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この石像の祀ってある所は、江戸時代には修験の盛んな地だったようです。そのど真ん中に、八坂神社の石祠(石祠の側面には石社と彫られていました。)があります。社は八坂神社で、中には祇園牛頭天王(石祠の側面に彫られていました。)が祀ってあります。これまでネットで見た仏像などで、同じ仏像でも、かなり違った形が存在することは、既に了解済みの事でしたが、この牛頭天王も変わった形をしているのではないでしょうか。お腹のところに紐が結んであるので、羽織を羽織っているのでしょう。下には和服に関係のない、シュミーズのような着衣を、身に着けているように見えます。このシュミーズのような着衣は、お地蔵様や墓碑の石像にも身に付けている物があり、おかしな取り合わせだと感じていました。それに、この石像はズボンをはいているようです。江戸期に流行したと言う説もある、タッツケ袴かもしれません。羽織もタッツケ袴も、南蛮服をモデルに作られた和服のようです。江戸時代に造られた石像が、このような西洋的な衣装を身に着けていること自体が、江戸時代の宗教の中に、キリシタンが隠されている事を表しているのではないでしょうか。この石像の首の周りには、髭のような物が彫られていますが、床屋のおじさんとしては髭のようには見えません。もしかして、南蛮衣装のラッフル(ひだ襟)ではと思ってしまいます。普通の牛頭天王の持ち物は斧のようですが、この牛頭天王石像は剣を持っています。見ようによっては、この剣も逆さ十字に見えないこともないようです。両肩の下には変な突起が付けられていますが、もしかして、背中に羽根を付けているのでは・・・?
2012年07月31日
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今日の長崎新聞に、「キリシタン墓碑?」の表題の記事が、掲載されていました。場所は、平戸市春日町。長方形の石組み遺構4基を、市教委が発見していた事が分かったそうです。掲載されていた写真を見て、よく似た物が、私の写真の中にもあったので、紹介してみたいと思います。この写真の墓地は、小豆島移民の方の墓地のようで、周囲の墓碑には、没年月日の二十日を十十日と書かれている物や、没年が寛政十年の墓碑で、戒名が「一王正徳信士」と書かれた物もあります。戒名に「一」の文字が使われている墓碑は、キリシタンに関係している可能性も、あるとした説もあるようです。今回紹介した墓碑も、もしかしてキリシタン墓碑?だったら、島原の乱の後に移民してきた、私達の御先祖様も、キリシタン?私の勝手な持論、「徳川幕府の神仏習合には、キリシタンも習合していた。」を、証明する事が出来れば、隠れ・潜伏キリシタンの不思議が、解けてしまうのですが・・・。話は変わり、 昭和の初めに亡くなった私の祖母は、長崎の本河内の生まれでした。 その当時、父の家族が本河内に住居していた関係で、祖母も本河内の墓地に埋葬されていましたが、その後、祖父の故郷の島原半島に住居を移し、墓所も此方に求めたそうです。その後、長崎に埋葬されていた祖母の遺骨を、こちらに移したのですが、土葬であったために遺骨が多すぎ、大きなカメに入れて今の墓地の中に、移したことを覚えています。当時の埋葬は、火葬場が整備されていない地区では、土葬が残っていたとも言われているようですが、大半は火葬の時代では、なかったのでしょうか?
2012年07月12日
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過去のブログ、「猿・申・サル」では、中南米の国、エルサルバドルの首都サンサルバドルから、「サン・サルバドル=スペイン・ポルトガル語で聖救世主=イエス・キリスト」と仮定して、三猿や、秀吉の「あだ名」の猿に関連付けました。 その後、「山伏の格好」を書いている時に、「マルチリヨ(殉教)の心得」等の、キリシタン教理書の中に、遣欧少年使節が持ち帰った活版印刷機により、加津佐で刷られたであろうと思われる、告解の手引き書『さるばとる・むんぢ』(1598年)があることを知りました。1598年は、秀吉の無くなった年で、かなり早い時点で「サルバトル」の言葉が、日本人に知られていたように思われます。「サン」=「セント」、「サルバトル」=「略してサル」、合わせて三猿。キリシタンを神仏習合の中に隠すには、格好の言葉だったのかもしれません。しかも、その当時、キリシタン教理書などの発行に関係していながら、後に徳川政権に取り込まれた不干斎 巴鼻庵(ふかんさい はびあん)が、神仏習合の中にキリシタンを隠す手助けをしたと考えれば、私は納得してしまいます。庚申信仰は、「三尸」が体から抜け出し、「天帝に、その人間の罪悪を告げる」。キリシタン信仰では、「記録天使」が「天帝(デウス)に、その人間の善悪や祈りを記録して知らせる」。マラキ書の3章16節に、「「そのとき、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された。」と書かれているそうです。 夜を徹して語り合う点では、似通っているようです。「サル」=救世主としての、庚申信仰とキリシタン信仰の、共通点のように思えます。今回は、少々こじ付けが過ぎたようで、反省。
