JINさんの陽蜂農遠日記

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2026.09.25
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カテゴリ: JINさんの農園
「 東海道五拾三次之内 原 」 



ネットから。
この絵の最大の特徴――「画面からはみ出す富士」
富士山頂が 画面の上端を突き抜け、山頂の一部が画面の外へはみ出しています。
これは偶然ではなく、広重が意図的に用いた大胆な構図です。富士を画面の枠内にきれいに
収めるのではなく、あえて収めきれないほど大きく描くことで、
「富士山はこの画面よりもさらに大きい」 という感覚を鑑賞者に与えています。
空を横切る「赤い一文字」
展示解説にある「上部に摺られた赤色の一文字」とは、画面上端を左右に走る 細長い赤色の帯 の
ことです。
「一文字」は文字そのものではなく、 横一直線に施した色の帯 という意味です。
この赤いぼかしによって、朝日が昇り始め、 空が赤く染まる朝焼け が表現されています。
そのため題名も「原 富士」ではなく、「原 朝之富士」なのです。
富士山右側の山は「愛鷹山」
富士山の右側に連なる黒々とした険しい山並みが愛鷹山(あしたかやま)です。
広重は、淡い色で巨大な富士を描き、その手前に濃い墨色の愛鷹山を重ねています。
この濃淡によって、富士がさらに遠く、さらに巨大に感じられる構成になっています。
また、富士の左側遠方にも小さな山が描かれています。巨大な富士との大小の対比も見事です。
手前の旅人が富士をさらに大きく見せる
画面左下には、二人連れの女性と荷物を担いだ男が描かれています。
人物は非常に小さく、その背後には巨大な富士。
この「人間の小ささ」と「自然の大きさ」の対比が、富士の雄大さをいっそう強調しています。
さらに田畑の中には、首を曲げて餌を探しているような 二羽の鶴 も描かれています。
巨大な富士だけではなく、旅人や鳥といった日常の小さな営みを添えるところも、この作品の
魅力です。



「 はら あさのふじ
原 朝之冨士
Hara, Mt. Fuji in the Morning
作者 : 歌川広重(初代)/画
年代 : 天保5~7(1834~36)頃
朝焼けに照らされた富士が描かれる。上部に摺られた赤色の一文字が朝焼けを表現している。
富士の右手に見える山は、愛鷹山(あしたかやま)である。画面奥に描かれた雄大な山々を
背景に、手前の街道を二人組の女性と荷を担ぐ男が歩いている」 



「 東海道五拾三次之内  吉原 」 


ネットから。
なぜ「左富士」なのでしょうか
江戸から京都へ向かって東海道を西へ進むと、基本的に富士山は 進行方向の右側 に見えます。
ところが吉原付近では、街道が大きく北寄りに曲がるため、一時的に
富士山が左側に見える場所 がありましたこれが有名な「 吉原の左富士 」です。
画面を見ると、旅人たちは奥へ向かって進んでいます。その進行方向に対して富士山が 左手奥 に
描かれています。
三人の子供に注目です
この絵で富士山とともに面白いのが、中央の馬に乗った 三人の子供 です。
前方の二人は身体を左へ向け、珍しい「左富士」を眺めているように見えます。
ところが右側の一人は、せっかくの名所にもかかわらず、馬上で 居眠りしているような姿 。
「名所だから皆が感激して富士を眺める」という理想化された旅ではなく 、疲れて眠ってしまう
子供もいる という日常の一瞬を広重は描いています。
展示解説がいう「現実感」とは、このようなところでしょう。
松並木も重要です
画面を大きく占めるのは富士山ではなく、街道沿いの 松並木 です。
太い松の幹を画面のすぐ手前に大きく配置し、その間から遠方の富士をのぞかせています。
近景の松 → 旅人と馬 → 遠景の富士
という三段階の奥行きがつくられています。
前回の「原 朝之富士」が 画面からはみ出すほど巨大な富士 だったのに対して、
この「吉原 左富士」では富士を遠く小さく描いています。
同じ富士山でも、広重が宿場ごとにまったく違った見せ方をしていることがよく分かります。



