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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道は横田川を渡り真直ぐ対岸に行くルートであったが、現在この付近に橋がないため、川の右遠くに見える国道1号線の横田橋を迂回するしかなかったのであった。川に沿った道を行くと1号線に合流するので、ここで大きな橋を渡り、旧甲西(こうせい)町に入って行くのであった。前方に国道1号線と合流する「泉西」交差点が。『水口宿』と書かれた塔。ここが『水口宿』の出入り口。野洲川(旧横田川)を渡る前、この『泉西』交差点の先で『湖南市』に入ったのであった。平成16年(2004)10月に甲西(こうせい)町と石部町が合併して出来た『湖南市』。右手に行くと国道1号線の『水口道路』、旧東海道に合流するために左側の「三雲」案内板の道路を進む。これから渡る『横田橋』には上り方面にのみ並行する歩道があるので歩道橋を渡り上り車線側に向かう。この歩道橋は『朝国横断歩道橋(あさくにおうだんほどうきょう)』。『横田橋』を望む。その先に湖南市三雲の町並みと栗東市との境界の山の姿が見えた。『横田橋』の右側に並行する「人・自転車専用道」を進む。野洲川(やすがわ)は、滋賀県を流れる淀川水系の一級河川。琵琶湖への流入河川では最長である。近江太郎の通称がある川。この橋より上流の甲賀市水口町酒人で杣川と合流しているが、この合流地点より琵琶湖への下流は『横田川』と呼ばれていたのだと。「琵琶湖に流入する川」の数をネットで調べてみるとは大小合わせておよそ119本を数えるが、最長は栗歌詞になるがこの「野洲川」であると。その一方で、出ていく川はたったひとつ、「瀬田川」。近代に入って、「琵琶湖疎水」という、京都市内に人工的に水を引くことも始まったが、それでも2つしか「出口」がないのだと。明治時代までは先程の泉~三雲間に板橋を架けていたようだが、昭和初期に橋は下流へと移され、さらに1951(昭和27年)には現在の位置へと橋を架け替えているのだと。橋の上から右手の下流方面を見ると、先代の橋脚の一部が今もなお残っていたのであった。橋の中央付近に日本橋より『457km』の表示版。残すところ35kmの場所まで来たのであった。表記されている所在地は、合併して現在の湖南市になる前、甲西町時代の「甲西町 三雲」が更新されることなく残っていたのであった。敢えて残しているのであろうか?『横田橋』を渡り終え、脇にある階段を降りて左折し歩いて来た県道13号線(彦根八日市甲西線)の下を潜り旧東海道に合流しここを左折して旧東海道を戻って行った。草津線の踏切の真ん前にあったのが『東海道 横田の渡し 常夜燈』。角度を変えて。「東海道五十三次 石部宿 横田常夜燈東海道十三の渡しの難所の一つに数えられる横田の渡し場、湖南市側に建立されている。安永八年(一七七四)に東講中によって建てられた火袋付の常夜灯である。高さ四・八五メートル、五段の石積みの上に建っている。水口側の常夜灯より五十年以上前に建てられていた。建立された当時は現在地よりも二百メートルばかり上流に建っていたが、いつの時代か現在地に移転された。」『広重二代 東海道五十三駅』左に石部「春の景」と右に水口「名物干瓢 」。「東海道五十三次 石部宿 園養寺(おんようじ)天台宗のお寺で平安時代の初期、伝軟大師が延暦寺の用材を杣庄から牛車で運搬されたため、牛馬の労をいたわるために、大日如来の尊像を刻み、牛馬の安全を祈られたことから「牛の寺」と呼んでいる。また江戸時代に境内から野洲川を渡ろ人か手に取るように見えたことから、東海道を行き来きする人々を監視していたともいわれている。」『横田常夜燈』の前には小さな地蔵堂が。『横田常夜燈』の先に現代の天保義民碑の道標があり、この向かいの筋のJR草津線を越えた左手の丘上に『天保義民之碑』が建っていた。「東海道五十三次 石部宿 天保義民碑天保十三年(一八四ニ年)十月、現在の野洲市の三上地区で近江天保一揆(天保十三年近江国三上藩一揆・水口藩一揆)が発生しました。野洲・栗田・甲賀三郡の農民約四万人が幕府による検地(見分)の中止を要求して決起し、三上村に集まり、幕府が派遣した役人から十万日の日延べを勝ち取りましたが、多くの犠牲者を伴い、義民として永久に伝える為、碑が建立されました。」『草津線』の踏切を渡って進む。「ビジネス旅館 天保閣」への坂道を上って行く。左手に『新海道』と刻まれた石碑が。「新海道」は、「東海道」の旧街道と考えられていた別街道で、別名「杣街道(そまかいどう)」ともいわれてきたもの。「東海道」の鈴鹿峠がかなりの難所だったため、旧道として三雲から杣川を上って、柘植で「大和街道」と合流し、加太越を経て関宿に至る別街道。古くから利用され、「壬申の乱」後に一時廃れ、平安期仁和2年(886)に鈴鹿峠越えで関に降りる「阿須波越」に変更されるまで「東海道」として利用されたと。少し行程は長くなったが、鈴鹿越をしなくて良いという価値があったのだがが、余り利用されなくなったのは、山賊や忍者が沿道に出没したことが影響していたのではないか、との説があるのだと。経路は、三雲~三本柳~深川市場~寺庄~大原市場~上野(甲賀町)~柘植(伊賀市)<大和街道に合流> ~加太市場(亀山市)~関(亀山市) だったと。『県民花の森 天保義民の丘』「モニュメントの造形について天保13年(1842年)10月に旧甲賀郡、旧野洲郡、旧栗太郡の1万数千人の農民が結集し検地十万日日延の承認をさせるという「農民一揆」を起こした。その時農民が手に取った鍬、鎌を形どり、背の矢印は竹槍、中央の溝は農民の血と汗と流れを表わしている。全体としては、基礎石を農民に見たて農民の努力の賜で虹の石(希望のかけ橋)が架ったものである。」『天保義民の丘』案内図。『天保義民の丘』を更に上がって200mほど進むと、広場に高さ10m余もある『天保義民の碑』が立てられており、その義民=犠牲者を讃えて、後世の明治の人々が、天保時代(1830~44年)に過酷な検地に対する一揆(近江天保一揆)を起こして処刑されたことを偲んで立てられたもので、両脇には石燈籠が設置されていた。近寄って。「天保13年(1842)10月14日、幕府の命によって検地を始めた勘定役市野茂三郎以下40余名の苛酷な測量に対して農民の怒りは大きかった。三上村の庄屋土川平兵衛や甲賀郡内の各村の庄屋たちも相談し合って農民らと力をあわせその検地を停止させた。「十万日の延べ」の証言を得た一揆の農民は大聲をあげて喜んだ。その後、事件の中心人物として80余名の取り調べはきびしかった。ことに土川、田島、黄瀬らの庄屋に加えられた拷問は惨酷そのものであった。しかし、調べられた者たちは一人として白状しなかった。獄舎中で次々と死んだ者もあったが首謀者として11名が江戸送りとなった。針の文三郎、油日の惣太郎、上野の九兵衛、氏川原の庄五郎、深川の安右衛門、岩根の弥八、松尾の喜兵衛、杣中の平治、宇田の宗兵衛、市原の治兵衛、三上の平兵衛らの11人は檻に入れられて江戸へ送られた。街道には農民の多くが涙を流しながら見送り、別れを惜しんだ。うち江戸へ着いたのは8名であった。遺体はもちろん満足な場所へ埋めなかった。死ぬまで市野不法を訴え、庶民の正しさを申し立てたという。その後、明治となり罪人の名を大赦し、相続をみとめた。明治31年5月20日に「天保義民」の碑を現在の地に建立した。その文字は厳谷修氏の書である。高さ10mの人造石でその費用は2900円であった。毎年10月15日にはこの碑前で郡町村が主として義民の追悼慰霊の例祭が催され、関係の遺族の多くが参列される。奉納すもうも催される。」遊歩道脇の法面に咲くこの花の名は「ショウジョウバカマ」。名前の由来は、紅紫色の花を空想上の生き物ショウジョウ(猩々)の顔に、地面を放射状に這うように広がる葉っぱをそのハカマ(袴)に見立てたという説や、花の色が猩々の赤い髪や緋色の袴の色にいているところから名付けられたなどの諸説があるのだと。そして旧東海道に戻り進むと、左手にあったのが『草津線 三雲駅』。三雲駅前の右手に『微妙大師萬里小路藤房郷墓所』碑。臨済宗妙心寺派、湖南市三雲町にある『妙感寺』👈リンク は、開山:微妙大師 開基:微妙大師(藤原藤房)によるもの。微妙大師は建武中興の元勲萬里小路(までのこうじ)中納言藤原藤房卿その人であり、後世、新田義貞、楠木正成とともに建武の三忠臣と讃えられた人である。また、後醍醐天皇の側近で、元弘の乱の謀議が露見したため、天皇ともに笠置山に脱出し、その後、出家して京都妙心寺の第二世となり、晩年は当寺に隠棲したといわれている。その先には『明治天皇聖跡』。明治天皇は大政奉還以後各地に行幸されたがそのときの行幸記念碑。湖南三山の国宝二寺や遷都の折、明治天皇が訪れたとのこと。石仏が納められた祠。湖南市三雲の旧東海道にも旧家が。『東海道歴史探訪・史跡めぐりマップ』旧東海道に沿って草津線が走っているのであった。民家の玄関の上に藁でできた箒のような形のものが飾られていた。それも一つではなく数え切れないほどの数が。ネットで調べてみると『厄除け粽(ちまき)』と呼ぶようだ。祇園祭で販売される粽は食べ物でなく、藁を笹の葉で束ねこれをイグサで縛り、更に束にして作られた疫病・災難除けのお守りで祇園祭のときだけ各山鉾や八坂神社で販売されるものと。なるほど『長刀鉾(なぎなたほこ)』の文字のある『粽(ちまき)』が何個も。民家の前の小さな社。野洲川に流れ込む『荒川』に架かる『荒川橋』を渡る。JR草津線もすぐ横を渡っていた。『荒川橋』の先左手に3つの石碑・道標が。手前から明治廿四年(1891)の銘のある『田川ふどう道』碑。この辺りは、横田の渡しを控えた「田川立場」で賑わった所であると。「田川ふどう道」の上には指のマークのようなものが彫られていた。指で「あっち」という感じで現代風。寛政9年(1797)の『万里小路藤房郷古跡』碑。「万里小路藤房」は、後醍醐天皇に諫奏して容れられず、出家して妙感寺に入寺した人物。横には道標『霊照山妙感寺 従是十四丁』と刻まれていた。大正11年(1922)の『立志神社』碑。立志神社(国常立命を祭る氏神)は近く、約500mの所にあるようだ。 『JR草津線三雲踏切』を渡る。湖南市吉永の街並みに入る。先に進んでJR草津線を三雲踏切で渡ると、右手に『旧東海道標識』が。⬅石部宿場水口宿場➡⬅妙感寺・信楽『東海道歴史探訪・史跡めぐりマップ』は日光にやられ更新の時期。カーブのところに常夜燈が見えた。水路や水辺が整備され『湖南市吉永 三吉景観水路』が作られていた。この施設は地域の憩いの場として利用して貰えるように石積護岸や、階段工、遊歩道を整備した景観水路です。また河川水(農業用水)を利用して耐震性貯水槽40m3を設置しています。農業用水は、いろいろな役割を果たしています。みんなで大切に利活用し、いつもきれいにしましょう。その先に比較的新しいモニュメント的な『常夜燈』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.30
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今日は4月29日・昭和の日。「昭和は遠くなりにけり」です。明治天皇の誕生日は「文化の日」、昭和天皇の誕生日は「昭和の日」として続いている。平成の天皇だった上皇の誕生日・12月23日は将来、「平成の日」として祝日になるのでしょうか。さらに「昭和の日」はGWの中の1日としてそのまま残るのでしょう。そして、新型コロナとの戦いの日々が続いています。春の陽気の中、外出もままならない日が続き、うつうつとした気持ちでいる人も多いのではないでしょうか。そうした中、少しでも明るい気持ちで過ごそうと、自宅に飾った花の写真をSNSで公開して楽しむ人が増え、自宅の庭や室内で花を楽しんでいる人々が広がりを見せていると先日のTVのニュースで。そんな中、我が家の裏の大規模農家の畑が今は1面真っ赤に染まっていて心癒されるのです。この花は「クリムゾンクローバー」。ストロベリーキャンドル、ストロベリートーチ、ベニバナツメグサ、オランダレンゲなどの別名を持つ花。根粒菌が空中窒素を固定し、土壌を肥沃化する花とのことで、農家で栽培されているのです。この後、トラクターで全てを土に鋤き込むのです。食用になる花だと知ったのは数年前。甘い香りのする花をほぐしてサラダに散らしたり、蜜の多い花なのでハーブティーとしても楽しめるようですが未だTRYしていません。葉っぱも勿論、栄養豊富でスープに入れたり、10分ほど茹でてサラダや他の料理にも利用出来るとか。昨日も我が趣味のミツバチが訪花し花蜜を一生懸命に吸っていました。れんげと同じマメ科の花なので、クリムゾンクローバーの蜂蜜は、特に清涼感が感じられる、爽やかな甘さが特徴なのです。-----------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に旧東海道を先に進むと、右手の徳地酒店の筋角に 『国宝延命地蔵尊』と刻まれた『泉福寺』寺標が建っており、この筋を入って行くと天台宗の『宝珠山 泉福寺』があった。泉福寺『山門』。『天台宗 宝珠山 泉福寺』寺標。山門に掛かる『宝珠山』の扁額。『手水舎』。『日吉神社 鳥居』。鳥居に掛かる『日吉神社』の扁額。『日吉神社 拝殿』。水口の名木・古木のカヤ。『愛宕社』。『地蔵堂』。『水子やすらぎ地蔵尊』「水子供養 やすらぎ地蔵尊手を合わすれば憎む心もとけてゆき離れた心も結ばれる。重い心も軽くなり濁った心も澄んでくる、両手合わせて拝んでゆこう」『泉福寺 本堂』。泉福寺は、弘仁4年(813)伝教大師最澄の開創で、本尊の延命地蔵尊は国の重要文化財である。「天台宗 泉福寺当寺は、弘仁4年(813)伝教大師最澄の開創によるもので、昔は泉寺とも延命院とも言い、数坊を擁したと伝えられる。天正年間の兵火により、堂宇はことごとく焼失したが、地蔵菩薩坐像は災禍を免れ、20余年後の慶長10年(1605)、本堂再建に当り本尊として安置され、以来泉の祈願寺として現今に至っている。本尊地蔵菩薩坐像は国の重要文化財であり、厨子の中に秘仏として安置され、子安延命地蔵として信仰を集めている。尚、本堂前の水子やすらぎ地蔵尊は、本尊そのままを表したものである。本尊の両側に不動明王と毘沙門天が配され、脇壇の四天王は平安期の作、また書院横の庭園は江戸後期の作庭と云われる。本尊木造地蔵菩薩坐像法量4尺(1.2m)の半跏像で檜材による寄木造、右足を内に曲げ左足を踏み下げている。丸顔の穏やかな表情、柔らかな肉付きに趣がある。寺伝では定朝作とするが、その様式から鎌倉時代の作と考えられる。」『神明社』。『稲荷神社』。扁額は『稲荷社』。ここにも地蔵様。『南無地蔵菩薩堂』。『南無地蔵菩薩』。『不動堂』。御堂に掛かる『梵字不動尊』の扁額。『カヤノキ』幹周:4. 33m、樹高:19m。「日吉神社そもそも、当社の創祠は後一条天皇の御宇、治安3年、時の別当が、泉村人の祈願所泉福寺の護法神として、坂本日吉大社山王十禅師権現の御分霊を、勧請したことに始まる。 爾来、泉邑住民の鎮守神として祀られ、往古は山王様十禅師様と呼ばれていたが、明治4年藤木神社として社名を改める。 戦後、社宝狛犬の銘文に基ずき、日吉神社と再び社名を改め、神域を整え拝殿を建立、子供神輿を献備し、いよいよ氏神としての形態を整えるに至った。」『手水舎』。『日吉神社 境内』。クスノキは、幹周:4. 72m、樹高:33m。旧東海道に戻り進むと、再び『五重相伝』の吹き流しが。『泉福寺』を出ると再び左側が松並木となり、野洲川支流の『泉川』に架かる『舞込橋』に到着。手前左手には東海道道標『⬅水口宿 横田渡➡』。『日吉神社 御旅所』碑。御旅所とは、神社の祭礼などのとき神(神輿)が巡幸の途中で休憩・宿泊・またはその目的地となる場所を示すと。日吉神社御旅所碑の直ぐ先に復元された『泉の一里塚跡』があった。水口には、泉・林口・今在家(今郷)の三箇所に一里塚があった。泉の一里塚は、現在地よりやや野洲川よりにあったが、これはそのモニュメントとして整備されたものである。ここは江戸日本橋から数えて、114里目の一里塚跡である。「東海道和泉一里塚東海道を整備した江戸幕府は江戸日本橋を起点として街道の両側に一里(約四キロ)塚を築いたが、本町域では泉・林口・今在家(今郷)の三箇所に一里塚があった。塚上には榎などを植えて旅人の目印とし、道中奉行の管轄下に維持管理がなされ。当時のものは現在地よりやや野洲川よりにあつたが、これはそのモニュメントとして整備されたものである。」一里塚跡から道なりに進んで行くと県道535号線前の冠木門のある『横田渡跡』に突き当たった。ここは江戸時代には、東海道の 『渡』のひとつとして幕府の管理下におかれ、渇水期に土橋が架けられたほかは、船渡しとなっていたのだと。「東海道横田渡鈴鹿山脈に源を発する野洲川は、このあたりで 「横田川」 と呼ばれてきました。伊勢参宮や東国へ向かう旅人は、この川を渡らねばならず、室町時代の史料にも「横田河橋」の名が見えています。江戸時代に入り東海道が整備され、当所は東海道十三渡のひとつとして重視され、軍事的な意味からも幕府の管轄下に置かれました。そのため、他の「渡」と同じく通年の架橋は許されず、地元泉村に「渡」の公役を命じ、賃銭を徴収してその維持に当たらせました。これによると、3月から9月の間は4艘の船による船渡しとし、10月から翌2月までの間は、流路の部分に土橋を架けて通行させたようです。野洲川と支流の杣川が合流する当地は、水流も激しく、また流れの中には巨石も顔を見せ、道中の難所に数えられました。「渡」の景観は、往時のガイドブックである名所図会や絵図にも多数描かれており、旅人で大いに賑わいました。」文政5年(1822)の『常夜燈』。「東海道横田渡常夜燈(水口町指定文化財) この巨大な石燈籠は文政五年(一八二二)増加する旅人の目印となるよう、泉側の川岸に地元や京都・大坂を中心とした万人講中の寄進によって建てられたものです。 その高さは一○・五メートル、燈火を灯す火袋は大人も通れるほどで、道中でも最大級のものとされています。 建造には多額の費用を要したため、基壇には多くの寄進者名が刻まれています。 明治以降、水害によって一部形状を損ないましたが、その交通史上の価値は高く、水口町の文化財に指定されています。」当時の『橋台の石垣』。「横田渡の歴史横田橋の名は、寛正2年(1461)5月24日の室町幕府奉行人文書(山中文書)に、「酒人郷横田河橋」 として見えるのが早く、京都西芳寺によって橋賃が徴収されていたことが知られています。江戸時代には、東海道の「渡」のひとつとして幕府の管理下におかれ、渇水期に土橋が架けられたほかは、船渡しとなっていました。明治24年、泉・三雲間を結ぶ長大な板橋が架けられました。 この石垣は当時の橋台の一部です。 その後、昭和4年には下流に橋が移され、同27年には国道一号線の敷設によって現在の横田橋へと推移しました。」明治時代の常夜燈と板橋の写真。横田川(現在の野洲川)。『金刀比羅宮(ことひらぐう)』。「金刀比羅宮旧幕時代、横田川の渡しは年中橋を架けることは許されなかった。 そこで、河水の少ない十月から二月までは水の流れている所に土橋をかけ、三月から九月までの七ヶ月は四艘の小舟で通行していた。 しかし暗夜には方向が定まらず危険であった。 当社は渡しの安全のために村人が文政二年「常夜灯」の建立を発起し義金を募り文政五年八月に竣工すると同時に水上交通安全の神様である金刀比羅宮をこの場所に勧請し、渡しの安全を祈念したものと推察される。」この付近の東海道案内地図。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.29
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道を更に西に進むと、右手に『柏木神社』社標と常夜燈、石鳥居があった。この先、300mほど先の林の中に『柏木神社』があるのだったが、訪ねなかった。『拝殿』をネットより。「社伝によると673年(白鳳元)、あるいは白鳳以前の創祀とされています。日吉宮、日吉山王宮と称していましたが、建久年間、源頼朝上洛の折に鎌倉鶴岡八幡宮より勧請合祀し、 以後、若宮八幡宮と称されるようになったといいます。明治4年に柏木神社と改めました。」 【https://rubese.net/gurucomi001/?id=380829】より石鳥居の左手前にあったのが『馬場改修記念』碑。滋賀県知事 堀田義次郎(1919~1923在任)原内閣により任命 と。『柏木神社』への入口とは反対側の路地の左側にあった小さな神社。これは神社の裏にある美冨久酒造(株)の蔵の守護神であろうか。更に旧東海道をひたすら真っ直ぐ進む。更に進むと左手の民家の横に並んでいた石灯籠や狛犬らしきものも。どこかの廃社のものであろうか?この付近が『北脇縄手』。前方左手に小さな『地蔵』とその先に『石碑』があった。『地蔵』には花とお茶のペットボトルが置かれていた。「北脇縄手と松並木」碑。東海道が一直線にのびるこの辺りは、江戸時代「北脇縄手」と呼ばれた。縄手(畷)とは田の中の道のことで、東海道の整備にともない曲りくねっていた旧伊勢大路を廃し、見通しの良い道路としたことにちなむと考えられる。江戸時代、東海道の両側は土手になり松並木があった。街道は近隣の村々に掃除場所が割り当てられ、美しさが保たれていた。旅人は松の木蔭に涼を取り、旅の疲れを休めたといわれている。」更に直線道路が続いていたが松並木の姿は全くなくなっていた。小さな『地蔵』が所々に置かれていた。更にこの先にも。2体の『地蔵』様。正面から。左手に東屋風の休憩所が。「三世代北脇 湧遊 せせらぎ広場この親水公園は、清水(しょうず)池の自然を生かし小川を取り戻す会を中心に整備構想をされ、せせらぎ水路や景観親水施股を備えた地域の憩の場として整備されました。清水池とは、かんかい期間に清水か湧く池を示しています。みんなで大切に利用し、いつもきれいにしましょう。」小さな木造水車。『五基の庚申塔』その先右手。煉瓦ブロックの台石に囲まれて、屋根付きでなかよく五基並んでいるのが微笑ましい。その直ぐ先の小さな林の中の『地蔵様』と常夜燈。再び水口町北脇の街並みが。左手に旧家。『北脇公民館』。『北脇公民館』の前の『割烹 米新桜』。更に進むと左手にあったのが甲賀市立柏木小学校。右手に『甲賀警察署 柏木警察官駐在所』。左手に『水口北脇郵便局』。そして右手前方に見えて来たのが『柏木公民館』。『柏木公民館』前には『水口宿モニュメント』があった。半鐘櫓のモニュメント。半鐘を鳴らすために梯子を上る姿が。櫓の中には干瓢作りの人形がいるのだと。モニュメントの前面には広重の「水口宿」の絵、裏面には、五十三次の宿場と広重の辞世の句が書かれていた。『広重辞世の句』東路に 筆を残して 旅の空 西の御国(くに)の 名ところを見舞(みん)交通安全の信楽焼の狸。柏木公民館の斜向かいに北脇本町集会所があり、この脇に『愛宕神社』と思われる小社があった。畑の中に吹き流しが。『五重相伝 蓮臺山 淨品寺』の文字が。ネット情報によると「五重相伝(ごじゅうそうでん)とは浄土宗においてもっとも重要な教えを伝える法要です。元来は出家のためのもので、五重相伝を受けることにより、浄土の信仰や念仏を唱える意味を理解し、仏教徒としての生き方を深めることができます。五重相伝は、浄土宗の教えの真髄を初重(しょじゅう)から第五重(だいごじゅう)の五段階に分けて相伝するもので、5日間にわたって行われます。その内容は、初重(しょじゅう) 法然上人が作ったとされる「往生記」1巻により「機」について相伝二重(にじゅう) 浄土真宗第二祖 聖光上人(弁阿)の「末代念仏授手印」1巻により「法」について相伝三重(さんじゅう) 浄土宗第三祖 良忠上人(然阿良忠)の『領解末代念仏授手印鈔』1巻により「解」に ついて相伝四重(しじゅう) 良忠上人『決答授手印疑問鈔』2巻により「証」について相伝第五重(だいごじゅう) 曇鸞大師『往生論註』に説くお十念について相伝」右手角に道標が。南北に横断する柏貴農道の信号交差点を越え、その先で泉地区(旧泉村)に入ると、変則十字路の右手筋角に鉄板で補強された宝暦12年(1762)の道標が建っていた。道標には『従是山村天神道十二丁』と刻まれていた。北東に4kmほどの場所に山村神社があるようだ。恐らく、この神社への道標。更に進むと、今度は左手に『祠』が。この『祠』は『愛宕神社』?。そして漸く緩やかなカーブが始まる。ここにも石仏が。紫の旗が掲げられた建物が右手に。ここは『天理教白水分教会』。『本堂』。『本堂』屋根の鬼瓦。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.28
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次水口町城内の旧東海道を進むと、右手に近くにある御茶園墓地公園(おさえんぼちこうえん)の駐車場があった。更に旧東海道を西に進むと前方右手に杉の巨木が。右手にあったのが『五十鈴神社』。入口に大きな常夜燈が。「林口の勧請縄毎年の正月三日に林口区の「山の神」の行事として作られ、地域内の三か所に掛け渡されます。一般の注連縄とは異なり、村の出入り口や神社の境内などに掛けられるもので、勧請縄と呼ばれるものです。これは「道切り」つまり村の外から疫病や災厄が侵入するのを防ぐための祈願として行われるもので、五穀豊穣や村内安全などが書かれた勧請板と、「海老」と呼ばれる藁で作った飾りものと御幣が付けられます。」これが「海老」と呼ばれる藁で作った飾りものであろう。水口町の古木・名木のヒノキ。ヒノキの古木と常夜燈。「水口町の古木・名木樹木の所在 水口町東林 五十鈴神社地内樹 種 ヒノキ(ヒノキ科)樹木の説明高さ40mに達する常緑針葉樹。樹皮は茶褐色。葉はうろこ状の葉片が茎lこ密着し、裏面にはY字状の白色の気孔溝かある。雄雌同株。開花は4月。雄花穂は多数で茶褐色。雌花穏は珠形。珠梁は褐色となり、翼のある種子を散らす。福島県より西、九州にまで分布し、岩場に自生する。広く栽培される。和名:火ノ木。木をこすり合わせて火を出した。」『拝殿』。「五十鈴神社由緒五十鈴神社は、天照大御神をお祀りしています。藤原時代の長寛2年(1164)に設けられた 「御厨」制度により御厨田の守護神として、また五穀豊穣の神として伊勢皇大神の御分霊を、「福原大神宮」 として称え奉ったのがその創始です。江戸時代の天和2年(1682)から、水口城主として加藤明友候が政を掌った間、「神明宮」と称して信仰も厚く御影石、手洗鉢の寄進をされています。その後の歴代藩主の信仰も厚く、由緒深い宮です。明治4年(1871)「五十鈴神社」 と改称されました。その他に、稲荷、八坂、愛宕、秋葉、島姫(弁財天)の各神社をお祀りしています。」左から『秋葉神社・愛宕神社・八坂神社』『正一位 稲荷大明神』扁額『正一位 稲荷大明神』。『神門』。『神門』内部。『常夜燈』。『社務所』。『弁財天覆屋』。『弁財天』。こちらは『イヌマキ』。「水口町の古木・名木樹木の所在 水口町東林口 五十鈴神社地内樹 種 イヌマキ(マキ科)樹木の説明暖地の山地に自生し、常緑の高木で、高さ20mに達する.葉は針状で樹皮は、灰褐色で、浅く縦にさけ、薄片となってはげる.五月に小花を開く。種子は.緑色で、基部に続く仮種皮が赤色。材は耐水・耐朽牲に強く、桶用材に適する。庭木・生垣に広く使用される。」『五十鈴神社』横にあった『ようこそ水口へ』『水口宿 お散歩マップ』『五十鈴神社』の一角に『林口の一里塚跡』があった。ここは江戸日本橋から数えて113里目の一里塚跡である。「一里塚跡 一里塚は街道の両側に一里(約4km)ごとに築かれたもので、東海道では慶長九年(1604)に江戸日本橋を起点として整備された。水口町域では今郷・林口・泉の三ヶ所に設けられている。塚上には榎の木などを植えて厳重に管理し、旅人のよき目印ともなったが、明治維新後いずれも撤去された。林口の一里塚は、これよりやや南方にあったが水口城の郭内の整備にともない、東海道が北側に付け替えられ、五十鈴神社の境内東端に移った。本塚は、往時を偲んで修景整備されたものです。」T字路から『一里塚跡』を見る。旧東海道はこの先の交差点を右に。こちらはこの先の旧東海道。交差点を渡って進むと、直ぐ右手に案内板が。「西見附跡水口宿の西の端に設けられたもので「京口」と呼ばれています。木戸や番所が置かれ、宿場の防犯施設となっていました。東端の・田町と片町の境付近には東見附があ・り「江戸口」と呼ばれ、同じ機能を果たしていました。東海道は最初はここから東へまっすぐ延びていましたが、水口城築城と水口藩成立の二回の機会に北へ迂回させられました。またここを流れる川は「見附川」と呼ぼれています。」ここで水口宿は終り、ここから舞込橋にぶつかるまで約2.5Km、ほぼ直線道路になっているのであった。右手にあったのが日蓮宗寺院『妙沾寺(みょうてんじ)』。『髭題目碑』であろうか?通称 「淡路阿闍梨」 と言われた日賢の立てた「南無妙法蓮華経」と刻まれた塔が境内中央に。「髭題目」とは、日蓮宗で、題目の「南無妙法蓮華経」の七字のうち、「法」以外の六字の端の部分を長くひげのようにのばして書いたもの。「法」の光に照らされ、万物がことごとく真理を体得して活動することを表したものだと。比較的新しい『本堂』。妙沾寺は、昭和2年(1927)神山長兵衛の開基であると。扁額は『雙龍山(そうりゅうさん)』。『地蔵堂』。『地蔵堂』内部。更に人の姿のない旧東海道を進む。左手に『美冨久(みふく)酒造』。東海道五十三次・五十番目の宿場町『水口宿』の街道筋に蔵を構えて、平成29年で創業100周年を迎えた老舗の酒造店。店頭にあった大正9年製造の手動式消防ポンプ車。昔は、手押しポンプ(龍吐水、腕用ポンプ)やバケツで消火をおこなっていた。その後馬車の消防車ができたが、馬は火を怖がって火事場に近づけなかった。自動車が作られるようになってからは消防車になった。手押しポンプが使われていたのは明治の初期から終わり頃までだと。『美冨久酒造株式会社』入口。窓の内側には『水口 街道ひなかざり』の『親王飾り』が。『東海道 五十三次 水口宿 街道蔵』。「水口の地酒甲賀地域は滋賀県の酒蔵の約三分の一が集まっている有数の酒処で、「近江の灘」とも呼ぼれています。その甲賀の中心であるここ水口は、その名の通り水がきれいで、米作りにも適した豊かな土地です。また、数々の東海道にまつわる本や雑誌、旅行番組などでも紹介されており司馬遼太郎作[竜馬がゆく」でも竜馬が立ち寄った宿場町として描かれています。そんな恵まれた土地ならではの口マン溢れる水口の地酒をお楽しみください。」『美冨久』。3月28日(土)、29日(日)の開催予定の『春の蔵祭り』は開催延期と。蔵の上部には『杉玉』が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.27
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『藤栄神社』を後にし更に南に進むと右側に『水口城跡』が姿を現した。現在、水口城出丸に二階矢倉が復元されていた。出丸には元々矢倉はなっかたと。 この櫓は、明治廃城の際に払い下げられ、民家として使用されていた本丸乾櫓(平櫓)で他の櫓よりは一回り大きかったのだと。「滋賀県指定史跡 水口城跡(別名・碧水城)水口は都から伊勢へ通じる交通の要所にあり、中世後期にはすでに町並が形成されていましたが、天正十三年(一五八五)には羽柴秀吉の命により水口岡山城が築かれ、その城下町として発展を見せました。関ヶ原合戦後、この地を直轄地とした徳川家康は、水口を東海道の宿駅に指定しました。そして家康はしばしばこの地を通行し、宿内の大徳寺などに宿泊しています。寛永十一年(一六三四)三代将軍家光は上洛に先立ち、道中となる水口に専用の宿館を築かせました。これが水口城です。作事奉行には建築や造園、茶道などで知られる小堀遠江守政一(遠州)があたりました。城は堀と石垣をめぐらした本丸と北側の二の丸からなり、本丸内部には御殿が建てられました。その建物構成は京都二条城に共通し、数寄をこらしたものでした。その後、幕府の任命した城番が管理する番城となりましたが、天和二年(一六八二)には加藤明友が入封し水口藩が成立、水口城はその居城となり明治維新に至りました。維新後は廃城となり、建物や石垣の大半は撤去されましたが、本丸敷地のみは保存され、昭和四十七年(一九七二)滋賀県の史跡に指定されました。平成三年(一九九一)出丸の部分に矢倉が復元され、「水口城資料館」として開館いたしました。」「水口城本丸平面図」。さすがに加藤明友は将軍宿所として作られた豪壮な殿舎を、居所や藩庁として使うのは抵抗があったのか、本丸の外に二の丸を築き、そこに藩庁や武家屋敷を建てたのだと。城域が拡大したため、本丸のそばまで広がっていた水口宿の街地は移転、東海道も城地を迂回する形になった。明治維新で廃城となり、二の丸は市街地に、石垣は鉄道敷設の際に石材として利用されたが、本丸はグラウンドとなり四囲の水堀も残されたのだと。『隅矢倉』への橋と門を見る。正面から。隅矢倉内には「水口城資料館」があるが、3000万円掛かったと云う復元模型は平櫓であると。『史跡 水口城跡』碑が左手に。石垣と堀を見下す。別名「碧水城」は、湧水を利用した堀に青い水をたたえていたことから、加藤明友が命名したと。橋を渡った門には「臨時休館のお知らせ新型コロナウィルス感染拡大防止のため、3月24日までの間、休館とさせていただきます。」そして、現在も臨時休館中。再び道路に戻り桜越しに隅櫓を見る。『隅櫓』を道路側から。『隅櫓』の石垣と堀。『水口城跡』を後にし、北に戻って行くと、右手にあったのが『滋賀県立水口高等学校』。左手が『水口中央公民館』。水口城跡の隅矢倉内にある「水口城資料館」の駐車場はここのようだ。『甲賀市誕生』碑。水口町、土山町、甲賀町、甲南町、信楽町が平成16年10月1日に合併したと。『飛翔』と刻まれた像。左手に『東海道五十三次 水口 名物干瓢 / 歌川 広重』。「名物かんぴょう多くの農家でかんぴょうが作られ、青空の下、白いかんぴょうが干され、初夏の風物詩となっていました。水口のかんぴょうは「東海道五十三次」に描かれたことから全国に知られるようになったといわれています。」かんぴょう作りは、そもそも水口城主であった加藤氏が下野(栃木県)から移入してきたおりに奨励し、特産物にしたのだと。かんぴょうの原料となる夕顔の実。これを細く剥いてかんぴょうを作っている。農婦たちが細く繋がったかんぴょうを様々な場所に干しています。『水口中央公民館』前の石碑。『松田宗壽碑』。松田宗壽(まつだむねとし)は嘉永(かえい)3年8月29日生まれ。滋賀県栗太(くりた)郡長をへて明治26年甲賀郡長。32年から郡内各地に郡林をもうけ,560haの植林をおこなった。明治44年11月21日死去。62歳。下総(しもうさ)神保(千葉県)出身。ここにも令和2年開催の「水口曳山まつり」👈リンク のポスターが。しかし、これも今年は中止。旧東海道に戻ると『神社』が。旧家。旧東海道はこの先を右に。旧東海道道標『小坂町』。巨大な丸い石は『水口石』。「水口石東海道に面した小坂町の曲がり角に伝えられる大石。 「力石」とも呼ばれる。 江戸時代から知られた大石と見えて、浮世絵師国芳が錦絵の題に採っている。 この辺りは水口藩の藩庁にもほど近く、長大な百間御長屋や、小坂町御門など城下のたたずまいが濃かった。」『歌川国芳 東海道53次 水口』「昔 高嶋といふ所に百姓の娘大井子(おほゐこ)といふ大力の女あり。力ある事を恥て常にハ出さず。農業の間にハ馬を牽 旅人(りょじん)を乗て活業(なりわい)とす。折節 田に水をまかする頃 村人大井子と水の事を論じ 女と侮り 彼が田へ水のかゝらぬやうにせしかバ 大井子憤りて ある夜六七尺四方なる石を持来り かの水口(みずくち)に置けり。夜明て村人おどろき数人にて取んとすれど 中々動ず悩しに 大井子が仕業ときゝ 詮方なく種々(いろいろ)侘びけるゆへ 彼大石をかるがると引退(ひきの)けり。大力におそれて水論ハ止けるとぞ。今に此地に水口石(ミなくちいし)とて残りける也。」右に折れて進むと左手にあった公園内には案内板と朱の鳥居があった。手前にあったのが『百間長屋跡』案内板。「北邸町に百間長屋がありました。 百間長屋はお城の郭内の武家地にあり、百間(約180m)の棟割長屋には、下級武士たちが隣り合って住んでいました。 南側 (郭内) に玄関があり、東海道に面した北側は出入り口がなく、町場とは自由に往来が出来ませんでした。 これは敵が攻めてきた時に郭内の城・藩邸を防御する役割を果たしたのです。 長屋には往来に向かって小さな高窓があり、これを与力窓といいます。 買い物などはこの窓から首を出して東海道を往来する物売りにヒモをつけたざる等に銭を入れ、その銭に見合う品物をざるに入れてもらってそれを引き上げる方法で買い物をしました。 明治初期の絵地図によると21軒が明記されています。」「江戸時代後期の様子」、「昭和30年頃の様子」、「昭和50年頃の様子」が写真に。『北邸町(きたやしきちょう)』標石。『吉富大明神』。『百間長屋跡』の斜向かいの筋奥に浄土宗の『如林山真徳寺』があった。『みなくち歴史のみち ③真徳寺・武家邸門』案内板。『真徳寺』の創建年代等は不詳であるが、表門はもと水口城の郭内に所在した家臣(蜷川氏)屋敷の長屋門を移築したものである。寺院の表門に改めた際、かなり手が加えられたが、旧城下に残る数少ない武家屋敷遺構の一つとして貴重である。水口城郭内にあった家臣屋敷の『長屋門』が前方に。『長屋門』。「真徳寺表門 一棟 江戸時代当寺の表門は、もと水口城の郭内に所在した家臣(蜷川氏)屋敷の長屋門を近代に移築したものである。寺院の表門に改めた際、かなり手が加えられたが、旧城下に残る散少ない武家屋敷遺構の一つとして貴重である。なお境内墓地には、明治の代表的書家として知られる巌谷一六の先祖の墓碑が伝えられる。」『真徳寺本堂』。本堂に掛かる『如林山』の扁額。『無縁仏供養塔』。『六地蔵尊』。『水子地蔵尊』。『地蔵菩薩座像』。『地蔵堂』 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.26
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次水口町城東の旧東海道の左手にあったのが『護念山 心光寺』。『心光寺門前町』道標。『山門』。『山門』の屋根の見事な鬼瓦。『山門』を潜ると左手にあった『地蔵堂』。『石造 地蔵菩薩半跏像』。『銅製 阿弥陀如来坐像』。別の角度から。多くの墓石・慰霊碑が並ぶ。境内墓地。墓石群の頂部に『五輪塔』。手前に『佛足石』。「佛足石お釈迦様の滅後、弟子たちがその遺徳と説法されるお姿を偲び仰いで礼拝の対象としていたものです。 足跡には佛の三十二相の一つである「足安平足」の足に千輻輪を中心に瑞祥七相の文様があり、お釈迦様のお教えを石に刻んだもので、印度の石工職人が手彫りで一年半かけて製作された佛足石です。」『無縁仏塔』か。『境内』の先にある『本堂』。『本堂』。『心光寺』は、延喜 3年(903)菅原道真の4男淳茂が父の菩提を弔うため開基天台宗の寺院として僧侶愚定により開山されたと。淳茂の子孫はこの地に根を下ろし美濃部姓を名乗り甲賀21家のひとつに数えられ水口一帯を治め江戸時代は幕府の旗本となっているのだと。その後大永5年(1525)に浄土宗へ改宗している。厨子や本堂の梁、庫裏の長押し(なげし)の釘隠しにも金色の「菊鉞」の紋章が輝いていた。扁額『心光寺』。「木造阿弥陀如来立像 平安時代浄土宗に属する心光寺は、当地の土豪であった美濃部氏の創建と伝えられる。 本堂脇壇に安置される本像は頭躰はもちろん、両袖部まで榧の一材から木取りし、背刳りを行い蓋板を当てる構造で、像高は一三五・八センチである。 後世の手が加わってはいるが、古い様式を倣った平安中期の地方仏として重要であり、昭和五十九年水口町の文化財に指定された。」『イチョウ』の老木。巨大な筆の如し。最頂部まで手入れがされているのであろう。「水口町の古木・名木樹木の所在 水口町城東 心光寺地内樹種 イチョウ(イチョウ科)樹木の説明 中国原産の落葉高木、樹皮は淡褐色で、ふぞろいに浅く縦裂する。 老木になると幹や枝より乳柱が下垂することがあり、「乳イチョウ」と呼ばれる。 葉はおうぎ形、先端は2裂することがある。 秋には鮮やかな黄色になって落ちる。 雄雌異株4月新葉とともに開花し、種子は9月~10月に落下する。 この仲間は中世代に繁栄した植物群であるが、現在はイチョウ科・イチョウ属に1種が残存するのみである。 日本では室町時代に栽培されていたという。 材は軟らかく緻密、器具(碁盤・将棋盤・箱など)、彫刻(印判・版木・木魚)、建築(天井・床板)、家具などに用い胚乳は食用となる。 公園・街路・神社・寺院の境内に多く植え、防災や防風植栽にも用いる。 増殖は実生、さし木、接木による。 イチョウの名は「鴨脚」の中国宋時代の音に因むという。 ギンナンは銀杏で中国語である。」ここにも巨大な『イチョウ』の切り株が。『心光寺』の墓地にある美濃部一族の墓石は慶長以来数十基あり、中でも五輪塔二基は壮大で、高さ3.3m、円径0.79mで南北に並立している。美濃部氏一族の墓には菅原・美濃部の銘があり、基礎の部分に綾野天満宮と同じ「菊鉞「きくまさかり」の紋章が見られる。歌碑『月かげの のいたらぬ里は なけれども 奈賀むる人の 心にぞ寿む』浄土宗・法然上人の歌であり、浄土宗の宗歌。月影とは月の光、すなわち阿弥陀如来のお慈悲のみ光。この御光はあまねく一切の人々をお照らし下さるが、その光をながめなければ、お慈悲に気づくことが出来ないの。阿弥陀様はすべての人々をお救い下さるが、そのお救いを願わず、喜ばず、お慈悲に背をむけるものは、如何ともしがたい と。歴代上人の墓石が並ぶ。墓地入口の手水舎。境内にはピンクのアセビ(馬酔木)の花がたわわに。熊本県出身の詩人、坂村真民(さかむらしんみん)の詩の一節『念ずれば 花ひらく 』👈リンク 碑。「念」という字を分解すると「今」と「心」になると。これは「目の前にある事を一生懸命やる」ということ。言葉を換えて言えば「実践」することであると。「念」とは、「今の心」であり、「今、目の前にある事を一生懸命やること」を表しているのだと。今の日本にとって『Stay Home』こそ『念』であるのだ。新型コロナウイルス拡大を止め、感染者・重症者・死亡者を一人でも減らすこと、一刻も早く事態を終息し経済活動・文化活動・日常生活を通常化することを目指す為に全ての日本人が『念』を求められているのだ。そして『念ずれば花開く』!!『衆曾堂』。見事な龍の彫刻。扁額『衆曾堂(しゅえいどう)』。(一社)甲賀市観光まちづくり協会事務局にメールし、読み方を教えて頂きました。『心光寺』の向かいに『天神町の曳山蔵』があった。先に進むと右手の民家脇に板塀に囲まれた『愛宕神社』の小社が。『天神町』道標。『東海道五十三次 水口宿 天神町』案内板。入口に『忍碁』と書かれた建物が右手に。『碁苦楽快館(ごくらくかいかん)』は碁会所であろう。命名された方に座布団2枚!!旧東海道を左折し水口城跡を目指す。『藤栄神社』の角の掲示板には、「甲賀流戦国歴史講演」と「水口曳山まつり」のポスターが。『東邸町』道標。『藤栄(ふじさかえ)神社』境内の桜。「彼岸桜(ひがんざくら)・薔薇(ばら)科・「暑さ寒さも彼岸まで」 少し寒さがやわらいでくる3月中旬頃から、ソメイヨシノなどの桜にさきがけて咲く。・長野県高遠(たかとお)町で大規模に植栽されている。・彼岸桜の別名。 「小彼岸(こひがん)」 「小彼岸桜(こひがんざくら)」」こちらの彼岸桜は一分咲きか。『藤栄神社 拝殿』。「藤栄神社とその社宝当社は旧水口城内に位置し、水口藩主加藤氏の祖、加藤嘉明を祭神に、文政十二年(1829)藩によって創建され、近世は嘉明大明神社と呼ばれた。当社には豊臣秀吉より拝領と伝えられる刀剣や、高麗鞍など旧藩主家伝来の遺宝が数多く伝えられ、水口藩政時代を知る上で重要である。なお、社号標石は領界標石を転用したもので巖谷一六の書。」『天満宮舊址』碑。天満宮は廃絶してしまったようです。隣の『藤栄児童公園』内にあった魚の木像。南口入口の石鳥居前から『藤栄児童公園』、『藤栄神社』の境内を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.25
