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友情客演指揮者という、類例のないポストに就いた広上淳一の指揮で、コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲と、実演では珍しい「惑星」。ヴァイオリンはダニエル・ホープという40代のイギリス人。ボーザールトリオのメンバーだったこともあるらしいが、さほど魅力的なヴァイオリニストでもなかった。コルンゴルトの実演は、定期で2回目らしいが、前回の記憶がない。いかにもハリウッド映画という音調が特徴的。アンコールがあって、本人紹介ではイミテイションオブベルと聞こえたが、終演後の板書にはヨハン・パウル・フォン・ウエストホフという作曲家のソナタ第3番第3曲とあったが、細かい音型が続く面白い曲だった。初めて名前を聞く、この作曲家のことは、まだ調べていない。惑星は、巨大な4管編成の迫力は、やっぱり大したもの。広上のたっぷりしたテンポが、楽曲のスケールを更に巨大にした。聴けて良かったと思う数少ない演奏会のひとつになった。以前から、この人に札響の常任になってもらえたらいいのにと思っているんだが、その想いはますます強い。
April 22, 2017
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会社の顧客でもあり我が家のピアノの調律師でもあるW氏から案内されて、キタラの小ホールへ行ってきた。存じあげないピアニストの、オールブラームスリサイタルだったが、主役は噂に聞くファッツィオーリである。F278という型の出来立てのコンサートグランドによる演奏会は、ピアノの力量とピアニストの力量が一致していたとは言えず、物足りないものが残ったけれど、なるほど騒がれるほどのものはあるピアノではあった。まだ新しいせいか、音がこなれていない或いはくたびれていないのはすぐわかった。イタリア製という先入観だけでなく明るく軽めの音色。ピアニストがもう少し強弱の表現の幅を持っていれば、もっと輝かしく、優しげに鳴るピアノだと思う。例えば田部京子のように雑味のないピアノ弾きで聴きたい。ブラームスばかりでなく、やっぱりショパンが聴きたい。モーツァルトやドビュッシーはどうだろうか?札幌で、この先このピアノによる演奏会は開かれるようになるのだろうか?演目 3つの間奏曲 作品117、ピアノソナタ第1番 作品1 16のワルツ 作品39、ピアノ曲集 作品118アンコール ラプソディ 作品79
April 16, 2017
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政界、マスコミとも森友学園の経営陣が特殊な人々であると喧伝したがっているが、それは確かにそうかもしれないけれど、事の本質を何とかごまかそうというのが見え見えで、見苦しい。安部(首相)は、ことあるごとに、本当に自分が関わっていたら辞めると言い放つが、直接手を下すような馬鹿な真似はしていないと言っているに等しい。安部一強だかなんだか知らないが、周りが気遣い、阿り、自ら手を汚さぬよう忖度させているだけのこと。アベノミクスとかがいい例だが、言葉遊びのような、彼の様々な政策だって、とっくに破綻もしくは成功していないし、トランプやプーチンに擦り寄って、さも自分も大物政治家みたいに気取ってみても、器が小さいから様にならない。先の自民党大会で、総裁の3選をねじ込んだ矢先の、今回のスキャンダル。お天道様は、ちゃーんと見てるんだよ。さて、この事態をどう乗り切るのか、ハリルジャパンと同様、見物だ。とにかく、民主党政権から自民党プラスおこぼれ頂戴公明党政権に戻ってから、この国の凋落、閉塞がひどくなる一方だ。国内でいったい誰が幸せになったというのか。対外的にこの国の自主性や評価が上がったか?トランプ相場なんて庶民には関係ないし、朝鮮半島や中国相手に底の浅いナショナリズムを振りかざすアホが増えたって、なにひとついいことは無い。ハリルじゃあるまいし、もういい加減に、安部の代わりは居ないんじゃないの?みたいな消極的な発想は捨てなきゃ駄目だ。津波でやられても、大水でやられても、どんな自然災害に遭おうとも、あるいは戦火に遭おうと、それでこの国が立ち上がれなかったことは無い。マインドだから立ち直れないとも思わない。何を恐れているのか、一人一人が現在の安穏を良しとして、将来のこの国と子孫たちのことなど考えていないからでしかない。変化を望まない人間は決して向上しないということなんだけどなあ。
March 16, 2017
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まさかの本田の召集に、やっぱり監督を変えておかなかったことを悔やむ人って、協会の中には居ないんだろうか?居ないとしたら、将来のこの国のサッカーのことを、真剣に考えている者は居ないということだ。昨日と同じことをやっていればいい、前例踏襲というのは、この国の役人の常套手段だが、スポーツ界でも結局同じことが為されているわけだ。こんなんでロシアに行けるなら大爆笑だ。昨日と同じことをやっている者、チームでも会社でも、衰退するのみ。まして監督自ら、本田の代わりはいるのか?と開き直るなど、ありえないでしょ。中東アウエイ、見物だね。
March 16, 2017
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仕事の都合で金曜日夜公演に振り替え。席はいつもの所のほぼ真後ろだった。尤も、その席に座って聴けたのは後半のブラームスのみ。1曲目のフィンガルには全く間に合わず、会場に入ったときには、ちょうど2曲目のシューベルトの5番の交響曲が始まったところだった。中に入って30分も立ち見するのも疲れるので、ロビーの椅子に腰かけて売店の上方のモニターを遠目で眺めていたが、反対側のグッズ売り場の、多分ボランティアのおばさんたちのお喋りの声が、広く静かなホワイエには結構やかましい。彼女たちにとって、音楽とはどういう意味のものなのか、ちょっと疑問。一応名誉指揮者であるエリシュカのナマ演奏が、中継とは言え聞こえているはずなんだが。休憩後のブラームス第一交響曲は、札響としては大編成の16型。ということは、かなりの数のエキストラが参加しているはずだが、果たしてそのせいかどうかは判らないが、アンサンブルがなってない。御年85歳の名誉指揮者は、はるばるチェコから年2回ほど来るわけだが、どの程度のリハーサルが行われているのだろうか?ただ、リハーサルの回数が限られていようが、あの程度のアンサンブルでは指揮者に対して失礼ではなかろうか。かつての世界的超一流オーケストラと比べるのもなんだが、今やテクニックやアンサンブルで、過去のそれらを凌駕するものは多く、この国にもいくつもあると言われる現状からすると、札響の今回のレベルはお粗末過ぎる。それに、若返りを図っている最中とはいえ、ホルンの張り切り過ぎの汚い音には辟易。ちなみに、オーボエは相変わらずいい。肝心のブラームスの演奏結果については、期待したわりには70点くらいか。客の入りも7割くらいで、以前ほどのエリシュカ熱が感じられないのも気になる。高齢指揮者が相次いで亡くなっている昨今、我々も、いつまでエリシュカの演奏に接することが出来るか、判らないのに。指揮者にとって年を取るのも芸の内と言うではないか。たしかに緊張は緩む。しかし、最後にたどり着く境地には、侵すべからざるものが、きっと在る。
