JINさんの陽蜂農遠日記

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2026.03.23
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カテゴリ: 国内旅行


「大場・函南IC」まで進み、「県道141号線・清水函南停車場線」にて東に進む。



そしてこの日の最初の訪問地「 かんなみ仏の里美術館 」に到着。



「函南町桑原区では、平安時代の「薬師如来像」や鎌倉時代の「阿弥陀三尊像」など、
二十四体の仏像群 が、里人の厚い信仰心によって守られてきました。
これら仏像群の散逸を防ぎ、 後世に保存継承 していくための施設として、明治30年代後半に
桑原の有志により、長源寺の裏山中腹に「桑原薬師堂」が建てられました。
2008年(平成20年3月)に 桑原薬師堂の二十四体の仏像群 が、 桑原区から函南町に 寄付
されました。
寄付された仏像群には 、国指定重要文化財の阿弥陀如来及両脇侍像(略称・阿弥陀三尊像)
の他に、静岡県指定有形文化財(薬師如来坐像、毘沙門天立像、聖観音立像、地蔵菩薩立像、
十二神将立像) があり、その中にも全国的に貴重な文化財が含まれています。
町民の財産である貴重な文化財を、後世に保存継承するとともに、多くの方々が鑑賞し、
学ぶことができる施設として「かんなみ仏の里美術館」が設置されました。
里人の心に守られてきた仏像群が、皆さまのご来場をお待ちしています。」とHPから。
平成24年4月14日に開館 した「かんなみ仏の里美術館」全景。
四角錐の特徴ある屋根 が美しいのであった。



「函南町 仏の里 桑原」案内図。
里人の厚い信仰が守った、文化財の数々
廃仏毀釈の嵐 に遭遇したのは、函南の寺や仏たちだけではなかったが、当地も御多分に
漏れなかった。
厚き信仰の里人たちは、寺は隠せないが、せめて仏像だけでもと隠し持つ努力を
惜しまなかった。
日本全土に根付いた仏教の力は、政治家たちが思うほどひ弱な信仰精神ではなかった
一時期、寺から避難させられた仏たちも、後に陽の目を見て人前に出る事が出来る
ようになった
函南の仏たちも手厚く扱われ、「かんなみ仏の里美術館」に収められ、人々の目を
楽しませている。』とネットから。



「かんなみ 仏の里美術館 周辺案内図」。 



「現在の函南町桑原を含む北東部一円は小筥根(こはこね)と呼ばれ、平安時代に筥根権現
(箱根、函根)の神領となり、天平宝字元年(757)に筥根権現を開いた萬巻上人の
菩提寺・小筥根山新光寺(廃寺)があった。上人が死去した後に、弟子たちが上人の愛した
桑原の地(小筥根)に七堂伽藍の大寺を建てたものである。
駒ケ岳山頂の元宮から万巻上人が芦ノ湖湖畔に現在の箱根神社の場所に箱根三所権現と
金剛王院東福寺を創建したとは言え、標高が高く芦ノ湖から吹きすさぶ寒気も厳しく、
冬場では氷点下となり厳しい修行環境だったに違いない。万巻上人は山岳宗教を信奉する
修験者団体の取りまとめ役として朝廷から箱根山へ派遣され、自らも厳しい神仏混淆の
荒修行を重ねていたものの、歳を重ねるごとに弟子たちの勧めもあり、厳寒の箱根山
芦ノ湖畔に比し、箱根の南の低地に位置する小筥根(函南桑原)は数段暖かい
(年間平均気温16℃内外)、箱根権現の神領であった同里山へ足を運ぶことが多くなったと
思われる
緑濃い里山に囲まれ、来光川の流れ下る谷間に茅葺の農家が散在し、村々の老若男女とも
顔馴染みとなった万巻上人は次第に閑静な当地へ通うことが多くなって行き、時には赤子を
背負う母子の姿を観じて、上人が青年期に離別した母親を思慕したかも知れない。荒ぶる
山岳修行の末の開眼、山岳霊峰には不可能な田畑を耕し、土に足が付いた暮らしの奥深さ、
万巻上人が最後に見つめた小筥根の里山の平和な姿だったかも知れない。
弟子たちも上人が小筥根を深く愛されていることを熟知しており、当時としては驚異的年齢の
97才で大往生した上人の心情をおもんばかり、桑原の地に七堂伽藍の大寺を建立し、
その後都の一流仏師に仏像を作らせ万巻上人の弟子たちにより永く供養が続けられた。
数多くの修験者達の参拝もうでも当然あった筈だ
廃寺となった理由や時期は明らかでは無いが、仏像の状態が比較的良好であることから、
火災や地震による本堂大倒壊では無く、老朽化や政治的変遷等により廃寺を余儀なくされたと
思われる。長源寺裏手にある薬師堂(桑原地区の住民が維持管理して来た)の入口から来光川
沿いに北西300mほど離れた水田の中に礎石が残されている。いずれにせよ、
万巻上人が生前小筥根を愛したように地元住人も上人への尊崇と崇愛の念が強く、
新光寺の廃寺後、誰とも無しに無為自然に仏像の安置維持管理と奉仕に努めて来たのである。
南東約300mにある長源寺裏手に位置する桑原薬師堂の中に仏像を安置し、戦火など万難を
乗り越え仏像群(全24体)を無事に守り抜いて来た桑原地区の住人の強い信仰心に敬意を
抱かざるを得ない。
そのおかげで戦後には仏像は県重要文化財などの遺産登録がなされ、2012年4月には
「かんなみ仏の里美術館」が落成、万巻上人没後、実に約1200年ならんとする前に新光寺の
仏像は国宝として国民の委託に応えるべく保存に相応しい安置場所へお戻りになったのである。
これまでの桑原の先人達の御苦労に頭を下げたい。
おそらく今後新しく創設された「かんなみ仏の里美術館」に人々の注目の的が集まると
予測されるが、私は全く違った切り口により、更に函南桑原の歴史を追及したいと考えている。」
とネットから。







