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今年6月11日(火)に熱海のジャカランダの花を楽しんだ帰路に「小田原城」を訪ね、ブログアップ👈️リンク をしたが、その際、「小田原城」の周辺の遺跡も年内に訪ねたいと思ったのであった。 そしてこの日は9月20日(金)、まだまだ猛暑の中、小田原を目指したのであった。6:40に自宅を出発し、小田急線、JR東海道線を利用して小田原駅に到着。時間は7:40過ぎ。ホームからのエスカレーターを利用して中央改札口に向かう。正面に巨大な「小田原提灯」👈️リンク。「小田原提灯」は、小田原の伝統工芸品で、中骨がリング状に独立しているため畳み込むことができ、持ち運びが容易です。また、中骨が平たく胴紙をしっかりと接着させているため、剥がれにくく雨や霧にも強いのが特徴であると。2003年に小田原駅の東西連絡通路が完成した際、JR東日本の改札口付近に巨大な小田原提灯が市民団体により設置された。2019年の令和元年東日本台風(台風19号)で破損したため、小田原市により一時撤去されたが、修復が行われ翌2020年8月29日に再設置された と。小田原駅のシンボルとして知られており、旅人を温かく迎え入れているのであった。今年の「小田原ちょうちんまつり」の開催予定。日時 2024年10月14日(月・祝) 12:00~20:15 ※小雨決行・荒天中止主催 (一社)小田原市観光協会 0465-20-4192場所 小田原城二の丸広場 ほか そして中央改札出口手前の壁に掛けられていた「相州小田原停車場」の写真。 開業は大正9年(1920)で、当時の小田原駅舎。歌川広重「東海道五拾三次の内 小田原 酒匂川」。小田原に行くには、手前に描かれた酒匂川を渡らなければなりません。幕府が架橋や渡し舟を認めなかったので、旅人が輦台(板に棒二本をつけて四人で担ぐもの)に乗ったり、人夫に肩車されたり、徒歩などで夕暮れに近い川を渡っていく様子が描かれています。遠景には小田原城や箱根山系が描かれています。箱根山系は逆光を受け、色彩や線などで険しさが表現されています と。「歌川広重「東海道五拾三次の内 小田原 酒匂川色彩豊かな山肌の箱根連山。小田原城の城郭と宿場の家並を背景に、酒匂川が流れゆく。この川の往来は、川越し人足が旅人や荷物を運ぶ徒渡しでおこない、旅人が一人で川を越えることはできなかった。人足がかつぐ輦台(れんだい)には駕籠ごと載せられ、待川越とよばれる経験豊富な人足が先導する。また、肩車で川を渡る旅人も見える。隠やかな流れであるが、河川敷には蛇籠おいて洪水に備えている。」 そして中央改札を出て、アークロード・東西自由通路へ。小田原駅案内図。巨大な「小田原提灯」を見上げて。「小田原提灯」の大きさは、直径2.5m、全長5m、重さ340kg。陶板レリーフ「小田原讃歌」 原画・監修:片岡鶴太郎小田原駅 アークロード(東西自由通路)中央上部、 2003年12月完成。平成15年秋の小田原駅舎リニューアルオープンを記念して設置された。東海道の宿場町でもあった人々の温かみが感じられる小田原に相応しいものということから、小田原の海と自然をテーマに制作をお願いした。小田原にゆかりの深い海の素材であるカサゴ、イシダイ、ホウボウ、アジ、イワシ、イカ、イセエビ、ヒラメや桜、梅、みかん等が描かれ、小田原の讃歌となっています と。サイズ 幅16m、高さ3.2m(左側)〜1.5m(右側)使用した陶板 430枚(一枚約30cm角)モチーフとなった魚介類の陶板レリーフ。左側。ヒラメ、イカと蜜柑(みかん)、ホウボウ、アジと梅。右側。イシダイと桜、イワシ、カサゴ、伊勢海老。ステンドグラス「日月山海小田原」 原画・監修:芳澤一夫。小田原駅 アークロード(東西自由通路)東側上部 2003年12月完成。ズームして。右から、紅白梅。月と河。富士。太陽と海。枝垂桜。「観光案内所」は未だ開いていなかった。JR小田原駅の中央改札を出て目の前の「小田原駅観光案内所」は、観光施設や宿泊施設の案内、イベント等の情報提供を行っているようであった。さらに、各種マップやパンフレット等も用意されていた。。開設時間 9:00~17:00。西口に向かって進むと、右側にあった小田急線、箱根登山線の券売機コーナー。小田急線、箱根登山線の改札口。台風10号による大雨の影響で、2024年8月30日に小田急小田原線で線路の盛り土が崩れ、一部の区間で運転を見合わせられていた箇所は、9月1日午後4時03分に全線で運転を再開したのだ。 ・・・つづく・・・
2024.09.27
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この日の学習のテーマの一つは『六合枡から、五合、四合、三合……を得るにはどうすればよいか』と。我が住む地域の名は「六会」、この「六合」の言葉に親近感を覚えるのです。 昔の米屋さんや造り酒屋さんでは六合升というものがあって、それがあると一合から六合まですべてをはかることができると。様々な大きさの枡。「枡」👈️リンク サイズ一覧。6合枡のサイズは抜けているが、内寸125.5☓125.5☓68.6=1080ml程度であろうか。表にないのは、6合枡はあまりポピュラーな枡ではなっかったのであろうか。昔の酒屋さんは、目盛りがついていない6合升を使い、酒樽から1合、2合、3合、4合、5合、6合を正確にくみ出していたのです。このような升を6合万能升と呼びます。6合は升1杯分だからよいとして、ほかの量についてはどのように量っていたのでしようか?その方法を考えてみましよう。酒樽から6合升で酒をくみ出すのは1回限りとしますが、6合升から酒樽へ酒を戻したり、お客さんの容器に酒を注ぐことは何回行ってもよいものとします。●3合の量り方これは簡単です。6合升を、水の部分が三角柱になる。すなわち下図1️⃣のように傾ければ、6合のちょうど半分の3合となります。●1合の量り方6合升を2️⃣のように、水面が底面の対角線と上面の1点を通る三角形となるように傾けると、容器に残る量はちょうど1合になります。この量がちょうど1合であることは3️⃣のようにして確かめられます。1️⃣の3合は三角柱になっていますが、2️⃣は高さと底面が1️⃣の三角形と同じ三角錐(さんかくすい)だから、3合の1/3で1合ということになります。下図の如く、6合升を2️⃣のように、水面が底面の対角線と上面の1点を通る三角形となるように傾ける。2️⃣は高さと底面が1️⃣の三角形と同じ。 三角錐(さんかくすい)だから、3合の1/3で1合ということになります。この量がちょうど1合であることは3️⃣のようにして確かめられます。三角柱水の容積=S(底面積)☓h(高さ)=3合(6合の半分)。テレビの画面。三角錐水の容積=1/3☓S(底面積)☓h(高さ)=1/3☓3合=1合。5合と2合の量り方ます6合升いつばいに酒をくみ、2️⃣の状態になるまでお客さんの容器に酒を注げば、升に残るのは1合。つまリお客さんの容器には5合入ったことになります(4️⃣)。同じようにして1️⃣のように6合の半分の3合くんでから、2️⃣の状態になるまでお客さんの容器に酒を注げば、2合がくみ出せます(5️⃣)。4️⃣:5合の量り方5️⃣:2合の量り方テレビの画面。2合、5合の場合。4合の量り方4合を量るのは少し手間がかかります。まず、6合升いつばいに酒をくみ出し、升に3合だけ残るまでお客さんの容器に酒を注ぎます。この時点で、お客さんの容器には3合の酒が入っています。次に、升に1合が残るように酒樽へ酒を戻し、残った1合をお客さんの容器に注げば、合計で4合が量れたことになります。昔は、一度樽から汲み出した酒を、客の前で元に戻す事に抵抗はなかったのであろうか? ・・・もどる・・・ ・・・おわり・・・
2024.09.26
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この日のNHK放送の授業テーマは、『新幹線の座席が2人席と3人席である利点は?』新幹線の普通車の座席は、通路を挟んで2人席と、3人席という構成になっています。レールや車体の幅から1列の座席は全部で5席に決まったと考えられますが、実は2人席と3人席になっていることには乗客にとって意外なメリットがあります。それは、グループ旅行に対応しやすくなるということ。グループで旅行する際、できる限り隣の座席は同行する人であってほしいですよね。2人席と3人席という配置になっていることで乗客のグループがどのような人数であっても、隣接した座席には同行者が座る状態を作ることが可能になるのです●2人で旅行するなら2人がけの席を、●3人なら3人がけの席を予約するでしょうし、●4人の場合なら2人席を2つ分取れば、隣は必ず同行者になります。 それ以上の場合はどうでしようか。●5人なら2人席と3人席、●6人なら3人席x2、または 2人席x3●7人なら2人席x2 + 3人席、●8人なら3人席x2 + 2人席 または 2人席x4●9人なら3人席x3、または 3人席x1+2人席x3●10人なら3人席x2 + 2人席x2 または 2人席x5●・・・・・・・・・・・・・~というように予約すれば、やはり隣は同行者です。どんな人数であっても(1人旅の場合は除きますが)、隣が同行者になるため、1人ぼっちになる人はいなくなり、楽しく旅行できるというわけです。そしてJR側もどんな数の団体客が予約に来ても、ぴったりに座席を埋めることができるのです。すなわち、1人だけが使う2列席・3列席とかを極力なくすことができるのです。つまり、新幹線の座席が2席の列と3席の列に分かれている理由は、座席の余りを可能な限りゼロにするためだったのです。※ もちろん、一人客に対してはどうしようもない。以上のことを、もう少し数学的に表してみましょう。n人で旅行する際、2人席をx個、3人席をy個分予約すると考えれば、次の式で表すことができます。2x十3y=n(x,yは自然数)実は、『どんな数nでもx,yは存在する』のです。nがどのような値を取るかによって、当然、x,yの値は変化します。nが偶数の場合は2人席だけを使えばよいですし(y=0)、nが3以上の奇数なら3人席を1つ、残りは2人席にすればよいとわかります。つまり、nが2以上の整数であればすべてのパターンを作れるということです。つまり、2以上のすべての自然数は、2の倍数と3の倍数の和で表わすことができます。(例えば、13=2×2+3×3)同じように、飛行機で3人席と4人席の配置になっているとしたら、6人以上のグループ客について「隣は必ず同行者」という状態が作れます。注意したいのは、これが成り立つのは2つの整数が「互いに素」のときだということ。 「互いに素」というのは、2つの整数が1以外に共通の約数を持たないことを意味します。4と9は互いに素ですが、2と4の場合は2が共通の約数になりますから、互いに素ではありません。 「互いに素」ではない座席の例このような座席配置では、任意の整数を作ることができない。ちなみに3列シートの中央の座席は他の座席よりも横幅が2㎝広いそうです。今回の授業にはありませんでしたが、なぜ東海道新幹線・山陽新幹線の3列の座席が車両の南側に配置されているのか?って、考えたことがあるでしようか?もし、そのように聞かれたら、別に北側に配置してもいいんじゃないの?と私は思ってしまったのでは!?。実は、日本の鉄道車両は昔から塩害に悩まされてきたためか、車両の心臓部てもある駆動装置は、できるたけ海から遠ざけるという考えが常識になっていました。なので、重い駆動装置を海から少しでも遠い北側に配置して、できるたけ塩害を避け、左右の重量バランスを取るために、3列席を南側に配置した というのが真相のようです。東北、上越、山陽の各新幹線の多くの普通車でも2列+ 3列という座席配置となっていますが、3列座席が海側に配置されているか、乗る機会があったら気にして見てください。因みに東北新幹線の車両も3人席は海側・太平洋側になっていると記憶しています。「新幹線の指定席、どこが一番好き?」をネットから。新幹線の指定席の中で、一番好きな座席はどこだろうか。私が現役時代に選んだのは、3列シートの窓側。2列ではなく3列シートをチョイスするのは、隣が空席になる可能性に期待を込めてのことであった。「圧倒的な人気を誇った指定席は、「2列シートの窓側」席で、選んだ人の割合は61.2%(473票)となった。2位は、「2列シートの通路側」席(15.8%、122票)。全体の75%以上、つまり4人に3人が「2列シート」に投票。つまり、3列シートのいずれかの席を選んだのは、全体の4分の1のみ。みなさん、3列よりも2列シートが大好きらしい。3位「3列シートの窓側」席(11.9%、92票)と4位「3列シートの通路側」(10.5%、81票)の間には、大きな差はない。とはいえ、2列シートの時と同じく、3列シートの場合でも通路側より窓側が人気という構図は変わらない。人気を博した「窓側」席について、大手掲示板サイトの5ちゃんねる(旧2ちゃんねる)には、景色が見放題であることはもちろん、日よけを自由に上げ下げでき、コート掛けまで使えることを「勝ち組」だと評するスレッドがたっている。また東海道新幹線の場合、2列シートの窓際......つまりE席では、窓から富士山を見ることができる。」と。最後にもう一つ。新幹線(電車)の席次は?上座・下座について。学会や結婚式・法事などに上司や目上の人と一緒に列車や新幹線などを利用する機会もあると思います。乗車してから席順で慌てることがないよう、新幹線等の席次についても基本を覚えておきましょう。現役時代は、皆個人で座席指定をしていたので、このようなことを考えたことは皆無に近い私なのです。以下、ネットからです。新幹線をはじめとする列車内での席次の基本は「窓側が上座・通路側が下座」です。この基本に、ドアの位置や進行方向を考慮して、目上の人を上座に案内します。新幹線のグリーン車や列車等では、2人掛けシートの窓側が上座、通路側が下座になります。4人掛けボックスシートでは、窓側の進行方向を向いた座席が一番上座。窓側の進行方向と反対の座席が2番目、通路側の進行方向の座席が3番目、通路側の進行方向と反対の座席が下座になります。進行方向を向いた座席を上座とする考え方もあり、その場合は、2番目と3番目が入れ替わります。新幹線の普通車のように3人掛けシートの場合、窓側の座席が上座、通路側が2番目、真ん中の座席は狭く感じられ不便なので下座になります。2人掛けと3人掛けがあれば、2人掛けの方が通路に出やすいため、上座になります。6人掛けボックスシートの場合は、4番目までは4人掛けと同じ、進行方向を向いた真ん中の座席が5番目、その正面が下座となります。窓側を上座と考えると上記のようになりますが、進行方向を向いた座席を上座とする考え方では、進行方向を向いた窓側から1、3、2番目となり、進行方向と反対のシート窓側から、4、6、5番目となります。いずれの場合も、目上の方の意向を確認してから案内する気配りが欠かせません。例えば、車両出入口付近は人の出入りが多くうるさいため、出入口から遠い方が上座になります。また、窓側に座ると通路に出にくいため、携帯電話を利用するなど頻繁に席を立つ場合はデッキに出やすい通路側を希望する方もいます。特に指定がなければ、目上の人を上座に案内しますが、必ず「窓側でよろしいでしょうか?」「進行方向とは逆向きになりますがよろしいですか?」などと声をかけるようにすれば、相手に対する心配りが伝わります。5名の場合は窓側➡️通路側の席次順。6名の場合は、下図の如き考え方もあるとのこと。進行方向最優先で窓側➡️通路側の席次順。こちらは窓側最優先➡️通路側➡️中央席。ここまで列車内の席次について紹介しましたが、これらはあくまでも原則です。たとえば、時間帯や進行方向によって窓からの陽射しの入り方が変わります。周囲の乗客の様子や、空調の当たり具合・トイレの頻度など体調の変化にも気を配り、美しい景色が見える方角があれば座席交代を提案するなどの心配りも身につけたいところです。原則を踏まえた上で、相手や状況に合わせて臨機応変に対応する姿勢が大切です。目上の人の希望をたずねるなど、相手とのコミュニケーションをしっかりとることで、移動が心地よい時間と空間になると思います と。今日は新幹線の『座席』に対する『学び』でした。但し、2+3人席が最初から乗客の便宜の為に考えられていたのかは疑問であると考える私なのである。つまり、後付の偶然の産物ではなかったのか!?と。皆さんはどのように考えますか? ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.09.25
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この日の『3か月でマスターする数学』は『宝くじを買い占めたら、いくら得られる?』。昨年・2023年の年末ジャンボ宝くじが題材。『年末ジャンボ宝くじ2023当選番号』。私も購入したが、当たったのは7等・下1桁の300円のみ。下に示したのが『当選金額』。1等は1ユニット( 2000万枚)に1枚含まれており、全23ユニット(予定)あるため当選本数23本となっています。前後賞が1億5千万ですので、連番で購入いていれば1等7億円+前賞1億5千万+後賞1億5千万=10億円当選となります。1枚からでも購入可能ですが、10枚1セットが基本セットとなっており、バラ(組数や番号がランダムの10枚セット)で購入しても下1桁は連番となっていますので、必ず7等は当たる仕組みになっています。下の表は、『年末ジャンボ宝くじ2023』の等級と当選金額、当選本数などの情報です。『当選確率』は、等級あたりの本数を総本数で割ったものです。この宝くじは全部で2000万枚発行され、1枚300円で販売されました。1等の当選金額は7億円で1本、1等の前後賞は1億5000万円で2本です。1等の当選確率は1ユット2000万枚中の1枚= 0.000005 %となります。6等の3千円でも、1ユニット2000万枚中の200万枚= 1 %ですので、6等が当たっただけでもすごいですね。1ユニット2000万枚に1枚当り300円を掛けると60億円。発行されている宝くじを買い占める為には60億円が必要になります。当選確率1等 7億円 2000万分の11等の前後賞 1.5億円 1000万分の11等の組違い賞 10万円 約10万分の12等 1000万円 500万分の13等 100万円 50万分の14等 5万円 1万分の15等 1万円 約333分の16等 3000円 100分の17等 300円 10分11等 7億円 は2000万分の1。これは10Kgの米袋・50万粒☓40袋から米1粒を選ぶに等しい。『枚数をたくさん買えば本当に当たる?』例えば10万円を投資して購入したとすると、約333枚を購入できる。1等が当たる確率は約6万分に1であるから、『10万円分の年末ジャンボを6万回買えば、1回は1等が当たる』計算になる。すなわち『宝くじの枚数をたくさん買えば当選確率は上がるけれと現実的に1等が当たる可能性はほぼゼロに近いという点では1枚購入した場合とほとんど変わらない』1等の当選金額と同じ『7億円で宝くじを買ったら当たる?』7億円で購入できる宝くじの枚数は2,333,333枚。1等の7億円が当たる確率を計算すると約11.66 %7億円を使って年末ジャンボを買っても元が取れる可能性はたったの11%しかない。よって『宝くじは極端に効率が悪いギャンブル』ということになるのだ。どうして宝くじのリターンはこれほど低いのか?宝くじの購入代金のうち当選金として支払われる金額の割合は46.5%。他のギャンブルの還元率は75~80%あるのだと。この理由は、『法律で当せん金額は発売総額の5割に相当する額を超えてはならない』と決まっているのだと。そして『残りの大半の売上金は公共事業に使われている』と。「サマージャンボ 2024 宝くじ」。「サマージャンボ宝くじ2024」の抽せん会は、8月23日(金)に行われたのだ。「サマージャンボ宝くじ2024」の1等は5億円、前後賞は1億円ですので、1等+前後賞あわせて7億円。1等は1ユニット(1000万枚)に1枚含まれており、全24ユニットあるため当選本数24となっていました。「サマージャンボ宝くじ2024」の当選確率は?1等の当選確率は、1ユニット1000万枚中の1本 = 0.00001 %となります。1枚300円で購入した「サマージャンボ宝くじ2024」の1枚当りの期待金額は下記の表のごとく141.99円≒142円なのである。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.09.24
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昨日9月22日(日)は「秋分の日」。秋分の日を祝日とする「国民の祝日に関する法律」が公布・施行されたのは、昭和23(1948)年。前述のとおり、2024年の秋分の日は9月22日だが、その年の太陽が秋分点を通過する日によって毎年日付を変える特殊な祝日である。その年のなかで昼と夜の長さがほぼ等しくなる日を、春は「春分の日」、秋は「秋分の日」とそれぞれ定めているが、天文学に基づき祝日を決定することは、実は世界的に珍しいのだそうだ。今年2024年の「秋分の日」は9月22日ですが、日付は毎年同じではありません。昨年2023年は9月23日、2025年と2026年も9月23日です。その年によって日付が変わるのはどうしてなのでしょうか?👈️リンク「秋分点」は、太陽と地球の位置関係から求められます。昨日9月22日は秋分の日。昼と夜の長さが同じになる、と言い伝えられる国民の祝日である。でも「これまでの秋分の日は9月23日だったような…?」と思う人もいるかもしれない。それもそのはず、近年、秋分の日は23日がずっと続いており、23日以外になるのは1979年9月24日の33年ぶり、今年のように22日になるのはなんと、1896年以来の116年ぶりだとか。それはなぜだろう?昼と夜の長さがほぼ同じになるという春分・秋分の日は、太陽と地球の位置関係で決まる。日付が動くのは、地球が太陽の周りを365日と約6時間かけて1周するためで、4年に1度のうるう年で調整しても、それでも少しずれが出てしまう。そのため、今年のように22日が秋分の日になることがあるのだ。太陽は星々の間を移動していて、その通り道を「黄道」といいます。また、地球の赤道を天にまで延長したものを「天の赤道」といいます。黄道と天の赤道は、お互いが傾いているために2点で交わり、その交点のうちの一方を「春分点」、もう一方を「秋分点」と呼びます。そして、太陽が春分点・秋分点の上を通過する瞬間がそれぞれ「春分」「秋分」と定義され、「春分」「秋分」を含む日が、それぞれ「春分の日」「秋分の日」となるのです。1日の日照時間は、「春分の日」を境に夏に向かってだんだんと長くなっていきますが、「秋分の日」は、冬に向かって日ごとに昼が短く、夜は長くなっていきます。「春分の日」と「秋分の日」は昼夜の長さがほぼ同じになるのです。しかし、なぜ116年ぶりなのかは理解できていません。そして昨日は我が家から「ダイヤモンド富士」が見られる日。我が家は、富士山の真東にあるのです。しかし、残念ながら日没時は富士山の姿はほとんど見えませんでした。瞬間的に頂上の姿が現れたのですが、その時には既に太陽は富士山の後ろに。ズームして。そしてこちらは、先日、友人から送られて来た江ノ島からのダイヤモンド富士の写真。昨日は、我が家からの夕焼けが美しかったのです。昨日も残念ながら富士山頂は雲に隠れてしまっていましたが。以下、キャプション(説明文)は必要ありません。。 ・・・おわり・・・
2024.09.23
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直感に反する結果になることで有名なのが「モンティ・ホール問題」。ドアの選択を変えるか、変えないか、あなたならどうしますか? 1963年、モンティ・ホールが司会を務めるアメリカのテレビ番組でこの問題が紹介されると、大変な話題を呼びました。この問題の答えは、「ドアの選択を変えるべき」。どうしてそういえるのでしようか?「モンティ・ホール問題」👈️リンク3つのドアがある。どれか1つが「当たり」で、残りの2つは「外れ」である。易しく例を述べると「当たり」のドアを開けると景品があるが、「外れ」のドアを開けても何もない。あなたはドアを1つ選んだ。その後、正解を知っている司会者(モンティ)が、あなたが選ばなかった2つのうち「外れ」のドアを1つ選んで開けた。ここであなたは、「最初に選んだドア」と「残っているドア」のうち、好きな方を選べる。ドアの選択はこのままでいいだろうか?それとも変えるべきだろうか?最初に『A』を選んだが、その後、Cはハズレであることを司会者モンティが示した。さて、貴方は次のどれを選びますか?①Bに変更すべき②Bに変更すべきでない③どちらも変わらない3つのドアがあり、どれか1つのドアが当りで、他の2つは外れです。仮にドアAを選んだとします。その後、ドアCを開けて外れであることを示した。ここで「ドアAからドアBに変更してもかまわない」という提案を持ちかけられました。はたして変更する方が得なのか?まず、当りである確率はドアA、ドアB、ドアC全て1/3です。ドアAを選んだ場合◆ドアA(青枠)が、当りである確率は1/3◆ドアBまたはドアC (赤枠)が当りである確率は残り2/3になります。青枠と赤枠どちらを選んだほうが得なのでしよう?青枠を選んで当りである確率は1/3です。赤枠を選んだ場合、当りである確率は2/3です。しかし、赤枠内に扉が2つあるため、その後1/2の選択をしないといけません。つまり赤枠を選んでも正解である確率は2/3☓1/2=1/3です。では、ドアCが外れとわかると、どうなるのでしよう?それでも青枠に当りがある確率が1/3で、赤枠に当りがある確率が2/3であることは変わりません。この状況だと赤枠と青枠どちらを選ぶほうが得なのでしようか?青枠を選んで当りである確率は変わらず1/3です。赤枠を選んだ場合、当りである確率は2/3です。そして、赤枠内の扉が1つになっため、その後の1/2の選択が不要になりました。つまり赤枠(ドアB)を選んで正解である確率は2/3です。ドアCが外れであることがわかっているので、赤枠を選ぶこととドアBを選ぶことが等しくなります。よって最初に選んだドアをそのまま選ぶのではなく、別のドアを選ぶことが『モンティホール問題』👈️リンク の正解なのです。こちらの『モンティホール問題』👈️リンクの方が理解しやすいかもしれません。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.09.23
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「三つ巴」紋は、古くは鎌倉時代に、人間の魂の形を意味する勾玉を3個組み合わせて呪力を増し、牛車に記したとされています。暗い夜道を牛車で移動する時、「もののけ」に襲われないようにしたのでしょうか。三つ巴という言葉は、三つの力が入り乱れて拮抗して張り合っている状態を意味しますが、図案からは、回転して大きな力を生み出しているように感じます。三者の力が拮抗していて決着がつかない状態が続いていることを指して、以下の例文のように使います。『三国志』で三つ巴の戦いとなったのは、諸葛孔明の『天下三分の計』が原因かもしれない。大手三社が睨み合って三つ巴の関係が続いている隙をつけば、我社にも勝機があるだろう。今回の知事選では実力伯仲の3人が立候補したため、三つ巴の乱戦になりそうだ。そして大相撲の巴戦とは優勝争いに3人の力士が同じ勝敗で並んだ際に行われる優勝決定方法。もちろん土俵に3人同時で「はっけよーい」とするのではありません。くじ引きで順番を決め、まずAとBが勝負し、勝った方が続けてCと勝負し、Cにも勝ったら優勝。もしCが勝ったら、最初に負けた人と勝負。 という風に誰かが2連勝するまで続ける という仕組み。すなわち、大相撲の優勝決定戦などで使われる方法である巴戦とは(3人の場合)●登場人物はA、B、Cの3人●1試合目はAとBが戦う<●n+1 試合目は n 試合目の勝者と n 試合目に待機していた人が戦う●全員の実力は同じ●誰かが二連勝したらその人が優勝してゲーム終了幕内ではこれまでに、3人による決定戦で7度、5人による決定戦の決勝戦として1度、巴戦が行われている。そして『巴戦は平等なのか』。巴戦でAが優勝する確率を求めます。3人の実力が互角のとき、巴戦のこのルールは公平でしようか。このようなルールで優勝が決まるまで、無数の場合が考えられます。このように混沌とした状況は、樹形図を使って視覚化することで考えやすくなります。樹形図では、AとBの対戦を◯、BとCの対戦を△、CとAの対戦を□で表しています。また、◯A、◯B、◯Cは、それぞれA、B、Cが2連勝、つまり優勝が決定した場合です。この樹形図上に、確率を書き込んでいきましよう。3人の実力は互角としたので、各人が各対戦で勝つ確率は1/2です。最初に、A、Bが戦ってAが勝つ確率は1/2、次にCとAが戦い、Aが勝つ確率は1/2、最初の取り組みから考えれば、AvsB→AvsCでAが優勝する確率は、1/2 x1/2=1/4ということになります。2回目でAの優勝が決まるのは 1/44回目でAの優勝が決まるのは 1/165回目でAの優勝が決まるのは 1/323回目、6回でAの優勝が決まることはない.6回目までにAの優勝が決まる確率は 1/4+1/16+1/32=11/32AとBは対等であるから. 6回目までにBの優勝が決まる確率は 11/323回目でCの優勝が決まるのは 1/46回目でCの優勝が決まるのは 1/322回目, 4回目, 5回目でCの優勝が決まることはない.6回目までにCの優勝が決まる確率は 1/4+1/32=9/32以下、n回繰り返すことにしますとその確率はよって Aの優勝する確率 5/14 Bの優勝する確率 5/14 Cの優勝する確率 2/7=4/14同じ強さの力士が3人出場すると仮定しても、最初に取り組む2力士の優勝確率は各5/14(35.7%)最初に休んでいる力士の優勝確率4/14(28.6%)。抽選でCを選んでしまった力士がA、Bの力士と優勝する確率が同じになる条件は、AとBの対戦が互角, CのA, B各々に対する勝つ確率が5割4分である必要があるのです。(証明は省略します。)この条件になれば、優勝決定三つ巴戦における各々の優勝する確率は1/3ずつになるのです。因みに勝っ確率5割4分というのは、対戦成績27勝23敗に相当するのです。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.09.22
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NHKで放送されている「3か月でマスターする数学」を録画して、学生時代の復習?をしています。4月から始まった「3か月でマスターする」シリーズ。世界史に続く第2弾「数学」が6月26日から始まったのです。「学生時代、数学の授業やテストに苦しみ、良い思い出がないという人も多いのでは。でも大丈夫です!」と。 全12回からなるこのシリーズ、題材は基本的に中学校の数学の教科書から選定していると。MCはNHK・塚原愛アナウンサー。秋山仁さん(東京理科大学栄誉教授)、横山明日希さん(数学教育者)、ヨビノリたくみさん(教育系YouTuber)3人の数学教育のプロが、それぞれのアプローチで数学の楽しさや奥深さをじっくりレクチャー。数学の歴史的背景や生活との関わりなど、幅広い話題を提供します。目指すは「数学との仲直り」。あなたも一緒に大人の学び直しをしませんか!?」と。そして、この日は「水平線はどれくらい先?」と。この日の教材部分。『海岸に立って』!!何もしないでのんびり海を眺めるのはリフレッシュの一つでは。見渡す限りの広い海の先に水平線が見える場所があります。水平線とは空と海が接する線で、文字からするとまっすぐ、水平であるべきですが、地球が丸いため、実際の水平線は曲がって見える・・・と。しかしこれはそう感じるだけで正確には正しくはないとのこと。すなわち、「水平線を眺めると地球が丸いのが分かる」という表現は、ある程度正しいですが、条件が伴うのです。肉眼で見た際、地平線や水平線がわずかに湾曲していることを感じることができるのは、高い場所にいる場合や、広大な水面を見ているときです。例えば、飛行機の高度や、高い山、あるいは海上などの広い場所であれば、地球の丸みを実感しやすいです。しかし、日常的な高さからでは、その湾曲は非常に微妙であり、はっきりと確認できるほどではありません。よって、地球の丸さを水平線を見て完全に理解するのは難しいものの、特定の条件下では湾曲が感じられるため、部分的には正しいと言えます。すなわち、地球の水平線の湾曲を肉眼で感じられるのは、約10,000メートル(10km)以上の高度に達したときです。この高度に達すると、水平線の湾曲が肉眼でもはっきりと見えるようになります。一般的な旅客機の巡航高度(約10,000メートル~12,000メートル)では、機窓から水平線・地平線が湾曲しているのが確認できることがあります。一方で、山や建物の上から地平線・水平線を見ても、通常はその湾曲を感じ取ることは難しく、飛行機のような高度が必要です と。下の写真の如き場所からは、水平線は直線にしか見えないので、水平線・地平線が湾曲しているのは確認できないと。下の写真の水平線上に、青い直線ーーーーを引いて見ました。さて、この日の本題ですが、写真の右の水平線に沈んで行く船は海岸からどのくらい離れているでしょうか?そして水平線に浮かぶ街並みはどのくらい離れた場所?。光は直進しますから水平線より下は見えません。A点から見れば遠くの船ほど上部しか見えないのは地球の曲率によって見えなくなると昔の人は既に考えていたとのこと。また周囲を海で囲まれた島の高い山に登って四方をみわたせば、なんとなく地球が丸いことを感じる事ができたのです。船乗りなど漠然とではあっても知っていたはずなのです。皆既月食の時、月に写る地球の影が丸いことから地球が丸いことも知っていました。さて、この日の学習テーマに戻りますが、人が海岸線に立ち、そこから見える水平線までの距離は、目の高さがわかれば計算することができるのです。地球は丸いので、その断面は円で近似することができます。その円の半径をrとして、図のように地面から高さhのところに目の位置があるとしましょう。そして、そこから見た水平線までの距離をxとすると、xは目の位置から地球に引いた接線の長さになります。地球の半径rを6371000m、海岸に立ったときの海面からの目の高さがh=1.6m(目の高さ)とすると、下記の如き計算となるのです。下図の如く『三平方の定理』から計算します。そしてx=4515m=4.515kmとなります。「水平線の彼方」と言うほどなので、はるか遠いイメージがあるかも知れませんが、たった4.5km先しか見えていないのです。みなさん、もっと遠く数十km先と思っていたのでは!!もしも、自転車で海の上を進めるとしたら20分で着くくらいの距離なのです。丘の展望台などに立って、海面から150mの高さに目を置いて海を見ているという場合は、目の高さが100倍になりますから、水平線までの距離は10倍の45.15kmとなるのです。この船舶の動画👈️リンクは、見えている水平線の僅か遠方を航行しているものです。船の下部は隠れており、上部のみ見えています。さらに水平線の先を航行する船舶。船の最上部しか確認できません。江戸時代に歌川広重によって描かれた浮世絵「冨士三十六景伊勢ニ見か浦」が下の絵。水平線のはるかかなたに富士山が描かれています。描かれているのはいいとして、これを描いた場所が問題なのです。約4.5km先しか見えないはずの水平線に、富士山が見えるわけがない?。ということは、歌川広重は、想像で富士山を描いたのでしょうか。ところで「何km離れた場所から富士山は見える?」👈️リンク計算の結果は、約220km以内であれば富士山は見えると。そして、三重県伊勢市の二見浦。富士山までの距離は、約200km!!。よって、浮世絵の富士山も想像ではなく、実際に見えていたのだと推測できるのだと。逆に言うと、富士山の頂上から見れば、計算上では、三重県の二見浦まで見えるということ。高さが高ければ高いほど、遠くまで見えるということなのです。当たり前のような話ですが、遠くまで見える距離が一気に伸びるのです。下図が、理論上、富士山頂から見える日本国内の範囲です。纏めて見ますと●始めに登場した自分の1.6mの目の高さからは、4.5km●富士山の3,776mだと、約220km●東京スカイツリーの展望台の450mだと、約76kmまで見えるようです。 これは、富士山の麓くらいまでの距離。●世界一のエベレスト。8,848.86mだと、約337kmまで見える。 ちなみに、日本までの距離は4,000km以上。よって全然見えない!!。 世界一とはいえ、地球の丸さには勝てないわけです!!。●上空10,000m、飛行機の機窓からは約380km 羽田空港上空10,000mからは名古屋くらいまで見えるということです。スカイツリーから見える富士山の姿をネットから。ケータイやカーナビなどでは、さまざまな方法を利用して位置情報を取得しているのだ。次にその仕組みを見ていきましょう。その中心になるのがGPS(Global Positioning System/汎地球測位システム)。「もう1つ、カーナビの例を紹介します。「GPS衛星」👈️リンクは自身がいるBから地表までの距離aを情報として持っています。そして車Aが現時点でいる場所から発信した電波が衛星に届くまでの時間によって衛星がいるBまでの距離cを計算できます。次に、衛星と地球を最短距離で結んだ点CからAまでの距離bを三平方の定理によって求めます。これで車Aがどんな円周上にいるかわかりますが、まだ車の位置は1点に定まっていません。そこで同様の操作を3つ以上の衛星について行うことで車Aの位置を1つの場所に特定することができます。このように『三平方の定理』を使うことで、カーナビは精度を高めているのです。」 4機以上の衛星で衛星測位は可能ですが、安定した位置情報を得るためには、より多くの衛星が見えることが望ましいです。しかし、GPS衛星は都市部や山間部ではビルや樹木などに電波が遮られて可視衛星数が減り、位置情報が安定的に得られないことがあります。2018年11月から、「みちびき・QZSS(Quasi-Zenith Satellite System)」は4機体制で運用を開始しており、このうち3機はアジア・オセアニア地域の各地点では常時見ることができます。みちびきはGPSと一体で利用できるため、安定した高精度測位を行うことを可能とする衛星数を確保することができます。GPS互換である「みちびき・QZSS」は安価に受信機を調達することができるため、地理空間情報を高度に活用した位置情報ビジネスの発展が期待できます と。順序が逆になりましたが、ところで『三平方の定理』とは、2辺の長さをa、b、斜辺の長さをcとする直角三角形において成り立つ、次の定理です。斜辺cの2乗は、他の辺a、bをそれぞれ2乗した数の和に等しいのです。直角三角形では、2つの辺の長さがわかると、三平方の定理を使って他の1辺の長さが計算できることを覚えていますか??また、三平方の定理の逆も成り立ちます。3辺の長さがa,b,cの△ABCにおいて、a^2+b^2=c^2が成り立つならば、△ABCは直角三角形であるということも言えるのです。※「^2」は自乗・2乗の意味。この『三平方の定理』は下記のごとく証明できるのです。まず、三角形の内角の和は180°=90°+x°+y°内接する小さな正方形の赤く示された角度┓+x°+y°=180°なので┓=180ー(x°+y°)=180°-90°=90° よって内接する四方形も正方形なのです。中の正方形の面積を計算しますと『三平方の定理』が導けるのです。そして、昔の人はどのように地球の大きさを求めたか?「地球の大きさを初めて測ったひとアレクサンドリア(エジプト)に住んでいたエラトステネス(紀元前3世紀ころ)は、アレクサンドリアから南にあるシエネの井戸の底には太陽の光が当たるのに、自分が住んでいるアレクサンドリアの井戸の底には太陽の光が当たらないということを知りました。工ラトステネスは、この理由を「地球が球体である」ことで説明できると考えました。シエネの太陽高度角が90度であるのに対して、アレクサンドリアでは、太陽の高度角は82.8度(影の角度は7.2度)と測定し、ニつの都市の間の距離を、旅人の旅行行程から5,000スタジア(925km)と求め、地球の大きさは、1周46,250kmになると計算しました。」繰り返しになるが、さらに詳細を。紀元前230年頃、ギリシャのエラトステネスは、初めて地球の大きさを求めた。彼はシエネという町では夏至の日の正午に深い井戸の底まで太陽の光が差し込むことを知った。またシエネの北にあるアレキサンドリアで夏至の日の正午に太陽の位置と天頂とのなす角度が360°1/50倍=7.2°となることを測定した。さらに、シェネとアレキサンドリアの間をキャラバンが50日かかって歩いていたことから、シエネからアレキサンドリアまでの距離を求めた。シエネからアレキサンドリアまでの距離は925kmとなることから地球の全周は46250kmと。よって地球の半径は7400kmを導き出したと。ウィキペディアによると地球の半径: 6,371 kmであるので、誤差約16%の精度で紀元前でも算出していたのであった。「日本人で最初に地球の大きさを測ったひと日本人で最初に地球の大きさをはかった人は、伊能忠敬です。伊能は、地球の緯度1度の長さから地球の大きさを求めるために測量に出かけたといわれています。第一次測量では奥州街道をまっすぐ北上しながら測量と天文測量を行い、緯度度1度の長さを27里余り(106km)と求めました。また、第ニ次、第三次測量で緯度一度の長さを28.2里(110.7km)と求め、地球の大きさは、1周約39,900Kmと計算しました。」現在解っている地球一周の正確な距離は、赤道上を東西に一周する場合が約4,0077km、北極と南極を通るように南北に一周する場合で約40009kmとなり、少しだけ赤道の方が長くなっています。よって約220年ほど前に伊能忠敬は、99.5%の精度で測量していたことになるのだ。そして最後に、月面から「地球の出」の写真を。「地球の出」とは、月の地平線から、地球が上ってくるようにみえる現象をいいます。月の自転周期と公転周期は同じなので、月はいつも同じ面を地球に向けています。これは逆にとらえると、月の表側のある地点に立って地球を見た場合、いつも同じ場所に地球が浮かんでいるように見えることになります。月の表側の真ん中付近ではいつも頭の真上に地球は見えますし、月の南極や北極、裏に近い端の方では月の水平線上に見えるでしょう。このため、南極や北極を飛行している宇宙船から、月の地平線上に地球が出てくる「地球の出」や、逆に地球が地平線の下に消えていく「地球の入り」をみることができるのですと。月周回衛星「かぐや(SELENE)」が2008年9月30日、「満地球の出」👈️リンクの撮影にも成功。そして「満地球の入り」👈️リンクも ・・・つづく・・・
2024.09.21