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は2020年3月21日。『旧東海道を歩く』も延べ30日目を迎え、この日から3日間かけてゴールの京都三条大橋に辿り着く予定の初日の朝。宿泊ホテルは甲賀市水口町北内貴にある「グリーンヒルサントピア」。前日チェックイン時に予約した6:30からの朝食を楽しむ。朝食を済ませ、旅友Sさんの愛車で近くの「貴生川駅」横の駐車場にMax500円/日で車を駐め「貴生川駅」へ。利用する電車は7:14発 近江鉄道水口・蒲生野線の米原行き。2両編成の電車はまだ米原行き表示に変わっていなかった。貴生川駅から水口石橋駅まで切符を購入。実は最初は180円の切符を買ってしまい、間違いに気づき慌てて交換に券売所に引き返したのであった。21日の1が薄くて3月2日の切符の如し。ワンマン電車で無人駅では運転手に切符を手渡し最前のドアから降車するシステム。そして6分で「水口石橋駅」に到着し下車。「水口石橋駅」の直ぐ横を走る「旧東海道」に出て、ここからこの日の『旧東海道を歩く』のスタート。時間は7:21。前回歩いて来た、踏切の先にある『三筋の道 』の『からくり人形時計』を振り返る。近江鉄道の踏切の先にある小さな石橋が「水口石橋駅」の名前に由来すると。前回は、雨がひどく、この先三雲駅まで歩く予定であったが、これを断念しこの「水口石橋駅」に駆け込んだのであったが。豊臣秀吉が天下の覇権を握った時代、「水口岡山城」が築かれその南側にあった集落が城下町として発展、水口宿の大きな特徴である『三筋の道』はこの時に敷設されたという。先日の「ぶらタモリ」でもこの場所を紹介していたのであった。歩きだすと旧水口町の汚水マンホールのカラー蓋が迎えてくれた。水口曳山祭(水口祭)で巡行する「曳山の車輪」をデザインした蓋。車輪の周囲には町の花「サツキ」が描かれているのであった。水口町八坂の街道を進む。『水口宿 天王町』道標。駐車場入口の木塀も旧東海道沿いらしく。右手にあったのが『天王町の曳山蔵』。天王町の曳山は全幅:3.10m 全長:4.10m 全高:5.40m 車径:1.37m水口曳山祭は水口神社の春祭りで、江戸時代中期の享保年間(1716~35)に宿場町であり城下町であった水口の活力を背景に、町民の力によって創り出された近江東南部を代表する都市型祭礼祭。 賑やかな曳山巡行と江戸祭り囃子の流れをくむ「水口囃子」で知られます。4月19日宵宮 4月20日例大祭・曳山巡行「水口曳山祭」滋賀県指定無形民俗文化財「曳山16基」甲賀市指定有形民俗文化財その先に木造3階建ての『甲賀市ひとまち街道交流館』が。『水口曳山まつり』が4月19~20日に予定されているが・・・・。やはり新型コロナウイルスの感染拡大に伴い中止となったとのこと。『東海道 水口宿』京都三条大橋まで約50km、江戸日本橋まで約445km。『甲賀市水口地域市民センター』は『甲賀市ひと・まち街道交流館』にもなっていた。「ひと・まち街道交流館東海道の観光案内を、目的とした施設で、ボランティアガイド一名が常駐し、ご案内しています。郷土史の冊子やピンバッジなど、お土産物も置いております。となりの施設に水口曳山祭の曳山も展示されておりますので、見学ご希望の方はお申し出ください。○開館時間は、九時から十七時まで ○休館日は、月曜日(祝日の場合は翌日)。※正面奥の建物です。」(館内➡案内の間違いであろうか?)『曳山蔵河内町』。河内町の曳山は全幅:3.04m 全長:4.60m 全高:5.40m 車径:1.38m。『甲賀市水口地域市民センター』。『東海道五十三次 水口名物干瓢<水口> 夏 女たちは、ユウガオの果実を細くけずって干瓢づくりに余念がない。水口城跡に角やぐらの復元がされ、資料館となっていますご来館下さい。』「名物かんぴょう」当時は多くの農家でかんぴょうが作られ、青空の下、白いかんぴょうが干される風景は初夏の風物詩となっていました。 水口のかんぴょうは「東海道五十三次・水口」に描かれたことから全国に知られるようになったといわれています。『甲賀警察署 水口石橋交番』はパトカーの朝の点検中。『河内町』道標。手造りの『ピタゴラスイッチ』的なシステム装置が街道沿いに。水を落とすシステムなのであろうか。なかなか良くできていて、感心。動いている姿を見たかったが。『まかない店 八蔵』。「いきなり団子」店頭にて 1つ150円で販売しているとの事だが、まだ開店前。旧東海道はこの先で右に折れる。「東海道案内図 水口城天王口跡江戸崎代この場所は水口城の東端にあたることから木戸か置かれ、「天王口御門」と呼ばれました。もともと直進していた東海道も、ここで北へ直角に曲がり、北町・天神町・小坂町と城の北側を迂回し、林口五十鈴神社の南でふたたび当初の道に戻りました。「天王口」の名は、天王町の名の起源でもある八坂神社(八坂)がもと牛頭天王社と呼ばれたためです。これより木戸内には「広小路」「南小路」などの武家地がひろがり、ふだんは藩士以外の一般の通行は制限さていましたか、四月の水口祭には藩主や藩士に見せるため曳山が曳き入れられました。」水口町城東の街道を進む。『北町』道標。『祠』と『常夜燈』。旧家が左手に。この突き当りを左手に進む。更に旧東海道を進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.24
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道を歩くも、この日2020年3月20日が最後の出発日となりました。今回は水口宿から出発し京都三条大橋を目指す、移動日を含めて3泊4日の旅となりました。いつものように旅友のSさん宅を早朝6時に出発、西湘バイパスを除きひたすら下の道を走り滋賀県甲賀市水口を目指したのです。国道134号線・茅ヶ崎海岸の扇の松入口手前でサイドミラーに映った朝焼けです。西湘バイパス・大磯海岸まで進むと正面に富士山の白き頂きが。大磯プリンスホテル前から、小田原の町並みと箱根・二子山の姿を。未だ西湘バイパスの下り車線は復旧工事中。快晴の空に富士山の勇姿が。酒匂川手前より二子山をズームで。箱根新道方面に進む。箱根新道を進むと前方に見えてきたのが駒ケ岳山頂。箱根峠を越え笹原山中バイパスからの富士山。三島市、沼津市の街並みと駿河湾。そして『食堂 富士見平』前で車を駐める。以前、この場所は長期間通行止めになっており、この石畳は歩いていなかったのだ。「箱根旧街道浅間平地区の石畳復元・整備箱根旧街道は、慶長九年(一六○四)江戸幕府が整備した東海道の中で、小田原宿と三島宿を結ぶ、標高八四五mの箱根峠を越える箱根八里(約三二Km)の区間に当たる。 この旧街道には、通行の人馬を保護する松や杉の並木が作られ、道のりを正確にするための一里塚が築かれ、 またローム層の土で大変滑りやすい道なので、延宝八年(一六八○)頃には石畳の道に改修された。 三島市は貴重な文化遺産である石畳の活用を図るため、この「笹原地区」 約四三○mの区間のうち、三八○mを、平成九年度(一九九七)に復元・整備した。 発掘調査の結果、石畳は幅二間(約三.六m)を基本とし、道の南側の縁石は比較的大きめの石が並ぶように配置されていたことが確認された。調査の成果を基に、次のようなA~Cの3種類の手法に分けて整備した。A 現状保存・一部根府川石補填(約四三m 石畳がよく残っており、その部分はそのままの状態で保存し、石が抜けている箇所に神奈川県 根府川町で採石した安山岩を補填した。B 一部伏び・根府川石補填(下部基礎設置)(約一三五m) 石畳か残っている部分はそのままの状態で保存し、石が抜けている閃所は下部基礎を設け. その上に安山岩を敷設した。C 全面根府川石敷設(下部基礎設置)(約一五ニm) 石畳が残っていなかったため、全而に下部基礎を設けた後、安山岩を敷設した.」『食堂 富士見平』の横の石畳からの富士山。再び三島市、沼津市、駿河湾その先に三保の松原方面の姿が。東駿河湾環状道路からの富士山の勇姿。沼津バイパス・沼津橋手前からの富士山すそ野の美しい曲線。富士由比バイパスから薩埵峠、蒲原方面。薩埵峠から富士山の美しい姿を展望台下から愛でる人の姿も確認できた。静清バイパスから見えた山の上のこの建物は?新宇津ノ谷隧道。静岡県掛川市と島田市に跨る標高532mの山・粟ヶ岳(あわがたけ、別名無間山)の山頂近くの南東斜面にはヒノキが『茶』の文字に植林されており、島田方面や牧之原台地上から見ることができるのだ。当初(昭和7年)は松が植えられたが、マツクイムシによる枯損から、昭和58年にヒノキに植え替えられたのだと。浜名湖の太平洋につながる湖口(今切口)に架る国道1号浜名バイパス(高規格道路)の道路橋がこの浜名大橋。浜名大橋を渡り終えると渥美半島の姿が左前方に。蒲郡バイパスから。道の駅「筆柿の里 幸田」に立ち寄る。そして更に進み、国道23号線の木曽川大橋を渡る。鈴鹿山脈の姿が前方に姿を現す。そして三重県亀山市にある『能褒野神社』👈リンク を訪ねた。そして更に近くにあった『奈具志里神社跡・東荒寺跡』👈リンク も訪ねたのであった。更に『伊勢国府跡 』👈リンク を訪ねた。名阪国道亀山インターに近い国道1号線の安楽川手前から古い飛行機が屋外展示されているのを再び見かけた。そして亀山宿・樋口本陣跡を再び訪ねて再撮影。次に関宿をまたまた訪ねた。そして会津屋で昼食を楽しんだのであった。山菜おこわ・そばセットを楽しむ。次に鈴鹿峠に向かって走り、『坂下一ノ瀬一里塚跡』に立ち寄る。『鈴鹿トンネル』を通過し三重県から滋賀県に入る。そして『山中城址』碑を再撮影。亀山宿『本陣跡』にも立ち寄り再撮影。この後訪ねたのが『大岡寺』👈リンク。次に『水口神社』👈リンク も訪ねたのであった。そして18時前に甲賀市水口町北内貴にあるこの日のホテル・グリーンヒルサントピアに無事到着したのであった。 ・・・つづく・・・
2020.04.23
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次次に滋賀県甲賀市水口町宮の前にある水口神社(みなくちじんじゃ)を訪ねた。ここも3月20日の次の『旧東海道を歩く』の移動日に訪ねたのであった。入口道路脇には江戸初期の常夜燈が並んでいた。道路より境内を望む。道路からいきなり境内が広がっているという感じであった。その道路の横にでーんと『太鼓橋』が盛り上がっていた。4径間多脚式の石造りの『太鼓橋』。この『太鼓橋』の向こうには鳥居があり何となく参道風。この『太鼓橋』には高欄が無く、矢川神社の『太鼓橋』と似ていた。反り橋の右手には桁橋があった。しかし左手には無かった。『甲賀十三橋』の一つで江戸時代のものと。まるで滑り台の如き『太鼓橋』👈リンク。「水口神社 当社は主祭神大水口宿禰命は饒速日命 六世の孫出石心大臣命の子であり、祖母淡海川枯姫の縁により当地に居住され たと思われる土地開拓の祖神である。配祀は大己貴命、素盞嗚尊、稲田姫命である。当社は三代実録貞観元年(八五九)正 月甲申の条に「従五位下水口神に従五位 上を授く」とあり、延喜式内の旧社で神明帳にある近江国百五十五座、甲賀郡八 座の一つとされる。明治元年(一八六八)九月 明治天皇御東幸の砌、勅使を差遣せら れた。什宝に女神坐像がある。木像長七寸八分(二三・五センチ)垂髪で両手を袖に入れて、前に拱いた半身像で彩色を施している 簡素な中に藤原期神像の特色を示し、 国の重要文化財に指定されている。また 本殿前方に建つ六角石燈籠は、南北朝時 代康永元年(一三四二)の刻銘を持ち近江式 の装飾文を飾る優品で町の文化財に指定されている。四月二十日の例祭には神輿渡御の儀とと もに曳山巡行を行う。水口曳山として 県無形民俗文化財に指定され、多くの参詣者観光客で賑わう。」「由緒書御祭神 大水口宿禰命(おおみなくちすくねのみこと)相殿 大己貴命(おほなむちのみこと) 素盞鳴尊(すさのおのみこと) 稲田姫命(いなだひめのみこと)由緒御祭神大水口宿禰命は饒速日命(にぎはやひのみこと)の子孫である出石心大臣命(いずしごころおほをみのみこと)の御子に坐し、吾が郷土を、御開拓遊された祖神にて御神徳広大無辺である。当社の御創祀は不詳ながら「日本三代実録」貞観元年(八五九年)正月甲申の条に従五位下水口神に従五位上を授くとあり、延喜式内の旧社で神名帳にある近江国百五十五座甲賀郡八座の一である。大正十三年六月二十一日には県社に列せられた。例祭 四月二十日文化財 木造女神坐像(平安時代) 国指定重要文化財 明治四十四年八月九日 官幣(勅使御奉納) 御榊(同右) 古文書(上総介書) 石燈籠(南北朝時代) 甲賀市指定文化財 昭和五十九年四月一日 水口まつり 滋賀県選択無形民俗文化財 昭和三十六年七月六日指定 以上」『石鳥居』。『手水舎』。『社務所』と『斎殿』。『拝殿』。拝殿の扁額『水口神社』。『神馬』の銅像。『神門』。『本殿』。祭神は大水口宿祢命(おおみなくちのすくね)。扁額『式内 水口神社』。『本殿』を横から。いくつかの「摂社」があった。「摂社」とは本社に付属し、その祭神と縁の深い神を祭った社(やしろ)。格式は末社より上位。『玉津米(たまつめ)神社』。祭神は玉留産靈命(たまるめむすびのみこと)。『武雄神社』、祭神は武甕槌神(たけみかづちのかみ)。『日枝神社』、祭神は大山咋命( おおやまくいのかみ)配祀 徳川家康。『水口恵比須神社』。祭神は惠比須大神(えびすおおかみ)。『左近の桜』。「還暦記念植樹左近の桜紫寝殿(天皇の御殿)の警護や信奉の任にあたっていた左近衛府が担当して大内裏の階段の下の東方(向かって右側)に植えられた桜(別名南殿の桜)右近の橘右近衛府が担当して大内裏の階段の下の西方(向かって左側)に植えられた橘昭和五十五年庚申吉日 久寿会」『拝殿』を『神門』前から。境内の入口側。『滋賀県指定無形民族文化財 水口曳山祭り 4月19日・20日』「水口を代表する水口祭に巡行する曳山は祭礼の顔であり、「二層露天式人形屋台」の構造をもち、下層には囃子方が乗り、上には趣向をこらした「ダシ」が飾られます。祭礼に曳山が登場したのは享保20年(1735)とされており、その後変遷を経て、今日16基が伝存しており県下最多の数を誇ります。江戸時代の近江では、曳山は都市のシンボルとしてその豪華さが競われ、ここ水口でも町人の経済力と心意気によって建造されてきました。曳山の中で演奏される囃子は 「水口ぼやし」として、その勇壮な調べが人々の心を躍らせ、現在は郷土芸能として、祭礼以外にも盛んに演奏され好評を博しています。」『水口神社』前の街道には松並木の名残が。入口右手にも『常夜燈』が並ぶ。神社の前の民家の庭の花の名は?姫金魚草(ヒメキンギョソウ)、別名リナリアであろうか。そしてここから再びこの日のブログに戻る。『三雲駅』がこの日のゴールと考え歩いていたが、雨が更に激しくなり、私のズック内にも雨水が入り始めて来たので、旅友Sさんと相談して、この日はここまでとしたのであった。そして左に折れ、近江鉄道本線の駅で無人駅の『水口石橋駅』に駆け込む。駅構内のポスター『多賀大社』。『田村神社 田村まつり』。『近江の地酒電車』。電車で貴生川駅に向かおうと思ったが次の電車は40分以上待たなければならず、タクシーにて旅友Sさんの愛車が待つホテルに向かったのであった。そして愛車に乗り込み、激しい雨の中、帰路に。途中左にあったのが、この日のバスの車窓から見た、甲賀市土山町北土山にある『平成万人灯』を再び。『平成万人灯』と刻まれた石碑も。そして亀山市内に向けて進む。この場所の路面は濡れていなかったのであった。豊川市内にあった『えびせんべい ちくわの共和国』。そして吉田大橋を渡ると、左手奥に『吉田城 鉄櫓』が見えた。そして豊橋公園前の路面電車の走る国道1号線を進む。安久美神戸神明社(豊橋神明社)前を通過。豊橋市内を走る路面電車。そして旅友Sさんのフルコースの運転で無事に茅ヶ崎まで辿り着き、我が車に乗り換え帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2020.04.22
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次雨が激しくなる中、水口宿の本町商店街の旧東海道を進む。『曳山と三筋の町』。ここで旧東海道を挟む2つの道が合流。『秋葉神社』(左)と『曳山を模したからくり時計台』(右)。『時計台』。「宿場町の水口天下を握った家康は、慶長6年(1601)東海道を整備し、五十三の宿駅を置いて公用輸送を確立、この時水口も宿駅となりました。 宿場は、町数27、家数718と発展、俳聖芭蕉も逗留し 「命二つのなかに生たる桜かな」 の句を残しています。 庶民の旅が盛んとなった江戸後期には40余の旅籠と本陣・脇本陣があって客引きで賑わいました。 宿場の名物には干瓢・葛細工・煙管・泥鰌汁等があり、夏の風物詩「かんぴょう干し風景」は歌川広重の浮世絵によって広く世間に知られました。」『旧東海道』案内板。『時計台』を正面から。『三筋の町道標』も。『からくり時計台』を振り返る。三筋が合流した先に『東海道』と刻まれた石橋があった。この南側にある近江鉄道本線の水口石橋駅の名は、この石橋に由来すると。「石橋江戸時代初期はここが「京口」とされていました。年頭に勧請縄が張られた際には、旅人は被り物を取り、馬かから降りて通っていました。水口はこの「石橋」を境にして、水口岡山城の城下町として整備された以東と、寛永以降水口城の築城などにともなって発展した以西に大きく分けられます。石橋の下を流れる小川は、水口岡山城の堀から流れる「馬渡川」です。また、東と西では、水口曳山祭のお囃子の曲調も異なります。」『曳山と三筋の町』を再び振り返る。ここで3つの道が合流していた。そしてこの日には、雨が激しかった為に訪ねられなかった『大岡寺(だいこうじ)』を次の移動日の3月20日に訪ねたのでここにアップいたします。『山門』への階段。『山門』への参道階段。『龍王山 大岡寺』。『本堂』。「龍王山 大岡寺の由緒寺伝によれば、白鳳14年(686)僧行基が諸国行脚に際し、大岡山の山頂に自刻の十一面千手観世音像を安置し創建したという。その後、寺勢盛大を極め、16の坊舎を擁していたと伝えられるが、天正2年(1574)の兵火で、堂宇はことごとく焼失し、東之坊(本坊)を残すのみとなった。天正13年(1585)に、中村一氏が岡山城の築城にあたり、東之坊を地頭に移転し、大岡山山頂に城郭を構築したが、落城後、享保元年(1716)に至り、時の住職寂堂法印が再び現在の地に堂宇を再建した。以後、水口城主加藤氏歴代の祈願所となった。本尊十一面千手観世音菩薩は、家内安全・商売繁盛・進学・就職・厄除等諸願成就の守護仏で、近江西国三十三箇所第二十六番霊場として多数の参詣者がある。また、恵心僧都の作で、阿弥陀如来立像は、ともに国の重要文化財に指定されている。当寺には、史跡が多く、鴨長明発心之所であり、巌谷一六の記念碑や、芭蕉の 「命二つ 中に活きたる 桜かな」 の句碑等がある。この句に詠まれた桜は「大岡寺の桜」として水口八景色の一つに数えられている。」扁額は『大岡寺』。『本堂』の正面には『四国第廿六番札所』木札と『賓頭盧様像』。『賓頭盧様像』『本堂内陣』。『鐘楼』。芭蕉句碑。『命ふたつ 中に活きたる 桜かな』。境内の『放生池』と『弁財天』。『釈迦誕生仏立像』。『日清戦役忠魂碑』。『諏訪大社本宮』。『鉛筆供養』塔のある珍しい寺。『行者堂』。『大岡寺務所』。『境内』。『宝篋印塔』。『六地蔵尊』。『巌谷一六顕彰碑』。「この碑は水口出身で、明治時代を代表する書家巌谷一六(天保五~明治三八)の業績を賛えて明治四四年に建てられた。碑文の撰文は漢学者三島中洲、揮毫は一六とともに近代書道の確立に邁進した日下部鳴鶴、「従三位巌谷君之碑」の題額は、一六らに大きな影容を与えた清国の金石学者楊守敬の手になる。鳴鶴の謹厳な隷書は、一六を賛える心を映してあまりある。」『栗園中村先生寿蔵碑』。水口藩儒者。中津藩絵師 片山東籬の次男として生まれ天保2年(1831年)水口藩儒者 中村介石の養子となる。広瀬淡窓、亀井昭陽、帆足万里などに師事する。ペリー艦隊来航後に藩主の命により藩政に参画し、水口藩の勤王派の中心人物となっていく。明治元年、藩主 加藤明実と上京し岩倉具視を介して東征案を奏上。明治2年に大参事に就任。文化3年(1806年)誕生。明治14年12月20日死去。『確堂中村先生之碑』。水口藩校翼輪堂教授。教育家。水口藩士 山県彦三郎の三男として生まれる。14歳で翼輪堂に入り、15歳で翼輪堂藩校助手となる。中村栗園の養子となり17歳の時には養父 中村栗園に代わり翼輪堂で講義を行う。21歳から33歳まで大阪、京都に遊学し帰藩後に翼輪堂で漢学教授となる。中村栗園が水口藩勤王派の中心として活動を始めた事により、中村確堂も他藩士と交際し情報収集するなど中村栗園を補佐していく。第二次長州征討、鳥羽伏見の戦いに従軍。維新後は埼玉師範学校長、彦根中学校長、本願寺大教校教授、京都師範学校教諭を勤め明治29年に老齢を理由として退職した。天保3年(1832年)10月8日誕生。明治30年3月3日死去。最後に『境内』を再び。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.21
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次国道307号線を渡って水口町元町(作坂町)の旧東海道を進む。作坂町には本陣や脇本陣が置かれた。先に進むと、左手に『水口宿本陣跡』があった。消火栓格納箱ほこの位置には不釣り合いなのでは。「東海道水口宿水口は道によって開け、道のよって発展した所です。 この地には古くから東国へあるいは伊勢への道が通り、人々の往来が頻繁であったようですが、室町時代には伊勢参宮の将軍家が休泊しているように宿村として開け、また市が立つ所であったようです。 しかし、現在につながる町の基ができたのは、天正十三年(一五八五)秀吉が家臣の中村一氏に命じて城(水口岡山城)を築かせてからのことです。 この時山麓の集落は城下町となり、城主三代、十五年の間に市街地の基礎が形成されました。 関ヶ原合戦翌年の慶長六年(一六○一)、交通体系の整備に取りかかった徳川氏は、東海道を整備しその要所の町や集落を宿駅に指定、公用人馬の迅速な輸送に備えましたが、 直轄地でもあった水口はこの時宿駅に指定され、明治初年まで東海道五十番目の宿場町として歩みました。 宿駅制度の目的は公用貨客の輸送にありましたが、徐々に一般貨客の通行輸送、あるいは遊山・参詣を目的とした庶民の往来が盛んとなり、旅籠や商家が建ち並び、町は大いににぎわい、その町並みは東西二キロ余りに及びました。 このうち東部市外の三筋に分岐した道路の形態は、特に珍しいものとされています。 水口宿は甲賀郡内の三宿中最大の規模で、天保十四年(一八四三)の記録によれば、家数六九二(うち旅籠屋四十一)を数え、この地に小規模ながらも水口藩の武家地が加わり、甲賀郡の中心としての地位を占めました。 このような発展を受けて、著名文人の滞在があったり、享保年間には水口神社の祭礼に曳山が巡行するようになりました。 また当時の宿場の名物としては、広重の浮世絵でも知られる干瓢・葛細工・煙管・泥鰌汁等が知られています。 なお、この碑のある場所は当時の本陣の跡です。」『水口宿本陣跡』。この地は江戸時代水口宿の本陣が置かれていたところです。 本陣とは、大名・旗本・宮家・公家・幕府役人などが休泊するための施設でこれを補助するものとしては脇本陣があり、水口宿はその両方が宿の東部の作坂町にありました。 本陣は規模が大きく、一般の旅籠屋には許されない門・玄関・書院などがあって格式を示し、その経営には宿の有力者があたりました。この本陣は代々鵜飼氏が経営にあたり、間口も一般の三軒分に相当する広大なものでしたが、明治2年に行われた明治天皇の宿泊をもって、その歴史を閉じ、その後建物も撤去されました。」竹垣の間を入って行くと明治天皇聖跡碑・明治天皇行在所御旧跡碑・水口宿本陣跡碑などが建っている。『明治天皇聖跡碑』。『明治天皇行在所御旧跡碑』。『明治天皇聖跡碑』前から竹垣を見る。古城山(水口岡山城址)を望む。右手に仏壇・仏具の店『ぬし又本店』。左手に『桔梗屋文七』」という古いたたずまいが今も残る商家。ネットで調べてみると、明治38年(1905年)から続くクリーニング店であった。正面には,水口宿の三筋の東口が見えた。Y字路の中央に『高札場跡』があり、小さな高札が復元されていた。水口宿は三筋の通りがあり、ここで二筋に分かれ、右が北通りで、左が中央通りであると。ここでは東海道道標が示す中央通りを進んで行くこととする。「高札場跡「お達し」を公示する掲示板でまちの中心のひとめにつきやすい辻、橋詰、出入口等に設置されました。水口宿では、作坂町と旅龍町の境、三筋町の北筋と真ん中の筋の合流するところに設置されていました。江戸時代には立札とも言われ、犯罪事実の公示・通報や、逮捕の協力を求めていました。特に寛永一七年(一六ニニ)の宗門改役が設置されてからは「隠れキリシタン」取り締まりのため、密告への賞金制度等が掲示されました。」『秋葉神社』(左)と『秋葉山常夜燈』(右)。『三筋の町』道は3本に分かれますが、旧東海道は真ん中の道。左側が『旧東海道』。『高札場』の裏には電話BOXと『作坂町集会所』。石橋駅まで続く旧東海道には古い家がかなり残っていた。旅籠屋『匠』は現在『ダイニングカフェ タクミヤ』。旧宿場町のカフェらしい店構え。連子格子の建物には郵便ポストが。右手の連子格子の旧家は『望田法律事務所』。連子格子は紅殻(べんがら)の赤。そしてこの先は五差路に。旧東海道は右側を進む。五差路を振り返る。五差路から直ぐ右手に『旅籠町の曳山蔵』があった。旅籠町は、慶長6年(1601)作坂町と共に伝馬町に指定された。水口の曳山は享保20年(1735)に9基の曳山が巡行し、その後、一町ごとに曳山が建造されるようになり、その数30基余りに達したといわれている。『曳山蔵 旅籠町』更に進むと、また石柱が右手前方に。『東海道五十次水口宿 葛籠町』石柱。その奥に『祠』も。『問屋場跡』。「問屋場跡問屋場は、宿駅本来の業務である人馬の継ぎ立てを差配したところで、宿駅の中核的施設として、公用貨客を次の宿まで運ぶ伝馬と、人足を用意しました。 水口宿では、江戸中期以来ここ大池町南側にその場所が定まり、宿内の有力者が宿役人となり、運営にあたりました。」「御菓子匠 一味屋」に立ち寄る。『東海道水口宿 一味屋』石碑。この店は文政年間創業で170年の老舗とのこと。店の内部。店内には『広重 東海道五十三次 水口』が掲げられていた。『忍術もなか』を購入しました。甲賀忍者の秘術を記した巻物を意匠した、小豆餡の最中で近江米や十勝産小豆などの厳選された材料を使っていて美味しかったのであった。そして更に進むと右手にあったのが『休憩所』が。『休憩所』内部。『祠』。『水口の曳山のからくり時計』と『大池町』。斜めから。『からくり時計』。別の場所から。「からくり人形は午前9時・正午・午後3時・午後6時に動きます。」「曳山の由来江戸時代、ここ水口は東海道の宿場町であり、また加藤氏二万五千石の城下町として地域の政治、経済、文化の中心として発展しましたが、曳山祭はこの町に住む町衆の力によって創り出されたものであり、近世のまち水口の象徴であるといえましょう。曳山の登場は享保二十年(1725)のことで、このとき九基の曳山が巡行し、藩邸にもぐりこんで賑いました。その後一町ごとに曳山が建造されるようになり、その数三十基余りに達したといわれています。当地の曳山は「二層露天式人形屋台」という構造をもち、複雑な木組み、精巧な彫刻、華やかな幕を飾りつけるとともに、屋上に「ダシ」と呼ばれる作り物をのせて町内を巡行します。その構造上、組上がったままで各町内に建てられている「山蔵」に収納されています。「ダシ」は毎回趣向を変えてその出来栄えを競うものであり、巡行見物の一つの楽しみとなっています。」横断歩道を渡り更に旧東海道を進む。左手に『いまむら呉服店』。『ふぐ料理 池田屋』。右手の民家前には小さな『祠』と『常夜燈』が。『虫籠窓(むしこまど)』の旧家。『水口曳山まつり』4月20日に開催されると。『伴町』石柱。『水口本町郵便局』が右手に。更に進む。『平町』。雨も次第に激しくなって来た。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.20
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次小雨の中、旧新庄村を進むと右手に『八幡神社』社標が建っており、奥に見える林に社殿があった。右手に進むと『八幡神社』の『一の鳥居』とその奥に境内。境内の杉の巨木。「水口町の古木・名木●樹木の所在 水口町新城 八幡神社地内●樹 種 スギ (スギ科)●樹木の説明 最も広く植栽される常緑針葉樹。自生地のものは高さ40m、幹の直径は2mほどに達する。 幹は直立、樹皮は縦に裂ける。葉は針形で枝に密|こつく。雌雄同株。3月開花。 雄花はだ円形で枝の先端に集まってつき、 風で花粉を散らす。雌花は球形で緑色。球果は球形。木質となり種子は種りんに2~5個つく。 枝葉は冬季暗赤色になる。枯れた部分は枝ごと落ちる。本州~九州の山地に自生し、屋久島の スギはヤクスギと呼ばれ樹齢200年を越し、自生地は特に有名である。材の用途は広い。 和名:幹が直立していることによる。」『一の鳥居』。『手水舎』。『八幡神社』の境内にある『新城観音堂』。馬頭観音を本尊に祀り、堂内には水口宿の旅籠や宿役人等が奉納したという2百余りの小絵馬が残る。社殿前の『二の鳥居』・『三の鳥居(神門)』。本殿ご祭神は「誉田別命」。扁額『八幡神社』。『八坂神社』。『八坂神社』扁額。『春日神社』。『春日神社』扁額。『津島社』。不明な?『境内社』。『地蔵堂』。「八幡神社・絵馬 観音堂案内板八幡神社にある観音堂には、本尊 「馬頭観音」 が祀られている。もともと新城の200m北に最澄が創建したとされる天台宗の寺院「天水寺」の本尊でしたが、天正年間(1573-92)に兵火に遭い廃寺となり、のちに八幡神社で祀られるようになったとされています。観音堂には、江戸時代中期に奉納された200以上の絵馬があります。絵馬には、街道筋に生きた人々の祈りが込められ、水口宿の旅籠や宿役人など、東海道の往来によって生計を立てた人々が交通の安全や、商売繁盛を願い、奉納されたものとされています。」『社務所』。『八幡神社』を後にして旧東海道を更に進む。今にも潰れそうな民家。緩やかな上り坂を進むと右手に『東海道の松並木碑』が建っていた。向こう奥に見えるは水口岡山城址の古城山。「東海道の松並木江戸時代、東海道の両側には松並木が整備され、近隣農村がその管理を行いました。並木は風や日差しをよけ、旅人の疲れを癒したのです。街道の清潔なことと、手入れの行き届いた松並木は、東海道を通行した外国人も賞賛した記録があるほどでしたが、先の大戦を境にして、その多くが失われました。水口宿に程近いこのあたりからは、松並木の合間から古城山が望まれ、絵のような景色であったと思われます。」正面に『古城山』。更に『古城山』に向かって旧東海道を進む。更に先に進むと、「すべり坂」 と呼ばれる下り坂の右手に『があった。 『地蔵堂』には、地蔵菩薩立像・厨子が安置されているのだと。『常夜燈』と『地蔵堂』。右手に『大師寺』。『国道307号線』の『秋葉北』交差点を渡ると、前方に橋が現れた。ここが山川橋の東詰。『山川橋(やまかわばし)』。昭和56年10月竣工の橋。川の名はもちろん『山川(やまかわ)』。右手にあった小さな『秋葉水公園』。ここからが『水口宿』が始まるのであった。「秋葉水公園この水公園は、地域で組織された第1区秋葉水光園委員会を中心に整備構成され完成しました。この公園の水は、農業用水として使用されているものをみんなの憩いの水としても利用するものです。いつまでも地域住民の場としてみんなが大切に利用しましょう。」『東海道五十次水口宿 田町』石柱。「五十三次」ではなく「五十次」は水口宿が「五十次目」であることを示している。坂の途中右側に『水口宿 ようこそ水口へ』案内図。坂を上った右手にあった冠木門には『東海道水口宿』の文字が。水口宿江戸方出入口、東見附跡。往時は枡形土居を巡らし木戸や番所が置かれていた。『東見付(江戸口)跡』碑。「東見付(江戸口)跡見付とは近世城郭の門など、外と接し警備を行った場所をさす。この地が水口宿の東端すなわち「江戸口」となったのは、野洲川の川原に沿って通じていた東海道が、山手に付け替えられ宿の東部諸町が整備された慶長十年(1605)以降のことである。特に天和二年(1682)の水口藩成立以降は、水口はその城下ともなり、町の東西の入口は警備の施設も整えられた模様である。享保年間(1716~36)作成の「水口宿色絵図」によると、桝形土居がめぐらされ、木戸や番所が置かれている。「伊勢参宮名所図会」(寛政九年刊)に描かれた町並みは、この辺りの風景を描いたものと考えられる。なお、西見付(京口)は宿の西端、林口五十鈴神社の南側にあった。」奥には石仏が祠の中に。『歌川広重 東海道五拾三次 水口 名物干瓢』「当時どこにでもあったような風景の中に、干瓢を作る人たちを描くことによって、水口らしさを表現した広重の趣向はさすがです。自然と人間との係わり合いを描く彼の風景画は、いつでも心温まります。干瓢作りは、そもそも水口城主であった加藤氏が下野(栃木県)から移入してきたおりに奨励し、特産物にしたといわれています。その他の名物として、葛細工・煙管・泥鰌汁などがあった。」と。『元町』交差点手前の右側にあった『曳山蔵 田町・片町』。「曳山蔵 田町・片町全幅:3.85m 全長:4.83m 全高:6.20m 車径:1.20m水口曳山祭 水口神社の春祭りで、江戸時代中期の享保年間(一七一六~三五)に宿場町であり、城下町であった水口の活力を背景に、町民の力によって創り出された近江東南部を代表する都市型祭礼祭。 賑やかな曳山巡行と、江戸祭囃子の流れをくむ「水口囃子」で知られます。4月19日宵宮 4月20日例大祭・曳山巡行「水口曳山祭」滋賀県指定無形民俗文化財「曳山16基」甲賀市指定有形民俗文化財」水口宿・旧東海道は右手にカーブ。その手前右に石柱が。『東海道五十次水口宿 松原町』石柱。カーブの途中右手にあったのが『日風寺』。『本門佛立宗 日風寺』と刻まれた石碑。初めて目にする『本門佛立宗 』の寺であったが建物も現代風。新興宗教ではないようであったが。更に進むと左手にあったのが『旧水口宿脇本陣』跡。「旧水口宿脇本陣この建物は、水口宿の脇本陣の一部とされ、文久三年(一八六三)の「水口宿内軒別書上帳」の中に記述がみられることから、一九世紀前半の建築と推定されています。現在残る建物は当時の一部のみとなっていますが、脇本陣の特徴である大きな間口・奥行が見られ、もとの家屋規模は水口随一の大型町家であったと想像できます。その構造や蟇股などの装飾は石部宿や土山宿の本陣にも類似性が見られます。」「旧水口宿脇本陣慶長6(1601)年、徳川家康は東海道を整備し、水口は五十番目の宿駅に指定されました。以来、水口は、人、物資だけでなく文化が行き交う町として栄えてきました。現在も、江戸時代にさかのぼる町家建築が多く伝えられています。なかでも、この建物は、水口宿の脇本陣の一部とされ、宿場町として栄えた当時の様子をうかがい知ることのできる遺構のひとつです。●脇本陣とは? 脇本陣とは、本陣を補助する役割の宿泊所のことです。本陣とは、大名や旗本、 幕府の役人などの宿泊所として指定された家のことで、脇本陣は本陣に空きの無い時などに 利用されました。本陣には基本的に一般客は宿泊できませんでしたが、脇本陣は一般客の 宿泊にも用いられました。●いつ頃の建物? 旧水口宿脇本陣の創建に関する資料は残されていませんが、文久3(1863)年の 『水口宿内軒別書上帳』のなかに記述がみられることから、19世紀前半の建築と 推定されています。●どんな建物? 現在残る建物は当時の一部のみとなっていますが、脇本陣の特徴である大きな間口・奥行が みられ、もとの家屋規模は水口随一の大型町家であったと想像できます。 その構造や蟇股などの装飾は石部宿や土山宿の本陣にも類似性がみられることから、 この地域の宿場町における代表的な建築様式を踏襲していると考えられています。」現上皇・上皇后の写真。更に水口宿の旧東海道を雨にも負けずに進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.19
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道と県道549号線の合流点を振り返る。県道549号線に合流して間もなく、右手に旧道口があり、植栽の中に東海道道標が建っていた。『旧東海道』道標。水口町今郷を行く旧東海道。今郷は明治12年(1879年)今在家村と小里村が合併し成立した村名。この辺りは旧小里村にあたる。旧東海道を進んで程なく左手に旧家が。左手の旧家には『桶屋』の木札が。そして虫篭窓の付いた連子格子の旧家。そして、先に進むと十字路を越えた右手の岩神の東山麓にある浄土宗の『龍王山宝善寺』が。『宝善寺』の創建年代等は不詳であるが、もとは真言宗であったと云われている。『宝善寺山門』。山門前の左側には『八阪神社 岩上不動尊 参道』と刻まれた石碑が。『宝善寺本堂』本尊の阿弥陀如来と平景清が信仰していたと伝わる薬師如来を祀る。本堂に掛かる『宝善寺』の扁額。『聖観世音菩薩』。『聖観世音像』と寄贈者の名前が刻まれた石碑。陸軍一等兵 墓碑。『八坂神社』の一の鳥居が『宝善寺』の墓地の先に。正面から。八坂神社の創建年代等は不詳であり、一の鳥居は新しいが、二の鳥居から先の参道は古く、社殿覆屋の中には3つの社が祀られているのだと。街道に戻ると県道549号線に合流する手前の右手にある消火栓の脇に小さな道標が建っていた。文字ははっきり見えないが、「西明寺」という文字が確認できたのであったが。そして再び県道に合流。少し歩くと左側には野洲川に架かる岩上橋が。岩上橋の袂には,『八坂神社本殿』と刻まれた大きな社標が建っていた。『八坂神社本殿』は橋を渡って700~800m程先の志賀ゴルフ倶楽部の手前にある。創建年代等は不詳であるが、江戸時代には牛頭天王社とも儀俄大宮とも云われた神社であると。『八坂神社本殿』の直ぐ先、右手に『岩神社・岩上不動尊参道』の社標が。この裏山中腹に『岩神社』があるようであった。「岩神のいわれ碑かつてこの地は野洲川に面して巨岩・奇岩が多く、景勝の地として知られていました。寛政9年(1,797)に刊行された 「伊勢参宮名所図会」 には、この地のことが絵入りで紹介され、名所であったことがわかります。それによると、やしろは無く岩を祭るとあり、村人は子供が生まれるとこの岩の前に抱いて立ち、旅人に頼んでその子の名を決めてもらう習慣があったことを記しています。」『岩上不動堂』か。『岩神社・岩上不動尊参道』の石階段。鳥居の先に参道山道が続いていたが、ここまでとした。『岩神社』社標前のY字路右手筋が旧東海道であり、角に時計の掛っている白い家が。この入口に東海道道標が建っていた。ここからは『新城』地区に入る。『東酒造株式会社』が左手に。旧家があったが、ここは住んでいないようであった。新城の旧東海道を更に進む。旧東海道を更に進むと左手に浄土宗の『日照山護念院永福寺』があった。永福寺の創建年代等は不詳であるが、宝永2年(1705)に再建され、本尊は阿弥陀如来であり、寺宝に絹本著色阿弥陀如来四尊来図が保存されているのだと。『永福寺山門』。山門に掛かる『護念院』の扁額。「絹本著色阿弥陀如来四尊来迎図 鎌倉時代浄土宗に属する永福寺の寺宝で、現状は掛幅装である。竪八三センチ、横三五センチの小型の図で、阿弥陀を中心に観音・勢至・地蔵の四尊が、雲に乗り来迎する姿を描く。着衣の衣紋は、繊細な截金で表し、鎌倉時代末期の様式をよく示している。数少ない鎌倉時代の来迎図として貴重であり、昭和五十九年水口町の文化財に指定された。」『六地蔵尊』。『地蔵尊』であろうか。『手水舎』。多くの神社の手水舎には『龍』がいるのでろうか?「手水舎の役割として、身を清める、祓いがあります日本は龍を神様の一柱と考え、水、雨、雲を司る神様として信仰されています水はすべての動植物の命の源であり、邪気を祓う神聖なものとされました(水に流す、という言葉もここからきています)そのため、神社で身を清める手水舎に流れる水を龍神様から出る水で『神聖なご神水』と表現しました。」これが手水舎に龍が、龍神様がいる理由であるとネット情報から。『永福寺本堂』。阿弥陀如来を中心とする観音・勢至・地蔵の四尊を描く来迎図を寺宝に持つ。この来迎図は昭和59年に水口町(現 甲賀市)の文化財に指定された。本堂に掛かる『永福寺』の扁額。無縁供養の『宝篋印塔』。『地蔵菩薩坐像』。『一切精霊』の文字が。中世の霊魂祭祀では、個々の無縁霊がもれないように、総括して法界、三界万霊、無縁一切精霊などと表現していたのだと。壁際にも多くの『地蔵尊』が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.18