バスを振り返って。



かんなみ仏の里美術館入口に向かって進む。



葉が完全に落ちた もみじの樹



もみじ(カエデ)の種は「翼果(よくか)」と呼ばれ、2枚の羽を持ったプロペラのような
をしています。
初夏に成長し、茶色く乾いて枝から落ちる際、くるくると回転して滞空時間を延ばし、
風に乗って遠くへ飛ぶことで子孫を広げる仕組みです。この仕組みは自然界の小さな
ヘリコプターとも言えるのだ。
小さなヘリコプターをズームして。



さらにズームした画像をネットから。

楓もみじの種子《プロペラ》|園芸日記by檀m。|みんなの趣味の園芸|524241

ここが「かんなみ仏の里美術館」の入口。







フロアマップ 」。
 まずは、「 資料展示室 」に案内される。 



資料展示室
「かんなみ仏の里美術館で、図書の出張展示「出張図書館in仏の里」を開催します。
町立図書館の蔵書の中から、美術館で読んでほしい、手に取ってほしい本を選んで展示します。
普段は図書館へ行かない人も、美術館を訪れる機会がない人も、本を片手に美術館で
過ごす時間を楽しんでみませんか。図書の展示スペースへの入場は無料です。
お気軽にご来館ください。」 と。



「かんなみで、逢いましょう」と展示物の十二神将の姿が。



そして「資料展示室」の内部に案内される。これから先は、 写真撮影禁止 とのことで
あったので、以下の写真はネットから。
「当館では二十四体の仏像群を鑑賞していただく仏像展示室とともに、 無料で入場できる
資料展示室を設けています。資料展示室では、仏像の種類や役割、その特徴などを
学ぶことができる「仏像鑑賞図鑑」を常設展示しています。」 



仏の里美術館の仏像の由来
右:「聖観音像」、「地蔵菩薩像」、「不動明王像」、「毘沙門天像」 
正面:「阿弥陀如来とそのグループ」



薬師如来坐像 」と「 十二神将立像 」説明案内。 



「阿弥陀如来とそのグループ」(右)
中尊:阿弥陀如来(あみだにょらい)
   極楽浄土の教主。人々の死後を救う仏。印相(手の形)は定印(じょういん)や   
   来迎印(らいごういん)が代表的。
左脇侍:観音菩薩(かんのんぼさつ)
    阿弥陀如来の「慈悲」を体現し、人々を苦しみから救い出す役割を持つ。
右脇侍:勢至菩薩(せいしぼさつ)
    阿弥陀如来の「智慧」を体現し、人々を正しい方向へ導く役割を持つ 



「阿弥陀如来とそのグループ」(左)




