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前回、余談として取り上げた馬頭観音像です。下の写真の祠には、新しい馬頭観音像が祠の中に祀られていますが、左下の写真の古い馬頭観音も祠の前に祀られています。前回紹介した不動明王は、そのままの形を再現してあったようですが、こちらは随分と違った形になっています。古い方には逆立った髪も見られず、一面二臂の頭上に馬の頭が乗っているだけです。それに対し、新しい方は三面六臂の逆立った髪を持つ、一般的な馬頭観音像の形をしています。唯一変わっている点が、逆立った髪の中に馬だけではなく、牛も彫られている事でしょう。
2012年01月17日
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今回紹介する不動明王は、異常にガニ股な足の形をしています。左側の新しい不動明王を見て貰えれば、よく分かると思いますが、四股を踏んだようなガニ股をしています。その足の形がΩの形に似ている事から、この不動明王もキリシタンに関係が在るのではと思えてしまいます。おそらく、左側の不動明王が壊れたので、新しく作り直された物と思いますが、下半身の形がそっくりな事から、上半身も壊れた不動明王を再現して作られたのではないでしょうか。壊れた不動明王は、左側の馬頭観音が祀られた祠の前に祀られている二体の左側の物で、右側には、これも新しい馬頭観音に祠を開け渡した馬頭観音が置かれています。新しい不動明王が祀ってある祠には、奉納年が文化十歳と書かれています。新しい不動明王も、使われた石材が脆かったのか、壊れた不動明王に負けないようなヒビが彼方此方に入っています。余談になりますが、左側の祠に祀られている新しい馬頭観音像の頭上には、馬だけでなく何故か牛も一緒に彫られています。あちこちにある馬頭観音の中には、頭上に馬ではなく牛が彫られた物もありました。真中の祠には、恵比寿像が祀られています。この神社は金比羅神社ですが、馬頭観音も金比羅大権現に関係のあるのでしょうか。 今日のブログを書き込んでいて気付いたのですが、そろそろ私の楽天ブログの容量も満杯になってきたようです。 他のブログへの移行も、考えに入れないといけないようです。
2012年01月16日
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それほど古くないと思われる不動明王立像です。二体とも、前回紹介した五鈷杵を持った手の形が、Τ(タウ)十字型の弘法大使像の在った近くの寺院に在るものです。不動明王の三昧耶形 (さんまやぎょう/さまやぎょう)を調べてみると、利剣(倶利伽羅剣)と羂索となっていました。そして、羂索 (けん‐さく)の「羂」はわなの意で、もと、鳥獣をとらえるわなのこと》5色の糸をより合わせ、一端に環、他端に独鈷杵(とっこしょ)の半形をつけた縄状のもの、となっています。しかし、此処に在る不動明が手にしている羂索は、何故か独鈷杵(とっこしょ)の半形の形ではなく、Τ(タウ)十字型になっています。しかも、普通なら検索の端は垂れ下がっていると思うのですが、わざと上を向けられています。何かの意図が在るのでしょう。この寺院は、島原の乱後に松倉勝家が改易となった後、次代の島原藩主高力忠房が復興したとされていて、後の島原藩主との関係も深いようです。
2012年01月14日
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屋根の棟がΤ(タウ)十字?の大師堂五鈷杵を上から握りしめた弘法大師像 この大師堂には、子安弘法大師像、船形の地神、観音様らしき像、何だか分からない像、小さな弘法大師像などが祀られています。一般的な弘法大師の座像は、右手の五鈷杵(または三鈷杵)を持つ手が不自然にねじれて、下から支える形になっているようです。これは、「金剛薩?の威儀」と言われる、密教の独特の印(手の形)だそうで、仏教の経典にある「儀軌」に細かく定められているのだそうです。しかし、此処に在る弘法大師座像は、右手の五鈷杵を持つ手がねじれておらず、下からも支えて居りません。五鈷杵を上から握りしめ、Τ十字を表しているのではないかと思いたくなる形をしています。これと同じ手の形をした弘法大師像を、他の所でも一体見た事があります。不思議に思い、もしかして木喰仏の中に、同じような物が無いか探して見たところ、『萩博物館の宝』のホームページに、同じような手の形に見える弘法大師立像が紹介されていました。
