空腹ラッコの雑記帳
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前回(4か月前!)の記事で「例の曲の一部」と少しぼかして書いたのは、一抹のうしろめたさの故でした。 例の曲とは「S氏」の代表作とされた交響曲のことですが、私が聴きとおしたのは第3楽章だけで、聴取可能であった第1楽章は最初2~3分で挫折していました。この曲では各楽章でチューブラー・ベル(以下鐘と書きます)が鳴らされますが、第1楽章では開始後2分で鐘がなるのです。ここが「赤面ポイント」となり、どうしても乗り越えることができませんでした。 前回の印象は、従って第3楽章だけのものでした。その範囲においては自分の正直な印象を書いたのですが、ひっかかりを感じていました。常識では考えられない多くの人が、1時間20分に及ぶ長大な曲にじっと耳を傾けていたこと。私の印象との間には、あまりに大きな落差があります。第3楽章だけで判断してよいのか。まだ聴き通していない第1楽章、第2楽章に私が知らない何かがあるのではないか。 そのような疑問から、一度は全曲を聴いておこうと思いましたが、もはやCDは販売されていません。頼りは図書館ですが、昨年2月時点では何十人もの予約と表示され、当面はあきらめるほかありませんでした。 今年も半ばとなり、あれから1年数か月を経過すると、さすがに状況が変わっていました。とある図書館でたまたま発見したCDを借り出し、この曲の全貌に接することができました。その上での感想を今回は書き留めます。タイトルに付けたように、N氏の著書が世に出ていますが、私はこの日記をほぼ書いた後書店で斜め読みしました。前回の日記ともども、「やはり」と思うところも「あれ違っていたのか」と思うところも色々ありますが、食い違いはそのままにしておき、末尾で簡単に補足します。【謎は深まる - 第1楽章】 今回は初対面の第1、第2楽章を繰り返し聴きましたが、謎は解けません。「こんなに長いのに、こんなに構造をつかみにくいのに、どうして集中できたのだろうか。」疑問はむしろ深まりました。 第1楽章は簡単に言えば遅い序奏と速度を上げた主部ということになるのでしょうが、その前後左右にさまざまなものが投入されています。序奏部の中心に運命あるいは十字架と呼ばれている音型が置かれます(鐘もここで鳴ります)が、そこに至るまでに3つ4つと異なる動機が続きます。ブルックナーの第9のスタイルです。鐘が鳴り、さて主部かと思うと今度は弦楽器中心で悲しい音楽が少しずつ形を変えて続けられます。マーラーのような、「フィンランディア」のアンダンテのような数分間。そしてようやく主部ですが、2~3分経つと腰砕けになり、木管のコラール風のパーツが現れます。バッハあたりの雰囲気を狙っているのでしょうか。お次は固執低音が思わせぶりな「火の鳥」冒頭のような部分。主部はどうなってしまったのだ…。つぎつぎと変わる曲想に、お腹はどんどんふくらんでゆきますが、いったいどこに向かおうとしているのかがつかめず、集中の持続が楽ではありません。【飽食の迷い人 - 第2楽章】 第2楽章もつぎつぎと楽想が登場します。多くのパーツが前楽章から引き継がれています。まるで同じ店の同じコース料理を昼・夜続けて食べさせられた気分。お腹はいっぱいなのですが、どこにいるのかがわからない。第1楽章以上に迷っているという不安感が強まります。個々のパーツは展開されるというより、ただ形や組み合わせを変えて再現しているだけのようで、「変化」よりは同じものであることに意味を持たせているように思えます。すると、私は前に進んでいるのではなく、ずっと同じところを回り続けているのか…。 テンポをあげた部分を挟んで、とりあえず終わったか、と経過時間をみてみると20分。まだ15分残されています。ここまで引き延ばしてこの上何を、と思っているとトロンボーンの古楽風の旋律が現れますが、これも結局は同じ重苦しい空気の中に吸い込まれ、やがて鐘がなります。