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次先に進むと国道1号線に突き当たり、この左手段上に『東海道土山今宿碑』・『山灯籠』があり、右手街道沿いに地蔵尊が建っていた。『甲賀市 時計塔』『山灯籠』が左手に。『東海道土山今宿碑』。Y字路の左側が旧東海道、この先から『甲賀市水口』。 『水口宿』。『水口曳山まつり』の様子が描かれていた。『ようこそ甲賀市へ 甲賀市観光絵図』。旧東海道は右手に。信楽焼きの巨大タヌキが迎えてくれた。坂道を上って行く。「稲川碑稲川端に立つこの石碑は稲川碑と呼ばれており、石碑の下からは今も清水が湧き出ています。 江戸時代には東海道を行く旅人が喉を潤していました。 碑文によれば、正保4年(1647年)水口城代の山口重成(即翁了心ともいう)が土山宿と水口宿の間には飲み水なく旅人が困っていたため、 稲川沿いに井戸を掘って水を湧き出させたと言われています。 この碑文は延宝4年(1676年)、先人の功績を讃えるために建てられたものです。 また、村の言い伝えでは源平合戦のさ中、平景清が敵の矢に目を打たれ、東海道まで落ち延びた折、稲川端の清水で目を洗うと、たちまち血涙が止まったとのことです。 いつしか村人はこの水を景清の目洗い水と呼ぶようになりました。」『今郷歴史街道マップ』。右手に小高い丘が。「経塚お経を埋めたと伝えられる小高い墳丘状の塚で、鈴鹿山経塚とも呼ばれています。 経塚は一般的に、平安時代の末法思想とともに発展し、経典を経筒に納めて埋めたり、江戸時代には小石にお経をかいた一字一石経などを埋めることが流行し、 個人の祈願や追善供養、積徳の行として行われました。 この経塚は、延暦20年(801年)、このあたりに化け物が出没したため、大般若経を読んでこれを鎮め、その後、村人がこのお経を土中に埋めて塚としたと伝わります。」更に左手に杉並木が。水口町今郷の旧東海道を進む。ここにも人の姿はほとんどなく。『古民家カフェ 一里塚』。滋賀県甲賀市水口町今郷5920748-62-2871(17時以降が繋がり易いです)定休日 :不定休営業時間 :不定前方左に『一里塚跡』が現れた。「一里塚跡一里塚とは、江戸時代街道の両側に、一里(約四キロ)ごとに築かれた塚で、江戸日本橋を起点として整備され、本町域では泉・林口・今在家(現在地近傍)の三箇所に存在しました。 塚本体は高さ数メートルにおよぶ大きなもので、塚上には榎の木などを植えて目印としました。 行程の目安となり、また日影を与えてくれるものとして親しまれましたが、明治維新後は撤去されてしまいました。」「今在家一里塚一里塚は、街道の脇に一里(約4キロメートル)ごとに、旅行く人々の目印として造られた塚で、江戸時代に全国的に整備されました。 今在家一里塚は江戸日本橋から112里目にあたり、「今在家村地券取調総絵図」によれば、今の位置よりも東にあり、また道を挟んで両側に対に築かれていたことが描かれています。 江戸時代の一里塚は明治の初年に撤去され、現在の一里塚はその後、復元されたものです。 今は塚の上に榎が植えられていますが、かつては桜が植えられていたと伝わります。」今在家一里塚「今在家村地券取調総絵図」。『一里塚』碑。「お江戸日本橋から112里の一里塚」江戸日本橋から112里目(約440km)、京三条大橋からは13番目(実測で約54km地点)。往時はここよりも東側にあり、塚上には桜が植えられていたと云う。明治初年に撤去、現在は榎を植えた一里塚が復元されている。『権現山地蔵院 浄土寺』寺標。『甲賀四国八十六番札所』碑。西側にある表門に向かう。『浄土寺山門(表門)』。水口町の古木・名木のクスノキ。「水口町の古木・名木樹木の所在 水口町今郷 浄土寺地内樹 種 クスノキ(クスノキ科)樹木の説明 高さ25mに達する常緑高本。5月、新葉と旧葉が交代する。花は淡黄色。 果実は11月黒熟する。台湾の原産で古く渡来し、各地に植栽される。 材からショウノウをとる。」『浄土寺本堂』。浄土寺の創建年代等は不詳であるが、延宝9年(1681)に再建され、本尊は阿弥陀如来で、甲賀四国八十八箇所の86番札所となっている。現在は八幡神社境内に移されているが、かつては歯の神様として信仰を集めていた白山権現社が建っていた。扁額『浄土寺』。遂に雨が降り出して来た。『阿弥陀如来』。歴代住職の墓石。『成烈院殿慶蓮社感誉上人・・・』と刻まれた墓石。『無縁仏塚』境内の巨木・名木のクスノキを再び。旧東海道を戻ると、右手の旧家。『東海道今在家村 生掛け(きがけ)ろうそく 蝋燭屋』。そして雨がやや激しくなり、この休憩所・『郷の里』で一休み。旅友から頂いたバナナを補給し、雨対策用に準備して来たリュックカバーを付けて再出発。更に旧東海道を傘をさしながら進む。街道を先に進むと、左手の竹林の前にたくさんの地蔵尊が並んでいた。左に大きくカーブし、県道549号線に突き当たる左手角に高札場跡があり、街道碑が建っていた。高札場の多くは人の目に触れるように、村の中心や主要な街道が交錯する交差点といった人通りの多い場所に設置されることが多く、この付近には今在家村の高札場があったのだと。「街道をゆく古い街道には、いにしえ人の気配があります。その曲がりくねった道筋に、路傍の道標に歴史があります。あるときは戦の道となって人馬どよめき、あるときは参宮の道となって賑やかな歌声に包まれたであろうこの道。東海道は遠い昔にその役割を終え、今や暮らしの道として、風景の中にのびています。」『今郷歴史街道マップ』。この付近には今在家村の高札場があったのだと。また、この小里村の高札場は「東海道分間延絵図」に描かれているのだと。先程、前を通った『古民家カフェ 一里塚』の案内板もあった。そして県道549号線に合流。県道549号線の横に『野洲川』が流れ最も接近している場所であろう。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.17
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次明治天皇聖跡碑の斜向かいに、明治17年(1884)創業の『安井酒造場』があった。安井酒造場は、鈴鹿山系の伏流水と近江米を使用し、主な銘柄は初桜である。右手に屋根のついた大きな酒樽が。ここは『旅籠 金屋跡』大きな酒樽の中にも販売サイズの大小の酒樽『初桜』が。左手には土山宿の西の外れの旧東海道沿いに蔵を構える『安井酒造場』。『入口』。『安井酒造場』主力銘柄の『初桜』(はつざくら)は、桜の花にちなんで誰からも愛される酒であるようにとの願いを込めたもの。軒先に杉玉。過去にはこんな銘柄も。山田錦100%を使用した純米吟醸「山田百恵」。蔵元の奥さんのお名前「百恵」を組み合わせたネーミングであると。味わってみたかったぁ~~!!大野の家並み安井酒造場の先で国道1号線に突き当たり、ここまで旅籠跡は全て石碑のみで古い建物が残っている訳ではないが、間の宿の面影を感じさせているのであった。『旅籠 田畑屋跡』。『旅籠 田畑屋跡』碑。右手に『魚屋 茂吉』『魚屋 茂吉』木札。前方に国道1号線が姿を現す。右手にあったのが石碑『三好赤甫先生をしのびて』「師の訓え 座右の銘とし 汗に生く」三好赤甫は東福寺の虚白の弟子で、この地方の俳諧の基礎をきずいたとされる。「三好三好赤甫旧跡三好赤甫(一七九八~一八七三)は、待花園月坡と号し、通称才市と呼ばれた。 生家は代々の魚商であったが、少壮より俳諧に親しみ、嵯峨上田村の宍戸霞洲に就いて教えを請うた。 その後、家業を子に譲って京都に上り、東福寺法主虚白禅師に就いて十年余り研鑽を深めた。 その間、京・大阪の斯道の諸大家と広く交わった。 その後、郷里に帰って後進を指導し、この地方の俳諧の基礎を築いた。 俳著に「窓あかり」がある。 明治五年十月十九日、七十五歳で没す。 碑銘「ほととぎす 早苗に影を のこしゆ行く」国道1号線に突き当たる右手角に『大日如来』を祀った祠が建っていた。『大日如来碑』。『布引山若王寺道標』。国道1号線の手前右手に日本料理の 『みよし赤甫亭』 があった。『みよし赤甫亭』。国道1号線を渡ると、『若王寺』の道標。国道1号線を横断歩道で渡ると、正面に若王寺寺標があり、この奥突当りに浄土宗の『布引山医王院若王寺』があった。若王寺は、もと天台宗の寺院であったが、承応2年(1653)に改宗し、万治元年(1658)に再建されたと。『若王寺』が正面に。樹齢300年以上(推定)の杉の巨木とその下に『線刻碑』。『若王寺山門』。『若王寺本堂』。『鐘楼』。『墓地』。『水子地蔵菩薩』。『寺務所』。『本堂』から『山門』を見る。常夜燈(左)と『三好赤甫句碑』(右) 『三好赤甫句碑』「うぐいすや 早苗に影を 落としいく」。国道1号線に沿った旧東海道を更に進む。『若王寺』を振り返る。旧大野村の間の宿跡を進む。若王寺寺標のところから旧道に入って先に進むと、左手に茅葺屋根の『旅籠 東屋跡』がある。旧大野村の間の宿は、ここまで続いていた。『旅籠 東屋跡』。 旧家が右手にも。県道183号線の跨橋が前方に。旅籠東屋跡の直ぐ先で、県道183号線の跨橋を渡って行く。左奥の国道1号線沿いに広がる田圃。遠くに見える山は比叡山であろうか。県道183号線跨橋を渡ると、『旧今宿村』へ入って行く。今宿村は焼酎が名産であったと。中2階のある旧家。『大野村 瓦屋』。『大野村 瓦屋』木札。『今宿公民館』。この『今宿公民館』の裏山が『今宿城跡』のようであった。そして水口に向かって旧東海道を進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.16
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『東海道反野畷碑』前から更に旧東海道を進む。左に『野洲川』を見る。左手前方が『東海道徳原村 ひょうたん屋跡』『東海道徳原村 ひょうたん屋跡』の木札が板塀に。『東海道反野畷碑』の先で左に野洲川を見て、100m程進んだ右手筋角に『花枝神社』鳥居が建っていた。『村社 花枝神社』社標。『花枝神社』社殿はここから北へ300m程先の国道1号線を越えたところにあった。『花枝神社』は、嘉祥3年(851)甲賀郡喜多牧大野村喜多兵官が坂本の日吉大社・八王子社の分霊を勧請したと伝えられている。ズームで『花枝神社』社標と石灯籠、一の鳥居を見る。「シーボルトとトキの剥製フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(一七九六年~一八六六年)はドイツの医師であり博物学者である。江戸時代の日本は海外との自由な交流が制限されていたため、西欧との接点は長崎出島のオランダ商館に限られていた。シーボルトはオランダ商館医として文政六年(一八ニ三年)に長崎に赴任し、石として活躍する傍ら、西洋医学を始めとする蘭学を日本人に教えた。当寺、オランダ商節長は四年に一度、江戸に赴き将軍に拝謁する義務があり、文政九年(一八ニ六年)の江戸参府には、シーボルトも随行した。日本に関心が高かったシーボルトは道中で植物や動物を採集し、また日本人絵師に生物や風景なども写生させていた。三月二十六日には土山に宿泊したが、その途中の大野村でトキの剥製を買い求めた。また鈴鹿峠ではサンショウウオも買ったと記されている。ニ年後に発覚したシーボルト事件では幕府の禁制に反したとしてシーボルトは国外退去させられるが、トキの剥製などの収集品はオランダに送られた。現在もこの剥製はライデン市の自然史博物館で展示されているが、日本を代表する鳥だということで大英博物館からニッポアニア・ニッポンという学名がつけられている。」『甲賀市立大野小学校』が右手に。両側に見事な生け垣の旧宅が。『旅籠松坂屋跡碑』前には『長圓寺寺標』が。旧東海道左手の『長圓寺寺標』前に『旅籠 松坂屋跡』碑があった。ここ旧大野村は、土山宿と水口宿の間にあった間の宿であった。往時は多くの旅籠が並び、名物は雉・鴨・鷺などの野鳥の焼鳥と玉井という銘柄の酒であったと。『長圓寺寺標』の建つ筋を入って行くと突当りに浄土宗の『明鏡山長圓寺』があった。『長圓寺山門』。『五重双伝會(ごじゅうそうでんえ)』の案内の木札が立っていた。『五重双伝會』とは浄土宗の教えを五つの順序にのっとって伝える法会であると。五重相伝の「五重」には、「お念仏の教えの中でも特に重要な五つの要点」と、「お念仏の教えの基礎から一つずつ積み重ねて真髄に至る」の意味があるとのこと。境内の巨木は御神木?『長圓寺本堂』。本堂に掛かる『長圓寺』の扁額。『長圓寺の由来』「はじめ長圓寺は禅宗にして明鏡山と号す。文明の頃兵火に罹リ堂宇消失す。其の頃伊勢参宮の僧之を見て悲しみ村民を集めて再建を謀り遂に一堂を建つ。天正七年(西暦千五百七十九年)禅宗を改め浄土宗となり安土浄厳院の末寺となり近世水口大徳寺の末寺に転ず。安政五年拾壱月拾四日、(西暦千八百五袷八年)の夜、火災の為堂宇消失す(甲賀郡史による)。その後再建され現代に至るまで約百五十年、風風雪に耐えてきたか頓に危機感を憶える程に老朽化が進み護寺は甚だ難しく、檀信徒お願いをかなえるベく、平成拾参年拾壱月(西暦二千壱年)当時の寺役員が発起人となり建築委員会を発足、以来三年の歳月を経て見事な輪灸の美整い、檀信徒集まり平成拾六年拾壱月(西暦ニ千四年)落慶法要を執り行った。」『旅籠 吉野屋跡』碑。民家の庭にも巨大な石灯籠が。『河内屋』。更に旧東海道を水口に向かって進む。『指物屋』。先に進むと左手の三軒家集会所の隣に『神社』があった。社殿には扁額もなく名前は分からないが、中には本殿の小社があり、神札が貼られていた。『三軒家集会所』。昔はこの辺り、「三軒家」の地名を称していた数少ない名残であると。『三軒家集会所』の斜向かいにあったのが『大野公民館が』。大野村の茶摘み風景を描写した眞風軒の『漢詩碑』。眞風軒は江戸時代後期から明治期にかけての漢詩人で、農民が茶摘みに忙しい季節、この地へ訪れて碑面の漢詩を残したのだと。「漢詩の碑過土山即興 土山を過ぎて即興する。採茶時節事匁忙 採茶の時節 事匁忙(ことそうぼう)す。緑髄青芽壮僻郷 緑髄(りょくずい)の青芽壮(せいがさかん)なり。僻郷(へきごう)に清風一淪君知否 清風あり。一淪(いちれん)、君知るや否や遠到紅洋黒漠香 遠きに到る。紅洋黒漠(こうようこくばく)として香し。 眞風軒[ 意 訳 ]茶摘みの季節に、土山を過ぎて大野という村へ来て見ますと、農家の人達が大変忙がしく働いておられた。 茶園を見ますと、茶の樹が整然と植えられており、その茶の樹には新芽が深緑の美しい色をしており、今、この村には初夏の清らかな風がさわやかに吹いていた。 この茶の葉を蒸すと緑茶となり、発酵させると紅茶になる事を皆さんは知っておりましたか。 また、これらの茶が外国へも輸出されている事も知っておりますか。 お茶は、香りも、色もよく、人々に愛されております。 尚、眞風軒という人は、「眞風軒詩鈔」という漢詩の本を作られており、甲賀郡内をあちこち散策され、各地の風情を漢詩にしておられる人で、 江戸時代後期から明治時代にかけての人であります。(注)「一淪」は、「いちれん」とも「いちやく」とも読む。」『鴨 長明(かもの ちょうめい)歌碑』が写真左側に。鴨 長明(かもの ちょうめい、かも の ながあきら)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての日本の歌人・随筆家。建暦2年(1212年)に成立した『方丈記』は和漢混淆文による文芸の祖、日本の三大随筆の一つ。「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」と『方丈記』の冒頭を高校時代に暗記した事を懐かしく想い出したのであった。『鴨長明歌碑』「あらしふく 雲のはたての ぬきをうすみ むらぎえ渡る 布引の山 鴨長明」「布引山布引山は名山であり、また歴史舞台であった東西三里の間、布を引く如く。 春はたなびく春がすみ、夏は松の緑に映え、秋は月さえ積もる雪も美しき雪の朝、山の姿はうるはしく、春夏秋冬それぞれ趣あり。 平安の昔より阿須波道を行ききし斎王群行や、大宮人参宮の旅人によりて詩に歌によまれてきた。 有名な歌人、鴨長明もこよなくこの布引山を愛し、詠まれた歌がある。あらしふく 雲のはたての ぬきうすみ むらぎえ渡る布引の山水口大岡寺で得度された長明は歌よみの世界に技を引く。 江戸時代、東海道の大改修により道すじは変わるも東西布引にそったコースに変わりなく、近世、明治天皇明治十三年行幸の供奉池原香採のよまれし歌に ○吾が袖に 通ふも涼し 布引の 山より下す 夏の朝風 ○みゆきます 道のとばりと 見ゆる哉 布引はへし 山の姿は『大野公民館』横から田園地帯を眺めながらどれが『布引山』かと。『一人はみんなのためにみんなは一人のために』➡これぞ『ONE TEAM』!!『あいの土山観光案内図』更新が必要。『甲賀警察署 大野警察官駐在所』が右手に。この石柱には??道標であろうか。『駐在所』で?聞いてみたかったが・・・。相変わらず、ここ街道には車、人の姿はなかった。『旅籠 丸屋跡』『ぬしや』『萬塗物・泰誠堂・岡商店』。塗物を生業としていたのであろう。旧大野村・旧徳原村の家々には昔の屋号が掲げられ往時を偲ぶ。商品?の仏壇が飾られていた。『旅籠 井筒屋跡』。『旅籠 井筒屋跡』碑。『旅籠 篤居屋跡』。『旅籠 篤居屋跡』碑。『旅籠 中屋跡』。『旅籠 中屋跡』碑。『旅籠 舛屋』。『旅籠 舛屋』碑。更に『旅籠』の続く旧東海道を歩く。『旅籠 日野屋跡』。『旅籠 日野屋跡』碑。『防火水』とタイルで。『旅籠 柏屋跡』碑。街道右手に『明治天皇聖蹟』が建っていた。ここは『旅籠 小幡屋跡』であった。『旅籠 小幡屋跡』碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.15
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『地安寺』を後にすると右手に虫篭窓の付いた旧家が。その前には民家の前庭にピンクの鳥が二羽。フラミンゴであろうか。『米屋』の屋号を掛けた旧家。十字路を渡る。更に旧東海道を進む。右手にあったのが『前野保五郎旧居跡』。「前野保五郎は安永5年(1778)に頓宮村で生まれた。江戸時代には近江商人が北関東に赴いて醸造業を営むという事が多くあり、保五郎もまたそれらの近江商人の店で奉公した後、上野国(群馬県)伊勢崎で大阪屋という酒造店を開いて独立した。この店は大いに繁盛し巨富を得たが、事業はそのまま伊勢崎で続けながら、文化年間(1804-17)には頓宮村にも家を構えて居住した。やがて庄屋も勤めるようになったが、頓宮村や隣の野上野村が水不足に苦しむ様を見かねて、未完であった野上野用水の完成に力を注いだ、1200両という巨額の私財を投じ、18年の歳月をかけて文政8年(1825)に総延長7.3㎞の用水を完成させた。この用水により約2000㌶の水田が豊かに潤い、離村する者すらあった両村の困窮は解消された。この野上野用水は昭和32年の新用水完成まで利用されたが、保五郎なくては成されなかった事業として、末代まで伝えられるべきものである。」更に先に進むと左手に三角屋根の旧家がある。現在はトタン葺きであるが、かつては茅葺であった旧家であると。街道脇には「蝋梅」の花が。左手に石碑が。三角屋根の家の直ぐ先左手に、『垂水頓宮御殿跡』碑が。「垂水頓宮御殿跡伊勢神宮に伝わる 「倭姫命世記」 によると、垂仁天皇の皇女であった倭姫命は、天照大神のご神体を奉じて、その鎮座地を求めて巡行したと伝えられる。 土山町頓宮には巡行地のひとつである 「甲可日雲宮」 があったとされ、この時の殿舎がこの付近に設けられたことが 「御殿」 という地名の由来とされる。 また後世には垂水頓宮に関連する施設も造営されていたと伝えられる。」この先にあったのが『八幡屋』。『垂水頓宮御殿跡』から程なく、左手に諏訪神社があった。一の鳥居の扁額。諏訪神社は、天文11年(1542)甲賀三郎兼家が、関東から故郷に帰る途次、信濃国諏訪大社より分霊したもといわれる。境内には金刀比羅神社・山神社・稲荷社があると。この日は天候の心配もあり『諏訪神社』はパス。旧東海道沿いの民家の庭には紅梅が開花。『市場区 住宅案内図』。ここは甲賀市土山町市場。『諏訪神社』の直ぐ先右手にあったのが、浄土宗の『生徳山長泉寺』。この辺りが市場集落の中心であろう。『山門』。『浄土宗 長泉寺』寺標。『子安延命地蔵尊標石』。「はかりなき ひかりをつつむ かくれさも いちはのむらに かけとどむらん」『水子供養五重塔』。『本堂』。長泉寺の創建年代は不詳であるが、永禄元年(1558)喜伝中興と伝わり、本尊は阿弥陀如来で、延命地蔵尊も祀っていると。『観音堂』。この扁額には何と書かれていたのであろうか。『宝篋印塔』『殉国英霊碑』。多くの『五輪塔』が『殉国英霊碑』の前に。そして再び旧東海道に戻り進む。右手に石碑が。『土山地先一里塚』碑。江戸日本橋から111里目(約436km)、京三条大橋からは14番目(実測で約58km地点)。両塚とも現存せず。「東海道一里塚跡旅行者の便をはかって、街道の一里毎にその目印として設置されたのが一里塚である。 この制度が整ったのは、慶長八年(一六○三年)家康が日本橋を架設し、翌九年この橋を起点として東海、東北、北陸の諸街道を修理し、 その折三十六町毎に道の左右に相対して一里塚を築き、塚の上に榎を植えて遠くからでも望見できるよう旅行者の便をはかったことにはじまっている。 土山町内の設置場所は、山中地先、土山地先、大野市場地先であったが、現在その跡はほとんど残っていない。 塚の規模は、およそ高さ二.五メートル、円周十二メートルの大きさであったと伝えられている。 土山地先の一里塚は、土山町北土山の大森慶司宅付近にあったと伝えられ、この付近の字名は一里山と名づけられている。」前方に橋が見えて来た。『大日川堀割』碑。橋の名は『大日川橋』。『大日川(堀切川)堀割』を見る。『東海道 反野畷』碑。「大日川(堀切川)堀割往古頓宮山より流れ出る水は谷川を下り、平坦部に達すると自然に流れ広がり、このため一度大雨になると市場村、大野村方面の水害は甚しかった。 大野村は水害を防ぐ手段として、江戸時代の初期より市場村との境に堤を築き、このため、間にはさまった市場村は、洪水時甚大な被害を受けることになった。 元禄十二年(一六九九年)、市場村は排水路を堀割りし、野洲川に流すことを計画し、領主堀田豊前守に願い出て許可を受け、頓宮村境より、延長五○四間、 川幅四間の排水路工事に着工し、川敷地の提供から市場村民の総賦役により、元禄十六年(一七○三年)に完成した。」 前方に『松並木』が所々に。松の巨木も枯れてしまったのか・・・。松が1本だけ寂しそうに。樹齢何年の松であろうか。『従是東淀領』と刻まれた石碑。淀藩の領地(飛び地)であることを示す遺構。『東海道 反野畷』碑。この先、旧東海道は松並木が残る直線に。反野畷は”たんのなわて”と読むのだろう。ここから大日川堀割(土山町大野・市場境)にかけての約400m、田園の中を真っ直ぐに延びる旧東海道・畷を指している。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.14
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次頓宮の森の脇の道を進むと『明神鳥居』があり『甲可日雲宮(こうかひぐものみや)』碑が。ここが『甲可日雲宮』の東側の入口であった。現在の三重県にある伊勢神宮(皇大神宮(内宮)・豊受大神宮(外宮))が、現在地へ遷る以前、一時的に祀られたという伝承を持つ神社や場所・『元伊勢』がこの場所ではないかと。『明神鳥居』を正面から。参道を進むと正面に『二の鳥居』と扁額『日雲神社』が。『日雲神社』。この甲可日雲宮を名乗る神社はここ以外にも甲賀市内に数社あると。『倭姫命世記』の「淡海ノ甲可ノ日雲宮ニ遷りたまひ」という記述だけでは、倭姫が留まった地を絞り込むことは難しいのだ。当地には、倭姫に関する以下の伝説があるのだと。倭姫がこの地に渡られたとき、土地の甲賀翁が倭姫に冷泉を献じたという「御場泉【おんばせん】旧跡」がある。御場泉は水量豊かな泉であったので、近くに多くの建物が築かれた、その「御殿跡」がある。近くにある竜樹神社は野洲川に接して建っているが、その河原に倭姫の禊所と伝える場所がある。と。『境内社』の『稲荷神社』。ここにも『甲可日雲宮』碑が。参拝を終えて、社殿を後にする。付近には茶畑が広がっている。鳥居の前の道を右手に取ると、直ぐ側に『垂水頓宮跡』あった。『斎王垂水頓宮址(さいおうたるみとんぐうあと)』碑。『垂水頓宮跡』境内。切妻 平入り 神明造り 千木内削ぎ 鰹木6本。『史跡 垂水斎王頓宮跡』「ここ垂水斎王頓宮跡は、斎王が群行でお泊まりになられたところである。斎王制度は、今から約一三〇〇年前制定されたもので、歴代天皇がご即位されるたびに、未婚の皇女または女王の中から占いで選び出された『斎王』を天皇のご名代・天照大神の御杖代として多くの神々をお祭りする制度であった。平安時代 仁和二年(八八五年)京都から伊勢を結ぶ大道『阿須波道』ができ、翌八八六年平安京から五泊六日の群行となった。近江の国は勢多・甲賀・垂水、伊勢の国は鈴鹿・壱志の五ヵ所である。ここ垂水頓宮には三七八年間に三十一人の斎王が泊まられたという記録が残されている。斎王が宿泊された所を『頓宮』といい、仮の宮とか、にわかの宮を意味する。群行が行われるたびに建造され、終わるとすぐに解体されたので遺構が残らず所在地の限定に困難をきわめた。この垂水頓宮跡は、昭和一〇年に当時の内務省から派遣された学者たちが現地調査した結果、頓宮跡地であることが実証され、昭和一九年には文部省より唯一の国史跡として指定された。現在は周りを囲う土手・井戸跡が残っている。また、平成一〇年から『あいの土山斎王群行』として群行を再現し、顕彰に努めている。」こちらにも「史跡 垂水斎王頓宮跡ここ垂水の頓宮建立跡地は、平安時代の初期から鎌倉時代の中期頃まで、約三百八十年間、三十一人の斎王が伊勢参行の途上に宿泊された頓宮が建立された所である。斎王とは、天皇が即位される度毎に、天皇のご名代として、皇祖である天照大神の御心霊の御杖代をつとめられる皇女・女王の方で、平安時代に新しく伊勢参道がつくられると、この道を斎王群行の形でご通行されることとなった。京都から伊勢の斎宮まで、当時は五泊六日もかかり、その間、近江の国では勢多・甲賀・垂水の三ヶ所、伊勢の国では鈴鹿・一志のニヶ所で、それぞれ一泊されて斎宮まで行かれたのである。その宿泊された仮の宮を頓宮といい、現在明確に検証されている頓宮跡地は、五ヶ所のうち、ただこの垂水頓宮だけである。」「世にふれば またも越えけり 鈴鹿山 むかしの今に なるにやあらむ」 上は醍醐天皇の第四皇子重明親王の長女斎王微子女御の歌である。徴子女御は斎王として天慶元年(938)に僅か9歳で伊勢へ下向された。この時、ここ垂水頓宮に御宿泊なされ、また貞元2年(977)に斎王に卜定された娘である村上天皇の第四皇女則子内親王に母として付添い、49歳の時に再び伊勢群行に同行され、ここ垂水頓宮に2回目の宿泊をなされた節に、この歌を詠ぜられた。」神明造の社殿は伊勢神宮遷宮時の古材(瀧原宮若宮神社)だと云われている。『賜 伊勢神宮遷宮古材』の文字が。こちらが『垂水斎王頓宮』の一の鳥居。『史跡 垂水斎王頓宮址』碑。『史蹟 垂水頓宮跡』碑。『史蹟 垂水頓宮跡』碑を国道1号線から。本来はここから参拝すべきなのであったが・・・荒れ果てた参道なのであった。国道1号線を歩き前野交差点を左折すると旧東海道に合流し、右に進む。左手奥に見えたのが『瀧樹神社(たぎじんじゃ)』。石鳥居の扁額『瀧樹神社』をズームで。入口にあった案内板。「瀧樹神社この神社には、次の二つの宮が祭祀されている。一、瀧樹大明神宮この宮の主祭神は、速秋津比古之命と速秋津比咩之命という神で、この神は水門の神と云われている神様で水害を守る神である。 近くに二つの川が合流している落合があり大昔から洪水が多くその度ごとにこの近辺は大被害にあい困ったのでおまつりされた神である。一、天満宮この宮の主祭神は、学問の神と云われている菅原道真をおまつりしている宮である。 この神は、室町時代の領主が信仰された神様で氏子が学問に励み立派な村にすることを願ってまつられたものでる。この神社の祭礼日は、毎年5月3日で当日は、国の選択文化財に指定されているケンケト踊りをはじめ花奪神事や神輿の渡御が行われる盛大な祭りである。平成17年に本殿・拝殿が新築され同時に境内の全面的な整備がなされ神域の荘厳さを増している。」そのとなりに『瀧樹神社』社標。右手にも小さな神社・『牛頭天王』が茶畑の角に。『東海道 前野村 聴松園茶舗』。<『東海道 前野村 聴松園茶舗』の屋号を掲げる民家。昔はお茶屋さんだったのであろう。前野地区は、所どころに茶畑があり、のどかな町並みが続いていた。前野の地名は、瀧樹神社の前に開けた野原に由来すると。さらに前野地区の旧東海道を進むと・・。ここが『瀧樹神社』の旧東海道からの表参道の一の鳥居なのであろう。「瀧樹神社の由来この神社の由来は、約二千年前からの神聖なる地として、知られている神社である。 倭姫命が、巡幸された時、この場所に朝夕の調膳の殿舎を建立された所であり、さらには斎王群行の斎王が禊をされた川が近くにある。 平安時代の仁和元年(八八五年)に伊勢国、瀧原宮の長由介の宮の御祭神、速秋津比古之命・速秋津比咩之命の御分霊を勧請して本社の主祭神としている神社である。 室町時代の文明二年(一四七○年)には、当時の領主であった岩室主馬頭家俊と云う人が京都北野天満宮うの御祭神で学問の神と云われている菅原道真の御分霊を勧請しそれを本社に遷宮され、並宮として祭祀されている。 また延徳元年(一四八九年)には現在国の選択無形民俗文化財に指定されているケンケト踊がはじめて奉納され今日に至っている。 また平成十七年(二○○五年)には本殿・拝殿が大改修新築され同時に境内の全面的な整備がなされ、神社の一層の荘厳さを増している。 祭礼日は、毎月五月三日で当日はケンケト踊りをはじめ花奪神事・神輿の渡御も行われ盛なる祭で世に知られている。」石灯籠の参道が一の鳥居の先に続いていた。近くに二つの川が合流する落合があり、大昔から度々洪水の被害があったため、水門の神といわれる「瀧樹大明神宮」と菅原道真を祀る「天満宮」の二つの宮が祭祀されている。ケント祭りが有名だと。ケント祭りは室町時代から始まった田楽踊り(耕田儀礼)が現在に伝承された行事と。『瀧樹神社』の『定』。先に進むと右手の前野集会所の隣に、黄檗宗の『福慧山 金毛院 地安寺』があった。地安寺は、龍渓禅師による開山で皇室と縁深く、境内には後水尾法皇の像・位牌を安置した御影堂などがあった。『福慧山 地安禅寺』の寺標。『鐘楼門』の『山門』。「不許葷酒入山門」と刻んだ戒壇石を門前に置くのは禅寺の特徴。”葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず”と読み、修行の妨げとなる臭気の強いネギ・ニラ・ニンニク等の野菜と酒の入門を禁じている。山門に掛かる『福慧山』の扁額。『林丘寺宮御植栽の茶』碑が『鐘楼門』の前に。「地安寺と後水尾法皇・林丘寺宮後水尾法皇(1596-1680)は地安寺を開山した龍渓和尚に深く帰依され、その関りから崩御の後、皇女の照山元遥尼(1634-1727・出家前の名は朱宮光子内親王)から法皇の木像と位牌が地安寺に下附された。また地安寺には特に金毛院という院号が授けられ、法皇の三回忌には尼直筆の観音経が納められた。法皇は京都の修学院離宮を造営され、その隣には光子内親王の山荘が建てられていたが、法皇崩御の後に林丘寺という尼寺に改められ、内親王は出家された。林丘寺は尼門跡寺院として後には音羽御所とも呼ばれた。またその寺名から照山元遥尼は林丘寺宮とも呼ばれ、和歌と画に長けた方であった。法皇の木像が納められている御影堂が境内に建てられた頃、この鐘楼門前の参道両脇には林丘寺宮が茶の木を植栽され、毎年1月、5月、10月にはここで収穫された茶葉が鈴渓茶・仁泉茶の銘で林丘寺に献納されていた。この茶畑は昭和の初めまで栽培されていたが、現在ではここにある一樹のみが記念として残されている。」様々な五輪塔。『手水舎』。『境内』。『地安寺本堂』。本堂に掛かる『金毛院』・『福慧山』の扁額。『甲賀西国第二十六番札所 福慧山 地安寺 御詠歌』「ふくえたら のやまさとざと おしなべて たみのちやすく すむべかりけり」『御影堂』。『御影堂』碑。「御影堂前野の地安寺には、後水尾法皇の御影御位牌が安置されている。後水尾法皇は慶長元年(1596)、後陽成天皇の第三皇子として生まれ、慶長16年、16歳の若さで即位された。徳川幕府が成立していく中で、天皇になられたが、寛永6年(1629)、明正天皇に皇位を譲られ、34歳で上皇になられた。翌年、御生母中和門院が56歳で崩ぜられ、この頃から法皇と禅僧のかかわりあいは一層深くなられた。特に地安寺開山の龍渓禅師への帰依は深く、宇治黄檗開山にあたっては、龍渓和尚を通じ、地位も名誉も放棄して大事業に邁進された。遂には龍渓和尚の禅法をつがれたが、延宝8年、85歳の高齢で逝去された。元禄11年(1698)、普明院(法皇の第一皇女)の意向により、法皇の像、位牌を下附され、その安置所として宝永5年(1708)、地安寺境内に建立された。」『経蔵』?。『地蔵堂』。『地蔵菩薩』。『子安地蔵尊』。『忠霊塔』。『本堂』前から『鐘楼門の山門』を見る。帰路に『鐘楼門』を見上げる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.13
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『常明寺』を後にし、『土山宿』を更に進む。左手に『きくや』。左手には大きな空き地が。ここには『米庄』があったのだ。『東海道土山宿 灰屋跡』の屋号を掲げる民家。江戸時代には炭や薪の燃えかすである灰を買い集めて転売する商人がいたのであろう。『土山宿旅籠 藤屋跡』『米屋 辻右衛門』。『千切屋跡』。現在は『株式会社 水谷実商店』。『土山宿旅籠 竹屋跡』碑。『みどり屋』跡であろうか。暫く進むと左手に『土山宿案内図』。右手に『土山宿 旅籠 常磐屋跡』。『土山宿 旅籠 常磐屋跡』碑。更に進むと右手に『天理教 土山分教会』。国道1号線に合流する『南土山』交差点手前右側には大きな常夜燈が白壁の向こう側に。ここが『土山宿』の西の外れ。「東海道土山宿土山町は、平安時代に伊勢参宮道が鈴鹿峠をこえる旧東海道筋を通るようになって以来、難所を控える宿駅として発達してきた。 源頼朝が幕府を鎌倉に開くと従来の京都中心の交通路は、京都と鎌倉とを結ぶ東西交通路線が一層重要視されるようになり、武士の往来のみならず商人、 庶民の通行も以前に増して盛んになった。 とくに江戸幕府は、伝馬制度を整備し、宿駅を全国的規模で設け、土山宿は、東海道五十三次の第四十九番目の宿駅に指定されてから、宿場町として真に隆盛しはじめた。 宿場の主体をなしたのは御役町で、そこには公用人馬の継立てなどをつかさどる問屋場、公用者の宿泊などのための本陣、脇本陣やそのほか公用にあたるものが住み、 幕府は御役町の保護のために、地子の免除その他の特権を与えていた。 この御役町を中心に一般の旅人のための旅籠や店、茶屋などがあり、全体が街道のわきに細長く宿場町を形成していた。」『東海道 土山宿』碑と万人講と刻まれた『常夜燈』であった。『南土山』交差点を渡り左に折れ、国道1号線を進む。国道を横断すると右側の店と左の駐車場の間に細い道があり、道の左端に二基の道標が。左の石柱:『たかのよつぎかんおんみち』と刻み、高野の世継観音(永源寺)へ至る道であることを示す小さな方の右の道標は文化4年(1807年)建立の「右 北国たか街道 ひの八まんみち 」と刻まれていたが、日野・八幡を経て多賀大社や北国街道へ至る道であることを示すと。ここが「東海道」と「御代参街道(ごだいさんかいどう)」との追分だった場所。御代参街道の起点の道標という。伊勢神宮などへ公家の代りに参拝する人々が通った道と言われるとのこと。道標『高埜世継観音道』が右、そして『御代参街道』が左のそれぞれ裏側に。「道標 御代参街道起点この道標の左に進む小路が旧御代参街道で、右糾めに進む道が旧東海道である。 御代参街道は東海道土山宿のこの地点から笹尾峠を越え、鎌掛、八日市を経て、中山道愛知川海宿手前の小幡まての十里余りの脇往還である。 この道は中世においても重要な間道であったが、正式な脇往還として整備されたのは十七世紀のことである。 寛永十七年(一六四○年)、三代将軍家光の乳母の春日局が将軍の名代として多賀大社へ参拝し、この道を通って伊勢神宮へ参詣された際に、この道は整備拡張されたといわれている。 江戸時代には、皇族が毎年伊勢神宮と多賀大社へ名代を派遣する習わしがあり、京から伊勢神宮へ詣で、 帰路土山宿から多賀大社へはこの道が利用されたことから御代参街道と呼ばれるようになった。 ここに建つ二本の石造道標は、一つは天明八年(一七八八年)に建立されたもので「たかのよつぎかんおんみち」と刻まれており、高野の世継観音(永源寺)への案内の意味である。 もう一つの石標には「右、北国たが街道、ひの、八まんみち」文化四年(一八○七年)と刻まれており、日野、八幡、また多賀大社や北国街道へ続く道であることを意味している。」 この路地の先にあったのが『見性庵廃寺跡』碑。北土山の永雲寺の末寺、見性庵という寺院跡。明治初期に廃寺となったのだと。前方にY字路が。国道1号線と別れ、右の細い旧東海道を進む。旧土山宿滝町を行く旧東海道を進むと右手には連子格子の旧宅が。家並みが切れた場所に『「ようこそ「歴史の道」東海道へ』案内板。ここは土山町滝町です。 これより、東海道は、往時、野洲川を横切っておりましたが現在は通行出来ません。 左図に示すとおり、国道1号へ迂回いただき、「歌声橋」をお渡り下さい。 土山を訪れていただいた皆様のご無事をお祈りいたします。」『歴史の道 東海道 京⇔土山宿⇔江戸』。「ご注意この案内板は、往時の道を表しています。現在は野洲川を渡ることが出来ませんので、これより西へ歩かれる方は下記のとおり、国道1号へ迂回し、歌声橋を渡って下さい。」と親切にも。この先が、かっての旧東海道で『野洲川』の渡し場に続いていたのであった。土山宿の西端は三年坂と言っていた。坂の途中右側に馬頭観音の祠があり、やがては広い河原へと下る。川の名前を『松尾川』と言っていたと。この川は江戸時代、冬期は土橋がかかっていたが、3月から9月末までは徒歩で渡っていたと。川を渡って登る坂を『灰俵坂』と言ったと。左に折れ、国道1号線に向かう。この先で国道1号線に合流した。Y字路国道1号線に出たら、直ぐに左の細い道を進んで行った。『道祖神』。更に進むと、車の入れない遊歩道が。その先にあったのがアクリルの円形屋根のついた『歌声橋』。『歌声橋』から『野洲川』そして国道1号線に架かる『白川橋』を見る。この橋が国道1号線から野洲川を見られる最後のポイントと。『歌声橋』を渡り直ぐに右手に折れ、『野洲川』沿いを進み国道1号線交差点を渡り茶畑の横を更に進む。道路沿いにあったのが『縣社 瀧樹神社』の石碑。そして右側に旧『松尾川』・現『野洲川』に下る坂道・『灰俵坂』があった。この先に旧『松尾川』の渡し場があったのであろう。途中に石碑が一基、旧東海道の証であるかの如く建っていた。建立年代は不明と。鈴鹿馬子唄・「坂はてるてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る」。現在は先程渡った、明治初期に敷設された『歌声橋』ルートが推奨されており、ここを訪れる人は少ないと思われる。『松尾川(野洲川)』が見通せる場所からは、この先には史跡等は無いようであった。そして坂の途中に柵が設けられ立ち入りできない模様。左に折れ『松之尾』地区の旧東海道を進む。「1806年に幕府が出している「分間延絵図」という街道の絵図では、松尾村の南側には40棟、北側に20棟、戸数にして40戸ほどの家が建ち並び、村の中ほどに高札場もあったことが描かれている。また、茶店も数軒あり、今の松尾村の民家の数からみると想像しがたいが、かなり賑わった立場であったことが推測される。『諸国道中旅鏡』(1848年)には、「いもがけどうふ有、道中二番目の名物と云」また、『諸国道中袖鏡』(1839年)には、「めんるい有、道中二番目の名物と云」そして『道中記』(1857年)には「松野尾村まいの村、甘酒有」などと松尾の茶屋が多く紹介されている。そして松尾から前野までところどころに茶屋があったことも分かる。1879年(明治12年)3月、現在の国道1号の白川橋の約50m下流に新道を開いて新しい橋が架けられると、人と物の流れも大きく変化し、松尾村の立場としての賑わいも徐々に過去のものとなっていった。」 と。ここが『野洲川』を渡った先の旧東海道・「松野尾村」であったのだ。茶畑の前の少し高いところには小さな祠が。旧東海道からこの後訪ねた『甲可日雲宮』に続く参道がこの祠の先にあったのだろうか。電信柱には『第二十回 関西茶品評会 一等 入賞茶畑』の表示が。『一等 入賞茶畑』がこの茶畑であろうか。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.12
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『土山中央公民館』の斜め前の駐車場?角にあった『土山宿案内図』。『土山宿案内図』。『現在地』を接写で。『土山宿 旅籠 山村屋跡』。『土山宿 旅籠 山村屋跡』碑。右側に『東海道 土山宿 日野屋太郎左ヱ門』。こちらも、表札には『土山』の文字が。空き地(駐車場)入り口の屋根付きの木製門には『油屋跡』の木札が。『土山宿 旅籠 中嶋屋跡』碑。『東海道 土山宿 岩田屋跡』。江戸時代は豪農岩田屋の家だったが、明治になって前田家が入り製茶業を始めたという老舗。現在は『前田製茶本店』。『一の松通り』・岩村北土山線手前の案内柱。『一の松通り』を渡る。渡った先右手には『高桑闌更(たかくわらんこう)句碑』があった。「土山や 唄にもうたふ はつしぐれ」。「土山や 唄にもうたふ はつしぐれ作者 高桑闌更 俳人 享保十一年(一七二六)~寛政十年(一七九八) 加賀国金沢(石川県金沢市)に生まれる。 生家は屋号釣瓶屋という商家。 本名忠保(または正保)、通称は長次郎。 俳諧を和田希因に学び、蕉風の復興に努め、与謝蕪村らとともに、俳諧中興に貢献。 後年、医を業としながら京都東山双林寺内に芭蕉像を安置する芭蕉堂を営む。 芭蕉関係の俳書を翻刻、注釈するなど功績をあげた。 俳風は温和高雅。 門下から桜井梅室や土山に縁のある虚白禅師等を輩出する。 代表的な句集や編書に「半化坊発句集」「落葉考」「芭蕉翁消息集」「花の故事」「深川集」などがある。」『一の松通り』石碑と通り。その先に『井戸』が屋根付きで。側には消火栓が。その手前にあったのが『土山問屋場跡』碑と『大黒屋本陣跡』碑が並んで立っていた。「大黒屋本陣土山宿の本陣は、土山氏文書の「本陣宿の事」によって、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山氏と土山宿の豪商大黒屋立岡氏の両氏が勤めていたことがわかる。 土山本陣は、寛永十一年(一六三四年)三代将軍家光が上洛の際設けたのがそのはじまりであるが、参勤交代制の施行以来諸大名の休泊者が増加し、 土山本陣のみでは収容しきれなくなり、土山宿の豪商大黒屋立岡氏に控本陣が指定された。 大黒屋本陣の設立年代のついては、はっきりと判らないが、旅籠屋として繁盛した大黒屋が土山本陣の補佐宿となっている。 古地図によると、当本陣に規模は、土山本陣のように、門玄関、大広間、上段間をはじめ多数の間を具備し、宿場に壮観を与えるほどの広大な建築であることが想像できる。」『高札場跡』碑。奥にあったのが『明治天皇聖蹟』碑。同じく『巌稲荷神社跡』碑。この基礎の上に『巌稲荷神社跡』の社殿があったのだろうか。焼失してしまったのか?右手に『土山宿 旅籠 古め屋跡』左手に『土山宿陣屋跡』。「土山宿陣屋跡陣屋とは、江戸時代勘定奉行の配下である代官が在住した屋敷である。 ここ土山の陣屋は天和三年(一六八三)、当時の代官であった猪飼次郎兵衛のときに建造されており、瀬古川の東崖にあり、 東西二十五間、南北三十間の広さがあったといわれる。 以降代官は入れ替わったが、宝永三年(一七○六)からは、多羅尾四郎右衛門に、そして明和八年(一七七一)より岩出陣右衛門らに引き継がれ、 天明二年(1一七八二)より、再び多羅尾氏に引き継がれていたが、寛政十二年(一八○○)の土山宿の大火災で屋敷は類焼し、以後再建されず、百二十年の屋敷の歴史を閉じた。 以来、陣屋は信楽に移り、多羅尾氏の子孫が世襲し、明治維新に至っている。」そして前方に欄干が白い橋が姿を現した。右手の橋の屋根付きの欄干。この橋には、鈴鹿馬子唄の一節とそれを表現した絵が陶板になって張られていた。橋の名は『大黒橋』。元々は土橋だったが江戸時代末期から明治初期にかけての頃、旅籠の大黒屋立岡長兵衛によって石橋に架け替えられ、以来『大黒橋』の名が付いたという。「坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る」の歌詞が桜の木の下を進む馬子の絵とともに。桜の木の下を。「鈴鹿馬子唄 坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る」鈴鹿峠を登る姿。川の名は『吉川』。夕焼けに赤く染まる『鈴鹿峠』と『万人講灯籠常夜灯』。「鈴鹿馬子唄 鈴鹿山には 霞がかかる 可愛いい娘にや 目がかかる」『土山宿』の馬子。『土山宿』で荷物を馬に積み込む姿。『岩田屋亀五郎跡』。左手の路地に入り『常明寺』を訪ねた。白壁の塀沿いに進む。『開基元明天皇 國寶大般若經 常明禅寺』寺標。『山門』。『山門』前の石碑群。『禅俳僧虚白住寺跡』碑。『禅俳僧虚白住寺跡』碑。「禅俳僧虚白住寺跡虚白は、僧名を松堂慧喬といい、安永二年(一七七三年)、京都の神官の子として生まれ、少年時代を常明寺で過ごした後、京都や鎌倉で雲水生活を送りました。 この修行時代に俳諧を志し、京都で芭蕉堂を営む高桑蘭更の門人となり、桜井梅室らと交流しました。 文化四年(一八○七年)、常明寺十五代住持職となり、寺門の興隆と檀家の強化に意を注ぐかたわら、俳人として活動し「浮巣社」を主催、三好赤甫など多くの門人の指導にあたりました。 また、南土山の五瀬に草庵を結び、「猥芋軒」と名付けて隠遁生活を送り、禅俳一如の境地に至りました。 後、天保六年(一八三五年)に東福寺、天保十四年(一八四三年)に南禅寺の住持職に任ぜられ、 紫衣を赦されるまでになり、弘化四年(一八四七年)七十四歳で東福寺にて亡くなりました。 辞世句 おほけなき 床の錦や 散り紅葉」境内にあった『森白仙の供養塔』森白仙は津和野藩医。森鴎外の祖父。文久元年(1861年)参勤交代で江戸に滞在中に病となり、江戸で養生して藩主に遅れて帰国途中に土山宿旅籠 井筒屋で発病し文久元年(1861年)11月7日に病死。「森鴎外と常明寺鴎外の祖父白仙は、津和野藩主の参勤交代に従って江戸へ出たが、帰国の際に発病し、遅れて国もとへ向かう途中、ここ土山で病死した。 万延元年(一八六○年)十一月七日である。遺骸は常明寺の墓地に葬られた。 鴎外は祖父への思慕深く、小倉在住時代、明治三十三年軍医部長会出席のため上京の途中、土山に立ち寄り、常明寺を訪れた。 荒れ果てた墓を探し当てた鴎外は、住職固道に願い出て、墓を境内に修した。 明治三十九年に祖母きよが、大正五年には母ミネが没。遺言により常明寺に葬られた。 鴎外は祖父母と母の遺跡に心を尽くし、「維時大正七年三月新添 施主東京森林太郎」と墨書された錦の段通を寄贈している。 昭和二十八年、三人の墓は津和野の永明寺に移されたが、今は昭和昭和六十三年に鴎外の子孫により建立された供養塔が立っている。」『山門』前から。。「常明寺臨済宗東福寺派の寺院。 和銅年間の建立と伝えられ、貞和五(一三四九)年鈍翁了愚が九条経教の命を受け中興した。 一時兵火により焼失したが、延宝年間(一六七三~一六八一)に再建された。 当寺の住持であった松堂慧喬(号虚白)(一七七三~一八四七)は俳人としても活躍し、地域の俳壇で指導的立場にあった。 境内には芭蕉の句碑「さみだれに 鳰のうき巣を 見にゆかむ」がある。 寺蔵の大般若波羅蜜多経は奈良時代のもので、長屋王願経として国宝に指定されている。 また、墓地にはこの地で没した森鴎外の祖父森白仙の供養碑が建てられている。」『由緒』。山号 瑞宝山 常明寺宗派 臨済宗 東福寺派本尊 阿弥陀如来脇本陣 不動明王 毘沙門天開山 鈍翁了愚禅師(東福寺第二十一世)什宝 大菩薩経 二十七巻(紙本墨書) 和銅五年 長屋王直筆の写経 国宝指定沿革 四十三代女帝元明天王が、先帝文武天皇の菩提の為に建立、和銅七年完成。 鎌倉期を経て正平四年(一三四九)東福寺聖一国師の法孫鈍翁了愚禅師が 関白九条経教の請により五瀬の地より現在地に移転。禅師は茶の製法を伝え 土山茶の茶祖と云われる。中興開山十五世松堂慧喬(号虎白)は俳人として 活躍。東福寺第二十六世にも就任。以前の堂宇は江戸時代、延宝年間 (三百四十年前)の建物であったが破損が激しく、星和電機代表取締役 増山義三郎氏(京都府)の発願により、檀信徒一致協力し諸堂建立。 平成十二年十一月三日落成大法要厳修す。常明寺ご本尊阿弥陀如来御詠歌十悪の わが身をすてて そのままに 浄土の寺へ まいりこそすれ『瑞寶山 湖東禅林 常明寺』。『鐘楼』。『本堂』。(1)寺名:常明寺(じょうみょうじ)(2)住所:滋賀県甲賀市土山町南土山甲531(3)山号:瑞宝山 (4)宗派:臨済宗東福寺派(5)開基:元明天皇 (6)開創:708~715年(7)中興:鈍翁禅師 1349年 (8)本尊:阿弥陀如来(9)その他 1)大般若経(長屋王願経)27帖:国宝 712年 長屋王願主の写経 2)土山茶発祥の地 3)芭蕉句碑:さみだれに鳰のうき巣を見にゆかむ 4)森鴎外の祖父白仙の供養塔『本堂』の扁額は『瑞寶山』。『子安地蔵尊』。その後ろに『芭蕉句碑』。「五月雨に 鳰の浮巣を 見にゆかん」。いま五月雨の季節、さぞや琵琶湖ではいまごろ鳰が葦の根方に巣を作っていることであろう。それを見に行くよ、と。貞享4年(1687)芭蕉44歳の時に詠まれたもの。『観音像』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.11
