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山の神や天狗天使像のある所から、ずっと下りたところにある、若宮神社の燈籠ですが、六角形の燈籠です。この燈籠の変わったところは、見ての通り桃の様な窓が明けてある所でしょう。本来ならば、三日月の月の形からして、上下逆さまに組まねばならない火袋を、逆さにして、ハート形を桃の形に見せているように思われます。尚、この神社の境内には向かって左側に、元々の祭神と思われる稲荷様が祀られており、その横には蘇鉄の木と後ろには棕櫚の木が植えられています。又、本宮を真ん中に向かって右側には、天満宮の祠も祀ってあります。 若宮神社には、祭神に稲荷神や菅原道真公等が祀られている事が多いようですが、その祭神が、本宮の横に祀られている事に、不思議なものを感じます。
2010年12月31日
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この山の神様は、前に紹介した天狗天使像のある、金毘羅さんの下の方に祀ってあります。この像も、史跡めぐりガイドを読んで見に行きました。ガイドには十字の彫ってある像だと紹介してありましたが、下の写真の様に、手にしている宝珠の様な物の、上部に×印が彫ってあります。 それよりも気になるのが、胸の部分の二つの山形が重なっている紋様です。やはり同じ史跡めぐりガイドに載っている、キリシタン墓碑としてある塚墓に、この紋様と同じものが彫られています。そして、その塚墓は、私がキリシタン墓碑に興味を持つ、きっかけになった墓碑でもあります。
2010年12月30日
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地蔵様でしょうか?何とも変わった石像ですが、墓地の六地蔵様の横の方にありました。ひだの付いたスカートの様なものを身に付け、腰の部分を縄で結んであります。上半身も何か身に付けているようですが、布を巻きつけたような形をしています。しかし、腕はむき出しで両手の親指と人差し指で、丸の形を表している、何とも不思議な石像です。
2010年12月29日
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この石像は、キリシタン大名 有馬家の居城だった、日野江城の本丸跡に祀られています。このお城には、有馬家が転封された後には、松倉公が、一時 居城として居ましたが、その後、松倉公は島原城を築城し そちらに移った後、廃城になった城跡です。
2010年12月28日
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昨日は朝からの雨が昼には止み、曇り空の中、史跡めぐりガイドに載っていた天狗天使像を見に行ってきました。この石像は地元の方には通称、金毘羅さんと呼ばれているそうですが、その造りからキリシタンの崇拝偶像ではないかと、専門家から言われているものだそうです。平成8年の「全国隠れキリシタン大会 島原大会」でも天狗天使像として、報告されたそうです。この石像は人家から離れた山の中にあり、なかなか見つけるのが難しい所に、祀られていました。そして、おそらく社が在ったのではないかと思われる、石垣が築かれています。それに、石段を上がったところに水盤も有りました。 尚、この下の人家に近い墓地には、やはり、没年に天の彫ってある、明和二年没の方の墓碑など、他にもキリシタンを思い起こさせる造りの、古い墓碑が残っていました。
2010年12月28日
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石仏の彫ってある、舟形後背の墓碑ですが、没年に天明三年 「天」と彫ってあります。石仏の手の部分をよく見ると、宝珠と手、その下の着物の折り目が、十字の様に見えるのは気のせいでしょうか。 それに、上の拡大の写真で分かるように、没年の廿日の廿が、ラテン十字を二つに変えて彫ってあります。あまり隠しているようには思えない、堂々とした隠し方では無いのでしょうか。この様な墓碑が珍しくない、この地方では、あまり隠していたとは思えませんし、隠す必要も無かったのではなかったのかと考えてしまいます。それに、この地方では蒲鉾型の十字の入った、宣教師の墓と思われる墓碑なども、ヤンボッサン(山伏の意)と言われて、大事に祀られているようです。しかし、宗教心の薄らいだ現代では、段々と粗末に扱われるように、なりはしないのかと心配です。歴史の証人である、この様なものを、大事に残して行きたいものですね。
