幸助 1864~1934
地方改良の功労者

日本の社会福祉の先駆者で感化院教育の実践家。東京家庭学校、北海道家庭学校の創始者。
内務省地方局の嘱託として「静岡県下の報徳社の地方自治に果たす役割」につき調査。
地方改良のため全国各地で講演し、報徳の啓発に努める。
明治39年(1906)報徳会設立に参加し、機関誌『斯民(しみん)』で健筆をふるった」

品川弥二郎 1843~1900

平田東助 1849~1925
産業組合法制定で報徳研究
明治33年(1900)現在の農業協同組合、信用金庫等のルーツとなる産業組合法が成立した。
この立法にあたり、中心的な役割を果たしたのが、農商務大輔を経て内務大臣となった
品川弥二郎と後に農商務大臣になる平田東助である。

彼らはドイツの信用組合を見て、日本の産業発展に役立つと考え、当初は信用組合法、廃案後は
産業組合法に取り組んだ。その際、日本の事情に適合させるべく報徳社に着目し福住正兄や
岡田良一と意見交換をした。」

鈴木藤三郎 1855~1913
尊徳の遺著1万巻を整備
静岡県森町出身。家業に報徳商法を応用し成功し、熱烈な報徳信本者となる。
砂糖の国産化に成功し、「砂糖王」と称された。

尊徳没後50年祭にあたり、未整理であった尊徳の遺著1万巻を2500冊として『報徳全書』に
まとめ上げ、明治41年(1908)今市の二宮神社に寄進した。

報徳と経営
豊田佐吉 1867~1930
報徳的理念の経営
自動織機を努力の未完成させた発明家であり、繊維製造事業にも成功し、わが国繊維産業発展に
大きく寄与した。
創設した豊川自動織機製作所から、佐吉の長男の喜一郎がその自動車部門をトヨタ自動車工業
株式会社として発展させた。

佐吉は、地元に報徳社を設立したほどの熱心な報徳実践者であった父伊吉の感化を受け、
報徳的理念をもって経営にあたった。

大原孫三郎 1880~1943
キリスト教と報徳主義の経営
倉敷紡績所の経営を父から引き継き、電燈・電力・金融・新聞などの経営にも手を広げ、
関西財界の第一人者となる。
社会事業・文化事業にも尽力。大原美術館等今も活動を続けている。
『報徳記』から「儲けの何割かを社会に還さねはならない」と学んたといわれる。
『報徳記』とキリスト教との出会いが彼の人生に大きな影響を与え、人格主義といわれる
経営理念や、社会事業、文化事業に生かされている。」

松下幸之助 1894~1989
「経営の神様」といわれて
松下電器産業株式会社(現パナソニック株式会社)の創業者。「水道哲学」を考案したり、
『実践経営哲学』等を著し「経営の神様」とも言われた。
昭和21年(1946) PHP研究所を設立。
昭和54年(1979) 21世紀を担う指導者の育成を目的に松下政経塾を設立。

二宮尊徳に影響を受けたといわれ『二宮翁夜話』の一説をしばしば取り上げ、訓話として
従業員に語っている。」



報徳の広がり」
佐々井信太郎 1874~1971
佐々井典比古 1917~2009」
◯で二宮尊徳を研究
信太郎は神奈川県立第二中学校(現小田原高校)教論を経て大日本報徳社福社長。大正15年(1926)
から二宮尊億全集刊行編集を始め、昭和7年(1932 )全集36巻刊行終了。翌年から大日本報徳社
主催による講習会を開催。昭和27年(1952)一円融合会を設立し機関誌『かいびゃく』を発刊。

典比占は信太郎の子で神奈川県副知を経て長年報徳福運社理事長を務め、報徳博物館設立に尽力、
初代館長。資料文献の現代語訳による普及に尽力。

小林篤一 1890~1972
北海道報徳の生みの親
昭和13年(1938)横浜大倉山の報徳生活原理講習会で講師佐々井信太郎の講義に大きな感銘を
受ける。昭和22年(1947)財団法人北海道報徳社設立に犀力。

酪農では北海道酪農協同株式会社(後の雪印乳業)の黒沢酉蔵(1885 ~1982 )、
水産で北海道信用漁業協同組合連合会(信連)設立に尽力した安藤孝俊(1894 ~ 1990)がおり、
北海道の報徳活動の多彩さを示している。

大江市松 1871~1944
学校法人報徳学園設立者
明治28年(1895)株式会社御影貯金銀行を設立。天竜川の治山治水を行った金原明善や留岡幸助と
親交があった。
明治43年(191)の育英事業遂行のため御影報徳会を設立。
翌44年(1911)私立報徳実業学校を創立。
大正8年(1919)尊徳の嫡孫二宮尊親を二代目校長に迎えた。
昭和25年(1950)の財団法人御影報徳会は学校法人報徳学園に切り替え認可され、翌26年
報徳学園高等学校、同中学校と改称。

小原鐵五郎 1899~1989
信用金庫は「現代の五常講」
昭和25年(1950)、全国信用協同組合連合会(現信金中央金庫)、翌年の信用金庫法の発足に尽力。
全国信用金庫連合会元会長、城南信用金元会長。
信用金庫の理念は尊徳の精神を受けついているとして、自らの「貸すも親切、貸さぬも親切」の
哲学は尊徳の「五常講」と同一てあると自認。

土光敏夫 1896~1988
健全財政への財界リーダー
石川島播磨重工・東芝の再建に尽力
経済団体連合会第4代会長
第二次臨時行政調査会会長
報徳博物館建設に際し、費助委員会会長を引き受ける。

「合理的で実行を旨とする報愡の道は、今日世界の人々が行き詰まりを打開するために模索
している『考え方や手段方方法』に有力な示唆を与えるはずです。
その新しい道の少しでも早い実現が待たれます。
                   (『報徳博物館館報」第一号)

大日本報徳社
明治44年(1911)が遠江国報徳社が、大日本報徳社に改称し、大正13年(1924)に報徳社
大同団結の中心になった。静岡県掛川市にあり、機関誌『報徳』を発行。
写真は道徳門・経済門から望む大講堂。

国際二宮尊徳思想学会
平成14年(2002)北京大学において、同大学日本文化研究所と報徳博物館の共催で
「二宮尊徳思想国際シンポジウム」が開催され、翌年小田原で学会が設立された。


展示館の奥方向を振り返る。




                                 ・・・もどる・・・



                  ・・・つづく・・・








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Last updated  2024.11.07 06:50:13
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