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神社に行くと、大木に注連縄が巻かれているのを目にします。神社の御神木になっているようですが、何故か、神社でよく使われる榊ではなく、ここでも楠の大木が御神木になっています。楠と聞けば、思い出すのが樟脳です。それは私の母方の祖父が、製麺業と共に樟脳の製造所も経営していたからで、楠を蒸留する為の木端作りの前準備の為の楠の皮剥ぎが、子供の頃の私の遊びでした。当時は樟脳も専売品でしたが、その後、需要の減少から専売品から外され、製造所は閉鎖しました。戦時中には、軍需品としての樟脳の需要が増大し、兵隊さんも派遣されて来て居たそうです。それは樟脳が、戦争では不可欠な、無煙火薬の原料に使われたからでしょう。日頃から、「神仏習合の中にキリシタンが習合されている」と考えているので、神木の楠とキリシタンに何らかの関係性がないものか、樟脳に付いて調べてみました。「日向の香り」に書かれている事によると、樟脳は、キリシタンが日本に入ってきた織田信長の時代には輸出が始まり、江戸時代には金銀、生糸 と並び重要な輸出品となったと書かれています。海外からの輸入に対しての支払いに、金銀に代わる輸出品としての役割があったのでしょう。そう考えると、養蚕で出来る生糸や楠からできる樟脳は、国を豊かにさせる貴重品だったようです。キリシタンにより西洋との貿易の窓口が開かれ、その後の貿易を支えた蚕や楠は、日本の新たな救世主となったように思えます。富をもたらす神として、崇めるに値する存在でもあったのでしょう。そのように考えれば、蚕や楠が祀られている陰に、キリシタンへの感謝が隠されて居たとしても、不思議では無いように思います。
2012年06月30日
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四角の中に幽黙と書かれています。 上の写真の丸の部分をアップしました。四葉のクローバが彫られています。 過去のブログへ、「無し」さんからコメントがありましたが、 http://plaza.rakuten.co.jp/inakanotokoya/diary/201009120000/#commentの写真を削除していましたので、再度アップロードして置きます。
2012年06月29日
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今朝、すぐそばに在る川を眺めに、カメラを持って出てみると、今年になって二回目のカワセミとの遭遇。急いでカメラを向けてパチリ。二回目のシャッターを切ろうとした時には、カワセミは飛んで行ってしまいました。私にとっては、たった一枚だけの写真になりましたが、記念すべき初めてのカワセミの写真。40メートルくらい離れていて、あいにくの曇り日和のせいで、きれいな画像にはなりませんでしたが、記念にアップ。
2012年06月29日
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この墓碑は、前に紹介したかもしれないのですが、どうしても、そのブログを見つけ出す事が出来なかったので、ここに再度かもしれませんが、紹介します。この墓碑は、斗升型墓碑(塚墓)に良く似ています。天保年間と嘉永年間に亡くなられた、ご夫婦の墓碑で、ご夫婦の娘さんも合葬されています。墓碑は、学校敷地などもポンと寄付された、大地主の方の墓碑で、この地域全体で今でも大事に管理されていると、近所の方に聞きました。この墓碑が変わっている点は、一点目が、埋葬されている方達の名前が、[通称]の氏名で書かれていることです。この事は、本名を隠さなければいけないような事情が、あったのではないかと考えられます。それが何故なのか。もう一点目は、埋葬者が、第四世であることが書かれていることです。反対面には、娘さんが、五世であることも書かれています。江戸時代の将軍家などでは、第〇〇代将軍などと呼ばれていることから、大〇〇世と書かれている事に、不思議な感じがしました。これまでに見てきた墓碑の中にも、第〇〇世と書かれているものを見たことがありますが、その墓碑も、やはり大地主の方の墓地に在ります。戒名には、了元・負圓と書かれていますが、徳川幕府のキリシタン隠しに関係があるのではないでしょうか。
2012年06月28日
