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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『水守』交差点を左折し、県道381号線を進む。200m程進んで県道381号線を右折し直ぐに左折し旧東海道を更に進む。天理教会の先右側の歩道に『東海道藤枝宿東木戸跡』の木柱があり、側面には「領主番所跡」と書かれていた。しかし「東海道藤枝宿東木戸跡」文字は道路側に。「東木戸跡」のすぐ先、300m程進むと右手にあったのが『藤枝成田山新護寺』。本町4丁目にあり、県下唯一の成田山。入口を境内に入ると左右に大きな金剛力士像が迎えてれた。向かって右側に阿形像。左側に吽形像。本堂。住 所:静岡県藤枝市本町4丁目5-24名 称:藤枝成田山宗 派:真言宗本 尊:大日大聖不動明王特 記:大本山成田山新勝寺(千葉県)の直末寺院千葉県の成田山新勝寺で修行された法憧が不動明王を本尊として「成田山新護寺」を開山。『開山 法憧法師像』。『開山 法憧法師像』略傅。全て漢字で理解できません。『おたすけ観音』。『ボケ除の像』お二人の頭とカボチャを『必死!!』にシツコイくらいに撫でて来ました。『水かけ不動尊』。『日限地蔵尊』。『南無釈迦如来像』。『南無水子地蔵尊』。『十二支守本尊』⬅リンク。生まれ年の干支によって定められているお守りご本尊。 私は寅年、虚空蔵菩薩。角度を変えて。『布袋尊』。いつもお会いしお腹を見る度に、他人とは思えない布袋様。『弘法大師修行像』。『南無大聖不動明王』。こちらにも『布袋和尚』。『布袋和尚』説明板。太鼓腹をさらして呵々大笑。見ているこちらも太平楽な心地になる。それが「布袋和尚」だ。9~10世紀、中国・唐の時代の明州(浙江省寧波市付近)に実在したといわれ、釈契此という名前も残っているが、トレードマークの大きな布袋をいつも背負っていたことから「布袋」と通称されている。島田信用金庫藤枝東支店。その支店敷地の道路側隅にあったのが『従是西下伝馬 従是東左車』道標。藤枝市の花:ふじ 藤枝市の鳥:うぐいす 藤枝市の木:まつのプレートが歩道に埋め込まれていた。右手に『下伝馬会館』の広場の入口。『東海道藤枝宿』。常夜燈。台座には「町内安全」と。『東海道 藤枝宿 左車町 下伝馬町 白子町』の『藤枝宿 絵図』。旧東海道沿線の史跡や神社等が載っていた。 下伝馬会館の右横奥にあったのが『恵比寿大神、大黒天』。現在の場所は藤枝市本町3-2‐23。「旧東海道から左手1kmほどの場所には『旧田中城跡』があった。(黄色の◯の中)。田中城は、今から500年ほど前、この地の豪族・一色氏が今川氏の命を受けて、その屋敷を拡大して城としたのがその始まりだといわれています。その後、武田氏の手に落ち、さらに江戸時代になってから四之掘が増設されて、直径およそ600mの全国的にも珍しい同心円形をした城ができあがりました。現在、市立西益津小学校が建っている場所がかつての本丸で、江戸時代には4万石程度の譜代大名が城主となって、志太平野の村々を治めていました。しかし、明治維新によって、田中城は廃城となり、城跡も民間に払い下げられました。」この日は『旧田中城跡👈リンク』を訪ねることは出来なかったが、後日訪ねブログアップしたたのでリンクにアクセス下さい。藤枝市の商店街を歩くが人の姿はほとんど無し。この日は3月20日(水)、時間は15:30前であったが。店のウィンドウ内には『真田信繁(幸村)』の甲冑が。路地の右奥には大きな白い蔵が。『白子由来の碑』が道路左手に。ここは藤枝市本町2丁目6−1。藤枝市の街道沿いの繁華街に白子町と呼ばれる一角がある。ここは三重県鈴鹿市白子に因んで町名が付けられたという。この由来は、天正10年(1582)織田信長が殺された「本能寺の変」に端を発する。当時わずかな供連れで堺見物をしていた徳川家康は身の危険を感じ急遽帰国の途につき、堺から伊賀越えで伊勢の白子の浜に出た。ここで小川孫三が家康一行を舟に乗せ対岸の知多半島まで運んだという。家康はこの恩に報いるため、孫三に藤枝宿の一角を与え諸役御免(伝馬役など宿場の業務を免ずる)とした。孫三は、ここに居住し町名を故郷の白子町とした。現在の住居表示は本町となっているが、子孫の小川家の前に町名由来記の石碑がある。『白子由来記』碑。本能寺の変の折、家康の危機を救った伊勢国白子の小川孫三が、天正14年この地を賜り白子町と称したと。『西暦1586年(天正14年)白子町誕生 白子由来の碑』と書かれた立て看板。『小川孫三(おがわまごぞう)』。天正10年(1582年)、本能寺の変があったとき、徳川家康は和泉国堺にいました。身の危険を感じた家康は、伊賀から伊勢へと逃げましたが、伊勢の白子(しろこ)というあたりで敵に捕まりそうになりました。その時、畑で麦を刈っていた小川孫三というお百姓さんが、その麦の中に家康を隠して、敵の目をあざむきました。お陰で家康は命拾いしたのですが、一方の孫三は家康をかくまった罪で白子にいられなくなってしまいました。これを聞いた家康は、孫三をあわれに思い、藤枝に呼び寄せて新白子という町をつくる許可を与えました。これが現在の白子町で、小川家には家康の朱印状が残されています。小川医院前の町名由来碑・『白子由来碑』。「凡今より390年前本能寺の事変の折、伊勢白子の住人小川孫三徳川家康公の危急を救い、覚えとして天正14年8月14日御朱印を賜る。是より藤枝町白子町と称えこの地に居住す」更に藤枝の商店街を進む。旧東海道の左手奥にある『長楽寺』のプレートが。案内に従い『長楽寺』を訪ねた。山門。境内参道。中央に『六地蔵』。朱の太鼓橋とその先に『弁天堂』。『慈母観世音菩薩像』。『本堂』。長楽寺の創建は諸説ありますが伝承によると、平安時代末期の仁安年間(1166~1168年)当地の有力者、粉川長者が善政を敷いた為、成仏できなかった青龍が屋敷に住み着き、成仏出来るように長者に頼みました。そこで長者は御堂を建立し境内に「真薦が池」を設けて青龍の住みかにしたと伝えられています。その後、蘭渓道隆大覚禅師を招き臨済宗の寺院として開山し境内には七堂伽藍が建立され寺運も隆盛したそうです。鎌倉時代末期の正中年間(1324~1326年)、芝巌徳香を招き中興開山、中世は今川家の庇護から寺領を広げ、豊臣家政権下では450石を有していました。江戸時代には寺領が減少しますが、朝鮮通信使の宿泊所や田中藩(藩庁:田中城)の藩主土屋家の香花所などの格式を得ています。山号:青龍山。宗派:臨済宗妙心寺派。本尊:釋迦牟尼如来。扁額は『長楽寺』。長楽寺通りを進み『蓮生寺』入口前まで来ると塔のある建物が右手に。本格イタリアン料理の人気の店『リストランテ・ダルピーノ(Dalpino)』。夢舞台東海道道標『藤枝宿』。 江戸から 50里1丁(196.5Km)、京へ75里19丁 人口約 4430人。 『安藤広重 東海道五拾三次之内・藤枝『人馬継立』』。「この宿場の図は、副題の「人馬継立」とあるように、宿場の問屋場の様子である。朝早く荷物や駕籠の手配をしているところだろう。問屋場では宿役人が下役に指示を出している。羽織袴の武士と帳付役が打ち合わせをし、手前には荷の引き継ぎを待つ人足たちがいる。」 その7 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.07
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次に訪ねたのが「長樂寺」。平塚市札場町15−42。寺号標石「高野山 真言宗 海詠山 長樂寺」。側面には「高野山開創千二百記念 令和三年十二月吉日 智運 代」と記されていた。昨年、新装なった見事なそして巨大な白木造りの「楼門」。「楼門」とは二階造りの門。現在では、下層に屋根のある門を二重門と呼ぶのに対して、特に、下層に屋根のない二階造りの門を言う。上層は切妻造りの屋根をかけ、二階の縁には高欄が取り付く構造となっていた。「楼門」の扁額は青字で「長樂寺」。左右の「間」には、未だ何も安置されていなかったが、いずれは金剛力士立像等が安置されるのであろうか?「楼門」を潜り、境内に入ると正面にこれも新装なった「本堂」が。「長樂寺」のHPによると「第2次世界大戦末期の空襲による焼失後、長楽寺は伽藍再興の機会に恵まれないまま戦後60余年の時が過ぎました。しかし復興を望む檀信徒の熱意が実り、平成20年(2008)、本山•高野山の推挙により新住職を招聘。同時に「平成の大復興事業」に着手しました。新たな本堂である「金堂」、寺務所や集会所として使用される「金剛閣」、住職の住居となる「庫裡」などの建設が進められ、ついに平成24年(2012)に完成しました。」と。「本堂」の扁額は山号「海詠山(かいえいさん)」。賽銭箱には「五三の桐紋」と「左三つ巴紋」が。内陣。本尊は「薬師瑠璃光如来像」。「本堂」の「海老虹梁」を見る。「海詠山長楽寺 縁起」。「海詠山長楽寺 ーーー 縁起海詠山長楽寺は、高野山真言宗の寺院であります。江戸時代後期に編纂された。「新編相模国風土記稿」によれば、長楽寺は紀伊国(和歌山県)高野山の直末寺であり、薬師瑠璃光如来を本尊とし真言宗寺院として大いに栄え、十三ヶ寺の末寺を配し三島神社の別当も務めたとされます。また、関東壇林の一つとして教学盛んな一大教場をなしたとされる相模国の古刹であります。かつて、真言密教の開祖弘法大師空海が関東、東北地方へ巡錫の旅に出られた際、伊豆国修善寺より船で相模川の下流地、須賀湊に上陸され現在の長楽寺の地に最初に滞在されたとの史記もあります。開山は文治元年(1185)頃、僧鎮海が草庵を建て海詠庵と称し住居したことに始まり、その後、建保三年(1216)に、僧朝秀が中興し庵号を海詠山としました。それより約八百年間、栄枯盛衰の年月を経て様々な出来事も多々あったと思われますが、昭和二十年の太平洋戦争による戦災で、塔堂伽藍を焼失したことが悔まれ、現在では、かつての面影は殆ど残されていません。境内には戦災を逃れた地蔵堂や貴重な石仏や石塔が残されています。正面の本堂や庫裏は、平成二十年より進められた、長楽寺平成の大復興計画の一環で、六十七年ぶりに建立されました。本堂の須弥壇には、薬師瑠璃光如来を本尊とし、脇侍に日光、月光菩薩と、それを守護する薬師十二神将が奉安されています。〇 長楽寺年中行事 一月七日 七草会 七草粥で人日(じんじつ)の節句を祝い、邪気をお払いいたします。 一月二十一日 初大師 護摩供養 弘法大師さまが御入定された三月二十一日にちなみ、新春最初の正当日を偲 び、御供養をいたします。 三月十七日 ~ 二十三日 春季彼岸会 春分の中日に当り、御先祖の御霊を供養し、迷いの此岸より悟りの彼岸へ引 導し、滅罪生善を厳修いたします。 三月二十一日 弘法大師御影供 弘法大師さま御入定日で正御影供と称します。当山では御大師の遺徳を偲び 報恩を棒げ、御供養をいたします。 八月八日 施餓鬼供養 餓鬼道に苦しむ餓鬼や有縁無縁の仏、精霊など、三界万霊に施しの法要を修 します。 八月十三日 ~ 十六日 孟蘭盆会 衆僧は施主の七世父母や祖霊の為に法要を修し、功徳の力で、苦をお救いい たします。 九月十九日 ~ 二十五日 秋季彼岸会 秋分の中日に当り、御先祖の御霊を供養し、迷いの此岸より悟りの彼岸へ引 導し、滅罪生善を厳修いたします。」「本堂」を斜めから。左手にあったのが、寺務所や集会所として使用される「金剛閣」。境内の右側には、左に「三界萬霊塔」そしてその右には石碑群が。一番右の石碑・「山口福太郎君之碑」、明治三十九年五月。以下、くずし字の師匠・高校時代の学友女史が現地出向し、解読して下さいました。「藤田定五郎君之碑」、明治四十二年十月。明治四十一年韓国事變殉難者 陸軍歩兵二等卒勲八等旭日章 藤田定五郎氏の慰霊碑。線刻画・観音菩薩が刻まれた石碑。こちらも現地に駆けつけてくれた師匠から。「為田中八 重長女静 枝両霊菩 提奉刻観 世音菩薩 以弔其霊」田中八重、長女静枝両霊の菩提のため、観世音菩薩を奉刻し、以ってその霊を弔う。」と。「碑裏の記事によると、八重さん25歳、長女静枝ちゃん5歳。同日に亡くなったようです。昭和7年6月ですが、何があったんでしょう?」とも師匠から。庚申塔群。「三猿庚申塔」。不見不言不聞の三猿像が大きく刻まれた貞享4年(1687)造立の庚申塔。青面金剛をあらわす梵字「樺(ウーン)」を頂点に、三猿をピラミッド型に配置するなど、ニ段に三尊形式に浮彫されている市内唯一の庚申塔でとのこと。「六臂青面金剛像」。4基の庚申塔のうち、左端にある両脇にニ猿を従えた青面金剛庚申塔は、造立年代は不詳ですが、湘南地区における17世紀中葉の民間信仰のあり方と、青面金剛と三猿が庚申塔の刻像として全国に定型化していく祖型として、資料的価値が高く貴重な石造物です。これと同じ像容の塔は、平塚2基、茅ヶ崎3基、寒川1基、藤沢1基とこの地域に限って計7基存在し、ほぼ同時期に造立されていることが確認されており、いすれも神奈川県指定重要文化財で全国的にも珍しい庚申塔であるとのこと。「六臂青面金剛像」。これが神奈川県指定有形民族文化財指定の「四臂青面金剛像」。「神奈川県指定有形民族文化財長楽寺の庚申塔 一基 平成十八年二月十四日指定この石塔は、光背型塔で刻像は四臂青面金剛と二猿で、青面金剛の四臂の持物は右上手に剣、右下手に宝棒、左上手に三叉戟、左下手に索を持ち、頭には三股冠とともに怒髪様のものを刻む。左右の二猿は両膝を立てて正面を向いて座り、右猿は手を膝の上におき、左猿は膝上で手を結ぶ。紀年銘は持たないが四臂青面金剛と二猿の庚申塔は、神奈川県内に他に六基あり、市内大島の正福寺、寒川町大曲の下大曲神社、茅ヶ崎市甘沼の八幡大神、行谷の金山神社、十間坂の神明宮、藤沢市遠藤の御嶽大神に残っている。これらは承応二年(一六五三)から明暦四年(一六五八)に建立されていることから同時期に建立されたと考えられる。刻銘は台部にあって、「片倉[ ]母 為妙□逆修也」など、人名および「逆修也」の刻銘が並んでいる。このことから逆修供養の為に造立されたことがうかがえ、十七世紀には庚申信仰が死後救済の信仰と結びつき広がったと考えられる。神奈川県内にある四臂青面金剛と二猿の庚申塔は、全国で青面金剛を刻像した最初期の石塔であり、特に金山神社の庚申塔は庚申供養と刻印された青面金剛像庚申塔では最古のものである。湘南地区における十七世紀中葉の民間信仰のあり方と、全国に青面金剛と三猿が庚申塔の刻像として定型化していく祖型として、資料的価値が高く貴重な石塔である。(台部右面) 片倉[ ]母 為妙□逆修也 (台部正面) □妙□逆修也 □鈴木[ ] □ 妙正逆修也 [ ] 妙[ ]修也 □神保 [ ] 為□逆修也 [ ] 為梅 [ ] [ ] [ ] 逆修也 [ ] 為妙□逆修也」 [ ](台部左面) 為妙□逆修□ [ ]逆修也 平成一九年一月 平塚市教育委員会]左端に立つ関東「大震災殃死者供養塔」は、当時の須馬村で亡くなられた方々の三回忌に当たって大正14年(1925)に造立されたもの。塔正面頂部には梵字で大日如来の報身真言と光明真言が、側面には亡くなられた75名の氏名が刻まれていた。石碑群を左側から見る。後列に配置されている2基の「大日如来坐像」。造立年代は不詳だが、何れも宝冠部に胎蔵界五仏を表す梵字が刻されており、金剛界を表す智拳印を結んでいる。先の大戦時に火を蒙ったのか、石肌が黒っぽく変色しているが、長年の風雨に耐えて今なお完全な姿を残しているのだ と。「三界萬霊塔」。永代供養墓 三界萬霊■ お墓の跡継ぎがいない方■ 先々のご供養が心配な方 当寺が永代にわたってご供養いたします。 詳細はお寺までお問い合わせ下さい。 長楽寺「三界萬霊」。三界とは私どもが生まれかわり死にかわりするこの世界のことで、欲界、色界、無色界の3種の世界があり、欲界というのは、食欲、性欲、睡眠欲などの欲望の世界で、色界は欲望が無くなった世界、無色界は形のあるものからはなれた純粋な世界を指すようです。萬霊とは、欲界、色界、無色界などのそれらすべてを指す と。反対側は塔内への入口となっていた。八角形の台座には六地蔵が線刻されていた。仏教には六道(ろくどう・りくどう)という考えがあり、生きているときの善悪の行いによって地獄道、畜生道、餓鬼道、修羅道、人間道、天道の世界を輪廻転生するといわれています。そしてそれぞれの世界には衆生(しゅじょう)の救済をしてくれる地蔵菩薩がいらっしゃる反時計回りに「日光地蔵」・天道を救う。「除蓋障(じょがいしょう)地蔵」・人間道を救う。「持地(じじ)地蔵」・修羅道を救う。「宝印地蔵」・畜生道を救う。「宝珠地蔵」・餓鬼道を救う。「檀陀(だんだ)地蔵」・地獄道を救う。「金剛閣」の屋根には「宝珠」が。「宝珠」を得るとどんな願いもかない、欲しいと思っている宝物を作り出すといわれている。宝珠は、すべての海水と魚を飲みこんでしまうといわれるインドの伝説の怪魚マカラの体内や、龍神の脳から出たとも言われているのだと。「三界萬霊塔」の横・西にあった「護摩堂」。扁額「護摩堂」。「湘南ひらつか 七福神めぐり」案内。長楽寺・・・寿老尊(じゅろうそん) 寿老尊は星座の「カノーブス」という星が「寿星」と呼ばれていてその星が人格化したも のといわれています。 この星は地平線すれすれにあって、まれにしか見られないため、世の中が平和な時だけに 出現するおめでたい星として信じられています。無病息災・子孫繁栄・家業繁昌・交通安 全・心願成就などの様々な福徳を授けてくれる神様として信仰されています。七福神と秋の七草 秋の七草は、万葉集に出てくる歌人、山上憶良が「萩の花 尾花 葛花 瞿麦(なでしこ)の花 女郎花(おみなえし) また藤袴 朝貌(あさがお:ききょう)の花」という和歌を詠んだことから 生まれたとされています。 湘南ひらつか七福神では、各境内(五ヶ所)に秋の七草を植栽・育成中です。長楽寺の七草 女郎花(おみなえし) オミナエシ科の多年草 花期 8~10月 「おみなえし」とは、名前の由来に諸説あり、オミナ(女)、ヘシ(圧)で美女を圧倒するという 意味と、黄色い花がアワに似ているため別名粟花(アワバナ)とも呼ぶ、粟の入ったご飯を 「女飯(オンナメシ)」と言い、それが変化したという説があります。 秋の初めには1mくらいの背丈に伸び、黄色の小さな花を咲かせると、風に乗ってゆらゆらと そよぐ姿がとても風流です。「湘南ひらつか 七福神 壽老尊」。お顔をズームして。内陣にも木造の壽老尊が鎮座。ズームして。「本堂」の裏には広大な墓地が拡がっていた。「本堂」の回廊から「金剛閣」を。「金剛閣」入口。再び「三界萬霊塔」とその右の石碑群を見る。「護摩堂」と「三界萬霊塔」。境内から「楼門」を見る。御朱印を頂きました。「軒丸瓦」にも「五三の桐紋」が。細い巴紋が囲んでいるようにも。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.11.30
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仕事の支援で三重県の津に行って来ました。雄大な君ケ野ダムを通り過ぎ、ひたすらカーブの多い山道を道なりに進み、途中の川沿いの橋の袂にある広場に多くのかかし(案山子)を発見しました。『ようこそ下之川 交通安全 篠ヶ広 明日のかかし村』の大きな看板が。『夢ひろば』の文字の横で案山子のオジサンが花束を持って。『八手俣川(はてまたがわ)の恵』と。清流・八手俣川が流れる津市美杉町の下之川は、静かで自然豊かな里山。多くの牛の姿が。釣りをする父子の後ろ姿が。大きなナマズと真っ赤なナマズには『川をきれいに』と。『受付 仲山神社 市民交流センター』の文字が。案山子を設置希望者の受付先のことか?子供達の遊具も。ローラースケートをする父娘の姿。母娘が仲良く。テニスやバトミントンを楽しむ親子。黄色のテニスボールが空中に。そしてこの日の昼食は『旬のお食事処 みすぎ』へ。道の駅美杉の道路の反対にある手作りの食事どころ。おじいさんとおばあさんで切り盛りをしているアットホームな雰囲気の店。南窓向きカウンター五席、四人テーブル二つのゆったりした店。多くの芸能人やスポーツ選手のサイン色紙が壁に。唐揚げ定食を注文。大きな唐揚げはボリュームたっぷり!家庭的な味。そしてこちらは美杉小学校の「案山子コンクール」の作品を『旬のお食事処 みすぎ』の窓から望遠で。一本足で竹や藁で作られた案山子の原型の姿で。この夏では暑そうな姿。秋の実りの季節、日本の田園風景に昔から欠かせなかったのがこの“案山子”。人間の代わりに田んぼや畑で雀やカラスなどの害獣を追い払うために作られた人形。かつては一本足で竹や藁で作られたものが定番だったが、昨今ではその効果を上げるため様々な素材や形状のものも出て来ているのだ。そもそも案山子は古事記に登場する久延昆古(クエビコ)という神だといわれているのだと。足が不自由で、全てを知り尽くしている知恵の神であり、田の神、五穀豊穣の祈願神だと。しかし、現在では農業従事者の高齢化や後継者不足などから農村地帯は荒廃し、近年ではその姿もだんだん見かけなくなってきている。それとともに、上記の案山子の如く案山子が担う役割も様変わりして来ているようである。そして我が仕事場近くにいた野生の鹿の親子。親鹿は私の存在に気がついているようでした。そして帰路は所長の運転する車で津駅まで送ってもらう。君ヶ野ダムが左前方に。今年のダム湖の水位はかなり低い。春には約1500本の桜が君ヶ野ダム湖畔に映る姿は圧巻。昭和46年に完成した堤高:73m、有効貯水量:2000万m3の八手俣川水系の重力式コンクリートダム。発電は行われていない。正面から。農業用水用に一定量を放流しているのであろう。ダムの出来る前はかなりの急流であったことが解るダムの下の光景。そしてこちらは我が養蜂場の案山子です。やはり暑いのでしょうか?上着をまくり上げています。そしてこちらは、乾燥時の強風そして台風12号の風雨の影響か、顔が汚れてしまっています。今度タオルで拭いてあげようと思っています。
2018.08.11
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1階展示室テーマ:相模平野と人間相模川によって作られた相模平野の大地や自然の様子と、その恩恵を受けた人々の暮らしを、地模型やジオラマ、移築した民家などにより展示し、自然と人々との関わりを紹介します。正面に「相模川のめぐみ」コーナー。「相模川のめぐみ昭和初期までの相模川は、上野原町付近と須賀湊の間を高瀬船が往来する物流の大動脈でした。川には、アユをはじめとする多種の魚が生息し、投網やコロガシなどの漁が盛んでした。しかし、昭和22年の相模ダム完成以降は、ダムや堰ができるたびに環境が変わり、水質汚染も進んでアユは激減しました。水道水や電力の供給など、私たちの快適な暮らしのために川が利用されてきたのですが、かっての豊かな恵みも忘れずにいたいものです。」「相模川の水運」。「相模川のめぐみ 水運相模川水運の史料は戦国時代からみられます。近世には甲斐、津久井の材木や流域村々からの年貢などを河口の須賀、柳島の湊へ送り、海船に積み替え江戸へ送る輸送路が確立しました。寛文4年(1664)には、津久井県太井村に荒川番所が設置され、流通物資に運上金が賦課されました。物資の輸送を担った高瀬船には時として大山参拝の人々も運ばれ、相模川は人と物資の行きかう動脈として発展し、須賀湊は川と海の結節点として繁栄しました。」元亀元年(1570)北条氏印判状。麦130俵を須賀から熱海まで船で輸送するように命じています。ここからは須賀が相模平野で収獲された農産物を集積し、出荷する役割を担っていたことがうかがえます。「相模川のめぐみ 船」。「相模川のめぐみ 船相模川には、高瀬船、サンパ船、平田船、馬船、砂利船などの船が使われていました。高瀬船は上流の村々から炭、薪、木材などを積んで須賀湊へ下り、帰りは米や塩、干鰯などを積み、帆を張って上りました。サンパ船は現在も投網やハゼ釣りに用い、平田船は砂利などの物資運搬に用いました。馬船は馬や荷車をのせた大きな渡船で、砂利船は川底の砂利を採取する機械船でした。また、須賀には船大工がいて、流域各地の船を製作していました。」「サンパ船」。投網を打ったり、釣りをするなど、相模川で漁を行われるのに使われる船で、現在も見ることができる。長さが3間半(約6・4m)から4間(約7・3m)、底板の幅が3尺(約0・9m)の大きさである。相模川の漁といえばアユ漁が代表的だったので、アイブネ(鮎船)とも呼ばれている。通常は竿一本で船を操るが、「竿は3年、櫓は3月」という言い方があるように、一人前になるには熟練が必要である。竿で船を漕いで漁場に向うほか、南風の吹く夏には帆を張ることもあった。船は杉が材料に使われ、底板がシキ、船側がシタカキ(シタダナ)、ウワカキ(ウワダナ)、船首がミヨシ、船尾がトダテと呼ばれ、これにカンヌキ、ナカバリ、トモバリ、トコとコベリが付けられ、さらに中央部に生簀(イケス)が設置されている。「高瀬船」。おおよそ大正時代末まで相模川に就航していた荷物の運搬船。鉄道、自動車以前の物資の輸送に大きな役割を果たし、上流から薪・木炭・ソダ・杭木などを積んで厚木や須賀(平塚市)まで運び、川口の須賀で弁才船(ベザイセン)に積み替えられて江戸などにも運搬された。逆に須賀からは干鰯(ホシカ)などの肥料・塩・砂糖・米・麦といった、食料や日用雑貨が上流に運ばれた。この船を所有して物資運搬にあたっていたのは、相模原市の北西部から上流の地域の人々で、最上流部は上野原町まで及んだ。都留郡新田村(現上野原町)の天保13年(1842)の村明細帳によれば、「高瀬船四艘、但し当時四艘、船頭九人、右は先年秋元但馬守様御知行所之節江戸表御屋敷に郡中より納候薪添、須賀浦積送申候」とあって、高瀬船が四艘、船頭九人がいて、これで須賀まで薪を下ろし、江戸の領主の元に送っている。元禄2年(1689)4月の「愛甲郡津久井領太井村川船書上帳」によれば、同村には船長6間(約11m)・幅5尺(約1・5m)の「高瀬船」や7艘、船長3間半(約6.4m)・幅2尺1寸(約0・6m)の「広網船」が10艘、渡船が2艘あると記されている。天保年間に編さんされた「新編相模国風土記稿」の小倉村(現城山町)の条には、「河岸場相模川の南にあり、通船十二艘を繋ぐ、大住郡須賀浦まで運ぶ、水路八里」とあって、高瀬船12艘があったことがうかがえる。高瀬船と呼ばれる運搬船は、森鴎外の小説「高瀬舟」からわかるように、全国的にあって、利根川や荒川のものは大型船だが、相模川のは小型の船で長さが6間半(約12m)が標準的だった。シキと呼ぶ船底は、幅広の板を使うと川底の石に当たって割れる恐れがあったので、幅6寸(約18cm)・長さ1寸2分(約3・6cm)の板をつなぎ合わせて造っているのが特色である。荷物の運搬は請負制で、初めに船主が運賃の2割をフナゾコ(船底)といって取り残りの8割が船頭に渡され、これで途中の宿泊費などの必要経費も賄われた。高瀬舟の就航はほぼ通年行われ、下りは竿で船を操り、先の小倉から須賀までは1日の行程だった。上りは、南風が吹く春から夏にかけては帆を張って風をうけて上っていったが、北風が多くなる秋から冬は帆を使えず、船首の穴に背張り棒を通して一人が押し、さらに1~2人でロープで船を引きながら上っていった。帆を張って上れば小倉までは半日から1日であったが、背張り棒とロープで引き上げるのでは3~4日かかったといわれている。そのため相模川筋の田村(平塚市)、厚木、下依知(厚木市)、上依知(厚木市)田名(相模原市)などには、船頭が泊まる船宿もあった と。「高瀬船船の長さは12m前後。5枚に分かれ、すき間が網目になった大きな帆が特徴です。春から夏は南風を帆に受けて川を上り、冬は綱を引いて上りました。(船は水野波次郎氏製作)」。「相模川の渡船場と河岸」。相模川の渡船場の位置と名前が詳細に示されていた。この日に歩いた相模川河口近くの渡しをズームして。馬入の渡し江戸時代、幕府は大きな川に橋をかけることを禁止しました。そのため相模川(馬入川)では「渡し船」により通行人を渡していました。相模川には60以上の渡し場がありましたが、特に大動脈であった東海道の渡しは「馬入の渡し」と呼ばれ、幕府管理の下、須賀村や馬入村(現在平塚市)と柳島村(現在茅ヶ崎市)など5カ村が支えていました。「馬入の渡し」は、明治初期まで存在していましたが、その後橋が建設されたことにより、この渡し舟の伝統は途絶えることとなりました。「相模川のめぐみ 川漁」。「相模川のめぐみ 川漁相模川は、古く平安時代の「太政官符(だじようかんふ)」に「鮎河」と記されており、アユ漁が盛んな川でした。他にも、ウナギ、ハゼ、ソーメンコ、工ビ、カニなどを対象に、様々な漁が営まれてきました。下流域は網漁が盛んで、投網が網目の大きさにより細かく分かれているのが特色です。目の大きな順に、オオメ・アキメ・チュウメ・コメ・アズキメがあり、アユにはコメを用いました。専業の漁師は、主にコロガシでアユを捕りました。」「サンバ船と投網(とあみ)」。「サンバ船と投網船の長さは7 ~ 8m。船から打つ投網をフナブチといい、川を歩いて打つのをオカブチやカチブチといいます。網の広げ方は川の状況や捕る魚により円・楕円・四角などがあり、アユの場合は網を斜めに落とします。」見突き漁。「モジリ」。「モジリ薄暗く狭い所を好む魚の習性を利用した漁具です。真竹のヒゴで円錐形や角錐形に作りますが、金網のモジリもあります。魚の種類ごとに形が異なり、ウナギモジリはくびれた形で、コシタが二重になっているのが特徴です。エサは奥のコシタの内側に詰めます。」私も子供(小学生)の頃、このモジリを近くの境川に仕掛け、ウナギを捕まえた想い出があるのだ。「ウナギガマ冬に日だまりでじっとしているウナギをひっかいて捕る道員で、ウナギカキといい、船に乗って行いました。」「里山の四季平塚市西部の吉沢、土屋地区から大磯町、二宮町、中井町などの大磯丘陵にかけては、県内でも里山環境のよく残されている地域です。谷間には谷戸田と呼ばれる水田が耕作され、斜面は雑木林、台地の上は畑として利用されており、谷戸の入口や斜面を背中にして集落が配置されています。こうした里山は長年にわたる農業的な利用で形作られてきた景観で、数百年にわたって維持されてきたと考えられます。里山は、人々の暮らしの場であると同時に多くの動植物の生活の場ともなってきました。水田は、シュレーゲルアオガエルやアカガエルの仲間が産卵に利用し、カエルを餌にするヤマカガシのような爬虫類やサシバのような猛禽類が多く見られます。水路には、ホトケドジョウやカワニナが生息し、ゲンジボタルが集団で発生する場所も少なくありません。雑木林にはキンラン・ヒトリシズカのような多くの野草が花咲き、クヌギの樹液にはカブトムシやノコギリクワガタ、オオムラサキやゴマダラチョウが集まっていました。しかし、燃料革命によって薪や炭が石油にとって替わられたために雑木林の手入れがされなくなり、また農家の人手不足によって耕作されない農耕地が増えてきました。大規模な開発によって失われた場所も多く、里山の景観が大きく変わりつつあります。今、私たちは里山の意義をしっかりとらえ、どうすればその豊かな環境を保全していくことができるか、考えるべき時にさしかかっているということができるでしょう。「まちの中の石材」コーナーへ。「私たちの暮らしの中には様々な石材がいろいろな用途に利用されています。街、公園、社寺、住宅等の中に使われている石材には、現在では外国や日本各地のものが多く見られます。しかし、古くから、玉石や七沢石、富士や箱根の溶岩のように相模川・酒匂川の流域の石材が使われてきました。こうした石材から、流域の岩石や成り立ち、日本列島や地球の誕生の歴史をひもといてみましよう。」平塚の街の中にはさまざまところにいろいろな種類の石材が使われています。石材の性質を巧みに利用し、古くから人々は生活に石材を取り入れてきました。こうした石材からは流域の大地のことだけでなく、日本列島の誕生や地球の歴史を知る情報を得ることができます。今回の常設展示替えでは「まちの中の石材」をテーマとした展示コーナーが生まれました。「大地の歴史と石材」。右手に「海と山を結ぶ鳥-アオバト-」コーナー。「海と山を結ぶ鳥-アオバト 👈リンク -大磯町照ヶ崎海岸の岩場には、毎年初夏から秋にかけて、アオバトの群れが海水を飲むために飛来します。多いときには200羽を超すような群れも見られ、多くの人が観察を楽しんでいます。このアオバトはおもに丹沢山地から飛来すると考えられていますが、なぜ海水を飲むのか、毎日同じ鳥が来るのか、冬に海水を飲まないのはなぜかなど、分からないことが多く、その謎を解こうと調査を続けているグループがあります。「アオバト」についての説明が。現在までの調査で確認されていることの一つは、照ヶ崎を訪れるアオバトの多くは丹沢山地から飛んで来るにちがいないということです。アオバトは丹沢山地のブナ帯で繁殖していますが、そのあたりからの数十キロを通ってくるのです。照ヶ崎で採集されたアオバトの糞から、山地にしか見られないミヤマザクラやヤマブドウのたねが見つかったことも、丹沢から飛んでくることの証拠の一つとなりました。アオバトは夏鳥として渡来すると言われてきましたが、県内でも冬期に観察されることがあり、西日本では冬期に各地で普通に見られています。しかし、冬期には海水を飲んだ記録はなく、季節によってなぜ習性が変わるかも今後の研究課題です。このようにアオバトは、身近な所で見られる野鳥の中でも謎の多い興味深い種類なのです。アオバトの飛ぶ姿。「アオバトの四季野鳥観察グループである「こまたん」は、十数年にわたって照ヶ崎海岸でアオバトの調査を続けてきました。その観察によると、照ヶ崎にアオバトの群れが飛来するのは5月から11月までで、1日ののべ飛来個体数は3000羽をこすこともあります。丹沢方面から定まった飛来ルートがあるのか、みんな日帰りで来ているのか、1羽が何日おきに来るかなど、多くの観察課題も残っています。」「相模川流域をさぐる」平塚の母なる川・相模川は、富士山麓の忍野八海で生まれ、丹沢山地の山々の間を流れ、広大な相模野台地を経て、厚木以南で相模平野を作っています。人々はこの相模川の恵みを受け、深く関わりながら暮らしてきました。ここでは、大地の成り立ちや恵み、歴史時代から現在に至る人々の暮らし、自然との関わりなどを地形模型を通して考えてみましょう。「相模湾周辺のジオラマ」平塚市は相模川の河口部に位置しています。平塚の母なる川・相模川は忍野八海に代表される富士山北東麓の湧水に源を発し、丹沢の山々の間をぬって流れ、丹沢と離れてからは相模野台地や相模平野を通って、相模湾に注いでいます。平塚市博物館はその相模川によって作られた大地の自然や、それを舞台に繰り広げられてきた人々の暮らしについて、すなわち「相模川の自然と文化」をテーマにしています。ここでは、相模川流域の地形・なりたち・動植物などの自然と、縄文時代から現在に至る私たちの暮らしとの関わりを地形模型でみてみましょう。地模型と押しボタンやパソコンでの画像とが連動していますので、相模川流域や平塚に関する様々な情報を引き出して見てください。相模川の周辺と河川の流路相模川の形成は約500万年前にさかのぼるとされています。川が運ぶ堆積物は、長い時間をかけて相模野台地を形づくり、そして台地の縁は川に削られて、河岸段丘ができました。地球の気温が低下する氷期には海面が大きく低下したため、相模川の河床は河口付近で今より90mも低くなり、逆に約6,000年前には、温暖化による海面上昇で現在の寒川町付近にまで海が入り込んでいました。その後海岸線はゆっくりと後退し、平野部には相模川の運ぶ砂礫によって自然堤防が、海岸付近では海風により砂丘が発達しました。これらの河岸段丘面や自然堤防・砂丘は、現在も人々の生活の場となっています。相模川水系の河川流域。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.08.24
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク56番札所:泰山寺(たいざんじ)大きな駐車場の道を挟んだ右側の、「四国五十六番泰山寺」と刻まれた石柱から右折して小路に入り、突当りに泰山寺。石柱の後ろに弁天堂が。弁天堂を正面から。境内 配置案内図。「今治市郊外の田園の中、石垣に囲まれた高台にあり、2000年に改修された白い漆喰塀が美しい。数段の石段を上ると石柱門が立ち境内に入る。正面に客殿その右に納経所さらに右に鐘楼がある。大師堂は右後ろになる。本堂は左奥にある。」狭い小道を泰山寺に向かって進む。小路の脇には小さな祠が。明治時代に築かれた石垣と白塀が見事。千手観世音・馬頭観世音・如意輪観音・救世観音。四国八十八ヶ所巡拝五十年記念。手水舎。客殿。本堂。「寺伝によれば弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)が梅雨期に当地を訪れた際に、蒼社川が氾濫していたが、村に伝えられる悪霊の祟りと考えられていた。空海は村人に堤防を築かせ、完成後に河原で土砂加持の秘法を行った。そのとき満願日に空中に延命地蔵菩薩が現われた。そこで空海は地蔵菩薩像を刻み、堂宇を建て本尊として安置したという。泰山寺の名は延命地蔵経中の「女人泰産」からとったものである。一説には道教の五岳の一つである東岳泰山からの引用ともいわれる。天長元年(824年)には淳和天皇の勅願所となり、七堂伽藍を備え10坊を持つ規模となったものの数度のの兵火により衰退し、金輪山の山上より麓の現在の場所へ移築された。安政元年(1854年)再建。」金輪山 勅王院 泰山寺(きんりんざん ちょくおういん たいざんじ)宗派: 真言宗醍醐派本尊: 地蔵菩薩創建:(伝)弘仁6年(815年)開基:(伝)空海(弘法大師)所在: 愛媛県今治市小泉一丁目9-18本尊真言:”おん かかかび さんまえい そわか”「地蔵大菩薩」と書かれた扁額。賓頭盧さん。四国巡拝如法石。客殿・宿坊。弘法大師御像。宝冠不動明王。聖宝理源大師像。神変大師像。大師堂。明治二十七、八年 戦没者戦死者『忠魂地蔵菩薩』と読めた。日清戦争の犠牲者を祀る菩薩のようだ。こちらにも小さな祠が。見事に刻まれた石灯籠。鐘楼。明治14年今治城太鼓楼古材で再建。鐘楼の天井画 。泰山寺の縁起、境内拡張の経緯等が刻まれていた。納経所。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。大師堂。本堂と客殿は廊下でつながっていた。可愛い稚児地蔵。泰山寺の立派な石垣。この上に城があるが如き偉容。----------------------------------------------------------------------------------------------------57番札所:栄福寺(えいふくじ)泰山寺から今治バイパスを利用し蒼社川を渡る。道路脇には濃いピンク、白の花が咲き乱れていた。そして栄福寺に到着。泰山寺から栄福寺までの走行ルート。境内 配置案内図。八幡宮への上り口付近から右に入って行く。山門はなく右手に鐘楼があって、折り返し参道奥に本堂がある。本堂右手前に大師堂、その右に薬師堂、金毘羅堂、庫裏・納経所がある。修行大師像。お願い地蔵尊。句碑。「四国路は 遍路道より 明けの春」 (弘法子)。 振り返ってもう一度。手水舎。鐘楼。ズームで。本堂のある境内へ。金毘羅堂。薬師堂。修行大師像。大師堂。仏足石。本堂。「寺伝によれば、嵯峨天皇の勅願によって空海(弘法大師)が弘仁年間(810年 - 824年)に海難防止を祈願し阿弥陀如来を本尊として開基したと云われている。その後、貞観元年(859年)大和・大安寺の行教上人が宇佐八幡から京都山城に分社の男山八幡(石清水八幡宮)を創建するため近海を航行中暴風雨に遭いこの地に漂着した。上人は府頭山の山容が山城の男山に似ており、しかも阿弥陀如来は八幡菩薩の本地仏であることから、この山頂の境内に八幡明神を勧請し神仏習合の勝岡八幡宮を創建した。明治初年の神仏分離令まで、八幡宮別当栄福寺の関係であったが、山頂にあった堂舎が中腹に移築され現在の大師堂となった由緒があるように、神社と寺はそれぞれ独立した。昭和8年以降は、犬に引かせた箱車で足の悪い15歳の少年がこの寺で足が治り、その箱車を奉納したという話から足腰守りのお寺としても信仰を集めている。」本堂の手前の天井部。扁額には本尊の「阿弥陀如来」と書かれていた。府頭山 無量寿院 栄福寺(ふとうざん むりょうじゅいん えいふくじ)宗派: 高野山真言宗本尊: 阿弥陀如来創建:(伝)弘仁年間(810年 - 824年)開基:(伝)空海(弘法大師)所在: 愛媛県今治市玉川町八幡甲200本尊真言:”おん あみりた ていせい からうん”本堂内部。大師堂を本堂前から。”長寿手拭守り”と名称の付いた手拭い。そして右には般若心経の手拭い。般若心経の手拭いをズームで。絵心経は、かつて字の読めない庶民のために、絵で般若心経を表したことが始まりと。納経所前より本堂を見る。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました 。水子地蔵、水子観音。十輪地蔵菩薩像。 ・・・つづく・・・
2018.05.21
