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明けましておめでとうございます。市内川除で、武庫川の傍からの映像であります。 武庫川べりの景観 川除の田園から有馬富士の山を望む わがブログでいえば: この川除で、素晴らしい野鳥の”タゲリ”(チドリ科)が年頭に現れてご挨拶してくれるだろう 私事としては、このような野鳥などの出合い観察、畑の仕事などで元気を盛り上げていきたい 気持ちでおりますが、国の歩みとしては: この日の出のように力強く日が昇り、国の歩みも明るくおおらかに進むように願っております。さて: 今年も現在進行中の野鳥の観察結果をもとに、野鳥のあれこれを私なりの印象を添えて見て 頂きます。 その一回目: ソウシチョウ(相思鳥) : チメドリ科 帰化鳥の一つ 帰化鳥 L15㎝ 最初に見た瞬間、”輸入されたカゴの鳥”が逃げた? と思った。 この森では野生化されていて、有馬富士の森を行ったり来たり。 正月明けに、写真を並べてのご紹介を予定しております。 改めてその情報を書きますが: 帰化鳥には ソウシチョウの他に、ドバト、ガビチョウ、ハッカチョウ、インドクジャク、ベニスズメ ワカケホンセイインコ、シマキンパラなどがいるそうです。 ソウシチョウは1931年(昭和6年に野生化確認の由) ドバトは、大和、飛鳥時代に移入の由、超古いお話です。 今年、一番気張って、観察して撮影に成功したいのがオオムラサキ(チョウ) 勿論今は手持ちの写真はありません。 山梨県のオオムラサキセンタ-の写真のご紹介です。 国蝶になった由来として、日本国どこにでも発生する・・・のでとされておりました。 有馬富士公園の山中でも確実に羽化されているらしいので、今年は7月頃には、その 場所で見つかるまで粘りたい心境です。 2019年に私なりに成果であったと思ったルリタテハとの出会い 有馬富士公園の公設トイレの北面する壁に止まった瞬間の映像の内の1枚です。 推測ですが、羽化後の飛びはじめの姿で、この後近くの森へ飛び去った。 また: ある場所で: コナラらしい木の樹液を吸うチョウ、スズメバチに遭遇い、以後この観察も日課みたいになった 桜の木肌にいたチョウ サトキマダラヒカゲ? ヤマキマダラヒカゲとの区別にトホホホ! 羽化後、ササ、アジサイなどにしばらく静止しているかに見える姿を吸う沢山見たのも2019年 の成果だった。⇒2020年も引き続き観察する対象と考えている。 大きなジャノメの間にある小さな目玉が3つでその他の模様からヒカゲチョウ? 素人が初めてこのような識別の勉強を迫られた2019年でした。 2020年には、もっと数多くのチョウとその識別に悩み、楽しみたい。 参考書 その一 フィールドガイド 日本のチョウ 日本チョウ保全協会編 誠文堂新光社 ( このように非常によく似た写真を2つ、3つ並べて悩む…そんな楽しみに出合う1年で ありたい) 福島大池が干上がり、水が激減しているのでカモ類喉の渡り鳥蛾の姿がほとんど見えない。 この市内にある無数のため池や武庫川などに分散して生息し、餌どりしているものと推測 しておりますが、 ① 福島大池の水の回復; 観察 ➁ 福島大池における野鳥の動向 ③ 周辺のため池に足場を移したと思われる野鳥の動向 なども2020年のウォ-キングの観察課題だろう。 我が家では: ① 2019年に倒伏し、新規再建したキウイ棚とその枝の202年度の推移 過去の、実のなり具合 2020年は、ともかく花(5月頃)が咲き、結実できたら万歳だろう! ➁ 庭の花 トライアンファ-タ 球根の植え替えの実施ができなかったので、そのまま。 2020年の発芽をやや心配している ③ サギソウの花 このサギソウも10月頃、球根を掘り上げて植え替えるのが理にかなっていると先達から 指導を受けてきたが、2019年は実行が叶わなかった。 2019年同様、ともかく沢山開花出来たら万歳どろう。 ボタンやアメリカフソウ、プルメリア、キランソウ、ヤブラン、タイツリソウなど様々な 庭の花が無事に咲いてほしい お正月の元旦だからあれこれと書きますが、三輪神社の秋の例祭にでる”ふとん太鼓”など皆さん の 伝統も写し取って、再びご紹介出来たら幸いです。 2018.10.07 三輪神社 氏神様 大歳神社 鳥居の材質にご注目願います。木でできております。 資料によると、この素木づくりの場合、笠木は根元が左に来るのが決まりだそうです 心のよりどころとして、素木づくりが守られているものと思われます。 日本の鳥居は古来、木造りが決まりだったらしい。中世以来石像や唐金づくりなど広がって いったらしい 今の三田市内には、この例の他松の木でしか鳥居の建立が認めれれていない例もあるらしい。 この神社の場合は、国道176号線沿いの鳥居は石造りの明神鳥居です。〇 § ×
2020年01月01日
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2018.11.06頃。「たけしの家庭の医学」(正しいスペルでないかもしれませんが)で、その日のテ-マの一つとして頻尿には「青竹踏み」を踏むのが効果的との紹介があった 1. その根拠となった香川県の「」讃岐うどん業界と日々行われる「」腰の強いうどん」を作る 為に、あらかじめ水を打ち、まんべんなく浸透させたうどんにポリエチレンフィルム状の物 を被せておき、自分の両足で・・・根限り踏む どのお店でもこの作業があるらしい。 これが美味しい讃岐のうどんが生まれて、続く秘訣とか。 2. その従事者の方々に取材したところ、何方も「頻尿」が無いとわかった・ 3. 柔らかい物から、強力な腰が出てくるうどんの元を満足が行くまで踏み続ける結果、 膀胱がゆったり尿を受け入れて、保ってくれいてる・・・この辺にポイントがありそう。この番組では、頻尿で悩んでいる方を青竹踏み行為の試験の対象に選んだ。 青竹踏み 文字通りで,孟宗竹にイボを埋め込んだ健康器具。 我が家の例ですが・・・ 人工の「青竹踏み」もあると思います。経過は省略させていただきますが、明らかに頻尿の感じが減り、朝まで眠れた・・・様の映像が示された。「たけしの家庭に医学」をご覧になっている全国のファンも含めて、ここまでの番組に大きな衝撃を受けたはずです。私も妻に今夜の「たけしの家庭の医学」には「頻尿対策」がテ-マの一つと知らされていた。祖のテ-マの放送開始から終わりまで見た。1. さぬきうどんの職人さんがうどんの元を両足で踏み、こしをだす作業も納得。 その行為が頻尿の元になっている膀胱のある種の症状を起こさせない原因になっている らしい・・・納得がいく情報だった。2. 一般市民が、この行為となた行為で「青竹踏み」があると言う事も面白い情報だった。 足の裏はあらゆる健康と病気の情報のいわば「辞書、図書館」のようなもので、 鍼灸マッサ-ジ業界では 「足の裏にツボがある。」とされていることも、このテストの元になっていた。〇 § Δさて、私です。1935年、昭和10年生まれで、今83歳と6か月。ご承知の方々も多いことでしょうが、来年はイノシシの年です。 1. 十干十二支 己亥 読み つちのとい 2. いわゆるイノシシの年です。 十二支で言えば7回目です。もう1回回れば96歳。頻尿と便秘の話題に関しては、同窓会でも話題にしませんが、私が70歳台で便秘や頻尿などの苦労が無かったころ、畑やご近所の方で、数年先輩の方に頻尿について取材いたしました。 1. ある方はマッチ棒を寝床の横に置き、尿で起きた時その1本を別の場所に置く。 6,7回またはその上、トイレに行ってる。 2. もうひと方は21時頃、就寝。トイレの回数が増えるので、睡眠不足になるので次第に 就寝時間も早くなる。 3. もうひと方: ご子息の話 「親父と私達は昼と夜の時間が違います。」 今、この年代になって思うことは、当時は80歳台の高齢者の「頻尿と便秘」の意味と辛さがまるで分っていなかったと言う事です。元へ戻って:2018.1107家のソファ-の陰で眠っていた「青竹踏み」を取り出しました 1. 早速「青竹踏み」を無勉強のまま踏みました。 2. 22時にベッドに行き、読書後23時ごろ就寝。なんと05:45起床 夜中起床なし ビックリです。 3. その次の日から、時間があれば「青竹を踏み」に取り組む 4. 「とても快調」・・・とは言いかねる現状。むしろ、むやみやたらと「青竹踏み」の利用は体に効果的と言えない情報もありました。いまも、この問題でご苦労の皆様や これからその年代を迎える皆様方。膀胱が尿の保存力が現象すると頻尿に結びつきかねないので、「青竹踏み」の活用や讃岐うどんの腰を出すため行う作業ににた、例えば、畑で踏ん張って土を耕す・・・など。 頻尿を防ぐ工夫に取り組むことを、ご理解ください。〇 § Δ後書き今回の記事に直接関係はありませんが、「便秘」には大変効用があるとされるキウイ。我が家はおおよそ29年前に植えた雌の木が、その後無事成長して、毎年美実を付けてくれます。 キウイは雌雄別株の樹木ですので。オスの木も必要ですが、我が家にはありません。 我が家も雌雄の株を別々に植えました。 雄の株が殻ました。 あるご家庭では、メスの株が枯れたらしいが雄の株も庭木として大事に育てた。 ご近所のお宅でもメス株があるご家庭や雄株が無事育ち続けている家などがあって、 その中で、雄株の花粉を体に付けた蜂たちが我が家のキウイの花に花粉をせっせと 運んでくれいてるらしい。 お陰様で今年も年末から来春にかけて、キウイを美味しく頂けることだろう。
2018年11月15日
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まえがき 久しぶりに友が丘ふれあいサロン主催のバスツア-に参加いたしました。 おもな訪問先 ガ-デンミュ-ジアム比叡 入口 高い山の中腹に設けられたお花の公園らしい花の展示と周辺の山々、琵琶湖の景観などが 見どころだと思いました。 ハロウイ-ンのカボチャ カナリヤナスやダリア、ヒヨドリバナ、サワヒヨドリ、珍しいナス科の花などと白いコシ キブ(ムラサキのコシキブの仲間)の果実などの紹介 琵琶湖グランドホテルの一端 右側のすぐ傍が琵琶湖です。豪華な昼メニュ-でした。ここから琵琶湖の湖岸沿いの道路をバスは走り、琵琶湖の出口瀬田川沿いのお寺、石山寺に無事到着しました。昭和28年(1953年)の高校卒業旅行以来か?アンビリ-バボ-?、信じられない! 石山寺参詣 山門 逆光で見づらいでしょうね 一般になじみがありませんが、このお寺さんは「宝篋印塔」が数多く拝観できる場所と して知られておりましたので、参詣出来たことを嬉しく思いました。 紫式部の供養塔 その傍に立つ芭蕉の句碑 この句碑には (源氏の間を詠む) あけぼのはまだ むらさきに ほととぎす と刻印されていました。 石山寺の参詣と観光は約1時間でしたが、 御朱印を頂くなど有意義に過ごせました。 井筒八つ橋本舗での買い物 この秋は天候不良が続き、このバスツア-も心配されましたが幸いいいお天気にも恵まれ 無事に巡回できました。 友が丘ふれあいサロンバスツア-の予告編はこれで終わり、次回から順次、詳細にご紹介の予定です。◎ ◎ ◎ 今頃の秋、庭とご近所 雨で収穫が遅れていた黒豆の畝も片付き、イチゴの苗の移植用の畝づくり、タマネギの苗の 育成、移植畝の準備などで忙しくてウォ-キングもほとんど出来ておりませんが、玄関先な ど菊やツワブキなどの花が咲いております。 ご近所のサザンカ・白 21号、22号台風の風にも負けずキウイの実も次第に大きくなりました。 専門農家ほど摘果は出来ておりませんが、我が家の管理人の妻は大満足らしい。 私はもう少し摘果を進めたい…と思いながら思うに任せない昨今です。 歩道のナンキンハゼの紅葉 ◎ 〇 ◆
2017年11月08日
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庭のリンドウの花園芸品です。野生の花はムラサキだとか、出合う機会がなかなかありませんが。今回のテ-マゴミステ-ションに集荷されたゴミ袋のごみをいかにしてカラスなど生き物から守り、集荷の車が来るまで維持するか。護れているポイントは何か。ゴミステ-ションのある朝 : この町はすべてこのゴミステ-ションが配置されている。 ゴミステ-ションの全景 この町は水曜日と土曜日が回収指定日 今から30年以上前、この町が開発された時にこのような”ゴミステ-ション”と名付けられた 三田市指定のゴミ袋を集積する場所が造られて以来、写真のような姿が続いている。 だいたい水曜日と土曜日の午前中に回収車が集荷し、その後当番の家が清掃している。 置き方次第でカラスが袋を食い破り、その後が”目をそむける”見苦しい姿になる。 この状態を放置すると毎回カラスが来て袋を食い破り、見苦しい姿の展開となる。 そうならないで、気持ちよく暮らせるゴミの出し方 上の写真の 現場を接近して見ると:ネットとゴミ袋の間に隙間がある。 必ずネットで覆う。 かならずネットにゴミ袋のごみを接近させない。この設備のカラス対策のコツのようです。 右隅の拡大 この写真撮影の日は、右隅、左隅ともに囲いに密着している。 仮に囲いにカラスが入れる隙間があってもカラスはそこから中に入ってゴミ袋をあさる事は しないようです。とっさに逃げられない空間には身を置かない利口さがあるみたいだ。 左の隙間 勿論確証はありませんが、ネットにゴミ袋が近接していて、カラスの嘴に届くと見定めたら つつく。この写真のように離れていると諦める利口さがあるらしい。 カラスはゴミステ-ションの状態を監視する時にはこの電線に止まる。 様子を観る場所 ネットにゴミ袋が接触しているかどうか見定め、鳴き声で仲間に知らせているとみている このゴミステ-ションは今、カラスに隙を見せていない( 写真のようにゴミ袋がネット から離れていて、カラスのクチバシが届かないので烏は諦めているはずだ。今回の撮影ではカラスの監視の姿をご紹介出来ませんでした。何故なら、空を飛ぶカラスから見てこのゴミステ-ションには近づいても無駄たと理解しているらしい。この町が出来ていら30年余りらしいが、我が家が出来てから28年強の時間の中でも何度か烏の被害を受けたことがあった。その時にカラスが電信柱の上で鳴いていたのを覚えております。仲間へ伝えている・・・と解釈しております。また、数あるゴミステ-ションでも時々カラスの被害を受け、ゴミが道路の端に広がっているのを見たことがあった。住人の皆様も経験を積んできているので、短期間にゴミ袋の置き方を修正されているように見受けます。その結果、そのゴミステ-ションでもそれ以降綺麗な姿が保たれております。すでに町の形が出来上がっていて、このようなゴミステ-ションの設置が難しい町などゴミ袋とカラスを隔離することにご苦労を重ねている事と思いますが、ともかくカラスは逃げ場所を確保する形でゴミに接近するらしいこと。ゴミ袋を保護しているカバ-(このゴミステ-ションではネット)の上からゴミにクチバシが届くとゴミをあさる行為に出る可能性がありそうです。以上がこれまで28年あまりゴミステ-ションを見て来た1住人のカラス対策についての見方です参考写真近くのお宅の塀にいたカラス。2017.01.29左側はけやき公園で、少し離れてそこにも別のゴミステ-ションがある。但し、この町の中で見かけるカラスはこの写真がハシブトカラスだとすると、クチバシが細いハシボソカラスが多い。このカラスは移動の方法として、人間と同じように足を交互に動かすのですぐに分かる。ハシボソカラス 2016.04.15ホッピングでなく2足歩行をしているカラスを初めて知って驚いた時の1枚。◎ 〇 ◆
2017年11月05日
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2017年1月1日 晴れ あいにく東の空に雲がありました。恒例の初日の出の写真撮影を心掛けました。1. 07:06 現地でカメラをセットして東の空の様子を見た。 土手の桜並木の下から六甲山と上空を見ている。 07:16 雲が左から右に移動していて、やきもきしている。 山の端と厚い雲の間に光が差し込んできたので、1000mに喃々とする六甲山の途中まで やっと太陽が上がってきている。 そんなことを想像させる輝き方! 07:18 光の動きが急になった。 相変わらず雲は左から右に動いており、ハラハラ。 やっと初日の出。まん丸ではないが。 とにもかくにも初日の出を見ることができたと表現することをお許し願います。 前日12月31日にインタ-ネット検索で日の出の写真の撮り方をおさらいした。 1. 望遠で一眼レフ換算100mm,APS-Cで70mm 2. 三脚利用がお勧め。 3. ISO 100~400 F 8 ~11 4. ホワイトバランス 晴天日影を選ぶと、くもりより赤く見える。 露出補正 +側を選ぶと太陽が輝いて見える。 この辺を採用してみてはどうか。 こんな情報を参考にした。 チラリズムでも太陽が出てくれたのが最大の功労者で、日の出を拝むことができた。 昨年は濃霧で全く日の出は見えませんでした。 帰り道にて渡り鳥のカモを町内のため池で撮影して正月をはじめ2017年のスタ-トとしました。 キンクロハジロ 正確ではありませんが、この鴨は水中深く潜って餌取りするのではないでしょうか。 また,尻尾が水中につかっているのでいるので飛び上がる際、助走を必要としているかも しれない 正面の写真 冠羽と呼ばれる頭部の羽が風になびいて可愛い! この溜池は福島大池や武庫川などと異なり、そんなにたくさんのカモは飛来しないようです。 ヒドリガモ 今年も様々な鴨に出合いたいものです。 この鴨は飛び上がる際、その場から直ちに飛び上がることができるだろう。 尻尾が水面から上に出ていることからの推測です。 ウという鳥は飛び立つ時、長い助走を必要とします。 キンクロハジロとヒドリガモの写真を眺めて居ての感想です。
2017年01月02日
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6月24日 Tvニュ-スで大阪・池田市が熊本市へお城の修復費用として”ふるさと納税”を寄付する事を知った。2011年 熊本城を訪問して沢山写真を撮影したことを思いだした。その写真をふり返りここに再掲してあの素晴らしい熊本城の修復が無事に成り元気が戻ることを願った。写真で見る熊本城のあらまし : 2011.11.23 現在の姿 何とも整ったこの天守閣と傍の建物、感嘆のほかない! 天守閣と小天守閣と呼ばれているらしい。 私が興味を感じている”火事防止のおまじない 懸魚、げぎょ” おおよそ2000年前中国の山地で発生した時は、水気があると火事にならない 事を象徴して”干し魚”を飾ったらしい。 この「かぶら懸魚」が最も多いだろう。このお城も火事を恐れたことが分かる。 天守閣と小天守閣 石垣の高さに注目。 石垣の高さがお城の威厳を生み出しているであろうが、地震にはもろいのかも しれない。訪問してから5年目ですがこの高さが印象に残っている。 左が小天守閣、右が天守閣だ(と思います)、後ろ側からの景観。 石垣の様子が分かるしその面積から突き出て組み立てられたお城。 地震の恐ろしさを考えると、厳しい成立ちに見える。 他のお城では、中庭がこんなに広くて城郭に接していないと思うが、ここでは こんなふうに歩けるので、現代ではこのお城の良さや防御力などの事は忘れて 楽しさいっぱいの過ごし方が特徴だろう。 別の角度・方向から見た城郭と天守閣 手前右に洗面所がある。 一度元へ戻って、バス停からガイドの案内で城内へ向かう際、お堀?越しに 今も心配な立派な石垣とその上の塀や天守閣が見える。 城内へ入って、坂を上り天守閣のある一画に至ったところ。 ガイドさんからこのお城の成立ちなどを聞いている一行。石垣の高さも感じる。 こうして大地震の被害にあってみると、この立派な石垣とその上の天守閣など 激しい揺れでどんなに激動したことか? 被害があったのであればまずは石垣 からの取り組みになるだろう。 考えただけでも恐ろしい。 唐破風懸魚 別名”兎毛通懸魚 ウノケドウシゲギョ”が唐破風の下に付けられていたと、 当時のメモにあるようですが、この下の出入り口がなにであったか? 天守閣などに付けられていた懸魚 ひれつき(鰭付き)蕪懸魚(かぶらげぎょ) いかに火事が怖いか分かる。 お城を出てからバスに向かう道で、改めてふり返って城を見た。 どこから眺めても絵になるのがこのお城の素晴らしさ。 こうして写真を並べてみると改めてその素晴らしい偉業のそれぞれが理解できた。高い石垣の上に建つお城、その土台からの修復、しかも地震対策を加味した修復は新規に構築するのと同じ発想に立ちながら、外観などは当時のままという極めて困難な作業に立ち向かうことになるだろう。 お城の中の部屋の一例 熊本に限らず阿蘇山系の平野は地下水が豊富で、その水の恩恵に被っていた。おおよそ200年の歳月をへて地下にしみ込んだ水が此処まで届くと聞いている。こんなにゆったりしていれば良いが、地震後の熊本地方の水害も悲しい。Θ ▲ ◆見事なお城の姿を公開することは、今となっては失礼かもしれません。しかし、加藤清正公が築城を決意され完成させたこのお城、現代までの間には様々なことがあったことだろうが、それを乗り越えてここまで見事に維持されて来たのですから、改めてこの素晴らしい姿が復元できることを祈らざるを得ません。 お城の近くで出合ったマンホ-ルの蓋、半分日陰が残念ですが。 熊本のマンホ-ル蓋 ▲ 〇 Θ余談ながら 2011.11月の旅は九州一周ノバツア-に参加した物で、大分、宮崎、鹿児島、熊本長崎を巡ったものでした。