March 12, 2017
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ジョン・ウエットンが亡くなったそうだ。グレッグ・レイクとは勿論違うが、クリムゾンのヴォーカルとしては、代表的なシンガーだったと思う。追悼してレッドのLPをかけている。スターレスはいつ聴いても哀しいが、今夜はとくに悲しく聞こえる。
February 1, 2017
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退院してから初めてのキタラ。翌日に毎年恒例の会社の新年行事があるため、振り替えた月末の金曜日の夜。天候も良くないせいか、ハイヤーを呼んでも電話がつながらなく、しかたがないので自家用車で、近くのホテルの駐車場まで走る。そこからキタラまでの公園の中の道のりが、病み上がりの脚には結構こたえる。ちょうどモーツァルトの誕生日であるが、演目は常任指揮者マックス・ポンマー十八番のバッハ、管弦楽組曲全曲であった。演奏は3、2、1、4の順番で、楽器編成の大きく華やかな3番と4番の間にコンチェルタンテな2番、休憩を挟んで1番だったが、4番が札響初演だったそうだ。編成は小振りで、コントラバス2本、チェロが4本ないし3本、ヴィオラが6本、ヴァイオリンが8、10。それに辰巳美納子の通奏低音チェンバロ。オーボエとファゴット、トランペット、ティンパニが随時加わるが、とくに1番ではオーボエが活躍して、ご贔屓の首席関美矢子嬢が目立つ。演奏初めはアンサンブルが粗く、音も汚かったが、次第にまとまる。期待の2番のフルートはトラヴェルソではなく、普通の金管フルートだったので、近頃の、古楽に慣れた耳には、ちょっと物足りず。指揮か独奏かどちらの主導なのか、フレージングも癖っぽくて、あまり楽しめなかった。珍しくアンコールに応えて3番のエアが演奏されたが、テンポが速い。終演後、ホールに併設のレストランで食事。モーツァルトの誕生日に便乗した、一日限りのザッハトルテがあった。昔ウィーンで食べたのには、甘くないクリームが大量に付いていたことを思い出しながら。
January 28, 2017
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よりによって、こんな押し詰まった時期に、あの糸魚川が大火に見舞われるとは。40年近く前、1年余りしか居なかったが、あの町で次男は生まれ、俺は6年余りの会社勤めをそこで辞めて、ここに戻って来て今の会社を始めた。遠い記憶も定かでなくなったけれど、懐かしいと言えば懐かしい、縁のある町だ。新幹線が通って駅は様変わりしたようだが、駅前の町並みは、多分そんなに変わっていなっかたんじゃないか?尤も、当時、自分が、あの駅前のあたりに、どの程度関係していたのか、記憶は全くないが、職場の飲み会や宴会などは当然あのあたりの店に行っていたのではなかろうか?亡くなった親友の縁で東北大震災のささやかな復興支援と、同名のライオンズクラブの縁で、これもささやかに熊本の復興支援を行ってきたが、まったく個人的な縁でしかないけれど、糸魚川に、自分が出来ることをしたいと思う。
December 25, 2016
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秋の初め、思いがけず病を得、8時間に及ぶ手術と、前後3カ月に亘る入院を経て、先週ようやく退院帰宅して、学生時代並みの体重に激減した体力の、回復に努めている日々。とは言え、緊急入院から10日もしないうちに、予約してあった浜田省吾のコンサートに、鼻からチューブを入れたまま、無理矢理主治医の許可をもらって出かけたり、この時期どうしても毎年恒例のグリューヴァイン飲みたさに、退院1週間でクリスマス市に出かけるはと、無茶をやっている。自らの入院中に、小学校からの同級生で、仕事上大切なブレーンでもあり、去年の今頃から入院中だった親友のAが、先に逝ってしまった。彼が死ぬ数日前、最後の電話でのやり取りで、やり残したり思い残したりしていることって、そんなにないよな、とお互いに話したんだが、帰宅して、手術の前からひと月半以上、まともに、音楽(音)を聴けていなかったから、たまたまなぜかLPで、喜太郎のシルクロードをかけて、スピーカーから、タクラマカン砂漠を行くキャラバンとラクダの脚と蹄と砂埃の情景が広がったとき、やっぱり少し涙が出そうだった。俺にとって生きているということは音楽を聴くことが出来るということなんだ、とつくづく思い知った。それは、大通り公園のクリスマス市の、インチキ臭いドイツ風ソーセージやザウアクラウトを、ちゃちなプラスティックのナイフとフォークで食いながら見上げた黄昏の空に、生還を実感したのも同じようなことで、生きているということは、それだけで有難いものである。
December 25, 2016
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つい半月ほど前にも行った、事務所近くのラーメン屋(ともの家)が忽然と消えた。今日の夕方、たまたま前の道路を反対方向に走っていて、店のそばの手押し信号で止まって、何気なく店のある建物の方を見たら、目に入った景色に違和感を感じ、アレ?正面のガラス窓に、不動産屋のテナント募集のポスター。唖然茫然とは、こういうことか。以前、ご贔屓の「あずま」が閉店したときは、あらかじめ店主からアナウンスされていたので、こんなに驚いたわけではなかったんだが、少なくとも閉店の兆候はなかったから、非常に釈然としない思いが強い。たしかに経営者夫婦はそれなりの年齢だったが、まださほどの高齢には見えなかったし。ま、経営としてどうだったかまではわからないけれど。どちらかというとアッサリ系の、比較的細麺で、注文から食べ終えるまでの時間がかからなくて、時間のないときでも立ち寄れる、美味い店だったので残念だ。
September 3, 2016
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負けは負け。予選の初戦負けで本大会に出られたチームがないそうだから、ロシアはなしということになるのかしらね。尤も、観てる限り、あのプレイ速度の遅さ、パスの弱さ、精度の悪さ、球際の弱さ、シュートも打てない思い切りの無さ、後手にまわったときの慌てふためきざまなど、何一つ世界レベルにない、見飽きくたびれた顔ぶれじゃあ、出てもしょうがないし、出られないわナ。監督含め、協会さんよ、どうするの?