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道を潤井川に向かって進む。潤井川に架かる「富安橋」を渡る。古くは三度橋という橋が架けられていた。江戸時代に江戸と上方を月に3往復する”三度飛脚”を生業とする”三度屋”という問屋があり、青島・高島・蓼原村の3ヶ村の要請で建設費用に42両もの大金を出したことから、三度橋と名付けられたという。潤井川の上流側を見る。旧東海道の左手にある石柱。刻まれた内容は判読不能。『袂の塞神(たもとのさいのかみ)』。大きな顔の石仏で笏を持って頭巾でも被ってこの塞の神のお祭りも道祖神と同じで、1月14日に正月のお飾りなどを燃やすドンドン焼きもあるようだ。笏(しゃく)を持つ像だが年号などの刻銘はなく、江戸後期のものと思われる。近くにあった立て札。『蓼原(たではら)の単体道祖神』と。ここが川原宿と塔の木の境目。塔の木も川原宿と同じ旧蓼原村。富士見大通りの塔の木交差点を渡る。右手に富士山の姿も。静岡県総合庁舎の敷地内にあった『間の宿 本市場』。「この地は吉原宿と蒲原宿の間にあって、間の宿として東の柏原と共に多くの茶屋が建ち並び旅人たちで賑わった。霊峰富士を讃えた鶴芝の碑が近くに建てられています。本市場村の名物として、白酒、葱雑炊、肥後ずいきなどで知られ。広重は白酒売りの茶屋で憩う旅人を描いています。」『東海道五拾三次之内 吉原』民家の一角に『鶴芝の碑』が。ここから眺める雪の富士山は美しく、山腹の雪の形が一羽の鶴が舞っているように見えたことから、鶴芝と呼ばれていたと。鶴の絵と詩文の刻まれた碑が。画家『盧洲(ろしゅう)』の描いた絵に、江戸時代の学者『亀田鵬斉(かめだ ほうさい)』が詩文を添え、文政3年(1820)、鶴の茶屋に碑が建てられたと。このあたりは、旅人の休憩所(立場)で『中の茶屋』『鶴の茶屋』などと呼ぶ茶屋が並んでいたと。『間宿 本市場』周辺地図。『旧東海道順路』の地図が丁寧に。何故かピンク色に映っていましたが。旧東海道を右手に外れて『浄土宗 米宮山 大久院 法源寺』を訪ねた。山門。『本堂』。伝承によると、鎌倉光明寺第8世祐崇が開創。年月は資料によって差異があり、応永元年(1394)、明応元年(1492)などさまざま。その後、無住時代を経て天正年間(1573~91)、当地に移住した武田勝頼家臣の高田長門守2代目・高田六兵衛(糸屋七郎右衛門詮利)が檀縁をむすび、現在地に移転再建。さらに同じく有力檀徒だった小楠氏が、僧澄誉をまねいて寺観を整えた。江戸期は除地3石7斗7升を有し、江戸後期の地誌『駿河記』『駿河国新風土記』には「米宮山 覚寿院 法源寺」と載り、『駿河志料』には堂宇に弁天堂・観音堂、塔頭に最勝院・壽光院がみえる。文政3年(1820)1月8日に火災、嘉永元年(1848)4月30日には落雷で焼失したが、そのつど再建され、現在の本堂は明治37年、位牌堂は昭和2年に建造した。本尊は阿弥陀如来。六地蔵尊(左)とピラミッド状に積まれた無縁供養塔?『和順観音菩薩像』。『法源寺 墓地地図』。『歴代上人墓地』。枯山水の庭とその奥に庫裡が。次に訪ねたのが『日蓮宗 蓮寿山 常諦寺(じょうたいじ)』。山門。常諦寺は、弘安4年(1281)日蓮の大檀那・高橋六郎入道が日蓮の還暦祝いに自邸を寺に改めたのが始まりと伝わっている。『本堂』。開山は1281(弘安4)年、日興上人の弟子、日弁上人を開山の師として迎えた。ご本尊は一塔両尊四士です。江戸期までは本行院、全了坊の塔頭2寺、末寺6寺という大きなお寺であったが、現在の末寺は1寺のみに。『昭和11年 旧本堂西側鬼瓦屋根』と。境内には眼病に霊験があるという『日朝堂』が。旧東海道に戻り、更に進む。『間宿 本市場』。『旧東海道本市場一里塚』日本橋から35番目、花壇の奥に「旧東海道一里塚」と刻まれた石碑があった。水路沿いを歩いて行くと『富士市立富士第一小学校』が右手に。富士本町通りまで辿り着き、左折しJR富士駅に向かう。このJR富士駅前の商店街も閑散としていた。時間は15:20。そしてJR富士駅北口に到着。富士駅北口ペデストリアンデッキにあるブロンズ像「飛躍」「黎明」。そして熱海行き(15:59)の電車に乗り帰路についたのであった。 ・・・完・・・
2019.04.21
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次『東海道難所 薩埵峠之絵図』。東海道、興津川の『川越遺跡』。「ここは東海道興津川「川越し」の跡です。旅人は両岸にあった川会所で「越し札」を買い、蓮台または人足の肩ぐるまで川を越した。越し札はその日の水深によって上表のごとく値が違い、蓮台越しの場合は札四枚を要した。深さが四尺五寸を越すと、いわゆる「川止め」となった。但し冬期(11月下旬~3月5日まで)は仮橋が架かり無賃で渡れた。川越人足は興津側で36人が常備されて居り、大通行があると250人以上が動員された。」太股川(42cm) 12文 はさみ川(70cm)15文横帯川(106cm) 24文 若骨川(120cm) 32文脇水川(150cm) 42文備考:天保の頃 そば1杯が16文。『東海道五拾三次之内 興津 広重画』奥津(興津)は興津川沿いの宿場であり、川は浅く架橋はなく徒歩渡りで、河口での力士の川渡りの様子が描かれている。一人は馬、一人は駕籠であり、人夫との対比も面白い。遠くには、三保の松原、駿河湾が描かれている。二人はともに、柄袋をかぶせた刀を腰に差しているので、大名抱えの関取と思われる。『歌川広重 東海道五十三次 狂歌入東海道《 興津/興津川 》』。『風吹けば 沖つ白波たつた山 夜半にや君が ひとり越ゆらむ 年垣真春』。人足の肩ぐるまで興津川を越して行く旅人の姿が。「東海道五十三次興津」歌川廣重(安藤廣重)寛政9年(1797年)~安政5年(1858年)興津宿の沖の駿河湾からの、真っ白に雪に覆われた富士山の姿が描かれている。『東海道十八 五十三次之内 興津(蔦屋版)』「画面左にある小高い山が薩埵峠です。薩埵峠を西側(江尻宿側)からみている景色です。画面奥には駿河湾が広がります。薩埵峠の手前に軒を連ねているところが興津宿です。画中に「清見がせき(清見ヶ関(きよみがせき))」とありますが、興津宿は平安時代に設置された清見ヶ関の鎮護のために建てられた清見寺(せいけんじ)の門前の町としても栄えました。」『慰霊塔建立之碑』明治、大正、昭和三代に渡り、祖国の国難に殉じた六十有余の地元の方々に対する忠霊碑。興津川に架かる東海道線のガード下を潜る。JR興津駅まで1.6km、30分と。興津川に架かる興津川橋を渡る。左側は現国道1号線・富士由比バイパス、その奥にクア・アンド・ホテル 駿河健康ランドが。右側には東海道本線。東海道線の線路のあたりが渡し場の西岸であると。県営住宅 興津団地入口のモニュメント。興津中町東交差点を直進する。『興津宗像神社』の石鳥居が右手に。宗像神社の森は,女体の森といわれ、漁師が海上からの目印にしたと。創建は平安時代中期といわれ、祭神はスサノウノミコトの子の3人の女神(宗像三女神)で航海安全の神。女神の一人奥津島姫命が興津の地名の由来と言われている。江戸時代に木、豊穣、音楽、知恵、水の神として信仰する弁天信仰と同化され、境内の森を「女体の森」、池を「弁天池」と名づけている。地元の漁師は、神社の森やクロマツを灯台代わり目印にしていたのだと。そして興津中町西交差点の角にあったのが『身延道起点の道標』。ヒゲが跳ねたような文字で「南無妙法蓮華経」とかかれており「髭題目」と呼ばれている。碑文から承応3年(1654)の建立であることがわかる。並んでいる「身延山道」は元禄6年(1693)の道標。江戸時代の身延道追分の碑。現在の身延街道は、興津郵便局の前が起点となっていると。「身延道は、身延山参詣の道であることにその名の由来があるが、もともとは駿河と甲斐を結ぶ交易路として発達してきた街道で、 鎌倉期にはそのルートが開かれていたといわれている。街道成立当初は、興津川沿いの村落を結ぶ程度の道でしかなかったものと思われるが、戦国時代になると駿河進攻をもくろむ武田信玄によって整備され、軍用路として重要な役割をはたすようになる。また江戸時代初期には身延山参詣の道として使われるようになった。」『一里塚跡』の碑を発見。『興津一里塚』江戸日本橋より41里。江戸日本橋から165.090kmなのであろうか。そしてJR興津駅に到着。時間は17:26。次回訪ねる予定の『清見寺』が描かれた大きな興津宿の絵が駅前広場に。富士山の頂上が山の合間から。再び『東海自然歩道バイパスコース』。そして17:39発の熱海行きに乗車。料金表に我が駅は既に掲載されていなかった。『興津駅』。この日は茅ヶ崎駅で下車し、旅友の行きつけの店で反省会。そして帰路に。時間は21:35。 その9 に戻る。 ・・・完・・・
2019.04.26
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【海老名市歴史散歩】 目次そして次に訪ねたのが「大谷神明社」。入口には大きな銀杏の木が。海老名市大谷北2丁目13−22。笠木に当たる部分が苔むした石鳥居。「神明社祭神 天照大御神 豊受大御神このお宮は大永八年(一五ニ八)本願勧進井田入道浄源、大檀那地頭代、須田與三左門吉平等の創立によるものである。往古は渋谷荘大谷郷総社であった。慶安ニ年(一六四九)社領八石の御朱印を附せられ、明治6年(1873)村社に列せられた。創立以来社殿は6回建て替えられている。現在の本殿は昭和4年に再建されたものである。」石鳥居を潜ると右手には「鐘楼」があった。小ぶりの梵鐘であったが。急な石段を上って行った。境内。「掲示板」。建物の中に安置されていた「境内社」。須賀神社、稲荷社、住吉神社、東照宮。こちらにも境内社・「三峰神社」が。「大谷神明社」の社殿。扁額「神明社」。「内陣」。「神楽殿」。「松壽舎」。扁額「松壽舎」。「内陣」。次に隣りにあった「天照寺 福壽院」を訪ねた。寺号標石「大谷山 天照寺 福壽院」。石段を上って行った。「本堂」。慶韵(天文8年1539年寂)が開山となり、当地に創建したと伝えられる。本尊:正観音像海老名市大谷北2-13-25。扁額「福壽院」。「宝篋印塔」。「功徳聚塔」。「仙波乗正殿」碑。「寺務J所」(左)と「神明神社」?(右)。Googleマップには「神明神社」とあるが。裏の墓地の前にも石仏が。観音像。弘法大師像であろうか。「本堂」を墓地から見る。「天神社」。小さな社殿。そして次の目的地の「妙常寺」に向けて海老名市浜田町22−9の住宅街を進む。花が溢れる民家。そして「妙常寺」の墓地側から境内に入る。「貞享元年(1684年)四月二十七日 義民 鈴木三太夫翁之墓」への案内碑。ここにも案内碑が。ここが「鈴木家」の墓。鈴木三太夫は、この相模国海老名郷大谷村の名主であった。本名は鈴木三左衛門であり、死後にその偉勲を称えて三太夫と号せられたとされている。延宝2年(1674年)、もともと幕府領であった大谷村は旗本の町野幸宣に下賜されたことにより、町野幸宣が領主となった。町野幸宣の政は厳しく、増え続ける年貢により民百姓の暮らしは困窮したものの、10年近くたった天和3年(1683年)には子の町野幸重が家督を継ぐが、年貢徴収はさらに厳しいものとなり、凶作となってもその苛烈さはとどまらず多くの餓死者まで出る有様であったという。これを見かねた鈴木三左衛門は、江戸幕府に直訴を企てた。しかし、何者かによって事前に密告されてしまったためにあえなく捕えられ、貞享元年(1684年)4月、現在の中央農業高等学校の校内に位置していた今里代官所で斬首の刑に処せられたのである。これが鈴木三太夫の墓石だったのだろうか。鈴木三左衛門には子が2人いたが、いずれも同罪として同じく処刑され、事前に離縁していた妻も自害してしまったとされ、鈴木三左衛門父子の亡骸は近くの妙常寺の住職に引き取られてねんごろに葬られ、今でも墓が残されているのを見ることができるのであった。「妙常寺」の「本堂」。長現山と号す。妙常寺は、常住院日任が文明元年(1469)に創建したと。「掲示板」。「報恩感謝社会のしくみは、自分ひとりではなにもできない。同時に、衣食住のすべてに自の恵みがなかったら一日も生活ることはできない。つつましい心で社会や自然に接する心をそだてよう。」「日蓮聖人像」。近づいて。厳しいお顔。題目塔「南無妙法蓮華経」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.10.19
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「豪徳寺」境内の散策を続ける。右手にあったのが「招福殿」。「井伊家2代藩主直孝が鷹狩の折、住職の愛猫「たま」の招きで落雷の難を逃れたという伝説があり、幸運を招く「招き猫」の元祖とされる。家内安全、商売繁盛、心願成就を願う参詣者が絶えない。堂内には招福観音菩薩立像が安置されている。」この日は工事中で立入禁止に。「招福猫児(まねきねこ)」。「豪徳寺の招福猫児は小判を持っておらず、右手をあげています。招福猫児は、人を招いて「縁」をもたらしてくれますが、福そのものを与えてくれるわけではありません。人との大切な「縁」を生かせるかどうかは、その人次第。報恩感謝の気持ちがあれば、自然とその人のもとに福が訪れる、という教えから、小判を持たず、右手だけをあげています。」と。「招福猫児の由来東京都世田谷区豪徳寺二丁目所在の豪徳寺は幕末の大老井伊掃部頭直弼公の墓所として世に名高く寺域広く老樹鬱蒼として堂宇荘厳を極め賓者日に多く誠に東京西郊の名刹なり、されど昔時は至って貧寺にして二三の雲水修行して漸く暮しを立つる計りなりき、時の和尚殊に猫を愛しよく飼いならし自分の食を割て猫に与へ吾子のように愛育せしが、ある日和尚猫に向かい、「汝我が愛育の恩を知らば何か果報を招来せよ」と言い聞かせたるが其後幾月日が過ぎし夏の日の午さがり俄に門のあたり騒がしければ和尚何事ならんと出て見れば、鷹狩の帰りと覚しき武士五六騎、門前に馬乗捨てゝ入り来り和尚に向かい謂えるよう「我等今当寺の前を通行せんとするに門前に猫一疋うずくまり居て我等を見て手をあげ頻りに招くさまのあまりに不審ければ訪ね入るなり暫く休息致させよ」とありければ和尚いそぎ奥へ招じ渋茶など差出しける内天忽ち曇り夕立降り出し雷鳴り加りしが和尚は心静かに三世因果の説法したりしかば武士は大喜びいよいよ帰依の念発起しけむやがて、「我こそは江州彦根の城主井伊掃部頭直孝なり猫に招き入れられ雨をしのぎ貴僧の法談に預かることは是れ偏に仏の因果ならん以来更に心安く頼み参らす」とて立帰られけるが、是れぞ豪徳寺が吉運を開く初めにしてやがて井伊家御菩提所となり田畑多く寄進せられ一大伽藍となりしも全く猫の恩に報い福を招き寄篤の霊験によるものにして此等一に猫寺とも呼ぶに至れり。和尚後にこの猫の墓を建ていと懇に其冥福を祈り後世この猫の姿形をつくり招福猫児と称えて崇め祀れば吉運立ち所に来り家内安全、営業繁昌、心願成就すとて其の霊験を祈念する事は世に知らぬ人はなかりけり。」改修工事中の「招福殿」。再び「三重塔」を見上げる。一層目の四面には、干支(十二支)の彫刻が順番に施されているのだが、なんとネズミの部分に猫が彫られているのであった。しかも、子(ねずみ)と一緒。設定を変えてズームして。子(ねずみ)は、天敵であるはずの猫に小判を口に咥えて渡そうとしているようにも見えるのであった。こちらはイノシシ。至る所に招猫の姿が。「無名戦士慰霊記念碑」。太平洋戦争における戦歿者の慰霊顕彰・平和祈願碑であると。「碑歌」(表面)「いくさの旅に さまよい果てたる はらからよ ここにかえりて やすらい たまえよ 日本大学教授 山田孝雄」「碑文」(裏面)燕が一羽とんできたからといって春がきたのではない。この記念碑が人々の情で生まれたからといって、永遠に平和がきたのだともいえない。けれども深く憂と悲しみの中にたおれた不幸な同胞の御霊の冥福と祖国が再び過ちを犯さないことを私どもは祈りつゞけたい。区内戦没者五千三百余柱の御霊並に九十三柱の御遺骨の供養のために有志相はかり、区民多数の心からなる浄財を集めて慰霊記念碑を建立した次第である。 昭和29年5月3日 平和紀念無名戦士慰霊記念碑建設会 建立」「鳴鶴先生碑銘」。日下部 鳴鶴(くさかべ めいかく、天保9年8月18日(1838年10月6日) - 大正11年(1922年)1月27日)は日本の書家である。本名は東作。字は子暘。別号に東嶼、翠雨、野鶴、老鶴、鶴叟などがある。「鳴鶴先生碑銘は、 昭和8年に建てられ、鳴鶴の楷書碑から比田井天来が苦心して集字したもの。綺羅星のごとく居並ぶ門弟の中で、なかなか書き手が決まらずに、 月日が経ち結局集字することになったのだという。碑文は、47字33行、1429字に及び、 若干の文字の不揃いは見えるものの全体としてみれば整然とした楷書が連ねられていて天来の労苦がしのばれる。撰文は、内藤湖南。 篆額は、西園寺公望。篆額を、城所湖舟氏は、「天来書と見ました」と雑誌「凌雲」で述べている」 とネットから。墓門の前に明治34年に建てられた「遠城謙道( おんじょうけんどう) 師遺蹟碑」。遠城謙道は、旧彦根藩士で文政6年(1823年)に彦根で生まれた。15歳で鉄砲隊に入るが、藩医・堀田道策に医術を学んだのを始め、儒学や画を学ぶなどして、特に禅の修行を積んだことで武士の魂を磨いた。桜田門外の変における井伊直弼の死後、悲憤のあまり主君の旧恩に報じようと同志と老中に抗弁するも果たすことができなかった。その後、僧となり墓守を勤める決心をし、井伊家菩提寺の清凉寺の元で仏門に入り、名を謙道と改める。慶応元年(1865年)、妻と6人の子どもを残した謙道は、江戸における井伊家の菩提寺の豪徳寺に移り、井伊直弼の墓側に庵を建て、読経をして霊を慰めたといわれている。(彦根観光協会HP「石碑 遠城謙道師の碑」より)揮毫は、従二位勲二等伯爵井伊直憲卿。「高橋瑞子彰功之碑」高橋 瑞子(たかはし みずこ、1852年12月5日〈嘉永5年10月24日〉 - 1927年〈昭和2年〉2月28日)は、日本の医師。荻野吟子、生沢クノに次ぐ、日本で第3の公許女医である。当時の唯一の私立医学校でありながら、女子の入学を許可していなかった済生学舎に、女性である自身の入学を認めさせることで、女性の医学への門戸を開かせた。左手にあったのが「日下部家墓」。その先の隣に「日下部鳴鶴(くさかべ めいかく)」夫妻の墓、題字は呉昌碩。日本の書家である。本名は東作。字は子暘。別号に東嶼、翠雨、野鶴、老鶴、鶴叟などがある。中国、特に六朝書の影響を受けた力強い筆跡が特徴であり、それまでの和様から唐様に日本の書法の基準を作り変えた。加えて数多くの弟子を育成、彼の流派を受け継ぐ書道家は極めて多い。芸術家としても教育者としても多大な功績をあげたことを称えて「日本近代書道の父」と評されることもある。鳴鶴の流派は鶴門と呼ばれ、その門下生は3000人を数えたと言われる。また生涯で1000基の石碑を書いたとも言われ、現在も全国に300基以上の碑が残されている。中でも大久保公神道碑は鳴鶴の最高傑作といわれる と。墓の背面には、「清閑院殿鳴鶴徳音居士/大正十一年一月廿七日歿 享年八十五」と記されていた。正面に「彦根藩主井伊家墓所」の入口が現れた。豪徳寺にある「彦根藩主井伊家墓所」は広大な敷地に大型の墓石が整然と並ぶ、都内でも屈指の大名墓。2代藩主直孝をはじめとして、13代藩主直弼など6人の藩主に加え、江戸で暮らした正室や側室、子息子女らが埋葬されているのだと。また、北側の一角には藩士の墓石も置かれ、合計で303基にのぼると。井伊家墓所は国元である滋賀県彦根市の清凉寺、4代藩主が眠る同県東近江市の永源寺にもあり、豪徳寺 とあわせて3か所の墓所が同時に国の史跡になったのだ と。「彦根藩主井伊家墓所」の入口左側にあったが「六地蔵尊」。「国指定史跡 彦根藩主井伊家墓所 豪徳寺井伊家墓所」案内板。井伊家は、遠江国井伊谷を中心に勢力を持った武士で、戦国期には今川氏の配下にあった。井伊家二十四世とされる直政は天正三年(一五七五)、十五歳で徳川家康に仕え、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦においては、自ら先鋒を務め東軍の勝利に貢献した。合戦後、直政は近江国などに十八万石を与えられ、初代藩主として彦根藩の礎を築いた。続く二代直孝も大坂夏の陣で功績をあげ、近江国、下野国、武蔵国世田谷にあわせて三十万石を有する譜代大名の筆頭格となった。以後、幕末までこの家格は堅持され、藩主は江戸城溜間に控えて将軍に近侍し、時には大老職に就き幕府政治に参与した。寛永十年(一六三三)頃、世田谷が井伊家所領となったのを機に、領内の弘徳院が普提寺に取り立てられた。直孝の没後には、その法号「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなみ豪徳寺と寺号を改め、以後、井伊家墓所として、江戸で亡くなった藩主や家族がここに葬られた。墓所の北西角には、豪徳寺中興開基の直孝墓が位置し、そこから南西に直進したところに幕末の大老、十三代直弼(宗観院殿)墓がある。直弼墓に至る参道沿いには、藩主や藩主正室らの墓石が整然と並び、豪徳寺の伽藍造営に貢献した亀姫(掃雲院般・直孝長女)墓がその中央西側に位置している。墓所内で最も古い墓は、直時(広度院殿・直孝四男)のもので、万治元年(一六五八)に建てられた。直孝が没したのは万冶二年で、どちらの墓石も唐破風笠付位牌型で造られている。以降、豪徳寺に所在する藩主、正室、世子、側室の墓石は、いずれもこの形式で建造された。また、幕所の北側の一角には、早世した井伊家子息子女らの墓石に混じって、江戸で亡くなった藩士とその家族の墓石も据えられている。これらを合わせると、墓所に所在する墓石の総数は三百基余になる。彦根藩主井伊家墓所は、豪徳寺、清涼寺(滋賀県彦根市)、永源寺(滋賀県東近江市)の三ケ寺にあり、歴代藩主とその一族の墓が網羅される。各墓所は、将軍家側近でもあった井伊家の姿を物語り、江戸時代の幕藩体制と大名文化を考える上で欠くことのできない貴重な遺産であるため、一括で「彦根藩主井伊家墓所」として、平成二十年三月二十八日、国史跡に指定された。」「豪徳寺 井伊家墓所全体図」。「彦根藩主井伊家墓所」入口門から墓所に入り石畳の路を奥に進んで行った。更にに奥に向かって進む。理解のために「井伊家 略系図」を。下図の代数は1代ズレているが、以下の表記は「豪徳寺 井伊家墓所全体図」に従う。 【https://www.ii-museum.jp/blank-51】より右手奥にあったのが8代直定世子・直賢(霊松院殿)の墓。「世子」とは「跡継ぎ」のこと。直定にはこの直賢という嫡男がいたのだが、彼はまだ幼かったため家督を継ぐことが認められなかった。そこで直定が次代として白羽の矢を立てたのが自分にとって甥にあたる直禔である。これも井伊家の血統を彦根で守らなければならないという幕府の計らいであった。直定は「直禔なら健康であるし、城主として申し分ないだろう」と判断したのだ。養子として迎え入れられてからすぐに直定は隠居。叔父の跡を継いで直禔が城主となった と。これも右手に6代井伊直恒(円成院殿)の墓。最も西側突き当りに江戸で亡くなった歴代彦根藩主や室(正室 や 側室 や 継室)の墓が並んでいた。正面に、2代井伊直孝(久昌院殿)の墓。豪徳寺中興開基で、法号は「久昌院殿豪徳天英大居士」。その右側に、9代井伊直禔(いい なおよし)(見性院殿)の墓。井伊直孝(久昌院殿)の墓の左側に10代井伊直幸世子・直富(龍泉院殿)の墓。2代井伊直孝・側室・春光院殿の墓。2代井伊直孝・長女亀姫(掃雲院殿)の墓。直孝死後側室の春光院とともに遺志を継いでこの豪徳寺伽藍造営の整備に寄進などをして尽力した。亀姫(掃雲院殿)の墓の先に5基の墓石が並ぶ。10代井伊直幸(いい なおゆき)(大魏院殿)の墓。10代井伊直幸・正室(梅暁院殿)の墓。9代井伊直禔・継室(清蓮院殿)の墓。継室は、最初の正室との死別や離婚を受けての当主の正式な再婚により迎えられた後妻を指す。そして13代井伊直弼(いいなおすけ)(宗観院殿)の墓。井伊直弼の墓石に近づいて。井伊直弼は井伊直中の子で、兄を継ぎ藩主となり、ついで寛永3年(1850)4月大老になる。勅許を待たず日米修好通商条約など安政五ケ国条約に調印。また紀伊藩主徳川慶福(十四代将軍徳川家茂)に決定し、反対派の一橋慶喜(のちの十五代将軍徳川慶喜)らを抑えるという強い政策を実施。さらに安政の大獄を断行するに及んで、常に暗殺の危険にさらされ、遂に万延元年(1860)3月、江戸城外桜田門外において、水戸・薩摩の浪士らに暗殺された。石碑には「宗観院殿正四位上前羽林中郎将柳暁覚翁大居士」の文字。因みに以前、世田谷区と東京工業大学が墓の下3 mまで調査したところ石室がないことが判明したとのこと。遺骨は何処に?「彦根城十三代藩主 直弼公募所」。「井伊直弼墓井伊直弼は、文化十ニ年(一八一五)、彦根十一代藩主・直中の第十四子として生まれた。青年期は部屋住みとして城外の埋木舎(うもれぎのや)に閑居したが、兄・直元の死去により十ニ代藩主・直亮(なおあき)の跡継ぎとなり、嘉永三年(一八五〇)に十三代藩主となった。安政五年(一八五八)四月、大老職に就いた直弼は、天皇の許可を待たず日米修好通商条約に調印し、ついで、十三代将軍・家定の後継者を紀伊の徳川慶福(よしとみ)(後の家茂)とすることで決着をつけた。こうした直弼の強い政策に異を唱える者たちを処罰し安政の大獄をはかったが、遂に水戸浪士らの襲撃をうけ、安政七年(万延元・一八六〇)三月三日、桜田門外で暗殺された。享年四十六。」11代井伊直中・正室(観光院殿)の墓。12代井伊直亮・正室(龍華院殿)の墓。10代井伊直幸・側室(本覚院殿)の墓。「桂光院殿玉顔幻露禪童子」と刻まれた墓石。誰の子供なのであろうか。5代井伊直通・正室(本光院殿)の墓。「早世 華蕚春了禪童女 霊位」と刻まれた墓石。井伊直興(いいなおおき)・側室青松院殿(直惟母)の墓。7代井伊直惟・正室(蓮光院殿)の墓。「早世 全現未兆孩亡 霊位」と刻まれた墓。「蓉顔素秋童女」と刻まれた墓。「???」の墓。2代井伊直孝・四男直時(広度院殿)の墓。「廓心院殿閑山獨坐大居士」と刻まれた墓。「三條轉法輪 前右大臣實治公 御息女 忠姫君」と刻まれた墓。「來屋秋本孩亡」と刻まれた墓。2代藩主・井伊直孝の四男、井伊直時側室(圓臺院殿)の墓。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.02.03
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次に向かったのが「熱海城」。国道135号の「錦ヶ浦トンネル」を出た直後を左折して進むと熱海城の駐車場に到着。駐車場から赤根崎方向を見る。高級マンション「シャトーテル赤根崎」その先に網代マリンタワーの姿が。「駐車場」から「熱海城」を見上げる。「熱海城」は、静岡県熱海市の錦ヶ浦山頂にある観光施設。市街地や南熱海を一望できる熱海市内有数の絶景スポットとなっている。城郭は歴史的に実在したものではない。熱海城の建築主は誰?三浦哲夫氏の父?この父の詳細は?我がブログの古語解析の師匠から「昭和34年に建設された熱海城の建築主の有力者・三浦美淑(みとし)氏のご子息の三浦哲夫氏が南ボールチエンという会社に35億で売り、その会社の倒産後、熱海観光協会が買った、とありますね。現在(2021年)も所有者は熱海観光協会。」だという、情報を頂きました。「熱海城」入口への赤い階段をのぼり、城の正面に向かう。1959年(昭和34年)に海抜100mの位置に建てられた。外観5重、内部9階の日本の城郭に見られる天守を模して造られた鉄筋コンクリート造建築であり、天守閣風建築物である。浅野祥雲作による金鯱を戴く天守からは、熱海市街・初島・大島・相模灘を一望できる。晴れた日には6階にあるパノラマ展望台の望遠鏡から東京スカイツリーや横浜ランドマークタワーが見える。200本以上の桜が植えられ、3月下旬から4月上旬にかけて「熱海城桜まつり」が開催される。1962年(昭和37年)公開の映画『キングコング対ゴジラ』や1967年(昭和42年)公開の『大巨獣ガッパ』などにも舞台として登場した。かつては地下に温泉施設があり、隣接する離れは宿泊棟だったが共に閉鎖された。現役の展望台真下には古い展望台がそのまま残るとのこと。「大パノラマ展望」案内板。七福神の「大黒天」と「恵比寿様」が迎えてくれた。カフェ・喫茶の「ヒルトップテラス」。「レストラン ヒルトップテラス」案内。正面に「熱海城」。「布袋様」か?入り口の左には「おみくじコーナー」があった。左右に「阿弥陀如来」か?。こちらは「大日如来」。「宝船」に乗った「七福神」。近づいて。「渡渉達磨大師」。「弁天様」。「熱海城」前から熱海市街の見事な光景。ズームして。熱海城。屋根の鯱の姿も見えた。「熱海トリックアート迷宮館」がその先にあった。「熱海城」入城料。1100円にてチケットを購入。入場すると、正面に実物大の黄金の鯱が迎えてくれた。「熱海城「金の鯱鉾」熱海城天守閣にそびえる「金鯱」は日本一の大きさてす●雄 高さ9尺8寸( 2m96cm )●雌 高さ9尺6寸( 2m90cm ) 重量200貫(約750Kg )「鯱鉾」(しゃちほこ)の「鯱」は「龍」(虎という説もあります)と「魚」の合体した想像上の動物です。古くは火事の際に水を吹くという言い伝えから日除けのまじないとして、後には権力の象徴として造られました。」城内の売店。「熱海城ご案内6階 - パノラマ展望天守閣5階 - 江戸体験コーナー4階 - 江戸のなぞ絵・遊び絵展3階 - 浮世絵・春画展2階日本城郭資料館萩原一青画伯「名城再現ふるさとの城」展マッチ棒城郭模型/名人の作る芸術品1階受付・出入口武家文化資料館/鎧・日本刀・火縄銃ジェット足湯・売店コーナーロッカー地下1階 - 無料遊戯施設ゲーム機コーナー、卓球、大型ボールプール」まずは「武家文化資料館」を訪ねた。「日本甲冑の変遷日木の甲冑は古杙より用いられていたが、その遺物が見られるのは古墳時杙からである。古墳からは屢(しばしば)他の武器、馬具と共に、挂甲、短甲と言う形式の鎧と、衝角附兜系とと眉庇附兜系の兜が発掘され、これらの形式の甲冑は少しずつ変化を来しつつ奈良時代に全盛を極めた。奈良時代には唐(中国)の形式の外套状の綿甲冑が多く作られ普及したが、これは消耗し易いので現在遺物は無く、僅かに李朝(朝鮮)、清朝(中国)の遺物によってその形式を、想像し得るのみである。挂甲、短甲の変化様式は、やがて平安朝時杙中期頃になって大鎧、胴丸と言う形式の鎧に発達した。大鎧は馬上騎射戦に適した鎧で、勃興し始めた武士が採用するに当って大いに発達し、平安時代末期から鎌倉時代を最盛期とし、多少の部分的変化を見つつ室町時代の末頃まで用いられた。外観が甚だ威儀的なので式正の鎧と言われ、貴人が着用するのを御着長(おんきせなが)と言われている。胴丸は古くは腹巻と呼ばれ、徒歩戦に適していたので下卒や軽武装用であったが鎌倉時代頃から広く用いられるようになり、室町時代には大鎧に代って流行した。鎌倉時代には胸腹のみを守る腹当と言う最小のよろいがあったが鎌倉時代末頃から左右脇から背後へかけて防禦率を拡大した腹巻(形式区分名称上の名で、前記の腹巻とは形式が異る)に発展し、これは胴丸と共に兜、袖、其他の防禦物を附属属して用いられた。南北朝時代から室町時代にかけては特に戦闘法、武器が発達したので胴丸、腹巻は進歩しつつ流行した。また集団戦による大量需要は、製作手法の簡略化を生じた。こうした傾向から生じたのが室町時代末期から見られる当世具足と言う型式である。当世具足は下剋上の風潮と相まって旧形式にこだわらず改良した甲冑で最も実戦的な形式である。故に防禦面に於ける基本的要素は一定しているが、その構成面から見る意匠は千差万別で、人目につき易いものや異形のものが多い。これは実用の甲胄として江戸時代末期まで用いられたが、中期頃の泰平ムードには威儀的に立派な旧形式の、大鎧、胴丸、腹巻等が復古調として作られたが、江戸時代は甲冑使用の時代ではなく、僅かに末期に使われたが、発達した銃火器の前には役に立たぬことが証明され、明治の新時代に武士階級が廃止されて甲冑の使命は終わった。現在では、昔の武士が一期の晴れ着として鑑賞すると共に、歴史的尊い文化財として大切に扱わねばならない。甲冑の歴史の中で有名なものは源氏重代の八領(日数、月数、源太産衣、楯無、八龍、沢瀉、膝丸、薄金)、平安重代の唐皮、薄雲、足利家重代の御小袖、新田家の薄金、武田家の楯無、徳川家の勝川等である。安土桃山時代武将の兜として有名なものは武田信玄の諏訪法性、上杉謙信の飯綱明神、豊臣秀吉の馬蘭と唐冠、徳川家康の歯朶の前立、黒田長政の大水牛、加藤清正の長烏帽子、細川忠興の山鳥の尾の掴み立、竹中半平太の一の谷、日根野織部の唐冠、前田利家の鯰尾で現在も伝わっている。」甲冑が並ぶ。左から「江戸時代鐵錆地亀甲金鎖繋胴具足加賀国雲海流の作」。真ん中の甲冑。「江戸時代中期鐵黒漆塗皺韋包茶糸胸取(てつこくしつぬりしぼかわづつみちゃいとむねとり)桶側六枚胴具足(おけがわろくまいどうぐそく)」「江戸時代 (一六〇三~一八六七)鐵黒漆塗皺韋包茶糸胸取桶側六枚胴具足金具の特徴から加賀(現在の石川県)の胴で、肉色漆塗りとした烈勢頬で非常に烈しく怒った威嚇的な表情の面。兜の脇立は、タイラギ(ニ枚貝)と兎の耳を表規。貝は守りの象徴、兎の耳は前に出る勇敢さを象徴。兜は黒鉄漆石目三十二間筋兜」右側の甲冑。「江戸時代鐡黒漆塗桶側胴具足」「江戸時代(一六〇三~一八六七)鐡黒漆塗桶側胴具足兜は黒漆塗り突灰形でしころは板物五段紺絲素懸威である。面は鐵打出し黒漆塗烈勢頬形で、垂は板物四段素懸威である。胴は縦矧板黒漆塗り、草摺は板物黒漆塗り七間五段がり紺絲素懸威とし耳絲は啄木打である、袖は板物黒漆塗り六段紺絲素懸威である、籠手は平篠黒漆塗り五本で家地は紺染麻に菖蒲革白抜き模様である。臑当は平篠黒漆塗り五本で亀甲金包みの立挙を附す、佩楯は煉革黒漆塗り四段で別に腰鎖を附属している、総体に保存良好で堅実な武士の好みの甲冑である。」隣の甲冑展示。左側の甲冑。「江戸時代後期練革錆色漆塗二枚胴具足」。「江戸時代(一六〇三~一八六七)鐵黒漆塗越中紺絲威胴具足(てつこくうるしぬりえっちゅうこんいとおどしどうぐそく)細川越中之守忠興所有の甲冑といわれている。兜は吹返のない越中靴(えっちゅうしころ)とし、胴は一文字頭伊予札を革包にした丸胴、袖を用いず、立挙(たてあげ)のない臑(すね)当(あて)等、細川家お家流である越中流具足の特徴を示す具足である。弓手(ゆんで)のニ間を他の草摺(くさずり)と手法を変えていることから、地味ではあるが高級な具足である。」中央の甲冑。「江戸時代(一六〇三~一八六七)練革錆色漆塗ニ枚胴具足(ねりかわさびいろうるしぬりにまいどうぐそく)兜は黒漆塗突灰形でしころは板物五段紺素懸威である。面は鐵打出し黒漆塗烈勢頬形で、垂は板物四段素懸威である。胴は縦矧板黒漆塗り、草摺は板物黒漆塗り七間五段がり紺絲素懸威とし耳絲は啄木打である、袖は板物黒漆塗り六段坩絲素懸威である、籠手は平篠黒漆塗り五本で家地は紺染麻に菖蒲革白抜き模様である、臑当は平篠黒漆塗り五本で亀甲金包みの立挙を附す、佩楯は煉革黒漆塗り四段で別に腰鎖を附属している。総体に保存良好で堅実な武士の好みの甲冑である。」右側の甲冑。「江戸時代中期双獅子繪韋五枚胴紺絲威具足(そうししえかわごまいどうこんいとおどしぐそく)小田原住 明珍國友の作備中生坂藩 池田家伝来」「江戸時代中期(一六〇三~一八六七年)双獅子繪韋五枚胴紺絲威具足(そうししえかわごまいどうこんいとおどしぐそく)岡山藩の支藩である生坂藩の五代藩主 池田山城守政恭が所用した甲冑とされる。紋鋲や具足櫃覆に「三つ寄せ蝶」の池田家家紋がみられる。後北条家に仕えた明珍波の甲冑師で、小田原住の「明珍國友」による製作である。兜の鉢に明珍國次の古鉢を用い、祓立に揚羽蝶の前立てを挿し、双獅子の絵韋を貼った、格調高い甲冑である。」兜が二基。左側の兜は「大黒頭巾成兜(だいこくずきんなりかぶと)桃山時代の作(ー五七三~一六〇三)シコロの作り方がこの時代に流行った形である。徳川家康が好んだ形(頭巾の形)の兜として有名。」右側の兜。「兎耳兜(とじかぶと)桃山時代の作(一五七三~一六〇三)兜は練り皮で作られている。変わり兜として大変貴重な品である。身分の高い武将が自分を目立たせる為に作ったもの。」こちらにも兜が。左は「鯖尾成兜(さばおなりかぶと)江戸初期の作練り皮製で、きわめて丁寧に作られた兜である。漆塗りが大変秀でた作りである。」右は「鉄錆地六十ニ間銀鰍型脇立兜(てっさびじろくじゅうにけんぎんくわかたわきたてかぶと)江戸期の作兜作りでは最高級の早乙女系の代表的な兜。兜の筋を内側に巻き込んだ作りで、出来栄えは最高クラス。漆塗りも大変優れ、脇立ては皮で作られている。」こちらは兜と胴具足。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.02.13
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ストックホルムの王宮へバスで向かう。途中ストックホルム中央駅前を通過。もちろんスウェーデン最大のターミナル駅。セルゲル広場。ここは、ストックホルム市の中心となる広場で、地下鉄の中央駅に直結。セルゲル広場の中心にはガラスのタワーが。8万個のガラス片でつくられた「ガラスの塔」と噴水が目印とのこと。広場はバスのロータリーになっていて、地下道から T-Centralen 駅や、高級デパートNK(エヌコー)へ行けるとのこと。夜になると、ガラスの塔がライトアップされて美しいと。王宮横の広場に到着。王宮横にはオベリスクがすくっと建っていた。エジプトのオベリスクに触発されて、1788-1790ロシアとの戦いを記念して作らせた物との事。608室を持つストックホルムの王宮は世界最大の宮殿。グスタフ1世が即位した際に居城とし。歴代の王が生活してきたとのこと。旧式な大砲と衛兵が立つ様子はおもちゃの兵隊の置物の如し。現在の王家は郊外にあるドロットニングホルム宮殿に住んでいるので、旧市街にあるこの王宮は現在「空き家」状態とのことだが、それでもここは「元王宮」ではなく、現在でもここが歴とした「王宮」とのこと。ガムラスタンの北側にあるこの王宮は、1754年に完成したイタリアのバロック様式とフランスのロココ様式の3階建ての建物で、約60年の歳月をかけて建てられたと。 王室の近衛兵。ストックホルム宮殿で行われる交代式はこの地を訪ねる観光客の目当ての一つとなっており楽しみにしていたが、残念ながら時間があわず最後のごく一部しか見学できなかった。王宮の一部は一般開放されていて、観光客も中に入って観ることができるとのこと。また、歴代の王家で使われていた品や王家にまつわる数々の品を展示している博物館もあるようだ。博物館では、美しく華麗な王家の歴史と合わせて、血塗られた悲劇の歴史をも見ることができるとガイドブックに。レプリカでなく、実物が展示されていることも圧巻と。しかしながら、ここも内部見学無しで次の観光場所へ。玉石敷きの古い公道や、狭い小路へ。中世都市の面影をのこす独特な雰囲気をもった街並を楽しみながら、ガムラスタンの中心ストールトルゲット大広場に到着。今はカフェが並ぶ平和なこの広場は、1520年に「ストックホルムの血浴」と呼ばれる歴史的事件が発生した場所とのこと。ストックホルムの血浴とは、デンマーク王クリスチャン2世が行なったスウェーデン人に対する処刑事件。ストールトルゲット広場に面した建物群。広場では軽食やビールを楽しむ人々で賑わっていた。次ぎにフィヤールガータン展望台からバルト海を眺めた。フィヤールガータンは、旧市街ガムラスタンの南側に位置するセーデルマルム島の急峻な崖の上にあった。港に入って来る様々な船や旧市街ガムラスタン、デュールゴールデン島、シェップスホルメン島、そしてストックホルムの北地区が目の前に広がる。目の前にはストックホルムのチボリ公園が。バルト海へと続く道。昼食はレストラン「Morkullan」で豆とマカロニサラダそしてミートボール+マッシュポテトを楽しむ。
2011.07.10
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いよいよ入場。西側の入り口から入るとでーんと聳え立つ建物が、目の前に現れた。迎賓館赤坂離宮 前庭の正面入口。賓客は、この玄関から入り、中央階段を上って2階の部屋に進むのだ。 日本初の本格的な西洋建築として作られたものの、屋根には甲冑を着た武将を配置するなど、日本らしさも取り入れている。鎧兜が左右で違っていて、更に腰紐の結び方も勝手違いであり、しかも左右で口が開いてるのと閉まっているのとで、阿吽像になっていた。 阿像。吽像。天球儀と霊鳥の装飾。建築家の片山東熊は何度か欧米に出張して建築について学んでいるが、この装飾はアメリカの建築家ブルース・プライスのアドバイスで作ったものといわれていると。「鎖国がとけてからまだ間もない日本が世界にはばたいていけるように」という願いが込められているのだと。手前には装飾が美しい照明灯が。 正面玄関への緩やかなスロープが両脇に。 建物の正面(玄関左側)壁のモチーフ。 楽器や楽譜、絵の具や絵筆など芸術の繁栄を願うレリーフが。玄関左のドア。 こちらは日本政府の紋章「五七の桐」が。正面玄関中央の鉄の扉はフランスのシュワルツ・ミューラー社から購入したものと。中央の扉の上部だけには十六葉菊紋が。扉には桐の葉の紋章もついている。3枚の桐の葉の上に花が左から5枚、7枚、5枚とついている。これを「五七の桐」といい、皇室の象徴であり、日本政府の紋章にも使われているのだ。玄関右のドア。こちらも日本政府の紋章「五七の桐」が。 建物の正面(玄関右側)壁のモチーフ。農作物や農機具、工具など農工業の発展を願うレリーフが。当時の流行の先端、アールーヌーボの門 (東側)迎賓館赤坂離宮の建築様式は一般的にネオ・バロック様式といわれる。迎賓館赤坂離宮 前庭から見た全景は画面に入らず。建物の外壁は、茨城県産の花崗岩。東西125m、南北89m、高さ23.2m 。前庭は広々としていて、くつろいだ気分になれるのであった。前庭には移動喫茶店が。 モデルの如き女性も迎賓館をバックに写真を撮ってもらっていましたが、撮影も終わった模様。コーヒーを注文し、丸テーブルの横の椅子で迎賓館を眺めながら一休み。 中門の扉は金とブルーの彩り。そしてその奥に正面入口へ続く道。 前庭の数本の木の上部は1本仕立てに。 迎賓館赤坂離宮 東衛舎。 東衛舎の玄関の上の飾り。 迎賓館赤坂離宮 西衛舎。西衛舎の玄関の上の飾り。 ここにも「五七の桐」が。 この丸い建物は?トイレではなく、衛兵?の休憩所? 迎賓館赤坂離宮 正門(内側から)これも国宝。 上部には菊の紋が。 正面から正門を。 しかしフランスのベルサイユ宮殿を模して造られたとも言われているネオ・バロック様式の洋風建築物のこの「迎賓館」でもてなされて本当に国賓、公賓は喜ぶのだろうか?が実感なのであった。それが分かっているからこそ、新たに膨大な費用をかけて京都・迎賓館を造ったのであろうが。機会があれば京都・迎賓館も訪ねてみたいのである。
2017.03.07