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先日9月17日(火)は今年・2024年の「中秋の名月」であった。秋分の日(9月22日)の5日前。ちなみに2022年は9月10日、2023年は9月29日と、実は年によって2週間以上も開きがある。これは、中秋の名月が旧暦をもとに決められていることに起因するとのこと。旧暦では7〜9月が秋とされており、秋の真ん中にあたる8月15日は「中秋」と呼ばれていました。 この日に昇る月は、一年でもっとも美しく見えることから「中秋の名月」と呼ばれるようになったとされている。 本来なら十五夜は毎月訪れるものですが、今では「十五夜といえば中秋の名月」という意味で使われることが多くなっているとのこと。「中秋の名月」の起源は、中国の「中秋節」にあると。中秋節は、旧暦の8月15日に行われる伝統的な行事で、家族が集まり月を眺めながら団欒を楽しむ日。この風習は、唐時代に始まり、宋時代にはさらに盛んになった。中国では、満月が家族の円満を象徴するとされ、月餅を食べながらその幸福を祈る習慣があるのだと。「中秋の名月」の風習は、平安時代に中国から日本に伝わった。当初は貴族の間で行われていたこの行事は、月を愛でながら詩を詠む「観月の宴」として定着した。貴族たちは、舟遊びをしながら水面に映る月を楽しむなど、優雅な時間を過ごしていた。江戸時代になると、この風習は庶民の間にも広まった。庶民たちは、収穫の感謝を込めて月見団子や里芋を供え、家族や近隣の人々と共に月を眺めるようになった。このようにして、「中秋の名月」は日本の秋の風物詩として定着していったのだと。「中秋の名月」は、秋の真ん中にあたるため「中秋」と呼ばれ、月が最も美しく見えるとされている。この日に欠かせないのが「月見団子」。「月見団子」は、白くて丸い形が満月を象徴しており、収穫の感謝と豊作を祈る意味が込められていると。月見団子は、江戸時代から供えられるようになったと。それ以前は、里芋や農作物がお供えの中心でしたが、稲作が盛んになると、米粉で作った団子が供えられるようになった。団子をピラミッドのように積み上げるのは、その最上部が神とつながると考えられていたから。お供えした団子は、神様からの力を分けてもらうために、後で食べることが推奨されている。「中秋の名月」は、別名「芋名月(いもめいげつ)」とも呼ばれる。この名前の由来は、里芋を供える風習にある。旧暦の8月15日は、里芋の収穫時期と重なるため、収穫を祝う意味で里芋を供えるようになった。里芋は、子孫繁栄や豊作を祈る象徴としても重要視されていたのだと。お月見の際に欠かせないもう一つのアイテムが「ススキ」。ススキは、稲穂の代わりとして神様を迎える「依り代」としての役割を果たしている。稲穂がまだ成熟していない時期に、形状が似ているススキを供えるようになったのであると。また、ススキには魔除けの意味もあります。ススキの葉の切り口は鋭く、これが邪気を払う力があると考えられていました。さらに、ススキは「秋の七草」の一つでもあり、秋の風情を感じさせる重要なアイテム。ススキを飾ることで、古人たちの知恵や感謝の心を思い起こしながら、豊かな秋の収穫を祝うことができます。お月見のお供え物には、月見団子やススキの他に、旬の野菜や果物も欠かせません。里芋の他にも、柿、梨、リンゴ、ブドウなどの果物や、ナス、カボチャ、サツマイモなどの野菜が供えられます。これらの供え物は、収穫の感謝と豊作を祈る意味が込められています。お供えした後は、家族や友人と一緒に食べることで、神様からの力を分けてもらうとされています。お月見の風習を通じて、自然の恵みに感謝し、秋の豊かさを楽しむことができます。そしてこの日の「中秋の名月」を我がデジカメで。ズームして。時間は18:53。今年、2024年の「中秋の名月」は9月17日(火)。しかし、満月となるのは一昨日・9月18日(水)。「中秋の名月」とは、太陰太陽暦の8月15日の夜に見える月のことを指します。ここ数年、「中秋の名月」と満月は同じ日でしたが、今年は9月17日が「中秋の名月」、翌日の18日が満月と日付が1日ずれているのです。太陰太陽暦では、新月(朔)の瞬間を含む日が、その月の朔日(ついたち)になります。今年は9月3日(新月の瞬間は10時56分)が太陰太陽暦の8月1日、9月17日が太陰太陽暦での8月15日となります。一方、天文学的な意味での満月(望)は、地球から見て太陽と反対方向になった瞬間の月のことを指します。満月の時刻は、9月18日(水)11時34分であった。今年のように、「中秋の名月」と満月の日付がずれることは、しばしば起こります。詳しくは、国立天文台暦計算室ウェブサイトの「名月必ずしも満月ならず 」👈️リンクから。次に「中秋の名月」と満月が同じ日付になるのは2030年です。名月=十五夜=陰暦15日の夕方に出る月という決め方は単純ですが、 ●必ずしも望 (満月)、すなわち月と太陽が地球を挟んで反対側に来る瞬間が同じ日になるとは 限りません。 ●陰暦15日は月齢14.0を含む日、月の満ち欠け周期の半分は29.5÷2≒14.8ですから、 望 (満月) が後になることが多いです。両者がずれる原因は大きく2つに分かれます。ひとつ目は日の区切り方による見かけ上の問題、ふたつ目は本質的な要因で、満月の月齢が変化するためです。では望 (満月) を名月にすればよい?太陰太陽暦が使われていたころの暦には望 (満月) の日時は載っていませんでした。望 (満月) は太陽と月の位置関係だけで決まるもので、その瞬間に日本で月が見えているとは限りません。太陽、地球、月の位置関係による月の見え方。月齢(げつれい)とは、新月を0として数えたときの日数で、月の満ち欠けの度合いを示したもの。月齢ごとの月の満ち欠けの名称一覧月齢(げつれい)とは、新月を0として数えたときの日数で、月の満ち欠けの度合いを示したものです。月の満ち欠けが1周するのにかかるのは29日(正確には約29.5日)ですが、実は月が地球の周りを1周するのにかかる時間は約27.3日となっています。つまり地球が1周するのにかかる時間と、月の満ち欠けが1周するのにかかる時間には、約2.2日の誤差が生じているということ。下図左のように地球が太陽の周りを公転していなければ、月が地球の周りを1周する約27.3日後でも太陽からの光の当たり方は変わりません。しかし、実際には下図右のように地球は太陽の周りを公転しているため、約7.3日後に月が同じ位置に戻ってきたとしても、太陽からの光の当たり方は変化してしまいます。(図における地球に付いている白点の横に月は戻ってくる)これにより太陽の当たり方を同じようにするためには、月をあと約2.2日間分だけ進ませる必要があるのです。よって、月の公転周期は約27.3日なのに、月の満ち欠けの周期が約29.5日と、約2.2日間分のずれが発生してしまうというわけなのです。下図は月の満ち欠けの名前。0・新月:はじまりの月。月と太陽が同じ方角にあり、地球からは見えない。 つまり真っ暗で、光っている月は出ていない日となる。 これから新しい月が始まることから、「新月」の日に願い事をする人も多い。1・繊月:「繊」には”細い”のような意味があるため、それから細い月ということから”繊月”。 二日月:月の満ち欠けの周期が始まって、2日目に見える月ということから。2・三日月:新月から3日目ごろの月で、西側が細く光っている。日の入り後の、西の空でよく 見える。願いを叶えてくれるといわれている。 若月:月の満ち欠けの周期が始まってからの日が浅い(若い)月ということから。 眉月: 眉のように見える月ということから。・・6・上弦の月:太陰暦といわれる昔の暦では月の形を目安にしていて、昔の暦において その月の前半(上旬)に見える月ということから。 ”弦”は弓の糸(弓の真っ直ぐな部分)のことで、半月の形が弓に似ている ことから弦が用いられている。満月を縦に切ったような形をしている。9.十日夜の月:月の満ち欠けの周期が始まって、10日目に見える月ということから。 上弦の月がふっくらと膨らんだ形。また、旧暦10月10日の月を指すことも多く、 収穫祭などが行われる。地域によってそれぞれだが、田んぼの神様への感謝を 込めて、お団子やぼた餅などを供える。 「とおかんやのつき」と呼ぶ。 12・十三夜の月:13日目ごろの月を指す。満月に向けて満ちていくため、縁起がよいとされ、 満月に次いで美しい月といわれる。また、旧暦で9月13日の夜を「十三夜」 と呼ぶ。「栗名月(くりめいげつ)」 「豆名月(まめめいげつ)」とも 呼ばれ、収穫物をお供えして感謝をする。13・小望月:満月のことを望月と言い、その望月の前日に見ることができる月ということから。14・満月:ほぼ全体が光っている丸い月。月の周期では、約14.8日で満ちる。 満ちた状態である「満月」には達成や完了といった意味合いがあるため、願い事が 叶った感謝や、満たされて手放すイメージで願うとよいといわれている。 旧暦で毎月15日に出る月のこと。そのほとんどは満月となる。「中秋の名月」とも 呼ばれ、旧暦では秋の真ん中である9月の月を指す。なお、2024年は9月18日が 十五夜となる。 十日夜、十三夜、十五夜と、3回お月見ができると「三月見(さんつきみ)」と 呼ばれ、縁起がよいとされる。一方、十三夜と十五夜のどちらかだけ月を見るのは、 「片月見」となり縁起がよくないといわれている。15・十六夜:「いざよい」とも呼ばれる。旧暦で16日の夜または月のこと。 中秋の名月(十五夜)の後の、旧暦8月16日の月を指すことも多い。 既望 :「既」には”過ぎた”のような意味があるため、望月(満月)が過ぎた後に見える月という ことから。16・立待月:夕方頃、立って待っている間に出て、見える月ということから。17・居待月:「居」は”座る”のような意味があるため、座って待っている間に見える月という ことから。18・寝待月: 寝ながら待っていると見える月ということから。居待月よりも月が出る 時間が遅くなるので、座って待つのは大変で、横になって寝ながら待つ。 臥待月 : 「臥す」は”横になる”や”寝る”の意味があり、臥して待っているうちに 出る月ということから。19・更待月:夜が更ける頃まで待つと、見える月ということから。22・下弦の月:太陰暦といわれる昔の暦では月の形を目安にしていて、昔の暦においてその月の 後半(下旬)に見える月ということから。 ”弦”は弓の糸(弓の真っ直ぐな部分)のことで、半月の形が弓に似ていることから 弦が用いられている。 23日目ごろの月を指す。上弦の月とは反対側の東側半分が光っている。25・有明月: 「有明」という言葉には、「夜明け」という意味 したがって、「有明の月(ありあけのつき)」とは、『夜が明けても、まだ残っている 月』のことを言います。 また、「月齢16~月齢29までの月」が「有明の月」となりますが、特に月齢20以降の 月を指して「有明けの月」と言うようです。 暁月 :「暁」は夜が明けきらない頃を指すため、明け方に見え始める月のことを”暁月”と いう。 逆三日月: 月の形が三日月と逆の形をしていることから。 29・三十日月: わずかに左側が光る姿を見せます。 晦日(みそか):「みそか」という言葉は、月のサイクルの最終日を意味し、この言葉は 「大晦日(おおみそか)」のように年の最終日にも使われています。 「晦日(みそか)」または「つごもり」とも呼ばれ、月の最終日に月が 隠れる様子から名付けられました。 「中秋の名月」を機会に、「月」について、多くを学んだのであった。そして、一昨日9月18日(水)の雲間から姿を現した満月の姿です。時間は18:50。ズームして。そして時間は21:20。ズームして。22:10。ズームして。 ・・・END・・・
2024.09.20
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さらに「浜離宮恩賜庭園」の内堀方向に進むと内堀に架かる橋が見えて来た。内堀に架かる橋の上から左手の内堀を見る。浜離宮庭園の「中島の御茶屋」と松がモチーフでデザインされているマンホール蓋。。「低圧」の文字から、「電気低圧用マンホール蓋」なのであろう。木製の太鼓橋を渡らずに引き返し、「お花畑」の南側の緑地を進む。藤棚の方向に進む。さらに。「浜御殿の籾蔵」案内掲示板。「浜御殿の籾蔵この地域は「内堀」と呼ばれる堀を引きこみ、築地川から水門を通って構内に深く入りこんでいる。これは、浜御殿に必要な物資はもらろん、遠く京・大阪あるいは長崎から運ばれてきた物資を、江戸城に入れるための港湾施設であった。堀には荷上げ場の石段が設けられている。天明7年(1787)から天保8年(1837)まで、50年にわたる11代将軍家斉の時代は、浜御殿が最も整備され、修治された時代であり、華々しい催しの続いた時代であった。燕の御茶屋をはじめ、多くの建物が家斉によって作られた。また松平定信の進言によって、この地区に籾倉が建てられた。これは、天明年間の打続く天災と飢餓によって社会不安が高まる中で、寛政元年(1789)諸大名に飢饉に備えて籾の備蓄を命じ、寛政4年と7年に2棟ずつ幕府自ら、「三十五間蔵」とよばれる籾倉を救荒用倉庫として建てたものである。」「建物位置復原推定図」。左:享和3年(1803)時 1.表役所 2.北御長屋 3.小普請方 4.小普請方役所 5 ~ 8.三十五間蔵 9.稲荷社 10.御蔵代長屋右:明治2年(1869)時 1.表役所 2 ~ 5.石炭置所 6 ~ 7.御土蔵 8.屯所享和3年(1803)時に各種の建物が建っていた場所を見る。裏側を見る。この付近に稲荷社があったのか!?左から「コンラッド東京」、「カレッタ汐留」、「ベルサール汐留」。東に伸びる内堀を見る。木橋から内堀の末端方向を見る。木橋の上から白い鳥を発見。木橋を振り返る。コサギであっただろうか。水面に映り込んで。そして「浜離宮恩賜庭園」のほぼ全ての名所を制覇し、帰路ににつく。浜離宮恩賜庭園を訪れ、その美しさと静寂に心を打たれた。東京の中心にありながら、喧騒から離れたこの場所は、都会のオアシスのように感じられたのであった。庭園に足を踏み入れた瞬間、都会の雑踏が遠くに感じられ、自然と歴史が調和した空間が広がっていたのであった。潮入りの池は、江戸時代から続く歴史の息吹を感じさせ、その水面は時折揺れながら、庭園全体に穏やかなリズムを与えていた。特に印象的だったのは、池の周りをゆっくりと歩きながら見る風景。時間とともに変わる光の加減や、池に映る空や木々の姿が、まるで一幅の絵画のようで、見る者の心を静かに癒してくれた。園内の茶屋でいただいた抹茶も、まろやかな味わいとともに、この場所の落ち着いた雰囲気をさらに引き立てていたのであった。全体を散策した後、浜離宮恩賜庭園が、過去と現在を繋ぐ特別な場所であることを改めて感じた。都会の喧騒から逃れ、自然に抱かれるひとときは、まさに贅沢な時間であり、また訪れたいと思うほど心に残る体験となったのであった。そして庭園内の観光客の6~7割が外国人であった。しかし浜離宮恩賜庭園を訪れたことで、日本人としての自分を再認識する瞬間があった。庭園の美しさや静寂だけでなく、その歴史や文化に触れることで、私たちが受け継いできた伝統や価値観の深さを改めて感じたのであった。日本人の皆さん、ぜひ一度訪ねてみてください!!!そして「大手門橋」側から外に出る。再び大手門の枡形を見る。「大手門橋」に向かって進む。案内地図。現在地はここ。「日本テレビタワー」を見上げて。「日テレ屋」。日本テレビタワー地下2階にある、日本テレビの番組グッズを取り扱っている店。 ここだけでしか手に入らないレアなアイテムは、汐留のお土産にも最適 と。そしてJR新橋駅のステンドグラス「くじゃく窓」 原画・監修:吉岡堅二JR東日本 新橋駅改札内コンコース 汐留口地下連絡階段 1976年10月1日完成。パリのノートルダム寺院の『バラ窓』に想いを得て描かれたことから『くじゃく窓』と名付けられたとのこと。左側には鉄道発祥の地、新橋らしい作品・機関車が描かれていた。右側にも機関車の車輪が。中央には、日本の伝統的な美しさと気品をたたえる孔雀が描かれていた。そしてJR東海道線で戸塚駅、横浜市営地下鉄で湘南台駅まで。湘南台駅地下広場・湘南台アートスクエアでは「エイサーページェント2024」が開催されていた。行われていた「琉球國祭り太鼓」のポスター。琉球國祭り太鼓は. . .沖縄の工イサーをベースに琉球空手の型や琉舞などを取り入れ、ロックやポップスなど現代的にアレンジをしている、沖縄を代表する創作工イサー団体です。沖縄を大切にしてきた「迎恩」の心を太鼓に込め打ち響かせています。私たち神奈川支都は、このすばらしい街、神奈川において2000年より活動しております。おかげさまで、現在では県内各地のイベントやお祭り等にお呼び頂き、演技を披露させて頂いています。「琉球國祭り太鼓11:30~13:30~この時の時間は13:40前」「琉球国祭り太鼓」は1982年に沖縄で結成されたと。 沖縄の伝統的なエイサーと空手を現代的な音楽に合わせてアレンジし、斬新でユニークな太鼓パフォーマンスを創り出した と。 一般の長胴太鼓にくらべて口径がやや小さく、胴が細目で長いのが特徴か。2022年3月に誕生した「湘南台アートスクエア」。地域住民の交流スペースとなることを目指していて、その場所には巨大な壁画が展示されている。壁画の幅は25m。「郷土に捧げる讃歌」をテーマとした壁画は、鮮やかな赤色の上にピアノの鍵盤の上を勢いよく走り抜ける自転車や、奏でられた音をイメージした粒子が彩られており、思わず入り込みたくなってしまう風景が広がっているのであった。この壁画を制作したのは、湘南台在住の画家・廣田雷風さん。最初に依頼があってから完成まで約3年がかかりました。廣田さんは「私だけのエネルギーでは成しえなかった。事業に関わった多くの地域の人たちの熱い思いあってこそ」と。後方では大旗 (おおばた)を持って。支部によって色は異なりますが、正方形に近い形。神奈川は紫と水色であるようだ。正面から。創作エイサー👈️リンク は圧巻!!大太鼓(うふでーく)全体のテンポがずれないようにリードするまとめ役。低く重みのある音や大太鼓を持ちながらのダイナミックな動きは迫力満点!獅子も登場。獅子の登場で、より盛りあがり演者もさらに張り切って。そして演技も終了。全員そろって挨拶。記念写真を。そして帰宅。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.09.19
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「御庭口御門跡」の案内板のみが左手に。そして「横堀水門」方向に向かって進む。再び「庚申堂鴨場 小覗」を左手に見る。その先の掲示板の手前にあった「展示ケース」。展示品の「叉手綱 メンテナンス中」と。叉手綱(さであみ)鴨場での狩猟は、江戸時代には主に鷹を使って鴨を捕獲していたが、明治時代になると絹糸で作られた手持ちの網「叉手網」を用いて鴨が飛びたつところを捕獲する技法となった。いずれの捕獲技法も我が国で古くから行われてきた狩猟技法として伝承されている文化であり大変貴重であるが、鷹を使った技法は民間において僅かに受け継がれ、また網を用いた技法は皇室において継承されているだけである とのこと。 こちらが、展示品の「叉手綱(さであみ)」👈️リンク (写真はネットから)。ここにも「小覗」。さらに「横堀水門」方向に進む。「横堀水門」のゲート。浜離宮恩賜庭園の池水の流れと水位。前方に小高い丘が現れた。「新樋の口山」と。「新樋の口山」の上から「築地大橋」と勝どきの高層ビル群を見る。ズームして。さらにその左側を。写真中央奥には「築地市場」があったのだ。旧築地市場の写真をネットから。「水上バス」案内板。そしてその先にあったのが「将軍お上がり場」。「将軍お上がり場」。「将軍お上がり場👈️リンク江戸時代、歴代将軍が舟で御成りする際にこのお上がり場が使用されました。暮末、鳥羽伏見の戦いに敗れた最後の将軍徳川慶喜が大坂から船で帰還して上陸した歴史もあります。」将軍が乗った御座船は、「天地九」といい、船の科学館に模型が展示されています。この御座船「天地九」は、3代将軍家光が御座船として建造したものです。「天地九」は、数回にわたる大修理がされていますが、文久2年(1862)に廃船となるまで、230年間以上、将軍の御座船として利用されました。「天地九」は廃船から1 2年後の明治7年提影の写真も現存しているそうですその先、緑地の先に一段高い場所が。「灯台跡」と。三重県の安乗崎に明治9年に建設された木造の洋式灯台が、昭和24年に移され設置されていた。昭和30年に横浜港に移された。そのため、礎石だけが残っているのだと。安乗﨑灯台は、現在は、船の科学館で保存展示されているとのこと。「船の科学館」にある安乗埼灯台(初代)の写真をネットから。その先に「水上バス」フェリーターミナル「浜離宮」があった。浜離宮からは、隅田川めぐりを楽しむ約40分の船の旅を楽しめます。「浅草」と「日の出桟橋」との間にかかる12の橋は、吾妻橋や清洲橋など色や形の個性的な橋ばかり。名所・旧跡を紹介する船内アナウンスに耳を傾け、変貌する東京港の姿を眺めれば、江戸の情緒と、東京の「今」が発見できることでしょう と。現在は、利用できない??ようであった。「浜離宮恩賜庭園」案内板。「沿革寛永の頃までは将軍家鷹狩りの場所であったが、承応3年(1654)甲府宰相綱重が埋立て別邸とし、甲府浜屋敷(海手屋敷)と呼ばれていた。その後、綱重の子.家宣が6代将軍となったため公収され名も浜御殿と改められ、将軍家の慰安場、社交場として大いに利用された。維新後 宮内省所管となり、園地を整備し皇室宴遊の地にあてられ名は、浜離宮と改められた。明治2年落成した延遼館は、洋風石造建築で鹿鳴館とともに世上にしられ、迎賓館にあてられるなど由緒ある建物であったが、明治22年取りこわされた。昭和20年11月3日東京都に下賜され、一般に開放された。江戸時代に発達した大名庭園の代表的なもので、現存する潮入りの庭として貴重なものである。昭和27年、庭園全体が、国から重要文化財として特別名勝及び特別史跡の指定をうけている。 東京都」「現在位置」はここ。「浜離宮恩賜庭園」案内図。花畑の案内ポスターも。「都会を彩るコスモス・COSMOS」。「サンゴジュ(珊瑚樹)」。たわわに赤い実をつけたサンゴジュ(珊瑚樹)。「灯台跡」方向を振り返って。「ヤブミョウガ」。「ヤブミョウガ」の花と実。花が終わりきらないうちに、藍色の実ができるようであった。「ミナズキ」であっただろうか?良く似た花にカシワの葉に似たカシワバアジサイがありますが、大きな違いは葉っぱの形。その先には梅林が広がっていた。近づいて。「大手門口」方向に進む。次に訪ねたのが「旧稲生(いなぶ)神社」。社殿を見る。「旧稲生(いなぶ)神社旧稲生神社の創建時期は明らかではありませんが、江戸時代後期の絵図には現在の場所より西方に稲荷社が描かれていることから、庭園内に稲荷社が古くから祭られていたことが知られています。現在の建物は、前身となる社殿が明治27年(1894) 6月2 0日に東京湾を震源とする地震で倒壊したため、翌年に当時の宮内省内匠寮の手によって、同規模・同形式で再建されたものです。一方、内部に祭られている宮殿は、その建築技法から江戸時代後期のものであると推定されています。建立から現在に至るまで、幾度か修理の手が加えられたことが、調査によって判明しています。なかでも、大正12年(1923 9月1日に発生した関東大震災では大きく破損し、倒壊は免れたようですが、昭和6年(1931)に同じく内匠寮によって大修理が行われました。そして、平17年には文化財としての大掛かりな修理を行ない、ここに明治時代の創建当時の姿を伝えています。」「前撮り」?のカップルの姿が。「お花畑」前を歩く。コスモス畑は開花を始めたばかりであった。濃いオレンジ色のコスモス・キバナコスモス畑。手前には黄色いコスモスの花も。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.09.18
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「燕の御茶屋」を後にして、次に訪ねた「お手伝い橋」の藤棚を見る。藤棚手前の案内板。「お伝い橋(おつたいばし)寛政5 (1793)年(11代徳川家斉の時代)に架けられたものが最初といわれています。往時は、現在よりも藤棚が長く設けられていました。現在の「お伝い橋」は総檜造りで、全長約120 mあります。」藤棚の近くの多くの外国人の姿をズームして。この橋は、「小の字島」手前の、さらに小さな島の手前でかぎ型に曲がる「お伝い橋(おつたいばし)」。「潮入の池(大泉水)」の池のほとりの見事な松の姿。後方には地上190m、地上56階/地下2階の高層マンション「アクティ汐留」の姿が。小さな島の藤棚。「東京ポートシティ竹芝」付近の高層ビルを見る。フランス人が私の写真を撮ってくれた「富士見山」をズームして。「燕の御茶屋」、「三間橋」を振り返る。「潮入の池(大泉水)」の北西側の隅にある「三間橋」をズームして。そして「小の字島」の藤棚下を通過。「小の字島この島を中心として左右に橋で結はれた2つの飛島が配置されている形が、漢字の「小」の字に似ているところからこの名称がつけられました。」歴史を感じさせる藤の幹。この藤棚の花の写真をネットから。「松の御茶屋」、「ザ・トーキョータワーズ」方向を。手前の「勝どきザ・タワー」そして「ザ・トーキョータワーズ・THE TOKYO TOWERS」をズームして。「ザ・トーキョータワーズ・THE TOKYO TOWERS」は外壁を斜めによぎる大胆なグラデーションは、風を受ける“ヨットの帆”のよう。しかもツインタワー。2008年の竣工来、変わらぬ存在感を放っているのであった。「松の御茶屋」をズームして。さらに「お伝い橋」を進む。右手前方の太鼓橋が「富士見山」方向から「中島」へ渡る橋。東京・汐留にあるホテル、「コンラッド東京」が中央正面に。「新銭座鴨場」方向から「中島」へ渡る太鼓橋に近づいて。そして「中島の御茶屋」に到着。「中島の御茶屋」案内板。「中島の御茶屋宝永4年(1707)、のちの6代将軍徳川家宣がてたもので、室内からの眺めが素晴らしく、最も立派な御茶屋でした。別名を「狎鷗亭(こうおうてい)」とも呼ばれていました。享保9年(1724)火災のため焼失し、64年後の天明8年(1788) 11代将軍家斉の治世に再建されました。明治維新後皇室の離宮となり、しばしば国賓等も迎えましたが、第2次大戦の空襲により焼失しました。その後、昭和58年(1983)財団法人日本宝くじ協会の助成事業として再建しました。御茶屋とは、茶室とは異なり、将軍の接待や休憩場所として建てられた建物です。」中島の御茶屋(宮内庁宮内公文書館蔵)「中島の御茶屋」の入口はいつも少し行列ができているとのことであったがこの日は・・・。「潮入の池」の真ん中にあった上和菓子と抹茶をいただくことができる「中島の御茶屋」。「抹茶セット」を楽しみました。8月の上生菓子は 左…芙蓉 ふよう 中…鬼灯 ほおずき 右…浜辺 はまべ(ゆず餡)であった。「通行止めのお知らせ」。「汐留水門」方向への「お伝い橋」が通行止め。工事足場用短管の設置工事が始まっていた。そして「中島の御茶屋」を後にして、往路と同じ「お伝い橋」を引き返す。再び「勝どきザ・タワー」そして「ザ・トーキョータワーズ・THE TOKYO TOWERS」を。右手には中央区晴海5丁目にある「中央清掃工場」の煙突が見えた。「燕の御茶屋」、「鷹の御茶屋」を。「潮入の池海水を取り入れ、潮の干満で水位が上下することにより、庭園の趣に変化が生じるように造られている池のことを「潮の池」といいます。この庭園は、約28,000 (8,500坪)の大泉水を中心として作られており、潮入の池を持っ代表的な人名庭園です。池では、ボラ、クロダイ、ハゼ、カニなどの姿をみることができます。秋・冬には、多くの鴨類が飛来します。」手前の屋根のある建物「JR東日本四季劇場 [春] / [秋]」が。劇団四季の新拠点として、2021年にオープンしたばかりの劇場です。JR東日本四季劇場[春]はウォーターズ竹芝のシアター棟3階にエントランスがあり、客席数は約1,500席。JR東日本四季劇場[秋]は2020年にオープン。ウォーターズ竹芝のシアター棟2階にエントランスがある。客席数は約1,200席 と。「お伝い橋」を渡り終わり、再び「鷹の御茶屋」の前を通り「馬場跡」方向に向かう。正面に「三間橋」。「三間橋」奥の池を見る。「三間橋」を渡り、再び池の畔より「潮入の池」に浮かぶ「小の字島」を見る。ズームして。「中島の御茶屋」。これぞ絶景!!少し移動してズームで。そして再び「馬場跡」の案内板が。「馬場跡」。「馬場跡」に向かって進む。「馬場跡」。そして「潮入の池」の畔、「八景山」からの絶景を見る。ズームして。林を抜け山に登って初めて庭の主要部が見えるというこの演出が当時最新の造園技術だとブラタモリでは紹介されていた。そこで池を隠すカベ兼、庭を見下ろす展望台となっているのがこの八景山とのこと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.09.17
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「御亭山(おちんやま)」を左に見ながら進む。そして正面に見えてきたのが「松の御茶屋」。付け書院や満月に霞モチーフの丸窓、欄間板の浜千鳥の透かし彫りが特徴。釘隠は松毬と蝉の形であると。 障子紙には、国指定重要無形文化財である本美濃紙が使われている と。「松の御茶屋」の建物の北側にあった案内板。「再現された精緻な技法●賓客をもてなすしつらえ 室内の壁と漆による仕上げ・張り付け壁 室内の壁は「張り付け壁」という技法で作られています。これは、和紙を貼った板を壁に はめ込み、黒い漆を塗った細い角材で壁に固定する伝統技法です。この建物に使われている 和紙は「泥間似合紙(どろまにあいし)」と呼ばれる紙です。雁皮(がんぴ)という植物の繊維に 粘土を混ぜて漉いたもので、丈夫で燃えにくい紙です。兵庫県西宮市茗の人間国宝、 谷野剛惟さんがこの建物のために漉いたものです。・丁子引きと金小松模様 壁紙の縞模様は「丁子引き」と呼ばれる技法です。香辛料にも使われる「丁子」の蕾ら採った 染料を櫛状の刷毛で塗ったもので、防虫にも効果があリます。 金色に輝く松の模様は、老舗の紙屋さんが所蔵していた1840 (天保11)年製作の版木で刷られた ものです。雲母の粉とフノリを混ぜて版木に塗リ、「泥間似合紙」に手作業で刷られました。・棚板の「拭き漆仕上げ」 5段重ねの棚板は「拭き漆仕上げ」です。ヒノキの一枚板に、生漆を塗っては拭き取る作業を 2~3回繰リ返し、美しい木目を際立たせています。5段の棚板を重ねた独特のつくりで、 江戸時代にはここに調度品を飾って鑑賞したそうです。・丸窓の「呂色(あいろ)仕上げ」 丸窓などにみられる黒の漆塗は「呂色仕上け」と呼ばれる技法です。 漆を塗っては木炭で研ぎ出し、これを何度も繰リ返すことで他の塗料で は出せない深い黒味に仕上げています。●特徴的な屋根のかたち・こけら葺き 屋根は、池側からの姿にも配慮した形になっているほか、柔らかなカーブが描かれており、 庭園の景色になじむよう工夫されています。 屋根の葺き方は「こけら葺き」と呼ばれる技法です。天然のサワラ材を手作業で3mmほどの 薄さに割り、それを竹の釘で一枚ずつ屋根に止めていきます。・巻茅(まきがや) 屋根の端部は「こけら」で巻き込むように葺かれています。「巻茅」と呼ばれる技法で、屋根を 軽快に見せるための工夫です。京都の修学院離宮の建物でも見ることができる技法です。●趣向を凝らした木材選び・屋久杉 天井の板は、樹齢1000年ほどにもなる屋久杉が使われています。・国産のツガ材 柱や床板などは国産の栂(つが)材が便われています。材質が緻密で堅く木肌も美しいことから、 かっては「栂普請(つがぶしん)」として広く用いられていた木材です。近年ではとても入手が 困難です。」「松の御茶屋の復元歴史に忠実に復元する●歴史をひも解く・歴史資料調査 宮内庁、東京国立博物館、都立中央図書館などの協力により絵図、古写真、古文書等の調査を 行いました。・発掘調査 平成20年に、建物跡の発掘調査を行い「松の御茶屋」本来の礎石(柱などを支えていた石)の 存在を確認しました●専門家による監修 調査、設計、施工など様々な過程で建築や造園の専門家による監修を受けながら復元を 進めました。●歴史に忠実に復元する・史実に沿った復元 多くの歴史資料に基づいて綿密に時代考証を行い、寸法、材料、工法に至るまで、可能な限り、 歴史資料どおりに再現されています。・遺構の保存 現存していた礎石は、主に神奈川県足柄産の小松石です。建物が復元された後も、そのままの 形で残されています。・建物と庭園との調和 「松の御茶屋」と庭園とが自然に連続するよう、池に面した側は開放的なつくりになって います。室内から庭園を眺めると、まるで庭の中に身を置いているかのように感じられます。●今の技術を活かす この建物の安全性を高めるため、見えないところで現代工法が使われています。・コンクリートを使った建物の基礎 地中に眠る遺構を建物の重さから保護するとともに、柱などをしっかリと固定するため、 コンクリートの基礎を造リ、その上に建物を建てました。・壁などの強さを高める工夫 天井裏では斜めの方向に補強材を入れ金具で固定しています。また屋根とコンクリート基礎を つなぐ鉄骨フレームが戸袋の裏に隠されています。」「江戸時代の華を受け継ぐ浜離宮恩賜庭園●いくつもの時代を経て江戸の姿を今に伝える庭園 浜離宮思賜庭園のある場所は、もともと将軍家の鷹狩りの場でしたが、1654 (承応3 )年、 徳川綢重が兄の4代将軍徳川家綱より邸地を与えられ、江戸湾の一部を埋め立て屋敷を建てた ことから歴史が始まります。 江戸初期には甲府藩の下屋敷として使われ、第11代将軍徳川家斉の時代(1787 (天明7 )年~ 1837 (天保8 )年)に庭園の大改修が行われ、現在の庭園とほぼ同じ姿になリました。将軍家の 別邸として多くの賓客をもてなした華やかな時代を過ぎると、幕末には海側の防御のため 海軍所となり、砲台が置かれた時代もありました。1923 (大正12 )年の関東大震災、また 第ニ次世界大戦の戦災で、庭園内の多くの建物と樹木が焼失しました。 1945 (昭和20 )年、東京都に下賜され、翌年、都立庭園として開園、1952 (昭和27 )年には 特別名勝・特別史跡に指定されました。 かっては将軍家の庭、その後は皇室の庭、現在は公共の庭と、時代とともに庭の主人公も移り 変わりながら現在に至っています。●歴代将軍が賓客をもてなした庭園と御茶屋 御茶屋は、歴代将軍たちが賓客と庭園の景色を楽しみながら食事をしたり、和歌を詠むなど、 優雅な時間を過ごす場でした。 将軍や賓客が庭園の魅力を最大限に堪能できるよう、移動ルートや鑑賞の順序などがあらかじめ 計画され、各御茶屋にある掛け軸、茶器、文房具などの作者や、それらを飾る場所なども趣向を 凝らしたものでした。 この庭園の御茶屋群は、庭園の景色を構成する上でも重要な存在です。これらの御茶屋は11代 将軍徳川家斉の時代に建てられましたが、関東大震災や第ニ次世界大戦の戦災によリ焼失して しまいました。松の御茶屋は平成22年に、燕の御茶屋は平成27年に、鷹の御茶屋は平成30年に、 それぞれ復元され、往時と変わらぬ姿がよみがえりました。」①中島の御茶屋将軍が賓客たちと共に和歌を詠んだり、「潮入りの池」に浮かぶ船上の音楽を楽しんだ場所です。米国前大統領グラントが明治天皇と会見した場所でもあります。※1983 (昭和58 )年に再建。②松の御茶屋「中島の御茶屋」と対をなす端正な外観の御茶屋です。「潮入りの池」の目の前に建っており、池への眺望が大変良い御茶屋です。1869 (明治2)年、英国公使パークスとの会食場としても使われました。※2010 (平成22 )年に復元。③燕の御茶屋名前の由来は、釘隠しの形が燕または、燕子花(かきつばた)の形だったからともいわれています。当時は南宋の画家蓮亀の絵を飾り、菓子や肴で客をもてなしたそうです。※2015 (平成27 )年に復元。④鷹の御茶屋将軍が鷹狩りをする際の休息新として使われていた御茶屋です。野支度のまま立ち寄れるように広い土間があり、土間には囲炉裏もありました。※2018 (平成30 )年に復元。⑤汐見の御茶屋(海手の御茶屋)最も海への眺望が良い御茶屋です。奥女中達が将軍の御座船を見物したリ、漁夫達の漁猟の様子を物珍しく眺めた場所でもあります。御茶屋の配置図。5は消失したままの御茶屋将軍家の鷹狩場寛永年間(1627~1644)頃甲府藩下屋敷「甲府殿浜屋敷慶応3(1654)年~元禄年間または「海手屋敷」~元禄年間(1688~1704)将軍家の別邸「浜御殿」宝永1(1704)年~明治維新皇室離宮「浜離宮」明治~戦前「都立浜離宮恩賜公園」戦前~現在「松の御茶屋」横から「潮入の池(大泉水)」を見る。次に訪れた北側の「燕の御茶屋」を見る。「燕の御茶屋」(左)と「鷹の御茶屋」(右)。その先に見えたのが高層マンション、「東京ツインパークス レフトウィング」(左)と「東京ツインパークス ライトウィング」(右)。階数 :地上47階/塔屋2階/地下2階最高部高さ :165m右側の「鷹の御茶屋」。「燕の御茶屋」に向かいから「中島の御茶屋」そして「お伝い橋」を見る。「鷹狩と鷹の御茶屋●権威の象徴としての鷹狩・鷹で獲物を捕まえる鷹狩 鷹を使って鳥や小動物を捕まえる狩猟のことを「鷹狩」といいます。その鷹を飼いならす 人のことを「鷹匠」と呼んでいました。・古くから育まれた鷹狩文化 鷹狩は古くから世界中で行われ、日本では約1500年前にさかのぼるといわれています。 天皇や将軍など時の権力者により、権威の象徴として行われてきました。●鷹狩の待合所・休息所であった鷹の御茶屋・戦災で消失した鷹の御茶屋の復元(平成30年3月) 鷹の御茶屋には、将軍が鷹狩の合間に野支度のまま立ち寄れるように広い土間がありました。 また建物の裏には、鷹が待機するための「鷹部屋」がりました。・獲物の鴨などがいる池「鴨場」 浜離宮の庭園内には、鷹狩の獲物となる鳥をおびき寄せるために造られた、 庚申堂鴨場と新銭座鴨場が現在も残っています。」『徳川十三代将軍御鷹野之図』1889 (明治22)年浜御殿(浜離宮)を描いたものではありませんが、将軍の鷹狩の様子がわかる絵です。そして次に訪ねたのが「鷹の御茶屋」。しかし、内部に入れなかった。入口から室内を見る。案内板をズームして。「庭園の最盛期 第十一代将軍徳川家斉の時代●古来より伝わる鷹狩の伝統---今日まで継承されたきた貴重な浜離宮恩賜庭園の鴨場---・日本書紀に始まる鷹狩の歴史 仁徳天皇が百舌鳥野(大阪市堺市)で狩をし、多くのキジを捕ったことが書かれている。・鷹狩文化が洗練された江戸時代 庶民の鷹狩は禁じられていましたが、将軍や大名の多くが「御鷹場」へ鷹狩に出かけ、 そのために必要な精度を整備しました。 鷹狩は楽しむだけでなく、捕らえられた獲物を贈答、饗応することで主従関係を築いたり 庶民生活を視察するなど、儀礼的・政治的な要素もありました。・整備された鴨場を利用した鷹場 浜御殿(浜離宮)では、鷹狩のために整備した鴨場で、野生の水鳥を呼び寄せるために囮となる アヒルを飼育し、狩りを行っていました。・外国との社交場であった明治時代 旧幕府の鴨場が宮内省により修復されました。鴨猟の方法も、姿を変えながら、諸外国の 社交の場として利用されていました。●最盛期を迎えた浜御殿での鷹狩・第5代将軍徳川綱吉が発令した「生類憐れみの令」の影響により、鷹狩が中止されましたが、 第8代将軍徳川吉宗により鷹狩が復活し、さらなる整備と強化が行われました。 浜御殿では、第11代将軍徳川家斉(在位:1787~1837)の時代に、賓客をもてなすため 鷹の御茶屋、松の御茶屋、燕の御茶屋を建て、鴨場を増設・拡張するなど、庭園としての 最盛期を迎えました。」「将軍が田舎の風情を楽しむ建物●御見合所から鷹の御茶屋へ第11代将軍徳川家斉の時に建てられた当初は「御見合所」「わらぶきの御亭」という名称でした。明治に入り鷹狩が行われなくなると、接客のための「御茶屋」としての利用が主になり「鷹の御茶屋」と呼ばれるようになったよいうです。・将軍の過ごし方 寒い朝には大きな地炉(土間に作った炉)で芋や栗を焼いていたなどの記録があり、将軍が 田舎の風情を楽しんでいたことが窺えます。●数多くの史資料から復元 ◯建築当初から大正時代までの平面形状や間取りがわかる絵図史料 ◯違棚が描かれた詳細図 ◯幕末から明治・大正にかけて撮影された外観・室内の古写真 ◯江戸時代の様子が書かれた文献史料 ◯明治以降の修理記録 など●遺構の保存 建築当初から消失するまで残存していた礎石や地炉などの遺構は、歴史的価値を 伝えるため、そのまま保存しています。」◯将軍が休憩や暖をとる際に腰を掛けるための畳敷の上段が構えられていました。◯鷹狩に使う鷹を休ませる鷹部屋が付属していました。(上段の後ろ)◯鷹狩の装束のまま出入りしていたため室内は土間叩きで地炉がありました。 明治時代になると、御茶屋の機能として水まわりの装備を整えたようです。「燕(つばめ)の御茶屋」の建物の周囲を巡る。分厚い藁葺きの屋根。「鷹と鷹匠●約2ケ月間行われる鷹の調教ーオオタカー・馴らし 鷹匠に対する警戒心を解く ◯羽根の汚れを取リ、爪と嘴を整え、足革などの必要な鷹道具を装着します。 ◯最初は鷹を驚かさないように、真っ暗な鷹部屋に入れて落ち着かせます。 〇鷹の体調や様子を見て、1 ~2習慣の絶食を行い、体脂肪を下げる「詰め」を行います。 〇この後、暗闇の中で鷹を拳に乗せる「据え」を行い、鷹が人間から餌をもらっても安全だと 覚えたら、鷹部屋内を据えて歩き、音に馴らすなど徐々に様々な状況に馴らしていきます。 〇鷹の警戒心が解けてきたら、鷹部屋の外に出て、歩き回ってみます。鷹は見慣れない人や 物事に驚きやすいので、全て夜に行います。 〇十分な据え回しを行し、必要な合図を教えるとができれば、鷹(素直で癖のない物事に 動じない鷹)に仕上げることが容易になると言われています。」●鷹狩に使われる鷹9月下旬から10月下旬にかけて南に向かう渡り鳥を追いかける野生の若鷹を捕獲しました。雌のほうが体が大きく狩が得意だったと言われてます。鷹の種類鷹:ハイタカ、オオタカ隼:ハヤブサ、オオハヤプサ」●様々な役割を持つ鷹道具 ①策(ぶち):鷹の嘴を拭いたり、翼と尾羽を整えるときに使う棒。 ②大緒(おおお):鷹を据えたり架にとめたりするとき足革につなぐ絹製の紐 ③鞢(えがけ):鷹匠が鷹を据えるとき拳につけるいぶし鹿革製の手袋 ④抉(くじり):鹿の角などの先端をとがらせ、足革の穴を広げたりする時に使うもの。 ⑤隼頭巾(はやぶさずきん):調教時や狩でハヤブサに被せる頭巾。 ⑥餌合子(えごうし):薄く切った餌を入れ、調教や狩に使うもの。 ⑦鈴板と尾鈴:鈴の音で位置を確認できるよう鷹の尾に装着するもの。 ⑧ロ餌籠:藤製の籠で、ロ餌を入れるもの。 ⑨丸鳩入れ:丸鳩を入れるための餌入れ ⑩鳩袋:調教時や狩で生きたハトを入れ携帯するための袋。 ⑪忍縄(おきなわ):絹製の細い紐で、調教などに使うもの。 ⑫爪嘴小刀(つめはしこがたな):鷹の爪と嘴(くちばし)を削るために使う小刀。そして「鷹部屋」案内板。「鷹部屋」を北側から見る。「鷹が待機する鷹部屋●出番を待つ鷹鷹の御茶屋には、将軍が鷹狩に訪れた際に、鷹か出番を侍うための施設として鷹部屋が作られていました。鷹が普段どこで飼育されていたのか、詳しいことはわかっていません。●繊細な鷹が過ごしやすい空間鷹部屋は外側にしか出入口がなく、室内から鷹の様子を見ることはできません。内部は鷹がおびえないように暗くなっていたそうです。鷹の御茶屋の鷹部屋は、絵図や数少ない鷹部屋の事例を参考に復元されました。」「鷹の御茶屋に復元された鷹部屋」出番を待つ鷹の姿。「鷹の御茶屋」を南側・潮入の池側から。藁葺き屋根をズームして。「鷹の御茶屋」建物案内図。「鷹の御茶屋とは?「鷹の御茶屋」は、寛政7年(1795)頃に建設され、将軍が鷹狩りを行う際の、待合いや休憩所として利用されていたと考えられています。戦災で焼失しましたが、平成30(2018)年に復元されました。他の御茶屋とは異なり、茅葺(かやぶき)屋根や、内部の土間叩きが特徴の、農家風の佇まいの建物です。また、建物には、鷹狩りの際に鷹を休ませるための鷹部屋も付属しています。」そして次に訪ねたのが「燕の御茶屋」。池に面する「燕の御茶屋」は、直線が美しい杮葺き(こけらぶき)の屋根。重要文化財に指定されている日本の伝統的建造物の多くが檜皮(ひわだ)、杮板(こけらいた)、茅(カヤ)などの植物性資材で葺かれています。これらの屋根工事技術は1300年以上の歴史を持つ、世界にも類をみない日本独特の文化です。板を用いた「杮葺」(こけらぶき)と呼ばれる屋根工法も豊富な森林資源を背景に、独自の発展を遂げてきました。板葺は世界各地にも見られますが、その多くは厚板を並べて石を置くなど無骨な形態のままで、日本の杮葺きのように華麗なまでに発達した地域は他では見られません。その起源は飛鳥時代(7世紀中頃)まで遡るといわれ、平安時代には貴族文化の中で成熟し、江戸時代に完成されたと言われています。杮葺は板葺の一種です。杮が「木片」を意味するように、椹や杉などの薄い手割りの板を野地板の上に1寸(3cm)ほどの間隔で葺き重ね、竹釘で留めて順次上の方向へ葺きあげていく工法ですと ネットから。「時代を経て変化した鴨猟の方法江戸期 ー鷹による獲物の捕獲ー①大覗から水鳥の様子を確認 水鳥の集まり具合や風向きなどを確認し、狩を行う引堀を決めます。②小覗で板木を鳴らす アヒルに餌をあげる合図として、小覗の板木を鳴らします。③鴨が引堀に入る. アヒルが引堀に入ると、水鳥もつられて入ってきます。④小覗から鷹匠に配置につく合図を送る 小覗から獲物が来たことこを確認し、手信号で隠れている鷹匠に合図します。⑤鷹匠の登場 合図を確認し、隠れていた鷹匠が引堀をはさんで配置につくと、水鳥が驚いて飛び立ちます。⑥鷹で鴨をとらえる 飛び立った水鳥めがけて鷹を放ち捕らえます。」「鴨場の仕組み鴨場は水鳥の習性を把握して合理的に設計されています。獲物を引堀におびき寄せるため音を鳴らしたリ、引堀の様子を観察するための場所。普段は囮のアヒルに餌を与えています。「継承される職人の技術伝統的な技術を継承する職人により、当時の寸法や材料のほか工法まで可能な限り再現されています。木工事 精緻な伝統技術①原寸引き付け 原寸大の図面で部材の納まりや寸法を確認②柱のひかり付け 礎石の形に合わせ隙間なく加工(ひかり付け)③長押の加工 磨き丸太の曲線に合わせ隙間なく削り合わせる④軸組の組み立て 加工した部材の組み立てこけら葺サワラ材の丸太を手割りし重ね合わせて葺く伝統的技法①こけら板の拵え 厚さ3mmの板に仕上げる②軒付の確認 定規をあて軒寸けの納まりを確認③軸付けの取り付け 竹釘で軒付け板を3段に重ねる④平葺 こけら板を1枚ずつ竹釘で打ち付ける左官大阪土を使った色壁による仕上げ①内部色壁仕上げ(大阪土) 宮中の建物などにも使われている赤みのある色土②小舞掻付け 割竹を藁縄で格子状にした下地(小舞掻付け)③荒壁付け 下地に荒壁土(あらかべつち)を塗り鏝(こて)で平らにする④木摺(きずり)壁の下塗り 木摺(きずり)壁には漆喰を塗り髭子(ひげこ)を伏せ込む燕の釘隠し金具赤銅色(しゃくどういろ)に輝く24種類の形の燕①型出し 銅板を叩き出し立体的にする②毛彫り 鏨(たがね)で羽や足の細部を仕上げる③釘の蝋付け 裏側に釘を蝋付けする④煮色仕上げ 溶液に漬け煮立てることで日に当たると赤銅色(青みがかった黒色)に発色する「燕(つばめ)の御茶屋の復元「燕の御茶屋」は11代将軍家斉の時代の天保5年(1834)までに建てられたもので、室内には将軍が座るための上段が構えられ、将軍自身が接客・利用するための建物であったと思われます。「燕」の由来は燕型の釘金具が使われていたことや燕子花(かきつばた)が由来とも言われていますが詳細は不明です。歴史をひも解く古写真、絵図、文献などの史資料調査や、発掘調査、類例調査など様々な調査から復元を行っています。発掘調査燕の御茶屋は戦災で焼失しましたが礎石などはそのまま残っていました。平成23年に発掘調査を行い、礎石の位置から建物の規模や柱の間隔などがわかりましたが、古い図面に描かれていた内容とも一致しました。歴史に忠実に復元する史資料や遺構から江戸時代末期から創建された家斉の時代を志向した復元は可能と判断されました。・史実に沿った復元 多くの歴史資料に基づき、できるだけ忠実に復元しました。・遺構の保存 遺構を保護した上に鉄筋コンクリートの基礎を造り耐震性も確保されています。・建物と庭園との調和 中島の御茶屋やお伝い橋など潮入の池の素晴らしい景色が眺められます。・見えない補強 基礎や小屋裏、壁の内側など見えないところに構造補強が施されています。特徴的な意匠〇室内中央に上段を構えています。〇上段には三角形の地袋と円形の棚板、背面張り出しの地袋が付いています。〇三角地袋の小襖には白磁製の陶板を使用しています。〇縁の欄間板は霞模様の透し彫りです。「将軍の間」と。室内には将軍が座る上段が構えられ、将軍自身が調度(生花・座敷飾)の観賞や菓子・すしなどの食事、和歌を詠むといった接客の場として利用されていたようです。茶屋の名の由来の燕の釘隠し。移動して。手入れの行き届いた松の姿。これぞ松!! ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.09.16