2016年06月25日
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4月4,5日に体の健康を確かめ、神戸の街を楽しみました。4月4日午前、神戸百年記念病院人間ドック入り神戸市兵庫区御崎町にあるこの病院へはJRからタクシ-で参りましたがその間には平家の平清盛が都を京都からこの地に移した時期の遺物があり、遺跡が見られます。確かこの付近には大仏さんもあるはずでした。十三塚昔お借りした写真で、所蔵されている方にお断りも出来ませんが有難うございます。この左後方にあるのが平清盛塚だろうとおもいます。この地帯にはいろいろ遺跡が多いのでお時間の在る方は散策にお出かけください。お勧めです。さて:今回は、2日コ-スのドック入りで大腸の内視鏡検査もあって病院の滞在時間と一泊どまりの宿屋、「神戸メリケンパ-クホテル」並びに5日早朝の時間を花隈公園で過ごすことで終わりました。1. 神戸百年記念病院と庭の桜 この病院は昔々明治40年(1907)に鐘紡の綿紡績(たぶん)の工場施設の一環とし ても受けられ、工場は無くなったものの病院は市民の病院として生き続けるている。 いまではこんな外観と庭の景観がある病院となった。 人間ドックやリハビリ病棟のある中庭には、桜の花が咲き誇り素晴らしい眺めだった 車道から病院の庭にタクシ-などが入り、玄関へたどり着く途中には毎年今頃は この桜が緊張する患者やご看病・お見舞いの方々をほっとさせてくれる存在だ。 ここが入り口、左手にある受付でて続くにはいるが、今回は直接人間ドックの センタ-へ向かった。 私個人は、全身の諸検査と大腸の内視鏡検査並びにオプションとして新たに大腸 ガンの検査を選んで取り組んだ。 5月に入ると満81歳となるので、この辺で大腸に関して確かめた 。 玄関の生け花 どの病院もこうしてお花を飾ります。 次はこの病院が予約してくれたホテルとその付近の景観です。2. メリケンパ-クとメリケンパ-クホテル メリケンパ-クホテルの外観 今回は14fの部屋で、ちょうど写真の右側、六甲山やポ-トタワ-が眺められる 側のお部屋でラッキ-だった。 メリケンパ-クの公園モニュメントから遠くの建物(ホテルらしい) 2013.04.02 全回滞在した時にこの公園を歩いたので、今回は花隈公園での 時間が長かった。 ホテルの部屋から見て左側にはハ-バ-ランドがあり、ミナト神戸の観光施設 がある一画となっている。 人の賑わいはこの写真に見える観光船の向こう側だ。 観覧車の在る一画 荷物の上げ下ろしをする港の突端地区 観光地でもあるが、日本の活力の一端が感じられるみなと風景だ! 六甲山に向かい、右手の街々 ハーバ-ランドの夜景 花隈公園への往復でであったポピ- 歩道に1株 が見られたので感心した。 ポピ-一輪 花の様子をマクロで大きくして観たもの1995年阪神淡路大震災の年 5月ここの手術室で胃癌の手術を行い、6月10日退院するまで入院していたこと。 その間、目いっぱい歩く事の勧告を受けて六甲山の麓にある神社まで、あるいは 平清盛のつかの在る街など歩き回った。 又、長田区の菅原市場ではご承知の如く地震の災害で猛烈な火事による沢山の死者 が出ました。 その焼け跡の生々しい姿も日々眺めながら散策したことでした。 1995年5月から約21年、大腸や肺、肝臓など重要な機関にガンが発生しないよう に願っております。 沢山の雄しべ、葯が見られ、真ん中にある雌しべには無数の種ができるらしい。 なのに、ここには 1株しか生えていなかった。 歩道の出来が良くて、地面に種が入り込む隙間があまりないのかもしれない。Θ ◆ 〇この病院は私が退職するまで長い間働いた会社の一つの施設であり、一つには毎年の健康診断もこことここの先生方にして頂いたデ-タがある事、さらに旧聞に属する事になりますが、ここの外科で胃癌の手術を受けたので21年前阪神淡路大震災の実際やその後の様子と自分の体の回復が重なり思い出が沢山あります。余談ですが:
2016年04月13日
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3月3日(木)神戸空港と三ノ宮へ出かけました。南京町と干支の彫り物見物 南京町: お昼前の街角 建物は赤い色で賑わっているが、昼前で街の通りは人通りが少ない。 干支の彫り物の一つ う 兎 干支の一つ 2014-12-15撮影 これまで計2回撮ったが干支が全部 全ての観光客はこのお祭り広場の周囲とあずまやに置かれている干支の彫り物と パンダらしい彫り物に目を向けない。もちろん邪魔にもしていない。 これまでに揃って撮れていないので今回は一気に全ての像を狙った。 次回に別途載せるつもりです。 南京町の北からに入り口にある獅子の彫り物 日本の神社に見られる神様の守護、狛犬とは違ってこの街の繁栄無事を祈っている。 東西南北 計4つの入り口がある南関町 その北の入り口だけ門が無く獅子が居る。 東の門 長安門 尚、この辺りは正式にはいくつの町があり、町名もあるが一切を統合して南京町の、 名前が生かされている。 生田神社 参拝 最も道路側の鳥居から見た生田神社 蛭子神社(ご本殿の通路を隔てた真後ろにある)の焼き物の狛犬 吽 形 蛭子神社さんに向かって左側にあります。 焼き物、角がしっかり残っている点にご注目を!空港へはポ-トライナ-に乗って約18分でした。久しぶりに乗った。神戸空港 滑走路の飛行機 離陸した飛行機 出発予定の飛行機 この日、この時間に出合った飛行機はこの機種だけでした。 この空港の収支バランスはなかなか厳しいという話が新聞などに載る。 久しぶりにこの空港へ来たので、そんな目で接するせいか、「なんもないなあ」 そんな印象を受けながら4Fにある観光スポットへ上がり、15:30到着予定の機 の写真でも撮ろうかと行ってみたら、着地済みらしいと分かった。 大慌てに慌てて1階の出口へ行ってみたら、出迎え予定者がそこに居て、2度(@_@)神戸市、なかんずく三ノ宮は1995年平成7年の阪神淡路大震災のつらい思い出が今でも色濃く残っております。 JR三ノ宮駅北側から六甲山の方向 前方左、やや突き出た感じのビルが地震の際、倒壊しかかっていた。 生田神社は左手前を西に歩いていくので、生田神社へ参拝の際は、いつもこの写真 の場所で1995年の事を思い出すのです。 地震の際は、この写真の前方左側のビルが倒壊しかかっていて斜めでした。 地震からしばらくは水などをリュックに詰めて三田から神戸へ通ったので、街々の 悲惨な様子と沢山の方々の活躍ぶりもまざまざと思い出します。 また、1995年5月18日に胃がんの手術を神戸の病院で受けたのでこの街は一層印象 深い存在となりました。あれから21年です。神戸が栄えてほしい。なかんずく神戸空港が栄えてほしい。この小さな、小さな空港、格安便で良いから飛行場がパンクするくらい沢山飛来してほしい!南京町、生田神社、神戸空港 この3っつの訪問先の中で、空港の淋しさがやりきれなかった◎ ◆ 〇
2016年03月13日
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三谷幸喜さんの随想を読んで感じたこと。平素ブログの構成とその底を流れる物について考えた時、まさに「因果」が在ることに気が付く。庭の片隅に今盛んに咲いているヤツデの花だって、雄性先塾と呼ばれていて、どの花も雄しべのみが開き、中間期?と呼ばれる雄しべも雌しべでもない時期があって、初めて雌しべが花の表面に出てきて他の花の花粉をアブやハエに運んでもらって交配が成り立つらしい。 ヤツデの花 全体としても花ですが、この中の1個、1個が独立した花であり雄性期、中間期、雌性期 と変化しながら劣性遺伝を避けて交配が成り立ち実が生る・・こんな変化が見られます。 しかもこの雌しべにはこれと言った魅力がないので、そのままではハエもアブも来ない。そこで花の表面に甘さが他の花の蜜よりも数十倍も甘い濃さがあり、その香り?でアブやハエがどうにも近寄らざるを得ない・・・こんな仕組みがさりげなく出来上がっている。それで、我々人間や他の生き物が知らない中でヤツデは冬を選んで生き残っているという事だった。三谷幸喜さんはその「因果」について:現在書いているNHK大河ドラマ「真田丸」のか脚本の底を流れる物として、例えば昔、関ケ原の戦いで西軍の武将であった小早川秀明が裏切った(原因)ので、石田三成は負けた(結果)。 三成が負けたので(原因)西軍についた薩摩の島津や中国の毛利は負けた(結果)この事で恨みを持った薩摩や長州は幕末まで恨みが根元にあって結局討幕となった。つまり徳川幕府は瓦解した。もし、小早川秀明が居なければ、日本歴史は大きく変わっていたかもしれない。NHKの大河ドラマは「真田丸]西軍の英雄真田幸村がテ-マのようですが、豊臣家が滅亡した大坂夏の陣、冬の陣の前後に大きな時間が割かれることでしょうが、その底を流れるテ-マとして、例えば小早川秀明の裏切りの言動に触れるのではないか。この随想はそんな印象であります。(1) このブログに登場する草花の様々な違い、特徴も長大な時間の流れの中で何らかの 原因があって変化を遂げたこと。 その中でも優勝劣敗があって生き残れる特徴だけが残った。 まさに「因果」(2) 小早川秀明さんのご子孫が現在しておられたら、来年1年間どのようなお気持ちで 過ごされるであろうか。 時代小説がお好きな方は、この関ケ原の戦いで小早川秀明さんの裏切りも知っては いるもののここまで膨らませて考えた方は少ないと思います。(3) 来年の大河ドラマを見ながら、この辺について視聴者の皆さんがどのように反応 されるのか、関心をもって見ていきたいものです。(4) 尚、小早川秀明は、たぶん戦国時代の英雄、毛利元就の孫かひ孫で、豊臣秀吉の お気に入りで、秀の一字をもらって名前にされた方で西軍の有力な武将であり、 関ケ原の役でも現地の戦略的な場所に陣取っていたのも知れませんね。 それが東軍徳川家康公の側へ寝返ったので西軍の動揺が大きかった。 こんなことではなかったかと思います。 三谷幸喜さんの恩師として、中島達雄先生と野呂肖生先生のお二方について述べられた中で例えばとして出したのが上のお話しでありました。◎ ◆ 〇
2015年12月06日
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表題の通りで、テレビや新聞などでこの話題が目につきます。この話題は極論すれば男性全員が対象の話題ですが、もう一つ、トイレなどの悪臭について : これは高齢化にともない悪化する話題だろう。加齢と共に嗅覚が衰えていくのは避けられないが、夫婦二人で暮らす現代の家庭生活では夫婦二人のどちらか一人でもトイレなどの悪臭に気が付けばその対応(まめな清掃など)も行う機会があるが、両方とも嗅覚が劣化してくると気が付きにくい。子供や第三者の来訪の際、ご指摘いただければ、恥ずかしいので清掃を行うことになる。ともかく男性も小便の際、環境が許されれば小便も便器に腰を掛けて行うようにしたほうがベストだと今では自分なりに結論づけて、その実現度を100%目指して努力を開始した。◎ ◆1. 個人差が大であろうが、特に加齢に伴い小便の出方、飛び方に差異変化があり、立った まま行った場合、その飛沫は若い時に比べてその飛沫が便器外の床や便座付近などに 飛び出す。2. この点は男性と生まれた後の行為としては、子供もそのようにしつけた方がよい。 飛沫は見えないだけで、かなり広範囲、特にズボンの表なども汚す可能性は 年齢とは関係ないだろう。3. 便器および床、マットなどが汚れて悪臭を伴う点で、高齢者の男性は特に留意した方が 快適な生活への道と思われます。◎ ◆NHKの水曜日の夜8時台の人気番組「ためしてガッテン」で、その飛沫の飛び出し方を実際見せつけられたが、衝撃的な状況でした。以下にこの話題に関して、目に触れた情報、話題をご紹介させてもらいます。 1) NHK ためしてガッテン: 水曜日夜 8時台 2) アメリカの学者2人が研究した結果、男性の体から9cm先に飛びだした小便が 小さな米粒のような粒子になって落下することが発見されたこと 3) このように液体として繋がっていたものが、9cm先から粒子になることにより 仮に便器の中へ完全に収まっても飛沫となって飛び散る原因となり、便器や床 マットを汚す。 立ったまま行っているが、きれいに便器の中側へ収まっているから、「俺は便器 や床・マットは汚していない」と自信満点の男性もいるであろうが、カメラで観察 した実態は飛沫が霧のような姿で床などへ飛び散る姿がはっきりと見てとれた。 4) 仮に、出先などで従来の便器、つまり、立って行う場合でも筒先を便器に可能な 限り近づけ、9cm接近の努力が求められる。 5) 理想は何処でも便座に腰を掛けて行うこと。 こんな骨子であったと思っている。 様々な映像で、科学的な実証が示されてショックの大きさをさそった。グロキシナ・赤:イワタバコ科久しぶりに、現在咲いている花です。話は元に戻って:私の場合 : ア. 80歳であること。その飛翔の仕方について自己責任を果たしているかどうか。 イ. 便座外への飛沫の汚染は一般人に比べてより悪いと考えられるので、先般トイレ 内の床なども含めて徹底して清掃して以来、順次便座に腰を掛けて用を足す頻度 が増えつつあったこと。 ウ. NHK「ためしてガッテン」を見たり、新聞などに現れたトイレ内の悪臭云々の 記事をみたこと。かなり真剣に考えるようになった。 エ. インタ-ネットにも関連記事が満載であること。 高齢男子用として、服と体の間に「小便漏れ」防止のパッドなどの普及?。 などなど から、ますます便座に腰を掛けて行うスタイルの頻度アップにつとめていること 外出先などは男性便器の利用の場合、約9cm接近を合言葉にして実施中です。 山茶花がどこでも見られます。インタ-ネット検索で見た情報: 男性の尿漏れも含めての関連情報1. パンティライナ-(オリモノシ-ト?)、生理用ナプキンを付ける。 言葉そのものが分からないが男性の尿漏れ対策にも及ぶらしい。2. 小便器は汚いし、不潔である。3. 最近は男性トイレも個室満員が多い ⇒(小便も便座で行っている可能性あり・・私注)4. 先日見たテレビCMに「男性用薄型パッド」現れたが、詳細不明5. TOTOのアンケ-ト: 便座に腰かけて小便をする男性の割合 2004年 23.7% ⇒ 2009年 33.4% (3人に一人)6. 男性が用を足す時に、おしっこの流れはしずくに分裂し、尿道口から約15cmの範囲で 飛び散ります。 「便器に当たる前に、すでにしずくとなっている」とHurd氏はBBCに語っています。 「このしずくが、ズボンにしぶきの汚れを作る犯人」 ◎ ◆ 〇 今も咲いているユリの花;黄色 2015.11.13 町内にて
2015年11月15日
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"tanosiku,楽しく暮らす為の話題"この三田市友が丘1丁目~3丁目には下の写真に見られるようなゴミステ-ションがある。 実測してないが幅約2m 奥行2m弱 高さ1.5mぐらいのゴミステ-ション 1.このゴミステ-ション付近の2,30軒が1つのゴミステ-ションを週に2回利用 する決めになっている。 その代わりその都度清掃して、週単位で次の当番のお宅へ当番札を回して告知しい ている。 2.袋は三田市の指定であり、大小があるが、指定袋のみが回収される仕組み。 この付近は毎週水曜日と土曜日が指定されている。 今週11月8日~14日の週は我が家が清掃当番でした。 再掲の写真は11日(水)09:47現在 回収トラックは午前中にくるはずだ。 ネットの下端、両サイドが閉まっているのがベスト、カラス襲来の隙を作らないコツ。 この写真の手前左端のネット付近のごみ袋がネットに近い姿が御覧いただけたと思う この状態が繰り返しあり、其のネットの最左端に隙間があるとカラスがくちばしを 入れると推測できる。 一度そのことが可能であり、袋の中にカラスの好物があるとその次から近くの電信柱 の上から鳴き続ける。 美味しいものがあると仲間のカラスにPRしている可能性もある。 この状態が続く限りカラスはその行為を止めないし、ゴミの散乱が。ひどい。このカラスの侵入によるごみ袋の食い散らかし防止策は? 今回私が行ったこと: ゴミ袋をネットから遠ざける事 当番として、念のためゴミをネット付近から除き、奥へ押し込んだ姿。 左端手前のゴミ袋がネットから離れている点、ご理解頂けたことだろう。 近年でも2度、激しいカラスの食い散らかしがありこのゴミステ-ション付近の 住民はおお迷惑であり、対応に苦しんだことでした。 同じころ、別のゴミステ-ションでも同様な事態に関係者が苦労されたらしい。 その都度、町内会とゴミステ-ションメンバ-の意思疎通で此処も現在では問題なく 過ぎている。1. このようなゴミステションでは、ともかくネットの上からカラスが嘴を差し込み、 そのゴミ袋に届くと次回もその行為が続き習慣化する可能性がある。2. 推測ですが、ネットの横が空いていても、カラスは人や犬などで脅かされるような 地点までの侵入は身の危険を感じて行わないように見えます。3. この街のように新しい町はこのようなゴミステ-ションの設定が可能であり、住人の 申し合わせでカラスの食い散らかしの防止も可能でしょうが、 歴史のある町では、このようなゴミステ-ションの建設は無理があり、金属や樹脂の 回収ボックスなどが理想の姿。4. それも出来ない場所では、 多くは大きなゴミ袋入れに収める形態が見られます。 この場合のカラス接近への対応策については(不勉強ですが)ご苦労されている様が 通りがかりの姿からもうかがわれます。ゴミステ-ションの設置としっかりしたネットを張り、住民はカラスの嘴が届く範囲に物を置かない生活習慣を身に着ける・・・我が家がこのゴミステ-ションの清掃当番にあたりこれも一つのヒントと愚考しており、見て頂きました。◎ ◆ 〇せっかくゴミステ-ションの清掃当番の実施日にあたり、このステ-ションへのゴミ袋の納付状況(中間)を見る機会があったので、写真におさめついでに付近の景色の一部も撮っておきました。 黄色く色づいたスダチの木 ゴミステ-ションの前のお宅にこんなスダチの株があるなんて、色づくまで気が 付かなかった その実 お店などで、緑の濃い色のスダチをよく見ますが、黄色く色づくと綺麗です。 今年の花も終わりかけのホトトギス 11月13日(金)に沢山あるホトトギスの株を眺めてみたら、実が沢山ありました。◎ ◆ 〇余談ながら: 家庭菜園でカラスのウンチを2回頭上の電信柱から見舞われた話、ヒドイ! 大原の畑、谷川沿いにたわわに実った柿の木が5,6本並んでいる。 電信柱、 車が通れる道を挟んで畑があり私が借りている畝が道沿いにありその一画に 電信柱があり、カラスが1羽その頂上付近に止まっていることが多い。 防寒上着などを着て作業していると、肩口でパタンとかボサとか音がするときはカラスが ウンチした時で、かけられた位置によっては確認ができないので余計に腹が立つ。 多い時には数十羽のカラスがこれらの柿の木に来るのでその偵察隊らしい。