「そうか、鐘を鳴らし忘れたから15分継ぎ足したのか」私以外にそう思った方はおられなかったのでしょうか。 私の聴取の経過はこんな具合でした。なぜ多くの人がこの音の連なりに、かたずをのんで集中できていたのか。謎はかえって深まってしまいました。【台本なき劇音楽? → 台本の発見】 さて、これら楽章をまたがって使われる数々のパーツのうち、いくつかは旋律というよりは、動機・音型と言った方があてはまります。その種の旋律・動機が何度も現れ、しかも音楽だけでは展開がはっきりしないのに、人を引き付けられる。そんな音楽があるだろうか。 劇音楽。そういえばこの曲での旋律・動機の扱いはライトモチーフの手法と似ています。すると交響曲といいながら「台本なき」劇音楽なのか、と思いかけて…、この曲にも台本があることに思い当りました。この交響曲が現実の音となる2008年に先だって、2007年に刊行されたS氏の自伝、その名も「交響曲第一番」。【仮説】 この交響曲は作曲家の「自伝」を台本とする劇音楽でもあるのか。そう仮定してみると、かなり見通しがよくなりました。「運命」「絶望」という言葉が1・2楽章(で鳴る鐘)に向けられていますが、それは実はS氏をさいなむ「運命」であり、そのもとで自ら課した使命を果たさなければならないS氏の「絶望」なのか。そしてその逆境の中でアカデミズムに浸った現代音楽の主流とは異なる路線で偉大な音楽を目指す「苦闘」が合わさって、全曲は成り立っているのか。自分の「運命」「絶望」の深さと「苦闘」の激しさを語りつくすためには各々の楽章の長さは不可欠のもの。 初めに長さありき、そういうことか。 そしてある段階で後付けの標題が与えられ、私的なものは公的なもの(もう少し書けば政治的なもの)へと転化されました。それが成功したのは、8.6の「運命」「絶望」に匹敵するように自身の「運命」「絶望」を描いていたためでした。(注)ここで注記すると、私は「運命」「絶望」の深さを曲の長さと長さの中での反復から推しはかったのであって、曲想の方からはそれ程のものを感じませんでした。第2楽章終盤、曲を引きのばしてまで鳴らされる鐘をS氏は「絶望の鐘」と呼んでいるらしいのですが、正直に書くと、鐘つきの部分を聴いたとき「あなたの頭の中の絶望はその程度なのですか」と言いたくなりました。「悲愴」第1楽章再現部にはるか及ばず、しかもチャイコフスキーはここでは鐘の助けを借りておりません。ついでに書くと、全曲終盤で銅鑼(タムタム)の最弱音を静寂の中で鳴らし、次元の異なる効果をあげています。 多くの聴衆の人達も、S氏の悲劇とその中からの「創造」の物語への共感をもってこの曲に接していました。本来の台本にあたらずとも、親切な人たちのおかげで同じ趣旨の感動物語が嫌というほど世に広まっています。そのS氏の悲劇の深さ(@自伝)を標題の"HIROSHIMA"や3.11 と重ね合わせ、あるいは自身の体験と情念とも共鳴させながらこの曲を味わう、そのアプローチが私に不可能だった長い曲への集中を可能にしたのかもしれません。【曲自体の価値?】 その考えに立てば、「曲自体の価値」なるものについても、答が出てきます。この曲はもともとS氏の自伝をコアにした作品なのであり、作曲者が別人で肝心の台本もフィクションであるとすれば、はなはだ意味が薄れてしまいます。標題も後付けであることが分かり、残された曲は「中身の伴わないしつこい長話と大暴れ、感動のエンディング付き」と言うほかない。それで、からくりを知った私にこの曲がかくも難解であったのかもしれません。今なお「曲自体の価値」を主張する人は、「S氏が主張しようとした苦悩や絶望はN氏に代弁できる程度のものなのか」という問いに、どう答えるのでしょうか。【第3楽章の効用】 以上はここ2~3週間、第1、第2楽章と付き合ってきた上で考えたことですが、第3楽章が加わると、1つだけ評価できることがあります。