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は2020年2月22日(土)、宿泊ホテルの朝食を6:30から取る。東京・日本橋から『旧東海道を歩く』の29日目(移動日を除く)の朝。ホテルのフロント。宿泊者はこの時期少なかった。そして7時過ぎに予約していたタクシーに乗り貴生川駅に向かう。貴生川駅から7:30発のバスに乗り換え前日も利用した「近江土山駅」に向かう。途中、国道1号線・「土山支所」交差点角にあった、日本一の大きい自然石の石灯籠・『平成万人灯』を車窓から見る。自然石の灯篭では日本一の大きさを誇り、旧土山宿場町のシンボルになっていると。 夜間は火袋が点灯し、周囲から全体をライトアップし、国道1号線を昼も夜も往来する人々の安全を祈願して建設されたのだと。平成3年に甲賀市役所土山支所前国道1号線沿いに建立された、旧宿場町を偲ぶ石灯籠。例の「ふるさと創生資金」がつぎ込まれたのだと。石種・・・白御影石(岐阜県恵那郡蛭川村産)高さ・・・9.33メートル(基礎上)重さ・・・156.8トン甲賀の町のシンボルとして、地域の住民にも深く愛されている石灯籠であると。『平成万人灯』碑をズームで。「私たちは、郷土に深い愛着をもって土山町を“あいの土山”と呼びます。これは、鈴鹿馬子唄によって唄い継がれきた大きな遺産です。そこで土山が宿場町であったことをシンボル化し、日本一のモニュメントを造ろうと考えました。鈴鹿峠には旅の往来の安全を祈願し、江戸中期に建立された「万人講常夜燈(高さ5m、重量38t)と称する石灯籠が現存しています。その心を平成に生かさんと、完成したのが「平成万人灯」です。この「平成万人灯」自然の石としては日本一の大きさで、夜間には火袋に明かりが燈され、またライトアップし昼夜を問わず往来の人々の目を楽しませています。」組み立てられている石のそれぞれの大きさそして重量が絵とともに示されていた。『平成万人灯』と刻まれた巨石が横に。その前には『土山町一??』碑。そして『近江土山駅』であいくるバスを下車。乗って来たバスを見送る。そして『土山宿』の旧東海道沿いの街並みに向かって進む。前日に訪ねた『東海道伝馬館』横を通り振り返る。旧東海道の正面の八百屋は既に開店していた。時間は8:06。店の中にあったこの金魚水槽は店主の趣味なのであろう。400年に渡って『八百屋』を営んで来たのであろうか。『八百屋』前から、これから歩いて行く『土山宿』の街並みを見る。右手奥の緑地にはアンパンマンの姿が。右手の板塀には『平野屋前右衛門跡』、『大内屋跡』と表示された木札が掲げられていた。しかし板塀の中は空き地であった。この朝も人の姿はなし。右手には『油佐』の木札が。その先には石碑が。本陣から小路を挟んで隣にある土山宿問屋宅跡。こちらも本陣に負けず劣らずの風格ある佇まい。油屋佐平治の名で代々松山家が問屋職を務めた。木札『東海道土山宿 油佐』。『土山宿 問屋宅跡』碑が『油佐』の横の路地角に。「土山宿問屋宅跡近世の宿場で、人馬の継立や公用旅行者の休泊施設の差配などの宿駅業務を行うのが宿役人である。問屋はその管理運営を取りしきった宿役人の責任者のことで、宿に一名から数名程度おり庄屋などを兼務するものもあった。宿役人には、問屋のほかに年寄・帳付・馬指・人足指などがあり問屋場で業務を行っていた。土山宿は、東海道をはさんで北土山村・南土山村の二村が並立する二つの行政組織が存在した。土山宿の問屋は、この両村をまとめて宿駅業務を運営していく重要な役割を果たした。」左手奥に『天理教 碧東分教会』。『土山宿本陣跡』は修復工事中。表札には『土山』の文字が。本陣の初代から脈々と『土山家』が続いているのであろう。『土山宿本陣跡』碑。「土山宿本陣跡土山宿は、東海道の基点である江戸日本橋より、百六里三十二町、終点京都三条大橋まで十五里十七町余の位置にある。土山宿本陣は、寛永十一年(1634)、三代将軍徳川家光が上洛の際設けられた。土山氏文書の「本陣職之事」によってわかるように、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山喜左衛門を初代としてこれを勤めた。本陣は当時の大名・旗本・公家・勅使等が宿泊したもので、屋内には現在でも当時使用されていたものが数多く保存されており、宿帳から多くの諸大名が宿泊したことを知ることができる。明治時代になると、皇室の東京・京都間の往来も頻繁となり、土山宿にご宿泊されることもしばしばであった。なかでも明治元年九月、天皇幸行の際には、この本陣で誕生日を迎えられて、第一回天長節が行われ、土山の住民に対し、神酒・鯣が下賜され、今なお土山の誇りとして語りつがれている。本陣は、明治維新で大名の保護を失い、明治三年(1870)宿駅制度の廃止に伴いなくなった。」『土山宿本陣跡』前から街道を見る。『土山宿本陣跡』の隣りにあった石碑は『哲学者井上圓了の漢詩』碑。そしてその奥に『明治天皇聖蹟』碑。『明治天皇聖蹟』碑。『鈴鹿山西古駅亭秋風一夜鳳輿停 維新正是天長節恩賜酒肴今当馨 土山駅先帝行在所即吟 井上圓了道人』「漢詩の読み 鈴鹿山の西に、古よりの駅亭あり。 秋風の一夜、鳳輿(ほうよ)停る。 維新の正に是、天長節なり。 恩賜の酒肴を今尚馨る。 土山駅先帝行在所即吟 井上圓了道人解 説この漢詩は、大正三年、佛教哲学者で有名なる井上圓了博士がたまたま、土山本陣跡に来られた時、 第十代の本陣職であった土山盛美氏が、この本陣について説明された中に、この本陣に明治天皇が明治元年九月二十二日の夜に一泊なされ、その日が偶然にも天皇即位最初の誕生日に当たり、 次の日この本陣で祝賀式が挙行され、祝として土山の住民全戸へ酒・肴を御下賜あった事を述べると、井上博士は非常に感激して、 即座にこの漢詩を書置かれたものである。」左手に『土山宿 旅篭 俵屋跡』碑。『旧本陣➡』『土山宿旅籠 近江屋跡』の門。この辺りは土山本陣や問屋宅がある土山宿の中心部。旧東海道沿いは宿場町らしい往時の面影を留める景観。『土山宿旅籠 近江屋跡』碑。『土山宿旅籠 山形屋跡』『土山宿 旅籠 山形屋跡』。左手の空き地には何屋があったのであろうか。右手にも空き地が。左手に『土山宿 旅籠 山田屋跡』碑。左手に『土山中央公民館』。『土山中央公民館』は扁額のごとし。『林羅山の漢詩碑』。『林羅山の漢詩と解読と解説』。「(解読) 行李 東西 久しく旅居す 風光 日夜 郷閭を憶ふ 梅花に馬を繋ぐ 土山の上 知んぬ是崔嵬か 知んぬ是岨か(意味) 東から西、西から東へと長く旅していると、途中のいろんな景色を目にする度に、 故郷のことを想い起こす。 さて、今、梅花に馬を繋ぎとめているのは土山というところである。 いったい、土山は、土の山に石がごろごろしているのだろうか、石の山に土が かぶさっているのだろう。(解説) 作者、林羅山は、徳川幕府に仕えた江戸前期の儒学者。号を道春という。 家康没後の元和二年(1616年)、羅山三十四歳のとき、江戸を出発し、東海道を経て 故郷の京都へ向かう。 この詩は、途中の土山で詠んだもので、この間の紀行記『丙辰紀行』に掲載されており、 その前文に「『釋鈷毛傳』などに石山を土の山とよみ、土山を石の山とよむことを思いて」 この詩を詠んだとある。」公民館の中の展示品を楽しむ。『趣味の焼物』。『盆栽』。土山出身の乗物絵本作家『安井小弥太』の作品が展示されていた。折り紙作品の数々。お雛様。『安井小弥太』の紹介も。美しい青いバラの花は和紙で。『ようこそ 土山宿へ』。『歌川広重 東海道五十三次之内 土山 春之雨 』や私の手にもあった『土山宿 絵地図』が。土山公民館玄関前にある石柱は『宿場のけごみ』と。「けごみ」とは「蹴込み」のことで、足を止める所・足を休める所という意味。よって「宿場のけごみ」は、宿場の中の足置場(足を休める所)という意味で「どうぞ、ここで一服していってください」という意味の歓迎の石柱であるのだ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.10
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次三階に上がるとここに展示されているのは「盆景」。直径50cmほどの楕円形のお盆の上に、広重の東海道五十三次の絵とともに、広重の絵をそのまま立体化して、旅人で賑わう街道の様子を再現していたのであった。江戸の日本橋から始まり、東海道53次、そして京都まで、合計55ヶ所の盆景。これらの作品は、ひとりの方が趣味で造られ、ここに寄贈されたのだと。左から「日本橋」、「品川」、「川崎」、「神奈川」「川崎」、「神奈川、「保土ヶ谷」、「戸塚」。「保土ヶ谷」、「戸塚」、「藤澤」、「平塚」。そして我が家のある『藤澤』に近づいて。「三島」~「原」。「吉原」~「興津」。「由比」~「府中」。「安倍川」~「藤枝」。「嶋田」~「掛川」。「金谷」~「濱松」。「舞阪」~「二川」。「吉田」~「岡崎」「岡崎」~「桑名」。「池鯉鮒」~「庄野」。「四日市」~「関」。そしてこの地『土山』。「水口」~「京都」。『ご自由に旅姿の衣装で記念写真をどうぞ』。『旅装束』。「江戸時代は街道や宿が整備され.旅はいくぶんか身近なものになりましたか.当時は徒歩での旅が一般釣で、治安の面や多くの費用もかかることから、ずいぷん決心のいることでした.庶民の旅では、檀那寺や町・村役人に届け出て、本人の名前と旅の目的や行き先が記された往来手形を発行してもらわなければなりませんでした.旅のもちもの物にはこの他に、お金・矢立・手帳・提灯・火付道具・薬などがありますが、道中が徒歩なので、持ち物は小さく実用的に工夫されていました.装束も歩きやすいように、男性は着物のすそを上げで股引きをはき、脚にはi脚絆をつけて草履をはきました.頭には菅笠、手には手甲、振り分け荷物を肩に背負いました。女性は、着物のすそを短くし脚半に草履履き、菅笠を被り手甲をはめていました。」1階に戻るとミニサイズの雛飾り人形が。こちらにも。『東海道の土山宿』案内板。「土山は、古くから近江国と伊勢国とを結ぶ交通の要衝として機能していました。「土山」という地名は、中世の紀行文の中に見え、室町時代承応31年(1424)の『室町殿伊勢参宮記』には「つち山と申所こえ侍るに---」との記述があり、その頃から街道筋に集落を形作っていたと考えられる。また、室町時代後期の記録には、保内商人が荷を運ぶための馬を土山の馬方に依頼するという内容があり、荷物運搬の中継地点として機能していたようです。文禄4年(1595)には土山郷の伝馬飼料にあてるため、屋敷年貢の内より30石を免除する通達が置かれていたことがわかる。慶長6年(1601)東海道の整備によって宿に定められ、伝馬36疋の常備が命ぜられた。交通量の増加に伴い、その後は伝馬100疋、人足100人に改められた。土山宿は東海道49番目の宿で、その規模は、天保14年(1843)の『東海道宿村大概帳』によると、宿高1348石余、家数351軒、人数1505人、本陣2軒、旅籠屋44軒とある。宿は幕府領で、代官による統治を受けていた。宿の中心は中町から吉川町にかけてで、本陣・問屋場・陣屋・高札場などの施設があり、宿内の一里山町には街道の両側に一里塚が設けられていた。また、土山宿から日野・八日市を経て中山道小幡までをつなぐ御大参街道が通り、多賀大社の参詣や北国への近道として利用された。」『あいの土山 峠を越えて』案内板。「土山を称した言葉に「あいの土山」があります。 「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」と鈴鹿馬子唄に歌われるこの言葉にはさまざまな解釈があります。鈴鹿峠をはさみ、坂(坂下宿)と相対する土山と(土山宿)という説、「あいのう」が北伊勢地方の方言で「まもなく」という意味があるので、「まもなく土山は雨が降る」という意味、また、坂は野洲川西岸の松尾坂で、鈴鹿峠との間の土山という説など、いずれも土山を訪れた人々か観しみを込めてよんだ言葉かもしれません。鈴鹿峠は東海遠の中でも箱根に次ぐ難所でした。特に伊勢側からの上りはけわしく、旅人たちは苦労したようです。そんな中、人や荷物を運搬する馬子たちは重宝され大いに活躍しまLた。鈴鹿馬子唄はそんな馬子たちの労働歌として生まれ、後に人形浄瑠璃や歌舞伎の演目の中で唄われ広く知られることとなりました。士山を描いたに図に雨の風景が多いのは、この馬子唄の影響かもしれません。」『江戸時代と東海道』「東海道という名称は古くからあり、701年に完成した大宝律令の中では、古代の行政区画とその地域を通る官道である五畿七道の一つとして記されています。関ケ原の合戦に勝利した徳川家康は、江戸を中心とした交通網の整備に着手し、東海道・中山道日光街道・奥州道中・甲州道中の五街道と呼ばれる主要街道を定めました。各街道には宿を設置し、公用の人や荷物を宿から宿へ継ぎ送るための伝馬や人足を常備させました。街道の整備によって、物資の流通は拡大し、参勤交代や社寺参詣など人々の通行が盛んになり、江戸時代の交通は飛躍的に発展していきました。東海道は。慶長6年(1601)に宿駅制度か定められ、江戸と京・大坂を結ぶ主要街道として機能しました。江戸から京までの126里余(約492km)に53宿を置き、大坂までは大津宿から4宿を経る行程で、江戸からは137里余(約535km)の距離でした。山間を行く中山道と比べると、距離か短く標高も低い道中すが難所も多く箱根や宇津ノ谷、鈴鹿峠といった山越えや箱根と新居の二つ関所、今切の渡・七里の渡などがあり・・・・・以下は??」そしてこの日の『土山宿』の散策はここまでとし、『東海道伝馬館』の横の路地を通り国道1号線沿いのバス停『近江土山駅』に到着。明日の行程を考えるとここ土山宿に宿泊したかったのだが、旅館・ホテルがないため今夜のホテルは甲賀市水口町に確保したのであった。この辺りは鉄道によるアクセスがないためバス利用だけ。初めての土地でもありネットで事前に検討していたのであった。駅員の女性にJR関西線の関駅に戻りたい旨の話をすると、16:23発の貴生川(きぶがわ)行きのバスに乗ると良いと教えて頂いたのであった。バス停の待合室でしばしバスの到着を待つ。『あいくるバス通行路線図』。ここにも、外国人用にコロナウィルスの案内表示が英文で。3月22日に『あいの土山 斎王群行』祭りが行われると。しかし、今年はやはり・・・・・。『信楽焼』の展示会の案内。そして定刻に到着したバスに乗り貴生川駅に向かったのであった。40min程で貴生川駅に到着しバスを降りる。明朝も同じバスで逆コースで近江土山駅に向かうので、バスの時刻表・7:30発の大河原行きをを確認したのであった。そして貴生川駅の階段を登る。駅の橋上通路の『水口名勝パネル』。草津線の柘植行きの電車まで40分近くあるので、駅近くの喫茶店でコーヒーを飲む。駅前広場にあった裸婦像のタイトルは『躍動』。『ようこそ忍びの里へ』甲賀市のポスター。そしてこちらの階段にも忍者の姿が。『忍者階段』がつづく。草津線の電車。貴生川駅の改札口。『JR貴生川駅』さすがに甲賀忍者の駅。草津線の電車に乗り柘植駅に向かう。柘植駅で関西本線に乗り換え、車の置いてある関駅に向かう。そして貴生川駅か40min程で関駅に到着。時間は18:26。駐車場に行き、旅友の愛車に乗り換え、この日に宿・甲賀市水口町北内貴にある『グリーンヒル サントピア』に向かい、1時間ほどの19:30過ぎに無事到着したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.09
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次右手奥に見えたのが、土山宿や東海道についての展示や特産品販売・体験工房のある資料館『東海道伝馬館』。旧東海道からの入口にあったのが『問屋場 成道学校跡』。「問屋場跡問屋場は、公用通行の客や荷物の人馬継立、宿泊施設の世話、助郷役の手配など宿にかかわる業務を行う場所で、宿の管理をつかさどる問屋とそれを補佐する年寄、業務の記録を行う帳付、人馬に人や荷物を振り分ける馬指・人足指らの役人が詰めていた。土山宿の問屋場は、中町と吉田町にあったとされるが、問屋宅に設けられていたこともあり、時代とと共にその場所は移り変わってきた。明治時代の宿駅制度の廃止にともない問屋場も廃止されたが、その施設は成道学校として利用された。」『あいの土山観光案内図』。『東海道 伝馬館』入口。伝馬とは江戸時代、諸街道の宿場に常備され、幕府の書簡や荷物を継ぎ送りするシステム(あるいはそれを運ぶ馬)のことで、徳川家康が慶長6年(1601年)に東海道や中山道に多くの宿場を指定し、36頭ずつの伝馬を常備させたと云われている と。『文豪森鴎外 来訪の地』碑。「二日。天陰れり 午前六時大坂に至り、車を換ふ。九時草津に至り、又車を換ふ 十時三雲に至り、車を下る。雨中人力車を倩ひて出づ 午時土山常明寺に至る。 小倉日記」『森鴎外と土山』「森鴎外が土山を訪れたのは、明治三十三年三月二日、祖父白仙の墓参のためである。 白仙は、石見国津和野の藩医であった。 万延元年(一八六○年)藩主の参勤交代に随行して江戸へ出向。 翌年五月帰国の際に発病し、遅れて国もとへ向かう。 途中十一月七日、土山宿井筒屋にて急死した。 遺骸は常明寺の墓地に葬られ、津和野へは遺髪のみが届けられた。鴎外が生まれたのはその翌年である。 鴎外は祖父への思慕深く、小倉在往時代、軍医部長会出席のため上京の途中、土山へ立ち寄り、無縁仏同様に荒れ果てている祖父の墓を探し当て、常明寺の境内に墓を修した。 寺を出て平野屋藤右衛門の家に投宿し、翌日三雲を経て東京へ向かった。 明治三十九年祖母きよが、大正五年母ミネが没。 遺言により常明寺に葬られた。昭和二十八年、三人の墓は津和野永明寺へ移された。 現在常明寺境内には、鴎外の子孫が建立した供養塔が立っている。」『東海道伝馬館』開館時間 午前9時~午後5時休 館 日 月・火・年末年始を入 場 料 無 料『伝馬館』の建物は、昔ながらの民家の如く。格子戸、虫籠窓、そして上には中二階があったそして中二階の上に、さらに三階があった。中三階と言うのが適切か。『伝馬館』の手前向かいにあったこの建物は問屋場(江戸時代の街道の宿場で人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところ)を再現したもの。中には、帳付の宿役人を再現展示していた。各宿場に置かれた問屋場は、公用荷物を次の宿場に運ぶ人馬の継立や、公用の書状等を次の宿場へ届ける継飛脚を主な業務とした施設。寛永15年(1638)以降、東海道の各宿場には人足100人と伝馬100疋もの常備が義務付けられていた。中山道では人足50人と伝馬50疋の常備であり、いかに東海道の通行が多かったことを物語っていると。『伝馬次之事 写』「慶長6(1601)年に東海道の宿に出された『伝馬次之事の写』。土山伝馬役中に36疋の伝馬の常備継立の区間、伝馬の積載量などが定められた。」 問屋場の内部では次の宿場へ継送る荷物の重さを量っているところを再現。壁には土山宿の助郷村の名を記した札を掲げる。大名行列等の大規模な通行がある際には宿場常備の人足や伝馬で賄いきれず、周辺の村々(助郷村)に人馬の提供を命じた。これらの要請と差配をするのも問屋の役目だった。馬屋では駄馬と馬子の様子を展示していた。この倉には大感激した『大名行列展示』が。我々の到着を待っていたが如くに掛かりのオバチャンが案内してくれた。『参勤交代と大名行列』「江戸時代、幕府は大名を統制するために定めた、寛水12年(1635)の「武家諸法度」の中で、大名を一定期間江戸に在府させる参勤交代を制度化しました。そのため、大名たちは自分の領地と江戸を行列を組んで往復しなければならず、一般には一年おきの交代でしたが.関東の大名は半年ごと、遠方の対馬の宗氏は3年・蝦夷の松前氏は6年ごととし、幕府の要職に就いたものは、江戸に留まるよう定められていました.この参勤交代などの時に、大名たちが整える行列のことを大名行列といいます。もとは、戦時用の行軍形式をとっていましたが、やがて形式化し、華美なものになっていきました。行列の規模や調度品などは石高や格式によって差がありましたが、大名にとって、江戸での生活や国元との往復には多大な費用がかさみ、藩の財政には大きな負担となりました。しかし、参勤交代制度の確立によって、交通網や宿が整備され、経済活動の発達や各地との文化交流を生み出しました。東海道は、参勤交代の大名たちが通る主要街道として発達し、宿では行き交う旅人たちでにぎわっていました。土山宿でも、土山本陣の宿帳に多くの大名の宿泊記録が残されています。なかでも熊本藩細川家との関係は深く、細川家ゆかりの調度品が伝わっています。」倉の内部には壁に沿って京人形100体で再現した大名行列のジオラマの姿が。3名の「本陣職 旅役人」の後ろに「御行列奉行」が先頭に、その後ろに「御長柄」。横から。次に「押足軽」、「御持筒頭」、「沓籠」が続く。その後ろに「御乗物(藩主)」が続く。その後ろに「御歩御用」、「具足」が続く。そして「御歩頭」「御持弓頭」、「御持弓」、その後ず~~と続いて、最後は「従者」そして長老。再び先頭近くを、カメラを頭の上に上げて。部屋の端から端までの行列は素晴らしく圧巻な光景なのであった!!そして次に『伝馬館』1階へ。この時期、部屋には雛飾りが並んでいた。見事な七段飾り。『斎王』。斎王(さいおう)または斎皇女(いつきのみこ)は、伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王(親王宣下を受けた天皇の皇女)または女王(親王宣下を受けていない天皇の皇女、あるいは親王の王女)。厳密には内親王の場合は「斎内親王」、女王の場合は「斎女王」といったが、両者を総称して「斎王」と呼んでいると ウィキペディアより。『土山宿』ジオラマ。現在地の『東海道伝馬館』が中央に。『旅籠』の多さが確認できたのであった。次に中二階に上がると、東海道五十三次・宿場町の切り絵とその宿場の名物が展示されていた。『東海道五十三次 切絵』「黒川重一 大正12年5月4日生まれ。土山町北土山在住当寺の国鉄を退職後、62歳から切絵の魅力にひかれ独学で制作活動を行う。仏画や風景、祭りなど作品の内容は豊富で、土山町で開催される「鈴鹿馬子唄全国大会」のイメージポスターなどの制作も手掛ける。その他の作品として能面も数多く制作されている。また、切絵教室も開かれ、土山には切絵を愛する方が多くなりました。この作品は当町に平成13年8月開館記念として寄贈していただきました。」右から日本橋、品川、神奈川、保土ヶ谷、戸塚。右から藤沢、平塚、大磯、小田原、箱根、三島、沼津、原、吉原。右から蒲原、由比、興津、江尻、府中、丸子、岡部、藤枝、嶋田、金谷、日坂、掛川。右から掛川、袋井、見附、濱松、舞阪、荒井、白須賀。「東海道名物江戸時代、街道筋の宿場や立場などでは、その土地特有の名物があり、目的地や道中でそれぞれの名物が売られ、味わうことが旅の楽しみのひとつでした。名物は、その多くが饅頭や餅のほか、田楽、麺類が多く、街道をゆく旅人の空腹を満たすとともに、その身味に舌打ちをうっていました。」右から二川、吉田、御油、赤坂、藤川、岡崎、池鯉鮒、鳴海、宮、桑名。右から宮、桑名、四日市、石薬師、庄野、亀山。右から亀山、関、坂之下、土山、水口・右から石部、草津、大津、京師。『土山』。「生里野モータン松並木”坂はてる照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る”と歌われた馬子歌の土山はこの鈴鹿峠を堺にして天候が変わりやすい。」「モータン」とは??『関 参宮道追分』。『亀山 風雨雷鳴』。『坂之下 岩窟の観音』。『水口 どじょう汁の店』。『あいの土山。そして最後に我が『藤澤 江ノ島』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.08
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『来見橋』を渡って更に『土山宿』の旧東海道を進む。橋を渡るとすぐ左に南土山の鎮守として崇められている「白川神社」の参道入口が。『白川神社』の一の鳥居と『白川神社』社標。「白川神社祭神は速須佐之男尊、天照大御神、豊受大御神。 創祀は不詳で、古くは牛頭大王社・祇園社などと呼ばれていた。 寛文5年(1665)2月11日の火災により延焼し、現在の場所に遷座する。 本殿は、文久3年(1863)に造営された。7月第三日曜日行われる 「土山祇園祭花傘神事」 は祇園祭の前宮祭と呼ばれ、大字南土山14組ごとに奉納された花傘から花を奪い合う 「花奪い行事」 が行われる。 これは、承応3年(1654)に復興されたと伝えられ、滋賀県選択無形民族文化財になっている。天明7年(1787)に孝格天皇の、嘉永元年(1848)に孝明天皇の両大嘗祭に、当社拝殿が悠紀斎田抜穂調整所となった。 また、明治元年(1868)年旧暦9月22日、明治天皇御東幸御駐輦の時に、当社境内が内待所奉安所にあてられた。本殿の前には願かけ神石があり、この神石をなでると健康長寿祈願成就がかなうと伝えられている。」『一の鳥居』手前、左に石碑が。『内侍所斎竹跡(ないしどころいみだけあと)』。常夜燈の参道を進む。境内への入口。『悠紀斎田之碑』「歴代天皇御即位のとき斎行される大嘗祭の重儀に御料の新穀を供する悠紀斎田としてわが土山の里が御三代にわたり卜定されたことは大きな誇りである。よって抜穂の稲こなしが行われた当神社旧称祇園牛頭天王社の境内に斎田の所在を明示する碑を建てて、その栄誉を永世に伝えるものである。後桃園天皇 大嘗祭抜穂神事 明和8年9月光格天皇 大嘗祭抜穂神事 天明7年9月孝明天皇 大嘗祭抜穂神事 嘉永元年9月」『白川神社』の『地蔵スギ』、幹周:3. 40m、樹高:30m、樹齢:推定300年と。『地蔵スギ』と呼ばれる所以は、霊木杉とも呼ばれており、この木の根元に祀られていたお地蔵さんが樹幹に巻き込まれてしまい、今ではその痕跡が筋となってしか残っていないと。残念ながらその筋もよく分からなくなっているとのこと。『みちびきの宮 白川神社』。境内には『相撲場』が。約250年程前の江戸時代、土山に来ていた「茶師」と地元の若者がお茶とお米の豊作を祈願して宮相撲「泣き相撲」を始めたと。「泣き笑い相撲は生後6ヶ月位から3歳位までの男児女児を、役員「神人」がお預かりして西から土俵に上がり、東から「ひょっとこ」が上がります。行司の采配で重々しくまた面白く「ニラミアイ」「ナキアイ」「ワライアイ」をします。氏子内外どなたでも参加出来ます。神職さんのお祓いと元気守りをお渡しいたします。願掛け神石+一升餅上げ+泣き笑い相撲神事の参加祈願料は千円です。」とネットから。『力石』。『モッコク(木斛)』。『モッコク』の木は樹齢400年。『モッコク』は初めての出会いか?『白川神社のモッコク』淡海の巨木。名木次世代継承事業と。淡海とは近江のこと。『手水舎』。勇ましい姿の龍の口から清水が。『拝殿』。入母屋造 間口三間 奥行三間。『本殿』。祭神は速須佐之男尊(はやすさのおのみこと)、天照大御神、豊受大御神で、創祀は不詳だが、古くは牛頭天王社、祇園社などと呼ばれていた。一間社流造 間口一間一尺 奥行一間一尺。『拝殿内陣』。『拝殿』の扁額も『白川神社』。その下には見事な彫刻が。龍には眼が。境内社の『愛宕神社』、『松尾神社』。『南北稲荷町社跡』碑。再び『本殿』を。『皆弥会館』。これは客殿か?巨大な『常夜燈』。裏道からの参道。『地蔵尊』。裏道からの鳥居。社標、参道。『血止乃洗場』碑とは??再び『地蔵スギ』を見上げる。『明治元年 天長節 内侍所奉安紀年地』碑。再び旧東海道に戻る。『土山宿 旅籠 木屋跡』碑。『土山宿 旅籠 海老屋跡』碑。更に人の姿のない『土山宿』を歩いて行った。『土山宿 旅籠 山本屋跡』碑。『土山宿 旅籠 簾屋跡』碑。左手に結構風格のある連子格子と白い漆喰壁の家があった。『大原製茶場』であると。旧屋号は『油屋平蔵』とあったが、江戸時代には油を商い、明治になって製茶業に転業したという。『土山宿旅籠江戸屋跡』碑。更に旧東海道を進む。屋根のある板塀の家。油屋平蔵跡の直ぐ先、右手に三軒の旅籠跡があった。『土山宿旅籠柏屋跡・大工屋跡・釣瓶屋跡』碑。この辺りには多くの旅籠が軒を連ねていたのであろう。三軒の旅籠跡の向かいに旅籠井筒屋跡があり、森鴎外の祖父森白仙の石柱、案内板が建っていた。『森白仙終焉の地 井筒屋跡』。『森白仙終焉の地 井筒屋跡』碑。「森白仙終焉の地 井筒屋跡文豪森鴎外の祖父、森白仙は文久元年(一八六一年)十一月七日、ここ旅籠井筒屋で病死した。 森家は岩見国津和野藩主亀井家の典医として代々仕える家柄であり、白仙もまた江戸、長崎で漢学、蘭医学を修めた医師であった。 万延元年(一八六○年)藩主の参勤交代に従い江戸へ出向し、翌年五月に藩主は在府の任が解かれて帰国することとなったが、白仙は病のため随従することが出来なかった。 やむなく江戸で養生した後、十月になり二人の従者を伴って帰国の途についたが、長旅の疲れもあり、十一月六日投宿した井筒屋で発病し、翌七日急死した。 遺骸はこの近くの河原の墓地に埋葬された。 明治三十三年三月二日、陸軍小倉師団の軍医部長であった鴎外は東京へ出張の途次にこの地を訪れ、荒れ果てていた白仙の墓を見かねて、南土山の常明寺に改葬を依頼した。 後に白仙の妻清子、娘のミネ(鴎外の母)の遺骨も常明寺に葬られたが、三人の墓碑は昭和二十八年に鴎外の眠る津和野永明寺に移葬された。」左に『土山宿旅籠木綿屋跡』。右に『平野屋甚右衛門跡』、『大内屋跡』。『土山宿旅籠木綿屋跡』碑。『土山宿 旅籠 平野屋跡』。『土山宿 旅籠 平野屋跡』碑。「森鴎外の泊まった平野屋平野屋は、鴎外が祖父白仙の墓参のために土山を訪れ、明治33年3月2日に一泊した旅籠である。「墓より寺に還りてこれを境内に移さんことを議す。固道(当時の常明寺住職)許諾す。乃ち金を贈りて明日来り観んことを約して去る。 寺を出づるころおほひ天全く晴る。平野屋藤右衛門の家に投宿す。宿舎井筒屋といふもの存ぜりやと問ふに、既に絶えたり。」『土山宿旅籠万屋跡』碑と『土山宿旅籠はた屋跡』碑。左側に江戸中期の建物を改造した『民芸茶房 うかい屋』。江戸時代には菱屋という屋号の両替商だったと。左手に石碑、右手に連子格子の家。『二階屋本陣跡』。『二階屋本陣跡』碑。『堤屋(二階屋)本陣跡』「本陣とは江戸時代に大名・旗本・幕府公用人・勅使・公家・門跡などが、宿駅での休泊に利用した公認の宿舎である。土山宿には吉川町の北土山村側にあった土山家本陣と、中町の南土山村側にあった堤家本陣尾二軒があった。堤家本陣はその屋号から「二階屋本陣」とも呼ばれ、代々忠左衛門を名乗った。史料上の初見は江戸時代前期の延宝8年(1680)で、以後土山家本陣とともに本陣職を勤めた(「土山家本陣宿帳」)。本陣は一般に150~200坪程度の建物があり、門構えや玄関、上段の間を設けたが、天保14年(1843)当時、門構えと玄関をもっていた(「東海道宿村大概帳」)。建坪は196坪と、土山家本陣の325坪よりは小規模であった。堤家本陣は幕末には衰微し、これより約250m西、吉川町の北土山村側にあった大旅籠の大黒屋がその代替として利用された。」『かしき屋跡』。このあたりは江戸時代には中町と呼ばれ、土山宿の中心だった地域。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.07
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『扇屋伝承文化館』の脇の筋を挟んだところに小さな堂があった。『地蔵堂』。『地蔵堂』には着色された2体の『地蔵尊』と『重軽石(おもかるいし)』と思われる2つの丸石が安置されていた。2体の『地蔵尊』。この下の段の左右に『重軽石』が。『重軽石』というのは、質問内容によって「重くなったり、軽くなったりする」石。軽々と持ち上がれば吉、そうでなければ凶というもの。『地蔵堂』から『土山宿』の旧東海道を見る。地蔵堂から20m程先右手に石碑があった。『土山宿 旅籠大槌屋跡』碑。『かじ屋徳兵衛』。『土山宿』の連子格子の家並みが続く。そして右手に石碑が。『土山の一里塚跡』碑。甲賀市土山町内の設置場所は、山中地先、土山地先と大野市場地先であったが、現在その跡はほとんど残っていない。 土山のこの地名を一里山と呼称しているのも、この一里塚に起因している。ここは江戸日本橋から数えて110里目の一里塚跡である。「東海道一里塚跡旅行者の便をはかって、街道の一里毎にその目印として設置されたのが一里塚である。この制度が整ったのは、慶長8(1603)家康が日本橋を仮設 し、翌9年この橋を起点として東海、東北、北陸の諸街道を修理し、その折一里(36町)毎に道の左右に相対して一里塚を築き、塚の上に榎などの木を植えて遠くからでも望見できるよう旅行者の便をはかったことにはじまっている。加賀市土山町内の設置場所は山中地区、土山地区、大野市場地先であったが現在その跡はほとんど残っていない。土山のこの地名を一里山と呼称しているのも一里塚に起因している。塚の規模は、およそ高さ二.五m、円周十二mの大きさであったらしい。この近くで柄の形をほぼ残しているのは亀山市の野村一里塚で塚の上には椋が植えられている。」『土山の一里塚跡』碑の隣に、三軒目のお六櫛商『三日月屋』があった。「土山一里塚跡」を過ぎると、旧東海道の左側に「旅籠車屋跡」が。『土山宿 旅籠 車屋』碑。『鍵屋』跡。そしてその先左手には立派な塀のある大きな建物の屋敷が現れた。屋根のある立派な板塀が続いていた。連子格子の大きな入口引き戸と二階には虫籠窓(むしこまど)が。店の名は『油屋権右衛門』とあるので油商を営んでいた家だったのであろう。『もっこ屋』畚(もっこ、ふご)とは、縄、竹、蔓(つる)などを網状に編んだ運搬用具である。現在に残る土山宿の家並は関宿ほどの完璧な姿ではなかったが、低い家並みが街道の両側に続き、時折、現れる連子格子が嵌められた家を見るにつけ、それなりに宿場らしい風情を味わうことが出来大いに楽しむことが出来たのであった。『土山宿 旅籠 寿し屋跡』。『土山宿 旅籠 寿し屋跡』碑。そして前方に橋が姿を現した。瓦屋根が載った白壁のような欄干がなんとも情緒を醸し出していたのであった。橋の名は『来見橋(くるみはし)』。右手の白壁のような欄干には「土山の風景」が。『大名行列』。『あいの土山宿 茶屋』。『鈴鹿馬子唄の光景』。そして左側の欄干には「土山 茶もみ歌」が。「お茶を摘めつめしっかり摘みやれ 唄いすぎては手がお留守」。「土山宿の賑わい」。「お茶をもめもめ揉むねばならぬ もめば古茶も粉茶となる」。土山は近江茶の一大生産地として知られており、その起源は鎌倉時代に溯り、文和5年(1356)南土山にある常明寺の僧が大徳寺(京都)から持ち帰った実を栽培したとされているのだと。『来見川(くるみがわ)』に架かる橋は『来見(胡桃)橋(くるみはし)』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.06
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次田村神社一の鳥居前で国道1号線を渡ると、右手に道の駅 「あいの土山」 があった。左手角には『歴史の道 東海道 江戸⇔土山宿⇔京』の道標も。『東海道案内図』。地図には1775年まで田村川は徒歩で渡っていて、その手前の今はなき旧東海道が----で示されていた。そして旧道口角の先には『かにが坂飴店』があったが、品物は全て売り切れか?時間は14:01であったが。販売していればこれが『かにが坂飴』。 【http://tokaido53stations.blog.fc2.com/blog-category-17.html】より道の駅『あいの土山』の駐車場。道の駅『あいの土山』に立ち寄る。多くの種類のお茶が売られていた。ここ土山は、滋賀県最大の生産量を誇る近江随一の茶所。江戸時代には、東海道の宿場町として栄、当時は街道名物「あけぼの茶」として広く知られていた。これが土山茶の礎となっていた。野洲川沿いのなだらかな丘陵地に茶畑が広がり、長い日照時間と清らかな水に恵まれて育つ土山茶は、まったりとした深い味わいが持ち味であると。『”あいの土山”を考える』。”あい”の由来👈リンク について、諸説を紹介していた。琵琶湖が次第に近づいて来た。『人生の名言・格言』が紹介されていた。『ありがとう』「つらいことがおこると 感謝するんです これでまた強くなれると ありがとう 悲しいことがおこると 感謝するんです これで人の悲しみがよくわかると ありがとう ピンチになると感謝するんです これでもっと逞しくなれると ありがとう つらいことも悲しいこともピンチものり越えて 生きることが人生だと言いきかせるのです 自分自身に そうするとふっと楽になって楽しくなって 人生がとても光り輝いてくるんです ピンチはチャンスだ 人生はドラマだ 人生がとてもすてきにすばらしく よりいっそう光り輝きだすんです ますます光り輝く人生を ありがとう の心と共に」『今に生きる』 今がチャンスだ 今が最善 今の中に過去の全てが入っている 今の中に未来の全てが入っている 今を変えれば過去の全てが変わる 今を変えれば未来の全てが変わる 今を変えれば周りの全てが変わる 今に生きれば生命が活動する 今に生きれば魂が輝く 今こそチャンスだ 今ここに縁がある 自己を変えるチャンスは今しかない 今、今、今、今の中に全てがある 今、決意せよ 今、行動せよ 今、すぐ変われ 人生とは今の事を言うのだ 過去の事をグズグズ悩むな 過去はどこにもないのだ 未来の事を心配するな 未来はどこにもないのだ 今の心の中に過去も未来もあるのだ 今に感謝せよ 今を愛せよ 全てが完全なのだ 今とは宇宙の事を言うのだ ありがとう ありがとう 今に感謝 」『長寿の心得』人の世は山坂多い旅の道年令の六十に迎えがきたら還暦(かんれき) 六十才 とんでもないよと追い返せ古希(こき) 七十才 未だ未だ早いと突っ放せ喜寿(きじゅ) 七十七才 せくな老楽はこれからよ傘寿(さんじゅ) 八十才 なんの未だ未だ役に立つ米寿(べいじゅ) 八十八才 もう少しお米を食べてから卒寿(そつじゅ) 九十才 年令に卒業はない筈よ白寿(はくじゅ) 九十九才 百才のお祝いが済むまでは茶寿(ちゃじゅ) 百八才 未だ未だお茶が飲み足らん皇寿(こうじゅ) 百十一才 そろそろゆずろか日本一天寿(てんじゅ) 百二十五才 人は二十五才の朝食まで成長するその五倍が人世『金のなる記』金のたまる人 金のたまらぬ人 一、感謝の生活をする人 一、常に不平不満を云う人二、収入以下で生活する人 二、見栄を張り贅沢する人三、夫婦仲の良い人 三、夫婦仲の悪い人四、金や物を大事にする人 四、物や金を粗末にする人五、健康に心懸ける人 五、悪友を持つ人六、独立自尊心の強い人 六、依頼心の強い人七、仕事を趣味とする人 七、道楽の多い人八、一事をつらぬく人 八、三日坊主の人九、常に節約する人 九、常に借金をする人十、儲けをあてにせぬ人 十、一攫千金の夢を見る人徳は元、財は来るなり徳つめば 金は自由になるものと知れこれを、もっと早い時に読んでいれば、もう少し・・・・・と。『盛り放題の抹茶ソフトクリーム』を購入し楽しむ。NHKの朝ドラ・連続テレビ小説『スカーレット』のポスター。信楽焼(しがらきやき)で知られる滋賀県信楽を舞台に、女性陶芸家「川原喜美子」の半生を描いたドラマ。信楽焼は、ここ滋賀県甲賀市の信楽を中心に造られる陶器なのである。『甲賀流忍者参上 分身の術』顔出しパネル。『ぐるっと甲賀市』案内板。頂いた『東海道五十三次 土山宿絵地図』(1/2)を持って、本格的な『土山宿』の散策開始。『東海道五十三次 土山宿絵地図』(2/2)。道の駅『あいの土山』の脇を抜けると、突当り角に『生里野公園』があり、東海道土山宿碑・土山宿案内図があった。『あいの土山』案内図。『東海道 土山宿碑』。「江戸から数えて49番目の宿場である土山宿の家数は351軒、宿内人口1505人、本陣は2軒、脇本陣はなく、旅籠は44軒の規模を持っていました。尚、土山は近世を通じて幕領で代官が支配していました。」周囲には茶畑が拡がっていた。ここは『土山宿』の東口で、ここから土山宿東端の生里野地区の集落が始まり、家々には屋号が掛けられていた。土山宿は東海道をはさんで北土山村・南土山村の二村が並立する二つの行政組織が存在したと。右手に『旅籠 鳥居本屋』。『土山宿』の家々には『屋号』が掛けられていた。『加賀屋』。ここも『旅籠』であったのだろう。『車屋』。更に『東海道五十三次 土山宿絵地図』を持ちながら進んで行く。東海道土山宿碑から程なく十字路を越えた左手に地蔵堂があった。ここには新しい道標・生里野地蔵公園碑・上島鬼貫句碑 「吹けばふけ櫛を買いたり秋乃風」 が。従是左江戸へ百十里 右京都へ十五里東海道近江国土山宿名生里町 と刻まれた最近の石碑か?『地蔵堂』。着色され、赤い涎掛けの二体の地蔵尊。『生里野地蔵公園』。この石にも何か刻まれていたのであろうか?『生里野地蔵公園碑』。『上島鬼貫句碑』。「吹けばふけ 櫛を買いたり 秋乃風」。「上島鬼貫上島鬼貫は、伊丹で生まれた俳人で、東の芭蕉、西の鬼貫とも言われ、独自の俳諧の境地を拓いた人である。 この俳句は、上島鬼貫が、貞享3年(1686)の秋に、東海道の旅の途中、土山に寄り、お六櫛を買い求め、鈴鹿の山へ向かう時に詠んだ句である。」以前は「大阪の伊丹」と記入されていたようだが、伊丹市は兵庫県にあるので白く消したのであろう。「お六櫛江戸元禄の頃、 江戸元禄の頃、信濃の国の櫛職人が伊勢参りを終えて京都見物に行く途中、ここ土山宿の生里野で重い病気になり、生里野の民家で養生させてもらって一命をとりとめ、京へと旅立つことができました。その旅人は信濃へ帰国した後、土山で受けた恩恵に報いようと、櫛の製法を伝授すべく再度土山を訪れました。この櫛は「みねばり」などの木を材料にして作られ、土産物として大変人気がありました。最盛期には十軒余りの業者が櫛に関わっていましたが、今は姿を消してしまいました。」そして『お六櫛商 三日月屋』。これが、わずか10cmにも満たない幅におよそ100本もの歯をもつ「みねばりの木」で作った櫛・『お六櫛』。お六櫛は中山道の薮原宿の名物で、元禄年間に藪原宿に住んでいたお六という娘がみねばりの木で作った櫛が由来で、現在でも薮原で作られていると。1669年に木曽の旅人が伊勢参りをした後、京見物の途中に病に倒れ、土山で介抱してもらい助けられた。そのお礼に、「お六櫛」を木曽から送るので、この土山で販売しなさい……ということが商売の始まりだとか。これにより、江戸時代の土山宿はお六櫛を商う店が多くあり、街道の名物になっていたとのこと。三日月屋の先にもお六櫛商を掲げた木札が数軒あったが、どの家も三日月屋となっていた。おそらく薮原の三日月屋から仕入れた櫛を東海道を旅する人々に個々に販売していたのでは。 【http://kogarashi1940.blog10.fc2.com/blog-entry-415.html?sp】より『土山宿』にも人の姿はほとんどなく。ここも『お六櫛商 三日月屋』。先に進むと右手に『扇谷伝承文化館』があった。『扇谷伝承文化館』は、江戸時代、宿場町として栄えた土山宿で扇や櫛を販売していた商家『扇屋』 を地域の住民が購入し、平成21年に改修したものである。『扇屋 伝承文化館』。『扇屋』。内部のひな祭りの段飾りが。こちらにも。『太田南畝の改元紀行より』「田村川に橋あり。右のかたに橋番所あり。橋を渡りて左にゆく。杉たてる中をゆくに、田村明神の大門也。土山の宿にいりても櫛うる家多し。土山亀井ぐし、又御櫛所お六櫛など、かきたる札だせり。此処のところの蕎麦名物也。改元紀行より」『扇屋伝承文化館』「扇屋伝承文化館は、江戸時代、宿場町として栄えた土山宿で扇や櫛を販売していた商家 「扇屋」 を地域の住民が購入し、平成21年に改修したものです。地域の良き古き文化を後世に伝える拠点とともに、旧東海道を散策する人の憩いの場になることを願っております。どうぞご気楽に入館ください。」『扇屋伝承文化館内部』。『羽子板』。『親王飾り』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.05
