JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.04.11
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​ ​ 『旧東海道を歩く』ブログ 目次 ​





『土山宿案内図』。



『現在地』を接写で。



『土山宿 旅籠 山村屋跡』。



『土山宿 旅籠 山村屋跡』碑。



右側に『東海道 土山宿 日野屋太郎左ヱ門』。
こちらも、表札には『土山』の文字が。



空き地(駐車場)入り口の屋根付きの木製門には『油屋跡』の木札が。



『土山宿 旅籠 中嶋屋跡』碑。



『東海道 土山宿 岩田屋跡』。
江戸時代は豪農岩田屋の家だったが、明治になって前田家が入り製茶業を始めたという老舗。



現在は『前田製茶本店』。



『一の松通り』・岩村北土山線手前の案内柱。



『一の松通り』を渡る。



渡った先右手には『高桑闌更(たかくわらんこう)句碑』があった。



「土山や 唄にもうたふ はつしぐれ」。



「土山や 唄にもうたふ はつしぐれ
作者 高桑闌更 俳人 享保十一年(一七二六)~寛政十年(一七九八)
加賀国金沢(石川県金沢市)に生まれる。 生家は屋号釣瓶屋という商家。
本名忠保(または正保)、通称は長次郎。 俳諧を和田希因に学び、蕉風の復興に努め、
与謝蕪村らとともに、俳諧中興に貢献。 後年、医を業としながら京都東山双林寺内に芭蕉像を
安置する芭蕉堂を営む。 芭蕉関係の俳書を翻刻、注釈するなど功績をあげた。 俳風は温和高雅。
門下から桜井梅室や土山に縁のある虚白禅師等を輩出する。 代表的な句集や編書に
「半化坊発句集」「落葉考」「芭蕉翁消息集」「花の故事」「深川集」などがある。」



『一の松通り』石碑と通り。



その先に『井戸』が屋根付きで。側には消火栓が。



その手前にあったのが『土山問屋場跡』碑と『大黒屋本陣跡』碑が並んで立っていた。



「大黒屋本陣
土山宿の本陣は、土山氏文書の「本陣宿の事」によって、甲賀武士土山鹿之助の末裔土山氏と
土山宿の豪商大黒屋立岡氏の両氏が勤めていたことがわかる。
土山本陣は、寛永十一年(一六三四年)三代将軍家光が上洛の際設けたのがそのはじまりであるが、
参勤交代制の施行以来諸大名の休泊者が増加し、 土山本陣のみでは収容しきれなくなり、
土山宿の豪商大黒屋立岡氏に控本陣が指定された。 大黒屋本陣の設立年代のついては、
はっきりと判らないが、旅籠屋として繁盛した大黒屋が土山本陣の補佐宿となっている。
古地図によると、当本陣に規模は、土山本陣のように、門玄関、大広間、上段間をはじめ
多数の間を具備し、宿場に壮観を与えるほどの広大な建築であることが想像できる。」



『高札場跡』碑。



奥にあったのが『明治天皇聖蹟』碑。



同じく『巌稲荷神社跡』碑。



この基礎の上に『巌稲荷神社跡』の社殿があったのだろうか。焼失してしまったのか?



右手に『土山宿 旅籠 古め屋跡』



左手に『土山宿陣屋跡』。



「土山宿陣屋跡
陣屋とは、江戸時代勘定奉行の配下である代官が在住した屋敷である。 ここ土山の陣屋は
天和三年(一六八三)、当時の代官であった猪飼次郎兵衛のときに建造されており、
瀬古川の東崖にあり、 東西二十五間、南北三十間の広さがあったといわれる。
以降代官は入れ替わったが、宝永三年(一七○六)からは、多羅尾四郎右衛門に、そして
明和八年(一七七一)より岩出陣右衛門らに引き継がれ、 天明二年(1一七八二)より、
再び多羅尾氏に引き継がれていたが、寛政十二年(一八○○)の土山宿の大火災で屋敷は類焼し、
以後再建されず、百二十年の屋敷の歴史を閉じた。 以来、陣屋は信楽に移り、多羅尾氏の子孫が
世襲し、明治維新に至っている。」



そして前方に欄干が白い橋が姿を現した。



右手の橋の屋根付きの欄干。
この橋には、鈴鹿馬子唄の一節とそれを表現した絵が陶板になって張られていた。



橋の名は『大黒橋』。
元々は土橋だったが江戸時代末期から明治初期にかけての頃、旅籠の大黒屋立岡長兵衛に
よって石橋に架け替えられ、以来『大黒橋』の名が付いたという。



「坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る」の歌詞が
桜の木の下を進む馬子の絵とともに。



桜の木の下を。



「鈴鹿馬子唄
 坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る」



鈴鹿峠を登る姿。



川の名は『吉川』。



夕焼けに赤く染まる『鈴鹿峠』と『万人講灯籠常夜灯』。



「鈴鹿馬子唄
 鈴鹿山には 霞がかかる 可愛いい娘にや 目がかかる」



『土山宿』の馬子。



『土山宿』で荷物を馬に積み込む姿。



『岩田屋亀五郎跡』。



左手の路地に入り『常明寺』を訪ねた。



白壁の塀沿いに進む。



『開基元明天皇 國寶大般若經 常明禅寺』寺標。



『山門』。



『山門』前の石碑群。



『禅俳僧虚白住寺跡』碑。



『禅俳僧虚白住寺跡』碑。



「禅俳僧虚白住寺跡
虚白は、僧名を松堂慧喬といい、安永二年(一七七三年)、京都の神官の子として生まれ、
少年時代を常明寺で過ごした後、京都や鎌倉で雲水生活を送りました。 この修行時代に俳諧を
志し、京都で芭蕉堂を営む高桑蘭更の門人となり、桜井梅室らと交流しました。
文化四年(一八○七年)、常明寺十五代住持職となり、寺門の興隆と檀家の強化に意を注ぐ
かたわら、俳人として活動し「浮巣社」を主催、三好赤甫など多くの門人の指導にあたりました。
また、南土山の五瀬に草庵を結び、「猥芋軒」と名付けて隠遁生活を送り、禅俳一如の境地に
至りました。 後、天保六年(一八三五年)に東福寺、天保十四年(一八四三年)に南禅寺の
住持職に任ぜられ、 紫衣を赦されるまでになり、弘化四年(一八四七年)七十四歳で東福寺にて
亡くなりました。  
辞世句 おほけなき 床の錦や 散り紅葉」



境内にあった『森白仙の供養塔』
森白仙は津和野藩医。森鴎外の祖父。文久元年(1861年)参勤交代で江戸に滞在中に病となり、
江戸で養生して藩主に遅れて帰国途中に土山宿旅籠 井筒屋で発病し文久元年(1861年)
11月7日に病死。



「森鴎外と常明寺
鴎外の祖父白仙は、津和野藩主の参勤交代に従って江戸へ出たが、帰国の際に発病し、
遅れて国もとへ向かう途中、ここ土山で病死した。 万延元年(一八六○年)十一月七日である。
遺骸は常明寺の墓地に葬られた。 鴎外は祖父への思慕深く、小倉在住時代、明治三十三年
軍医部長会出席のため上京の途中、土山に立ち寄り、常明寺を訪れた。 荒れ果てた墓を
探し当てた鴎外は、住職固道に願い出て、墓を境内に修した。 明治三十九年に祖母きよが、
大正五年には母ミネが没。遺言により常明寺に葬られた。 鴎外は祖父母と母の遺跡に心を尽くし、
「維時大正七年三月新添 施主東京森林太郎」と墨書された錦の段通を寄贈している。
昭和二十八年、三人の墓は津和野の永明寺に移されたが、今は昭和昭和六十三年に
鴎外の子孫により建立された供養塔が立っている。」



『山門』前から。。



「常明寺
臨済宗東福寺派の寺院。 和銅年間の建立と伝えられ、貞和五(一三四九)年鈍翁了愚が
九条経教の命を受け中興した。 一時兵火により焼失したが、延宝年間(一六七三~一六八一)に
再建された。 当寺の住持であった松堂慧喬(号虚白)(一七七三~一八四七)は俳人としても
活躍し、地域の俳壇で指導的立場にあった。
境内には芭蕉の句碑「さみだれに 鳰のうき巣を 見にゆかむ」がある。
寺蔵の大般若波羅蜜多経は奈良時代のもので、長屋王願経として国宝に指定されている。
また、墓地にはこの地で没した森鴎外の祖父森白仙の供養碑が建てられている。」



『由緒』。
山号  瑞宝山 常明寺
宗派  臨済宗 東福寺派
本尊  阿弥陀如来
脇本陣 不動明王 毘沙門天
開山  鈍翁了愚禅師(東福寺第二十一世)
什宝   大菩薩経 二十七巻(紙本墨書)
    和銅五年 長屋王直筆の写経 国宝指定
沿革  四十三代女帝元明天王が、先帝文武天皇の菩提の為に建立、和銅七年完成。
    鎌倉期を経て正平四年(一三四九)東福寺聖一国師の法孫鈍翁了愚禅師が
    関白九条経教の請により五瀬の地より現在地に移転。禅師は茶の製法を伝え
    土山茶の茶祖と云われる。中興開山十五世松堂慧喬(号虎白)は俳人として
    活躍。東福寺第二十六世にも就任。以前の堂宇は江戸時代、延宝年間
    (三百四十年前)の建物であったが破損が激しく、星和電機代表取締役
    増山義三郎氏(京都府)の発願により、檀信徒一致協力し諸堂建立。
    平成十二年十一月三日落成大法要厳修す。
常明寺ご本尊阿弥陀如来御詠歌
十悪の わが身をすてて そのままに 浄土の寺へ まいりこそすれ



『瑞寶山 湖東禅林 常明寺』。



『鐘楼』。



『本堂』。
(1)寺名:常明寺(じょうみょうじ)
(2)住所:滋賀県甲賀市土山町南土山甲531
(3)山号:瑞宝山 (4)宗派:臨済宗東福寺派
(5)開基:元明天皇 (6)開創:708~715年
(7)中興:鈍翁禅師 1349年 (8)本尊:阿弥陀如来
(9)その他
  1)大般若経(長屋王願経)27帖:国宝 712年 長屋王願主の写経
  2)土山茶発祥の地
  3)芭蕉句碑:さみだれに鳰のうき巣を見にゆかむ
  4)森鴎外の祖父白仙の供養塔



『本堂』の扁額は『瑞寶山』。



『子安地蔵尊』。



その後ろに『芭蕉句碑』。
「五月雨に 鳰の浮巣を 見にゆかん」。
いま五月雨の季節、さぞや琵琶湖ではいまごろ鳰が葦の根方に巣を作っていることであろう。
それを見に行くよ、と。
貞享4年(1687)芭蕉44歳の時に詠まれたもの。



『観音像』。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                  ・・・​ つづく ​・・・






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Last updated  2020.04.26 06:36:33コメント(0) | コメントを書く


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