September 1, 2016
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昨夜はゼップでマイケル・シェンカーのフライングVに酔い痴れたが、今日はキタラで札響の定期。指揮はハンス・グラーフ。リンツ近郊で生まれ、グラーツ音楽院に学んだそうで、ブルックナーあたりが似合いそうな指揮者だが、デュティーユの権威らしい。今年が生誕100年ということで、第2交響曲が演奏された。メシアンとブーレーズの間の世代になるデュティーユの音楽は、その二人よりはずっと判り易くてフランスっぽい。室内オーケストラと大オーケストラに分けられた楽員たちが、指定の位置に陣取って演奏する、いかにも現代音楽風の仕掛けもあったりするが、出てくる音は結構聴きやすい。個人的には、目下大注目の試用期間中の美人オーボエが室内オケ側で、ステージ最前列に位置取りしていてくれたから、初めて割と近くで演奏姿を繁々と眺められたのが大収穫。彼女の、まろやかだが力強い音色は実に魅力的だ。後半もフランスもので、幻想交響曲。以前手に入れて、海賊版みたいなCDだったが、中のワルツ楽章を大変気に入って聴いていた、バルビローリが亡くなる前の年に南西ドイツ放送交響楽団と録れたCDの正規版を、数日前に入手したばかりだったから、さすがにそのチャーミングさには及ばず、ではあったが、時代的には2管編成ながらファゴットが4本も使われていることに気付くなど、久々の実演鑑賞ならではの収穫もあった。第3楽章冒頭のイングリッシュホルンと掛け合うオーボエと、終楽章の鐘がステージ裏だったのは、スコアを見たことがないので、指揮者の指示か楽譜の指示かが判らないけれど。暑さの峠はとっくに過ぎて、朝晩はもう半袖では腕が冷たいくらいだが、良く晴れた気持ちの良い午後。
August 27, 2016
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大体、A代表でもない者しか出せないことに、文句も言えない五輪代表派遣っておかしいでしょ。連携も半端、実力も半端。居ない方が良かったと、誰しもが思ったんじゃないか?元々メダルがどうのと言える実力なんかないのに、いつものように、マスコミが騒ぎたてて、実情を知らない俄かファンをその気にさせる愚。現実を突き付けられてもなお、あと2勝すればとか、妄想も甚だし。
August 5, 2016
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今朝訃報を聞いた。不思議なことに実演を聴いた記憶がないのだが、テレビで観たり本を読んだりする機会が多かったからか、妙に身近なピアニストだったような気がする。戦後のピアニストの中では、とにかく華があることにかけて随一だったのではないか?最年少で音楽コンクールに優勝したとか、ショパンコンクールに入賞したとか(日本人初ではなかったにせよ)、華やかな経歴にも事欠かない人だったし。実際のところ、ではピアニストとしては、今なら、ほかの外国で活躍して評価されている人たちと比べて、どうなんだ?というクエスチョンがないでもないが、我が国のクラシック界を代表する人気ピアニストであったことは間違いないだろう。今更ながら、彼女の残した録音をちょっと聴いてみたい気がする。
July 29, 2016
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昨夜、仕事帰りが遅くもなったので、久々に我が家ご贔屓の「こぶし」に行った。カウンター7,8席の、美味いラーメン屋の典型サイズの店に4人ほど居て、男性客2人はわりとすぐ帰り、初めて来たらしい若い男女が残ったが、その男の方が、食べながらもベチャベチャ喋り続けてウルサイ。この頃、いろんな店で、カップルの男の方がやたら喋り続けるシーンを多く見かける。ま、鳥や動物の世界同様、オスがメスの気を引くための行動と思えばしょうがないが、ヤカマシイ。美味い物を食う時は黙って食え!喋りながら食っら味がわからんだろ。それはそうと、わりとストイックに見えて、たまに新しいものを出してくる店だが、珍しく夏季限定一日10食と書いた張り紙があって、あごだしと豆腐のつけ麺、とある。豆腐とは意表をつかれたが、たしかに夏らしいし、あごだしというのも興味深々。我が家は、自家製そばだれなんだが、昨年あたりからあごだしも使っていて、なかなか成功しているので、成果は期待できる。で、食すと、あごだし入り醤油タレの中に入っている豆腐が結構しょっぱい。店主に、塩入の特注豆腐でも在るのかと尋ねると、豆腐をタレの中に入れて、ある程度の時間冷やしておくとのこと。豆腐ってそんなに味がつくものなんだろうか?結果的に言うと、全体に塩味が勝ちすぎていて、個人的には豆腐はナマの方がバランスが取れると思うんだが。つけ麺は大体量が多いわけで、一応大盛りを頼んだら店主に多いですよと心配されたが完食。若い人ならもっと量を食べるんだろうから、味はあれくらいでもいいのかもしれないが、年配者には最初から割スープがあってもいいかな?
July 10, 2016
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夏の、かなり強い雨の中。客席の入りの悪さは天候のせいだけでもなさそう。指揮は尾高さんだったが、前半は兄が作曲初演されたばかりのピアノ協奏曲。ピアノは清水和音。いつのまにあんなに見苦しい巨漢になったんだろ。開演前に、作曲家本人と札響事務局の人とのプレトークあり。とくに面白いものでもなかったが。で、始まった曲は、まあ、良くある現代音楽の類。面白くもおかしくもなし。ピアノの横に譜めくりの女性が付くくらいの、難曲?この手の楽曲は、その中のほんの僅かだけが歴史上残って行くわけで、すべてが名曲なわけもなく、ほとんどはハズレと思って聴けば腹も立つまい。とは言え、兄の作曲、弟の指揮。長屋の大家さんの、訳の分からない道楽義太夫を、しかたなく聞かされている店子の気分。後半のグレイトは意外にも快速。試用期間中の美貌のオーボエが、甘い音で、大絶賛。はっきり言って、世評高かったらしい前の若いオーボエより、断然いい。早く本採用が確定して、プロフィールも明らかにしてもらいたいものだ。
July 3, 2016
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宇野功芳氏死去の報。決して好きな評論家でもなく、敬すべき評論家でもなかったが、首尾一貫はしていたと思う。とにかく自分の好きなタイプの演奏家は徹底的に褒め、そうじゃない者には目もくれない。最晩年は特に特定の音楽家への思い入れが過ぎる感があって、まったく参考にならない評論になっていた。でも、当たり障りのない、スポンサーの提灯持ちみたいな、個性のかけらもない評論よりは、また同じようなことを言ってる、と苦笑しながらも、彼の評論は、ずっと面白かった。すでに黒田恭一なく、巨星吉田秀和なく、今、宇野功芳も亡くなって、独特な個性ある評論家が、随分減ってしまった。我が国における評論は、クラシックの興隆と衰退と共にあるということか。そういえば、オーディオ評論家にも、同じことが言えるな、ということにも気が付いた。考えてみれば、評論などというものは、光がなければ出来ない、影みたいなものかもしれない。
June 16, 2016
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金銭欲、地位欲、名誉欲。俗物の極み。国際政治学者としての実績がいかほどのものかも判らない。ただ政治家と言う肩書が欲しかっただけなんだろう。政局絡みの辞職勧告とはいえ、都議会議長の2度にわたる辞任要求を拒否したそうだが、まさに見苦しさの極み。そんなに五輪旗を持ちたいのか、あきれた執念だ。先のない知事が出ていける場面じゃないわな。そんなこともわからなくなっているのか?誰かの真似で、新しい判断でもしているのか?都議会も、不信任案提出でおしまい!じゃないだろ。百条委員会なるもので真実を暴露させ、税金を不当に私物化した、言ってみれば横領の罪状を明白にすべきでしょ。ま、政治資金に関しては、議員連中は一つ穴の貉みたいなものなんで、何もかもが明らかになるのが怖いひともいるんだろうけどね。この体たらくが参院選挙に少しでも反映されればいいんだろうけど、後任候補にタレントみたいな名前しか口に出来ない都民が多いみたいだし。こんな都民にして、こんな知事ありってことかも。
June 14, 2016
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指揮が大好きな広上淳一で、シベリウスのヴァイオリン協奏曲とショスタコヴィッチの8番。ヴァイオリンが広上の盟友というボリス・ベルキンだったが、野太い低音が印象的だった。ショスタコの8番は、重く暗い曲だが、第一楽章だけでも言いたいことはほぼ言い尽くしているような曲で、主題が5番の第一楽章と似た趣があって、あまり推敲されていない曲のように感じるところがある。ショスタコヴィッチという人、どこまでが本気でどこまでがふざけているのか、よくわからない。広上の指揮はいつものように大変わかりやすっかったけれど。