2010年12月26日
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天頂部がΩ(オーム)型をしているので、勝手にオーム屋根型墓碑と分類しています。天頂部の形から、変わった墓碑の仲間に入れています。ご夫婦の墓碑の様ですが、没年が分かりません。伊東豪健氏の記事の中に書いてある、「近藤進氏の研究による、キリシタンが使った象徴隠語とされている」、「心」の文字が戒名の中にありますし、最後に塔の文字が入っています。しかし、「心」の文字は、戒名に良く使われる文字としても、書いてあるリンクがありました。 天頂部の形から、変わった墓碑に分類しています。
2010年12月25日
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没年が安政二年のお墓ですが、どう見ても戒名がありません。釈の下に妙が横に二字、それも中心から外れています。その下には、信女位と彫って有るだけで、文字を意味を無視して、文字の並び方だけを見ると、ラテン十字にしか見えません。それなりに、工夫してあるようですね。
2010年12月24日
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明治三十三年に亡くなられた方の墓碑ですが、伊東豪健氏の記事の中に書いてある、「近藤進氏の研究による、キリシタンが使った象徴隠語とされている」、「月」の文字が戒名の中にあります。それに号の字も変わった字を使ってあります。屋根の部分の唐破風には、菊の花と葉が彫られています。この様な、屋根付き墓碑は、その地域の、民間信仰の慣習として残った可能性があるようです。しかし、現在、その事を分かっている人が、居るか居ないかは、分かりません。特に最近の新築の墓碑で、屋根の付いている墓碑は、ほとんど見かけなくなってきました。
2010年12月24日
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先ほどの修復された地蔵様の、隣にららんでいた地蔵様を、横から撮ってみました。この地蔵様には、何処にも壊れた形跡が残っていない、綺麗な地蔵様です。この地蔵様にも、少し変わったところがあるように思えたので、横からの写真を撮ってみたのですが、首のまわりに何かが巻かれています。しかも、その巻かれている物が肩の方に下がっているのです。先ほど紹介した、正面からの写真では分からないのですが、こうして横から見ると非常に良く分かります。これは、何なのでしょうか?
2010年12月23日
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首の修復された地蔵様と、なにも傷つけられていない地蔵様ですが、墓地の入り口にある六地蔵様の隣に立っていました。首の修復されている方の地蔵様の、本体と頭部は、一見すると違う物を、つなぎ合わせたようにも見えますが、石材の質等から見て本来の物ではないのかと感じました。良く蔦に覆われた墓碑などを見ると、その蔦を取り除いた部分は、苔も無く風化もせず新しい様に見えるものです。おそらく、この地蔵様も壊れた後に、ある程度の期間すぐ近くの地面に埋もれていたか、草の中に隠れていたのではないでしょうか。接着に用いてあるセメントが、新しいように感じました。 この地蔵様ですが、変わったところがあるようです。普通の地蔵さまで、胸の前に蝶結びの紐が彫ってある物も、たまにはあるようですが、普通には見かけません。何の為の紐なのか、不思議に思えます。
2010年12月23日
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没年が明治六年と彫ってある、○○家累代の墓と彫ってある墓碑の、笠部分ですが、綺麗なハートが彫られています。 墓碑にハートマークとは、明治になって西洋の影響があったからとは、どうしても考えられません。この墓地の古い墓碑にも、やはり、霊位や位、没年に天の彫ってある墓碑があります。比較的遅くまで、慣習が受け継がれていたのではないでしょうか。
2010年12月22日