慶派の系図。

迫真の造形「運慶」展に行く : 三道楽ノート

実慶は、奈良興福寺を本拠とした奈良仏師「慶派」に属した仏師で、
建久(1190~1198年)の末頃に桑原の阿弥陀三尊像を、承元四年(1210年)
修禅寺大日如来像の造立にたずさわりました。その製作期間から考えると、当時関東に在住し、
仏像の需要に応じた活動をしていたと想定されている。
「慶派」は、多くの功績を築いた康慶・運慶父子から、一門の仏師たちの名前の多くに
「慶」の字が付くことからそう呼ばれている。実慶は康慶の弟子で運慶と同年代と推測され、
その中でも卓越した技術と力強い作風の「運慶」と絵画的で繊細な作風の「快慶」が
最もよく知られている。

代表的な慶派の仏像(国宝・重文)



ズームして。
阿弥陀如来 」、「 観音菩薩 」、「 勢至菩薩 」。



ズームして。
「薬師如来」と「十二神将」 。 



仏像の由来
・聖観音像、地蔵菩薩像、不動明王像、毘沙門天像、
・聖観音菩薩・地蔵菩薩立像、毘沙門天像立像の特徴
経巻 上人、空海上人



頂いた パンフレット・表 を開いて。



かんなみ仏の里の美術館 」 
薬師如来坐像



十二神将立像 」。
十二神将立像は、平安時代末~鎌倉時代初期の仏像群で、薬師如来と薬師三尊を守護する
武神として配置されたものです。薬師信仰では、薬師如来が人々の病苦を救う際に、
その誓願を守護し悪鬼を退けるのが十二神将。
■十二神将立像の位置づけ
 ・薬師如来の眷属(けんぞく)である守護神。
 ・それぞれ 7000の眷属を率いる武将とされる。
 ・薬師如来の 十二の大願を守る存在。
 ・後世には十二支(干支)と結び付けられ、方位や年を守る神ともされた。
 ・甲冑をまとい、武器を持つ姿で表されることが多い。
 ・多くの寺院では 薬師如来の周囲を取り囲むように配置される。
十二神将(各神将の説明) を左上から右に順に。
◯毘羯羅大将(びから)
・怒りの表情を持つ勇猛な守護神。
・悪鬼を威嚇し退散させる役割。
・十二神将の中でも迫力のある姿が多い。
・十二支では 子に配されることが多い。
・方位では 北を守護する神将。
◯招杜羅大将(しょうとら)
・邪悪な鬼神を招き寄せて退治する力を象徴。
・戦闘的なポーズで表現されることが多い。
・強い守護力を示す武神。
・十二支では に配されることが多い。・方位では 北北東 (丑の方)を守護。
◯真達羅大将(しんだら)
・軍の統率を象徴する神将。
・堂々とした姿で表される。
・敵を威圧する守護神。
・十二支では に配されることが多い。
・方位では 東北東 (寅の方)を守る。
◯摩虎羅大将(まこら)
・名は「マカラ(海の怪物)」に由来するとされる。
・強大な力を象徴する神将。
・重厚な武将の姿で表されることが多い。
・十二支では に配されることが多い。・方位では を守護。
◯波夷羅大将(はいら)
・邪悪な存在を退ける役目を持つ神将。
・躍動的な動きを示す姿で表されることが多い。
・戦闘的な表情が特徴。
・十二支では に配されることが多い。・方位では 東南東 (辰の方)を守る。
◯因達羅大将(いんだら)
・名はインド神話の神 **インドラ(帝釈天)**に由来。
・雷や天の力を象徴する勇猛な神将。
・強い攻撃力を示す姿で表される。
・十二支では に配されることが多い。
・方位では 南南東 (巳の方)を守護。
◯珊底羅大将(さんてら)
・軍勢の秩序を保つ役割を持つ守護神。
・威厳ある武人として表現される。
・武器を持ち堂々と立つ姿が多い。
・十二支では に配されることが多い。
・方位では南を守る。
◯頞儞羅大将(あにら)
・風や速さに関係する名を持つ神将。
・敵陣へ素早く攻め入る武神。
・活動的な姿勢で表されることが多い。
・十二支では に配されることが多い。・方位では 南南西( 未の方)を守護。
◯安底羅大将(あんてら)
・堅固な防御を象徴する守護神。
・戦列を整え軍勢を守る役割。
・落ち着いた武将の姿で表されることが多い。
・十二支では に配されることが多い。・方位では 西南西 (申の方)を守る。
◯迷企羅大将(めきら)
・俊敏で機敏な戦士として表される神将。
・敵を追撃する役割を持つとされる。
・強い守護力を象徴。
・十二支では に配されることが多い。・方位では 西 を守護。
◯伐折羅大将(ばさら)
・名はサンスクリットの「ヴァジュラ(雷・金剛)」に由来。
・金剛杵などの武器を持つ勇猛な守護神。
・邪悪なものを打ち砕く象徴。
・十二支では に配されることが多い。
・方位では 西 北西 (戌の方)を守る。
◯宮毘羅大将(くびら)
・十二神将の筆頭格とされることが多い。
・軍勢を率いる将軍的存在。
・病魔や悪鬼を打ち払う力を象徴する。
・十二支では 亥(い) に配されることが多い。
・方位では 北北西 (亥の方)を守護。