June 12, 2016
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土曜の夜だったか、帰宅してテレビを見ると、非常に珍しいことに、コンサのゲームがテレビ中継されていた。目下J2首位ということで、ローカルのテレビ北海道が、画期的に放送していたようだ。なんだか嫌な予感がして画面を見ると、前半で既に一点ビハインド。間もなく二点目を取られて、案の定。滅多にないテレビ中継などという珍しいことをするからだ。しかも、稲本が負傷退場したらしい、というのも気になった。結局、彼は重傷で今期絶望とのこと。下手するとこのまま引退、なんてことにならなきゃいいんだが。その試合そのものは何とか追いついて、負けにはならなかったが、周囲が首位首位と騒ぎ出すと、往々にして勝てなくなるもので、テレビは全く余計なことをしてくれたものだ。この嫌な予感が外れればいいんだが。多分当たるんだよな。
June 6, 2016
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所詮親善試合とはいえ、ピッチ上の選手たちが、見たこともないほど生き生きと躍動していた、今夜の試合。理由は、そこに王様気取りの、彼が居なかったからに相違なし。大したレベルでもないのに、俺様面するから、皆委縮する。皆があんなに伸び伸び楽しそうにプレイする姿から、ハッキリわかったと思うが、もはや彼は、これからの代表に不要である。史上最大のミスマッチ。あの、ミランの10番。
June 3, 2016
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いつまで続くかコンサの首位。世の中何が起こるかわからないものだ。今のところ素直に嬉しいが、周囲で全く話題になっていないのが淋しい。大谷がようやく2勝目をあげた方が、はるかにニュースヴァリューという現実。サッカーという文化が根付くまでには、まだまだ長い年月が必要なんだろう。
May 23, 2016
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このところ太り気味の(10キロの大台間近、マジか?やばい)ジュリ。長男一家が嫁の実家(湖畔の畑地)に山菜採りがてら遊びに行くとのことで、連れて行ってもらった。片道2時間、BOX軽自動車の中でも大人しくしていたようだ。数時間、向こうで走り回らせてもらい、夕方山のような山菜と共に帰ってきたが、土埃で真っ白な毛もすっかりベージュ色。お義母さんの話では、畑や野山を走り回っては、何回も水を飲んだそうだ。制限なく自由に走り回れる機会など、街場では絶対にない。ドッグランとか言っても、ままごとみたいなものでしかないわけで、ジュリにとっては幸せな一日だったろう。帰宅後はさすがに疲れ果てた風情で寝込んでいたが、ジュリは車の中でも絶対に眠らないから、寝不足も甚だしかったとみえて、今朝も散歩の声掛けまで、無防備に眠りこけていたくらい。良かった良かった。
May 15, 2016
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指揮は首席のマックス・ポンマー。ドイツ、ライプツィヒのイメージとは全くかけ離れているが、ドビュッシーが得意なんだとのことで、前半は牧神とノクチュルヌ。世間ではシベリウスオーケストラと思われているらしいが、札響は意外とフランスものにも合っていると思っているんだが、今回はやっぱりというか、どうも硬さが耳についた。ふんわりキラキラしたところの少ない、ウーンやっぱりドイツ風?最悪だったのがシレーヌで、その責は肝心の女声合唱が下手だったこと。まるで素人。サイレーンの怪しさ、神秘性まったく無し。ただ地声でアーアー声を出してるだけ。ガッカリ。隣席の妻も、憤懣やるかたない様子で、酷評。ところで、先回から登場している新しいオーボエ首席予定の関美矢子という人だが、以前の金子亜未という若い有望株とされていた人と比べても、断然上。前の人は音の非力さが気になったが、とても浸透する音で、音色にはもう少し色気が欲しいけれど、これはアタリだと思うな。後半はマーラーの4番。始まった途端に思い浮かべたのは、ジョージ・セルの録音。スクエアなマーラーということ。だんだんほぐれて来て、マーラー特有のルーズな?動きも出て来たが、いわゆるユダヤチックなぬるりとした感触(西洋クラシック音楽の常軌に収まらない話法とでも言おうか)には至らない。大抵ソプラノソロが3楽章の前から舞台に出て来ている場合が多いと思うが、出て来なくて、3楽章と4楽章の間に出てくるのかと思っていたら、3楽章の終わり近く、オケがフォルテで鳴り響き始める頃、下手の扉が開いて、鮮やかな薄黄緑色のドレスを纏った美人ソリストが、静々と第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンの間の通路を歩いて登場。 その演出?には、賛否(妻は音楽の興が殺がれたと否)。私は男なので、綺麗なお姉さんが出てくるならOK。?このソプラノ(市原愛さん)は、たしか去年の末の第九リハーサル見学ツアーの際に見かけたひとで、ドイツ帰りで言葉が達者らしく、ポンマー氏お気に入りになったんじゃなかろうか?それはともかく、歌は悪くなかった。この交響曲は終楽章が特徴というか異質な感は否めず、あまり聴かない方なので、久々に全曲通して聴いた。ところでついでに、前半で舞台後方に合唱団の席を設けてあったせいか、マーラーのときにもその椅子が残ったままで、打楽器は下手にまとめられ、ホルンが上手に居たんだが、いつもなら下手の末席のあたりに居るハープが、なぜか中央右奥の木管より高い位置に居て、えらく目立つ。普段と反対向きのおかげで、ハープが実に良く見えて、(しかも美人)大変よろしかった。レコードで聴いているときにはあまり意識することもないが、随分出番が多いこともわかったし。終演後、フルートやオーボエ、ホルンなどの首席が指揮者から褒められていたが、ハープだって褒められるべきだったんじゃないか?贔屓目?ゴールデンウィークも済んで、北国の桜もほぼ終わり、上天気の新緑。
May 15, 2016
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どうした?コンサ。最近妙に勝ってるなと思ってたら、とうとう得失点差でセレッソより上の一位になってるじゃありませんか。我が家では、小野と稲本の揃い踏みがあるんなら、何年振りかで観戦に行きたいねという話にもなってるんだが、さて、どうでしょうかねえ。高齢故障常習犯の組み合わせは、宝くじより確率が低そうだし。いっとき得点王だった都倉選手がこのところ停滞気味なのが気になるが。この勢い、最後まで続くかなあ。どの試合でも、後半息切れが目立つから、これから暑い季節になったら、個々の基礎体力の確保が出来ていないように見えるこのチームは、きついんじゃないかな。
May 3, 2016
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熊本の地震は思いのほか酷い様相で、被害に遭われた方々の無念を思うと、いたたまれないものがある。地震雷火事、今なら津波か。地球の上でも、この国に住む限り、どこにあっても、誰の身にとっても、起こりうる怖さを、今更ながら思い知る。職業柄気になっているのは、東海大学の学生が住んでいたという建物の壊れ方。どんな構造と間取りだったのだろうか?なんとなく今日は仕事する気にもなれず、一日家で過ごす。ジュリも休養?近頃柴犬が世界的にも人気なんだとか。良くわからん。
April 17, 2016
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先週末。4月にはなったが、雪が消えただけで樹々は芽吹かず、まだ寒々しい早春の午後。指揮はドミトリ・キタエンコ。いつ見ても見事な白髪で、今年75歳くらいか。オールロシアプログラムだったが、気が付けば、正統ロシア音楽指揮者としては、もう彼くらいしか残っていないのかもしれない。最初に古典交響曲。次がチャイコフスキーのロココヴァリエーション。チェロはドイツ人のイエンスペーター・マインツ。有名な割には何度聴いてもあまり面白い曲ではないが、190センチ以上はありそうな長身痩躯の大男で、エンドピンの長いことと言ったら、日本人のチェロの5割増しの長さ。当然手も大きく、意外と音は良かった。アンコールにバッハの無伴奏1番のサラバンド。締めはラフマニノフの2番。プレヴィンがノーカット盤を出すまで、カットが普通だったというのが良く解るような、ウットリするようなメロディが頻発するが、どこか取り留めのない長ーい曲。フォルテの音が、いつもの札響の音より大きかったのは、さすがロシアの指揮者だったからなのか?オーボエの首席が替わって、前の娘よりは少し年上そうな女性だったが、まだ試用期間中らしい。ホルンの首席も若い人に替わったようだ。着実に時は流れて行っている。
