全10件 (10件中 1-10件目)
1
雲仙には、河童の伝説があります。その伝説は、「河童 昔話 三太郎」で検索されれば出てくるだろうと思います。この話をもとに、また妄想の世界で楽しんでみたいと思います。「河童=キリシタン宣教師」と仮定して、この話を読んでみると、面白いことにキリシタンが山岳信仰に変わっていくのです。そして、その後、菩薩信仰に変わります。この伝説に出てくる河童は、人として認めてもらおうと、元々雲仙に居た「山の神」に人間にして下さいと頼んでいます。雲仙は、元々が仏教の盛んな地であったことは、フロイスによっても紹介されていますし、周知の事実だと思います。その当時の日本の仏教は、仏教が日本に伝えられた後に、それまでの御岳信仰などの神道と神仏習合が行われていました。その神や仏と、同等の地位を認めてもらおうとしたことが、河童が人間に成ろうとしたことだと思いました。同等の地位を認めてもらう手段として、山岳信仰の「山の神」を頼りにした。この事は、キリシタンが日本に入ってきた初期に、デウスを大日如来と訳して布教をしたことに似ているようです。しかし、それはすぐに訂正され、その後は、神をデウスとして布教されたようです。各地で布教して回る宣教師(河童)の事が、この伝説では、おしゃべりな河童として書かれているのではないでしょうか。宣教活動だけをしていても、元からある日本の神や仏と、同等の地位を獲得出来るはずが無いと考えた「山の神」(ここでは時の権力者)は、布教活動を一時停止し、世の中の役に立つ仕事をしなさい、と教えたように思えるのです。しかし、河童達(宣教師達)は、一時は布教活動をやめて静かにし、世の中の為になる仕事(ヨーロッパの医療や土木や天文学)をしていたのですが、何時しか又、布教活動を始めてしまった。この結果が、「島原の乱」を引き起こしたように思えてしまいました。その結果、残ったのが、神や仏の形に成らないまま、キリシタンの教えだけが雲仙の普賢や妙見信仰として修験の形で、残ったように思えます。雲仙の四面宮は、妙見神社・普賢神社などを祀り、女人禁制の修験道の聖地でした。各地の四面宮には、キリシタンの痕跡では、と思われるものが残っています。そして、その四面宮は、島原の殿様の庇護を受けていたことが、知られているようです。又、人間と仲良しの河童伝説は佐賀に多いようですが、イエズス会の勢力が強かったと思われる有馬には、何故か、河童が悪者のように伝えられている昔話、【「瓢箪(ひょうたん)と河童」 島原半島民話集 関敬吾著 】 もあるようです。この点も、研究してみれば面白いように感じました。この民話集を書かれた関敬吾氏は、島原半島の輩出した偉人、関三兄弟の一人として有名な方です。又、この関氏の生家は、弘法大師伝説のある六角形の井戸の傍にあり、説明板も設置されており、町の名所になっています。
2012年05月27日
コメント(0)

島原之乱戦没者無縁の諸霊・八十八ヶ所平和塔と書かれた石碑が、ここにもありました。裏に何が書かれているのか、見る事が出来ませんでしたが、これまでに見てきたものには、建立者に長崎市や別府市の御家族のの名前が記され、その横に並べて、その地区名部落一同と書かれており、最後に「坂下教会浄修ニヨリ」と書かれています。この「坂下教会浄修ニヨリ」の意味が、未だに分かりません。この石碑はまだ新しいもので、他の同じような石碑に書かれている建立年は、昭和五十五年になっていました。島原半島出身者の方達なのかわかりませんが、広範囲の方が関与しておられるようです。この石碑の周りには、これまで見てきたような神社や地蔵様も無く、写真に写っている勢至菩薩ではないかと思われる、手の壊れた小さな菩薩像だけでした。
2012年05月24日
コメント(0)
先日、テレビの番組で、26聖人記念館50年前の長崎貴重映像が放送されていました。 そこで ふと思い浮かんだのが、殉教者の処刑図です。さっそく調べてみると、やはり十字架にかけられ処刑されている図が出てきました。もし、検索で出てきた処刑図のように、本当に十字架にかけられ処刑されたとするならば、そこには重要なことが隠されているのでは、と感じました。ここからは、「十字架にかけられ処刑された事が本当だとするならば」の、仮定での推理です。ここで一つ疑問に思ったことが、なぜ禁制のキリシタン信仰者を処刑するために十字架が使われたのか。敬謙なキリシタン信徒にとっては、主イエスと同じ方法で処刑され神に召されることは、この上なく光栄な事ではないのでしょうか。また、これを見た信徒たちの手本に成る危険性をもはらんでいます。そのことは、後にキリシタン信徒の信心心を高めたとする説もあるようです。では、何故。推理の結果は、秀吉が当時のヨーロッパの植民地政策を嫌い、その政策に利用される可能性のある、ローマの指示に従うキリシタンを排除し、秀吉に逆らえないキリシタンは、逆に利用しようと考えていたのではないかと思えるのです。キリシタン信徒たちの、「主」に仕える純粋な姿勢を国民全員に植え付け、日本の「主」となった秀吉に忠誠を誓わせる事が出来れば、これ以上ない盤石な政権ができるのではないでしょうか。そして、その政策が徳川政権に受け継がれた。
2012年05月24日
コメント(0)