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久遠寺三門を潜ると久遠寺参道が続く。この石畳の道は、小伝馬町の村雲結社が昭和4年(1929)日蓮聖人650遠忌の折に修復していると。「南無妙法蓮華経 身延山 八十世 日調」 と刻まれた石碑。手前に見える丸石の橋は「解脱橋」。参道の左右の杉は、11世日朝上人が並木として植えたと伝えられていると。右側の解脱橋東側の橋は「慈済橋(じさいばし)」。「慈済」の由来は「慈悲為懐、済世救人」(慈悲を抱き、世を助け人を救う)。乃木大将 詩碑。本多日生(ほんだ にっしょう)上人像。近代日本の代表的な日蓮仏教の改革者として名を残す僧侶とのこと。誰の言葉なのであろうか?『生命の充實したものは美しい』 と。 左下の様な字が読めると楽しいのであろうが。宮澤賢治歌碑。「塵点の 劫をし過ぎていましこの 妙のみ法に あひまつりしを 賢治」 宮沢賢治が病床で綴り、死後発見されたいわゆる「最後の手帳」の鉛筆差しに巻いてあった紙片に書いてあった歌であると。ネットによると『塵点の劫とは、法華経にある時空観で、ひとつの三千大千世界をすりつぶして、山それを一粒、一粒東方はるかに五百千万億那由多阿僧祇世界の国を過ぎて落としていったところを一塵とするという、とてつもない時空観ですが、これも嘘ではありません。宇宙のはじめとおわり、広さとはそのようなものだからです。そして、それくらいのはじめも終わりのない時間の中で、この妙法蓮華経に出会えたことの喜びを歌っています。』と。賢治は、日蓮主義を説く田中智学の国柱会(こくちゅうかい)に入会し、法華信仰の道に入ったと。「解脱橋」越しに三門をズームで振り返る。菩提梯のすぐ右脇にある坂が男坂。男坂は、菩提梯(ぼていだい)のような階段ではなく山道。 女坂は三門と甘露門とをつなぐ山道。菩提梯や男坂よりも歩きやすいが、距離が一番長いルート。菩提梯の脇にあった南部實長(なんぶ さねなが)公銅像。 1274年に、流罪を解かれ佐渡から鎌倉に戻った日蓮を自分の住む波木井郷へ招き入れ、まもなく領内の身延山中に草庵を造営し外護の任にあたった人物。 實長公は「13里に四方の堺を立て今、日蓮聖人に之を寄附す」との置文をして、身延山を中心とした13里四方を日蓮聖人に寄附され、子々孫々に亘り身延山を護ることを戒められ、永仁5年(1297)9月、76歳で亡くなったと。菩提梯(ぼていだい)。287段の石段の参道を見る。高さ104m三門と本堂を真一文字に結ぶ。菩提とは、煩悩(ぼんのう)を断ち切って悟りの境地に達することをいい、菩提梯には、悟り(さとり)に至る梯(きざはし)の意味が込められているのだと南無妙法蓮華経の7字になぞらえ、7区画・41段毎に分けられているのであった。菩提梯を一人占めして登る。石段は一段一段の蹴上げ高さが揃っていないのと、蹴上げ高さがかなりあるので上りづらかったのであった。休み休み上って約20分弱といったところか。今登ってきた階段は と見るとこの通り。よく登りました。 しかしこの時には、菩提梯には人の姿は皆無。漸く登り切ると、境内の五重の塔が迎えてくれた。 水屋。 身延山に五重塔が建てられたのは、江戸時代の初期元和5年(1619年)にさかのぼると。しかし、文政12年(1829年)火災により五重塔を含め境内28棟が焼失。その後、万延元年(1860年)に五重塔が再建されたが明治8年(1875年)全山を巻き込んだ大火によって再び焼失。そして平成21年9月(2009年)に134年ぶりによみがえった宝塔。 総高126尺(38.2m)で現存木造五重塔としては国内第4位の高さ。因みに1位は京都・教王護国寺五重塔(東寺):54.84m(1644年)。第1層の総間は18尺6寸(5.6m)という壮大な塔の心柱には永年安泰の祈りを込め、身延山の峰より切り出した樹齢500年の霊木が納められているのだと。 五重塔の初層の軒の3つの美しい見事な彫刻。左が「牛」、真中が「鼠」、右が「猪」で干支(えと)の動物が刻まれていた。一面で3個づつ四面で総計12個の干支の動物の極彩色の彫刻がぐるりと取り巻いていた。中央の「鼠」をズームで。大鐘楼は寛永元年(1624年)21世日乾上人の代に鋳造、鐘楼堂は明治15年(1881)74世日鑑上人の代に甲斐国南条講中により寄進されたもの。徳川家康の側室お万の方が寄贈したと伝わるものであるとのこと。毎朝夏は五時、冬は五時半、夕方は五時ないし四時半に撞かれるが、その他は除夜の鐘と身延山に緊急のことが起こったとき以外は撞かないことになっていると。久遠寺本堂。日蓮宗総本山 間口32m、奥行51m、総坪数970坪。 1985年、日蓮聖人700遠忌の主要記念事業として再建されたと。「久遠寺」と書かれた扁額。本堂の屋根の上に、身延山ロープウェイの奥の院駅が見えた。 靴を脱ぎ本堂に入る。まず目をひくのが天井の大きな龍。加山又造画伯による勇壮な黒龍の天井画。 龍は、法華経を信仰する者の守護神といわれており、また水を司る神ということで、火災除けの意味もあるとのこと。本堂内の金色に輝く豪華な巨大な仏壇。 日蓮上人像。 隣ににある祖師堂に移動する。祖師堂は日蓮聖人の神霊を祀る堂閣。「棲神閣」と称する。明治14年、江戸にあった寺院のお堂を移築、再建。祖師堂の正面軒下には、見事な色彩豊かな彫刻が施されていた。祖師堂回廊より境内を見る。右から本堂、五重塔、手水舎、鐘楼。 祖師堂内部と仏壇。
2017.10.05
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我が家の近くのクリムソンクローバー畑の昨日(5月6日)の姿です。クリムゾンクローバーは他にストロベリーキャンドル、ストロベリークローバー、ベニバナツメクサなど色々な名前で呼ばれているようです。イチゴを思わせる赤い花穂が面白いのです。このクリムゾンクローバーは上質の蜂蜜がとれ、花はサラダ、お茶にでき、葉っぱはよく茹でれば栄養価の高い野菜として食用にできるとのことです。またマメ科の植物の特徴で「窒素固定」作用で根に根粒ができ、緑肥(休閑期に栽培し、腐熟させずに生のまま土にすき込んだ肥料)にできるとのこと。それにシロツメクサのように雑草化はしないという記事も見たことがあります。近所の農家はこの緑肥が目的で栽培されているのす。大分、花の赤い部分が上になって来ました。農家の方に、我がミツバチの為にギリギリまで漉き込まないで欲しいと冗談交じりにお願いしています。そして我がミツバチ?が訪花していました。そして我が家の横の畑のミカンにも多くの白い花の蕾が。今年は、ビックリするほど多くの蕾が付いています。摘果の悩みも出てきそうなほど多いのです。開花した花には既に我がミツバチがここにも。--------------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次そして旧東海道を歩く(安倍川~藤枝)その7 です。腹ごしらえをした後は、再び旧東海道・県道81号線を藤枝方面に更に歩を進める。㈱本郷の前には『東海道 岡部宿の松並木』と書かれた標柱が。この近くは、道路右側にのみ松並木が続いていた。街道松(往還松)の名残ですが、「岡部松原」と呼ばれているようであった。左手には静岡市駿河区と静岡県焼津市にまたがる山々の姿が。藤枝バイパスをくぐる手前の内谷新田交差点には、茸型の常夜灯と『これより東海道 岡部宿』の道標が置かれていた。ここが岡部宿京側の入口。藤枝バイパスをくぐったらすぐ斜め右へ国道1号線から離れて進むと「うなぎや」さんのすぐ右手に二方が竹造りの塀に囲われて太い木柱の「傍示杭」があった。『岩村藩領傍示杭 』「従是西巖村領 横内」(是より西、岩村領横内)『松平能登守 岩村藩領傍示杭跡』この杭は、江戸時代享保20年(1735)より明治維新までの135年間横内村が岩村藩領であったことを標示した杭を復元したものである。岩村藩は、美濃国岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を居城として、松平能登守が三万石の領地を持っていた。駿河国に十五ヶ村、五千石分の飛領地があり横内村に陣屋(地方役所)を置いて治政を行っていた。」『油街途(あぶらがいと)』右手に現れたのが慶長4年(1599)に開基した『曹洞宗慈眼寺』。『曹洞宗 西了山 慈眼寺』。「宗派 曹洞宗 開祖 道元禪師 本山 永平寺(福井県・総持寺(横浜市) 御本尊 阿彌陀如来(平安時代) 開創 慶長四年(一五九九) 開基の龍谷秀泉和尚が横内村の人々の協力を得て伽藍を建立し 藤枝市高田常楽院六世学翁宗参大和尚を御開山に拝請して開創された。(以下略)」本堂。地蔵尊と墓石。『永代供養塔』。更に現国道1号線から分岐した旧東海道を進む。とつか酒店の隣の路地の奥に白い柱が。『西村小路 代官屋敷』。この付近に岩村藩の横内陣屋(代官所)があったと。この辺りの集落(横内地区)は町おこしの一環として、丸子宿と同じように民家の前に当時の屋号を書いた「木札」が掛けられていた。旧街道はわずかながら緩やかな傾斜となり、朝比奈川に架かる横内橋の袂へとつづいていた。橋の右袂に横内地区の案内板があり、「横内あげんだい」と表示された「かがり火入れ」のようなものが置かれていた。『あげんだい』長さ5メートルくらいの孟宗竹の上部を割って逆三角形の籠を作ります。その中に燃えやすい松葉や麦わら竹の筒などをいれたものです。人々は籠に松明を投げ入れ早く火がつくのを競います。一言でいえば「あげんだい」は、松明による玉入れのようなもの。この「あげんだい」の行事は一時期廃れてしまったのですが、平成11年(1999)の横内400年祭を記念して復活したと。その後、「あげんだい」と「燈籠流し」は横内地区の精霊送りの行事として毎年8月16日の精霊送りの日に横内朝比奈川で行われているのだと。『横内歴史案内版』。ここ藤枝市横内地区は江戸時代は美濃国岩村藩領地の横内村であったと。享保20年(1735)、岩村藩の松平能登守乗賢が、幕府の老中に出世したため、「足高の制」により1万石が加増され、そのうちの五千石の領地を駿河国内に受け、駿河領十五ヶ村を治める役所として設けたもの。135年間、14人の代官が支配したが、年貢率が他藩より低く温情ある治世を行ったとのこと。朝比奈川に架かる横内橋を渡る。上流側。下流側。この場所で流れは大きくカーブしていた。交差点の部分だけ路面の仕上げを変えていた。交差点の隅にあった石碑は?『仮宿區入口 岡部町 朝比奈宿 葉梨村』か?我々が辿って(たどって)いる県道81号線はこの先で381号と再び合流。仮宿交差点で再び国道1号線に合流する手前に『従是東巖村領横内』と書かれた傍示杭が再び立っていた。ここまでが岩村藩で850mしかなかったのだと。仮宿交差点で歩道橋を渡る。写真左側は旧東海道で正面が県道381号線。左側の道がこれから歩く旧東海道。横断歩道橋を渡り、旧街道筋を進むとすぐ左側に大きな石柱と文字が刻まれた石碑が置かれていた。これが田中領の傍示杭。『従是西田中領』と刻まれていて、ここが岩村藩領との境目。このあたりは「広幡」という所で「八幡」「仮宿」「横内」「下当間(しもどうま)」「鬼島(おにじま)」という地名が複雑に入り組んでいて境がよくわからないだが、藤枝と合併する前は広幡村と呼ばれていたのだと。この石碑は復元されたもので、本物は藤枝宿の「西益頭中学校(にしましづ)」の正門脇に置かれていると。 駿河田中藩は藤枝宿東方の田中城を居城にしていましたが、代々の藩主は譜代大名で幕閣に登用されることが多く、江戸幕府の前半は藩主が大坂城代、駿府城代などを務めたため、その交代の度に藩主が頻繁に替わりました。藩主が落ち着くのは享保15年(1730)に上野国沼田から入った本多正矩(まさのり)が藩主になってからで、その後、6代つづき本多家のまま明治維新を迎えている。「法の川」に架かる「法の橋」を渡ると「八幡」という地域へと入り、葉梨川(はなしがわ)沿いを進む。再び県道381号線に合流。日本橋から197km。ここは藤枝市八幡地区。そして再び左手の旧東海道へ。歩いていると気付かずに通り過ぎてしまいそうな一里塚跡で『史跡 鬼島一里塚跡』と書かれた木柱が民家の壁に寄り添うように置かれていた。反対側から。木柱の側面に「江戸日本橋より49番里。百九十六km」と書いてあった。『廣畑尋常小学校跡』が左手に。街道の左側に沿って流れている「葉梨川」に架かる「八幡橋」へ「葉梨川」の下流側を望む。旧街道は橋を渡って右手へとつづいてたが、まっすぐ直進する道筋は「田中城」へと続く。この田中城は家康が狩りの途中で立ち寄り、ここで食べた「鯛のてんぷら」がもとで亡くなったと伝えられている城。旧東海道を進むと、半鐘、常夜燈と共に民家の庭先に『旧東海道 鬼島の建場』と刻まれた石碑が置かれていた。「旧東海道 鬼島の建場 街道の松、枝を鳴らさず往来の旅人、互いに道をゆずり合い、泰平をうたふ。 大井川の川留めが解けたので、岡部に滞留せし旅人・駕・馬と共に弥次郎兵衛 喜多八の二人も。そこそこに支度して、朝比奈川をうち越え、八幡・鬼島に至る ここは宿場間のお休み処茶屋女「お茶まいるサア お休みなさいマシ」と進め られるまま、昼間ッからイッパイ昨日の鮪の肴、この酒半分水だペッペッ ブツ ブツいいながら、鐙ヶ淵にさしかかる「処もとは鞍の鐙ヶ淵なれど、踏んまたが りて通られみせず」「街道の松の木の間に見えたるはこれむらさきの藤枝の宿」藤枝市のマンホール蓋。市の花『藤』と市の鳥『ウグイス』、市の木『松』そして、静岡ならではの富士山をデザインしたマンホール。「わがまち藤枝」という文字が入っているのは珍しいのではと。右手にあったのが、『青山八幡宮 里宮』への鳥居。そしてこれを通り過ぎると右手前方に見事な枝振りに葉をいっぱいに付けた大きな木が見えて来た。ここが『須賀神社』。この大木は1本の楠(くすのき)。右側の道を進むと『本行寺』へ。『須賀神社』の石鳥居。牛頭天王・須佐之男命(すさのおのみこと)を祭神とする祇園信仰の神社。社名は須佐之男命が八岐大蛇を退治してクシナダヒメを妻とした後、出雲国須賀に至って「吾此地に来て、我が御心すがすがし」と言ってそこに宮を作ったことに由来するもの。 須賀神社の多くは明治の神仏分離まで「牛頭天王社」などと称していたのだと。この楠は樹齢およそ500年で、県下でも有数の大きさを誇り、県の天然記念物に指定され、併せて御神木として大切にされてきた大木。樹高23.7m 根廻15.2m 目通10.9m 枝張 東西21.2m 南北27.9m。境内側から。それにしても見事な楠なのであった。忠魂碑も。須賀神社に隣接して堂宇を構えるのが『池巌山全居寺(ちげんざんぜんきょじ)』。開基は江戸時代の元和3年(1617)でご本尊は釈迦無二如来。『そうじ小僧』。旧東海道は右に曲がり県道381号線に向かう。右手にあるのが水守中央公園。右手に土地区画整理組合の『希望』と刻まれた完成記念碑が立っていた。後ろの山は『八幡山砦跡』で『青山八幡宮』が鎮座していると。完成記念碑の前の道路の反対側のT字路の赤い消火栓標識の下にあった小さな道標。望遠で確認すると「是ヨリ橋ヲ渡リ 右川ニ沿ヒ八幡橋ニ通 左山ニ沿ヒ???」と。今、気が付いたのであるが、水守の交差点まで行かずにこのT字路を左折して県道381号線を斜めに横断するように旧東海道があったようだがその道は現在では途中までで終わっているようであった。------が旧東海道、------が我々が歩いた道。 その6 に戻る。 ・・・つづく・・・
2019.05.07
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次所狭しと境内に石碑・石像が並んでいた「神明大神宮」を訪ねた後は、ポツンと「本堂」と墓石群が並ぶ「了覚院」を訪ねた。神奈川県茅ヶ崎市円蔵2170。トタン屋根の上に宝珠(ほうじゅ)を載せた小さな「本堂」。ネットによると「昭和20年以降無住寺となり廃寺になっていて空き地の中に小さな堂と位牌型墓碑が二基。一つには「太田善太夫吉次之墓」吉次は家光に仕え2260石、御先手弓頭などを務め延宝八(1680)年相模国高座郡円蔵村に葬られたとある。江戸時代初期、円蔵村は旗本三家の分給支給地で大田家はその一つ。」と。「本堂」の隣には墓石群が。「高野山真言宗 輪光寺末寺了覚院 御本尊 阿弥陀如来像江戸時代の円蔵村地頭知行高二百三十石(総知行高は二千二百六十石)太田善太夫吉次が菩提の為に元和五年(一六一九)に創建。吉次は法名を了覚院と云。延宝八年(一六八〇)没。太田氏一族及歴代僧侶之墓」大きな墓石が二基。右が「太田善太夫吉次之墓」。左が「◯住院殿◯義空了禪居士正定聚位」「正定聚(しょうじょうじゅ)」とは必ず仏となることの決まった聖者。不退転の菩薩たち。真宗では、他力真実の信心を得た者 をいうのだと。「三十三度」碑。正面 : 淺草観世音 相州圓蔵邑 三十三度 大山不動尊 行者了察右 : 寛政七乙卯暦左 : 十一月日造立之大山不動尊に三十三回登拝した記念にたてられた石碑なのであろうか。ここにも「茅ヶ崎市広報板」が。そして「了覚院」の後方に同様の「御堂」が見えたので訪ねてみた。「円蔵祇園社」。所在地:神奈川県茅ヶ崎市円蔵2163-2御堂を正面から。「了覚院」の御堂の一つであったのだろうか。小さな社も横に。道祖神であったのだろうか。注連縄が奉納されていた。寺院の御堂のようであったが。御堂の前から「了覚院」を見る。この畑の場所は、「了覚院」の境内であったのだろうか。そして次に訪ねたのが5分ほどの場所にあった「輪光寺」。「高野山真言宗天慶山輪光寺」。掲示板。二宮尊徳の少年時代(金次郎)の像。境内左側には「庚申塔・石碑群」が。近づいて。「輪光寺の庚申塔(こうしんとう)昭和四十四年八月十五日茅ヶ崎市指定重要文化財庚申塔は、庚申信仰に基づいて江戸時代に盛んに造られるようになったもので、人の延命招福を願ったものである。この塔は寛永十七年(一六四〇)の年号が刻まれ市内に所在する九十基余りの庚申塔の中で最も古いものである。舟形光背で、頭上に烏帽子をのせ、しやがんだ姿の三猿(上に聞かざる、下に向かって右に言わざる、左に見ざる)がニ段に浮き彫りにされている。このような形は同時期のものに他に類例を見ず塔の移り変わりからはやや異質であるが、年号からは全国的にも古い三猿塔である。」上記案内板の「庚申塔」はこれであろう。舟形光背型庚申塔寛永17年(1640)5月ケン?・バン・バン(梵字)・三猿正面右側「當六具供養勧功徳伴成佛 寛永拾七年 庚」 〃左側「辰 五月吉日 相州宅良郡圓像人殺嶋村天□岩戸久右衛門 」「人殺」は「人殿」????頭上に烏帽子をのせ、しやがんだ姿の三猿(上に聞かざる、下に向かって右に言わざる、左に見ざる)がニ段に浮き彫りにされていた。唐破風笠付角柱型庚申塔元文4年(1739)9月月日(手持)・青面金剛像(合掌・六臂)・三猿右側面「元文四己未年」・5人の名左側面「九月吉祥日」・5人の名「廿三夜供𫝥塔」。以下、六地蔵を右から。「栖蓮院殿俊譽妙順大姉 霊位 亨保十五戌天(1730)十二月上十日」。右手に錫杖、左手に宝珠(欠損)を持っ。年銘は没年日と思われる。「華香院殿夏屋清月信女 寛文十年戌四月十一日」両手で香炉を持っ。年銘は没年日と思われる。「智教院隋譽清順大姉 元文三午天八月十四日」「一乗院妙喜日理 正徳二壬辰天四月十五日」と。「雲庵心晴信女 寛文十一年亥十二月廿四日」と。「随源院順譽教哲居士 元文五申年十月廿九日」と。「弘法大師修行像」。「弘法大師修行像」碑。「大師堂」。「弘法大師像」。「本堂」前の石庭。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.26
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この日6月3日(月)の朝は5時半過ぎに目が覚め起床。天気が良かったので、車で10分ほどの場所にある「大清水境川アジサイロード」に今年も向かう。藤沢市と横浜市戸塚区の境を流れる「境川」の岸に植栽されているアジサイ群。「大清水境川アジサイロード」と呼ばれている。地域住民が自宅の庭などで育てたアジサイを植栽したもので、毎年、アジサイ祭が開催されているのだ。「大清水境川アジサイロード」のスタート地点の「大清水橋」を渡り、車を道路脇に一時停車。下車して「大清水橋」を振り返って。さらに「大清水橋」の上流側に見えたのが「横須賀水道路境川水管橋」海老名市社家の相模川から有馬浄水場経由で田浦配水池へ送水される有馬系統の導水管であると。以前は半原系統の導水管(φ500)も敷設されていたが、需要減少、水質悪化、施設老朽化などに伴い2007年(H19)に取水が停止され、2015年(H27)に系統と共に撤去されたのだと。 構造種別:1径間三弦トラス(1個のトラス構造で上弦材1本と下弦材2本の三角形構造) 河口からの距離:7.1km 橋の長さ:約57m 水管径:φ1000 完成:不明そしてこの日のアジサイの開花状況。かなりの花は咲いていたが満開にはまだ少し早かったので後日出直すこととし引き上げた。そして一昨日6月8日(土)、平塚での仕事の打ち合わせを終え、帰宅の途中に、天気も良かったので再び立ち寄ったのであった。時間は11:30過ぎ。神奈川県立藤沢清流高等学校前に車を止め散策開始。アジサイの語源ははっきりしないが、最古の和歌集『万葉集』では「味狭藍」「安治佐為」、平安時代の辞典『和名類聚抄』では「阿豆佐為」の字をあてて書かれている。もっとも有力とされているのは、「藍色が集まったもの」を意味する「集真藍(あづさあい/あづさい)」がなまったものとする説である と。ほぼ満開の「大清水あじさいロード」。紫陽花の漢字の由来は、唐の詩人、白居易(はくきょい)が招賢寺というお寺を訪れた時、お寺に咲いていた紫色の花を「紫陽花」と名付けたことから来ているのだ とネットには。しかし「紫陽花」は日本原産ですからこれは誤り?で、白楽天が詩に詠んだ花とは違うのでは??とネットには。紫色のアジサイの花に近づいて。アジサイ(紫陽花)の別名には、こんなものがあるのだと。●七変化(しちへんげ) :七変化とは、咲き始めてから時間が経つにつれ、色を変える ことからついた別名●四片・四葩(よひら) :「花びら(正確にはガク)が四片あること」からつけられた名前 ●手毬花(てまりばな) :丸く集まった装飾花の形から●オタクサ :この名は、シーボルトの美しき恋心から生まれた名前。 1823年、長崎に渡来したドイツ人医師シーボルト。 植物研究にも情熱を注ぎ、とりわけ紫陽花に夢中になった。●刺繍花(ししゅうばな):手毬花と同じく、刺繍に見立てる。 刺繍から連想するのは、西洋紫陽花ではなく山紫陽花●八仙花(はっせんか) :「七変化」と同じ。さまざまな色合いに変化することから 名づけられた名前花(萼)の色はアントシアニンという色素によるもので、アジサイにはその一種のデルフィニジンが含まれている。これに補助色素(助色素)とアルミニウムのイオンが加わると、青色の花となる と。アジサイは土壌のpH(酸性度)によって花の色が変わり、一般に「酸性ならば青、アルカリ性ならば赤」になると言われている。これは、アルミニウムが根から吸収されやすいイオンの形になるかどうかに、pHが影響するためである。すなわち、土壌が酸性だとアルミニウムがイオンとなって土中に溶け出し、アジサイに吸収されて花のアントシアニンと結合し青色を呈する。逆に土壌が中性やアルカリ性であればアルミニウムは溶け出さずアジサイに吸収されないため、花は赤色となる。したがって、花を青色にしたい場合は、酸性の肥料や、アルミニウムを含むミョウバンを与えればよい。同じ株でも部分によって花の色が違うのは、根から送られてくるアルミニウムの量に差があるためである。花色は花(萼)1グラムあたりに含まれるアルミニウムの量がおよそ40マイクログラム以上の場合に青色になると見積もられている。ただし品種によっては遺伝的な要素で花が青色にならないものもある。これは補助色素が原因であり、もともとその量が少ない品種や、効果を阻害する成分を持つ品種は、アルミニウムを吸収しても青色にはなりにくい。土壌の肥料の要素によっても変わり、窒素が多く、カリウムが少ないと紅色が強くなる とウィキペディアより。また、花色は開花から日を経るに従って徐々に変化する。最初は花に含まれる葉緑素のため薄い黄緑色を帯びており、それが分解されていくとともにアントシアニンや補助色素が生合成され、赤や青に色づいていく。さらに日が経つと有機酸が蓄積されてゆくため、青色の花も赤味を帯びるようになる。これは花の老化によるものであり、土壌の変化とは関係なく起こるのだ と。上の花との違いで、花色は開花から日を経るに従って徐々に変化する。最初は花に含まれる葉緑素のため薄い黄緑色を帯びており、それが分解されていくとともにアントシアニンや補助色素が生合成され、赤や青に色づいていくのが解かるのであった。日本に自生していたガクアジサイ(額紫陽花)が母種となり、西洋にわたって品種改良されたものが世界の紫陽花の主流になったのだ と。青のガクアジサイ(額紫陽花)。紫陽花の花は、装飾花と両性花から出来ていると。まず、装飾花とは、一般的に花と認識されている部分のことを指すつまり、花びらが4~5枚あるように見えている部分のこと。一方で、両性花はガクアジサイやヤマアジサイの花房の中心部分にある、地味な花のことを指す。説明写真をネットから。ちなみに、装飾花で大きく目立つようながく片は、花粉を運ぶ昆虫を呼ぶ際に利用するために発達したといわれているのだ と。白▶️黄色▶️薄紫▶️紫▶️濃紫と開花の時の流れが一つの株で。近づいて。再び「大清水橋」方向を振り返る。ピンクの西洋アジサイ。近づいて。西洋アジサイは←が花の部分。そしてガクアジサイ。近づいて。再び濃いピンクのアジサイを。近づいて。白のガクアジサイ。まるで線香花火の如し。装飾花は薄紫になりはじめていた。一株で?紫、ピンクの花が。近づいて。「平成16年度藤沢市まづくり賞 受賞ここは、大清水小、中、高等学校がひまわりの苗1200本を植え、境川を美しく彩りました。その活動が、「第23回沢市緑と花いつぱい推進活動」において「まちづくり賞」を受賞しました。」装飾花と両性花が同じピンク色に染まったガクアジサイ。近づいて。こちらは装飾花が両性花の後を追う。再び大清水橋を振り返って。この花は色に迷いが??2種類のアジサイが開花のピークに。ガクアジサイに近づいて。藤沢市民病院を背景に。ズームして。両性花が存在を強調して。「境川」を超えた山の上には学校の校舎が。「聖園女学院高校・中学校」。神奈川県藤沢市みその台に所在し、中高一貫教育を提供する私立カトリック系の女子中学校・高等学校である。名古屋市に本部を置く学校法人南山学園の管轄である。完全中高一貫校だったが、2024年度より高校募集を再開している。毎日の朝礼時・終礼時に祈りを捧げて聖歌を歌い、6月と9月、11月、12月、2月にミサを開く。「マリアホール」「イエスの聖心聖堂」などがある。学級は、ばら組・ゆり組・すみれ組・きく組と花の名前である。生徒数の減少により、2015年度からきく組は設置していない。各組は30 - 40名程度[13]で、中学1年生 - 中学3年生の英会話は、1組を2つに分けて少人数で授業する。英語の授業は高校1年生から習熟度別に分ける。高校2年生からは、文系理系に分かれ、選択科目も科目により習熟度別を採る とウィキペディアより。 ・・・つづく・・・
2024.06.09
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【四国八十八箇所霊場巡り ブログリスト】👈リンク25番札所:津照寺最御崎寺から室戸スカイラインを下っていくと眼下に土佐湾に拡がる室戸漁港、室戸岬町が。再び55号線を高知方面に右折し土佐湾沿いを15分ほど進む。室戸漁業市場の近くに津照寺の仮駐車場があるとのことであったが、駐車場に辿り着くのに苦労。何とか車を駐め遍路開始。第25番札所:津照寺の山門。 柱に屋根がついた簡素な門。津照寺 案内板。ここは高知県、徳島県にはなかったこの様な案内板。津照寺 境内配置案内図。麓の山門を入ると右側に大師堂と納経所が、左側に一木神社がある。正面の石段で山を登っていくと途中に鐘楼門がある。125段を登り詰めると右手に手水鉢があり、コンクリート造りの本堂が建っている。ここからは室津の港や太平洋が一望できる。右側に太師堂。125段の階段を上る。 写経大師尊像。 丸みを帯びた唐風:鐘楼門本堂へ上る125段の石段の途中にあり、上層は鐘楼堂で両側に仁王像を安置した変形の二重門である。 赤の涎掛けを掛けた地蔵が並ぶ。右に曲がった階段を上ると本堂が姿を現した。手水場。 本堂は近代的なコンクリート造り(昭和50年竣工)。室津港を見下ろす小山の上に所在する「津照寺」は、地元では、津寺(つてら)と呼ばれている。大同2年(807)に、この地を巡錫した弘法大師は、海の安全大漁を祈願して開基された。船人、漁師の信仰は厚い。別名「楫(かじ)取り地蔵」とも言われていると。山の形が、地蔵菩薩の持つ宝珠に似ているところから、霊地とし、地蔵菩薩像を刻まれ本尊として、宝珠山真言院津照寺と号された。長宗我部氏の庇護を受けて津寺村と称して七町余り地高を有していた。その後山内氏が入国して、更に、一町五反余りの田畑を寄贈され、寺院の運営も藩営とされ隆盛を極めていた。明治の改革により寺領は、政府に没収され小作農民に払い下げとなり、寺は廃寺とされた。明治16年寺名復興を許され、現在に至っていると。宝珠山 真言院 津照寺(ほうしゅざん しんごんいん しんしょうじ)宗派 真言宗豊山派本尊 延命楫取地蔵菩薩創建 大同2年(807年)開祖 空海(弘法大師)所在 高知県室戸市室津2652本尊真言 ”おん かかかびさんまえい そわか” 本堂内部。 本堂の屋根の「宝珠」と「水煙」。境内から太平洋そして室津港を望む。 本堂建立記念碑。 本堂から階段を下りる。素朴な地蔵尊。 漁業殉職者霊塔。毎年、5月中旬には漁業殉職者慰霊祭と共に盛大な大祭が催されている、主催者である室戸漁業協同組合が時代の流れと共に高知県漁業協同組合に統合され室戸支所になっても祭りは変わらず連綿として受け継がれていると。一木神社。普請奉行として室津港改修工事を担当した一木政利(一木権兵衛政利)は、工事が難行したために、一身を海神にささげることを約して竣工を祈願し、改修が終わると約を違えず人柱となったといい、地元町民がその死を悼んで、延宝7年(1679年)に港を見下ろす山の中腹に神として祀るようになったと。稲荷大明神。 太師堂。 太師堂入口横にはこの寺を描いたこの地域の子供の絵画が展示されていた。 六地蔵。 納経所。 納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 三地蔵菩薩。 室津港工事のお邪魔石。この大石は室津港の工事中、邪魔になり、工事は難航したと。これを助けたのがご本尊。お陰で室津港は竣工する。住民は感謝して境内に安置したと。 ------------------------------------------------------------------------------------------------26番札所:金剛頂寺 室戸岬の北西、土佐湾に小さく突き出た行当岬(ぎょうどうみさき)。その頂きに緑に囲まれた26番札所:金剛頂寺(こんごうちょうじ)があった。仁王門に向かって61段の厄坂を上る。数え年で61歳は男女の本厄の歳。厄坂ということで、蓮の花の形が埋め込まれた石段にお賽銭の1円玉数え切れないほど置かれていた。 仁王門には3mほどもあろう巨大な草履が。阿形像。プラスチック製?の如き表面。吽形像。 金剛頂寺 境内配置案内図。駐車場から厄坂の石段を上って途中に山門があり、さらに上り詰めると広い境内に入る。すぐ左側に手水場が、左に回り込むと大師堂がある。正面奥に間口の広い鉄筋コンクリートの本堂が建っている。本堂手前に鐘楼、数々の重文が収蔵されている霊宝殿は本堂の左にあり地下でつながっている。境内伽藍エリアから左方向に数段下りると小さな池があり中に弁財天の祠がある。その先に行くと宿坊があり、さらに奥の本坊と通路でつながっていて、通路の本坊側に護摩堂がある。本坊の下段に魚籃観音石像がある。大師堂に向って右前に一粒万倍の釜がある。納経所は本堂の手前左にある。智光上人廟は鐘楼と本堂の間から山林の中に入った奥にあり、その途中にヤッコソウの自生地がある。 階段の上に本堂が見えて来た。 境内。階段上の参道中央に石灯籠そしてその先に大きな屋根を持つ本堂。 手水場。太師堂。左手にかって、「大師と天狗が問答をした」とのレリーフそして空海の歌碑が。 空海の歌碑。『法性の 室戸といえど 我が住めば 有為の浪風 よせぬ日ぞなき』香炉堂と大香炉そして奥に本堂。 本堂。 寺伝によれば、平城天皇の勅願により大同2年(807年)に空海(弘法大師)が薬師如来を刻んで創建し「金剛定寺」と号し女人禁制であったという。次の嵯峨天皇が「金剛頂寺」の勅額を下賜し、その寺名に改められた。『南路志』(江戸時代の土佐の地誌)所収の寺記によれば、大同元年、唐から帰国途次の空海が当地に立ち寄り創建したとされる。同寺記によれば、さらに次の淳和天皇も勅願所とし、住職も十代まで勅命によって選定されたという。延久2年(1070年)の「金剛頂寺解案」(こんごうちょうじげあん、東寺百合文書のうち)によれば、当時の寺領は現・室戸市のほぼ全域にわたっていた。室町時代には堂宇を罹災したが、長宗我部元親が寺領を寄進しているほか、土佐藩主山内家の祈願所とされ、復興は早く整備された。その後、明治32年(1899年)の火災で伽藍を焼失し、本堂ほか現存する堂宇は再建であると。 「瑠璃光殿」と書かれた扁額。薬師如来が祀られた本堂は「瑠璃光(如来)殿」とも呼ばれる。幸い開帳されていたので、本尊と脇仏、十二神将像などを拝観できた。龍頭山 光明院 金剛頂寺(りゅうずざん こうみょういん こんごうちょうじ)宗派 真言宗豊山派本尊 薬師如来創建 大同2年(807年)開祖 嵯峨天皇(勅願)、空海(弘法大師)所在 高知県室戸市元乙523本尊真言 ”おん ころころ せんだりまとうぎ そわか” 捕鯨八千頭精霊供養塔。さすが高知県。鐘楼。 霊寳殿。正倉院を思わせる形状を持った霊寳殿には、国指定重要文化財7点をはじめとした、平安朝古器、仏具、仏画、古文書など50点あまりの寺宝を後世に伝えるため、厳重に保管されていると。 一粒万倍の釜。大師が粥を炊くと一粒が万倍になったと伝えられる釜。稚児大師尊像。左に「がん封じ乃椿御霊木」。その名の通り、撫でると癌封じなるといわれる霊木。「がん封じ乃椿」金剛頂寺の御詠歌が刻まれていた。 『往生に 望みをかける 極楽は 月の傾く 西寺のそら』大師立像。大師様がこの場所で天狗と問答して、天狗を足摺岬に封印したそうで、足摺岬方向に睨みをきかせる方向に建てられているのだと。接待所。檀家の方達が当番制で美味しいふかし芋とお茶がお接待されると。しかしこの日は雨のためか、それとも時間が遅かったのか既に閉店。納経したという証として「納経所」で納経帳に印・「お納経」を頂きました。 そして御本尊様の分身・御影(おみえ・おすがた)も頂きました。 時間的にこの日の遍路はこの寺で終了とし、今宵の宿の高知駅近くのビジネスホテルに向かう。55号線で奈半利を通過中に、大きな看板に目がとまりました。 『なはり 素通り禁止八策』と。遍路道中に学んだ土佐弁講座。「いお」は魚?道路沿いの何カ所かに津波避難センターが。 無事、高知駅近くのビジネスホテルにチェックイン。近くの鮮魚店に入りこの日の反省会。ビール片手に名物「かつおの藁焼き」や高知名物を注文。 締めは徳島ラーメン。ニンニクたっぷりの味噌味ラーメンを完食したのであった。
2017.11.03
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続いて「ブラガ(Braga)」、ここはポルトガル旅行では訪ねていない場所。ブラガは、ポルトガル北西部の都市であり、ブラガ県の県都。ブラガを中心とするミーニョ都市圏は、リスボン都市圏、ポルト都市圏に次ぐポルトガルで第3の都市圏を形成する。ブラガの歴史は古く、ローマ帝国の属州ガッラエキアの中心地ブラカラ・アウグスタ (Bracara Augusta) として繁栄した。ブラガは「祈りの街」と呼ばれる。「リスボンは楽しみ、コインブラは学び、ポルトは働き、そしてブラガは祈りの街である」という言葉からも明らかなように、ブラガは、ポルトガルにおいて、信仰面で重要な役割を果たしてきている。4世紀には、Patemusと呼ばれる司教がブラガに住んでいたとされる。もっとも、聖オヴィディウス(en:Saint Ovidius)と呼ばれる聖者がブラガにおける最初の聖者とする説もある。5世紀には、アウグスティヌスの友達でもあるパウルス・オロシウス(en:Orosius)がブラガに生まれ、神学、歴史の書物を著している。6世紀には、ブラガの聖マルティン(en:Martin of Braga)が登場し、スエビ族をアリウス派からカトリックへ改宗させた。また、このころ聖マルティンがブラガ近郊のドゥミオに修道院を建設したとされる。世界遺産の「ボン・ジェズス教会」。巡礼者は577段の階段を上り、聖堂で祈りを捧げる。ブラガの小高い丘にあり、庭園、洞窟、彫刻に囲まれたカトリックの巡礼地。18 世紀に建設されたバロック様式の教会。 小高い丘にあり、巡礼者の聖地として知られるボン ジェズス教会。116 m にもわたるバロック様式の長い階段が、丘のふもとから教会へとジグザグに続く。教会までは、徒歩または車で。ポルトガルで一番古いケーブルカーで上ることも出来ると。「山の上の善きキリスト」という意味を持つボン ジェズス教会。現在の教会は 14 世紀の礼拝堂跡地に建てられたもので、1722 年に建築が始まった。以来、瞑想とざんげを求める巡礼者の聖地となっている。荘厳なファサードと両側にそびえる鐘楼。ジグザグの階段を歩くなら、階段の折り返しにある踊り場は必見であると。階段の下段は視覚、聴覚、味覚、臭覚、触角にご利益のあるという「五感の階段」。踊り場には泉があり、それぞれに視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚を表す。視覚の泉は両の目から、味覚の泉は口から水があふれ出ており、その興味深い姿は見逃せません。下記の泉の写真は昔の写真のようです。聴覚の泉。臭覚の泉。味覚の泉。感覚の泉。泉を見下ろすように立つ旧約聖書の預言者の像にも注目してみてください。階段を上空から。そして上段は、信仰、希望、博愛を表す「三徳の階段」とよばれる。信仰の泉。希望の泉。博愛の泉。泉を見下ろすように立つ旧約聖書の預言者の像。教会前のモーゼス広場。ポルトガルの庭園建築の中で最も美しい庭園の一つに数えられている。彫刻はキリストの処刑に関わったピトラスなど8人。教会は1784年から1811年に掛けて建てられた新古典用式。ブラガが生んだ名建築家カルロス・アマランテの作。教会の中にある祭壇には昇天するイエス。教会の中にある祭壇には昇天するイエス。教会からは、ブラガの街を一望することができると。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.01.27