第3楽章でもそれまでの動機が再利用されますが、少し印象が違います。第3楽章はアップテンポの部分が比較的多く、多数の楽器を動員した賑やかな部分も増量されています。こうした「爆裂系」の音楽の中でこれまでの動機が再現されると、単に再現されるだけで何となくまとまりを感じるのです。伏線回収の手ごたえといいましょうか。 内外の曲にも、最終楽章の主題を先行楽章から採って用いる例があります。例えばリストのファウスト交響曲。バルトークのヴァイオリン協奏曲(第2番)もそうですし、邦人作曲家の作品にも例があります。ただ、再使用時に印象が劣るように感じてしまい、最終楽章の軽量化を招くことがこの手法の弱点だと思っていました。ところが、この曲では先行楽章の記憶が、流れのつかみにくさ故にあいまいになり、最終楽章での再現は、あいまいな記憶をよみがえらせ「ばらばらだったものを最後にまとめ上げている」ような感覚をもたらすのです。この曲の「構成」について、私は好印象をもちませんが、時折みかける賞賛は、こうした事情を考えれば多少理解できます。【再構成の勧め】 今回書いてきたこの交響曲のはっきり言うと「欠陥」は、パーツそのものについてではなく、その提示、組み合わせ方に関するものでした。S氏は曲の構成・設計での役割を主張しますが、私はその設計にこそ難を感じていることになります。 よりコンパクトに再構成すれば、パーツの側の問題は残りますが、魔法が解けた今でも展開を追い得る曲に再生できるのではないでしょうか。実体のない台本を捨て、構成・設計での分担を主張するS氏の主張を封じることで、著作権の問題で演奏がかなわないこの曲を救い出すことにもなります。実際に演奏され、受け入れられるかは別の問題ですが、演奏しよう、聴こうと思えばそれができる、選択可能なものを用意することは、この曲にのめりこんだ人に対する作曲者の義務ではないでしょうか。かような次第で、再構成を勧めたい気持ちは、実は本心です。報酬までは用意できないので「指示書」は無理ですが、提案書ならつくってみましょうか、と考えたりしております(こちらは冗談)。【補足 - 驚きの楽曲解説】 少し角度を変え、CDに付けられていたブックレットにも触れます。東京大学の先生を務められる方が楽曲解説をご担当ですが、そのスタイルがはなはだ予想外でした。後になって雑誌でこの曲をパスティーシュと意義づけ、返す刀で「ひとつの限定した聴き方をメディアを通じて大量に押しつけたこと」を問題とされた先生が、このブックレットで「限定した聴き方」へと誘導する語彙を使いまくっておられたとは。「運命が扉を叩く」、「絶望の宣告」、「死を覚悟したような」、「最後の鉄槌」物語性を否定した覚えはない、と新聞記事でのご自身のコメントを否定しておられますが、こんな物語性そのものの形容を連発していれば、なるほどあのコメントは消し去りたいでしょう。消し去ろうとする方向が有効だったとは思えませんが。 それにしても、普段下々を見下ろす臭いをただよわせるこの先生の言動とは裏腹に、この楽曲解説が立つ視点は下々そのもの。 本当にこの先生の手になるものでしょうか。【補足 - N氏本を一読して】 曲に対して一定の自負をお持ちのところは、当初の私の認識と違っていました。オリジナリティへのハードルが必ずしも高くないことは、最近流通している曲たちから想像がついていましたが。(再構成を持ち出したのもそれを知ったからでした。) 一方であの曲が「音にならない」と想定・希望しておられたこと、にもかかわらずあれだけの反響を呼べる曲に仕上げておられたことには、正直なところ参ってしまいました。技量にというより、ある種の誠実さ、作曲家魂に対して。(それにしても、込めなくてもいい作曲家魂を込めてしまったことが権威筋まで巻き添えにしたSバブルにつながってしまったのが、なんとも皮肉です。)
2015/06/28