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裏庭に行ってみると、ホウジロが無心に餌を探していました。早速カメラを取に行きましたが、帰ってくるまでに居なくなる可能性大。しかし、餌の虫をツツいていたホウジロは、まだその場に居たのでパチリ。どうにか、カメラに収める事が出来ました。
2012年06月26日
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大雨が降った後の道路を走ってみると、彼方此方の崖が少しずつ崩れているのが目につきました。車の中なら、田植えの終わった田んぼを見て、子供の頃の「川祭り」の事を思い出しました。今でも集落によっては、田植えの済んだ後に「川祭り」と称して、休息日を設けている所があるようです。私の子供の頃までは、ここら辺りの地区全体が川祭りの行事を行っていました。昔の「川祭り」と言えば、川の洗い場などに、茹でた素麺を藁で包んだ物を御供えし、川祭りの期間に川で泳ぐと、河童にお尻の穴を取られると言って、川で泳ぐことが禁じられていました。おそらく、川の水は綺麗に見えていても田植えの済んだ直後は、田植えの前に肥料として撒かれた、人糞などの肥しの成分が分解していないので、衛生上危険があったからでしょう。人間が尻の穴を取られると、尻の穴がポッカリと開いてしまいます。と言う事は、死んでしまうことだと思います。川祭りで、川に御供えする素麺は、水を守ってくれる水神様(河童?)に御供えします。河童はキュウリが好きだと言いますが、河童の好きなキュウリとは、イタリア料理で良く使われる、ウリ科カボチャ属のズッキーニではないのでしょうか。家紋に使われているモッコの形に似ています。http://plaza.rakuten.co.jp/inakanotokoya/diary/201104290000/ 下の写真に彫られている文様は、今見ると、蔓菊のようにも見えます。このような事から、御供えの素麺は、キリシタン文化と共にローマから伝搬した、パスタ文化の日本版ではないかと、勝手に思っています。
2012年06月25日
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斗枡型の墓碑との出会いこれまでに私のブログで取り上げた、稲を荷うイナイ地蔵、稲を荷う田の神様、このような神様も稲荷神と習合されているようです。稲荷神社の神使である狐ですが、何故、狐なのか疑問でした。狐を調べてみると、狐にも位があるそうで、天狐・空狐・気狐・野狐の順で天弧の位が一番高いそうです。そこで、稲荷神社のキツネを天弧とすれば、天狐(テンコ)=天子(テンコ)になります。このブログでは、稲荷神はイナイ神であり、イナイをイナーイ(INRI)に変え、稲荷神に神仏習合されたと、推理しています。INRIの4文字は、日本語では「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と訳されているそうです。稲荷神の中にイエスが習合され、その神の使いが天狐だとすれば、稲荷神の神使は天使になります。江戸時代のキリシタン信仰は、稲荷神の中に確実に習合され、その後も生き続けているように思えます。日本の稲荷神社の総本社である、伏見稲荷の御札が、それを表しているようです。そこに描かれている二匹の蛇の口は、験(しるし)の杉、倉の鍵をくわえています。キリシタンに置き換えれば、験(しるし)の杉はレバノン杉を、倉の鍵はキリストがペテロに渡した天国のカギを、表しているようです。蛇は、エデンの園でアダムとイブに、禁断の果実を食べる事を、そそのかしました。上の方には、盃の中に三つの宝珠が描かれています。聖杯の中に三位一体を表しているようです。その右側に書かれている、上の写真の斗升(使徒トマス?)形墓碑に描かれた、違い山形の文様に良く似た形は、もしかして、キリストの処刑地である、ゴルゴダの丘を表しているのではないでしょうか。そして、一番下に稲荷神(キリスト?)の神使である天狐(天使?)が、描かれています。稲荷神の神使である狐の好物が油揚げ、油揚げは天婦羅の一種で、この天婦羅に付いては、下を参照してみて下さい。最後のところに書かれていることが、関係ありそうです。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1244668947精進料理の中に「油揚げ」がありますが、ここに書かれているテンポラスとも関係がありそうです。もしかして、油揚げが好きな狐とは、宣教師のこと?
