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フリーターから社会人として働き始めて、とにかく一生懸命に働いた。何においても仕事優先を通してきた。仕事で成功できないと、給料が増えないし、給料が増えないと、守らなければならないものも守れなくなってしまう。そんな情けない男はなりたくないと常々考えていた。結婚して子供ができたときに、たとえば必要なものを買えない経済状況でいるのは嫌だし、かみさんにだって窮屈な思いはさせたくないと考えていた。だから、それを理由に仕事にばかり時間を費やした。10年間、とにかく働いた。収入だって増えた。でも、幸せかと聞かれたら、そうじゃないのかも知れないと思い始めた。漠然と、人よりいい生活をしたいとか、漠然と会社で偉くなりたいって思ってた。でも、実際になってみても、常に不安が付きまとってくるし、心から安心して生活をしていない。考え方ひとつで幸せになれるはずなのに・・・なかなか穏やかな心でいることが難しい。何か新しいことを始めようと思い、ボランティアを考えた。地球温暖化、それによって被害を受けている国々の人たち。調べれば調べるほど、先進国の人間が犯している罪を知り、ショックを受けた。今までは、ボランティアしている人を軽視していたし、現実を知ろうともしなかった。でも、こうして知ることができたということは、自分にとって意味があることなんだと受け止めた。そういうことを考えるようになったと、社長に話したことがあった。自分になにかできることがあるはずだ。これからの人生は、人のためになることを積極的にやっていきたいと。すると、一人で始めたところで何の力にもならないし、やるだけ無駄だと言われた。企業が取り組んでいるボランティアも所詮は企業イメージを上げるための、ひとつの戦略に過ぎないんだと・・・でも、そうじゃない。俺は『志を高く』生きていくことを誓った。
2005.01.31
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速読教室に行き始めて、読書量がかなり増えた。以前は月に1冊~2冊程度だったが、今は20冊くらい読むようになった。職場には7時過ぎに着いて、8時から9時くらいまでは仕事をしているから、読書が出来るのは、5時におきてからの1時間と通勤の電車のなかくらいだ。読書すればするほど、今までの自分がいかに世間知らずだったか、人間的に浅かったかを思い知らされた。読む本は、ビジネス書か啓発書のどちらかだ。読めば読むほど、血肉になっていくのがわかる。これまでの価値観から、一皮むけたって感じがする。好きな著者は、神田昌則、本田健、斉藤ひとり、清水克衛、中村慎一、小林正観、軌保博光、高橋歩などだ。感受性はもともと強かったこともあり、潜在的に眠ってたものが突然、爆発し始めた。インプットしてきたものがアウトプットできるようになり始めたときに、おもしろいことが起こった。
2005.01.28
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俺は高卒で、フリーターを経て、社会人になった。だから、経験している業界は、ホテル業と、OA機器の訪問販売業界だけだ。営業という仕事上、いろんな業界のお客さんと接してきたが、あくまで表面的なやりとりが多いので深く知ることはなかった。もっといろんなことを経験したいと思いはじめた。もともと好奇心が強く、熱しやすい性格なので、思いついたことや、誰かに火をつけられたりすると、すぐに動きたくなる性分だ。その性格が最近、活発になってきたような気がする。学生時代に勉強してこなかったせいもあるが、最近は勉強の意欲がすごくある。ビジネススクールに行こうか、専門学校に行こうか、いろいろ考えていた。ただ、仕事をしながら勉強するにも、限られた時間をいかに効率よく使っていくか・・・時間もそれほどない。でも多くを学びたい。『よし、まずは自分の能力を上げよう!』ということで、速読教室に通い始めた。渋谷にある教室でテレビでも放送されたところだ。速読といえば、いろんな方法がある。斜め読み、フォトリーディング・・・俺が行った教室は、とにかく目を訓練して飛ばし読みは一切せず、見る能力を究極に高めていくといった訓練をする教室だった。日曜日の10時から18時まで、とにかく見る訓練をひたすら続ける。自宅に帰ってもひたすら訓練。お風呂とトイレに訓練用のツールを準備して、ただただ訓練。もともと、1冊の本を読破するのに3日ほどの時間を要した。通勤の電車の中や、食事の合間を見つけて読んでいた。それがどのくらい早くなるのかが楽しみだった。テレビでたまに見るような、ぱらぱらとページをめくるだけで本当に中身までしっかりと読めるのかどうか、かなり疑心暗鬼だったが、教室で上のクラスの人たちを見ると、それが本当だということがすぐにわかった。正直、驚いた。かなり早い。凄いのひと言!とにかく先生に言われたままに練習を繰り返した。練習の時間を確保するために、朝4時に起きることにした。毎回4時に起きれるわけではなかったが、なんとかがんばった。ずっと訓練をしていくうちに、だんだんと早く読めるようになってきた。今では、1冊を1時間30分から2時間くらいで読めるようになった。目標は30分なので、まだまだ遠い。ここ最近は、1ヶ月に20冊くらいの本を読むようになった。あらためて気付いたことがある。それは、『読書は人生を変える』だ。