2015年11月13日
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ウオ-キングを継続して続けている中の18日の出合いに基づいてまとめた。県道三田―篠山線沿いにある三田消防署前方のこの深田五大力菩薩にも早速通りかかることになった。失礼ながら宗教と言えばどの宗教でも大きな建物があるが、この五大力菩薩は建物が無い。全国にある五大力大菩薩がすべてこの姿かどうかは分かりません。五大力菩薩の板絵それぞれ手に持っている物は、密教の道具だと思います。真ん中の金剛吼大菩薩 庶民が向かい合う神様仏様はこの板絵のみであって、それを覆う建物やこの板絵を護る、祈る宗教人もいない。車1台がやっと通れる道路に面して、鳥居(不思議にも)もある場所で拝む。2013.02.13 柴燈大護摩を焚く行事の前にお坊さんと行者、信者先やりなどが板絵を拝む。普段はまったくん無人で静かです。そこには鳥居も立っている。18日(日)も天神町の三田天満神社へウオ-キングの際、帰り道としてお地蔵さんが立つ道を歩きこの深田五大力菩薩の前に至った。三田市内では5、6か所お地蔵に出合っている。深田五大力菩薩の例年の行事: 2月13日(今年は金曜日) 大護摩など 信者が裸足で灰の上を歩き無事息災を祈る9月13日(今年は日曜日) 大護摩など 同上元々高野山の真言宗に淵源があるらしいが、今この深田五大力は禅宗のお寺が経営に当っているらしい。 詳しくご興味のある方は、次のURLをクリックしてご覧ください。 http://www.eonet.ne.jp/~jyofuku-ji/godairiki.html 曹洞宗 高岸山常福寺が維持していて、このHPも作成している模様如来と菩薩と呼ばれる仏様があります。阿弥陀如来などが如来の代表的な仏様ですが菩薩は悟りを開きつつある仏様で、そこから庶民を救う力が生まれるとされているようですがこの五大力大菩薩も5人?の大菩薩の行を通じて庶民の苦悩を払う宗教と思われます。そんなところに信者が集まるようです。柴燈大護摩の様子2013.02.13 私の写真ものすごく熱いと思うが皆さん神妙にわたっていて無事。念ずる行者さん 2013.02.13 写す。ここは県道三田―篠山線で消防署、マックスバリュ-の横の小川沿い道路を南へ歩くと200m程ですから今年13日は金曜日ですが、お時間のある方は拝観もお勧めです。この小川沿いの道を南の方向?へ歩き続ければその行きつく先は隣の町吉川へ通じる道路に結びつくのではないかと思います。近くのお地蔵さんも町の境であり、遠くへ繋がる道の側にある事を意味しているようですのでそんな目でこの辺りの街のたたずまいを感じながら歩くとウオ-キングもいっそう元気が出てくるような気がします。◆ ◎ ☆ごく最近、これまで未知のお地蔵さん(川除)に出合いました。何れこれまでに出合ったお地蔵さんに付いて纏めたいと思います。
2015年01月22日
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11月20日(木) 晴 [フンコロガシ] scarabスカラベの話)買い物の帰りバスを降りて歩く道ではヒメツルソバ、コウテイダリアなどの写真を撮りながら歩きヒッツキムシのアイノコセンダングサやミズヒキ,イノコズチ(別名ヒカゲノイノコズチ)などを横目に見ながら辿りついたところが砂場の在る小公園だった。珍しく小さいお子さんが二人、砂場で小さな丘を作り小枝を立て、ミゾを掘って遊んでいた。何かこの友が丘の街をイメ-ジしているかも知れなかった。 その事を聞いてみたかったが、男の子が何処かから現れて、フンコロガシ、フンコロガシ!と叫びながら、何かをつかんだ手で砂場のこの葉に載せたその場面デジカメの普通の画面では何が何だかわからないので少し補正したら砂場が光っている。私にもすぐ意味が分かった。フンコロガシいわゆるカナブンの色と少し違うが、こうたくのある羽根などからもフンコロガシだろう。(日本にフンコロガシの習慣のある虫がいるかどうか?自信はありませんが、たぶん居る)カナブンなどもその仲間だと思ったし、この場面のフンコロガシがカナブンそのものか、そこまでは分からなかったが、すぐに子供の興奮に同調してしまい、凄いなあと言った。「どこで見つけたの」「そこの藪の中だよ」 そこは農業用ため池のある窪地に向かって急な坂のある雑木林。私 「この藪にも大きなミミズがいて、坂上から下まで落ち葉の上を滑走することもあるんだよ」などと余計な知恵を披露してしまった。男の子が興味を示す物の一つで私にもその気持ちがよく分かったし、嬉しかったから。その子供さんが妹さんらしいもう一人の子供で、砂遊びに夢中の子供さんに「フンコロガシ」を連発して見るように促した一場面もあった。やはり、男女の関心の違いが出ていて、この砂場の造形も男の子の発想だしそこの小枝を立て何かのイメ-ジを詰める姿は、私の6,70年前の姿と重なり心から楽しいひと時でした。その内、この二人のお子さんのお母さんらしい方もお見えになったので、さっそくお子さんが「フンコロガシを見つけたよ。これ」と言って見せた。私も一緒になってその興奮を応援しながら、こんな小虫に出合えることの楽しさなど余計な話でしたがお母さんらしい方にも話したことでした。この砂場の横には長い腰掛があり、妻のお定まりの一時休憩所。これまでにも時々子供の遊び道具が残されており子供さんが遊んだらしい跡が残っていましたがそのお子さんに出合ったのは5年、10年の中で初めての事だった。(バス停からのやく1Kmの中で約500m、この辺りで休まないと歩くのがきついのでここで休む)つらい思いの妻ですが、小さなお子さんたちと私の会話など久しぶりにつらさを忘れることが出来たかもしれない。☆ ◆ 〇フンコロガシ(scarab スカラベ)について ウイキペディアからお借りしました。上の写真と構えがにておりますね。1. 科 名 甲虫類 コガネムシ科タマオシコガネ属 2. 学 名 Scarabaeus3 スカラベ は古代エジプトの言葉であり、この仲間は世界に30000種もいるらしい。4. 古代エジプトでは、その習性が太陽神ケブリに近似していることもあって聖なる甲虫として あがめられたそうだ。 丸めた糞を転がすところから、太陽に見立てた。 5. 別名 聖玉押し黄金虫 フランス名 スカラベ サクレから来ている。6. 牛馬の糞などは、ハエなどもたかるのでいち早くこの糞に取りつき切り取って、だれにも 邪魔をされないで食べ、またこの糞球の中に卵を産み子供を育てる為に、その糞を糞の ある場所から素早く移動させる必要がある。この仕方が習性となっている。7. かつてオ-ストラリアへ欧州人が移住して牛や羊などを飼育した時その糞を処理してくれる 小動物が居なくて、病気などいろいろ困った事態が発生。 この「フンコロガシ」を欧州から輸入して育て素早く糞を解体して牛などの健康を取り戻した 経緯もあるそうだ。
2014年11月23日
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10月30日(木)付で、三田市内のふとん太鼓について暮らしの新聞が一面で御霊神社のふとん太鼓などをご紹介して下さった事をきっかけとして市内の諸神社の蒲団太鼓の有無を調べ始めた。1. 三輪神社のふとん太鼓、ハウヤ-踊り、お神楽の紹介 ふとん太鼓 出を待つ山車 2. 志手原の八王子神社のふとん太鼓 ここは紹介のHPがありました。を取り上げて紹介させてもらいました。1. 同時にこの市内には、8か所神社にてふとん太鼓の存在が分かりました。2. 10月31日、図書館で次の資料をお借りしました。現在の市内全域の状況を知る手始めです。 北摂 続 羽束の郷土史誌 西村 忠孜(ただし) 著 平成12年発刊 この中では (1) 天満神社(木器) ふとん太鼓 (2) 八坂神社・大歳神社 ふとん太鼓 (3) 高売布神社 ふとん太鼓 しかも 5段のふとん太鼓 などが、写真入りで紹介されておりました。3. HP「山車・だんじり悉皆調査」 http://www5a.biglobe.ne.jp/~iwanee/index.htm この中には、三田市内の全ての神社名、住所、お祭りの内容、その中にふとん太鼓などと 日本全国の「山車だんじり」が悉皆調査されて記載されておりました。後日三輪神社や御霊神社へ参拝しながら、関係者にその他の神社のふとん太鼓の有無やふとん太鼓の存続についての情報など参考情報を伺いたいと思っております。著書 「北摂 続 羽束の郷土史誌」 も図書館からお借りした次第でした。3. の内容を斜め読みで拝見したところでは、8か所どころかもっと多くの神社が「ふとん太鼓」を保有されており、しかも5段のふとん太鼓もあるという素晴らしさです。下青野の感神社はふとん太鼓が5台あるらしい。・・・・・・昨年10月 三輪神社のふとん太鼓の練り歩きを撮影しながら少しついて歩きましたが、素晴らしいお祭りでした。1台のふとん太鼓が3段のふとん太鼓で約1トン、5段だと約2トンと大変な重量ですから、その担ぎ手も50人ぐらい必要としているものと思われますが、その運営にあたる方々も大変なご苦労があるものと思われます前述の「北摂 続 羽束の郷土史誌」に紹介されているふとん太鼓は、いずれも車に乗せられていて氏子さんがそれを引き回す形式になっておりました。何れ、すべての地域でこのような形式になるかもしれませんね。30日のブログに書きましたように1. 10月の第2日曜日などにお祭りが集中する。2. とてもすべてを一度に見て廻ることは無理なので御霊神社か志手原の八王子神社の秋の大祭 から手始めに見て廻れれば・・・と思っております。私のブログは、平素は山野草の鑑賞と観察に基づく情報を載せておりますが、同時に神社に関するあらゆることもの載せておりますので、ふとん太鼓もその一環として順次紹介できればと思います。 前述の山車だんじり悉皆調査によりますと: その一部ですが、これまでに出てきた神社を除き 感神社(下青野)、感神社(中内神)、熊野神社(東野上)、賀茂神社、天満神社(天神) などが見えております。直接そのお祭りを見ることが出来ないにしても、HP、ブログなどのご紹介資料を通じて、現代のお祭りとふとん太鼓をより多く、広く確かめたいものです。暮らしの新聞 11月1日号 ご紹介の:貴志の御霊神社のふとん太鼓 記事の中では、「蒲団檀尻」と紹介されております。☆ ◎ *余談ながら:ここ数日、秋祭りに伴うふとん太鼓の事に刺激されて、考え続けておりまして、ブログにもその一端を載せましたが、ふと考えたことは「喜びも悲しみも幾年月」という言葉でした。それは、私が妻にふとん太鼓は重さが約1トンから2トンあるらしいよと説明したところその担ぎ手が集まるのかしら? とつぶやいた。その事と羽束地域のふとん太鼓が車の乗せられてねられている姿から、実行するに当たっては様々な悩みもありそうなので、単純にほめそやすような表現は厳に慎んだ方が良いかもしれないそんな反省も致しました。
2014年10月31日
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暮らしの新聞社の暮らしの新聞11月1日号に次ぎの題で御霊神社の秋祭りの紹介が1面トップ記事で紹介されている。驚きました!(@_@;)☆今も残る民俗芸能1. ふとん太鼓 この新聞の中では、「蒲団檀尻」として紹介されておりますが「ふとん太鼓」の表現が多い。2. 田楽「ホ-ヤ-踊り」 全て紙面のコピ-です。 3. 蛙踊り 写真もありませんが(三輪神社もハウヤ-踊りが奉納されます)、これも蛙の鳴き声と跳び 動く様が踊りに組み込まれたユニ-クな踊りだと見ております。 豊作を祈る気持ちが、そこに表わされているらしい。ともかく、三田市内の様々な神社で豊かな神事が行われてきておるらしいと思いました。この「暮らしの新聞」等のご紹介を拝見して我々の街のお祭りとふとん太鼓やホ-ヤ-踊りを知ることが出来て、また一つ楽しみが増えました。やはり歴史とふところの深さが感じられた。御霊神社は 年に数回参拝しますが、秋祭りまでは知らなかったのです。ウム。4. ふとん太鼓は三田市内で8か所の神社で毎年繰り出される事が、この「暮らしの新聞」の記事 で分かりました。これらの内、3神社まで知りえることになりました。 御霊神社の場合はこの新聞記事で知り、直接の取材の三輪神社、ネット検索(八王子神社)で 確認できた三神社です。以上で見てもらった写真は「暮らしの新聞」紙面をデジカメ写真で撮影して、お借り致しました。☆ ◎ *秋の大祭は10月の第二日曜日に集中する傾向があると思います。従って、来年は御霊神社又は志手原の八王子神社のいずれかへ出かけて、そのお祭りの様子を楽しみたいと思います。志手原はバスで、御霊神社は自転車で行けます。以下は:三輪神社と八王子神社のふとん太鼓などのご紹介です。◆ * ☆昨年の三輪神社の大祭とふとん太鼓、ハウヤ-踊り、お神楽ふとん太鼓とお祭りの一行 今年は都合で行けなかったので昨年のお祭りのご紹介です。 ハウヤ-踊り 6人が向かい合って、カエルの動きをしながら賑やかな音を立てて踊ります。 お神楽 三輪地区の心の祭りとして、地域が大切にしていることを強く感じました。志手原の八王子神社の秋祭り HP「八王子神社秋の大祭」からふとん太鼓の写真をお借りしました。 このHPは八王子神社の関係者の手で編集され、アップされたのではないかと思いますが、 沢山の写真の掲載がみられました。 ぜひ三田市内の方などご覧いただくようお勧めします。 また、このHPも秋祭りへのご来遊、お出かけを呼び掛けておられます。尚、木器、小柿などの地方にも(未確認ですが)、3か所ほどの神社でふとん太鼓が練り歩くお祭りがあると三田市の郷土史に記載されていたことを思い出しました。仮にそうであれば、これで6か所のふとん太鼓までは分かります。◆ * ☆ここ数年、三輪神社の秋の大祭には10月の第2土、日の2日間出かけて行き、その写真も撮影して来たし、市外の写真の専門家などが取材した記録もHPなどで紹介されております。三田市内で写真撮影を趣味とされ、あるいはHP、ブログなどの運営者の皆さん様々な地域のふとん太鼓やホ-ヤ-踊りなど、歴史の伝承に一役買う事も有意義だと思われます。市内の8か所の神社でふとん太鼓や伝承豊かな踊り、お神楽が見られそうですから。以上は年寄りのたわごとでした。お許し願います。 三輪神社の行列 練り歩く2台のふとん太鼓余談ながら:暮らしの新聞と暮らしの新聞とは:1. 川西市、三田市、宝塚市、西宮市、篠山市、豊能町、猪名川町 合計102113部 配布2. 推測ですが、広告収入で維持されている地域新聞だと思われる。3. 発行所: 豊中市4. 1部50円
2014年10月30日
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大方毎日家庭菜園へ出かけるので、その辺の草花と畑のあれこれが話題となる。1. 谷川縁の岸に見られるヒナタノイノコズチ その花と蕾 かなり密集して花が咲くのがヒナタノイノコズチであり、日向を好む。 日陰を好むイノコズチ(ヒカゲノイノコズチ)は細長い花茎に点々と咲く。 イノコズチの花 花は下から順に咲き、実になると茎に沿う。この写真もその傾向が感じられる。 ◎ イノコズチの株 松林で小道の近くで見つかった。 ※ この「ひっつきむし」 はヘアピンのような形らしい(ひっつきむしの図鑑抜粋) このヒッツキムシの2本のトゲの間に、例えば鹿などの毛が挟まるとこの実は鹿の の体について移動することになるらしい。 2013.12.01 撮影 良かった!! ヒナタノイノコズチの株 この付近もヒナタノイノコズチの生息地らしくて、その辺で2,3株見られた。 今年は、ひっつき虫の仲間として次の幾つかと出合っている。 コシロノセンダングサ(今わ若い株だけですが・・・・) イノコズチ ヌスビトハギ アレチのヌスビトハギ キンミズヒキ ミズヒキ と ヒナタノイノコズチ ※ 「ひっつきむしの図鑑}トンボ出版社 によると日本には60余りのひっつき虫が あるらしい。 三田で幾つ出合えるか今年も追っかけてみたい。 ※ 「ヒッツキムシ」 「ひっつきむし」 これが正しい表記らしい。 考えて見れば当然であり野草だから虫では無い。 子供の頃から、文字抜きでひっつきむしの字体としては、ひっつき虫と思い込んで 来ました。 今後は、ヒッツキムシまたはひっつきむしと表記するよう努力します。 2. ゲンノショウコの花 その葉 このへんにはゲンノショウコの花が沢山見られるがこれからだろう。3. マリ-ゴ-ルド 畑の花はかなりきれいだ。 その花 家庭菜園の中で、茄子などの虫除けとして歓迎されていると承知しているタイプの花ですが、 この畝の持ち主が其の維持に努めているので、毎年こうして綺麗な花を咲かせてくれる。4. 長茄子 長~いナスの実が特徴 8月3日(水)二人の Tさんといろんな話題に花が咲いた折、この長茄子も 話題となった。その食べ方までは聞く事を落として失礼した。 先日、テレビの旅番組で高知県四万十市に、この長茄子の一大産地があり、 その発展に力が入っていることが紹介されたのをみたので、偶然ですが この家庭菜園でもお二人もその愛好家が居ることにちょっと驚いた (@_@;)5. 私の畝の普通の秋茄子 今年は7月下旬にそれまでの株と大胆に切り詰めて、中耕と肥料の追加 夏場にわく小虫の農薬による駆除などが奏功し、元気がいいです。 うっかりして収穫し忘れたが、9月の2日に20個も取れたぐらい順調だ。6. 赤く熟れたピ-マンの実 既報の如く普通のピ-マンをここまで置くとこうして赤く熟れる。 その結果、より栄養が豊富になると我が家では思っており、できるだけ 実全体が赤く熟れる所まで置いている。 赤いピ-マンのきんぴら風料理 御飯良し、酒の肴によし、妻の力作で感謝しつつ、2日に一度の晩酌も大満足だ! 7. 黒豆の畝の向こうに稲が実りかけている田んぼと民家 前作の肥料が効いているらしくて、威勢良く育った黒豆の株。8. お隣の仲間、 Tさんが毎年日よけを兼ねて育てているゴ-ヤの小屋 この下へ腰掛を持ち込み一休みしたり。◆ ☆ *この畑の横を流れる谷川と田んぼの間を我々が利用する道路が走っているがそれが台風11号に伴う大水で、その根っこの一部がえぐられたらしい。道路の路肩がかなりの幅で割れており、危険なので我が畑の地主さんっ経由で関係当局にその修理など依頼してもらった。
2014年09月05日