今年になって、初めて見ました。暗闇での撮影の仕方が分かりませんでした。
2012年05月24日
コメント(0)

この蛙の石像は、島原半島の西に位置する小浜から雲仙へ上る途中にある、「祈りの里」にある石像です。この「祈りの里」には、四国八十八ヵ所霊場をはじめとして、慈母観音菩薩、水子地蔵尊、不動明王、猿田彦大神、聖観世音菩薩、聖徳太子ほか、数々の民間信仰の神仏が祀られています。その中に、この蛙の石像も置かれていました。この蛙を見て、観音神社に置かれている蛙の像や、過去に紹介したことのある、お墓にある蛙の像や、由緒ある寺院の山門の蟇股に彫られた、仰向けになった蛙と鯉の彫り物のことを思い出しました。古い墓碑には、戒名の上に帰真や帰元と書かれているものが多くあり、帰真、帰元、帰一などは、キリシタンとの関係があるとの説もあるようです。そこで、また勝手な推理の世界のお話になりますが、日本のキリシタンの守護聖人とされるのはザビエル以外にも大天使聖ミカエル、日本二十六聖人、聖母マリア、などがある事を知りました。寺社で見る蛙の像、蛙の彫り物、墓碑に書かれた帰の文字など、みなキリシタンと関係があるように思えます。帰真は、真はミカエル、帰元は、元はミカエルとは考えられないでしょうか。蛙といえば「小林一茶」の俳句、「蛙の子、そこのけそこのけ御馬が通る」がありますが、この句には。「馬に乗る偉い方が来られる時は、ミカエルの子は邪魔にならないようにしておきなさい」、と戒めた句ではないかと感じますし、「痩せ蛙負けるな、一茶此処に在り」の句は、「苦しい生活を強いられた、ミカエルの後ろ盾には一茶がいる」との激励の句のように感じられます。俳人「一茶」の「一」の文字や「茶」の文字は、キリシタンとの関係から付けられたのではないかと思ってしまいます。【「蛙の子、そこのけそこのけ御馬が通る」がありますが、この句には。「馬に乗る偉い方が来られる時は、ミカエルの子は邪魔にならないようにしておきなさい」、と戒めた句ではないかと感じますし、】申し訳ありません。上の句は、「蛙の子」ではなく「雀の子、そこのけそこのけ御馬が通る」の間違いでした。
2012年05月19日
コメント(3)