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さらに「浜離宮恩賜庭園」の東側の旧築地川沿いを歩く。池の水面を覗き込むが如き松の姿。さらに右側の丘に沿って歩く。ここからも「レインボーブリッジ」の上部の姿が。老木の松の幹には大きな穴が。近づいて。場所は低いが、鳥の巣があったのだろうか?この丘は「樋の口山」と。丘に近づいて。「樋の口山・展望台」から東京湾を望むが、「レインボーブリッジ」が見えるのみ。「横堀水門」。「浜離宮恩賜庭園」の「潮入の池」に海水を引き入れている「横堀水門」。「横堀水門」から「築地大橋」方向を見る。東京湾の水位の干満に従って「横堀水門」を開閉し、「潮入の池」の水の出入りを調整。「横堀水門六代将軍徳川川家宣の時代には、この辺りに堰があり、海水の出入りを調節したと考えられています。この横堀水門は現在、園内で一番大きな水門で、潮の干満を利用して東京湾の海水を「潮入の池」に引き入れたり、出したりしています。」「樋の口山・展望台」方向を振り返って。「樋の口」とは水門の意味とのこと。「庚申堂鴨場」、「鷹の御茶屋」方向に進む。「潮入の池(大泉水)」の水位調整用の「横堀水門」の巨大ゲートを手前に見る。こちらにも池の水面を覗き込む様な姿の松の姿が。こちらは、幹を切られその下の枝が伸びて。松の枝の下を潜って進む。前方に「海手お手伝い橋」が見えた。ズームして。後方には汐留の高層ビル群が。右手にあったのが「庚申堂鴨場」案内掲示板。「庚申堂鴨場「鴨場」とは、古くから大名の別荘地などに設けられていた野生の鴨などの水鳥を遊猟するための場所のことです。現在、鴨場が見られるのは全国で5箇所しかないとのことですが、そのうちの1箇所が浜離宮恩賜庭園の鴨場です。鴨場は、飛来した水鳥が休むための島を配置した「元溜り(もとだまり)」と呼ぶ大きな池と幾筋かの引き込み水路「引堀(ひきぼり)」からなっています。池には、獲物の水鳥たちを引堀へ導き入れてくれるよう訓練された囮(おとり)の家鴨(あひる)を放しておきます。周囲は約3メートルほどの高さの土手で囲み、笹や竹、常緑樹などを隙間なく植えて、人の気配を感じさせないようにし、飛来した水鳥が安心して休息できる環境を作ります。元溜りを見渡せる監視所の「大覗(おおのぞき)」から水鳥の集まり具合や風向きなどを確認し、猟を行う引堀を決めます。引堀の奥の見張りが隠れる「小覗(このぞき)」から、板木をたたきながらヒエやアワなどの餌を撒き、囮で引き寄せられた水鳥を、引堀の小土手から網や鷹を使って捕る猟を行っていました。ここ「庚申堂鴨場」は、安永7年(1778年)に築造され、その後幾度かの改修を経て現在の形になっています。庚申堂鴨場の名称は、この鴨場の北東側に庚申堂があったことに由来します。」「鴨猟の方法」は先ほど訪ねた「新銭座鴨場」のものと同じ。「小覗」を見る。長方形の覗き穴から「引堀」を見る。勝ちどきの超高層マンション郡を望む。一番左のマンションは2016年完成の「勝どきザ・タワー」。44階の4LDKだと家賃は40万円/月以上・・・。その後ろに「THE TOKYO TOWERS MID TOWER & SEA TOWER」を再び見る。「海手お手伝い橋」の袂を見る。もう一つあった「小覗」。近づいて。「海手お手伝い橋」への入口。「横堀」の北方向を見る。ズームして。さらに。3箇所目の「小覗」。豊海町方向の高層ビル群を見る。巨木が前方に。左:中の橋 富士見山右:中島の御茶屋 出口 と。左奥にあったのが「中の橋」。ズームして。左手に進むと、右前方に丘が現れた。「御亭山」。浜離宮恩賜公園の「御亭山」は、園内のほぼ中央にある小高い丘で、頂上からの眺望が最高。「御亭山」は、潮入りの池の東側にあり、頂上と周囲の平地部の標高差は、約3m程度の小高い丘。約3mの標高差ですが、頂上からの眺望は、素晴らしいものがあった。浜離宮の庭園内の四周を見ることができたのであった。御亭山の頂上に通ずる小路は、2本あり、いずれも石の階段になっていた。頂上は、広くはなく、ベンチがあり、腰を下ろして休憩をとることができた。今回、浜離宮の御亭山に上って、四周への眺望が素晴らしいことを実感。浜離宮の庭園の中で、必ず訪れるべきスポットの一つ。「中島の御茶屋」の姿を見る。その右手奥には「東京タワー」の姿も確認できた。「中島の御茶屋」をズームして。さらに。その右側が藤棚のあった「小の字島」。「御亭山(おちんやま)」案内標識。西側の登り口の傍に立てられていた。その後ろには手入れが良い植栽が見えた。「カルガモ」の姿が。ズームして。嘴の先が黄色いのが特徴か。再び、「潮入の池」の「中島」、「小の字島」方向を。受付で無料で借りたのであろう和傘を日除けにする観光客の姿。この後に訪ねた「松の御茶屋」の手前にあった案内標識。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.09.15
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「お伝い橋」の手前には水門があった。潮の干満を利用し池の水位を上下させ、庭の趣に変化を持たせる「潮入の池」に、必要不可欠なのが水門。海水を引き入れた池なので「潮入り」と命名されている。池の干満の差は2メートルあり、現在も夜以外は水門のセンサーで毎日水位の調節をしていると。この水門付近は、サクラが最も多く植えられる場所で、春には様々な種類のサクラが美しさを競いながら咲き乱れます。またこの付近は、東京湾に面してベンチが十数個並び、波の音と潮風を感じながら海を眺める恋人達のためには絶好のスポットとなっていると。「汐留川水門制御盤」と。この池の意匠とも言うべき大きな見どころは潮の干満をそのまま利用して、潮が引いた時と潮が満ちた時の景観を楽しめるという工夫が凝らされているところ。このような海水を取り入れた池は、かっては都内にいくつかあったそうですが、現存しているのはこの浜離宮庭園の潮入り池のみとのこと。現在は水門が設置されている関係で東京湾の水位が上昇すれば水門を開き、潮が引けば池水を規定量に応して排出しているのだと。■潮入の池の生きもの潮入の池は隅田川の出口に当たるところに位置しており、そこから水を取り入れているので、この池の水は川と海のものが混ざっています。そのため、川にすむコイやメダカ、ドジョウなどの魚はすんでおらず、ハゼやカニなど、川の出口に多い生きもののすみかになっています。マハゼ、チチブ、ビリンゴ、ドロメ、ボラ、、マルタウグイ、チチュウカイミドリガニ、ユビナガスジエビ・・・. etc「お伝い橋」案内用QRコードは反応せず。潮入りの池の岸から「小の字島」と「中島」を結ぶ延長約120mもある総檜造り橋で平成24年(2012)年に改修しました.現在は「お伝い橋」は一部通行止めであり下図の「迂回路」を利用してほしい と。期間は令和6年5月20日(月)~9月中旬(予定)であると。「潮入の池」の中央にある「中島の御茶屋」と「東新橋1丁目」の高層ビル群。「中島の御茶屋」をズームして。さらに。「富士見山」案内板。「富士見山」かっては西南の方向に富士山が観れたことから「富士見山」と命名されています。他に、北東の方角には房総の山々、北には筑波山まで見えたようです。園内では樋の口山や新樋の口山と並んで、もっとも高い小山です。石段を上って行った。往時は園内の南端にあったのですが、幕末になって砲台が設置されることになり、現在地に移されています。だとすれば、仮に周囲に林立する高層ビル群が無くても、ひょっとすれば幕末の頃からすでに現在地からは富士山が見えなかったのかもしれません。なお、この富士見山からは潮入り池の様子を一望できます。富士見山からみた眺望。再び「中島の御茶屋」をズームして。「潮入の池」の反対側にある「燕の御茶屋」、「鷹の御茶屋」を見る。ズームして。「富士見山」には多くのフランス人ツアー客がいた。2024年7月26日から8月11日まで、第33回夏季オリンピック競技大会がフランス・パリで開催されていたが、若いカップルの男性と英語で話をすると、パリの混雑を避けて日本に観光に来ていると。オリンピックはテレビで見れば十分と。ここの如き静かな場所を求めて日本に来ていると。「貴方のカメラで写真を撮ってやるからそこに立て」とフランス人から。遠く月島の「高層ビル群」の手前に「築地大橋」の姿も見えた。ここにも「浜離宮恩賜庭園案内図」。現在位置はここ。「富士見山」を下り、さらに「汐留川」に沿って北東に向かって歩く。「汐留川」の川岸に出る。中央に五つ星ホテル「メズム東京オートグラフコレクション」。「汐留川水門」。汐留川の流末に、鯨の尾のようなものが水面に立ち上がっている。汐留川水門と浜離宮排水機場である。この水門は、高潮対策として昭和44年に完成した複葉ローラゲート型。水門閉鎖時に排水ポンプ(能力42m3/s)を稼動すれば、鯨が泳いで見えるのだろうか?「浜離宮恩賜庭園」を囲む内堀には大型クルーザーが停泊中。隅田川に架かる「築地大橋」の上部アーチが見えた。この内堀が昔は「築地川」の本流であったとのこと。左手には松の生える小さな丘が続いていた。小さな芝生の丘。そして再び「潮入の池(大泉水)」から流れ込む「横堀」を見る。再び「THE TOKYO TOWERS」が姿を現した。前方には巨木が。振り返って。さらに「内堀」に沿って歩く。振り返ると「レインボーブリッジ」が姿を現した。その先左手にあったのが「潮見の御茶屋跡」。「潮見の御茶屋跡最初に建てられたのは、宝永4 (1707)年とされています。初代の建物は「海手茶屋」「海涯の亭」などと称されており、房総半島などを望むことができ、風景を楽しんだり、船などの見物をしたようです。「汐見」と称されたのは、明治に入ってからと思われます。大正12年(1923) 9月1日関東大震災により焼失してしまいました。御茶屋とは、茶室とは異なり、将軍の接待や休憩場所としててられた慮物です。」往時の「汐見の御茶屋跡」の写真。左手に「海手お伝い橋」。「浜離宮恩賜庭園」の「潮入の池」ににつながる「横堀」に、海手お伝い橋が架かっていた。「潮入の池」の「お伝い橋」に比べると長さは短いですが、こちらの木製の橋も同様に風情があったのだ。海側から眺めると、橋の先に高層ビルが林立する景観が広がっていた。「海手お伝い橋」。「海手お伝い橋」袂から左側・西方向を見る。右側・北方向を見る。対岸には、この後に訪ねた「庚申堂鴨場 小覗」が見えた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.09.14
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「浜離宮恩賜庭園」内の散策を続ける。「新銭座鴨場(しんせんざかもば)」の入口に到着。「新銭座鴨場(しんせんざかもば)」案内板。「新銭座鴨場(しんせんざかもば)「鴨場」とは、古くから大名の別荘地などに設けられていた野生の鴨などの水鳥を遊猟するための場所のことです。現在、鴨場が見られるのは全国で5箇所しかないとのことですが、そのうちの一箇所が浜離宮恩賜庭園の鴨場です。鴨場は、飛来した水鳥が休むための島を配置した「元溜り(もとだまり)」と呼ぶ大きな池と幾筋かの引き込み水路「引堀(ひきぼり)」からなっています。池には、獲物の水鳥たちを引堀へ導き入れてくれるよう訓練された囮(おとり)の家鴨(あひる)を放しておきます。周囲は約3メートルほどの高さの上手で囲み、笹や竹、常緑樹などを隙間なく植えて、人の気配を感じさせないようにし、飛来した水鳥が安心して休息できる環境を作ります。元溜りを見渡せる監視所の「大覗(おおのぞき)」から水鳥の集まり具合や風向きなどを確認し、猟を行う引堀を決めます。引堀の奥の見張りが隠れる「小覗(このぞき)」から、板木をたたきながらヒエやアワなどの餌を撒き、囮で引き寄せられた水鳥を、引堀の小上手から網や鷹(たか)を使って捕る猟を行っていました。ここ「新銭座鴨場」は、寛政3年(1791年)に築造され、その後幾度かの改修を経て現在の形になっています。「新銭座鴨場」の名称は、この鴨場の西南側の地名が新銭座町であったことに由来します。「鴨場の方法」案内板。絵で示された理解しやすい説明が。・飛来した水鳥が休むための島・中の島を配置した「元溜り(もとだまり)」と呼ぶ大きな池・幾筋かの引き込み水路「引堀(ひきぼり)」・引堀の奥の見張りが隠れる「小覗(このぞき)」・周囲は約3メートルほどの高さの上手で囲み、笹や竹、常緑樹などを隙間なく植えて、 人の気配を感じさせないように1️⃣元溜りに囮のアヒルが放されています。秋から冬にかけて鴨などの水鳥が渡ってきます。2️⃣小覗にある木の板を打ち鳴らします。飼い馴らされたアヒルを引掘におびきよせるためです。3️⃣餌がもらえるのでアヒルが入ってきます。水鳥もつられて入ってきます。4️⃣鷹匠(たかじよう)※が引堀に入ってくる水鳥の様子を確認しています。 ※鷹狩りのために鷹を飼いならす人5️⃣鷹匠の合図で引堀をはさんで配置につきます。6️⃣おどかされて逃げ惑う水鳥めがけて鷹を放ちます。元溜りを見渡せる「小覗(このぞき)」。ここにも案内が。左は英文で。「小覗(このぞき)」。「小覗」からカメラで覗いて。引き込み水路「引堀(ひきぼり)」には石垣が。「小覗(このぞき)」を裏側から見る。近くにはもう一つの「子覗(このぞき)」があった。近づいて。「元溜り(もとだまり)」と呼ばれる池を見る。こちらは円形の穴のある「小覗(このぞき)」。カメラを差し込んで「元溜り(もとだまり)」を。石碑もあった。「鴨塚の碑」と。「昭和十年十一月五日之建/鴨之塚/鷹匠 戸辺與四郎」とある。「鴨塚の碑園内には、庚申堂鴨場と新銭座鴨場があります。鴨場とは、鴨などを捕獲するための施設です。安永7 (1778)年10代将軍徳川家治の時代以降、浜難宮の時代まで、ニつの鴨場では、鴨猟が行われていました。この碑は、宮内省の鷹匠 戸部輿四郎氏が、ニつの鴨場で捕獲された鴨たちを供養するために昭和10 (1935)年に慮てたものです。」「中の島」を見る。ズームして。白い野鳥の姿が。囮のアヒルではないようだ。さらに「元溜り(もとだまり)」に沿った遊歩道を歩く。別の場所から「中の島」を見る。移動して。こちらにもあった「小覗(このぞき)」を裏側から見る。廻り込んで。長方形の覗き穴。カメラを近づけて「引堀(ひきぼり)」を。さらにレンズを覗き穴に近づけて。丸い覗き穴もあった。こちらにも「案内板」があった。説明内容は同じであったが。「鴨場」とは、古くから大名の別荘地などに設けられていた野生の鴨などの水鳥を遊猟するための場所のことです。現在、鴨場が見られるのは全国で5箇所しかないとのことですが、そのうちの一箇所が浜離宮恩賜庭園の鴨場です。鴨場は、飛来した水鳥が休むための島を配置した「元溜り(もとだまり)」と呼ぶ大きな池と幾筋かの引き込み水路「引堀(ひきぼり)」からなっています。池には、獲物の水鳥たちを引堀へ導き入れてくれるよう訓練された囮(おとり)の家鴨(あひる)を放しておきます。周囲は約3メートルほどの高さの上手で囲み、笹や竹、常緑樹などを隙間なく植えて、人の気配を感じさせないようにし、飛来した水鳥が安心して休息できる環境を作ります。元溜りを見渡せる監視所の「大覗(おおのぞき)」から水鳥の集まり具合や風向きなどを確認し、猟を行う引堀を決めます。引堀の奥の見張りが隠れる「小覗(このぞき)」から、板木をたたきながらヒエやアワなどの餌を撒き、囮で引き寄せられた水鳥を、引堀の小上手から網や鷹(たか)を使って捕る猟を行っていました。ここ「新銭座鴨場」は、寛政3年(1791年)に築造され、その後幾度かの改修を経て現在の形になっています。「新銭座鴨場」の名称は、この鴨場の西南側の地名が新銭座町であったことに由来します。これも同じ。こちらの「鴨場」は屋根と壁のある建物風。近づいて。多くの丸い覗き穴が。こちらが「大覗(おおのぞき)」。「大覗(おおのぞき)」では、池や鴨の様子を観察しました。 野生の鷹が池のそばにきていると鴨は落ち着きません。そんな時は、大覗に仕掛けがあり、囮の鳩をそこに置き、野生の鷹をおびきよせて捕まえます。また風向きを考慮し、どこの引掘を使うか決めました。前方に「引堀」はなく、「元溜り」、「中の島」が見えた。そして「鴨場跡」を後にすると、右手に見えたのが「馬場跡・江戸期の排水溝遺構」。「馬場跡・江戸期の排水溝遺構」案内板。浜離宮恩賜庭園 にはかつて馬術などの稽古場として使用されていた馬場があった。この馬場跡は、延遼館跡の一部にあった「表馬場」に対して「内馬場」と呼ばれていた。将軍が上覧の時の「御座所」「馬見所」(関東大震災で焼失)もそれぞれ設けられていた と。「馬場跡・江戸期の排水溝遺構馬場の形状は、江戸期は独立した上手で囲われていましたが明治期になると新銭座鴨場の拡張のため上手囲み型は無くなり馬場周辺の地形は築山型の連続した柔らかい景観に変化しています。江戸期の馬場は右図のように馬見所(上覧所)を除き馬場の周囲は土手で囲まれ、数か所の出人り口がありました。この土手は台形状で、排水溝は上手の馬場側の裾に配置され、排水口の素材は切り石で底石、側面石、蓋の石で構成されていました。この排水溝の排水先は2つあり、一つは南側の汐留川へ、部分的には将軍吉宗が造成した構堀(現在は鴨場の拡張で消失、部分的に船溜まりに続く場所に見られる)に排水されていました。」案内板の前から、馬場跡を振り返って。長さ145m(約80間)の長さの馬場であったと。カラスの羽?を拾い家に持ち帰りました。「潮入の池(大泉水)」沿いの遊歩道まで来る。中央に「中島」、左に「中島橋」、右に「お伝い橋」その奥に勝どきのタワーマンション群の「THE TOKYO TOWERS」を見る。外観はグレーから白へ移り変わる中高層の爽やかなグラデーションと低層部の温かみあるブラウン。「中島橋」をズームして。「中島」に建つ「中島の御茶屋」とその奥にあった勝どきのタワーマンション群の「THE TOKYO TOWERS」をズームして。「観音堂跡」。「観音堂跡1710年頃、建てられました。徳川将軍家の別邸であった際は、将軍や訪れた客人も多くここに立ち寄った場所です。当時は、観音堂の左に鐘楼もありました。家臣がこの庭園に招かれた際には、このあたりに植えられた木々は、記念品として贈られたといわれています。残念ながら、皇室の離宮になってから間もなくなくなり、現在は石の階段が当時の面影を今に伝えています。」観音堂(右)と鐘楼(左)。本尊は円仁(慈覚大師)の作と伝えられ、他に堂内には狩野派絵師が手掛けた絵馬も飾られていたようです。11代将車・家斉の御代には「晩鐘が響き渡る観音堂」とまで言われたことから、わりと大きな梵鐘だったと。狩野派絵師が描いたとされるこの絵画には、頂に路盤(宝珠)が据えられた宝形造りの堂舎が描かれている。軒先には龍と思われる鬼瓦、四面の三方に絢墹豪華な金色の扉が据えられている様子がうかがえる。実際に長押に額が12枚掛けられていたそうで、賁政10年8月の記録によればそのうち5枚を以下の狩野派の絵師が修復していることが記されているのだと。大きな額:狩野常信、狩野休園、狩野王信小さな額:狩野探信守政、狩野柳雪、狩野春英現在はこの通り!只々、虚しく雑草が生い茂るのみ。ツワモノたちが夢の跡・・。実はこの観音堂の付近にはもう1つ「清水の茶屋」という茶屋が建っていたそうですが、現今に至ってはその場所は特定できていないようです。「三丈ケ岡観音堂の裏手あたりから南西端の海ぎわには低いなだらかな丘が続いているが、これが「三丈ケ岡」と呼ばれる丘。そしてちょうど、この「三丈ケ岡」が切れる所に中島から架橋されたお伝い橋の末端が見えます。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.09.13
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浜離宮恩賜庭園の中にある売店「濵見世」。缶・ペットボトルの飲料や、アイス、季節の和菓子や、浜離宮恩賜庭園オリジナル手ぬぐい、ボールペンなどの土産品も販売していた。売店前には、屋根のある広い休憩所があり、そこでゆっくり座って購入したものを食べることができるようであった。「濵見世」と。この人物は?徳川家宣?売店を正面から。暖簾等様々な土産が。浜離宮恩賜庭園が描かれた手拭いが暖簾風に展示されていた。将軍おかき。味は全部で3種類。塩、醤油、アクセントがもう少し欲しい方には辛子明太子を。そして「はまみせ」前にあった「あずま屋(休憩所)」を訪ねた。休憩する客の数は少なかった。風通しもよく。「花木園の花」。軒下の風鈴の音が心地よく。引き返して、再び「内堀」を。休憩所への入口まで戻る。サルスベリのピンクの花が開花中。「中の御門橋」方向に向かって進む。藤棚を再び。秋になれば、このモミジ葉も美しく紅葉するのであろう。ビルの窓からも美しいのであろう。手入れの行き届いた赤松。これぞ和風庭園。ここにもサルスベリの花が。人の数も少なく。「中の御門」手前。右手に「中の御門」。汐留川に面し、桝形を有する門である。現在は大手門口に次いで本園の主要な出入口である。明治2(1869)年に延遼館が 竣工すると、潮入の池を中心とする御庭への出入り専用の門と なり「浜離宮表門」と称された。関東大震災により中の御門橋、 築地塀を焼失したが、平成 17(2005)年度に復元的に整備され た。中の御門には、中の御門桝形、桝形石垣等の要素がある。 「中の御門中の御門は、江戸時代の初期の頃から大正時代まで使用されていた出人り口です通用門、表門と時代ごとに役割が変わりました。大正12年(1923)の関東大震災で中の御門橋がなくなり、昭和2年(1927)に橋台の石垣が撒去されました。平成17年(2005)に中の御門地区の整備を行いました。」「中の御門」受付・券売所。「都会を彩る コスモス COSMOS」ポスター。「お伝い橋ほか修復工事のお知らせ」。「明治天皇銀婚式記念」碑方向に進む。右手に行くと「浜離宮恩賜庭園 お手洗(中の御門側)」。左手にあったのが「芳梅亭」。「芳梅亭」。「芳梅亭」は有料の集会施設です。下部に「利用のご案内」。六畳間2室と十畳間1室の和室があると。奥にあった銅像が見えた。「可美真手命像(うましまでのみことぞう)」。「可美真手命像(うましまでのみことぞう)明治27 (1894)年、明治天皇の銀婚式を記念して陸軍省が行った懸賞募集に当選した作品で、佐野昭氏が制作、鈴木長吉氏が鋳造したと言われています。」ズームして。可美真手命は、神武天皇の東方征伐の折に武功を立てた皇子で、物部氏の始祖と言われている人物。日本書紀に登場する人物で、その銅像は、明治天皇皇后ご成婚25年を祝する一環で建てられたとのこと。時あたかも日清戦争の時期であり、陸軍省が、武功を立て、目的達成のために尽力した軍神ともいえる可美真手命の銅像を建てることとし、その提案を全国に諮った際に、献納された銅像です。可美真手命の銅像が胸に抱いている太刀は、八岐大蛇を撃った太刀で、東方征伐の際にも敵を撃破したとされている太刀であると。歩いて来た「中の御門」方向を振り返る。「御庭口御門跡」案内板。左手に「潮入の池(大泉水)」に繋がる水路が見えた。立派な石垣も。右手に「浜離宮恩賜庭園 お手洗(中の御門側)」があった。その先には「野外卓広場」。「野外卓広場こには、かって浜御殿奉行の役宅がありました。また、8代将軍吉宗が、薬草園をつくったり、サトウキビの栽培をしていたのもこの付近です。」「野外卓広場」の角から高層住宅を見上げる。右から「ミネベアミツミ 東京クロステックガーデン(ミネベアミツミ 東京本部)」、高層住宅「東京ツインパークス レフトウィング」、「東京ツインパークス ライトウィング」。前方に案内板。「新銭座鴨場」、「鴨塚の碑」方向に進む。西、首都高速都心環状線方向に進む。前方左側に掲示板が現れた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.09.12
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「特別名勝 特別史蹟 東京都浜離宮恩賜庭園」の入口門・大手門渡櫓跡を振り返って。入口右側の大手門渡櫓の石垣。大正時代の「大手門渡櫓」の写真をネットから。「ようこそ浜離宮恩賜庭園へ ご入園・ご利用案内」。「入園券をお買い求めください」。受付・券売所。65歳以上150円のチケットを買う。庭園内に入る。左奥にあった巨木。「クスノキ」と。その先にあった見事な老松。「三百年の松👈️リンクおよそ300年前の宝永6 (1709)年、6代将軍徳川家宣(いえのぶ)がこの庭園の大改修を行った(その頃から「浜御殿」と改称された)頃に植えられたものといわれ、現在では、都内最大級の黒松となっています。」「」100年後には「四百年の松」と改名?近づいて。黒松の中を見るとたくさんの支柱が木を支えているのであった。隣りにあったのは赤松か?樹皮が剥がれたところは、赤味を帯びた地肌が見えるのであった。廻り込んで「三百年の松」を見る。「内堀」に架かった木橋から「築地川」からの取水場所を見る。このには水位調整用のゲート等はないようであった。「築地川」からの取水場所から繋がる「内堀」。「内堀」には所々に石段が設置されていた。荷揚げ用のものであったのだろう。 「木橋」を振り返って。「ダイサギ」であっただろうか?「ダイサギ」の嘴(くちばし)は、繁殖期には黒く、冬は黄色くなる。春から夏にかけて黒くなり、秋から冬にかけて黄色くなるという特徴があるとのこと。庭園にには巨木が緑豊かに。「内堀」に沿って南方向に歩く。190m高さの都市型賃貸住宅・アクティ汐留が正面に見えた。「内堀」案内板。「内堀こは浜離宮恩賜庭園で「内堀」と呼ばれています。江戸時代、京都や大阪あるいは長畸などから船で連ばれてきた物資を江戸城に入れるための中継施設でした。現在、お花畑や広場になっているあたりには「籾倉」と呼ばれる倉が建てられていました。また、内堀の護岸は間知石を用いた石積みでつくられ、荷揚げ用の階段も設けられていました。工事のときに行われた発掘調査では、現状の石積みの背後に埋もれた船着場や、木製の水道管の樋管(ひかん)と思われる構造物などの江戸時代の様々な遺構が発見されました。平成21年に行われた修復工事では、2か所の荷揚げ用の階段も復元しました。」内堀平面図。「濱御殿絵図 寛政年間(1789~1800)頃の絵図」「船着場の遺構(発掘時の写真)石積の背後から。写真のよいな階段状の船着場が見つかりました。」「浜離宮恩賜庭園園」の変遷👈️リンク本園の価値を把握するため、本園の歴史的変遷及び周辺環境の変遷を以下に整理する。歴史的変遷本園の歴史は、将軍の鷹狩の場であった場所を、承応3 (1654)年に松平綱重が埋め立てて屋敷としたことに始まる。4代将軍家綱の時代に将軍家の別邸となり、歴代将軍が舟遊びや鷹狩を楽しみ、公家や僧侶等を接待する場所として使われた。明治に入ると皇室の離宮となり、外国貴賓の接待や皇室行事の場となるなど重要な役割を担った。その後、大正12 (1923)年の関東大震災、太平洋戦争の空襲と、2度の大きな被害を経て、昭和20 (1945)年に東京都に下賜され、翌年、都立の庭園として一般に開放された。史資科をもとに、創設から現在までの所有者及び名称の変遷を、下表に示す。「旧浜離宮庭園の所有者及び名称の変遷」本園の歴史的変遷を、所有者や特徴的な事象を踏まえ7つの時代に区分した。時代ごとの変遷と特徴的な事象を下表に示す。「本園の時代区分」「浜離宮恩賜庭園のうつりかわり①、②」案内。「浜離宮恩賜庭園のうつりかわり①6代将軍 徳川家宣(1662~1712)将軍在職:1709(宝永6)~1712(正徳2)◆綱豊は家宣と改名◆御庭を大改修◆大手門や橋、中島の御茶屋、清水の'御茶屋、海手の御茶屋、観音堂、 庚申堂等を建てた◆浜奉行を置いた◆観艦式を行った◆公家の接待の場として活用浜離宮恩賜庭園の歴史は、1654 (承応3 )年、4代将軍徳川家綱の弟 徳川綱重がこの地に屋敷を構えたことに始まる。1704 (宝永元)年、徳川綱重の子 徳川綱豊が叔父の5代将軍綱吉の養子となったことから、この地は将軍家の別邸となり、浜御殿と呼ばれるようになった。「浜御殿御指図」と「浜御殿 間取図」浜御殿の位置左の間取の浜御殿は、享保九年(一七二四年)の大火で焼失、再建されなかった。能舞台や清水の御茶屋が設けられていた。下図は、航空写真に御殿を位置づけたもの。東京農業大学准教授服部勉先生の指導による。御殿の南端からは、庭が眺望できた。御成御門、御庭ロ御門の位置も推定できる。「浜離宮恩賜庭園のうつりかわり②8代将軍 徳川吉宗(1684~1751)将軍在職:1716(享保元)~1745(延享2)◆吉宗は、この地を実学の実験場として活用◆サトウキビや薬草の栽培◆狼煙の実験や西洋騎馬術の訓練を実施◆浜御殿の役人を大幅に削減◆5代、6代将軍の側室の館を建築◆象を飼育象の飼育については「享保13(1728)年6月7日、広南(いまのベトナム)から、中国の貿易商が長崎に、牡牝(オスメス)2頭の象をつれてきたそうです。牡は7才、牝は5才でしたが、牝は上陸3ヶ月後の9月11日に死亡、その後、牡は長崎の十善寺で飼育され、翌年の5月に江戸将軍家に献上されることになりました。一行は長崎を享保14(1729)年3月13日に長崎を出発、4月16日に大阪、4月26日に京都到着。京都では中御門天皇の上覧があったそうです。この時、上覧には官位が必要なことから、象に『広南従四位白象』の官位が与えられたという話まであります。(諸説あり)そして、5月25日に江戸、浜離宮に到着、そこで27日の将軍上覧まで休んでいました。『徳川実記』によれば、当日、吉宗は江戸城大広間から象を見たようで、この時、幕府御用絵師・狩野古信がその時の絵を描きました。象はしばらく浜離宮で飼育されましたが、年間飼料代200両、食料の世話、番人を殺すなどの事故があったため、民間に払い下げられることになりました。享保17(1732)年に幕府直営の象舎が中野に造られ、押立村の平右衛門、中野村の源助、柏木村の弥兵衛の三名が世話をし、象舎は見物人で賑わい饅頭も売れたと伝わります。さらに彼らは象の糞が疱瘡の薬であると言って売り出して大もうけしたらしい。(糞ではなく涙だという説もあり)商魂たくましいですね(笑)そして、象は寛延(1748~51)年頃、死んだそうです。可哀そうに異国で孤独に死んでしまった哀れな象でした。皮は剥がされ、頭蓋骨と牙、鼻の皮が源助に与えられたそうです。これがいま、中野宝仙寺に伝わる『馴象之枯骨』(じゅんぞうのここつ)です。しかし、残念なことに第二次世界大戦の最中、一部を残し焼失してしまいました。」とネット👈️リンク から。「1732年(享保17)年頃の 浜御殿絵図」。「浜離宮恩賜庭園のうつりかわり③11代将軍 徳川家斉(1773~1841)将軍在職:1787(天明7)~1837(天保8)◆家斉は、8代将軍吉宗の曾孫◆御庭への関心が高く、大改修を行う◆松の御茶屋、鷹の御茶屋、燕の茶屋、お伝い橋、新銭座鴨場等を設けた◆浜御殿への御成は、将軍在位50年間に248回と最多。 その主な目的は、鴨場での放鷹であった「歴代将軍の来訪回数」。下記の表は、松平綱豊が5代将軍綱吉の嗣子となり、本園が徳川将軍家の所有となった宝永元(1704)年から浜御殿が廃止された慶応3 (1867)年までの163年間を集計したものである。「1799(寛政11)年頃の 御浜御殿ノ絵図」。「浜離宮恩賜庭園のうつりかわり④122代天皇 明治天皇(1852~1912)天皇在位:1867(慶応3)~1912(明治45)◆延遼館が建てられ、迎賓館として諸外国の要人をお迎えし、舞踏会等が行われた。◆明治天皇は、明治維新後荒廃していた鴨場の復興を命じた◆1883 (明治16 )年から観桜会を実施 1916 (大正5 )年まで続いた「1884(明治17)年 五千分一東京図部分(参謀本部 陸軍部測量局)浜御殿は、1866 (慶応2)年に海軍所となり、園内に大砲が据付けられた。明治維新後、1869 (明治2)年に延遼館が完成。延遼館とその周辺の土地は外務省所管。1870 (明治3)年に従来の御庭の部分が宮内省の所管となり、浜離宮と称される。1874 (明治7)年に延遼館以外すべての園地が、1884 (明治17)年には園全体が宮内省の所管となった。」「延遼館跡(えんりょうかんあと)」方向を見る。近づいて。「延遼館跡延遼館は、イギリス王子が国賓として来日することを契機に、外国要人の迎賓館として明治2 (1869)年5月に政府によって建てられました。明治12 (1879)年7月には、アメリカのグラント将軍(第18代アメリカ大統領)が、約2ヶ月滞在しました。その後も、多くの国賓を迎え、鉄道開業式など国の行事の際にも使用されましたが、明治22(1889)年12月、老朽化のために取り壊しが決定し、ほどなくしてその歴史に幕を閉じました。」延遼館正面。高層ビルを背景に緑溢れる「浜離宮恩賜庭園」内を歩く。「内堀」に沿って南に向かって。ビジネスセンタービルや高層住宅が林立。赤松。影の姿も美しかった。後ほど訪ねた「内堀」に架かる木橋をズームして。ここを渡ると「籾倉(現お花畑)」に行けるのであった。さらに南方向・奥に向かって進む。藤棚。左に折れて「あずま屋(休憩所)」方向に進む。土産物売り場「濱見世」案内板も。「花木園」案内。「内堀」の先、先ほど訪ねた築地川からの取水場近くに架かる木橋を振り返る。この花はサルスベリ?ズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.09.11
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前夜の「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」を楽しんで京成「ゆうかりが丘」駅近くのホテルに宿泊。この日も早朝起床。妻は、自宅で用事があり一人で帰路に。私は、帰路に、新橋駅の近くにある「浜離宮恩賜庭園」を訪ねることとした。6月25日に「旧芝離宮恩賜公園」👈️リンク を訪ねており、その際に「浜離宮恩賜庭園」も訪ねたいと思っていたのである。「浜離宮恩賜庭園」の開園時間は9時~とのことで「ウィシュトンホテル・ユーカリ」を7:30にチェクアウト。接客カウンター。チェックイン・アウトカウンター前のホールには七夕飾りが。ホテル客の願い事が書かれているようであった。朝食会場入口。チェックアウトし、「ユーカリが丘」駅へと向かう。七夕草月流師範理事の「池田陽湖」先生の名が。この絵の作者は?そして「ユーカリが丘」駅から上野行きの京成線の先頭車両に乗る。そして勝田台駅を過ぎ、「花見川」に架かる橋梁が前方に。実は、2011年3月11日14時46分頃に発生した東日本大震災時に、私は成田空港近くで仕事を終え、帰社の途中、この場所で震災に遭い、私の乗車した京成電車はこの橋梁の上で停止してしまったのであった。その後の余震でも電車は大きく揺れて、電車が倒れるのではないかと恐怖を感じたのであった。そして、1時間以上電車に閉じ込められていたが、先頭車両から線路に降りて次の駅の「京成大和田」まで線路を歩いたのであった。前方に「京成大和田」駅が見えて来た。この線路の中央を乗客が声を掛け合いながら、皆で歩いたのであった。そして「京成大和田」駅に到着。「大和田」駅。震災時には、ここで身動きが取れなくなり、近くにある八千代市立大和田南小学校👈️リンクの体育館のブルーシート上で一夜を明かしたのであった。あれから既に13年以上経っていることを実感しながら進み、京成船橋駅で下車し、JR船橋駅から横須賀線に乗り換える。船橋市の雨水マンホール蓋。江戸を中心に関東近辺の海運に用いられた海川両用の廻船「五大力船(ごだいりきせん)」と市の木サザンカのカラーデザインがされた雨水管マンホールの蓋。そしてJR新橋駅で下車し、日比谷口に出て「ゆりかもめ」の「新橋駅」を見る。「鉄道唱歌の碑」。「鉄道唱歌の碑汽笛一聲しんばしをはや我汽車は離れたり 愛宕の山に入り残る 月を旅路の友として鉄道唱歌の作者大和田建樹先生は、安政四年(1857)四月廿九日愛媛縣宇和島に生る。幼少國漢文に親しみ、十五歳以降特に國学に志した。明治七年十八歳の秋、上京遊学。十七年東京大学講師、翌年高等師範学校教授、廿四年辞任。爾来又官仕せず、門を開いて歌文を教え、地方に出講し行餘謹曲能舞を嗜む。学は漢洋に亘り著述は辞典註釋詩歌随筆等百五十冊を越えたが、丗三年鉄道唱歌東海道、山陽九州、奥州線磐城線、北陸地方、関西参宮南海各線の五冊を連刊し、就中汽笛一聲新橋をの一句に始まる東海道の部は、普く世に流布して津々浦々に歌われ、鉄道交通の普及宣傳に絶大の貢獻をなした。先生明治四十三年十月一日に没す。享年五十四。今年恰も生誕百年に當って、先生の遺弟待宵舎同人の發起により東海道鉄道唱歌にゆかり深い新橋驛構内に碑を建て永く先生を記念する。 昭和三十二年十月 安倍能成」D51機関車の動輪「D51機関車の動輪D51形機関車は1936年(昭和11年)に誕生した機関車です。10年間で1115両と、日本のSLでは一形式で最多の両数が製造され、戦前・戦後を通じて全国各地で、主に貨物用として活躍しました。「デゴイチ」などの愛称で親しまれ、蒸気機関車の代名詞にもなり、1975年(昭和50年)のSL最後の運転まで重用され、使命を全うしました。展示されている動輪は、1976年(昭和51年)の総武・横須賀線乗り入れ記念として、北海道の札幌鉄道管理局から譲り受け、鉄道発祥の地である新橋駅 に設置したものです。鉄道唱歌の碑1957年(昭和32年)10月4日の鉄道開通85周年記念日に鉄道唱歌 の作詞家、大和田建樹生誕100年を記念して新橋駅に建立されました。鉄道唱歌は、長い間私たちのために働いた鉄道を讃えるだけでなく、明治時代の文学者大和田建樹 自身が実際に汽車に乗ってつぶさに日本国内を旅行した見聞録です。」1938年に鉄道省鷹取工場での製造初号機のD51形211号機の写真をネットから。「新橋駅前」交差点を渡る。「日本テレビタワー」を見上げて。東京都港区東新橋1丁目6−1。前方上部に「ゆりかもめ」の姿が。東京臨海新交通臨海線(とうきょうりんかいしんこうつうりんかいせん)は、東京都港区の新橋駅から江東区の豊洲駅までを結ぶ、株式会社ゆりかもめが運営する自動案内軌条式旅客輸送システム(AGT)路線である。開通当初から愛称の「ゆりかもめ」もしくは「新交通ゆりかもめ」で呼ばれることが多く、また同じ東京臨海副都心地区を通る東京臨海高速鉄道りんかい線との紛らわしさもあり、正式な路線名は一般にはほとんど用いられていない とのこと。「汐留北」交差点を渡り右に進む。正面に見えたのが「電通本社ビル」。階数: 48 地上高: 213 m 、東京都港区東新橋1丁目8−1。現在地はここ。その先の「汐留」交差点を左折。歩道脇には白の芙蓉の花が。近づいて。ホテル「コンラッド東京」と「汐留メディアタワー」。「首都高速八重洲線」の下の「汐先橋」交差点を渡る。汐先橋(しおさきばし)交差点は環二通りにあり、新大橋通りの起点でもあり、海岸通りとも交わる交差点。近隣には電通本社、朝日新聞社東京本社、銀座郵便局、コンラッド東京ホテル、浜離宮恩賜庭園があり、観光客にもビジネスマンにも馴染みのある道であろう。高速道路の汐留入口もあるので、この辺の交通の要所の一つでもある。交差点の奥に「浜離宮恩賜庭園」の入口が現れた。「浜離宮恩賜庭園」入口に向かって横断歩道を渡る。横断歩道を渡り終えると「大手門橋」が見えた。浜離宮恩賜庭園の「大手門橋」は、恩賜庭園に入るための橋で、大手門の手前にあった。浜離宮恩賜庭園に入る橋としては、現在、「大手門橋」と「中の御門橋」の2ケ所があります。このうち「大手門橋」は、恩賜庭園を囲んでいる築地川に架けられている橋です。「大手門橋」は、石造りの橋で、長さが約150m程度で、幅が約20m程度もある大きな橋。1654年に、木造の橋として造られましたが、1923年(大正12年)の関東大震災により焼失、翌1924年に現在の石造りの橋が架けられた。「大手門橋」の北端は、都営地下鉄の汐留駅と築地市場駅の中間点付近で新大橋通りに面していて、南方向に進むと大手門に至るのだ。今回、浜離宮恩賜庭園に入る際、大手門橋を渡ったのだが、石造りの伝統を感じさせる橋で、荘厳な感じがした。江戸時代から浜御殿として、そして明治時代には、外国要人をもてなすための迎賓館として活用されていただけあると感じたのであった。海外からの客人や大切なお客様を案内して渡るには、最高の場所と思われるのであった。「特別名勝及び特別史跡 旧浜離宮庭園入口」碑。「大手門橋」を渡る。「特別名勝 特別史跡 旧浜離宮庭園」掲示板。「特別名勝 特別史跡 旧浜離宮庭園」案内。「沿革海水を引き入れた潮入の池と、ふたつの鴨場を伝え、江戸時代には、江戸城の「出城」としての機能を果たしていた徳川将軍家の庭園です。承応3承応3(1654)年、徳川将軍家の鷹狩場に、四代将軍家綱の弟で甲府宰相の松平綱重が、海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てました。その後、綱重の子、綱豊(家宣)が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、「浜御殿」と呼ばれるようになりました。以来、歴代将軍によって幾度かの造園と改修工事が行われ、十一代将軍家斉の時代にほぼ現在の姿の庭園が完成しました。明治維新ののちは皇室の離宮となり、名称を「浜離宮」と変えました。関東大震災や戦災によって、御茶屋など数々の建造物や樹木が損傷し、往時の面影はなくなりましたが、昭和20(1945)年11月3日、東京都に下賜され、整備ののちに昭和21(1946)年4月から「浜離宮恩賜庭園」として公開されました。その後、昭和27(1952)年11月22日に「旧浜離宮庭園」(文化財指定名称)として国の特別名勝及び特別史跡に指定されました。」左手、浜離宮恩賜庭園を囲んでいる築地川を見る。右手に「電通本社ビル」とその奥に「汐留タワー」を見る。左手の石垣。「大手橋」から築地川の東方向を見る。浜離宮恩賜庭園入口の大手門橋から庭園沿いに700mほどの区間が唯一、築地川として水面が見られる場所。その他のこの周辺の築地川は埋め立てられたり、河床が高速道路として使われているのだと。写真右に「中央清掃工場」の煙突が見えた。「大手門」掲示板。浜離宮恩賜庭園開園時間 午前9時~午後5時(入園は午後4時30分まで)休園日 12月29日~ 1月1日入園料 一般 300円(団体240円) ※団体は20名以上 65才以上 150円(団体120円)恩賜公園(おんしこうえん)は、宮内省が御料地として所有していた土地が、公に下賜(恩賜)され、整備された公園である。なお、同様に庭園が下賜された場合には、恩賜庭園と呼ばれると。「大手門」前の「枡形」を見る。「浜離宮恩賜庭園案内図」。近づいて。本園の文化財指定範囲及び指定面積等について以下に示す。 ・・・つづく・・・
2024.09.10
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さらにスターマイン4号玉を追う。花火のスターマイン4号玉は、夜空に一瞬で広がる美しさが特徴。発射されると、力強い音と共に勢いよく上昇し、空中でぱっと光の花が咲きます。色とりどりの光が夜空に織りなす模様は、まるで無数の宝石が舞い散るかの如し。4号玉は、直径約120メートルに広がる大きな花を咲かせ、その光の尾がしばらく残ることで、観客に余韻を与えるのであった。連続して打ち上げられるスターマインは、次々と色や形が変わるため、見ている人々を圧倒し、目を奪うほどの華やかさを演出。この美しさは、まさに夏の夜のクライマックスといえるのであった。巨大な花火が夜空に咲き誇り、その火の粉がゆっくりと地上へ舞い散る様子は、まるで星々が天から降り注いでくるかの如し。金や赤の輝きが放たれた瞬間、無数の光の粒が四方八方へと広がり、柔らかな風に乗って、ゆらゆらと揺れながら地面に向かってゆっくりと落ちて行くのであった。その火の粉は、瞬間的に燃え尽きることなく、まるで儚い夢のように一瞬の美しさを地上に刻み込むかのように輝きを放ちながら消えて行った。光の粒は次第に小さくなり、消えゆくまでに地上に届くと、まるで夜の静寂に溶け込んでいくかのように、静かに消えて行ったのであった。火の粉は地上付近まで白く輝きながら舞い降りる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.09.07