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変わった戒名の墓石ですが、花立や水鉢も一体型の少し変わった、寛政六年の年号が彫ってあります。水鉢の下の方には、ハート模様の上の部分とも思える形が彫ってあります。戒名の釋の字は、異字体の様に思われますが、ふつう戒名には妙(みょう)の字が良く使われていますが、ここには?(しょう)と書かれています。他の墓地でも、あまり見かけない?(しょう)の字ですが、墓地によって多い所と少ない所がある様に思いますが、この墓地には幾つか、そのように書かれたものがあり多いように思われます。童の字も、里の縦棒が上の方まで突き抜けています。それと没年も、寛政の政のつくりの部分も、支に成っているようです。漢字に疎い私には、こんな字も有るのかなーと、言った程度にしか思えませんが、月日の上の冬の字も珍しいですね。普通ならば、旧と彫ってあるものが当たり前の様に思っていましたが、この様なものも有るのですね。それに、気のせいか月の字も変わった文字に見えますし、甲の字も十字を意識したように見え、とにかく変わった文字ばかりが多い、墓碑の様です。
2010年12月21日
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今日は昼過ぎから、雨がやんだので恒例の墓地巡りに行ってきました。しかし、何処の墓地も最近の新築で、古い墓碑が少なくなってしまっているようです。そんな中で、墓地の片隅に塚墓らしき物を見つけました。おそらく郷土史家の方々は、もうすでに、ここに在る事を知って居られるのでしょうが、何の予備知識も無く、この様な墓碑に出合うのは、嬉しいものです。 嶽南風土記 ナンバー16の、伏せ墓と塚墓について(伊東豪健著)を参考書にして、調べてみました。この墓碑には、見ての通り戒名を彫る位置に、何も彫って無いようです。しかし、私の独断では家型の塚墓のように思えましたが、年代が分からなかったのが残念です。でも、今日の成果だけは在ったかなと考え、満足しています。
2010年12月20日
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この花立と水鉢が一体になった物の、水鉢の部分が何故か× マークが彫られています。 これまでに初めて見た水鉢の形です。 クリスマスを思い起こしますね。
2010年12月20日
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墓碑に○が彫ってあり、没年には天と彫ってあります。この墓碑は、「○○史跡めぐりガイド」によると、薄井六郎左衛門氏の墓と紹介されていて、薄井氏は鉄砲の名人だったそうです。薄井氏は、キリシタン側から加担するように脅された(断れば家に火をつけられたり殺されたりしたと書いてありました)そうですが、何とか逃げて、幕府方についた人だそうです。乱後にはその地域の支配権を行賞されたとも書かれています。しかし、その後の歴史には、その村の人達は、島原の乱に全員が参加して、全滅したように書き残されています。幕府方について戦った人の墓碑が、これほど立派なキリシタン墓碑形式をしているとは、どの様に考えれば辻褄が合うのでしょうか。没年の上の文字は分りずらいのですが、乱に関係した人ですから、おそらく没年は慶安元年だと思います。それと、この地域の法花宗(法華宗ではありません)と書いてある、宗門改め帳が、昔この地域の庄屋さんだった家に残っている事も、記されていました。 この様な事から考えれば、この村はキリシタンの村だが、幕府に逆らわなかったので、キリシタンは全滅した事にして置こうと、報告書が書かれたのではないかとしか、考えようがありません。幕府にしても、キリシタンとの関係を完全に断ってしまえば、貿易による利益が無くなってしまいます。
2010年12月18日
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上の写真の物は、前に紹介したお寺とは違う、島原半島内の、お寺に在った「水盤」と彫ってあるものですが、外側の角が彫り込んであり、水盤も下の台座も上から見ると、十字の形の様に見えます。こうして見ると、結構あちらこちらに在り、この地方では、あまり珍しいものでは無いように思えてきます。
2010年12月17日
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わりと新しい墓碑ですが、水鉢も線香立も、内側外側とも十字の形をしています。有る程度の慣習と紋様は、昔の物が今も残っているように思います。その事と、キリシタンとの関係が残っているのかは、別問題で知る由も有りませんが、昔の事を想像するには、十分の資料と成る事だろうと思います。 それと、この墓碑の花立ですが、何故かバラの花が彫ってあります。あまり見た事の無い、写実的な彫り物です。この地方の、お墓の文様には、花菖蒲の文様が良く使われているのですが、バラの花とは珍しい図柄ですね。 尚、この墓碑の家紋は、「丸に四方剣片喰」でした。