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9月1日(月) 書店へ依頼して取り寄せた本を購入しました。「デザインマンホ-ル100選」の本: 表紙この本の帯からその概要をご紹介:世界にその例のない日本のサブカルチャ-、マンホ-ルデザインメッセ-ジが明快でデザインが素晴らしい。100枚のマンホ-ルと、その仲間たち。この本の写真をそのままご紹介もできないが、ここに取り上げられているデザインマンホ-ルの中で、私たち夫婦も出かけて撮影出来たマンホ-ルをご紹介しながら、この本の感想も付け加えることが出来たら、ここに取り上げたことが成功したと言えるだろう。その1例 : 切り口、選別の苦心がうかがえます。088 三大松原 虹の松原 気比の松原 美保の松原ここでは、私も撮影できたマンホ-ル蓋の気比の松原を取り上げてご紹介します。これも私の写真です。其の紹介文例 182、183ペ-ジの記載文旧国宝の大鳥居を持つ気比神宮、その神苑として管理されてきた気比の松原は、敦賀湾奥にある国有林。海岸沿いには珍しく、アカマツが8割以上を占めている。気比神宮の大鳥居 : 私の写真この門をくぐり、中門の両部鳥居をくぐって気比神宮に参拝致しました。※ 松原のについて この本ではその景色の写真も紹介されている。この本の概要: 購入を考えておられる方への情報資料1. 著書名 デザインマンホ-ル100選 阿寒から波照間島へ旅歩き2. 著 者 池上修・池上和子3. 発行社 アットワ-クス4. 単 価 1,700円+税5. 発売日 平成26年2月25日初版 私は2版を購入◆私が感じた事3,000枚の写真から100か所を選ぶ作業は大変だと思いました。最初にご紹介したように、三大松原という切り口が一例ですが、様々な切り口でマンホ-ルデザインの背景になる場所を丹念に踏破され、その裏付けが見られるのでこの著書は値打ちがあると思います。私も出かけた先のマンホ-ル蓋は丹念に撮影してきたはずですが、そのマンホ-ル蓋のデザインが採用されたであろう背景まで写真撮影と調査までは出来ていない事が多いと思う。妻と、或いは一族との旅行、或いはバスツア-などでは、マンホ-ル蓋の写真と景色の写真までが限界でした。なかなかマンホ-ルのデザインの裏付けまで取材できませんね。今後はこの本を参考にしながら、マンホ-ル蓋の写真撮影が出来る時は、その背景にまで、これまで以上に気を向けたい。この本にもあり、私も写真を持っている場所: 2例1. 053 城 大阪城、犬山城、福知山城、鞠智城(熊本県の現山鹿市) 大阪城のマンホ-ル蓋 このマンホ-ル蓋は、大阪市北区の物で、この著書では天王寺区の物でした。 このマンホ-ル蓋は比較的新しいものであるらしくて、あまりすれていないので綺麗です。 2010.05.21撮影2. 022 藤 牛島の藤、熊野の藤、そして阿知の藤 48,49ペ-ジ 倉敷市の藤の花のマンホ-ル蓋 阿知の藤 この本の中で記載されている阿知の藤の紹介文: 倉敷美観地区のすぐ北にある阿知神社、その境内のアケボノフジの巨樹が」阿知の藤」 20m四方に枝を広げて淡紅色の花が咲く。・・・・こんな感じで、また、様々な切り口の分類によりマンホ-ル蓋が現れます。平素マンホ-ル蓋に興味をお持ちの方など参考になれば幸いです。◆ * ◎最初の写真紹介で挿入のミスをした氷見市の「ブリをデザインしたマンホ-ル蓋」この写真も私の物ですが、この著書でも紹介されております。これも参考例としてご紹介の予定で準備しておりました。
2014年09月03日
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この度、北海道の阿寒から沖縄の波照間島までを11年間かけて歩き、マンホ-ルの写真を沢山撮影その中から100か所を選んでご紹介の本が発行された。それにちなんで、長年マンホ-ル蓋の写真を撮り歩いた者の一人として、いくつかの印象的なマンホ-ル蓋をご紹介させてもらった。その折、保存写真の取出しが遅れたものの、非常に印象的なサギソウに関する2か所のマンホ-ル蓋の写真をご紹介したい。1. 姫路市のサギソウマンホ-ル蓋 たぶんこのサギソウのマンホ-ル蓋は下記ご紹介の著書の中にも選出されている と思われますが、携帯の刷毛などで綺麗になった写真だと思います。 2. 篠山市今田町のサギソウのマンホ-ル蓋 上半分は立杭焼きの焼物、下半分が自生しているサギソウを表しているはずです。サギソウはラン科サギソウ属(又は、 ミズトンボ属)の野草です。サギソウの花 この写真撮影の時は、距の部分も含めて花であるとは知らなかった。 サギソウの距 花の蜜を溜め込んでいる距 このサギソウは「距」キョがこんなに長い。 この固有の距にある蜜を吸ってもらい、雄しべの花粉の塊を蛾の体にかならず付着 する精妙な仕組みを持っているそうだ。またこの窮屈な場所で吸蜜出来る蛾も特定の 蛾に限られているらしい。劣性遺伝を避ける為に別の花経受粉させる仕組みと聞いている。姫路市がこの野草をマンホ-ル蓋に選らんだ背景にはシラサギ城で有名な姫路城とイメ-ジが合う事と同時にサギソウの自生地として、長く保存したいという決意の表れかもしれません。又、篠山市今田町もサギソウの自生地としてその名前があるようです。この今田町は焼物の立杭焼きでも有名ですが、1999年に篠山市と合併になり、このサギソウの自生地としての保護なども様々な課題があるかもしれませんね。この町にア-モンドの果樹園がありその花を見たいと言う妻の要望で出かけた際、このマンホ-ル蓋にであって吃驚、\(◎o◎)/!した事を覚えております。◆サギソウの栽培がかなり広範囲に行われている事を知って、最近は複雑な心境でもあります。姫路城前のサギソウマンホ-ル蓋:上の写真の再掲ですが、現在姫路城は改装が終わり、漆喰に保護された屋根瓦などがかなり話題になっております。姫路城を観光される機会がありましたら、道路との境の敷地にこのサギソウのマンホ-ル蓋がありますので是非ご鑑賞下さい。2006.11.11 私がこの地を訪問した時はこの辺りの補修か何かでマンホ-ル蓋にも万遍なく砂がまかれておりました。清掃用のブラシが要る・・・この思いは常にありますが、いまだ実行せず。近日、ウエストポ-チに携帯できる用具を100円ショップで見つける固い?決意でもあります 参考情報 7月31日夕方 ABC テレビでデザインマンホ-ルを紹介された著書 題 名 デザインマンホ-ル100選 阿寒から波照間島へ旅歩き 著 者 池上修・池上和子 発行元 アットワ-クス/ 2014・2月発行 体 裁 A5判・216ペ-ジ 価格1,700円+税金
2014年08月04日
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マンホ-ル蓋の写真に関する話題 : テレビでマンホ-ル蓋の紹介を見て刺激を受けた!三田市のマンホ-ル蓋 キッピ-の愛称があるきじ(雉)がシンボルマ-ク市内の全てがこのように彩色されているわけではありませんが、ウッディタウンなどは、このカラ-マンホ-ル蓋が数多く見られ、人口が2倍以上に増えた三田市の意気込みみたいな気持ちが出ているような感じがしました。◆ ☆ 〇この所、野草をはじめ花のご紹介に偏っているので、自分自身が平素行っている事をこの辺で一度振り返ってみたいと、ここ2,3日考える機会があった。そこへ今日、7月31日のテレビ番組で表題の著者夫婦も出演されて、そのご紹介があった。そして、一部の印象的なマンホ-ル(マンホ-ルと書かれているが、実際、正しくはマンホ-ル蓋だろうか)のご紹介があった。☆私の手持ちの写真もご紹介しながらその著書とマンホ-ル蓋の一部をご紹介したい。1. テレビでご紹介された著書 題 名 デザインマンホ-ル100選 阿寒から波照間島へ旅歩き 著 者 池上修・池上和子 発行元 アットワ-クス/ 2014・2月発行 体 裁 A5判・216ペ-ジ 価格1,700円+税金 私もこれから購入を考えている所でその内容についてコメントはできませんが 興味のある方はネット検索などによりお確かめください。 テレビの番組で紹介されたマンホ-ル蓋の中で特に魅かれたマンホ-ル蓋の例 (1) 豊中市のワニが彫り込まれたマンホ-ル蓋 これもテレビの写真を引用できないので、私がネット検索で資料として取り込んでいた ブログ「城は見るだけ...歩くだけ」の写真をここでお借りしました。 この本の著者ご夫妻の写真を提示できないのが残念ですが、マンホ-ルその物は そのものずばりです。 発掘されたワニの化石は「マチカネワニ」と命名された由。(地名待兼山) (2) 大阪のマンホ-ル蓋 汚水、下水など刻印された例が多い。 この写真は私が撮影したものの一例です。 ※ テレビでは著者ご夫妻の苦心として、ブラシによるごみなどの清掃が語られていた らしいが、汚れと共にマンホ-ル蓋の新旧も撮影に影響するはずです。2. マンホ-ル蓋 手持ち写真のご紹介 豊中の「ワニと椿」のマンホ-ル蓋 私は彩色されていない通常のマンホ-ル蓋を撮影 2012.05.18 彩色の蓋には残念ながら出合えなかった。 この著書も注目されたのは、鰐の図案が豊中市で何故選ばれたか?・・・・ 私も調べました。鰐の化石が有名らしい…で納得。⇒「マチカネワニ」の愛称 神戸のポ-トアイランドで撮影した震災復興を誓うマンホ-ル蓋 (1) 個人的には当時続けていたハ-フマラソンなどの市民ランナ-としてこの街で 走っていた際の撮影です。1995年の阪神淡路大震災の被災者の一人として このマンホ-ル蓋の起案・実行者の心にあたまがさがりました。 (2) 神戸市内全域では別のマンホ-ル蓋が見られます。 (3) 震災後の神戸の街のたたずまいは忘れることが出来ませんし、このマンホ-ル蓋 私にとっても忘れることのできない物の一つです。 松山市のマンホ-ル蓋 大学の学友が四国88か所のお遍路さんの際、松山で撮影して送ってくれた1枚 この学友は札幌在住ですが、近年旅をするとマンホ-ル蓋に興味が走り写真撮影 趣味が生まれたようです。 私にとって何と言っても衝撃的だったのは、山形県上山市の「かかしのマンホ-ル蓋」 上山市のマンホ-ル蓋 妻が珍しいものがあると注意してくれたことがきっかけだった。 上山市にある上山城は徳川幕府の政治的戦略で配置された織田信長氏のご一族が 守っていた土地にあるらしいが、その近くの旅館に宿泊。2000年6月中旬 その坂道で撮影したこの図案に興奮してその翌朝、早起きしてその図案を眺めに行った。 マンホ-ル蓋のこんな情報発信の機能がゆるされていたなんて知りませんでした。 日本全体では約4600か所。マンホ-ル蓋があるとか。 建設省でしょうか、独自の図案の採用を許可された英断を尊敬し続けております。倉敷市のマンホ-ル蓋昔、倉敷のウオ-キング大会が3月中旬の土、日に開催されその40kmの部に参加。その際、見た目にはやや擦り切れたマンホ-ル蓋がデジカメの画面をパソコンへ取り込み復元の結果、ここまで再現した。40kウオーキングコ-スの2方面がありその良さと共に倉敷市らしい街のたたずまいが良く出ているマンホ-ル蓋として印象深い一例です。船橋市の「汚水マンホ-ル蓋」NHKのテレビ講座に収録されていた写真だと思います。お借りしました。江戸時代以降の水路活用のご紹介を兼ねた船橋の図案、素晴らしいと思いました。私の思いこみながらマンホ-ル蓋のデザインとして最も素晴らしいと思った例 松本市のてまりマンホ-ル蓋 2007年頃の保存で、お借りしたhp、ブログ名が手元にないので失礼します。 有難うございます。長くなりますからこれで終わりますが、様々な地域で汚水、下水の対策に忙殺されておられる当局とこのような素晴らしい図案を採用された方々ご苦労さまでした。楽しませて頂きました。
2014年08月02日
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8月1日(金) うすぐもり 猛暑7月31日(木) 晴 夕方 ABCテレビの番組で あるご夫婦のマンホ-ル撮影を巡る11年の旅をまとめた本の発行についてのご紹介番組を偶然見た。その印象がかなり強かったので、そのご紹介を兼ねたブログを書いてみようと思った。 番組で見た大阪府豊中市のマンホ-ル蓋 著者ご夫妻のお住まい所らしい。 私が撮影した写真 真ん中にワニのイラスト風の絵が掘りこまれていて驚く! この写真の色づけされた写真や大阪のマンホ-ル蓋が出たので驚いた。(@_@;) 大阪のマンホ-ル蓋 三田のいのしし 79歳の8月1日の生活ぶりとこのところではイレギュラ-な仕事ながら、 これまでに撮ったマンホ-ル蓋の保存写真を集約する作業に力を入れた。 ☆ 道路際でこの頃ずっと印象が強いユリ科らしい花 この花の名前がわからない。ネット検索でも皆さんが苦戦、…ユリ科らしいなどの表現もあり☆ 切通しの竹藪で沢山開花しかけているウバユリの花・つぼみの撮影 09:36頃から09:46 その一例 この朝数えたら開花乃至は開花中が合計9個あった。 そのすべてを記録として写真に収めた。☆ 畑の作業 09:50頃から 今朝もスイカ、茄子、ピ-マン、オクラ、トマトなどへの水やりが重点作業。 切詰めた茄子の枝葉の活性化を図るべく、小虫の駆除用農薬を噴霧器だ掛けた。 長い何月この作業はしなかったが、なんでもトライ。 やってみたら効果があった。 収穫はキュウリとオクラ。 妻の溜息が目に浮かぶがキュウリは今朝も10本近い。☆ 農家の畑でひまわりの精力的な花があり、その手前がオクラ畑で花盛り ひまわり 我々の家庭菜園は、この花の後、やく2,30mの所にあり間を小川が流れている。 やはり迫力がありますね。 オクラの花 やはり市場へ出荷されるであろうオクラの株は、その実も多いし、花も沢山。帰り道で自転車を走らせている内に、今、ヤマノイモのムカゴに興味を持ち、その前にその蔓、葉、雌雄異株の花などの写真を集めようとしていることを思い出した。 山芋らしい葉 葉が互生しているようです。 その仲間のオニドコロの葉 葉が互生で、葉がよりハ-ト型。 葉はヤマノイモに似ているが、葉が互生。別の仲間らしい。 葉はヤマノイモに似ているが、互生で別の仲間らしい。 この仲間には、上記のほか、ニガカシュウ、カエデトコロ、キクバトコロ、タチドコロ 畑で栽培するナガイモも野生化してい生えているらしい。☆ 2階に置いているパソコンの中で、私のペ-ジが外部と繋がらなくなっていた。 久しぶりのその回復の為ノ-トンを起動してパソコン内の障害を排除する作業を推進 無事終了。1Fのノ-トパソコンだけで支障が無いので放置していたが、資料の印刷や 過去の保存写真などの活用となるとこのパソコンの起用がカギ。 早速マンホ-ル蓋の保存写真を見つけだした。☆ マンホ-ル蓋の保存写真の一部を「マンホ-ル蓋」の部にまとめて収納 その一例 山形県上山市のマンホ-ル蓋 かかしの図案であり、強い印象を受けてこれからマンホ-ル蓋探しが生活の一部になった きわめて重要なマンホ-ル蓋だ。 最初は横山隆一さんの「フクちゃん」かと思ったが、この地方ではかかし祭りがあると 記憶しているが、この地域、東北の印象として素晴らしい図案の採用だと思った。 1995年1月の阪神淡路大震災の復興を願う神戸市のマンホ-ル蓋も私個人としては 強く記憶に残っている。 こんなことを思いながら外付けの記憶装置にも取り込み、この日の中でノ-トパソコンへ 取り込んだ。 著書「デザインマンホ-ル100選」のご紹介を兼ねたマンホ-ル蓋のブログを 纏めたいと思った。☆ 庭の水やり 湿気が少ない猛暑、庭木も参っているので水の補給が欠かせない。 たっぷりと掛けた。
2014年08月02日
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現在の定例買い物は、量販店の定例値引きデ-である木曜が多いので「小雨決行」とした。妻とは途中で別行動で、私は図書館へ立ち寄った。☆ 役に立つ借りた本の題名 「内臓脂肪は命の危険信号」 2006年発行 「おなか ポッコリ!」この日に予定していた冊数の本は決まり、リュックサックへ納めた後次のバスを待つ間、庭木の本を2冊、棚から出して拾い読みして居る内に頭にヒョコッと「中性脂肪」の事が浮かんだので医学書や健康関係のコ-ナ-を調べた。ズバリ「中性脂肪」の本は見当たらなかったが、この本を借りた。※ 内臓脂肪を燃やすなら、脂肪の運び屋「L-カルニチン」の補強が必要らしい 勿論体内にもあるが、加齢で減少する等があり、サプリメントで補強しながら体 に対して筋肉を強くして脂肪が燃焼しやすくすることが大切だ。 ダンベル体操などと合わせてこのL-カルニチンの補強も考えてみたい。 主治医から中性脂肪=内臓脂肪というヒントをもらっていたのでパラパラッとめくってみて、通読してみたいと思った。全身の筋肉の劣化防止には大いに興味があるので合わせて実行してみたい。◆☆ ダイエ-のあるフラワ-タウンセンタ-で2回目の出合- 天頂咲柊南天 その葉はヒイラギに似ていて、花がナンテンに似ている所からの命名とか。 その花が頂きに咲く様から天頂咲柊南天という素晴らしい名前ができたのだろう。◆脇芽の花。2週間前の木曜日にこの「テンチョウザキヒイラギナンテン」(天頂咲柊南天) の花に初めて気がついてから2週間、この天頂咲柊南天に先行して初めて出合った「ヒイラギモチ」やいわゆる「柊南天」(ヒイラギナンテン)等にも目が行くようになってこの2週間昔からよく知っていると思い込んでいた柊(ヒイラギ)も比較の意味でその葉の写真を撮影。この友が丘の町内だけでも様々なこの仲間の植木があることが分かった。例: この風変わりな葉っぱが面白いヒイラギモチ(柊黐) チャイニ-ズホ-リ-、シナヒイラギの別名あり、またクリスマスホ-リ-と言われる由。様々な意味でこのフラワ-タウンセンタ-の「天頂咲柊南天」との出合いは私個人にとっては意味のある出合だった。◆☆ 帰宅にあたり、普段出合わないような豪雨に出合った。JR三田駅までバスで帰ってきたらどうしようもない大雨なのでタクシ―に乗った。平素買い物の往復で体に障害のある妻が痛がる時にはタクシ―利用を勧めるも妻から「何を考えているのよ勿体ないもったいない」などと却下の判定が出るのが決まりだった。その妻もこの駅の屋根下から雨の酷さを見て素直にタクシ―乗り場へ移動したくらいでひどい雨だった。結果的には通り雨的であまり長時間でもなかったみたいで新聞やテレビの報道で武庫川の大水の報道も無かった。◆☆ 鼠黐(ネズミモチ)の木の 黐 (モチ)と言う難しい漢字の成り立ちを調べている。 黐という字は黍「ショ」と言う部とり「離の字の左半分」という作りから成り立っている。 どうしてこれがモチの木の意味になるのか。漢字での発音は、「リ」「チ」だそうだ。 つまりに右半分が発音記号だそうであり、全体で、「リ」とか「チ」と読むとか。 ショ「黍」はキビはサトウキビ、モロコシ、アワなどキビ類の名前であるから不思議?「新字源」(辞書)に当たり、この字の祖先、成り立ちを調べ面白かった。 生まれてから78年、初めてこんなアプロ-チを漢字にむかっておこなった。 別の言葉で言えば音とか訓と呼ばれる類だろうが、「唐鼠黐」の文字は昔この植物が 中国から日本に入ってきたころから文字も入り、日本の言葉である「もち」をあてたの だろうか。 この辺の興味深い情報は別途整理したいと思っておりますが、黐の木が出来た経緯に ついては推測できる気がしました。春一番の風では無かったが、この日の嵐気味の大雨などが、近々春一番や気温の急上昇から桜の開花など、一気に春本番に向かう兆候を示しているのだろう。
2014年03月14日
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前より間合いが伸びているものの生活物資を購入の為、フラワ-タウンのダイエ-へ出かけた。その往復で出合った諸々のことなど。咲きだした水仙:◆その拡大:昨年1月31日に淡路島の水仙郷へ出かけて満開の水仙を鑑賞したことを思うと、やはり、日光・気温の差が大きいらしい。これからの感じ。いつも通り、私だけ南ヶ丘にある市立図書館へほんの返却と借り出しの為にとちゅ下車ミモザ(フサアカシア)の蕾蕾の数が多いので、それが一斉に開くと下の写真の如くに見事です。4月頃にはこんな花が咲きます(昨年の例)◆ミモザの葉数この葉は27対に見えます。フサアカシアとギンヨウアカシアの区別はその対生している葉数の多い方がフサアカシと聞いているが、この日の写真では27対であり多分「フサアカシア」。昨年と同じように鮮やかに開花が予想された蕾の数でした。バレンタインチョコ売場:平日の木曜日ですからこんな感じでしたが、これまでにさぞ賑わったことでしょう。我が家の二人では、この日にかこつけてチョコを味わう有難さがあるものの対象???妻が売り場へ立ち寄ったら、やはりめぼしいチョコはほとんど無かったらしい。明日がバレンタインデ-ですからね。無理もない。名残りの雪だるま:公設から5日目の雪だるま。町内など側溝や日陰などでは8日の雪が5日目でもこんな感じで、ほぞ其のまま残っていた。3丁目で出合った蠟梅 満開だった。【】我が家の場合は、ぽつりぽつり花が咲くので不思議でしかたがないよほどこの東南の角が開花するのに向いていないらしい。この日の朝は曇りで、日中もそのままでしたが次第の天候が悪化知るのが予報であり出がけに傘を持っていくか? と思ったくらいだったが幸い夕方まで持ってくれてよかった。以下は蛇足みたいなことですが、ダイエ-内の100円ショップでの話「拡大鏡」いわゆる天眼鏡を1個購入【】(作業中)マクロ写真の撮影に際し、何かと不便なので携帯に便利な拡大鏡を求めてこれまでに手をだし購入してきたが、今回のが最適の大きさではないかと期待しております。100円ショップの勉強ぶりに改めて感心致しました。