2012年01月13日
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これまでに見た事のある恵比寿像とは、少し違っているように思われます。一般的な狩衣姿ではなく、背中にタスキを掛けているように見えます。そのタスキの結び目が、異常に大きく強調して彫られています。何でもキリシタン信仰と結びつけて見たくなる私には、まるで妖精か天使の羽根を表しているように思えてしまいます。そして福耳も異常に大きく、不自然に斜め下に垂れ下がっています。タスキの結び目と福耳を合わせた形は、Xを表したようにも見えてしまいます。又、港の波止場に祀られている、この恵比寿像の注連縄には、稲穂が三本刺されています。普通に見かける注連縄には、紙垂(しで)や藁の房等が付けられているようですが、波止場に祀られた恵比寿像に、稲穂が付けられているのは、珍しいのではないでしょうか。恵比寿像の頭上に彫られた、V字模様も気になります。
2012年01月07日
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「会津キリシタン研究所」のブログに、奉寄進・享保五年(1720)の【会津の不思議な手水鉢】が紹介されていました。あの手水鉢ほどの逆三角形ではありませんが、似たような形の手水鉢が在ったのを思い出して、写真集から探してみました。側面には、奉寄進・寛延二天(1749)と書かれています。この手水鉢の在る神社には、安永三天と書かれてる石燈籠もあります。そして、この神社には前に此処で紹介した事のある、カッパの様な髪型の石像が祀られています。カッパの様な髪型を、日本語では「トンスラ」あるいは「トンスーラ」と言うのだそうですが、この髪型は「キリスト教の聖職者が行うシンボル的髪型」だそうです。キリシタン信仰の証だと言う説もある天年号を使用する事や、カッパの様な髪型をした石像を祀る事等の慣習が、島原の乱でほぼ壊滅した地域に残っていた事を、どのように考えて良いものか。「ザビエルが属していたイエズス会では「トンスラ」の習慣はなく、彼の髪形はトンスラではなかったという説もある。」とウィキには書かれていました。と言う事とは、イエズス会と関係の深かった当地域が、島原の乱後にほぼ全滅し、その後に入植してきた人達の中心に、スペイン系の托鉢修道士会の影響を受けた転キリシタン信者で、幕府の神仏習合の中にキリシタン信仰をも習合し、民間信仰として生き続ける道を選んだ人達も、多く居たとは考えられないでしょうか。島原の乱で幕府方に味方した、イエズス会系の転キリシタン住民達や仏僧達も残って居た事を考えれば、既成の宗教の全ての神仏を習合し民間信仰に変える事で、本音の部分は信教の自由を保証し、建前だけは全国民が檀那寺の檀家になる事で仏教国である事にし、その檀那寺に今で言う行政の住民課の役割を持たせた。そして本音の部分では、信教の自由を保証した民間信仰を、幕府自体も奨励していたようにも思えてなりません。地区の民間信仰行事を取り仕切る地位の人達が、庄屋や地主など幕府の行政の末端に居る人である事を考えれば、全体主義的な民間信仰の行事を奨励することで、治世の安定を図ったように勝手に推理してしまいました。
2012年01月06日
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御正月も一段落つきましたが、お目出度いところで恵比寿様を紹介したいと思います。何の変哲もない船形光背の恵比寿像ですが、よく見ると着衣の胸の結び目の部分が、十字の形になっているようです。下の写真は、その部分をアップしたものですが、どう見ても結び目には見えません。花角の家紋をスマートにしたような形に見えます。花菱や花角の文様は、キリシタン信仰の十字を隠すには、都合の良い文様のように思えます。
2012年01月04日
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