2010年12月16日
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花立と水鉢が一つになっている物ですが、水鉢の中の形が十字に成っています。この水鉢は比較的古い様に思いますが、新しい形式の墓碑にもこの様な、線香立があります。おそらく、慣習として定着しているのでしょうね。この様な慣習が出来たのは、おそらく、キリシタンの信仰を神に変え、お寺の檀家と成して神仏習合の仲介をした、その地域のお寺ではないかと思うと、当時の寺院が、宗教でのいさかいが起きないように調整する為、苦労と知恵を最大限に発揮した、結果ではないかと思えてなりません。 上の事を考えた理由も、島原半島の昔話(河童の手)に、そのような内容とも解釈できる話が、残っていたからです。そのような妄想を思い浮かべるのも、私が常々、河童の正体を宣教師だったのではないかと、思っているからです。ウィキペディアによると、「合羽はポルトガル語の「capa」の音写語で、16世紀に来日したキリスト教の宣教師が着ていた外衣が元であり、合羽の他に勝羽とも書かれ、南蛮蓑とも呼ばれた。」
2010年12月16日
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大名家の菩提寺の敷地内にある、水鉢です。この写真では、気をつけて見ないと良く分かりにくいようですが、四方の角の部分を観察してみて下さい。時代的には、何時、出来たものか分かりませんが、変わっていると思われる点は、水鉢の外側の角が削られて、上から見ると外側が十字を意識して、造られたものの様に見えます。そのような水鉢は、お寺や神社だけでなく、お墓の水鉢にも見られます。それらは、外側が十字紋に見える物、内側が十字紋に見えるものがあり、この地方では、決して珍しくはありません。前回紹介した神社の水鉢は、内側が十字紋に見えていました。
2010年12月15日
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宝篋印塔らしきものと手洗い水鉢ですが、弘法大使を祀ってある、地域名の付いた神社に有りました。中には、古い石にしめ縄を張ったものと、新しそうな弘法大師の石像が祀って有ります。 しかし、外に有る水鉢は、横から見た時は何もない様に見えて、宝篋印塔らしきものに目が行きましたが、水鉢の中の形が、何かおかしい様に思い、真上から写真を撮ってみると、十字の形が彫ってある事が分かりました。この辺りにも、切り妻家型の墓碑で、戒名も何も彫ってない白墓や、キリシタン墓碑と思われる様な墓碑も有ります。この神社は、概ね東側に入り口があり、西の方を向いてお祈りするような形になっています。また、この地区も、島原の乱で村人全員が戦死したことになっていますが、あまりにも堂々と、この様なものが残っている事を考えると、全滅した地域に移住してきた人も、キリシタンで有ったのではないかと、思えてしまいます。そうでなければ、歴史に残っている文書に、偽りが書かれた可能性さへ、有るように思われます。歴史は、勝者の都合の良い様に、書き換えられる事が出来る事に、注意しなくては成らないでしょう。 この神社でもそうですが、弘法大師を祀ってある所や、観音様を祀ってある所が、この周辺では、神社になっって居る事にも、疑問を感じます。
2010年12月14日
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前回紹介した、馬頭神社の前に立っていた石塔と同じ形をしていたであろうと思われる、墓碑も紹介します。たぶん一番上に置いてあった物が無くなっているようです。もし、馬頭神社の前に立っていた石塔と同じ形をしていたのであれば、同じ形の石塔が、違った村に時代を超えて、墓碑から石塔に変化しながらも、全く同じ形で造られた事には深い意味が、隠されていそうです。この墓碑には、没年が享保10??天と彫ってあり、戒名には妙照信女とだけ彫ってあります。前回紹介した、馬頭神社の前に立っていた、明治中頃に建立された同じ形の石塔と、この享保年間の墓碑には、相当の時代の違いがあります。その時代の差に、ついつい、私の妄想が頭の中に膨らんでしまいます。
2010年12月13日