「 よしわら ひだりふじ
吉原 左冨士
Yoshiwara, Mt. Fuji on the Left
作者 : 歌川広重(初代)/画
年代 : 天保5~7(1834~36)頃
東海道を西に進む際には、富士山を右手に見ながら進むが、街道が北に曲がると左手に富士を
見ることもあった。副題の左富士はこれを指し、吉原宿は左富士の名所として知られた。
三人の子供が馬の背に乗り、富士を眺める左手の二人と対照的に右側の子供は旅の疲れからか
眠っているようにも見える。名所の旅の風景に現実感を表現する広重の特徴が表れている。」 



「 東海道五拾三次之内 蒲原 」 

蒲原 夜之雪 夜之雪」浮世絵木版画|浮世絵工房 | 歌川広重「東海道五十三次 歌川広重による浮世絵「「東海道五拾三次之内」「蒲原」「夜之雪」」  歌川広重東海道五拾三次之内 東海道53次-16.蒲原かんばら-夜之雪 風景 k3-043 浮世絵 東海道五十三次歌川広重蒲原 色紙絵 ...

ネットから
「実景」ではなく、広重が生み出した雪の世界
展示解説で重要なのは、 蒲原は温暖で、実際には雪があまり降らない土地 だという点です。
それにもかかわらず、広重は山も家々の屋根も道も、すべて深い雪に包まれた世界として
描きました。
つまり、これは単純な「蒲原の実景写生」というより、 蒲原という宿場を舞台に広重が
創り上げた詩情豊かな雪景色 と見ると、この作品の魅力がよく分かります。
「しんしんと降る雪」なのに、雪の線がない
この作品をよく見ると興味深い点があります。
画面には、雪が斜めに降る線や白い雪片がほとんど描かれていません。それでも私たちは、
「静かな夜、雪がしんしんと降っている」
と感じます。
白く覆われた屋根や山、黒く沈んだ空、そして音のないような人物の動きによって、広重は
雪そのものを描かずに、雪の気配を描いている のです。
三人の旅人
雪道には三人の人物がいます。
左の人物は傘を差し、中央の人物はやや前屈みになって歩き、右側の人物も雪の中を急ぐように
進んでいます。
人物を小さく描くことで、雪に覆われた自然の広がりと、冬の夜道を歩く人間の心細さが
強調されています。
とりわけ中央の人物の傾いた姿勢からは、 寒さに耐えながら雪道を歩く様子 まで伝わって
くるようです。
「初摺」と「後摺」の違い
展示解説では、この作品には大きく、
初摺り =空の上部に「一文字ぼかし」
後摺り =地平線に近い部分を黒くしたもの
という違いがあると説明されています。
今回撮影された作品は説明板によれば 後摺り です。
画面中央の地平線付近を黒く沈ませることで、雪をかぶった家々や山の白さが浮かび上がり、
夜の深さがいっそう強調されています。
この「黒」と「白」の対比こそ、この作品の美しさの大きなポイントでしょう。

広重・東海道五十三次/蒲原 夜之雪 | 木彫り工房のアート信州

かんばら よるのゆき
蒲原 夜之雪
Kambara, Evening Snow
作者 : 歌川広重(初代)/画
年代 : 天保5~7(1834~36)頃
蒲原は温暖な土地で、雪はあまり降らないという。しかし、本図では一面に雪が降り
積もっている。積雪風景が少ない「東海道五拾三次之内」でも印象的な図である。
この図には、天の部分を一文字ぼかし摺りにした初摺りと地平に近い部分を黒くした
後摺りがある。後摺りの本図は、山や家屋の輪郭が際立ち、闇夜にしんしんと雪が
降り積もっているようで見ごたえがある。」