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「瑞心門」のプロジェクションマッピング・「光の絵巻」をさらにデジカメで追う。そして、十二分に堪能して、江島神社の参道・仲見世通りを戻り帰路につく。この江の島弁財天商店街が両側にある参道は、神奈川県道305号線・江の島道という名を持ち、国道134号江ノ島入口交差点より江の島島内に至る全長786メートルの道で、その大半が「江ノ島大橋」という自動車専用(軽車両通行止め、自転車は通行可)の橋梁となっているのだ。「服飾雑貨 man」の燈籠。「黄金汲取記念碑」。【碑文】 昭和四年五月廿四日己巳歳巳月己巳日巳刻執行 江之嶋岩屋前海中に於て推古天皇以来我國最初行事也 隠遁術三十六法之内浪切法玄武之法則子孫永久末代開運基 神仙金龍一生一代之法術六十一年目黄金の潮汲黄金水汲取記念碑 江の嶋乃こかねの水や皐月晴昭和六年五月建設 東京市赤坂區青山/神理教 明徳教會 隠遁術三十六法極意神仙鈴木金龍【現代語訳】 昭和4年(1929年)5月24日午前10時執行。 江の島岩屋前の海中で、(これは)推古天皇以来、我が国最初の行事である。 隠遁術三十六法の内、浪切法と玄武之法は、すなわち子孫が末代まで永久に運が開ける 基盤となるものである。 神仙・(鈴木)金龍が一世一代の秘術を駆使して、61年目に黄金の海水を汲んだ と。商店街のシャッターが既に下ろされている店も。「葛飾北斎 富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」。「葛飾北斎 富嶽三十六景 相州江の島」。さらに仲見世通りを下る。「江島神社 青銅鳥居」を潜る。再び「江の島天然温泉」前に。入口先のエレベーターホールの色彩豊かなランタン。見上げて。エレベーターホールの壁に描かれた花も見事。そして「青銅鳥居」の先の店・「活魚 貝料理 貝作」もそろそろ今日は店仕舞いか?「江の島弁天橋」端の休憩広場横を通過。「江の島弁天橋」を渡り小田急線・片瀬江ノ島駅に向かって進む。そして小田急線・片瀬江ノ島駅に到着。時間は20:40過ぎ。藤沢駅で乗り換え、21:20過ぎに帰宅したのであった。帰宅して「ChatGPT」に下記を訪ねてみました。●江の島で開催されている「光の絵巻」について、丁寧にコメントしてください。◎ChatGPT 江の島で開催されている「光の絵巻」についてご紹介しますね。「光の絵巻」は、神奈川県の江の島で毎年行われるイルミネーションイベントで、特に 冬の時期に人気があります。江の島の美しい風景を背景に、光のアートが展開される このイベントは、訪れる人々に幻想的な体験を提供しています。 イベントの特徴としては、まず第一にその規模の大きさが挙げられます。江の島全体が 華やかに彩られ、光のトンネルやイルミネーションのアートが島の各所で楽しめます。 特に「江の島シーキャンドル」周辺や「江の島エスカー」沿いに設置された光の装飾は 見応えがあります。 また、「光の絵巻」の魅力の一つは、そのテーマ性です。毎年異なるテーマが設定され、 それに基づいて光のデザインや演出が考えられます。そのため、毎回訪れるたびに新しい 発見があり、飽きることがありません。 さらに、江の島ならではのロケーションも大きな魅力です。海と夜空に映える イルミネーションは、日常の喧騒を忘れさせてくれる静寂な美しさを持っています。 特に寒い季節の夜に、光に包まれた島を散策するのは非常にロマンティックです。 もし「光の絵巻」に訪れる機会があれば、ぜひ暖かくして、ゆっくりと島を歩きながら その美しい光の世界に浸ってみてください。特にカメラを持っている方は、この幻想的な風 景を写真に収めるのもお勧めです。●今年、2024年の特徴を説明してください◎ChatGPT 2024年の「光の絵巻」についての特徴を説明しますね。毎年、江の島で開催される 「光の絵巻」には、その年ごとのテーマや特色があり、2024年も例外ではありません。 2024年「光の絵巻」の特徴 テーマとコンセプト: 2024年の「光の絵巻」は「星降る島の奇跡」と題され、星空をテーマにした光のアートが 展開されます。夜空に輝く星々を模したイルミネーションや、星座をイメージした光の演出が 施され、訪れる人々に夢のような体験を提供します。 新しいイルミネーションエリア: 今年は新たに「星空の小径」と呼ばれるエリアが追加され、星のように輝く装飾が道を 彩ります。歩いているとまるで星の中を散策しているかのような幻想的な雰囲気が楽しめます。 インタラクティブな要素: 2024年の「光の絵巻」では、来場者が参加できるインタラクティブな要素が増えています。 例えば、スマートフォンを使った光のスキャンや、来場者の動きに反応するイルミネーションが 導入され、より一層楽しさが増しています。 夜空を映したプロジェクションマッピング: 江の島シーキャンドルやその他の主要なスポットでは、夜空をテーマにしたプロジェクション マッピングが行われます。実際の星空と相まって、さらに美しい光景が広がります。 グルメとショッピングのエリア: イルミネーションだけでなく、江の島の地域特産品やグルメも楽しめるエリアが充実しています。 地元の食材を使用したフードトラックや、特製のスイーツ、オリジナルグッズなどが並びます。持続可能性への配慮: 環境への配慮も大切にされており、LED照明の使用や再利用可能な資材の採用など、持続可能な イベント運営が実施されています。 このように、2024年の「光の絵巻」は、星空をテーマにした新しい演出やインタラクティブな 体験が加わり、より一層幻想的で楽しさ溢れるイベントとなっています。ぜひ、江の島を 訪れて、その美しい光の世界を体験してみてください と。こんな記事もありました。ChatGPTは、チャット形式で人工知能が文章を自動生成してくれるサービスです。現在、ChatGPTを使ってブログ記事を作成する試みが行われています。しかし現時点では、企業がChatGPTでオウンドメディアのブログ記事を完全に自動で作成するのは、SEOの観点と情報の正確性に懸念があるため、避けた方がいいでしょう。ただ、ブログ記事作成の一部をChatGPTに手伝ってもらうことは可能です。正しい活用方法を身に着ければ、ブログ記事の品質を向上させ、執筆時間を短縮することができるため、活用しない手はありません と。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.09.03
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石段を下り「杉山和一総検校之像」横から「瑞心門」を見下ろす。「杉山検校和一 福石」を見る。ライトアップされ、周囲の木々が、桜が咲いているが如くに。「瑞心門」を潜り石段を降りるとあった朱の燈籠も青く染まって。近づいて。そして「瑞心門」を振り返る。そして朱の鳥居を潜り石段の下まで下りて、振り返ってこの日の最大の目的の「瑞心門」のプロジェクションマッピング・「光の絵巻」👈️リンクを楽しんだのであった。江の島誕生の伝承「江島縁起」を軸にした物語を光と音で演出していたのであった。瑞心門でのプロジェクションマッピングは、江ノ島の魅力をさらに引き立てる素晴らしい体験であった。その美しさは、次の如きポイントが。歴史と現代技術の見事な融合瑞心門は、江ノ島の歴史と文化を象徴する重要な建造物。この門にプロジェクションマッピングが施されることで、過去と現在が繋がり、古い歴史が現代的な映像技術によって新たな命を吹き込まれていた。石造りの門に映し出される映像が、門の持つ荘厳さと共鳴し、一層の神秘的な雰囲気を作り出していたのであった。門の構造美を際立たせる映像表現瑞心門の独特な建築構造が、プロジェクションマッピングのキャンバスとして完璧に活かされていた。門の柱やアーチ、石の模様が映像によって強調され、先ほどの往路・昼間では見えない細かなディテールが浮かび上がっていた。これにより、門そのものがまるで生きているかのような感覚を覚えるであった。自然と調和した幻想的な演出瑞心門は自然に囲まれた場所に位置しており、プロジェクションマッピングはその環境と調和するようにデザインされていた。例えば、門の上を流れる水や、風に揺れる木々の映像が映し出されると、まるで門が自然の一部となって呼吸しているかのような錯覚を覚えるのであった。このような演出は、訪れる者に深い感動を与え、心に刻まれる体験となることまちがいなし。音楽とのシンクロが生む感動プロジェクションマッピングは視覚だけでなく、音楽とのシンクロによってもその美しさが際立つのだ。瑞心門でのプロジェクションマッピングでは、映像と音楽が一体となって、壮大なドラマが展開された。音楽が高まるとともに映像が変化し、門全体が輝きを増す瞬間は、思わず息を呑むほどの迫力があった。四季折々のテーマ瑞心門でのプロジェクションマッピングは、変化する季節ごとにテーマが変わり、その美しさが常に新鮮。春のシーンでは桜が舞い散り、夏には鮮やかな海と空が広がり、秋には紅葉が門を彩り、冬には雪が降り積もる幻想的なシーンが描かれるのであった。この変化する美しさは、何度訪れても飽きることがないことまちがいなし。瑞心門でのプロジェクションマッピングは、ただの映像投影ではなく、江ノ島の歴史、自然、建築美を総合的に体感できるアート作品であった。訪れる人々に深い感動を与える、この特別な体験は、江ノ島観光のハイライトとして一度は見ておくべきものであると強く感じたのであった。以下、暫しキャプション無しで楽しんでください。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.09.02
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そして再び、風に揺れる紫の羽衣を。廻り込んで。そして「保寧広場(春澤園)」へ。中国の昆明市から寄贈されたものであると。昆明市は、中華人民共和国雲南省の都市。1981年に藤沢市と友好都市提携を結んだと。四阿(あずまや)騁碧亭(ていへきてい)の手前にあったのが孔雀のブロンズ像・「吉祥永駐」。2002年に同市から贈られた像。三羽の孔雀の家族の姿。「昆明市 中華人民共和国👈️リンク友好都市提携年月日 1981年11月5日(友好都市提携調印の日)提携の動機と経過この都市提携の仲立ちとなったのは、中国国歌となった「義第軍行進曲」の作曲者で、中国現代音楽の先駆者といわれている轟耳(ニエ・アル)です。轟耳は1912昆明市に生まれ、来日した1935年、市内鵠沼海岸で遊泳中帰らぬ人となりました。異国の地で短い生涯を終えた青年の死をいたんだ多くの市民により、1954年11月に記念碑が建てられ(後に台風により流出)、その後1965年に現在の記念碑が建てられました。こうした市民の好意は中国人民を大変感動させたといわれています。それ以降、両市の友好訪問時の相互訪問により親善が深められ、1981年8月昆明市長から友好都市提携をしたい旨の文書が寄せられ、9月の定例市議会において都市提携の議決がなされ、1981年11月5日、友好都市締結の調印式が行われました。昆明市の概要中国西南地区南部に位置し、市域面積は21,111平方キロメートル。ベトナム、ラオス、ミャンマーの各国と国境を接する雲南省の省都で、政治、経済、文化、交流の中心都市です。漢族のほかイ族、白族等25の少数民族が住んでいます。東、西、北の三方が山で囲まれ、南は広い池(昆明湖、約300平方キロメートル、琵琶湖のおよそ半分)に面した海抜約1,900メートルの高原にあり、平均気温14.5℃と温暖なため、古くから「春城」の別名があります。」「「春澤園」 「春」は春城とも言われる昆明市、「澤」は藤沢市、両市の友情は春の風のように両市市民の 心を潤すという意味。孔雀の彫像「吉祥永駐」 雲南省においては、雲南省においては、孔雀は吉祥のシンボルであり「吉祥永駐」は三羽の 孔雀の一家族が、この世に暖かく、ハーモニーに溢れた雰囲気を作り出し、見る人々に愛情や 幸福に対する追求を引き起こさせ、21世紀が人々にとって平和な発展の世紀であるよう 本作品を通し美しい祈願を込めて凛々たる表現をされたものである。「四阿」「騁碧亭 ていへきてい (緑の中に佇むあずまや)」風過小亭疎竹影 (風がこの四阿をさっと通り過ぎ、竹の影がまばらにうつる)雲浮湖水逸琴声 (雲が潮の上に浮いて、まるで天上から心地よい琴の音を聴いたようだ)晴嵐(せいらん) (晴れた日の山かすみ)白昼浮嵐濃日淡 (昼間の遠いところの山のかすみは、暖かい日光に照らせれてある時は濃く、ある時は淡く)髙秋畳翠雨還晴 (天高い秋に、雨が過ぎてからりと晴れ、樹は重なったように茂る)「騁碧亭(ていへきてい)」。「騁碧亭(ていへきてい)」。ズームして。周囲の柱には漢詩が。風過小亭疎竹影風がこの四阿をさっと通り過ぎ、竹の影がまばらにうつる雲浮湖水逸琴聲雲が潮の上に浮いて、まるで天上から心地よい琴の音を聴いたようだいつの間にか、「江の島シーキャンドル」は緑に変身。時間は20:03。オレンジ色の「江島弁財天」。青色の「江島弁財天」。緑色の「五頭龍大神」そして「夜灯の夢庭」を十二分に楽しんで苑を後にする。時間は20:05。出口近くにあった案内板。「御岩屋道」を下る。「江の島」案内図。左奥に「中津宮」の姿が。「常夜灯」(右)。「常夜灯」(左)。「中津宮」に向かって参道を進む。参道の両側に江島神社の神紋・「波に三つ鱗紋」の燈籠が並ぶ。人も少なく静かな空間になっていた。右手の建物が「江の島エスカー出口」。「是よ利さ記 御岩屋道」碑。奥にあった「表忠碑」。日露戦争で亡くなった陸軍工兵井上春吉君の表忠碑。明治44年2月に在郷軍人会によって江の島神社の中津宮境内に建立された。揮毫は乃木大将。碑高248㎝、幅130㎝、厚さ25㎝、台石65㎝。(刻字):碑正面:「表忠碑 希典書」碑裏面:「明治三十七八年戰役中死没セル陸軍工兵二等卒井上春吉君ノ爲ニ乃木陸軍大将閣下ノ揮毫ヲ請ヒ此碑ヲ建ツ明治四十四年二月江之島在郷軍人一同」と。「中津宮」近くまで進む」。「中津宮市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)をお祀りしています。創建は文徳天皇仁寿3年(853年)。その後、元禄2年(1689年)に改築され、朱色が鮮明な現在の御社殿は、平成8年の全面的な改修により、元禄2年改築当時の中津宮(権現造り)を再現したものです。幣殿・拝殿の天井には花鳥画や、彫刻が施され、境内に奉納された石燈籠等は、江戸時代における商人・芸人。庶民の信仰の深さを物語っています。美しい恋したい。「美しい弁財天さまにあやかり、綺麗になりたい!」と願う女の子たちの象徴として、弁財天様の羽衣をイメージした中津宮独自のマークです。三姉妹の女神様の中津宮の市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)が「もっと綺麗に、もっと美しく恋をしたい。」女神である女性達に贈る願いが込められております」ライトアップされた「中津宮」を正面から。江の島の中腹にたたずむ朱塗古社。仁寿3年(853)に慈覚大師によって創建されたといわれています。現在の権現造の社殿は元禄2年(1689)に再建されたもので、平成8年(1996)には大改修が行われ、朱塗りがいっそう鮮やかになりました。境内には江戸時代に活躍した芸人や商人が奉納した石灯籠が並び、当時における江の島詣の盛況ぶりがうかがえます。「中津宮」前の朱の木製燈籠と石灯籠のコラボ。「中津宮」前の石段を下る。「展望台ウッドデッキ」より「江の島ヨットハーバー」そして鎌倉方面を望む。自販機で水分補強する人達。さらに「辺津宮」に向かって燈籠が並ぶ参道を進む。帰路も「辺津宮」の東側の鳥居から境内に進む。正面に朱の色の「江島神社奉安殿」が見えて来た。左手に「稲荷社」。「江島神社奉安殿」の燈籠。近づいて。「銭洗白龍王」を再び。八角形の「江島神社奉安殿」。そして、「辺津宮」の「光の絵巻」を暫し楽しんだのであった。天女と五頭龍の恋が成就する「江島縁起」のエピソードや、二つの根がついた銀杏「むすびの樹」と恋愛が成就すると言われる「むすび絵馬」。天女をお祀りしている辺津宮を舞台に恋愛成就を願った演出を展開したのであった。カメラ設定を変えて。そして「辺津宮」を後にして石段を下る。石段の路面にも星が煌めく。さらに「瑞心門」に向かって進む。そして石段の下に「瑞心門」が姿を現した。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.09.01
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キノコを逆さにしたような燈籠が並ぶ。ズームして。「江島弁財天」。「五頭龍大神」と。椰子の木を見上げて。球形の竹籠の如き燈籠に近づいて。遊歩道を東に進む。「海山プラザ(UMIYAMA PLAZA)」に向かって進む。そして、再び「江の島シーキャンドル」に向かって、中央の遊歩道を進む。さらに進む。そして引き返して影絵広場横に戻る。カップルが仲良くハートを二人で。そして「LON CAFE」前の広場へ。2003年に日本初のフレンチトースト専門店としてオープンしたと。店内では食事を楽しむ方々の姿が。以下2枚の写真は以前にこの場所を訪ねた時の写真。そしてこちらはこの日の私の写真であるが残念ながらピンボケ。しかし、以前のニュースでは「江ノ島大橋の門を閉門します!」と。夜間における江の島島内の騒音対策のため、江ノ島大橋の通行止め時間帯である夜間、大橋入口に設置されている門扉を閉門します。閉門時間帯は、江の島入口交差点方向から江の島島内へは車両(路線バス、タクシー、特定小型原動機付自転車及び普通自転車を除く。)を利用して入ることはできませんので注意してください。ご理解ご協力をお願いします。門扉閉門開始日 令和6年7月13日(土曜日)から門扉閉門時間 午後10時から午前5時までこの時の時間は19:55であり、閉鎖まで2時間以上あったが、既に江ノ島大橋のナトリューム照明は消えていたのであった。そして撮影スポット・MAIAMI BEACHI AREAへ(以前の写真)。正面から。遠く横浜方面の高層建築物の姿を、カメラの設定を変えて最大ズームして。山の上に見えたのは「横浜ランドマークタワー」の頂部であっただろうか?「◯」!!この写真の頂部が見えていたのであろうか?(写真はネットから) ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.31
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時間は19:00を過ぎ、ようやく「江の島シーキャンドル」が青く点灯された。御岩屋道を「奥津宮」に向かって石段を下る。再び「江の島シーキャンドル」を振り返って。「御岩屋道 奥津宮⇇」碑。「木食上人行場窟」碑。「山ふたつの谷底に、木食上人行場窟と呼ばれる洞窟があります。そのほぼ中央に高さ約1m、幅約80mに扁平石を組み合わせて石廊を築き、その上に石造阿弥陀如来立像が設置されていました。木食とは、五穀(米・麦・アワ・キビ・豆)を絶ち、木の実で生活することです。この修行を木食行といい、木食行をする人たちを木食上人と言いました。」上記案内板には「木食上人行場窟」の写真もあったが、かなり劣化していたので、昔、訪ねた時の写真を。「御岩屋道」を下って行くと、だんだんと「江の島シーキャンドル」の姿の全体像が見えて来た。「磯料理 江之島亭」の手前の石段を上る。燈籠。さらに「奥津宮」に向かって進む。「奥津宮」のライトアップが見えて来た。「奥津宮」の石鳥居も姿を現した。「「東海江島辯財天祠石鳥居記」碑。「東海江島辯財天祠石鳥居記文政6年(1823)に笠木が折れた伝源頼朝寄進の石鳥居を文政十年(1827年)に修理した時の記念碑です。碑文には文政年間に台風の被害で近くの松の大木が倒れ鳥居を壊してしまい、その修理に関する事が記されています。この時の修理に浄財を寄進した浅草、上野、神田、湯島の人々の名前も記されています。」正面に石鳥居。「手水舎」。この「手水舎」及び手水鉢は、東京南千手の材木問屋・熊野屋安兵衛の奉納。手前の柱2本の礎石には「耳のある亀」の彫刻が彫られていた。「石鳥居」。扁額「奥津宮」。奥津宮は、本宮御旅所と称され、夏期の避暑地だったのだと。祭神は多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)。「江島神社 奥津宮」碑。江の島島内三ヶ所のお宮(辺津宮・中津宮・奥津宮)を総称して江島神社といいます。江島神社は、福岡県の宗像神社と同じく、多紀理比賣命(たきりひめのみこと)、市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)、田寸津比賣命(たきつひめのみこと)の三柱の女神を祀ってます。奥津宮は三女神のうち多紀理比賣命をお祀りしています。昔は「本宮御旅所」と称されていました。この由来は、岩屋本宮に安置してある仏像を、岩屋本宮に安置してある仏像を、岩屋付近の荒い波から避けるため毎年四月中旬から十月中旬までここに遷座したことによります。天保十二年(1841)に焼失し、翌十三年に再建されたものが現在の社殿です。当社の弁財天は日本三大弁財天の一つで、七福神の弁財天として、また芸能を司る妙音天女としても崇敬され江戸時代は庶民、歌舞伎役者、武士と幅広い階層から信仰を集め、大変賑わいました。」力石は、江戸時代に日本一の力持ちといわれた岩槻藩の卯之助が奉納した石。 80貫(320キロ)とのこと。弁財天の祭礼で力競技を行ったときのもの。 「亀石(亀甲石)」。「亀石(亀甲石)」碑。「亀石(亀甲石)古い標文に『倉四名石の一つで、またの名を「蔵六石」という。」とあります。「武江年表」に文化3年(1806年)弁秀堂という人が弁財天を信拳して、金光明最勝王経を写経しここへ納め、上に置く石を探したところ、亀の形をした石を発見したのて江の島に奉納したと書かれています。大いちょうの木の下に置かれています。」「奥津宮奥津宮には三女神の一柱である多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)をお祀りしています。奥津宮は当初は壮麗を極めていましたカが、1841年に消失、現在の社殿は1842年に再建されたものです。岩屋(龍神伝説発症の地)に一番近い奥津宮は明治時代まで本宮御旅所と称されました。これは.岩屋の本宮に海水が入ってしまう四月から十月の間は御神体を陸上に遷座する必要があった為、この期間の社殿として造営されたことによります。」「奥津宮」を正面から。移動して。「奥津宮多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)をお祀りしています。多紀理比賣命は、三人姉妹の一番上の姉神で、安らかに海を守る神様といわれてます。相模湾を臨む岩屋に一番近い奥津宮は、昔は、本宮または御旅所(おたびしょ)と称され、社殿は壮麗を極めていましたが、天保十二年(一八四一)に消失。翌十三年に再建されたのが現在の御社殿(入母屋造り)です。更に平成二十三年(ニ〇一一年)に御社殿を修復いたしました。養和ニ年(一一八ニ年)に、源頼朝により奉納された石鳥居や、江戸の絵師・酒井抱一が拝殿天上に描いた、どこからみてもこちらを睨んでいるように見える「八方睨みの亀」は有名です。」「宏達」碑。題額の「宏達」は、「宏大で事理に通ずる」という意味だそうです。「源通久題」とありますので、おそらく晩年の久我通久侯の書と思われます (久我家は村上源氏の流れを汲む清華家の家柄です)。また碑文の撰者は「文学博士幸田成行」とありますが、「成行」は「幸田露伴」の本名です。露伴は京都大学の教壇に立ったことがあり文学博士号を授与されています。書は、日本独自のかな書道の大家「小野鵞堂」です。調べてみますと、思った以上の豪華メンバーであった。「山田検校座像」。こちらは、箏曲「江の島曲」で知られる山田流琴曲の開祖・山田検校の銅像です。初代の銅像は大正6年(1917年)の百回忌に幸田露伴らによって建てられましたが、第二次大戦で供出されてしまいました。今あるものは、平成16年(2004年)に、元の鋳型を利用して再鋳したものです。「山田流箏曲流祖 山田検校像」。「山田検校斗養一坐像大正6年(1917)建立、平成16年(2004)再建。江戸箏曲の始祖とも言うべき山田検校の等身大の坐像です。山田検校の作曲した「江の島曲」は有名です。坐像の横の石碑は明治の文豪幸田露伴による撰文が刻され山田検校の芸術家としての功績を称えています。」斜めから。賽銭箱前から。奥津宮拝殿天井の「八方睨みの亀」は、1803年(享和3年)、酒井抱一によって描かれた「正面向亀図」。どこから見てもこちらを睨んでいるように見えることから「八方睨みの亀」と呼ばれるようになった。現在掲げられているものは、1994年(平成6年)に描かれた模写で、原画は江島神社宝殿に納められているとのこと。 「天上画 八方睨みの亀1803年に江戸時代の絵師である酒井抱ーによって描かれ、1971年には籘沢市の指定文化財となりました。八方とは「あらゆる方向」という意味で、どこから見ても描かれた亀がこちらを睨んでいるように見えることから「八方呪みの亀」と呼ばれています。酒井抱ーによって描かれた実物の絵は海風による損傷から守るために江島神社の社務所に保管されており、現在掲げられているものは、1994年に日本画家の片岡華陽画伯によって描かれた復元画です。」「奥津宮」の「本殿」を見る。扁額「奥津宮」。奥津宮の石灯籠。「江島神社 龍宮(わだつみのみや)」に向かって進む。燈籠。江島神社の社紋・「向い波の中の三つの鱗」。「江島神社 龍宮」扁額「龍宮」。狛犬(右)。狛犬(左)。「龍宮上の龍神」。近づいて。龍宮の入口の上部には、口に龍珠をくわえている龍大神がおかれていた。「龍宮(わだつのみや) 御祭神 龍神江の島は湧出以来龍のすむ所と言われ、古来より龍神は弁財天信仰と習合し、密接な結びつきから江島縁起を始め多くの伝説が残っている。「太平記」には時の執権、北条時政が江の島に参籠して子孫の繁栄を祈った時に、龍(大蛇)が現れ、三つの鱗を落とせり、時政祈願成就とよろこび、その三鱗を授かり家紋となす。或るは北条貞時が霊夢を見、龍池に赴くと金銅の龍頭を見たと、或るは「足利治乱記」には海に夜毎光ありて白龍長さ廿丈許(約六〇米)なるが海中から出て、絵島石穴に飛入るを諸人多見之と、謡曲「江ノ島」には天女が龍神と姿を現じて、七難即滅七福即生悪事災難を払ひて諸願成就を宣う御声も新たに聞こえとある。伝説は多く残されており、この神秘なる趣意を鑑み、平成六年九月吉日に当社発祥地たる岩屋洞窟の真上に御鎮座となった。龍神詠歌天地の開けし御代は 平成の天の戸明けゆく 東天紅蒼海(あさみかげうみ)漫々と立ち渡り舞う老の波 今ぞ時なる重陽に龍神の吟ずる声ありて 波浪を蹴たてて 逆巻く潮の迫るとともに 龍神海上翔け昇り 五色の彩雲普々に その雲上に顕ずなり 願事叶ふ如意宝珠三光を発し 島上の龍宮に天降り給ひぬ 衆生済度の方便 生死の相助けんと…御神慮幽くにありて噫 かたじけなきかな」「龍宮(わだつみのみや)」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.28
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「辺津宮」への東側鳥居から中津宮に向かって進む。「御岩屋道」を「中津宮」に向かう。【江の島】内に 2つの商店街《弁財天仲見世通り》《御岩屋道通り》があり、こちらは《弁財天仲見世通り》と比較し レトロ感タップリの店舗が何軒かあります、但し《弁財天仲見世通り》はフラットな道ですが こちらは 石段を上がったり下がったりする必要があります(山二つと江の島岩屋の高低差は 約44m)。しかしながら 《江の島》の名物《女夫(めおと)饅頭》の店舗を比較した場合 《弁財天仲見世通り》での【井上総本家】や【紀の国屋本店】に対し こちらの【中村屋羊羹店 明治35年(1902)】創業 添付 写真参照】は 雰囲気タップリであり 又【魚見亭】【富士見亭】のように 眺望の良い飲食店もあり お薦めします とネットから。右手にあった「中津宮広場」を歩く。「季節のフローティングフラワー」近づいて。展望台広場に向かって進む。「展望台広場ウッドデッキ」からの「江の島ヨットハーバー」を見下ろす。「湘南港灯台」方向をズームして。右手の白い建物が「江の島ヨットハーバー管理事務所」、その左手が「湘南港」。「聖天島公園」内にある「聖天神社」も見えた。そして正面に江島神社・「中津宮」が現れた。平成11年に江の島歌舞伎が行われた時の5代尾上菊五郎、7代菊之助の記念手形。「しだれ梅」。「平成十一年(一九九九年)七代目尾上菊五郎、五代目尾上菊之助出演の「江の島大歌舞伎」が盛大に開催されました。当地ゆかりの「弁天娘女男白波」を演目とし、菊之助が演じた弁天小僧は大いに観衆をわかせました。開演に先立ちお練りで弁財天に詣でた際、菊之助御自身の手植えにより献樹された「しだれ梅」であります。」ご祭神は市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)。中津宮は、もとの上之宮で、文徳天皇仁壽三年(853年)に慈覚大師が創建。元禄二年(1689年)に、五代将軍・徳川綱吉により、本殿・幣殿・拝殿からなる権現造りの社殿が再建されました。現在の社殿は、平成八年(1996年)の全面的な改修によるもので、元禄二年当時の朱色が鮮明な社殿を再現しています。平成二十三年(2011年)には幣殿、拝殿の床板を張り替え、御札授与所も再建され、社殿脇には水琴窟を構えた庭園が開園しました(開園時間は午前9時~午後4時/無料)。また、境内に奉納された石燈籠からは、江戸時代における商人・芸人・庶民の信仰の深さをうかがい知ることができます と。見事な彫刻をズームして。「中津宮」を後にして、「エスカー3区乗場」方向に進む。正面に「江の島サムエル・コッキング苑」が現れた。夕焼けを背景に「江の島シーキャンドル」の展望台を見る。「江の島サムエル・コッキング苑」チケット売り場。再び展望台をズームして。「江の島燈籠 2024特別企画 夜灯りの夢庭開催期間 7 / 20 (土)→8 / 31 (土)会場 江の島サムエル・コッキンク苑」「亀ヶ岡広場」を訪ねた。「亀ヶ岡広場」は江の島の頂上付近まで楽々登れるエスカーの終点近くにある広場。眺めがよく、海や江の島展望台シーキャンドルの姿を見ることが出来たのであった。広場には売店やベンチがあり、江の島観光の一休みに利用する方も多い場所。毎年イルミネーションの時期には美しい光に彩られ、幻想的な広場に変身する。お隣のサムエルコッキング苑は有料だが、亀ヶ岡広場は無料でイルミネーションを堪能することが出来るのであった。「亀ヶ岡広場」からの「江の島シーキャンドル」は未だ点灯せず。時間は18:58。「江の島展望台」近く、南の海方向への燈籠。近づいて。緑にライトアップされて。後2分で点灯か?「江の島サムエル・コッキンク苑」の園内を訪ねるのは帰路にと、さらに御岩屋道を奥津宮に向かって進む。「海花亭」の燈籠も暗くなり色鮮やかに。時間は19:00。その先にあったのが「江の島大師」。江の島大師は、島から仏教寺院がなくなって百数十年を経た1993年(平成5年)、1964年(昭和39年)に廃業した旅館「江の島館」跡地に、最福寺 (鹿児島市)の関東別院として創建された単立寺院である と。「高野山真言宗 最福寺別院」と。しかし、既に門は閉ざされていたが、内部の境内には「真っ赤な大きな仁王像」の姿が。色あざやかな阿吽の仁王像が入口両側に。 仁王像(右)。仁王像(左)。その先にあったのが「福島漁村の句碑」。「福島漁村の句碑」案内碑。 「昔、この場所には江の島館という旅館があり、福島漁村はその旅館の主人でした。漁村は、間宮霞軒(中津宮境内に句碑あり)と同じく、恵比寿楼の永野泉山の門下で俳諧・歌学を学び、特に優れた弟子でした。句碑は、漁村の三回忌である昭和31年(1956年)につくられたものです。旅館はその後、火災により焼失しました。貝がらも 桜の名あり 島の春」さらに奥津宮に向かって進む。「貝広物産店」世界の貝2000種を展示即売。インテリアやお土産、また貝のコレクターに人気の店 と。「民宿 海上亭」。玄関前には、竹で編んだ球状のカゴの如き燈籠。さらに石段を下る。江の島をちょうど二分する境となって いることから、俗に「山ふたつ」といわれている場所。ガイドによると、断層に沿って侵食された海食胴が崩落したことで「山ふたつ」が出来たともいわれていると。「山ふたつ江の島は上空から見るとひょうたんのようにくびれた形をしており、ここは江の島をニ分するくびれ部分にあたることから俗に「山ふたっ」と呼ばれています。波によって削られてできた洞窟の天井部分が崩れ落らたことにより、現在のようなくびれた形になったといわれています。山ふたつの谷底には遊行僧が修行したと伝わる窟がありますが、現在は危険なため立ら入りが禁止されています。」「江の島の関東ローム層と「江の島縁起」この場所で観察できる赤主は関東ローム層中の武蔵野口一ム層と呼はれる地層です。これは、第四紀後期更新世(約12.6~1.17万年前)に活発な火山活動をしていた箱根山、富士山などの火山から降り注いた火山灰や火山砕屑物が江の島の基盤をつくる葉山層と呼ばれる固い岩石の上に堆積してできたもので、関東一円に広がっています。長い年月の間に火山灰にまれる鉱物の鉄分が酸化した鉄さびが赤土の色を作っています。赤土の中に、やや粒が荒く、白っぽい帯のような地層が何本か確認できます。これは軽石層(パミス)と呼ばれ、主に箱根火山の大噴火の時に短時間で大量に降り積もった火山砕屑物です。ここでは、下層から三涌軽石層(MP)、東京軽石層(TP)、箱根三色旗軽石層(SP)の3つの軽石層を見ることができます。箱根火山由来のローム層の中で、江の島で観察できるのは約8万年前のものからですので、島が陸化したのもその時代ではないかと推察されます。有名な「江ノ島縁起」は平安時代中期に書かれた五頭竜と弁天様が登場する江の島誕生の物語です。その中に「欽明天皇13年(西暦552年) 4月13日真っ黒い雲が天空を覆い、深い霧が立ち込め、大地震が10日も続いた後、霧の上から弁天様が従えた四天王や風神雷神が空から石を降らせ、海からは真っ赤な火柱とともに岩が噴き出して江の島は誕生した」との記述があります。平安中期には、大地震による島の隆起や富士山の噴火で火山灰や軽石が降ってきた記録もあり、このような自然現象が人々の暮らしや信仰と結びついて、「江ノ島縁起」誕生となったのかもしれません。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.27
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「赤富士ワインセラー」の見学を終えて、バスに向かう。「赤富士ワインセラー」の前にあったのが「ハーブ庭園 旅日記 富士河口湖庭園」。そしてこの日の全てのスケジュールを終了し帰路に。「富士河口湖富士線」の「東恋路」交差点を通過。富士山の姿は・・・・。「富士五湖道路」の「富士吉田料金所」を通過。「富士吉田忍野スマートI.C」を通過。「須走I.C」を通過。「道の駅 すばしり」が左手に見えた場所を通過。右手に「富士ざくらホテル」が見えた。「御殿場バイパス」の「富士見高架橋」を走る。橋の下には御殿場線の線路が。天気が良ければ、この橋の上からは(Googleマップから)。そして「御殿場I.C」から「東名高速道路」へ入る。「乙女峠」方向の山々を見る。「金時山」が姿を現した。右手に現れたのが「御殿場プレミアム・アウトレット」。御殿場プレミアム・アウトレット敷地内の温泉リゾートホテル『HOTEL CLAD(ホテル クラッド)』が確認できた。そして「足柄S.A上り線」・「EXPASA足柄」でトイレ休憩。「EXPASA」という名称は、「外へ」・「超越」という意味を持つ、「EXCEED」・「EXCELSIOR」の「EX」とパーキングエリアの略称「PA」、サービスエリアの略称「SA」を組み合わせて作られた造語であると。土産物屋を散策。「日本はちみつ」。「Doctor Heli」の姿が。東名高速道路上りで唯一のホテル・「レストイン時之栖(ときのすみか)」のあるサービスエリア。主な設備の下りは静岡県駿東郡小山町、この上りは御殿場市にあり、東名高速では、海老名に次ぐ広さを誇るサービスエリア。 ショッピングコーナーやフードコートは24時間営業で終日にぎやか。富士五湖、伊豆や箱根などの特産品が盛りだくさんなほか、地元の生鮮野菜も。施設内に「泊まれる」のも大きな特徴で入浴のみの利用も可能 とのこと。「酒匂川」に架かる「東名酒匂川橋」を渡る。橋脚の高さは建設当時は日本一の65mで、直径は7mもある鉄筋コンクリート製。上部構造は曲線連続鋼トラス橋で、橋長750mの長大橋。上下線が分離されている。竣工は昭和44年。日本一の高橋脚であるために、完成後に橋脚上にロケットを取り付けて振動実験が行われ、地震に対する安全性が確認された と。「皆瀬川」に架かる「東名皆瀬川橋」を渡る。足柄上郡山北町山北の街並みが下に見えた。そして綾瀬スマートICで東名高速道路を降りる。東名高速道路「綾瀬スマートIC」に隣接した「MFLP東名綾瀬」。MFLP:Mitsui Fudousan Logistics Park。三井不動産とIHIが共同開発した「MFLP東名綾瀬」近郊・首都圏への配送はもとより西日本への配送にも対応可能なマルチテナント型物流施設。施設外壁のデザインは、オーストラリアのJackson Teece社による建物デザインを採用した。南東面は綾瀬市の木に選定されている紅葉をモチーフとし、北西面は青空と一体感を醸成することで、綾瀬市を象徴するデザインを目指したとのこと。西側共用部には富士山を一望できる開放的なラウンジ空間を創出した と。そしてほぼ定刻に地元に到着し、この日の全ての行程を完了したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.08.15
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再び五合目ロータリー広場まで戻り、「小御嶽神社」入口の左にあった「富士山みはらし」。「五合園レストハウス」を見上げる。「五号園レストハウス」は1階が土産売り場で2階がレストランになっていた。銅像「富士讃歌」。「ふじの山あたまを雲の 上に出し 四方の山を 見おろして かみなりさまを 下に聞く ふじは日本一の山」と下部の台座にあった銘板には。巨大な草鞋(わらじ)。「お客様へわらじは江戸時代に富士講の行者が履いて富士登山をしました。富士山は信仰のお山です。わらじ 金剛杖 すげ笠富士登山には必要なものでした。」と。金剛杖・登山杖も売られていた。「料金表」かなり高価なのであった。ここにも、ダイヤモンド富士の記念撮影ボードが。「人間讃歌 五十嵐貞一翁」碑。富士山五合目簡易郵便局の向かいに銅像が設置されていた。百五歳を超えて登頂した五十嵐貞一氏を記念する銅像 と。そして「富士山五合目簡易郵便局」。日本一の富士山からお便りを出したいとの富士登山者や富士山遊覧の来訪客のご要望に応えて、標高2305mの富士山五合目に平成3年4月に開局しました。富士山五合目簡易郵便局はスイスアルプスのユングフラウ・ヨッホ山頂局(3453m)と国際山岳郵便局提携していますと。入口には「富士山世界文化遺産」と。富士登山をする父子の姿が。ここにも「ふじの山あたまを雲の 上に出し 四方の山を 見おろして かみなりさまを 下に聞く ふじは日本一の山」と下部の台座にあった銘板には。「富士山北郵便局郵便夫顕彰記念像」。まるで飛脚風の小さな像で、五合園レストハウス前に設置されていた。「富士山五合目簡易郵便局」内部の受付窓口には多くの観光客の姿が。下の写真は、7月7日のニュースで五合目ロータリー広場の混雑ぶりをネットから。そしてバスに戻りながら富士山頂を追う。既にこの残雪もなくなっているのであろう。「五合目パノラマ」と。「五合目パノラマ」(左側)。「五合目パノラマ」(右側)。そしてバスに乗り込み、富士スバルラインを下る。ズームして。「富士山五合目バス停」。「奥庭自然公園 展望随一 入口」と。天気は良ければ(ネットから)。しかし残念がら雲が湧き出して・・・。「富士山大沢休憩所」横を通過。「標高 2020m 富士山 四合目 富士スバルライン 大沢駐車場」。右手に展望台。しかし山の姿は・・・。天気が良ければ。駿河湾の姿も左手に(ネットから)。ヘアピンカーブを通過。そして「富士スバルライン料金所」を通過。そして「富士吉田I.C西」交差点を左折。赤松林の間を通過。前方右に「ほうとう不動 東恋路店」。富士山にかかる雲が、ふわりと降りてきたような白を基調にした建物。この場所は、外国人の人気の場所になっていないのだろうか?そして右手にこの日の最後の目的地の「赤富士ワインセラー」の建物が見えて来た。「赤富士ワインセラー 入館無料 試飲できます」と。駐車場でバスを降り、富士山を追う。雲の間から山頂が束の間に。天気が良ければ「赤富士ワインセラー」の入り口から(Googleマップから)「赤富士ワインセラー」。赤富士ワインセラーは富士山の麓、富士河口湖町の中央にあった。「ワインをもっと多くの方に気軽に楽しんで頂きたい」というコンセプトのもと、山梨県内のワイナリー十数社が集まり「日本一のワイン産地」の美味しいワインを、全国の皆様へ発信していきたいという想いからスタートしたのだと。記念撮影スポットにはリラックスして居眠りしているオジサンの銅像が。ワイン樽を使った入口の装飾オブジェ。「Wine Celler(琉球漆喰)」。「Wine Celler(琉球漆喰)「ワインのゆりかご」であるセラーは、常に一定の温度と湿度を保つことが必要とされてあり、その環境を確立するためにこのセラーには、琉球サンゴと藁を練り合わせた「琉球漆喰」が使用されています。漆喰の壁は常に呼吸をくり返し、室内の空気を保湿、殺菌、浄化しています。古代ギリシや帝国で大発生したコレラの被害も、漆喰で空気が浄化された家に住んでいた者は難を逃れたといわれ、その後、この効果に着目した人々により神殿や教会をはじめ、多くの建築に用いられるようになりました。現在、シックハウス症候群など、環境の悪化により増加しているアトピー性皮膚炎や、ぜんそくの改善に利用しようと、再び脚光を浴びています。」店のパンフレット。「ワイン樽」が並ぶ。「ワイン 豆知識本日は、ご来館いただきまして誠に有難うございます。当施設は、より多くのお客様に山梨のワインを知っていただきたいというコンセプトのもと運営されています。しばし時間を忘れ 山梨のワインをお楽しみください。」クイズが続く。「ワイン 葡萄・甲州 甲州は世界的に注目を受けている日本固有のグリ系品種。山梨県の栽培面積が最も多く、 日本では食用ならびにワイン用として古くから嗜まれる馴染み深いブドウです。香りは控えめで ニュートラルですが、シトラスや丁子(クローヴ)のスパイス香が印象。近年ではただ すっきりと仕上がるのではなく、甲州特有の渋味をコクを与える成分と捉え、ワインに程よく 苦味や渋みが感じられるよう仕上げる生産者も増えてきています。・ソーヴィニヨン・ブラン 鮮烈なアロマとシャープで爽やかな酸に人気が集まっているブドウ品種。フランスのロワール 地方のサンセールやプイィ・フュメ、ボルドー産が有名ですが、近年ではニュージーランドや チリでも大成功を収めています。ステンレスタンクで醸造することでそのフレッシュな香りを 生かしたワインが多く、生き生きとした果実味を存分に味わうことができます。・リースリング ドイツやフランスのアルザスなどに代表されるブドウ品種。冷涼な地域を好み、伸びのある酸と ミネラルが特徴の上品な風味をもつことから「最も高貴なブドウ品種」と形容されることも あります。栽培される地域によって全く異なる風味を生み出し、銘柄によっては長期の 熟成能力も備えることから、白ワインにおけるカベルネ・ソーヴィニヨン的なブドウと評される こともあります。辛口タイプから、貴腐の極甘口まで幅広い表情を見せます。・マスカットベリーA マスカット・ベーリーAは、新潟県岩の原葡萄園の創業者である川上善兵衛氏が、アメリカ ブドウのラブルスカ種ベーリーにヨーロッパブドウのヴィニフェラ種マスカット・ハンブルグを 交配し誕生。食用としてはもちろんのこと、日本で赤ワイン用として一番多く仕込まれている 甲州と並ぶ日本代表品種の一つです。渋味が穏やかなものが多く、樽熟成させる長期熟成向きの ワインも誕生しています。なんといっても日本料理との相性に長け、味わいの評価が年々 高まっている品種です。・メルロー メルローはボルドー原産の赤ワイン用の黒ブドウで、フランスで最大の栽培面積を誇り、 世界中で栽培されています。神の象徴と賞されることもある世界最高峰のワイン「ペトリュス」 をはじめ、1本数十万円もする高級ワインから、1,000円台で手に入るデイリーワインまで 幅広く造られています。カベルネ・ソーヴィニヨンと比べて果粒が大きく皮が薄いためタンニン が比較的少なく、ふくよかで果実味豊かな味わいは世界中で高い人気を博しています。・カベルネソーヴィニヨン カベルネ・ソーヴィニヨンは、若いうちはパワフルなタンニンが特徴で、熟成させることで 他にはない優美で複雑な風味に変化する、赤ワインの代名詞的品種。ボルドーの五大シャトーも 全てカベルネ・ソーヴィニヨン主体で造られています。 晩熟のため温暖な気候で栽培され、 フランスのボルドー、アメリカのナパ・ヴァレー、オーストラリア、チリなど世界中で栽培され、 多くの産地でメルロなどをブレンドすることで強い酸味やタンニンを和らげ見事なバランスの ワインを生み出しています。 」ここにも「ワイン樽」。廻り込んで。社名でもある「赤富士」。近づいて。そして試飲コーナーへ。赤ワインを頂きました。様々なワインが並ぶ。富士の絶景の写真も並ぶ。お土産に1本購入しました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.14