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社の前に立っている、一対の燈籠とは思えない同じ形をした物の一つです。建立日は、明治二十三年。奉納者は、二つの地区名が書かれ、下に百姓中と書かれていますから、当時は、地区全体のほぼ全員が、この神社の氏子だったのではないかと、考えられます。
2010年12月12日
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前回紹介した馬頭神社に祀ってある、新しい石像です。中央の像の頭上には馬が彫って有りますが、この石像も三人に成っています。それに、中央の像は、手で印を結んでいるようですが、馬頭観音の印とは違うように思います。それに気のせいか、印を結んだ手の指の間がダイヤと十字に見えます。それと隣の剣を持った像の、腰下にはタウ十字の様に見えるのは、やはり気のせいでしょうか。この神社の前にはソテツの木がありますが、この地方の観音神社には、ソテツの木が植えてあるところが多く、中には棕櫚の木が植えられている所も有ります。何処かの家の墓地には、墓地にソテツの木が植えてあり、その墓地の横には、新しい、キリスト教の洗礼名と思われる文字が彫ってある、小さな墓石が並べて建てられていました。そのようなことから、ソテツの木とキリシタンは、何か関係があるのではないかと、考えてしまいます。尚、この神社は、おおよそ西の方を向いて立っています。
2010年12月12日
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馬頭神社に在る、二体の馬頭観音像の古いほうの石造です。普通の馬頭観音は一身三面の像が多い中、この石像は中央の人が馬に乗り、両側の人がその馬を曳いている変った形をしています。見ようによっては馬の顔が、タテガミや耳を含めてみると、十字に見えるようでも有り、又、馬の曳き綱と足を合わせると、やはり十字に見えるのは、気のせいでしょうか。上下の十字を合わせると、ロレーヌ十字に似ているようにも見えます。あまり見かけない、馬頭観音像である事は確かです。
2010年12月11日
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没年宝暦二年の墓碑ですが、私が勝手に名付けた、Ω家型の墓碑です。私が勝手に名付けた、Ω型墓碑との違いは、墓碑の頂上に棟が付けてある所で分けています。この墓碑の変わっている点は、墓石は立派なわりに、法名が、かなり乱暴に書いてある点ですが、彫りは、かなり丁寧に彫られているのです。何かの意図があったのでしょうか? それと、下の写真の様な気になる紋様が、線彫りで彫られていますが、蓮の花の様な模様と、蔓の紋様の様に見えます。普通の墓石では、浮き彫りにされている事の多い紋様が、単純な線彫りに成っている、変わった墓碑です。
2010年12月10日
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前回紹介した墓所内の、手洗い場と二体地蔵さんです。神社には手洗い場があるのは、当然の事ですが、この地方には、お墓にも手洗い場のある所が、たまにあります。これにも何か、意味がある様に思ってしまいます。
2010年12月09日
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2010.11.16 はじめて見る形の、墓碑?」 http://plaza.rakuten.co.jp/inakanotokoya/diary/201011160000/ で紹介した物が、その地域では、【門中墓】(もんちゅうばか)と呼ばれている事が分りました。 最近読んだ、史跡めぐりガイドに書いてあることによると、梵語が記してあることから、山伏の墓だと思われているようです。門中とは記録によれば、人の名前だとも書いてありました。それと、建てられたのは、寛文8年(1668)で、一説によると島原の乱後30年目に当たることから、移民者達の供養と開村記念的な意図も有ったのではないか、とのこと、とも書いてあります。そして、門中さんの墓ではなく、門中さんが、このあたりの集落のリーダーであったのではないか、とも考えられる。とも書いてありました。 そこで、門中を検索してみると、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%80%E4%B8%AD (門中-Wikipedia)が、出て来ました。その様な事から考えると、一族の結束を象徴する共同墓地のようですが、私には、門中さんが、何であるのかに疑問が生じてしまいます。 それは、この墓碑に表してある梵字を丸で囲み、その周りを梵字で囲んである形が、なんとなく、イエズス会の紋章に似ているように思えるからです。 それに、あの【門中墓】のそばにある、上の写真の墓碑等を見ると、余計に疑問を感じるのです。切り妻家型で、梵字を丸で囲んで有り、没年には寛文九〇〇天と彫られています。キリシタン墓碑の特徴を、綺麗に備えています。他にも自然石の墓碑で、没年に天の文字が彫ってある墓碑も在ります。