十二神将立像 静岡県指定有形文化財
本体像髙 91.5cm~105.4cm
尊薬師如来像に随侍していた十二神将立像。当初は鎌倉時代初期にに制作されましたが、
時代の変遷とともに傷んだり壊れたりした時に造り直しているため、鎌倉時代初期から
江戸時代初期まで、制作年代の異なる像で構成されています。近年の解体修理によって、
表面に塗られた後世の厚い彩色が除去され、本来の像容や構造がよく分かるようになりました。
いずれの像もヒノキ材の一木割矧造(未神将像のみ内刳りを施さない)、玉眼が嵌入されて
います。像高は1メートル前後と大型品で、十二体が揃っていることも貴重です。



頂いた パンフレット・裏 を開いて。



十二神将立像 」。



薬師如来坐像。

仏像好き必見。重要文化財などの貴重な仏像と向き合う「かんなみ仏の里美術館」 | たびらい観光情報

薬師如来坐像 静岡県指定有形文化財  本体像高 110.0cm
薬師如来坐像は、頭部から体幹部を針葉樹の一材から彫出し、頭は耳の後ろで割離し
内刳を施し、体幹部は背中と像底から内刳を施しています。面奥が深く胸から腹部に厚みを
もたせ重量感があるが、面相は頬や顎にふくよかな円みがみられることから、制作年代は
平安時代中期(十一世紀前半)と推測されます。」


桑原薬師堂から かんなみ仏の里美術館へ 」 



桑原薬師堂から かんなみ仏の里美術館へ
函南町桑原区では、平安時代の「薬師如来像」や鎌倉時代の「阿弥陀三尊像」など、
二十四体の仏像群が、里人の厚い信仰心によって守れらてきました。これら仏像群の
散逸を防ぎ、後世に保存継承していくための施設として明治30年代後半に桑原の
有志により、長源寺の裏山中腹に「桑原薬師堂」が建てられました。 
2008年(平成20年3月)に桑原薬師堂の二十四体の仏像群が桑原区から函南町に
寄付されました。そして町民の財産である貴重な文化財を後世に保存継承するとともに、
多くの方々が鑑賞できる施設として「かんなみ仏の里美術館」を設置しました。」


桑原「阿弥陀三尊像」を造った實慶と慶派
「慶派」は、平安末期以降に新しく栄えた仏師工房です。一門の仏師たちの名前の多くに
「慶」の字が付くことから、そう呼ばれています。卓越した技術と力強い作風の「運慶」と、
絵画的で繊細な作風の「快慶」が最もよく知られています。
鎌倉幕府の成立て権力を得た東国武士は、運慶ら奈良仏師の作る写実的で力強い作風を
好んだとされ、すぐれた仏像のほとんどが近畿地方に集中する中、関東地方でも
慶派の仏像が何体も作られました。實慶は、桑原「阿弥陀三尊像」の他、修褝寺
「大日如来像」の造像にも携わっています。その制作期間から考えると、当時関東に
在住して活動していたと考えられます。康慶の弟子で連慶とは同年代と推測されます。」 



阿弥陀如来及両脇侍像



阿弥陀如来及両脇侍像  国指定重要文化財
中尊像 本体像高 89.1cm 台座全高 84.7cm
阿弥陀如来及両脇侍像は、檜材一木割矧造。奈良興福寺を本拠とした仏師工房「慶派」の
実慶作で、写実的で力強い表現に優れ、はつらっとした作風には鎌倉時代初期の慶派の
特色が表現されています。頬が張り、ロ角を引き締めて強い眼差しで前方を凝視する
若々しい面貌(顔のかたち)や、やや細身の胴で締まった体型、ふくらみをもたせた地髪部の
形状は慶派を代表する仏師運慶の作品に近づくものとされ、高く評価されています。」 



以前に配布していた パンフレットの写真 をネットから。









                                ・・・​ もどる ​・・・



                  ・・・​ つづく ​・・・






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Last updated  2026.03.23 09:12:57
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