2012年06月24日
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近所の駐車場で、ピーピーと甲高い声で鳴いていたので、撮りに行きました。今までに見たことのない、変わった鳥で可愛いのですが、鳥の名前がわかりません。ネットで調べてみると、「コチドリ」と言う、チドリ類のなかで最も小さい、全長16cm、チドリ科の鳥でした。
2012年06月23日
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前回のイナイ地蔵を探しているときに、稲を荷う(島原弁でイナウ)聖徳太子のような姿の田の神様が、石川県の能登で祀られていることを、知る事が出来ました。床の間に、掛け軸のように祀られている田の神様は、「あえのこと(ユネスコ無形文化遺産)」で、見る事が出来ます。田の神様は豊穣の神様、田の文字は四角の中に、十字架を表しているように思えます。聖徳太子は「厩戸の王子」、イエスキリストも馬小屋で生まれています。五島のカクレキリシタンでも、五穀豊穣を祈る儀式があるそうです。田の神様も、キリシタン隠し?ウインクをしている姿が、ユニークです。
2012年06月21日
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上の写真は、2011年05月08日・「変った稲荷神社」で紹介したものですが、同じような形をした、イナイ地蔵が、「佐久間ダムを見下ろす「松山公園」・弘法大師と稲荷神」のブログで紹介されていました。イナウと言う言葉が、島原弁だと思っていた私には、静岡県浜松市でもイナイ地蔵と言われていることに、驚いています。キリシタンに興味を持ってから、色々と皆さんから教えて貰い、知る事が出来た言葉の中に、「INRI」の文字がありました。「変った稲荷神社」での私の推理では、稲荷様が、「イナーイの神=INRIの神」で、「稲を荷(イナ)ってくる神、稲荷神=何か(豊作?幸せ?富み?)を荷ってくる神、ユダヤ人の王,ナザレのイエス」になっています。西洋での豊作は麦ですが、日本では米(稲)です。麦の図柄は、キリシタンでよく使われる図柄のようです。イナイ地蔵の横には、弘法大師像が祀られているそうで、その周辺には四国八十八箇所を模した石仏が並んでいるそうです。稲荷神社と弘法大師には、やはり江戸時代の神仏習合と関係がありそうです。隠れキリシタンでは、母子像が崇拝されているようですが、民間信仰の中にも、子安観音、水子地蔵などの他に、子安弘法大師像もあります。おそらく、このような民間信仰も、キリシタンと関係があるのでしょう。弘法大師は、景教との接点があったとされており、真言密教の中にキリシタン信仰を隠す為に、無理やり神仏習合に利用されたようにも思えます。ウキィペディアにも、【明治末に来日したアジア研究家の英国人であるイ・エ・ゴードン夫人は、真言宗と景教の関連性を確信し、高野山に中国・西安(長安)にあった景教の記念碑「大秦景教流行中国碑」のレプリカを建立した。この記念碑は、今も高野山に現存している。(夫人の墓もその隣りにある。)】と書かれています。そして、このイナイ地蔵がある所が佐久間ダムの周辺で、ダムが建設された当時の所在地は磐田郡佐久間村だそうです。この村名の佐久間にも、何か隠れているような気がしますが、今のところ宿題として残っている状態です。
2012年06月21日
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諫早湾干拓が出来て以降、家の周辺で見たことのない水鳥を、よく見るようになりました。鷺の仲間でコサギやアオサギが最近多いようです。その前はゴイサギをよく見かけていましたが、最近は近所で見かけなくなりました。冬の諏訪の池では、シラサギの中でも大型でアオサギ程度の大きさの、ダイサギも見る事が出来ました。しかし、今回見た上の写真のクロサギは、今までに見たことが無く、最初はウミウだと思っていましたが、カメラを望遠にして写真に収め、後で拡大して良く見てみると、口ばしの形が違います。体の形がコサギに似ているようなので、鷺で検索してみるとクロサギであることが分かりました。珍しかったので、早速ブログに乗せてみました。
2012年06月20日