2014年02月14日
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1995年(平成7年)は、私も含めて昭和10年(1935年)生まれの人間にとっては、定年退職の年であり、それ以降の人生の再設計をあれこれ思い悩む年でもありました。そんな一般論に加えて、平成6年の会社定期健康診断で胃潰瘍が見つかり「今はいい薬がありますからね、あまり時間がかからず快癒しますよ」と告げられた。こんな診断の後、薬のご配慮までしてもらったのが、現在名で「神戸百年記念病院」と呼ばれているいる病院であり、神戸市長田区にある総合病院です。2013.04.02 何もなかったかのごとく華やかに咲く桜の花昨年の人間ドック入りの日 ◆1. 其の1995年の最初の診断が1月下旬であり、予定していたらこの地震で吹っ飛ん だ。「あんた何考えとるのよ、病院の廊下もどこも震災の怪我人でいっぱいで一般 診療など当分の間できないよ」 と手厳しい回答。 一言言いたくても事情が事情だから、その判断に従って待つことになった。 何、薬を長く飲み続けるから胃潰瘍は更に良くなって、次の診察日には、ハイ全快 ですよとの言葉をもらえる・・・・になるはずだった。2. 三田市から神戸へは神戸電鉄の電車か神姫バスのバスに乗って通う方法と 妻が運転する車でで向かう3通りの方法がある。(プラス尼崎廻り電車) 3月のある日、いずれかの方法で兵庫まで向かったが、神戸市街の損傷ぶりに 目をそむけては通れない場所に住んでいて、こちらも軽くても地震の被害者でるこ とには変わりはないので、やはりみなさんが一日も早く立ち直ってくれるよう祈りな がら通う事になった。 ※ 三田から三宮経由で兵庫へ向かうのでその中間点の三宮 震災被害の光景 生田新道。東急ハンズの前あたり ネット検索でお借りした写真ですが、三ノ宮駅から六甲山に向かい右手の 道路の左側奥にある大きなビルが倒壊して斜めになっている光景が私にとって 最も印象に残った景色でしたが、写真が見つからない。 思えばこれが6月10日 胃がんによる胃の2/3切除手術後入院1か月後の正式 退院へと繋がる神戸通いの第一回目の神戸行きだった。3. 1995年3月某日? 神戸百年記念病院 内視鏡検査室 早速内視鏡による検診が始まった。 すぐ終わるのかと思っていたら、昨年同様胃壁検査の為、あのウナギ釣りのような 長い物を内視鏡の横から差し込んで、やたらせっせと胃壁の採取をするではあり ませんか。 ようするに治ってなかった、さらに最悪の疑いが出たということらしかった。4. その後日。結果の告知、治療における患者本人への問いかけがあり、私は即時 手術の道を選んだ。(非常に初期の胃癌でストの表現だった?) (1) 内視鏡による手術をトライしたいと言う医者側の申し出を受け入れて4月中旬 に実施(現在の内視鏡手術とは異なりポリ-プを輪切りにする方法の応用) (2) 5月10日再入院、18日通常の外科手術で2/3胃の出口側を切除 6月10日退院。5. 決して正確な表現とは言えないが、この1995年頃から手術後本人の回復を早める 為には、本人も寝てばかりいないで、起きて歩き運動することが良いという考え方が 普及し始めの頃だったと思う。こちらは体験するまで全く知らなかった。 主治医の先生から家内も立ち合いでその手術後の生活ぶりを聞かされて了解した が、結局何もわかっていなかった。 (1)19日の朝、集中治療室からベッドへ帰るよう求められた。 起き上がったら、いきなり自分で歩けるものなら歩いて帰れ、と言われたのが 驚きの始まりであった。 (2) それ以降は、それ歩き方が足りない、シャワ-も出来れご自分でどうぞ、 ちょっと良くなったら病院を出ても良いから散歩をして回復に努めよなどなど。 6. 兵庫の御崎地区から菅原市場などのある山側へと散歩の足を延ばして歩き回った (1) 清盛塚 病院から山側へ向かって歩くと間もなく出合う。 今は整備されてこの姿に復元しているが、当時はここが清盛塚だと分かる 程度であったと思う。 尚、この地域に平清盛公のご遺体の一部が納骨されているが、その場所は 今もって分からないそうだ。この塔は供養塔らしい。 (2)兵庫の大仏 日本三大大仏の一つ 1891年(明治23年建立) 宝積山能福寺 震災後の5月頃もこの状態であり、参詣できました。 能福寺の境内にある清盛廟(平相国廟) 境内にあるそうですが、ここにも十三重塔があるようです。 平相国廟とあるからと言って、ここに部分納骨されている確証はないらしい 1995年5月下旬から6月10日までの間に、体験帰宅の日を除き、婦長さ ん以下の皆さんの大なる激励の元、歩き回った。主に六甲山に向けてある きまわったが、平相国(平清盛)廟は気が付かなかった。 7. この時、菅原市場はかなり整理が進んでいたものの1月17日から見れば4か月余 りであり、大変な状況だった。 大木本美通氏が撮影された22000枚余りの写真がネット公開されていた。 ズバリ菅原市場の跡かどうかは不明ですが、震災後の姿です。 ある所のご尽力でこの膨大な写真が整理されて、保存されているそうです。 丹念に探せば私が歩きまわった1995年五月から六月初旬の菅原市場も そのものずばりのお写真に出合うとおもいますが、こんな感じでした。 8. 清盛塚なども何回か廻ったし兵庫駅は御崎町の先端などもうめちゃくちゃに歩き回 った。細かな表現でその当時の事をすべて語りつくせるものでは無いが、1995年6月10日退院以来、治療と検診並びに制癌剤などの薬の受領の為、月に1回三田市からこの神戸の長田まで通ったからこの街の復興ぶりも眺め続けることになった。その後は年に1回の人間ドック入りの形で、胃がんの再発やタ部分への転移などの検査を受けてきた。例年ほぼ4月に人間ドック入りをするので、今年も多分4月頃予約を取ることになるだろうが、その時の判断で生田神社や湊川神社へ参拝したりの病院通いです。余談ながら:ある年の4月25日、人間ドックの内視鏡検査室の控えの部屋でテレビを見ていたら尼崎でJR福知山線の電車が脱線事故をおこなして大参事が発生した模様・・・そんな画面が現れて驚いて見た記憶がある。1995年の大震災と個人毎ながら胃がんによる胃の2/3切除とその後体重が78KGから57kgまで減少しての回復過程、長年勤めた会社からの退職による生活の激変などと共にこの尼崎のjr脱線事故に伴う大勢の人命損傷も忘れることのできない出来事でした。
2014年01月19日
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1995年 平成7年1月17日 05:46 いつも通り朝飯を食べながらテレビを見ていた。59歳と7か月だった。数十年のしきたりで,その時間は家内や子供たちは2階で熟睡中だった。 多分ド-ンと言う音と共に上下と左右に揺れる激しい動きで腰掛から身動きもならず食卓の端をつかんだまま揺れに揺れるのに耐えるのが精いっぱいだ。4.5mほど離れた位置におかれているテレビも激しく揺れ、戸棚の上に飾っていたシンガポ-ルのマ-ライオンの置物などが、す-と落下するのが見えたが、しばらくすると停電で辺りは真っ暗になってしまった。笑い事では無いが雨だれを見ている感じだった。4mほど離れた位置にあったピアノの上に載せていたA4の紙が食卓の下まで来ていたので、仮にピアノが飛んだら私はどうなったか? 今に至っても話題になるのは、家内や子供たちの誰かが2階寝室で恐怖の声を放っていたと思ったが、誰一人認めようとしない。子供たちは生まれて初めての体験だからそれも仕方がないことかもしれない。で、その日、それから後どうしたか?会社人間の私は次第に明るくなる中で会社行の支度を行い、06:30頃、家内が運転する車で家を出て新三田駅へ向かった。だいたい06:45乃至06:50頃の電車で大阪:梅田へ向かう為で、停電中にホ-ムへ上がって電車を待った。同じような行動の方々が何人かホ-ムへ上がってきた。結果的にはあの惨事でしたから電車は不通であり、やむを得ず自宅へ歩いて帰った3km弱の道のりだが、多分この辺りは家屋の倒壊、損傷は無かったはずであり、昭和21年12月21日早朝4時過ぎの「南海大地震」や東京勤務中に出合った数回の地震の事を思い出しながら歩いたと思う。1. その日から18日にかけて。家の車で大阪へ通勤の道を探したが、あらゆる道が 車でふさがり、とても我々では大阪まで車で行くことは無理と思い断念。 2. やがて回復した電気により、テレビを付けっぱなしにして地震の様子を見守った。 ご承知の様に次第にその被害、惨状の様子が報道され、神戸の火災などが報道 され、あの「菅原市場」などの悲惨な有様を見せつけられた。 3. 記憶に間違いなければ、19日になって大阪へ出かける方法が見つかった。 JRの福知山線の電車で福知山まで逆行し、福知山線から特急電車で京都市へ 出る。JR京都駅からは電車で大阪まで行くことが出来た。予想通り実行できた。 帰れない事も予想して宿泊用具などを持参したように思う。 4. 会社へ行ってみると、大阪並びに大阪へ通勤可能な皆さんから17日から19日ま での会社の惨状とそれをいかにして整理しかたか、あなたのデスク周りの戸棚など 資料の収集と取敢えずの整理などにかんして如何に奮闘したか聞かされた。5. その夕方の帰宅方法については、朝のル-トか、福知山線の全線通行はまだ 無理だったので、社員からご自宅への宿泊を勧められた。 勿論そんな事に甘えておれる状況ではないので、阪急電車の宝塚線と復旧した 福知山線JR宝塚から三田などを繋いで帰ったと記憶している。個人事をグダグダ書いているとお腹立ちの方も居ると思うが、三田市界隈から三田市の外へ仕事などで出る方々に共通した、いわば普遍的な共通体験だったので、今19年前を振り返っても鮮やかにその時のことがよみがえります。1. その一つが、江戸時代など昔も三田市から外部へでるル-トは? 通勤電車もこの福知山線が篠山まで複線電化になったのは、そんなに昔で無なか ったし、中国縦貫道や神戸電鉄も含めて公共の期間がストップしたらまさに”陸の 孤島”だった。昔も荷馬車は通れず、牛の背に荷物を括り付けて運ぶ道が正規の 道だったらしい。その流れがこんな震災時にももろに出ている感じだった。 山間の道や国道は? と地図で探しながら家の車で出掛けて見たが平素この山間 の道でさえ、とっさに利用して知っている陸運業者などの車で大混乱でとても その日初めて思いついたような電車通勤者が入り込める雰囲気で無かった。2. 我が家は平成元年に大阪・吹田市からの転居でしたが、その前はこの阪神淡路 大震災でもろに被害をこうむった神戸市東灘区で暮らした体験があり、かつ、会社 の同僚や高校の同級生、甥などが現に住まいしていたので、17日の地震後はテ レビを付けっぱなしでニュ-ス・報道を見続けた2日間だった。3. 国道43号線の上を走っている高速道路が揺れうろいて横倒しに倒れた風景は その後マスコミにも登場したのでご存知の方も多いと思うが、この道路の下を 昭和39年から51年まで阪神芦屋駅まで歩いて通過して、通勤したし二人の子供 達と遊び馴染んだ場所でもあったのであの高速道路が倒れた事は驚異でもあっ た。元々住んでいたある企業の社宅は鉄筋コンクリ-ト建て4楷の建物だった ので無事だあった、 しかし同じ東灘区のJR沿いの地区に暮らしておられた会社の仲間先輩が沢山 地震の犠牲者となり帰らぬ人々となった。 中には近々ご夫婦で郷里へ帰ることを決めて準備していた同僚のご夫婦が共に 犠牲になるなど信じられない日々だった 4. 新幹線の新神戸駅下からJR芦屋駅の間を歩いて慰問などを行った。 当時。甥の家族3人が御影に住んでいて、マンションで無事ではあったが断水で あり 水や食料を持参してにお見舞いに出かけた、 新神戸駅付近から御影までおおよそ8km、いったん海の方へ坂を下り途中から 左折して御影へ向かったが、途中は倒壊した家から中の人間を救出したと思われ る丸い穴が壁に空いているお宅や遠くから駆けつけてくれた消防車などを眺めな がら御影へたどり着いた。 17日の次の日曜日はまだJRは完全にストップしており、御影から新神戸駅まで また、8kmの道を歩いて引き返した。 その内、JR芦屋駅から大阪方面は開通したので、それからは芦屋駅まで歩いて 向かった。 高校の同級生のお宅も御影にあり、そのお宅は所有していた車を押しつぶして 倒壊していたが、そんなわけでご家族で避難している旨の立札などで事情が分 かったので、その前を通ってJR芦屋駅方向へ向かうようになった。5. 神戸市御影もその高級住宅地としてたぶん日本全国でも有名であると思うが、 芦屋市はその上を行くような有名ぶりであります。 昭和39年から昭和51年まで我が家が居住していた神戸市深江南町は川幅が 1.5mぐらいの溝が境であり、芦屋の海際の町は川の両サイドともに神戸市民 の散歩や桜の花見場所でもあったので、気分は芦屋市民だった。 その町を東西に通り抜ける国道43号線の上を走る高速道路が完全に倒壊 したのですから、車の移動が大変という事もあったが我々市民の気持ちもかなりな 落ち込み様でした。三田市は場所にもよるのでしょうが、おおよそその震度は5から6程度であったかと思います。我が家もあちこちにひび割れやゆがみがありましたが、倒壊は免れて今日に至っております。朝日新聞のトップ記事から阪神淡路大震災の事を振り返り、今回は主にこの盆地状三田市から市外への災害時の交通並びにその出かけた先での事について思い出して書いてみました。中国縦貫道に沿って大断層が走っているので、この阪神淡路大震災においては六甲山の裏側に当たるこの界隈はやや被害は少なかったと思われますが、この中国縦貫道沿いの大断層が動いたら…と考えるとけんして楽観を許さない環境下に住んでいると思います。
2014年01月17日
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それにしても夜半の雷にはおどろかされました。タイトル通りで今日は家に居たので、夜半の風雨で残っていたモクレンやキウイの葉が大幅増の落葉。前から一度はやってみようと思った、昔から言う「もく広い」タバコの吸い殻を拾うハサミを利用して落ち葉を袋入れ方法にトライのチャンス。早速実行していたら妻が庭に面した窓を開けて( ^)o(^ )しながらやってるねと。予想以上に効果的で、手袋をしている上に直接濡れた落ち葉に触れない便利さ。しかも中には地面に張り付いた落ち葉をはがしながら集めては拾えるので絶好。おかげで1袋ほど集めて完了、さっぱりした。◆ 日中から夜にかけてはパソコンでメ-ルの整理やブログ造りなどをおこなったが、窓の外を見たら街路樹で南京ハゼの実が白く輝いていた。南京ハゼその実 : こんな実をヒヨドリは食べるだろうか。白い殻の中を割りながら食べるかも。黒い殻の中に白い実Fが入っていることが分かる。鳥が食べなければすべて地面んへ落ちてしまう。その実を求めてヒヨドリらしい中型の鳥が飛んで来て南京ハゼの大木の中で騒がしく飛び周り、どうゆうわけか雀もかなりの数がその傍や我が家の周辺で忙しく飛び交い一時は家内ともどもおどろいてみとれた。数年前はメジロが沢山来たが今は見ない。あっ、そうだ望遠でヒヨドリが南京ハゼの実に来たところを撮影してやろうと「身の程も弁えず」望遠を持ち出して庭に出た見たらヒヨドリの一群は別の場所へ移動してしまって居なくなってしまった。せっかく望遠をセットしたからと撮ったのが南京ハゼの実でした。南京ハゼは紅葉に成りきらない緑が残る葉が落ち切らないまま残る部分もあるがだいたい落ちた所にはこんな感じで白い実が沢山付いていた。15日(日)は町内の年間4回の一斉清掃日に当たり、我が家は私が出て参加しますが歩道や車道には南京ハゼの実が沢山落ちていて、作業しながら移動するとこの実を踏みパチッ、パチッと音がしてその実の多さに気づきます。夕食の登場したブロッコリ-昨日9日に収穫したブロッコリ-です。湯通ししただけのものです。私はこれに少量のマヨネ-ズを付けて食べる。料理の先生が言う「ブロッコリ-・マヨ」です。2日の1回のお酒デ-で、発泡酒や焼酎のお湯割りなどを飲みますが、まことに美味しい。家庭菜園さまさまですよ。 12月10日、今日はこんな暮らしでしたが、ブロッコリ-をご紹介したので昨日撮影して置いたキウイの皮付き輪切りとその実の中を撮影した写真を見てください。キウイ: 毛と皮付きのままの輪切り◆その中の様子 : 初めて撮影してみました。こんな具合でした。既報の如く前回から今年収穫のキウイのみ実を毛と皮が付いたまま食べる「ニュ-ジ-ランド方式」の食べ方で食べ始めましたが、究極は毛と皮付きの丸かじりを常食の方式にすると妻へ我が決意を述べた所です。美味しいからいいのです。実際この事は、ヘタを取り皮をむき、輪切りにするという2行程が減るので妻へそれだけの支援が出来るかな…なんてことも若干は考えながらの食べ方です。 余談ながら: ここ十年ほど前以前はメジロの大群がこの庭へも毎年来てくれた。2階の窓から息を殺して撮影した想い出がある。いまわ望遠レンズもあるが、メジロは皆無、ヒヨドリもほとんど来なくなった。ヒヨドリは久しぶりの御来訪と言うわけです。自然の変化について難しい理屈はありませんが、何故目白の来訪がゼロになり、ヒヨドリの数がへったか。心配ですね。
2013年12月11日
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三輪神社 : 秋の例祭にて 1. 宝冠をつけて歩く少女達 可愛い少女達、その宝冠と薄物の衣裳 古代から中世の女人の衣裳を再現したのだろうか。 豪華な宝冠と額の二つの印 ◆ 宝冠を付けて行列に参加する ◆ その2 この三田は悲劇の王子 有間皇子の領地だった有間郡⇒有馬郡へ変更、奈良の 大神(おおみわ)神社の領地として封戸25戸が与えられたとの記録からも 奈良朝、平安朝を通じて上流階級の女人がこのような衣装でいたとしても不思議は ない。 そんなことを思わせる衣裳でして、三輪神社の例祭の行列に参加するようになった 歴史などはこれからお尋ねすることになるだろう2. その宝冠 この行列の宝冠は、お祭り用に設えられた宝冠だと思いますがそのモデルになった 実物の宝冠はさぞ立派な宝冠であり、もしかしてこの神社の所有でしょうか? 3. ひな飾りに現れた宝冠の数々 2012.02.28 三田市のひな飾り展示の会場にて撮影 ★ 2013.02.27 三田市のひな飾り展示場にて撮影。 ひな飾りに見られる豪華絢爛の宝冠は雄雛・女雛の豪華な衣装とあいまって 素晴らしい宝冠です。 持統天皇(西暦686年~697年)の資料などを読むと宝冠を付けた持統天皇が 描かれていて、皇后や女帝はこのような宝冠を身に着けていたらしい。 明日香・彼岸花祭りに見られる宝冠 明日香の彼岸花祭りから、 持統天皇(女帝)とその宝冠(お借りした写真です) この例をみても、かつて上流の女人がこのような宝冠を着けて現れるのはそんな に不思議でもないかもしれない。 4. 百人一首に現れた宝冠 工事中三輪神社の例祭に出かけるまでこのような企画が長年続いていたなんて全く想像外でした。少年たちが持つ靫(ウツボ)と靫に納まった矢と添えられている弓、この二つの参加者達もその歴史的意味を教えられているのでしょうか。教えられているとしたら素晴らしいことだと思います。かつては有馬郡として、奈良や京都に長く続いた王朝を支えて人々の歴史に中にこのような宝冠をつけ、薄物の衣装を身にまとった方々が三田でどのようにして暮らしていたか、また、豊臣政権が確立するまで様々な戦場出合ったと伝えられているこの地方において、弓矢がどのような役割を担ったか。そんな歴史の一端をお伝えくださったのでしょうか。三輪神社と氏子の皆さんの長年のご苦労に頭が下がりました。