「 東海道五拾三次之内 由井 」 




この作品で広重が強調しているのは、「険しい薩埵峠」と「その先に開ける雄大な眺望」の
対比です。画面左側には巨大な崖が迫り、その崖の向こうに 富士山 が姿を現します。
そして右側には駿河湾が大きく広がり、海上には白い帆を上げた船が浮かんでいます。
特に面白いのが、説明板にもある 崖際の旅人 です。写真では暗くて分かりにくいのですが、
画面左下の険しい崖のところに小さく人物が描かれています。危険な場所まで身を乗り出して、
富士と海の絶景を眺めています。
一方、その少し上には 杣人(そまびと) 、つまり山で木を伐採したり運んだりすることを
仕事とする人が描かれています。旅人にとっては息をのむ絶景でも、地元で働く人にとっては
日常の風景――その対照も興味深いところです。
富士山と帆船
画面中央左奥に見える白い山が富士山です。
富士山を絵の中央に大きく置くのではなく、崖と松の向こうから覗かせるように描いている
ところが巧みです。さらに海上の白い帆船を点々と配置することで、広い駿河湾の奥行きが
生まれています。
手前の暗い崖 → 松 → 青い海 → 白い帆 → 遠くの富士山
という重なりによって、非常に深い遠近感がつくられています。



「 ゆい さったとうげ
由井 薩埵嶺
Yui, The Sattatoge Pass
作者:歌川広重(初代)/画
年代:天保5~7(1834~36)頃
薩埵峠は切り立った崖沿いに道が引かれた難所だったが、見晴らしが良いため富士山や
三保の松原を眺めることができる景勝地としてよく知られた。図は薩埵峠を左に写し、
奥に海と堂々たる富士山を望む。左の崖には旅人とおぼしき人が一歩進めば崩れ落ちそうな
ところまでにじり出て絶景を見ている。その少し上には周辺に住んでいるだろう杣人が淡々と



「 東海道五拾三次之内 興津 」



ネットから
この絵で何より目を引くのは、 興津川を渡る二人の力士 です。
手前では、四人の人足が駕籠を担いで川を渡っています。中には大柄な力士が座っています。
水の中を進む人足たちは、駕籠を濡らさないよう肩に力を入れ、足を踏ん張っています。
その後ろには、もう一人の 力士が馬に乗って渡河 しています。馬の横にも人足が付き添っており、
当時の東海道における川越しの様子が生き生きと描かれています。
面白いのは、「力持ちの力士が、人足たちに担がれて川を渡っている」という構図です。
堂々とした力士の体格と、それを懸命に運ぶ人足たちの姿との対比に、広重らしいユーモアも
感じられます。
また背景を見ると、川の向こうには松原、そのさらに向こうには 駿河湾を行く白帆の船 が
描かれています。手前の人物を大きく、遠景の松や帆船を小さくすることで、広々とした空間が
表現されています。
「勧進相撲」とは
ここでいう 勧進相撲 は、寺社の建立・修復などの費用を集める「勧進」を目的として催された
相撲を起源とします。江戸時代には次第に興行として発達し、現在の大相撲につながって
いきました。
この二人は、そうした相撲興行のために東海道を旅している力士の一行と考えられています。



「 おきつ おきつがわ
興津 興津川
Okitsu, Okitsugawa River
作者 : 歌川広重(初代)/画
年代 : 天保5~7(1834~36)頃
興津川を渡る旅人を描く。
馬上と駕籠の中にいる恰幅が良い二人は力士であり、勧進相撲の一行のようである。
この図は『東海道名所図会』の安倍川を描いた挿絵を参考に描かれたと考えられる。
元々、橋を渡る図であったところを、川渡りの図に変えることで緊張感のある構図に
仕上がり、体に力の入った本図の力士の様子に説得力が出ている。」