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鳥居と石灯籠の間に見える猿葉山から分祀された猿葉稲荷神社雲仙登山道に在る祈りの里の猿葉稲荷神社キリシタンに興味を持って暫くした頃から、「サル」という言葉が気になって仕方がありませんでした。三猿(見猿・聞か猿・言わ猿)の猿、庚申塔の申、織田信長が豊臣秀吉に付けた「あだ名」の猿。一般には、「秀吉の風貌が猿に似ていた」と言われていますが、これには疑問を感じていました。それは何故?信長が付けた秀吉の風貌を表した、もう一つの「あだ名」に禿げ鼠があります。おそらく俗に言われる秀吉の「あだ名」は、後者の禿げ鼠であったろうと思われます。また、秀吉が復興に尽力したと言われる、滋賀県大津市坂本にある山王総本宮日吉大社の、神の使いが猿であることから考えて、サルが秀吉を揶揄する「あだ名」では無かったと思われ、秀吉の「あだ名」のサルには、他に深い意味があるように感じていました。信長が天下人になる過程で、幾多の困難を、常識を超えた方法で乗り越えてきた秀吉は、信長にとっての救世主だったのではないでしょうか。もちろん、一度焼き払われた日吉大社の復興に尽力してくれた秀吉も、日吉大社の救世主。ここまで述べれば、これから私の言おうとする事が分かる方も居られるでしょう。そう、救世主=サルバドル(スペイン、ポルトガル語)、略して「サル」です。信長は、秀吉の常識を超えた作戦で、何回も困難を乗り越えることが出来たことでしょう。その度に、信長は秀吉に対しサルバドル(救世主)と言って褒め称え、高い地位を与えていったと思われます。「救世主=サルバドル(スペイン、ポルトガル語)=サル」が成立すれば、【三猿(見猿・聞か猿・言わ猿)の猿・庚申塔の申、織田信長が豊臣秀吉に付けた「あだ名」の猿・山王総本宮日吉大社の、神の使いの猿】の疑問が、全て解決出来るように思えます。上に書いた推理のヒントになったのが、雲仙市の小浜町と千々石町の境にある猿葉(サルバ)稲荷神社と、中南米の国、エルサルバドルの首都サンサルバドルでした。猿葉稲荷は小さな稲荷神社ですが、地元の人の言い伝えでは、佐賀の祐徳稲荷神社よりも格が上だと言われています。稲荷神社とキリシタンとの関係は、2011年05月08日「変った稲荷神社 」で、すでに推理済みですので読んでみて下さい。小学生の頃、世界の国と首都を、担任の先生に徹底して叩き込まれた事が、このようなかたちで神仏習合の推理に役立とうとは、思いもよりませんでした。以上のようなことから考えて、江戸時代の神仏習合には、やはりキリシタン信仰をも含まれていた、という結果に辿り着きました。本音と建前の上手な使い分けの結果ではないでしょうか。サン・サルバドル=スペイン・ポルトガル語で聖救世主=イエス・キリスト三猿、サン・サルバドルを略して、サン・サル=三猿(見猿・聞か猿・言わ猿)、本音がキリシタンであることは、見ても見ないふり、聞いても聞こえないふり、もし知っていても言わない。庚申、庚の字は、【同音の「更」につながり、植物の生長が止まって新たな形に変化しようとする状態】、申の字は、サルバドルを略してサル(申)。二つの文字を合わせれば、一旦止まっていた救世主イエスキリストの信仰が、新たな形に変化(神仏習合)して更に成長を続けたことを意味する。
2012年06月15日
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ふと思い出したことがあります。南島原市有家町に在る酒造所のホームページに、「明治三年、長崎浦上村・・・より酒造稼ぎ高百五十石譲り受け。」と書かれていました。明治三年は、浦上4番崩れで続々と長崎の信徒達が捕縛されて、流罪に処された最後の時期です。江戸時代まであった浦上村の酒造所が、明治になり浦上4番崩れのせいで廃業に追い込まれたのかもしれません。隠れキリシタンの村と言われていた浦上村に、江戸時代までは酒の酒造所が在ったことは意外でした。キリシタンには、葡萄酒は必需品だと思います。もしかして、浦上の酒造所でも、密かに葡萄酒が造られていたのでは、との疑問が生じてきました。このブログでも取り上げた、「勝沼ワインのルーツ」ですが、ウィキペディアで調べてみると、1877年(明治10年)、当時の祝村(現在の甲州市勝沼下岩崎)に創設された大日本葡萄酒会社が、2人の青年(高野正誠、土屋龍憲)をワイン醸造技術の習得のためにフランスへ派遣した。2年後に帰国した両名によって、甲州種を使い本格的なワイン生産が初められたが、醸造や貯蔵の技術に問題があり、不良品が流通するなどしたため、同社は1886年(明治19年)に解散した。その後、勝沼では、この試みを引き継いで、ワイン醸造事業が様々な形で展開していった。