2013年10月20日
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お神楽を告げるのぼり旗 19:40頃10月13日(日)20:05頃から始まった。 街を練りあるいた子供たちのちょうちん行列が境内を囲んだ。お子さんの時代からお神楽になじませておきたい、そんなお気持らしい。 ※ お神楽とは何ぞや? わからないまま今年で3年目かな、撮影の真似事をしてい る。 個々では五穀豊穣、家内安全を祈って…と勝手に解釈しながら・・・お神楽が始まった!!この時は二人が中に入っての二人舞?お神楽とは、もともと「神座」(かむくら、かみくら)の語が転じたもので、その遠い起源は天の岩戸の前でアメノウズメが舞を舞ったのが始まりらしい。この獅子は、大変失礼ながら「牛」に似ている部分もあるように思うが。民間で行われてきたお神楽の中に、三輪神社のお神楽の様に神社に多いお神楽の様式もあるとか。ご本殿の他、お稲荷さんその他の末社にお神楽を捧げ、共に五穀豊穣、家内安全をお願いして回る行事が20:30頃からつづいていてその後境内での舞となった。幾つかのお神楽と天狗さんの写真 ◆刀を持って破邪の舞◆雄叫びをあげているような獅子のお顔 天狗の登場お神楽の始まる前から境内や参道で邪を払い幸せを招く儀式らしい、行為を続けていた天狗が登場、参拝客の頭と自分の頭をポンと叩く所作を続けながらの入場。天狗さんが迫る!この後、右に転じて娘さんがにっこり笑っている頭をこつんと叩く、幸せを祈る!◆天狗が寝ころび、それを見つめる天狗◆寝てる獅子にけしかかる天狗◆どうだいと意気がる天狗 ◆獅子も起き上がりかけて、両者にらみ合う ◆一人できばる天狗◆獅子と天狗の舞◆この後も行事は続いた様子でしたが、私はここで失礼しました。お神楽の解釈も私の独断と偏見によるものでして、写真をご覧いただいた皆様もご自由にご判断願います。 三輪神社のお神楽とお神楽そのものについてネット検索で調べてみました。 その中で、三輪神社のお神楽について参考になったブログのご紹介2009.10.11三輪神社の秋祭り-お神楽 http://jose32.exblog.jp/9110430その2:三田三輪神社例大祭・その5http://kyoncci.exblog.jp/10399143 素晴らしい内容のブログだと思いました。
2013年10月18日
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10月13日 日曜日 晴大変な好天気でご活躍の皆さんはさぞ暑かったことでしょうが、見物人にとっては結構なお日よりでした。 出を待つ山車-1 10:24屋根の先頭に御幣が白くひかり青空にはえる。車が付いているので、曳く、押す人々が動かすものと思われた 出を待つ「布団神輿」こちらは40人~50人が担ぐ 出を待つ山車-2やや横からの撮影 大勢の関係者が見える。山車とふとん太鼓は出を待っていても、ふとん太鼓に乗って太鼓を叩く少年 計8人を控えの場所からふとん太鼓まで、地面を歩かせないまま移動させる作業、行列に加わる子供神輿などの準備、神主さんのお祓いなど行事が山積しており、関係者が活発に動いていた。 動き出した山車 10:32 いつの間にか屋根には男性が居た。 方向転換する山車神社と平行に置いていた山車をここで参道に向けて直角に回転する。曳く方と山車を横に押す、曳く力で巨体をその場で回転させた場面。 屋根の御幣を外して手に持つ男性男性が山車の屋根に飾ってあった御幣を抜き取ったのでどうしたことかと訝しんだがやがて分かった。大鳥居の貫よりも御幣が高いので、貫と御幣を傷めぬ為に外したのだ。◆山車の代わりに見てください、蒲団神輿を低く下げてやっと潜った場面 ふとん太鼓が鳥居で苦労していた写真 『』 1トンもあるふとん太鼓を肩から外して低くし、抱えながら潜り抜けたかもしれない。 人垣でその辺のご苦労は見えなかった。◆山車は車が付いているので、ぎりぎりの通過だったが、御幣と捧げる男性が邪魔しなければ、それで済んだ。 かなりギリギリに見えた。今回の写真撮影はあくまでも「ふとん太鼓」にあったので、山車が大鳥居を潜り抜けるのに苦労すつ様の写真による記録は、頭からすっぽりと抜け落ちてしまったいた。いい場面が撮れたのに…と残念無念!平成7年(1995年・阪神淡路大震災で元禄14年建立の大鳥居は崩落)新築の鳥居ですが昔の鳥居でも山車やふとん太鼓は、ご苦労されながらも潜り抜けたであろうか。そんなことも想像しました。 ※ 山車を先頭にして三輪神社を出た山車は、ふとん太鼓や宝冠を付けたしょう 少女達、靫に収まった矢と弓を持った少年隊、金箔の飾り御幣など、子供神輿 などの一行を従えて大鳥居を出た。 ※ 大鳥居の前は国道176号線が走っており、そこを渡ると三輪神社の参道が町屋 となっている通りにさしかかる。 ※ さらに進むと「御旅どころ」があるが、そこでの行事はないまま更に進み、 JR福知山線の踏切を越して、駅前どうりと交わる街角へ向けて真っ直ぐに進んだ そのあたりでは「ふとん太鼓」が盛んに練りを行って、町屋の屋根とぶっつかる のではないかと思ってみていた。◆今回は都合で、JR福知山線踏切の手前からここまで眺めて失礼した。★来年もこのお祭りに行ければ、今度は最後まで巡回のお供をしてみてみたい。ネット情報によると「おかめとひょっとこ」の仮面をつけた二人がみられるとあったお祭り前日の土曜日、お神楽でもって巡回する行事に始まり、日曜日夜のお神楽の境内での演舞でお祭りは終わると思われますが、これでおおよその全貌がつかめる事になりそうです。◆次回は、宵(よい)神楽を纏める予定をしております。 境内での演舞 その一場面
2013年10月18日
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10月13日(日曜日) 三輪神社:秋祭り素晴らしい好天気に恵まれたお祭り日和であった。山車、ふとん太鼓行列が練る参道から三輪神社を臨む10時:10分頃の参道と三輪神社前の準備風景 三輪神社と担ぎ手たち氏子さん・・・そしてお神楽の二人 未確認ですが、真ん中で大人に抱えられているお子さんはふとん太鼓に乗る太鼓 の叩き手で、乗るまで地面に足を付けない決まりらしい。 祝福するお神楽の二人も写っていた。スナップ写真がお祭りの全貌を語っていた。出発予定10:30の16分前の蒲団太鼓 太鼓で拍子をとる4人の少年達もまだ乗り込んでいないふとん太鼓 子供神輿と「ふとん太鼓」に乗り、太鼓を叩く少年の1人(左端に見える) 偶然撮影出来ているが、左端の、男性に担がれている少年はふとん太鼓に乗るま で地面を踏まないしきたりに従い、こんな形で運ばれるらしい。 少年たちが乗り込んで、練り歩きを待つふとん太鼓 赤い上着に白い襷を掛けた少年達が見える。 ◆ ふとん太鼓に迫る 10:23 きらびやかな飾りに彩られた「蒲団神輿」 子供神輿や宝冠を付けて着飾った少女たち、靫に納まった弓矢を持つ少年達、 その他の祭りの飾りなど準備が着々と進められた。 10時:37分 山車を先頭に2台のふとん太鼓(布団神輿)その他 行列の出発 ふとん太鼓を担ぐ: ◆ 練り歩く蒲団太鼓 10時;53分 参道をJR福知山線踏切付近まで練り歩いたふとん太鼓 ※ 今回の蒲団太鼓の練り歩きはここまで同行して、この後は見送りました。 従って、ふとん太鼓が三輪神社へ帰り着くまでの行事は未確認です。 つまり来年のお楽しみのとっておきました。 練り歩き行列の中で特に注目した:(1)華やかな宝冠を頂いたお子さんたち 上でご紹介した乙女達、百人一首や雛飾りで見られる宝冠の、模型とは言え 大変きらびやかな飾りで、別途ご紹介します。 (2)靫・弓・矢を持った少年たち 別のブログ、靫を持つ少年とウツボグサでご紹介した少年達もこのお祭りの主役 の一人でしょう。 別途ご紹介します◆◆初めてふとん太鼓の一行に接して驚いた。往時の生活絵巻と言うか、故事のお披露目で華やかな薄物の衣装をまとった女の子や服装は今の姿ながら靫と弓矢を持った少年たち。現代のお祭りでこのような往時の絵巻物風の行列の維持には、いうに言われぬご苦労がありそうです。拝見できた群衆の一人として嬉しかったし、感謝の気持ちでいっぱいでした。孫娘を同行して華やかなお祭りを見てもらいました。◆ふとん太鼓の歴史 (ウイキペディアその他から抜粋させてもらった)1. はっきりした、或いは纏まったその歴史を綴った資料はみあたりません2. おおよそ、江戸時代中期にはふとん太鼓があった。3.起源は神事として神社内か境内での行事であったものが、蒲団太鼓として、練り歩き に加わったらしい。 明治29年にあった泉州のだんじり騒動で一部を除いてだんじりが退潮傾向に 入り、それに代わる練り歩きの「ふとん太鼓」が勃興した・・・おおまかにはこんな 動きであったらしい。4. ふとん太鼓とは: 大阪府河内、泉州地方や兵庫県播磨、淡路島その周辺にて担がれる大型の太鼓 台の事である...とされております。5. ふとん太鼓は重さ1トンから2トン、50人から70人で担ぐ。 1人20kg~約30kgを担ぐことになり大変重い。6. 三田では「蒲団神輿」と呼ばれているそうです。
2013年10月17日
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山車を先頭にしたふとん太鼓などの行列準備 ・・・ スタ-ト前のふとん太鼓 先頭 山車 別途掲示予定 ふとん太鼓 二つ 別途掲示予定 宝冠を頭に頂いた女の子たちの列 別途掲示予定 ◆ 行列の中で、ウツボと弓矢を持つ少年 昔の靫(ウツボ)とそっくり同じかどうかは不明ですが、矢を入れて携帯したであろう 靫が武具として重要であったから大切に保存されて行列の大事な一部として参加 している模様だ。 ウツボグサ(靫草) : シソ科の野草 2013.06.29 この花がある部分が靫の似ているので「ウツボグサ」と命名された由。 このウツボグサは資料によりますと、薬草として大変重要であり、様々な場面で 服用など利用されてきたと思えることと、私がその名前を知らなかったことと服用経 験が無いだけですが、普通によく知られた野草でもあるらしい。 今年初めてシソ科のウツボグサを錦幸園近くの岸で見て驚いたことはこのブログでご報告済みですが、その野草の名称の「ウツボ」は辞書を引くと昔の武士が矢を入れた入れ物で靫の事とありました。実物の写真を見なくてもそれを読むと円筒状の筒であろうと想像できましたが、この秋祭りでその具体的な形を知る手がかりらしい物がこの練り歩きにて沢山出現して驚きました。これは相当な驚き、驚き中世の日本で、しかもこの三田などでもたびたび合戦が行われてきたらしいその遺物をこんな形で例祭に登場してもらえるなんて、感謝感謝の瞬間でした。この弓矢と靫の数がかなり沢山あったので、この練り歩きにとってもよほど重要な意味を持っているのだろう。来年のお祭りに向けて、この練り歩きで見た宝冠やこの弓矢と靫などについて、後日出来るだけお尋ねするきもちになりました。※ 故郷の高岡神社にもこのような秋祭りにお神輿と共に行列が組まれておりますが 宝冠を頂く少女や靫と弓矢を持った少年たちなどは初めて見た行列でした。
2013年10月16日
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三輪神社:秋祭り : 波宇也踊りの概要その途中の1例…右の列の1人が神前に進み、ピョンピョンと跳ぶ動作を繰り返す。飛ぶ操作に入る寸前 (1)波宇也踊りの概要 1. 時間 19:00 ~ 19:30 2. 場所 拝殿 3. 踊り手 男性 6人 3人ずつ向き合って踊りが始まる。(2) 田んぼに居る蛙の姿を借りて、稲作、ひいては五穀豊穣を祈るのが次第に 形となって今日に伝わる踊りになったようです。 擬音ですが、ゲロゲロ、ゲロゲロと踊りの間カエルが鳴き続け、時々ピョン、ピョン ピョンピョンと飛び跳ねます。最後の方で「ハウヤ-」の声が強く発せられるが、 この意味はまだ解りません。(3) 波宇也踊りの様々 6人が向き合って、神に祈る。 写真は左側の3人 この後先頭の太鼓を持った方から所作が始まった。 左の3人が中央に立って右に左にピョンピョンと跳ぶ 次は右に3人が立って同じ動作を繰り返す。 二つ目の所作、太鼓を鳴らし、小板を打ち鳴らしながら巡回する 右の先頭の方が両手を合わせているかに見えるのは小板2枚を打ち鳴らしている 姿であって、小太鼓を持つ二人を除き4人は小板を鳴らし続けている。 即ち、ゲロゲロ、ゲロゲロ、ゲロゲロ・・・・・・・・・カエルが泣き続けている。 波宇也踊りの最後の方で、それぞれが座の後方に進み出て、このように跳ぶ. 続いての動作の一つが下の写真であり両手を大きく広げて、ハウヤ-と唱える 記憶に間違えが無ければ全員の一人ずつがこれらの二つの動作を含む祈りを捧 げる。 (4)擬音の意味 カエルの鳴き声 今年撮影した写真はともかく、動画を撮影した際のこの波宇也踊りが舞う際 終始聞こえるギシギシ、ギシギシと鳴る小道具の板の音に疑問を持った。 音を拾っておけばよかったのにと後悔している次第です。 数十分の踊りの間に、次第の蛙の鳴き声を擬音化した物であろうと推測できた 終了後、踊り手の一人に質問をしたらはっきりとそうですと肯定された。 稲田で元気よく蛙が鳴くと、蛙の繁殖が予想されますが、同時にトノサマガエルや その他のカエルが賑やかな年は即稲の豊作に繋がったのではないでしょうか。(5)拝殿の中で行われる波宇也踊りは幾分地味な所作なので、参拝客の中でこの行事 に集まった方は少なかった。 無理もないとは思うが、もっと大勢の方が集まっても良いのではないかとも思った19:30頃終わった波宇也踊りから宵のお神楽(20時ごろの予定)までに時間があったがお子様方のちょうちん行列が神社へ帰ってきてお神楽の場所を取り囲み、雰囲気をもりあげ、天狗の面を付けた男性が現れて境内の人々をお神楽へ誘っていた感じだった。 お神楽の開始まで待つ間に撮影して見た狛犬さん 拝殿、ご本殿の前に鎮座している狛犬(阿形)2対ある狛犬さんの内の古い方の狛犬・阿形
2013年10月15日
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三輪神社の秋祭りの話:前に一度か二度、この三輪神社も含めて「ふとん太鼓」が練り歩く行事が三田市内でも数か所、奈良県や大阪・堺、淡路島などでかなり盛大な行事であることをご紹介させてもらった。今回は自前の写真によりその全貌に少し近づきました。三輪神社のふとん太鼓 出発前好天気で良かった。ふとん太鼓も綺麗でした。今回はその三輪神社にまつわるお祭り行事に関して、その写真と動画を撮影したので今回はその第一回として、アウトラインのご紹介です。1. 例祭の前日(土) 三輪神社の氏子へのお神楽による触れ歩き ※ この写真は昨年10月6日(土)、偶然撮影出来た例 4つの班に分かれて氏子さんのお住まいなどを触れて回るとか。 ◆ 6人で構成されているらしい。 2枚の写真は共に改築前の「大井の元」の前でお神楽。 ※ この写真は昨年の写真で、今回は都合で行けなかったが、今年も昨年と同様 におこなわれた事だろう。2. 夜店 3. ハウヤ-踊り カエルがゲロゲロ、田んぼの中でやかましく泣き、元気よく飛び跳ねる様を形象化 したと思われる踊りであるとおもいました。 (1)三田市重要無形文化財指定 (2)五穀豊穣を祈り、願い拝殿にて神様に願う踊り3. お神楽 勿論と言うも愚かですが、フラッシュをたかないで、夜の暗闇の中で、少しの篝火 (かがりび)と上空へ向けたライトの中でぶれないで撮影することは大変難しい。 今回はあらかじめISOを800 ⇒ 1600 ⇒ 3200 と上げて撮影を試みた。 カメラ(一眼カメラ)の性能がそんなに高くない?上に技術未熟とあって 写真の出来は自信がありませんが、帰宅後、偶然この三輪神社のお祭りを撮影 した方のブログが見つかりそれを拝見したらISO3200でバッチリであった・・・ そんな情報に接しました。 少なくともISOを上げると、フラッシュなしでそれなりに撮影できることだけは 理解できた。 このお神楽も勿論五穀豊穣を祈る神事に基づくものらしい。 毎年10月のある日曜日が例祭らしいので、興味を持たれた方はどうぞ朝10時半 のふとん太鼓の出発式の前からのご来訪ををお勧めします。 ※ 次回は拝殿で19時ごろから行われました神事「ハウヤ-踊り」のご紹介を 予定しております。
2013年10月14日
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1. 日 時 平成25年9月1日(日) 10時 ~ 14:302. 場 所 郷の音ホ-ル1) 表 彰 (1)白寿(99歳) 5人 (2)米寿(88歳) 60人 2) 資 格 75歳以上 約1,600人がこの日の行事への参加資格者だった。 多数参加されて大きく盛り上がりました。 私も恥ずかしながら78歳で一応参加資格がありますが、表彰された皆様方 に比べて、まだまだ若年、えばれませんね。(私の感想) 以下に写真のより本日の行事のあらましをまとめてみました。(1) 開会のご挨拶: 会場の雰囲気を兼ねて・・・ 三輪地区婦人会 小池会長のご挨拶(2)お楽しみ劇場 (10:45~14:30) 《 午前の部 》 1.三輪小学校 4年生 朗読と歌 ◆ 志手原小学校学校 1・2年生 ダンス ◆ 松が丘小学校4年生 歌とリコ-ダ-奏 ◆ 上野台中学校吹奏楽部 演奏 《 午後の部 》 三田エイサ-喜心伝 演奏 ◆ 沖縄の踊り-2 ◆ 三輪地区婦人会 舞踊 ◆ 湊川短期大学 歌とダンス ◆ ガイアクロ-チェ 歌とダンス 全国的にご活躍の歌とダンスのプロの集団からお二人が来演(だと思います) ◆ 八景中学校吹奏楽部 演奏 演奏と参加者の盛り上がりを音で聴いてもらえないのが残念なぐらい素晴らしい 盛り上がりでした。最後の八景中学校吹奏楽部の演奏で、懐かしい歌謡曲を編曲したメドレ-で、4,5曲演奏されました。出が無法松で、津軽海峡雪景色でしたかカメラを構えたまま胸にぐっと来るものがあって思わず眼尻から涙がポロポロ、参加された高齢者の皆様もきっとこれまでの人生を思い出し感極まったのではないでしょうか。それまでの事も出来るだけ写真を掲載しましたので、その雰囲気を推察頂けたら幸いです。敬老会の行事を推進された皆様方へ厚く御礼申し上げます。
2013年09月04日
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8月8日(木) 晴れ時々曇り きょうも暑かった。庭のハイビスカス午前中に前もって予定していた図書館へ出かけた。本の返還(8冊)と新しい借り出し5冊を行った後帰宅。庭のマンデビラ。キョウチクトウ科ごごは大阪へ出かけた。お通夜だった。地震計の誤作動に伴う混乱に出合った。地震の情報により、電車の中で待機していたが、電車内にいた方の携帯電話が一斉にその情報を受信して大きな音を出したらしい。(緊急メ-ルの受信)私は難聴でその大きな音を聞き洩らしたので、同じ電車内にて携帯電話の音の大きさなどを聞く体験が出来なかったのが残念だった。同じ電車の中にお通夜へ出かける知人が4人いて一斉に出てきながら、地震情報に関して話し合いながらお通夜の会場へ向かったのも異常な話。18:00から始まったお通夜の終了後、阪急千里線の電車からJR大阪駅経由福知山線で帰宅したが、電車の遅れや間引きなどの影響は19時台後半も続いていたのでその後も混乱は続いたかもしれない。福知山線は19:54発が20:01と7分の遅れだったが、神戸方面は30分から20分の遅れが伝えられていた。午後から夜までの外出中は喪服を着る時間もかなりであり、汗をかいた割には水分の補給が出来ていなかったので、JR大阪駅でスポ-ツドリンクをお購入して水分の補給に努めた。(スポ-ツドリンクは病院の点滴と同一内容と言う情報のばかの一つ覚え)庭の百日紅地震計の誤作動による情報の緊急発進と言う異常事態の発生に関しては、今後国を挙げて、原因の究明と今後の在り方についての研究がなされることでしょう。またそうでないと日本国中が大混乱になるので頑張ってほしい。蓮の花 (市内)