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そして「本殿」横の「摂社」・「日本武尊社」の裏にあった「展望台」へ。晴れた日には正面の山々や山中湖を一望することができます。もちろんいつの季節にも眺めは美しいのですが、夏の朝はここからさらにご来光が拝めます。(※一年中拝める位置なのですが、夏以外は「富士スバルライン」が夜間閉鎖となりますので、「富士スバルライン」の営業時間と日の出時刻との兼ね合いをご確認ください。また、夕日は境内の一角から拝せます)秋には、裾野の樹海を順に染めていく落葉松の黄葉と、手前のナナカマドの赤が雄大な眺めに彩りを添えます。秋の澄んだ空気と相まって、より広がりを感じる景色となります。富士山山頂を見る。「本殿」、「摂社」の屋根を見る。雲海が迫る中、ズームして。さらに。そして雲海が押し寄せて、真っ白な世界に。展望台からの秋の河口湖をネットから。「勝男木くぐり」。境内に2本の勝男木があってくぐるとご利益を頂けるのだと。右側が交通安全、縁結び、左側が家内安全、健康長寿であると。正面に「小御嶽茶屋」。天狗の「顔出しパネル」。そして参道沿いの土産物屋に立ち寄る。様々な赤富士の絵画が販売されていた。色鮮やかな赤富士を立体的に描いた工芸品「半立体の型盛り絵」色鮮やかな赤富士を立体的に描いた工芸品「半立体の型盛り絵」は、静岡県や山梨県などの観光地で土産品として人気だ。ただ一人の職人、百瀬善明さん(93)は、型盛り絵を作り始めて七十年以上。「手に取る人に喜んでほしい」という原動力で、今も試行錯誤を重ねる と。多くの日本酒コーナー。日本酒・「富士山」。富士山の描かれた暖簾。「あたまを雲の 上に出し・・・富士は日本一の山」と。抹茶ソフトクリームを楽しみました。「忠魂碑」他の石碑が並ぶ。「昭和五十年六月十七日竣成 〇〇」と。信仰者の寄進により神明社殿が竣成。再び「手水社」を正面から。棕櫚(しゅろ)の神紋。富士山本宮浅間神社の社紋にも「丸に棕櫚紋」が使われているが・・・。見事な蟇股の龍の彫刻。「本殿」の石鳥居方向を振り返って。別の土産物屋には小さな社が店内に。その下には日本酒「富士山」は並んでいた。富士山の描かれた小皿。外国人観光客の姿も。昨年秋に訪ねた「新倉富士浅間神社」👈️リンク が描かれていた。「富士山」Tシャツ。ポスター「Mt.Fuji 富士山 美しい富士山をいつまでも」。外に出て、雲海の消えた富士山頂を。移動して。「駐馬場」手前にあった案内板「富士山五合目のみどころ」。近づいて。さらに。「河口湖・富士吉田口 登山ルートマップ」をネットから。「駐馬場」。 5合目から馬に乗って、6合目まで行くことが出来まるようであった。6合目まで片道で15,000円と。「山梨県富士山五合目総合管理センター」。富士山の山梨県側の吉田口登山道がこの日の前日、7月1日(月)山開き👈️リンク したのだ。山頂付近の混雑などを防止するため、今シーズンから1日4000人の入山規制と1人2000円の通行料を導入。5合目に通じる有料道路が一時通行止めになるほどの強風が吹く中、入山手続きを行う総合管理センターには午前中から多くの登山客が集まり、仮設ゲートを通過するためのリストバンド交付窓口では一時混雑する様子も見られたのだと。インターネットで通行料支払いなどを事前に済ませる予約枠(3000人)と現地で支払う当日受付枠(1000人)がある。夜通しで山頂を目指す「弾丸登山」を防止するため、ゲートは午後4時から翌日午前3時までは閉鎖されるのだと。「安全登山案内板」。「富士山レンジャー 安全登山案内実施中富士登山の最終チェックをお願いします!下記に当てはまる方は、「臨時富士山登山案内所」で確認し、準備ください。ロ①富士登山は初めてです (五合目総合管理センターの掲示バネルを確認して登山しましよう。)ロ②今日明日の富士山の天気を知らない (五合目総合管理センターで現在の天気がわかります。)ロ③五合目到着後1時間経っていない (高山病のリスクが高まります。最低1時間は休態しましよう。)ロ④これから登る登山道名を知らない (富士山は4つの山道があります。五合目総理センターで現在地とルートを確認しましよう。)ロ⑤飲料水を1 L以上持っていない (体重60kgの人が8時間歩くには1.2L必要です。)ロ⑥小銭を持っていない (富士山のトイレ利用には1回200円~ 300円のチップが必要です。)ロ⑦ゴミ袋を持っていない。 (富士山にはゴミ箱はありません。)ロ⑧富士山を守るルール・マナーをよく知らない (自然公園法という法律で富士山は守られています。)ロ⑨登山計画書を出していない (簡単にスマートフォンで登録出来ます。)ロ⑩富士山が活火山だという事を知らない (万が一に備えて五合目総合管理センターの掲示パネルやパンフレットを確認しましょう)?登山準備は万全ですか?富士山は3776m、日本一の標高です。ここから山頂まで約1400mの標高差、登りに約6時間、下山に約4時間かかります。観光気分では危険です。富士登山に必要な装備・情報をチェック!・体調は万全ですか? (少しでも不安が残るなら登山は中止しましょう。中止する勇気も大切です。)・下山できる体力を残して! (富士山の下山は想像以上に体力、脚力が必要です。登りで100 %の体力を使いきらないで! )・富士登山に必要な装備、情報は十分ですか?多くの外国人が「山梨県富士山五合目総合管理センター」の前にいたが、「安全登山案内板」は日本語のみで。そしてこの日の翌日7月3日(水)のテレビニュースでは「富士山の山梨県側の5合目に観光に来ていたオーストラリアの女性が家族とはぐれてしまい、一夜明けた7月3日午前、精進口登山道の3合目で動けなくなっていたところを救助されました。救助されたのはオーストラリア国籍の女性(38)です。警察によりますと、女性は2日午後3時ごろ、山梨県鳴沢村の富士山5合目に家族と観光にきていたところ、家族とはぐれてしまい、家族が五合目総合管理センターの警察官に届け出ました。通報を受けた警察が捜索しましたが、一夜明けた3日午前、精進口登山道の3合目付近で動けなくなっていた女性が、通りかかった登山者に助けを求め登山者が110通報しました。」と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.13
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「富士スバルライン」の終点は五合目2,305mであると。富士山 全登山ルート図。●吉田ルート:登山者が最も多く、シーズン中は混雑するルート。施設が充実しているので 初心者に最もおすすめ 1合目から登る古来の登山道・吉田口登山道もある。●須走ルート : 吉田ルートに次ぎ、登山者が多いルート。行程が最短で、施設が整備されている.●御殿場ルート : 八合目で吉田ルートに合流するまでは、比較的登山者が少ないが、樹林帯や 砂走など、登山経験を要するルート。●プリンスルート:富士宮五合目から、宝永火口を横切り、御殿場ルート六合目に合流するルート。●富士宮ルート : 吉田ルートに次ぎ、登山者が多いルート。行程が最短で、施設が整備されて いるので、こちらも初心者でも安心のルート。それぞれの下山道はかなりの範囲で登山道とは別のルートであることをこの図で知ったのであった。バスを降り、富士山五合目の散策開始。富士山五合目は、天地の境と呼ばれ、森林限界線に位置しているのだ。天気が良い日には山中湖・富士吉田市・河口湖を望むこともできる絶景スポッット。「富士スバルライン五合目案内図」。巨大な「五合園レストハウス」。天と地の境、富士山五合目。眼前に迫る富士山頂、標高2305m富士スバルラインの終点、そこに原木丸太をふんだんに使ったMt.Fujiスタイルの山小屋建物が。富士山を眼前に見ることのできる展望地並びに富士登山の拠点として知られている。館内ではご当地グルメや富士山にちなんだ創作料理の提供や、富士山グッズをはじめとしたお土産品の販売、富士山に関する資料👈️リンク の展示等を行っている。郵便局も併設しており、ここではがきを出すと限定の風景印を押してもらうことができる と。「富士火山学術資料館」のパンフレット火山である富士山の地質学的解説や、野生動物・野鳥・高山植物等の生態系に関する資料を収集・展示。広場は、多くの富士山登山者、五合目への観光客で賑わっていた。富士山頂下には残雪が曲線状に点々と残っているのであった。残雪の沿った所に、吉田ルート、須走ルートの合流ルートがあるのだろうか。手前のジグザグが吉田・須走ルート。(写真はネットから)。富士山頂部には「八葉」👈️リンクと呼ばれる8つの峰があると。古来、仏教でいう八葉蓮華(はちようれんげ:仏が坐(すわ)る八枚の弁をもつ蓮華座)にたとえられていたことに由来するもので、この八葉はこれまで様々な呼び名で呼ばれており、資料ごとでその名称が異なっています。明治時代の神仏分離令の影響を受け、富士山においても廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動が起こり、富士山中の仏教系地名が神道系の名称に変えられました。現在「お鉢巡り」と呼んでいる火口の周りを一周することも、この八葉の峰をめぐる「お八めぐり」が転化したものと考えられます と。私の撮影した山頂の写真では、大日岳(3,750m)と久須志岳(3,725m)が見えていたのであろうか?現地案内員のガイダンスを聴く。再び富士山頂を見上げて。交通整理員の指示に従い、横断歩道を渡る。五合目広場正面にあるいかにも山小屋や、ヒュッテ、という感じの建物。建物の中は一階に土産物、郵便局、スナックなどを扱っていて、混雑していた。 富士山土産、というのであれば、こちらをはじめとする五合目の各店がおすすめ。食事や飲み物は平地に比べるとやや高めであったが・・・こても「インバウンド」の影響。インバウンド(Inbound)とは、外国人が訪れてくる旅行のこと。日本へのインバウンドを訪日外国人旅行または訪日旅行という。これに対し、自国から外国へ出かける旅行をアウトバウンド(Outbound)または海外旅行という。多くの登山者の姿。記念撮影スポット。この場所で、参加者全員で記念撮影。そして「冨士山小御嶽神社」に向かって進む。富士山と冨士山の違いは何故あるのか?富士山はご存知のとおり、北半分は山梨で南半分は静岡。なので太陽のある静岡側が「富」、太陽のない山梨側が「冨」という話を聞いたことあるようなないような...。昔は偶数が縁起が悪く、奇数が良いとされていたので、神社の石碑などは一つ減らして奇数の11画にした、とネットから。「冨士山小御嶽神社」の朱の一の鳥居が正面に。扁額「冨士山大社」と。「冨士山小御嶽神社」と。ここにも、この日の記念撮影用の掲示板が。こちらは「富士山」。「冨士山小御嶽神社」の参道を進む。「冨士山小御嶽神社境内案内図」。【御祭神】 本社【長寿・安産・縁結び】 磐長姫命(いわながひめのみこと) 桜大刀自命(さくらおおとじのみこと・木花開耶姫命) 苔虫命(こけむしのみこと) 摂社【金運上昇・武運長久】 日本武尊(やまとたけるのみこと) 大国主命(おおくにのぬしのみこと) 事代主命(ことしろぬしのみこと) 末社【開運厄除・交通安全】 大天狗 (小御嶽太郎坊正真・こみたけろうぼうしょうしん) 小天狗【御山緒】小御岳は富士山より先に出現した山であります。小御岳と古富士という二つの山が土台となり、その間から噴火を繰り返し、形作られたのが現在の富士山の姿です。富士山小御嶽神社は承平七年(九三七)、地勢的にも有名な山岳信仰の霊地、小御岳の山頂(富士山五合目)に鎮座、創建されました。以降、幾度かの造営を繰り返し、現在の社殿は、昭和五十年、信仰者の寄進により竣成され、今に至っております。昔から当社は御中道巡りや山頂へと至る行程の拠点、さらには冨士の中宮とも称され、江戸八百八講と言われた富士講をはじめ、多くの信者に崇敬、参拝されてきました。今日では、関東地方はもちろん、全国より数百万人もの崇敬者及び参拝者で尊崇されております。【特殊神事】毎年七月一日の開山祭👈️リンクには、大天狗、小天狗が先立ち、鳥居に張られた注連縄切りを行い、女性が背負う富士型神興と明神型神興の渡御をし、登山者の安全と富士山の平穏を祈願しております。また、八月十七日の例大祭👈️リンクは本殿において壮麗な太々神楽の奉納があり、多くの参拝者で賑わいを見せております。」「境内案内図」に近づいて。「二の鳥居」。この扁額も「冨士山大社」と。さらに参道を進む。社号標石「冨士山大社 冨士山小御嶽神社」と。石鳥居(右)。石鳥居(左)。そして「冨士山小御嶽神社」の本殿。富士山五合目にある神社。937(承平7)年に、山岳信仰の聖地である小御岳山の山頂(富士山五合目)に鎮座、創建されました。小御岳は富士山より古い山で、小御岳と古富士が土台となって噴火を繰り返し、いまの富士山の姿に。毎年7月1日には開山祭が行われます。五合目周辺は「天狗の庭」と呼ばれ、天狗が支配していたという言い伝えがあり、小御嶽太郎坊正真という天狗様が道開きの神様として神社に祀られています。神社には天狗様にちなんだ宝物が多く、中庭の大斧はなんと重さ百貫(375kg)もあります と。一時的に陽射しが。斜めから。振り返ると、こちらが昔からの参道であっただろうか?「手水社」。「富士山五合目小御嶽」と。狛犬(右)。狛犬(左)。「三の鳥居」。「三の鳥居」の扁額も「冨士山大社」と。「末社」(右)。「末社」(左)。「由緒小御嶽は富士山より先に出現した山で、小御嶽と古富士の二つの山を土台に噴火を繰り返し、形作られたのが現在の富士山です。その小御嶽の山頂で山岳信仰の霊地である富士山五合目に承平7年(937)に鎮座、創建されたのが冨士山小御嶽神社です。祭神として磐長姫命を祀り、富士信仰の中心の大神として崇敬を集めます。後花園天皇康正2年(1465)に社殿を造営。富士山小御嶽石尊大権現、富士山中宮、富士天狗宮とも称され、富士登山者の守護神です。往古より、お中道巡り、富士山頂へ至る行程の拠点として富士行者が参籠して大行となしました。富士山の五合目周辺は「天狗の庭」と呼ばれ、道開きの神として7月1日の富士山開山祭では大天狗、小天狗が先立ち、鳥居に張られた鳥居に張られた注連縄切りを行い、道開をして、御輿の渡御をして登山の安全を祈願します。天狗は神社の御眷属とされ、小御嶽古太郎坊正真と呼ばれております。拝殿の天井には富士講の信者が奉納した額が敷き詰められ、境内の日本武尊社は日本武尊を祀り、寄進された恵比寿像、大黒像も祀られています。御神徳は関東地方並びに全国より多くの崇敬者を有し、富士登拝者の家運隆昌、交通安全、延命長寿、縁結びの守護神として崇敬されています。」内陣を見る。御祭神 ・磐長姫命(いわながひめのみこと) ・桜大刀自命(さくらおおとじのみこと) ・苔虫命(こけむしのみこと)本殿内の社務所。御朱印を頂きました。天狗の面が奉納されていた。天狗は神社の御眷属とされ、小御嶽古太郎坊正真と呼ばれている と。参集殿前の「大斧」。天狗様が祀られている小御嶽神社には、天狗様にまつわるものが多く置かれているが、中庭には天狗が振り回したとされる「大斧」があった。その重さは100貫(375kg)あると言われており力自慢の人達は動かそうと挑んでいる姿があると。天狗と同じぐらい「力」があると自信がある方はぜひ一度挑んでみては と。「参集殿」を見る。こちらが「摂社」・「日本武尊社」。御祭神は日本武尊・大国主命・事代主命。本社に付属し、その祭神と縁の深い神を祭った社(やしろ)。格式は末社より上位。「開運小槌」と「天狗下駄」(右)。「開運小槌」と「天狗下駄」。「摂社」・「日本武尊社」に近づいて。七福神の「大黒天」と「恵比寿天」のお姿が。「大黒天」は財福の神様、「恵比寿天」は農業・漁業・商業の神様。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.12
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バスを降り、昼食会場に向かう。河口湖遊覧船「天晴(あっぱれ)」を横から見る。白い旗には「武田菱」の紋が。「武田菱」紋とは、戦国大名「武田信玄」の家紋として有名で『割菱』に似ているが、菱と菱の間隔をより詰めて描くのだ と。天晴が航行する河口湖は、「影うつす 富士の高嶺に うもれて残る 水無き河口の海」と歌われ、逆さ富士の名勝地として知られています。 海抜839mは、箱根の芦ノ湖より110mも高く、周囲20km、湖の深さは最深部で25m、富士五湖の中では山中湖に続いて大きく、南国的な明るさに満ちた湖。 湖水には、コイ、フナ、ワカサギ、ブラックバスなどが生息しており、四季を通じて観光客で賑わいます。湖のなかほどには富士五湖で唯一の島「うの島」がある。気象条件が良いときにだけ見られる「逆さ富士」を楽しめるのだが、この日は???冬の「逆さ富士」をネットから。「河口湖大橋」を再び。この日の昼食会場「みはらし亭」に向かう。河口湖湖畔を走る「御坂みち」を渡る。店員の方が交通整理をして下さった。「歓迎 みはらし亭」。この日昼食、ビールを追加オーダー。ワカサギのフライは美味。そして昼食後は土産物売り場を散策。「サザエさん 富士山を観光してきました」と。国民的アニメ番組「サザエさん」のオープニング映像に富士山周辺の観光スポットが登場したようであった。富士山が描かれたTシャツ。「赤富士」暖簾。「凱風快晴」(がいふうかいせい)は、葛飾北斎の名所浮世絵揃物『富嶽三十六景』全46図中の1図で、「赤富士」(あかふじ)とも呼ばれる。大判錦絵。「神奈川沖浪裏」「山下白雨」と合わせて三大役物と呼ばれる。そして昼食を楽しんだ後はバスに戻る。再び眼前に広がる河口湖を。遊覧船は既に出港していた。料金900円/大人 30分毎に運行 と。そしてこの日の観光バスへ。見上げると「河口湖 富士山パノラマロープウェイ」👈️リンク の「富士見台駅」の姿が。標高856mの河口湖畔駅から1,075mの富士見台駅までロープウェイで上ることわずか3分。目の前には裾野まで見渡せる日本一の富士山と河口湖の大パノラマが広がります。ここ天上山は太宰治の名作「かちかち山」の舞台となった山といわれ、物語にちなんであちらこちらでキュートなタヌキとウサギがお出迎えしてくれます。小さなお子様から大人まで楽しめる絶景のフォトスポットです と。平成30年(2018)に富士急行株式会社(本社:山梨県富士吉田市)は、河口湖畔から富士山を」眺める絶景ビュースポット「河口湖天上山公園 カチカチ山ロープウェイ」の名称を変更し、「~河口湖~ 富士山パノラマロープウェイ」(英語表記:Mt. FUJI PANORAMIC ROPEWAY)としてリニューアルオープンしたのだと。富士急行線「河口湖駅」方向にバスは進む。左手に「河口湖駅」が姿を現した。そしてこれがテレビで噂の「LAWSON 河口湖駅前店」であるとガイドさんから。山梨県富士河口湖町のここローソン河口湖駅前店の道路に張られることになった黒幕。外国人観光客が写真を撮るために道路に飛び出すなど、危険行為やマナー違反をすることが多く、その対策として張られたのだ。5月21日にローソン河口湖駅前店の前の道路を挟んだ反対側の歩道に張られた黒幕は、長さ20メートル、高さ2・5メートル。かなりの圧迫感がある。2022年秋頃、海外のインフルエンサーがこのローソンの店舗越しに見える富士山を撮影してSNSに投稿して拡散したところ、瞬く間にこのローソンが撮影スポットとなり、外国人観光客が多数訪れることになったのだとテレビでしきりに放送していた場所がここと。この写真がこのローソンと富士山の雄姿のコラボ。(ネットから)。様々な写真がネットには。そして左折して「富士河口湖富士線」へ。天気が良ければ、この場所からこの絶景が・・・と、Googleマップのストリートビューから。「富士スバルライン」に向かって進む。山梨県道707号線・富士河口湖富士線を進む。「富士吉田I.C西」交差点を進む。そして「富士スバルライン料金所」を通過。富士山有料道路は、山梨県南都留郡富士河口湖町から富士山吉田口五合目付近に至る有料道路。開通時に富士スバルラインという愛称名が付けられた。 原動機付自転車・自転車も通行可能。「富士スバルライン」のルート図。白樺の山を進む。「富士スバルライン」は、中央道河口湖IC近くから、富士山五合目まで繋がる約30km、標高差1200mの山岳有料道路。スバルラインができたことで、富士登山は麓から歩いて登る伝統的な登拝から、自動車やバスで五合目まで登る観光登山へと転換している。開通は1964年と50年以上も前で、1964年の東京オリンピック開催に合わせて完成した。もともとの有料道路の起点は国道139号との交差点で、この交差点名は今でも「スバルライン入口」となっている。ここに料金所があった時代、混雑時には渋滞が高速出口まで伸びることもあった。料金は往復で普通車:2100円、バス特大車(30人以上):8040円 と高価。富士山吉田口五合目に繋ががるこの「富士スバルライン」では、富士山の自然保護と交通渋滞抑制のため、毎年登山客や観光客の増える夏シーズンにマイカー規制を実施。マイカー規制中は、原則一般車両の通行は禁止となるのだ。今年は、2024年7月5日(金)18時~2024年9月10日(火)18時まで と。マイカー規制の対象とならない車両バス(乗車定員11人以上のマイクロバスを含む)、ハイヤー、タクシー、軽車両(原動機付きのものは規制の対象)、電気自動車(EV)、燃料電池自動車(FCV)、指定車、許可車、身体障害者等乗車車両(身障者手帳、療育手帳または精神障害者保健福祉手帳が必要)。※ハイブリッド車は規制の対象となります。EV、FCVにつきましては富士北麓駐車場で確認証の交付が必要だ と。下からは全く富士山の姿が見えなかったの、この日は富士山の雄姿を楽しむのは無理と諦めていたが、富士山5合目・標高2400mに近づくに連れ、雲海が下に広がり見上げると、富士山の山頂が突然、姿を現したのであった。「残雪」が僅かに残った富士山山頂南斜面を車窓から見上げる。人の姿はもちろん確認できなかったが・・・。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.11
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この日は7月2日(火)、私の住む地域の老人会のバス旅行に補助員として参加。目的地は、河口湖周辺と富士スバルラインを利用して富士山5合目そしてその先にあった「冨士山小御嶽神社」。地元の集合場所を8時に大型バスで出発し、途中で随時参加者を拾い、東名綾瀬スマートICから東名高速道路に入り、海老名JCTから圏央道に入り厚木PAのて最初のトイレ休憩。売店には人の数は少なかった。そして八王子JCTから中央自動車道へ。前方に「笹子トンネル 上り線」の出口が見えた。そして中央自動車道・勝沼IC手前を走る。勝沼町にある徳岩院の墓地が右手に。勝沼町の街並みが右手奥に広がる。雪が残る南アルプスの山の山頂が見えた。明石山脈にある標高3190mの間ノ岳であっただろうか?生憎、甲府盆地の先のほとんどの山々が雲に隠れて。そして 一宮御坂IC で中央自動車道を降り、近くにあった「味の甲州わさび漬センター (地域物産・土産品販売店)」に立ち寄る。「歓迎」の看板もあった。最初のお土産店であったが、皆さん、既に帰りの気分で、わさび漬け等のお土産を買いまくるのであった。店内の小さな社にはタヌキ様が祀られていた。そして山梨で採掘された宝石類が並ぶ。左は「アメジストクォーツ(紫水晶)」であろう。「仏金砂 御線香立ての灰」。「仏金砂」は、ガラスの原料・硅砂(けいさ)で作られた金砂ですので、固くならず火気にも安心。水洗い可能ですので何度でもお使いになれます。風に飛ばないので、お仏壇まわりが汚れる心配もありません。仏壇のお線香立て用の灰として、墓前のお線香立て用としてにご活用ください。仏金砂とは、線香が立てやすい香炉用の砂です。再び「アメジストクォーツ(紫水晶)」。見事な花が。土産物を品定めする旅友。「笛吹川石和鵜飼」👈️リンク ポスター。7/20(土)~8/18(日)開催と。そして「御坂みち」を河口湖に向かって進む。「山梨リニア実験線」が前方に姿を現した。リニア中央新幹線の山梨県駅(甲府市)について、JR東海は4日、2024年度中に工事契約し、完成は31年となる見通しを明らかにした。 昨年12月、東京・品川―名古屋間の工事完了時期を「2027年」から「27年以降」に変更し、工事計画を見直した結果、想定よりも工期が長くかかる見通しになったという。河口湖に向かって南下する。右手に河口湖が姿を現した。御坂みちも河口湖湖畔に出る。「河口湖大橋」方向に進む。残念ながら富士山そして逆さ富士の姿は・・・。天気が良ければ・・・ネットから。そして河口湖湖畔の駐車場へ。前方には「河口湖大橋」の姿が。「河口湖大橋」は山梨県道707号富士河口湖富士線に指定されている橋梁であり、かつては河口湖大橋有料道路として利用されていた。旧有料区間の全長は1600 m、河口湖大橋自体の橋長は500 mである。富士五湖のなかで唯一の湖上に架かる橋梁で、橋上からの眺めはさえぎるものが無いことから富士山の展望もよく、1987年(昭和62年)に美観性と機動性を基準に「雄大な富士の道」として、富士スバルラインとともに旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された「日本の道100選」にも選ばれている。そして「遊覧船」の姿も。河口湖遊覧船「天晴(あっぱれ)」は、河口湖駅より徒歩10分、河口湖畔船津浜に乗り場があります。戦国時代に甲斐武田軍に属していた「水軍」の安宅船がモチーフの純和風な遊覧船で、武田軍の代名詞である「武田菱」や「赤備え」をアクセントに、華やかさと勇ましさを兼ね備えたデザインとなっております。天気の良い日は展望デッキから、遮るもののない雄大な富士山の絶景や360°のパノラマビューをご堪能ください。”和”の象徴である畳の間をイメージした広々とした船内では、50インチの大型モニターを設置し、雨の日でも四季折々の美しい富士山や周辺地域の歴史や観光情報をお伝えいたします と。ネットから。「乗船券売場」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.10
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そして「芝大神宮」の「拝殿」への「手水舎」。社紋は「三つ巴」。「手水には檜(ひのき)の芯材を使った「禊の湯」を入れてます。」芝大神宮で檜(ヒノキ)の芯材を使用した入浴剤として「禊の湯」が置かれていると。その「禊の湯」を手水に使用しているとのこと。「絵馬厄除招福 縁起 生姜 千木筥(ちぎばこ) だらだら祭り芝大神宮」と。「伊勢の神宮のご祭神である天照大御神、豊受大神を主祭神とし、平安時代・一条天皇の御代に創建されたと伝わる芝大神宮。江戸時代には徳川幕府の崇敬も篤く、「関東のお伊勢さま」として庶民からも親しまれ、多くの人々で賑わいました。鳶頭と角力取りの争いを描いた歌舞伎の演目『め組の喧嘩』の舞台でもあります。江戸時代から続く芝大神宮の縁起物として、また東京の郷土玩具としても知られるのが「千木筥」です。もともと神社の祭礼「だらだら祭り」で授与されていたもので、往時は境内に千木筥を扱う多くの店が出ましたが、戦後は神社の授与品となりました。色鮮やかな藤の花が描かれた曲げ物を三段重ね、荒縄でまとめた千木筥は、中に小豆が入っていて、振るとカラカラと音がします。その音も見た目も可愛らしく、心なごむものです。名前の由来は、「餅器を略した言葉である」とか、「社殿の屋根に置く千木から作ったから」など諸説あるようです。「千木」が「千着」に通じることから、衣服が増え、良縁に恵まれることを願って女性がタンスなどに納める習慣が広まり、女性の幸福守護とされています。」と。「千木筥(ちぎばこ)」というお守り。千木とは、神社の屋根の上の交差して突き出た梁の部分ことで、建築の時に余った木から作られたことから千木筥と呼ばれたのだと。この「千木筥」が縁結びの縁起物となったのはその呼び名でした。千木=千着に繋がるとし、千着の着物で着るものに困らない、着るものが増える、それは良い旦那が見つかる、ということわざ的な解釈で、千木筥=縁結びとなったのです と。「社務所」。「御朱印」を頂きました。「拝殿」を斜めから。拝殿を正面から。「内陣」。芝大神宮は、伊勢神宮の御祭神、天照大御神(内宮)、豊受大神(外宮)の二柱を主祭神としてお祀りしています。御鎮座は遠く平安時代、寛弘二年(1005年)一条天皇の御代に創建された由緒あるお社です。古くは、飯倉神明宮、芝神明宮と称され鎌倉時代においては、源頼朝公より篤い信仰の下、社地の寄贈を受け、江戸時代においては、徳川幕府の篤い保護の下に社頭はにぎわい大江戸の大産土神として関東一円の庶民信仰を集め、「関東のお伊勢さま」として数多くの人々の崇敬を戴きました。その当時の賑わいは、広重の錦絵に窺うことができます。その後の当宮の社史をみますと、明治、大正、昭和初期の関東大震災、太平洋戦争の激動期においても、数多くの苦難にも耐えて氏子並びに崇敬者に支えられ現在の御社殿に至りますとHPより。「江戸高名会亭尽 芝神明社内 絵師:広重」「芝神明宮祭礼生姜市之景 作者名 溪斎英泉」9月の祭礼で賑わう芝神明宮境内の様子。この時に催される生姜市の生姜は邪気を払い病厄を遠ざけるとされました。縁起物である「千木箱(筥)」の「千木」は「千着」に通じることから、衣裳持ちになれる、ひいては良縁に恵まれるお守りとして、今も女性に人気のある縁起物です。「百度石」。「百度石百度参りをする際に往復の目安として設置されていることがある石の柱。本堂から百度石まで引き返して1往復とする。」と。拝殿前から「茅の輪くぐり」👈️リンクを見る。そして「芝大神宮」を後にして、再び「芝大門通り」に戻り、JR浜松町駅方面に引き返す。途中、石のベンチのようなものに、歌舞伎の「隈取(くまどり)」?の如き模様が。「広げよう納税の輪」碑。正面は”ふれあいの道”と彫り込まれていた。駅前の通りが”ふれあいの道”というのを初めて知ったのであった。右側には”世界の願い交通安全”と彫り込まれていた。そしてJR浜松町駅から品川駅に向かう。JR浜松町駅構内にあった「歌舞伎座」のポスター。そして品川駅に到着し、中央自由通路へ。「高輪口」への階段の上にはステンドグラス風の作品が。「ステンドグラス「光の情景」 原画・監修:麻生秀穂」と。こちらは、以前に撮った写真。作品の中央。「天と地に繰り広げられる、四季折々の光の情景 ステンドグラスに明るく映し出された光と色彩のアラベスクは楽しげにハーモニーを奏でているかのようです。」とネットから。そして「港南口」に向かって進む。R品川駅中央改札を出て港南口方面に向かう自由通路の両サイドにあるデジタルサイネージ広告。75インチの大画面で44面のビジョンが連続して同じ素材放映されている様は圧巻の一言。「東京都知事選挙 投票日7月7日(日)」横断幕。「港南ふれあい広場」にあった東京都知事選選挙ポスター掲示板。今回の東京都知事選挙は過去最多の56人が立候補し、都の選挙管理委員会は都内1万4000か所余りに設けた選挙ポスターの掲示板の枠が足りなくなり、クリアファイルで外側に固定してもらうといった異例の対応をとったとのことであったが、ポスターが貼られている箇所は数えても10数枚。こうした中、一部の掲示場では候補者とは別の人物の写真やSNSなどのアカウントに誘導する内容の同一の選挙ポスターが複数、貼られていたとTVニュースで。複数の同一のポスターが掲示されている背景には、寄付金に応じて、ポスター掲載を許可するという趣旨の案内がある候補者の所属団体から事前に出され、それに応じた人が貼ったと見られると。今回の東京都知事選挙の掲示板には、同一の選挙ポスターが複数貼られ、全裸に近い女性の画像などを載せたポスターには警視庁が警告を行ったとも。こうした事態に識者は「政治や選挙に対する信頼感を引き下げてしまう可能性がある」と指摘し政界からも公職選挙法が想定していない問題だとしてルールの見直しを求める声が出ているのである。先日のニュースでは「公職選挙法の改正に向けて、自民党と公明党の実務者は、選挙ポスターについて、一定の品位を保つための規定を設ける方針を確認しました。一方で、選挙運動中の妨害行為については現行の法律で対応できるとして、必ずしも法改正は必要ないという認識を共有しました。」と。そしてJR品川駅に戻り、17時集合の場所に向かったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.08.09
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「旧芝離宮恩賜公園」を後にして、次の目的地の「芝大神宮」へ向かう。「竹芝通り」の先の道・芝大門通りと「国道15号・第1京浜」の「大門」交差点を渡る。港区浜松町1丁目27−12。歩道の脇にあった「め組のけんか」案内板。月岡芳年《新撰東錦絵 神明相撲闘争之図》(1886)。「文化2年(1805)2月(一説)、芝神明の境内で、勧進相撲を興行していた力士と町火消 め組との間でけんかが起こった。これが、のちに江戸っ子気質の典型として評判になった芝居「神明恵和合取組」(かみのめぐみわごうのとりくみ)のモデルとなった。」と。「更科布屋」の店の角にあった「案内柱」。近づいて。「芝大門 割烹 寛政三年 更科布屋」と。創業寛政三年(1791年)、220年の伝統に培われた格式と技術がお届けする真の江戸そば。江戸より守り続ける更科伝統の重厚な甘ロの汁で味わう「二八そば」、「15種類の家伝変わりそば」ど「生粉打ちそば(そば粉10割)」が江戸の食文化を伝えます と。「更科布屋」と書かれた暖簾。歩道脇にはこの後訪ねた「芝神明江戸芝神明之図 歌川国丸 文化文政年間(1820ごろ)俗に芝神明と称された現在の芝大神宮は、江戸の有名な神社の一つである。往年の参拝の人びとや商人たちの生き生きした姿がえがかれている。」そして右折して進むと、路地の奥に石鳥居が見えて来た。ビジネス街の真っただ中にある神社なのであった。神明鳥居の先にあったのが「芝大神宮」。「芝」の地名は15世紀後半の文献に登場するほど古く、名の由来は明らかになっていません。海苔そだ※の柴の説、守護職「斯波(しば)」にちなんだ説と、芝草からの説などのほかに、近年では、河口のデルタ地形を示す説などがあります。芝は、漁業と後の海運によって発展しました。明治11年(1878)に芝区が誕生し、市制町村制改正により一旦、諸町の名前から「芝」の冠称が削除されますが、昭和22年(1947)に港区となり再び復活しました。昭和37年(1962)の「住居表示に関する法律」に則り、昭和39年(1964)に港区内ではじめて区画整理が実施され、それまでの芝金杉町、芝金杉海岸、芝新堀町、芝松本町、本芝、本芝入横町、芝田町、三田四国町(みたしこくまち)など17の旧町が合併して「芝」となりました とネットから。※海苔そだとは養殖する海苔を付着させるため、浅い海中に立てる木や竹の枝。 柴とは雑木の小枝。そだ。石鳥居の左には、提灯(大門振興会)、灯籠、社号標石が。「六月二十八日 午後五時半 夏越大祓形代」と「東京十社めぐり」案内板。大祓とは六月と十二月に半年間生活してきて生じました罪(つみ)と穢(けがれ)を祓い清める古来から日本民族に伝わる神事。罪とは包み隠される、穢とは気が枯れるという意味 と。「形代」とは祭りのとき、心霊の代わりとして置くもの。人形(ひとがた) 、身代わり。この銅板には・・・・。下記の石碑「芝大神宮」の奉納者の名前が刻まれているようであった。石碑「芝大神宮」。銅燈籠「御神燈」(左)。銅燈籠「御神燈」(右)。「芝大神宮の文化財社伝によれば平安時代の中頃(寛弘ニ年・一〇〇五年)に伊勢の内外両宮の御分霊をまつり鎮座されたといわれる区内有数の古社である。毎年九月中旬には「だらだら祭」とよばれる祭礼がおこなわれ、江戸時代より現在まで生姜、千木箱、甘酒などが境内で売られていることでも地元とのつながりが深い。所属する文化財として、絵画では江戸末期の建部巢兆の箱根詣図(紙本着色)などがある。古文書では建式四年(一三三七)正月七日の足利直義教書(勝利の祈祷を依頼したもの)、天正十六年(一五八八)七月ニ十四日の吉良氏朱印状がある。昭和五十三年◯月(平成二十五年十一月建替) 港区教育委員会」「貯金塚」。「根氣 根氣何事も根氣」と。関東大震災の際、唯一預金の全額払戻を断行した不動貯金銀行頭取・牧野元次郎の功績を称える碑であると。碑文は武者小路実篤の筆によるものだそうです。碑文は「根氣 根氣何事も根氣」と。要するに「金、銀、プラチナ、コツコツ…」ということでしょうが、どうしても私としては一攫千金狙ってしまいます。だから貯まらないのでしょうが…。ちなみに毎年10月17日には貯金祭として加護祈祷がおこなわれているそうです。台座には溶岩が使われていた。線刻でユーモラスな表情の大黒様が。「貯金と災厄(昭和丗二年正月不動会建之)災厄は忘れた頃来るという。関東の大震災も亦然り。當時の惨状は言語に絶し東京は焼野原と化し政府は直ちに支拂猶豫令を布いた。然るに其中にあってひとり預金の金額拂戻しを断行し大東京の復興に多大の貢献をした銀行がある。其名を不動貯金銀行という。即ち牧野元次郎翁が頭取であった、其不動貯金銀行本店の當時の焼跡から出た欄桿破片2個は(関東大震災記念石天沼雄吉寄贈)之である。倉は焼けても貯金は焼けぬ」そして拝殿への階段の途中には「茅の輪くぐり」👈️リンク が。「茅の輪くぐり」とは、茅で編んだ直径数メートルの輪をくぐり、心身を清めて厄災を払い、無病息災を祈願する夏越の祓を象徴する行事。スサノオノミコトの日本神話に起源があると。茅の輪くぐりのくぐり方茅の輪くぐりのくぐり方は、唱え詞を唱えながら、8の字に3度くぐり抜けるのが一般的です。もっとも基本的だと思われる茅の輪くぐりのくぐり方は、以下のようになります。1周目:正面でお辞儀、左足で茅の輪をまたぎ、左回りで正面に戻る2周目:正面でお辞儀、右足で茅の輪をまたぎ、右回りで正面に戻る3周目:正面でお辞儀、左足で茅の輪をまたぎ、左回りで正面に戻る正面でお辞儀、左足で茅の輪をまたぎ、参拝へ茅の輪くぐりのときには、神拝詞(となえことば)を声に出さずに唱えます。代表的なものは以下のようなものです。「祓い給へ 清め給へ 守り給へ 幸え給へ」(はらへたまへ きよめたまへ まもりたまへ さきはえたまへ)また、茅の輪くぐりの時の神拝詞(となえことば)は、地域や各神社で異なるようです。茅の輪くぐりをする際は、各神社でお尋ねるとよいでしょう。以下のように、1周目から3周目でそれぞれ、神拝詞(となえことば)が異なる場合もあるようです。1周目:水無月の 夏越の祓 するひとは 千歳の命 延ぶというなり2周目:思ふ事 皆つきねとて 麻の葉を きりにきりても 祓へつるかな3周目:宮川の 清き流れに 禊せば 折れることの 叶わぬはなし とネットから。狛犬(右)は笑顔の如くに!?。狛犬(左)は苦笑い!?。絵馬掛所。様々な絵が描かれた絵馬。安産祈願と。病気平癒と。「芝大神宮御造営奉賛氏子総代」碑。「力石」朱記で「五拾貫」=約187.5kgと。「東京都港区指定文化財有形民俗文化財 芝大神宮のカ石カ石は重い石を物ち上げて「カ競べ」や「曲持ち」を行った際に使用した石である。特に、江戸時代後期の文化・文政期には、職業的なカ持ち力士による興行が行われるようになった。芝大神宮のカ石は、「五十貫余」の切付とともに、「川口町 金杉藤吉」の名前がある。これは、明治時代に活躍した有名なカ持ち力士のひとり、芝金杉川口町の山口藤吉(慶応三年生)、通称「金杉の藤吉」のことである。芝大神宮でカ持ちの興行が行われた時、金杉の藤吉がこの石を片手で差し上げたと伝えられている港区内には、全部で十四点のカ石が確認されているが、こうしたカ持ち力士の伝承がともなっているのはこの芝大神宮のカ石のみであり、都市のカ石の民俗を知る資料として貴重なものである。平成七年九月ニ十六日 東京都港区教育委員会」「句碑星野立子、星椿、星高士、三代句碑」そよりとも 風はなけれど 夜涼かな 立子千年の 神燈絶えず 去年今年 椿界隈の たらだら祭 なる人出 高士」拝殿への脇の入口であっただろうか?「神明恵和合取組」👈️リンク 碑。「生姜塚」碑。境内の玉垣の前には、この神社らしい「生姜塚」があった。江戸時代までこの一帯は、多くの生姜畑があったと。芝大神宮で行われるお祭り「だらだら祭り」とは江戸時代以降についた名前で、それ以前の呼び名は「生姜市」と呼ばれていた。お祭の期間中、境内やその周辺で盛んに生姜が売られていたことから、どうやらその名が付いたようだ。ここで手に入れた生姜は「神明生姜(しんめいしょうが)」といい、食べれば風邪知らず!とのこと。昔からとても大事にされてきました。生姜は身体を温めてくれ、邪気を払うとも言われていると。お祭りの際は生姜飴や生姜湯なども購入できる と。 ・・・つづく・・・
2024.08.08
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更新工事中の「八つ橋」の現場越しに「中島(蓬莱山)」を見る。「旧芝離宮恩賜庭園施設改修工事のお知らせ」。小さな島の岩場に3匹の亀を発見。ズームして。2匹の亀は密に接近。1匹はマイペースで。再び「雪見灯籠」を見る。その奥の高架には新交通「ゆりかもめ」の姿が。正式名称は東京臨海新交通臨海線(とうきょうりんかいしんこうつうりんかいせん)。東京都港区の新橋駅から江東区の豊洲駅までを結ぶ、株式会社ゆりかもめが運営する自動案内軌条式旅客輸送システム(AGT)路線である。開通当初から愛称の「ゆりかもめ」もしくは「新交通ゆりかもめ」で呼ばれることが多く、また同じ東京臨海副都心地区を通る東京臨海高速鉄道りんかい線との紛らわしさもあり、正式な路線名は一般にはほとんど用いられていない。路線名の「東京臨海新交通臨海線」(「臨海線」ではなく「東京臨海新交通」を含めて路線名である)は、運営会社「株式会社ゆりかもめ」が「東京臨海新交通株式会社」だった当時からの名称であるが、社名が変更されてからも従来のままとなっている とウィキペディアより。「海水取入口跡」。「海水取入口跡貞享3 (1686)年当時の様子を記した「楽壽園記」に、「園内には潮入の池」の記録があり、本園の特徴的な要素でしたが、海面の埋め立て等の周辺整備がすすめられたことにより、海の遠景とともに潮入りの機能を失い、現在は海水取入口跡のみが残っています。水路の石垣や鋼鉄製の水門は、本園の池が海を取り入れた景観であったことを示す重要な遺構です。「芝離宮時代の庭園平面図「芝離宮全図」宮内公文害館所蔵」。再び無人運転システムを採用している「ゆりかもめ」を。「旧芝離宮恩賜庭園」の「大泉水」の周囲を1周して、再び「中島」、「浮島」を見る。水面に「逆さ東京ガスビルディング」が。再び「雪見灯籠」を。ここにも亀が。再び「西湖の堤」を見る。中国の浙江省杭州市に西湖という風光明媚な湖があります。この湖に北宋時代の詩人蘇東坡が築いた長堤を西湖堤と言います。この堤は西湖堤を模して造られたものです。当園のほか、小石川後楽園、広島の縮景園などにも見られます と再び。「西湖の堤」の「堤石橋」をズームして。廻り込んで「堤石橋」を。「雪見灯籠」の「宝珠」の上に野鳥を発見。ズームして。鳩のようであった。再び「旧芝離宮恩賜庭園」の池の縁に植えられていた黒松を。薄茶色の巨石の横に木札が立っていた。「しゃりんばい」と。「しゃりんばい」は大気汚染や暑さに強いうえ、潮風にも強い常緑性の花木。道路の緑地帯や公園などによく植えられています と。花が咲くと、ネットから。来園記念撮影場所か?この石の案内板。「離宮時代の西洋館跡明治の初めから外国貴賓の接客は、わが国初の石造りの西洋館といわれる浜離宮の延遼館で行われていましたが、老朽化で明治22年に取壊しとなり、これに代わるものとして、明治23年、芝離宮に木造2階建ての洋館建設が着工し、翌明治24年に竣工しました。離宮のみならず迎賓館の役割も担っておりましたが、大正12年の関東大震災で敷地内の建物すべてが灰燼に帰しました。現在では、その遺構である礎石と植物模様の彫刻が施された大理石の一部が往時を偲ばせます。写真は大正3年「今上陛下御即位式写真帖」に掲載されたもので、渡り廊下を挟み御殿(日本館)が併設されている様子がわかります」植物模様の彫刻が施された大理石の一部。「西洋館立面図(正面) 宮内庁宮内公文書館所蔵」。「迎賓館跡」👈️リンク 前から「旧芝離宮恩賜庭園 」の「西湖の堤」方向を。歴史を感じさせる石灯籠。ズームして。「大山」、「枯滝」方向を。水面も緑に染まって。「浮島」の黒松を。そして「旧芝離宮恩賜庭園 サービスセンター」。「オリジナルグッズ販売」と。「旧芝離宮恩賜庭園 見どころ帖」と書かれたオリジナル手拭い?「堤石橋」。「雪見灯籠」。そして「旧芝離宮恩賜庭園 」をのんびりと楽しんで、出口へ。出口には狭い扉が。押すと開きますと、一方通行の木製扉。そして最後に「舊芝離宮阯 昭和十年三月建設」碑を。 ・・・もどる・・・ ・・・END・・・
2024.08.07
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「石柱」を下り、池沿いの遊歩道を進む。左手に「大島」その後ろに「根府川山」の姿が見えた。池岸の紫陽花(アジサイ)の花。近づいて。紫色のガクアジサイの花。「インドハマユウ(印度浜木綿)」の花であろうか?花に近づいて。こちらは「ヒメキスゲ」。近づいて。北方向の「中島」そして工事中の「八つ橋」を見る。右手前が「根府川山」。「根府川山」。「根府川山」紀州家時代の図面に「ネブカハ山」「ヒイラギ山」と表示されており、両山は一体でつくられているようで、北面に根府川山の表示があった。岩肌の色も黒く、スパッと切ったような断面も直線で鋭い。大石を扱った築山の厳しい表情の石組。「根府川」というのは小田原の地名で、東海道線の駅の名前にもなっている。この根府川石は少し赤っぽく、縦にスパッと切れやすい、板状になりやすい石とのこと。根府川山の近く、鯛橋の辺りはこの赤く平らかな面を持つ根府川石と黒朴石(くろぼくいし)というゴツゴツした黒っぽい石とが組み合わされているそうです。よってこの「根府川山」の名をつけたと ネットから。根府川山の先には大島があり、島に渡るための橋は鯛の形をした根府川石で「鯛橋」と呼ばれているのだ。「鯛橋」。「鯛橋」を渡る。「大島」を囲む水の流れ。「大島」から「根府川山」を見る。「大島」。前方の「大島」を出る橋も石製の「八つ橋」。石製の「八つ橋」を渡る。振り返って。外周遊歩道に架かる石橋。外周遊歩道を振り返って。「大島」に架かる「八つ橋」を横から。「唐津山」。「唐津山」大久保忠朝が老中就任の際は唐津藩主であったので、それを懐かしみ「唐津山」と名付けたのでしょうか?「唐津山」の石組み。「唐津山」を過ぎると、こんもりした築山が2つ見えて来た。「スリバチ山」と石段の見えた「九尺台」。「西湖の堤」をズームして。「九尺台」のアジサイの花。明治八年(1875)、明治天皇がこの高台から海で漁をする様子や海の景色を楽しまれたと。「九尺台」を廻り込んで。「九尺台(九盈台(きゅうえいだい))「九尺」とは高さ、「盈」とは水や月が満ちるという意味です。海の波打ち際に造られたこの高台は、いつ造られたものか不明ですが明治天皇が明治八年にこの庭園に行幸された際、この台上から、海で漁民達が漁をする様子や海の眺望を楽しまれたところです。」この上から東側を見ると海が見えたのであろう。「首都高速都心環状線」の先が海であったのだろう。そして正面に「あずまや」。工事中の「八つ橋」手前から「石柱」をズームして。工事中の「八つ橋」の現場。さらに散策道を園の入口に向かって進む。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.06