April 12, 2016
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先回は倉敷へ行っていてパスしたので、久しぶりのキタラ。このところ、真冬に少なかった雪が、帳尻合わせのように降るせいで、キタラへ向かう公園の中の路も、3月とは思えない雪景色。名誉指揮者になったエリシュカの演奏会ということで、ほぼ満席の入り。演目は、スメタナの「シャールカ」とドヴォルジャークの弦楽セレナード。そしてチャイコフスキーの4番という、魅力的なもの。札響とエリシュカの「我が祖国」は既にライブがCD化されていて、あの片山杜秀が絶賛していたが、モルダウの次の曲だが、アマゾネス伝説が素材の、まあ、さほど人気のある曲でもなく、オープニングの小手調べ的演奏。弦楽セレナードは昔からの愛好曲だが、遅いテンポが爽やかさを減じていた。静かな第4楽章の途中で、左側の2階席で、判然としなかったが話し声が交錯し、気分でも悪くなったのか?ご婦人が、係員に抱えられるように退席。気が散ってしまって、その先は集中が切れた。楽員はそうでもなかったみたいだったが。チャイコフスキーの最高傑作はもちろん「悲愴」だが、4番、とくに第1楽章はそれに次ぐ。比べると5番は俗に過ぎる。有力若手指揮者がデビュー早々に録音すろのが5番だ。4番は楽章間のバランスも悪く、終楽章の出来も良くないが、第1楽章は絶品だ。作曲時の作曲家の追い詰められた心境そのままの、苦渋と焦燥に満ちた音楽。ただ、エリシュカの指揮は、ここでも遅いテンポが緊迫感を殺ぐ。これが85歳の老巨匠の音楽と割り切って聴ければいいんだが、こちらの思い入れには添わない。万雷の拍手に、大きな異存はないんだが、ベーム以来の老巨匠過大評価の風潮には組したくない。
March 6, 2016
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澤の不在の大きさもさることながら、この4年間で進化できなかった、させなかった監督と協会の責任が問われる結果だ。淀んだ水は腐る。それだけのことだ。スポーツばかりではなく、過去の栄光や成功体験にしがみつく者に、新たな勝利はない。心したい。
March 4, 2016
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志村的タイトルだが、先週テレビの「相棒」を見ていて、バックに流れていたのが「アンフォーゲッタブル」だった。以前からナット・キング・コールのレコードは欲しいなあと思っていたので、検索してみたら手ごろな2枚組のCDがあったので、即お取り寄せしてみて、今聴いてみているが、本当にいい声だ。古き良きアメリカの幸せだった頃の音楽。ノスタルジックの極み。ゲスの極みの正反対だね。
January 24, 2016
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指揮マティアス・バーメルト。演目は、マ・メール・ロワ組曲、イザベル・ファウストとのメンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルト、そして展覧会の絵という有名曲ばかりだったが、寒いせいか?客の入りは意外と良くない。土曜日の午後から夜まで会社主催の行事があるために、金曜夜に席を振り替えてもらってあったが、雪道の交通事情から開演にわずか間に合わず、最初の組曲はロビーで聴く羽目に。スイス人の指揮者と日本のオーケストラでのフランス音楽をちゃんと聴けず、残念。世間のイメージよりも、札響のフランス音楽はサマになっていると思っているので。2曲目の合間に、会場係のお姉さまが丁寧に席に案内してくれて、ふと前を見ると、数年前引退された、同じライオンズクラブ会員だったお医者さんご夫妻。久しぶりにお互いの近況を訊き合うことが出来て良かった。初見参のイザベル・ファウストは、案外小柄でスレンダーな金髪(ブロンドまでいかないが)美女だったが、繊維が硬そうで妙に広がった形状の上っ張り(妊婦服かと思ったが多分違う?)とスパッツに近いパンツルックで登場。スリーピングビューティという名のストラディだそうだが、体格のせいか、彼女の指向(ストイックと言ってもいいくらい)なのか、豊満な音ではなくて、正確だが愉悦感には乏しい。満場の拍手に応え、アンコールは、重音を聞かせるバッハの無伴奏3番のラルゴ。昔、前列のお医者さんから、女性の場合はブラヴォーじゃなくてブラーヴィなんですよねえと教えられたことを思い出したり。後半の展覧会の絵。指揮者の風貌と、燕尾服と赤い腹帯に、なんとなくオーマンディを思い浮かべ、これがフィラデルフィアだったらなあと思った。この曲は徹底的にヴィルトゥオーゾオーケストラで演奏されたい曲だから、札響ではやはり物足りない。今の札響のトランペットの首席は、他所に出しても遜色ないくらいに上手いけれど、ホルンを初め他の金管はイマイチ。そういえば、ゲストコンマスとして韓国テジョンフィルのコンマスが座っていて、隣に札響のコンサートミストレス、2プルトの表に今期からのもう一人のコンマスが座っていて、珍しい光景だったが、臨時のコンマスでオケのまとまり具合がどうだったのか、演奏の出来映えから判断すると、ちょっと疑問符付。今回の指揮者は2回目だったが、あまり際立ったところはないが、手堅い印象。レパートリーも広そうだし、ブーレーズとシュトックハウゼンに師事、モーツァルテウム管弦楽団の首席オーボエ奏者から指揮に転向したそうで、セルに弟子入りして、ストコフスキーの助手を務め、マゼール時代のクリーヴランドの常任指揮者だったとのこと。その後の経歴や録音歴にも錚々たるものがあるようだと思うが、なんというか地味。でも、毎年でなくても、もっと何回も来てもらうといい指揮者ではある。
January 24, 2016
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薄曇りの元旦。二人と一匹の静かな正月。午後になり次男一家が到着して、さらに長男一家が来て、一気に賑やかな正月に変わる。安倍政権になってから急にきな臭くなったこの国に、災いが引き込まれないように祈る正月。この国を、これ以上嫌な国にしないようにしなければならない。
January 1, 2016
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首席指揮者マックス・ポンマー、2回目の登場。ゲルハルト・オピッツとのベートーヴェン第4ピアノ協奏曲と、ブルックナーの4番という、ドイツ本流ものの演奏会。前者は、現在これ以上はないだろ!というくらいの、誰もが思い浮かべるであろうイメージ通りのベートーヴェン。おかげで爆睡。ある意味心地良さ過ぎ。ある意味新鮮な驚きもなし。アンコールにバッハかブラームスでも弾いてくれないかなあと期待していたら、ブラームスのインテルメッツOP118-2だった。グールドが偏愛し、モラヴェッツも録音を残している、隠れた人気曲。このアンコールが聴けただけで、今日の演奏会に来た甲斐があったというもの。後半のブルックナー。オヤ?と思ったのは、ずっと首席が吹いて来ていたホルンを、若い副主席が吹いたこと。近年札響も少しずつ若返りが目立って来ている。ところで、この4番、ロマンティッシェは、ブルックナーの交響曲の中では、多分ダントツの人気曲だと思うが、作品の面白味は意外と少ない。ブルックナーの場合、版の問題が必ず言われるが、それ以前に、後年の作品と比べれば、まだ冗長であり、彫琢不足も耳につく。たしかに聴きやすい曲だが、そこまでである。ポンマーの指揮でも、そのあたりは特に解決されてはいなかった。そういう曲なんだからそれでいいという見方もあるだろうが。ドイツ音楽の本流とはこういうものである、と宣言されたような演奏会だった。札響がポンマーの治世で何を吸収するのか判らないが、遠からぬ将来、次の首席もしくは常任に誰を考えているのか、気になる。
December 12, 2015