2012年07月05日
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このような卵形の墓碑は、僧侶の墓碑だと聞いています。墓碑には、阿闍梨〇〇・・・と書かれていて、修験の寺社の墓地に在ります。そして、没年には、文化八?天と書かれています。この墓地には、他にも天年号が書かれた墓碑があります。修験の、しかも阿闍梨の墓碑に、天年号が書かれていることは、修験の中にもキリシタンが隠されていたことを、表しているようです。ここには、前に紹介した事のある、〇〇十二世法印〇〇大和尚塔の墓碑もあり、没年には、安政三辰天九月八日寂と書かれています。あまりにも堂々と書かれていることが、何を意味するのか、答えは一つのような感じがします。神仏習合の中に、確実にキリシタンも含まれているようです。ここには、江戸期の神仏習合の、全容の一部以上を明らかにするだけの、遺物が揃っているように感じました。遺物が残っているうちに、キリシタン研究の専門の方に、詳細な調査をしてもらいたいですね。と言っても、専門家の方達は、既にご存じかもしれません。暗黙の秘密にされているのかもしれません。自由気ままな妄想を、ブログに書けるのは、ずぶの素人の特権でしょうか。島原の乱で全滅したとされる地域に、何故、これだけの天年号の使われた、江戸時代の墓碑が残っているのか。島原半島の、何ヵ所かの墓地を見て回っただけで、没年に天年号が使われている墓碑が無い墓地は、ほとんど無いようでした。しかし、戦後の村社会の崩壊と共に、歴史の遺物は壊され続けています。そのまま闇に葬ってしまったほうが良いのか、歴史の真実を追及した方が良いのか、今でも思案しています。
2012年07月04日
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この地方の墓碑によく見かける、座禅を組んだような格好の像が彫られた墓碑です。このような墓碑の石像は、宝珠のようなものを持っているか、手を茶巾のような布で隠しているようですが、なにを意味しているのか、今のところ分からないままです。この像は、頭に丸い頭巾のような物を、被っているようです。一見すれば、女の子のオカッパの髪型のように見えますが、下に、文久三年・純覺童子と書かれているので、男の子供の墓碑でしょう。このような形をした頭巾を、中世の西洋を題材にした、テレビ番組か映画を見たような記憶があったので、調べてみると、遣欧少年使節が謁見した、当時のローマ法王が頭に被っている、頭巾のような物によく似ているようです。最近では、江戸時代の日本の仏教の中身が、キリシタンの教えだったのではなかったのかと言う疑問から、確信に変わってきている私の頭の中では、この頭巾を被った像が、ローマ法王を隠しているのでは・・・と考えてしまいます。あまりにも飛躍した妄想になってしまうようですが、時間があれば、もう少し突っ込んで調べてみたいと思います。
2012年07月03日
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前回取り上げた、「山伏の格好をして隠れては いけない旨の内容が書かれた、キリシタンの内部資料」、と思っていたのは、遣欧少年使節が持ち帰った、活版印刷機により刷られた、「マルチリヨ(殉教)の心得」の中に書かれているそうです。彼らの持ち帰った、活版印刷機で刷られた多くの書物は、宣教師たちが追放された後、教理の理解やカクレキリシタンの存続に、必要不可欠の物だったのかもしれません。「天草本伊曽保物語」は、不干斎 巴鼻庵(ふかんさい はびあん)によって訳され、天草に持ち込んだ活版印刷機で刷られた物だそうですが、そのハビアンが後に棄教し「破提宇子(ハデウス)」を書いたのも、何故の疑問符が付きます。伴天連追放令の真っ只中に秀吉に謁見した、ヴァリアーノ神父の持ち帰った活版印刷機を使い、日本語の教理書を作り残した後にキリシタンを棄教し、一転してキリシタン批判を繰り広げた裏には、予定された何かがあったように思えます。当時、適応政策派のイエズス会と、後発のスペイン系・托鉢修道士会の間には、かなり厳しい対立問題があったようで、ヴァリアーノは、その解決に苦慮していたように、書かれているものもありました。後に、そのフランシスコ会などが提起した典礼論争により、イエズス会の中国での活動が停止され、イエズス会自体も、ロシアのみが活動できる、唯一の国になってしまったようです。そのような状況に苦慮していた、イエズス会のヴァリアーノ神父は、秀吉に適応政策の内容を打ち明け、日本に適応したキリスト教を作り上げる事を、日本の幕府に託したように考えた方が、禁教の時代にも関わらず、キリシタン文化が残った、何故が、解決できるように感じます。そして、家康に受け継がれていったのではないでしょうか。その事が、天皇家の紋章が菊であり、内閣の紋章が桐であることに、つながっているのかもしれません。宣教師の中には、日本人を見下す人や、日本の文化を素晴らしいと認める人が、居たのでしょう。元は同じであった宗教であっても、幾つもの分派を生み出します。そのような伝道者の解釈の違いが顕著になった時に分派し、時としては宗教戦争をも引き起こしているように思えます。反省、今回の妄想は、少し飛躍しすぎたようです。