「 東海道五拾三次之内  江尻 」



ネットから
この作品は、これまでの「由井 薩埵嶺」「興津 興津川」とは趣が大きく変わり、
人物をほとんど描かず、広大な海景そのものを主役にした作品 です。
画面最下部に江尻宿の家々の屋根をわずかに置き、そこから高い場所に立って駿河湾を見下ろす
ような構図になっています。
特に目立つのが、海上に浮かぶ多数の 白い帆 です。手前の船は大きく、遠くなるにつれて帆が
小さくなり、水平線近くでは白い点のようになります。これによって、駿河湾の広さと奥行きが
巧みに表現されています。
そして画面中央を横長に伸びる黒々とした陸地が、 三保の松原 です。松原を横方向に長く
配置することで、青い海を手前と奥に分けると同時に、視線を遠方へ導いています。
「富士山がない」のも重要です
三保の松原といえば、現在では「松原越しの富士山」を思い浮かべます。しかし、この作品では
富士山を主役にしていません 。
展示解説にもあるように、広重は三保そのものよりも、 江尻から眺めた広々とした海、松原、
帆船、遠くの愛鷹山 を組み合わせて、駿河湾の開放感を表現しています。
画面左奥の赤褐色や青色で重なる山々が 愛鷹山方面 です。



「 えじり みほ えんぼう
江尻 三保遠望
Ejiri, Distant View of Miho
作者 : 歌川広重(初代)/画
年代 : 天保5~7(1834~36)頃
江尻の宿場を手前に、三保の松原と遠方の愛鷹山を高所から見た風景が描かれている。
三保は富士山を眺める場所として有名だが、本図では松原を画面の中心に据え、江尻から見る
海景を見渡す。帆船が点々と海に浮かび、視線を奥へと誘導する。
本図も『東海道名所図会』を参考にしていると思われる。ただし、右上部から水平線が
見えている点に違いがあり、開放感のある構図となっている。」 



「 東海道五拾三次之内 府中 」



ネットから
この絵の主役は、実は「安倍川をどうやって渡ったのか」という江戸時代の旅の一場面です。
安倍川には東海道の橋がなく、旅人は川を歩いて渡りました。しかし、誰もが自分の足で
歩いたわけではありません。
画面右手では、女性を乗せた 駕籠を川越人足たちが担いでいます 。人足たちはほとんど
裸に近い姿で、水の中を進んでいます。女性は駕籠の中に座っていますから、衣服を濡らさずに
対岸へ渡ることができます。
一方、画面左側では、 荷物を積んだ馬も川の中を進んでいます 。その周囲にも人足が付き添って
います。
さらに中央奥には、衣服を頭上に掲げたり、胸近くまで水につかったりしながら、自力で渡る
人々が描かれています。
つまり広重は一枚の中に、「駕籠で渡る人」「馬と渡る人」「自分の足で渡る人」を描き分け、
当時の安倍川の川越しの様子を生き生きと見せています。
そして人物たちの背後には大きな山がどっしりと描かれています。広重は雄大な山を背景に
置く一方、手前では川越しに苦労する人々を細かく描き、 自然の雄大さと旅人の日常 を対比
させています。



「 ふちゅう あべかわ
府中 安部川
Fuchu, The Abegawa
River
作者 : 歌川広重(初代)/画
年代 : 天保5~7(1834~36)頃
駿河の国府があった府中は現在の静岡市にあたる。周辺には安倍川があり、江戸時代当時の
旅行客は徒歩渡し(かちわたし)で川を渡っていた。
本図の手前には女性3人とお供の男性の一行が描かれる。駕籠の女性は、座布団をつかみ、
不安げな顔で川を見ている。奥には馬を引く3人と、服を脱ぎ川を渡る男性が見える。
胸まで水に浸かっているところから、渡りにくいと思われる。」


「 東海道五拾三次之内  鞠子 」



ネットから
この作品は、これまでの川越しや峠越えのような「旅の難所」ではなく、 旅人が茶店で一休みする、
東海道の穏やかな日常 を描いたところが魅力です。
中央の茅葺きの茶店には、 「名ぶつ とろろ汁」の看板が大きく掲げられています。店先では
二人の旅人が腰を下ろし、食事をしながらくつろいでいます。展示解説のとおり、
『東海道中膝栗毛』の弥次郎兵衛・喜多八 を連想させる二人です。
また、店の前には梅と思われる花木が咲き、背後には丸みを帯びた山。左側には街道を歩いていく
旅人が小さく描かれています。「歩く旅人」と「休む旅人」を同じ画面に置くことで、東海道の
旅の時間が感じられます。
特に面白いのは、広重が名所旧跡ではなく、 「とろろ汁を食べる」という旅の楽しみそのものを
題材にしている 点でしょう。