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「最誓寺」を後にし次に訪ねたのが「物見塚公園」内にあった「伊東祐親像」。伊東市役所に隣接し、伊東市街地から初島まで望めることのできる小高い丘の上の公園。櫓を組んで敵情の見張りをしたと伝える「物見の松」や「伊東祐親像」、「尾上柴舟の歌碑」などがあった。静岡県伊東市大原2丁目80−1。馬上の「伊東祐親像」。「伊東祐親」は、藤原南家の流れを汲む武将で、伊豆国田方郡伊東荘を本拠としていた。1160年(永暦元年)、前年末の平治の乱に敗れた源頼朝が伊豆国流罪となるとその監視役を務める(参考:蛭ヶ小島)👈リンク。1180年(治承4年)、頼朝が挙兵すると、大庭景親らとともに平家方に付き、石橋山で頼朝を敗走させるが、富士川の戦いで捕らえられ、三浦義澄に預けられた。義澄の嘆願によって助命されたが、1182年(養和2年)2月14日、相模国の義澄邸で自ら命を絶ったのだという(参考:鐙摺山(葉山町))👈リンク。※三浦義澄は伊東祐親の娘を妻としていた。※北条時政も祐親の娘を妻とし、政子・宗時・義時の母は祐親の娘とも・・・ 「北条政子と北条義時の母は伊東祐親の娘?」👈リンク。 ~政子と義時は曽我兄弟といとこ~「物見塚公園 伝伊東家館跡と物見の松」碑「物見塚公園 伝伊東家館跡と物見の松伊東を発祥の地として全国に広がった伊東氏は、平安時代末期に、ここに住みついた藤原南家工藤氏に始まるといわれます。曽我兄弟の祖父伊東祐親の二代前、伊東家次が初代と考えられています。伊東家は、以後鎌倉時代をへて戦国時代末期まで、長い間この地とかかわりがあったので、伊東家館跡の伝承地は幾つかあります。この高台の一角にある物見塚に、物見の松と伝承される老松があり、この場所は伊東家館跡と伝承されてきました。現在は物見塚公園となり、馬上姿の伊東祐親像が置かれています。永くその姿を誇って来た物見の松は、昭和57年に枯死し、現在はその塚の上に小さな三代目の松が植えられています。この高台のふもとにあたる仏光寺も、鎌倉時代の伊東の地頭であった伊東八郎左衛門尉の屋敷跡と伝承されています。」東側にあったのが「伊東市役所」。外観の奇抜さや自由度という点で飛び抜けている感があった。左側が低層棟、中央が市民ロビー、右側が高層棟となっている近代建築そのもの。Google Mapで上空から見ると、全体の形としては鋭角のハの字型に置かれた二つの弓型の建物とその二つを繋ぐ中央のアトリウム的な部分という構成。西側の広場から。中央に彫刻のモニュメントが。中央が市民ロビー入口部は周囲の景色がガラス?に映り込んで。これも設計内か。落成したのはなんと1995年。建物の前に立った時にはとても27年前の物とは思えなかったのであった。これもバブル・・・???。西側広場重岡建治の彫刻「大池より生ずる」。近づいて。西側広場津田裕子(女子美術大学名誉教授) 模刻 「風の通る道」と。模刻とあるが、Originalはどなたの作品?西側広場彫刻 「ドリーマー」 中岡慎太郎。「松尾芭蕉 句碑けふばかり 人もとしよれ 初しぐれ」揮毫した五世雪中庵對山(1787~1843)は江戸時代後期の江戸の俳人。以前は伊東市内の別の場所にあったが、旅館を取り壊す際に伊東市役所内の物見塚公園に移転。さらに以前をさかのぼると、中伊豆(伊豆市)より移入したものという。「伊東祐親像」を裏側から。「伊東祐親公」。「壽永元年(1182年)武将伊東祐親が自ら壮絶な死の道をあゆんでより、すでに800年の歳月がきざまれた。源平両氏交替期の大きなうねりのなかで、その行く手を冷静に見きわめながらも譜代の臣として、斜陽の平氏への忠節に、ひとすじ、武将の信と意地をつらぬきとおした生涯であった。後の世、この地に生をうけた一歌人が、次のようにうたった。まぼろしの 雄叫びきこゆ 滅ぶると 知りつつ武将の ちから竭しき(つくしき)ゆたかな歴史の息づくわたしたちの町・伊東には、その昔、領主として地域の繁栄に重要な役わりをはたした伊東氏をめぐる史蹟がかず多くつたえられている。」「尾上柴舟(さいしゅう)の歌碑」。「尾上柴舟歌碑つけすてし 野火のけぶりの あかあかと みえゆくころぞ 山はかなしき 八郎明治から昭和にかけて活躍した歌人で、若山牧水など多くの歌人を育てました。草仮名の名手としても知られる柴舟自筆の美しいかな字で書かれたこの歌は、連作「天城野火」の中の一首として伊東で詠まれたもので、大正二年の歌集「日記の端より』の巻頭を飾る柴舟の代表作で、八郎は柴舟の本名。昭和初期に伊東(岡・広野)に別荘を構えて晩年の多くをここで暮らしました。この碑は、昭和六年に柴舟会によってこの丘に建立されました。」「物見塚公園」の桜を見る。「平野萬里歌碑相模灘 湖水の如し 月照らし 軍をよそに 松蟲の鳴く」。「平野萬里(本名久保)は明治十八年埼玉県北足立郡大門町に生まれた。四十一年東京帝国大学を卒業し商工省に入省、我が国の化学工業全般の育成と発展に尽力した。他方、明治三十四年に與謝野寛(鉄幹)に師事して以来、昭和二十ニ年に死去するまでの約四十五年間にわたって一貫して新詩社の中心メンバーとして四千首余りの短歌と百十篇の長詩を詠んだ詩歌人でもあり、その独特な作風は高く評価されている。伊東市へは吟行先として與謝野寛・晶子夫妻とともに昭和初期から幾度か訪れていた。その縁で商工省退官の後、伊東市西郊の水道山に尚文亭と名付けた山荘を建て、しばしばここに滞在して風光明媚な景観と豊富な温泉を楽しみながら、作家三昧の日を送った。今般没後七十年にあたり、昭和十八年秋に尚文亭で詠んだ一首を刻した歌碑を建立することになった。」更に石段を上り高みに進む。宇佐美方面の海が見えた。桜に近寄って。再び伊東市役所の庁舎を見る。太くなった松が2本あったが、どちらが三代目の松であっただろうか。それともこの松が「物見の松」の三代目?再び「伊東祐親」の顔をズームして。「伊東祐親像」と「伊東市役所」。最後に「伊東市役所」の全景を再び西側から。「柴舟歌碑道」碑。「伊東祐親像」のあった「物見塚公園」の散策を終え、伊東市内を後にして帰路に。途中、熱海市の奥の山中にある「頼朝の一杯水」を訪ねた。国道135号をひたすら北上し、「上多賀」交差点を左折して県道105号線に入る。更に「頼朝ライン」を利用して「頼朝の一杯水」に到着。道沿いにあった小さな駐車場に車を駐め散策に向かう。入口の桜が開花して迎えてくれた。「頼朝公一杯水」案内板。「水師営の「なつめ」この道は、愛称「頼朝ライン」と名付けられており、古くは鎌倉街道の一部とも云われております。往時鎌倉幕府を開いた源頼朝が伊豆と鎌倉を結んだ道であります。 ここに植えられている街路樹は、すべて「なつめ」の木で全部で135本あります。大部分市内外の人達の好意により寄付を受けたもので、植木は市職員の奉仕によるものであります。特にこの中には、日露戦争で乃木将軍が敵将ステッセルと旅順近郊の一寒村「水師営」👈リンクで会見し、開城を約したとき、その場所の民屋に植えられていた「なつめ」の木の種子を明治の末期、熱海在住の元子爵曽我祐邦氏が持ち帰り自宅の庭にて育成しましたが、(樹齢九十有余に達しましたが平成8年11月朽果てました。)これを分木し、植えたものが十数本あります。市に居住されていた国文学者・佐々木信綱先生が作られ戦前国民的な愛唱歌として親しまれた「水師営の会見」では明治三十七年、日露が国運?を賭けた旅順の攻防について「所はいずこ水師営 庭に一本(ひともと)棗(なつめ)の木」と歌われています。この場所は、沖に初島を望み、波静かな多賀湾を一望できる景勝地であり、近くには史跡「頼朝の一杯水」があります。また、この道、この土地は、古く源氏再興のため豪族が往来したゆかりの場所であり、植えられている棗の街路樹は人々の善意によるものです。今に残る、十数本の水師営の「なつめ」の木は、私たちの胸裡に限りない郷土愛と共に源氏・平家盛衰の昔を懐古し、明治のロマンと郷愁を感じさせてくれます。平成十年六月吉日 伊東線親和会 上多賀なつめの会」「頼朝一杯水苑地」案内図。そして数分歩くと「頼朝の一杯水」に到着。「頼朝の一杯水」案内板。「峠地蔵尊由来此地蔵尊は元禄六年歴雨凉二十四日今より約ニ七〇年前駿河国富士郡比奈村の住人鉄意道心なる者其昔頼朝と伊東祐親の娘八重姫との間に生れし千鶴丸の不遇の死を憐みて頼朝に因縁深き此地・地蔵尊を安置し其の霊を慰めたり為に往時の村人はもとより遠近の美男美女の参詣する者多かりしが海岸道路開通により宝泉寺に移せしが宝泉寺役員及有志の意志により昭和三十五年十二月二十四日旧地に仮遷座し其の後浄財を募り昭和三十六年四月二十四日堂宇を建設し正式に遷座を行ふ」ここが「頼朝の一杯水」。水溜り場に屋根がついているほか、お地蔵さんの社があった。水溜り場の奥からは綺麗な湧き水が流れ落ちていた。「頼朝の一杯水」のほとりにある「子育て延命地蔵尊」地蔵尊は、鎌倉幕府が開かれた約500年後の1693年、仏教修行僧の鉄意道心によって創建された。上多賀の宝泉寺に道心が留まった際、村人からこの悲話を聞き、「頼朝の一杯水」のほとりに小さな祠(ほこら)を建て、自ら彫った地蔵の石像を安置し、供養したという。よく見ると近くに水道の蛇口が。水溜り場の奥から綺麗な湧き水が流れ落ちていたがこれも水道水なのであろうか?遠く、真鶴半島の姿も確認できた。そして帰りは別ルートで駐車場まで戻ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.03.29
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ーーがこの日・(その33)の散策ルート。再び「けやき通り」まで戻る。ここにも彫像があった。富田眞州(とみたまさくに)作「人々への讃歌」。人間・家族をモチーフとして「愛」をテーマにつくられら作品。「けやき通り」の向こう側にあった「三菱重工横浜ビル」を見る。その前庭の植栽の中にあった彫像。冨永直樹作「美しき広場」。会社を支えるのが社員で、社員を支えるのが家族であるという意味を込めて設置された と。「美しき広場」。そして「三菱重工業株式会社 横浜造船所跡」碑。神奈川県横浜市西区みなとみらい3丁目3。「「みなとみらい21」地区と横浜造船所跡地」。「三菱重工業株式會社 横浜造船所跡横浜造船所は明治二十四年(一八九一) 有限責任横浜船渠会社として発足、昭和十年(一九三五)三菱重工業株式会社と合併し 三菱重工・横浜造船所となった。横浜港出入り船舶の修理から始め、その後新造船、鉄橋、原動機、環境装置に事業を広げ、横浜市と共に発展してきた。昭和五十八年(一九八三)「みなとみらい21」計画に沿い、この創立の地から本牧と金沢へ工場を移転し横浜事業所としてその事業を継続している 平成六年三月 」般若純一郎(はんにゃじゅんいちろう)作「友情」。「1931(昭和6)年富山県生まれ。 高岡工芸高校卒業後、米治一氏に師事。少年と少女が寄り添っていますが、ふたりは一体何をしているのでしょうか。少女は空に向かって何かを指さしています。希望の象徴なのか、もしかしたら、鳥が飛んでいるのを一緒に見ているのかもしれませんね。作家は、鎌倉建長寺の大天狗、小天狗の制作や、西脇市の源頼政の<<鵺(ぬえ)退治>>の像なども手がけています」 と。清川宗翠作「なかよし」。「1947(昭和22)年富山県生まれ。 「友情」の像の近くに置かれた、もっと幼い男の子と女の子です。とても小さく、控えめに置かれている作品は、うっかりすると見落としてしまうかもしれません。二人のひそひそ話が聞こえてくるような気がしませんか。作家は、1968(昭和43)年に中尊寺金色堂建立の箔師のスタッフとして参加しています。」と。可愛らしい顔に近づいて。「三菱みなとみらい技術館」入口。館内は次回に。そして「横浜銀行本店営業部」の前庭にも赤いモニュメントが確認できた。高田洋一作「水面の鳥」。「1956(昭和31)年大阪府生まれ。 「役に立つ物ばかりでは人間は生きていけないのではないか?」「役に立つものに囲まれた街の中に、何の役にも立たない彫刻を置くことで、私達は救われるのではないか?」という作者の願いが込められた作品です。風でゆっくり回転するこの作品は、強風でも、ある一定速度より速くは回らないように仕掛けもされています。1998(平成10)年に完成した横浜国際総合競技場の<<呼吸する色彩>>も手がけた作家です。」「横浜ランドマークタワー」を正面から見上げる。神奈川県横浜市西区みなとみらい2丁目2−1。「横浜ランドマークタワー」の正面入口。「みなとみらい動く歩道」まで歩き「みなとみらい21」地区を。「日本丸メモリアルパーク」案内板。「日本丸」。日本丸メモリアルパーク内の「タワー棟(展望棟)A&B」。「日本丸」の後方には「タワー棟(展望棟)C&D」。「みなとみらい動く歩道」の横を歩く。「日本丸」への石段を下る。見学者の数は少なく。時間はまだ8:24。方位表示と都市名が。「日本丸」のチケット売り場が前方に。石の置物が並ぶ「長谷川伸文学碑」。神奈川県横浜市西区みなとみらい2丁目1−8。「先生の本名は長谷川伸二郎、明治十七年(一八八四年)横浜日の出町で生れた。八歳のとき家業の土建業が倒産し、それからは自力で働き続け小学校も三年で退学した。二十歳のころ横浜のジャパン・ガゼット紙の記者になり二十七歳のとき東京の都新聞の伊原青々園氏へ手紙を送って入社、筆名で短編を発表するうち、菊池寛氏に認められた。大正十四年、四十一歳で退社し作家として出発した。以来、小説と劇作の双方で華々しい活躍が始った。先生は生涯を通じて、文学の師は持たなかった。該博な知識はすべて独学で得たものであった。股旅物の始祖といわれたが先生の作品の真骨頂は歴史小説、それも歴史の隅に葬り去られた真実や無名の人々を掘り起こした紙碑と自ら呼んだ一連の作品であった。先生を慕って集る後進の育成に当り劇作研究の二十六日会、小説研究の新鷹会を主宰した。昭和三十八年六月十一日七十九歳で他界するまで、おびただしい数の長篇、短篇、百篇を越える戯曲それに紙碑と唱える著作がある。「生きるとは、生きる価値を見つけることだ」最後の病床で、先生は言い残された。少年のころ先生が働いていた横浜の旧ドック跡に一生を人のために費し、無私を貫き通した先生を記念して、多くの人々の助力の下にこの文学碑を建てた。 昭和六十年十月十七日 門弟代表 村上元三」作家の長谷川伸の幼き頃の思い出として、生誕100年を記念して建立された石碑。「長谷川伸」と刻まれているのであろう。その先にあったのが「旧横浜船渠株式会社 エアー・コンプレッサー」神奈川県横浜市西区みなとみらい2丁目1−1。廻り込んで。高い圧力の空気を送り出すアメリカ製の機械で、1983年に造船所が移転するまで使われていたものと。「旧横浜船渠株式会社 エアー・コンプレッサーこの工アー・コンプレッサー(空気圧縮機)は、横浜船渠(後の三菱重工業(株)横浜造船所)が造船事業に進出する際にアメリカから購入したものです。造船所構内のほほ中央にあった動力室に4基設置され、1983 (昭和58)年に造船所がここから移転するまでの約65年間使われました。リべット・ハンマーをはじめ、所内各工場のさまざまな機械の動力となる圧縮空気をこのコンプレッサーから送りました。横浜船渠の造船部門を象徴する設備として保存・展示します。」「日本丸」の雄姿。船首、そして右舷を見る。真っ白な船体に長く伸びた「バウスプリット」と「船首飾り」が美しかった。欧米では伝統的にバウスプリットという前へ突き出た捧の下に船首像を取り付ける伝統がありました。帆船の船首像は航海の安全を願って取り付けられますが、そもそも日本には船首像を取り付ける伝統がありませんでした。そのため、初代日本丸には船首像と呼べるものはついておらず、唐草模様と羅針盤を模した金色の船首飾りがつけられているだけ。姉妹船でもある海王丸(初代)も当初は船首像はなく、日本丸( 2代目)に船首像を取り付けた際に同時に制作され取り付けられた と。たしかに船首像はいかにもヨーロッパの文化の番りがするのだが。「日本丸 NIPPON MARU」と。この初代「日本丸」の後継船として建造された二代目「日本丸」は我が卒業会社が建造したのである。2022年現在でも現役の航海練習船として運用されているのだ。右舷を見る。船首まで廻り込んで。「船首飾り」をズームして。廻り込んで左舷側を進むと前方に見えて来たのが「横浜みなと博物館」。「帆船日本丸のメインマスト用トップ・ゲルンマスト」。「案内板」。「帆船日本丸のメインマスト用トップ・ゲルンマスト日本丸の4本のマストの下から約5分の3は鋼製ですが、残りの上部約5分の2はトップ・ケルンマストといい、檜材が使われています。このトップ・ケルンマストは、日本丸のメインマストで使用されていたものです。1952 (昭和27)年の帆装復帰工事の時、三重県北牟婁郡長島町産の樹齡約200年と推定される檜の一本材を自然乾燥後、加工して取り付けられました。以来約40年間使用されてきましたが、根元部分の腐食かはげしくなったため、1990 (平成2)年11月から翌年3月にかけて行われた定期検査工事で、吉野産檜のマスト材に取り替えました。」「メインマストの主要寸法■材質 檜(ヒノキ)■全長 18.412メートル■重量 約700キログラム■最大径(最下部) 約50センチメートル■最小径(最上部) 約17センチメートル」マストは船首からファアマスト(Fore-mast) 、メインマスト(Main-mast)、ミズンマスト(Mizzen-mast)、ジガーマスト(Jigger-mast)と呼ぶのだ と。「日本丸」の船首と左舷を見る。近づいて。後方には「横浜ランドマークタワー」。「横浜ランドマークタワー」とのコラボ。美しい花壇とのコラボ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.17
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「横谷峡」の散策を終えて「横谷温泉旅館」まで戻る。「横谷温泉旅館」入口。我々のツアー「STEPトラベル様」の歓迎ボード。入口にあった湧水?の「水場」。フロントは奥のエスカレータで2階に上がって下さいと。生花に近づいて。エスカレーターから見下ろして。2階のロビーにも「水場」がった。「全館ご案内」。●最大収容人数:530名 と。山奥の旅館とは言えど、造りは旅館というよりも現代的なホテルといった感じ。こちらは増改築を繰り返しているであろう事を感じさせる、informationボード。●室数:80室 新館・仙峡亭 59室 (和室18畳16室/和室15畳20室/和室10畳15室/洋室ツイン8室) 本館・清流荘 21室 (和室9畳+9畳14室/和洋室9畳+ツインベッド7室)「フロント」。そして「大浴場」へ。源泉は湧き出した時には無色透明であるが、鉄分を多く含んでいるため空気にふれると、すぐに茶褐色に。鉄分が沈殿して黄金色の濁り湯となるのだ と。「横谷温泉旅館」には、渓流を臨む2つの露天風呂、渓谷を眺められる2つの内湯、さらに2つの貸切露天風呂があり、鉄分と炭酸ガスを多く含んだ自家源泉を堪能できるのであった。炭酸ガスが溶け込んだ温泉は、血液の循環がよくなり血圧を下げる効果があるといわれ、日本ではめずらしい泉質。また、含鉄泉のため酸素に触れると透明から茶褐色・黄金色に変化する温泉で、貧血や婦人病、神経痛、リウマチ、冷え性、アトピー性皮膚炎に効果があるといわれます。鉄分の多い茶褐色(黄金色)の温泉はややぬるめではありますが、湯上りのあともさめにくいと評判の天然温泉。なお、源泉温度が19℃と冷泉のため加温していると。加水等はおこなっていないとのこと。温泉浴槽の角にはライオンの姿も。「温泉の成分・禁忌症・適応症等」。「温泉」を楽しんだ後は、フロント前のソファで暫しの休憩。「土産物コーナー」を散策。そして「横谷温泉旅館」を」後にして「国道299号・メルヘン街道」を次の目的地の「蓼科湖」近くにある「聖光寺」を目指す。「県道192号線・ビーナスライン」に入り三つ星ホテル「B&B ノマの森」前を通過。ノマの森は 標高1,390m 長野県の蓼科高原のB&Bスタイルの宿。B&BはBed&Breakfastの略「一夜の休息と朝食」を意味すると。部屋は6つ、薪ストーブのあるラウンジ、別棟の貸切風呂のある小さな宿。この周辺の新緑の芽生えはこれから。洋食レストラン「the Switchback TATESHiNA」。北八ヶ岳ロープウェイ方面へ向かう途中、別荘地の蓼科ビレッジ一角に佇む薪窯料理店。長野県内の素材や高原野菜を薪窯で調理する、端まで美味しいピザをはじめとし、シンプルで素材の美味しさが際立つ野菜の窯焼きや蓼科牛Tボーンステーキなどが人気 と。車窓から「蓼科蕎麦・しもさか」入口の「枝垂れ桜」も満開。「ビーナスライン」を更に下って行った。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.05.27
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そして様々な立て札が立つ小さな広場に出た。「しとどの窟(いわや)👈リンク治承四年(一一八〇)八月十七日、源頼朝は伊豆で源氏再興の旗上げをしたが、同年八月ニ十三日、石橋山の合戦に敗れ逃げる時、従者七人とともにこの窟に隠れ、九死に一生を得たと伝えられている。 湯河原町」「源頼朝としとどの岩屋の由来源頼朝は14才の時父義朝が平治の乱で敗れ、頼朝は捕われて清盛の母池の禅じのなさけによって一命を助けられ伊豆の蛙が小島に流され平兼隆の監視によって二十年間をすごした。治承四年八月望仁王が平家討閥の宣旨が全国の源氏に伝えられた。頼朝は機を窺っていたが八月一六日三島大社の祭典の晩、北条時政らと平兼隆の首を取り伊豆の源氏に組する者たちを集め十九日伊豆を出発土肥実平を道案内で日金山を越え土肥郷(現湯河原町)に着いた。土肥実平の館勢総大将大庭景親三千余騎と戦ったが十対一の多勢に無勢で敗れ一旦土肥へ引返し堀口の合戦(鍛冶屋瑞応寺附近)にも敗れ土肥実平の守護とみちびきによって土肥の椙山に逃げかくれ実平のお蔭で人の知らない谷底しとどの岩屋や大木の洞(土肥の大杉)にかくれたり、又小道地蔵において僧純海の気転により床下にかくれ一命を救ってもらった。この岩屋に五日間かくれていた。その間食糧を運んでくれたのは土肥の女房である。源平盛衰記に残っている 暫(ようや)くして敵も引揚げたので山から降りて来たら吾が家が盛んに燃えていた。この状況を見た実平は頼朝を勇気づけるため延年の舞を舞って慰めた。あづま鑑にはじょうもうの舞と記されている。この岩屋は関東大震災のため入口が崩れたが水は一年中湧いている。実平のお蔭で平氏を滅し鎌倉幕府大業成功させた実平の功績を称え、土肥会では昭和五十五年湯河原駅前に実平の銅像を建立した。このたび小沢進夫氏寄進によって案内板を建立した。 平成八年十二月吉日 桜郷史跡保存会」「箱根ジオパーク しとどの窟」案内板。「箱根ジオパーク しとどの窟しとどの窟は「土肥椙山岩窟」として、神奈川県で史跡文化財に指定されています。1180年に石橋山合戦で平家に敗れた源頼朝(みなもとのよりとも)がこの地にあった窟に身を隠し、箱根権現別当(はこねごんげんべっとう)のもとに逃れた後、真鶴(まなづる)のしとどの窟から安房国(あわのくに)へ脱出したとつたえられています。また、「しとどの窟」の由来は、追っ手が「シトト」と言われる鳥が急に飛びだしてきたので、人影がないものとして立ち去ったためだと言われています。しとどの窟周辺は箱根外輪山(はこねがいりんざん)の溶岩と火山砕屑物(かざんさいせつぶつ)(噴火で放出された石や砂など)からできており、窟は固結した火山砕屑物の部分が削れてできた洞です。」 「源頼朝と土肥実平石橋山の合戦にて大敗した源頼朝は、主従わずか8名で山中に逃れ、湯河原近辺を領地とする土肥実平、遠平親子の案内で洞窟や大木の洞に隠れて敵の追手をかわしました。土肥実平とは相模国の豪族、中村氏の出で、平安末・鎌倉初期に活躍した武将です。土肥郷(現在の湯河原町)を本拠としており、JR湯河原駅から城願寺の辺りに実平の館があったと言われています。この後、頼朝は実平が手配した小舟で安房国に渡って、再起を図り、敗戦の一か月半後である10月7日、大軍を率い堂々と鎌倉へ入りました。現在、湯河原駅前のロータリーには土肥実平とその妻の像が設置されています。■頼朝主従七騎源頼朝、土肥次郎実平、岡崎四郎義実、安達藤九郎盛長、田代冠者信綱、土屋三郎宗遠、新開次郎忠氏の7人。土肥実平の菩提寺・「城願寺」👈リンク には、この7人の武者像が安置されています。なお、土肥実平の嫡男遠平は安房国へは渡らず、源頼朝の妻である北条政子のもとへ頼朝の安否を知らせに行ったため、七騎には含まれていません。」 以前に訪ねた、JR湯河原駅前の『土肥實平公並夫人像』。「神奈川県指定史跡 土肥椙山巌窟(伝源頼朝隠潜地) 昭和三〇年十一月一日指定このあたりは、今から七・八百年前には杉林でおおわれていたので、土肥椙山と呼ばれていた。新崎川の上流の山間に杉の埋れ木が発見されるので当時を想像することができる。[吾妻鏡」には源頼朝が治承四年(一一八〇年)八月一七日伊豆の蛭ヶ島に兵を起し、相模に入って土肥の館に集結、二十三日三百の兵で石橋山に陣し、大庭景親三千、伊東祐親三百の兵と戦って敗れ、二十四日夜明け、椙山に追撃され山中の巌窟に潜んで九死に一生を得、その夜は箱根権現の永実坊にやどり、再び椙山にもどって三日間椙山の山中に隠れ、二十八日真鶴から安房に向かったとある。この巌窟は頼朝を救い、後の歴史を大きく変えることになったところ、と伝えられている。」 平成十四年三月 神奈川県教育委員会」 「湯河原町指定文化財 史跡土肥椙山巌窟内観音像群 昭和五十四年四月一日指定一、所在地 湯河原町鍛冶屋九五三一、所有者 吉浜財産区この観音像群は立像及び坐像六十一体で小松石に彫刻され、これが安置されている巌窟と共に中世以後近郷庶民の信仰習俗を知る上に貴重な資料である。観音像は無銘が多く銘があっても解読不能であるが中に嘉永六年、元治元年、新(ら)しいもので大正一五年のものがあり、これらが近郷の人々により長期的に奉安され続けて来たこと、ひいては巌窟を含むこの地が古くから観音信仰の聖地であったことを物語るものである。」そして階段を上り廻り込むと正面に「ししどの窟」が現れた。入口幅は20m弱、深さは10m弱程度であろうか。関東大震災でも崩壊したとのことであるので、頼朝はもっと小さな窟に身を隠したのであろう。天然の洞窟に並ぶ「土肥椙山観音像群」と呼ばれる20以上の石仏は厳かな雰囲気を醸し出しており、湧き水の流れる音や、苔むした岩石、夏でも涼しく暗い洞窟など、非日常を味わうことができるのだ。設定を変えてズーム。「土肥椙山観音像群」をカメラでさらに追いかけたのであった。最上部をズームして。窟の上部からは、湧水が滴り落ちていた。窟の内部。岩屋の入口は関東大震災(大正12・1923)で崩れてしまった、と。「南無阿弥陀佛」と。石仏にズームして。不動明王像か?円形の光背を持つ石仏2体を。手前の石仏は宝戟(ほうげき)を持って。名称は、宝戟のほかに戟鞘(げきしょう)、三叉戟(さんさげき)とも言われているのだ。宝戟は、両側に枝があり三股(三又)になっている。意味付けは「悪魔を打ち滅ぼす武器」ということのようだが三毒煩悩を降伏するための武器とされているとのこと。廻り込んで。様々な角度からこれでもかと。前田青邨(まえだせいそん)画「洞窟の頼朝 1929年 大倉集古館 重要文化財」。1180(治承4)伊豆で挙兵した源頼朝が最初の合戦である石橋山の戦いで平家方の大場景親・熊谷直実らの軍に大敗。そのとき、追手をのがれて主従7人がここ「しとどの窟」に身を寄せた場面。「前田青邨は甲冑をよく研究し、鎧武者の絵でよく知られています。平家を倒そうと治承4年(1180)に伊豆で挙兵し、石橋山の合戦に破れた源頼朝主従が洞窟に篭っている場面を描いた。丸く固まって座る主従は、昂然とした表情の頼朝の辺りは明るく、周辺は暗く描かれ、緊密な画面になっています。頼朝の着ている赤糸威大鎧など、甲冑の表現も素晴らしく、武者たちの鎧の千切れた威糸や、矢のほとんど残っていない箙は戦いの激しさを示しています。この時従ったのは、土居実平、弟の土屋宗遠、足達盛長、岡崎義実、新開忠氏、田代信綱とされ、岡崎義実は70歳近くでした。」とネットから。 中央に源頼朝。そして「前田青邨 「洞窟の頼朝」 1958年」。「この作品も力のみなぎる武者群像になっています。画面奥の武者は孫悟空のような顔をしています。」とネットから。 俳優の小栗旬(39)が主演を務めたNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では2022年2月13日、第6話が放送された。冒頭、「石橋山の戦い」(1180年)に大敗し、神奈川県湯河原町と真鶴町にある洞窟「しとどの窟(いわや)」に隠れたとされる源頼朝(大泉洋)を、謎の敵将・梶原景時(中村獅童)👈リンク が見逃す有名な場面が。大庭勢は頼朝を捜索。山内首藤(やまのうちすどう)経俊(山口馬木也)から「梶原殿、そこの茂みを見てきていただけますかな」と頼まれた景時(獅童)は、洞窟に隠れる頼朝たちを発見!!。景時は頼朝と目が合ったが、黙って立ち去った。味方には「こちらには隠れる所もござらぬ」と伝え、頼朝を見逃した。頼朝が「今のは?」と尋ねると、土肥実平(阿南健治)は「大庭配下の梶原景時にございます」。頼朝は「覚えておこう」と九死に一生を得た。義時は景時が石橋山の洞窟にいた頼朝を見逃した理由を尋ねる。景時「何故、助けたか。あの時、大庭勢は目と鼻の先にいた。にもかかわらず、わしの他は誰も頼朝殿には気付かない。そなたは、かのお人が天に守られていると申した。わしも同じことを感じた。殺しては、神罰を受けると思った。答えになっておるかな?」義時「佐殿の元に来ませんか?ご無礼いたしました」景時「刀は斬り手によって名刀にもなれば、なまくらにもなる。決めるは決め手の腕次第。御免」そして帰路の山道を、息を切らしながらもマイペースで急坂を上り、入口まで戻ったのであった。「幕山・南郷方面(幕山登山口)7,500m」 と。道路の反対側にあったのが「鳥獣之碑」。 そして「椿台駐車場」に向けて「城山隧道」を潜って。 ところでこの「しとどの窟」👈リンク しとどの窟は真鶴にも存在するのだ。土肥実平らとここ「しとどの窟」を出て真鶴に降りて、真鶴・岩海岸(岩海水浴場)にある「しとどの窟」にて一夜を明かし、舟で東京湾を横断して、安房国(房総半島)へ脱出したと伝わっているのだ。そして駐車場に戻り、再び初島、大島を望んで、この地を後にして帰路についたのであった。この後も、「椿ライン」をひたすら北に向かって進み、大観山展望台まで進む。しかし芦ノ湖、富士山の勇姿は完全に雲に隠れていたので、そのまま「箱根新道」を利用して 小田原市早川にある「漁港の駅 TOTOCO小田原」で海鮮丼を楽しんで帰ることに。 「漁港の駅 TOTOCO小田原」の入口には、巨大な「小田原提灯」 の姿が。「漁港の駅 TOTOCO小田原」。相模湾に面する小田原の豊かな漁場を表現し名付けられ、地元の定置網等で漁獲された新鮮な地魚や干物・蒲鉾などの水産加工品のほか、地元農産物などの提供等を通じて、人と人との交流の促進を図るとともに、小田原の誇る地域資源を広く発信していく場所 と。小田原が抱く自然豊かな漁業を表現し魚(とと)の宝庫から「ととこ」と名付けたとのこと。相模湾に面し種類豊富な魚介類が集まる豊かな漁場に面する小田原漁港、小田原魚市場。その漁港、魚市場から直送されるこだわった海の幸。また、ここでしか味わえない海鮮グルメを楽しめる と。「漁港の駅 TOTOCO小田原」入口。2階にあった「とと丸食堂」へ。悩んだが「まぐろのトロとろ丼」を楽しんだのであった。いろんな食感と味が一度に楽しめるまぐろの盛合せ。中とろ、ビントロ、ねぎとろ、赤身、漬けまぐろの5種を味わえたのであった。新鮮、肉厚、美味!!そして食後は2階にある売店内部を散策。サザエの生簀。甘エビ、ひいらぎ(柊魚)、味付数の子、たたみいわし。気になる「百花蜜」、「アカシア蜜」、値段が気になって・・・。 3階にあった「おさしみ天国・小田原海鮮ゴーゴー!!」 食べ放題コースもあると。そして1階も散策。「小田原漁港浜揚げ煮付け 大判金目鯛」。 カマスの干物であっただろうか。そして「新早川橋」から西湘バイパスを利用して、帰宅の途についたのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・完・・・
2024.02.09
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久能山東照宮「唐門」(重要文化財) 。拝殿正面にあり、屋根は銅瓦本葺黒漆塗の四方唐破風造という(重要文化財)普段は通り抜けが禁止されているため階段を登ることはできなかった。久能山東照宮唐門は元和3年(1617)に建てられたもので、久能山東照宮の中核部である本社社殿(拝殿・石の間・本殿)の正面に配され、聖域の正門的な役割を持っています。形式は四方唐破風造り、四脚門、一間一戸、本瓦葺き、四方唐破風造りとは屋根の4方向に唐破風を設けたもので、格式の高く、聖域の正門として相応しい意匠となっています。構造部は朱色で塗られ、木鼻や門扉、蟇股、唐破風などには唐獅子(左右に阿吽)や鳥類、植物など多彩な彫刻が随所に施され、彫刻は極彩色で彩られ、金物や本瓦の軒先、獅子口には金を使用しています。久能山東照宮唐門は江戸時代初期に建てられた唐門建築の遺構として大変貴重な事から明治45年(1912)に国指定重要文化財に指定されています。さらにズームして。。「高野槙」。コウヤマキ(高野槙、高野槇、学名:Sciadopitys verticillata)は、マツ目コウヤマキ科の日本および韓国済州島の固有種。常緑針葉樹で高木となる。別名ホンマキ。「高野槙」。コウヤマキとは・・・・高野山で多く見られ、高野山では「霊木」として保護されている。・成長が緩やかで手入れが比較的簡単である。・ヒマラヤスギ、ナンヨウスギとともに「世界三大庭園樹(世界三大公園木」)に数えられる。また、サワラ、ヒノキ、クロベ(ネズコ)、アスナロ(ヒバ)とともに「木曽五木」とされる。・秋篠宮悠仁親王の「お印」とされている とネットから。石段の上には「神庫」が。「神庫」への石段下の「末社 竈(かまど)神社御祭神(火の神)台所の神様です。御希望の方に神札をお頒ちしております」と久能山東照宮神庫は元和3年(1617)に建てられた建物で、木造平屋建て、入母屋、銅瓦葺、平入、桁行5間、梁間3間、建物の構造体が朱色に壁が黒色に彩色され、瓦と木組の端部が金箔欄間部は極彩色で彩られています。久能山東照宮の境内の中で唯一の校倉造(建材を横に組合せ、積重ねることで壁とする工法、調湿性能に優れ正倉院などにも使用されました。)の建物で奉納された神宝や鉄砲などが置かれていました。久能山東照宮神庫は境内を構成する要素として大変貴重な事から昭和30年(1955)6月22日に国指定重要文化財に追加指定されています。「河津桜」も満開。「河津桜」。ズームして。ここにも2基の石灯籠があったのだろうか?「日枝神社」。「重要文化財 日枝神社(ひえじんじゃ)祭神 大山咋命(おおやまくいのかみ)旧御本地堂で薬師如来を安置してあったが、明治三年神仏分離の際に仏像を廃し後に今の名称に改めた。元和三年(西暦一六一七年)の建造である。」久能山東照宮日枝神社は元和3年(1617)に建てられたもので、木造平屋建て、入母屋、銅瓦葺、平入、桁行3間、梁間3間、正面1間向拝付、外壁は真壁造板張り、建物全体が朱色で塗られ、蟇股や向拝の蝦梁の彫刻などが極彩色で彩られ、金物や瓦の軒先などが金が使用されています。当初は久能山東照宮の本地堂として薬師寺如来像が安置され薬師堂と称されてきましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後の廃仏毀釈運動により明治3年(1870)に薬師寺如来像が大正寺へ移され、天台宗の守護神である山王社の御神体を遷して日枝神社に改め久能山東照宮の末社となりました。久能山東照宮日枝神社は江戸時代初期の御堂建築の遺構として大変貴重な事から昭和30年(1955)6月22日に国指定重要文化財に追加指定されています。歴史を感じさせる青銅製の吊り灯篭。ここにも歴代将軍の様々な葵の御紋が。「天水桶」。「拝殿、石の間、本殿」への入口門・「東門」。久能東照宮・東門は元和4年(1618年)に造られ、日枝神社より社殿に向かう際にくぐる門。小さな門となっていますが、彫刻などが間近に見ることができ社殿同様の極彩色の朱塗りが施されていた。国の重要文化財に指定されている。入口から、「石の間」、「拝殿」を見る。この写真はネットから。「透塀」。久能山東照宮透塀(玉垣)は元和4年(1618)に建てられたもので、本社社殿周囲を囲っている。塀は銅瓦葺、飾金具は金、壁は朱色で塗られ、腰部に施された精緻な彫刻には極彩色が施されている。東門も同年に建てられたもので本社社殿の東側に位置し、門の周りは透塀(玉垣)によって囲われていた。東門は切妻、銅瓦葺、一間一戸、棟門、透塀と同様に朱色を主体として彫刻部が極彩色に彩られている。透塀と東門は久能山東照宮の境内を構成する要素として大変貴重な事から明治45年(1912)2月8日に国指定重要文化財に指定されています。玉垣の「玉」は神聖なものや美しいものを意味し、「神聖な神様を囲む垣」という意味と言われている。「透塀」沿いにあった「家康公御手植えのみかんー駿府城より分木」。「拝殿」を横から。「国宝」の文字が。移動して。「国宝 本殿 石の間 拝殿」と。「拝殿」、「石の間」、「本殿」の間取り図。拝殿 : 桁行五間、梁間二間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝三間、銅瓦葺石の間 : 桁行一間、梁間一間、一重、両下造、銅瓦葺 C&Dの出入口あり。本殿 : 桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、銅瓦葺写真中央が「石の間」。出入口の扉が確認出来た。久能山東照宮拝殿は元和3年(1617)に建てられたもので、入母屋、銅瓦葺、屋根正面には千鳥破風、桁行5間、梁間2間、3間向拝付、棟梁は中井正清(初代京都大工頭)。外壁は黒の漆塗り、金物の多くは金で仕上げられ、組物や木鼻や蟇股、海老虹梁などの彫刻、桁に描かれた絵画は極彩色が施されています。本社社殿は本殿、拝殿、石ノ間が接続し一体となっている所謂「権現造」でこの後、造営される日光東照宮(栃木県日光市)はじめ全国の東照宮の規範となっています。久能山東照宮拝殿は極めて貴重な事から平成22年(2010)12月24日国宝に指定されています。「中井大和守正清は、永禄8年(1565)に法隆寺門前の西里で誕生しました。正清は、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦後に、徳川家康公より上方の大工支配を仰せつかったと伝えられています。その直後には徳川家の御大工として二条城、伏見城の作事に携わり、慶長11年7月に従五位下大和守に叙任され、公儀大工の第一人者となりました。徳川家康公は、二条城、伏見城、江戸城、駿府城の城郭や、知恩院、増上寺の作事でみせた正清の手腕を高く評価しました。そして、「何事も御普請方之儀、大和次第」と言い、正清に全幅の信頼を寄せ、名古屋城、内裏の作事を命じました。正清はまさに東奔西走の日々を過ごし、慶長17年(1612)に従四位下に昇叙しました。その位階は大名に与えられるもので、大工棟梁としてはきわめて異例の出世でありました。この時期の正清の作品で現存するものは少ないですが、仁和寺の金堂(国宝)は、慶長18年に上棟した慶長度内裏の紫宸殿を、寛永年間に移築したもので、京都に残っている正清の代表作として貴重な建物です。元和2年(1616)4月、徳川家康公は駿府城に薨去されました。御遺骸は遺言により久能山に埋葬され、正清に社殿の造営が命ぜられました。これが久能山東照宮で、正清が渾身を込めて造った社殿は四百年の時を経て今もその姿を伝えています。久能山東照宮の造営を終えた正清は、元和5年正月21日、徳川家康公のあとを追うかのように、近江水口で55歳の生涯を閉じました。このように、久能山東照宮は、徳川家康公の側近として仕えた中井正清の最晩年に全身全霊を込めて造った最高傑作といえるでしょう。」と ネットから。唐門は四方唐破風造りであることが解かるのであった。黄金の木鼻、精緻な彫刻を見る。木鼻にズームして。団扇型の松の彫刻をズームして。「唐門」から上って来た石段の下の石鳥居を見る。ズームして。唐門の扉?の見事な彫刻。白梅?と青い鳥の姿が。近づいて。反対側の扉?同様に。唐門の横梁の見事な彫刻。そして振り返って「拝殿」の入口部を。江戸時代奥に入れる者は将軍だけ、御三家の徳川家も立ち入る事は出来なかったと。近づいて。中央の蟇股の彫刻・「甕割りの彫刻」。中国の故事、政治家・司馬温公の「甕割り」の彫刻。子供の頃、一緒に遊んでいた友が水甕に落ちてしまったのを救うため、その甕に石を投げつけると、甕に穴が開き、仲間が水と一緒に流れ出てくる場面。高価な甕を割った少年の物語で『命の大切さ』を表しています と。別の場所にあった案内板「久能山東照宮『司馬公の甕割り』この絵は中国北宋の政治家、司馬温公の少年時代のお話です。ある日、一緒に遊んでいた友達が水甕の中に落ちて溺れてしまいました。もう一人の友達はハシゴをかけて助け出そうとします。いっぽう聡明な司馬少年は「それでは間にあわない!」と近くの石で甕を割って助け出しました。この故事の彫刻が久能山東照宮拝殿の正面に施されております。御祭神徳川家康公が現代の私達へ向けて、「命の尊さ」を説かれているといえるでしよう。」右側。左側。内陣を望む。蟇股内部を花鳥の透彫とするなど細部も整った意匠が。下段中央。その左。下段最左。下段右。その右。最右。拝殿(右側)最奥の下段の蟇股。吊り灯篭。木鼻(右)。ズームして。吊り灯篭越しに「拝殿、石の間、本殿」への入口門・「東門」方向を見る。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.03.11
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Googleマップの案内に従い、次の目的地の「玉蔵院」に向かって進む。Googleマップは、墓地の裏の入口を案内したのであった。墓地内そして境内を歩き、「国道134号」側の正門まで進む。「高野山真言宗三浦不動尊第2十三番三浦観世音第二十五番湘南七福神恵比寿尊干支守霊場第七番 玉蔵院」三浦観世音「第廿五番霊場」碑。参道を本堂に向かって進む。「高野山 真言宗 玉蔵院 掲示板」。「おてらヨガ」も行われているようであった。寺号標石「高野山 真言宗 守護山 玉蔵院」。この石碑は?近づいて。しかし解読不能。山門を入るとまっすぐに続く参道の脇に、幹の周囲が3m近くもある樹齢400年以上のイチョウ・エノキの巨木が聳え立っていた。右手には「エノキ」の巨木。「イチョウ」の巨木を見上げて。左側にもイチョウ(銀杏)の大木そして一番本堂よりに「エノキ」が並ぶ。「エノキ」の手前に「葉山町指定重要文化財 天然記念物 玉蔵院のエノキ・イチョウ」碑。庚申塔が二基。近づいて。左側の庚申塔道立年号(塔に刻まれている年月日) 元禄5壬申天5月吉日(1692年)碑型、石質、其の他 舟型、安山岩、2基の内向って左塔大きさ及破損度 高さ76cm(台石を含まず)。幅37cm。上部が少し缺けた外完全刻像 定印阿弥陀如来と三猿 三猿は向って右から見ざる、聴かざる、言わざるで、左右の猿は背を丸めて中央の猿に 向っている。銘文 種子は缺損 上原村 八郎衛門、六左郎、甚衛門、市衛門、勘兵衛、五兵衛 四郎兵衛、市兵衛、次郎兵衛、三郎兵衛。塔の特徴 この塔は定印阿弥陀如来を主尊にしたのが特徴で、葉山町では1基だけである。 又三猿の左右の猿が背を丸めて中央の猿に向き合っている事も特徴である。右側の庚申塔 ???「六地蔵」。「六地蔵」とは六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天からなる六つの世界)全て救うという誓願のもと、六体の地蔵があり子どもを護る仏様として知られている。因みにこの寺の六地蔵は眼病にご利益があるとされている と。境内右側の、弘法大師像。「南無大師遍照金剛」と書かれた白の幟が一対。近づいて。「弘法大師 御入定 千百五十年記念四國八十八ヶ所砂踏み霊場」と。主尊が阿弥陀如来という、立派な宝篋印塔が建っていた。六地蔵の横に建っている県下でも珍しい石塔型の転輪で、お百度参りに使われたものだと。「葉山町指定重要文化財 建造物 玉蔵院の庚申塔 二基」種別 建造物(石造)指定年月日 昭和45年8月27日所在地 葉山町一色(玉蔵院)規模 高さ114cm、幅51cm石材 安山岩時代 寛文五年(1665年)下部に三猿「言わざる」「聴かざる」「見ざる」。三猿に雌雄がはっきりと表されている大変珍しいもので、寛文5(1665)年10月吉日の陰刻から葉山最古の塔とされていいる と。「三ヶ岡講中」と。「葉山町指定重要文化財 建造物 玉蔵院の庚申塔 二基」と。「宗祖弘法大師御誕生壱千二百年記念碑」「高野山 真言宗 守護山 玉蔵院」の「本堂」。「干支守霊場 丑寅 歳の寺」。本堂内陣。守護山 玉蔵院は弘法大師(空海)を宗祖とし、高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)を総本山とする高野山真言宗のお寺。ご本尊は大日如来(だいにちにょらい)で、拝む際は「オンバザラダトバン」とお唱えします。・開基年 奈良時代 天平勝宝年間(749~757)・開創者 東大寺別当 良弁僧正・本尊 金剛界大日如来(旧くは十一面観音)・霊場 三浦観音二十五番、三浦不動二十三番、湘南七福神恵比寿、十二支霊場丑寅年本尊 : 金剛界大日如来。本堂の左側には。丑寅歳本尊 虚空蔵菩薩。湘南七福神 葉山恵比寿。湘南七福神 葉山恵比寿。弘法大師像か?そして本堂の左側にあった境内社群。朱の鳥居が三基。お稲荷さま:正一位稲荷大明神・生目大明神・猿場大明神であると。中央が「生目大明神」。左が「正一位稲荷大明神」。右側が「猿場大明神」。境内左で、 更に右奥の庚申塔群を訪ねたが、巨大なオオスズメバチが飛来して来たので慌てて避難。この時期からするとオオスズメバチの女王蜂であっただろうか?オオスズメバチの女王蜂の姿をネットから。危険なオオスズメバチですが、冬眠から目覚めた直後の女王蜂は栄養不足で体力がなく、弱っているため人を刺す可能性は低いとのことだが、既に5月末でもあり!! ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2024.06.20