と書かれていました。ここに書かれている事によると、先に葡萄酒会社が造られ、それから技術者をフランスへ派遣しています。そして彼らが返ってきたのが、その二年後。その間に、大日本葡萄酒会社が、葡萄酒を造っていなかったとは思えません。おそらく、大善寺の薬師如来の法薬としての葡萄酒が、会社設立以前から、細々と造られていたことが考えられます。しかし、技術者二人がフランスで学んできた葡萄酒は、外国人用のワインであり、大善寺・薬師如来の法薬として造られていた、それまでの勝沼の葡萄酒とは、違ったものだったのでしょう。西洋と日本の二百数十年の時の流れの中で、日本の葡萄酒とヨーロッパのワインが、違うものになっていた可能性が十分に考えられますが、江戸時代からあった原料になる葡萄の栽培技術が、その後の勝沼ワインを造りだす元になったのではないのでしょうか。勝沼町の醸造所が、世界に誇れる日本製ワインを造ることが出来るようになれたのも、江戸時代からの法薬としての勝沼の葡萄酒の需要があったればこそ、法薬の葡萄酒から外国人にも通用する、今の勝沼ワインに変わっていくことが出来たように思えます。そして、薬師如来の法薬である葡萄酒を、勝沼に持ち込んだのが、武士としては死んでいる有馬晴信と家臣団と考えれば、大善寺の葡萄を持った薬師如来は、仏教の衣に包み隠されたキリシタンの、礼拝の対象であったとも考えることが出来ます。
2012年06月14日
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有馬晴信の戒名は、「晴信院殿迷誉宗転大禅定門」、となっているようです。晴信の紙位牌の写真は、山梨県内のニュース(山梨日日新聞から)で見る事が出来ましたが、今は見られなくなっているようです。戒名の中の「迷誉宗転」、気になる文字列です。そこに、二人の男性の戒名が書かれており、両方の院号には、武士等に用いられる院殿が用いてあります。ご夫婦の戒名が書かれている位牌は目にしますが、男性二名の戒名が書かれたものは、珍しいのではないでしょうか。それと、位号が大禅定門と大信士、普通のご夫婦の場合、居士には大姉、信士には信女と、つり合いのとれた位号が書かれているのが、普通のようです。ここで又、とんでもない推理をした結果が、晴信の位牌に書かれている戒名は、「武士として一度死んだ晴信の戒名と、その後、実際に亡くなった晴信の戒名」ではないのか、と言うことに成りました。前に、このブログで取り上げた、「路の辻に在る、鷲ヶ濱音右エ門墓」、「鷲ヶ浜音右衛門・高木野良太、墓」、で推理したように、有馬晴信の紙の位牌に書かれた二つの戒名は、同一人物の可能性があるように思えてなりません。もし、この推理の結果が正しかったとすれば、「勝沼ワインのルーツ」が、島原半島であった事に成るのですが・・・。
2012年06月12日
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有馬晴信が謫居(タッキョ)地の近くにある、栖雲寺に秘蔵してあった虚空蔵菩薩像のレプリカが、日野江城跡地の近くにある、ピロティー文化センター二階に展示されていました。像の手には、台座の付いた十字架が持たれています。この像に描かれている人が有馬晴信だとすれば、この像が描かれた時点で、武士としての晴信は死んでいたようですが、人としての晴信は生きていたのではないかと思ってしまいます。有馬晴信ではと思われている、この虚空蔵菩薩像のレプリカの頭髪を見ると、髷が落とされたザンバラ髪が肩まで垂れ、月代(サカヤキ)だけが目立っています。よく時代劇などを見ていると、殺すに惜しい人の打ち首の場面で、髷だけを切り落としただけで、武士としての其の人は死んだことになっていました。日本側の記録では、晴信は切腹したとされているようですが、キリスト教側の記録では、自害を選ばず首を切り落とされたとなっているようです。それに晴信は、家臣たちの殉死も許さなかったとされていて、妻ジェスタは頭髪を切り、共にいた僅かな女たち、他の家来も日本の風習にしたがって同様に髪を切ったとされているようです。また、この虚空蔵菩薩像の保管されていた栖雲寺(サイウンジ)の栖の字は、来栖の「栖」で意味を調べてみると、「巣・人の住む所・棲家」となっています。そして、「雲」を調べてみると、「高いこと、遠いことなどのたとえ」となっていました。栖雲寺とは、雲上の人の棲む処で、有馬晴信自身が剃髪して僧となり、家臣団と共に仏教の衣の中に隠れ、生き続けていた場所ではないのでしょうか。