2005.01.27
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会社を興したときは、役員3人、営業マン7人の計10人からのスタートだった。以前の会社から着いてきてくれた連中だ。こいつらにとっては、会社の事情で支店を閉めることになったり、今までの支店長が独立すると言い出したり、予期せぬことが立て続けに起きてしまって、戸惑っただろう。ある日突然、働き口がなくなるかもしれないのだから、選択肢はひとつだったのかもしれない。「着いて行きます!」って。全員で気持ちをひとつにがんばったおかげで、1年目から黒字経営をすることができた。いろんな夢を語りながら、人を増やすために募集を打ちまくった。事務の女の子も必要だし、技術者も必要だし、なんと言っても営業マンを増やさなければ会社は大きくならない。B-ingに3ヶ月に1回のペースで掲載していった。なぜ3ヶ月に1回かというと、2~3名採用後、そのくらいの期間でほとんどが辞めてしまうからだ。やめる理由はいろいろある。「飛び込み営業がこんなにキツイとは思わなかった」「社風に合わない」「上司が尊敬できない」「強気な営業スタイルに気が引ける」「だましているような気になってできない」などなど人の採用・教育には本当にパワーを使った。お金・時間・エネルギー、注げるものは全部注いだ。不思議なもので、残る人間は絶対と言っていいほど、俺たちより意識が低い人間だった。たまに、意識がすごく高く、才能を光らせる人間が入社することはあったが、上司や先輩の発言や行動を見て、すぐに見切りをつけて去っていった。俺もしばらくは、辞めていくヤツはみんな一緒だと思っていたが、そうではないことに気づき始めた。「辞めた人間が悪いのか、辞めさせるだけの魅力しかなかった俺が悪いのか」今までは『辞めたい』と言う奴を引き止め、それでも無理だとわかった瞬間に、人間を否定し、お互い気分の悪い分かれ方を繰り返すことしか知らなかった。仕事の技術的なレベルも大切だが、やっぱり人が人を魅了するのは、『意識レベル・魂レベル・愛レベル』だと思う。条件で人を雇えば、条件でなびく。そこに信頼関係は生まれない。しっくりこないとは感じつつ、流されながら、やってきたけど、ようやく今までのやり方が間違っていると気付くことができた。
2005.01.21
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人を育てるということは難しい。俺の持論はこうだ。会社に入って仕事をすること、お金をもらうことは、目的ではなく『手段』だと思っている。何の手段かというと、人間として成長していくための、手段である。人間は社会人として生まれてきたわけでもなく、お金を稼ぐために生まれてきたわけでもない。競争して、他人より上位に立つために生まれてきたわけではないのだ。だから、手段を目的にしてはいけないと思う。この本質を根底に考えていくと、追い込まれたときや、決断に迫られたときの判断基準がブレることはない。仕事であっても、基準はあくまでも「人間として」で考えていかなければいけない。でも、こんな意見もあるかもしれない。『人間としての教育なんかしていても、売り上げは上がらない。そんなものは売り上げを上げるためには必要なく、もっと効率良く売り上げを上げる方法を教えていくことが、会社としての役目だ。』言っていることはわかるし、否定もしない。なぜなら、その部分だけで判断すれば正論だし、必要なことだからだ。ただ、それだけでは足りないことを訴えたい。人間としての道徳とか倫理とか愛を基準に仕事を教えていかないと、判断基準が売り上げとか効率だけになってしまう。人を教育するにあたって、その根っこの部分をきちんと意思統一しておかないといけないと思う。そこがバラバラなのに人を増やしても、収集がつかなくなってしまい、崩壊の一途をたどってしまうことになりかねない。もし俺が社員なら、売り上げだけを追いかけている上司の下では一生働くとは考えないだろうし、自分が成長できるとも思えない。「人を育てる」とは、方法や手段だけを教えるのではなく、理念や哲学から教えていくことが大切だと思う。