2013年08月09日
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予ねて三田の広報誌などで伝えられていた2両連結のバスに偶然三田駅で出合った。万歳、良かった、\(^o^)/\(~o~)/もっと接近しての撮影。 願わくばこのバスの乗ってみたい。何処を走っているのかな。バスの名称: オレンジアロウ号
2013年07月25日
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今日郵便受を見たら複数のはがきの内、タイトルのような文言のハガキが入っていた。 この不況だから、あのお店もついに閉店か、驚いたなあ!と思わせたハガキ。ブログを書きながら机の先端を見て驚いたんです。”閉 店” の文字がやたらおおきいので。この文字がやたら大きく目に飛び込んできた。一瞬閉店と思い込んでしまったハガキを手に取って見たら、店舗を改装の為一時店を閉めると言うことらしかった。やられた!今日午前中に県道沿いの「ジョウシン」へノ-トンのインタ-ネットセキュリティソフトを購入の為出かけたが、このお店も入口手前から店内にかけて、ほぼ「閉店」「閉鎖」「店じまい」と受け取れる立て看板や天井からの吊るした札が目立った。絶対買うなら今の内だよと思ってくれたら占めたものだ・・・の表現ぶり思わず店員に私から「閉店するの?」と聞きかけたが、まさか?と思って見回した。よく見たら「決算前売り尽くし」のキャッチフレ-ズが目に入ったので、我々の消費心を掻き立てるその時期のご挨拶に過ぎないと分かった。それにしてもPRのその物量の多いこと。目線から天井の間は埋まっていましたよ。常時、お店に出向いている方々は慣れっこだろうが、私はたまにしか買い物に行かないので、この種のどぎつさに出合うと危うく真に受けてしまう所だった。ジョウシンのPRも写真に収めておけばよかったが、この眼鏡屋さんのハガキに表現方法に出合って、客を引き寄せる表現もここまで来たのだな・・・と納得しました。しかしながら、需要の低迷、購買意欲の減退も顕著だろうからこれらの例のみならず、ほとんどのお店がこの種の思い切ったPR方法を採用しているのではないかとも思いました。
2013年01月19日
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アルバムを見るとその見開きに挿入されている1枚のメモが当時の雰囲気を端的に語っておりました。1. 阪神淡路大震災 平成7年(1995)1月17日 05:46 (私は朝食の最中で、居間で地震に遭遇) 1995年(平成7年)当時 我が家の居間 この写真は、地震前の駅伝競走に写真であろうと推察しております。 この写真の右上にあるシンガポ-ル「マ-ライン」が地震に揺さぶられて真下へ 落下くするのが、雨だれの如き感じで今でも明瞭に覚えております。 普通はあっさり忘れることですが、それだけ怖かったのでしょうね。2. オ-ム真理教 地下鉄サリン事件 平成7年03月20日 (私は当日東京へ出張中で、東京駅から地下鉄の赤坂見附駅へ向かった。 大事件発生の前?) 東京の事務所で事件の報道を知り、騒然となった。つまり命拾い?3. オ-ム真理教教祖 麻原氏 逮捕 平成7年(1995.05.16) (この情報は入院中の病院デテレビ・新聞などで知りました。) もう一つ、私個人に関する人生の分岐点だった胃がんの手術を受け、且つ、会社の退職の年でもありました。1. 平成6年(1994年)秋、会社の健康診断で「胃潰瘍」の診断が下った。 但し、今は薬が良いから、回復は心配ないよと言われ、治療開始。2. 1月下旬に回復ぶりを見届けてもらえる予定だった。3. 1995-01-17 大震災発生。病院から地震の被災者であふれているから当分 健常者の診察お断りと言われた。 神戸市長田区にある病院ですから、ごもっともな判断なんで納得。4. 2月下旬か3月に入って、胃カメラを飲んだら、やけに検査が長引き胃の部分 を切り取る作業が続いた。5. 結論として,潰瘍ではなくて胃癌である、その疑いはほぼ真っ黒だと言われた。6. 4月中旬 当時急速に技術の向上中だった内視鏡による「胃癌部分切除」手術 を受けた。 ⇒ 再度胃カメラの夜検査を受ける。 ⇒ 取りきれてなかった。7. 結局,開腹手術しか治療方法なしと言わた。8. 満60歳のこの年、5月10日入院、同18日 2/3 胃の切除手術を受けた。9. 今年の5月18日 術後満18年になります。この間、4月には妻のの母が無くなり、同年9月 私は長年勤めた会社生活にピリオドがうたれました。世の中も私も激動に1年でした。地震から考えると偶然ですが、入院した病院が会社が経営している病院で、神戸市長田区にありますので、地震前も地震後の悲惨な状況、回復過程などを終始眺めながら、あるいは知人、甥の一家、会社の同僚など見舞いで神戸市内を歩き回ることを体験せざるを得ませんでした。(JR新神戸駅下から地上へ出て、海に向かった歩き、左折して、被災された建物が並び、水浸しの住宅・道路を歩き東灘え(やく8km)、場合によってはそのまま東へ向かい、芦屋まで歩いたこともありました)あの長田区の菅原市場の海側に病院がありますので、手術後散歩を強要されて菅原市場などを歩き回りました。寅さんの映画にも採用されましたね。すこです。結局 6月10日無事退院しましたが、阪神淡路大震災と言う強烈な地震にあい、オ-ム真理教事件に震え上がった1年でした。地震と胃癌手術から満18年を迎えることになりました。1995.01.17 05:46 テレビを付けて眺めながら朝食をとっておりましたが、ドンと来た時、とっさにテ-ブルの端を両手で必死になって捕まえていたことをはっきりと覚えております。亡くなられた皆様のご冥福をお祈り申し上げますと共に、もう2度とは御免ですが、東南海大地震などの予想もあり心配ですね。
2013年01月17日
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三田市三輪地区敬老会にお呼び頂いて、感激いたしました1. 会 場 三田市総合文化センタ- 郷の音ホ-ル2. 時 間 開 会 10:00 閉 会 14:30(予定)3. 第1部 式 典 (一)御挨拶など省略させてもらいます。ごめん (二)表 彰 (1) 白寿の部(99歳) 5人いらっしゃいました (2) 米寿の部(88歳) 51人もいらっしゃいました 特に99歳の方々のお元気なこと、感激いたしました。 77歳喜寿の私などいわゆるその他大勢組で、ため息をつきながら 大きく拍手致しました。 凄いです。4. 第2部 お楽しみ劇場 10:45から 出演時間の前後は無視して: (1)小学校、中学校のお子様方の御出演に関して (1)小学生の皆様 嬉しくなって( ^)o(^ )して聞いておりました。 見ておりました。 その例 すべてご紹介できなくてすみません。 出演されたお子様方にとってもいい思い出になることでしょう。 (2)上野台中学校吹奏楽部 演奏 コンク-ル優勝の実力者だそうです。 八景中学校吹奏楽部 演奏 コンク-ル優勝の実力者だそうです。 【演奏写真】その1例 すべてご紹介できなくてすみません。 何故か理由は分かりませんが、日本のド演歌と言われる曲をアレンジ した吹奏楽の演奏の頃には私の頭は感激で涙ぽろぽろ、知っている メロディ-には声を出して歌いました。 きっとご参加の方々も似たような心境であったことでしょう。 演奏者達と客席の来会者の間は一気に繋がり、その盛り上がりぶりは 感動の渦となってあたりに流れました。 (2)大学生以上の御出演者に関して: 三輪地区婦人会 舞踊 地元の 方々達でしょうが、平素のご尽力の上にこのような演技までご苦労様です。 有難うございます。 関西学院大学チアリ-ダ-部 演技 すごい チアリ-ダ-の演技ぶり、初めてこの目で拝見。 はじける若さ、青春、写真も沢山写しました。 皆さん! これからもお元気で、心も体もねの感じ。 マカナ・ピり・メケ・レイアロハ フラダンス やはり独特のム-ド、おんがくにつつまれました。 琉球舞踊会 舞踊 耳が悪い ので誤りがあればごめんなさい「琉球の風」の踊りだと思います。 四つ竹を 持って踊る皆さん。 あくまでも私個人の事ですが、琉球舞踊の最初の演目で、その曲と踊りに接 して、涙が流れてやみませんでした。 自宅へ帰宅後もかなり興奮しておりました。 次の写真は「男踊り」で、かっぽれのしぐさも入っているとか 2010年1月18日頃から沖縄へ旅行した事が重なったのでしょう。 様々なことを考えました。 5. 来年以降の参加見込みについて 分かりませんが、今回が初めての参加であり、出席するまでは今回限りの 「体験参加」だと決めておりましたが、かなり考え方が変わりつつあります。 御関係のみ皆様方へ厚く御礼申し上げます。 有難うございました。 ここへ載せた写真や編集は私の勝手な思い込みですみません。 楽しく過ごせました。
2012年09月04日
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人間ドック入りと神戸の神社で初めてご朱印帳に記帳してもらいました。3月27日(火) : 約1年ぶりに人間ドック入りでした。 : 折角の機会を利用して生田神社と湊川神社を巡りました。☆人間ドックの結果: 通称 1日ドック 中間報告としては年齢なりによく努力できたと評価されて点と 要精密検査ご指摘点が1,2 要努力がいくつかあったが、緊急に対応を必要 としている点が無かったところが、本人なりに評価できるところでした。☆ 折角華やかなお宝が沢山ある神戸市に来れたので、妻と三宮で落ち合って、 早速:生田神社、湊川神社へ参詣するべく足を進めました。 妻の体は、大腿骨に故障があり運動不足・年齢などからくる体力劣化で、外 へ出ることがつらいので、それを打破するのにはきっかけが必要です。 例えば、この「ご朱印帳記帳」 期待感と喜びが痛さを紛らわせる可能性があ ります。 かなり痛いときもあったようですが辛抱して歩いてくれました。生田神社外国の方々も大勢お見えでしたが、巫女さんの白い上着と赤い袴姿が境内や拝殿内にあり、鳥居や建物に見られる赤い色と相まって、明るい印象を参詣人に与えております。生田神社の拝殿。緑の森と朱色の柱、鳥居 大勢の人々を引き寄せます。☆ 生田神社のご朱印 初めての記帳 今静かなブ-ムというか、ご朱印を記帳してもらうことが流行っているらしい。 我が家もちょっぴりトライ! たとえ歩くことで足に痛みが走っても、出かけることで筋肉の回復ができれが 万々歳だ! これが体の痛みを一緒に体験できない私の攻めての努力点であり、大阪や京 都など参詣したい先が沢山生まれたので良かった。 宮司さんへそんな感謝の気持ちを込めて、夫婦で「ここが朱印帳に記帳して頂 いた最初の神社です」 と御礼を申し上げました。☆ 境内にある蛭子神社の狛犬さん。 ここには山崎朝雲先生の彫刻を元にされたブロンズの狛犬さんが1対と備前 焼の狛犬さんが拝殿前にあり、大変有名だと思われますが、東急ハンズ横か ら入った参道の一の鳥居、その手前にある石製の狛犬も立派です。 しかし、ここではご本殿の左奥にあります蛭子神社の狛犬さんにご注目くださ い。 狛犬一対 左、吽形には角があります。左狛犬、右は阿形で、獅子 現代において、我々はこの一対を狛犬として取り扱っております彫物も、昔は 獅子と狛犬と区分して意識されていたと聞いております。 写真右 獅子 口が開いている。(阿形) エジプトのスフィンクスなどが根源と されております。 左 狛犬 口を閉じている。(吽形) 角がある。 尚、朝雲先生のブロンズの狛犬にも吽形は角があります。 つまり、この生田神社の狛犬達は、その古典的な姿を大切にした制作年代の 狛犬が見られる例の一つです。 もっと言えば、同一民族、同一言語の民と言っても、こと狛犬に関して言えば、 その姿かたちは実にさまざまであり、決して型にはめられてはおりません。 松江、尾道、大阪、岡崎などの石工が独特の文化をうみだしたらしい。☆ 赤い(朱色)大鳥居 奥に見える門や拝殿と直線でつながっております。 生田の森という言葉があるように、ここの神社は大きな森に囲まれております が、参道にあるこの大鳥居も誠に堂々としていて、神様もこの大鳥居が気に 入っていることでしょう。湊川神社は、地下鉄で大倉山で降りて、歩きました。実は、JRとか阪神・山陽などいくつかの電車による交通があるらしいのです。三ノ宮への帰り道、高速鉄道とかの案内があり、そちらへ向かってあるきました。地下の駅で、まるで漫才的な騒ぎの末、高速神戸とかの切符で、阪神電車に乗ったつもりでしたが、入線した電車が阪急電車(相互乗り入れでした)でしたの、阪急三ノ宮で降りる始末で、駅員の力も借りてバタバタしました。<閑話休題>湊川神社そもそも湊川神社の御祭神は誰か、妻と二人地下鉄大倉山の駅で降りた結果、長々と歩きましたがその途中で道案内をして下さった方も楠正成公の神社と湊川神社は別だと思うとごあんないして下さいました。実際は、湊川神社こそ、楠正成公が御祭神の神社であります。大きくて立派な神社で境内も広いのですが、生田神社の赤を基調とした派手な色の佇まいとは大きく異なり派手さを避けた造りで統一されているように感じました。湊川神社の建物朱色に生える生田神社とはずいぶん違います。☆ 湊川神社の御朱印 2番目の御朱印 有難い話です。☆ ブロンズ像の狛犬さん 山崎朝雲先生(慶応三年1867~1954年)彫刻が元。 朝雲謹作と台座に刻印されておりました。 同様に、生田神社にも拝殿前に朝雲先生の狛犬一対がありまして雄渾な姿で 神域を守っておりますが、湊川神社の朝雲先生の作品と同形か似ているかも しれません。☆ 備前焼の狛犬さん 湊川神社: 吽形の狛犬 この吽形には角がありません。 これも生田神社の備前焼の狛犬と同形かもしれませんが、わかりません。 型を使って製作されるはずですので、そんなにたくさんの異形は出来ないとみて おりますが・・・。広い神域で、妻も吃驚しておりましたが、室町幕府の成立と対抗したり、南朝を支援したりの奮闘の末確かこの地で戦死された楠正成公を御祭神のだれている雰囲気は、正門にも表れておりました。兎も角、ひそかに大ブ-ムが起きているとされております御朱印帳への記帳を頂くことができて,今日、第一歩を踏み出しました。これから国内を旅する時に、妻は御朱印帳を常に携帯して出かけることになりそうです。
2012年03月29日
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家庭菜園で今年作付下10株のサツマイモの内、昨日4株を掘り上げました。その中から偶然こんな形のさつまいも(子芋)を掘り上げて感心。偶然とはいえよく似ていますね。品種は鳴門金時です。このひょうたんをどうするの?と妻に聞かれましたが、今のところは未定です。それにしてもよく出来ていますね。 そもそもサツマイモをどのようにして食べるか。ご飯に炊き込むのもあれば、料理で使われることもあるでしょうか、スライスして鉄板焼きで焼き芋にするのが手っ取り早いし、美味しいので我が家の定番です。今もこうしてブログを書きながらお八つとして昨日焼いた物をたべておりますが、なんと言っても作った張本人ですから積極的にあ食べる(トホホ・・・)ちょっとでも渋る顔を見せると、傍から作ったのはあんただよと妻、トホホ・・・秋になればサツマイモや黒豆、はたまた富有柿の実をもいで食べたりできるのが三田の里に暮らせる特権でもあります。
2011年10月25日
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武庫川ベリのウオ-キングでは沢山の方々と出合い、犬にも親しくなります。その中でもこの犬はNo.1の個性派でしょう。タイガ-犬?初めて出合った方は大概 吃驚 \(◎o◎)/ しますねそして・・・???本当にこんな毛の犬って居るかしら?となる。種明かし:ご主人様はご婦人で、出合ったことはありませんが朝寝坊の性格?しかしながら何故か毛をこんな刈り方でカットしたいらしいので実行。その結果が虎刈りで、散歩ですれ違う人々が吃驚するのを楽しんでいる【愉快犯?】的知能の所持者かもしれませんね。 この写真の方はアルバイトの方です。散歩のアルバイトの方も虎刈りの理由は知っていることでしょうが、語らない。私が最初に出合ったのは日本タクシ-のある三田よりの武庫川ベリでしたが、2,3年前かそれ以前の事で驚いたことを今でも覚えております。もし出会うことがありましたらどうぞ、おとなしいワンちゃんです久しぶりに出会って写真を撮らせてもらいましたが、(@_@;)
2011年10月25日
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10月1日(土) 11時頃武庫川の堤で、左岸を武庫川大橋から川上へ向かって自転車を進めました。”鷲が川魚を狙う”場面に遭遇したのがこの少し川上だったからです。この日の朝は全く鷲の姿はありませんでしたが、久しぶりにちょっと興奮いたしました。11時頃 武庫川左岸横のソバ畑後の農道の4人4,50m離れた武庫川堤の道路からこの光景を眺めてびっくりしました。大げさに言えば、異様とも感じました。通りかかったご老人、大きな声で舌がもつれながら 【何を撮っているのか?】私 【分からないからちょっと聞いてきますね】そこで自転車を降りて、徒歩で向かいました。こんな景色の中の4人私 【失礼ですが、このカメラのレンズは何ミリですか】撮影中の1人 【500mmです】私 【何を撮しておられますか】撮影中の1人 【小鳥です】私、カメラの向き先を眺めたが、蕎麦の花と黒豆畑、その先の三田市消防署が見えるだけで、小鳥は見えなかった。私 【お騒がせをしてすみません。有難うございました】 ???・・・・農道から武庫川堤へ帰ったらご老人は居なかったので、私も当初の線に沿って川上へと自転車を進めましたが、この写真を改めてみてみますと、3人の撮影者と小鳥の観察を担当して双眼鏡で前方をウオッチしている方での4人でした。この方たちにとってもどこに小鳥が居るかを知るのに相当手こずった?それで双眼鏡の役割があったのでしょう。写真の同好会の趣向で、「小鳥の自然の動き」撮影が狙いで、はるか数十mか100m以上先の小鳥、それも珍しい小鳥を狙った撮影会かもしれませんね。散歩中のご老人も含めて、第3者から見れば吃驚する現場でしたが、ご本人たちからすれば、ごく当たり前だったことでしょうね。それでもごく平凡な日常に浸っている私などは、この前の【鷲が魚を捕る姿】や、この大望遠鏡の放列?は驚きです。フラワ-タウンやウッディタウンなど大住宅区や工業団地など人の手が入った地域も沢山ありますが、大改修後の武庫川であったとしても現在は自然の姿が色濃いこの田園地帯は、自然を見つめるこのような愛好者を受け入れてくれていることでしょう武庫川とススキ
2011年10月03日