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大内宿の大型バス有料駐車場には多くの観光バスが列をなし満車状態。バスを降り観光開始。大内宿周辺散策路案内と駐車場の乗務員休憩所。 大内宿を守る住民憲章2.保存優先の原則 保存をすべてに優先させるために、大内宿と旧街道沿いの観光資源 (建物・屋敷・農耕地・山林等)について、「売らない」「貸さない」「壊さない」の 三原則を貫く と。建物の現状変更はすべて申し出ること と。大内宿MAP。人気観光スポットのこの「大内宿」は、福島県南部の人里離れた山間部に30軒以上の茅葺き屋根の民家が立ち並ぶ江戸時代から残り続ける宿場町。約400年以上前、江戸時代には運搬路として重要な道であった会津西街道(日光~会津)沿いの宿場町として参勤交代で江戸へ向かう大名や旅人の宿場町として栄えた。中には、あの伊達政宗が小田原参陣、豊臣秀吉が奥羽仕置きで、この大内宿を通行した記録があるのだと。2時間の自由行動と言うことで、時間に十分余裕があるため、のんびりと宿場町の散策開始。正面の山も紅葉の真っ最中。大内宿は重要伝統的建築物群保存地区。保存地区は旧街道に沿った宿場を中心とする南北約500m、東西約200mの範囲。大内宿は、会津城下と下野の国(しもつけのくに)(栃木県日光市今市)を結ぶ全長130キロメートル(32里の区間)の中で会津城下から3番目の宿駅として1640年ごろに整備された宿場町。会津西街道は関東側からの呼称で、会津側からは下野街道(しもつけかいどう)あるいは南山通り(みなみやまどおり)とも称されていた。会津藩主の18回に及ぶ江戸参勤と江戸廻米の輸送と、当時会津藩と友好関係にあった米沢藩・新発田藩なども頻繁に利用した重要路線であったと。 この日も昼前であったが多くの観光客が。 旧街道の両側には約50cm幅の小川があり清流が勢いよく流れていた。そして真っ赤に紅葉したモミジが迎えてくれた。清流で売り物の飲料を冷やす姿も。 大内宿「本家扇屋」 。大内宿で唯一「蔵」に泊まれる民宿。囲炉裏でおしゃべりしながら美味しい地元の料理をたっぷり楽しめると。黄色のモミジも赤に負けじと。 どの家屋も土産物屋や食堂を営んでいた。多くの本格的手打ち十割蕎麦屋が散在。高倉神社入口の鳥居。木を切り出し皮を剥いただけのような鳥居がそびえ立っていた。この鳥居は、後白河天皇の第2皇子(高倉以仁王)の霊を祀ったとされる高倉神社へと続く鳥居で、一の鳥居から三の鳥居まで続いていた。この大内宿に立っているのは一の鳥居。そして旧街道の反対側には鉄骨製の火の見櫓そしてその上には放送用のスピーカーが。 標高650mの山間の街道の両側に整然と建ち並ぶ宿場情緒を色濃く残す家並みは、タイムスリップの世界であり、思わず溜息がでるほどの景色。 布で作った野菜や果実を土産物として売る店。 大内宿の最奥に向かう。 浅沼食堂。一番見晴らしが良い店。大内宿の最奥の高台に位置し、唯一集落全体を見渡せる食事処。手前に湯殿山と刻まれた石碑が。この高台が湯殿山と呼ばれているのだと。良阿養仙居士?の墓か?。 赤の衣装を纏った地蔵様。 モミジの色のアンジュレーションが見事。 階段を上り大内宿の北端に位置する浄土宗の寺院・正法寺を訪ねる。周囲は黄色く紅葉した銀杏の木々が。大名家などの庇護がなく村内で管理運営し、寺の周囲には子安観音を始め、湯殿山碑などの石碑や石仏が参道附近に安置されていたのであった。大内宿周辺は戊辰戦争(1868年(慶応4)~)の激戦地(大内峠では40名が戦死)となり正法寺は官軍の詰め所になったと。本堂。会津藩の砲兵隊頭取、笹沼金吾は大内峠の戦いで敗退した後も1人で官軍に切り込んだと伝わる人物で壮絶な戦死の後、この大内宿の住民が密かに正法寺境内に埋葬したと伝えられていると。 寄棟茅葺きの子安観音堂。子安観音は、女性や子供の守り神で、子宝や安産、子供たちの健やかな成長を祈る観音様。 林の中にある大内宿見晴場所に向かう。 今もなお当時の状態で30軒以上の茅葺き屋根の民家が立ち並んでおり、江戸時代にタイムスリップしたような光景を楽しむ。林の中も陽光が差し込み空気も赤く染まった感じ。 道のない林の法面を苦労して上り、BEST SPOTを発見。更に進むと小さな社・弁天堂も。弁天堂の手前の急な石段を下りきったところで振り返ると、斜面には庚申塚石塔群が立てられ、その先には三仏堂が建っているのが見えた。六臂青面金剛刻像。紅葉の下に吉村善七之墓と刻まれた墓石。文字庚申塔と阿弥陀仏と刻まれた石碑。大内宿上の山裾にある三仏堂。修験信仰の本尊仏である不動明王、役小角、孔雀明王の三仏が祀られていると。そして道を戻り「桜木姫の墓」を探したが見つからず再び宿場町に引き返したのであった。
2016.11.11
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク長後市民センターに到着。 長後地区 ふるさとまつり のポスターが貼られていた。 長後市民センターの桜の老木。昭和31年に殖産学校を改造して長後支所が完成したことを記念して植樹されたと。長後地区のシンボルとして親しまれている。 樹種:ソメイヨシノ 樹高:10m 幹回り:2.5m 。長後市民センターの境界の壁沿いには数多くの石碑が集められていた。 双体道祖神。「天明」「十一月」と刻まれていた。 帰宅して調べてみると下土棚1767に安置されていた光背舟形碑 双体像(男女雛) 天明二壬寅十一月(1782)を道路拡張工事に伴い移設した模様。道標を兼ねた庚申塔には「左かしを道」「右ふし沢道」と書かれたもの。渡邉信雄先生頌徳(しょうとく)之碑 左に角柱塔 文字「曙通」 と右に角柱塔道標 文字「右大山道/左婦じ沢ミち」」 道路に向かって進むと更に石塔、石碑が並んでいた。 丸彫り 不動明王像。大山詣での目的地である大山寺のご本尊は不動明王。 湯殿山・月山・羽黒山 三山供養塔 自然板碑。食行身禄(じきぎょう みろく)と刻まれた石碑。食行身禄は日本の宗教家で富士講の指導者。芭蕉の句碑。「蝶の舞 はかりのなかの 日影哉」。 貞享2年(1685)の作と推定されているとのこと。左に光背碑のある不動明王像右に角柱塔 文字「庚申塔」 右大山みち。右に「西大山みち、東かしをみち」「南ふち澤道」の庚申塔などもあり、滝山道と柏尾道の分岐点に建っていたと思われると。大山道標。 県道の北側の旧大山道を進んで行くと、Y字路に大山道標が建っていた。長後を通る大山街道は霊山大山への参拝道、その街道筋に建つ道標。建立年は不明だが、正面に「左大山道」、右面には「右星の谷道」と。下土棚の道路脇に小さな木製の祠の中に庚申塔が。 八臂青面金剛像庚申供養塔(はっぴしょうめんこんごうぞうこうしんくようとう) 。下土棚 1662の路傍にある市指定文化財で3猿像邪鬼が下部に。文化三寅年(1806)四月吉日と刻まれていた。総高120センチメートルの 笠塔婆型の庚申塔。 説明板には『江戸時代の万治・寛文年間(1658~1672)頃には仏教を背景に広く庶民に庚申信仰が伝わって、各地 に庚申講がつくられ、庚申の夜に当番の家などに集まって宗教的儀式などを行い、飲食歓談する庚申待や講中による庚申供養塔の造立などが盛んになった。 仏教系の庚申信仰では青面金剛(しょうめんこんごう)が本尊になることが多く、その像は一面六臂像が普通 であるが、この庚申供養塔三面八臂青面金剛像を陽刻している珍しい例である。 主像は足下に邪鬼を踏まえて塔身全面いっぱいに彫られ、基礎前面には庚申供養塔にしばしばみられる三猿像が 彫りこまれている。塔身右側面には文化三年(1806)の建立年銘があり、また、塔身左側面に「右ふじさハ 道」、基壇前面に「左りほしのや道」と刻まれているところから、この庚申供養塔が道しるべもかねていたこと がわかる。』。 善然寺を訪ねる。『浄土宗 善然寺』と刻まれた寺標柱。 『竜玉山西光院善然寺』の由緒碑。 参道の横には可愛い石仏が。『南無』と。 落ち着いた山門。 山門脇の仁王像(左) 仁王像(右) 『龍玉山』と縁取りの赤い文字で書かれた扁額が山門に。 巨大な善然寺観音像。 優しい御顔としなやかな指先。参道脇には木製灯籠が両側に並んでいた。 地蔵堂の向かって左から江戸時代に造立された年号不明の半肉彫り・安山岩の地蔵、ニ番目は女性信者で延宝九年(1681)に造立された丸彫り・安山岩の地蔵、三番目は明和八年(1771)に造立された火成岩の地蔵菩薩。一番右にある尊像は火成岩で造立され 、台座右側面に「享保五年(1720)十月十四日・当邑土棚」と刻まれていると。 浄土宗竜玉山西光院善然寺本堂。 十三重塔。石灯籠の火袋の部分には小さな鐘が納められていた。 鐘には浄土宗竜玉山西光院善然寺の縁起が刻まれていた。
2016.11.08
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ショップ?に向かう階段も豪華な造り。誰の像であったのだろうか?アフォン5世??「アフォン5世の回廊」を東側に降り、一旦外に出て「未完の礼拝堂 」に向かう。教会の主祭壇の外側に作られた未完の礼拝堂へ向かう。あの煙突のようなものは、屋根がない柱だったのであった。1437年にジョアン1世の息子ドゥアルテ1世により建築が始まったが1521年にジョアン3世がジェロニモス修道院(リスボン)の建築に力を入れたため、バターリャ修道院の建築をやめてしまい、ついに未完に終わった礼拝堂。外から見た「未完の礼拝堂 」はややうす汚く、どんな立派な建て物であっても、500年も経った未完成の建て物の様はこんなもので当然であろうか。周囲に大きな建物がないだけに、近づくとその大きさ、古さ、歴史が感じられるのであった。「未完の礼拝堂(Capelas Imperfeitas)」入口部。入口上部の練ロープの如き造形美。内部から。八角形の建て物の中庭の入り口からは、確かに天井は無いものの、予め天井が無い建物だと云われたとしても決して矛盾を感じないのではなかろうか。「未完」のまま現在も存続しているのがなんとも深みがあるのであった。歴史の風雪に耐えてきた、歴史の証人として存在しているというのが魅力的だった。柱の頂部も見事な彫刻美。この「未完の礼拝堂」には、ドゥアルテ1世と妻レオノールの二人が眠っていた。 写真のようにこの二人も手を重ねていた。ドゥアルテ1世というのは、ジョアン1世と王妃フィリッパの間に生まれた息子である。弟がエンリケ航海王子なのであると。天井からは白き雨雲が。天井がポッカリと開いたままの「未完の礼拝堂」。ジョアン1世の息子、ドゥアルテ1世と彼の子孫が埋葬されるための王室の第2の霊廟として造られる筈であったが、ドゥアルテ1世とその妻であるレオノール・デ・アラゴンの2人のみが埋葬されているのであった。石棺はこちらにも・・・・・。未完の礼拝堂の見事な彫刻。未完の礼拝堂の見事な彫刻。未完の礼拝堂の見事な彫刻。未完の礼拝堂の見事な彫刻。未完の礼拝堂の見事な彫刻。未完の礼拝堂の見事な彫刻。未完の礼拝堂の見事なそして精細な彫刻。出口。入口=出口。そして再び屋外へ。右手に教会への南側入口(ポータル)が。こちらの入口上部の彫刻。広場のたわわに実ったオレンジの木。昼食のレストランへ。まずはビールを。スーパーボック(SUPER BOCK)は、ポルトガルでシェアNo1のポルトガルビール。野菜サラダ。鶏肉?のトマト煮とライス。デザートはプディン・フラン(Pudim Fran)。そして最後にもう一度バターリャ修道院を。そして再び高速道路を北上しポルトを目指す。ポルトガルの高速道路はかなり良く整備さていると感じたのであった。そして路面の整備もしっかり行われている模様。我々のバスはメルセデス・ベンツ製。高速道路の料金所はETCで通過可能。ドェロ川(Rio Douro)に架かるFreixo Bridgeを渡る。渡って来たFreixo Bridgeの下を潜りドェロ川沿いを走る。ドン・ルイス1世橋が見えて来た。遊覧船がドェロ川を走る。そして正面にドン・ルイス1世橋の全景が姿を現す。リベイラと反対方向のAvenida de Gustavo Eiffle(エッフェル通り)から見た橋の姿。下の写真はBS放送のドン・ルイス1世橋の上空からの写真です。その先にはドェロ川に沿ってポルトの美しい景観を、高い位置から観光出来るスキー場にあるゴンドラリフトの如き乗り物が稼働していた.ガイア側にあるセラ・ド・ピラール修道院はその一部が一般に公開されており、そこから橋、ドウロ川、旧市街の全景を一望できるとのこと。エッフェル(エッフェル塔の建築家)の弟子テオフィロ・セイリングの建築デザインで建てられたルイス一世橋は、1881年11月に建設が始まり1886年10月に開通したと。見上げると、上層をトラムが走り抜けていた。上層橋は長さ385m、幅8m、地上45m。下層の長さは174mとのこと。二重橋になったのは、ポルトとガイア市との両岸の高低差のゆえだと言われていると。かつては、上下ともに人と車の通行路であったが、現在は下段を人と車が、上段はメトロが通り両脇に歩行者用の1.25mの歩道があった。橋の入口には「PONTE LUIZ 1」と書かれた銘板が。左折して橋を渡って向こう岸ガイアへ向かう。ルイス一世橋の前身は「ペンシル橋=Ponte Pensil」というつり橋であったと。 美しいトラス構造はパリのエッフェル塔と同じ構造でリベットにより組み立てられている。この三角トラス構造のリベット結合は鉄の使用量が少なくても強度を出せる割安な構造として当時使われていたと。下層の橋の途中からインファンテ橋を見る。 ・・・つづく・・・
2019.02.19
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次土山宿『猪鼻村』の旧東海道を進む。猪鼻村に入って間もなく右手に臨済宗の『醫王山 浄福寺』があった。「醫王山 淨福寺淨福寺は、天正年間(一五七三~一五九一)に、僧洞成禅照大禅師が開基し、寺号は醫王山、臨済宗東福寺派に属する。 本尊は、薬師如来座像で伝教大師の作仏といわれ、近江源氏である佐々木氏の守仏と伝わっている。 木造秘仏で右手は施無畏、左手に薬の壺を持ち、脇侍には左に日光菩薩、右に月光菩薩。 更に眷属十二神将が十二時かわるがわる本尊の守護に努めている。 薬師如来は、十二の大誓願を発して、除病延寿、衣食満足、無病息災の東方浄瑠璃浄土の主尊である。 (醫王山とは、法を説いて人の悩みを癒やす仏で菩薩を医師に例えた語です。) 淨福寺の御詠歌 まいりきてめぐみをうけよ浄福の 薬師の利やくあらたなりけり」『浄福寺 本堂』。浄福寺は、天正年間(1573-91)僧洞成禅照大禅師による開基で、本尊は薬師如来坐像で伝教大師作と伝わる。『鐘楼』。『東海道 猪鼻村』「猪鼻村は、鈴鹿山脈の西方に位置し、中世は鈴鹿山警固役であった山中氏の支配を受け、近世は幕府領や諸藩領となり幕末にいたる。村中を東海道が東西に5町36間余(約610m)、商いを営む者も多く、往時50戸を超え街道を賑わしていた。土山宿から坂下宿間の立場 (休憩所) があり、草餅や強飯が名物であった。 村高は、53石余 「天正19年(1591)徳川家康知行目録写」、おもな産業は農業で、製茶や林業も行われた。赤穂浪士の一人で俳人の大高源吾 (俳号は子葉) が旅の途中に詠んだ 「いの花や早稲のもまるゝ山越ろし」 の句碑がある。 井上士朗の 『幣袋』 に安永3年(1774)鈴鹿峠に向う途中で 「猪鼻峠といふ名のをかしければ、ゐのししの鼻吹き返せ青あらし・・・・」 とある。寺院は、臨済宗東福寺派の淨福寺、集落の東端には火頭古神社があり、本殿は十七世紀後半の造営とされ、国登録有形文化財となっている。明治22年猪鼻村は町村制により甲賀郡山内村大字猪鼻、昭和30年合併により甲賀郡土山町大字猪鼻、平成16年10月1日合併により甲賀市土山町猪鼻となる。」山門脇には、赤穂浪士の一人で俳人であった『大高源吾(俳号子葉)の句碑』があった。「いの花や 早稲のもまるゝ 山越ろし 子葉」大高源吾は俳号を子葉と名乗っていたとのこと。『ちょうちん屋』。『ちょうちん屋』木札。緩やかに左にカーブする右手の民家の庭に石碑が。『旅籠 中屋跡』碑とその後ろには『明治天皇聖蹟碑』。明治天皇が御小休でここに立ち寄られたのだと。明治天皇の行幸を刻んだ『副碑』。「猪鼻立場猪鼻集落は東海道土山宿から東へ3kmの位置にあり、江戸時代には立場(たてば)として賑わった。立場とは宿場と宿場の間で休憩するところで、旅人が自分の杖を立てて一息入れたところから名付けられた。現在は緩やかな坂になっているが、往時は土山宿との間に険しい猪ノ鼻峠があって旅人を難渋させたのでこの辺りで休憩を必要としたのであろう。江戸時代には50戸余りの人家があり、旅籠や商家、茶店などが6軒ほどあったといわれる。ここでは草鞋や日用品をはじめ、岩くぐという草で作った蓑(雨具)、よもぎ餅、柿ちまき、強飯、飴、経木で作った水呑みなどが売られていたことが江戸時代の紀行文に記されている。明治元年(1868年)の明治天皇御東幸の折り、旧暦9月23日に旅籠中屋を御休憩や昼食に利用されたことがあり、その後も三度にわたり明治天皇や皇室の方々がここに立ち寄られている。また忠臣蔵で名高い赤穂浪士の一人、大高源吾は子葉という俳号で「いの花や 早稲のもまるゝ 山おろし」という句を残している。」『近江屋』。木札『東海道 猪鼻村 近江屋』。S字のカーブの坂を上っていくと国道1号線に再び合流した。合流地点手前左にあったのが『東海道 猪鼻村』碑。猪鼻集落は鈴鹿峠方面から降りてくるイノシシ除けの垣根があったことに地名の由来があるらしいが、かつては東海道の立場で草餅や強飯(もち米を蒸した飯)が名物だったのは先程の猪鼻立場の説明通り。合流地点の道路の反対側の小高い場所には神社があった。旧東海道はその神社前の写真右手にかけて下り坂の道筋だったと思われるが、国道1号の開削によってその道筋は失われているのであった。猪鼻集落の京方入口に鎮座する『金比羅神社』。ここは甲賀市土山町南土山。『蟹塚』👈リンク の案内板が道路の反対側に。案内板に従い山道を下って蟹塚を目指す。小さな沢が前方に。流れのある沢をなんとか渡ると、前方に『蟹塚』があった。「蟹塚蟹塚には、名前にちなんた話か伝えられている。昔。鈴鹿の山に大蟹が住み着き旅人や村人を苦しめていたところ、観音様の命をうけた都の高僧が鈴鹿に訪れ大蟹にお経を唱えると、大蟹の甲羅が八つに裂けたという。塚はその大蟹の甲羅を葬ったものてあるといわれている。またこの話には、蟹が盗賊であったり、高僧が式士である場合もあり、街道の名物てあった「かにが坂飴」もこの「カニ」伝承を由来として伝えられてきた。」蟹を埋めたとされる蟹塚の五輪塔。こちらが現在売られている『かにが坂飴』。 【https://tabelog.com/shiga/A2502/A250202/25003715/】より国道1号線に戻って更に進むと、右手にかつて猪鼻村から繋がっていた旧道が。『ようこそ「歴史の道 東海道」へ』案内板。「ここは土山町蟹ヶ坂です。これより、往時も東海道を歩かれる方は、左図に示すとおり「海道橋」を渡り、道の駅「あいの土山」方面へ向かって下さい。尚、「東海道土山宿」へはここから800mです。土山を訪れていただいた皆様の道中のご無事をお祈りします。」旧道口の右手に『榎島神社』があった。『榎島神社』は白川神社の末社で、境内には『白川神社御旅所碑』が建っており、段上には坂上田村麻呂を祀る『田村社』と『蟹社』があった。鳥居の傍には推定樹齢400年の御神木のシイが立っていた。『白川神社御旅所』こちらが『田村社』。こちらが『蟹社』。推定樹齢400年の御神木のシイ。『ここは南土山 蟹坂』。『道祖神』右手に双体道祖神が並んでおり、赤い前掛けには、「家内安全」 「交通安全」 と書かれていた。ここから田村神社手前までが旧蟹ヶ坂村である。更に旧東海道を進む。ここが『旧蟹ヶ坂村』。「蟹ヶ坂」という地名の由来は、北側に田村川、南側に唐戸川が流れるこの地には大蟹が住みつき、道行く旅人や村人に危害を加え怖れられていたと。そしてここを通りかかった比叡山の高僧が、大蟹に対して往生要集(平安時代中期、恵心院の僧都源信が撰述した仏教書)を説いたところ、大蟹は甲羅が八つに割れて往生したと。村人はその高僧の教えに従い蟹塚を築き、割れた甲羅を模した飴を作って厄除けにしたと。土山名物の一つ、蟹が坂飴の発祥とされる伝説がこれ。先に進んでジーテクト滋賀工場の敷地内を通り、ジーテクト滋賀工場への高架を潜ると、右手に蟹坂古戦場跡がある。ここには『蟹坂古戦場跡碑』・『蟹坂地区圃場整備竣功記念碑』が建っていた。『蟹坂地区圃場整備竣功記念碑』。『蟹坂古戦場跡』。『蟹坂古戦場跡』碑。「蟹坂古戦場跡天文十一年(一五四二年)九月、伊勢の国司北畠具教は、甲賀に侵入しようとして、彼の武将神戸丹後守および飯高三河守に命じ、鈴鹿の間道を越えて山中城を攻めさせた。 当時の山中城主は、山中丹後守秀国であり、秀国は直ちに防戦体制を整え、北畠軍を敗走させた。 こうして北畠軍はひとまず後退したが、直ちに軍勢を盛りかえし、さらに北伊勢の軍勢を加えて再度侵入し、一挙に山中城を攻略しようとした。 このため秀国は、守護六角定頼の許へ援軍を乞い、六角氏は早速高島越中守高賢に命じて、軍勢五千を率いさせ、山中城に援軍を送った。 一方北畠軍も兵一万二千を率い、蟹坂周辺で秀国勢と合戦した。 この戦いは、秀国勢が勝利を収め、北畠軍の甲賀への侵入を阻止することができた。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.04.03
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昨夜2020年5月7日は「フラワームーン」の日。5月の満月は、伝統的に「フラワームーン」と呼ばれていると。 この名前は、暖かい春の天気と、今月は豊富な花に関連付けられている。 この5月の満月の他の名前には、トウモロコシの植栽月、牛乳の月、母の月などがあるのだと。最初は雲に隠れていましたが、20時過ぎにようやく満月が姿を表しました。時間は20:19。農家の温室の屋根に月光が輝いて。「フラワームーン」👈リンク。「餅をつくうさぎ」の姿がくっきりと。カメラの設定を変えて。日本では「餅をつくうさぎ」と呼ばれていますが、「世界で見え方が違う月の模様」⇔リンク。月面の南部に位置するクレーター・ティコ (Tycho) 。直径は85kmもあるのだと。ズームで。クレーターのまわりに放射状に広がる、白い模様が見られる。これは「光条」(英語ではレイ: ray)と呼ばれています。約1億年前の衝突によってできた新しいクレータであるとのこと。-----------------------------------------------------------------------------------------------『旧東海道を歩く』ブログ 目次東海道石部宿 西縄手跡を後にし、更に旧東海道を進む。右手には見事に手入れされたカイズカイブキ(貝塚伊吹)の生け垣。カイズカイブキは、古木になったり強剪定をすることで、「先祖返り」した杉葉が出やすくなってしまうのだ。我が家も最初はこのカイズカイブキ(貝塚伊吹)の生け垣であったが、手入れが大変でコンクリート+アルミフェンスに替えたのであった。『村井川』に架かる『第3号町道橋』を渡り大きな道と合流し左に進む。前方に国道1号線の高架が姿を現した。前方左手の橋の手前に案内板が。「五軒茶屋道(ごけんちゃやみち)と古道(ふるみち)天和二年(一六八二)八月出岩地先で大洪水により東海道が流出して河原となる。 天和三年四月十八日、約半年後に新道を膳所藩本多氏が南側に着工するが、崩壊した前東海道より約二倍の二キロメートルの距離となった。 新道が山の中を通過するために安全を願って元禄二年(一六八五)五軒の茶屋が石部宿より移転することとなりました。 明治四年(一八七一)には新道の距離が長いために旧道が整備されて今までの東海道が復元された。」「広重二代立祥画 東海道五十三駅 石部 春の景」。山の姿は『三上山』。 【https://ukiyoe.yamabosi.jp/?cat=4&paged=3】よりここで2つの東海道に分かれるのであった。左折し『宮川』に架かる『五軒茶屋橋』を渡って進むと、これが旧東海道の『上道』。左折せず、直進するのが『下道』。『宮川』はこの先で『野洲川』に合流するのであった。直進して『下道』を進むと、『東海道 石部宿』と書かれた木札が右手に。真っ直ぐ進むと国道1号線の高架とその手前に『宮川』に架かる『宮川橋』が。国道1号線の高架を潜り進むと、道路脇に小さな朱の鳥居が取り付けてあった。この先の線路脇にも。街道の左右所々にあったが、その目的は?駅伝等の距離の目安か?いや、ここは、かつて伊勢参宮道が通っていたため、その案内なのであろう。右手に『三上山(みかみやま)』が再び見えた。『三上山』は滋賀県野洲市三上にある山。一般には『近江富士』として知られる。標高432m。石部北3丁目の旧東海道を進む。JR東海道線に沿って進み、名神高速道路下のカルバートを潜る手前で『栗東市』に入った。『栗東市』の汚水マンホール蓋。「古くから交通の要衝として発展を遂げてきた栗東市の市章はインターチェンジを図案化したものです。 この図案が外周に描かれたデザインが公募により選定されました。 内側には、まちのシンボルであるメジロ・貝塚伊吹・キンセンカが配置されています。 メジロは愛らしい姿と美声で親しまれる小鳥で、貝塚伊吹は各家庭で広く愛用される庭木です。 薬用植物でもあるキンセンカはその昔、自然の草花から道中薬をつくっていた旧和中散本舗「ぜさいや」の史跡がある本市の象徴としてふさわしい花です。」と。左手奥にあったのが『徳正寺』。室町時代には創建されていたと言われる『浄土真宗 本願寺派 辨天山 徳生寺』。広い屋敷に立派な旧家が右手に。ここは、かつて伊勢参宮道が通っていたため、伊勢大路が訛って『伊勢落』になったという。栗東市伊勢落地区の旧東海道を進む。この大きな荷車の使用目的は?昔、この荷車で、穀物、材木や石など重いものを運んでいたのであろう。そして牛や馬?に引かせていたのであろう。T字路の角にあった案内施設。栗東市『ここは伊勢落』。「伊勢落地区は、古代には東海道を下り伊勢へと向かう斎宮の禊場があったと伝わる。また、中世には後の真教寺や徳生寺につながる真宗の道場が開かれた。江戸時代には東海道石部宿に隣接する立地から、薬や酒などを扱う店が出来た。」と。『伊勢落』地区の旧東海道を更に進む。旧家が所々に残っている旧東海道。そして各民家の庭には立派な常夜燈が置かれていた。先に進むと街道左手奥に『浄土真宗本 願寺派 日向山 真教寺』があった。『当山16世真實院釋浄覺師記念燈』『真教寺 山門』。『鐘楼』。境内にあった『當山中興釋浄円師紀念燈』。『真教寺 本堂』。『勧学浄楠院釋尚邦和上顕彰碑』。旧東海道に戻ると左手の民家の前に地蔵堂』と栗太八景を詠んだ『素月漢詩碑』があった。素月は、今の栗東市大橋の慶宗寺の僧致遠であり、江戸時代中期の寛延3年(1750)に栗太地域の八景観を漢詩に詠んだ。栗太郡の名称は、栗太郡栗東町の市制により、平成13年に消滅したが、「栗太」 の地名を残すため『栗太八景』👈リンク漢詩碑を建立したものである。『素月漢詩碑』栗太八景 伊勢落晴嵐梅痩せ柳疎にて柴扉鎖す 簷外は半ば晴れ野草肥ゆ山色の末分の雲気は晴れ 一声鳥啼き霧破りて飛ぶ 寛延三年十二月 素月作 恵津子書漢詩の意味は「伊勢落で霧が晴れた梅は細く、柳は手入れをして透いているほうが趣きがあるらしいが、柴の扉を閉めている。のきの外は少しずつ晴れてきて、野草が生い茂っているのが見える。山を見ると、頂上の雲は晴れている。鳥が一声鳴いたかなと思うと、霧の中から飛び立っていった。霧が晴れると野草が生い茂っているのが見えたり、山の頂上は雲がないのがわかるように、隠しごとをしても後々ばれることを表見していると思った。鳥が一声鳴いて、霧の中から飛び立っていったように、後々逃げたくなるから、隠しごとをしない方がいいと思った。」とネット情報から。その左に『地蔵堂』。なぜかここに『東海道 中山道』と刻まれた石碑が。この先、草津宿から、中山道と東海道が二つに分岐することをここで知らせているのであろうか?再び『三上山』がはっきりと。旧東海道を更に進むと、右手筋角に『新善光寺道』と刻まれた道標が建っていた。新善光寺は、JR草津線を越えて4~500m程北に有る寺院で、鎌倉時代の中期、平重盛の末裔である小松宗定が、平氏追善のために信濃の善光寺に参詣すること48回におよび、ついに霊夢を感じて分身の阿弥陀如来像を請来したのが始まりと言われているのだと。更に道幅が狭い旧東海道を進む。このあたりは旧「林村」。屋号が掲げられた古い町並みが続いていた。右手前方に鐘楼が見えた。『浄土真宗本願寺派 楞巌山 長徳寺』が右手に。山門手前に『薬師如来堂』が。『薬師如来堂』寺標。『薬師如来堂』。御堂に掛かる『薬師如来』の扁額。ここにも『素月漢詩碑』があった。栗太八景 上野夜雨(かみののやう)茅屋寂寥上野郷 村前村後雨声長隠晴難定雲来去 疑是今宵尋月光慶崇蘭若桑門素月誌寛延三年(一七五○)十二月五日茅屋は寂寥なり上野の郷 村前と村後には雨声長し隠晴定難し雲来たりて去る 是疑い今宵月光を尋ねん漢詩の意味は上野の雨が降る夜茅葺の家がポツンとあって、ものさびしい。ここは上野の郷という。次の雨がやって来て、さっきの雨が通りすぎていくことが、雨音の長さからわかる。月に雲が隠れたくらいじゃ、明日雨が降るのか、晴れるのかを見定めることは非常に難しい。なぜなら、その雲が去ったとしても、また別の雲が来るからだ。それは心配にもつながる。今夜は、雲が月を隠すことなく、月の光を見ることができるだろうか。『従是東膳所領』と刻まれた領界石。『長徳寺 山門』。『山門』から『本堂』と『親鸞聖人像』が見えた。『長徳寺 本堂』。本堂に掛かる『楞巌山(りょうげんざん)』の扁額。『鐘楼』。『長徳寺会館』。『親鸞聖人像』。『地蔵尊』。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.05.08
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先日、山形県新庄市のお客様の事務所を訪ねた折り、事務所の前にある 新庄最上総鎮守 戸澤神社を訪ねました。新庄城址にある戸澤神社の周りには「天満神社」や「護国神社」も祀られ、「最上公園」として多くの人に親しまれている場所。戸澤神社 入り口。新庄城は、新庄藩祖戸沢政盛が築いたもので、寛永2年(1625)の完成と伝えられる。本丸は東西52間、南北127間、正面奥に天守櫓がそびえ、周囲は堀と土居で囲まれ、三隅に櫓を有する平城であったとのこと。寛永10年(1636)の火災以来天守櫓は再建されなかったと。御玄関跡と書かれた碑が大きな石灯籠の横に。戸澤神社境内にある本丸御玄関跡。新庄藩庁の正面玄関。この奥に廊下をへだてて、40畳敷の大書院、32畳敷の御広間などがあったと。 心字池。 戸澤神社 本殿。1894(明治27)年の創建で、戸沢家始祖戸澤衡盛、藩祖の戸澤政盛、11代藩主戸澤正實が祀られている。 また、戊辰戦争に官軍の旗印として与えられた菊花御紋の旗が宝物として保存されているが、この旗は靖国神社とこの神社にしかないと言われていると。 戸澤神社に隣接する護国神社。戊辰戦争の戦死者を弔うために戸沢家の菩提寺である瑞雲院境内(山形県新庄市十日町太田)に1871(明治4)年に設けられた招魂場が前身で、1915(大正4)年に現在の場所に移転。1939(昭和14)年に「新荘護国神社」に改称。 護国神社の由緒が書かれていた。手水場。 新荘護国神社 本殿。 新庄城本丸跡の南西隅に位置する天満神社の鳥居。 歌碑。 こちらは天満神社の白の鳥居。 まだ新しい建物の手水場。 天満神社は戸沢氏の氏神として古くから崇敬されてきた。新庄城築城の3年後の1628(寛永5)年、藩祖政盛によって建立。現在の社は1668(寛文8)年に2代藩主戸沢正誠が再建したもの。戊辰戦争の際に、落城した新庄城で唯一被害を受けずに残された建物。 本殿・拝殿は山形県指定有形文化財であるとのこと。 本殿は1間の社流造で、拝殿は3間の入母屋造でいずれも茅葺。「天神様の撫で牛」。ご神体である菅原道真が丑年生まれから来ている。頭を撫でると頭がよくなり、自分の体の悪いところを撫でるとその個所が治ると言われていると。牛の体全体を丁寧に撫でてきました。戸澤神社社務所の戻る。 各種おみくじやお守りが販売されていました。 御朱印をいただきました。 そして社務所の前には、紐に捕まった園児たちがお散歩中。
2015.12.01
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更に亀戸天神の境内散策を楽しむ。境内左側の散策道を歩く。「紅梅殿」。「紅梅殿御本社と時を同じくして寛文二年(1662)に太宰府天満宮の御神木「飛梅」の実生を勧請し、社殿前に奉斎したのを起源とし、昭和63年に現在地に再建される。」藤棚越しに「太鼓橋(女橋)」を見る。藤が咲くと・・・。境内にある江戸懐石『若福』店の壁には「水車」が。藤棚越しに「太鼓橋(男橋)」を見る。「わかふくの甘味豆富好きでありんす」我も【食べたかったでありんす!!】「梅とろろ粘り貰って合格祈願」。そしてUターン。左手には梅の木々が並んでいた。同じく「清水君碑」、これも再建か、明治三十ニ年の文字が。「国産マッチの創始者 清水誠の頌碑人類は、原始以来火を自由に使うことによって 今日の文明を築いてきた。日本の近代文明もまた西欧からマッチの製法を輸入し、これを改良工夫した先人の努力によって飛躍的に発展したのである。その創始の時が今から丁度百年前でありその創始者が清水誠氏である。清水氏は弘化二年(1845)金沢で生まれ、明治3年幕命を受けてフランスに留学しパリ工芸大学に学んだ。専攻は造船学だったが、明治7年たまたま在仏中の宮内次官吉井友美氏の勧めによって、マッチの製造を決意して帰朝した。翌8年4月には本務の造船技師のかたわら東京三田の仮工場で早くもマッチの製造に着手した。明治9年9月本所柳原町に工場を新設して新燧社を興し、同12月には官職をやめてその経営に没頭した。翌10年9月には初めて国産マッチを上海に輸出し、好評を博した。明治11年7月再びフランスに渡り、ドイツ、スウェーデンのマッチ事業を視察して帰り、以来ますますの改良に苦心し増産につとめた。その後打ち続く不況に見舞われ 逐に21年には業界から引退して郷里金沢に帰った。しかしその後もなおマッチ製造機の改良に情熱を燃やし、29年新鋭機の特許をとり翌20年大阪に出てその製造に従事した。明治32年2月8日病をえて没した。時に年54才である。大正4年政府はその功績を賞して従五位を遺贈した。なお没後間もなく当亀戸天神社の境内に追慕顕彰の碑が建てられたが今次の戦災によって破損したままになっていた。今年あたかも国産マッチ創始百年に当たり、業界の有志によって新しく再建されることになった。ここにその由来を誌し先人の功をたたえ、一文を草して頌辞とする。」「中江兆民翁之碑」。中江は弘化四年(1847)土佐藩士の子として生まれ、明治初年佐賀1丁目5番の辺りに、わが国最初のフランス語塾を開いた。明治4年フランスに留学。同7年帰国後フランス語塾を再開した。フランス文学、特にルソーの研究家、また自由民権運動の指導者、理論家としても広く知られている。同14年東陽自由新聞を創刊、政府を攻撃し、同23年第1回普通選挙に当選。同31国民党を組織し、政界で大いに活躍したが、同34年56歳で死亡した。中江兆民と亀戸天神との繋がりはどのような??「亀戸天神社 神庫」「亀戸天神社 神庫(左)」「亀戸天神社 神庫(右)」。そして「拝殿」前まで戻り最後に東側の散策道を歩く。両側には梅の木が並んでいた。「歌川豊国の碑」。「歌川豊国の碑幹はみな老を忘れて梅の花 楳堂「二世、三世ノ肖像ヲ田鶴年鐫ガ鐫刻ス 合企 豊原國周 豊原國貞」明治26年11月 三世香蝶楼国貞の発起により市川団十郎、尾上菊五郎等や錦絵問屋、浮世絵師の補助によって建立されました。」太鼓橋(女坂)を見る。右手にあっのが「花園社」。「内陣」。社額「花園社」。「花園社ご祭神は菅原道真公の御奥方で、菅公の父君是善公の門人であり、菅公ご幼少の時の師である儒者の島田忠臣の御女にあらせられ、御名も宜来子(のぶきこ)と申し、相殿に御子達十四方をお祀りしています。寛文年中(1661~1672)亀戸天神社の創建と時を同じくして筑紫(福岡県)の地より勧請し、以来花園神社、花園大明神とも号されて、安産・子宝・育児の神・立身出世の守護神として信仰されています。安産御守護・岩田帯・安産祈願絵馬は、ご本社でお頒ちしております。」「神苑の梅東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ道真公が京の都を離れる時に詠んだ歌として有名です。そして、その梅が京から一晩のうちに道真公が住む屋敷まで飛んできたと言う「飛梅伝説」も有名な話ですが、この飛梅が太宰府天満宮の御神木となっており、道真公を祀る神社に株分けされたと云われていますので、道真公を祀る神社が梅に包まれる由縁とも言えます。」「聖廟九百年御忌句碑(芭蕉の句碑)」 戦後行方不明になっていたのだが、昭和53年2月25日境内藤棚の土中から33年ぶりに発見された。この句碑は、享和二年(1802)2月25日亀戸天神の祭神菅原道真公九百年祭の御忌に、当時亀戸天神付近に多く住んでいた芭蕉門下、雪中庵関係者が芭蕉百年忌を合わせて記念して奉納したもの。小松石製で高さは122cm。表に芭蕉の句を完来の筆跡、裏を白酔の筆跡で次の句が刻まれている。「聖廟九百年御忌句碑しはらくは花の上なる月夜哉 芭蕉翁芭蕉が、貞享四年(1687)十年吉野紀行の旅に出て、翌年春、吉野の満開の桜とその上に浮かぶ月を吟じた句。碑の表には、雪中庵一世嵐雪、二世吏登、三世蓼太の句も刻まれている。 錦帳の鶏世を学の戸やほととぎす 服部嵐雪 明月やそぞろに走る秋の雲 桜井吏登 かり初に降り出す雪の夕かな 大島蓼太碑の裏には雪中庵四世完来の句とその一門の普成・午心の句が刻まれている。 松の月日の松影よもすがら 四世雪中庵完来 しら雪やをのずからなるひと夜松 夜雪庵普成 白妙や花のあらしも松風も 葎雪午心菅原道真公の御神忌九百年にあたる享和二年(1802)二月二十五日 芭蕉門下の人々が芭蕉百年忌にあわせて建立する。梅林が続いていた。【梅が咲くと・・・】。手入れが終わった藤棚であろうか。【藤が咲くと・・・】。再び太鼓橋(男橋)を。【藤が咲くと・・・】。そして太鼓橋(男橋)の袂から東京スカイツリーを見上げながら、次回は「藤まつり」の時期にと思いながら、「亀戸天神社」を後にしたのであった。そして「亀戸天神社」を後にし、蔵前橋通りに出てここを右折して進むと右手にあったのが「船橋屋」。「船橋屋」のくず餅は江戸から伝わる元祖発酵和菓子です。元祖くず餅・「船橋屋」は江戸文化二年(1805年)に亀戸天神参道に創業した発酵和菓子「くず餅・あんみつ」の老舗。そして前方に「横十間川」に架かる「天神橋」が。ここ「天神橋」の手前を右に折れ、「横十間川」沿いを進む。右手にあったのが「長寿寺」。江東区亀戸3-10-2、瑞亀山長寿寺。「大堀富子女史哀悼碑」、この人物は?、この寺との関係は?「寺務所」か。「本堂」。臨済宗永源寺派の長寿寺は、瑞亀山と号す。長寿寺は、川叟宗勤大和尚が文明元年(1496)円命寺と号して柳島に創建、天文19年(1550)南本所大川端へ移転、市橋下総守の先祖伊豆守(天正13年1585年寂、法名延命寺殿節翁宗竹大居士)が開基となったといいます。延宝9年(1681)本所石原町に移転、元禄4年(1691)柳島へ再転、元文6年(1741)円命寺は井伊直該の法号にちなみ瑞亀山長寿寺に改めたと。荒川辺八十八ヶ所霊場78番札所。そして「横十間川」沿いに歩くと、前方に「東京スカイツリー」の勇姿が再び。左手に行くと「春日通り」。橋の名は「栗原橋(くりはらはし)」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.10.20