「 まりこ めいぶつ ちゃみせ
鞠子 名物茶店
Mariko, Local Specialty Teahouse
作者 : 歌川広重(初代)/画
年代 : 天保5~7(1834~36)頃
鞠子は丸子とも書き、昔からとろろが名物として知られていた。松尾芭蕉の句にも詠まれて
いるが、本図が着想を得たのは『東海道中膝栗毛』ではないかと考えられる。
「名ぶつとろろ汁」、「御ちゃづけ」、「酒さかな」などと書かれた茶店には二人の男性が
くつろいでいる。弥次さん喜多さんを思わせる風貌の二人組である。
旅の途中ののどかなひと時を切り取った図である。」 



「 東海道五拾三次之内 岡部」 



ネットから
この絵で広重が強調しているもの
第一印象は、何といっても 道の狭さと山の深さ です。
画面の大部分を左右から迫る巨大な山肌が占め、旅人の通る道は、その谷間に細い一本の線の
ように描かれています。右側には青く描かれた谷川が流れ、足を踏み外せば落ちてしまいそうです。
さらに右上には高い杉のような木々がそびえ、空はわずかしか見えません。広重はこの構図に
よって、宇津ノ谷峠が 昼間でも薄暗い山道だったこと を視覚的に表現しています。
中央奥には茅葺きの家がわずかに見え、その近くに 赤く色づいた木 が一本描かれています。
青緑色を主体とした暗い山間の景色の中で、この赤が鮮やかなアクセントになっています。
そして小さく描かれた旅人たちと巨大な山を比べると、 人間の小ささと自然の圧倒的な大きさ が
よく分かります。



「 おかべ うつのやま
岡部 宇津之山
作者 : 歌川広重(初代)/画
年代 : 天保5~7(1834~36)頃
盛り上がった両脇の山に挟まれて、一本の細い道が通っている。手前から道を登る男女が現れ、
奥から薪を担いだ杣人(そま)がやってくる。すれ違えば隣の川に落ちそうな、人ひとりが
やっと通れるような狭い道である。ここは東海道の丸子宿と岡部宿の間の宇津ノ谷峠で、
昼でも山に遮られて薄暗いため難所とされた。」



「 東海道五拾三次之内 藤枝」 



ネットから
「人馬継立」とは?
ここがこの作品を理解するポイントです。
人馬継立(じんばつぎたて)とは、宿場ごとに荷物や公用の旅人を運ぶ人足や馬を交替させ、
次の宿場へ送り継ぐ制度 です。
江戸時代の宿場には、荷物輸送などを取り仕切る問屋場(といやば)がありました。
藤枝宿もその一つです。
つまり現在にたとえるなら、
「 人足と馬を交替させる中継基地+荷物の配送センター 」
のような役割を果たしていました。
絵を見ると大変な賑わいです
右上の建物が問屋場で、役人が仕事をしています。その前には仕事の順番を待つ人足たち。
中央では大きな荷物を二人で担ぎ、左側では馬に荷物を積んだり降ろしたりしています。
裸に近い姿の人足、馬、旅人、役人が入り交じり、広重は宿場の忙しさを人物の動きで
表現しています。面白いのが、展示解説にもある「広告」です。
荷物には、この浮世絵を出版した版元「保永堂」の札。 さらに馬には版元主人の名である 「竹内」
の文字が入っています。
現代風にいえば、広重の絵の中に 出版社の名前をさりげなく「商品広告」として登場させた
わけです。江戸時代にも、こうした遊び心のある宣伝があったことが分かります。