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次道は大きく左に曲がるが、旧東海道は『田村神社』方向にまっすぐ進む。その先に田村川に架かる『海道橋(旧田村橋)』の袂手前に高札場跡があった。復元された高札には、道中奉行所から出された規則(定め書)の内容が書かれており、一般の旅人については一人につき三文、また荷物を馬に乗せて渡る荷主についても馬一頭につき三文の渡り賃をとることが書かれていた。下記に句読点を補い読み下し文で紹介。「田村川橋歩行渡しの処、出水の節、差支候に付、土山宿自普請を以、道附替橋掛渡し、当閏十二月二十三日より相通し、御用の通行、武家の往来、近村渡世の者これ除き、其外諸旅人より壱人に付三文宛、荷一駄に付荷主より三文宛 永くこれ取るべく者也。安永四未閏十二月 道中奉行」。「高札の解説についてこの高札の文章は、田村川橋 について、道中奉行所から出された規則(定め書)の内容が書かれているものです。この田村川橋ができるまでは、この橋から約600m程下流に川の渡り場がありましたが、大水が出るたびに溺れ死ぬ旅人が多く出たため、 その対応に土山宿の役人達をはじめ、宿の住民の苦労は大変なものでした。 また、川止めも再三あり、旅人を困らせていました。 そこで幕府の許可を得て、土山宿の人達が中心になりお金を集め、今までの東海道の道筋を変えて新しい道を造り、田村川木橋を架けることになりました。「この橋を渡ることができるのは、安永4年(1775)の閏月12月の23日からである。 (旧暦には閏月があり、この年は12月が2回続く) この橋を渡る時、幕府の用で通行する人達や、武家の家族が渡る時は無料である。 また、近村に住む百姓達の中、川向うに田畑があり、毎日橋を渡って生活しなければならない人達の渡り賃も無料である。 しかし、それ以外の住民および一般の旅人については1人につき3文、また荷物を馬に乗せて渡る荷主についても馬1頭につき3文、渡り賃を取ることになっている。 この規則は一時的なものでなく、橋があるかぎり永遠に続くものである。」『田村川』に架かる『海道橋(旧田村橋)』には擬宝珠が付けられていた。ここに橋が初めて架けられたのは安永4年(1775年)、田村永代板橋と呼ばれ幅二間一尺五寸(約4.1m)、長さ二十間三尺(約37.3m)、約30cmの低い欄干が付いていた。それ以前は現在の国道1号が通る田村橋より約50m下流辺りを徒歩により渡っていたという。江戸時代の板橋を再現したというもので、平成17年3月に架け替えられたと。 海道橋の渡り詰めには、井上士朗の句碑、そして歌川広重画 「東海道五拾三次之内土山春之雨」 があった。『田村川』の上流側を見る。『田村川』の下流側を見ると国道1号線が見えた。その下流域が田村川の徒歩渡し跡となる。この日の水量くらいなら徒歩で渡ることも十分可能だが、川幅が狭いので大雨が降ると激流になり溺死する旅人も多かったらしい。『井上士朗句碑』「鮎の背に 朝日さすなり 田村川」『井上士朗句碑解説』「江戸、中、後期の俳人。 初号支朗、別号枇杷園、朱樹叟。尾張(愛知県)守山の人。名古屋新町の町医井上家の養子となり3代目を継ぐ。 俳諧を加藤暁台、国学を本居宣長、絵画を勝野范古、平曲を萩野検校に学び、医者としても城下一の評判があった。 俳諧では 「尾張名古屋は士朗(城)で持つ」 と俗謡にうたわれ、夏目成美、鈴木道彦と共に、寛政三大家の一人として重んじられた。 編著は枇杷園句集(1804)、枇杷園句集五集(1808)、枇杷園随集(1810)、枇杷園七部集(1~5編)に収められる。」『歌川広重画 東海道五十三次之内 土山 春之雨』は田村川板橋を描いているのだと。「歌川広重は、多くの道中図や名所図を描いているが、天保4年(1833)に刊行された 「東海道五拾三次」 (保永堂版)は、その中の代表作といえる。作品には、季節感や自然現象、旅人の姿や各地の名物などが随所に織り込まれ、叙情豊かな作風を生み出している。 土山を描いた 「春之雨」 は、雨の中、橋を渡る大名行列の姿を描いたもので、田村川板橋を渡り、田村神社の杜のなかを宿場に向かっている風景であると言われている。土山宿は東海道49番目の宿で、東の田村川板橋から西の松尾川(野洲川)まで、22町55間(約2.5km)に細長く連なっていた。 東の起点である田村川板橋は、安永4年(1775)に架けられたもので、このとき東海道の路線が変更され、田村神社の参道を通るようになったと言われている。」こちらが『東海道五十三次之内 土山 春之雨』。江戸時代には土山は雨が多い土地柄という印象が強かったようで、広重の絵でも雨の情景が描かれています。『海道橋(旧田村橋)』を渡り、木々に囲まれた参道を進む。右手に田村神社』の『二の鳥居』があった。『二の鳥居』の扁額は『正一位田村大明神』。『田村神社由緒之碑』。青銅製の『二の鳥居』を潜って進む。参道を進む。『三の鳥居』。そして正面に『田村神社』の境内に。『田村神社 案内図』。『田村神社拝殿』。奈良時代の鈴鹿山中に跋扈すると恐れられていた鬼神(山賊)を坂上田村麻呂公が討伐され、一路平安を確保されたとする「鈴鹿の鬼退治」はたいへん有名。古来都より伊勢へと参宮する交通の要所だった鈴鹿の峠に、交通の障害を取り除き土地を安定させた功績は大きく称えられ、このご遺徳を仰ぎ、坂上田村麻呂公ご薨去の翌年となる弘仁3年(812)、ご由縁の地たる土山に嵯峨天皇の勅願所として祀られ高座田村大明神と称したと伝えられている。拝殿に掛かる『大名垂宇宙』の扁額。読み方は、漢詩読みで「大名宇宙ニ垂ルル」と読み、「その名は、広大な宇宙にまで、知れ渡った」という意味だと。坂上田村麻呂の偉大な功績は、宇宙にまで名だたるものであったというメッセージなのであろう。安政4年(1857)の『阿形の狛犬』。『拝殿』の奥にある『神明石鳥居』を潜り『本殿』に向かう。『神馬』。『厄落とし太鼓橋』を渡る。石鳥居のある参道を更に進む。『本殿』への階段の上には巨大な『破魔矢』が。そして『本殿』に到着。旧本殿は江戸時代中期に焼失した社殿を再建したもので、築後260年余りが経過していたことから老朽化していた。現在の本殿は平成23年に造替されたもので、旧本殿を受け継ぎ、銅板葺き三間社流造の様式がとられている。主祭神 - 坂上田村麻呂公、嵯峨天皇、倭姫命 配祀神 - 稲倉魂命、大己貴命、国狭槌尊、大山咋神、荒魂『本殿』の内陣。『商売繁盛の神様 吉崎稲荷神社』への案内板。『吉崎稲荷神社』。杉?の巨木。『矢竹』。『矢竹(厄除矢)の由来』「御祭神坂上田村麻呂公が勅を奉じて鈴鹿山中に跋扈し旅人等を悩ます悪鬼(俗に伝う山賊)を言向け平定された際、御弓矢を張り給いて申された「今や悪鬼も無し、これより此の矢の功徳を以て万民の災いを除かん.此の矢の落ちたる地を吾が宮居として斎き祀れ」放たれた矢はここ本殿前に落不思議なことに青々と芽が出て育ち、現在の矢竹となったと伝えられています。田村大神の御心を心として神矢を奉製し、矢の功徳を以て御崇敬者の厄災を祓い開運恵方を導く深き信仰となったのであります。」『本殿』前から境内の池を見る。池の前の石灯籠。『本殿』を斜めから振り返る。『末社』。『天満神社』。主祭神:菅原道真公。『祝谷神社』主祭神:祝谷大神。男女の厄年は62歳より上はないことを初めて知る。昔は、これ以上は長生きで年寿のみなのであろうか?『年寿』について、ネットで復習したのであった。昔の人はいろいろと考えたのであった。『拝殿』前に戻ると『手水舎』が。『手水場』。『祈祷殿』。御朱印を頂きました。そして国道1号線に向かって参道を進む。参道の両側は鬱蒼とした杉木立になっていたのであった。これが国道1号線に面して建つ『一の鳥居』。『田村神社』社標。裏には『元帥伯爵 東郷平八郎謹書』と刻まれていた。大正15年に寄贈されたのだと。『東郷平八郎』は明治37年(1904年)2月10日からの日露戦争では、旗艦「三笠」に座乗してロシア海軍太平洋艦隊の基地である旅順港の攻撃(旅順口攻撃・旅順港閉塞作戦)や黄海海戦をはじめとする海軍の作戦全般を指揮した人物。そして昨年2019年の6月に日露戦争の最後の激戦の地となった『旅順要塞』を訪ねたのであった。扁額『田村神社』。そして再び国道1号線に出たのであった。国道1号線を渡り『田村神社』を振り返る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.04
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次土山宿『猪鼻村』の旧東海道を進む。猪鼻村に入って間もなく右手に臨済宗の『醫王山 浄福寺』があった。「醫王山 淨福寺淨福寺は、天正年間(一五七三~一五九一)に、僧洞成禅照大禅師が開基し、寺号は醫王山、臨済宗東福寺派に属する。 本尊は、薬師如来座像で伝教大師の作仏といわれ、近江源氏である佐々木氏の守仏と伝わっている。 木造秘仏で右手は施無畏、左手に薬の壺を持ち、脇侍には左に日光菩薩、右に月光菩薩。 更に眷属十二神将が十二時かわるがわる本尊の守護に努めている。 薬師如来は、十二の大誓願を発して、除病延寿、衣食満足、無病息災の東方浄瑠璃浄土の主尊である。 (醫王山とは、法を説いて人の悩みを癒やす仏で菩薩を医師に例えた語です。) 淨福寺の御詠歌 まいりきてめぐみをうけよ浄福の 薬師の利やくあらたなりけり」『浄福寺 本堂』。浄福寺は、天正年間(1573-91)僧洞成禅照大禅師による開基で、本尊は薬師如来坐像で伝教大師作と伝わる。『鐘楼』。『東海道 猪鼻村』「猪鼻村は、鈴鹿山脈の西方に位置し、中世は鈴鹿山警固役であった山中氏の支配を受け、近世は幕府領や諸藩領となり幕末にいたる。村中を東海道が東西に5町36間余(約610m)、商いを営む者も多く、往時50戸を超え街道を賑わしていた。土山宿から坂下宿間の立場 (休憩所) があり、草餅や強飯が名物であった。 村高は、53石余 「天正19年(1591)徳川家康知行目録写」、おもな産業は農業で、製茶や林業も行われた。赤穂浪士の一人で俳人の大高源吾 (俳号は子葉) が旅の途中に詠んだ 「いの花や早稲のもまるゝ山越ろし」 の句碑がある。 井上士朗の 『幣袋』 に安永3年(1774)鈴鹿峠に向う途中で 「猪鼻峠といふ名のをかしければ、ゐのししの鼻吹き返せ青あらし・・・・」 とある。寺院は、臨済宗東福寺派の淨福寺、集落の東端には火頭古神社があり、本殿は十七世紀後半の造営とされ、国登録有形文化財となっている。明治22年猪鼻村は町村制により甲賀郡山内村大字猪鼻、昭和30年合併により甲賀郡土山町大字猪鼻、平成16年10月1日合併により甲賀市土山町猪鼻となる。」山門脇には、赤穂浪士の一人で俳人であった『大高源吾(俳号子葉)の句碑』があった。「いの花や 早稲のもまるゝ 山越ろし 子葉」大高源吾は俳号を子葉と名乗っていたとのこと。『ちょうちん屋』。『ちょうちん屋』木札。緩やかに左にカーブする右手の民家の庭に石碑が。『旅籠 中屋跡』碑とその後ろには『明治天皇聖蹟碑』。明治天皇が御小休でここに立ち寄られたのだと。明治天皇の行幸を刻んだ『副碑』。「猪鼻立場猪鼻集落は東海道土山宿から東へ3kmの位置にあり、江戸時代には立場(たてば)として賑わった。立場とは宿場と宿場の間で休憩するところで、旅人が自分の杖を立てて一息入れたところから名付けられた。現在は緩やかな坂になっているが、往時は土山宿との間に険しい猪ノ鼻峠があって旅人を難渋させたのでこの辺りで休憩を必要としたのであろう。江戸時代には50戸余りの人家があり、旅籠や商家、茶店などが6軒ほどあったといわれる。ここでは草鞋や日用品をはじめ、岩くぐという草で作った蓑(雨具)、よもぎ餅、柿ちまき、強飯、飴、経木で作った水呑みなどが売られていたことが江戸時代の紀行文に記されている。明治元年(1868年)の明治天皇御東幸の折り、旧暦9月23日に旅籠中屋を御休憩や昼食に利用されたことがあり、その後も三度にわたり明治天皇や皇室の方々がここに立ち寄られている。また忠臣蔵で名高い赤穂浪士の一人、大高源吾は子葉という俳号で「いの花や 早稲のもまるゝ 山おろし」という句を残している。」『近江屋』。木札『東海道 猪鼻村 近江屋』。S字のカーブの坂を上っていくと国道1号線に再び合流した。合流地点手前左にあったのが『東海道 猪鼻村』碑。猪鼻集落は鈴鹿峠方面から降りてくるイノシシ除けの垣根があったことに地名の由来があるらしいが、かつては東海道の立場で草餅や強飯(もち米を蒸した飯)が名物だったのは先程の猪鼻立場の説明通り。合流地点の道路の反対側の小高い場所には神社があった。旧東海道はその神社前の写真右手にかけて下り坂の道筋だったと思われるが、国道1号の開削によってその道筋は失われているのであった。猪鼻集落の京方入口に鎮座する『金比羅神社』。ここは甲賀市土山町南土山。『蟹塚』👈リンク の案内板が道路の反対側に。案内板に従い山道を下って蟹塚を目指す。小さな沢が前方に。流れのある沢をなんとか渡ると、前方に『蟹塚』があった。「蟹塚蟹塚には、名前にちなんた話か伝えられている。昔。鈴鹿の山に大蟹が住み着き旅人や村人を苦しめていたところ、観音様の命をうけた都の高僧が鈴鹿に訪れ大蟹にお経を唱えると、大蟹の甲羅が八つに裂けたという。塚はその大蟹の甲羅を葬ったものてあるといわれている。またこの話には、蟹が盗賊であったり、高僧が式士である場合もあり、街道の名物てあった「かにが坂飴」もこの「カニ」伝承を由来として伝えられてきた。」蟹を埋めたとされる蟹塚の五輪塔。こちらが現在売られている『かにが坂飴』。 【https://tabelog.com/shiga/A2502/A250202/25003715/】より国道1号線に戻って更に進むと、右手にかつて猪鼻村から繋がっていた旧道が。『ようこそ「歴史の道 東海道」へ』案内板。「ここは土山町蟹ヶ坂です。これより、往時も東海道を歩かれる方は、左図に示すとおり「海道橋」を渡り、道の駅「あいの土山」方面へ向かって下さい。尚、「東海道土山宿」へはここから800mです。土山を訪れていただいた皆様の道中のご無事をお祈りします。」旧道口の右手に『榎島神社』があった。『榎島神社』は白川神社の末社で、境内には『白川神社御旅所碑』が建っており、段上には坂上田村麻呂を祀る『田村社』と『蟹社』があった。鳥居の傍には推定樹齢400年の御神木のシイが立っていた。『白川神社御旅所』こちらが『田村社』。こちらが『蟹社』。推定樹齢400年の御神木のシイ。『ここは南土山 蟹坂』。『道祖神』右手に双体道祖神が並んでおり、赤い前掛けには、「家内安全」 「交通安全」 と書かれていた。ここから田村神社手前までが旧蟹ヶ坂村である。更に旧東海道を進む。ここが『旧蟹ヶ坂村』。「蟹ヶ坂」という地名の由来は、北側に田村川、南側に唐戸川が流れるこの地には大蟹が住みつき、道行く旅人や村人に危害を加え怖れられていたと。そしてここを通りかかった比叡山の高僧が、大蟹に対して往生要集(平安時代中期、恵心院の僧都源信が撰述した仏教書)を説いたところ、大蟹は甲羅が八つに割れて往生したと。村人はその高僧の教えに従い蟹塚を築き、割れた甲羅を模した飴を作って厄除けにしたと。土山名物の一つ、蟹が坂飴の発祥とされる伝説がこれ。先に進んでジーテクト滋賀工場の敷地内を通り、ジーテクト滋賀工場への高架を潜ると、右手に蟹坂古戦場跡がある。ここには『蟹坂古戦場跡碑』・『蟹坂地区圃場整備竣功記念碑』が建っていた。『蟹坂地区圃場整備竣功記念碑』。『蟹坂古戦場跡』。『蟹坂古戦場跡』碑。「蟹坂古戦場跡天文十一年(一五四二年)九月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹後守および飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。 当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍を敗走させた。 こうして北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍勢を盛りかえし、さらに北伊勢の軍勢を加えて再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした。 このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、軍勢五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。 一方北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国勢と合戦した。 この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠軍の甲賀への侵入を阻止することができた。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.03
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次国道1号線を先に進むと、前方に見えてきたのが『新名神高速道路高架橋』。先に進むと右手に旧道口があり、入ると直ぐ小公園があった。『東海道土山宿 散策図』。『鈴鹿馬子唄碑』。「坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る」。『鈴鹿馬子唄』。「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土 山雨が降る 近江・伊勢の国は鈴鹿山脈で隔てられ、二つの国を行き来するには必ず峠を越えなければならない。江戸時代の東海道は鈴鹿峠を越えていたが、「東の箱根、西の鈴鹿」と言われるように旅人には非常に難所であった。その為にこの峠を人や荷が越えるのには、馬の背を借りることが多くなり、馬の手綱を引いて駄賃を取る馬子たちも多く存在した。彼らの間で自然発生的に唄われたのが鈴鹿馬子唄で、日本各地に伝わる馬子唄や追分節とよく似ており、ゆっくりした長子で哀愁を帯びた節で唄われる。歌詞は七・七・七・五の甚句形式で、主に関宿や坂下宿のことが唄われている。冒頭に掲げたのは一番の歌詞であるが、「あいの土山」の解釈には諸説があり判然としないものの、その中の一つには「あいのう雨が降る」即ち「間もなく雨が降る」と解釈する説もある。しかし今日では意味を問うことなく「あいの土山」として三音節ながら土山の枕詞のように使われ多くの人々に親しまれている。」この石碑には何が?『東海道道標』「京大坂 ← 土山宿 → 江戸」。『あいの土山観光案内図』『常夜燈』。公園脇を流れる『山中川』。『新名神高速道路高架橋』を前方に見ながら旧東海道を進む。右手には『地蔵堂』が。見事な彫刻。『地蔵堂』の内部には『地蔵大菩薩』。『新名神高速道路』は、三重県四日市市から滋賀県、京都府、大阪府を経由し兵庫県神戸市北区へ至る高速道路(高速自動車国道)である。略称は第ニ名神(だいにめいしん)、新名神高速(しんめいしんこうそく)、新名神(しんめいしん)など。かなりの高架、名称は『土山橋』。所在地 : 滋賀県甲賀市土山町山中-甲賀市土山町猪鼻路面までの高さは約35mか?長さは507m(上り線)あると。『土山橋』を潜る。7径間連続PCラーメン橋のこの柱は何回打ちしたのであろうか?そして国道1号線にこの先で合流。中央に『竣功記念碑』。『山中一里塚公園』碑。山中一里塚公園には、櫟野観音道(大原道)道標・鈴鹿馬子唄之碑・馬と馬子の石像などが。ここは江戸日本橋から数えて109番目(約428km)、京三条大橋からは16番目(約66km)となる一里塚跡である。『櫟野(いちの)観音道(大原道)道標』。『櫟野観音道(大原道)道標』「山中地区の旧東海道沿い、現在は第二名神高速道路土山橋の橋脚が建てられているこの附近から南西に伸びる道がある。 この山道は、古くから東海道と神村(甲賀町大字神)櫟野村(甲賀町大字檪野)方面をつなぐ生活の道として利用され、大原道とも呼ばれていた。当時、道標は東海道との分岐点に建てられていたが、幾度の道路整備により、現在はここ一里塚緑地に移転されている。 この道標には 「いちゐのくわんおん道」、側面には櫟野寺本尊の十一面観音の慈悲を詠んだ、虚白の 「盡十方世にはえぬきや大悲心」 という句が刻まれており、櫟野の檪野寺への参詣道でもあったことを伝えている。自動車交通の発達にともなう道路の整備が進み、山づたいに広がっていた生活の道はほとんど使用されなくなったが、わずかに残る道標は、道を通しての人々の交流を物語っている。」『鈴鹿馬子唄之碑』。『馬と馬子の石像』。駄馬を惹く馬子を表していると思われる石像だが、風雨に晒されたためか馬子の風化が著しいと感じたのであったが。『一里塚緑地碑』と『第二名神起工の地モニュメント』。『第二名神」滋賀県起工の地』「平成七年十二月十八日に当地滋賀県土山町山中地先の土山橋下り線の下部工工事が第二名神の滋賀県での最初の工事として着工されました。 当地が第二名神の起工の地であることを記念し、また、古より東海道の宿場町として道と共に栄えてきた “あいの土山” の未来永劫の発展を願い、ここに記念碑を建立します。」『土山橋』を振り返る。『山中一里塚公園』を見る。そして再び国道1号線を進む。江戸時代の東海道の道筋は山中一里塚あたりから土山宿までは右に左にくねくねと曲がりながら続いていたが、国道1号線が旧街道の道筋を突っ切るように一直線に敷かれ、旧街道はずたずたに分断されてしまったのだと。その結果、旧街道の筋道は跡形もなく失われてしまっていると。山中一里塚公園の国道1号線を挟んだ向かい側に、山手に入る旧道跡があるようであったが。この道は、直ぐ先で草竹コンクリート工業株式会社に突当り、消滅しているのだと。土山の名所案内標識。『東京より437km』あたりから左へカーブし下って行った。国道1号線を進み、『猪鼻交差点』が見えて来た。ここは江戸時代は猪鼻村だったところ。『若宮神社』社標のところから右折し、山中川方向に下って旧東海道に道筋に復帰するのであった。裏には『昭和一十七年 三河講中』と。『あいの土山』。あいの土山の「あい」はどういう意味か👈リンク を参照願います。『四季彩とやまびこの郷 やまうち』『猪鼻村碑』左手に東海道猪鼻村碑が建っていた。ここが猪鼻集落の江戸方(東側)出入口。猪鼻村は、土山宿から坂下宿間の立場 (休憩所) があり、草餅や強飯が名物であったと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.02
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次国道1号線に合流して直ぐ右側に渡ると、やや坂道になった僅かな旧道跡があった。旧道の途中に名残松があったが、現在は切株だけが残っていた。日本橋から434km地点を通過。前方に地下道入口が。先に進むと、右手筋角に大正5年(1916)の鳥居と明治27年(1894)の常夜燈が建っていた。この鳥居は昔はもっと南側にあったが、国道1号線の拡張工事で道路脇に追いやられたものだと。鳥居の柱の下部は地面に埋まっている模様。文字が刻まれていたが・・・・。街道左手には廃業した『山賊茶屋』があった。その昔、鈴鹿峠の一帯は山賊が出没し、往来する旅人はを金品を奪われる等して難儀したようだ。そんな昔話にあやかって名付けた店名なのだろうが、国道1号と化した峠道に山賊が現れるような雰囲気は今はない。茶屋の前には、「鈴鹿峠の馬子たちの俚謡 「のぼりくだりの おつづら馬 さても美事な 手綱染かいな 鈴をたよりに 小諸節 坂は照る照る 鈴鹿は曇る 間の土山 雨が降る」 と記された看板が建っていた。山中交差点を通過。山中交差点の左手に『馬頭観音』と『男女双体道祖神』が建っていた。右手に行くと県道187号線。『熊野神社』バス停。長閑な山里の風景。山中交差点の直ぐ先、左手に『熊野神社鳥居』があり、ここから100mほど参道を進むと『熊野神社』があった。旧東海道に面して建つ『熊野神社 一の鳥居』。『明治百年記念樹』碑。参道右手には茶畑が拡がっていた。珍しい形の注連縄。多くの稲穂がぶら下がっていた。石燈籠が並ぶ狭い参道。二の鳥居の扁額には『熊野神社』と。境内にあった『山中老人憩の家』。境内を見る。『熊野神社拝殿』。かなり新しい拝殿であった。拝殿に掛かる『熊野神社』の扁額。境内社の『愛宕神社』・『津島神社』。『稲荷神社』。扁額には『正一位 稲荷大神』と。『内陣』。東京より435km、大津まで50kmと。更に土山宿に向かって進む。国道1号線の東京より435㎞ポストを過ぎると、左手の国土交通省土山スノーステーションが。隣にポツンと『山神』社の石祠が。先の進むと、右手に『一本松緑地』があった。常夜燈があったが、近くに解説もなく不明な公園?であった。遠く前方右側に高架橋が現れた。左側にあったのが浄土宗の『清浄山 二尊院 十楽寺』。『甲賀四十三番観音札所 十楽寺』寛文4年(1664)の『南無阿弥陀仏』名号碑。『山門』。『山門』前の右側には天保3年(1832)の常夜燈が。『水子地蔵尊』。『歴代上人墓』。『鐘楼』。『十楽寺本堂』。十楽寺は、寛文年間(1661-72)巡化僧広誉可厭大和尚が万人講を勧募し本堂、庫裏等を完成し、念仏道場と定め、浄土宗総本山知恩院の直轄末寺となった。文化財案内にると、本尊は日本最大級の丈六阿弥陀仏如来坐像で、ほか十一面千手観音、救世観音坐像、摩耶夫人立像などが安置されているのだと。『故陸軍伍長墓碑』。『忠霊の碑』。『十楽寺の文化財』『石仏半跏像』。国道に戻ると『十楽寺』バス停。十楽寺バス停の北側にある熊谷板金の駐車場脇に『山中城址碑』らしき碑が建っていた。山中氏は、橘諸兄の後裔橘義清が鈴鹿峠山中に住して山中氏を称し、山中俊直の代に鈴鹿山麓の山中村地頭に任ぜられ、建久5年(1194)此処に城を築いたのだと。左手の杉の木の下に『山神』碑が、そしてその周囲には注連縄飾りが。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.01
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次国道1号線下り車線を潜り抜けていくと、ちょっとした広場に出た。この広場の奥に更に登り口があり、手前に東海自然歩道案内板が建っていた。案内図には、鈴鹿峠・坂下宿・筆捨山・観音山の案内が記載されていた。ここにはどの様な案内が書かれていたのであろうか?『東海自然歩道案内図』の前には、ごく最近設置された休憩用テーブル&ベンチが。『東海自然歩道案内図』。「鈴鹿峠三重県と滋賀県の県境にあり、「鈴鹿馬子唄」で名高い峠で、文化庁の「歴史の道百選」に選定されています。 東の箱根とともに東海道の難所でしたが、今は国道1号線が通り、自動車で楽に越すことができます。 峠の頂上近く自然歩道沿いに昔、山賊が道を通る旅人の姿を岩肌に写して危害を加えたという、県の天然記念物に 指定されている奇岩「鏡岩」があります。」年季の入った『東海道➡鈴鹿峠』。広場から階段を数段登って行くと、平成2年建立の『芭蕉句碑』が左手にあった。句碑には、「ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山」 と刻まれていた。裏面には 「貞享2年(1685)2月に伊賀を出発した芭蕉は、奈良・京をまわり、3月末頃鈴鹿山と呼ばれるこの峠を越えて江戸へ向かった。「ほっしんの」 句は、古くこの峠を越えた西行 「鈴鹿山 憂世をよそに ふりすてていかになり行く わが身なるらん」 に思いをよせて詠まれたものである」 と。『芭蕉句碑』前から先程利用した休憩用テーブル&ベンチのある広場を見下す。更に鈴鹿峠に向かって石段を登る。「鈴鹿峠鈴鹿峠(378m)を越える初めての官道は「阿須波道」と呼ばれ、平安時代の仁和2年(886年)に開通した。 八町ニ十七曲といわれるほど、急な曲がり道の連続するこの険しい峠道は、平安時代の今昔物語集に水銀商人が盗賊に襲われた際、飼っていた蜂の大群を呪文をとなえて呼び寄せ、 山賊を撃退したという話や、坂上田村麻呂が立鳥帽子という山賊を捕らえたという話など山賊に関する伝承が多く伝わっており、箱根峠に並ぶ東海道の難所であった。 また鈴鹿峠は、平安時代の歌人西行法師に「鈴鹿山 浮き世をよそにふり捨てて いかになりゆく わが身なるらむ」と詠まれている。 江戸時代の俳人、松尾芭蕉は鈴鹿峠について「ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山」の句を残している。」芭蕉句の直ぐ上に『馬の水飲み鉢』があった。かつて街道を上り下りする人馬のために水溜が置かれていた と。平成4年(1992年)関町教育委員会により復元された模様。『界杭』。三重県と滋賀県の界。さらに坂道を上って行く。根っこごと倒れた杉の木も。台風の強風による倒木であろうか。峠道を上り詰めると平らなところに出て、左手に東海自然歩道道標が建っていた。道標には、「←片山神社0.4km・坂下1.7km」 「山 女原4.1km・安楽越6.6km・石水渓9.3km→」とあり、裏側に向かって 「田村神社跡10m・鏡岩150m」と記されていた。その下に『豚コレラ 消毒用消石灰 下山時に使ってください』と。消石灰(水酸化カルシウム)は強アルカリ性(pH12)で、消毒効果を有し、 畜産分野の消毒でよく使われている石灰なのだ。靴底をこの消石灰で消毒して下山せよとのことであったが・・。『田村神社跡10m・鏡岩150m』との表示を再確認。『田村神社舊跡』案内に従って来てみましたが、石柱があるだけであった。鈴鹿峠に悪鬼が出没して旅人を悩ませており、嵯峨天皇は坂上田村麻呂に勅命を出してこれを平定させたという。田村神社は土山宿にもあり、坂上田村麻呂を祀っているが、かつてはこの地にも社殿があったのであろう。田村神社跡の先を更に100m程進んで行くと、鈴鹿山の鎧岩標柱があり、その奥に三角形に見える鏡岩があるのであったが行かなかったのでネットから。標柱には、「硅岩が断層によってこすられ、名のとおり露出面につやが出たものである。 鏡岩面の規模は縦2.3m、横2m。昔、この峠に棲む盗賊が、山道を通る旅人の姿をこの岩に映して危害を加えたという伝説から、俗に 「鬼の姿見」 とも云われている。」 と記されているのだと。案内板には、「鈴鹿峠頂上にある巨岩で岩面の一部が青黒色の光沢を帯びている。これは鏡肌(スリッケンンサイド)と呼ばれ、断層が生じる際に強大な摩擦力によって研磨され、平らな岩面が鏡のような光沢を帯びるようになったものをいう。昔、鈴鹿峠の山賊が、往来する旅人の姿をこの岩に映して危害を加えたので、「鬼の姿見」とよんだと伝えられています。」と記されていると。 【http://chantoyarouyo.seesaa.net/article/389067203.html】より「鈴鹿峠伊勢と近江の国境をなす標高三七八mの峠で、東海道は三子山と高畑山の鞍部を通っている。 都が奈良盆地にあるときは、伊賀から加太峠を越え伊勢へ入る経路(後に大和街道と称す)が東海道であった。 しかし、仁和二年(八八六)近江から鈴鹿峠を越え伊勢へ入る阿須波道と称する新道が開かれ、同年、斎王群行がこの新道を通って伊勢神宮へ向かうよう定められたことから、この鈴鹿峠越えが東海道の本筋となった。 峠越えが開通して間もない昌泰元年(八九八)、伊勢神宮へ下った勅使が山賊に襲われている(「伊勢公卿勅使雑例」)。 建久五年(一一九四)には源頼朝が近江国山中の地頭山中氏に盗賊の鎮圧を命じていることや(「山中文書」)、「今昔物語集」の蜂を飼う水銀商人が山賊を退治する逸話、「太平記」の坂上田村麻呂と戦った鈴鹿御前の話などから、 古代から中世にかけて山賊が横行していた様子がうかがえる。 また、「鈴鹿山」は伊勢国の歌枕として著名で多くの作品が残されている。 『拾遺集』 思ふ事なるといふなる鈴鹿山越えてうれしき境とぞきく 村上天皇 世にふればまたも越えけり鈴鹿山昔の今になるにやあるらむ 斎宮女御『新古今集』 鈴鹿山浮き世をよそに振り捨てていかになりゆくわが身なるらむ 西行このほか、峠頂上には磐座と推定される「鈴鹿山の鏡岩」や、坂上田村麻呂を祀った田村神社旧跡があり、これらは峠祭祀に関わるものと考えられる。 江戸時代、鈴鹿峠は「東の箱根峠、西の鈴鹿峠」と言われ、松葉屋・鉄屋・伊勢屋・井筒屋・堺屋・山崎屋の茶屋が建ち並び賑わっていた。 現在でもこれらの茶屋の石垣が残され、往時の情景を偲ぶことができる。」『伊勢参宮名所図会』。旧東海道に戻って更に進む。『鈴鹿峠』案内板の先にあった『界碑』は伊勢の国と近江の国の国境の標石。「界右 滋賀県 近江の国左 三重県 伊勢の国」平坦な旧東海道を更に進む。道標の裏には茶畑が広がり、その前に東海道碑・東海自然歩道道標・東海自然歩道解説が建っていた。『歴史の道 東海道 江戸⇔土山宿⇔京大阪』。『東海自然歩道 道標』。鈴鹿峠路傍休憩地まで0.3km。『東海自然歩道』「この歩道は、東京の「明治の森高尾国定公園」から大阪の「明治の森箕面国定公園」まで、美しい自然や文化財をむすぶ約1300kmの道です。 樹木や草花を大事にしましょう。 野鳥を愛護しましょう。 文化財を大切にし、歴史に親しみましょう。 たばこは吸がらに入れに、森林火災を起こさないよう注意しましょう。」 三重県側の鈴鹿峠を越えて、いよいよ滋賀県(近江国)へと入ったのであった。そんな場所にかって置かれていたのが『澤立場』。立場には松葉屋・鉄屋・伊勢屋・井筒屋・堺屋・山崎屋という6軒の茶屋があり甘酒が名物だったと。鈴鹿峠を往来する旅人は足を休めつつ、甘酒にほっと一息ついたことでしょう。残念ながら往時の様子を窺い知ることはできないが、わずかに石垣等の遺構が残存していた。そして未舗装の街道の左側には土山茶の茶畑が広がっていたのであった。『登山者の方へ』案内板。『東海自然歩道』東海自然歩道0.11km鈴鹿峠路傍休憩地0.08km km表示よりはm表示が解りやすいが。『鈴鹿峠 路傍休息地 公衆トイレ』。『まごの杖』「鈴鹿峠を登下山される皆様の安全と安心を祈念して、坂下・馬子唄会館と土山・万人講常夜灯の2箇所に、「まごの杖」を設置しています。 この杖は、正調鈴鹿馬子唄保存会の会員が、約1年かけて手づくりで作った杖です。 ”大切にご使用ください” 。この杖を使用された方は、必ず下記の場所に返納して下さる様、お願い申し上げます。」坂下・馬子唄会館の「まごの杖」は気が付かなかったのであった。『東海自然歩道』「鈴鹿峠は、古くから近江と伊勢を結ぶ交通の要衝で、旅人の往来安全のために灯された常夜燈の万人講燈籠が今もなお残っています。かもしか高原から安楽越までの稜線部からは、眼下に県内の山々や遠くは伊勢湾が望まれます。」舗装道の旧道を下って間もなく、『万人講常夜燈』が迎えてくれた。巨大な『万人講常夜燈』を見上げる。それぞれの巨石は乗っているだけなのであろうか、それとも一体構造になっているのであろうか?「万人講常夜燈万人講常夜燈は、江戸時代に金毘羅参りの講中が道中の安全を祈願して建立したものである。 重さ三十八t、高さ五m四十四cmの自然石の常夜灯で、地元山中村をはじめ、坂下宿や甲賀谷の人々の奉仕によって出来上がったと伝えられている。 もともとは東海道沿いに立っていたが、鈴鹿トンネルの工事のために現在の位置に移設された。 東海道の難所であった鈴鹿峠に立つ常夜灯は、近江国側の目印として旅人たちの心を慰めたことであろう。」土山町教育委員会➡甲賀市教育委員会にラベルにて変更されていた。これは町村合併によるものであろうか?近くに寄って。台座には『万人講』と刻まれていた。『東海道ネットワークの会 第1回 記念植樹』とあったが植樹された松は残念ながら枯れてしまっているようであった。峠道を下って行くと国道1号線の『鈴鹿トンネル』の近江側出口、そしてその上に『万人講常夜燈』が。遂に『滋賀県甲賀市(こうかし)』に入ったのであった。「こうが」ではなく「こうか」であることを知ったのであった。ネットで調べてみると。「甲賀というと伊賀と並んで忍者の里として有名だ。一般的には「こうが」と濁って読まれることが多いが、甲賀市の読み方は「こうか」と濁らず、かつての甲賀郡も「こうか」だった。甲賀郡には多くの古墳があり、古くから豪族達がいたことがわかっている。中でも有名なのが、渡来人系の鹿深臣(かふかのおみ)という一族で、この「かふか」に因んで地名が「かふか」となり、やがて「こうか」に転じて「甲賀」の漢字を当てるようになったと。従って、「こうか」と濁らなないのが本来の読み方なのだが、忍者の里として対比される「伊賀」が「いが」と濁るのと、「賀」という漢字の読みが「が」であることから、「こうが」と誤読されるようになったものだろう。」と。土山町集排マンホール蓋。「町の木(杉)、町の鳥(きじ) 、町の花(茶)」をデザイン化したもの。「鈴鹿トンネル:長さ276m」との案内板。こちらは、上り線 :亀山・四日市・名古屋・伊勢方面のトンネル表示。『万人講常夜燈』の先で、新鈴鹿トンネル(下り線 大津・京都・大阪方面)長さ : 395 mを抜けた国道1号線に合流したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.31
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次坂下宿を鈴鹿峠に向かって更に進むと国道1号線・下り車線との合流地点の手前の右手にあったのが『大道場 岩家十一面観世音菩薩』碑。江戸時代の「伊勢街道名所図会」の「坂下宿」に崖下に観音堂があり、その脇に滝が落ちている絵が描かれているが、これが岩家観音あるいは清滝の観音というもの。 【http://network2010.org/article/191】よりあたりには何もなく、奥に鉄製の門があるだけであった。「清滝の観音」というものがあるらしく、滝らしい音は聞えるのであった。鉄製の門は閉まっており、入れないと思ったが、鍵はかかっておらず、思い切って中に入ってみた。『一見観音即滅衆罪』と刻まれた石碑。阿彌陀仏に出会い一度心に念ずるだけで、それまで犯した無量の罪障を消滅することができるという意味なのであろうか。石段を上って行った。大正2年(1913)の地蔵菩薩を刻んだ供養塔。そして『観音堂』。この日は扉は閉められており、観音堂内の石仏3体は拝顔できなかった。『観音堂』横の『地蔵堂』。『地蔵堂』の『地蔵菩薩』。『観音堂脇』の『清滝』がこれ。流れの途中から、竹で作った分岐樋がありその末端から清水が流れ落ちていた。『観音堂』を後にし、旧東海道に戻る。片山神社1.1km、バス停鈴鹿峠1.2kmとあったがバス停鈴鹿峠は現在はないのでは?狭隘地を通り抜ければ国道1号の側道に合流。この場所の国道1号線は、上り、下りは別の道になっており一方通行。『旧東海道 鈴鹿峠(土山宿)⇔坂下宿』。青のパイプは下り線用の融雪水用配管。『お食事処 バーベキュー 鈴鹿峠』案内板。国道1号線の歩道に階段入口があり、ここから旧東海道が分岐していると思いこの階段を上り進んだのであった。よく見ると、手前の道標には「片山神社0.2㎞、旧東海道鈴鹿峠0.6㎞」 と記されていて真っ直ぐ進まなければならなかったのであったが・・・・。階段の先には、大正4年(1915)の『南無阿弥陀佛』名号碑があった。名号碑の奥は東海自然歩道。更に山道を上って行った。しかし、下り坂になり右手の方向に行くと『バス停坂下』に行ってしまうようなのでこの道は旧東海道の分岐ではないことに気が付き、国道1号線まで戻ったのであった。そして国道1号線に戻り進むと直ぐ先に、側道から分岐して、右手に鈴鹿峠への入り口が姿を現したのであった。道標『片山神社0.2㎞、旧東海道鈴鹿峠0.6㎞』。『片山神社』社標が左手前方に。杉林に中を進む。岩屋観音堂と片山神社の中間あたりにあるとされる「荒井谷一里塚跡」はこの辺りには見当たらなかった。更に案内板もなかったのであった。「荒井谷一里塚」は江戸日本橋より108里なのであったが。先に進むと、街道左手の窪地に小さな地蔵祠と新しい地蔵堂が建っていた。地蔵堂のあるこの辺りは古町と呼ばれ、慶安3年(1650)9月の大洪水で宿場が壊滅するまで坂下宿のあった所である。街道を横切る沢跡に『琴の橋』が架かり、沢の上流の右手に南無阿弥陀仏名号碑などが残っており、坂下宿の解説も建っていた。しかし現在は古町という地名が残るのみで、家一軒すら見当たらないのであった。「坂下宿~鈴鹿峠坂下宿坂下宿は、東海道を近江国(滋賀県)から鈴鹿峠を越えて伊勢国(三重県)に入った最初の宿場である。大永4年(1524)、連歌師宗長は 「その夜は坂の下の旅宿」(「宗長手記」)とし、弘治3年(1557)4月と8月には山科言継が大竹屋孫太郎宿に泊まっている こと (「言継卿記」) などから、少なくとも室町時代には宿として機能していたとみられる。このあたりは「古町」と呼ばれ、慶安3年(1650)9月の大洪水で宿場が壊滅するまで坂下宿のあった所である。 洪水後、坂下宿は約1km東に移転し、宿場集落として繁栄した。 なお、洪水以前の寛永14年(1637)に実施された「勢州鈴鹿郡坂下村検地帳」によれば、 坂下村全体で寺社のほかに111軒の人家があったとされる。 今も所どころに石垣が残り、往時の面影が偲ばれる。」片山神社片山神社は、延喜式内社で、元は三子山に祭祀されていたが、火災により永仁2年(1294)に現在の場所に移された (「片山神社縁起」) とされる。 明治以前は 「鈴鹿明神」「鈴鹿権現」と呼ばれ、「室町殿伊勢参宮記」(応永31、1424)にも「鈴鹿姫と申す小社の前に」と記されている。東海道はこのあたりから「鈴鹿坂八丁二十七曲り」の急坂が始まり、「東の箱根峠、西の鈴鹿峠」と言われた街道の難所、鈴鹿峠へと続く。」坂道をどんどん上って行くと、正面に『片山神社』の一の鳥居が姿を現した。坂上田村麻呂の山賊退治のまつわる伝説の女性、鈴鹿御前を祀ったことに縁起があるとされ、江戸時代には”鈴鹿権現”等とも呼ばれた『片山神社』。ここが鈴鹿峠の江戸方よりの本格的な上り口にあたる場所。右手にあったのが『鈴鹿流薙刀術誕生之地』碑。『延喜式内片山神社』社標。『孝子萬吉之碑』万吉は古町で生まれ、4歳で父を失い、6歳から茶屋の使い走りや旅人の峠越えの荷物を運び、わずかな賃銭を稼いで病弱な母を助けたのだと。『愛宕社』。片山神社は、延喜式内社で、元は三子山に祭祀されていたが、火災により永仁2年(1294)に現在の場所に移された。平成11年に社殿などを焼失したことから、鳥居の先の石段を上がると右手に新しい愛宕社があったが、更に上った社殿があった辺りは更地で、奥まったところに片山神社を祀った社があった。最上段奥にあった『片山神社社殿』。片山神社の祭神、鈴鹿明神は水害や火事の神様なのであるが、皮肉なことに社殿は平成11年(1999)の放火により神楽殿を残して焼失したのだと。境内最上段に有った文化12年の建立の『常夜燈』。現在も本殿は再建されず荒れ果てた状態であった。境内最上段から参道を見る。石段を下る。新しい石祠の『片山神社』か?その他にも常夜燈が数基。石段下の鳥居の周りの常夜燈は天保7年や文化12年の建立と。東海道は、片山神社の前から 「鈴鹿坂八丁二十七曲り」の急坂が始まり、「東の箱根峠、西の鈴鹿峠」 と言われた街道の難所である鈴鹿峠へと続いていたのであった。『常夜燈』の先で石垣のあるつづら折りの急坂を上ると、頭の上に国道1号線の高架が現れた。旧東海道は高架の下を通り、反対側の斜面へ上って行ったのであった。国道1号線高架下を抜け階段を上る。階段上に出ると後方に国道1号線の下り車線が姿を現したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.30