晴信の謫居(タッキョ)地跡には、今では国道の下に埋まっている、今宮大明神があったそうです。今宮を調べてみると、「新しくできた宮(神社)」となっています。晴信は、この地で晩年を過ごし、新しい神(虚空蔵菩薩)になったと思えてしまいます。晴信の処刑のときは、150名の武装兵で幽閉された屋敷を取り囲んでいたそうで、部外者の目撃は不可能だったでしょう。このような死人を生き返らせるような、とんでもない推理に至ったのも、晴信の遺骸が何処に埋葬されたか定かでないからです。ここから話が変わりますが、この時の幕府の検使は、島原の乱鎮圧の上使である板倉重昌の兄、板倉周防守重宗でした。その板倉周防守重宗は、晩年、徳川家の宿老として江戸で幕政に参与し、保科正之ら大老と同格の発言力を持っていたとされています。そして、この二人の父、板倉勝重は幼少のとき仏門に入り、その後、家督相続のために還俗(げんぞく)した人で、まだ寺社奉行の制度がなかった頃、崇伝と共に徳川幕府の寺社に関する職務にあたっていた人です。江戸幕府の宗教再編に大きな影響力を持っていたのではないでしょうか。晴信の処刑の際の幕府の検使、島原の乱の際の鎮圧の上使、寺社奉行の出来る前の寺社に関する職務にあたっていた人など、板倉家は、キリシタン対策に大きく関わっているようです。また、この松倉勝重の父の松倉好重は、後に島原藩主となった深溝松平家の2代深溝松平好景に仕えて、善明提の戦いで戦死しており、板倉家の島原との関係にも、興味深いものがあるようです。
2012年06月11日
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キリシタン大名サミット会場近くの、空き店舗を利用した日野江城発掘品の展示場です。板戸には南蛮屏風図の模写が書かれています。後日、ご近所の方に聞いた話では、この店舗を提供して下さった方の、お父さんが書かれたのではないか?、とのことでした。この日の、この会場には、日野江城跡から発掘された金箔瓦の本物や、野立て用の石製風炉(カマド)、当時の貿易商品である陶磁器類などが展示されており、なかなか見ごたえのある内容でした。この場所に居られた方が、「勝沼ワインの元は、有馬晴信に付き添って行った、家臣が造ったのでは」、と言われた話を耳にしました。それはあり得るなと思い、帰ってから早速に、葡萄を持った仏像があったことを思い出し、そのことを調べてみました。その仏像とは、山梨県甲州市勝沼町にある、大善寺の薬師如来像です。この薬師如来像の由来には、 「養老二年(718年)僧行基が甲斐の国を 訪れたとき、勝沼の柏尾にさしかかり、日川の渓谷の大石の上で修行したところ、満願の日、夢の中に、手に葡萄を持った薬師如来が現れました。行基はその夢を喜び、早速夢の中に現れたお姿と同じ薬師如来像を刻んで安置した」、と書かれていました。私は日頃から、行基や弘法大師の伝説には、宣教師が隠されているのでは、と勝手に思っています。この勝沼町の大善寺から直線距離で5~6Km離れた隣町に、有馬晴信終焉の地や、謫居(たっきょ)の地があります。偶然としては、あまりにも出来すぎではないでしょうか。そして、ここでは葡萄を法薬としています。葡萄を薬として使うには、何らかの加工をしなくては、一年中薬として使うことが出来ません。甲州の地は葡萄の栽培と醸造に適した気候だったのでしょう。その為に、晴信と共に島原から甲州に、葡萄酒を造れる人が同行したのでは、と思えてしまいました。
2012年06月08日
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「仏法即相撲」、相撲の司家「吉田司家」の伝書の中の一つだそうです。相撲が神事とばかり思っていたので、意外な感じもしましたが、これまでに色々と調べてきた結果として、それもアリかなと感じました。吉田司家に伝わるものの中には、豊臣秀吉公下賜の「日月団扇」・徳川家康公下賜の「葡萄団扇」もあるそうですが、日月や葡萄はキリシタン信仰でも、よく使われる文様のようです。相撲が一般庶民と関係してきたのは、江戸時代の盛んになった、勧進相撲ではないのでしょうか。それまでの相撲は、宮中の行事や護衛、警護の職の採用試験的側面も持っていたようです。江戸時代になり、吉田司家は、細川綱利に招聘され熊本藩に仕え、武家奉公をしています。それまで衰退していた相撲は、勧進相撲が行われるようになり、盛んになったようです。吉田司家の19代吉田追風は、横綱制度を考案し、谷風・小野川に横綱を免許したそうです。