南島原市の有家史談会発行の「嶽南風土記」ナンバー19に掲載、福田氏の書かれた「原城一揆戦への試論」を読み、島原の乱の参加者が、なぜ半島南部に偏っていたのかが理解できたように思えます。そこにドミニコ会に付いて書かれていた事がヒントになり、今回の推理が思い浮かびました。上の写真には犬が彫られており、その下に「慈愛犬霊位」と書かれています。以前このブログで、里犬と書かれた同じように犬の彫られた墓石を、紹介したことがありますが、その時は、その墓石が誰のために、そして何のために作られたのか、不思議でなりませんでした。現代では、愛犬の墓などを建てられる方がいらっしゃいますが、古い時代に犬の墓を建てる人がいたとは思えませんでした。ドミニコ会に付いて調べてみると、そこには、【ドミニコ会は同時期に成立したフランシスコ会同様、清貧を特に重んじたためあわせて「托鉢修道会」と呼ばれることがある。また神学の研究に励み、学者を多く輩出したドミニコ会は異端審問の審問官に任命されることが多かったため、「ドミニコ会士(Dominicanis)」をもじって「主の犬(Domini canis)」とも呼ばれた。この呼び名は反対者にとっては畏怖と揶揄であり、ドミニコ会員たちにとっては誇りであった。】と書かれていました。以外にもドミニコ会員が、犬と呼ばれることを誇りに思っていたことが分かり、この墓碑も以前紹介した墓碑も、、「主の犬」と呼ばれることを誇りに思っていた、ドミニコ会員の人達が建てたものではなかったのでしょうか。「慈愛犬霊位】と書かれていることから、この墓碑はキリシタン信仰者の墓碑ではないかと思えます。今回紹介した墓碑は、古い墓碑が廃棄され一か所にまとめてある所に在りました。しかし、何故、このような物が島原の乱でキリシタンが全滅した地域にあるのか。私が勝手に出した結論は、乱後に半島南部に入植してきた人達も、やはりキリシタン信仰を隠していた人達だったのではないかということです。島原半島を一つの藩として治めるには、キリシタン信仰者でありながら、お城側に付いた半島北部の人達や、一揆軍の脱落者や生き残りの人達と、心を一つに出来る人達のほうが、入植者としては都合が良かったのではないでしょうか。半島には、一揆軍の生き残りの話ではないかと思われる、昔話も残っています。私の父から聞いた話によると、我が家の本家の、そのまた本家に、家系図が残っていたとのことでしたが、我が家の祖先は熊本からの移住者であったとのことでした。又、これまでに墓地を見て回っていた際に、墓誌に大村からの移住者であることが書かれていたり、小豆島からの移民であることが書かれていたものにも出会いました。小豆島は一時期は小西行長が治めており、その折に神父を島に派遣し、 大村にしても同じように大村純忠によってキリスト教が伝わったとされる所です。 島原の乱当時に細川忠利(細川忠興の三男で、母は明智光秀の娘・玉子。)の治めていた、熊本からの入植者である私達の祖先も、元はキリシタン信者だったのではないでしょうか。それが何時しか、時と共に忘れ去られてしまったのではと思うのですが、キリシタンをも習合した日本の八百万の神信仰は、戦前までは確実に残っていたように感じます。
2012年05月17日
コメント(2)
![]()
如意輪観音のようですが、台座は六芒星を思わせる六角形で八雲が彫られています。蓮華座は蓮の花弁には見えず、花弁に反りがあるバラの花弁のように見えます。このようなバラの花弁に見える蓮華座も、墓碑などでも偶に見かけ珍しいものではありません。そして光背には八雲(ヤコブ)が彫られており、キリシタンの影響を受けている可能性をうかがわせます。この観音様のある神社には、弘法大師、祐徳稲荷、普賢神社、不動明王などが祀ってあり、島原半島内に幾種類かある三十三ヶ所や八十八ヶ所の札所にもなっている、神仏習合の神社で、隣には山の神も祀ってあります。さて、本題に入りますが、前回の八雲=ヤコブ?八雲と言ってすぐに思いつくのが小泉八雲(ラフカディヨ・ハーン)です。名前の由来は、【。「八雲」は、一時期島根県の松江市に在住していたことから、そこの旧国名である出雲国にかかる枕詞の「八雲立つ」に因むとされる。】と、ウキペディアには書かれていました。ハーンは少年時代を、【父方の大叔母サラ・ブレナン(家はレインスター・スクェアー、アッパー・レッソン・ストリート交差点)に厳格なカトリック文化の中で育てられた。】そうで、一時神学校に入るもすぐに退学、【守護聖人・聖パトリックに因んだファーストネーム(パトリック)は、ハーン自身この名をあえて使用しなかったといわれる。】とも書かれていることから、ハーンはカトリックの教義を相当に理解していたと思われます。そんなハーンが書いた「耳なし芳一」の話は、彼から見えた、当時の日本の宗教の本質を書いたものではないのかと思えるのです。「耳なし芳一」の話では、芳一が平家の亡霊に取りつかれ、毎夜墓場で平家物語を語っていることを知った和尚さんが、芳一の全身に経文を書付け「けっして口をきいてはならんぞ。亡霊にしたがった者は命をとられる。しっかり座禅を組んで、身じろぎひとつしないように」と言いつけましたが、経文を書き忘れていた耳だけが亡霊に見られ、その耳を亡霊にそぎ取られたという話になっています。私なりの勝手な推理で、「平家物語」とされているのは「大坂の陣」もしくは「島原の乱」の物語、「耳なし芳一」を「国民」と仮定してみた場合、ローマに通じたキリシタンが平家の亡霊で、棄教したキリシタンや転キリシタンの国民が芳一に見えるのです。耳なし芳一の物語が書かれた当時は、まだ江戸時代の宗教観がはっきり残っており、心はキリシタンを信仰をしていても、仏教の経文に包まれて隠れて居れば安全で、キリシタンの部分を少しでも表面に表せば危険が及ぶ時期ではなかったのでしょうか。そのような状況をハーンは感じ、「耳なし芳一」の話に例えたように感じられました。ハーンがファーストネームである「パトリック」を、あまり使用したがらなかったのは、カトリックに懐疑的であったとの説もあるようですが、日本に帰化したハーンにとっては、日本の神仏習合に取り込まれたカトリック信仰が、彼には合っていたのではないでしょうか。その神仏習合に取り込まれたカトリック信仰のヤコブが、八雲になっていることを知り、ハーンが自分の名前に八雲を使ったとしたら、「ヤコブ=八雲」の推理がより補強されるのですが・・・。
2012年05月16日
コメント(0)