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次亀山市の『東海道五十三次の内 坂下宿 鈴鹿峠』イラスト案内図 表紙。案内イラストその1。東海道五十三次の48番目の宿場である。現在の地番は三重県亀山市関町坂下。かつては難所・鈴鹿峠を控えた宿場町として賑わい、江戸中期には本陣3、脇本陣1を含め旅籠51軒、町並5町56間あり(宿場の範囲は河原谷橋から岩屋観音までの約1kmであった。)、戸数約150戸、人口500人あまりと記録される。案内イラストその2。鈴鹿馬子唄では「坂の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に」(大竹屋は坂下宿の本陣の1つで小竹屋は脇本陣であった。本陣である大竹屋に庶民が泊まるのは不可能だが、脇本陣の小竹屋には少なくとも泊まってみたいものだ。)と唄われ、旅籠や本陣も数多く東海道有数の盛況な宿であった。 1650年(慶安3年)9月2日、宿場は土石流の被害を受け壊滅してしまう。幕府の援助を受け、1.3km東の現在の位置に移設される。案内イラストその3。1895年(明治28年)には関西鉄道が草津駅 - 名古屋駅間を全通させた(現在の草津線・関西本線)が、鈴鹿峠の勾配が蒸気機関車に障害となったため路線は西寄りの柘植経由となる。地域の経済を旅人相手の商売に依存していた坂下は、交通の要所から外れることとなってしだいに衰退していった。 現在は域内を国道1号の新道が通るが、旧街道沿いは民家も少なく、2005年(平成17年)の調査では戸数89軒・人口147人と過疎化が進行している。かつて繁栄した宿場町であったことを示すのは、本陣跡を示す、旧関町によるいくつかの石碑のみである。以上 ウィキペディアより。『坂下宿』本陣に向かって進む。かつて難所・鈴鹿峠を控えた宿場町として賑わい、江戸中期には本陣3、脇本陣1を含め旅籠51軒、町並5町56間あり、戸数約150戸、人口500人あまりと記録される『坂下宿』。左奥にあったのが『消防団第11分団坂下車庫』。その右手の道路沿いに石柱があった。『松屋本陣跡』碑。この後訪ねた『法安寺』の庫裡玄関となった門はかつてここら辺にあったはず。左手に『坂下集会所』。「明治28年には関西本線が開通したが、鈴鹿峠の勾配が蒸気機関車に障害となったため路線は西寄りの柘植経由となる。地域の経済を旅人相手の商売に依存していた坂下は、交通の要所から外れることとなってしだいに衰退していった。現在は域内を国道1号の新道が通るが、旧街道沿いは民家も少なく、平成17年の調査では戸数89軒・人口147人と過疎化が進行している。かつて繁栄した宿場町であったことを示すのは、本陣跡を示す、旧関町によるいくつかの石碑のみである。」とウィキペディアより。『坂下集会所』前のバス停・『伊勢坂下』。亀山市コミュニティバスの西部ルート〔総合保健福祉-伊勢坂下〕の終点駅。かつては鈴鹿峠越えをする三重県内と滋賀県内を結ぶ国鉄JRバスがあったとのことだが、採算が取れず、すでに廃止されているのであった。7,9,13,16時に1本のみで休日は運行していないようであった。『坂下宿』案内板が茶畑の前に。「坂下宿東海道を近江から鈴鹿峠を越え伊勢に入った最初の宿場である。貞和2年(1346)、京都醍醐寺三宝院の賢俊は伊勢参宮に赴いた折、「昼坂ノ下、夜垂水」と記している(『賢俊日記』)。同様に応永29年(1422)中原康宮が、同31年に将軍足利義量が参宮にあたり当地で小休止し出立している(『康富記』『室町殿伊勢参宮記』)。大永4年(1524)連歌師宗長は「その夜は坂の下の旅宿」(『宗長日記』)とし、弘治3年(1557)4月と8月には山科言継が大竹屋孫太郎宿に泊まっていること(『言継卿記』)などから、少なくとも室町時代には宿として機能していたとみられる。しかし、慶安3年(1650)の大洪水で宿が壊滅し、翌年現在地に移転し復興された。なお、かつての宿は片山神社下の谷間にあり「古町」と呼ばれている。 江戸時代には、東海道五十三次のうち四十八番目の宿場町として賑わいをみせ、東海道の難所である鈴鹿峠を控えて参勤交代の大名家の宿泊も多かった。江戸時代後半には本陣三軒、脇本陣一軒、旅籠四十八軒を数える東海道有数の宿となり、『東海道名所図会』には「此宿の本陣家広くして世に名高し(中略)海道第一の大家也」と記されるほどであった。しかし、明治23年(1890)関西鉄道の開通により通行者が激減したため宿場としての役割を終えた。」『伊勢参宮名所図絵』の『坂の下』。「東海道五十三次之内 阪之下 筆捨嶺 / 歌川 広重」阪之下の宿から筆捨山を眺望する。狩野元信が、この山を描こうとしたが、余りの美しさに筆を投げ捨て断念したという言い伝えがある。山頂までにところどころ、岩石が露出し、渓谷を形成し、二条の滝が流れている。茶店の旅人は、その絶景を眺め、清涼な空気をすって休んでいる。下からは荷を積んだ牛が茶屋に近付いてきている。『前田屋』が右手に。江戸時代に坂下宿の隣、関宿の名物だった団子餅”志ら玉”を復活させて製造販売する。こし餡をくるむ白の生地に、赤・黄・緑の飾り玉をのせる可愛らしい見た目の”志ら玉”は、東海道を往来する旅人に親しまれた。ここが鈴鹿峠を超えるまでの最後の店であった。『大竹屋本陣跡』碑が店の向かいに。「東海道を関宿から鈴鹿峠に向かって進んだ場所にある宿場である。貞和2年(1346)、京都醍醐寺三宝院の賢俊は伊勢参宮に赴いた折、「昼坂ノ下、夜垂水」と記している(『賢俊日記』)。同様に応永29年(1422)中原康宮が、同31年に将軍足利義量が参宮にあたり当地で小休止し出立している(『康富記』『室町殿伊勢参宮記』)。大永4年(1524)連歌師宗長は「その夜は坂の下の旅宿」(『宗長日記』)とし、弘治3年(1557)4月と8月には山科言継が大竹屋孫太郎宿に泊まっていること(『言継卿記』)などから、少なくとも室町時代には宿として機能していたとみられる。しかし、慶安3年(1650)の大洪水で宿が壊滅し、翌年現在地に移転し復興された。なお、かつての宿は片山神社下の谷間にあり「古町」と呼ばれている。 江戸時代には、東海道五十三次のうち四十八番目の宿場町として賑わいをみせ、東海道の難所である鈴鹿峠を控えて参勤交代の大名家の宿泊も多かった。江戸時代後半には本陣三軒、脇本陣一軒、旅籠四十八軒を数える東海道有数の宿となり、『東海道名所図会』には「此宿の本陣家広くして世に名高し(中略)海道第一の大家也」と記されるほどであった。」とその先、左手にも石碑が。『梅屋本陣跡』碑。大竹屋本陣跡の隣に位置するところ。その先に、鈴鹿川の支流に架かる『中乃橋(なかのはし)』。鈴鹿川の名前は大海人皇子が東国へ向かう途中、洪水に難渋しているところに駅路鈴をつけた鹿が現れ、その背に乗って川を渡ったという伝説から付けられたとされると。『中乃橋(なかのはし)』の手前の右奥の一段高い場所にあったのが曹洞宗の『鈴鹿山 法安寺』。山門前には享保4年(1719)の『南無阿弥陀仏名号碑』、嘉永7年(1854)の『西国三十三所順拝所碑』、『庚申手水石』などがあった。庚申と刻まれた手水石。見事な『山門』の彫刻そして屋根瓦。山門に掛かる『禅定峯』の扁額。『曹洞宗 鈴鹿山 法安寺』。『山門』の屋根瓦を境内から。牡丹の花が散りばめられていた。『三界萬霊塔』。境内の『庚申堂』。『庚申堂』の『地蔵菩薩半跏像』。『本尊善光寺分身如来』を祀る『法安寺本堂』。本堂に掛かる『鈴鹿山』の扁額。『本堂』の屋根にも『鈴鹿山』。松屋本陣玄関を移築した『庫裡』。「この鈴鹿山法安寺庫裡の玄関は江戸時代繁栄を極めた坂下の宿場で諸大名の休憩所となった松屋本陣の玄関であったのを明治十五年五月大字坂下七十九番地に坂下小学校舎改築の際学舎玄関に移築され昭和十三年四月沓掛地内の坂下村尋常高等小学校が移転新築される迄旧校舎の玄関として保全されていました。この玄関は文化財として希少価値があり昭和三十五年10月法安寺庫裡玄関に転用移築したもので昭和五十七年七月本堂改築当り屋根瓦の葺替を実施しました。」松屋本陣玄関を移築した玄関を正面から。『宝篋印塔』。『法安寺山門』から旧東海道、そして『梅屋本陣跡碑』を見る。『法安寺』を後にし、『法安寺』の横を流れる『鈴鹿川』の枝流に架かる『中乃橋』を渡って直ぐ右手にも石碑が。かつてここ『中乃橋』周辺には本陣や脇本陣が建ち並び、宿場の中枢をなしていたのだ。『小竹夜脇本陣跡』碑。鈴鹿馬子唄に歌われた小竹屋脇本陣跡だが「大竹小竹」の大竹とは本陣の大竹屋を指しており、本陣に宿をとるのは無理だが、せめて脇本陣の小竹屋には泊まってみたいという意が込められているのだと。鈴鹿馬子唄・「坂の下では大竹小竹 宿がとりたや小竹屋に」。先に進むと右手に『金蔵院跡』の石垣があった。『金蔵院』は、仁寿年間(851~853)に創建され鈴鹿山護国寺とも呼ばれた。江戸時代初期には将軍家の御殿が設けられ、上洛途中の家康や家光が休息した。その後、明治に入り廃寺となり、現在、石垣だけが残っていたのであった。前方右側の石垣の前には『地蔵堂』が。『身代わり地蔵尊』と呼ばれ、大名行列を横切った子供の身代わりになったと。民家が無くなって先に進むと、右手の石垣の上に男女2体の石像が建っていた。男性は刀を持っており、女性は杖を衝いているが、詳細は不明である。刀を持つ男の像。杖を衝いている女性像。その先にも廃屋?が。男女2体の石像を振り返るがこの詳細が知りたいのであるが。情報をお持ちの方は書き込みをお願いいたします。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.29
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次沓掛地区を更に進むと、右手の沓掛公民館の路地の奥に真宗大谷派の『超泉寺』があった。『山門』。『本堂』。超泉寺の創建年代等は不詳であると。本堂に掛かる扁額は『超泉寺』。本堂屋根の龍。鬼瓦。『沓掛』バス停。『沓掛』は近畿以東の各地に見られる地名。特に中山道碓氷峠の西側にあった沓掛宿は有名である。沓とは旅人や馬の草鞋を指し、旅の道中で履き替えた草鞋を神社や寺の枝木等に掛け、旅の安全を祈願する風習があったと。更に沓掛地区の旧東海道を上って行く。ここにも連子格子の旧家が。道路横には広くはないが田園が拡がっていた。正面の山は鈴鹿峠の東側にそびえる三子山(最高点が568m)で、その左側に鈴鹿峠があるのだ。鈴鹿川沿いの旧東海道に面した民家。『坂下簡易郵便局』。人の姿はほとんど見かけない旧東海道。正面に『三子山』。左から三子山南峰(Ⅲ峰)540m、三子山中峰(Ⅱ峰)556m、三子山北峰(Ⅰ峰)568m。坂下簡易郵便局から50mほど先の右手段上に『庚申堂』があった。堂は新しくなっていたが、中には宝珠のような石が祀られている。これが『庚申様』なのであろう。沓掛集落を行く旧東海道。道路整備はこれぞ日本!!。そして正面に三子山が再び。東海道における峠越えの二大難所、西の鈴鹿に三子山、東の箱根には二子山があるのであった。しかし民家の屋根が朽ちて今にも・・・。『坂下簡易郵便局』から500m程行くと道は三叉路になり、東海道は右側の狭い急な坂を登って行った。先に進むと比較的大きな近代的な建物が姿を現した。右手筋に東海道五十三次の宿場名が書かれた木柱が並んだ坂道が。旧東海道はこの道を進む。道路の左側に宿場名を記した木柱が。「日本橋」「品川」・・・。バス停『鈴鹿馬子唄会館前』。左手には『鈴鹿峠自然の家』駐車場があった。石垣の上に建つ『鈴鹿馬子唄会館』。見にくい『道標』。『鈴鹿馬子唄会館』の玉石塀に沿って進むと『坂下地区コミュニティーセンター 鈴鹿馬子唄会館』案内板が。『鈴鹿馬子唄発祥之地』碑。『鈴鹿馬子唄会館』の敷地内を探索。『歌川広重 東海道五十三次 坂之下 筆捨嶺』「坂下宿 上り下りの旅人で賑わっていた。江戸時代は大きな旅籠が軒を並べ本陣、脇本陣の規模は街道一とも言われた。往時戸数三百余りと栄えた。」「昔、狩野元信があまりの美しさに絵も描けないといって、筆を捨てたという岩根山。鈴鹿川を隔て、見晴らしのよい峠にある「藤の茶屋」からの風景は、さぞ絶景であったのでしょう。茶を飲みながら景観を楽しむ旅人が描かれています。山の下にある白い空間は川のもやを表現したのでしょうか。距離感を生み、自然の雄大さを見せています。」『鈴鹿馬子唄会館』の建物。亀山市乗合タクシーもここまで来るようであった。サッカーボールのような建物・『鈴鹿馬子唄会館』。「鈴鹿馬子唄の発祥の地として、末永く後世に伝えるため資料展示を行い、又生涯学習、地域文化創造の場として活用できる施設である。ホール150名収容(舞台昇降式)、会議室24名、和室8・12帖、調理室、ロビー展示コーナー(映像、グラフィックで紹介)、芝生広場(観覧席有)。市外の方にも貸し出しを行っています。東海道53次のマップをそろえ、京、江戸に旅する方の休息の場となっています。」「鈴鹿馬子唄」は旅人を乗せた駄賃馬を引く馬子(まご)が、鈴の音に合わせて「坂は照る照る鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」と口ずさんだ民謡で、伊勢湾側の「鈴鹿(坂下宿)」は晴れていても、峠を越えた近江側の「土山宿」では雨が降っている、という気象の違いを謡ったものであると。そしてその向かいにあったのが『鈴鹿峠自然の家(旧坂下尋常高等小学校)』。「鈴鹿峠自然の家(旧坂下尋常高等小学校)鈴鹿峠自然の家は、「坂下尋常高等小学校」 校舎として昭和13年(1938)に建てられた。 同小学校は、昭和54年3月に廃校となったが、その後は坂下公民館等として坂下地区の人々を中心に活用され、現在は青少年のための宿泊研修施設 「鈴鹿峠自然の家」として活用されている。校地は、山の西側斜面を整地して造られており、南側に校庭をとり、校舎は北側に寄せて建てられている。外観は、切妻平入形式の瓦葺で、正面玄関に切妻妻入形式で洋風の意匠を施した車寄せが突き出ている。外観はペンキ塗りの洋風下見板張りである。校舎は南北の2棟に分かれ、中央に中庭をとし、東西に廊下を設けて両棟をつないだロの字形の平面である。校庭に面した南棟は、中央に玄関をとり、西側には教室一室と職員室・校長室を、東側には教室一室と和室を設け、北側に廊下をとっている。また、北棟は、講堂と教室二室を設け、北側に廊下をとっている。平成11年、国土の歴史的景観に寄与しているとして、国の登録有形文化財(建造物)に登録された。」懐かしい校舎の姿。この校舎は松下奈緒主演のテレビドラマ「二十四の瞳」の撮影に使われたとか。そして敷地内にあるのが天文台『童夢(どーむ)』。定期的に星空観察会を開くなど、天文ファンの間では、密かな人気スポットになっているとのこと。「鈴鹿峠自然の家」の使用について。東海道53次の宿場名を記した木柱が沿道に並ぶ。「丸子」、「岡部」、「藤枝」、・・・これから向かう「坂下」、「土山」、「水口」・・・。現在地は「坂下」手前。最終ゴールの「三条大橋」も残り4日か?杉林の中の旧東海道を花粉対策用マスクをしながら進む。『下乃橋(河原谷橋)』を渡る。この川が沓掛と坂下の境にあたり、橋を渡ると48番目の坂下宿(さかのしたしゅく)に入った。坂下宿は鈴鹿峠の登り口にある宿場町で、天保十四年の東海道宿村大概帳によると、宿内軒数は153軒、人口は564人、本陣が3軒、脇本陣は1軒、旅籠は48軒の規模を持っていたと。坂下宿東側の町並みを進む。人口の割に本陣、脇本陣が多いこと、そして全戸数から割り出すと3軒に1軒が旅籠だったことになる。旅籠の数の多さはこれから鈴鹿峠を越えようとする旅人の多くがここ坂下宿に泊まることを想定してのことなのであろう。今ではひっそり佇む山あいの集落の一つ。現在残る街道の道幅が二車線となっているが、この道幅は当時からのものであると。ここ坂下宿は当寺物産の集積地だったので、他の東海道より広かったのだと。正面に見える山が『三子山』の一番左の山・南峰(Ⅲ峰)か。特別養護老人ホーム『華旺寿(かおす)』案内板。カオス( Chaos)とは 「混沌(こんとん)・無秩序」 という意味であるが特別養護老人ホームの名前としては・・・??漢字の文字面は良いが・・・・??そしていよいと『坂下宿』の中心部へと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.28
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『関宿・西の追分』を後にし、旧東海道は国道1号になって続くが、この先鈴鹿越えが待っているのであった。 箱根越えは天下の険として有名で、東海道一の難所であったが、関から土山までの鈴鹿越えのこの区間も、それに劣らなかったのだと。左に人気の焼肉店『びっくりや』が。甲賀まで27km、草津まで48km、大津まで63kmの表示も。甲賀が「こうが」ではなく「こうか」読むのだと初めて知る。『鈴鹿峠』への上り坂が始まる。三重県亀山市と滋賀県甲賀市をつなぐ標高約357mの峠。関宿からの標高差は約260m。滋賀県側は比較的なだらかだが、三重県側は高低差が激しく、いまなお「箱根峠に次ぐ国道1号有数の難所」といわれる。国道1号線は途中、上りと下りで道が分かれる一方通行の区間があり、県境はそれぞれのトンネル内に位置するのであった。少し歩くと、三叉路になり、右に行くと、『関ロッジ』。ここを上っていくと観音山公園に辿り着き、観音山公園からは関宿を一望できると。『東海道 三宿のまち 亀山市』。亀山宿➡関宿➡坂下宿『市瀬』交差点を左に折れ、国道1号線に沿って流れる鈴鹿川に架かる『ふれあい橋』を渡りチョット寄り道。鈴鹿川を見る。鈴鹿川の砂場には動物の多くの足跡?が。夜に水を飲みにやって来るイノシシ等の足跡であろうか?『躍動』と台座にある『町長の像』と。この像の意味、設置目的は?国道1号線に戻る。「東海道 関宿 歴史と緑の町」右の駐車場の中にあった巨石。『転び石(ころびいし)』。『転び石(ころびいし)』。転び石は、「東海道名所図絵」などにも描かれている。「弁慶ころがし」とも言われ言い伝えによると付近の山の上から転がり落ちてきて、夜な夜な山に戻りたいとうなり声を出して人々をおそれさせたが、通りかかった弘法大師がこの大きな石を供養したところ、石は静かになったと伝えられている。」また、鈴鹿峠から当時畑だったこの地に転がり落ちてきたという説、鈴鹿川に転落した石が自力でここまで戻ったという説等もあるのだと。小夜の中山の「夜泣き石」に似ているのであった。右のゆるやかなカーブに沿って進むと旧東海道は右に入る。国道1号線に架かる橋の手前を右に。橋の名は『いちの勢はし(市瀬橋)』であろう。橋近くから鈴鹿川下流を見る。再び同名の『いちのせはし(市瀬橋)』が前方に。何故に国道1号線に架かる橋と同じ名前?『市瀬橋』。『市瀬橋』を渡る。昔は市瀬橋より鈴鹿川下流約50m辺り、「はねかけ橋」と呼ばれる橋が架けられていたと。江戸時代の狂言師大田南畝(蜀山人)が書いた「改元紀行」にその名が見えると。市瀬集落の旧道はここを左側に江戸方面に伸びていたが、現在は橋が架けられておらず行き止まりとなっていると。我々はここを右に曲がり進む。市瀬集落を鈴鹿峠に向かって歩く。市瀬集落は江戸時代立場だったところで、道の両側には古い家が並んでいた。正面に国道1号線が姿を現す。『東海道➡坂下宿』と書いてあったのであろう。国道1号線の信号のない横断歩道を注意して渡る。市瀬集落はS字形になっていたが、途中で国道1号線に分断されていたのであった。道路脇には小さなお地蔵様が入った祠が。横断歩道を渡ると正面にあったのが『常夜燈』。その先にあったのが『西願寺』。市瀬集落の中央部にある『西願寺』。『常夜燈』。報恩謝徳の文字が。『西願寺』山門。扁額には『龍玉山』と。山門屋根の隅棟の鬼瓦と熨斗瓦の上の飾り瓦。『西願寺 本堂』本堂の屋根の主棟にも『龍玉山』と。この堂は?旧関町の汚水管のマンホール蓋。 旧関町の花・シャクナゲ、町の鳥・キジ、町の獣・シカ、周囲に、町の木・スギを描いていると。更に旧家の残る市瀬集落の旧東海道を進み再び国道1号線に合流。日本橋から427kmの表示。「亀山市名勝 筆捨山 昭和五十三年九月二十二日指定東海道から見ると鈴鹿川を挟んだ対岸に位置する標高二八九mの山である。 もともと岩根山と呼ばれていたが、室町期の画家狩野法眼元信がこの山を描こうと筆をとり、翌日描き残した分を続けようとしたところ、 雲や霞がたちこめ山の姿が全く変わってしまったため書き足すことができず、あきらめて筆を投げ捨てたことからこの名がついたと伝えられる。 江戸時代から名勝として世に知られ、東海道を往来する人々は、対岸の筆捨集落にある茶屋から四季折々の景色を楽しんだ。 歌川広重の保永堂版『東海道五十三次 阪ノ下 筆捨山』をはじめとして、浮世絵での坂下宿はほとんどが筆捨山を描いている。 浮世絵では山中に滝が描かれるが実際は筆捨山には滝は無く、近在の神大滝や岩屋観音の清滝の印象が盛り込まれているようである。」『東海道五十三次之内 阪之下 筆捨嶺 / 歌川 広重』。山頂までにところどころ、岩石が露出し、渓谷を形成し、二条の滝が流れている。茶店の旅人は、その絶景を眺め、清涼な空気をすって休んでいる。下からは荷を積んだ牛が茶屋に近付いてきている。『筆捨山』バス停。右手の鈴鹿川を見下ろしながら進む。右手の藪の中に『國道改良記念碑』の石碑が寂しそうに。そして左手にあったのが『坂下一ノ瀬一里塚跡』。107番目の一里塚には『一里塚阯』と刻まれた石碑が。そしてこの先で案内に従い再び右折する。国道1号線の先の正面に見えたのが『筆捨山』であろうか。『東海道』案内板。これより沓掛集落へ。この辺に木彫り像があるはず?であったが。『農村集落排水事業 沓掛地区浄化センター』。『沓掛地区浄化センター 汚水処理施設図』計画処理人口:170人の処理場。長年の仕事が頭の中に顔を出した瞬間であった。『観音山歩道案内図』。『道標』の文字は白く塗られて解読不明。いたずら?それとも補修工事の途中?東海自然歩道でもある旧東海道を進む。沓掛集落の旧家の前を歩く。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.27
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次次に訪ねたのが、やはり左側にあった『福生山 長徳寺』。浄土真宗佛光寺派の寺の『山門』。『本堂』。『本堂』には『長徳寺』と書かれた扁額が。境内の地蔵尊。地蔵尊の台座には歌碑が刻まれていたが・・・。蝋燭台にも歌碑が・・・。子安地蔵尊であろうか。伊勢型紙を用いた手摺り御朱印の自動販売機が置かれていた。日にちは『吉日』表示、500円とのことで遠慮したのであった。御朱印も自動販売機とは・・・・。民家の庭の立派な松の下にも大きな石碑と石灯籠が。連子格子戸には蔓で作ったリースが飾られていた。松ぼっくり、綿花、カラスウリ、赤&オレンジの実を配したリース。こちらは松ぼっくり、南天の実を。この家の方の手作りであろうか。更に『西追分』に向かって進む。こちらにも綿花が。連子格子の平屋が続く。虫籠窓のある旧家がここにも。鶴の姿が。こちらの旧家には、波の中で踊る魚、いや鯉の滝登りであろうか。路面に埋め込まれた道標には『観音山公園 関ロッジ 350米』と。青空の下、重要伝統的建造物群保存地区・新所の街並みの散策を楽しむ。ここ新所には関宿の名産竹火縄を造る火縄屋が数十軒あった。火縄を火縄銃をはじめ、煙草の着火にも用いられたため、庶民からの需要も多かった。関宿には旅人相手の火縄売りも多くいたようだと。火災に備えて西には火除け土手、長徳寺前には火除松林がつくられていたと。鈴鹿の山々がだんだんと迫って来た。右手に『金光教 関教会』入口。金光教は安政6年(1859年)、備中国浅口郡大谷村(現:岡山県浅口市大谷)にて赤沢文治(川手文治郎)、後の金光大神(こんこうだいじん)が開いた創唱宗教である。同じ江戸時代末期に開かれた黒住教、天理教と共に幕末三大新宗教の一つに数えられる。現在の本拠地は岡山県浅口市金光町大谷である(旧町名由来の金光町という地名は金光教の本部があることから付けられた)。祭神は天地金乃神(てんちかねのかみ)と生神金光大神(いきがみこんこうだいじん)である。教主は金光平輝(こんこうへいき、五代金光様)、教務総長は西川良典(にしかわよしのり)。日本を中心に約1500の教会・布教所、41万人の信者を有すると。山門柱。『境内』。『本堂』。隣りにあったのが『観音院』。『観音院』の本堂。「観音院 略由来古くは「関西山 福聚寺」と言います。 嵯峨天皇の御代(820)に開創されたと言われ中世土地の豪族関氏の祈願寺として栄えました。 当時は城山の西方に在り、戦国末期兵災にかかりすべてのものは焼失しましたが幸い御本尊一躰は難を免れました。 徳川家江戸幕府の武運長久を祈願すべしと「先規の例により将軍の武運長久を祈願すべしと観音山と佛供田を残されたのであります。 寛文年間に至り(四代家綱(1665))当地にお堂を建立し「関西山 観音院」と号するようになりました。 当院は東海道関宿の守り佛としてのちには観音山に西国三十三ヶ所の霊場を開き、人々の篤い信仰によって支えられて来ました。 今は関町内の信徒講員によって外護せられ昭和五十年四月、平成二十三年三月当宇の大修理が行われました。八千とせに たのまぬ人も みちびけよ 鈴鹿の関の十一面観世音」木箱の如き意匠で被われた分別収集用のごみ箱が並ぶ。堂の片隅には石柱、そして横の自然石碑には「大峯山」の文字が。石柱には「西国三十三所 観音山 公園道」と刻まれていた。観音山公園(三重県亀山市関町新所)に、西国三十三所の石仏群があると。石碑前からの旧街道。ここにも鶴の意匠が。何処までも続く連子格子の旧家の家並み。『南禅寺 井口家』。「南禅寺 井口家井口家は、屋号を南禅寺と称し、関宿西追分にあって豆腐料理を名物とする料亭であった。当時西追分は宿屋が建ち並び旅人がひきもきらず賑わったという。同家は文久の頃の建物といわれ、道路に面して連子格子、塗ごめの中二階があり、料亭の面影をよく残している。」『西の追分』が迫って来た。右手奥に社殿が。『関神社御旅所』。『御旅所』は、「関宿祇園夏まつり」の「神輿の渡御」に係わる大切な場所で、1年に1回だけ、神輿の宿所として使われる建物。関宿の「西の追分」近くに,昭和10年ごろ建てられた『御旅所』が老朽化してきたために今回改築されたもので,初期の御旅所と同じ形に復元された。平成25年7月20日に行われた「関宿祇園夏まつり」から神輿の宿泊所として使われた と。手水場であろうか。左手に『関宿 西の追分休憩施設』。裏庭に井戸が残っており、古民家を改装したものか。この先、トイレがしばらくないので、ここで済ますのが良いのであった。『関宿周辺案内図』。このオレンジの街道・重要伝統的建造物群保存地区を前回、そして今回と15町13間(約1.7km)を歩いたのであった。関宿の京方出入口、西の追分。東海道から伊賀・奈良方面へ通じる大和街道が分岐する。『西の追分』案内板。「西の追分関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、これが地名の由来ともなっています。慶長六年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次で四十七番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。古文書によると天保14年(1843)には、家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ(東海道宿村大概帳)、鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。ここ西の追分は大和街道との分岐点にあたり、東海道、京都方への次の宿は坂下宿で、鈴鹿峠を越えて京都へは19里半(78Km)あります。また大和街道は加太越えをして伊賀から奈良に至ります。」『従是 東海道関宿 亀山市関宿重要伝統的建造物群保存地区』石柱。西の追分に残る『法悦供養塔道標(題目塔道標)』といわれる高さ2.9mの石の道標。元禄14年(1691)に谷口長右衛門が旅人の道中安全を祈願して建立したもの「南無妙法蓮華経」の下に「ひたりハいか やまとみち」と。伊賀大和道とは加太(かぶと)峠を越えて、伊賀上野、奈良に至る大和街道のこと。裏面にも「南無妙法蓮華経」。西の追分広場にあった浮世絵・『歌川広重 東海道五拾三次 関 本陣早立』まだ明けやらぬ早朝、伊藤本陣を出立する大名行列。「大勢の人数を従えた大名行列の移動は大変で、まだ明けやらぬ早朝の暗いうちから出立の準備があわただしく始まります。濃い灰色の濃淡と黄緑色の配色は、日の出を間近にひかえた早朝の雰囲気を伝えています。昔ここに、鈴鹿の関があったことから関宿といわれ、近江の相坂の関、美濃の不破の関とともに三関に数えられました。」次に目指すのは『坂下宿』なのであった。歩いて来た関宿旧東海道を振り返る。ここは、柘植、上野を経て大和へ出る「加太(かぶと)街道」の追分で、写真を右に行くと、現在は国道25号になっているのであった。そして鈴鹿峠への上りが始まったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.26
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次741年、開創と伝わる名刹で国の重要文化財に指定されている関宿のシンボル的存在の『地蔵院』の境内の角の三叉路に建つ文久2年(1862)の『常夜燈』と『歴史の道』碑。そして左には『停車場道』と刻まれた石柱も。明治23年、四日市と草津を結ぶ関西鉄道が開通した時、関停車場への道として整備されました。「ステンション道」と呼ばれていたそうです。三叉路にあったのが真言宗御室派の『九関山 宝蔵寺 地蔵院』。関地蔵院は日本最古の地蔵院で、本堂、愛染堂、鐘楼が国の重要文化財に指定。ここには地蔵菩薩が安置されており、関のお地蔵さんと呼ばれている。この世とあの世の苦しみから人々を救ってくれるのがお地蔵様。『地蔵院』の横にあるのが『岡崎酒店』。『ほ庵』店頭のライオン像は何を咥えているのであろうか?『小万茶屋』。二階に洋風意匠の窓がついた『洋館屋』その隣が『會津屋』。現在は地蔵院前で手作りおこわと、街道そばの店『會津屋』であると。『い 一休が 開眼供養の 地蔵院 関宿かるた』。『会津屋 森元氏宅会津屋は鶴屋・玉屋とともに関宿で有数の大旅篭であった。明和から天明にかけて会津屋の前身山田屋で育った小万が女の身で亡き父の仇を討った烈女「関の小万の物語」は有名である。」鈴鹿馬子唄に「関の小万が亀山通ひ 月に雪駄が二十五足」と謡われた仇討ちの烈女、小萬が育った家。『あいづや』木灯籠。以前は大きなタヌキの置物が置かれていたようであったが。中町の外れ手前の民家も一面の連子格子造り。右手の外れのここが『関見世吉右衛門』。昨年12月にオープンした店であると。関宿に、築150年の古民家を改装した土産物店『関見世吉右衛門』。『関見世吉右衛門』。そしてこの先、『西追分』までが『新所の街並み』。新所の街並みの朝景、この日はこれから奥に見える山の鈴鹿峠を越えるのであった。『東海道 東追分⇔西追分』案内板。中町の街並み方面を振り返る。右手奥が『地蔵院』。『新所の街並み』が続く。民家の玄関には『伊勢 笑門 飾り』が。関宿の伊勢講に所属する家々では、「笑門」と記した「注連飾り」を一年間通して玄関口に飾り付けているようであった。「注連飾り」の飾り付けは、正月準備として年末に行われ、 それまで付けられていた前年の「注連飾り」は、大晦日の「年 越し参り」の折の「かがり火」か、翌年 1 月 15 日に行われ る「どんと」で焼かれるのだと。連子格子の街並みを楽しみながら進む。中二階には虫籠窓のある旧家が多い。旧家の維持管理の大変さに思いを馳せながら。民家の門。連子格子の民家の先の、屋根付き板塀の上には。大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶・布袋様が。右手にあったのが『誓正寺』山門。山門屋根の鬼瓦の意匠も見事。『誓正寺』境内。『誓正寺』本堂。見事な屋根瓦の飾り瓦。これも本堂の見事な彫刻。陸軍歩兵慰霊碑。『誓正寺の筆子塚』。本堂の前に石灯籠のような形をした筆子塚が。「誓正寺の筆子塚この灯籠は高さニメートル四◯センチあり「正定院筆子中」と刻まれています。「筆子中」とは、寺子屋で教育を受けた門下生たちのことです。誓正寺の筆子塚は住職であった正定院宝瑞を先生とする教え子たちが学恩に感謝し、慶応四年(一八六八)に建立したものです。竿石の裏面には、宝瑞先生のプロフィールが記されています。宝瑞先生は文化十〇年(1813)長野村(津市美里町)清芳寺に生まれ、天保九年(一八三八)に誓正寺住職となり寺を再興し子供たちに習字などを教えお酒が好きで、慶応二年(一八六六)に住職を引退したとあります。幼いときの学恩を忘れず、慕いつづけ筆子塚を建立した教え子たちと、お酒が大好きな先生との間の人間味あふれた深い絆は、今日の社会でも求められている大切なことではないでしょうか。」『正定院筆子中』と刻まれている石灯籠。竿石の『裏面』には、正定院宝瑞先生のプロフィールが記されていると。『誓正寺』の墓地。白梅も開花間近。更に関宿の街道を進む。東海道の地道風カラー舗装や無電柱化などはこの地域にも。屋根の上の白い花の漆喰意匠。時間が経過しても朝の関宿・『新所の街並み』には人の姿はなし。時間は金曜日の7:36。屋根の上のこの像は『鍾馗様』か?正面にこれから超える鈴鹿の山の姿が。この民家の屋根の上にも。鯉を抱える『恵比寿様』。2階建ての大きな旧宅。町屋の正面二階の漆喰で塗籠た縦格子の虫籠窓。これが『虫籠窓』。そしてこの家の軒下にも、幕板が取り付けられていたが、これは風雨から家先を守る霧除けの役目をするのだと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.25
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次昨日、約2年前から始めた『旧東海道を歩く』を完歩しました。今回は水口宿から出発し、石部宿、草津宿、大津宿、三条大橋まで3日間の歩きとなりました。昨日は「大津駅」を7:45に出発し、「大津宿」、「逢坂の関記念公園」を通過し「大津・追分」から「山科」、そして「天智天皇 山科陵」を訪ね、その後「蹴上インクライン」から「三条通り」に入り、柳の新緑が美しい「白川」沿いにあった「明智光秀首塚」を訪ね遂に「日本橋」から492kmを延べ32日間で完歩し、「京都・三条大橋」に13時JUSTに到着しました。「完歩」の記念撮影。東海道五十三次の絵図が描かれた手ぬぐいを持って撮影しましたが、風が強くて。彌次・喜多で仲良く。この手ぬぐいは「袋井宿」で購入。この手ぬぐいには距離:約495kmと。こちらは出発点の「日本橋」から。「鴨川」に架かる「三条大橋」。「三条大橋」を渡る。渡りきった西橋詰左手に『弥次喜多像』。十返舎一九の東海道中膝栗毛に登場するお馴染みの人気者の二人が銅像に。今回の「旧東海道を歩く」は、我々もSさんとの「弥次喜多道中」なのであった。もちろん、私が「文武に優れ、真面目、世情に疎く、人にだまされやすい」・「弥次」さん!!そして、旅友のSさんは、「女性好き、喧嘩が強く、豪放磊落な性質」の「喜多」さん。東海道中膝栗毛とは異なり、実際の年齢は「喜多」さんが大先輩で反対ですが・・・。『弥次喜多像』の前で記念撮影。『歌川広重 東海道五拾三次之内 京師 三条大橋』「江戸・日本橋を起点に始まった東海道五十三次の旅も、この京の玄関口、三条大橋が終着地点である。鴨川に架かる三条大橋。川の向こうには古都の町並み、その背後には東山三十六峰が見える。この三条大橋の橋桁は木組みで描かれているが、実際の三条大橋は石組みだった。この点を含め、リアルに描かれていたのは「三島」あたりまでで、以降の宿場は想像や他の資料に基づく図が多くなっていることから、広重が八朔御馬進献に同行し京へ上洛したとの説を疑問視するむきもある。橋の上には雅やかな姿も見られ、そこを渡る人々の取り合わせもおもしろい。遠景には東山36峰と比叡山が描かれている。当時、江戸・京都間を普通に歩けば十数日の行程であったという。」 【http://chisoku.jp/collection/au-0014/i00420/】より『弥次喜多像』横から『三条大橋』を見る。「三条大橋この橋の架けられた年代については明らかでなく、室町時代前期には、すでにごく簡素な構造をもつ橋として鴨川に架けられていたものと推定されるが、本格的な橋となったのは天正十八年(1590)で、豊臣秀吉の命によるえい奉行増田長盛が大改造を行った。また、擬宝珠は天正と昭和のものが混用されているが、その銘によると、「洛陽三条の橋は後代に至るも往還の人を化度とせしむるもの也、磐石の礎は地に入ること五尋、切石柱は六十三本也(以下略)…」とあり、いかに大工事であったかをうかがわせる。かつてはここが東海道五十三次の西の起点にあたり、重要な交通上の要衝であった。以後たびたび流失したが、幕府が管理する公儀橋としてすぐ修復された。元禄以来、たびたびの改造を経てきたが、昭和二十五年の改造によって今の姿に改められた。現在の橋の長さは七十四メートル、幅十五・五メートル。なお、橋の西詰めは、高札場とされたところで、現在も天正年間の大改造の際に使用された石の柱が残されている。」「四国八十八ヶ所霊場めぐり」では結願の寺となる第88番札所「大窪寺(おおくぼじ)」で「結願証」を頂きましたが、今回は個人による「歩き」でしたので自ら「完歩証」を作って遊んで見ました。今回の「旧東海道を歩く」のエピローグは後日、ブログにアップさせていただきます。さて次は何に挑戦するか思案中です。
2020.03.24
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は2月21日(金)、この日も元気に早朝起床し朝食を取る。6:30にこの日に目指す鈴鹿峠➡土山宿に向かって出発点の関宿を目指してホテルを出発。『ホテルエコノ亀山』。朝の陽光が迎えてくれた。そして右手に前回歩いた関宿の入口を確認。『関駅前』交差点を左折し駅前駐車場に車を駐める。『関駅』にはタクシーが1台。駐車料金は1日300円と格安。車名、車のナンバーを記入してこの茶袋に駐車料金300円を入れて、駅構内に設置されているポストに入れるのであった。これが駐車料金用のポスト。関駅前の『東海道 関宿』道標と『関宿観光案内図』。国道1号線から県道11号線に入り直ぐ右折して『関宿伝統的建造物群保存地区』に向かって進む。左手にあったのが『天理教鈴鹿分教会』。そして『関宿伝統的建造物群保存地区』の『中町四番町山車庫』前に合流し左折して、前回の復習を始めたのであった。この日の朝も正面に『関地蔵院』の本堂の大屋根が見えた。左手に『吉野屋』。この朝も人の姿はなし。家の軒下には、『幕板』が取り付けられているが、これは風雨から店先を守る霧除けの役目をするのだと。『骨董 琵琶屋』。『岩田商店』。『鶴屋脇本陣跡』。二階壁面に千鳥破風を乗せた派手ではあるが美しい意匠であった。『鶴屋脇本陣跡』の隣に『問屋場跡』があり、『山車庫』が。ガラス人形。『川北本陣跡』碑が右手に。左手に『東海道関宿』碑。連子格子に覆われた『松井電気』。『伊藤本陣跡』碑。「伊藤本陣 松井家伊藤本陣は、川北本陣と並んで東海道関宿の中心的な役割を果たした。本陣とは宿駅に設けられた大名や公卿高僧など身分の高い人の休泊する宿を指すようになった。伊藤本陣は間口11間余 建坪69坪 西隣の表門は、唐破風造りの桧皮葺であった。現在残っている街道に面した部分は、家族の居住と大名宿泊時に道具置き場に供する建物である。」『橋爪家』。「橋爪家同家は、代々橋爪市郎兵衛を名乗り、寛文の頃から両替商を営み、江戸にも出店を持ち、大坂のこうの池と並び称せられる豪商であった。江戸末期には、芸伎の置屋として栄えた。街道に面して手すり付き二階妻入り建てで、これは明治期の改造で、もとは、平入りの屋根であった。」右手には狭い路地が。『東海道のおじなさま』ポスター。右側に冠木門が。『旅人宿 石垣屋』。石垣屋の段飾り。「石垣家 辰巳屋初代石垣の杢平(享和二年、一八〇三年生)が朝明郡保々村より来る。二代目杢平は肥料商を始め、後に米穀の販売等を手掛けて明治二四年に当屋敷を建てた。現在中庭には当時の米擂石牛繋石敷石等が利用されている。五代目敏夫は戦後ここで昭和末年まで医業を営んだ。」新聞販売所の建物の屋根には七福神が。『恵比寿、大黒』様。『関郵便局』。慶応元年創業の伊藤彦一商店『伊藤茶』。大きな壺が。お茶を保存するものなのだろうか。『三重県茶商工業協同組合 組合員之証』関郵便局の前に『関宿高札場』。『毒薬札』は毒薬やにせ薬の売買を禁止するもの。もし違反すれば、その罪は重い。『にせ金札』はにせ金銀の売買を停止する。すべてにせ物を造ってはいけないなどが記載されている。『キリシタンの密告を求める高札』。「定 きリしたん宗門は累年御禁制たり 自然不審成ものこれあらば申出べし 御ほうびとして ばてれんの訴人 銀五百枚 いるまんの訴人 銀三百枚 立かへり者の訴人 同 断 同宿并宗門の訴人 銀百枚 右之通下さるべし 縦同宿宗門の内たりといふとも 申出る品により銀五百枚被下へしかくし置 他所よりあらハるゝにおゐては 其所の名主并五人組迄 一類共に可被行罪科もの也 正徳元年五月日 奉行」『火付高札』。『駄賃并人足賃銭』。『駄賃并人足荷物の次第』。『徒党札・徒党禁止の札』。『駄賃并人足賃銭 割増』左手に『旅館 魚藤』。右手の大きな瓶には『骨董屋』の文字が。そして昔の貨幣が格子戸にぶら下がっていた。『寛永通宝』。『ナガオ薬局』。『白玉屋 三宅家』。関宿名物『志ら玉』の店。右側に連子格子の引き戸が並んでおり、その隙間から庭を。『化粧品 はらや』。『いっぷく亭』前からカメラを構える『あしながオジサン』の陰とその先に『関地蔵院』の本堂が。関宿の特徴をもっともよく表す景観は、鈴鹿の山々を背景にしたこの地蔵院の屋根を中町の町並み越しに見たところ。地蔵院はふるくから関の中心で、東海道はここで緩く右にカーブしていた。右手『聖石屋』の屋根の主棟鬼瓦。隅棟の先端の飾りは葛飾北斎の『神奈川沖波裏』の波のごとし。『門音 尾崎家』今は『ANTIQUE 江戸屋』。『門音 尾崎家』。「尾崎家は地蔵門前町の米屋で鈴鹿川の水で米をつく水車の音から屋号をとって川音と称した。同家は文久頃の建物と言われる。間口七間半、通り庭をはさんで左手に屋敷、右手に米を収蔵する家うちの土蔵がある。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.24