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ここ「JA横浜」の場所に「持田製糸場」👈リンク の工場があったとネットから。「持田製糸場」(中和田村)は、市内最古で規模も大きい製糸工場だったと。持田家は、幕末にはすでに副業として養蚕を営んでいた。明治になってから角左衛門は、酒造業を営むかたわら高座郡六合村(藤沢市)に一町歩(1ha)ほどの土地を取得して桑園に開墾。明治16年(1883)頃から座繰器(ざくりき)二台を購入し、女工員二人で製糸を始め、湘南社を通して出荷を始めた。明治22年、横浜の生糸売込商若尾幾造と提携して器械製糸を始めた。これが持田製糸場の始まりとなる。明治25年、角左衛門は自社敷地内に 「販売組合盛進社」 を設立。持田萬治は、明治27年(1894)5月、鎌倉郡中和田村上飯田3721番地(泉区上飯田町)に製糸場を設立した。泉区内には、所在が確認されているものだけでも8か所の製糸場があり、横浜市域では、瀬谷区とともに製糸業の盛んな所であった。生糸の技術の向上、製品の均一化をはかり、共同出荷を行った。持田初治郎は、創業者・角左衛門の子。そして次にこの場所に「上飯田天神山古墳」👈リンク があったと。かつて横浜市泉区上飯田町字天神山に存在した古墳時代中期末(5世紀末〜6世紀初頭頃)の古墳。径約30メートルの円墳で、泉区内唯一の高塚古墳だったと。発掘された当時の古墳の写真を「ネット」👈リンク から。 そして「鶴島弁財天」。この辺りの字を「鶴島」と呼んだが、上飯田地域ケアプラザの傍らの墓地に、小さな堂があり、周りに十数基の立派な石塔が立っていた。これは近くに数軒ある旧家、小曲(こまがり)家の墓地であるが、ここにはむかし「鶴島山(つるしまさん)小曲寺」という土地の旧家、小曲家の菩提寺があったが。幕末に廃寺になったのだと。「鶴島弁財天」碑。小曲有志一同と。上飯田団地の中を進む。右手にあったのが「神明神社」。横浜市泉区上飯田町1862。狛犬(阿形像)。狛犬(吽形像)。「鳥居」と「拝殿」。「拝殿」の奥に「本殿」。祭神は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)。勧請年代は不明ですが、須賀神社と同様、建暦2年(1212)、泉小次郎親衡ちかひらが館を築いた折、その鬼門除け守護神として当社を勧請したと伝えられています。昭和10年(1935)11月、氏子の寄付により社殿が修復されています。神明社の隣には、農家の経済を支えた養蚕にちなんだ蚕霊(さんれい) 供養塔が(横浜市登録文化財)あったとのことであったが見つからなかった。「神明神社」を後にすると、前方に大きな生け垣が現れた。「イヌツゲ」の生け垣であると。横浜市の「名木古木指定」であると。そして更に進むと民家の跡地?に小さな社が2基。中を覗いたがお姿はなし。何処かに移転したのか?そして次に訪ねたのが「飯田神社」。解りにくかったが社号標は「村社 飯田神社」。社号標の手前にあった石祠。鳥居の前の地蔵像。祠に入った「地蔵尊」。台座の横には石の猿の姿が。七観音。右の2体は首のところで補修されていたが。 9基の「庚申塔塚」。左から庚申塔。右側面には(明治9年丙子(1876年)歳・・・三月吉祥・・・)銘。一番右には「北八王子道」その他「相州?鎌倉郡上飯田村」の文字も。左側面には、「東かまくら」、「西あツ木道」、「南ふじさは」と彫られているのだと。右隣の石碑。その隣。庚申供養塔であろう。金剛神供養霊塔(享保9年(1724年)銘)。右側面には「金剛神供養霊塔」と刻まれていた。その右の石塔・庚申塔。その右の石塔・庚申塔。割れの入ってしまった石塔。道祖神であろうか。「‥王大‥」(宝暦9年(1759年)銘)。供養塔か?(明和3年(1766年)銘)。そして「飯田神社」の「石鳥居」。「飯田神社境川や和泉川沿いに見られる「サバ神社」の一社で、祭神は源義朝を主神に宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)・大山昨神(おおやまくいのかみ)です。伝承によると、飯田五郎家義がお祀りしたといわれています。縄文時代、境川沿いは入り海で、神社の境内の土手から縄文後期の人々が使った注ロ(ちゅうこう)土器が出土しました。境内の神楽殿は、明治20年頃、飯田学校校舎として使われていました。鳥居前には地蔵像・七観音像・庚申塔・道祖神が立っています。」狛犬(阿形像)は毬を踏みつけて。狛犬の足元にある毬は、財産、あるいは吉祥の象徴。狛犬(吽形像)は子宝の象徴・子供を踏みつけて。「鐘楼」。「梵鐘」。昭和46年(1971年)銘の梵鐘。「手水舎」。「飯田神社 由緒」碑。「勧請年代は定かでないが、往古から当地に鎮座していり古寺であると伝えられている。社伝に、延應元年(一二三九)飯田三郎能信、当郷の地頭ニ復スルヤ厚キ奉幣ノ儀アリ。猶知行平山源太郎ノ崇敬特ニ深アリシ社ナリ」と伝え、寛政十二年ニ月、式部権大輔菅原長量が「飯田大明神」の神号額を奉納、また文化十三年ニ月に神祇管領卜部(うらベ)良長が京都から参向して奉幣、祝詞を奉上しているから有数の古社であった事が知られる。新編相模風土記稿に「飯田明神社、鯖明神とも唱ふ、村の鎮守なり、稲荷、山王を合祀す、村持。」とある如く記され、境川添いに祀られている往古から相模七鯖の一社で境の神として幾多の伝承も残されている。昭和三十年に現社殿を、また五十五年には参道並びに境内地の玉垣設置等氏子の赤誠の浄財により、各々完成、社頭の面目を一新した。」「飯田神社」👈リンク の「「社殿」。頭貫上の見事な彫刻。木鼻(右)。木鼻(左)。明治20年頃、「飯田学校校舎」👈リンクとして使われていたという「神楽殿」。「社務所」。「お囃子後継者募集中!」と。何処も同じ。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.03.10
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『鎌倉散策 目次』👈リンク更に「青蓮寺」の散策を続ける。境内の「ししおどし(鹿威し)」。今年の若竹が使われて。ししおどし(鹿威し)とは田畑を荒らす鳥獣を音で威嚇し追い払う為に設けられる装置類の総称。中央付近に支点を設けて支え、上向きに一端を開放した竹筒に水を引き入れる。竹筒に水が満杯になるとその重みで竹筒が頭を下げ水がこぼれて空になり軽くなる。その軽くなった竹筒が元に戻る際に支持台(石など)を勢いよく叩き音響を生ずるのだ。十三重塔この塔は?これも横に線が十三本あるので十三重塔か。「動物供養墓」「動物供養墓近年、犬や猫等をペットとして飼うだけでなく、家族の一員として生活を共にする方が増えてまいりました。そして、動物たちは多くの場合、人より先にその寿命を終えます。その最後を手厚く供養し葬ってあげたいと考える方々から、ご相談をいただくようになりました。そこで当山は、皆様のそのお気持ちを大切に考え、動物供養塔を建立することにいたしました。当山では、動物が亡くなり火葬された御骨を合祀し永代にわたり供養することが出来ます。動物は、時に私たちの心を癒し、時に生きがいを与えてくれる存在です。そんな動物たちの最後が、皆様に温かく見守られ供養される事を、当山は心より願っております。供養を希望される方、またはご質問等ある方は、寺務所までお気軽にお越し下さい。・・・・・中略・・・・・十二神将のご真言 :オン クビラ ソワカ伐折羅大将のご真言:オン バザラ ソワカ 平成21年9月吉日 開眼 飯盛山 仁王寺 青蓮寺 手広山 寶積院 薬王寺」「本堂」を左斜めから見る。「大黒様」。「不動明王」と二体の「童子」中央に「不動明王」。背景の赤いモミジが不動明王の後背の火焔の如し。不動明王の後背の火焔は迦樓羅炎(かるらえん)と呼ばれるもので、不動明王が火焔の中に身を置き、自らを火焔そのものにすることによってあらゆる煩悩を焼き尽くすという凄まじい姿勢を示しているのだ。これを学んだのは、「旧東海道を歩く」で我が地元の「藤沢宿」を歩いた折に、大山道(田村通り大山道)が東海道と分岐する辻堂(藤沢市城南1丁目)の四ツ谷辻に大山道道しるべがありその道しるべの上の、下記写真の「不動明王」を見た後のブログ記載時であったのだ。「矜羯羅(こんがら)童子」「不動三尊において、制多迦童子 (Ceṭaka) と共に不動明王の脇侍を務める。通常は不動明王の左(向かって右)に位置する。「矜羯羅」とは、サンスクリットで疑問詞の矜 (kiṃ) と、「作為」の意味である羯羅 (kara) を合わせたもので、直訳すれば「何をするべきかを問い、その命令の通りに動く」という意味であり、奴僕や従者を指す普通名詞であるが、矜羯羅童子の場合は不動明王の奴僕三昧を表すとともに、仏法に対して恭敬であるさまを意味している。十五歳ほどの童子の姿をしており、蓮華冠をつけ、肌は白肉色である。合掌した親指と人差し指の間に独鈷杵をはさんで持つ。天衣と袈裟を身に着けている。」とウィキペディアより。「制多迦(せいたか)童子」。「不動三尊において、矜羯羅童子(こんがら Kiṃkara)と共に不動明王の脇侍を務める。通常は不動明王の右(向かって左)に位置する。「制多迦」とは、サンスクリットで奴僕や従者を意味する。十五歳ほどの童子の姿をしており、五智如来における「五智」示す五髻を結び、肌は紅蓮色である。左手には金剛杵、右手には金剛棒を持つ。瞋心悪性であり、袈裟は着けず、天衣のみを頸と肩に無造作に巻きつけている。」とこれもウィキペディアより。「奉寄進 不動明王 矜羯羅、制多迦 両童子」庭園の池に架かる石橋。「聖徳太子像」お顔をズームで。「南無聖徳皇太子」碑。「六地蔵」像の前の石碑には「奉寄進六地蔵 為雨親十三回忌追善菩提 平成ニ年七月吉日 藤沢市本鵠沼 林一郎 青蓮寺現住 権中僧正金弘代」墓地の最奥を見る。「本堂」を斜めから。月の模様のある石灯籠。「椿地蔵」。かつては、鎌倉街道(県道32号線)の手広の交差点付近にあった地蔵尊。大豆の数珠を供えてお参りすると「いぼ」が取れるという言い伝えから「いぼ地蔵」・「いぼとり地蔵」とも呼ばれていたのだという。地蔵の前には、いぼをイメージした丸い石?が祀られていた。庭園の池に架かる石橋には二羽の野鳥が日向ぼっこ中。「コガモ」であろうか?「大師像」。「大師像」。墓地の最奥まで墓石、石仏が並ぶ。古そうな石仏、墓石も多く。道路脇の擁壁の中に色の変わった部分が確認できた。ツツジも咲いて。「大師像」。「陣出の泣塔」その昔、洲崎合戦の戦死者の供養塔(宝篋印塔)を青蓮寺に移したところ、毎晩、すすり泣くような声がしたため、元の場所に戻したという言い伝えがある。境内には様々な花も咲いていた。「カラー」の花であろうか。滝の近くに「不動明王」。ズームで。滝の水は僅かに。書かれている文字は殆ど消えて。境内から本「本堂」、「山門」方向を見る。屋根の紋は?「塔頭寶積院薬王寺」と「弘法大師一千百年御遠忌供養塔」を見る。アセビの下の「大師像」そして蛙の像を。「蛙の像」。奉納された「灯籠」。「御朱印」。そして「山門」を出て、「鐘楼」を振り返る。「鎖大師 青蓮院」の「新規墓所受付」案内。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.05.15
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次「下草柳公園」の角を左折し下り坂を進むと右手にあったのが天台宗の寺「極楽寺」。大和市下草柳1184-1。門前にあった「六地蔵」。寺号標「天台宗 極楽寺」。境内への階段を正面から。左手に「難転地蔵尊 天綾山極楽寺」と刻まれた石碑。「難転」とは、その言葉通り「難を転じる」こと。石段を上りきると境内は狭かったが、良く手入れされた樹木に囲まれ右手には「鐘楼」があった。「梵鐘」。「諸悪莫作(しょあくまくさ) 諸善奉行(しょぜんぶぎょう)」の文字が写真中央に。「あらゆる悪を為さず、あらゆる善を行いなさい」という言葉で、七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)と言われていると。法句経という釈迦直説の教えに一番近い古いお経にも出てくる有名な言葉であると。「手水場」。「本堂」。開山:暁海。本堂の扁額は「圓」。モミジの新緑が美しかった。ズームして。こちらは「客殿」か。扁額「慈菩薩」か。「子安地蔵菩薩像」であろうか、その後方に「石造九重塔」。左手で赤子を抱き、足下にも幼子の姿が。「「地蔵菩薩」は、釈迦が入滅した後、五十六億七千万年後に「弥勒菩薩」が現れるまでの間、現世に仏が不在となってしまうため、その間、六道を輪廻する衆生を救う菩薩であるとされますが、特に子供の守護尊とされています。幼い子供が親より先にこの世を去ると、幼かったためにまだ何の功徳も積んでいないので三途の川を渡ることができず、賽の河原で鬼のいじめに遭いながら石の塔婆作りを永遠に続けなければならないとされています。その賽の河原に頻繁に現れては子供達を鬼から守り、仏法や経文を聞かせて徳を与え、成仏への道を開いてあげるのが「地蔵菩薩」なのです。これは、賽の河原で鬼にいじめられる子供達を守る「地蔵菩薩」の姿で、「子安地蔵」とも呼ばれています。」とネットから。こちらにも小さな地蔵尊が。ピンクの「あせび(馬酔木)」の花。花が落ちて「珠」の如くに。そして「極楽寺」を後にして右手に坂を下っていくと「下草柳2号ちびっこ広場」にあった椿の花。八重咲き・紅白の斑入りの椿。斑がない花も。紅白の模様も花ごとに微妙に変化して同じものがない。紅白は日本イメージのめでたい配色でもあるので、和風で且つ華やかに見えるのであったそして「下草柳2号ちびっこ広場」の角を右折して進むと前方に「相鉄本線」の線路が現れた。この狭い、高さのない歩行者専用の地下道を進んで行ったのであった。今日は、区切りが良いのでここまでとします。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.05
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【茅ヶ崎市の神社仏閣を巡る】目次「熊野神社」を訪ねる前にその先にあった「本在寺」を訪ねた。神奈川県茅ヶ崎市高田1丁目7−38。左側の門柱には「日蓮宗 本在寺(ほんざいじ)」と。右側の門柱の裏にあったのが「大山灯籠」。「本在寺は大山道に面していてその南側にある。この石灯籠は境内の端、大山道のすぐ脇にある。竿石の正面に「常燈明」、右側面に弘化二年乙巳(きのとみ)年(1845)の年銘があり、左側面には「石工世話人」して江戸の谷中・松屋丁・深川・本所・浅草・柳原・市ヶ谷・四ッ谷・麻布・筋違・伊皿子・芝の町名と、そのそれぞれに石工の名が彫ってある。大山灯籠であることの表示はないが、これらの町名は、大山道入り口、四ツ屋の一の鳥居にも刻まれている。一の鳥居の再建は天保十一年(1840)だから、この灯籠と6年の違いである。」と。一般的に石燈籠と言われるもので、城塁形に切り石を築き、その上にもう一つ段のある基壇を持つ、全高2m78cm、江戸時代特有の鋭く、きつい軒ぞりの、堂々とした石灯籠。正面に「山門」。題目碑「南無妙法蓮華経」。掲示板には「今月の聖論けわしき山 あしき道 つえをつきぬれば たおれず」と。「日蓮聖人御遺文 「弥源太殿御返事」 日蓮宗」「「今月の聖語」解説=1人で抱え込まないで=針に糸を通すのは中々大変です。針を固定して糸の先を穴に通していたら、「糸を固定して針を動かすほうが通しやすいよ」と、助言してくれる人がいました。それ以来この方法で糸通しをしていましたが、細い針金を使った糸通しの道具を見つけました。これは便利です。糸通しひとつにしても、やり方は色々あるものです。人生の様々な場面においても、解決策は一つではないと思います。自分一人では困難なことも、他の力を借りれば乗り越えられる方策が必ず見つかります。一人で抱え込まず、肩の力を抜いて、他に頼ることも時には大切なことではないでしょうか。」「日蓮聖人ご遺文 「弥源太殿御返事」 日蓮聖人の有能な外護者、北条弥源太入道に与えた書状です。書中、聖人は法華経を諸仏発心の杖とたとえられ、弥源太入道に「日蓮のことも杖や柱と思って頼ってください」と呼びかけられます。入道が聖人に従って法華経を信じるようになったのは不思議の因縁であるとして、いよいよ信心強くしたならば霊山浄土のみ仏のもとに導いていただけることと諭されています。文永11年(1274) 聖寿53歳」正面に「本堂」。「日蓮上人之像」。ズームして。更にお顔を。庫裡であろうか。「本堂」。「本堂」の「蟇股(かえるまた)」の彫刻。「本堂」の唐破風下のこの紋は、日蓮宗の徽章「宗章紋」。日蓮聖人の名に因んで、日輪と白蓮華を図案化されたものである。賽銭箱には「浄財」と中央に日蓮宗宗紋「井桁に橘紋」。扁額は山号の「村澤山」。「本堂」を見る。「本堂」の「天水桶」にも日蓮宗宗紋「井桁に橘紋」。「日蓮大菩薩」碑。「掲示板」内に「宗旨」案内板が。「宗旨名稱 日蓮宗宗祖 日蓮大聖人開宗 建長五年四月二十八日(鎌倉時代 西暦一ニ五三年)本尊 久遠の本師 釋迦牟尼佛題目 南無妙法蓮華経教義 日蓮宗はお釈迦さまの説かれた最高の教えある法華経をよりどころとする宗団です。 この法華経を身をもって読まれ布教をせられた日蓮大聖人を宗祖と仰いでおります。 本宗の教義は法華経の魂をお題目にこめられた宗祖の教えに導かれて私たちが信行に 励みこの教えを弘めることによってやがて世界の平和と人類の幸福ひいては個人の しあわせにつながる事を確信できる教えであります。経典 妙法蓮華経(法華経)本堂のご本尊さまに先ず合掌」本堂の裏にあった墓地。「南無妙法蓮華経」、「南無日蓮大菩薩」の文字は判るが。この石碑は?ここにも文字が書かれていたのであろうが。「山門」、「日蓮聖人像」を見る。「山門」を境内側正面から。「山門」の鬼瓦とその上に素弁八葉蓮華文の軒丸瓦。これは?「一等水準点」。全国的な水準測量のための基準測点としてその標高が精密に求められている点。国土地理院によって設けられ標識は普通、花コウ岩またはコンクリートでつくって地中に埋設し、その頭部の高さを決定する。東京都千代田区永田町1丁目1番地にある日本水準原点を基準として一等、二等、三等の等級があり、一等水準点は水準原点から出発して全国の国道・都道府県道沿い2kmごとに全国で約2万点埋設されており,その高さがcmの単位まで決めてある と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.06.09
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「九段北一丁目」交差点の角にあったのが「滝沢馬琴 硯の井戸」石碑。千代田区九段北1丁目4−5付近。「滝沢馬琴 硯の井戸滝沢馬琴は安政五年二十七歳のときから文政七年十八歳までこの元飯田町に住みました。ゆかりの井戸がこの中坂下に残っています。自ら曲亭馬琴と号して南総里見八犬伝、椿説弓張月、俊寛僧都島物語等の多くの読本を残しました。」。この井戸で馬琴が硯(すずり)に水を汲み筆を洗っていたことから、「硯の井戸」と呼ばれ、都旧跡に指定されているのだと。石碑の案内に従い、マンション入口にあった「滝沢馬琴の井戸跡」を訪ねた。正面に「都指定旧跡 滝沢馬琴宅跡の井戸」碑。千代田区九段北1丁目5。「滝沢馬琴の井戸跡東京都指定旧跡1955年(昭和30年)3月28日指定滝沢馬琴(曲亭馬琴、1767年-1848年)は江戸時代後期に活躍した戯作者で、『南総里見八犬伝』の作者としてよく知られています。馬琴は1790年(寛政2年)に山東京伝(さんとうきょうでん)のもとへ入門し、翌年大栄山人(おおえさんじん)の名で、デビュー作『尽用而二分狂言(つかいはたしてにぶきょうげん)』を発表しました。1793年(寛政5年)、この場所で履物商を営んでいた会田家に婿入りし、執筆活動に励みました。「曲亭馬琴」の号を使い始めたのはこの頃で、ほぼ原稿料のみで生計を立てることができたと言われています。1824年(文政7年)に神田明神下同朋町(現在の外神田三丁目5番地)に住んでいた息子・宗伯の家に移るまで、ここに住み続けました。この井戸は馬琴が硯に水を注いで筆を洗っていたとされることから、「硯の井戸」と呼ばれていました。井戸は1923年(大正12年)の関東大震災によって失われました。」ニューハイツ九段敷地内にある滝沢馬琴邸跡には、馬琴にゆかりのある井戸が残っている。繰り返すが、馬琴が硯に水を汲み筆を洗っていたことから、「硯の井戸」とも呼ばれると。さらに「目白通り」を「九段下」交差点に向かって歩く。「九段下」交差点の右手の曲線状の建物が「昭和館」。「九段一丁目」案内板。「九段一丁目この界隈が「九段」と呼ばれるようになったのは、幕府が四谷御門の台地より神田方面に下る傾斜地に沿って石垣の段を築き、江戸城に勤務する役人のための御用屋敷をつくったことからです。その石垣が九層にも達したことから、九段という通称が生まれました。当時の九段坂は、牛ヶ淵の崖っぷちを通る細くて寂しい道で、とても勾配がきつい坂でした。しかし、一本北側を走る中坂は、この界隈で唯一の町屋が並び、御用屋敷に日用品を供給するとても賑やかな通りだったようです。さらにこのあたりは、江戸初期のころより元飯田町の町名が付き、有名な戯作者の曲亭(滝沢馬琴)が使っていた井戸や幕府の蕃書調所などもありました。その後、幾多の変遷を経たのち、関東大震災後の復興計画が行われ、昭和八年(1933年)にこの町の区画整理が完成しました。町を東西に走る大正通り(現靖国通り)や南北に走る内堀通り目白通りが拡幅整備され、都心部の重要な拠点となりました。さらに町名も、飯田町一、二丁目と同四丁目の一部を合併して九段一丁目となりました。急だった九段坂は拡幅・掘削されて勾配がゆるやかになり、ここに市電が走るようになりました。このとき九段坂は神田・両国方面と新宿・渋谷方面を東西に結ぶ幹線道路が完成となったのです。昭和四十年代中ごろまで、この坂を電車が上り下りする懐かしい光景を見ることができました。こうして江戸時代より受け継がれてきた九段坂は、激動の二十世紀の時代の流れの一端を静かに見守ってきた歴史的な坂でもあります。」「九段一丁目と曲亭馬琴この「場所」にはかつて、人の歴史よりも長い悠久の時間があったはずである。その、堆積した時間の一番うえに、現在のこの「場所」はのっかっている。その、長い長い過去の中から、たった三十年ばかりを拾ってみる。寛政五年(1793年)。山東京伝に入門を願い、その後、蔦屋の手代となった下級武士の倅が、ここ元飯田町の下駄屋に婿入りした。その男は戯作者になるという夢が諦め切れず、家業のかたわらこの場所で小説を書き始める。曲亭馬琴の誕生である。文政七年(1824年)まで、馬琴はこの地で戯作を紡いだ。馬琴が硯を洗ったという井戸も残っている。「南総里見八犬伝」も「椿説弓張月」もここで生まれた。だからどうだ、と謂われてしまえばそれまでである。現在のこの街のこの「場所」に、たぶんそんなことは関係のないことである。それでもそうした故事来歴は、平面の地図上に幾許かの高さや深さを与えてはくれる。「場所」は、必ずしも過去時間の呪縛だけで成り立っているものではないけれど、ここがそうした「場所」だったという記憶を記録に転じて示しておくことも、そんなに悪いことではないように思う。作家 京極夏彦」と。「「九段一丁目」界隈(安政3年・1856)」。「「九段一丁目」界隈(令和4年・2022)」。「昭和館」は、東京都千代田区九段南にある日本の国立博物館である。日本遺族会が運営を受託している。国民が経験した戦中、戦後の国民生活上の労苦を後世代の人々に伝えていくことを目的として、1999年3月27日に設立された。実物資料の常設展示のほか、特別企画展や図書・映像・音響資料の閲覧事業を実施している。千代田区九段南1丁目6−1古風な建物は「旧九段会館」。「九段会館」は東京都千代田区九段南に所在した施設。旧称は軍人会館。ホール(講堂)やレストラン、宿泊施設などを備え、結婚式やイベント各種などに使用されていたが、東日本大震災による天井崩落事故の影響で2011年(平成23年)4月に廃業した。2017年(平成29年)9月に財務省関東財務局が実施した一般競争入札により、東急不動産が落札した。同社は、九段会館の一部を残した上で、地上17階建て(高さ約75m)の複合ビル「九段会館テラス」に建て替え、2022年(令和4年)10月1日に再開業した。在りし日の「九段会館」の写真をネットから。「元飯田町跡」石碑。「元飯田町跡江戸に家康が来て間もない頃、このあたりを案内したのが農民の飯田喜兵衛で、ここの名主を命じられ、飯田町と名付けられました。当時17軒程の部落でした。江戸築城の大工事が進んで九段坂の両側にあった飯田町は現在の築地あたりに移転を命じられ、わずかに牛ヶ淵側に数軒を残すだけとなりました。しかし次第に旗本屋敷と交替しながら町屋を増やし、もちの木坂まで拡がって大変繁昌しました。ここを元飯田町、築地の方は南飯田町と呼びました」。再び「九段会館テラス」を見る。東急不動産と鹿島は2022年7月29日、登録有形文化財である旧九段会館を一部保存しながら建て替えを進めてた「九段会館テラス」。2021年12月に旧九段会館部分(保存棟)の保存・復元工事が完了し、オフィスなどが入居する新築棟の建設を進めた。施設の外装には全国初の環境配慮型調光ガラスを採用するなど、最新鋭の設備を導入した。施設の開業は2022年秋であったと。保存された登録有形文化財である「旧九段会館」をズームして。多くの案内標識。この日はここまでとし、「目白通り」を引き返す。左への道の先にあったのが、この後に訪ねた「築土神社」の石碑。「築土神社天慶三年(九四〇)、関東評定の末、藤原秀郷らの手で討たれ京都で晒し首にされていた平将門公の首を首桶に納めて持ち去り、これを武蔵国豊島郡上平河村津久戸(現・千代田区大手町周辺) の観音堂に祀って津久戸明神としたのがはじまりで、江戸城築城後の文明一○年(一四七八)には太田道灌が江戸城の乾 (北西) に当社社殿を造営。以来江戸城の鎮守神として厚く尊崇された。」そして次の路地を左折すると長いゆるやかな上り坂が現れた。「冬青木坂(もちのきざか)」と。檎(もち)の木坂とも書くのだと。和洋女子学園前からホテルグランドパレスの南側を「目白通り」に下る坂。「冬青木坂元禄十年(一六九七)の大火後、この坂より北側には武家屋敷が広がり、南側には元飯田町がありました。坂の途中にあった武家屋敷に植えられていた古木が、モチノキであるということから名付けられました。明治時代、坂上の東門には、JR中央線の前身である甲武鉄道の建設に力を尽くし、社長を務めた雨宮啓次郎の邸宅がありました。」「目白通り」に下る坂。「冬青木坂」を上りきったT字路の右側角にあった建物。「フィリピン大使館」。内部には「駐日フィリピン大使公邸」もあるとのこと。千代田区富士見1丁目1−1。左に折れ「中坂」を上って行くと右手にあったのが「暁星学園」正門。暁星学園は、1888(明治21)年、フランスとアメリカから来日したカトリック・マリア会の5人の宣教師によって、 現在の中央区築地に創立されました。当時この地は、外国人居留地であったため、フランス人1名、ポルトガル人2名、日本人3名が入学し、6名の少人数で国際性豊かな学園の歴史が始まりました。小学校が1890年に、中学校が1920年に、高校が1948年に認可され、1951年学校法人となりました。 その後、1969年に幼稚園ができ、現在の幼・小・中・高の一貫教育がスタートしました とネットから。千代田区富士見1丁目2−5。「マリア像」。ズームして。「暁星学園」の反対側にあったのが「九段ハウス(山口萬吉邸)」。1927年に竣工し、戦後のGHQによる接収などを経て、ふたたび山口家の住まいとして使用されるようになったのは1963年のこと。以来50年余の間、家族でこの家を守り続けてきた。アーチやスタッコ壁、スパニッシュ瓦が特徴的なスパニッシュ様式の建築だ。敷地は約960m2、建物は床面積は約850m2で、壁式鉄筋コンクリート造、地下1階・地上3階建。山口家は越後は長岡藩の武士であったが、山口萬吉家(歴代萬吉)の祖は次男ゆえ、商人となり、長岡で唐物屋を営んで財をなし、江戸へ出た。その富のおかげで長岡きっての地主となったという。明治維新後は、百貨店を開いたり、石油会社や銀行の設立発起人となったりして近代化の波にしっかり乗り、その段階で、この家を建てた祖父の萬吉の代になる。萬吉は、慶應義塾大学に入り、家業のかたわら財界人として活躍した と。その先にあったのが「硯友社跡」案内板。「硯友社跡硯友社は1885年(明治18年)2月、東京大学予備門で学ぶ尾崎紅葉 山田美妙(やまだ びみょう)と、 石橋思案(いしばししあん)らによって結成された日本初の文学結社です。 同年5月には機関誌として 「我楽多文庫(がらくたぶんこ)」 を発行しました。 同誌には言文一致体小説から新体詩、狂歌などあらゆる分野の文学が掲載され、 川上眉山(かわかみびざん)、巌谷小波(いわやさざなみ)、 広津柳浪(ひろつりょうろう)、江見水蔭(えみすいいん)など同人は200名を数えました。創立メンバーの1人である山田美妙が同誌を去ると、誌名は 「文庫」 と改められます。硯友社同人の作品は広く当時の青年に受け入れられ、明治期の文壇の基礎となりました。 明治30年代以降、同人は個別の活動を始め、 硯友社としての活動は衰退します。 その後、紅葉の死を契機として現友社の活動は終わりました。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・iPhone 15 香港版 A3092 海外SIMフリースマホ【アルミボディでカラーも豊富・Type-Cケーブルへ変更・4.8MPメイン2眼カメラ搭載】
2023.10.09
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更に目黒不動尊(瀧泉寺)の散策を続ける。本坊・阿弥陀堂の左手(北側)にある観音堂。外の赤い幟(のぼり)には、「千手観世音菩薩」と。地蔵堂。元禄に造られたという地蔵堂には地蔵菩薩が。春洞西川先生碑。西川春洞は江戸生まれの書家。佐賀県生。唐津藩医元琳の子、寧の父。名は元譲、字は子謙、別号に稚学園・茄古山民・大夢道人等。春洞流は書道界に一大勢力を誇っていると。精霊堂。精霊堂には、六地蔵と地蔵菩薩、そして本坊地蔵堂と同じように閻魔大王と脱衣婆が祀られていた。六地蔵の頭上の壁面には「地蔵和賛」が書かれていた。わりと急な男坂階段の右側には緩い女坂の階段が。女坂の途中には、修験道の開祖 役の行者小角の銅造像があった。寛永8年(1796年)太田駿河守藤原正義作、目黒区指定文化財。足腰健全のご利益があるそうで、徒歩での散策が好きなの私はしっかりと膝を撫でて来ました。これも女坂沿いにあった神変大菩薩。 ここでも水の音が。シャチの水口。おそらく、屋根瓦の古いものの再利用であろう。男坂横から境内を。 毎月28日(この日)の目黒不動尊大縁日には、門前や境内に露店が並び、多くの参拝者が訪れるのだと。垢離堂。垢離堂は密教で如意輪観音の化身とされる神である青龍大権現を祀っていると。前不動堂は改修工事中。独鈷の滝の左方にある宝形造朱塗りの小堂。江戸時代中期の建築で、当時には将軍や大名たちも参拝したが、その際は一般参詣客は大石段を登ることは許されなかった。そこで、そのような場合でも一般参詣客が一応不動詣でが出来るようにと大石段の下に前不動堂を建立したと。 甘藷先生祈念碑。目黒不動尊には、サツマイモの栽培を広めた青木昆陽のお墓と「甘藷先生碑」があった。サツマイモは、江戸時代に琉球から薩摩を経由して日本に入ってきたが、やせた土地でも栽培できたことから、飢饉の時の救荒作物として重宝されたと。毎年10月28日には遺徳をしのんで、甘藷祭りが開かれ、サツマイモや大学イモを売る店が出て、大勢の参拝客でにぎわっていると。 北一輝先生顕彰碑。北 一輝(きた いっき、本名:北 輝次郎(きた てるじろう)は、戦前の日本の思想家、社会運動家、国家社会主義者。二・二六事件を引き起こした皇道派青年将校の理論的指導者として逮捕され、軍法会議にかけられ、死刑判決を受け刑死した人物。高さ約3m程の可成り大きい碑で、上に横に「北一輝先生碑」と彫って有る が、これは、生前一輝と親しかった、国民党の外交部長であった張群氏による 書だと。碑文は大川周明に依るものであると。 勢至堂。 江戸時代中期の創建とみられ、勢至菩薩像が安置されていると。本居長世の碑。本居長世は音楽学校で中山晋平、弘田龍太郎を教えるかたわら「七つの子」「青い目の人形」「赤い靴」「めえめえ小山羊」「お山の大将」のような作品を自身作曲して世に送り出した。特に大正9年(1920)、野口雨情の詩に作曲した「十五夜お月さん」はいかにも日本的な旋律に変奏曲的な伴奏を配したもので、この種の先駆的作品として重んじられた。本居長世はこれらの曲を作ったころ、この目黒不動のすぐ隣に住んでおり、月の夜にこの瀧泉寺の境内を散歩しながら想を練ったのだと。腰立不動。 妙なる力に おこされて 二度(たび)世に立(たつ) 不動尊かめの祝の 末広く 朝日ののぼる みごとさで東都のつどい 善男女 すくいとらすぞ 妙なる力山不動と呼ばれる腰立不動は立身出世の不動尊。仁王門から左手の一番奥にある結界の三界萬霊供養塔。三界とは、欲界、色界、無色界、万霊というのは欲、色、無色界の有情無情の精霊などのあらゆる世界を指している。それらを供養することが三界萬霊塔の役目で、ここでは地蔵菩薩がその役目を担っていると。北向六地蔵尊。東日本大震災慰霊として建立されたと。朱の三福神鳥居。 金明湧水福銭洗い。右手が豊川稲荷、左手が三福堂・山手七福神の恵比寿神が奉られていた。 「目黒不動尊 瀧泉寺」と刻まれた社号標。 天台宗泰叡山(たいえいざん)瀧泉寺は、大同3年(808)に慈覚大師が開創したといわれ、不動明王を本尊とし、通称 「目黒不動尊」 と呼び親しまれているのだ。仁王門の前には狛犬が護っており、階上には韋駄天が祀られているとのこと。仁王門。仁王門は三間一戸の朱塗りの楼門で、昭和三十七年(1962)再建の鉄筋コンクリート造り。那羅延金剛像(阿像)。密迹金剛像(吽像) 境内と正面の男坂手前には「釈尊降誕会」 の横幕が。仁王門の裏側には石膏製の真っ白な狛犬(阿像) 吽像。 仁王門手前の「比翼塚」。比翼塚は愛し合って死んだ男女を一緒に葬った塚。この塚は鳥取藩士平井権八とその愛人だった吉原の遊女小紫の二人を哀れみ建てられた。 平井権八は金を奪ったために鈴ヶ森の刑場で処刑され、愛人だった遊女小紫が後を追って自害した。この平井権八の話は、浄瑠璃や歌舞伎に脚色され、白井権八のモデルとなっていると。 権八・小柴の悲話を伝える比翼塚の説明板は更新が必要か。
2017.06.01
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道・静岡県沼津市の浅間寺交差点を左折する。50m程進むと左手のあったのが『臨済宗 醫王山 東方寺(とうぼうじ)』。山門。山号は「醫王山」とあるが、 本尊が薬師如来である為か、400年前より「清明丹東方寺目薬」と称する漢方薬が伝えられ、切疵、胃潰瘍、云々塗ってよし、飲んでよしの萬病に効能ある薬が製造された。寺の運営もこの「目薬」の売り上げにての時代あり。このことにより幕府より「薬師田」の賞典を受けたと。昭和50年頃をもって新薬の多出、薬事法の改正、(現行法は昭和35年制定)又、処方の薬物高騰により、流れに添いて製造を休止せりと。本堂。創建は不詳だが、明暦元年(1655)天岫雲(てんしゅううん)和尚再興、依って天岫雲和尚を開山第1世とすと。本尊に東方薬師瑠璃光如来〔伝、天竺毘首竭摩天(てんじくびしゅかつまてん)作〕を祀る事により創建時は真言宗と思われる。後、鎌倉圓覚寺派となり、更に興津清見寺末となり、妙心寺派に帰属すと。『二?花庵雪翁居士之墓』。境内には天福壇/庫裡があったが狛獅子の替わりに沖縄の「シーサー」が。沖縄戦没者舎利塔があり、沖縄戦争の際に沖縄で亡くなった方をお祀りしていることから「シーサー」が鎮座しているようです。『三界萬霊碑』。そして東方寺の前の千本浜道の対面にあったのが『乗運寺(じょううんじ)』。山門。美しい境内の奥にあるのが本堂。沼津の松原を愛し移住した歌人・若山牧水の菩提寺としても知られていると。『鐘楼』。境内の石仏、石碑。『若山牧水(妻・喜志子、長男・旅人)の墓』。墓前の歌碑は、喜志子十三回忌の法要の際に、長男旅人によって建立されたものと。左手に牧水、右手に妻・喜志子の作の短歌が詠まれています。「聞きゐつつたのしくもあるか松風の今は夢ともうつつともきこゆ 牧水」「古里の赤石山のましろ雪わがゐる春のうみべより見ゆ 喜志子」「牧水略譜明治十八年八月二十四日宮崎県東臼杵郡東郷村字坪谷一番戸に医師若山立藏仝じくマキの長男として生まれ繁と命名さる 長じて十八歳のとき文学を志望して牧水と号す 故郷の母マキ並に庭前の坪谷川への追憶に由來せるものなり明治四十五年二十七歳に到り太田喜志子と結婚以后九年の間に旅人岬子眞木子富士人の二男二女を挙げ東京に於てその短歌の作風に一家を成せしも大正九年に到り年來の希望たりし田家の生活を志して沼津在楊原村上香貫に居を撰み次で大正十三年千本浜に移りてよりはその四囲環境を愛して終生こゝを離れず昭和三年に到る その年七月よりにはかに健康すぐれず九月上旬より臥床仝月十七日永眠す 時に年四十三歳なりき その一生は芳醇純乎としてたゞ自然の憧憬と讃美に終始し 生を享けて四十年余その途をあやまたざりしもの 此処にその三十三年忌を迎えて之を誌す」と。本堂。創建は天文6年(1537年)、浄土宗京都知恩院の末寺。北条と武田との争いで千本松原が切り払われ潮風の害に苦しんでいる土地の人々を見て、増誉(ぞうよ)上人がお経を唱えながら植林をして松原を復旧したと伝わる。『増誉(ぞうよ)上人像』。永代橋通りを進むと左手の果物屋には三角スイカそして四角スイカが。右手にあったのが幸町にある『大聖寺』。付近には真楽寺や永明寺、乗運寺、東方寺があり、古くは正見寺や本光寺もあって寺町を形成していたのだと。東柏原沼津線(県道163号線)を進むと左手にあったのが『是より南一町半六代松』の石碑。住宅街を進み突き当りを右に折れると左手に平家物語ゆかりの地「六代松碑」が。この六大松の碑は、公園とも墓地ともつかない場所に建てられていたが、実はここはこの後訪ねた妙傳寺の墓域であるのだと。六代とは、平清盛の孫である三位中将・平維盛の遺児である平家六代目を継ぐ御曹司のこと。源頼朝の家来・北条時政により捕らえられ、千本松原で処刑される際、これを知った源頼朝の政治顧問であった文覚上人の命乞いにより赦免となったが、その後文覚上人の謀叛に連なり処刑された。この処刑で平家の血筋は途絶えたのであった。従者が六代の首を千本松原の松の根元に埋め、弔ったと伝えられると。石碑と説明板。「六代の松碑(平家物語ゆかりの地) 六代は、平清盛を三代とし、重盛、惟盛、六代と続く平家の頭領となる血を受け継ぐ御曹司である。父親の幼名が五代であったことと符合する。元服前に壇ノ浦で平家が滅亡(文治元1185年)すると捜し出され、鎌倉に下る途中の千本松原において危うく斬首されるところを文覚上人の力により助けられる。平家の末路を語る上で最も人々の心に残る場面の一つである。その後、出家し妙覚と名乗り、文覚上人の謀反に連座し、謀せられ、その首を共の者が思い出深い千本の松の根元に葬ったと伝えられる。江戸幕府の命を受けて、道中奉行井上美濃守藤原利恭(としやす)らが文化三年(1806)に完成した『東海道分間延絵図』にも、千本松原の中にある一際大きな松が描かれており、六代御前旧林の文字がある。民間では、学識の深い俳人秋里離島が寛政九年(1797)に板行し好評を博した『東海道名所絵図』には、文覚、六代御前を助けるの絵と共に他より枚数を多くとって掲載されている。平家物語の名場面として知られ、東海道の旅人達に親しまれた巨木の六代松であったが、枯れてしまい、これを惜しんだ人々により天保十二年(1842)碑が建てられた。撰文は沼津藩典医駒留正隆により、平家物語を根拠としている。」と。『献木 六代松』と刻まれた石柱。右手には忠魂塔も。次に『法華宗 妙傳寺』を訪ねた。山門。「妙傳寺」と書かれた扁額。本堂。法華宗で、大本山光長寺の末寺である。慶長9年(1604年)の創建で、開基は日典という。日典は俗名を市川七郎左衛門家吉といった。 当時の三枚橋城主大久保治右衛門忠佐はあつく法華宗に帰依し、自ら当寺を大久保家の菩提寺と定め、慶長9年12月19日、寺領として田畑2反5畝18歩を寄進した。慶長10年には本堂・庫裡が建造された。境内に忠佐の墓碑が存すると。見事な本堂の彫刻。法華宗 光栄山 妙傳寺(こうえいざん みょうでんじ)本堂の扁額。『大久保忠佐墓』。天文6年(1537年)、大久保忠員の次男として三河国上和田(現在の愛知県岡崎市)で生まれる。父や兄・忠世と共に松平広忠、家康に仕えた。武勇に優れ、元亀3年(1572年)の一言坂の戦いでは本多忠勝と共に殿軍を務めている。天正3年(1575年)の長篠の戦い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加して武功を挙げた。天正18年(1590年)に家康が関東に移ると、上総国茂原において5,000石を与えられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に従ったが、真田昌幸・信繁親子に足止めされている。慶長6年(1601年)、家康から駿河沼津2万石を与えられて大名となった。居城は沼津城(三枚橋城)。嫡男・忠兼は早世していたため、当時幕府旗本であった八弟の忠教を養子にして家を相続させようとしたが、忠教は「自分の勲功ではない」として固辞した。慶長18年(1613年)9月27日に忠佐が77歳で死去すると、沼津藩は無嗣断絶で改易となったと。そして新中川に架かる『間門橋(まかど橋)』を渡る。新中川。新中川は愛鷹山(標高1,187m)にその源を発し、松沢川、谷戸川、中沢川、西久保川、西川の支川と合流して駿河湾に注いでいる。昭和10年代より沼津市が農業排水路として整備を始め、昭和25年に完成した。昭和46年沼津市から県に移管されて、二級河川新中川となったと。蘭漢堂は鍼灸院。「和漢法 排泄の醫術」と。お世話にならないようにと。「間 門昔、この地南の浜で閻魔大王像の首が網に掛かり、首の後ろに「天竺摩伽陀国」と彫られていた。村人は、堂を建て胴体手足を造り像にして安置し、お祀りしたとの言い伝えから地名が付けられたといわれる。また、アイヌ語では「マカ」とは開く「ト」とは湖水を意味するが、間門(マカド)の地名は、往古の地形なり、土地の役割に由来しているのではないかという説もある。」と。西間門交差点で旧国一通り(県道380号)に合流。更に進むと右手に下半分が無くなっている『沼津藩領境榜示』が。「安永六年(1777)水野出羽守忠友 は、二万石の大名として十代将軍徳川家治 から沼津に城地を賜り、築城を命ぜられました。翌安永七年、韮山代官江川太郎左衛門 から城地を引きつぎ、沼津藩創立と共にこの榜示杭を設置しました。牓示 とは江戸時代、天領や私領の入り組んでいるところでは、人々に領域の所在をはっきり知らせる必要があり、そのため街道の傍らに立てたものです。この榜示杭は当時沼津藩の西境に立てられたものですが、明治末期頃に折られて、下半分が失われています。下石田には「従是西沼津領」と刻まれた高さ二、一二メートルの榜示杭が完全な形で現存していますので、「従是東沼受領」と判断できます。石質、字体、寸法等すべて同一ですので、同時に立てられたものであると考えられます。」と。その先にあったのが『間門八幡宮』。この八幡神社だが、ごく平凡な神社のように見えた。がここの由来書きがすごいもので3mくらいあるもので気合いが入っているが、神社自体は小さく質素。手水舎。拝殿。この八幡様は武田氏が沼津を支配した時代に甲斐国から移住してきた人たちが連れてきた八幡様であると。ご祭神は八幡様ですから誉田別命(ほむたわけのみこと)。明治に金山神社、神明神社が合祀されたと。旧東海道・間門八幡前を原宿を目指して歩き続ける。夢舞台東海道道標『沼津藩領境』。 その6 に戻る ・・・つづく・・・
2019.04.14