2012年07月02日
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何時も教科書代わりに読んでいる、「会津キリシタン研究所」の今日のブログに、「会津の修験道」と題した記事が書かれています。その「会津キリシタン研究所」のブログは、このブログの左側のカレンダー下にある、Favorite Blogから見る事が出来ます。そこには、キリシタンと修験道の関係が書かれています。島原の乱で、住民が全滅したと歴史に書かれている地区に在る、日本最古の物とされているキリシタン伏碑(墓碑)も、「ヤンボッ(山伏)さん」と言われて、祀られていました。雲仙の四面宮は、「江戸時代に島原藩の祈願所とされ、高力家や松平家等の歴代藩主の崇敬を受けた」とされているようで、山伏の聖地でもあります。このブログ上で、前に紹介したことのある、葡萄の彫刻の施された社の本殿は、島原半島に幾つかある四面宮の末社です。葡萄は、キリシタンには欠かせない物のようです。江戸期の山岳信仰の山伏には、キリシタンが隠されているようです。何処かで見たようですが、記憶が間違っていなければ、キリシタン宣教師に対して、山伏の格好をして隠れては いけない旨の内容が書かれた、キリシタンの内部資料が存在していたようです。そのような、秘密の内部資料をワザと表に出せば、山伏の中に宣教師は居ないと思い込ませる事が、容易に出来るような気がします。しかし、それではあまりにも単純すぎるようです。しかし、権力者側から、その内部資料を理由に「山伏の中に宣教師は居ないのだ」と宣言されれば、簡単に隠す事が出来るように思います。日本の幕府は、キリシタンをローマカトリックから切り離し、ザビエルやヴァリアーノが目指したイエズス会の「適応政策」(適応主義)を基本に、全ての神仏を習合して庚申(猿・申・サルで勝手に解釈)したのではないでしょうか。日本の神仏習合の中に組み込まれたキリシタンは、その後、儒教など中国の宗教や文化を取り入れ、見事に適応政策を成功させたマテオリッチ((中国名利瑪竇(り まとう))などの宣教師や、中国のキリシタン信者による、漢語に訳されたヨーロッパの新知識の多くを、中国貿易により日本に取り入れたのではないのでしょうか。そして、、その橋渡しをしたのが、中国の禅僧達ではなかったのかと思います。清の密偵と疑われ長崎に幽閉されていた、中国から渡来した禅僧の東皐心越(とうこう しんえつ)が、水戸藩の徳川光圀の尽力により釈放されていることも、興味をそそります。水戸家には、カトリックで最も大切にされるミサに関係する遺品が揃っているそうです。内容は、ブログ「神庭信幸 ハムと薪と、それから保存」の「水戸徳川家に遺る秘宝キリシタン道具」に書かれています。
2012年07月01日
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首には変わった形の首飾りが付けられています。手には何故か蓮華座だけを持っていますが、この上に何かの像を置いて礼拝したのではないでしょうか。はたして何の像が置かれていたのか、蓮華座の上に小さな像を置いた姿は、キリストを抱いたマリアを想像させても、無理ではないでしょう。又、不動明王などの画像を検索してみると、坐像の中に、このような小さな蓮華座が、頭上に置かれているものもあるようです。そこにも、やはり、何かの小さな像が祀られていたのかもしれません。おそらく、神事を行う時だけに、何処かに隠された小さな像を、このような蓮華座の上に、置いたのではないでしょうか。このような袖の無い着衣が、古い時代の日本にあったのか疑問ですが、変わった形をしています。そして、肩から後ろに掛けられた布は、ケープ(西洋の肩掛け)のようにも見えます。手には帯のような物も掛けられていますが、よく見ると、その帯のような物は、肩から垂れ下がっているようにも見えます。見かたによっては、ローマ・カトリックで使用される、「ストラ」にも見えるようです。この仏像?の額にはティアラのような頭飾りが付けられていますが、観音様の髪飾りとは少し違うようで、西洋の女王様のティアラのようにも見えます。しかし、この像の祀られている場所は、観音堂ではなく神社で、地区全体で祀っておられるようです。島原半島には、旧村全体で祀ってある神社の入り口に、十字や三角の火袋が彫られた灯籠が、村の名前で奉献されている所もあります。隠れキリシタンや潜伏キリシタンでは、片付けられない何かが存在しているようです。
2012年07月01日
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