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次愛知県道458号線・一宮弥富線を更に南下すると、『東名阪自動車道』高架が前方に。名鉄津島線に沿ってイオンタウン弥富前を通過。関西本線、近鉄名古屋線高架下を通過。そして国道1号線に入り木曽川に架かる尾張大橋を渡る。次に長良川に架かる伊勢大橋を渡る。左手にが現れた。『長良川河口堰』は、その設置によって塩水のそ上を防止し、塩害を生じることなく川底を掘り下げることを可能にし、洪水を安全に流下させる。一方、堰上流が淡水化され、堰に貯留された水を水道用水や工業用水に利用可能とするもの。11機の調節ゲートを操作する大きな上屋が並ぶ姿は壮観であった。伊勢大橋を渡る。閘門(こうもん)部分。閘門は、堰の右岸側に設置された船の通り道。通航する船舶が通船要求引き綱を引き、合図することにより操作を開始。船が通らない時間帯は、ロック式魚道として運用していると。国道1号線から国道23号線に向かうと、左手ビルの屋上には黄色の巨大なアヒルが。国道23号線はしばしの渋滞。左手に『JERA 川越火力発電所』が。JERAは、東京電力グループと中部電力とが共同で設立した発電会社。『朝明川(あさけがわ)』に架かる『朝明大橋』を渡る。『富洲原橋』を渡る。沖の四日市港霞埠頭への渡し船がこの下から出ていると。シドニー港通り手前のコンテナヤード前を通過。『JERA 四日市火力発電所』。そして、この後に前回訪ねた場所の不鮮明な写真の場所に立ち寄り再撮影しながら進んだのであった。『血塚社』は日本武尊の足から流れ出た血を封じた場所とか、御神体が日本武尊の血がついた石であるという言い伝えがある。境内に石が積まれているのは、御神体が石であるからといって積む人がいるためであると言う。旅友が『石薬師寺』の梅が開花しているのではとのことで立ち寄る。白のしだれ梅は開花が始まっていた。紅梅も。しかし境内全体の開花はこれからであった。更に、前回撮り残った境内の場所の写真は前回のブログに追加アップしています。そして近くの『蒲冠者範頼之社(御曹司社)』を訪ねて再撮影。更に『石薬師の蒲桜』にも。庄野町の国道1号線を走るが夕焼けが迫っていた。日田川駅手前の安楽川に向かって進む。鈴鹿市に入ったところで道脇に日の丸デザインの飛行機(旅客機)と再会。横田商店と言う中古建築機械取扱業者の目印になっているのだと。『井田川駅口』交差点を通過。JR関西線に沿った県道28号線・亀山白山線を進む。この日のホテルの姿が漸く見えて来たのであった。そしてJR亀山駅近くの『ホテルエコノ亀山』に到着。時間は17時。チェックインに向かうと、予約の部屋は格安価格であり、19時からチェックイン可能とのことで止む無く車に戻り、2時間の時間調整に向かう。まずはJR亀山駅前に。亀山駅前ロータリーの駐車場に大きな鳥居が立っていた。駅前の観光地図を見ても付近に大きな神社が見当たらず、鳥居だけとなっているようであった。ネットで調べてみると能褒野神社一の鳥居の位置付けとなっていた。能褒野神社自体は亀山駅からかなり離れており、最寄駅と云え居るのは、名古屋方面隣駅の井田川駅であるようであった。石鳥居の『能褒野神社』の扁額。そして前回訪ねた約6km先にある『関宿』に向かったのであった。前方に鈴鹿の山々の山の端が鮮やかに。西空も赤く染まって。そして『関宿』に車で入り、シャッターを押しながら国の「重要伝統的建造物群保存地区」をゆっくりと進む。人の姿も殆どなし。灯りも街路灯が所々にのみ。私は車から降りて暫しの散策。『東海道のおひなさま 亀山宿 関宿』が2/15~3/7にて開催中であった。連子格子の隙間から中に飾られていた雛飾りを撮影する。『男雛(おびな)、女雛(めびな)』。別の場所の段飾り。上から親王(男雛・女雛)、三人官女、五人囃子、??、随臣、仕丁。こちらにも。こんな人形も。『関郵便局』。武士と旅人の顔出しパネル。『高札場跡』。手前の『尾崎酒店』と『小万茶屋』。『会津屋』『あいづや特製 山菜おこわ』の看板。ここにも七段飾りが。『会津屋』を反対側から。「重要伝統的建造物群保存地区」を振り返る。そして時間調整を終わり、翌日に車を駐めておく、関駅に立ち寄り駐車場の駐車料金の支払い方法の事前確認を行う。そして時間もチェックインの19時に近くなってきたので、宿泊ホテルに向かったのであった。左手には、怪しい?ホテルがあったがビジネス用、観光用にも泊まれるのであろうか?そしてホテルに戻り我が部屋で、事前にコンビニで買い込んでおいたビール、焼酎でこの日の反省会を行った後、長い1日も終わり爆睡したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.23
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『光圓寺』を後にし、『佐屋路』を進むと前方に再び『名古屋高速5号万場線』の高架が姿を現した。くねくねと曲がる『佐屋路』。『新川』に架かる『砂子橋』を渡る。『砂子橋』から『名古屋高速5号万場線』を見る。中央分離線のない狭い『佐屋路』・県道117号線。大治いずみ幼稚園前を通過。ここを左に。正面には佐屋街道『高札場跡』。正面に『名古屋第二環状自動車道』が。『名古屋津島線』の『西條平ヶ野』交差点を渡る。『名古屋津島線』の『神守町』交差点手前。『神守町』交差点の右先に小高い丘が見えて来た。右手に『神守の一里塚』。右手(北側)のみに残る『神守の一里塚』。南側は民家の庭になっていて、通りからは、その跡が見られなかった。『神守ふるさと散歩道』案内板。「神守の一里塚江戸時代、佐屋街道の一里塚の一つとして作られた。一里塚は街道の両側に一里(約4㎞)ごとに設けられ、その上にエノキを植えて旅人の目印にした。昔は北側の塚が東西7.3mメートル、南北6.7mメートル、高さ1.5mの小山でムクが植えられ、南側の塚は長径5.5m、短径4m、高さ1.4mメートルの小山にエノキが植えられていたという。佐屋街道の一里塚の中で、最後まで街道の両側の塚が残っていたのはここの一里塚であったが、今は北側の塚が残っているだけである。」一里塚の丘の上には『表忠碑』と石灯籠が。津島市の汚水管マンホール蓋。日本三大川まつりのひとつに数えられる「尾張津島天王祭」の [まきわら船]と市の花・藤が描かれていた。右手に『(株)ノリタケカンパニーリミテド 神守工場』が。『日光川』に架かる日光橋を渡る。津島市古川町1丁目の歩道橋下を通過。『名古屋津島線』を左折し、狭い『佐屋路』に入る。直ぐに右折して進むと正面に大きな『常夜灯』が姿を現した。ここが『埋田追分』で、道標と常夜燈、その先に鳥居の土台が残っていた。『道標』「左 さやみち」「右 つしま天王みち」「東 あつた なごや 道」「天和二年戌九月浄入 明和二年酉十月 向島橋詰片町再建之」『常夜燈』、その先に『鳥居の土台』が。右手の『常夜燈』。「牛頭天王」「常夜燈」「津島氏子中」「天保二年卯十月」と。反対側左手の『常夜燈』には「牛頭天王」「常夜燈」「津島氏子中」「明和三年戌」と。「津島街道 埋田追分 埋田町のここには津島神社(天王様)の一の鳥居(昭和三十四年の伊勢湾台風で倒れて台石のみ)と常夜灯(夜どおしあかりをともすとうろう)一対追分(別れ道)をあらわす道標がのこっている。江戸時代ここから右は津島神社への道、左は『佐屋の渡し』への佐屋街道と分れる所で江戸時代の終わりごろには茶店などもあって通る人々でにぎわい、大正時代頃までは松並木が続いていた。また熱田から津島までの道を『下街道』とよんでいたが、いまは耕地整理や新しい町づくりで道すじも変わり、ほとんどがすたれてしまっている。佐屋街道は熱田から岩塚万場(ともに名古屋市)砂子(大治町)、神守の宿(宿場)を経て津島追分から佐屋にいたり佐屋川を船で下って桑名(三重県)へと続き、東海道の脇街道として熱田から桑名までの『海上七里の渡し船』をきらった人たちに広く利用されていた。徳川三代将軍家光や、明治天皇の通られた跡や記録が街道各地にのこされている」『津島神社(天王様)の一の鳥居』は昭和三十四年の伊勢湾台風で倒れて台石のみとなっていた。右側の『台石』。こちらは左側の『台石』『台石』のみの鳥居の間を抜けて右、左に曲がりながら『佐屋路』を進む。『名古屋鉄道尾西線』の踏切を渡る。『内佐屋』の交差点を左折する。その先、県道458号の道路脇にあったのが『佐野海道址』。「史跡 佐屋海道址 かつて東海道の脇往還として多くの往来がみられた佐屋路。 往時の栄華を後世に語り継ぐため、昭和五十四年(1979)十一月に碑が建てられました。」『海道』とあるので、この付近まで海が迫っていたのであろう。更に『佐屋路』を南下する。そして愛西市佐屋町に入り交差点脇の駐車場に一時車を駐車させて頂く。駐車場の前の道路の先にあった案内板『愛西市の歴史にふれて散策しよう!』。「史跡 佐屋代官所址佐屋路が名実ともに天下の往来となったのは、3代将軍徳川家光が上洛の折、道中の宿泊に使う「御殿」を佐屋に建てたことからといわれています。佐屋路の隆盛にともない、尾張藩は藩の海東・海西の109村を治める代官所を佐屋に設けました。街道の治安と、三里の渡しを監督する海の関所的な仕事も手がけていたようです。」「佐屋路」『佐野宿』『東海道佐屋路佐屋三里の渡し址』「佐屋路江戸時代、幕府は東海道はじめとする街道を整備するとともに、宿駅制度も整備しました。東海道は宮(熱田)から七里の渡しで桑名へ渡るルートをとりました。七里の渡しは、通行の際支障をきたすことが多く、幕府は佐屋宿を創設し、桑名への三里の渡しでもって渡るようにしました。それに伴い、宮と熱田を結ぶ脇往還佐屋路が整備され、多くの通行人で賑わいました。宮宿から桑名宿への距離は? ・宮宿から海路での桑名宿への距離は、七里。 ・佐屋街道の陸路は佐屋宿まで、六里。桑名宿への海路が三里で、計九里。よって、佐屋街道の陸路+海路は、二里の遠回りとなる。」「佐屋宿その昔、あらいの渡しと呼ばれていました。交通上の要衝であったことから元和年間佐屋奉行が設置され、寛永年間佐屋宿が創設されました。徳川家光の上洛をはじめ、多くの大名、文人らが往来しました。大名らが宿泊する本陣のほか旅籠も建ち並び、多くの商家も営業していました。本陣は岩間権右衛門家と加藤五左衛門家が勤め、加藤家は問屋も兼務しました。陸上交通と水上交通の結節点として、また他国との境界として佐屋宿は重要な位置を占めていたことは、天明元年(1781)代官駐在制採用の際、水野(瀬戸市)・北方(一宮市)とともに佐屋代官所が設置されたことからもうかがえます。」「史跡 東海道佐屋路佐屋三里の渡址佐屋と桑名を結ぶ海路三里の船旅は当時多くの旅人が利用したといわれています。明治の中頃に佐屋川が廃止され、農地転用されるまで大いに賑わいました。」「佐屋驛 渡口その昔は、ここまで佐屋街道を歩きここから舟に乗り、三里の渡しで桑名宿へ行ったと。現在は、道路脇に「佐屋三里之渡址」の石碑のみが残るが、今回は訪問しなかった。」天保年間の規模は、本陣1軒、脇本陣2軒(1軒は非公式)、旅籠31軒、問屋場1箇所。佐屋御殿(尾張藩主の休息所)、船番所、船会所、奉行所、佐屋代官所、が設置されていた。『佐屋宿を通った人々』。徳川家康、吉良上野介、松尾芭蕉、伊能忠敬、シーボルト他の名が。『加藤高明懐恩碑』が交差点の角に。『懐恩碑』。「懐恩碑故郷を遠く離れて暮らし、故郷を懐かしく思うとともに、感謝とお礼の意を込めて、加藤高明伯が揮毫したもの。平成七年十月 柚木の明教寺から移設」「加藤高明内閣総理大臣の碑加藤高明は 万延元年(一八六〇年)正月三日 父 服部重文(佐屋代官所手代)・母 久子の次男として 佐屋で誕生 幼名は総吉 七歳で祖父と共に 名古屋に 移住し十四歳で加藤家を継ぎ高明と改名東京大学卒業後 三菱会社・郵船会社を経て官界に転じ 特命全権駐英大使・外務大臣等を歴任 憲政会総裁に推され 大正十三年(一九二四年)内閣総理大臣に就任 大正十五年一月国会で演説中に倒れ 同月二十八日逝去 享年六十七歳 伯爵正二位大勲位菊花大綬章を授かる由緒あるこの地(生誕地はここより南方約百米)に直筆の碑を柚木から移し建立した」『佐屋代官所址』。『佐屋代官所』案内碑。「佐屋代官所わが佐屋は其の昔慶長二十年四月家康が大坂夏の陣に此処から船出 し大勝した徳川方吉祥の地。藩祖義直もこの事を嘉し寛永十一年佐屋街道佐屋宿佐屋湊佐屋御殿を設け、更に承応二年船番所を 置くに及んで佐屋は天下に知られるに至った。其のため元禄八年奉行所が、次で天明元年所付代官制実施の時にも最初の代官所 となり、海東海西郡中の百九ヶ村七万四千石余の主邑として民政と治安の大任を司どりつつ、明治廃駅迄寛永文久と二度の将軍の上洛と明治帝の東幸還幸再幸の三度の大任をも果たした。其後駅路の変革と母なる佐屋川を失った佐屋には盛時を語る物も其 れを知る人もない。われわれは今その代官所址に在りし日の栄光を偲びつつ其の事を石に刻し、永く後世に伝え語り継ぐことの 資とする。」四方が囲われた『佐屋舟場道』道標が道路の反対側に。それには、『左 さや舟場道』とあった。 木製の案内板には、「佐屋舟場道舟場への道を示すものである。この道標は、佐屋町故山田秀信氏の屋敷内にあったが同氏の好意により寄附を受け、昭和五十四年此処に建てた。」 とある。東海道佐屋路はこの佐屋宿より舟にて桑名へ渡った。寛永十一年佐屋宿創設より明治五年に至る長い年月であったのだ。その先の植え込み中にある解説板には、尾張名所図会の佐屋駅の図の『きこくの生垣』と『キコク(枳穀)』の説明が書かれていた。「江戸時代このあたりは佐屋宿船番所前で旅籠(近江屋)があった。現在このブロック塀上に見える「きこくの生垣」は尾張藩士小田切春江 によって天保年間に発刊された『尾張名所図会』にも描かれており、当時の姿を今に伝える貴重なものである。 キコク(枳穀) カラタチ の別名。中国原産のミカン科の植物で、揚子江沿岸地域に自生しており、わが国への渡来は今から1000年前といわれる。 果実の香りがよい所から庭木として鑑賞され、また生垣用として利用された。」下の写真は天保十二年(1841)発行の尾張名所図会の佐屋駅の図だが、上の写真の道標の左手にある高い屋敷のあたりに、旅籠の近江屋があった、との説明が。 これも美しい姿のブロック塀。また、ブロック塀の奥に姿を見せていたのが『きこくの生け垣』の名残であろう。現在栽培されている柑橘類の多くは、このカラタチを台木として接木されたものとあり、我が国の 柑橘類の母ともいえる存在なのかも知れないとも。最後に交差点から再び『加藤高明懐恩碑』、『佐屋代官所址』を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.22
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次名古屋・熱田神宮の先の国道19号線の『金山新橋南』交差点を左折する。ここ『金山新橋南』交差点を左折すると『佐屋街道(さやかいどう)』、『佐屋路(さやじ)』が始まるのであった。実は船が苦手な人向けに『宮宿(七里の渡し)→佐屋宿→桑名宿』というルートも整備されていたと。その陸路というのが『佐屋街道(さやかいどう)』、『佐屋路(さやじ)』と呼ばれた道であり、中には「船酔いする」などの理由で船が苦手な人もいたことから、七里の渡しから続く東海道には水路だけではなく、少々遠回りになるが陸路も用意されていたのだと。ただし、佐屋街道はすべてが陸路ではなく、さすがに濃尾平野最大の川幅を誇る木曽川には橋を架けることはできなかったようで、木曽川まで来たところで船着場が設けられたと。その木曽川ほとりに築かれた船着場を『佐屋宿』と言い、宮宿から陸路6里の場所。そして佐渡宿から約3里(約12㎞)下った先が桑名宿だったというワケです。このことから七里の渡しに倣い、別名で『三里の渡し』とも呼ばれていた。宮宿から佐野宿まで陸路6里、船で桑名の船着き場まで3里(三里の渡し)で合計9里。宮宿から桑名の船着き場まで7里、よって2里ほど遠回りだったが難破の危険や船酔いを避けることが出来、また、水上の距離も短かったことから盛んに利用されたとのこと。『ネット』👈リンクで詳しく説明されていましたので、興味のある方はアクセス願います。【https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%B1%8B%E8%A1%97%E9%81%93】『三里の渡し』の昔のルート図。 【http://kenkou-ikka.com/~hutihata/sayasyuku2.htm】交差点角左にあったのが佐屋路と美濃路の分岐を示す『道標』。佐屋街道は、江戸時代初期、東海道の脇街道として開かれたもので、海路の『七里の渡し』を避けた道。道標は、文政四年(1821)佐屋街道の旅籠仲間が、伏見通から尾頭橋へ抜ける佐屋街道への分岐点に当たるこの地に建てたもの。戦災に遭い破損したが、その後修理された。道標には、「東 右 なこや 木曽海道」の文字が。因みに他の三面には「西 右 宮海道 左 なこや道」「南 左 さや海道 津しま道」「北 文政 辛巳年 六月 佐屋旅籠屋中」と刻まれているのだと。『佐屋路』・愛知県道115号線を西に向かって走る。津島市方面に向かって進む。東海道新幹線のガードを潜る。中川運河に架かる長良橋手前左手のFamilyMartの前にあったのが『明治天皇御駐蹕之所(めいじてんのうちゅうひつのところのひ)』碑。「駐蹕」とは、天子が行幸の途中で、一時乗り物を停めること。一時、その土地に駐留すること。駐輦(ちゅうれん)と同義であるとのこと。明治天皇も海路ではなく陸路を進んだのであろう。海路のリスク回避が目的であったのだろうか。名古屋市中川区長良町3丁目を進む。前方に関西本線&近鉄名古屋線の高架橋が。そして正面に『庄内川』の堤防が姿を現した。堤防上の『鳥ヶ地名古屋線』を『万場大橋』に向かって進む。正面の高架は『名古屋高速5号万場線』。『万場大橋』を渡った直後に左折し道なりに進むと正面突き当りに塔が見えて来た。突き当り手前の右側にあったのが『覚王院』。『真言宗 医王山 覚王院』。境内入り口の標石は伊藤萬蔵氏が寄付したものであると。正面 ちゝの観音醫王山覺王院右面 大正十五年左面 名古屋市西區塩町 伊藤萬蔵この『伊藤萬蔵』氏の新聞記事をネットから。 【https://ameblo.jp/kakashiyo/entry-12345206018.html】より参道入口の小さな祠の中に鎮座していた地蔵様『本堂』。・真言宗智山派・本尊…木像千手観世音菩薩立像・創建…天正十三年中興(1585)・お乳の出なかった母親が「ここの観音様のお告げにより、境内のちちの木(オオイタビ)の実を食べたらお乳が出るようになった」という言い伝えがあるのだと。扁額には『観世音』と。そして次に隣りにあった『国玉神社・八劔社相殿』を訪ねた。『業社 延喜式 國玉神社』と刻まれた社標と石灯籠。『国玉神社・八劔社相殿』。「創建は古く「尾張志」によれば、尾張大国霊神社より勧請したという。「延喜式神名帳に」国玉神社、「本国神名帳」に従2位国玉明神と記載されている式内社である。明治元年(1868)八剣社を合祀。同年明治天皇が東幸の際、勅使より奉弊を受ける。同5年近隣8か村の郷社に、同40年より神饌幣帛料の供進指定社となる。なお、拝殿等の屋根は昭和58年改修。祭神 大物主大神、天照大御神、草薙剣御霊、日本武尊。大祭は春5月5日、秋10月7日。当社前の道は佐屋街道(東海道の脇往還)で、南西曲がり角は万場宿の高札場となっていた。」『郷社 相殿 八劔社』社標。『手水場』。「国玉神社の御祭神天照皇大神、大物主命、日本武命、草薙御剣神霊」扁額は『国玉神社 八劔社 合殿』であったがピンぼけ。『社務所』。佐屋街道の国玉神社角に立つ『地蔵堂』。そして次に訪れたのが『光圓寺』。ここは愛知県中川区万場2丁目2003番地。門前は万場『佐屋路』。山門脇にある巨大な『石灯籠』があった。巨大な『石灯籠』。この巨大な石灯籠は中村区鬼頭〇〇長寿九五歳記念 死ぬる者に覚悟はいらぬ・・・と刻まれていると。昭和六ニ年建立。『山門』。金字額がかかる山門は、織田信長と斉藤道三が会見した尾北(一宮市)富田村聖徳寺の山門を移築したものであると。扁額は『臥龍山』。『真言宗大谷派 光圓寺』寺標。『山門』にあったのは寺紋・『抱牡丹紋』であろうか?扉格子の透かし彫りも美しかった。『境内』。『本堂』。『本堂』を斜めから。扁額には『如是我聞(にょぜがもん)』と。『如是我聞』とは仏教の経典の冒頭に必ず出てくる言葉で、「このように私は仏から聞いた」という意。転じて、人から聞いたことをそのまま信じて疑わないこと。『本堂』屋根の鬼瓦の龍像。『抱牡丹紋』も。『光圓寺』の『光』の文字も。『鐘楼』。境内の『三重塔』。『三重塔』を正面から。『三重塔』の背後、墓所入口の『蓮如上人巡化』銅像。『蓮如上人御巡化』石碑。境内中央に『切支丹灯籠』。下部には密かに地蔵に似せた聖像が刻まれていた。『私が人生に意味を問うのではない。人生にあなたに問うているのだ VEフランクル。』と『はい、解りました』!!『蓮如 歌碑』 「弥陀の名を聞きうることのあるならば、南無阿弥陀佛とたのめみなひと」。この『扁額』は?『寺務所』。『霊堂』碑。ズームで。『釋常念』の文字や戒名が刻まれていたが。『角文碑』。『境内』。『佐屋路』に戻り、『庄内川』の堤防方向を振り返る。万場宿は,1634(嘉永11)年の『佐屋路(佐屋街道)』開設時から設置されていたと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.21
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は2020年2月20日、旧東海道を歩く(関宿~鈴鹿峠~水口宿)の初日の移動日。旅友のSさん邸を6:30に出発し、いつものように一般道を名古屋に向かって進む。ここだけは有料の西湘バイパスを進む。相模川を渡りながら富士山の姿を楽しむ。相模湾は朝の陽光で黄金色に輝く。三浦半島上空からこの日の朝の陽光が。時間は6:50過ぎ。大磯からの松並木越しの富士山。二宮からの二子山。右手に行くと箱根ICから小田原厚木道路方面へ。新早川橋と東海道線を走る電車の姿が。新幹線の下を潜り箱根新道方面に向かう。箱根新道を上って行く。上で出っ張っていたものは何?箱根峠を越え笹原山中バイパスを下ると正面に駿河湾の姿が。正面に三島スカイウォーク姿が垣間見えた。河津桜も満開。錦田一里塚前の松並木が始まる。右手に三嶋大社の石鳥居が。杉材を過積載ぎぎぎり?まで積んで走るトラック。信号待ちでは、この横を避けて停止する。新富士駅近くの紙パ工場の煙突からは白き蒸気が。道の駅 富士 でトイレ休憩。前方に薩埵峠が見えて来た。静岡県掛川市と島田市に跨る標高532mの山・粟ヶ岳(あわがたけ)の斜面には、『茶』の文字が。当初(昭和7年)は松が植えられたが、マツクイムシによる枯損から、昭和58年にヒノキに植え替えられているのだと。小夜の中山トンネル。天竜川を渡る。左手に天竜川橋。浜名バイパスから舞阪灯台を見る。浜名湖に架かる浜名大橋を渡る。浜名バイパス・新居弁天IC手前の海岸。三河港・豊橋市神野新田町シノ割にある大型クレーンには「港湾技術家遠州センター」の文字が。豊川に架かる豊川橋から、愛知県豊川市御津町の「昭和電線ケーブルシステム(株)」の風力発電を。子安弘法大師像。高さ18.78mの東洋一の大きさを誇る、安産、子授かり諸願成就の子安弘法大師像。像の背丈は空海の世寿が62歳であったことにあやかり、62尺(18.7m)、釈杖の長さは竹島の標高に合わせ22m、抱いている子供の丈が5m、耳たぶの大きさ1m、目の長さが1mと言われているのだと。以前訪ねたことがある子安弘法大師像。愛知県蒲郡(がまごおり)市にあるラグーナテンボスの観覧車。高さ65mの4人乗り観覧車。三河湾が一望でき、夜のイルミネーションも華やかと。三河湾に浮かぶ『三河大橋』。『矢作川』を渡る。知立バイパス・国道23号線を名古屋方面に。原っぱの中にポツンと。古墳でもなさそう。国道23号線豊明IC付近を通過。同じ標識案内が3枚並んでいた。『柴田本道3』交差点を通過。あつた蓬莱軒 本店前を通過。そして熱田神宮を右に見て金山方面に向かったのであった。 ・・・つづく・・・
2020.03.20
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次そして右手に『尾崎酒店』。その先にも地蔵院前の街並みが続いていたが、この先は次回にと。三叉路に真言宗御室派の『九関山 宝蔵寺 地蔵院』があった。関地蔵院は日本最古の地蔵院で、本堂、愛染堂、鐘楼が国の重要文化財に指定。ここには地蔵菩薩が安置されており、関のお地蔵さんと呼ばれている。この世とあの世の苦しみから人々を救ってくれるのがお地蔵様。三叉路に建つ文久2年(1862)の『常夜燈』と『歴史の道』碑。そして左には『停車場道』と刻まれた石柱も。『地蔵院 本堂』。本堂に掛かる『地蔵堂』の扁額。『本堂』の『おびんずる様』。『本堂 内陣』。『本堂』の見事な彫刻をカメラで追う。獅子が牡丹の花の上を生き生きと走っていた。獅子と人間の姿。馬に乗る姿も。象と鳥と人間が。どの様な物語が刻まれているのであろうか。国の重要文化財(建造物)の『愛染堂』。『重要文化財愛染堂』碑。『愛染堂』。『関の地蔵 愛染堂』。国の重要文化財(建造物)の寛文11年(1671)建立の『鐘楼』。『関の地蔵 鐘楼』。鐘楼建立:寛文11年(1671) 同移築:元禄13年(1700) 梵鐘鋳造:寛文11年(1670)。その横に『明治天皇關行在所』碑が。この仏像は?天保11年(1840)の『一休尊像』。一休和尚が東海道を旅していた時、地蔵の開眼供養をしてほしいと村人たちが頼んだところ快く引き受けてくれました。しかし、一休和尚は「釈迦はすぎ、弥勒はいまだ出でぬ間の、かかるうき世に目あかしの地蔵」と詠み、立小便をして立ち去ってしまいました。これに怒った村人たちは別の僧に開眼供養をやり直してもらいましたが、その晩、高熱を出したある村人の夢枕に地蔵が立ち、供養を元のようにせよと命じました。あわてて桑名の宿にいた一休和尚に助けを求めると、地蔵の首にかけるようにと古びた下帯(ふんどじ)を手渡され、言われたとおりにしたところ、高熱は下がったといいます。鹿の像。『地名 鈴鹿の由来』案内板。「六百七十ニ年壬申の乱において、大海人皇子は大友皇子を討つため、吉野を出発され加太を経て関へ向かわれる途中、豪雨と暗夜のため道に迷われ進退に窮せられた。その時鈴をつけた鹿が現れたので神の助けとその鹿に乗られ、山を超へ川を渡り関の里へ無事お着きになり難をのがれた。それ以后このあたり一帯を鈴鹿と呼ぶようになったといわれている。これに因みこの像を造る。」『奪衣婆像』。三途の川のほとり(川を渡った先)に衣領樹(えりょうじゅ)という木があり、その木の下に「奪衣婆」(だつえば)と呼ばれる老婆がいると。老婆は、ようやくのこと川を渡り終えた亡者の濡れた衣を剝ぎ取っては、木の上にいる「懸衣翁」(けんえおう) という老爺に渡す。老爺は受け取った衣を木の枝に掛け、枝の垂れ具合で生前の罪の軽重を判別するのだと。『地蔵院』の脇の出口を出て旧東海道を望む。そして帰路の『関駅』に向かって進む。そして国道1号線の合流地点の手前左にあったのが『街道 おんな唄』石碑。「泊めていいのね こころの宿に 夢のかけらを 想い出を 待ちますわ 待ってます 壊れそうなの 闇の中 胸突き七坂 箱根山 越すに越せない 世間の川が 愛の行く末 とおせんぼ 行こうかな 戻ろうかな 憎さなおます 大井川 掛川かなわぬ 旅衣 坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨の春 負けないわ きっと咲く 花はつぼみよ 関の宿 うす陽もこぼれる 石畳」国道1号線に出る地蔵院口の交差点に、『関地蔵堂ェ二町 明治三十二年七月二十四日』の石標が立っていた。『関宿重要伝統的建造物群保存地区』これより西へ450M 1.800M 町並保存地区地蔵院。国道1号線を関駅方面に進む。日本橋から『423.8km』の表示。右手にあったのが『道の駅・関宿』。『道の駅・関宿』案内標識。正面から。電車の時間もあり立ち寄らず。『関駅前』交差点。関西本線『関駅』に到着。『関町観光案内図』。『東海道 関宿』。関駅舎前には『関宿ふるさと会館』と刻まれた石碑があった。時刻表には朝夕の短い時間を除き、1時間に1本の電車が。『関宿ふるさと会館』の椅子で電車の到着を待つ。『関宿ふるさと会館』はJR関駅を併設しており、列車の待ち合わせに利用できる。売店では関宿の土産販売やコーヒーやぜんざいといった喫茶コーナーもあった。関宿を紹介した案内書も置かれていた。次の『鈴鹿峠超え』のルート案内も。『関宿西追分』から『鈴鹿峠』を超え『土山宿』までのルートが詳しく説明されていた。『鈴鹿峠超え』のルート案内も詳しく。先程見た光景が写真に。駅前の『関駅有料駐車場』は1日300円と。次回はこの駐車場を利用しようと旅友と話をする。三重県内の城の『登城記念 御朱印』案内。それぞれ200円とのこと。桑名名物の『折鶴』。1980年(昭和55年)の関西線関駅舎の写真。美しい紅葉風景と生け花。その横に巨大な柚子?鬼柚子であろうか?『花いっぱい運動 関宿』。亀山行きの一輌ディーゼル車に乗り、亀山駅で乗り換え『加佐登駅』まで戻る。そして帰路は『加佐登駅』から近鉄『平田町駅』までバスを利用。利用したコミュニティバスを見送る。そして前夜に宿泊したホテルに戻り、旅友の愛車に乗り自宅への帰路についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2020.03.19
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次関宿・重要伝統的建造物群保存地区の電話BOX。『東海道 関宿』道標。更に関宿の旧東海道を進む。掲示板には『会津屋』の紹介記事が。『まつい呉服店』の店頭には和風傘が展示されていた。『百六里庭』の先に『伊藤本陣跡』があった。「伊藤本陣伊藤本陣は、川北本陣と並んで東海道関宿の中心的な役割を果たした。本陣とは宿駅に設けられた大名や公家、高僧など身分の高い人々の休泊する宿を指すようになった。伊藤本陣は、間口 十一間余、建坪六十九坪、西隣の表門は、唐破風造りの檜皮ぶきであった。現在残っている街道に面した部分は家族の居住と大名宿泊時に道具置場に供する建物である。」『伊藤本陣跡』の隣の2階建ての旧家の入り口には俳句が書かれた暖簾が。そして『関宿 関の山車 保存会』の絵も。『伊藤本陣跡』の斜向かいに『橋爪家』があった。「橋爪家同家は、代々橋爪市郎兵衛を名乗り、寛文の頃から両替商を営み、江戸にも出店を持ち、大坂のこうの池と並び称せられる豪商であった。江戸末期には、芸伎の置屋として栄えた。街道に面して手すり付き二階妻入り建てであるが、これは明治期の改造で、もとは、平入りの屋根であった。」『旅人宿 石垣屋』が右手に。その先にあったのが『玉屋』。玉屋は「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」といわれ「鶴屋」「会津屋」と並んで、関宿を代表する大旅籠だった。玉屋の開業時期は不明だが、寛政12年(1800)の宿場絵図には代々襲名の理右衛門の名が記されており、既にその当時にはここで旅籠を営んでいたと考えられる。東海道に面した主屋は、慶応元年(1865)築の木造二階建で、外観は関宿に多い二階を漆喰で塗り籠める形式で、江戸期の建物としては特別軒が高く、屋号に因んでの宝珠を形どった虫籠窓が特徴的と言える。入口には大福帳を前にした番頭(蝋人形)が座り、二階には布団を敷き食器を並べた、江戸時代その侭の旅籠風景が再現されており、坪庭もあって奥行きが深い。奥には蔵があり、年4回展示替え(広重の浮世絵など)を行っている由。主屋の他に、離れ・土蔵・納屋の4棟の建物があり、旅籠当時の建築物が一体的に保存されており、貴重である。これは、平成5年3月に旧所有者の村山弘道氏から町が買い取り、平成6年3月に関町有形文化財に指定、平成6年度から8年度迄3ヵ年かけて保存修復工事をして、往時の旅籠の姿を再現したものである。『玉屋』の前の『新聞店』の屋根の七福神。『深川屋 服部家(「関乃戸」菓子店)』。同家は、屋号を深川屋と称し、代々菓子司で、寛永年間初代服部保重によって考案された餅菓子「関の戸」は、関宿の代表的な銘菓として名高い。京都御所より陸奥大掾(むつだいじょう)の名を賜っている。屋根看板は伝統あるもので風雪を刻んでいた。歴史ある和菓子店であるが、実は服部一族、伊賀忍者の服部半蔵の末裔にあたると。ご自宅兼店舗はまさに忍者屋敷を思わせるもので、築233年という造りもさることながら、その2階にはカラクリがあり、ある部屋の畳をめくると1階に下りるための階段がかつてはあったのだと。この屋根看板(庵看板(いおりかんばん)に特徴が。江戸側が「関の戸」で「の」がひらがな。そして京都側が「関能戸」で「能(の)」が漢字。旅人が向かう方向を間違えないための工夫だと言われているのだと。中町の建物は二階壁面も塗篭めて、虫篭窓を明けるものが多く、二階壁面を真壁とした新所や木崎の町屋に比べ、意匠的により華やか。また、間口が大きく、主屋の横には庭を設けて高塀を廻すのがみられたが、その主屋や高塀群は意匠的にも質が高く、町屋の細部意匠としては漆喰細工や屋根瓦に見るべきものが多いのであった。 漆喰彫刻の鯉の滝昇り、虎、龍、亀、鶴など、縁起を担ぐものが多く 細工瓦には職業に使う道具を意匠にしたものなどもあった。前方右手に『関郵便局』の白き建物が。関郵便局があるこの場所には天正20年(1592)、徳川家康が休息した「御茶屋御殿」があったと。江戸幕府初期には代官陣屋があったところで、亀山藩になってからは藩役人の詰所が置かれていたのだと。『関郵便局』前の歴史を感じさせる『書状集箱』・ポストが。「このポストは、文化財保護法により選定された関宿重要伝統的建造物群保存地区の街並みとの調和を保ちつつ、みなさんに利用していただけるようにした特別なポストで、京都大阪に設置され、現在は東京の逓信総合博物館に所蔵されている日本最古のものを模して作成したものです。日本の郵便ポストは明治五年(1871)の郵便創始あたり、東京に十二ヶ所、京都に五ヶ所、大阪に八ヶ所のほか、東海道の各宿駅に六十二ヶ所設置したのがはじまりです。当時のポストは江戸時代の「目安箱」に似た木製の箱で、「書状集め箱」と呼ばれていました。」東海道右手の『関郵便局』前に、復元された『高札場跡』があった。「関宿高札場高札場とは、幕府の法度や掟書、宿場の決まりなどを掲示した場所です。関宿の高札場は、江戸時代に描かれた数々の絵図を見ても、関宿中町北側(現関郵便局)にありました。当時この敷地は、「御茶屋御殿」と呼ばれ、江戸時代初期のおいては本陣の役割を果たす施設でしたが、関宿に本陣が確立されてからは、亀山藩の施設として番所などが置かれていました。関宿高札場は、この御茶屋御殿の街道に面した位置にあり、街道に面した間口十一間余のほぼ中央に、枡形状の土塀に囲まれてあり、高札場の建設、高札の付け替えなどは亀山藩が行っていました。『東海道宿村大概帳』によると、関宿高札場には八枚の高札が掲げられており、その内容は、生活にかかわる様々な規範、キリシタン禁令や徒党・強訴などの禁止といった幕府の禁令、隣接宿場までの人馬駄賃の規定などでした。明治時代になると、各地の高札場は撤去されますが、関宿の高札場も、明治十年、関宿中町伊藤家の土蔵建築の際、旧高札場の石、土、瓦等を残らず処分したことが当家文書にあり、周囲の土塀なども含め全てが撤去されたことがわかります。この度、関宿の町並み保存に取り組んでいただいている「関宿町並み保存会」、「関宿案内ボランティアの会」、「関宿観光協会」の三団体より、高札場復元のご要望をいただき、また、復元場所を所有する日本郵政公社及び関郵便局の多大なるご理解・ご協力を賜り、宿場町の重要施設のひとつである高札場の復元が実現したものです。(復元概要)●復元年代 規模及び高札についての資料が残る、寛政年間から天保年間頃●規模 寛政年間の史料と考えられる「御分間絵図御用宿方明細書上帳関宿」 (服部家文書)に「高サ弐問四尺弐寸長三間弐R五寸、幅壱間弐尺」という 記載かおり、これを基本とした。●形状 関宿の高札場の形状を描いた図面類は残存せす、他の高札場の幕末から明治期の 写真等を参考とした。●高札 掲示する高札については、関宿のものは現存せす、同様の内容を記載した 他の高札を参考とした。 また文言については「東海道宿村大概帳』の記載どおりとしたが、読み易さを 考慮し楷書にとした。●構造補強 高札場裏側に構造上必要な、補強壁を設けた。様々な『高札』が。ズームで。『喫茶たなかや』を振り返ると、ここの屋根にも七福神の大黒天と恵比寿さんの姿が。『大黒天』(左)。『布袋様』(右)。なぜ、こんなにも人がいないのか?右手の大きな瓶には『骨董屋』の文字が。そして昔の貨幣『寛永通宝』が格子戸にぶら下がっていた。『白玉屋 三宅家』。一番右に関宿名物『志ら玉』が。「白玉屋菓子舗、こしあんを米粉を原料にした皮で薄く包んだ上から赤、青、黄色で色どりを添えた餅菓子を「志ら玉」と名付けて関の戸と並んで人気があった。二階は手摺の付いた中二階がある。」食べたいなぁ!!と旅友が。関宿名物『志ら玉』を1個100円で購入。江戸時代より街道の旅人に親しまれてきた関宿名物・『志ら玉』。北海道産小豆で作ったこし餡を上新粉の生地で包んだ素朴な生菓子で、砂糖を少なくして甘さを抑えたあっさりとした味わいであった。『高札場跡』の先右手に、天台真盛宗の『清浄山福蔵寺』があった。福蔵寺は、天正11年(1583)織田信長の三男・信孝の菩提寺として創建された。境内には馬頭観音・不動明王・元三大師を祀る観音堂、薬師如来を祀る薬師堂があり、裏門横には仇討烈女・関の小萬の墓がある。『福蔵寺山門』。『関の小万之墓碑』。「関の小万が 亀山通い 月に雪駄が 二十五足関の小万は若くして父の仇を討った烈女と伝えられる。15歳から風雪にもめげず亀山の道場に通って修業につとめ武を練り、天明2年8月本懐を遂げた。享和3年没(妙証信女)地蔵院前には小万の育った宿屋山田屋の跡が現存する。」『薬師堂』。『地蔵菩薩』。『福蔵寺 本堂』。『本堂』に近寄って。『水子地蔵尊』。『観音堂』を斜めに。『清浄山 福蔵寺のご案内』「当山は、天台宗真盛宗(本山は滋賀県大津市坂本西教寺)に属します。草創は天正11年織田信長卿三男信孝光の菩提寺として創建されました。本堂のご本尊は阿弥陀如来です。本堂左のお堂は観音堂で、馬頭観世音菩薩・不動明王・元三大師をお祀りし、道中の安全と関宿の繁栄を祈願しております。表門横のお堂は薬師堂で、御本尊は元千光寺の薬師如来で、幾多の変遷を経て明治43年当山に移されたもので、関宿の守護佛として厚く信仰されています。裏門横には、仇討烈女・関の小萬の墓と碑があります。客殿横には英照皇太后(孝明天候后)がご宿泊された書院が現存します。(非公開)」『観音堂』。『馬頭観世音菩薩』の幟が。馬頭観世音菩薩・不動明王・元三大師が祀られた『観音堂内陣』。『織田信孝の供養塔』。『福蔵寺の創建と織田信孝公』「織田信長の三男信孝公は、本能寺の変で憤死した信長の冥福を祈るため、神戸の住人旧臣大塚俄左エ門長政にメイジこの寺の建立にかかりました。しかし信孝公は羽柴秀吉との後継をめぐる争いに敗れ、天正11年尾張の国野間に於いて自害させられましたので、長政が当山に首を持参し信孝公の菩提寺としました。この墓は信孝公の墓石不祥のため400年忌を迎えた時菩提を弔うため建立したものです。本堂には創建当時からの信孝公の位牌が祀られています。」『関の小萬碑』とその左に『関の小萬墓』が。関の小萬は、女性の身でありながら亡き母の遺志を継ぎ、父の敵討ちをした仇討烈女として名高い。関地蔵院前にあった旅籠山田屋(現会津屋)の養女となっていた小萬は、亀山藩の道場で武芸を磨き、天明三年(1783)亀山城大手前付近で無事本懐を遂げる事ができたのだと。旧東海道に戻ると左手に『やまと屋』、右手には立派な板塀が続く旧家が。正面には『関地蔵院』の大きな屋根が見えて来た。『いっぷく亭』。関宿散策拠点施設として設置されたもので、解説文付きの「関宿イラストマップ」掲示やトイレ・休憩コーナーがあった。『関宿イラストマップ』。『関宿・重要伝統的建造物群保存地区』の上空からの写真。「関宿まちかど博物館」の札が貼ってあったが。『門音 尾崎家』今は『ANTIQUE 江戸屋』。『川音 尾崎家』。「尾崎家は地蔵門前町の米屋で鈴鹿川の水で米をつく水車の音から屋号をとって川音と称した。同家は文久頃の建物と言われる。間口七間半、通り庭をはさんで左手に屋敷、右手に米を収蔵する家うちの土蔵がある。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.18