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指揮にアシュケナージ。モーツァルトの25番コンチェルトのソリストは河村尚子なので、ピアノは弾かない。彼ももう80くらいだろうから、次に、指揮姿であっても、見る機会が来るかどうかは判らないけれど、舞台への入退場の際のチョコマカしたコミカルな(本人は意識してやってるわけじゃないに違いないが)動きに衰えはなかった。彼ほどの実力と実績のある音楽家にして、ああいう聴衆や楽員たちへの接し方(例えば指揮棒を横に咥えてソリストに拍手を送ったりとか)には頭が下がるし、一層の微笑ましさを覚えた人が多かったのではないか?演目の最初は「プロメテウスの創造物」序曲、ベートーヴェンのOP.43。先日ラハティSOを聴いたばかりだが、次のモーツァルト共、それよりももっと小さな編成の、10-8-6-4-3。比べると札響の音の方がきめ細やか。国民性と人種の違い?アシュケナージの指揮は判り易い。河村尚子は初めて聴いたが、評判から受けていたイメージとは随分違った。予想外にガッシリした体格と態度で、ひ弱さは微塵もないベートーヴェン向きのピアノの音。指は非常に良く回るが、チャーミング不足というか、デリケートな軽やかさには乏しい。第1楽章のカデンツァの中に「ラ・マルセイエーズ」のフレーズが出て来て驚いた。先般のフランスでの惨事に対して、彼女なりに何か表現したかったんだろう。意外なことに、モーツァルトの25番協奏曲が定期に載るのは初めてだったらしい。たしかに20番以降の中では、軍楽調で始まり、あまり気を引く曲ではないけれど(そういえばアルゲリッチとアバドの最後の共演CDにも入っていた)、第3楽章なんか愉しげで悪くない曲なんだが。アシュケナージに促されたアンコールで、バッハの有名な世俗カンタータ208番の「羊は安らかに草を食み」(ブゾーニの弟子のペトリ編曲)を、なぜか弾いた。さっきのカデンツァのときのように、何か意味があったのかはわからない。休憩後はショスタコの10番。この夏ゲルギエフがPMFで取り上げたばかりの曲だったが、その時に受けた印象とは全然違って、ある意味とても判り易い演奏だった。ゲルギエフと違って、アシュケナージは、ショスタコと同じように、体制に苦しめられただけ、曲の解釈が切実で、説得力が強いのではないか?札響もその想いに良く応えていたと思う。ラハティ公演の後に降った大雪と寒気で池は結氷して、キタラへの路はすっかり冬景色に変わった。
November 29, 2015
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大先輩からいただいたティケットで、オッコ・カム指揮ラハティSOの演奏会に行ってきた。フィンランディア、ヴァイオリンコンチェルト(神尾真由子)、第2交響曲という、これ以上ないくらいのポピュラーな演目で、キタラはほぼ満席。いただいた席は2階左側だったが、むしろ低弦が良く聴こえるみたいで、音響には問題なし。というか、札響よりも小ぶりな編成なのに(12-10-8-6-5)、音量がデカイ。すぐに思い出したんだが、以前聴いたゲルギエフとキーロフの音のデカさとは違うけれど、要するに全く非力じゃないということ。フィンランディアにしても2番にしても、これまで聴いた、どの演奏と比べても、とっても感動的だった理由は、多分シベリウスに対するリスペクトと演奏する者のプライドの違いなんだろう。コンチェルトは、例えば以前聴いた田部京子のグリーグの第2楽章に感じた、冷たく澄んだ空気感が足りなかったが、難癖をつけるほどではなく、アンコールに弾いたエルンストの「魔王」を扱った超絶技巧曲がとても面白かった。ああいうヴィルトオーゾ御用達みたいな曲を、サラリと弾いてみせる技量は大したもの。オッコ・カムって、今何歳かな?あまり健康じゃないのか、椅子に座って、かつてのミュンシュみたいな長い指揮棒を使っていた。体型的に、アングロサクソン系じゃなく、フィン族系なのではないか?西洋音楽的に言うアゴーギグ?日本的には「溜め」が、とてもシックリ来たのは僕だけ?アンコールを3曲。悲しきワルツ、クリスチャン2世のミュゼット、鶴の居る情景。最後の曲は、9・11直後の、セーゲルスタム、ヘルシンキのアンコールで演奏されたことがあったから、今回もあのフランスの出来事に寄せて演奏されたような気がする。サイン会があるとのことで、つい出たばかりの彼らのシベリウス全集を買ってしまったが、記憶に残る演奏会のいくつかに間違いなくなった。充実した気分でキタラを後にし、暗くなった冬枯れの公園の路を歩いた。
November 23, 2015
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名誉音楽監督となった尾高さんの指揮で、父上の尾高尚忠作曲交響曲第1番。早逝されたから第2番は多分ないんじゃないかと思うが、しかも第2楽章も近年発見されて、尾高さんの兄上の惇忠氏が補筆完成したそうだから、言わば未完成交響曲かもしれない。戦後のわかったようなわからないような現代音楽ではなく、ドイツロマン主義の延長上に少しだけ和風テイストを感じさせる音楽だった。決して聴きづらい音楽ではなくて、寧ろ聴きやすい。後半は、その父上が亡くなる2か月前に、ようやく振ることが出来たというブルックナーの9番。尾高さんの思い入れも一入で、終演後の拍手の中、わざわざマイクを手に、そういう特別な曲だというエピソードを語られた。なぜかジンと来るものがあった。札響も熱演していたが、例のグロテスクとも言えるスケルツォの低音の刻みに、もう少しキレが欲しかったなあ。ティンパニも、もっとチューニングを硬めにした方が良かったと思う。西洋クラシック音楽の三要素、リズム、メロディ、ハーモニー。1番のリズムに関して、厳しい見方をすれば、指揮も演奏も甘い。春にメンテナンス休館した分、10月は月初と月末2回公演という、珍しいスケジュールだったが、ほんのひと月足らずの間に季節は駆け足で通り過ぎ、もはや晩秋より初冬に近くなって、中島公園の紅葉も最後のときを迎えている。
October 31, 2015
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我が家からさほど遠くない(歩くにはちと遠いが)ところに、わりと短いサイクルで入れ替わるラーメン屋の建物がある。数年前には一時、あの麺屋虎鉄も出ていたんだが、その後は何軒か、長続きしない店が続いていた。夏頃だったか、通りがかりに、新たな店が入っているのを見た。ただ、表の看板や幟旗に、ラーメンとカレーの店とか書いてあって、まったく期待出来そうな雰囲気は感じなかった。ちょうどその頃、妻の入院手術とかがあって、その初めころの夕方、病院の帰りに、夕食の支度も面倒で、入ってみた。店が変わるたびに、ほぼ入っている店内の様子は、前の店とさほど違わなかったが、ただカウンター越の厨房と、スタッフ全員がなぜか女性だけだということに気が付いた。ンー、こりゃ食堂だったか、と思ったが、メニューを見ると、なかなか興味深いラーメンが並んでいて、更に、問題のカレーは、塩ラーメンのスープをベースに丸一日以上かけて作る、とある。知らないラーメン屋に入って最初に注文するのは、外れでも、よほどでなければ何とか食える味噌だが、夕食替わりだったので、そのカレーのミニも頼んでみた。さて、その味噌ラーメンだが、思いがけない深い味で、麺も適当で、しかも飲み干せるスープ。大当たり。そしてカレー。外で食うカレーで、こんな旨いカレーは久しぶり。近年札幌といえばスープカレーみたいな風潮があるが、カレーはルーが命です。いやあ、参った。今まで、女性の店主(調理人)のラーメン屋って、あったっけ?素晴らしい。訊けば、その少し前に引っ越してきたそうで、以前の店の場所は、あの「あづま」が復活したのかと思って入った同名の店の後だったらしい。あそこは駐車もしにくく、車通りだけが多い場所で、ラーメン屋には向かない場所だったと思うから、引っ越してきて正解だったのではないか。それから、何回か訪れ、塩ラーメンが絶品というのもわかった。ご承知の通り、塩の美味い店は極めて少ないのだ。さて、先月末だったか、妻がクラス会か何かで外出した折、これ幸いと仕事帰りに寄ったときのこと。店のシャッターが降りていて、アチャーまた潰れたかと思ったが、思い返してシャッターの張り紙を読むと、大通りで開催されているフードフェスタに出店するために臨時休業中ということだった。ガックリして、その夜は引き揚げたが、数日後に妻と訪れてみると、やはり知名度が上がったのか客が多く、品切れのメニューもあったほどだった。気に入った店が繁盛するのはいいものだが、また、もっといい場所へ移転しないか気がかりだ。優月という店のお話。
October 11, 2015
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この一週間ほど、思うに、あの雷ほぼ直撃騒動の日以降、ジュリの調子が良くない。動きが鈍く、食も進まず、散歩のときには道端の草を(多分気に入るのとそうじゃないのがあるみたいだが)食べたがる。昨夜とその二日前と、いつもの晩御飯を全く食べなかったので、さすがにどうしたものかと、予防注射以外で初めて病院へ連れて行った。症状を説明すると、雌なのでホルモンバランスがおかしくなっているのかもしれないと言う。今日出来ることは何かと問えば、まず血液検査だと。ただでさえ臆病なジュリは、建物に入った時から震えていたが、診療台に載せられただけでパニック。首の周りにエリマキトカゲ風のもの(名称を訊けばよかった)を付けられてから、右の後ろ足から注射で血を抜かれ、結果待ち15分。数値的には腎不全になりかけらしい。水分不足ということか。心臓に負担がかかっていないかエコー診断みたいな機械で映像を見る。最近胎児の動きとか見る機械と同じようなものではないか?たかが犬にそこまでするか?とは思ったが、物珍しさに見入る。結局、皮下点滴とかいうのをやってもらって、今日のジュリの悲惨な治療はおしまい。2,3日様子見に連れて来た方が良さそうとか言われたが、簡単に万札が飛んでゆく話で、病院にすればジュリは、いい金蔓?