2010年12月09日
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この花立は、前回と違う丸型の物です。ここにも、花菱と蔓紋様や、花菱と百合か棕櫚と思われる、文様が彫られています。
2010年12月08日
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この墓碑に備えてある花立は、真横から見ると十字架の様に見えます。この地方では、この変形型と思われる花立や、竹の形をした石造の花立等も有ります。 それと、下の線香立には、ハートの様なものの中に、花菱が彫られています。この地方では、石塔屋さん等に、昔から受け継がれた、お墓の紋様として定着しているようにも、考えられます。
2010年12月08日
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新しい墓地ですが、入口の両端にライオンが球を押えている、比較的古いと思われる石像が飾られています。たまに、狛犬を飾って有るものは見かけますが、ライオンにはびっくりしました。おそらく、お墓を建て替える前の物が、使われているのかも、と考えてしまいます。この墓地には、前に紹介した、胸に蝶結びの十字の様な紋様の彫られた、首なし地蔵もあります。 それと、花立の形も少し気になります。と言うのも、ほかに横から見た時に、十字の様に見える花立が、この地方の墓所には、多く見かけられるからです。その花立は、次回、紹介してみたいと思います。
2010年12月07日
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この首なし地蔵らしき物の、手にしている球は、綺麗な球形をしています。もしかしたら、この地蔵も、キリシタンに関係したものではないのでしょうか。そのように考えるのも、この地蔵様の前にある石が、穴ぼこだらけで、あるからです。穴ぼこだらけの石を台座にした物や、墓石の前に置いてある物に、キリシタンを思わせるものが、見受けられるからです。 穴ぼこだらけの石に、何かの意味があるのでしょうか?この様な石を、水食い石と言われている方も、いらっしゃるようです。
2010年12月07日
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墓地に祀ってある、馬頭観音ですが、その横には、南無妙法蓮華経の文字が彫ってある墓碑が立っています。下の写真の南の文字の上部は、見ようによっては、十字にも見えるように感じますが、そのような石碑は、前にも紹介した事がありますので、私には、余計にそのように見えるのかもしれません。さて、下の向かって右の写真ですが、墓地屋敷の武士の霊と彫ってあります。これが、何を意味しているのか、もしかして、この土地に住んでいた、帰農武士達が戦死したので、追悼の為に、建てられたのではないかと思ってしまいます。戦死した場所が、原城ではと考えてしまいますが、無理があるでしょうか?原城の乱に参加しなかった、知り合いの方が建てた物のようにしか、考えられない私です。 それに、不思議に感じた事がもう一つ。馬頭観音様の前に置いてある線香立ですが、ほかの墓地でも見た事がある様な気がします。新しいものですが、ちょっと変わった線香立ですね。
2010年12月05日
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この墓碑は、有馬藩の居城、日の江城跡に建てられているものです。この墓碑と説明板を見て、不思議だとは思えませんか? 墓碑には、キリシタン墓碑特有の、丸印が彫ってあります。しかし、その墓碑は、原城を攻撃した人の墓碑です。細川家の家臣だと書いてありますが、細川家には、あの有名なガラシャ夫人が居ました。原城の乱は、これまでの歴史で語られた、キリシタンの乱とも、農民一揆とも思え無くなってきました。現在も、この島原半島に、多くのキリシタン墓碑らしきものが、残っている事を考えると、どうしても、その様な結論に達するのです。