「 藤枝 人馬継立(ふじえだ じんばつぎたて)
Fujieda, Station for Changing Horses and Porters
作者 : 歌川広重(初代)/画
年代 : 天保5~7(1834~36)頃
間屋場の前の人馬の群像を描いた一図である。右上の屋内にいる役人の前に並ぶ人々は、
みな思い思いの行動をしながら順番を待つ。宿場の活気が画面から伝わる。
中央付近、二人の人が担ぐ荷物には版元「保永堂」の札がさがり、馬の腹には版元の主人の
名である「竹内」の文字が見える。本図にはいわゆるコマーシャルの意図があったのだと
考えられる。」 



「 東海道五拾三次之内 嶋田」



ネットから
この作品は、これまでの東海道の風景画とはかなり違います。広重は大井川を高い位置から
見下ろす「俯瞰(ふかん)」の構図で描いています。
画面上部を大きく横切る青い流れが大井川。その手前の広大な河原には、驚くほど多くの
人や馬が描かれています。
よく見ると、 川の中を実際に渡っている一団 も見えます。橋を架けず、舟も使わず、人足の力で
旅人や荷物を渡していた当時の大井川ならではの光景です。
そして興味深いのが、画面中央付近の人々です。展示解説にあるように、川越人足らは
ふんどし一丁になって渡河の準備をしています。
広重は人物を非常に小さく描きながら、
馬に餌を与える者、荷物を運ぶ者、駕籠を担ぐ者、渡河の準備をする者、川を渡る者
を細かく描き分けています。そのため、遠景なのに河原のざわめきまで感じられるようです。
なぜ大井川に橋がなかったのか
「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と歌われたほど、大井川は東海道最大級の
難所でした。
江戸時代には大井川で 架橋や渡船が認められず、基本的に人足による徒歩渡し が行われました。
旅人は川越人足の肩や台、あるいは連台などを利用して川を渡りました。
そのため増水すると「川留め」となり、何日も渡れないこともありました。



「 しまだ おおいがわすんがん
嶋田 大井川駿岸
Shimada, The Sungan Bank of the Oi River
作者 : 歌川広重(初代)/画
年代 : 天保5~7(1834~36)頃
大井川は急流の大河で、かつ、当時は徒歩渡ししかゆるされておらず、東海道屈指の難所
だったという。駿岸とは、駿河側の岸のことである。
本図は、この駿岸から川を渡って西の遠江に行こうとする大名行列を俯瞰している。
馬に餌をやる者、籠を担ぐ者、ふんどし一丁になって川渡りの準備をする者など、小さい画面
ながら一人ひとりの様子が緻密に描きこまれている。」 



「 東海道五拾三次之内 金谷」 



ネットから
前の「島田」は 駿河側=駿岸 から大井川を見る作品でしたが、こちらは川を渡った先の
遠江側=遠岸 を描いています。「遠岸」の「遠」は「遠江(とおとうみ)」の意味です。
広重は、画面の大部分を広々とした河原と山並みに使い、その中に大名行列を非常に小さく
描いています。
特に左下を見ると、川越人足たちが水の中に入り、 大きな連台(れんだい)を担いで川を渡る 姿 が
描かれています。川の中央から対岸へも人馬の列が続き、大井川越えが大掛かりな
仕事だったことがよく分かります。
そしてこの作品で印象的なのが、「霞」です。山の麓や河原の一部をあえて描かず、
白く抜くように霞を表現しています。そのため、手前の青い川、広い河原、霞、その奥の
山々へと視線が自然に導かれ、画面に非常に大きな奥行きが生まれています。
前作「島田」と並べて見ると
「島田 大井川駿岸」では、河原に集まった大勢の人や馬を細かく描き、 川越しの賑わい を
見せていました。
一方、この「金谷 大井川遠岸」では人物を小さくし、広大な河原と山々を大きく描くことで、
大井川と自然の雄大さ を強調しています。
二枚を続けて見ることで、旅人が 島田側から大井川を渡り、金谷側へ到着する という東海道の旅
そのものを追体験できる構成になっています。