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「旧芝離宮恩賜庭園」内の遊歩道を「大山」方向に向かって歩く。巨大な樹の切り株が岩のごとくに。先ほどの「雪見灯籠」を振り返る。前方左が草が生えているが「砂浜」と呼ばれる場所。そして右手に折れて「大山」に向かって進む。庭園内で最も高い標高9mの築山で、頂上からの眺めは見事であった。また、左右の築山と構成される稜線の変化は、池の対岸から見ると味わい深いものが感じられたのであった。「大山」と。「大山」の頂上から、「大泉山」を見る。「大泉山」は庭園の要となる約 9,000㎡の広さを持つ池。昔は海水を引き入れた潮入りの池でしたが、現在は淡水の池になっているとのこと。池は中島と浮島を配して海と湖を形どり、一画には小さな州浜が設けられているのであった。「大山」から手前に巨岩が並ぶ「枯滝」、そして「大泉水」の中央にある「中島」、その左に「浮島」、右手対岸には「四阿」が。ズームして。「大山」の石段を下り、「枯滝」に向かって進む。「枯滝」の先にある築山を見る。この築山には名前がないのか?「枯滝」を歩く。「枯滝」案内板。「枯滝岩を屏風のように立て、左右の岩が交互に出張って奥の岩を奥行き深いものに見せています。奥の岩は落下する滝を表していると思われます。この枯滝の面白いところは、河床の部分が園路になっており、通り抜けられる点です。この通路を通り抜ける途中、右手の大山と左手の築山を結んで「臥龍橋」といわれる橋が架けられていたそうです。」写真下部の基礎らしきものが「臥龍橋跡」であっただろうか?「臥龍橋跡枯滝をはさんで正面に見えるのは大山です。大山とこの築山を結んで、「臥龍橋」が架けられていました。石橋であったと推定されます。今はその橋はありませんが、実際に渡ったものと考えられています。奥方やお女中衆にとっては、大変スリルのある冒険だったことでしょう。」さらに右カーブの「枯滝」を進む。「大泉水」の岸から「雪見灯籠」方向を見る。「西湖の堤」の手前にあった案内板。「木橋の通行止めに関するお知らせ」。老朽化に伴う更新工事であるようだ。正面に「西湖の堤」中国の杭州(現在の浙江省)にある西湖の堤を模した石造りの堤。堤の先にある中島の石組は、楽壽園の頃からのものです と。当園のほか、小石川後楽園、広島の縮景園などにも見られるのだ と。「西湖の堤」の中央にある石製の太鼓橋状の「堤石橋」。鯉も悠々と。左手前方に浮かぶ「浮島」を見る。そして「中島」に渡る。園景の要となる箇所で、池の中央にある「中島」。中国で仙人が住み不老不死の地といわれる霊山を模した蓬莱石組となっているのだと。大小の築山の上に蓬莱石組と手入れの行き届いた松のコラボが見事であった。水面を覗き込むように見事な枝を伸ばした老松の姿を。ここも「枯滝」に似た光景であった。「浮島」には4本の老松の姿が。そして「中島」の先の「八つ橋」は架替え工事中であった。「木製の橋を建設しています。この工事は9月末に完成する予定です。」木製の「八つ橋」とのことだが、橋脚は鉄骨製のようだ。工事前の「八つ橋」をネットから。そして引き返して。「中島この島の石組は、蓬莱山を表しています。蓬莱山は、仙人が住み不老不死の地といわれる中国思想上の霊山のことです。」「大泉水」の南側を見る。「中島」の中央に立つ「蓬莱山」を表した「中島」の蓬莱石組と石塔。蓬莱石組は中国で仙人が住む不老不死の地とされる霊山を模している。軸部が無く、4つの笠を積んだだけとみられる四重塔風石塔。仏教では偶数の石塔(層塔)はないので、石塔の笠だけを集めて積み上げたものであろうか?「西湖の堤」を渡り、左に折れ池沿いを歩く。そして池畔に方形で立ち並ぶ4本の石柱。近づいて。石柱が4本あった。大久保忠朝が小田原藩主の頃、後北条氏に仕えた戦国武将・松田憲秀旧邸の門柱を運び入れたもの。茶室の柱として使われたと推定されると。「石柱この石柱は、小田原北条家に仕えた戦国武将の旧邸から運ばれた門柱です。ここが小田原藩(大久保家)の上屋敷であった当初、茶室に使われていたといわれています。」茶室に使われた柱と。4本の柱とその先に「汐留ビルディング」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.05
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この日は6月25日(火)、都内・五反田の銀行に用事があり、立ち寄りたい場所があったので昼前に出発。自宅近くの民家のアルミサッシの塀には木苺?がたわわに。近づいて。そして、この日は浜松町で下車し、「旧芝離宮恩賜庭園 」を久しぶりに訪ねたのであった。小石川後楽園と共に、今東京に残る江戸初期の大名庭園の一つ。回遊式泉水庭園の特徴をよくあらわした庭園で、池を中心とした庭園の区画や石の配置は、非常に優れています。明暦(1655~1658年)の頃に海面を埋め立てた土地を、延宝6年(1678年)に老中・大久保忠朝が4代将軍家綱から拝領した。忠朝は屋敷を建てるにあたり、藩地の小田原から庭師を呼び庭園を造ったと言われている。庭園は「楽壽園」と呼ばれていました。庭園は、幾人かの所有者を経たのち、幕末頃は紀州徳川家の芝御屋敷となりました。明治4年には有栖川宮家の所有となり、同8年に宮内省が買上げ、翌9年に芝離宮となりました。離宮は、大正12年の関東大震災の際に建物や樹木に大変な被害を受けました。翌年の大正13年1月には、皇太子(昭和天皇)のご成婚記念として東京市に下賜され、園地の復旧と整備を施し、同年4月に一般公開しました。また、昭和54年6月には、文化財保護法による国の「名勝」に指定されました。東京都港区海岸1丁目4−3。「都立庭園のご案内 江戸・東京の庭園へ行こう」案内板。◆大名庭園 ① 浜離宮恩賜庭園(中央区浜離宮庭園) ② 旧芝離宮恩賜庭園(港区海岸一丁目) ③ 小石川後楽園(文京区後楽一丁目) ④ 六義園(文京区本駒込六丁目) ◆江戸町人の庭 ⑤ 向島百花園(墨田区東向島三丁目)◆明治大正の庭園 ⑥ 清澄庭園(江東区清澄) ⑦ 旧岩崎邸庭園(台東区池之端1丁目) ⑧ 殿ヶ谷戸庭園(国分寺市南町) ⑨ 旧古河庭園(北区西ヶ原一丁目)「MAP」。開園 9時~17時 入園料 150円/人(65歳以上 70円/人)「旧芝離宮恩賜庭園」案内板。「旧芝離宮恩賜庭園沿革「舊芝離宮阯」碑。入口通路脇には様々な見どころの案内板が。「名称◆旧芝離宮恩賜庭園庭園八景旧芝離宮恩賜庭園は、江戸初期の典型的な「回遊式」庭園です。園内を巡ると、風景が刻々と変化し目の前に展開します。代表的な景勝ポイントを紹介しますので、ぜひ、この魅力を体験してみてください。※上は大正13年一般公開当時のようす」「中島中国で仙人が住むとされる蓬葉山を表しており、作庭時の石組がそのまま残っています。池の中央に位置し、園景の要となっています。」先ほどの「江戸・東京の庭園へ行こう」の案内がここにも。MAP。「大山 眺望」の上に、東京都北区西ケ原にある「旧古河庭園」で開催されている「春のバラフェスティバル」のポスターが。「西湖の堤中国杭州(現在の浙江省)の景勝地を模したもので、小石川後楽園や縮景園にも同様の堤があります。ここを通り中島へ渡れます。」「石柱この由来は長い間謎でしたが、相模の戦国武将、松田憲秀旧邸の門柱と判明しました。茶室の柱に使うため運ばれてきたものです、」「TOKYO GREEN BLZ みどりと 生きる まちづくり」と。東京都では、100年先を見据えた新たな緑のプロジェクト「東京グリーンビズ」のもとで、東京の緑をまもり・育て・活かす取組の輪を広げ、都民や事業者の皆様とともに、‟みどりと生きるまちづくり”を進めています と。「東京・ミュージアム ぐるっとパス2024」ポスター。「東京・ミュージアム ぐるっとパス2024」は東京を中心とする103の美術館・博物館等の入場券や割引券がセットになったお得なQRコードチケットです。販売価格 2,500円(大人料金のみ)各施設指定の展示を1回ご利用いただけます。販売期間 2024年4月1日(月)~2025年1月31日(金)有効期間 最初に利用した日から2ヶ月間 ※最終有効期間は2025年3月31日(月)「旧芝離宮恩賜公園 弓道場」案内。「弓道場」の写真をネットから。弓道1級以上の実力者しか利用することができないようであった。「旧芝離宮恩賜公園 よくあるご質問」。ペットの入園は不可と。「入口門」はここ1箇所と。「東京都立旧芝離宮恩賜公園」と。「旧芝離宮恩賜庭園の由来」案内板。延宝6年(1678年)、4代将軍徳川家綱から埋立地であったこの地を拝領した老中大久保加賀守忠朝はここに屋敷を造り、作庭を始めました。庭は貞享3年(1686年)までに完成し、「楽寿園」と命名されました。これが本庭園の起源です。「楽寿園」は典型的な回遊式庭園で、園景の中心には江戸の水辺庭園特有の潮入りの池があり干満によって景色が変化するよう工夫されていました。池泉の中央部には中国杭州の西湖堤を模した堤や蓬莱山を表した中島など中国の趣を取り入れ築山のうえから白帆の行きかう沖合の海の展望にも意を注ぐつくりでした。その後、大久保氏により数氏経て、幕末には紀州徳川家の芝御屋敷となり、さらに有栖川宮家を経て宮内省の買い上げにより明治9年「芝離宮」となりました。明治24年には迎賓館としての役割を果たすために園内に洋館を新築し以来、多くの外国貴賓を迎えました。大正12年の関東大震災で洋館等が焼失したものの翌13年1月、昭和天皇の御成婚を記念して東京市に下賜され、市では震災復旧を行い同年4月に「旧芝離宮庭園」として一般に公開しました。現在は周囲の埋立、林立するビルにより潮入りの機能、海の展望は失われましたが、中島の蓬莱山をはじめとする石組の妙は昔日の面影を残しています。昭和54年、文化財保護法により国の「名勝」に指定されました。総面積は43,175.36m2です。」「旧芝離宮思賜庭園 庭園案内図」。「旧芝離宮恩賜庭園■利用案内開園時間 御前9時~午後5時まで (入園は午後4時30分まで) 休園日/年末年始(10/29から1/1) 入園料/一般 150円 65歳以上: 70円 (小学生は無料 都内在住・在学の中学生は無料)20名以上の団体体は入園料2割引」「入口 Entrance」。「こちらは旧芝離宮恩賜公園です 浜離宮恩賜公園ではありません」と。「旧芝離宮恩賜庭園施設改修工事のお知らせ」中島~八つ橋~アクセス道路が工事中であった。サービスセンター・発券場。「入園券発売窓口一般 ¥15065歳以上 ¥70」ここにも「旧芝離宮恩賜庭園案内図」。そして「旧芝離宮恩賜庭園」の散策開始。庭園の入口すぐには砂利が敷かれた広場があり、大きな「藤棚」があった。フジの花の見頃は4月下旬~5月初旬ごろと。藤棚の下は休憩スペースになっていた。樹齢200年ともいわれている と。廻りこんで。開花すると!!、ネットから。紫の桔梗の花。近づいて。「旧芝離宮恩賜庭園」の南側には高層ビル・「東京ガスビルディング」。高層ビルが手前の池に映り込んで。庭園の遊歩道を反時計廻りに進む。「世界貿易センタービルディング 南館」を見る。サービスセンター・発券場、藤棚を振り返って。池の周りには、見事に手入れされた松の樹が見事な配置で。この場所の地下には「横須賀線」が走っているのだ。池の水面に映り込んだ景色も楽しみながら。「ソフトバンク本社ビル」方向を見る。ズームして。中央左手奥に「四阿」、中央に「中島」右手に「西湖の堤」を見る。「中島」をズームして。飛び石の如き遊歩道を進むと前方に「雪見灯籠」が姿を現した。近づいて。「雪見灯籠」は、石灯籠の一つ。 形に特徴があり、笠が大きく、3~4本の脚を持っています。背が低いため、主に庭園で使用するために設計されたと言われています。お墓に置く雪見灯籠は、置灯籠あるいは墓前灯籠と言う言い方もします と。さらに。足は3本のものが主流で笠の丸い丸雪見と六角形の六角雪見がある と。これでもかと。宝珠・笠・火袋・中台(受)・足 の5つの部位で構成されるもの。古来より、池の近くで水面を照らしたり、庭石(台石)の上に据え、庭全体を照らす場所に据えられていたのだ と。廻り込んで。「雪見灯篭」という名前の由来は、実は1つではありません。主な意味としては「笠の部分に積もった雪を楽しむものだから」とされていますが、「笠の形が雪が積もったように見えるため」という説もあります。そのほか、近江八景の「浮見(うきみ)」が変化して「雪見(ゆきみ)」になったとも。「州浜州浜は、楽寿園時代(1678~1818年)からの地割であり、潮の干満を表現する上でも、重要な水景の要素です。現在は、水位の変化を楽しむことはできませんが、大泉水の岸辺の景観要素であるとともに、泉水を望む際の眺望ポイントとなっています。州浜の中心に立っている雪見灯籠は、離宮時代(1871~1924年)のものとされています。」 ・・・つづく・・・
2024.08.04
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そして右手にあったのが「小田原ガイド協会」の入る「二の丸観光案内所」。廻り込んで。「馬屋曲輪」案内板。「馬屋曲輪は、L字型を呈する独立した曲輪である。周囲に石垣を巡らせ、その上に土塁と塀を備え、土塁の上へと登る雁木(階段)は、ニ重櫓両側(写真1 )と側土塁(写真2)の位置にあった。この曲輪は、三の丸より東側は「馬出門」、南側は「南門」を経て「御茶壺曲輪」から二の丸表玄関である「銅門」へと至る重要な位置にある。曲輪の規模は、東西四十七間(約92.59m)、南北三十七間(約72.89m)であった。曲輪内には砂利が敷かれ、「馬屋」と「大腰掛」の二棟の建物を中心に番所、切石を配した井戸などがあり、南東隅には二重櫓があった(図1)。「馬屋」と「大腰掛」は「板塀」により繋がっており(円礫を用いた石列の位置)、発掘調査では、塀を境に表と裏では敷かれている石が異なっている様子が確認されている(写真3)。また、「住吉橋」の東に「住吉松」と呼ばれた名物のマツがあったが、幕末に失われた。なお、曲輪内にあるマツの内、4つ目垣のある老マツは古写真にも写る古木である(写真4)。」馬屋跡・大腰掛跡馬屋曲輪の名前の由来でもある主要建物。古文書や絵図類を見ると、稲葉氏の時代には存在することがわかり、元禄16年(1703) 11月22日の地震で発生した火災で焼失した。発掘調査でも、この時の火事の痕跡が明瞭に確認されている。西側の建物が「馬屋」、東側が「大腰掛」である。「馬屋」は、現存する彦根城の馬屋を参考にすると、およそ14頭の馬を繋ぐことができたと考えられる。「大腰掛」は、「大腰かけ御番所」とも呼ばれる登城者の待機所であり、江戸城の「百人番所」(東京都千代田区)、二条城の「二条在番」(京都府中京区) のように番所でもあった。いずれも、寛永11年(1634)の将軍徳川家光の上洛に際し、小田原城が宿所とされたために整えられた特別な施設と考えられ、小田原城の重要性がうかがわれる。なお、小田原藩の馬屋は二の丸の西側にあった。二重櫓櫓台寛永20年(1643) 12月26日付で、幕府より櫓新設の許可を経て作事が行われた建物である。絵図に描かれた二重櫓を見ると、雌雄の鯱瓦を乗せた上層の屋根は破風のない入母屋造り、下層は千鳥破風を伴う寄棟造りで、石落としを備えていたことがわかる。切石敷井戸円礫を積み上げた井戸で、表面は溶結凝灰岩の切石で装飾されていた。表面の切石は、内側は六角形を呈しており、外側は円形となっている。六角井戸は、大陸より伝えられた特別な井戸とも言われ、この井戸も徳川将軍家との関連性がうかがわれる。「宮内庁図(宮内庁書陵部所蔵)」。「小田原市観光アプリケーション ARポイント 馬屋曲輪江戸時代(1703年:元禄16年以前)の馬屋曲輸の様子を再現しています。小田原城の正規登城ルートに位置し、石垣と白亜の土塀で区画されていました。ここには、登城した武士が馬をつなぐための馬屋と、従者の控え所である大越掛がありました。」「馬屋跡登城する人が馬を繋ぐための建物で、この馬屋は徳川将軍家が来た時に使われる特別なものでした。絵図(「文久図」)の記載や発掘調査の結果から、長さ21間(約41.35m )、奥行3間半(約6.89m )の建物であったことがわかりました。元禄16年(1703)の元禄地震によって倒壊、焼失し、以後再建されませんでした。発掘調査では焼土や焼けただれた瓦が出土しています。現在は、建物の範囲を表面表示しています。」こちらが現在の「馬屋跡」。江戸時代の小田原城は徳川将軍家の上洛の際に宿所として使われたが、馬屋曲輪の馬屋は将軍家が使用したと考えられている。尚、小田原藩の馬屋は二の丸の西側にあった と。「雁木」。「雁木土塁上へ登るための階段。発掘調査で初めて確認され、凝灰岩(小田原石・水道石・風祭石とも言われる。)製。もともと斜めに設置されていた。」「切石敷井戸跡」。近づいて。「切石敷井戸跡安山岩の円礫を積み上げ、上面に箱根山の溶結凝灰岩(風祭石)の切石を敷き詰めた井戸です。外側は円形、内側は六角形に形作っており、六角形の井戸は特別な井戸であったと考えられています。徳川将軍用の馬屋で用いるための井戸であったと考えられます。」「切石敷井戸跡」に近づいて。「馬屋曲輪ニ重櫓」跡。「馬屋曲輪ニ重櫓」案内板「馬屋曲輪は、寛永10年(1633)に、馬をつなぐ「馬屋」が、設置され、寬永20年(1643)には、南東隅に2階建てのニ重櫓が建てられていました。この櫓は、元禄16年(1703)の元禄地震で倒壊・焼失し、その後再建されましたが、明治時代に取り壊され、櫓台石垣も埋め立てられました。平成21、22年(2009、2010)に石垣復元工事にあわせて発掘調査が行われ、理められた櫓台石垣が現れました。櫓台石垣の寸法は、南北約12.4m、東西約10.9mの長方形で、現存する石垣の高さは、約2.5mでした。また、櫓台には西側と北側にそれそれ石段が付けられていました。発掘調査では、元禄地震で焼けた瓦が大量に発見され、記録にあった地震時の火災を裏付けることができました。また、ここには、樹齢100年を超える黒松が生えており、これらの根が石垣や石段の隙間に入り込んでいる状況も見られました。櫓台石垣と石段は、一度解体して、新たに石を補填して積み直され、馬屋曲輪の土塁内法石垣とともに復元されました。」上左:文久図に描かれた江戸時代末期の馬屋曲輪二重櫓の馬出門上右:馬屋曲輸二重櫓櫓台石垣の調査風景中央:完成直後の馬屋曲輪ニ重櫓櫓台石垣(白い石が新たに補填された石垣石)下左:櫓台石垣角石の切り欠き下右:石段の上の松根の除去「馬屋曲輪ニ重櫓櫓台石垣」に近づいて。「大腰掛跡」を見る。「大腰掛跡 (おおこしかけあと)大腰掛とは、登城する人の待機所や番所として用いられた建物で、ここの大腰掛は、徳川将軍家が来た時に使われる特別なものでした。絵図(「文久図」)の記載や発掘調査の結果から、長さ12間(約23.63m)、奥行3間半(約6.89m)の建物であったことがわかりました。元禄16年(1703)の元禄地震によって倒壊、焼失し、以後再建されませんでした。発掘調査では焼土や焼けただれた瓦が出土しています。現在は、建物の範囲を表面表示しています。」。ネットから、鮮明な写真を。宮内庁図には【長拾弐間半】と記載され、幅についての記載はないが、調査によって出土した東西方向の礎石間の計測から5m前後と考えられる と。大腰掛は、元禄期に消失し、以後再建される事の無いまま現在に至っている と。そして「住吉堀」に架かる「住吉橋」を見る。「馬出門」を通過。「お堀端通り」から「学橋」を見る。「学橋」を渡る。前方に「小田原城 二の丸広場」。「小田原城案内図」。「現在地」はここ。小田原御用邸は、小田原城の、この二の丸御殿跡に明治34(1901)年、創設された。現在のここ「二の丸広場」にあたる。しかし、大正12(1923)年の関東大震災で大破し、昭和5年に廃止された。昭和天皇実録にも明治から大正にかけて、頻繁に記述が出てくる。最初の記載は明治35年1月13日だ。「午後、大磯停車場にお成りになり、小田原御用邸へ旅行途次の昌子内親王・房子内親王と御対顔になる」とある。昌子内親王と房子内親王はともに明治天皇の皇女子だ。明治43年7月8日には、「本日より、御避暑のため雍仁(やすひと)親王・宣仁親王と共に小田原御用邸に御滞在になる。(中略)小田原御用邸御滞在中の三親王の御日課は、概(おおむ)ね午前六時御起床、同三十分御朝餐(さん)、七時三十分より九時まで御運動、九時三十分より十時三十分まで御復習、正午御昼餐、午後四時より五時三十分まで御運動、その後御入浴を済まされて六時御夕餐、八時御就寝とされる」と記載されている。大正4年2月27日には、「午後一時五十分、小田原御用邸に御到着になる。雍仁親王・宣仁親王と御対顔後、御一緒に庭内の御散歩、双六(すごろく)遊びなどをされて過ごされる」とある。また、8年5月10日の夜には、「小田原大火」などと呼ばれる大きな火災があったが、同12日の報知新聞には、「小田原御用邸 閑院宮御別邸は風上とて全く御安全なりき」と記されており、難を逃れたことが分かる。しかし結局、関東大震災で大きな被害を受け、廃止となるのだが、その被災の様子は12年9月8日の大阪朝日新聞の記事にある。「小田原御用邸、裁判所、郡役所、警察署等も半壊した 地盤の亀裂は駅前から幸町通り 小田原御用邸の濠(ほり)端が最も凄(すご)く三尺以上割れている所、六尺位(くらい)埋没して崖をなしている所もある」との記述からは、御用邸周辺が受けた震災被害の大きさが見て取れる。こうして小田原御用邸は歴史的役割を終えたのだった。ここ「二の丸広場」にあった「城内小学校木造校舎」の写真をネットから。入口右に石碑が2基。近づいて。「明治天皇行幸所」碑。「明治天皇駐蹕趾」碑。当地は足柄県庁跡で、明治六年(1873)、明治天皇が滞在した。引き返して、再び朱の欄干の「学橋」を渡る。「学橋」から「めがね橋」方向を見る。大きな黒の鯉が餌を求めてうじゃうじゃと。再び「小田原城二の丸東堀」、「小田原城 二の丸隅櫓」と「めがね橋」を見る。そしてこの日の予定を終了し駐車場に戻り帰路に。「橘料金所」から「西湘バイパス」へ。二宮・吾妻山を左に見ながら西湘バイパスを進む。「西湘二宮IC」を通過。「相模川」に架かる「トラスコ湘南大橋」を渡る。「国道134号」の「柳島」交差点を左折して「茅ヶ崎海岸料金所」から「新湘南バイパス」へ。「湘南ベルブリッジ」下を通過し、ここから20分ほどで帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2024.08.03
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再び「報徳二宮神社」の「両部鳥居」の「一の鳥居・表参道大鳥居」👈️リンクを振り返る。「両部鳥居」は、2本の本柱の前後にそれぞれ低い控え柱を設け、 貫ぬきで連結したもの。 厳島神社の大鳥居がその好例。「表参道大鳥居建立事業👈️リンク平成ニ十九年九月十七日竣工式平成ニ十九年八月ニ十日 御木曳・立柱祭」案内板が様々な写真入りで紹介されていた。「この烏居は多くの方々の御心が寄せられて建立されました。先人達の思いを知り、伝承されてきた文化や技術を継承し、一円融合の精神で地域の絆を育み、この思いを次の世代へ。」「小田原はかって戦国時代に北条氏が関東一円を治めていた町。江戸時代には東海道の宿場町として栄えるなど、豊かな自然のもと、長い歴史の中で様々な伝統文化や技術を育んできました。」「この大烏居は、かって小田原城主が植えたとされる辻村山林の樹齢三百年の大杉を御用材として、小田原の「木」に携わる職人達が力をあわせ、伐採~搬出運搬~製材~加工~建立までの作業を行い、約三年の歳月をかけて完成させた大烏居です。」「高さ三十五m・直径一m以上の巨木を伐採し、長さ十ニmの木材を搬出・運搬・製材することは、通常扱っている材木の大きさをはるかに超えるもので、たいへんな作業でありました。」そして「両部鳥居」の「一の鳥居・表参道大鳥居」の本柱の下から「小田原城 南堀(蓮池)」越しに「南曲輪」を見る。「小田原城 南堀(蓮池)」の「蓮」の開花はこれからか。ズームして。「小田原城南曲輪西南二重櫓」案内板。「小田原城南曲輪西南二重櫓近代以降の小田原城小田原城は、明治3年(1870)に廃城となり、明治34年(1901)には、二の丸内に御用邸が建設されました。しかし、大正12年(1923)の関東大震災では石垣が崩落し、壊滅的な被害を受けました。御用邸は廃止され、二の丸堀北側一帯や住吉堀などが埋め立てられました。昭和4年(1929)、銅門一帯には、小田原高等女学校 (小田原城内高等学校 )や町立第二尋常小学校 (城内小学校・三の丸小学校)が建設されました。昭和初期には、二の丸の石垣などが復旧されましたが、第二次大戦後は、本丸周辺には動物園や遊園地が、御用米曲輪には市営小田原球場が設置され、城跡としての景観は失われていました。小田原城の史跡整備小田原城は、明治13年(1938)に初めて国史跡に指定され、本丸・二の丸の大部分と八幡山古郭や三の丸外郭、総構の一部が国の史跡になっています。昭和35年(1960)に天守閣 、昭和46年(1971)に常盤木 門が復興されましたが、史跡内に多くの施設が残ったままでした。昭和51年より市庁舎をはじめとした施設移転が進められ、昭和58年(1983)からは、本格的に史跡整備に取り組み、二の丸住吉堀の発掘調査に着手した。平成2年(1990)には、住吉堀石垣と住吉橋が復元され、平成9年(1997)に銅門枡形が復元されました。そして、平成21年(2009)には、馬出門が復元され、近世小田原城の大手筋からの登城ルートの歴史的景観がよみがえってきました。小田原城は、北条氏 の中世城郭と江戸時代の近世城郭の複合的な城郭として知られていますが、本丸・二の丸の範囲は近世城郭としての整備が進められています。一方、丘陵部に展開する戦国時代の城郭遺構は、八幡山古郭東曲輪や三の丸外郭の清閑亭土塁 、新堀土塁など史跡指定が進められ、史跡公園 として公開されています。」史跡小田原城跡の主な整備事業一覧昭和28年( 1953 ) 天守台石垣復旧昭和年( 1960 ) 天守閣復興昭和年( 1971 ) 常盤木門復興昭和62年( 1987 ) 住吉堀復元工事開始平成2年( 1990 ) 住吉堀.・住吉橋復元工事完了平成9年( 1997 ) 銅門復元工事完成平成23年( 201 1 ) 馬屋曲輪修景整備事業完了平成21年( 2009 ) 馬出門枡形門・土塀整備工事完了平成18年( 2006 ) 馬出門枡形石垣復元整備工事完了平成1 1年( 1999 ) 本丸東堀遺構表面表示平成7年( 1995 ) 銅門枡形石垣復元整備工事完了江戸時代末期南曲輪一帯南曲輸には西南隅(図書館側)と東南隅(郷土文化館)に2棟の櫓が建っていました。この櫓は千鳥破風や石落しを備えた優美なニ層櫓でした。看板が立っている藤棚一帯は堀の一部を埋め立てた場所に位置します。「南曲輪西南二重櫓横浜の英字新聞「ザ・ファーイースト」明治4年(1871) 12月1号に掲載された南曲輪西南ニ重櫓の写真です。廃城時には、屋根瓦や白壁も崩落し、荒れ果てた姿でした。正面の石垣は、ニの丸南堀と南曲輪の石垣ですが、大正12年(1923)の関東大震災によって崩落し、昭和初期に復旧されたものです。馬出門と銅門小田原城への登城は、馬出門土橋を渡り馬出門を通って、馬屋曲輪から住吉橋を渡り、銅門を通りニの丸主部に至ります。昭和58年から本格的にスタートした史跡小田原城跡の史跡整備は、この大手筋の登城ルートの歴史的景観の復元を目指して進められてきました。小田原城天守閣小田原城天守閣は現存する天守ひな型模型や絵図などを基に昭和35年に鉄筋コンクリート造で外観復元されました。4階展望室からは担模湾が一望でき、天気の良い日には房総半島まで見ることができます。」その先にあった巨大な藤棚。「御感(ぎょかん)の藤 樹名 ノダフジ(マメ科)」と。廻り込んで。「御感の藤 樹名 ノダフジ(マメ科) 昭和三十二年三月三十日 小田原市天然記念物 指定 昭和五十九年十二月 かながわの名木百選 選定この藤は、小田原城二の丸御殿に鉢植えされていた藩主大久保公愛玩ののもので、明治維新後、市内板橋の森本氏の手に渡り、明治十六年に市内唐人町(浜町の西村氏が買い受けて育てられたと伝えられています。大正天皇が皇太子のとき、小田原御用邸に滞在中のある日、西村邸の前を通過した際、召馬が藤棚の下に駆け入ったために殿下の肩に花が散りかかってしまいました。周囲の人々が恐縮していると「見事な花に心なきことよ」と感嘆されたことから、「御感の藤と呼ばれるようになりました。大正十一年三月、小田原保勝会の人々により西村家からこの地に移植され、今日まで小田原の名物として私たちの目を楽しませています。樹齢は約二〇〇年と推定され、既に壮年期を過ぎた古木ですが、五月の開花期に藤棚いっぱいに花房が下がった様子は誠に壮観です。 小田原市教育委員会」開花時の2枚の写真をネットから。「藤棚」交差点の手前を左折。「小峯橋(御茶壺橋)」を渡る。「小峯橋(御茶壺橋)この橋は本来木橋で、正式名称は「小峯橋」と言います。現在では石橋に架け替えられ、「御茶壺橋」という名でも親しまれています。「御茶壺橋」という名前は、江戸時代に宇治(京都府)から将軍家にお茶を献上する際の御茶壺道中と呼ばれる行列に由来します。行列は、往路は江戸から宇治まで東海道を通り、空の茶壹と購入代金が運ばれました。そして、お茶を詰めた復路の道中は、お茶が湿気ないように河川の少ない中山道を通って江戸まで戻ったとされます。小田原城には、この橋を渡った「御茶壺曲輪」に空の茶壺を保管する蔵があったことから、この橋が「御茶壺橋」と呼ばれるようになったと言われています。」「小田原城 南堀(蓮池)」の蓮の花の蕾を追う。開花株も。「御茶壺曲輪」案内板。御茶壺曲輪は、三の丸南側から二の丸へ入る最初の曲輪で、敵に攻められた際に守り手を有利にするための「捨曲輪」として用いられていました。元禄期(1688~1704)には、徳川将軍家に宇治の茶を献上する「御茶壺道中」の際に、往路で空茶壺を納める「御茶壺蔵」が設けられていたことから、御茶壺曲輪と呼ばれるようになったとされます。「寬永年間小田原廓総図」部分(『小田原市史 別編 城郭』より)左下隅に「小峯橋(御茶壺橋)」が描かれていた。再び、「小田原城 南堀(蓮池)」を見る。美しく咲いているアジサイを。「国指定史跡 小田原城後 ・小峯御鐘ノ台大堀切 ・三の丸外郭新堀土塁戦国時代の小田原町戦国時代の小田原城は「難攻不落」と言われ、上杉謙信や武田信玄の城攻めを食い止め、豊臣秀吉も攻めあぐねた堅城でした。ここから徒歩20分ほどの場所に、北条氏による城郭づくりの知恵と特徴が見られる場所があります。「小田原総構マップ」をニの丸観光案内所でお配りしていますので、お気軽にお立ち奇りください。なお、新堀土塁は10時から15時までの開園。大堀切は街灯がありませんので、明るいうちの散策をおすすめします。」小田原城 名所案内。「常盤木橋」方向に進み住吉橋方向を見る。「小田原城案内図」。現在地はここ。「銅門」を見る。「御茶壺曲輪 番所跡江戸時代、徳川将軍家には宇治の茶が献上されており、御茶壺曲輪には、道中で茶壺を保管するための御茶壺蔵がありました。この場所には、御茶壺蔵などを警護する番人の詰所(番所)があったとされます。小田原城の最盛期の様子を描いた「寛永年間小田原城廓総図」(宮内庁宮内公文書館蔵)によれば、その規模は六間×二間(約10.9m×3.6m)ほどだったようです。」御茶壺曲輪から住吉堀越しに銅門の南側、そして住吉橋を見る。「アオサギ」の姿が。日本で繁殖する最大のサギ。 青みがかった灰色の羽毛で被われているから「アオサギ」。全長1m弱。体の上面、翼の上面はうすく黒味のある灰色で、翼の風切羽は青色がかった黒色。飛んだ時に風切羽と肩の灰色の対照がはっきりしています。下面は白っぽい。日本で繁殖するサギの仲間としては最大です。背が高く、脚も長い。飛行姿は長い首をZ字型に曲げ、後方へ脚を伸ばし、大きな翼をゆっくりはばたいて飛びます。「グワァー」と大きな声。飛行中には「グワッ」や「カァン」とか聞こえる。より短い声で鳴くこともよくあります。高い樹上に枝を組んで、やや皿形の大きな巣をつくって繁殖します。集まって繁殖することが普通です。食べ物は動物食で、魚類や水辺で捕れる両生類、爬虫類、甲殻類、それに小鳥のヒナなども食べています。日本では北海道から本州、佐渡、四国、九州、対馬などで繁殖しています。最近の30年で増加し、日本中で見ることができるようになりました とネットから。「御茶壺曲輪 御茶壺蔵跡」「御茶壺曲輪 御茶壺蔵跡江戸時代、徳川将軍家には宇治の茶が献上されており御茶壺曲輪のこの場所には、道中で茶壺を保管する御茶壺蔵がありました。小田原は、江戸から宇治に向かう往路に位置しており、小田原城に立ち寄る際に、空の茶壺がこの蔵に収められたと考えられます。小田原城の最盛期の様子を描いた「寛永年間小田原城廓総図」(宮内庁宮内公文書館蔵)によれば、その規模は六間×四間(約10.9m×7.2m)ほどで、入母屋の屋根をのせていたようです。」「銅門と住吉堀の発掘調査」案内板。「銅門と住吉堀の発掘調査銅門や住吉堀は、昭和58年から平成4年にかけて行われた発掘調査の成果や古絵図等の資料に基づいて復原されています。この発掘調査では、江戸時代の堀や石垣だけでなく、戦国時代の井戸や水路、障子堀と呼ばれる堀などが発見され、戦国時代から江戸時代にかけて、小田原城が何度も造り替えられていたことがわかりました。」「発掘調査された住吉堀。江戸時代の石垣の下から戦国時代の障子堀の跡が発見されました。」「発掘調査の出土品」。住吉橋をズームアップして。左手に「銅門」、右手に「住吉橋」、「銅門枡形内仕切門」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.02
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「小田原城 天守閣」を後にして石段を降りる。次の目的地は「報徳二宮神社」。道路脇のガクアジサイの花を楽しむ。「小田原城址公園こども遊園地」のミニSLが子供たちを載せて。ここにもアジサイ・紫陽花の花が。近づいて。関東大震災により滑り落ちた「本丸石垣」跡が残っていた。「小田原城案内図」。現在地はここ。次の目的地の「 報徳二宮神社」の「境内配置図」をホームページから。「報徳二宮神社」の北側の入口。「小田原城内大日一尊種子板碑」。報徳二宮神社の北側にある鳥居の前にある板碑。後ろの石も関東大震災により滑り落ちた石垣の石であろうか?板碑の下側には字が刻まれているようだが判読できなかった。「小田原市指定文化財 (平成二十九年三月二十七日指定)小田原城内大日一尊種子板碑 地上高 百七cm 幅 七十七・五cm 最大厚 十七・一cm正面に金剛界大日如来をあらわす種子(バン)を刻み、下部には、結衆により供養が毎月十五日に行われた旨の願文がありますが、年号などは記されていません。石材は、箱根火山の安山岩質熔岩と推定されますが、相模西部で確認されている他の安山岩製板碑と比べると、自然石をあまり加工せずに作られており、特異な存在です。天蓋の形態などから、筑波山周辺の異色粘板岩で製作される「常総型」の影響が認められます。造塔された時期は、形態の特徴から、鎌倉時代末期から南北朝時代と考えられます。中世小田原周辺で製作された板碑の多様性を考える上でも重要な文化財です。 小田原市教育委員会」ネットで調べてみると、下記の文字が刻まれていると。報徳二宮神社の北側にある鳥居横にあった案内板。 ・杜のひろば ・きんじろうカフェ ・Cafe 小田原柑橘俱楽部 ・HOTOKU KAIKAN ・食楽庵 報徳 ・カフェ・ジンジャー 報徳博物館「報徳二宮神社」。入って右側の堀には水が溜まっていた。「小峯曲輪北堀」深い空堀が掘られているが石垣がなく、小田原城が石垣を用いない土塁と空堀だけの戦国時代の城郭であったことがよくわかると。報徳二宮神社の北側にある堀で、右上にはこども遊園地がある。「小田原城小峯曲輪北堀報徳二宮神社の境内は、戦国時代北条氏によって造成された古い曲輪にあたります。江戸時代の前期は雷曲輪、後期には小峯曲輪と呼ばれていました。雷曲輪は全国にも例のない面白い名称ですが、由来ははっきりしません。小峯は天守閣の裏手、西側一帯を指す古い地名なので、これにちなんだものでしょう。目の前の空堀は、左手の小峯曲輪を囲む堀の北側の部分です。石垣を用いない土塁と空堀だけの、戦国時代の城の原形をよく留めている貴重な遺構です。堀幅は神社境内の土塁から二一メートル、深さは現状で五メートル余りですが、実際の堀底はさらに二~三メートルは深くなるでしょう。また堀底には、堀障子と呼ばれる畝状の仕切が設けられていたと考えられています。正面右手急斜面の高台は、本丸の裏手を守る曲輪状地形の屏風岩(現在遊園地)です。小峯曲輪北堀は、今公園路となっている屏風岩と本丸との間の本丸西堀と、神社裏門出口の辺りで合流し、本丸の南麓、現在の市立図書館(南曲輪)前から、常盤木門下の九輪橋の方へ向っていました。 報徳二宮神社」雰囲気のある、社務所と本殿をつなぐ渡り廊下があった。この下を潜り境内に向かって進む。絵馬「二宮先生御肖像 相模國 報徳二宮神社」。「御社殿」。明治42年本殿・幣殿を新築、拝殿を改築し、神苑を拡張して現在の社地の景観を整えました。平成6年(1994)には創建百年記念奉告祭を斎行して今日に至っています。現在、神社本庁別表神社。社殿は神明造り(神社建築の一様式)。なお、拝殿礎石は天保の大飢饉の際、藩主大久保翁の命により尊徳翁が小田原城内の米蔵を開き、米が人々の手に渡ったことにより小田原11万石の領内から一人の餓死者も出さずにすんだという、その米蔵の礎石が用いられています。近づいて。「報徳二宮神社御祭神 二宮尊徳翁 幼名 金治郎 通名 金次郎例祭日 四月十五日神徳景仰祭 九月第三日曜日」さらに。「御社殿」の内陣をネットから。「授与所」◆授与時間 午前9時~午後4時神札・お守り・金次郎あめ・報徳文庫書籍を頒布 しております。お水とりの方もこちらにお申し出ください。◆朱印頒布時間 午前9時~午後4時ご朱印料は500円以上お気持ちでお納めいただいております。境内の八重咲きのガクアジサイ。「神池」。「神池」には多くの錦鯉が泳いでおり授与所で、鯉の餌の販売もしているのであった。「祈祷殿」。恒例祭典や結婚式などで御本殿が使えない時でも、祈祷殿にて御祈願を執り行います。元は、宝物殿として使われており、納められていた物は報徳博物館に展示されています。「祈祷殿」の「内陣」をネットから。「絵馬掛」。「二宮金次郎像」。「二宮金次郎像昭和三年 昭和天皇の即位御大礼記念として 神戸の中村直吉氏が寄進したもので制作者は三代目慶寺円長 材質はブロンズ その後これと同じ像は全国の小学校などに向けて約一千体制作されたが 戦時中すべて供出に遭い現在残っているのはこの一体だけである。なお、 この像は当時のメートル法普及の意図を反映して 丁度一メートルの高さに制作されている。」"薪を背負って歩きながら本を読む"金次郎の姿が初めて登場したのは明治24年(1891)に出版された幸田露伴の『二宮尊徳翁』という本の挿絵でした。当神社にある少年像は昭和3年、昭和天皇即位御大 礼記念として神戸の中村直吉氏より寄進されたブロンズ像。製作者は三代目慶寺丹長。廻り込んで。全国の小学校で、老朽化や学校立て直しなどに伴い、二宮金次郎像が撤去される現象が進んでいると。その背景には、「児童の教育方針にそぐわない」「子どもが働く姿を勧めることはできない」「戦時教育の名残という指摘」「『歩いて本を読むのは危険』という保護者の声」などもあると。最近の二宮金次郎像は、下のように薪を脇に置いた腰掛けスタイルが多いらしい 。この写真はネットから。歩きスマホの危険性などが問題視される中、学校でも生徒に『ながら行動』をしないように指導していると。こうした時流を考え、本を読みながら歩く金次郎の像よりも、座像の方が適切だと。たとえ座っていたとしても、金次郎の勤労・勤勉の精神は生徒に伝わる とも。「報徳二宮神社」の御社殿を振り返って。所在地:神奈川県小田原市城内8-10御社殿は神明造りで、明治42年に本殿・幣殿を新築、拝殿を改築し、神苑を拡張して現在の社地の景観を整えましたと。なお、拝殿礎石は天保の大飢饉の際、藩主大久保翁の命により尊徳翁が小田原城内の米蔵を開き、米が人々の手に渡ったことにより小田原11万石の領内から一人の餓死者も出さずにすんだという、その米蔵の礎石が用いられている。「祈祷殿」を背景に「二宮金次郎像」と「狛犬」を見る。反対側の「狛犬」。「社務所」をズームして。表参道の「三の鳥居・神明鳥居」越しに「御社殿」を振り返る。「石灯籠」。「手水舎」。表参道を逆行して進む。参道を進む。正面に「二の鳥居・神明鳥居」。「二宮尊徳 翁像」が右手前方に。後方には「きんじろうカフェ」「Cafe 小田原柑橘俱楽部」。「二宮尊徳 翁 【1787~1856】 経済なき道徳は戯言であり 道徳なき経済は犯罪である江戸時代後期の農政家・思想家。通称金次郎。尊徳は武士の名乗り。幼少時の逸話が一般に知られているが、後に「報徳仕法」と呼ばれる独自の方法と理念で、小田原藩や日光神領などを含む、多くの諸家諸領の復興に尽くした。直接・間接的に指導した農村は六百余りにものぼる。内村鑑三著「代表的日本人」の中でも、十九世紀末、欧米諸国に対して「日本人の中にも、これほど素晴らしい人物がいる」と苦難の時代を救った偉人として尊徳翁は紹介されるなど、明治時代以降の政財界人にも多くの影響を与えたのである。翁の教訓や訓言は、今の時代にも通じる、私達が手本とすべきものばかりである。」「二宮尊徳 翁像」に近づいて。「兵庫県西宮市報徳学園創立100周年記念として彫刻家 南部祥雲氏に依頼作成された「二宮尊徳翁立像」10体の内1体。平成21年11月23日に、前報徳学園理事長 故 大谷勇様より寄贈いただきました。平成22年5月31日に、入魂祭並びに除幕式を行い現在に至ります。」と。石碑には、「二宮尊徳翁之像 至誠と実行 大谷勇 贈」と刻まれていた。「佐々井信太郎歌碑「あらそいの なき世づくりを 話あいて 譲るは 神に通ふ道なり」生涯を報徳道の研究、実践、宣揚に努めた佐々井信太郎翁の遺徳を称え、神苑の一角に歌碑を建立し、後世に伝えています。」と。「福住正兄翁頌徳碑尊徳の門人(弟子)、神社創建の中心人物でもあった 福住正兄の功績を残す為の記念碑。福住正兄翁👈️リンクは御祭神の四高弟の一人で、当神社創建の中心人物であります。箱根湯本の老舗旅館「福住」の主人でもあった正兄は、尊徳翁の教えを忠実に実践し、報徳の思想を後世に伝えました。大正五年、功績を末永く伝えるために、ゆかり深い当神社神苑に記念碑を建立しました」と。最上部には「報徳克譲」と刻まれていると。「克譲」とはよく人に譲ること と。参道の石段を下る。振り返って。左手奥にあったのが、「報徳会館」。ここにもアジサイの花が。そして前方に「両部鳥居」の「一の鳥居・表参道大鳥居」。高さ三十五m、直径一m以上の巨木を伐採し、長さ十二mの木材を搬出・運搬・製材することは、通常扱っている材木の大きさをはるかに超えるもので、大変な作業でありましたと。両部鳥居(りょうぶとりい)本柱の前後に小柱を設けこれに貫を通します。また笠木の上には屋根板をはり棟木を置きます。四脚鳥居、権現鳥居とも呼ばれています。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.08.01