2010年12月04日
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この墓碑の没年は安永九年、戒名の下には位が彫ってあります。側面の戒名の下には、霊位と彫ってあります。この墓碑の屋根の正面には、三角形の中の菊の花の下に、十字が三つに見える紋様が彫ってありますが、その菊紋様には赤い色が塗ってあったような痕跡が残っています。屋根の横の三角部分にも、同じような痕跡があります。おそらく、この墓碑も、キリシタンに関係あるだろうと思えます。 それと、この墓地のお墓には、最近出来たと思える新しい墓石にも、花十字と似た花菱が、紋様として使われて墓碑が多いように感じました。
2010年12月03日
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この地蔵さん、いわゆる子安地蔵と言われるものだろうと思いますが、見ようによっては、マリア様のようにも見えませんか?イエスと思われる子供を抱き、足元には天使を思わせる子供が、二人寄り添っています。芸術的とも思える仕上がりの、石仏です。周りを、蔦の様な植物で装飾してありますが、右下の彫ってある花の形からして、菊の様に感じます。常々、キリシタン関係遺物を探す場合、菊の文様も、一つのポイントとして考えている私は、この仏像も、キリシタン関係の仏像ではないかと、考えてしまいます。それと、この仏像の両肘の横を、よく見て下さい。ここにも、合掌をした小さな子供が彫ってあります。この子供達も、おそらく天使を表しているのではないでしょうか。後の輪には、おそらく、金箔が貼られていたと思います。 この仏像、私には、どうしてもマリア像にしか見えません。皆さんには、どのように見えますか?
2010年12月02日
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没年に天と彫ってある墓碑ですが、戒名の下には之霊位と彫ってあります。この墓碑の変わったところは、下に張り付けてある写真の部分です。何故、この様な場所が、赤く塗ってあるのか、もしかして、血の色を表しているのではないかと、思ってしまうのですが、思い違いでしょうか。 一部が、赤く塗られています。 真ん中の、菊の花らしきものが、やはり、赤く塗られています。これを見られた皆さんは、誰かの悪戯だろうとしか思えないでしょうね。
2010年12月01日
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この墓地にも有りました。 前に紹介した事のある、鶏の彫ってある墓碑(http://plaza.rakuten.co.jp/inakanotokoya/diary/201010080000/)の有った墓地とは、違う墓地ですが、同じ旧村内の墓地です。 あの記事を書いた後、鶏とキリストについて検索してみたら、「キリスト が捕らえられた翌日、早朝の鶏が鳴く前に、ペテロが三度、キリストを知らない」と言う 話が検索の結果出て来ました。 下のURLです。http://www.muratatax.com/fujisawasavior/2010/02/post-18.htmlこの墓石を建立した人も、隠れた事を悔いた気持ちで、この様な墓碑を造ったのではないでしょうか。 それにしても、これだけハッキリとした、転キリシタン墓碑が、今まで残っている事を考えると、やはり、キリシタンの取り締まりは、この地方では極めて緩かったとしか、思い様が有りません。 尚、この墓石の没年には、文化二年(1805)と彫られています。 それと、もう一つ気に成るものが有りましたので、調べてみました。上の写真では、はっきりと分かるかどうか分かりませんが、屋根の部分の棟には、楕円形の両端がえぐられた、分銅の形が彫ってあり、軒下にはウサギらしきものが彫ってあります。そこで、また検索してみると、キリスト教にはイースターで知られる、キリスト復活祭があり、キリスト教のお祭りの中でもクリスマスと並んで最大規模のお祭り出そうです。「イースターに付き物なのが、イースターエッグとイースターバニー(ウサギ)だそうで、これは「多産」なウサギにちなんで「繁栄」に与ろうとの意味が込められているとのことでした。やはりウサギも、キリシタンに関係があったようですね。
2010年12月01日
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