October 7, 2015
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今回の指揮は個人的にお気に入りの広上淳一氏。演目はラフマニノフで、小山実稚恵女史のピアノで3番のコンチェルトと、意外と聴く機会のない交響的舞曲。小山女史はデビュー30周年だとかで、通常のプログラムと共に記念の小冊子が付いていた。しかも定期演奏会には珍しく、終演後にサイン会もあるとのことだった。これまでにない扱いで驚いたが、彼女の人気実力によるものなのか、プロモーターの力によるものなのか、はて?いつも思うことだが、女性演奏家のプロフィールには、なぜ絶対に年齢が表記されないのだろうか?男性の場合には多くの場合何年生まれとか書いてあるのに。本人が個人情報保護?で拒否している場合もあるんだろうが、聴く側としては、そのときの年齢と言うのも鑑賞の情報の重要なファクターであって、その年齢にして到達した、その人の芸術の幅や深みを判断し味わうにも、ぜひとも実年齢は知っておきたいものである。ラフマニノフの3番というのは、いつ聴いても「過剰」という印象が否めない。ホロヴィッツやアルゲリッチのように、ラフマニノフは3番しか弾かない、とか、たしかにピアノ曲の頂点のひとつなんだろうが、途中から聴き疲れというか、もうたくさん!という気分になる曲だ。両手の指が目まぐるしく動き回り続ける演奏を観ていても、観疲れる。偏見と言われるが、女性ピアニストには荷が重い曲だと思う。音に余裕がないので余計疲れるのだ。交響的舞曲では、踊る広上を堪能。唸りのコバケンに匹敵する、特徴の際立つ指揮が、特にワルツ調の第2楽章で優雅にも炸裂。指揮台の上でジャンプしたり、日本人としても小柄な身体を目一杯使う指揮姿からは、昔流行った「のだめ」に出てくる「片平」を思い出すほど。それに、失礼ながら6等身にしか見えないくらいに大きな頭は、さすが脳みそが一杯詰まってるんだろうなと、かつて見た武満徹まで思い出させてくれる。ああいうエモーショナルな指揮者が、やっぱり札響には欲しい。ところで、小山実稚恵によるアンコールがあったが、スクリアビンの左手のためのノクターンOP9-2という珍しいもので、本当に右手はずっとお休み、という演奏姿は意表をつくものだった。家に帰ってから、たしかアーリー・スクリアビンとかいうCDがあったはず、と探してみたら、その中にありましたね。しかももう一つ別に、ある意味有名な、あのマイケル・ポンティの、全集の中にもしっかり収録されていて、自分でもちょっとビックリしながら聴きなおしたのでありました。問題は、今日の演奏会の前半、小山実稚恵の出番の際、会場の右側の方から、頻繁に携帯のアラーム音(のような電子音)が聞こえ続けたこと。おそらく多くのリスナーは、自分と同じように聴くことに集中出来なかったと思う。携帯の音なら、いい加減、本人や周りが気づいて止まるだろうと思いきや、一向に鳴り止まず、遂にアンコールも済むまで解決しなかった。休憩に入ったときに、もしかしたら補聴器の音だったかもしれないと隣人が言う。調節がうまくいかないとハウリングみたいに鳴ることがあるらしい。補聴器を付けてでも音楽を聴きたいという人を無碍に責めるのもいかがなものかとも思うが、外すなり電源をオフるなりの配慮が出来なかったものか。さすがに休憩後の館内放送でも、注意喚起のアナウンスはあったけれど、補聴器とは予想外の盲点である。
October 3, 2015
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不安定な天気だった今日。午後に稲光から1秒も間が無く強大な雷鳴。事務所の3階が揺れたというくらい強烈だった。ジュリはいつものことながら怯えきって大変だった。厄日。
September 29, 2015
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数年前から札幌でも海老ラーメンなるものが一部で流行っているらしい。一昨日、祭日の昼に、次男一家と「こぶし」に出かけたら、月に2回の海老の日だった。正直海老が特別好きなわけでもないので関心もなかったんだが、本来店が休みの昼だけの出し物とかで、普通にはまず無い機会と言えば機会だったから、食べてみた。メニューは辛海老ラーメンと塩味の海老ダシつけ麺の2種のみ。前者はここの「赤こぶし」のタレを海老のスープに置き換えたと思しき味で、麺が細いストレート麺だった。脂気が少ないだけ高齢者向きかも。後者は少しだけの味見だったので評価まで行かず。醤油塩味噌に次ぐ第4の味として海老が定着するのかどうかは未だ不明。
September 25, 2015
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近年、次第にバッハに親しめるようになってきていると思う。ハイドンはまだしもベートーヴェン以降の音楽というのは、いかにも人間の書いた音楽であって、好むと好まざるを問わず、正面からの対峙を迫られる。モーツァルトがミューズを介して遺したものは、それでもヴォルフガング・アマデウスという生身の天才の所業である。彼らの息遣いの跡を追うこと半世紀。今ようやく、バッハの見た神に想いが至る時が来たような気がしている。中でもかねて気になっていたのは、当然ながら教会カンタータである。200曲を、果たして聴きおおせるかはわからない。先週、幸い廉価盤が手に入ったので、ポツポツ聴き始めたところだ。バッハのありがたいところは、エモーショナルにならずとも音楽が成り立つところで、端から何かを得ようとか聴きとろうとか、小賢しい心構えなど無用であるところだ。神の音楽は、数学と天文学から出来ている。まだ西洋クラシック音楽の全体像も見えていなかった頃、初めて教会カンタータ(4番だったと記憶している)なるものを耳にしてから50年近く。ようやく辿り着いたというよりも、戻り着いたという気持ちの方が強いかもしれない。
September 24, 2015
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自民党、公明党、直近で寝返った泡沫3党。それぞれの所属議員を次の選挙で落選させる運動を始めよう。手続き的なことは良くわからないが、国会で決められたことは、国会で決め戻せばいい。安倍は、国民を戦争と死に駆り立てた者として、裁かれなけれなならない。勿論、私利私欲、既得権保全と保身に走った5党の連中も同罪。絶対に許されるものではない。恥知らずの卑怯者たちにこそ死を。
September 18, 2015
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安倍という卑怯な男と、それに媚びへつらって権力にすり寄った者たち、議員という甘い汁を手放すことを恐れるだけで国民の生命のことなど考えもしない輩、そいつらのことは決して許さない。いつか来る総選挙のときまで、絶対に忘れないようにして、国民を裏切った者たちを断罪し、真っ先に戦地へ送り込んでやるのだ。怒りを持続させねばならない。