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『関神社』を後にし、路地を旧東海道に戻ると右手にあったのが『伊藤酒店倉庫』。左手には上部が漆喰の白い壁で覆われた倉のある旧家。旧東海道に戻る手前左側にあった『大井家』。『平入り中二階、前面格子』の造り。「平入(ひらいり)」とは、日本の伝統建築において、建物屋根の「棟(むね)」に対して直角に切り下ろした側を「妻(つま)」、棟と並行する側を「平(ひら)」と言い、平入とは建物の出入口がこの「平」にあるものをさすのであると。関宿の町屋は、最も古いものは18世紀中ごろの建築で、明治中頃までのものが半数以上を占めるのだと。「大井家同家は、代々玄庵を名乗り、医科であった。明治初期には西洋医学を学び、種痘医として、また眼科、産科、内科医として地域医療に活躍した。「本草網目」など医学書の他、江戸末期の往診用の駕籠、医療機器などの一部が遺されている。」旧東海道に突き当たる場所の正面にあったのが関宿を代表する芸妓置店『開雲楼』(左)。凝った意匠の二階手摺に格子窓等昔の面影を残す。『松鶴楼』(右)、今は鮮魚青果物商・「遊快亭」。かつて旅籠では飯盛女と呼ばれる遊女やそのような専門の場があった。 開雲楼と松鶴楼は、その代表的な建物だったのだ。『松鶴楼』は今は鮮魚青果物商・「遊快亭」。「遊快亭」の名は飯盛女の存在を考えると意味深か。誰がいつ付けた店の名前なのであろうか?旧東海道に戻り左手にあったのが『関の山車会館』。市の民俗文化財である「関の山車(やま)」の保存や祭囃子などの伝承活動の拠点として、「関の山車会館」が昨年・2019年7月6日に開館。会館には、主屋、離れ、土蔵、山車収蔵展示棟の4棟の建物があった。館内では夏まつりに曳き出される山車とその付属品を保存・展示するとともに、祭りで演奏されるお囃子などの保存伝承活動の拠点とするため整備したもので、あわせて祭りに関する歴史資料等を展示していると。奥にあった『山車収蔵展示棟』。『せきのやまかいかん』入口。一階は出格子、二階は虫籠(むしこ)窓に土壁で覆った塗籠(ぬりごめ)屋敷の前の出格子窓は明治時代以降に取り付けられたもの。『関の山車会館』案内板。旧家の前には休憩用ベンチが。『しき島肥料』の看板。右手に『百五銀行』があった。『百五銀行』は、町並みに配慮した意匠の建物で、平成9年度の三重県さわやかまちづくり賞(景観づくり部門)を受賞している。なるほど周囲の景色に完全に溶け込んでいた。『百五銀行』の先の十字路を左折すると、JR関西本線の『関駅』があった。『百五銀行』の先、左手にあった『御食事処 山石』の屋根にあった『漆喰彫刻 虎』。『百五銀行』の先の十字路の手前右側の屋根には『細工瓦 虎』。『百五銀行』の先の十字路を右折すると、突当りに浄土真宗西本願寺派の『清静山延命寺』があったが先を急ぐので訪ねなかった。『関宿イラスト案内図』によると『延命寺山門』は旧川北本陣の門を移築したものであると。 【https://www.kankomie.or.jp/spot/detail_8392.html】より南に行くと『関駅』。最初は「南関駅」があると思ったのであった。『東江戸 ⇔ 西京都』。左角の店の前には案内板が。『関町 関宿』案内板。「関の地名は7世紀、この地に「鈴鹿関」が設けられたことに由来します。江戸時代以降は地蔵院を中心に東海道で47番目の宿場町として栄えました。宿場の西端は大和街道との、東端は伊勢別街道との分岐点で、豊かな自然環境の中、古くから交通上の重要な地でした。街道筋には今日でも200棟以上の伝統的な家々が建ち並び、かっての宿場町の様子を知ることができます。」『東海道 道標』。更に関宿・重要伝統的建造物群保存地区の光景を楽しみながら進む。やや早足の自分が、いつの間にか自ずとゆっくりになっていると気づいたのであった。人の姿がない、二人占めの異様な?空間が続いたのであった。町家の通りに面した右手旧家の柱に付けられた直径5㎝程の丸い金具。人を乗せたり荷物を運んだりした馬の手綱をかけるためのもので、『馬つなぎぎの環金具』と呼ばれているのだと。この環金具は、柱の中ほど、大人で言えばヘソの高さ位の位置に付けられていた。関宿の町家では、同じような輪金具が土台や柱の根本などの低い位置にも付けられていることも。これも使用法としては同じなのだが、繋がれた動物が馬ではなく牛だったと。そのほうが、牛や馬がおとなしく待っていると。つまり、関宿では馬は柱の中ほどの高い位置で、牛は柱の根本や土台など低い位置でつないだという訳。そうなると、低い位置に付けられた環金具は『牛繋ぎの環金具』と呼んでいたのであろうか。「環金具に 手綱つながれ 馬や牛」関宿かるた。更に関宿を進む。『延命寺』を出た十字路から右手一本目の細い路地の入口に、民家の壁に貼られた小さな『瑞光寺』の木札があった。この先に入って行くと突当りに曹洞宗の『河上山瑞光寺』が。「権現柿」の文字も色褪せていたが確認できたのであった。『瑞光寺山門』と扁額『河上山』。重厚な『山門』の扉。『鐘楼』。『観音堂』。『観音堂』に掛かる『観?自在』の扁額。嘉永2年(1849)の『旧観音堂鬼瓦』。境内からの『本堂』。『本堂』前右側にあった『権現柿(ごんげんがき)』。「権現柿瑞光寺中興開山豊屋永隆和尚は、三河国(現愛知県)宝飯郡に生まれ、幼少のころ徳川家康と親交があった。永隆の弟子隆眞が、元和元年(1615)に記録した「開山和尚伝」によると、家康は上洛の際当寺永隆和尚を訪ね、庭先の柿を賞味したことから、後世、この柿を「権現柿」と呼ぶようになった。瑞光寺は、応永4年(1371)の創立と言われ、小野川の上流にあったが、兵火により焼失した。その後、永禄~天正年中(1558-1591)に、当時の亀山城主関安芸守盛信が菩提寺として現在地に移し再興したと言われている。」『本堂』。瑞光寺は、応安4年(1371)の創建と云われ、兵火により焼失したのち、永禄~天正年中(1558-1591)に亀山城主関安芸守盛信が菩提寺として再興したという。『本堂』に掛かる『瑞光禅寺』の扁額。しだれ桜であろうか。その先に『鐘楼』が。『瑞光寺』を出ると、直ぐ左手に『関まちなみ資料館』があった。この資料館は、江戸時代末期に建てられた関宿を代表する町屋建築のひとつであり、亀山市関町の文化財・歴史資料の展示するほか、関宿の町並みの移り変わりを写真展示していると。『町屋の細部詳細』。「関宿の町屋には、庇下の幕板、軒の持ち送りの操形、二階の虫籠窓や漆喰細工、起り屋根、格子建貝など、細部の意匠に工夫されたものが多くあります.特に.漆喰細工や瓦細工は.子孫繁栄・家運長久などを願って職人が技をこらして作ったものです。こうした様々な細部の意匠は、多くの人々が行き交った宿場町の町屋にふさわしいものといえます。」『関宿まちなみ資料館』の斜向かいに『鶴屋脇本陣跡』があった。鶴屋は、西尾吉兵衛を名乗っていたので、西尾脇本陣とも呼ばれていた。二階壁面に千鳥破風を乗せた派手ではあるが美しい意匠であった。『鶴屋』は『玉屋』、『会津屋』と共に関を代表する旅籠の一つ。『鶴屋脇本陣跡』の隣に『問屋場跡』があり、『山車庫』が建っていた。「関の山」 の言葉の語源にもなった関宿の山車は、最盛期には16基あったのだと。互いに華美を競い、狭い関宿を練ったことから生まれた言葉である。現在はわずか4基の山車が4箇所に残っているのだと。『東海道関宿 問屋場跡』。『中町三番町山車(やま)』案内板。「関の山」は、旧東海道関宿に江戸時代の元禄年間(1688~1703)から伝わるお祭りです。最盛期には十六基もの山車があり、横幕・見送り幕・提灯などを豪華に飾りつけて華美を競い合い、また、笛太鼓で祭囃子を奏でながら、家々の軒先をかすめ、人ごみをかきわけて巡行する様から、「この上は無い、精一杯である」という意味で用いられる「関の山」という言葉の語源になりました。現在、木崎町・大裏町(北裏)・中町三番町・中町四番町の四基の山車が保存されており、祭りは毎年七月上旬の土・日曜日に開催されています。中町は関宿の中央部で、江戸時代には街道沿いに最も西の一番町から順に六番町まで、また、大裏町(北裏)、南裏をあわせて八基の山車がありました。中町三番町山車は、白木造りで、天場高欄下に龍の彫刻が施されていて目を引きますが、全体は質素なつくりになっています。電線が巡行の支障になることから、最上層にあたる天障子が撤去されていましたが、平成十四年の大修理の際、これを復元して往時の姿に戻しました。また、山車の周囲を飾る紅提灯には、三番町の「三」の文字を図案化して用いています。見送り幕には、「昇龍・降龍」の図柄で、嘉永年間(1848~1853)に製作されたと伝えられています。」左側に『岩木屋 吉澤家』。「同家は、屋号を岩木屋と称し、明治から大正にかけ酒造業及び味噌、醤油醸造業を営み、酒蔵から「岩泉」と銘うった酒樽が次々と運び出されていた。明治十七年の建築で連子格子や表座敷は典型的な明治期の商家の構えである。」更に『関宿』の旧東海道を進む。右手に『川北本陣跡』碑があったが、昔の建物は何も無かった。『岩田商店』。川北本陣跡の斜向かいに『百六里庭・眺関亭(ちょうかんてい)』が。江戸から106里余にある処から付けられた小公園で、通りに面した「眺関亭」の2階からは宿場の家並みが一望でき、街道で見るそれとはまた異なった感動があったのであった。『百六里庭』と書かれた木札。『旧東海道 四十七番目 関宿』案内地図。『百六里庭』の中庭に入る。中庭には井戸や、庭の中央には礎石が残されていた。「百六里庭この「百六里庭」は、住民参加によるポケットパーク・デザインワークショップによるデザイン案をもとに造った庭園です。舗装の中に点在する石は、埋蔵文化財調査において発見された、昔の町家の「礎石」です。また、井戸も既存の位置に復元したものです。」これが『西追分』方向の絶景。こちらは『東追分』方向の絶景。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.17
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次いよいよ『関宿(せきしゅく、せきじゅく)』の大看板に迎えられ、この日の最終目的地の宿場(旧街道)へと入る。看板の後ろは、小野ポケットパークになっており、鈴鹿山脈案内・関宿総合観光案内図が建っていた。『東海道五十三次 関宿 重要伝統的建造物群保存地区』と書かれた大きな看板。関宿は、東海道五十三次の47番目の宿場である。現在は三重県亀山市(もとは関町であったが、2005年1月11日に亀山市と合併した)。 古代からの交通の要衝で、壬申の乱の頃に古代三関の一つ「伊勢鈴鹿関」が置かれた。 江戸時代も、東の追分からは伊勢別街道、西の追分からは大和街道が分岐する活気ある宿場町であった。 古い町並みがよく保存されていて、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。『鈴鹿山脈案内板』。亀山ライオンズクラブ 45周年記念事業 2011。左から観音山 ・ 関富士 ・ 羽黒山 ・ 明星ヶ岳宗長日記などが刻まれていた。「羽黒山のふもとにある国史跡正法寺 鷲山正法寺とて山在あり厳たかく苔ふかく松杉いく村ともなく 凡 寺のさま高尾山 神護寺にも 似たり」「関富士が女山なら 羽黒はをとこ 鈴鹿大風を受けて立つ」「安政の昔より 観音山に鎮まる半眼微笑の佛たち 三十三体石佛群」『関宿総合観光案内図』。関宿入口の旧東海道は坂道になっていた。『関の小萬のもたれ松』がどこにあるのだろうかと。「関の小萬のもたれ松江戸も中頃、九州久留米藩士牧藤左衛門の妻は良人の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋に止宿、一女小萬を産んだ後病没した。 小萬は母の遺言により、成長して三年程亀山城下で武術を修業し、天明3年(1783)見事、仇敵軍太夫を討つことができた。この場所には、当寺亀山通いの小萬が若者のたわむれを避けるために、姿をかくしてもたれたと伝えられる松があったところから、「小萬のもたれ松」とよばれるようになった。 関の小萬の亀山通い 月に雪駄が二十五足 (鈴鹿馬子唄)」『小萬の碑』。これは九州久留米藩士の妻が夫の仇を討つために、関宿に留まるが、女子を出産後病死する。その子供は成長すると亀山城下で武術を習得して、無事に仇を討ったと。亀山に通う時に若者の戯れを避けるために、松に身をもたれ隠したと言い伝えられていると。しかし、『小萬の碑』の前の松は幹の根元から『切られていた』のであった。そして関宿の旧東海道を進んで行く。『汚水マンホール蓋』。旧関町のキャラクター「アスレ」をえがいた蓋。「アスレ」の名前の由来は「ア(明るく)ス(住みよい)レ(歴史の街)」で「アスレ」だと。先に進んで行くと変則十字路の左角に『東の追分』そして『関の一里塚跡』があった。東の追分は東の入口で東海道と伊勢別街道の分岐点です。ここには大きな鳥居があり、20年に一度の伊勢神宮式年遷宮の際、内宮宇治橋南詰の鳥居が移されて来るのだと。関宿の入り口に立つこの大鳥居は東海道を歩いてきた旅人で、伊勢神宮に立ち寄ることができない時に伊勢神宮に向かって遙拝するためのものとのことで、我々も伊勢神宮には立ち寄れなかったので伊勢神宮に向かって遥拝をしたのであった。『東の追分』案内板。「東の追分関が歴史に登場するのは、7世紀この地に「鈴鹿関」が設けられたのがはじめで、これが地名の由来ともなっています。慶長6年(1601)徳川幕府が宿駅の制度を定めた際、関宿は東海道五十三次で47番目の宿場となり、問屋場や陣屋なども整えられました。 古文書によると天保14年(1843)には家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったとされ (東海道宿村大概帳) 鈴鹿峠を控えた東海道の重要な宿駅として、また伊勢別街道や大和街道の分岐点として、江戸時代を通じて繁栄しました。ここ東の追分は伊勢別街道の分岐点で鳥居は伊勢神宮の式年遷宮の際、古い鳥居を移築するのがならわしになっています。江戸方への次の宿は、亀山宿です。道標には外宮(伊勢神宮)まで15里(60km)と刻まれています。」『元文5年(1740)の常夜燈』竿石に「大阪津国屋重右衛門、江戸嶋屋佐右衛門」と刻まれている。『一里塚址碑』残念ながら、塚の姿はなかった。『関宿木崎の町並み』一里塚跡の先から鈴鹿峠に向かって、江戸時代から明治時代にかけて建てられた古い町家が200軒ほど約2kmにわたって続いていた。旧東海道の両側に連子格子の『木崎』の街並み・建物が続く。さすが重要建造物保存地区に指定されるだけのことは有ると納得。人や車の姿もなくひっそりと。時間は14:16過ぎ。旧家の2階には『虫籠窓』が。連子格子の旧家が更に続く。『関宿のイラスト案内図』には、弥次さん、喜多さんの姿が。関宿は、イラスト案内図で見ると、東の追分から西の追分まで、大きく「木崎の町並み」「中町の町並み」「新所の町並み」で構成されており、その中心「中町」に宿機能を果たす諸施設が集中していたようだ。道は、前方(京側)に向かって僅かな勾配ながら登り道になっている感じだ。道はJR関西本線が一番左側で、その右に国道一号線、そして今我々が歩いている旧東海道(関宿の町並み)という位置関係にある。『関宿の町屋の特徴』「関宿の町屋は、最も古いものは18世紀中頃の建築で、明治時代中頃までのものが半数以上をしめます。平入の二階建が一般的ですが、二階前面を土壁で覆った塗寵のものが目を引きます。」『重要伝統的建造物群保存地区』の風景を楽しみながら進む。関宿は天保十四年の東海道宿村大概帳に総戸数が632戸、人口は約2000人、本陣が2軒、脇本陣2軒、旅籠が42軒とあり、かなり大きな宿場でした。今も380軒もの古い家が残り、軒を連ねている様は壮観なのであったが・・・。エアコンの室外機、消火栓も連子格子等で目立たぬようにと。関宿では貴重な建物の保全にはかなり力を入れており、街道から10m入った部分まで建物を勝手に手直しすることは禁止されていると。例えば、家の戸に敷居すべりを貼ることも禁止されているのだと。エアコンは木製のカバーで覆われていた。『いっぷく亭 木崎』。一面『連子格子(れんじこうし)』の旧家。『連子格子』とは、『連子子(れんじこ)』という細い材を、縦あるいは横に一定の間隔で並べたもの。『東海道のおひなさま 亀山宿・関宿』が2/15~3/7に行われると。左手の旧家には『出格子と幕板』が。庇の下に取り付けられた幕板は、風雨から店先を守る霧除け。座敷の前の出格子窓は.明治時代以降に取り付けらたものであると。ここのエアコンの室外機は木のカバーはなしで。『宝林寺 山門』。『真宗高田派 法流山 宝林寺』の『本堂』旧東海道に戻る。この関宿の旧家の内、旧家で今も生活をされている、店を出している割合はどの程度なのであろうか。そして、昨今の商業環境として、沿道型大型商業店舗やイーコマース等が拮抗していることを踏まえると、旧宿場町にある小規模商店等がその営業で苦戦していることが用意に想像できる。これら商店等の土地・建物を現代の都市の中でどのように活用していくかが、ASAPの課題であることを、感じながら歩いて行ったのであった。道路にも案内板が埋め込まれていた。弘善寺まで60mと。『不動尊弘善寺』と刻まれた道標。曹洞宗の『無量寿山弘善寺』の『山門』。扁額には『無量寿山』と。本堂への参道。両側には『南無不動明王』のピンクの幟が。本堂。本堂に掛かる『弘善禅寺』の扁額。境内には菜の花が。左手に『浅原家』があった。『浅原家』は屋号を江戸屋と称し、米屋材木屋などを営む。家の正面は塗籠の中二階、連子格子の明治以降についた店棚、馬つなぎの環などがあり、江戸期の面影を最もよく残す建物といえる。障子の下張りに万延の文字があったことから、それ以前の建築年代と推察される。そして『ばったりと幕板』が上げ下げできる棚(ばったり)が店の前に取り付けられていた。商品を並べたり、通りを通る人が座ったりすることが出来ると。庇の下に取り付けられた幕板は、風雨から店先を守る霧除けとのこと。浅原家の直ぐ右手に『御馳走場跡』があった。ここは関宿に出入りする大名行列の一行を、宿役人が出迎えたり、見送ったりした場所で、享保19年(1734)に造られた。関宿には4カ所の御馳走場があったと。『御馳走場』道標。関宿には四ヶ所の『御馳走場』があったと。「御馳走場関の街並みは、安土桃山時代の天正11年(1588)関盛信によって木崎、新所間に中町が建設されたときに基礎ができました。その後徳川幕府により宿駅が定められてからは、東海道五十三次で47番目の宿場として繁栄しました。中心部の中町には宿場の中心的施設が集中し、比較的規模の大きい派手なデザインの町屋が 残っています。ここは御馳走場と呼ばれ、身分の高い武家や 公家に対して宿役人が出迎えや見送りの儀式を行ったところです。また、関神社(旧熊野権現)の参道入口でもあります。」(御馳走場の現地の案内板が、かすれて読めなかったため、ネットで調べました。)「関宿かるた うち揃い 殿様迎える 御馳走場」。『手づくり郷土賞』石板。路面の道標に従い、御馳走場跡の筋を北向きに路地に入って行く。突当りにあったのが『関神社』の『一の鳥居』。『関神社について』案内板。「御座地 三重県鈴鹿郡関町大字木崎六七五神紋 五七の桐祗祭神 天照大御神 伊邪那美命 天太玉命 天手力男命 大山祇神 火之伽具土命 菅原遭真 木花佐久夜比売命 倭比売命 生井神 石凝蛯命 昧内宿禰 金山比古命 応神天皇 天兒屋根命 月夜見命 天津日子根命 活津日子根命 熊野久須毘命 多紀理比売命 栄井神 市寸嶋比売命 大己貴命 白山比売命 建速須佐之男命 武内宿禰 保食神 大山咋神 宇伽之御魂命 天宇受売命 天忍穂耳命 天穂日命 多岐津比売命祭祀 例祭 七月十六日建造物 本殿(神明造)拝殿 社務所 手水舎 倉庫氏子 坂下、加太、白木一色、鷲山、萩原、福徳を除く関町全域由緒・沿革 明冶五年頃、この神社は熊野皇大神社と呼ばれていた。 昔関氏の祖、実忠が紀伊国熊野坐神社の分霊を勧請したものと伝えられ、 境内の梛(ナギ)の木は、それに縁があるものと思われる。 江戸時代には、熊野三所大権現と呼ばれた。 天和七年{一六二一)修造、その後寛永十四年(一六三七)更に元文四年(一七三九) にも大修理が行われた。 又、明冶時代まで新所にも、笛吹大神社があり江戸期、笛吹大明神と呼ばれ、 もと鈴鹿山麓の総社として加行山に鎮座されていたか、文明十一年(一四七九) 各郷が分難して新所村のみの氏神となった。 その他古厩に大井神社、久我に白石神社、宇佐八幡官等周辺に小桐が多数あったが、 明冶四十ニ年七月二十三日に合祀され、同年九月関神社と改称された。 昭和二十七年十ニ月一日『宗教法人』関神社となった。 夏まつり 毎年七月二十日すぎの土・日曜日に、神輿渡御・山車曳きが行われる。」『関神社 拝殿』。昔、関氏の祖・実忠が紀伊国熊野坐神社勧請したものと伝えられ、境内のナギの木は、それに縁があるものと言われる。江戸時代には、熊野三所大権現と呼ばれ、その後、周辺の神社を合祀し、明治42年9月に関神社と改称された。拝殿に掛かる『関神社』の扁額。『関神社』を後にし、旧東海道に戻る途中左側にあったのが『木崎町 山車庫』。「木崎町山車「関の曳山」は.旧東海道関宿に江戸時代の.元禄年間(一六八八~一七〇三)から伝わるお祭りです。最盛期には一六基もの山車があり、横幕・見送り幕・提灯などを豪華に飾りつけて華美を競い合い、また、笛太鼓で祭囃子を奏でながら、家々の軒先をかすめ、人ごみをかきわけて巡行する様から、「この上は無い、精一杯である」という意味で用いられる『関の山』という言葉の語源になりました。現在、木崎町・大裏町(北裏)・中町三番町・中町四番町の四基の山車か保存されており、祭りは毎年七月下旬の土・日曜日に開催されています。木崎町は関宿の東側の地域で、江戸時代には、神事講・宮講のニ基の山車があり、各町の山車を宮の前(関神社)へ曳き込む際の先違を交互につとめていましたか、明治時代に二基とも廃止され、現在の木崎町山車にまとめられました。山車は滋賀県水口町から購人したものと伝えられています。木崎町山車は.現存する四基の中で最も規模が大きく.四つの御所車の上に囃手が座る囃場があり、その上に天場か乗る二層露天式といわれる構造形式です。山車前部には、参加する町内各組の名前が書き込まれた提灯が並べられ、山車の周囲を飾る紅提灯には「五七の桐」の図柄が用いられています。見巡り幕は、風景をあしらったものと、「がま仙人」の図柄のニ穐類かあり、『がま仙人』の見送り幕を用いると雨が降ると伝えられています。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.16
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次更に旧東海道を西に進み、ここを左に進み関西本線の跨線橋に向かう。この跨線橋を渡って関宿方面に向かう。跨線橋上から関西本線、県道565号線を見る。跨線橋を下って行くと、前方に関バイパスの高架橋が見えた。左手に『鈴鹿川』を見ながら歩く。道路脇には桜並木が。ここは『太岡寺畷(たいこうじなわて)』と呼ばれていると。『太岡寺畷のいわれ』案内板。「畷(縄手)とは、まっすぐな長い道のことです。 太岡寺畷は、東海道が約2キロにわたって鈴鹿川沿いに築かれた堤の上を通り、東海道の畷道では随一の長さとされます。 松尾芭蕉の七部集の一つである『ひさご』に、門弟の野径が「から風の太岡寺縄手吹透し」と詠んでいます。 この太岡寺の場所については他に説がありますが、亀山においては古くから、この地であるとの認識がありました。 かつては、「わしの想いは太岡寺 他に木(気)が無い松(待つ)ばかり」(『亀山地方郷土誌』)と謡われたほどの松並木で、 大田南畝(蜀山人)が享和元年(一八〇一)に江戸から大阪までの旅を記した『改元紀行』にも、「松の並木両行に立てり此間十八町にて太岡寺縄手といふ」とあります。 なお、太岡寺の地名は、かつてこの地にあった大寺である「六門山四王院太岡寺」に由来すると伝えられます。」『太岡寺畷における桜の名所づくり』案内板。左手に鈴鹿川に架かる橋が、橋の名は『神辺大橋』。『亀山市立神辺小学校』が右手に。そして名阪国道、東名阪自動車道の高架の橋脚側面には、三重県の宿場町の東海道五十三次浮世絵があった。掲げられていたのは、広重の、桑名宿・四日市・石薬師・庄野・亀山・関・阪之下(坂下)の浮世絵。進行方向右手前から。『東海道五十三次と歌川広重』「慶長六年(一六〇一)徳川家康は「御伝馬之定」を制定し東海道沿道の集落五十三ヵ所を宿駅に指定した。以後、東海道は江戸と京を結ぶ最も重要な街道として、上り下りの大名行列や庶民にいたるまで、数多くの旅人が往来した。江戸後半には一般の人々の旅行も増大し、それにつれて各宿場の名所や行程などを記した名所絵図や道中記などか次々に刊行された。これらの需要もあって、浮世絵師たちも治道の風景を画題として描くようになった。その風景画の中で最も著名なものが、初代歌川広重(一七九七~一八五八)の「保永堂版東海道五十三次」で、五十三の宿駅に日本橋と京を加えた五十五枚から構成され、四季折々の宿駅風景や人々の姿を猫いている。天保四年(一八三三)から頃次出版されたこのシリーズは爆発的な人気を得て広重の名声は一挙に高まり。以後他の絵師たちの描く東海道の風豪画は、少なからず保水堂版の影響を受りているほどである。また、広重は行書版、隷書版、堅絵などの東海道物や、木曽街道五十九次、名所江戸百景などの名作を次々と発表して、風景画家の第一人者となるとともに、花鳥画や美人画などにも独自の境地を開き、その地位を不動のものとした。なお、この作品は「五十三次亀山浮世絵版画館」所蔵の原画を複製拡大しました。」『歌川広重 東海道五拾三次之内 桑名 七里渡口』。「宮宿から桑名宿への海上七里の距離を、船で渡ったためこの「七里渡口」の名前がある。2~3時間の船旅であった。2隻の渡し船がちょうど到着したところであろうか。画中海に多き突き出た城が桑名城である。」『『歌川広重 東海道五拾三次之内 四日市 三重川』「画中右では三重川に架かった何とも粗末な橋を、風に吹き飛ばされないように渡っている姿が何とも危うい。画中左では旅人が飛ばされた笠をあわてて追いかけているのも、その危うさを強める。広重の絵では珍しく風の動きを見せた図でもある。北斎『冨嶽三十六景』の「駿州江尻」との比較も一興。」『歌川広重 東海道五拾三次之内 石薬師 石薬師寺』。「遠景に大きく描かれた山々。そのなだらかな形と色彩が何とも美しい名作。その山のふもとにあるのが石薬師寺。田圃の畔道をつきあたると石薬師寺の山門がある。その右手には宿場が広がる。田んぼでは稲刈りが終わっているので、季節は晩秋から初冬であろうか。叙情豊かな風景である。」『歌川広重 東海道五拾三次之内 庄野 白雨』。「『東海道五拾三次之内』の中で、最も有名な一枚。白雨とは夕立のこと。画面左から大胆に描かれた勾配のある坂。画中右手の家並みがこの坂の小高さを思わせる。その坂を必死に登る駕籠かきと転げ堕ちるように駆け下る旅人と農夫。そこに夕立がこの坂と直角に交差するように降り始める。よく見ると駆け下りる旅人の傘には「竹のうち」「五十三次」としっかりと宣伝されているのも面白い。この「庄野」は「蒲原」と並ぶ傑作とされる。「蒲原」が深々と降る雪をテーマにしたのに対して「庄野」では激しい夕立が描かれる。画中の人の動きもあり、静と動の対比がある。季節にも冬と夏の対比がある。この版の摺りもとても良く、雨雲を感じさせる空のぼかし、雨しぶきに煙る竹林のシルエットの濃淡、白雨の言葉のとおりの夕立の繊細な色合いなど、いずれをとっても最良の版といえる。」『歌川広重 東海道五拾三次之内 亀山 雪晴』。「広重の大胆な構図が光る名作。画面右上から左下に極端なまでに描かれた勾配に画中のほとんどの事物が納まってしまいそうだ。雪の朝、朝焼けに染まり始める空の描写と白と黒のモノトーンで描かれた銀世界の雪景色。その中にわずかに見える大名行列の色彩が効果的な印象を作り出している。」『歌川広重 東海道五拾三次之内 関 本陣早立』。「鈴鹿の関は逢坂の関、不破の関とならんで三関といわれた。参勤交代の大名が宿場で宿泊するところを本陣という。宿場の有力者の家がその本陣にあてられた。この図は、その本陣を早朝に出発する様子を描いている。定紋をつけた陣幕が張り巡らされているが、実はこの紋は、広重の実家の田中家の家紋が使われている。また門の前の足軽が持つ提灯の紋も広重の「ヒロ」をデザインしたもの。ちょっと不思議な空気の本陣になっている。」『歌川広重 東海道五拾三次之内 坂之下 筆捨嶺 』。「画中左の奇抜な形をした山は、岩根山といって奇岩や松、滝など見所の多い山であった。室町時代に狩野元信がこの山を描こうとして描ききれず筆を捨てたという、いわれから筆捨山と呼ばれていた。広重は画面に右に茶店と見物にいそしむ旅人を描き、この景勝地の描写に挑んでいる。遠景に青いシルエットで描かれた山の美しさが、この筆捨山の奇抜さをひときわ目立たせている。」そして『鈴鹿川』と鈴鹿の山々。上は『東名阪自動車道 上下線(左)と名阪国道の関バイパス連絡道路』の美しいカーブ。『東名阪自動車道』の下の小さな橋には『太岡寺畷橋』と刻まれていた。鈴鹿川沿いを更に進む。正面に鈴鹿山脈。農村集落排水処理場。河口から26kmの『鈴鹿川』。鈴鹿山脈の景色を楽しみながら進む。関西本線の『小野踏切』が正面に。『小野踏切』を渡る。左が『関駅』方面。単線で電化されていなかった。『小野川橋東詰』交差点で国道1号線に合流し、ここを左折した。日本橋から『422.4km』ここで国道1号線を進むと、右に入る細い道があり、ここが関宿入口なのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.15
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道沿いの民家の縁側が様々な手作りの民芸品が展示棚になっている旧家。『鈴鹿・亀山まちかど博物館』。亀山市野村町23-2。明治の終わり頃に建てられた町家を改装した連子格子の家。昭和レトロを始めいろいろな骨董品を展示していた。『水車小屋』。野村3丁目17の先の交差点を渡る。交差点を渡ると左手に『明治天皇御召替所跡』が。『御召替所跡』。「明治天皇御召替所跡 内池家主屋明治13年5月、明治天皇が東京から山梨県を行幸され、続いて三重県で伊勢の内宮と外宮を参拝された。東京へ帰る途中、高田山専修寺や、鈴鹿郡亀山を行幸された。亀山では陸軍の大阪鎮台の様子を見分された。その折、ここ内池家で御休みになり、御茶料として3円を下された。」この付近の名所観光案内図。更に進むと、右手に『野村一里塚跡』があった。『史跡 野村一里塚』。ここは江戸日本橋から数えて105里目、京都三条大橋から20番目(三条大橋から約83㎞)の一里塚である。『史跡野村一里塚』碑。「一里塚は、江戸時代のはじめ、徳川幕府が江戸日本橋を基点とし、街道に沿って一里ごとに設けさせた里程標で、塚を築き、その上に樹木を植えた。 この一里塚は、東海道の一里塚の一つとして築造されたもので、もと街道をはさんで南北に塚があったが、大正3年に南側のものは取り去られ、北側の塚のみとなってしまった。塚の上には、目通り幹囲5m、高さ20mの椋(ムク)の木がある。本県における旧東海道においては桑名宿から坂下宿の間に12ヵ所の一里塚が設置されていたが、いま、残るものは、この一里塚だけであり、わが国交通史上、貴重な遺跡として、昭和9年1月22日、国の史跡として指定された。」この塚上には、目通り幹囲5m、高さ20m、樹齢400年を越えた椋(ムク)の木が。南塚は大正12年に倒されてしまったと。春になり新緑で覆われた時の姿を見てみたいのであった。更に雨に路面が濡れた旧東海道を西に進む。野村一里塚を過ぎると、道幅は車1台しか通れないような細い道筋へと変わった。そして町名は「布気町」に。黒ではなく茶色の連子格子の旧家が左手に。『野尻』バス停の空き地の角には掲示板と遺跡を示す白い標柱が。『亀山藩大庄屋内田権四郎昌克旧宅跡』。「打田家は江戸時代初め頃 近江国(滋賀県)から野尻村(布気町)に移住し、代々いくつもの庄屋をまとめる大庄屋を努めた。現在地から東海道を挟んだ北側にその屋敷があった。内田権四郎昌克(1641~1758)は元禄15年(1702)亀山領に関する記録集『九々五集』を編纂した。」その先にも2階建て板塀の歴史ある建物が。『東海道 道標』。『毘沙門天』手前のT字路。『毘沙門天 本堂』。ここは亀山市布気町。扁額には『毘沙門天』。境内の石仏群。T字路を右折し進む。左手にあったのが『布気皇舘太(ふけこうたつだい)神社』の『一の鳥居』。「布気皇舘太神社神 紋 揚羽蝶鎮座地 亀山市布気町一六六三番地御祭神天照大御神 建速須佐之男命豊受大神 品陀和氣命猿田彦大神 稲田比賣命伊吹戸主大神 高御産業日神宇迦之御魂神 手刀雄命大名牟遅神 手置帆負命菅原道真 火之迦具土神火之夜勢速男命 帯中日子神宇都志國玉神 廣國押武金日神木花佐久夜比賣命 五男三女神天宇受賣命祭 祀 例 祭 十月十五日 獅子舞 丑、辰、未、戌の一月一日から三日由緒 延喜式巻九「伊勢国鈴鹿郡19座並小布氣神社」とあり、垂仁天皇18年の創始にかかる式内社です。社名の皇舘とは、垂仁天皇の御宇、天照大御神が忍山に御遷幸の折、大比古命が神田・神戸を献じたことに由来し、野尻、落針、太岡寺、山下、木下、小野、鷲山の七ヶ村を神戸郷といいました。九々五集巻第六上には、「高野大神宮 関氏より続テ亀山御城主御氏神三社之内 神辺七郷惣社ノ宮(略)宮地長長八十間横百間」とあり、また同書の巻第九の巻末に記述の「舘殿御由来」には「抑勢州鈴鹿郡神戸庄皇舘多賀ノ宮は豊受皇太神宮の荒魂の御神なり。夫レ神戸と申侍るは人王十代崇神天皇七かのへ寅歳奉勅命て諸国所々に御舘を改め其郡の宗廟として荒魂の卸神を社の神戸なり」とあります。布気皇舘太神社は、時代によっていろいろな名で村人に親しまれたが、明治41年近郷の小社小詞を合祀し、現在の社名となりました。」一の鳥居の先に並ぶ石燈籠の間の参道を進む。日本最古の観音霊場「西国三十三所観音霊場」の第三十三番札所で結願・満願の寺として知られ、春には桜、秋には紅葉の名所として賑わいをみせるという「谷汲山 華厳寺(たにぐみさん けごんじ)」。美濃国・現岐阜県揖斐郡揖斐川町にある「西国三十三所観音霊場」。裏の道路からの入り口。『布気皇舘太神社 拝殿』。布気皇舘太神社は、延喜式巻九 「伊勢國鈴鹿郡十九座並小布気神社」 とあり、神話時代垂仁天皇18年の創始にかかる式内社である。明治41年に村社に列し近在の鎮守社を合祀したことで、もともと天照大神、豊受大神、伊吹戸主神(いぶきどぬし)の三神が祭神だったが、明治の合祀で二十三柱を祀るようになったと。日本の八百万の神を代表する神々が合祀されているというか、神々としてはベストメンバーなので、なんでもかんでも叶えてくれるのではと、丁寧にお参りしたのであった。『拝殿 内部』。『本殿』。鈴鹿川北岸の河岸段丘の上に鎮座する。古く野村布気林(野村の西北部・野尻村との境)にあつたが、文明年間の兵乱によつて衰退し、のち、現社地の皇館の森に移つたと伝えている。中世には、神戸郷の神領を管した在地の豪族板淵氏(同村の西北に居住)が当社の祭祀を経営していた。文永元年(1264)に関実忠が地頭職として亀山に移住し、亀山城の氏神とした。享保8年(1723)に吉田家より皇館大神宮の神号を受けた。『境内社』。『聖訓』碑。地元出身の軍人の慰霊碑のようであった。参道を旧東海道に向かって戻る。更に旧東海道を進む。『立場茶屋能古付近』。『布気皇舘太神社』の先に『立場茶屋能古』があったと言われている。この辺りには、現在、『神辺簡易郵便局』が建っていた。『能古茶屋』は、松尾芭蕉の親友である禅僧道心坊能古が開いた茶屋と言われている。芭蕉は逗留中に 「枯枝にとまりたるや秋の暮」 という句を残しているのだと。郵便局の建物の前左手に『常夜燈』。付近に川も無く、大きな道でもないので、何処からか持って来たものと思われる。しかし年代を感じさせる常夜燈。 亀山市指定史跡。珍しい事に「さざれ石}が使われていると。下り坂の手前左にあったのが『昼寝観音』。観音縁起によれば、通称 「昼寝観音」 と呼ばれ、東大寺再建の折りに造られ、奈良より背負われて各地を巡り、此の地こ伝わったという。また、各地の観音様が集まって西日本で観音様を巡ってお参りする33カ所の寺を決める会議が開かれた時、落針の観音様は昼寝をして会議に行かなかったので、33ヶ所の寺に選ばれなかったという。『落針観音堂』。石山観音が祀られた『落針観音堂 内陣』。『地蔵堂』中には寛政12年(1800)の地蔵菩薩が2体。境内の『豊田多賀助翁頌徳之碑』寺のフェンスには『道標 東海道 亀山宿⇔関宿』が。坂を下っていくと、左斜奥遠くには鈴鹿の山々が姿を表したのでズームで。『宇気比神社』案内板。『東海道 道標』。逆Y字路の中央に安政6年(1859)の『常夜燈』が建っていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.14
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『京口門跡』を後にし、『京口坂』を下って行く。京口門跡の先で『竜川』に架かる『京口坂橋』が現れた。『竜川』。『京口坂橋(きょうぐちざかはし)』橋標。『竜川』上流域。『京口坂橋』から『竜川』を見ると、『京口坂橋』がかなり高い所に架かる橋であることが理解できたのであった。『京口坂橋』の渡り詰め右手下に、日蓮宗の『妙亀山照光寺』があった。『照光寺』山門に向かって坂を下る。『歌川広重 東海道五拾三次 亀山 雪晴』。「当山 東下の滝川よりのぞむ 京口門の勝景。旧東海道の京口坂は、大正時代後半までその面影を留めていた。亀山宿。」『日蓮宗 妙亀山 照光寺』寺標と『山門』。元禄13年(1700)の『南無妙法蓮華経』題目碑。慈眼寺にあったものであると。『亀山における谷口一族関連資料』。「亀山における谷口一族関連資科は、京都の町人で法華信徒であった谷日長右衛門・自滎〔法悦〕及びその一族が全国の街道沿いや寺院などに行った寄進活動のうち、亀山市域における状況を示す資科群である。照光寺に所在する谷口一族関連資料は次の四点である。一 照光寺蔵谷口一族寄進題目塔題目塔は高さ一四〇・三cm、幅四五・三cmの板碑型石等で正面に『南無妙法蓮華経』と刻字されている.塔身右側面に元禄十三年(一七〇〇)十一月の造立年銘.塔身背面には「谷口甚右衛門」の施主名が刻まれる。また左側面の「日教代」は、照光寺第八世、慈眼寺第二世住職である.この題目塔は、元慈眼寺(阿野田村旛問山)にあったが、平成二六年(二〇一四)に慈眼寺の本寺であった照光寺に移設された. 一 照光寺蔵谷口一族寄進紙本著色涅槃図(縦一九二・〇cm、横一四三・〇cm 一 照光寺蔵谷口一族寄進軸装涅槃図裏面墨書(縦一一八・五cm、横四ニ・〇cm 一 照光寺蔵谷口一族寄進断簡涅槃図裏面墨書(縦六三・六cm、横一三三・二cm涅槃図三点は、涅槃図と涅槃図の裏書であって.本来一体のものであったが、平成ニ十年の修復の際に三つに分離された。裏面墨書から、元禄十四年(一七〇一)に施主「妙信院法悦」と『谷口甚右エ門』により寄進された涅槃図である.なお.「妙信院法悦」は、谷日長右衛門自滎の法名である.天保十五年(一八四四)に表装の修理が行われているが、この時の住職であった「日随」は照光寺との住職を兼務しており、本図が照光寺、慈眼寺いずれに寄進されたものかは不明である.これらの資料と、市域に所在する西追分題目塔(関町新所・県史跡)、川合町題目塔〔川合町・市指定文化財〕とあわせて、亀山市域においては元禄期(一六六八~一七〇四)に、谷口長右エ門自滎(法悦)はじめ谷口一族が関わって寄進活動が行われたことがうかがえる。谷口一族に関する文学資が全国的に極めて少ないなかで、一族の活動の具体的様相を知ることができる貴重な資料群である。」梵鐘の無い『鐘楼』。『照光寺の文化財』案内板。「妙亀山照光寺は、もと玉泉院と称する日蓮宗の寺院である。亀山藩主板倉重冬公(在任元禄元年~宝永六年)の義母照光院(俗名筆子)は篤く法華経に帰依し、元禄ニ年(一六八九)野村京口門下に一宇を再興し、照光院の法号をとり寺号としたという。境内西にある墓地には、「赤堀水之助墓」(市史跡昭和十六年指定)、及び「山本善太郎墓」(市史跡昭和二十六年指定)がある。」赤堀水之助(源五右衝門)は、亀山藩主板倉重冬公の家臣青木安右嗇門の許に身を寄せ、その推挙によって禄一五〇石を賜り。馬廻り役として藩士に武道を教えた。しかし、元禄十四年(一七〇一)五月九日早朝、亀山城石坂門外で石井源蔵・半蔵兄弟に父兄の敵として討ち取られ、ここ照光寺に葬られた。兄弟が二十九年目にしてようやく本懐を遂げたことから、この事件は「亀山の仇討ち」として著名になり、仇討ちが行われた石坂門跡には、昭和七年亀山保勝会によって「石井兄弟亀山敵討遺跡」碑が建てられた。山木善太は。阿波(現徳島県)の生まれで天保二年(一八三一)三十二歳のとき亀山藩主・石川総安(在一文政三年~天保四年)に儒学者として召抱えられた。藩校明倫舎の教授となり「海内医林伝」など多く著書を残したが、天保八年(一八三七)七月、三十八歳の若さで病没し、ここ照光寺に葬られた。墓石群が並ぶ。『史跡 赤堀水之助(源五右衛門)の碑』。赤堀水之助(源五右衛門)は、亀山藩主板倉重冬公の家臣青木安右衛門の許に身を寄せ、その推挙によって禄150石を賜り、馬廻り役として藩士に武道を教えた。しかし、元禄14年(1701)5月9日早朝、亀山城石坂門外で石井源蔵・半蔵兄弟の敵として討ち取られ、ここ照光寺に葬られた。兄弟が29年目にしてようやく本懐を遂げたことから、この事件は「亀山の敵討ち」として著名になり、敵討ちが行われた石坂門には、昭和7年亀山保勝会によって「石井兄弟亀山敵討遺跡」碑が建てられた。そして平成元年10月にはこの碑が。『照光寺本堂』。『照光寺』は、もと玉泉院と称する日蓮宗の寺院である。亀山藩主板倉重冬公の養母照光院は篤く法華経に帰依し、元禄2年(1689)野村京口門下に一宇を再興し、照光院の法号をとり寺号としたという。『日蓮大菩薩』。『妙見堂』。旧東海道に戻り進む。右手にあった歴史を感じる白塗りの蔵。『照光寺』から程なく左手に『森家住宅』が。街道に面して間口が広く、入口から順次整った座敷を配置している。また街道に面した外観は出格子戸を設けるなど町家的な表構えを見せている。現在は、名物・伊勢うどんなどの幟を立てた飲食店として使用されているのであった。『森家住宅』の建物の角の前には『東海道 道標』と『案内板』があった。『東海道』。『森家住宅』。「亀山宿・関宿間の野村集落に所在。 旧東海道の歴史的な町並みを伝え、貴重な建物である。 切妻造機瓦葺で西面に切妻棟を付設、周囲に下屋をまわす。 左手に土間、右手に居間を配し、さらに奥に座敷を設ける。 妻を漆喰で塗り込め、正面は上屋を黒漆喰真壁、下屋に格子を設けるなど町屋的な表構えを見せる。」『森家住宅』を振り返る。連子格子が美しい野村地区の町並みを進む。『笑門』と書かれた正月飾りのしめ縄がこの日にも。ネットで調べてみると、『お伊勢さんのしめ縄』 玄関用 注連縄 『笑門』であると。正月だけでなく一年間、家や店、会社の玄関、入り口にお飾り。『笑門』👈リンク を参照下さい。『森家住宅』の先の左手筋を入ると、右手に浄土宗の『心光寺』があった。『無縁仏塔』であろうか。その奥に梵鐘の無い『鐘楼』が。『観音菩薩』。『地蔵菩薩』。『心光寺 本堂』。心光寺の創建年代等は不詳であるが、境内には十一面観音菩薩を祀る観音堂、数体の地蔵菩薩などがあった。九東海道に戻ると直ぐ右手に浄土真宗本願寺派の『究竟山 光明寺』があった。『鐘楼門』の『山門』と右に寺標『浄土真宗 本願寺派 究竟山 光明寺』。『鐘楼門』を見上げる。『梵鐘』。『光明寺本堂』。光明寺の創建年代等は不詳であるが、街道に面して鐘楼門が建ち、本堂前に親鸞聖人像があるのみですっきりした境内。『親鸞聖人御像』。『京口坂橋』を渡ってからは、連子格子の旧家が建ち並び、往時の町屋の雰囲気を偲ばせている野村の街並み。木造3階建の建物が右手に。『西光明寺』の先の十字路左手に浄土宗の『亀鶴山無量院慈恩寺』があった。『木造阿弥陀如来立像』。「慈恵寺本尊の阿弥陀如来立像は、亀山市はもとより三重県を代表する優品である。現在は浄土宗寺院の本尊として信仰されているが、薬師如来の可能性も指摘されている。伝来については、近在の忍山神社の神宮寺であった神福寺の本尊と伝えられるが、不明な点が多く詳しいことはわからない。像高て一六一・九cm、蓮華座上に両足をそろえ、胸をそらすように立ち偏袒右肩の如来形で、肉髻珠、白毫相をあらわす。右手は屈臂して第一・二指を捻じ、左手はゆるやかに垂下して第一・三指を相捻じる。頭体のほとんどをヒノキの一材から彫成し、内刳は施さない。両肩や衣文等、部分的に木屎漆を用いて厚手に塑形し、漆箔仕上げとする。当初は、本体と蓮肉部を共木で造っていたものと思われるが、現在は両足首が後補。また左手先、右手臂より先、台座、光背も後世のものに替わっている。螺髪は植付けで当初のものである。制作年代は平安初期の重厚で緊張感あふれる作風を示しヽ九世紀初頭に遡るものと思われる。」『重要文化財 木造阿弥陀如来立像』。説明内容は上記にほぼ同じ。『忍山観音堂』。隣に『薬師堂』。『鐘楼』。『慈恩寺 本堂』。『本堂』に掛かる『亀鶴山』の扁額。『子安観音像』か。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.03.13
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