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大原城(平地から約20m高さ)は、鎌倉時代に大原上野守宗隆が居城だった。姫山城とも呼ばれている。今は姫山神社と竹藪が残されている。☆ 竹 林 今、竹林がこんなに綺麗なのも珍しい。☆ 高齢者大学院の平成22年度学習でご説明を受けましたが、【城】とは、土で成 す →形を成すであって後世の城はもともとの意味からかけ離れている由。 その証拠として示された場所の一つ? 大原城の竹林に見る小道 この道に見える場所は、かって小山の一部であり、城全体の守りを固めるた めに地面を掘り上げる。 その盛り土を取った跡だそうだ。 勿論敵が攻めて来た時の防御線としての役割もあったことでしょうね。 天正7年(1579年)かの有名な荒木村重の攻撃で落城したとあるので、その 攻防で侍がこの辺りを走り回ったことでしょうね。☆ 竹林と青空 (鎌倉時代にはこんな竹林は全くなかったはずですが・・・) 大原城址から2.30mで国道176号線が走っており、忙しい現在の世相むき 出しの有様ですが、こうして1ッ歩丘陵に入れば、静寂と言ってよいほど静か な空気です。 また、いつも書いていることですが、武庫川は今でこそ市内を二つに割って 真っ直ぐに貫流しておりますが、ついつい数十年前までは大きな曲線の流れ で、その変化の多い流れの左右に様々な物語が生まれたと思われます。 今日、この大原城址の木立に立って対岸の貴志を眺めても、整然とした平野 とだけしか感じられないのが残念でもあります。☆ 大原城址の遠景 右端の当たりを国道176号線が走っております。 こんな小さな丘陵でも城ですから不思議ですが、荒木村重に攻め滅ぼされたの が1579年で、織田信長の影響は関西へはまだ来ていなかったにしてもそんな 大昔ではなかった。 16世紀後半になってやっと三田地域もまとまりだした、そんな痕跡だとおもわ れます。☆ 姫山神社と鳥居 大原城址に立つ姫山神社 小さな祠の存在ですが、御本殿、拝殿など整備されております。 木質の鳥居で、その形式が何か 素人は相変わらず悩みますが、柱はやや「ハノ字」に開いており、笠木の内削ぎ と言うか、斜めに削いでおりますので【明神鳥居】の原型か。 あるいは、宗忠鳥居の形式か。 今後の勉強材料の一つです。
2011年08月11日
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7月20日(水) 今日は小学5年生の孫の1学期終業式の日でもある。妻へは、これまでの台風6号の影響で氾濫しかかっているであろう武庫川を見て、(写真撮影して)畑へ収穫に行くよと言って家を出た。家を出て、松が丘小学校の校門を過ぎると急な下り坂となり、中腹まで下りている折、急にそのやま際に【川除御霊神社】があり、ここはまだ鳥居に撮影を済ませていないことに気が付いた。 川除御霊神社の鳥居この神社には、あの有名な奈良時代の偉大な僧侶行基和尚の記念堂がある。福島大池の開鑿を始めこの辺一帯の水利事業を指導された恩人で、それに感謝しての記念堂【行基堂】だそうだ。武庫川の大蛇行によるさまざまな影響も平成年間の大改修完了で昔の面影は、まったく想像できないが、9世紀頃から行基さんへの感謝が続いているはずです。 【可愛い狛犬さん】ここでは触れないが、今、神社の事と並行して、狛犬さんの資料を読み漁っており有名でなくても、なかなか可愛い狛犬さんだと感心して撮影した事でした。ちょっとだけ寄り道するとこの尻尾が1本ロウソクの形でしょうか?明神鳥居を中心に写真撮影後早速自転車に飛び乗ってさらに平地へ駆け下った。 この辺では山裾の平地を国道176号線が走っている。 その向こうには、JR福知山線の線路があり、整然と区画整理された広い田んぼに出る。そこで出会ったあいがも 3羽だけ動いていた内の1羽。隣りの田んぼとの境にはネットが張られており、そこにはあいがもの避難小屋がある 避難小屋の前で固まっていたあいがも9時を過ぎているのにお百姓さんの指示がないのかじっとしていて不思議だったが。 農道を武庫川に向かうと桜の木が続き、幕をなしているが、この頃には、家をでる時妻へ告げた、武庫川の水の出具合を見て・・・のテ-マを100%忘れていたらしい。もう頭の中は次の楽しみ神社の鳥居の撮影が占拠していたようだ。深田の熊野神社の鳥居貴志の御霊神社の鳥居福島の未確認神社の鳥居を撮影してから畑へ行こう・・・脳の中はこのイメ-ジがくっきり。深田の熊野神社で撮影が終わって、貴志の御霊神社へ向かっていたら、農道の右側に小さな茂みが在り、赤い鳥居が見えた。??? 【神社名なしの祠】 ??? 鳥居は金属製の明神鳥居だろう。道路の足元に、「お先祖様」と記した木の杭が差し込まれていた。家へ帰って気が付いた。おそらく某家の個人的な祠、ご先祖様を祀っておられるだろう。我が家も今はありませんが、かつては墓地とは別に【若宮様あるいは若宮宮】の祠を設けていたことを思い出しました。 貴志の御霊神社で鳥居など撮影の後、未確認の神社を福島で撮影の為再び自転車を進めました。ここには稲荷神社の鳥居が2つあり、神社は稲荷神社と戎神社が同じ境内にありました。この神社は境内も含めて近年の造営であり、すべてが新しいのです。その分、私のような無鉄砲、無計画、行き当たりばったりのよくばり観察者にも分かりやすくて、様々な造作が見られて感謝感激の時間をとれました。例えば、懸魚の中の【猪の目懸魚】 【猪の目懸魚】 このは-トの形2つがイノシシの目に似ているところからの命名らしい。 すべて未確認ですが・・・三田に神社の破風にある懸魚は、多くは【蕪懸魚】であり、最近未確認ながら【梅鉢懸魚】を発見?して興奮しておりますが、これが「猪の目懸魚」であれば、喜びが爆発しそうだ。また、ここのの掲示板も撮影させてもらったが、読み進めると、かねて疑問に感じていたJR福知山線沿いにある祠の謎も解けそうだ。1. ここが福島の地名となった元として、昔この辺りには七福神の神社があり、その 事から福島と言う地名が起こったこと。2. 江戸時代、九鬼家の命令で稲荷神社以外の神社は破壊された。3. あきらめきれない町民に中から、その内の幾つかは個人が家の祠として祀っ た。 JR福知山線沿いの祠・・・上の記事との整合性はありませんが、似ている印 象です 福島地区のJR線路沿いの祠この稲荷神社の掲示板の内容をつぶさに検証したわけではありませんが、少なくとも三田市内の様々な祠・社は、ある年代毎の政治・経済的な制約の元、消えていったり祠として残ったりの運命にあったことが裏付けられたように思いましたここでの撮影後、いよいよ本日のメインスケジュ-ル?である家庭菜園へ向かった。でも、また寄り道:大歳神社手前の割烹【がんこ】の庭に咲いていたグラジオラス淡い色が気に入ったので撮影 【グラジオラス】 畑は台風6号の影響も軽くて、少しの手直しで済みヤレヤレでした。キュ-リ、茄子、トマト、キャベツを収穫。約3時間の散歩、自転車による市内めぐりでした。 家へ帰ってから、妻から「武庫川の水はどうだった?」私 「アッ 忘れてた」トホホ、トホホのお粗末。
2011年07月20日
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デジタル1眼カメラが出てから1年あまり。 まだ未熟平成22年3月末ごろか四月早々、1眼カメラがオリンパス社から発売されました。何でも手を出せるものは一度は経験をしてみたいのが生活信条? なので早速手に入れました。と言うのもある会合で高知市など高知県へ神戸市から高速バスで出かける日程があったので、試すのにいいチャンスでした。高知市・はりまや橋横のお店の宣伝物1眼カメラの撮影技術もなんのその、ただカメラに入るものは何でも・・・の精神で撮影。弘前市・最勝院・五重塔結局野の1年、1眼カメラを購入した昨年とあまり変わらないカメラワ-クですごした感じです。 平成22月4月24日 青森で出会った鯉のぼりあまり好天の無かったこの旅で、素晴らしいお天気の1日でしたので印象的です昨年4月下旬、東北の秋田・青森は寒くて桜の開花が遅れており、一番の楽しみだった桜の写真はあまりなしで、五所川原市の【ねぷたの館】でねぷたの迫力に触れたことで満足しました。オリンパス社などが1眼カメラを発売後、多くのカメラメ-カ-が1眼カメラを発売今日に至っていると思います。またその技術の解説資料も様々でしたが、私自身は、たいへんトロイのでほとんどマスタ-できずじまいでした。特に最近は神社・仏閣の建築の興味がわいてきたので、大体において古い建物の写真が対象とあって地味な撮影がほとんどです。懸魚(けぎょ) 蕪の彫刻らしいです神社の屋根の破風にはこんな彫刻がたいてい吊り下げられております。もともと大昔に中国・雲南省の家屋の屋根・破風に乾し魚が【火伏せ 火事除けのおまじない】として取り付けられる習慣が時代を経て日本で定着したものらしい。1年たっても技術の進歩ゼロですが、あのシャッタ-音【ガシャリ】はやっぱり魅力的ですから、これからもせっせとこのカメラで写真の山を築きそうです。
2011年04月23日
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2008年10月5日 朝日新聞にアライグマの情報が見られたことから、たまたま私の家庭菜園で見つけた足跡の写真をブログへ載せて、アライグマの足跡とお知らせしてしまいました。(アライグマの捕獲 神戸突出) 今回、{通りがかりさん}から、写真の足跡はタヌキのものでしょう・・・とご指摘を頂きました。有難うございます。濡れ衣を着せてしまったアライグマさんごめんなさい。全く何も知らないことがわかりましたので、さっそくインタネット検索で勉強させてもらいました。題して、タヌキとアライグマの足跡の見分け方。タヌキもアライグマもたくさんの写真と文章による情報がみられました。1. アライグマ 「 増えるアライグマ」から関連写真をお借りいたしました。さらにご興味のある方は 「増えるアライグマ」さんのつぎのurlをクリック願います。 http://www.tomamin.co.jp/you/06you/061023.htm 2. タヌキの足跡「ふれあいタヌキ」さんのHPからお借りいたしました。ご興味実のある方は下記のURLをクリックしてご覧ください。 http://www.pref.shimane.lg.jp/environment/nature/shizen/shimane/sizennkansatu/hureai/hureai-tanuki.htmlこのHPの足跡と私が誤解してしまった足跡を比較してみますと、私の写真の右上の足跡が、くっきりタヌキの足跡を意味しているように思われます。 もう一つ誤解していたと思われます点は、タヌキは野菜などをあまり食べない、食べないなど、家庭菜園仲間などの会話でもしてきたことですが、このHPの情報によりますと、野菜・果物なども食べるようですから、スイカ泥棒の1候補かもしれませんね。せっかく「通りがかり」さんがその誤りをご指摘して下さいましたのに、私がパソコンの更新で、このブログ技術の点でも十分利用できない環境にありますので、リンクの活用が出来ませんでした。今日はともかく、アライグマとタヌキに関してこのような足跡の写真など充実したhpに出会えたご報告で、ご理解いただければ幸いです。
2010年08月07日
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昨日でしたか、投稿欄を読んでいて感心致しました。鬱と言う字はどう書くかについて、亡くなられたご主人が学校で教えていた方法についてのご紹介がありました。こんな難しい漢字が当用漢字に繰り込まれた事から感慨一入と言ったお気持ちだとおもわれます。鬱難しいですね。この声の欄の投稿によりますと、俳句と同じように五七五で覚えましょうとありました。きかんきは こめのはこいり ひがみっつ鬱と言う字を拡大してみましょう。 鬱木缶木ワ(ワ冠) ※の凵(はこ)いり ヒがみっつ・・・これは私が苦心の作?ですが、この投稿者のご主人は、あるいは、その時代はこの難しい字について、この様な工夫をされて生徒に喜ばれたかもしれません。確かに覚えやすいです。
2010年07月27日
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あくまでもマイペ-スで望ましいブログを目指して記載を試みて参りました2年有余。最初はブログの事が全く分っていなかったので、知人も含めて私の我侭が聞いて貰える身近な方々にさえブログを発信している事をお知らせず、ひたすらブログとは何たるか・・・を探る日々でした。そんな手探りが長く続きましたので、ご来遊の方々も大変少ない有様でしたが、最近は狛犬の事、マンホ-ル蓋のこと、旅行のあれこれ、男料理うまい会の事はてはジョギング・ウオ-キングなどいろいろ写真入りで発信できるようになりましたのでてんこ盛りだから楽しいなんてコメントを頂ける方も現れるようになり、嬉しくなって発信に勇気が出すぎるきらいがありはしないか、心配になってきたこの頃であります。5月上旬には75歳、後期高齢者入りとなります。後期高齢者ってどんな社会的存在か、今の所全く分りませんが、その事もこのブログで絵になればいいですね。又、3年間があっという間だった、三田市立高齢者大学を卒業(3月19日卒業式)して、4月からその名も照れくさい大学院へ入学します。三田の歴史を学ぶコ-スですが、クラブは引き続き陶芸クラブに在籍が許されましたので野次喜多珍道中ならぬ珍品ゲテ物?を生み出しながらお仲間と楽しい1年間を願っておりますので、この面でも何か絵になる情報を発信できる事を願っております。とにもかくにも40,000回アクセスして下さいました皆様有難うございました。トラックパックで可愛い女性の情報や、やや・・・吃驚するような情報、沢山お金が儲かるお話などトラックパックして頂きましたが、何しろブログの発信操作にえらく手間取り、楽しそうなトラックパックの情報を検証できる体勢がゼロに近い有様で、申し訳なく思っております。後期高齢者が楽しめ、これがトラックパックだと思えるような情報って何だろうか?・・・て想像したこともありますが、しょせんパソコンの操作が遅い年寄りとしては出来る範囲で楽しませて下さい。全ての皆様 これからもお楽しみ下さい。
2010年03月13日
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2月6日(金)に三田市立高齢者大学の教養講座がこの博物館付属のホロンピアホ-ルで実施されました。その場所が人と自然の博物館の本館展示室をと通過する形になっておりましたので、結果として、展示中の資料を拝見できました。フラワ-タウンのダイエ-前の道路を渡るとこの兵庫県立人と自然の博物館ですhttp://hitohaku.jp博物館のHPより 遠景この建物と活躍の存在理由は極論すれば、丹波の恐竜の発掘に伴う諸々であります。獣脚類の血道弓 2007年に撮影した物 当時も話題でした。勿論その他にもいろいろな展示物と資料などがあり、興味深い施設だと思います。今回はホロンピアホ-ルの勉強会からの帰り道で、この丹波龍の発掘と現在の成果のご紹介資料を探せませんでしたので、ご興味が多い事と思いますが、上記のHPでご覧願います。私が立ち止まった場所1. いのししなど動物の剥製展示コ-ナ- いわゆるウリ坊こといのししの子供 可愛いですね。 大きないのしし おお怖い!2. 蝶々 蝶々-1 羽に一部が擬態になっていて(@_@)です。 ご参考までに 2008.04.23 四万十川の辺のホテルの喫茶店に紛れ込んでいた蛾か蝶々 落ち葉そっくりですね。 蝶々-2 これらの蝶々の展示品が沢山あり、おそらく世界的にも有名な資料だとおもわれます が、今回は質問などによる裏づけが出来ておりませんし、2つの写真も名前を控えて おりません県立有馬富士公園とこの人と自然の博物館は、言ってみれば三田市にとってもお宝で、これからも何度か見物に訪れる機会がありそうなので、今回はごく1部の写真撮影で終りました。博物館のHPから 恐竜の見本です。今発掘が進んでいるはずの丹波龍の資料が整理されて発表されれば、きっと大勢の方々が見学に訪れる事と思います。どうぞ遊びにおいで下さい。
2010年02月12日
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平成7年(1995年)1月17日 5時46分 阪神淡路大地震で食堂のテ-ブルにしがみついた。あれから15年、何時もよりか遅かったが5時46分に余裕のある時間に寝床を離れて1階の居間食堂に降り立ち、あの時と同じように食堂のテ-ブルからテレビを見ながら、地震の時間を待ちました。5時46分には 居間でテレビに合わせて黙祷を捧げました。この15年間は社会的にも個人的にも大変な激動期で感慨無量であります。私事で言えば1. この年の4月; 胃潰瘍を療養中その1部が癌であることが判明して内視鏡手術後、 5月18日、胃を2/3切除する手術に踏み切りました。2. 病院が神戸市長田区にあって、1月17日に地震後三田市からこの長田区の病院に 検査の為通う際、地震の被害を眺めながら月日を過ごしました。3. 今日、手術後15年と言う事で5年生存のデ-タに貢献できる事を喜んでおりますが 手術前の体重が77ッから減少して、最小の時は57kg、必死の頑張りでいまは63kg を保っております。体脂肪は19%から10%前後に減少。4. 癌の告知について 偶然、会社の健診で癌を発見したので家族より誰よりも先に本人が先生から癌宣告 を受けた事が何よりも良かったと常にそのことを喜んでおります。 いまも癌の告知は増えつつありますが、常に難しい事にはちがいありません。5. この平成7年(1995年)は1935年(昭和10年)に誕生してからちょうど60年で、一般 的な 表現で言えばこの年を持って長年勤務した会社を離れる事になった年でもあり ます。6. いまの方々には信じて頂けないでしょうが、我々の時代は定年が55歳が普通で、 その当時の数年前に56歳定年へ1年延長された時代でもありました。7. 1998年は娘が結婚、また、長年の念願であったハワイのフルマラソンに挑戦し、 あの小錦さんがスタ-タ-で走り、完走できた年でもありました。63歳 フルマラソンは全部で9回か10回走り、9回(8回)完走出来ました。元へ戻って、平成7年(1995年)1月17日 5時46分私は何時も朝食は自分で整え、一人テレビを眺めながら早朝の一時を食堂で過ごすのが数十年の日課でしたから、いつも通り4時台に起床、新聞を取り込んでテ-ブルに広げ、一方ではテレビを眺めながら食物を胃に送る作業に邁進しておりましたら、あの激震!思わず箸を投げ捨ててテ-ブルの端に両手を持って行きしがみ付いたことを覚えております。4,5m先のテレビをセットしておある戸棚には、シンガポ-ルのマ-ライオンなどが飾られておりましたが、それが雨だれの如く落下、瞬間停電で真っ暗。そのゆれた瞬間2階のそれぞれの部屋で寝ていた家内や子供達からと思しき悲鳴ともつかぬ声が聞こえてきましたが、自分自身がひょっとしたらその後の揺れで家が潰れると一巻のお仕舞いかなとの思いでその悲鳴を聞いているだけが精一杯でしたね。最も。それから15年、あの時の悲鳴について言及しても誰もそんな声を出した覚えは無いと言い張るので、いまだに? のままです。三田から大阪の駅前第二ビルへ通勤できたのは19日、福知山へ逆行してから京都へ出て、京都から大阪へ行くことができました。リュックサックには宿泊の衣類、道具などをつめて向かった事でした。会社の先輩、同僚が神戸市東灘区にお住まいで、何人も亡くなり、我々もつらい思いを致しました。昭和21年の南海大地震や昭和60年ごろ千葉県で発生した大地震で地下鉄に閉じ込められて1,2時間御徒町駅を目前にしながら恐怖に耐えていた体験がありましたが、この阪神淡路大震災は、自宅の被害は軽微でありましたが、いろいろな方の見舞いを兼ねて三ノ宮から芦屋まで歩きで数回通いましたので、何時までも忘れる事の出来ない地震です。中国縦貫道の下を断層が走っているなど、厳しい条件下にあることも知れてきて、阪神淡路大震災が過ぎたから等分の間大丈夫などと暢気な事は言えませんね。東南海大地震もいつか分らず、虞が増すばかりです。1月17日の朝日 07:16分これからもこんな穏やかな朝日を拝める事を祈っております。
2010年01月17日
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