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次この日は2019年11月23日(土)、『旧東海道を歩く(豊明駅~桑名宿)』の1日。岡崎城近くのホテルに前夜泊し6:30からの朝食を取る。この日は『旧東海道を歩く』のスタートとなる豊明駅近くまで車で行く事とする。前回の『旧東海道を歩く』で訪ね残った刈谷市今岡町日向にある『洞隣寺』の何度直しても反対側に傾くといわれる豊前国(大分県)『中津藩士の墓』を訪ねた。『本堂』左手最奥に『中津藩士の墓』はあった。これは、前回の『旧東海道を歩く』の『洞隣寺』のところで「ブログアップ済み」。👈リンク。そいて豊明駅前の「豊明駅東」交差点手前角の駐車場に車を駐める。24時間で500円の格安駐車場。そしてまずは『豊明駅』前を訪ねた。駅前ロータリーの隅にあった彫像。平成9年8月設置の鷲見香治氏作の『花舞』という作品。『舞』の文字が、ひまわりの花であろうか。旧東海道に戻り直ぐに右の路地に入ると『むつみ保育園』が左手に。真宗大谷派西蓮寺にて農繁期託児所をしていたのが基となり、昭和24年5月に豊明市で最初の保育園として、私立むつみ保育園を開設したと。そしてその先左手にあったのが真宗大谷派の『西蓮寺』。西蓮寺は、明応年間(1492-1501)の創建で、了祐による開基である。本尊は阿弥陀如来。『怡雲山西蓮寺』と刻まれた寺標と境内の『鐘楼』。『鐘楼』とその奥に『本堂』。早朝の為、まだ山門は閉まっており境内には入れなかった。境内には親鸞聖人幼少像もあるようであった。更に狭い路地を進むと右手にあったのが『照栄寺』山門。『曹洞宗 瑞雲山 照栄寺』は、桶狭間十三佛巡りの第5番の寺で御本尊は阿弥陀如来 。豊明市の汚水マンホール蓋は「桶狭間古戦場」のデザインと。そして旧東海道(国道1号線)に戻り進み「正戸川」に架かる「正戸橋」を渡り直ぐに右折し「正戸川」沿いに進むと正面に『琵琶ケ池水辺公園』がありその手前に歌碑が。『東屋治平(あずまやじへい)の歌碑』「水鳥の友 呼つれておもしろや 松が琴弾ひ わか池かな」「琵琶に合わせて松が琴弾く風情のおもしろさに水鳥も仲間入り。嘉永元年(1848)画工小田切春江によって刊行された、「名句小景」に載る。詠み手は知多半田、東屋治平である。」『琵琶ケ池水辺公園』の紅葉。そして県道57号線下に戻り「池下」交差点を右に曲がり県道57号線下を潜り旧東海道へ。『けやき通り』が『旧東海道』。『東海道』を進むと直ぐに『阿野一里塚跡』に到着。写真は街道左の南塚であるが、 ここは江戸日本橋から数えて86里目の一里塚である。『国指定史跡 阿野一里塚』。塚上に文化5年(1808)の道標、そして『市雪句碑』が建っていた。 『春風や 坂をのぼりに 馬の鈴 市雪』。「東海道の阿野一里塚から 「前後」 に向かって坂を登りつめると、名医のほまれ高い三田邸があり、「春風に馬の鈴が蘇えるようにひびき、道には山桜が点在して旅人の心を慰めてくれる。」 の意である。 この句は愛知郡下之一色の森市雪の作で、嘉永元年(1848)刊の 「名区小景」 に載る。」こちらは街道右の『北塚』。右手に『史跡阿野一里塚碑』。『国指定史跡 阿野一里塚』。「徳川家康は慶長9年(1604)、すでに整備した東海道の宿駅・伝馬制に加えて、道の両側へ塚を築かせ、一里ごとの目印とした。 県内の東海道には、18の一里塚があったが、現存するのは4か所、そのうち、道の左右とも残っているのはこの塚と、知立市のみである。 昭和11年12月に指定を受けた。」更に旧東海道を進むと左手にあったのが『豊明市立豊明小学校』。『豊明市立豊明小学校』の入口にも『石碑』が。校訓の「強く 正しく 明るく」と刻まれているようであった。更に旧東海道を西へ進む。先に進むと豊明小学校の先左手に、医家であった三田家の庭内に明治天皇東阿野御小休所碑が建っているのであった。右手に『坂部善光寺』・『坂部区公民館』。『坂部善光寺』は、三田柳庵が善光寺別当大勧進より一光三尊弥陀尊像を受け、開眼供養したもの。公民館前にあった『坂部善光寺の由来』。「坂部善光寺は、地元の三田家11世医師三田柳庵氏が明治5年に善光寺別当大勧進より一光三尊弥陀尊像をお受けし、開眼供養したことから始まる。明治28年には三田柳庵氏から同寺建設用地を提供され、地元有志によりお堂を完成させ、併せて善光寺別当大勧進に寄進された。 それとともに地元信徒の賛同を得て、善光寺講を結成し、戦後の混乱期まで法燈を守ってきた。昭和22年、本堂の傷みも激しく、一旦本堂を取り壊し、仮建物内に弥陀尊像を仮安置した状態が続いてきたが、昭和61年、本堂跡に建てられていた坂部公民館改築、 同時に老人憩いの家建設の計画を機に、仮安置のままであった坂部善光寺本堂の再建とともに坂部善光寺の再組織が図られた。さらに坂部善光寺の再建をより強力に推進するとともに、同寺を地域の人々が末永く支えお祀りしていくために同敷地の所有権が善光寺大勧進から坂部善光寺講に譲渡され、その後坂部区に移転された。」『坂部善光寺』から程なく、前後駅前交差点の右角段上に真宗大谷派の『上宮山西雲寺』が。そして階段の上に『山門』も。『真宗大谷派 上宮山 西雲寺』寺標石碑。『本堂』『鐘楼』。ズームで。『前後駅前』交差点。とりわけ印象に残った駅名『前後駅』。いったい何が「前」で、何が「後」なのか?こんな変わった駅名は日本でここだけではとネットで調べてみました。ネットには下記の如くの説明があった。【https://chuplus.jp/blog/article/detail.php?comment_id=501&comment_sub_id=0&category_id=190&page=2】より転載させて頂きました。「昔この近くの桶狭間で信長が今川義元を破ったという話は有名で、この戦いで亡くなった兵士たちの首を「前後」に並べたところから生まれたという伝説があります。駅から10分余り歩いた小高い丘の上に「戦人塚」という塚が残されています。永禄3年(1560)5月19日、桶狭間の戦いによる戦死者を地元の曹源寺の和尚が弔ったものとされています。でもこの説は、後世の人の作った語だと考えておきましょう。「前後村」という村名が生まれたのは明治初年のことと言われています。それまでは「五軒家新田」という村でした。その「五軒家新田」のルーツは江戸時代の初期の「間米(まごめ)村」にまでさかのぼります。その「間米村」の枝郷として次の3つの集落ができたのは17世紀のことでした。 「五軒家」…慶安元年(1648) 「八ツ屋」…寛文年中(1661~73) 「三ツ谷」…出来年不詳これらの数字はいずれも軒数を示しています。東京の「四ツ谷」も同じです。間米村の本郷(元の村)から見ると、「八ツ屋」は南に位置し、「五軒家」はさらに南にありました。本郷から見て「南」にあるので、「前郷」(ぜんごう)と呼ばれたという話です。でも、これだけではまだ納得できませんね。「南」にあれば「前」になるかと言えば、そんなことはないはずです。北半球では「南」が「前」で、「北」が「後」というのは何となく言えても決定的な根拠にはなっていません。その決定的な根拠は実は「東海道」にあったのです。間米村の南に位置する五軒家新田は旧東海道に面していました。今でも前後町の「五軒家」として地名は残っています。何といっても「東海道」は人々の往来による文化の流通ルートでした。周りの村々から見れば「前」に見えるのは当然の結果と言えるでしょう。この五軒家新田はそれ以降間米村の「本郷」に対して「前郷」と呼ばれるようになり、それがいつの間にか「前後」に転訛したというのが真実です。「前後」の「後」には意味はなかったのです!」と『前後駅前』交差点の時計塔は8:20を示していた。『とよあけし おすい マンホール蓋』のカラー版。「桶狭間の戦い(1560年)」の舞台となった地が豊明で、国指定史跡の「桶狭間古戦場伝説地」など、織田信長と今川義元にゆかりのある史跡が数多く遺されている。このデザインの蓋は1988年の下水道供用開始からだそうだが、カラー盤が路上に設置されたのは2017年からであると。これも『朝』・鷲見香治氏の作品。三体の裸婦像。鳥のさえずりが聞こえてくるような、爽やかな朝の風景を描いたものでしょうか。こちらは『きのっぴい』。設置当初は定時に時計の周りの人形が動いていたと。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2020.01.24
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【大和市の神社仏閣を巡る】目次「善徳寺」を後にして東名高速道路沿いの道を、下り方面に進むと右手に地下道が。「地下道」を進み、東名高速道路を潜り直ぐに歩行者専用の小路を左折する。珍しく地下道には落書きが全く無かったのであった。「引地川」に架かる「縁橋(ゆかりばし)」を渡る。上空には海上自衛隊の航空機が飛来。引地川には純白の「コサギ」が。首が長く、脚、くちばしも長いサギの仲間。全身白色で、繁殖期であろうか、2本の長い飾り羽を頭に持っていた。カワセミ(翡翠)を発見。ここにも「カルガモ」が。「川にすんでいる生物 きれいな川はみんなの願い 大和市」。「引地川」を振り返る。「泉の森」を横断する道路沿いには「草柳圓 釣り堀」入口が。大和市上草柳1021。自然公園「泉の森」に隣接する釣堀。四季折々の美しい表情を見せる自然の中、鯉・ニジマス・金魚と、上級者から小さな子供まで、腕前や世代に関係なく楽しめるのだと。「泉の森」と書かれた看板。上部に「大和市章」と大和市イベントキャラクター「ヤマトン」の姿も。左手に「くらやみ坂」の案内に従って進む。山の中の遊歩道を歩いて行く。この付近は秋には「彼岸花」を楽しめると。坂名「くらやみ坂」の由来は不明とのことだが、木々が生い茂り昼でも薄暗かった事が容易に想像出来たのであった。「くらやみ坂」の出口まで歩き、そのまま引き返す。この近くが「くらやみ坂」の名前の由来の場所か?「ムラサキケマン」。ピンクの花が背伸びしているみたいに咲いていた「ムラサキケマン」。そして道路を渡った場所にも「泉の森」案内板が。大和市コミュニティバス「やまとんGO」の「泉の森」バス停。右手に「しらかしの池」の溢流堰。「泉の森」案内図。「神奈川県指定天然記念物大和のシラカシ林昭和四十ニ年七月ニ十一日指定シラカシ林は昔、相摸原台地のほどんどの地域をおおっていたが、人間がこの地に住むようになってからだんだんど後退し、現在ては人の手の入らないわずかな斜面や、ガケの部分および屋敷林の中の一部、社寺林の一部にわずがに見られる程度てある。この大和のシラカシ林は田に面した(指定期の現况による)比較的浅い斜面に帯状に存在している。広さは一、五八八平方メートルでシラカシの純琳を形成しており、保存するに好都合な立地茶件にある。なおこれほどに集中してシラカシが群生している自然林は、県下の他の地域てはほどんど見られなくなってしまった。昔の相摸原台地の面影を残す意味からも、又学術上からもきわめて貴重なものである。」「手づくり郷土賞記念碑上草柳多目的利用調整池は、平成五年度建設省主催の手づくり郷土賞「自然とふれあう水辺づくり」において多くの市民が水と緑豊かな自然とふれあえる場を評価され、認定されました。平成七年ニ月 大和市」「しらかしの池」を見る。「しらかしの池」の先には「しらかし広場」と「ふれあいステージ」が見えた。「しらかしの池」の廻りのソメイヨシノは満開に近かった。ソメイヨシノを見上げる。多くの野鳥も。「泉の森」案内板。「美しし水の湧き出る引地川の源、大和水源地一帯の森は生きものたちの楽園です。水源を守るために保全されたクヌギ、コナラ等の繁る雑木林には、ドングリが葉陰から顔をのぞかせ、マユミ、ゴンズイ、ムラサキシキブの実が優美な色をたたえています。また、相模野台地の昔の景観を今に残す県指定天然記念物「シラカシ林」、そして幹の美しいスギ、ヒノキの針葉樹林、その林の下には四季おリおリの貴重な植物が数多くみられます。イチリンソウ、キツリフネ、ウバユリの群生、水辺にはガマ、タコノアシ等の湿性植物がみられ、淸澄な水辺と豊かな緑は生物たちのオアシスです。そこにはギンヤンマ、アゲハチョウ等多くの昆虫が生息し、カワセミをはじめ50種以上の野鳥を観察できます。大和市では、水と緑の豊かな泉の森( 42ha )自然を保全するため、この地域を、法によって守られる「緑地保全地区」と、市民が自らの手で守る「トラスト緑地」に指定し、市と市民が一体となり泉の森の保全に取リ組んでいます。」「上草柳調整池の沿革ここはかって、引地川に沿って谷戸田がならび、稲作が行われている土地でした。しかし、流域の都市化が急速に進んだため、雨水などの流人量が多くなリ、水害が発生するようになってしまいました。そこで昭和57年に、貯水池の機能をもたせてつくられたのが、上草柳調整池です。この調整池の治水機能はそのままに、湿地の特性や、周辺樹林地とが一体となった水辺空間を活かし、多くの市民が生きた自然の姿をさまきまに学べる場、あるいは自然への親しみを生活にとりもどす場とし利用できるよう、整備しました。平成3年3月 大和市」大きな鯉も悠々と。これも「コサギ」であろうか。「展望デッキ」から「ふれあいステージ」を見る。歩いて来た「溢流堰」方面を振り返る。右の鳥は「ヒドリガモ」か。頭はずんぐりと大きく首は短め。頭の色は茶色で額のあたりが白っぽいが・・・。水辺にも遊歩道が出来ていた。「ふれあいステージ」を横から見る。キブシ(木五倍子)の花このキブシ(木五倍子)は日本固有種で、キブシ科の落葉低木で北海道から九州まで自生し、春に黄色の穂状の花をつける。実も花と同じように房状に垂れさがってつく。実は黒色の染料にも利用されている。秋になると葉は紅葉し、その後落葉するのだ。ズームして。このキブシの花は、早春の山菜でもある。おひたし、天ぷらにして食べることができる。キブシの花には,雄花、雌花、両性花があるそうだが、これは雄花のようだ。「しらかしの池」碑。シラカシ(白樫・白橿)は、ブナ科コナラ属の常緑高木、いわゆるカシ類の一種である。名前は、材が白色であることから。樹皮の黒さから「くろかし」の名もあるのだと。ソメイヨシノを振り返る。前方に見えて来たのが「緑のかけ橋」。地元のボランティア?の方々が「ショウブ田」の手入れをされていた。木道も整備されて。6月になれば。 【https://blog.goo.ne.jp/masa1128tarou/e/c12cfe6badf4adf005c7fb3869f446ab】より水路へは、ここから流れ込んでいる。ここの暗渠の上流は、「引地川」の水源地のはず。「湿性植物園」の周囲にも桜の花が。多くのメダカも。「湿生植物園」の周辺は、集中豪雨時には「調整池」として利用されるので水位が2m以上上がるから注意が必要と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.09.10
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【海老名市歴史散歩】 目次次に訪ねたのが「居合坂」・「「柏尾通り大山道」坂標識」。海老名市本郷1218。「柏尾通り大山道この道は、江戸時代の「大山道」です。庶民の信仰を集める大山へ、あ参りに行く旅人などは、戸塚下柏尾から東海道を難れ、この道を通り相模川を渡り大山へと向かっていきました。今も昔の「大山道」とほほ同じ道筋をなしています。」「柏尾通り大山道」は東海道保土ヶ谷宿と戸塚宿の間、といっても戸塚宿江戸方見附より1km弱江戸寄り、現在の横浜市戸塚区柏尾町、不動坂が起点となり、そこからほぼ西へ、途中ここ海老名を通過し相模川を戸田の渡しで越え、現在の伊勢原市下糟屋で江戸青山からの青山通り大山道に合流して大山へと向かう道であったのだ。。ここが以前「旧東海道を歩く(保土ケ谷~藤沢)」で歩いた「柏尾追分・柏尾の大山道入口」。「柏尾通り大山道」を歩く旅人の姿。「居合坂坂を上がりきったところの地名が「居合」であったことから、この名が付いたといわれています。「居合」は村共有の入会地が転訛したものといわれていますが、由来ははっきりとしていません。」ここから東に向かって200m余りのだらだら坂が「居合坂」。「柏尾通り大山道」坂標識を振り返る。「居合坂」を上りきった近くにあった「居合の道祖神」。海老名市本郷1212付近。既に10月31日の衆議院選挙のポスター掲示板が設置されていた。この後に海老名市から寒川町にある寺社を歩いたが、これらは次回の「寒川町編」でアップする事とし、その後再び海老名市に戻ったのでここから再スタートとします。西の空の色が刻々と変わる中で、JR相模線の「門沢橋」駅方面に北上したのであった。前方に橋が現れた。「世継橋(よつぎばし)」。橋の名称の由来は、左岸にあった代継宮から。発音は「よつぎはし」ともいうが、橋には「よつきばし」と書かれていた。なお、代継宮は 熊本県熊本市北区龍田3丁目25-1 に移動した と。下を流れる川は「永池川」。国分尼寺の近くの浅井の泉が水源といわれ、寒川町で相模川に合流する川。「ながいけがわ(永池川)」。「世継橋」を渡って直ぐ右側にあったのが「下原橋天満宮」。海老名市門沢橋4丁目3社号標石「下原橋天満宮」。朱い鳥居と立派な一間社流造の社殿が目を引いたのであった。そして社殿裏手には、右から「関東大震災の碑(大正12年10月建立)」・「庚申供養搭」・「道祖神(弘化4年 西暦1817年1月奉納)」・石搭2基などが祀られていたのであった。日没が迫って来ていた。そして案内に従い海老名市門沢橋4丁目の住宅街を進み、この先を左手に。「真言宗高野山 正覺寺」に向かって進む。そして「正覺寺」山門前に到着。時間は16:40過ぎ。海老名市門沢橋4-13-13。山門前には「郷土かるた 「ひ」」「左手に 蓮の花もつ 観世音」。寺号標石「真言宗 橋澤山 正覺寺」。「橋澤山 延命院」。「真言宗 正覺寺」。剣と如意宝珠を持つ石仏。見事な「宝篋印塔」。「弘法大師御入定千五百五十年御遠忌記念 生かせいのち」碑。「弘法大師」像。「南無大師遍照金剛」の文字が。近寄って。「寺務所」。「本堂」「正覺寺」は、橋澤山延命院と号す。「新編相模国風土記稿」では、山号を橋沢山延命院、安楽寺(寒川町岡田)の末寺とされている。十一面観音坐像を本尊とし、桃山時代に作られ元禄5年(1692)に補修された木造弘法大師坐像、延享4年(1747)に小田原の仏師・蓮池佐内が造立した木造不動明王坐像、宝永6年(1709)に仏師・松村理左衛門(あるいは村松右衛門)が造立した愛染明王坐像などが安置されています。創建時代は不明ですが、本尊を初めとする仏像の製作年代から、室町時代に創建されたと考えられている。江戸期には神壽稲荷社(渋谷神社)の別当寺を勤めていた と。扁額「正覺寺」。「海老名市指定重要文化財 十一面観世音菩薩像 正覚寺正覚寺本尊の木造十一面観音菩薩坐像は、像高四八・五センチ。寄木造りで玉眼嵌入。表面は肉身部を金泥塗り、着衣部を黒漆塗りで仕上げていますが昭和五十四年の修理の際に補われたものです。江戸時代の終わりに編纂された「新編相模国風土記稿」の正覚寺の項には、本尊を運慶作と記していますが、仏像の作者を鎌倉時代の有名な仏師運慶になぞらえるのはよくあることです。本尊は江戸時代に造られたものでしよう。修理の際には、像内から木造十一面観世音菩薩坐像が発見されました。仏像の像内に小さな像を納めるのも、ときおりみられることです。像内に納められた像を胎内仏、その容れ物になった本体を鞘仏といいます。胎内仏は一木造りの小像ですが、その作風は、鞘仏よりも遡る室町時代ごろの特徴を示しています。」「十一面観世音菩薩像」。「胎内仏納入状況」。「胎内仏」。境内には「南無十一面観世音菩薩」、「南無不動明王」の幟が並んでいた。こちらは「六地蔵尊」。「南無大師遍照金剛」碑。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2021.12.01
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「神奈川県庁本庁舎」の「歴史展示室」の見学を続ける。展示室の中央の床に「横浜関内地区の歴史建造物MAP」そして中央に現在の庁舎の模型、周囲の壁には初代からの庁舎の写真が飾られていた。第二次世界大戦後、ほとんど建物が残っていない横浜にぽつんと残った現庁舎の写真。「神奈川県庁」の「本庁舎」と「新庁舎」の模型を追う。「神奈川県庁本庁舎・新庁舎模型制作年不詳神奈川県庁所蔵県庁本庁舎に隣接する地上12階(一部13階)建ての新庁舎は、坂倉準三建築研究所の設計で昭和41 ( 1966 )年に完成しました。この模型には渡リ廊下で接続した本庁舎と新庁舎の両建物が配置されています。」「本庁舎」を正面から。近づいて。「本庁舎」と「新庁舎」を南側から。「本庁舎」と「新庁舎」を繋ぐ「連絡橋」も確認できた。北側から。「神奈川県庁舎新築工事写真 定礎式」。「神奈川県庁舎新築工事写真 定礎式昭和3 (1928 )年5月4日県立公文書館所蔵定礎式とはコンクリート工事終了後に玄関付近などに定礎箱と建物建設の経緯を刻んだ定礎銘板ほかの収納品を納める儀式のことです。県庁舎では正面玄関左側の壁面内部に据えつけられています。」。「神奈川県庁舎建築工事概要と定礎銘板」の拓本。「神奈川県庁舎 定礎銘板の拓本」昭和3 (1928)年県立公文館所蔵」。「神奈川県庁舎竣工写真 貴賓室」。「神奈川県庁舎竣工写真 貴賓室昭和3 ( 1928 )年大林組所蔵」。「神奈川県庁舎竣工写真 知事室」。「神奈川県庁舎竣工写真 知事室昭和3 ( 1928 )年大林組所蔵」「神奈川県庁本庁舎 知事室現況」「神奈川県庁本庁舎知事室現況平成24 ( 2012 )年撮影創建当時から知事室として使われています。壁紙や照明は取り換えられていますが、天井の装飾は当時のままです。梁の下端には社寺建築に見られる木鼻のような持送りがつき、ここにも和洋折衷の趣きが感じられます。」。「県庁本庁の内装に見られる「宝相華県庁本庁舎内部では、各種の装飾として極楽にく花とされる「宝相華」の文様が使われています。ここではその一部をご紹介します。」「横浜関内地区の歴史的建造物」。「歴代神奈川県庁舎の歴史と変遷」。「歴代神奈川県庁舎の歴史と変遷行政組織としての神奈川県は、明治維新直後の慶応4 ( 1868 )年3月に、幕府の神奈川奉行所を引き継いで新政府が設置した横浜裁判所がその起源です。同裁判所は慶応2年の大火の翌慶応3年に建てられた同奉行所の機関である横浜役所の建物に設置されました。現在の横浜地方検察庁と横浜地方裁判所の位置にあったこの初代県庁舎は、明治15 ( 1882 )年に火災で焼失するまで県庁舎として使われました。本庁舎所在地に横浜税関の庁舎として建てられたもので、火災で庁舎を失った本県がその建物を譲り受けて、明治16年から県庁舎として使用しました。二代目の県庁舎は、明治6 (1873)年に現在の県庁本庁舎所在地に横浜税関の庁舎として建てられたもので、火災で庁舎を失った本県がその建物を譲り受けて、明治16年から県庁として使用しました。つづく三代目の県庁舎は、手狭になった二代目庁舎を取り壊した跡地に、大正2 (1913)年に完成しました。ネオ・バロック様式の壮麗な庁舎でしたが、わずか10年後の大正12年9月1日の関東大震災で内部を全焼し取り壊されました。現在の県庁本庁舎以前の三代の庁舎の建築とその歴史をたどってみます。」。「初代神奈川県庁舎外観」初代神奈川県庁舎外観(『ファー・イーストー1巻18号掲載)慶応3 (1867)年竣工設計者不詳木骨石造2階積浜開港資料館所蔵慶応2年の大火の翌慶応3 ( 1867 )年に、幕府の神奈川奉行所の機関である横浜役所として建てられた建物です。外壁は石積みで2階にべランダを持つ幕府が手がけた初めての洋風建築ですが、その中央部にはなまこ壁の塔があり、正面に入母屋、東面に唐破風造りの玄関が設けられた和洋折衷の「擬洋風建築」でした。明治維新後の慶応4年3月に本県の前身である横浜裁判所となり、明治15 (1882)年12月に火災で焼失するまで県庁舎として使用されました。」。「横浜繁栄本町通 時計台神奈川県全図」。「横浜繁栄本町通時計台神奈川県全図明治7 ( 1874 )年県立歴史博物館所蔵なまこ壁の塔を持つ初代県庁舎と時計塔がシンボルの横浜町会所を描いた浮世絵です。県庁は実際は寄楝であった屋根が入母屋で描かれていますが、べランダを内部空間に取り込む改修が行われたことがわかります。」「横浜名所一覧」。「横浜名所一覧明治9 (1876)年県立歴史博物館所蔵横浜のメインストリートである本町通りと日本大通りの交差点から居留地の日本人街を眺める構図で、初代県庁舎と明治16 (1883)年からニ代目の県庁舎となる横浜税関が同時に描かれた珍しい浮世絵です。」。「重要文化財 旧新潟税関庁舎 外観現況」。「重要文化財 旧新潟税関庁舎 外観現況平成20 (2008)年撮影安政五カ国条約に基づき開港した五港のうち、唯一現存する開港当時の運上所(税関)です。新潟の大工たちが東京や横浜の洋風建築を参考に明治2 (1869)年に施工しておリ、なまこ壁の塔は初代県庁舎との類似性が感じられます。」。「二代目 県庁舎」。「ニ代目神奈川県庁舎外観明治6 (1873)年竣工R・P.ブリジェンス設計木骨石造3階横浜開港資料館所蔵幕末維新期に東京・横浜で数多くの洋風建築を手がけた居留地建築家のアメリカ人プリジェンスが、初代の横浜税関庁舎として現在の県庁本庁舎の敷地に設計した建物です。構造は木骨石造で左右両翼を張り出した構成とし、3階中央部にはバルコニーが設けられていました。税関が横浜港寄リに移転することにともない、庁舎を火災で失った本県がこの税関庁舎を約8万円で譲リ受けて、明治16(1883)年から県庁舎として使用しました。」。「ニ代目神奈川県庁舎 外観」。「ニ代目神奈川県庁舎 外観明治時代横浜開港資料館所蔵」。「RAILWAY STATION AT YOKOHAMA」。「RAILWAY STATION AT YOKOHAMA明治時代県立歴史博物館所蔵モノクロ写真に職人が彩色した横浜駅の写真です( 3-6も同様の技法です)。ブリジェンスはのちにニ代目県庁舎となった初代横浜税関のほかにも、横浜駅・横浜町会所といった当時の横浜の主要な建物を設計しています。」「三代目県庁舎」「三代目神奈川県庁舎外観」。「三代目神奈川県庁舎 外観(『神奈川県写真帖』掲載)大正2 ( 1913 )年6月竣工片山東熊・木子幸三郎設計煉瓦造3階地下1階県立歴史博物館所蔵辰野金吾・妻木頼黄と並ぶ明治期を代表する日本人建築家・片山東熊の作品です。フランス風の壮麗なバロック様式で、外観は煉瓦と石材からなり、腰壁には岡山県北木島産花崗岩、その他の壁石には伊豆の月出石が使われ、正面には和風の車寄せと2 ~ 3階部分にイオニア式の円柱が配されています。屋根は大ぶりに造られ、中央部の大屋根の上には尖塔も乗っています。関東大震災では倒壊は免れたものの、内部は全焼し取り壊されました。」。「三代目神奈川県庁舎 正庁」。「三代目神奈川県庁舎 正庁 (『神奈川県写真帖』掲載)大正2 ( 1913 )年県立歴史博物館所蔵老朽化し手狭になったニ代目県庁舎を建て替えた三代目県庁舎は、全国の府県庁舎の歴史上もっとも壮麗な建築とも評されておリ、その一端は外観や正庁・貴賓室など主要室の写真と建築概要からうかがうことができます。」「三代目神奈川県庁舎 議場」。「三代目神奈川県庁舎議場 (『神奈川県写真帖』掲載)大正2 (1913)年県立歴史博物館所蔵」。「三代目神奈川県庁舎 貴賓室」。「三代目神奈川県庁舎 貴賓室(『神奈川県写真帖』掲載)大正2 (1913)年県立歴史博物館所蔵」。「三代目神奈川県庁舎 彩色立面図」。「三代目神奈川県庁舎 彩色立面図平成21 ( 2009 )年制作個人所蔵建築家の岡義男氏が図面や写真等の資料をもとに創建当時のプランを忠実に再現して描いた精細な立面図です。本展示室床面の県庁本庁舎周辺の歴史的建造物マップで使われている立面図も岡氏が制作したものです。」「国宝 旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮) 外観現況」。「国宝 旧東宮御所(迎賓館赤坂離宮) 外観現況平成21 (2009)年撮影迎賓館提供三代目県庁舎を設計した片山東熊は、宮内省内匠寮で東宮御所や帝国奈良博物館などの良室建築を担った宮廷建築家でした。三代目県庁舎の壮麗な造りは、片山のこうしたキャリアが遺憾なく発揮されたものと言えます。」。「神奈川県立歴史博物館紹介」。「神奈川県立歴史博物館紹介県立歴史博物館旧館は、明治37 (1904 )年に、明治期を代表する建築家のひとりである妻木頼黄の設計により横浜正金銀行本店として建てられたもので、国の重要文化財・史跡に指定されている歴史的建造物です。関東大震災では地階を除く内装と屋上のドームを焼失する大きな被害を受けました。昭和42 (1967)年にドームを復元して県立博物館となり、平成7 (1995)年には県立歴史博物館にリニューアルされました。常設展示ではかながわの歴史と文化を旧石器時代から現代まで通史的にご紹介しています。」「神奈川県立歴史博物館紹介」。「重要文化財の道府県庁舎と知事が執務する他府県のレトロ庁舎神奈川県斤本庁舎は、現在も知事が執務する都道県庁含のなかで、大坂府庁舎本館に次いで二番目に古い建物てす。ここでは国指定重要文化財の道府県庁舎(すでに庁舎として使用されていない建物を含む)と、現在も知事が執務する神奈川県庁本庁舎以外の戦前創建になる府県のレトロ庁含をご紹介します。」「関東大震災で被災した三代目県庁舎」「関東大震災で被災した三代目県庁舎大正12 (1923)年個人所蔵大正12 (1923)年9月1日に発生した関東大震災で、県庁舎は地震に対しては大きな被害がなかったものの、その後の大火災に巻き込まれ内部を全焼しました。屋根も焼け落ちた惨状が被害の大きさを物語っています。」。「竣工時の主要室と現況」。「歴史展示室」を見学中は独り占めし、ゆっくりと大いに楽しみ、カメラで追うことが出来たのであった。そして室内の照明をOFFにし、1階に戻ったのであった。1階の正面階段を。玄関ホールの中央階段両脇に、「装飾灯」が。「装飾灯」に近づいて。玄関ホールの中央階段両脇に、唐草文のひとつで極楽浄土に咲くといわれる幻の花「宝相華(ほうそうげ)」をモチーフにした装飾。丸い陶製の装飾灯下の案内板によれば、「フランク・ロイド・ライトの旧帝国ホテルのものと類似している装飾灯ですが、模様には宝相華があしらわれいます。宝相華とは、極楽に咲く卯の花で、宇治平等院のものによく似ているといわれています。」と。石段の横には「宝相華」をあしらった階段のグリル?が。廊下壁面には大きな陶製装飾タイルがあり、中央上下にも「宝相華」があしらわれていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.09.22
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この日は12月12日(月)、都内・五反田で卒業した会社の同僚、後輩、協力会社の社長との飲み会に参加しました。毎年、この時期に五反田に行くときには、途中下車して世田谷区内にある『等々力渓谷』そして『浄真寺』を訪ねることにしていますが、今年も!!小田急線を利用して「中央林間駅へ」。乗り換えて「田園都市線」で「二子玉川駅」に。そして「東急大井町線」で「等々力駅」で下車。「等々力」の名は、等々力渓谷に流れ落ちる「不動の滝」の轟く音に由来するという説が有名だが、ほかにも渓谷の崩落する音から来たという説、現在の都立園芸高校の地にあった「兎々呂城」(「とどろじょう」の読みが「とどろき」と変化)を由来とする説などがあり、いずれが正しいのかは詳らかではない とのこと。「等々力駅」。等々力駅(とどろきえき)は東急大井町線沿線の駅。東京23区の中で唯一の渓谷である「等々力渓谷」や「等々力渓谷公園」の最寄り駅となっており、自然豊かで落ち着ける環境が魅力で、休日も家族連れなど多くの人々で賑わう駅。「現在のロゴは1973年から使用されており、創立50周年を記念して東急グループの統一マークとして制定されたました。マーク中央の楕円は「グローバルな企業集団を目指す東急グループ」という意味を込め、地球を表現しているそうです。さらに「TOKYUU」の頭文字「T」を図案化したものが内部の白抜きの部分です。交通・開発・流通・健康産業の4事業部門それぞれが拡大・発展するようにという願いが下の曲線に表れているように見えます。」とネットより。「等々力駅」周辺案内図。東京都世田谷区を流れる多摩川水系の一級河川である谷沢川(やざわがわ)にある「等々力渓谷」を訪ねたのであった。環八通りが渓谷を横断していることが解るのであった、「➡等々力渓谷」と。その先には「等々力渓谷への道順」。歩道上にも「ゴルフ橋 等々力渓谷」案内石板が埋め込まれていた。 「東京都 世田谷区 汚水 マンホール蓋」マンホール蓋のデザインは「桜(都の花)、イチョウ(都の木)」そして右手にあった民家の庭には紅葉した欅の木が。「目黒通り」。「成城石井等々力店」の駐車場の隅にあった茅葺き屋根の古民家。世田谷区の有形文化財に指定されている「鈴木家住宅穀倉」。東京都世田谷区等々力2丁目39番。「世田谷区指定有形文化財(建造物)鈴木家住宅穀倉 一棟指定年月日 平成二十一年十一月十六日構造及び形式 木造平屋建 寄棟造 茅葺 扠首組構造規模 桁行 四・五四五m(一五尺) 梁間 四・八四八m(一六尺)建築年代 明治八年(一八七五年) (内壁に「明治八年 亥年」墨書銘)鈴木家は旧等々力村学宿(現在地)に古くから住む旧家で、屋号を「新家(にいや)」といいました。明治時代には農業のかたわら店を営み、炭や薪、木材などを商っていました。商品は青梅や五日市辺りから多摩川を下る筏流しに運ばせ、野毛と玉堤境にある通称「炭河岸(すみがし)」で荷揚げされました。大正時代からは材木店を本業とし、鈴銀材木店として深川の木場と本格的な取引をするようになりました。この木造穀倉は穀物の収納を目的に伝統的な建築構法で建てられました。人口の錠前、内部の壁や天井のていねいな張板に穀倉の特徴が見られます。また、軒下を広くとり風雨をしのぐ工夫がされています。さらに、小屋染を省略し天井裏にも収納ができます。区内にあった木造穀倉は多くが取り壊され、現存する事例が極めて少なくなっています。鈴木家住宅穀倉は江戸時代末期から明治初期の農家の屋敷構えや生活形態、地域の歴史を伝える貴重な建造物です。 世田谷区教育委員会」奥には「木造穀倉」もあった。斜めから。「成城石井等々力店」の店頭にあった黄色の巨大な果物。税込みで1個1070円と。「ショーンさんのオレンジシュガーメロン」と。表面が明るい黄色で網目状の模様がない、一風変わったビジュアルのメロン。サイズは縦 20cmほど。正式な品種名は『オレンジキャンディ』と。調べてみると2018年新品種としてオーストラリアの一般市場に出回るようになり、同時に日本でも輸入解禁。まだまだ知名度は高くない品種ですが、評判は上々である と。皮が明るいイエローなら熟していると。ネットから断面を。特徴は・網目がなく滑らかな皮・鮮やかな黄色をした皮・濃い味・控えめな甘さで少し酸味あり・香りが良く色は薄め・シャキッとした食感 と。そして角に大きな欅のある路地を右に曲がる。正面に『ゴルフ橋』が。大井町線の等々力駅近くの等々力渓谷の入口にあるこの橋は、「ゴルフ橋」と呼ばれている。これは、昭和の初めに旧下野毛、等々力村に広大なゴルフ場があったことに由来している と。「ゴルフ橋」の入口左の小さな広場。「等々力渓谷公園入口」の看板と反対側には階段があった。東京都世田谷区の閑静な住宅街の一角に、ひっそりたたずむ等々力渓谷。豊かな緑と清らかな水に恵まれ、東京であることを忘れそうな、まさに都会のオアシス。「ゴルフ橋」の入口左の小さな広場の「案内板」に近づいて。「等々力渓谷と周辺のご案内」。「等々カ渓谷は、武蔵野台地の南端を谷沢川が浸食してできた、延長約1 kmの東京23区内唯一の渓谷です。東急大井町線の等々カ駅から南に歩いて3分ほどの、谷沢川に架かる「ゴルフ橋」脇の階段を下りると、下流に向かって谷沢川沿いに散策路があります。夏でもひんやりとした渓谷内はケヤキ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラなどの樹木が鬱蒼と茂り、川のせせらぎや野鳥の声が聞こえ、渓谷のいたる所から水が湧き出て、都会とは思えない自然に触れることができます。散策路を下流に進み、玉沢橋(環状8号線)を越えると、古墳時代末期から奈良時代の頃の横穴基である「等々カ渓谷3号横穴」があリます。さらに、渓谷の南端には日本庭園・書院や、桜の名所として知られる等々力不動尊があります。不動尊から渓谷に下りた所「不動の滝」があり、古来から今日まで滝に打たれて行をする人々が各地から訪れています。「等々力」の地名は、渓谷内の「不動の滝」の音が響き渡り「轟いた」ところからついた、との言い伝えがあります」。「等々力渓谷」案内地図。この時の気温はこの場所が9.9℃、渓谷内が8.6℃との表示が。「等々力渓谷」の「名勝」に関する「指定書」。平成十一年三月三日 東京都教育委員会 の文字が。「東京都指定名勝等々力渓谷所在地 世田谷区等々力二丁目外指定 平成十一年三月三日等々力渓谷は、国分寺崖線(ハケ)の最南端に位置する約一キロメートルの都区内唯一の渓谷である。谷沢川が国分寺崖線に切れ込んで浸食したもので、台地と谷との標高差は約一〇メートルある。渓谷の斜面には、武蔵野の代表的な樹木であるケヤキをはじめ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラ、イロハカエデなどとともに、常緑シダ類のような湿性植物が繁茂しており、渓谷内には至るところから湧水の出現が認められる。玉川全円耕地整理組合が、昭和五年から十三年にかけて谷沢川の流路を整備し、小径を設けるまでは、不動の滝からゴルフ橋にいたる渓谷内は殆ど人の立ち入ることも稀で、雉などの鳥類や、イタチ、キツネなどの小獣類、各種昆虫類の宝庫であった。都区内とは思えないほどの鬱蒼とした樹林と渓谷美は、幽邃(ゆうすい)な景観を呈し、武蔵野の面影をよく残している。東京を代表する自然地理的名勝として貴重であり、植生学、地質学及び地形学上重要である。また、等々力渓谷には谷間の崖地に横に穴を掘って造られてた野毛地区の有力な農民の墓である横穴があり、これまでの調査で三基の横穴が発見され、現在は三号横穴が完全な形で残っています。等々力渓谷は、東京二十三区内で唯一の渓谷として知られています。ここはかつて、九品仏川とぶつかった谷沢川が河川の争奪現象により水量を増し、その激しい浸食作用によって形成された渓谷で、深い谷地形は現在も概ね自然の状態で残されています。そのため、武蔵野台地の地形や地質を学ぶ上では大変貴重な場所となっており、斜面地に数多く分布する湧水地は、「東京の名湧水五十七選」にも選定されています。渓谷の急峻な斜面には近年の開発から難を逃れた樹林が広がり、東京区部とは思えない幽邃な景観を呈しています。これらの植生は過去に農業の営みの中で利用されていましたが、その利用がなくなった現在では遷移が進んで自然の植生が回復してきています。一方、渓谷と人々のつながりは横穴古墳の築造に始まり、その後神聖な滝によって多<の人の信仰を集め、村の雨乞いのための水取り場となるなど、暮らしの中に深<関わる場所でもありました。これら優れた自然環境と歴史的背景を持つ等々力渓谷は、等々力不動尊とともに人々の知るところとなり、今では東京の名所として数多くの人が訪れる場所になっています。そして、平成十一年三月、風致景観・名所・学術の面で高く評価された等々力渓谷は、東京都指定名勝として文化財の指定を受けました。世田谷区は、「等々力渓谷名勝区域保存管理計画」を策定し、等々力渓谷公園の整備をはじめ、渓谷の環境を将来にわたり守り伝える取り組みを進めています。 平成十一年九月 東京都教育委員会」「等々力渓谷公園」碑の下に「等々力渓谷」への階段が。「等々力渓谷公園」碑。ここが「等々力渓谷」の入口の石段。石段を下る。「等々力渓谷」の「谷沢川」が姿を現した。「谷沢川」は、世田谷区桜丘付近に源を発し、上用賀、等々力など世田谷区南東部を南へ流下し多摩川左岸に合流する流域面積5.30km2、河川延長3.70kmの一級河川。 中下流部には区部で唯一 の自然の渓谷であるここ「等々力渓谷」があり、多くの人々に親しまれているのだ。真っ赤な「ゴルフ橋」が前方に。階段をおりれば、たちまち木に囲まれた小さいくて幅も狭い谷沢川が。階段の上と下とでは別の世界。都心とは思えない空気感が。更に進んで「ゴルフ橋」下を進む。。「ゴルフ橋東急大井町線の等々カ駅近く、等々カ渓谷入口にある橋は、「ゴルフ橋」と呼ばれています。これは、昭和の初め頃、旧下野毛に東急電鉄が開発した約8ヘクタールの広大なゴルフ場があったことに由来しています。現在の橋は昭和36年( 1961年)に架けられたアーチ鋼橋で、それ以前は木橋でした。」「等々力渓谷案内図」。「等々力渓谷の地層(右の地層模式図を参照)渓谷の入り口にあたる、このゴルフ橋下から、谷測りに沿った遊歩道をいくと、高さ約10mの切れ込んだ渓谷地形や武蔵野台地を形づくっている地層の様子を観察することができます。等々カ渓谷は、この地層を観察する場所としても良く知られています。等々カ渓谷の崖に見られる表層地質は、基盤に泥岩(でいがん)層があり、上総層群(かずさそうぐん)の「高津互層(たかつごそう)」と呼ばれる硬い地層です。(三浦層群)とも呼ばれます。)この上に「渋谷粘土層」、「武蔵野粘土層」、「東京軽石層」、「関東ローム層」、「表土」の順で地層が重なっています。高津互層は、都内では地下深くに伏在しているめ、実際に見ることが難しい地層ですが、等々カ渓谷のゴルフ橋がら約90mの区間で、遊歩道の対岸(右岸)にこの地層を見ることができます。現在地の対岸、シラカシ大木の根本近くに、高津互層の上に武蔵野れき層が堆積し、湧永がにじみ出だしている様子が観察でます。」「等々力渓谷」に沿って遊歩道を進む。「地形・地質」案内板。「等々カ渓谷は、武蔵野台地の南端に位置しており、この台地面を浸食して形成された開析谷です。渓谷沿いには、武蔵野台地を特徴づける地層断面がよく観察できる箇所があります。地質の分布状況は、下から、台地の基盤である上総層群の高津互層(泥岩層)、その上に堆積する渋谷粘土層、武蔵野礫層、武蔵野粘土層、東京軽石層、ローム層(武蔵野口一ム層、立川口一ム層)の順にほぼ水平に堆積しています。また、渋谷粘土層と武蔵野礫層の間からは、湧水が多く見られます。」再び「等々力渓谷と周辺のご案内」。都会の中に居るとは思えない景色が続く。近場の人達が羨ましい限り。途中、白き流れも。更に進む。川にはカルガモの姿が。別の場所にも。くちばしの先が黄色いのが特徴。前方に遊歩道の石橋が現れた。この石橋を渡り、左岸から右岸の遊歩道になる。「植生等々力渓谷の植生は、武蔵野台地の崖線の潜在自然植生とおの工なの当在自然植生と考えられるシラカシ群集ケヤキ亜群集であリ、大径木を主体とした樹林地が渓谷の斜面に沿って連続しています。崖線の斜面部分には、主としてシラカシやケヤキ、ムクノキが、斜面地上部や台地面にはイヌシデやコナラが多く分布しています。また、湧水が流下する緩斜面には、セキショウ草地が見られ、湧水が溜まる場所には湿生植物が点在しています。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2022.12.13