この仏像は阿弥陀如来ではなかろうかと思うのですが、光背の部分に八雲が表わされています。このブログで随分前に、「八雲」の中にキリスト教の「ヤコブ」が隠されているのではないか、と推理してみたことがありました。その根拠としたのが、私の住む地方の方言で「蜘蛛」のことを「コブ」と言うからでした。そこから、ヤクモ=八雲=八蜘蛛=ヤコブ、と成るわけですが、蜘蛛と言えば芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の話を思い出します。「蜘蛛の糸」の話では、御釈迦様が地獄に落ちた?陀多(かんだた)という悪人が蜘蛛を助けてやったことを思い出し、生前に善い事をした報いに地獄から救い出すため、蓮池の白蓮の間から、遥か下にある地獄の底へ、小さな蜘蛛を下ろしたとという話です。この話の中の地獄と極楽は上下の関係になっており、地獄と天国の関係のように感じました。もしかして、この「蜘蛛の糸」の話に出てくる蜘蛛はキリスト教のヤコブで、神が天から使徒ヤコブを遣わし、救いの手を差し伸べたことを表したのではないでしょうか。残念ながら話の結末は、所詮、根っからの悪人である?陀多(かんだた)は自分だけが助かりたいばかりに、蜘蛛の糸を自分の後から登ってくる地獄の罪人達に、「この蜘蛛の糸は己のものだぞ。下りろ。下りろ。」と言い、救いの手である蜘蛛の糸が切れて再び地獄に落ちました。作者である芥川龍之介を「ウィキペディア」で調べてみると、作品の初期には「キリシタン物が有名である。」と書かれておりました。そして、養子に入った芥川家(母方の叔父)は「旧家の士族で、江戸時代、代々徳川家に仕え雑用、茶の湯を担当したお数寄屋坊主の家であり、家中が芸術・演芸を愛好し江戸の文人的趣味が残っていた。」と書かれていることも興味深いところです。茶の湯とキリシタンは深い関係にあるようですし、徳川家自体がキリシタン信仰者であったろうと推理している者としては、また一つ、自分勝手な推理の証拠が増えた気持ちになりました。又、芥川の晩年の代表作として有名な【「河童」の副題には、「どうか Kappa と発音して下さい。」という半ば不可解な言葉が記されている。】そうです。キリスト教の宣教師が着ていた合羽(かっぱ)、日本の河童によく似たドミニコ会士の姿、芥川は、何かを知りながらも言えなかったことがあるのでは、と思いたくなりました。もしかして、「見猿・聞か猿・言わ猿」の三猿の理由では。
2012年05月15日
コメント(0)

胸にハートのマークと思われる形が彫られている、非常に珍しいと思われる首の壊された地蔵様です。良く見ないと分からないと思いますが、確かにハートマークだと思います。そして手の形も普通の地蔵様と違い、指で三角を作っています。その上には壊された丸い球を持っていて、手首からは数珠のようなものが下がっています。ハートも三角も丸もキリシタン信仰に関係があると聞いています。もしかして、手首から下がっている数珠のような物は、ロザリオかメダイではなかろうかと考えてしまいます。 この地蔵様は、私がキリシタンに興味を持つきっかけとなった塚墓と同じ場所にあった無縁仏を、墓地整備事業によって一か所にまとめた所に祀ってあります。私の家の墓所の前にあるもので、これまでに何回となく見ていながら、この地蔵様の「胸のハート」には気がつきませんでした。この地蔵様を乗せてあったと思われる墓碑が、この地蔵様の後ろに置かれていますが、そこには正徳四午天と「天」年号が使われています。
2012年05月14日
コメント(2)

瓢箪型の手水鉢 扇形の手水鉢嶽南風土記19号「修験道とキリシタン遺物」に、瓢箪の手水鉢と扇形の手水鉢、ハート形の手水鉢が紹介されていましたが、私の写真集の中にも同じような手水鉢があったので紹介したいと思い、久しぶりにブログに書き込みをしています。ハート形の手水鉢は前に紹介しておりましたので、今回は瓢箪と扇形のものです。瓢箪はキリスト教の巡礼に関係あるものとして、テレビの番組で紹介していました。スペインのキリスト教の巡礼では、瓢箪とホタテ貝を持ち歩くとありました。今回ふと思いついたのですが、豊臣秀吉の旗印の「千生り瓢箪」と秀吉の「ホタテ貝の形のような兜飾り」は、このようなものに由来している可能性はないのでしょうか。秀吉にしても家康にしても、当時のキリシタン信仰を良く理解していたように思えてなりません。島原藩の松平家の家紋は「重ね扇」、徳川家の「三つ葉葵」の家紋はハート形の三位一体を表しているのではないかと想像してしまいます。
2012年05月13日
コメント(3)
全10件 (10件中 1-10件目)
1