September 17, 2015
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哀れな話だ。飼い主にお咎めなしで納得する愛犬家は皆無であろう。加えて、計13発もの銃弾を撃った警官たちの愚かさにも腹が立つ。あの3人が3人とも、犬を飼ったこともない人間だったのだろうが。仮に喧嘩している二人の人間がいて、一方がもう一方に対して危害を加えているように見えたとして、彼らはその危害を加えているように見えた方に対して、威嚇ではなく発砲までしただろうか?相手はいわゆる犬畜生である、ということか?飼い主に尻尾を振っていた紀州犬が、どうして噛みつく事態になったのか、真実を明らかにしてもらいたいものだ。絶対に人間の方に原因があったはずだ。なぜだかわからないまま射殺された紀州犬が哀れである。
September 15, 2015
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ハインツ・ホリガーが45年ぶりに定期に登場。今年84歳?最初の、フンメルの、「序奏、主題と変奏ヘ長調OP102」という曲だけ吹き振りで、あとは指揮のみ。シューベルトの、死ぬ間際のスケッチからが元(第10交響曲?)の「アンダンテ、ロ短調D936A」という編曲物だが、10分ほどの極めて珍しい楽章(どこまでシューベルトの表現したかったものが再現されているのか疑問なくらい面白味はなかったが)の最後、弦楽合奏だけになった人数が更に減って、四重奏になって静かに終結したあと、間を置かずに「未完成」が演奏された。休憩後に、バルトークのオケコン。未完成とオケコンについての評価は微妙。指揮者としてのホリガーの力量、ヴィルトオーゾオーケストラとは言い難い札響の力量のバランスをどう見るか。及第点に到達していたかどうか。オーボエ吹きとしてのホリガーの、ナマの全盛期を知らないんだが、ホリガー30代での録音のフンメルの曲のCDが、自分でも驚いたけれど、うちにあったので聴いてみたら、80代の管楽器の演奏家としては、多分、普通ありえない衰えの少なさだったと思う。終演後の盛大な拍手は、多分に我が国特有の高齢指揮者への熱狂と感じたが、歴史に残る偉大な演奏家としての評価も含めれば、とくに文句を言う筋合いではない。
September 6, 2015
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また白紙撤回だそうだ。もちろん東京五輪のエンブレムのこと。でも、また誰も責任を取らない。先週まで、あれだけ強弁を続けていた組織委員会の事務局長が、どの面下げて、いけしゃあしゃあと、混乱をさけるために撤回するなどとほざけるのか。国立競技場のときもそう。誰も責任には触れず、マスコミも追及しない。そういえば、しくじった政治屋(政治家などと呼ぶのもアホらしい輩)が、混乱を避けるために離党すると言うのも、これまでさんざん繰り返し出現しているわナ。そうそう。この際、いっそのこと、安倍サンの法案も白紙撤回でしょと、大多数の国民は思っているんだよね。
September 1, 2015
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彼の訃報からひと月。ほとんど話題にもなっていないようだが、あまり知られていない、知る人ぞ知るピアニストだったと思う。かくいう自分も、今更ながら、こういう知られざるピアニストの遺した数少ない録音を、あらためて聴きなおしているわけだが。彼の名を知っているとしても、多くの人にとって、昔アメリカのコニサーというマイナーレーベルから出ていた、ボールドウィンとかいうピアノを使って録音されたドビュッシーのピアノ曲集の、目覚ましい録音のLPの存在と殆どイコールではないか?その音源が今CDに復刻されているのかも知らないけれど。たまたま彼の死後に物色してみた何枚かのCDを聴いてみている。繊細と思いきや意外と力強かったり、結構個性的なルバートがあったり、なかなか一筋縄では行かないピアノだ。あのミケランジェリに見込まれただけあって、音色は多彩。返す返すも、手に入る音源の少なさが残念。
August 27, 2015
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不安定な天候の一日。午前中、短時間だったが、かなり強い雨と共に、ジュリの大嫌いな雷。事務所の中を右往左往しながら、呼吸は荒く、抱きかかえても全身で震えている。以前飼っていた犬で、こんなに雷を恐れる犬はいなかったんだが。他所の犬にも、雷恐怖症の犬はいるのだろうか?
August 11, 2015
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暦の上では立秋も過ぎたらしく、昨日あたりから夕方の風が涼しくなってきた札幌とはいえ、お盆前の盛夏の昼下がりに聴くブルックナーの7番。好きなのは最初にレコードを買ったワルターのものや、カラヤンの最後の録音になったものなどだが、今かけているのは古いシューリヒトのもの。馴染の曲には多かれ少なかれそれにまつわる思い出がつきもので、この演奏にも学生時代の夏の合宿と分かちがたく結びつくものがある。当時の北大の音楽鑑賞サークルという極めて軟派な集まりには、なぜか夏の合宿というものがあって、7月の終わりころだったか、必ず、支笏湖にあったオンボロの寮のような施設に、何人かで、何泊か、泊まりがけで出かけたものだった。皆で炊事したり、近くの山や湖沼に出かけたり、夏休みをそれなりに満喫したものだ。当然ながら、当時部室で使っていた、たしかトリオのチューナーアンプや、メーカーは憶えていないがレコードプレイヤーを持って行った。スピーカーは、その頃部室にあった手作りのものは大きすぎて運べなかったので、誰だったか部員の私物の、フォスターの10センチフルレンジの入った真四角で小ぶりなものが持ち込まれた。ソースは部員の持ち寄りであったが、人気の1番が、シューリヒトのブルックナーの7番のスケルツォであった。当時のレコードにしても、決していい音ではなかったし、今CDになったものを聴いていると、同じくいい音ではないが、その頃の気持ちのいい夏の朝と、古びた建物と、汚い畳の大部屋と、その頃居た、とくに愛想もない寮守りの老夫婦を思い出す。昔は今ほどソースの選択肢が少なく、シューリヒトのものが、当時の学生の手に入る数種類の一つにすぎなかったのではないかとも思うが、今となってはやたら沢山出回っている同曲のソースの中でも、決して悪い方ではないとも思う。言うまでもなく、昔は誰でも彼でもレコーディングさせてもらえなかったはずだから、少ない選択肢とはいえ、大外れというものは少なかったに違いない。比べると、今はあまりにも玉石混淆。選択肢の多過ぎさが、逆に、出会いや感動への妨げにさえなっているのではないかと思ったりしてしまう。
August 9, 2015
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