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そして小野川の岸に建つ「国指定史跡 伊能忠敬旧宅」を訪ねた。小野川に面した旧宅の正面には「だし」と呼ばれる荷揚げ場があり、今は観光船の乗り場になっていた。「国指定史跡 伊能忠敬旧宅」入口前から「小野川」に架かる「樋橋」を見る。「国指定史跡 伊能忠敬旧宅」への入口。「伊能忠敬旧宅入館無料開館時間:午前9時~午後4:30分休館日:年末年始」「国指定史跡 伊能忠敬旧宅」。「伊能忠敬旧宅」⬅入口。伊能忠敬が17歳から50歳まで住んだ家。伊能家は酒造りの商売をしていたので、原料や商品の船積みに便利なように小野川沿いに家が面している。国の史跡に指定されている。「伊能忠敬旧宅 平面図」。上図の「入口」から「土間」に入る。「帳場」その奥に「座敷」を見る。正面から。「国指定史跡 伊能忠敬旧宅店舗・正門・炊事場・書院・土蔵からなります。伊能忠敬が17歳で伊能家に婿養子に入り、主な家業である酒造業を営だ家です。江戸時代当時から比べると、敷地と家屋の規模が縮小していますが、昭和20年代まで伊能家の住居として使われ、伊能家資料を守り公開した場所です。商いを行った『店舗』は、主蔵だった建物を作り変え、帳場を設けています。また旧宅奥にある『土蔵』は、観音開きが普及する以前の引き戸形式の扉が残る、佐原でも貴重な建物です。これらは江戸時代の雰囲気がよく残っています。」この日は、右側の六畳の座敷には「七段飾りのお雛様」が飾られていた。「七段飾りのお雛様女雛・男雛・三人官女・五人囃子・左大臣右大臣・仕丁を揃えたし段のお雛様で、昭和40年代後半に飾られました。2組のお雛様は、香取市内の方から寄贈されたものです。(伊能家のお雛様は、伊能忠敬記念館にて展示中)」。ズームして。「店舗店舗は、江戸時代の土蔵を改造して、当時店として使っていました。幅ー間のちょう場、七畳半2部屋の「ざしき」があり、「どま」の上には小屋裏があります。」左側の七畳半の座敷には「伊能忠敬」が座っていた。「炊事場」へ進み、左側に廊下のある「座敷」、「帳場」を右に見る。「炊事場」を見る。「炊事場」の奥には「測量方 御用」と書かれた幟と忠敬が愛用した「測量器具」が展示されていた。そして「炊事場」から外に出ると左手にあったのが「書院」。書院の脇に用水路があり清水が流れていた。屋敷だけでなく、敷地も江戸時代より縮小したというが、建物の南側と東側には、水路を取り入れた端正な庭園があった。縁側からは、書院の部屋も覗くことができちゃ。屋敷は、全体として贅沢さはなく、機能的でむしろ質素。伊能忠敬とその子孫たちの質実さがうかがえたのであった。北側から「書院」を見る。庭の奥にあった石碑と像。石碑「この一歩から 測量の日」。そして「伊能忠敬先生之像」。伊能忠敬(1745~1818)は江戸時代に日本国中を測量して初めて実測による日本地図を完成させた人物。延享2年(1745年)に現在の千葉県九十九里町で生まれ横芝光町で青年時代を過ごし17歳で伊能家当主となり、佐原で家業のほか村のため名主や村方後見として活躍。その後、家督を譲り隠居して勘解由と名乗り50歳で江戸に出て、55歳(寛政12年)から71歳(文化13年)まで10回にわたり測量を行った。それにより完成した地図は極めて精度の高いものでヨーロッパにおいても高く評価された。顔をズームして。50歳を過ぎてから日本全国を測量して歩き、測量の期間はなんと17年にも及ぶ壮大なミッション。完成した地図は「大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)」という。足下は草鞋にて。台座「伊能忠敬先生之像」。「土蔵」。「土蔵」は、観音開きが普及する以前の引き戸形式の扉が残る、佐原でも貴重な建物。「土蔵」の内部。再び「書院」と「用水路」を見る。「用水路」は「農業用水路」を引き込んでいるのであろうか?「書院」を反対側から覗く。六畳の書院奥の部屋。「書院」、「庭」への入口門を庭側から。「伊能忠敬旧宅」入口方向を見る。白梅の花。「日本遺産「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の街並み 商家の町「佐原」国宝 伊能忠敬関係資料 2,345点 平成22年(2010)6月29日指定伊能忠敬(1745 ~ 1818 )は上総国山辺郡小関村(現、九十九里町)に生まれ、17歳で佐原村(現、香取市)の伊能家に婿入りし隠居後、寛政12年(1800)から文化13年(1816)にかけ10次にわたって測量隊を統率して日本全国を測量し、国土の形状とその地球上の位置を最初に図示しました。本資料群は地図・絵図類、文書・記録類、書状類、典籍類、器具類からなり、忠敬の学問、地図制作の具体的方法のみならす、生涯の事績を多面的に伝えるものです。その一部は、伊能忠敬記念館で公開しています。史跡 伊能忠敬旧宅 昭和5年(1930)4月25日指定旧宅は、伊能忠敬が17歳で伊能家に婿入りしてから隠居して江戸に出る50歳まですごしていたところです。店舗、土蔵については忠敬が伊能家に婿入りする前から存在していた建物と思われます。」。「伊能忠敬家家訓書」碑。㐧一 仮にも偽をせず、孝悌忠信にして正直なるへし第二 身の上の人ハ勿論、身下の人にても教訓意見あらば急度相用堅く守るへし第三 篤敬謙譲にて言語進退を寛裕ニ諸事謙り敬ミ、少も人と争論など成べからず 亥 九月廿一日つまり、偽らずに正直でいること、良い意見は目下の人からも取り入れること、謙虚、寛容で人と争わないこと、というものである。シンプルだが、なかなかできることではない。しかし、この精神があったからこそ、翁は大偉業を実現できたのであろう。 「佐原観光マップ」「お江戸見たけりや佐原へござれ、佐原本町江戸優り」このように戯れ歌に唄われるほどの賑わいをうかがえる佐原は、江戸時代に利根川水運と結びついた商業活動によリ「佐原河岸」として、下利根随一の河港商業都市に発展しました。酒造りなどの醸造業も発展し、今も小野川沿いや交差する街道沿いには、多くの商家や土蔵などが立ち並び、江戸の風情を感しることができます。江戸時代に初めて実測による日本地図を作製した伊能忠敬の旧宅やその記念館も小野川沿いにあり、また少し難れたところには、下総国の一宮と称される香取神宮も鎖座しています。夏7月、秋10月には、佐原囃子の調べにのせて、各町内の山車が曳き廻される佐原の大祭が行われます。」地図をズームして。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.04.16
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全国に自生するおよそ250種類のアジサイを集めた展示会が、ここ神奈川県鎌倉市の「神奈川県立大船フラワーセンター」で5月28日まで開かれていた。展示会は地元でアジサイを育生する愛好家グループ・「鎌倉アジサイ同好会」がここで開き、およそ250種類、300鉢あまりのヤマアジサイなどが展示されていたのであった。「アジサイは、日本の固有植物(その地域にしか生息しない生物)だ。外観から、ガクアジサイ型とテマリ型、形態や生態などからガクアジサイ、ヤマアジサイ、エゾアジサイなどに分けられている。このほかに、蕾が特徴的なタマアジサイやノリウツギ、ツルアジサイ、装飾花のないコアジサイ、ガクウツギなど多様な系統がある。ガクアジサイは、伊豆・房総・伊豆七島などに自生し、葉が厚くて光沢がある。大株になる。ヤマアジサイの系統は、関東以西の湿っぽい山地に自生し、葉には光沢がない。小型である。エゾアジサイは、新潟・長野県の豪雪地帯から北の山地、および日本海側の山地に自生。葉は大きいが光沢はなく毛深い」 とネットから。まず最初に「展示場」横の屋外展示場を訪ねた。「ヤマアジサイは、主に太平洋側の福島県から四国・九州に分布しています。半日陰の湿り気のある林や沢沿いに生育しています。このことから別名のサワアジサイの名前がつきました。周辺の自然によくなじんでいる樹木です。中央から花の外側に向かって咲き、縁に沿って装飾花をつけてガクアジサイ(Hydrangea macrophylla f. nomalis)と同じようにガク咲きとなります。装飾花(中性花)の萼片は、白色または白青色で少し反り返りますが、紅色を帯びることもあります。ガクアジサイよりも花序が小型なので、コガクと呼ばれることもあります。アジサイに比べて葉は、薄くて細長く小型です。野趣に富んだ樹形で、花色や花形は地域による変異が多く、愛好家の間で人気の高い花木です。と」「京の舞姫」。「京の舞姫」。「青葉の笛(エゾ) 新潟県」。「青葉の笛(エゾ)」。「星のささやき 高知」。「星のささやき 高知」。「紅紫光」。近づいて。「紅紫光 鹿児島県産」。そして「展示室」内に展示されている「日本の自生アジサイ展」会場へ。日本原産の紫陽花=ガクアジサイ、それがヨーロッパに渡り品種改良された、てまり咲きのあじさいが西洋あじさいに。現在は300種類以上あるといわれています。「シーボルトが帰国して出版した『フローラ・ヤポニカ(日本植物誌)』には誤りも含めて17種のアジサイ類が掲載されているという。このなかに「オタクサ」があった。先述のように「オタクサ」は西洋アジサイの母種として重要な品種のひとつになった。オタクサの名は日本での妻、「楠本滝」に由来するという。日本でアジサイを「オタクサ」と呼ぶことはないので、その命名の理由があれこれ推察されているとのこと。まずは中央通路の左側のアジサイを見る、「満天星」。「満天星」は鮮やかなブルーのテマリ咲きのヤマアジサイです。整った花形が魅力の品種。近づいて。さらに。NHKのテレビニュース・大船フラワーセンター・日本の自生アジサイ展でも紹介されていた。「満天星(マンテンボシ)・大分県」。「九重山」。「九重山(クジュウサン) 大分県」。「白妙」。「白妙(しろたえ) 群馬県産」。「アジサイ」は古来より多くの詩歌に歌われ、俳句は夏の季語である。さまざまに色が変化する装飾花は、梅雨時の風物詩となっている。「アジサイ」が詠われている和歌は万葉集には二首のみ。・言問はぬ木すら味狭藍諸弟(もろえ)らが練の村戸(むらと)にあざむかえけり (大伴家持 巻4 773) 意味:ものを言わない木でさえ、紫陽花(あじさい)のように色鮮やかに見せてくれますね。 それ以上に言葉をあやつる諸弟たちの上手い言葉にすっかりだまされてしまったことですよ。・紫陽花の八重咲く如やつ代にをいませわが背子見つつ思はむ(しのはむ) (橘諸兄 巻20 4448) 意味:宴席で宴の主人である多治比国人の長寿を祝い詠んだ歌とされており 「紫陽花が八重に咲くように末永く栄えてください。 花を見るたびにあなたを 思い出しましょう。平安後期になるとしばしば詠まれるようになった。・あぢさゐの花のよひらにもる月を影もさながら折る身ともがな(源俊頼『散木奇歌集』)・夏もなほ心はつきぬあぢさゐのよひらの露に月もすみけり(藤原俊成『千五百番歌合』)・あぢさゐの下葉にすだく蛍をば四ひらの数の添ふかとぞ見る(藤原定家)「アイヒメイ」。「アイヒメイ 藍姫 徳島高知県境剣山系」。「トサノアカツキ」。「トサノアカツキ 土佐の暁 高知県」。「トサミスズ」。近づいて。「トサミスズ 土佐美鈴 高知県」。「松中てまり」。「松中てまり 高知県」。「屋久島白雪」。「屋久島白雪 屋久島」。「チヨノヒカリ 千代の光」。「チヨノヒカリ 千代の光 高知」。「シロマイコ 白舞子」。「シロマイコ 白舞子 静岡」。「木沢の光」。近づいて。「木沢の光 (徳島)」。「酔湖姫」。近づいて。「酔湖姫 (高知)」。「白鳥」。「白鳥 (静岡)」。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2023.06.07
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タチアオイの花の近くの空き地で、久しぶりにマツヨイグサ(待宵草)を見かけました。よく「宵待草(よいまちぐさ)」と呼ばれますが,ほんとうは「待宵草(マツヨイグサ)」。竹久夢二の「待てど暮らせど 来ぬ人を 宵待草の やるせなさ」が、この通称を広めてしまったことは昨年知ったのです。待宵草の名前の通り、普通は暗くなってから開花し、翌日、陽が高くなる頃にはしぼんでしまうのです。花弁は4枚、8個の雄しべがあって、花粉が糸状につながっているのが解ります。葯はユリのようなT字の形についています。めしべは1本で、先端が4裂し、十字の形になるのが特徴なのです。この待宵草は、花がしぼむと、橙色になります。黄色の花の後ろにしぼんで橙色に変化した花が確認出来ます。葉の中央脈は白色なので、メマツヨイグサ(雌待宵草)との区別するポイントのひとつになるのです。マツヨイグサ属には黄色以外の白、紫、ピンク、赤といった花を咲かせる種もあるとのこと。標準和名では、黄花を咲かせる系統はマツヨイグサ(待宵草)、白花を咲かせる系統はツキミソウ(月見草)と呼び、赤花を咲かせる系統はユウゲショウ(夕化粧)などと呼んで区別しているようです。透き通ったような黄色で、決して華やかではありませんが、美しい花なのです。
2010.06.27
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国営みちのく杜の湖畔公園の多くの池で、色とりどりの睡蓮が開花の盛りを迎えていました。先日のブログにも記載した記憶がありますが、睡蓮と蓮は異なる品種なのです。まずはこの「睡蓮」ですが、決して「水蓮」ではないのです。この「睡蓮」にもちゃんと名前の由来があって、花は3日間、開いて閉じてを3回繰り返します。これを人間のサイクルに例えて 日中(開く=目覚める)夜(閉じる=眠る)というところから、「睡眠する蓮」→「睡蓮」と呼ばれているとのこと。睡蓮も蓮も葉は円形。しかしよく見ると違いが。睡蓮は下の写真の如く基本的に葉に切り込みが入りますが、蓮には入っていないのです。 花の違いは簡単。水面に咲くのが睡蓮。水面よりかなり上の方で咲くのが蓮。 根っこは睡蓮はワサビ状の塊根。蓮はもちろん地下茎が肥大化した蓮根。 睡蓮は3日間の命が終わると散って水中に沈み花托は出来ないのですが蓮の花は水上で散りロート状の花托が残り蜂の巣の様な形が残るのです。 スイレンとハスはとてもよく似ているので、しばしば混同されます。学問的にも、スイレン科とハス科はともに、被子植物門・双子葉植物綱・スイレン目に属すると考えられていました。しかし、近年の分子系統学的研究から、スイレンとハスは全く系統が異なることが明らかになって来たとのことです。睡蓮の葉には撥水性があまりなく、水玉はできません。蓮の葉には撥水性があり、表面に大小の水玉が出来るのです。 この公園にありませんでしたがオオオニバスは直径3m以上になる大きな丸い葉をもち、水面にその葉を浮かべているスイレン科の水生植物でこの葉の上に子供が乗ることができるとのこと。 ロンドンやオランダの公園でも見たことがあるような風景。 今年は、睡蓮そして蓮の花を楽しむ機会が多かったのです。
2014.09.07
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最後に吉田松陰歴史館を訪ねる。松陰神社の境内にある維新の源流が見えてくる歴史館。短くも激しい吉田松陰の生涯を、20シーン70余体の等身大の蝋人形で再現しています。説明版と音声ガイド付きで、松陰の一生が分かりやすく紹介されていた。松下村塾の門下生の2人の蝋人形が入口横に。山県有朋。伊藤博文。吉田松陰の子供の頃の杉一家の紹介。杉家は、父・母・叔父・三男四女の家族構成で貧しいながらも明るい一家で、その次男が吉田松蔭(寅次郎)、四女が文でした。吉田松陰関係 系図。5歳で叔父(父・百合之助氏の弟)・吉田大助氏の養子となる。6歳の時に吉田大助氏が若くして亡くなり、吉田家を継ぐ。吉田家は、代々、兵学の先生として毛利家に仕えていたので、松陰もそうなった。近所に住む叔父の玉木文之進氏(のちに松下村塾を開く人物で、百合之助氏や大助氏の弟)から、厳格な教育を受けた。この年、松陰の名前は、[虎之助]から[大次郎]になったと。兄と共に叔父の教育を受ける場面。9歳で「家学教授(山鹿流兵学の先生)見習」として、藩校・明倫館に。御前講義。天保11年(1840年)11歳になった松陰は、藩主毛利敬親の御前で兵学講義を行う。16歳で日本の国防に危機感を感じるようになる。長沼流兵学を教わっていた山田亦介氏から、西欧諸国が東洋諸国を侵略・植民地化していることを聞き、衝撃を受けた。19歳で「家学師範」(一人前の兵学の先生)として明倫館で教え始める。身分や勝負にこだわる武士のしきたりのよくないところを堂々と批評するなど、進んだ考え・態度で、まわりを感心させたと。21歳で藩の許可を得て、九州や江戸、東北へ遊学。九州・平戸にて平戸藩士・山鹿万介氏(科学者)や葉山左内氏(陽明学者)から大きな影響を受ける。吉田松陰遺著『士苟得正而斃。何必明哲保身 不能見幾而作。猶當殺身成仁 道並行而不悖。百世以俟聖人』現代語訳・抄訳『士たる者、志を尽して斃たおる、どうして必ずしも明哲が身を保つと限ろうか。 もし時宜を得ずして成らざれば、その一身を捨てて仁を成すべし。 道は常に並行して尽きること無し、されば百世後には、吾が志を知る聖人も現れるだろう。』松陰の歌。『心あれや 人の母たる人達よ かからん事は武士(もののふ)の常』武士には正義の道を貫くために死んでいくことがつきものであるから、人の母となっている妹たちよ十分に覚悟しておきなさい。江戸にて松代藩・佐久間象山氏(西洋兵学者)の新しい考えに強く心惹かれ、入門する。24歳で黒船に出会う。通称を「虎次郎」と改め、再び江戸に来てすぐのこと、浦賀にペリー率いるアメリカ軍艦がやって来た。松陰は、師・佐久間象山氏とともに浦賀へ行き、黒船の様子を観察した。露国使節プチャーチン来日。ロシア帝国クロンシュタットを出港した旗艦パルラダ号がイギリスのポーツマス港に到着、修理を行った後、ボストーク号を従えてポーツマスを出港した。喜望峰を周り、セイロン、フィリピンを経由、父島でオリバーツァ号、メンシコフ号と合流した。ペリーと違い、シーボルトの進言にしたがって、あくまで紳士的な態度を日本に見せるため日本の対外国窓口である長崎に向かった(プチャーチンに日本遠征を勧めたのもシーボルト)。1853年8月22日(嘉永6年7月18日)、ペリーに遅れること1ヵ月半後に、旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率いて長崎に来日した。下田踏海。安政元年(1854年)3月27日の夜、同志の金子重輔と伊豆の下田港でアメリカの軍艦に密航。乗船はできたが追い出され、自首して伝馬町獄に送られる。松陰が黒船に乗り込もうとして小舟に乗っている姿。江戸の警備の様子。それまで誰も見たことのない、黒く巨大な船が浦賀沖に現れたのは嘉永6年(1853)6月3日であった。黒い煙を吐き、あっという間に沿岸に近づいてきた。黒船と呼ばれるペリー率いる4隻のアメリカ軍艦であった。しかもこれらの艦隊はいつでも大砲や銃を発射できるように戦闘態勢を整えていた。幕府の許可も得ず、武装した測量船が湾内奥に入り込み、江戸湾内の測量を始めた。さらにアメリカ独立記念日などには数十発の空砲を轟かせた。幕府はやむなく久里浜への上陸を認め、浦賀奉行がペリーと会見し、開国を促すフィルモア大統領からの親書を受け取った。萩、野山獄での獄中教育。松陰は萩に送り返され、野山獄に入る。そこで猛烈な勉学を開始した。同志の金子重輔は岩倉獄に入れられたが、病気のためそこで獄死する。獄中の松陰。松下村塾の増改築。安政2年(1855年)12月、野山獄を出て自宅に幽囚の身となった松陰は、親族や近所の者たちに講義していた。そこに子弟が数多く参加するようになったため、杉家の古い小屋を改装し、講義室にあてる事にした。松下村塾の教育方針。「師弟ともに同行し、共に学ぶ」人間関係の中で、学び合うのが松下村塾、近代的な教育方針であったと。嫁ぐ妹、文のために。松陰は愛弟子久坂玄瑞に嫁ぐ文に、一文を草し、お祝いの言葉とした。吉田松陰から高く評価されていた久坂玄瑞は、18歳のときに師である吉田松陰から、松陰の妹の文との結婚を勧められる。しかし 、美男で知られる久坂玄瑞は、不美人の文を嫁にもらうべきかどうか悩んだ、というエピソードが残っている。別れの宴。倒幕以外日本を救う道はなし、と決意した松陰であったが、安政の大獄(江戸幕府が行なった弾圧)の嵐は吹きすさび、 ついに松陰に江戸護送の命令が下った、死をまかれぬと知った松陰はその前夜、送別の宴で、弟門の松浦松洞に書かせた肖像画八枚に形身の賛を書いた。涙松の別れ。籠に入れられ江戸送りとなった松蔭だが、このシーンは旅立つ者が松の大木の間から、涙ながらに城下に別れを告げるという風習があったので涙松と言ったとのこと。江戸評定所の取り調べ。幕府側には松陰を罰するような材料があったわけでなく、取り調べはあっさりと終わってしまった。しかし松陰自ら、「大原三位(公家)を長州藩に招く策」・「老中間部襲撃策」の2つの計画を企てたことを告白する。獄内にて留魂録を記す。松陰はいよいよ死を間近にせまったことを感じ、最後の遺書ともいうべき「留魂録」を書き上げた。松陰の最期。安政6年(1859年)10月27日、獄内に作られた形場で松陰は断罪となった。行年僅か30歳。松陰の門弟は彼におっかけ割腹自殺し、陣没3・斬首1・獄死1となっている。吉田松陰像。山口県出身の7人の宰相。伊藤 博文と山形有朋像。伊藤博文【いとうひろぶみ】。1・5・7・10代首相(初代首相) 天保12年~明治42年(1841~1909) 69歳周防国熊毛郡束荷【つかり】村(光市)生まれ。幕末の志士、明治時代の政治家。元老【げんろう】。萩に出て松下村塾【しょうかそんじゅく】に学び、文久3年(1863)英国に密航留学後、倒幕運動に奔走。明治政府の要職を歴任し、明治18年(1885)初代内閣総理大臣となる。また初代枢密院【すうみついん】議長として明治憲法発布に尽力し、計4度組閣。晩年も元老として政界に指導力を発揮した。山県 有朋 【やまがたありとも】3・9代首相 天保9年~大正11年(1838~1922) 85歳長門国萩川島(萩市)生まれ。幕末の志士、明治・大正時代の軍人・政治家。陸軍大将・元帥【げんすい】・元老【げんろう】。松下村塾【しょうかそんじゅく】に学んで奇兵隊【きへいたい】に参加し、戊辰【ぼしん】戦争に活躍。明治政府の陸軍大輔【たいふ】となり、近代軍制を確立した。第1次伊藤内閣の内務大臣として地方自治制を定め、明治22年(1889)内閣総理大臣となる。計2度組閣し、晩年も元老として政界・軍部に指導力を発揮した。5人の宰相。桂 太郎 【かつらたろう】11・13・15代首相(通算での総理大臣在職日数2886日は歴代1位)弘化4年~大正2年(1847~1913) 67歳長門国萩平安古(萩市)生まれ。明治時代の軍人・政治家。陸軍大将・元老【げんろう】。藩校明倫館に学び、戊辰【ぼしん】戦争に活躍。ドイツ留学後、軍制整備にあたった。第3次伊藤内閣の陸軍大臣を経て、明治34年(1901)内閣総理大臣となる。計3度組閣。ニックネームは「ニコポン宰相」。寺内 正毅 【てらうち まさたけ】18代首相 嘉永5年~大正8年(1852~1919) 68歳周防国吉敷郡平井村(山口市)生まれ。明治・大正時代の軍人・政治家。陸軍大将・元帥【げんすい】。大楽源太郎らに学び、西南戦争に従軍。陸軍大臣、初代朝鮮総督などを歴任し、山県有朋・桂太郎につぐ長州軍閥の巨頭として、大正5年(1916)内閣総理大臣となる。長州閥による超然内閣だったため、「非立憲」【ひりっけん】にかけて「ビリケン宰相」と称された。田中 義一 【たなか ぎいち】26代首相 元治元年~昭和4年(1864~1929) 66歳長門国萩菊屋横丁(萩市)生まれ。明治・大正・昭和時代の軍人・政治家。陸軍大将。陸軍大学校卒。 日露戦争で活躍し、原内閣の陸軍大臣となる。昭和2年(1927)内閣総理大臣となり、金融恐慌による銀行取りつけ騒ぎを鎮静化。翌年中国奉天(瀋陽)で起きた張作霖【ちょうさくりん】爆殺事件の責任を問われ、総辞職した。ニックネームは「おらが宰相」。岸 信介 【きし のぶすけ】56・57代首相 明治29年~昭和62年(1896~1987) 92歳山口県山口町(山口市)生まれ。昭和時代の政治家。佐藤栄作の実兄。東京大学卒。戦前は東条内閣の商工大臣をつとめた。昭和28年(1953)衆議院議員に当選。石橋内閣の外務大臣を経て、昭和32年(1957)内閣総理大臣となる。計2度組閣し、同35年日米新安全保障条約に調印。同54年国連平和賞受賞。佐藤 栄作 【さとう えいさく】61・62・63代首相(連続での総理大臣在職日数2798日は歴代1位)明治34年~昭和50年(1901~1975) 75歳山口県田布施【たぶせ】村(田布施町)生まれ。昭和時代の政治家。岸信介の実弟。東京大学卒。戦前は鉄道省で要職を歴任し、昭和24年(1949)衆議院議員に初当選。岸内閣の大蔵大臣などを経て、昭和39年(1964)内閣総理大臣となる。非核三原則を表明して平和活動につとめ、同47年沖縄の日本復帰に尽力した。同49年ノーベル平和賞受賞。そして、まだ人形は置かれていなかったが安倍 晋三 【あべしんぞう】90代(戦後最年少の首相)・96代・97代・98代首相 昭和29年~ (1954~ )東京都生まれ。父は安倍晋太郎。母方の祖父は岸信介。大叔父は佐藤栄作。成蹊大学卒。株式会社神戸製鋼所勤務を経て、外務大臣をつとめる父晋太郎の秘書官となる。平成5年(1993)山口4区から衆議院議員に初当選。第2次森内閣の官房副長官、第3次小泉内閣の官房長官などを歴任し、同18年内閣総理大臣となる。 ・・・つづく・・・
2018.04.20
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次旧東海道を歩くことを決意し、今年の早春の2/15(木)に旅友のSさんを誘い日本橋~品川駅までを歩き我がブログにアップしたが、その後海外旅行、四国八十八箇所巡り等でその先を歩く事が出来なかったが、10月26日(金)に、Sさんと一緒に品川~川崎間を歩いて来た。東海道線を利用して品川駅で下車。そして品川駅の高輪口で待ち合わせ。JR品川駅には港南口(東口)とここ高輪口(西口)の2つの入り口がある。港南口への連絡通路の名前が「レインボーロード」という名前であり、高輪口にあるこのステンドグラスにも名前がある。ステンドグラス「光の情景」は、原画・監修として、造形美術家の麻生秀穂さんが1998年11月に完成させたもの。JR品川駅高輪口のタクシー乗り場近くでSさんと合流、弥次喜多道中の開始。時間は丁度9:00。まずは八ツ山橋に向かって品川駅前を歩く。八ツ山橋交差点手前。左が旧東海道、右が第1京浜国道。八ツ山橋を渡る。八ツ山橋の欄干には「旧東海道」の文字が。橋の袂の碑・「しながわ百景」 :八ツ山橋、新八ツ山橋から品川教会方向を望む。「しながわ百景」は昭和62年に品川区が区政40周年・区民憲章制定5周年を記念して設定したもの。旧東海道と品川宿 説明板。品川宿は江戸時代の東海道の第1宿。品川宿は当初、目黒川を挟んで北品川宿・南品川宿の2宿で機能を分担していたが、1722(享保7)年、歩行新宿(かちしんしゅく)が宿場として認められ、それ以降3宿で構成されたと。説明板の下には広重の「東海道五拾参次 品川」が。 【https://blog.goo.ne.jp/tetthan/e/99cb910237428896784e4e941ccd761e】より八ツ山橋の旧親柱。錆が目立っていて少し残念であったが、美しい装飾が施された存在感ある大きな親柱。東海道品川宿 まち歩きマップ。品川宿詳細図 (品川宿入口~品川橋)。「一番 東海道八ッ山口、右 品川宿 左 品川駅」と刻まれた石柱。品川宿に入る。品川宿内の東海道の距離は一般的には八ッ山から大井村境(現在の北品川一丁目から南品川三丁目)までの約2km(19町)余をいう。 宿機能の中心である本陣は北品川宿にあり、脇本陣は南品川宿と歩行新宿に各1、旅籠屋は計93軒、他に人馬継問屋場1(南品川宿)、荷物貫目改所1(南品川宿)、宿高札場1(北品川宿)などがあったのだと。東海道名所風景 歌川国貞(初代)作「東海道名所之内 品川八ツ山下」「問答河岸跡」の石碑。由緒書き。文字が薄くなってしまっていて、よく読めなかった。問答河岸は、かつて北品川の海岸にあった波止場の名前。三代将軍徳川家光が東海寺に訪れた際、沢庵和尚がこの辺りまで出迎えて禅問答をしたという話が『徳川実記』に記載されていると。家光の「海近くして東(遠)海寺とはこれ如何に」という問いに、沢庵和尚は「大軍を率いても将(小)軍と言うが如し」と答えたと。現在の問答河岸の碑は地元有志によって建てられたもので、実際の問答河岸はもう少し南に下ったあたりであると。脇道に古い造りのお店を発見。看板に『居残り連』とあった。あの落語の「居残り佐平次」の舞台になった店の跡だとか。モール化された旧東海道・品川宿。宿内の家々は1600軒、住む人7000という活気ある地であったと。 また、北の吉原に対して南の品川といわれ遊興の場所としても有名であったと。北品川駅前から京急線に沿って南北に延びるこの「北品川本通り商店会」は、品川宿のメイン通り。道幅は約7メートル。これは江戸時代、参勤交代の行列がすれ違える幅として整備されたのだと。「土蔵相模跡」旧東海道に面した飯売旅籠屋「相模屋」は、外装が海鼠(なまこ)塀の土蔵造りだったことで、通称「土蔵相模」と呼ばれていた。土蔵相模は品川でも有数の規模を誇った妓楼で、高杉晋作、伊藤博文ら幕末の志士たちが密儀を行った場所。文久2年の長州藩士による英国公使館焼き討ち事件の際は、ここ土蔵相模から出発。安政7年(1860)には桜田門外の変で襲撃組主体をなした水戸浪士17名がここで訣別の宴を催したのだと。建物は昭和初期まであったが、現在では一階にコンビニエンスストアが入ったマンションとなっていた。旧東海道を左手に折れ手進むと、屋形船や釣り船が浮かぶ「品川浦舟だまり」に出た。しながわ百景:「品川浦と船だまり」。かつて品川浦は「御菜肴八ヶ浦」という、とれた魚を江戸城へ納める漁村の一つに決められていた。豊富な水揚げを誇り、海苔の主要な産地でしあったが、東京港建設のため昭和37年(1962)に漁場権利を東京都に譲り渡し、翌年品川周辺の海苔養殖は幕を閉じた。現在では、つり船や屋形船が舳先(へさき)を並べている。早朝や夕暮れ時は独特の風情があり、撮影や写生、吟行にもおすすめ。水辺と背景の品川の古い家並み、その向こうの品川駅周辺の再開発のビル群との対比は東京を象徴する風景です。水路にかかる石造りの北品川橋は大正期末のもの。品川浦公園の鯨の頭部のモニュメントが。品川史跡 「鯨塚」と書かれた案内板。鯨塚は、神社の境内ではなく、社殿西側の敷地内に祀られていた。品川の漁師たちが捕獲したクジラを弔った鯨塚。『この鯨碑(鯨塚)は、寛政十年(一九七八)五月一日、前日からの暴風雨で品川沖に迷い込んだところを品川浦の漁師達によって捕らえられた鯨の供養碑である。鯨の体長は九間一尺(約十六・五メートル)高さ六尺八寸(約二メートル)の大鯨で、江戸中の評判となった。ついには十一代将軍家斉が浜御殿(現、浜離宮恩賜庭園)で上覧するという騒ぎになった。全国に多くの鯨の墓(塚・塔・碑など)が散在するが、東京に現存する唯一の鯨碑(鯨塚)である。また、本碑にかかわる調査から品川浦のように捕鯨を行っていない地域での鯨捕獲の法を定めていることや、鯨見物に対する江戸庶民の喧騒ぶりを窺い知ることができる貴重な歴史資料である。』と説明板に。寛政の鯨事件として品川宿を大いに賑やわせた有名な鯨。 寛政10年(1798)5月1日、品川沖に迷い込んだ鯨を漁師たちが 天王洲の浅瀬に追い込み、捕らえて浜離宮まで曳航し第11代将軍 家斎も上覧された由。鯨はシロナガスクジラ(?)といわれ体長16.5m、高さ2.04mだったと。このクジラの骨を埋めて、その上に建て られたのがこの鯨塚。この鯨は見世物となり多くの人が集まったと。狂歌 「うちよする 浪は御浜の おにはぞと くじらは潮を ふくはうち海」鬼は外、福は内 と楽しそう。品川沖で見せ物になった鯨に見物人が騒々しく集まる様子が目にとるようです。この裏に鎮座する利田神社と新地の歴史も書かれていた。宝永3年(1626)目黒川川尻に弁天社(利田神社)創建される…他説に、『寛政3年(1791)に東海寺沢庵和尚がこれを祀った』とも。そして『利田神社(かがたじんじゃ)』。利田神社は、寛永3(1626)年に近くの東海寺の沢庵(たくあん)が弁財天を勧請(かんじょう)したのが始まり。当地一帯を安永3(1774)年~天保5(1834)年に南品川宿の名主、利田吉左衛門が開発したことから利田神社と称されていると。しながわ百景:『利田神社と鯨塚』。拝殿。御祭神は市杆島姫命。宝永3年(1626)創建。昔は目黒川河口の突端で、洲崎弁天といい、歌川広重の『名所江戸百景』にも描かれていると。そして更に奥に進むと、台場小学校の前には『御殿山下 砲台(台場)跡』が。御殿山下砲台は、江戸防衛のため幕末に築かれた「品川台場」のひとつ。1853年6月、ペリー来航に衝撃を受けた幕府は江戸内湾防御のために11基の台場築造を計画。工事は勘定吟味役の江川太郎左衛門が指揮を取り、同年8月から御殿山や泉岳寺の一部の土砂を切り崩して進められたが、資金不足により完成したのは御殿山下砲台を含めて6基。海上に設置された他の台場と異なり、御殿山下砲台は品川の海岸沿いに陸続きで五稜形の砲台が築造され、154門の大砲が備えられた。現在は区立台場小学校の敷地となっており、校庭入口には台場の石垣として使われた真鶴石と第2台場にあった品川灯台(国の重要文化財に指定され愛知県犬山市の明治村に移築)のレプリカが置かれていた。『台場横町』説明板に気がつく。幕府は、浦賀にペリー艦隊来航を機に、江戸を守るため、江川太郎左衛門の指揮のもと、品川沖に品川台場を築造したが、その際に、陸続きの御殿山台場も完成させた。(現在の品川台場小学校)この台場へ行く横町が「台場横町」とのこと。そして旧東海道に戻り、『善福寺』を訪ねる。山門。藤沢の遊行寺を総本山とする時宗の寺で、永仁2年(1294 鎌倉時代後期)に、遊行二祖、他阿真教によって開かれた。伊豆の長八の龍のこて絵が残っていた。左手に『品海公園』が。『品川宿の松』品川宿で5本目の「街道松」として、寄付されたもの、と。地域の活動が盛んな地区。『東海道品川宿の石垣石』の説明板。この花壇に使用されている石材は、品海公園北隣の民家の基礎として使われていた物であると。石材は房総の鋸山産の凝灰岩(房州石)とのこと。日本橋から二里の距離にあることを示す道標が立っ。『階段石垣の名残』。江戸時代の東海道は、品川宿に入ると海にちかくなり、宿場通りから海岸の方へ行く横町は全て坂になっていた。昔の海岸線には護岸のための石垣が築かれていた。江戸時代には、ときどき波浪によってこの石垣が壊され、宿場にとって修理は大変な負担となったと。品海公園に沿って左の道を下るとすぐ左側に海岸石垣の名残が見られた。民家の土台になっている石垣で、海側は波で浸食された跡が見受けられる。東海道五十三次の48番目の宿場の『坂下宿の街道松』。更に旧東海道品川宿を進む。『溜屋横町』。浄土宗法禅寺前には品川小学校発祥の地の石碑がある。その法禅寺の前から海岸に通じる横町を「溜屋横町」と呼び、現在の品海橋に通じている。さらに、歩くと「竹屋横町」、東海道から目黒川本流(現なぎさ通り)に至る横町。そして「青物横丁」にたどり着くのだと。北品川二丁目の『尾張屋呉服店』のショーウィンドウには神輿が。そして『一心寺』が左手に。成田山品川一心寺講事務所の表札が掛る山門を入るとすぐ本堂という小さな寺で、江戸三十三観音札所、また、寿老人を祀る東海七福神の一つでもある。『一心寺之由緒』「安政二年(西暦1854年)日本開国之気運高まり国運の境目に接面し時、大老師にある井伊直弼公が縁起に依り、江戸台場の沿革東海道第一の品川宿にて、鎮護日本、開国条約、宿場町民の繁栄安泰の願へとの霊験を悟り開山され、時の町民代表一同に依って建立されたと伝えられております。当山は昭和の御代になり中興の祖とも云うべき僧正弘道大和尚に依り、豊盛山延命院一心寺と云う寺格を拝受し成田山分身の不動明王を本尊とし、延命、商売の護りとして今日に続いております。昭和六十一年より東海七福神の寿老人(寿命)の指定寺院に認定されしことは誠に意義深く、亦、本堂の造りは京都本願寺の宮大工伊藤氏に依るものと称せられており、内陣には両大師、中国渡来之二仏、無指定の飛鳥仏と称する仏像、光霊作観音像、寿老人等が祀られております。」と書かれていた。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2018.11.21
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【藤沢歴史散歩 ブログ リスト】👈リンク県外からも。3番目:沼津 連窓寺万灯講。寛文2年(1622)に、沼津市下河原の妙海寺20世、日根上人が当地に開創した。開基檀越(寺を造る時、主になった寄進者・最初の檀家)は天照院殿三好松長将軍義観大居士。4番目:大磯 延台寺壱楽睦講中。中郡大磯町にある日蓮宗の寺院。山号は宮経山。日本三大仇討ち物語の一つ『曽我物語』のヒーロー、曽我兄弟の兄・十郎祐成と結ばれた、一代の舞の名手、虎女(虎御前)が開いた寺。虎女供養塔、虎池弁財天の碑、虎御前祈願の龍神、子授け祈願の石仏、大磯宿遊女の墓等あり、古い歴史を感じさせる寺。桜の大樹が花を競い、参詣客の目を楽しませてくれる寺と。背中に赤子をおんぶして囃す女性(右)の姿も。5番目:茅ヶ崎 信隆寺信和会。信隆寺は、寛永元(1624)年に開創された茅ヶ崎市にある日蓮宗の寺院。本堂は平成10年に新築され、境内には茅ヶ崎市指定文化財に指定されている木造日蓮坐像が安置されていると。池上 大坊本行寺本睦会の万灯が漸く退く。6番目:三浦 三崎円徳寺矢作青年会。日蓮宗の寺で、山号は近浦山。鎌倉・本覚寺の旧末寺となっている。1294年、日蓮上人13回忌の折に創建され、日範上人の開基と伝わる。若い女の子が横笛を懸命に。矢作青年会だけあって、メンバーが若い!!。7番目:品川 荏原摩耶寺一心講寛文七年(1667年)の創建と伝えられている。延宝五年(1677年)に祖師像が、 延宝六年(1678年)に安置されている摩耶夫人像が造られる。多くの像は日蓮宗不受不施派の弾圧の際、法華寺(現在の円融寺)から当寺院に移されたものである。摩耶夫人が祀られている摩耶堂は天保年間(1830年~1843年)に造られたものである。その後関東大震災や第二次世界大戦などからの災害からは免れた。本堂は1978年に完成したもの。また荏原七福神の一つとして寿老人を祀っている。8番目:葉山町 本圓寺龍信会。日蓮大聖人は、建長5年4月28日、千葉県清澄山に於いて朝日に向かい、お題目「南無妙法蓮華経」と唱え、日蓮宗を開宗した。当時の幕府の地「鎌倉」にて、お題目を人々に広めようと海を渡り、横須賀に着いた。横須賀の人々に布教しながら鎌倉への途中、木古庭の里に御滞在され、伊豆より来られた僧の庵(堂)で、お題目の縁を結び、法華経の基を定めた霊場がこの本圓寺。延慶3年、日蓮大聖人の孫弟子・摩訶一阿闍梨日印聖人が、高祖坂題目堂本圓坊を日蓮大聖人を開山とし、この地に法縁を結びし日蓮大聖人32歳の御尊影(仏像)を安置し、山号を「大明山」、寺号を「本圓寺」と改めた。『南無妙法蓮華経』と書かれた大きな赤い幟。9番目:川崎 生田安立寺万燈講。法言山と号す。安立寺は、代官職佐伯馬之介が佐伯隼人(浄天院法言日正、永禄5年1562年没)の追福のために、日等(天正11年1583年寂)を開山として創建したと。準西国稲毛三十三観世音霊場9番、武州稲毛七福神の毘沙門天。纏回しの疲れか、必死に肩を回す少年。10番目:三浦三崎 延寿寺万灯講。日蓮宗の高僧日朗上人の弟子である日範上人を開山として、鎌倉時代の弘安7(1284)年に建立された。この日範上人は100歳を越える長寿を全うしたということで、山号を「壽福山」、寺号を「延壽寺」と名付けた。日範上人は当寺で入寂し、本堂前の松の根本に廟所がある。本堂には本尊の「釈迦如来・多宝如来」が安置され、右手には木像の「壽福大黒天」が、左手には「鬼子母神」が、それぞれ厨子の中に祀られているのだと。ヒョットコの姿で必死に踊るオジサンの姿が。満面の笑みで。背中には大黒天の姿が。11番目:座間 休息山圓教寺圓和会。文永8年(1271年)、日蓮が龍ノ口刑場(藤沢市片瀬の龍口寺)で斬首の刀が折れ処刑を免れたという龍ノ口法難後、依知(現在の厚木市)の本間重連の館に向かう日蓮を、折れた刀の刀工鈴木弥太郎貞勝が自邸に招き日蓮に帰依して円教坊と名を改めたという。建治元年(1275年)貞勝は自邸を寺に改め、日範を開山、自身を開基として円教寺を建立したと。12番目:横須賀 本住寺纏講。この寺は古くは真言宗の寺であったそうですが、この寺が改宗したいきさつについて次のような話が伝えられています。真言宗の時代には印行坊という僧がこの寺にいたそうですが、あるときそこへ日蓮宗の九老僧の一人であった日相上人が乗り込んできて、問答を申し込んできました。印行坊はこれをうけ論争をたたかわしましたが負け、そのため寺を明け渡したということです。13番目:七里ガ浜 霊光寺田辺睦会。日蓮の雨乞い伝説が残されている「田辺ヶ池」の跡地に建つ。明治時代末、「日蓮大菩薩祈雨之旧蹟地」の石塔[2]が出土したため日蓮上人像と本堂が建立されたのが始まりである。建立にあたっては大日本帝国海軍大将の上村彦之丞が尽力し、本堂に掲げられている「祈雨霊蹟」の額も上村の筆によるものである。当初は霊光殿と称したが、1957年(昭和32年)に現在の寺号となった。14番目:腰越 竜の口睦会15番目:六浦 上行寺橘会。六浦上行寺は、日祐開山、六浦妙法開基の日蓮宗寺院。改宗以前は弘法大師開創の真言宗金勝寺であったといわれる。日蓮が下総から六浦津を経て鎌倉入りする際の船中で、乗り合わせた千葉氏の重臣・富木常忍を折伏して有力な信徒を獲得し、ここに着岸したことから「船中問答の霊場」と呼ばれる。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
2019.09.22
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