「 かなや おおいがわえんがん
金谷 大井川遠岸
Kanaya, The Engan Bank of the Oi River
作者 : 歌川広重(初代)/画
年代 : 天保5~7(1834~36)頃
前図に対して、こちらは遠江側の風景である。
本図も同様に大名行列が大井川を渡る様子が描かれているが、遠方の山々も望む構図と
なっている点に違いがある。
山の麓と川岸に霞を引くことで、距離感を際立たせている。」 



「 東海道五拾三次之内 日坂」



ネットから
この作品でまず目を引くのが、画面中央下に描かれた 大きな丸い石 です。
これが「夜泣き石」の伝説を表しています。
広重は佐夜ノ中山の険しさを強調するため、道を画面右下から右上へ向かって 急角度に
立ち上がるよう に描いています。旅人たちは坂道を登り下りし、その途中で何人かが丸い石の
周囲に立ち止まっています。
画面左奥には山々が幾重にも重なり、遠くの山は青く淡く描かれています。一方、手前の山肌は
黒々と表現され、白い幹の松が配置されています。この 明暗と色彩の対比 によって、深い山中を
通る東海道の険しさが伝わってきます。
「佐夜ノ中山」とは
佐夜ノ中山(小夜の中山)は、現在の静岡県掛川市にある峠で、東海道の 金谷宿と日坂宿の間 に
位置します。
箱根峠、鈴鹿峠などとともに、東海道の難所として知られた場所です。
この作品は単なる峠道の風景ではなく、 「夜泣き石」という土地の伝説を東海道の風景の中に
組み込んだ作品 であるところが大きな特徴です。



「 日坂 佐夜ノ中山(にっさか さよのなかやま)
Nissaka, Sayo-no-Nakayama Pass
作者 : 歌川広重(初代)/画
年代 : 天保5~7(1834~36)頃
急な坂の真ん中に大きな丸い石が転がっている。旅人たち数人がそれを囲む。
静岡県掛川市の小夜の中山には夜泣き石という石がある。賊に殺された妊婦から生まれた赤子が
この石の下で泣いていたのを助けられた伝説からこの名で呼ばれるようになった。」 



「 東海道五拾三次之内 掛川」



ネットから
この絵の面白いところ――「凧」に注目
この作品で広重が非常に面白い表現をしているのが、 画面上部の凧 です。
よく見ると、凧そのものは画面の外へ出てしまい、 長い凧糸だけが画面上端を突き抜けています 。
つまり広重は、「空高く揚がっている凧」を小さく描くのではなく、 あえて絵の枠外に出して
しまった のです。これによって、画面に描かれている範囲よりも、さらに高く広い空が続いて
いることを想像させます。
さらに遠方の山の上にも、小さな凧が一つ見えます。近くの凧と遠くの凧を組み合わせることで、空間の広がりも表現しています。
橋の上の人物
橋では旅人たちと僧がすれ違っています。中央付近の人物は、風に飛ばされた笠を押さえる、
あるいは追いかけているようにも見えます。
水面の葦も風になびき、空には凧が舞う――こうした細かな描写を重ねることで、広重は
目には見えない「風」そのものを描いている ともいえる作品です。
手前に立つ黄色い灯籠は、展示説明にある 秋葉権現の常夜燈 。旅人にとって、秋葉山信仰の
土地へ近づいたことを知らせる目印でもありました。



「 かけがわ あきばさんえんぼう
掛川 秋葉山遠望
Kakegawa River, Distant View of
Akibayama Montain
作者 : 歌川広重(初代)/画
年代 : 天保5~7(1834~36)頃
三瀬川に架かる大池橋と秋葉山が描かれる。秋葉山は火難除けの神である秋葉権現が鎮座する山として知られる。橋の手前には、この秋葉権現の常夜燈が描かれる。
橋上では旅人や僧が行き交う。彼らの頭上では、凧が画面の枠を突き破って空高く揚がっている。遠くにも、凧が飛んでいるのが見える。
爽やかな風を感じさせる一図である。」




                                ・・・​ もどる ​・・・



                ・・・​ つづく ​・・・

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