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さらに4階から5階への階段を上る。階段は左側通行と。5階の「常設展示室3」を訪ねた。近づいて。廻り込んで。小田原城天守再現コーナー江戸時代に天守にまつられていた摩利支天像の安置空間を再現し、再現に生かされた職人の技を映像で紹介していた。「摩利支天と小田原城小田原城天守最上階には、武士の守り本尊として信仰された摩利支天像が安置されていまし「た。大久保忠朝か貞享3年(1686)に佐倉藩(佐倉市)から小田原藩に復帰した際に、天守に祀ったとされています。「御天守摩利支天」と呼ばれ、元禄16年(1703)の地震において焼失をまぬがれたことから、更に尊崇を集めました。摩利支天像は、明治3年(1870)に天守が取り壊された際に、永久寺(現小田原市城山)に移されましたが、昭和35年(1960)に天守閣が復興された際に返還されました。」「小田原城天守模型の調査小田原市から委託を受けた小田原城天守模型等調査団(団長・西和夫神奈川大学名誉教授)は、3基の小田原城天守模型と絵図等の関連資料の調査を行いました。その結果、天守最上階に、摩利支天を含む天守七尊が安置されていた空間の詳細が明らかになりました。そこで天守閣耐震改修に際して、この摩利支天像が安置されていた空間を再現することとなりました。」「小田原城天守模型(東博模型)」(右)「最上階須弥壇平面図」(上)と「最上階須弥壇立面図」(下)「市民による摩利支天安置空間再現摩利支天安置空間の再現にあたっては、かっての小田原藩有林などを中心とした小田原産材が用いられ、その多くは市民の寄付によりまかなわれました。切り出しや運搬、加工にも多くの市民が協力し、古建築についての知識と経験を活かした様梁を中心に、小田原の職人が施工しました。小田原の木に関わる多くの人のカが結集し、平成28年(2016)、明治3年(1870)の廃城以来146年を経て、かっての小田原城天守最上階の姿がよみがえりました。」「小田原城天守最上階模型 平成27年(2015)」「小田原城天守最上階模型 平成27年(2015)小田原城天守模型(東京国立博物館模型)の実測結果をもとに制作したもので、柱の配置や摩利支天像が安置されていたとされる須弥壇の様子が分かります。」「天守型厨子」。「天守型厨子」年代未詳 小田原城天守閣蔵高さ161. 0cm 幅72.5cm 奥行71 .5cm摩利支天像が納められていた厨子で、小田原城天守の姿を模したものと思われます。一層部分には観音開きの扉があり、内部には金箔が貼られています。作られた時期は不明ですが、明治3年(1870)の小田原城廃城後に摩利支天像を安置していた永久寺(小田原市城山)刊行の「天守七尊」図には、本資料に納められた姿で摩利支天像が描かれており、昭和35年(1960)の天守閣復興の際に摩利支天像とともに小田原城天守閣に収められました。」「摩利支天」👈️リンク 案内。「摩利支天と天守七尊摩利支天は、日本では武士の間であつく信仰されてきました。小田原城天守のものは三面六臂(さんめんろっぴ/3つの顔と6本の腕)で、イノシシに乗る姿で表されています。また、作られた時代は分かりませんが、天守の形をした厨子に納められています。江戸時代の天守には、摩利支天を含む、天守七尊と呼ばれる仏像が安置されていました。現在残るのは、阿弥陀如来、如意輪観音、大日如来、弁才天、地蔵菩薩、薬師如来で、明治3年(1870)の廃城時に持ち出され、現在は永久寺(小田原市城山)に安置されています。」「摩利支天像」を四方から。映像でも紹介されていた。「今日まで380年 小田原の町を見守ってきました。」「そして今、この摩利祀る空間が」。「最上階にある摩利支天の空間の・・・」「詳細が明らかになりました。」「摩利支天」を祀る「須弥壇」を斜めから。正面から。「摩利支天」の左右に天守七尊と呼ばれる仏像が安置されていた。右から地蔵菩薩、弁才天、薬師如来像。中央の「摩利支天」像を再び。ズームして。右側には、右から阿弥陀如来、大日如来。廻り込んで。大日如来、如意輪観音。そして「諸山十尊(しょさんじゅっそん)天守閣最上階から見えるのが箱根連山です。これらの中で、天守背後に位置する駒ヶ岳、明神ヶ岳、二子山、石垣山など10の山頂は、諸山十尊として天守七尊とともに信仰されていました。」最上階にある「回廊・展望デッキ」からの光景案内板。西側。諸山十尊として天守七尊とともに信仰されている駒ヶ岳、明神ヶ岳の姿が。この日の西側の諸山十尊の絶景。西側、駒ケ岳の左には双子山、石垣山一夜城が。「石垣山一夜城」👈️リンクは以前に行った時の写真(左の鉄塔の上部の山頂の場所⇓ズームして。「二子山」をズームして。南側・真鶴半島方向。真鶴半島。「伊豆大島」の姿が写真左に。真鶴半島をズームして。「小田原三の丸ホール」、「常磐木門」方向を見る。「常磐木門」をズームして。東方向には「江ノ島」、「三浦半島」が見えると。我が市の「江ノ島」の姿が辛うじて。北側の案内。北側の写真の一番右側の「小田原駅」の先が「大山」。その左から「三の塔」、「塔ヶ岳」、「蛭ヶ岳」、「檜洞丸」。そして階段を降りて1階ミュージアムショップ(天守閣内)に立ち寄った。「伝統の小田原物産小田原市には豊かな歴史と自然を背景として、菓子「ういろう」や「かまほこ」、「小田原提灯」などさまさまな物産が生まれ、現在まて脈々と受け継がれています。歴史的には、戦国時代に関東の霸者てあった小田原北条氏の本拠地、また江戸時代には東海道の難所・箱根の手前の宿場として経済・文化的に発展した小田原。自然の面では、南に広がる相模灣ての水産物、西の箱根山系から伐りたされた木材などの資源に恵まれています。」「ういろう」、「梅干し」、「蒲鉾」、「小田原漆器」、「寄木細工」、「小田原提灯」、「小田原鋳物」、「その他さまざまな物産」。小田原周辺ガイド1️⃣北条早雲公像小田原駅駅西口のロータリーにある、高さ5.7m、重さ7tの像です。平式2年(1990)、小田原市制50周年を記念して造られました。北条早雲が牛の角に松明を付けて走らせることで軍勢を多く見せ、大森氏から小田原城を奪ったという、「北条記」に書かれた「火牛の計」のエピソードをモチーフにしています。2️⃣小田原文学館北原白秋や北村透谷など、小田原にゆかりの文学者を紹介しています。宮内大臣田中光顕の別荘を改装した本館と桜閣風の白秋童謡館があり、建第も楽しむことがてきます。敷地内には尾崎一雄邸の書斎も移築されています。3️⃣北条氏政・氏照の墓所天正18年(1590)の小田原合戦後、徳川家康と外戚関係にあった五代氏直は高野山に追放されましたが、四代氏政と氏照(氏政の弟で八王子城主)の兄弟は自刃し、かつてこの地にあった小田原北条氏の氏寺・伝心庵に葬られました。4️⃣報徳二宮神社・報徳博物館ニ宮尊徳をまつる神社です。明治27年(1894) 4月、二宮尊徳の教えを慕う6カ国(伊勢国、三河国、遠江国、駿河国、甲斐国、相模国)の報徳社の総意により建立されました。尊徳の遺品などを展示する報徳博物館も隣接しています。5️⃣松永記念館・老欅荘(ろうきょそう)電力王と呼ばれた実業家で、近代三茶人の一人、松永安左衛門(耳庵)が、自らが収集した古美品の公開を目的として自宅數地内に建てました、敷地内にある老欅荘(国登録有形文化財)は、近代数寄屋建築で松永が晩年を過ごした居室です。6️⃣小田原漁港神奈川県西部の拠点となる漁港で、アジやイワシなど多くの魚が水揚げされます。漁港内には魚市場や食堂もあり、新鮮な旬の魚介類を楽しめます。防波堤に建てられた、小田原提灯を模した灯台も見どころの一つです。7️⃣清閑亭・清閑亭土塁黒田官兵衛の子孫で、貴族院副議長を努めた黒田長威の別荘です。小田原城三の丸外郭の土塁上にあります。数寄屋風の和風建築で、平成17年(2005)、国の登録有形文化財になりました。晴れた日には、母屋から真鶴半島や大島、相模湾や箱根山を一望できます。8️⃣小田原宿なりわい交流館関東大震災の後、旧網問屋「角吉」を昭和7年(1932)に再建した建物です。小田原の典型的な商家の造り「出桁造り」が用いられています。まち歩きの際には、案内所やお休み処としてぜひお立ち寄りください。9️⃣小田原市郷土文化館小田原市の歴史や文化、自然を紹介する博物館です。市内で出土した土器や石器等から小田原藩時代の古文書、市内でのなりわいを支えた民具まで多様な資料を展示しており、旧石器時代から現代までの小田原の歴史を○○できます。ミュージアムショップの店内。お土産が所狭しと並んでいた。「北条五代」を大河ドラマに👈️リンク。「北条五代」を題材としたNHK大河ドラマを誘致するために「署名」のご協力をお願いします」と。「戦国の世にあって親兄弟争うことなく五代百年にわたり関東を治めた北条氏は、減税、殖産興業、経済振興、文化奨励などの善政を敷きました。「民を豊かにし、国を豊かにする」という北条氏の領国経営は、現代のまちづくりにも通じるものです。北条氏の魅力を日本全国へ広く発信するために、大河ドラマ化を求める署名活動にご協力をお願いします。●北条五代とは戦国時代、小田原城を本拠に関東一円を支配した戦国大名が北条氏(後北条氏とも言う)です。歴代当主五人は、北条五代と呼ばれています。明応9年(1500)頃、関東で理想の国家を作ろうと、北条早雲(伊勢宗瑞)が伊豆韮山から小田原城に入りました。以後、北条氏は小田原を拠点として、多くの人材を上方から招き、産業を興し、着々と勢力を伸ばしていきました。ニ代目氏綱が関東支配の礎を築き、三代目氏康の時代には城下町の形態も整えられ、小田原は関東における政治、経済、産業、文化の中心として繁栄しました。そして、天下統一の機運が高まる中、四代氏政・五代氏直は、豊臣秀吉軍の攻撃に備えて町全体を取り囲む巨大な総構を築きましたが、天正18年(1590)、約18万の大軍に小田原を包囲され、約100日に及ぶ籠城戦の後、小田原城を開城し、北条氏は減亡しました。」是非、実現して欲しいのであるが。「鎌倉武士の日常生活」講演会ポスター。「鎌倉幕府の肖像~木像や肖像画からみる武土の装束について~」「北条家の人々~義時、泰時を中心に~」「幡多から波多野へ ーー古代の秦野ーー」東国の相模国幡多郷であった秦野地域の庶民やこの地域を出身とする人物等について、奈良・平安時代の遺跡から発見された遺構遺物や文献等から解説。「禄寿応穏 小田原城」👈️リンク。「小田原かまぼこコレクション」。近づいた写真をネットから。小田原といえばなんと言ってもかまぼこ!!各社の自慢のかまぼこが並ぶ。「小田原城天守閣 来館記念スタンプ「虎朱印」「虎朱印」に刻まれている「祿壽應穩」(禄寿応穏)には、禄(財産)と寿(生命)が応(まさ)に穏やかであるように、人々が平和で暮らすという願いが込められているといわれ、小田原北条氏二代氏綱から五代氏直までの歴代当主が用いました。」小田原城の「プリクラ」。「世界でココだけ 全身撮影OK プリムービー無料」と。小田原城天守閣入口には学生の集団が。花菖蒲と小田原城天守閣が描かれた「御城印」を頂きました。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.31
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天守閣3階の【企画展示室1】。小田原城周辺の発掘調査結果や小田原ゆかりの美術工芸品や甲冑、刀剣などが展示されていた。発掘調査結果の展示コーナー。「発掘された小田原城とその城下小田原城とその城下では、昭和46年(1971)以降500地点を超える発掘調査が行われています。土の中から現れた「茶碗のかけら」も非常に多くのことを語りかけてくれます。それは、歴史の表舞台に出てこない人々の暮らしぶりや、いきいきとした小田原城の姿です。発掘調査によって垣間見えた、足元に眠る小田原の一部を紹介します。」「史跡・小田原城趾 御用米曲輪でみつかった切石敷遺構風祭石(箱根の凝灰岩)と鎌倉石(黄色い凝灰岩)を加工しモザイク状に組合わせた切石の庭園遺構です。要所には安山岩の巨石を配して見所を作っており、この庭園を眺めるような位置で大型の礎石建物が見つかっています。このような切石を用いた底園は全国的に例がなく、小田原北条氏が高い文化と技術を持っていたことをうかがわせます。」発掘状況。左 :小田原城の発掘調査中央:小田原宿のにぎわい右 :小田原城を取り巻く城下の暮らし下部には、発掘された数々の陶磁器が展示されていた。左 :かわらけに見る小田原北条氏の世界👈️リンク かわらけとは、武家社会において儀式や宴会で使われる素焼きの器です。関東地方の かわらけはロクロで成形されるものが主体ですが、小田原北条氏は、手びねりで作る 京都系の技術で作られたかわらけを用いていました。これらのかわらけは「小田原物」と 同様に、領国内で珍重されて用いられました。中央:かわらけと饗宴右 :船載品へのあこがれ 下部には発掘された多くのかわらけが展示されていた。「戦国時代の小田原城出土のかわらけの移り変わり」。「かわらけと饗宴北条幻庵(宗哲)が鶴松院に与えた心得「宗哲覚置」に記された婚礼礼作法や式三献、年中行事に関する注意書きから、当時のかわらけの使い方がうかがい知れます。また、永禄元年(1558) 4月、古河公方足利義氏が小田原の北条氏康館を訪れ、饗応を受けた際の記録があります。そこには、氏康館での儀式の様子が記され、かわらけとともに小田原の名産である梅干しや蒲鉾などもみられます。」小田原城三の丸藩校集成館跡第Ⅲ地点29号溝中層から出土したかわらけ(写真右上・右下)。大量に一括廃棄された出土状況から、儀式や宴席で使用されたと考えられます。御用米曲輪でも、多量のかわらけが出土しました(写真左下)。「船載品へのあこがれ北条氏が天正5年(1577)頃、青磁皿、茶碗等を弟で武蔵国鉢形城(寄居町)の北条氏邦に送ることを伝えた書状があります。これは、船載品である青磁などの希少な貿易陶磁を小田原北条氏が手に入れ、贈答品として領国経営に活かしたことが文献資料からもうかがえる事例です。貿易陶磁の出土量の少ない戦国時代の関東地方において、これらの船載品は絶大な価値を持ちました。」「小田原市ゆかりの美術工芸戦国時代以降、城下町・宿場町として栄えた小田原には、さまざまな美術工芸品が集まり、またここで生産されました。残念ながら小田原城当主に関わる資料はそのほとんどが散逸し、城下町や宿場町に残った資料も度重なる地震災害などで失われました。ここでは、小田原ゆかりの美術工芸品をテーマごとに紹介します。」「漆工小田原の漆工品といえば、透明な漆で自然な木目を見せる「小田原漆器」が有名です。これらは広く日用品として使用されたものと推定されます。一方で、小田原には黒漆塗に蒔絵や螺鈿を施した豪華な藩主ゆかりの品々も伝来しています。こうした藩主ゆかりの品々の中には、藩主夫人が婚礼道具として持参したものや菩提寺となった寺院に伝わったものなどがあります。これらの漆工品は、藩主やその周辺の人々の小田原城での暮らしぶりの一端を示しています。黒漆塗に蒔絵や螺鈿を施した漆器を展示。「甲冑後頭部が盛り上がる阿古陀形風で、やや大振りな兜鉢を「小田原鉢」と呼んでいます。これらの兜鉢に「相模」「相州小田原」などと銘文が刻まれるものが見られるためです。明珍派と呼ばれる一派が大森氏に招かれ、小田原で甲冑製作が始まったといわれています。明珍派は小田原北条の小田原城入城後も引き続き甲冑製作を続けました。江戸時代の甲冑師については残念ながら定かではありません。」「甲冑」が並ぶ。「本小札紫糸素懸威腹巻(ほんこざねむらさきいとすがけおどしはらまき)戦国時代 小田原城天守閣蔵」北条氏康の五男(一説に四男)で三崎城主・韮山城将・館林城代などを務めた北条氏則所用と伝わっています。氏則の子、氏盛を藩祖とする河内狭山藩に伝わったもので、昭和18年(1943)の「日本武器概説」に北条子爵家(狭山北条家)蔵として紹介されています。小田原北条一族伝来の甲冑類は非常に珍しく、貴重な作品です。「縦矧桶側二枚胴具足(たてびきおけがわにまいどうぐそく) 江戸時代 小田原城天守閣蔵」北条早雲(ほうじょうそううん)の末子、幻庵(げんあん)の子である北条新三郎氏信(しんざぶろううじのぶ)所用と伝わる具足です。永禄12年(1569)、蒲原城(かんばらじょう/静岡)に在城した氏信は、小田原北条氏の領国に攻め入った武田氏を迎え撃ち、討ち死にしました。後世に補修された部分もありますが、兜は戦国時代の形態を伝えています。」「本小札黄櫨糸威二枚胴具足(ほんこざねはじいとおどしにまいどうぐそく)江戸時代 個人蔵 高さ140cm 幅43cm 奥行40cm寛永9年(1632)に、美濃加茂で大久保家に仕官して藩士となった竹内籐左衛門正明が所持したとの伝来を持ちます。小札(こざね/短冊形の小板)が二重に重なる「本小札」の技法を用い、二枚の胴を蝶番(ちょうつがい)でつないでいます。」「刀剣」。「刀剣小田原での作刀は、戦国時代初頭、小田原北条氏に招かれて島田鍛冶が小田原にやって来たことに始まるとされています。鎌倉には鎌倉鍛冶が既に存在し北条氏の領国内では、この2つの系譜を引く刀鍛冶が活躍しました。これらの刀剣は「末相州(すえそうしゅう)」「小田原相州」と呼ばれています。江戸時代には、加賀の刀工兼若の四男清平が、当時の藩主稲葉氏に召し抱えられ、八幡山で作刀を始め、以後数代にわたり活躍しました。「刀 銘「相州住康春(そうしゅうじゅうやすはる)作」 (小田原市指定文化財)戦国時代 小田原城天守閣蔵 長さ77.9cm 反2.7cm刀身が長く反りの太刀姿の刀です。保存状態も良く、康春が手がけた中でも優れた作品です。この刀は「新編相模国風土記稿」にもその由緒が記載されており、歴史的にもたいへん貴重な資料です。」「太刀 銘「恒次(つねつぐ)」。「太刀 銘「恒次(つねつぐ)鎌倉時代 小田原城天守閣蔵 長さ74.6cm 反2.0cm備中古青江(びっちゅうこあおえ)の刀工恒次の太刀です。恒次は数代にわたっていますが、この作品は鎌倉時代中期頃のものです。わずかに磨りあげていますが保存状態も良く、当館が収蔵する刀剣の中でも最も優れた作品の一つです。「黒於塗大久保藤絵螺鈿打刀拵」「黒漆塗大久保藤蒔絵螺鈿打刀拵「大久保藤」は、「上り藤に大」紋とも呼ばれ、小田原藩主大久保氏の定紋です。この拵は、黒漆に金蒔絵で上り藤に大紋を規則正しく配列し、その間に、螺鈿を施したものです。経年の痛みは見られますが、漆の黒色に金の蒔絵と螺鈿が映えた名品です。「雪村周継(せっそんしゅうけい)筆「竜虎図屏風」」雪村は常陸(現在の茨城県)に生まれ、幼くして禅門に入り画を学んだ。個性の強い画風を形成し、画家としての地位を確立した後各地を遍歴、1550年代頃小田原での活動中に本作品を描いた。竜は雨を呼び生命の源である春を象徴し、対する虎は風を呼び生命の終焉、秋を象徴するとされる。しかし神聖で恐ろしい竜虎の表情は非常にユーモラスである。現れた竜をにらむ虎の姿はまるで猫のようであり、旋回する竜の顔もどこか親しみがもてる。緻密な表現に加え、雄大な題材の中に遊び心をもたせる雪村の個性が非常によく表れている。「雪村周継(せっそんしゅうけい)筆「竜虎図屏風」(左)」ネットから。「雪村周継(せっそんしゅうけい)筆「竜虎図屏風」(右)」ネットから。そして次の「企画展示室2 回廊展示」へ。次に、天守閣4階の「企画展示室4」へ。「その後の小田原城」。「小田原城廃城明治3年(1870)、防風雨による被害や藩の財政難を理由に、知藩事大久保忠良が新政府へ小田原城の廃城を願い出て、天守は解体されました。城跡は陸軍省の所轄になり、二の丸隅櫓だけが残りました。その後、旧藩主大久保家の〇〇申請により、明治23年(1890)に払い下げられ、更に小田原町へ転売・貸し出されました。天守台には、明治26年(1893)に」藩祖大久保忠世をまつる大久保神社が建てられました。」「解体中の天守」。 「御用邸時代👈️リンク明治時代の小田原には、伊藤博文や山県有明らが別荘を構えました。明治天皇の皇女である常宮・周宮(かねのみや)内親王も小田原の気候や土地柄を気に入り、御用邸の建設計画が持ち上がりました。小田原町と旧藩主大久保家は宮内省と土地の売買や交換を行い、明治34年(1901)に御用邸が建設されました.これを期に、天守台に設けられた大久保神社を移し、馬出門や黐櫓の整価が行われました。御用邸には後の大正天皇や昭和天望も滞在しました。」「御用邸正門(馬出門)」「小田原御用邸配置図」をネットから。「御用邸正門(馬出門)」。「小田原城 東南櫓」か。「小田原城阯御用邸西御門(箱根口門)」。「周宮殿下御座所」。当時の桜並木か。「その後の小田原城」。「関東大震災大正12年(1923) 9月1日、マグニチュード7.9の関東大地震が発生しました。小田原の町はほぼ全ての建物が倒壊・損壊するとともに、町の中心部は火災により焦土と化しました。城跡内では御用邸も被災し、江戸時代の姿を残すニの丸隅櫓、天守台、堀の石垣も崩壊しました。」「二の丸住吉橋と銅門跡 昭和5年(1930)頃」。様々な被害の写真が。「新たな城跡利用震災後、御用邸は廃止されます。小田原町は学校(後の市立城内小学校・県立小田原城内高等学校)用地としてその敷地の一部を取得し、堀の埋め立てを計画しました。これに対して、小田原保勝会などが保存運動を展開したことでニの丸堀が残され、昭和13年( 1938 )に城跡は国の史跡に指定されます。一方で、図書館や野球場の建設、こども文化博覧会の開催など、さまざまな用途での活用が続けられていきました。」「小田原城の全景 昭和33年(1958)」「本丸広場」。ターザンとゾウのウメ子 1950 (昭和25)年小田原こども文化博覧会開催時に開園した動物園では、開園当時、ゾウ・クマ・タヌキ・キツネ・サル・ワニ・クジャク・水島・ヤギ等が飼育され、博覧会後も1951 (昭和26~1959 (昭和34 )年にかけてヒグマ・アシカ・ライオンが寄贈され、動物園の規模は拡大していきました。動物の中でも特に人気があったのはタイから購入したゾウのウメ子でした。ウメ子の名前は子どもから募集し名付けられました。みなに親しまれたウメ子は2009 (平成21)年に亡くなりました。推定年齢62歳の大住生でした。写真は、森永製菓がスポンサーとなった「森永デー」の時の様子で、ミルクキャラメルの宣伝のための、野外劇場での曲芸や奇術ののち、「日本ターザン」が登場しました。「天守閣復興昭和25 ~ 28年(1950 ~ 1953)にかけて、戦後復興の一環として天守台の石垣の積み直しが行われました。折しも、全国的に天守の復興が盛んになっており、「小田原城天守間復興促進会」が結成されるなど、市民からも復興を望む声が高まっていました。昭和33年( 1958 )、市は天守間の復興を決定し、翌年から始まった「天守閣復興瓦一枚運動」では、瓦の枚数にして2万枚以上の寄付が集まりました。昭和35年(1960) 5月25日、小田原城天守閣は開館の日を迎えました。また、天守間に続き昭和46年(1971)には常盤木門も再建されました。」「建設中の天守閣 昭和35年(1960年)」。天守台の観覧車1956 (昭和31)年頃天守台の観覧車を写したものです.「天守闇跡」という標住が見え、その奥に観覧車が写されています.観覧車の体とゴンドラがカラフルに塗られていたことがわかります。「建設中の小田原城天守間 1960 (昭和35 )年関東大震災により天守台の石垣は崩落し、長らくそのままとなっていましたが、小田原こども文化博覧会の開催が決定すると、崩落した石垣がそのままではと、町内会で自発的に始めた募金(天守間石ー積運動)がきっかけとなり、1953(昭和28)年に天守台の石垣復旧工事が完成しました。その後、天守閣を観光資源として注目した商工会議所が促進会を発足させ、市民の長年の夢であった天守閣復興が実現しました。この時も市民による「小田原城天守閣復興瓦一枚運動」が行われ、寄付金が集まりました。」「常盤木門」は昭和46年(1971年)3月に完成。「進む史跡整備天守閣・常盤木門の復興を経て、昭和57年(1982)から本格的な史跡整備が始まりました。史跡整備は、文献や発掘調査の成果を踏まえ、江戸時代末期の姿を基本に進められています。平成2年(1990)に住吉橋か再建され、その後、平成9年(1997)には銅門、平成21年(2009)には馬出門、平成23年(2011)には馬屋輸の整備か行われました。大手筋(正規登城ルート)の歴史的景観がよみがえりつつあります。」「馬出門と銅門」。天井からは「岡本秋暉(おかもとしゅうき)筆 花鳥図」が描かれた垂れ幕が。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.30
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「江戸時代の小田原城 全体構成江戸時代の小田原城の城域は、三の丸堀より内側の範囲となりました。本丸にそびえる天守は城域の西に位置し、その背後には戦国時代の空堀が残る丘陵地が続いていました。ニの丸、御用米曲輪、南曲輪等8つの曲輪が本丸を囲むように置かれ、さらにその外側に三の丸が形成されていました。城域に入るためには、三の丸に設けられた、大手門、箱根ロ門、幸田口門、谷津ロ門の城門を通過しなければなりませんでした。」「江戸時代の小田原城」西に「本丸」、南に「二の丸」、北に「三の丸」。「本丸」をズームして。「本丸」絵図。「本丸には西端に天守、中央には本丸御殿がありました。また、南東側には正門である常盤木門、北側には裏門にあたる鉄門の2つの門が置かれました。ここに描かれた本丸御殿は、寛永地震の後、三代将軍徳川家光の上洛に備えて建てられたもので、元禄地震で倒壊した後、再建されることはありませんでした。」「二の丸」。「二の丸」絵図。「ニの丸は、本丸の東側に位置しています。正門にあたる銅門は、寛永10年( 1633 )頃に完成したとされています。本丸には将軍家専用の本丸御殿が置かれたため、ニの丸に藩主の居館や藩の政庁として使用されたニの丸御屋形があり、小田原城の中枢として機能しました。」「御用米曲輪」。「御用米曲輪」絵図。「御用米曲輪は本丸とニの丸の間に位置し、蓮池に面した広大な曲輪です。本丸とは階段を上った先の鉄門で、ニの丸とは東側の相生橋でつながっています。曲輪の名は、幕府の米蔵が置かれていたことに由来します。ここには、米のほかに大豆や小豆、塩などを納めた蔵が置かれ、最も多い時期には6棟建っていました。」「三の丸」。「大手門」絵図。「三の丸は、本丸やニの丸を取り囲むように配置されています。大手口に面した東側には重臣の屋敷が並び、北側には領内の年貢米を収納する蔵などが置かれました。三の丸には大手門、箱根ロ門、幸田口門、谷津ロ門の4カ所の城門が設けられ、その出入りは門番により厳しく管理されていました。」「小田原城の役割①---将軍のための施設---」「小田原城の役割②---陸と海の番人---小田原藩の領内には、東海道とその脇街道が通っています。その内、箱根・仙石原(箱根町)、根府川(小田原市)、矢倉沢(南足柄市)、川村・谷ケ(山北町)に関所があり、藩の役人らが目を光らせていました。6カ所もの関所を管轄していたのは、全国でも小田原藩が唯一です。幕末に異国船が日本近海に現れるようになると、小田原藩は海防も担当することとなります。浦賀(横須賀市)や下田(下田市)に藩兵を派遣して警備に当たらせるだけでなく、領内の海岸線に台場を設け、異国船の到来に備えました。」江戸時代の街道と関所江戸時代の街道網は、五街道とそれに付随する協街道を中心に、それらに連絡する街道によって形成されています。要所には関所が置かれ、「入鉄砲」と「出女」が監視されました。箱根は「出女」の監視が厳しかった関所で、女性は証文の携帯が義務付けられ、厳重な取調べが行われました。江戸湾・相模の台場幕末期、幕府は異国船に対する備えとして、江戸湾一帯に台場を築造しました。小田原も小田原・大磯(大磯町)・真鶴(真鶴町)に台場を築造し、喜永5年( 1852 )に完成させています。小田原藩の台場には、後に品川台場(品川区ほか)築造の責任者となる江川英竜の韮山塾の技術が活かされています。台場調練図幕末の小田原海岸(市内浜町~南町)には万町・代官町・荒久の3カ所に台場が設置され、複数の大砲が据えられました。図は安政6年(1859)に台場で行われた訓練を描いたものです。小田原藩兵持場図弘化3年(1846)に米国海車のビッドル提督が浦賀(横須賀市)に来航した際、小田原藩も応援して藩兵を派遣しました。図は野比村(横須賀市)に布障した小田原兵を描いたものです。「三ツ葉葵紋瓦 江戸時代」「三ツ葉葵紋は徳川将軍家の家紋」。「三ツ葉葵紋は徳川将軍家の家紋小田原城内では、本丸及び御用米曲輪で出土・採集され、御用米曲輪でも数多く出土しています。本丸及び御用米曲輪には、幕府・将軍家用施設が存在し、それらの施設に三ツ葉葵紋瓦がふかれていたと考えられています。」「鬼瓦」。下部の葉は何の葉?「丸瓦「文政四辛巳歳(かのとみのとし)」刻印」。「丸瓦「文政四辛巳歳(かのとみのとし)」刻印文政4年(1821)の天守修築という記録から、修築に関連して製作された可能性が考えられます。同じ年号の刻印をもつ瓦で、小田原藩領河州交野郡私部村(かしゅうかたのぐんきさべむら/大阪府交野市)で製作されたものもあることから、この瓦も同様に製作されたものかもしれません。」「小田原城の城下町と宿場町小田原の町は、〔中略〕外側に城門と番所があり街道の両側に体裁のいい家並が続いている。住来は清潔で真直に伸び、殊に中通りは非常に広い。手前の町を合せると、半時間では通りぬけられない。人家は約1000戸、小さいが形よく、大抵白壁作りで四角い敷地に建てられ、小さい庭がついている。白壁の3層の天守閣が人目を惹く領主の居城は、町の北部にあり、それに近く山へ登る坂道に数宇の寺院がある。」「小田原の町は〔中略〕外側に城門と番所があり、街道の両側に体裁のいい家並が続いている。往来は清潔で真直に伸び、殊に中通りは非常に広い。手前の町を合せると半時間では通りぬけられない。人家は約1000戸、小さい形がよく、大抵白壁作りで四角い敷地に建てられ、小さい庭がついている。白壁の3層の天守閣が人目を惹く領主の居城は、町の北部にあり、それに近く山へ登左坂道に数宇の寺院がある。」「小田原城下は武家地、町人地、寺社地などの住み分けがなされ、町人地は東海道に面した通り町9町と、その南を並行して走る4町、甲州道に面した6町から成る脇町10町から構成されています。町人地には、城下の経済を支える商人・職人が暮らしていました。人や物資を輸送する伝馬・人足を担う小田原宿は、西に箱根、東に酒匂川という難所を控えています。江戸時代末期の小田原宿には、幕府の役人や大名か宿泊する本陣4軒、脇本陣4軒のほか、旅籠100軒ほどが軒を連ね、にぎわっていました。」「東海道分間延絵図 小田原宿」、ネットから。東海道沿いの町並み絵図。その手前に「小田原 名物 ういらう」と。「印籠型看板印籠の形をした看板です。ういろう(「ういらう」)は、小田原北条氏時代からの由緒を持つ外郎家が販売した薬「透頂香」のことで、二代目市川団十郎が「外郎売り」を演じて歌舞伎十八番の一つとなってから全国的に有名になりました。」葛飾北斎 小田原 外郎売小判横絵 享和〜文化初年(1802〜1807)「江戸時代の店舗絵」。「小田原提灯小田原提灯は、新宿町(小田原市浜町)に住む甚左衛門という人物が、大雄山最乗寺山中の材木で製造したのが始まりとされています。材料が霊木のため、魔除けとなること、小さくおりたたんで懐に入れられること、骨が太く平たいので、ノリの接着面が広く破れにくいことが「三徳」といわれました。江戸時代末期には職人などに重宝され、全国で使われました。」「シアタープログラム1 よみがえる小田原城(約7分)プログラム2 北条五代百年の夢(約7分)出演 苅谷俊介(北条氏政役) 合田雅吏(北条氏直役)上映中」「よみがえる小田原城戦国時代、小田原北条氏による関東支配の拠点となり、日本最大規模を誇った小田原城。江戸時代には、近世城郭として生まれ変わり、元禄年間に最盛期を迎えます。昭和58年(1983)から30年の年月をかけた史跡整備により、ニの丸から本丸にかけての歴史的景観がよみがえってきました。最も華やかだった頃の小田原城を、大手筋に沿って天守を目指し登城してみましよう。」「北条五代百年の夢戦国の世にあって親兄弟争うことなく、五代100年にわたり関東を治めた小田原北条氏には、目指してきた理想の国づくりがありました。天正18年(1590)、時の覇者・豊臣秀吉によってその夢が絶たれようとしているそのとき、四代氏政・五代氏直父子が、初代早震から受け継いできた豊かな国づくりの理想「禄寿応穏(財産と生命がまさに穏やかであるように)」に込められた想いを語ります。」「北条五代百年の夢」が上映中であった。そして、2階は戦国時代の展示。伊勢宗瑞(北条早雲)から北条氏直まで、小田原を治めた北条五代の紹介とともに、戦国乱世、小田原城がどのような運命をたどったか、最新の研究をわかりやすい形で展示していたのであった。「常設展示室2」の「戦国時代の小田原城」は撮影禁止であった。入口のみを。以下、ネットから。「小田原北条氏と小田原城」。「時代を画した小田原合戦」。小田原合戦では、15万とも言われた豊臣秀吉の軍に小田原城を包囲されてしまう。小田原北条氏最大のピンチであった。「豊臣秀吉」。豊臣軍は経済力があり、武器や食料の調達にも長けていた。「甲冑姿で写真を撮ろう!」。「全国に広がった「総構え」」。「小田原城と江戸時代の城下町・宿場町」。そして3階へ。回廊展示→(小田原市ゆかりの美術工芸)→漆工→甲冑→刀剣→花鳥図 へ。企画展示室2「回廊展示」は「小田原城検定クイズ」。答えは「現地」にてご確認ください。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.29
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「小田原城 天守閣」入口でチケットを購入。リーフレット。館内案内。1階の展示室入口では「箱根寄木細工」が迎えてくれた。下記の動画はとても詳しく勉強になりました。1時間超える大作です。【戦国ネットすきらじ】第74回「小田原城 ~天守台はなぜ二段?~」👈️リンク1階はまず、「江戸時代の小田原城」についての展示。中央に小田原城天守。「小田原城天守小田原城は500年以上の歴史を持ち、戦国時代の小田原北条氏の居城として著名ですが、天守の存在が確認できるのは江戸時代初頭のことと考えられています(相州小田原古絵図)。地震などの被害を経て建て直された小田原城天守も、明治3年(1870)には解体撤去されて姿を消してしまいます。しかし、「天守閣復興瓦ー枚運動」に代表される市民の熱意と多くの人々の尽力により、昭和35年(1960)に天守閣が再建されました」。「天守閣復興瓦ー枚運動小田原城天守閣復興へ動き出したのは、終戦後まもなくのことです。市制施行10周年にあたる1950年、長い間崩壊したままになっていた天守台の復興に向け、市内の町内会が、「天守閣石一積運動」を始めました。この活動による24万円の募金も活用し1953年12月に天守台の石垣が復興しました。一方、小田原商工会議所は1956年10月に「小田原城天守閣復興促進会」を設立し、天守閣復興に関わる募金活動を開始しました。翌年には市も本格的に天守閣復興に取り組み、その年の10月には天守閣復興資金のための起債の許可が自治庁からおり、さらに県からの補助金も認められました。小田原城天守閣復興促進会では1957年5月から募金活動を行い、1959年に市が「小田原城天守閣復興期成会」を設立し、この活動を引き継ぎました。こうした募金で集められた金額は2千万円以上に上りました。これと並行して進められたのが「天守閣復興瓦一枚運動」です。1959年12月から、市役所商工観光課、城址公園本丸広場で受付が開始され、その後、小田原駅前広場、各支所、星崎記念館、銀座通りなどにも窓口が開設されました。金額にして約240万円、瓦の枚数2万1,366枚が寄せられました。今も天守閣に葺かれた瓦の約3分の1には、この運動に参加された人々の名前が記されています とネットから。「全国「天守」高さ比べTOP10「天守」とは天守とは城郭内の象徴的な存在で、通常、その城郭内で最も高い建築物です。起源には諸説ありますが、天守建築が盛んになったのは戦国時代以降で、その用途はさまざまでした。江戸時代前期までの天守には居住空間が設けられる場合がありますが、以後の天守の内部は簡素な造りになり、倉庫として使われる場合も数多くありました。小田原城天守の場合は、三代宝永度天守の最上階に摩利支天(まりしてん)を中心とした神仏像が置かれ、信仰空間であったことが確認されています。」「全国「天守」高さ比べ TOP10 現存天守 江戸時代以前に建てられ、現在まで残る天守 復元天守 かつて城があった場所に、資料に基づき外観等をほぼ忠実に復元する事を目指している。 復興天守 建物が存在した事実はあるものの、資料に乏しく忠実な復元ができないため、推定による 再建を行ったもの。NO.1~NO.4●NO.1 大阪城天守・・・・41.5m(望楼型) 所在地/大阪府大阪市 復興天守/5重8階●NO.2 名古屋城天守・・・36.1m(層塔型) 所在地/愛知県名古屋市 復元天守/5重7階●NO.3 島原城天守・・・・33.0m(層塔型) 所在地/長崎県島原市 復興天守/5重5階●NO.4 熊本城天守・・・・32.5m(望楼型) 所在地/熊本県熊本市 復元天守/3重6階NO.5~NO.10。●NO.5 姫路城天守・国宝・・31.5m(望楼型) 所在地/兵庫県姫路市 現存天守/5重6階●NO.6 小倉城天守・・・・・28.7m(望楼型) 所在地/福岡県北九州市 復興天守/4重5階●NO.7 小田原城天守・・・27.2m(層塔型) 所在地/神奈川県小田原市 復興天守/3重4階●NO.8 広島城天守・・・・26.6m(望楼型) 所在地/広島県広島市 復元天守/5重5階「小田原城👈️リンク 東側立面図江戸時代に造られた雛型や引き図(宝永年間の再建の際に作られた模型や設計図)を基に昭和35年に江戸時代の姿として外観復元され、内部は歴史資料の展示施設となっています。復興に当たっては、「瓦一枚運動」が展開され、多くの市民からの寄付が寄せられました。3重4階の天守櫓に付櫓、渡櫓を付した複合式天守閣で、地上38.7m、鉄筋コンクリート造、延床面積1822m2となっています。なお、最上階の高欄付き廻縁は復興に際して新たに付けられたものです。内部には、甲冑・刀剣・絵図・古文書など、小田原の歴史を伝える資料や、武家文化にかかわる資料などが展示されています。標高約60メートルの最上階からは相模湾が一望でき、良く晴れた日には房総半島まで見ることができます。小田原市では平成18 年に天守閣の高さを基準とした高度規制を行い、天守閣の高さを超える建物の建築を制限し、長い時間をかけて育まれてきた歴史景観を次代に受け継いでいくこととしています。」天守閣の「付櫓」、「渡櫓」。●NO.9 福山城天守・・・・・26.3m(層塔型) 所在地/広島県福山市 復興天守/5重6階●NO.10 若松城天守・・・・・25.1m(層塔型) 所在地/福島県会津若松市 復元天守/5重7階「小田原城天守の変遷小田原城天守は江戸時代を通じて外観3重内部4階の天守櫓に付櫓、続櫓で構成されていました。江戸時代の間に2度も天守が再興されたのは小田原城だけです。初代にあたる慶長度天守は「相州小田原古絵図(加藤図)」に描かれ、望楼型の天守であったことが確認できます。完成時期は不明です。寛永7年(1630)以前に失われていたと考えられています。ニ代寬永度天守は寬永10年(1633)の寬永地震後に再興されました。「相模国小田原城絵図(正保図)」に描かれ、層塔型を示し2重目3重目には高欄がめぐらされています。元禄16年(1703)の元禄地震により倒壊しました。三代宝永度天守は宝永2年(1705)に再興されました。現存する模型や絵図によりその姿がが確認できます。初重目2重目の屋根には唐破風と千鳥破風の飾り破風が据えられ、形式的には徳川家が居住する天守と共通します。明治6年(1873)の廃城令を待たず、明治3年(1870)解体されています。」江戸時代後期に制作されたという天守閣の模型。小田原城には3基の天守模型が残っていると。それを元に、復元されていると。廻り込んで。廻り込んで。宝永2年の「小田原城再興碑」。最後に「小田原城主兼隠岐守藤原朝臣大久保氏長忠増」と大久保忠増の名が刻まれていた。「銘文 印刻 元禄十六年癸未十一月廿二日夜地震 天守城楼回禄翌年春剏再興之事宝永 二乙酉年四月日天守白楼以下迄外郭 惣石壁築成矣於是彫攻于畳石以誌焉 従四位相州小田原城主兼隠岐守藤原朝臣大久保氏長忠増再営」と。「小田原城再興碑 小田原市指定文化財宝永2年(1705)4月 小田原城天守閣蔵 高さ144.3cm 幅60.5cm 奥行61.2cm元禄16年(1703)11月22日夜の大地震により、小田原城は天守をはじめ、ほとんどの建造物が崩壊・焼失する壊滅的被害を受けました。この再興碑は、藩主大久保忠増による復興の経緯を伝える貴重な資料で、大正12年(1923)の関東大地震の際、崩落した天守台の石垣の中から発見されたものです。」「上棟式用大工道具 江戸時代 小田原城天守閣蔵」 上棟式に用いられた儀式用大工道具で、矢内高光の作と伝えられています。手斧(ちょうな)や墨壺(すみつぼ)。「小田原城再興天守棟札(宝永二年)」。 高さ 164.4㎝幅 40.5㎝厚さ 2.5㎝元禄16年(1703)の元禄大地震による小田原城倒壊後、宝永2年(1705)に小田原城主で幕府老中の大久保忠増が再興した天守の棟礼である。宝永2年12月に上棟したことが分かる。本棟札は、小田原有信会の瀬戸秀兄により昭和10年(1935)に小峯の大久保神社本殿から発見されたもので、小田原城再興碑とともに小田原城の歴史を示す貴重な資料である。なお、再興碑と棟札では、小田原城主大久保忠増の受領名が異なっているが、これは再興碑制作時点では「隠岐守(おきのかみ)」であったものが、宝永2年9月から「加賀守(かがのかみ)」となった為である。「御殿上棟式図」にこの大工道具が描かれていることから、両者の関連性がうかがえます。加賀守 大久保忠増の名がある。9月に大久保忠増の受領地が変わっています。1865年御殿(二の丸御屋形)の棟上式の様子であると。さらに1階展示室を進む。「小田原の城主たち江戸時代の小田原城は、徳川家譜代大名である大久保家・阿部家・稲葉家などが城主を努めました。途中、徳川二代将軍秀忠が小田原城に隠居する計画も浮上するなど、小田原城は江戸の西を守る要の城として重要視されました。小田原城の最初の城主は大森氏と伝えられています。その後、小田原城は15世紀末から16世紀の初め頃に北条早雲の支配下となり、ニ代目の氏綱の時代から小田原北条氏の本拠地として整備されていきます。以来、北条氏の勢力拡大と領地支配は、ここ小田原城を拠点に進められました。近世においても、小田原城は江戸防衛の拠点として重視され、城下は東海道の宿場町として栄えました。その重要性から、江戸幕府・・・・」「小田原城の城主たちと小田原城のあゆみ」。近づいて。大久保忠世の息子・忠隣が政争に敗れて改易になると、小田原城は一時的に廃城となり、1632年に稲葉正勝が城主となって城は大改修が施され、近世城郭へと生まれ変わりました。1685年に稲葉氏が越後国高田へと転封になると、翌年、下総国佐倉から大久保忠朝(忠隣の孫)が入り、以後は大久保氏が10代に亘って小田原藩主を務め、明治を迎えます。「伝小田原城二の丸二重櫓鯱瓦」「伝小田原城二の丸二重櫓鯱瓦江戸時代 小田原市郷土文化館蔵 高さ135cm 幅83cm 奥行92cm鯱瓦は、屋根の最上部にあたる大棟の両端に一対で設置されているものです。鯱は想像上の動物で、防火を祈り、権力を誇示するために置かれたといわれています。この鯱瓦の発見・伝来の経緯が定かではありませんが、二の丸二重櫓のものと伝えられています。「大久保氏と小田原城三代将軍徳川家光は江戸の守りを固めるため、関東の境界線上にある関所や山間地の整備を進め要所に譜代大名を配置しました。南関東の入ロには家光の弟忠長が藩主の駿府藩(静岡市)が配置されていましたが、忠長の改易により消滅してしまいます。駿府藩に替わって南関東の守りを任されたのは、家光の側近である稲葉正勝の入封によって復活した小田原藩でした。小田原城は改めて南関東の要塞として位置づけられ、稲葉氏のもとで城郭と城下町の整備が進められていくことになります。」「大久保彦左衛門と「三河物語」大久保彦左衛門は実名を忠教 といい、大久保忠世の弟にあたります。」後世、将軍への諫言も辞さない「天下の御意見番」の異名を持つ伝説的な人物として語られます。彦左衛門の代表的な著作が「三河物語」の執筆です。その中で彦左衛門は、徳川家の家訓とその中における大久保氏の功績、後世への教訓をつづっています。当時、忠隣の改易で大久保氏の立場はよくありませんでしたが、彦左衛門は「三河物語」を通して、徳川家へ変わらぬ忠義を尽くすよう一族と子孫に訴えたのでした。」「稲葉氏と小田原城三代将軍徳川家光は江戸の守りを固めるため、関東の境界線上にある関所や山間地の整備を進め、要所に譜代大名を配置しました、南関東の入口には家光の弟忠長が薄主の駿府藩(静岡市)が配置されていましたが、忠長の改易により消滅してしまいます。駿府藩に替わって南関東の守りを任されたのは、家光の側近である稲葉正勝の入封によって復活した小田原藩でした。小田原城は改めて南関東の要塞として位置づけられ、稲葉氏のもとで城郭と城下町の整備が進められていくことになります。」「徳川家光の乳母・春日局稲葉正勝の母は徳川家光の乳母として知られる春日局です。春日局は将軍となった家光を引き続き補佐し、正勝も小姓時代からの側近として家光を支えました。正勝は早世したため、息子の正則が元服前に家督を継ぐこととなります。春日局は若き当主である正則をよく助け、稲葉氏と有力大名との婚姻を実現させるなど、寛永20年(1643 )に亡くなるまでその政務を支え続けました。春日局の死後、正則は小田原城に近い紹太寺(現在は小田原市入生田へ移転)に供養塔を建て、その菩提を弔いました。」「大久保氏再入部と小田原城貞享2年(1685)、稲葉正通が越後国高田(上越市)に天風となり、大久保忠朝が小田原に入封しました。71年ぶりの小田原復帰となった大久保市でしたが、そこに待ち受けていたのは、元禄16年(1703)の大地震、宝永4年(1707)の富士山噴火とその火山灰が堆積した酒匂川の頻繁な洪水といった、大規模な自然災害でした。特に洪水被害は長期化し、被災地は復興が完了するまで幕府の直轄地となります。歴代の藩主たちは、これら一連の災害を契機とする財政難に悩まされ続けました。」「二宮尊徳の活躍二宮尊徳(金治郎)は天明7年(1787)、栢山村(小田原市栢山)生まれです。荒廃した一家を若くして立て直し、文政元年(1818)には藩主大久保忠真から表彰されています。」文政4年(1821)、忠真は大久保家の分家がある下野国桜町領(真岡市)を荒廃から立て直すため、尊徳ら表彰者に復興案の作成を命じました。この時に優秀な案を示した尊徳は藩に登用され、桜町領の復興を任せられます。「報徳仕法」と呼ばれる尊徳の手腕は成功をおさめ、名○に広がっていきました。」「小田原城の構成と役割江戸時代、小田原北条氏により築かれた総構の範囲は小田原府内と呼ばれました.小田原城の城郭は、天守より東側の低地部にあたる三の丸より内側とされ、本丸より西側の丘陵部については戦国時代末期の姿が温存されました。小田原城は江戸城の西を守る要の城郭として位置づけられ、大久保氏や稲葉氏といった江戸幕府でも要職を務める譜代大名語名が城主を務めました。本丸には将車家専用の本丸御殿が設けられるなど、徳川家とも関係の深い城でした。」「城絵図にみる小田原城の変遷小田原城の城絵図は、改修工事の計画や幕府の命令によって作成されたものなど、いくつかの種類・系統が現存しています。これらの絵図には小田原城の状況が描かれ、絵図を比較することで、それらの変遷を読み取ることができます。」「相州小田原古絵図(加藤図)慶長19年(1614) ~寛永8年(1631)頃」現在知られている最古の城絵図で、小田原北条氏時代の面影を残す江戸時代初期の小田原城の姿を知ることができます。「相模国小田原城絵図(正保図)正保3年(1646) ~承応3年(1654)頃」幕府に提出した公式の城絵図で、元禄地震で大きな被害を受ける以前の小田原城の姿が精緻に記されています。「寛永年間小田原城廓総図(宮内庁図)元禄10年(1697 ) ~元禄16年(1703 )頃」元禄期の小田原城内の様子を詳細に描いた城絵図で、稲葉氏の時代に完成した近世小田原城の最盛期の姿を伝えています。表題には寛永年聞とありますが、実際に描かれたのは元禄年間とされます。小田原城の最盛期の姿近づいて。「小田原城の最盛期の姿この模型は最盛期の小田原城を示す「寛永年間小田原城廊(くるわ)総図(宮内庁図)」を基に再現したものです。江戸時代の小田原城は、瓦積みの白亜の天守や常磐木門などの城門、櫓に加え、本丸御殿や二の丸御屋形、馬屋、大腰掛などの建物が配置されていましたが、元禄16年(1703)、元禄地震により倒壊・焼失しました。」「小田原城と城下町」。「小田原城と城下町小田原城は戦国時代に小田原北条氏によって築かれた総構えの範囲が、小田原府内としてそのまま江戸時代に引き継がれ、城下町・宿場町となっています。本丸には天守と本丸御殿、ニの丸には御屋形などの城の施設があり、三の丸は重臣の屋敷地となっていました。東海道沿いは本陣や旅籠が並ぶ小田原宿の中心としてにぎわっていました。」小田原宿。本陣が4つもある巨大な宿。「小田原合戦のきっかけ 名胡桃城事件天正17年(1589)、沼田城👈️リンク(沼田市)の帰属をめぐって豊臣秀吉による裁定がくだされ、三分の二が小田原北条氏、三分の一が真田氏の領国になりました。この時期、秀吉は戦国大名同士の私戦を禁じ、自らが国境を定める「惣無事」を進めていました。また、北条氏は秀吉への従属を表明し、その証として氏政の上洛準備を進めていました。しかし、同年1 1月に、北条氏配下の沼田城代・猪俣邦憲が真田領内の名胡桃城👈️リンク(みなかみ町)を奪取しました。秀吉はこれをきっかけに北条氏討伐を決めたとされます。ただし、戦国時代、こうした境目の城をめぐる争いは一般的であるとともに、北条方は上洛した氏政が人質として拘束されることを恐れ、上洛に踏み切れなかったという事情もあります。また、秀吉側でも、徳川家康をはじめとする対北条氏穏健派と石田三成ら強硬派との家臣同士の争いがありました。小田原合戦に至る過程は、こうしたさまざまな要素が重なったものといえるでしよう。」「真田と北条の激戦地沼田城と名胡桃城」👈️リンク「北条五代記」。石垣山から発掘された瓦。 石垣山城の古図。1720年に小田原藩主 大久保忠方の命により作成されたもの と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.28