寛政3年および寛政6年には、「11代将軍徳川家斉の上覧相撲を奉仕し、武家相撲の作法および土俵の登場・礼式などすべての相撲の様式を定めた。」とされており、徳川幕府とのつながりも強かったようです。他方、江戸末期には、京都の五条家が相撲の家元と称し、あちこちで横綱免許を出していたことがあったそうですが、現、雲仙市小浜町出身の4代目 玉垣 額之助は、「柏戸と共に五条家からの横綱免許を受けたが、柏戸がそれを辞退したのを見てそれに遠慮したのか、綱を締めることは結局なかった。」となっています。そのことが評価されてか、出身地小浜町の剣柄神社(現小浜神社)には、義人 玉垣 額之助」として頌徳碑が建てられています。また、吉田司家は、「明治維新の中で相撲廃止論が起こったとき、23世 吉田善門は身を挺して国技相撲を救った。」ともされており、現、南島原市有家町出身のの関取「鷲ケ濱音右衛門」が、亡くなったとされる、明治2年8月と同時期になっているのが、気にかかります。一般に「廃仏毀釈」と言われている、【日本において明治維新後に成立した新政府が慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発した太政官布告「神仏分離令」、明治3年1月3日(1870年2月3日)に出された詔書「大教宣布」】の出された時期に、相撲廃止論が起こったのは、「仏法即相撲」であったためではないのでしょうか。私が勝手に推理した、江戸時代の「キリシタンをも習合した仏法」が解体されて、国家神道に変えられると考えた民衆の不安は、相当にあったように感じます。
2012年06月07日
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江戸時代には勧進相撲や勧進歌舞伎が盛んだったようです。勧進とは寄付を受ける行為で、キリスト教関係では、寄付の事をドネーションと言うようです。教会では寄付を受けた代わりに、リボンが与えられるようです。赤い羽根募金や緑の羽根募金で、羽を胸につけてくれるのと似ていますね。これまでに、このブログで紹介した神社の、古い扁額や石灯篭にも、リボンが彫られているものがありました。 キリシタン教会組織の、ドネーション(寄付)によって造られたことを意味して、彫られたのではないでしょうか。上の写真の墓碑は、墓地の中にある大阪相撲の力士の墓です。明治の時代に亡くなられているようですが、随分後に建て替えられたものかもしれません。この墓碑の気になる所は、没年の旧八月二十四日の二十の字が、十字を横に二つ重ねた特殊な字形になっていることです。そして、屋根の部分を上から見ると丸が見え、横から見ると、教会の鐘を扁平にしたような形です。この墓碑は墓地の中にありましたが、これまでに見てきた関取の墓碑は、何故か墓地ではなく、道端に在ることが多いように感じました。墓碑は、家族の方達がお参りするのが通常ですが、大相撲の関取の墓碑は、何故、誰でもがお参りできる、人通りの多い場所に造られているのか。私の推理では、関取が「神として祀られた」です。では何の神かと言うと、それはキリシタンの神ではないかと思うのです。キリシタンの日本の守護神は、ミカエルでした。天使の最高位にありながら、傲慢になり神に成り代わろうとした堕天使ルシファーは、大天使ミカエルにより地に落とされ、、負けたルシファーはサタン(ドラゴンとも)になったとされているようです。「傲慢になりすぎるといけません」と、教えているようですね。相撲には、この堕天使ルシファーの教えが、隠されているのではないでしょうか。「カエル 相撲」で検索してみると、下のブロブがかかってきました。http://blogs.yahoo.co.jp/shoshoir405/22685766.htmlそこには、俳人の一茶が関係しているようです。又、相撲は河童(キリシタン宣教師?)伝説にもよく出てくるようです。キリシタンと相撲の相似点は、五つの色にもあるようです。相撲の土俵の「四房」の色は、白・緑・黒・赤、そして水を表わす「水引幕」の紫です。キリシタンの典礼の色にも、下のような意味があるそうです。白:神の栄光、清らかさ、喜び、 緑:希望、歩みの堅実さ、忍耐深く聞く、黒:死、苦しみ、悲しみ赤:火、愛、殉教、紫:償い、回心、節制、待つこと、死者の贖罪と冥福を祈るそして、水引幕の中央を絞り上げている「揚巻」は十文字に結ばれています。
2012年06月01日
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