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小田原城址公園「本丸広場」。小田原城は、15世紀中頃に大森氏が築いた城を前身とし、北条早雲(伊勢宗瑞)に始まる小田原北条氏の本拠となって以降、関東支配の拠点として整備されました。そして、豊臣秀吉との小田原合戦を前に周囲9kmにおよぶ総構を構築し、日本最大級の城郭となりました。北条氏滅亡後には、徳川家康の家臣である大久保氏が城主となります。小田原城は、北条氏時代の姿を継承しつつも、改修されながら用いられていきますが、大久保氏の改易により破却されることとなりました。その後、稲葉氏が城主となりますが、寛永10年(1633)の地震により、城と城下は潰滅的な被害をうけます。そのため、稲葉氏は小田原城を大規模に改修し、小田原城は現在見られるような近世城郭としての姿に生まれ変わりました。明治維新を迎えると、明治3年(1870)に小田原城は廃城となり、建物は解体・売却されます。城趾は陸軍省の管轄を経て御用邸として用いられることとなりますが、大正12年(1923)関東大震災を期に神奈川県・小田原町(小田原市)へと払いさげられることになります。現在、小田原城の本丸・二の丸一帯に相当する城趾公園は国指定史跡・都市公園に指定されており、往時の姿を取り戻すよう、史跡整備が進められています。「本丸広場」越しに小田原城天守閣を見る。「常盤木門SAMURAI館」の正面入口を見る。小田原城常盤木門の展示をリニューアルし、新たな歴史観光施設「常盤木門SAMURAI館」が2016年オープン。甲冑や刀剣などの武具に特化した展示を行い、武士の精神性や武具の美術性を紹介しているのであった。甲冑・日本刀コーナー小田原城天守閣で収蔵する武具をはじめ、日本甲冑武具研究保存会会員の所蔵品など、甲冑や刀剣類の優品を展示していた。また、甲冑・打掛・忍者衣装の貸出・記念撮影も有料で出来るようであった。プロジェクションマッピング「花伐つ鎧」👈️リンクデジタル映像と音楽による躍動感に満ちたビジュアルで、武士の世界観を表現。そして「小田原城 天守閣」を再びズームして。広場の中央にが桜の巨木があった。4月になると(ネットから)。「本丸」。「本丸跡小田原城の本丸は、 東西83間 (約150m)、 南北63間(114m)ほどの規模があり、 その西端に天守台、 中央には本丸御殿がありました。 本丸の周囲には石垣と土塀がめぐらされ、東と北の2箇所に門が設けられていました。 東側の門は、 本丸正門にあたる常盤木門、北側は裏門で鉄門と呼ばれていました。本丸御殿は、他のお城では藩主居館(はんしゅきょかん)として用いられます。 しかし、小田原城では徳川将軍家の宿所としての役割を持っており、寛永10年(1632) の寛永小田原大地震で倒壊したため、 翌年に上洛する三代将軍徳川家光の宿所として再建されました。その後、将軍家の上洛が途絶えた後も維持されていましたが、元禄16年(1703)の地震により倒壊・焼失してからは、再建される現在、本丸の東南には「巨松」と呼ばれる天然記念物のマツの巨木があります。 元禄年間(1688~1704)の小田原城の姿を描いた 「寛永年間 小田原城 廓総(くるわそうず)図(通称 「宮内庁図」)」には、「七本松」と呼ばれた松の姿が描かれていますが、 巨松は 「七本松」最後の一本で、樹齢は400年を越えています。」樹齢400年以上のクロマツ。戦国時代から本丸に存在した七本の松(通称七本松)のうち、現在は1本「巨松」のみが残っているのだと。「かながわの名木百選小田原城跡本丸の巨松天保年間の相中雑誌に「御本丸に七本松という老松・・・」とある松の生き残りと思われる城跡内最大の巨木である。小田原市の天然記念物に指定されている。樹高:30メートル 胸高周囲:5、3メートル 樹齢:約400年(推定)クロマツは、本州から九州の海岸に生える常緑の針葉高木で、アカマツとともに防風林、砂防林や街道の並木などに植えられることが多い。樹高45メートル、胸高周囲10メートル、樹齢約800年に達するこのもあると言われている。」少し傾いては入るが、あたりの松を従えながら堂々とそびえる姿は、お城の風情にぴったり。「本丸茶屋」は小田原市事業協会が運営する店 と。うどんやそばや北条にちなんだメニューなど提供。施設は三つに分かれていて、お土産物の販売コーナー、レストラン、食品のテイクアウトコーナーになっていた。「本丸茶屋」。「小田原城 天守閣」。正面から。「小田原城天守閣」案内板。「小田原城天守閣小田原城天守は、外観三重内部四階の天守櫓に、入口にあたる付櫓、さらに両者をつなぐ続櫓で構成されています。江戸時代の城絵図によると、初代天守は、慶長年間(1596~1615)に描かれた望楼型天守(加藤図)、二代目天守は、寛永10年(1633)の寛永地震後に復興された層塔型天守(正保図)、三代目天守は、元禄16年(1703)の元禄地震後の宝永3年(1706)に復興された層塔型天守(文久図)と考えられます。この三代目宝永天守は、その後、江戸時代を通じて存続しましたが、明治3年(1870)に解体されました。現在の天守閣は、昭和25年(1950)から3年かけて天守台石垣の復興工事が行われ、その後、観覧車が設置されるなどしましたが、昭和35年(1960)に小田原市民らの力により、鉄筋コンクリートで復興されました。そして、平成28年(2016)に「平成の大改修」として、耐震補強と大規模な展示リニューアルが行われました。」右の絵図は上から、「初代 望楼型天守(加藤図)」。「二代目 層塔型天守(正保図)」。「三代目 層塔型天守(文久図)」。その右の写真は中央から、「文久図に描かれた江戸時代末期の本丸と天守」。 「明治3年 解体中の天守」。「明治26年 天守台に建立された大久保神社」。「昭和30年頃 天守台の観覧車」。「昭和35年 天守閣復興工事」。再び青空を背景に聳え立つ「小田原城 天守」を。修学旅行?の学生の姿も。「小田原城址公園 花案内」。桜、藤、シャガ、紫陽花、ハス、桜、ツツジ、花菖蒲、ユリ、菊花展 を楽しめる小田原城址公園の場所、そして時期が丁寧に案内されていた。「小田原市観光アプリケーションA Rポイント本丸御殿1703年(元禄16年)の地震で倒壊した、本丸御殿の外観及び内部を再現しています。小田原城の本丸御殿は、徳川将軍家が上洛の際に用いる御殿でした。内装は、名古屋城やニ条城などの徳川家縁の城を参考に復元しました。」「小田原城 本丸御殿」をネットから。「小田原城 本丸御殿」絵図をネットから。小田原城内のCG👈️リンク もネットから。「本丸広場」👈️リンク 越しに「常磐木門」方向を振り返る。天守閣の左に、天守登城口への長い石段が。再び「小田原城案内図」。廻り込んで。「小田原城 天守閣 登城口 入館料」は510円/大人と。団体が上って行ったので暫し時間待ち。小田原城天守閣記念撮影用の看板。「小田原城天守閣」案内板。「小田原城天守閣「天守」とはお城の象徴ともいえる建物で、お城の内外を見張るための物見や蔵などとして用いられました。江戸時代までは「殿主」「殿守」などとも記され、「天守閣」と呼ばれるのは明治時代になってからのことです。江戸時代の小田原城は江戸の西を守る要のの城とされ、徳川将軍家の宿所としても用いられました。寛永11年(1634)には、京都へと向かう途中の三代将軍徳川家光が天守に登り、武具を見たり展望を楽しんだりしたという記録が残っています。元禄16年(1703)の大地震で、天守を含めた小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失しますが、天守は宝永2年(1705)に外観三層内部四階の「天守櫓」、入り口の「付櫓」、両者を結ぶ「続櫓」の三棟からなる櫓群として再建され、明治3年(1870)の廃墟・解体までもその姿を保ちました。現在の天守閣は、昭和35年(1960)に市制20周年の記念事業として鉄筋コンクリート造で復興されたものです。復興に際しては、江戸時代の天守引図(設計図)や模型を参考に外観が復元され、最上階には周囲の景色を楽しめるように高欄が設けられました。そして、平成28年(2016)には耐震改修工事と展示の全面的リニューアルが行われました。天守閣内部では古文書や甲・刀剣、発掘調査による出土品などを展示し、小田原城の歴史を紹介しています。標高約60メートルの位置にある最上階からは相模湾が一望でき、晴れた日には三浦半島や伊豆大島、遠く利島や房総半島までを望むことができます。」天守登城口への長い石段を上って行った。石段の途中から「本丸広場」を見下ろす。そして天守登城口へ。そして「小田原城 天守閣」入口へ。 「小田原城 天守閣施設案内」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.27
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「常盤木橋」の手前の広場にあった「小田原城と小田原合戦攻防図」案内板。赤:秀吉軍 青:北条軍 青線---:総構。「天正18年(1590) 4月、戦国大名小田原北条氏の本拠地小田原城は、全国統一を推し進める豊臣秀吉の大軍に包囲されました。●時代を画した小田原合戦織田信長の死後、北条氏は従属を迫る豊臣秀吉と交渉を続ける一方、天正15年(1587)からは、決戦に備えて小田原の城と城下を囲んで堀と土塁を構築しました(総構)。また、各地の支城を整備して迎撃態勢を整えましたが、豊臣勢の進軍は早く、次々に支城は落とされていきました。豊臣軍は武器や食料の調達・確保にも長け、豊富な物量を背景におよそ15万ともいわれる軍勢で小田原城を包囲しました。そして、3ヶ月の籠城の末、北条氏直は小田原城開城を決意します。合戦の終結により、豊臣秀吉による天下統一が成りました。」「●戦闘の経過天正18年(1590) 3月1日、豊臣秀吉は小田原に向け京を進発しました。東海道を進む本隊は、山中城(三島市)を突破し、4月中頃に小田原城を包囲しました。また、毛利輝元(本人は京都留守居)等の水軍が物資輸送にあたり、前田利家率いる北国勢が上野国(群馬県)方面から北関東に侵攻しました。これに対して氏直は小田原城に主力を投入しつつ支城の防備を固めます。長期戦を覚悟した秀吉は、早川(小田原市早川)西方の山上に陣城を構え、6月26日に本陣を移します。本隊の猛攻に耐え小田原城総構の防衛線を死守するも、別働隊に主要な支城を撃破された氏直は、これ以上の戦闘継続は無益と判断し、7月5日に城を出て降伏しました。●小田原合戦の意味北条氏は、中世的ではあるものの、優れた領国経営を行っていました。そして、その本城である小田原城は、堀と土塁で城と城下を取り囲む戦国最大規模の中世城郭で、「土の城」でした。かたや秀吉が本陣を構えた石垣山城は、東国で最初に築かれた総石垣の近世城郭であり「石の城」でした。北条氏の滅亡により秀吉の天下統一が達成され、戦国時代は終わりました。小田原合戦は、日本の歴史が中世から近世へと動く、歴史の転換点となった出来事だといえるでしよう。また、小田原合戦後、参陣した武将は国元に戻ります。そして、自国を整備し、城郭の普請を行いました。普請された城郭の中には、駿府城(静岡市)や御土居(京都市)、岡山城(岡山市)など総構に代表される堅固な小田原城の姿を参考に行われたといわれているものもあります。」「北条方の支城網図」。解りやすい地図をネットから。「小田原城を中心に、韮山城(静岡県伊豆の国市)、玉縄城(神奈川県鎌倉市)、八王子城(東京都八王子市)、小机城(神奈川県横浜市)、館林城(群馬県館林市)、三崎城(神奈川県三浦市)などの一門(当主の親戚のこと)の城や、鉢形城(埼玉県寄居町)、松山城(埼玉県吉見町)などの支城を地域の軍隊を治める中心的な城として各地の重要な場所に造り上げました。さらに足柄城(静岡県小山町)、浜居場城(神奈川県南足柄市)、泉頭(いずみがしら)城(静岡県清水町)などの兵站(へいたん)基地(食料や物資を補給するための拠点として設置)や戦闘用の城を街道に面した場所や国境の近くに構えました。そして、城に交代で勤務する武将の配置から城の維持や管理をする武将たちまでを、落ち度なくしっかりと決めて、小田原城を中心にした守りを万全にしたのです。こうしたシステムを本・支城体制といいます。北条氏は、このようにして小田原城を一番上位に置いて、その下に様々な役割を持つ城を、自分が治める国の隅から隅まで配置したのです。」と。「障子堀想像図」。障子堀とは、内部を畝(うね)状に掘り残して、堀底を区切っている堀のこと。山中城の障子堀は見た目が美しく、城ファンでなくても思わず心ときめいてしまう魅力があるのだ。まるでワッフルの網の目のようなので、ベルギーワッフルと一緒に写真撮影する人も多いとか。通常の堀と同じように、攻め寄せてくる敵を足止めする。そして堀の内部に敵が侵入した場合、通常の堀と違って底が細かく区切られているため、更に動きが制限される。そうして底で動けずにいると、狙い撃ちの的に。もし必死でよじ上ることができたとしても、やはり狙い撃ちされてしまうのだ。こんな風に、見た目だけでなく効果も通常の堀より優れていることがわかるのであった。ここは「常盤木坂(ときわぎざか)」。「常磐木門」に向かって進む。「小田原城案内図」。「現在地」はここ。「本丸東堀と常磐木橋江戸時代の小田原城本丸の周囲は、堀に囲まれていました。本丸の東側を画する堀を、本丸東堀と呼んでいます。本丸東堀は、発掘調査の結果、幅20m以上の規模をもつ水堀で、現在よりも5m以上深さがあったと想定されています。現在は、堀の形を平面表示しています。文久図には、この場所に本丸とニの丸をつなぐ木製の橋が描かれおり、「常盤木橋」と名付けられていたことが分かります。これから先の本丸に出入りするには、この常盤木橋を渡り常盤木門から入るルートと、北側に位置する相生橋を渡り、鉄門から入るルートがあり、この常盤木門から入るルートが正面口になります。常盤木橋は、関東大震災で土台の石垣ごと崩れて失われており、現在の橋は、2m以上低い位置に再現されたものです。常盤木橋は、明治3年に撮影された写真が残されており、当時の様子を知ることができます。」「文久図に描かれた江戸時代末期の常盤木橋と本丸東堀」。「明治3年の常盤木門と常盤木橋」。「イヌマキ常盤木橋の前にある、樹齢約520年以上、幹周り4.5mに及ぶ市内最大の巨木。本丸広場の巨松と双璧をなす。」「小田原城跡のイヌマキ所在 城内三ーニニ樹相 目通り幹囲 四.五メートル株元周囲 約六メートル樹高 約ニ十メートル枝張り状況 東西ニ十五メートル 南北十三メートルイスマキは、関東南部以西の海岸地帯の森林に多く自生する暖温帯林を代表する常緑の高木で、小田原市内の神社、寺院境内にも多く見られます。この木は、幹回り4 . 5 メートルに及び、市内で最大のイヌマキです。主幹は左巻きにねじれ、地上5 メートルのところで四支幹に分岐しています。以前は、四方へ密に枝を広げ、傘状の見事な姿をしていましたが、台風のために北側の大枝が折れて、支幹の一部があらわになり、現在のような姿になってしまいました。しかし、堂々と猛々しく立つ姿は壮観で、小田原城跡内の数ある大木、古木の中でも、本丸の巨松と並ぶ双璧です。 小田原市教育委員会」現在の「常盤木橋」手前から「常磐木門」の「枡形」方向を見る。正面に「渡櫓」、左に「多門櫓」。現在の「常盤木橋」から左側の「花菖蒲園」をみる。現在の「常盤木橋」から右側の「花菖蒲園」をみる。「常盤木橋」を渡りながら左側を。ズームして。右側を。ズームして。「常磐木門」の「枡形」に向かって石段を上って行った。「常磐木門」の「枡形」の手前から。「小田原城 常盤木門」案内板。「小田原城 常盤木門本丸には、常盛木門と鉄門というふたつの門があり、本丸にあった徳川将軍家の御殿を守っていました。そのうち、この常盤木門が小田原城の本丸正門です。門の名前である「常盤木」とは常緑樹のことを指し、戦国時代から本丸に存在した七本の松(通称七本松、現在は1本「巨松」のみが残る)に由来しています。命名には、常に線色の葉をたたえる松のように、小田原城と小田原が永遠不滅に繁栄しますようにとの願いが込められていると言われています。江戸時代初期からありましたが、元禄16年(1703)の地震で倒壊炎上し、宝永3年(1706)に渡櫓門に南多聞櫓・北多聞櫓が付随する枡形門形式で再建されました(「文久図」、右図)。明治3年(1870)、小田原城の廃城とともに解体されましたが、昭和46年(1971)に小田原市制30周年事業の一環として渡櫓門と南多聞櫓を再建しました。江戸時代には、櫓や櫓門の内部は倉庫や武具保管庫として用いられていました。現在、常磐木門の渡櫓は「常盤木門SAMURAI館」となり、往時のように武具・甲胄を展示しています。また、目本で唯一の甲冑に投影したプロジェクションマッピングを上映しています。」「文久図」に描かれた「常磐木門」。宝永3年(1706)に渡櫓門に南多聞櫓・北多聞櫓が付随する枡形門形式で再建された と。「常磐木門」碑。このあたりの石垣は古そうなのであった。「常磐木門」の枡形の先には、戦国時代から本丸に存在した七本の松(通称七本松)の姿が。現在は1本「巨松」のみが残っているのであった。「常盤木門石塁復旧碑」。「大正十ニ年九月一日の関東大地震に小田原城址の石垣殆んど崩潰の厄を被った際本丸正門の常木門の塁郭もまた崩れた その後久しく復旧の機を得なかったが、ここに昭和三十五年ニ月より国並に神奈川県の補助を得て年次計画を以て復原に着手し、同三十八年三月三十日総工費五百万円にて工事を完成した。石塁旧観に復したのを記念して由来を石に刻して伝う昭和三十八年三月三十一日 小田原市長 鈴木十郎」。「常盤木門」が右手に。「常盤木門」の屋根。「鯱(しゃちほこ)」の姿をズームして。「常磐木門」の「渡櫓」を正面に見る。この「常磐木門」の「渡櫓」は「常盤木門SAMURAI館」となり、武具・甲胄を展示しているのであった。「常磐木門」を正面から。門の傍らに立つ松(常盤木)にちなんで、小田原城の永久不変の繁栄を願って、常盤木門という名がつけられたと伝えられているのだと。「常磐木門常盤木門は、江戸時代の本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも大きく堅固に造られていました。古絵図などの記録から、江戸時代初期には設けられていたことが分かっています。元禄16年(1703年)の元禄地震で崩壊した後、宝永3年(1706年)に、多聞櫓と渡櫓から構成される桝形門形式で再建されましたが、明治3年(1870年)の小田原城廃城の際に解体撤去されました。常盤木とは常緑樹のことで、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って常盤木門と名付けられたといわれています。江戸時代には、常盤木門に隣接して、戦国時代からの「本丸の七本松」があり、現在もそのうちの一本が本丸の「巨松(おおまつ)」として残っています。現在の常盤木門は、市制30周年事業として昭和46年(1971年)に再建しました。」鉄筋コンクリート造(一部木造)で再建(さいけん)された「常磐木門」。常盤木門は本丸の表門にあたるため、重要な防御拠点として、もつとも大きく堅固に造られた。武器や食糧を貯蔵した多門櫓と、渡櫓を備える枡形の構造を持つ。城の永久不変の繁栄を願い、かたわらに今も残る巨松を始め、常盤木が植えられた。1971年(昭和46年)に再建されたとのこと。「常磐木門」下から石垣を見る。天井を見上げて。そして「常磐木門」を潜り「本丸」に入り、振り返って。「↑天守閣」案内板。「常磐木門」の「渡櫓」内では刀剣や甲冑の展示を行っていた。また、鎧兜や着物を着て、武士・お姫様・忍者に変身できる着付け体験も行っていたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.26
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そして「銅門枡形内仕切門」を潜ると、「銅門枡形」があり、左手に巨大な「銅門」が姿を現した。「銅門(あかがねもん)」に近づいて。銅門から見る天守と常盤木門の多聞櫓。「銅門」を見上げて。銅板が張られた「銅門(あかがねもん)」。「銅門」の名前は、大扉などに使われた飾り金具に、銅が用いられたことに由来。現在の「銅門」は、昭和58年(1983)から行われた発掘調査や古写真、絵図などを参考に、平成9年に復元されたもので、石垣による桝形、内仕切門及び櫓門を組み合わせた桝形門と呼ばれる形式で、本来の工法で復元されている と。飾り金具として、至る場所に銅板が貼られていた。「銅門」の天井を見上げる。松の巨木を手斧か槍鉋(やりかんな)のようなもので、仕上げた跡が生々しく残っていた。「銅門(あかがねもん)江戸時代のニの丸正門に位置づけられる門です。この門を通り本丸や天守へと進むようになっていました。枡形という形式の門で、櫓門と内仕切門の2つの門と、これをつなぐ石垣と土塀で構成されます。銅門の名は、扉の飾り金具に銅を使用していたことからその名がついたといわれています。地震などによる被害を度々受けながらもその都度修理がなされ、江戸末期まで維持されていましたが、明治時代に入り廃城となった後の明治5年(1872)に解体されました。現在の銅門は、発掘調査の成果や絵図、古写真などを参考に平成9年(1997)に古来の工法により復元しました。銅門の梁にはマツ、柱と扉にはヒノキが使われています。」「銅門の復元」案内板。「銅門の復元銅門は、住吉堀の復元事業と併せて昭和58年(1983)から平成5年(1993)まで発掘調査が行われた後、平成5~7年(1993 ~ 1995)にかけて、桝形や櫓台石垣復元工事が、平成8、9年(1996、1997)にかけて、渡櫓門や土塀の復元工事が、日本古来の伝統的な工法で行われました。石垣の復元工事には、関東大震災で住吉堀に崩落した石材に加え、角石に真鶴産小松石(安山岩)平石に、蔵王山系安山岩か使われています。建築工事は、小田原市建築協同組合が受け負い、復元にあたっては、宮大工の芹澤伸明氏が棟梁を務め、市内の大工職人や近隣の左官職人らの匠の技が結集されました。復元に使われた木材のうち、鏡柱など14本の檜材は、ラオスから輸入しています。また、天井の大梁2本は、国産の黒松を使用し、丸い刃が付いたハマグリ釿(ちょうな)により、鱗のような風合いの加工がされています。これらの檜や松は樹齢200年を超える大径木が使われています。」それぞれの時代の「銅門」に関する説明。ここにも「小田原城案内図」。「銅門」の航空写真をネットから。「銅門」を潜り、振り返って。「銅門」の右手には「銅門の二階」が見学出来るのであった。下の写真は以前に訪ねた時の写真。毎週土・日曜日および祝日に、普段立ち入ることができない銅門内部の特別公開を行っていると。【特別公開】10時00分~15時00分以下の写真も以前に「銅門」の2階を訪ねた時の写真です。2階の天井の丸太梁組が見事。梁組をズームして。丸太の手斧仕上げが美しいのであった。細長い窓が並んでいるのが「石落とし」。そして「銅門広場」から「銅門」を振り返る。「小田原城跡のビャクシン」が前方に。「小田原市指定天然記念物(昭和五十六年三月三十日指定)小田原城跡のビャクシン所在 城内三ー二二樹相 目通り幹囲 三.一メートル 株本周囲 約三.九メートル 樹高 約十五メートル 枝張り状況 東西約十二メートル 南北約十五メートルビャクシン は主として本州、四国、九州の海岸地帯に自生しており、庭園や社寺境内などにも植栽されている常緑樹です。この木は市内最大級のもので、主幹の地上約四.五メートルのところで二つの支幹に分かれており、各々が枝葉を伸ばして樹冠を形作り、石垣で囲った盛土の上に立っています。ただ、幹の表面に相当の損傷を受けており、見方によると一見痛々しい感じもしますが、それだけに小田原の長い歴史とともに生き続けてきた、深い年輪が刻まれているような風格のある古木です。 小田原市教育委員会」その先にあったのが「銅門 土塀模型」。その手前にあったのが「伝 銅門礎石」。「伝 銅門礎石この石は、銅門で用いられていたと考えられている礎石です。 使用状況は、復元した銅門をご覧いただくとわかりますが、石の大半を土中に埋め、側面を斜めに加工した部分を櫓台の石垣に合わせて設置します。そして、ホゾ穴に柱材を固定して礎石としました。 箱根外輪山の安山岩製で、ところどころに石を割る際に開けられた「矢穴」が確認できます。 手前の石は約一・六t、奥の石は約一・八tある立派なものです。」廻り込んで。「銅門 土塀模型」に近づいて。竹で造った柵に何層にも土や漆喰を塗り重ねて造られていることが理解できたのであった。荒壁・斑直し・大直し・中塗り・砂漆喰。荒壁は下地に細い竹を組んで造る土壁のこと。斑直し、荒壁の表面を平面に整える作業。次に大直しですが、これも表面を整える工程のようですが、斑直しとの具体的な違いは??中塗りは上塗りの前工程、最後の砂漆喰は字の通りで、漆喰に砂を混ぜて強度を増したもの。これを仕上げに塗る、塗っては乾かしてを何度も繰り返すのであろうか。「銅門 土塀模型この土塀模型は、江戸時代の工法・技術をもとに復元した銅門の建設に先立ち制作したものです。使用する木材や白壁の材料である土の収縮や乾き具合などを確かめる重要な役割を果たしました。皆さんに古い建築の工法を分かりやすく伝えるため、小田原市建築協同組合」より寄贈を受けたものです。」銅門前の枡形の土塀の内側を。この土塀の工法が示されているのであった。「銅門広場」👈️リンク から「銅門」そして土塀の反対側を振り返って。「二の丸跡」案内板。「二の丸跡江戸時代、多くのお城では、藩主の住まいは本丸にありました。しかし小田原城の本丸には徳川将軍家のための御殿があったため小田原藩主の住まいは二の丸にありました。ニの丸の建物は「二の丸御屋形」と呼ばれ、藩主の住まいのほか、藩の政治を司る政庁としての役割がありました。ニの丸御屋形は、寛永10年(1632)の寛永小田原大地震で被災した後に大規模に整備され、唐門や能舞台を備えた御殿造りの壮麗な建物となりました。しかし、元禄16年(1703)の地震により倒壊・炎上したことが、発掘調査でも確認されています。その後、規模を縮小して再建されますが、幕末に至って幕府老中や将軍家の上洛が再開されると拡張され、本丸御殿に代わる将軍家宿所としても用いられました。明治に入り廃城となった後、同34年(1901)に御用邸が建て替えられましたが、大正1 2年(1923)の関東大震災でほぼ全壊しました。そして、その後、鰯和4年(1929)に小田原第二尋常小学校(後の城内小学校)が建設されました。平成4年(1992)に小学校統合に伴い城外へ移転しましたが、残った旧講堂は歴史見聞館として使われています。」江戸時代の小田原城復元模式図から「二の丸」はここ□。その先にあったのが「歴史見聞館・小田原城NINJA館」。城内小学校の建物はかつて講堂・体育館だったらしい1棟だけが現在残っており、この小田原城歴史見聞館という名前で忍者の体験館(?)的に使われているのだと。「風魔NINJYA」顔出しパネル。「小田原城NINJYA館」👈️リンク 案内板。この日の入館はパス。「小田原城案内図」。現在地はここ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.24
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熱海・ジャカランダの花を楽しんだ帰路に、小田原城を訪ねた。往路と同じルートで小田原まで戻り、「学橋」前の駐車場に車を駐め散策開始。小田原城址公園の堀にかかる赤い「学橋」👈️リンクは、市民のシンボル的存在。城址公園内の二の丸広場に平成4年まであった城内小学校への通学橋として利用されたことから、この名前が付けられたのだと。今も近くの高校生たちが通学したり、イベント時には多くの人々が行き来しているとのこと。城へ向かう入り口として親しまれている橋だが、多くの魅力が詰まった小田原城そして小田原の街への入り口でもある と。この日の主な目的はこれ・「小田原城 あじさい花菖蒲まつり」。令和6年6月1日(土)~16日(日)の期間で開催中であった。この日は6月11日(火)10:40過ぎ。「約2500株のあじさいと約1万株の花菖蒲の共演をお楽しみください。」と。「小田原城」&周辺案内板。「馬出門」方向への「お堀端通り」沿いの桜並木。「小田原城 二の丸隅櫓」を見る。「馬出門」方向に向かって歩きズームして。「馬出門」への橋「めがね橋」を見る。橋の形から通称「めがね橋」と呼ばれているが、正式には「馬出門土橋」という。橋を渡ると馬出門に入るため、この名前が付けられている。この馬出門を通り、銅門、常盤木門へと進むのが、正規な登城ルートなので、本来はここが城址公園の正面玄関と。この門は、馬屋曲輪の北部、さらには二の丸の正面に位置する重要な門であり、門と土塀で周囲を囲む枡形門の構造を持っている。伝統木工法に基づき平成21年に復元された と。箱根登山バス「バスのりば めがね橋」。「小田原城 二の丸隅櫓」を見る。左奥に「小田原城 天守閣」が見えた。「小田原城跡小田原城の歴史小田原城は、戦国時代には関八州を治めた小田原北条氏の本城となり、豊臣秀吉との小田原合戦の際には、周囲9kmにわたって、堀と土塁で城下を囲む戦国最大規模の大城郭に発展しました。北条氏滅亡後、江戸時代になると、江戸幕府の西を守る重要な城郭として、天守、櫓、城門と石垣と水堀から成る近世城郭に改変されます。小田原城は、中世の城と近世の城が同じ場所に重複して存在する城郭であることが特徴といえます。明治時代には、天守をはじめ建物は取り壊され、ニの丸内は、皇族の御用邸になりますが、関東大震災によって残っていた石垣も大破し、高等女学校や尋常小学校、野球場や図書館などが建設されます。昭和58年(1983)からは、史跡整備が本格化し、施設の移転が進められ、住吉堀や銅門(あかねもん)、馬出門、御用米曲輪(ごようまいくるわ)の復元整備が進められています。」「小田原城の歴史年表」。「文久図に描かれた江戸時代末期の小田原城」。「めがね橋」、「小田原城 馬出門」を正面に見る。「めがね橋」入口にあった「小田原城案内図」、「周辺案内図」。「周辺案内図」。「小田原城案内図」。解りやすい「小田原城 園内マップ」をネットから。ここからが「小田原城正規登城ルート 馬出門・銅門(あかねもん)・常磐木門・天守閣」と。「めがね橋」入口から「馬出門」👈️リンクをズームして。「めがね橋」を渡りながら南側の掘りを見る。「めがね橋」を渡りながら北側の「学橋」を見る。再び「小田原城 二の丸隅櫓」をズームして。「馬出門」。「馬出門」手前の広場「馬出門広場」は昔はなく、橋を渡ると直ぐに「馬出門」があり「枡形」が拡がっていたが、寛文12年(1672)の改修で、門は、土橋を渡った奥に移動し、土橋との間に広場・「馬出門広場」が設けられた と。「馬出門馬出門は、三の丸からニの丸に向かう大手筋上に設けられた重要な門で、桝形の内側に位置する内冠木門と同様、控え柱にそれそれ屋根がつく「高麗門形式」の門であったと考えられています。発掘調査によって、明治34年(1901)に設置された皇族の御用邸時代の石垣や江戸時代の石垣、門の礎石などが確認されました。これらの成果や絵図をもとに、平成21年(2009)に高さ約6.3m、幅約4.7mの規模を持つ馬出門が復元されました。復元には、柱や扉は欅(けやき)、屋根の下地は椹(さわら)、土塀の控柱には栗を用いました。御用邸時代の門は、馬出門土橋から直進して門をくぐることができるように向かって左側に位置をずらすとともに、石垣を高く積み直しており、写真で当時の様子を知ることができます。」「馬出門(うまだしもん)馬出門は、三の丸からニの丸に向かつ大手筋(正規登城ルート)に位置する門です。寛文1 2年(1672)に桝形形式に改修され、江戸時代末期まで存続しました。明治時代には御用邸の正門でしたが、関東大地震で倒壊しました。平成21年(2009)に発掘調査を経て、江戸時代の姿に復元整備されました。」振り返って「お堀端通り」沿いに出来た「小田原三の丸ホール」を見る。正式名称は小田原市民ホール。 2021年9月5日開館。小田原市民会館の後継施設となる多目的ホール。客席数: 大ホール:1,105席 小ホール:296席 とウィキペディアより。小田原市本町1丁目7−50。「馬出門」を入ると「馬出門枡形」が現れた。「枡形(桝形)とは 戦国時代、城の入口・一の門と二の門の間が広く長方形や正方形につくられています。 これは、進入してきた敵の勢いを緩めたり、中が直ぐ見通せないようにしているのです。 だから、城下町にはたいてい、この形が今も残っています」とネットから。正面の石垣の先に「小田原城 銅門」の巨大な屋根が現れた。「馬出門枡形馬出門桝形は、馬出門と内冠木門(うちかぶきもん)のニつの門と周囲を土塀で囲まれた方形の空間をいいます。桝形は、江戸時代初期(1645年頃)の様子を描いた正保図には馬出門土橋を渡って直ぐに馬出門が設けられていましたが、寛文12年(1672)の改修で門は、土橋を渡った奥に移動し、土橋との間に広場が設けられました。明治34年(1901)に、ニの丸一帯が皇族の御用邸となった後、関東大震災で石垣の大部分が崩落し、周囲の堀の一部が埋め立てられましたが、平成15年(2003)から整備のための調査を開始し、平成21年(2009)に復元整備を完了しました。石垣の復元には、安山岩を用い、馬出門の南側を真鶴産小松石、北側を江戸城の石丁場である早川石丁場で発掘され、記録調査後に廃棄予定であった石を使用しています。」こちらが枡形出口・二の門の「内冠木門」。「内冠木門(うちかぶきもん)馬出門の枡形の内側にある門 平成21年(2009) 復元」と。「内冠木門」前から「馬出門枡形」を振り返る。そして「内冠木門」を潜って進むと右手に「住吉堀」がありその手前には「案内板」が。「小田原城と銅門(あかがね門)銅門は、小田原城二の丸の表門で、南側の馬屋曲輪(うまやくるわ)やお茶壷曲輪とは住吉堀によって隔てられています。江戸時代には、馬出門土橋(現在のめがね橋)から城内に入り、銅門を通って、二の丸御殿や本丸、天守へと進むようになっていました。」「江戸時代末期の小田原城絵図(部分) 小田原城天守閣蔵」「小田原城案内図」。「小田原城 案内図 史跡 小田原城跡」近づいて。現在地はここ。「小田原城小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃と考えられています。16世紀初め頃に戦国大名小田原北条氏の居城となり、関東支配の拠点として次第に拡張されました。豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築造された、城下町を囲む延長9kmにおよぶ総構の出現により、城の規模は最大に達しました。北条氏滅亡後、徳川家康の家臣大久保氏が城主となると、石垣を築くなど、北条氏の城郭に改修の手を加えます。しかし、大久保氏が改易されると城は破却されます。その後、寛永9年(1632)に稲葉氏が城主になると大規模な改修工事が実施され、城の姿は一新します。稲葉氏三代の後は、再び大久保氏が城主となり、地震や富士山の噴火による被害を乗り越えて、小田原城は関東地方の防御の要衝として幕末まで存在しました。明治3年(1870)に小田原城は廃城となり、売却された後、次々と解体されました。城址は御用邸時代を経て地元自治体に払い下げられ、現在にいたっています。現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と三の丸土塁・総構・八幡山古郭の一部が国の史跡に指定されています。また、本丸を中心に「小田原城址公園」として整備が続けられています。 昭和35年(1960) 天守関復興 昭和46年(1971) 常盤木門再建 平成 9年(1997) 銅門復元 平成21年(2009) 馬出門復元 平成28年(2016) 天守閭リニューアル 常盤木門SAMURAI館オープン」南側正面にあったのが「二の丸お休み処・二の丸観光案内所」。「小田原ガイド協会が、城址公園内や小田原の観光スポット・史跡などをガイドします。小田原城址公園内ガイド、モデルコースガイド、期間限定の企画ガイドなど様々なプランをご用意しております。」とネットから。「小田原城 銅門」に続く「住吉堀」に架かる「住吉橋」、「銅門枡形内仕切門」が右手に現れた。「銅門(あかがねもん)」案内板。「銅門(あかがねもん)銅門は、江戸時代の小田原城二の丸の表門で、江戸時代のほば全期間をとおしてそびえていましたが、明治5年に解体されてしまいました。現在の銅門は、昭和58年から行われた発掘調査や古写真、絵図などを参考に、平成9年に復原されたものです。銅門の形式は、石垣による桝形、内仕切門、櫓門、を組み合わせた桝形門と呼ばれる形式で、本来の工法で復原されています。「解体される前の銅門(明治5年) 横浜市美術館蔵」と。「住吉堀住吉堀は、銅門と馬屋曲輸・御茶壺曲輔の間を仕切る堀で、寛永9年(1632)以降、稲葉氏による近世化工事で完成しました。大正12年(1923)の関東大震災で石垣が崩落し、その後埋め立てられ、小田原高等女学校(後の城内高等学校)が設置されていました。昭和58年(1983)から本格的に始まった史跡小田原城跡の整備事業に伴い行われた発掘調査では、石垣の根石と呼ばれる一番下の積石と、その下に敷かれていた松の土台木が堀全体で確認されました。また、絵図に描かれていない戦国時代の小田原北条氏による「障子堀」(堀底に土を掘リ残し障壁とする堀)、さらに江戸時代初期の「障子堀」や自然石をそのまま使用した野面積みの石垣などが検出され、時代によって異なる堀の変遷が確認されました。住吉堀の石垣と堀の復元工事は、昭和63年(1988)から発掘調査と並行して、城絵図や発掘成果と整合させて行われました。また、平成2年(1990)に住吉橋を復元しましたが、銅門櫓台石垣を含めた石垣までの完成には、平成7年(1995)までの6年間を要しました。復元に際しては、関東大震災で崩落した石垣の石を使い、角石などの一部は、真鶴産小松石(安山岩)を新たに使用しています。」再び「住吉堀」、「住吉橋」、「銅門枡形内仕切門」を見る。「馬屋曲輪」👈️リンクから「住吉堀」、「住吉橋」、「銅門枡形内仕切門」そして「銅門」。「住吉橋」、「銅門枡形内仕切門」を正面から。「銅門枡形内仕切門」に向かって進む。木製の「太鼓橋」👈️リンクが。「住吉橋銅門枡形内仕切門(あかがねもんますがたうちしきりもん)と馬屋曲輪(うまやくるわ)の間にかけられた橋 平成 2年(1990)復元 平成30年(2018)改修 2019.03小田原城総合管理事務所」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.07.23
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今日、7月21日(日)は満月。満月は夕方の日暮れの頃に東の空から昇り、翌日の明け方の日の出の頃に西の空に沈みます。7月の満月はアメリカの農事暦で「バックムーン」とも呼ばれます。この呼び名はアメリカが発祥とされていて、英語で書くと「Buck Moon」と。「Buck」はオスの鹿を意味しており、ちょうどオスの鹿の象徴でもある角が生え替わる時期であることから、7月の満月をバックムーンと呼ぶようになったのだ と。アメリカの先住民は季節を把握するために、各月に見られる満月に名前を、動物や植物、季節のイベントなど実に様々につけていたのだと。満月の瞬間がいつになるのかは、太陽・地球・月の位置関係によって計算ができます。地球から見て、太陽の方向と月の方向の差(黄経差)が0度の瞬間が朔(新月)、90度の瞬間が上弦(半月)、180度の瞬間が望(満月)、270度の瞬間が下弦(半月)と定義されていて、およそ1か月弱で1周します。つまり満月は、地球から見て太陽と月がほぼ正反対の方向にならぶ瞬間(太陽、地球、月の順に、ほぼ一直線にならぶ瞬間)を指します。今年2024年の満月の日は下のごとくに。この写真の撮影時間は19:46。月が赤っぽく見えたのは、大気の影響による現象で、朝日や夕日が赤く見えるのと同じ理由。月の出、もしくは月の入りのときのように、月が地平線(水平線)に近いときに、赤っぽく見えやすくなるのです。普段、私達が目にする光の中には、虹の七色で表現されるように、青い光から赤い光までいろいろな色が混ざっていて、全体としては白っぽい光となっている。月からくる光も最初は白っぽい光です。しかし、月の光が私達の目に届くまでには、光が地球の大気の中を通過しなければなりません。波長の短い青い光は波長の長い赤い光に比べて、地球の大気の中を進む途中で大気の分子にぶつかって、あちこちに散乱されやすい性質があります。このため、大気の中を長く通過すればするほど、青い光は私達の目に届きにくくなるのです。一方、赤い光は大気の中を通過しても、散乱されにくいので、私達の目まで届くことができるのです。さて、丸い地球をとりまく大気の厚さは、どこでもほぼ同じですが、地上から見ると、見る方向によって、厚さが違うのです。頭の真上の方向がいちばん薄く、水平方向に近くなればなるほど大気が厚くなっていきます。地平線(水平線)近くに月があるときは、月からの光が、厚い大気の中を通過することになります。すると、青い光は届きにくく、赤い光だけが私達の目に届きます。そのため、月が赤っぽく見えるのです。どんな形の月でも(月だけでなく実は星も!)、地平線近くにあるときには赤っぽく見えますので、一度よくご覧になってみてはいかがでしょうか。繰り返しになりますが、短い波長の「青色光」は、大気中の粒子(ホコリや水分)などにぶつかりやすく散乱しやすい光です。逆に長い波長の「赤色光」は、大気中の粒子(ホコリや水分)などにぶつかりにくく散乱しにくい光なのです。そしてこの日の、月の出直後の赤い満月をさらにズームしてみました。そして色が白くなった21:30過ぎの満月の姿なのです。 ・・・おわり・・・
2024.07.21
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