2005.01.20
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俺はもともと、人と違ったことを考えるタイプだった。だから、現実的なことよりも、人間的なことを軸に生きてきた。俺自身、人間が創り出したものに足をすくわれるような、そんな人間にはなりたくないと常々思っている。人間が創り出したもの。法律、会社、お金、資本主義、モノ・・・などだ。神様が創り出したもの。宇宙、森羅万象、人間、感情、愛・・・などだ。だから、営業マンだったころも、人の上に立ちたいとか、肩書きが欲しいなんてまったく思わなかった。それは今も同じだ。仕事を一生懸命にがんばることによって、自分の魂が鍛えられ、自分が新たなステージに行くことが目的だ。仕事のレベルが上がり、現実社会でいうところの役職が上がるのは、自分にとっては新しい魂を磨くためのステージへの昇格と考えていた。役員の間では、社内研修の制度についてよく話し合った。うちは全員が営業畑あがりだから、考え方が偏りがちだ。俺は、幹部を育てるにあたっては、外部の研修制度なども検討する必要があると訴えてきた。「じゃぁ、そうしよう。」ってことになるのだが、「提案した役員が行ってノウハウだけを盗んできて、あとは社内でやれるだろう。みんなで参加するのは時間とお金の無駄だ。」となってしまう。成長しなければいけないのは、役員である俺たちも一緒だ。だから、俺は土日も返上して、自腹でいろんなセミナーに参加してみた。為になるものもあれば、そうでないものもある。でも、自分が参加してみて初めていろんな出会いもあるし、いろんなことを感じるのだ。いろんな人と出会い、いろんな話を聴くうちに、自分の中に新たな価値観に生まれてきた。今後はその価値観を大切に進んでいきたいと考えるようになった。
2005.01.19
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よ~し、なんとなく見えてきた。うんうん。自分の日記なんやから、気楽に書いたらええねん。ってことで、やっぱり現在までを書くことにしよう。でないと、自分自身でも整理しづらいから・・・そういうわけで、俺はOA機器販売会社、東京支店でNO.2の立場で仕事をさせてもらってたわけだ。俺の上司である取締役支店長は年齢的には2歳しかはなれていないけど、いろんなことを教わった。入社してすぐの頃、ゲーセンばっか連れて行く先輩から救ってくれたのは、その人だった。なんといっても人間的な熱さが好きだった。それともうひとり、俺の後輩にあたる重要なやつがいる。こいつは営業力が半端じゃなく、パワーネゴシエイターで、対面して話し出すと誰もを頷かせる能力を持っている。自由気ままに生きてるように見えるが、すごく繊細でもある。数字にはめっぽう強い。そんなやつだ。3人で今の会社を興し、6年で60人までになった。これから毎年、新卒採用をしていく。この4月には80人近くになる予定だ。
2005.01.18
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方向転換のためにしばらく作戦を考えよう。
2005.01.17
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ブログを書き始めて数週間が経ったけど、当初イメージしてたものとまったく違うものになっている。う~ん、過去を振り返って、現在までたどり着いてから、リアルタイムに未来への葛藤なんかを書いていこうと思っていたけど、今、自分で書いていても面白くない。ちょっと方向転換してみよう。
2005.01.14
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親父との残りの時間を、息子としてどう過ごすか考えた。でも、普通に見舞いに行って、仕事とか結婚の準備のこととか、話をすることくらいしか思いつかなかった。親父もいろんなことを話してくれた。今ではあまり憶えていないが、ひとつだけ忘れられない言葉がある。「人生は思ったとおりになりよるで」しみじみと親父がこう言った。そのときは意味がよくわからなかったが、なぜか心に残った。日に日に親父の体が痩せていくのがわかった。週末にしか帰らない俺は、その変化が手に取るようにわかった。放射線治療や抗がん剤、床ずれも辛そうだった。足をマッサージしてやると気持ちいいと言っていた。いつもどおり親父を見舞い、東京へ帰ろうと親父に別れを告げ、病室を後にした。おかんも俺を見送るためにエレベーターホールまで一緒に来ていた。その日俺はずっとそわそわしていた。親父に伝えたいことがある。なんとなくそう思った。おかんには「車の鍵を病室に忘れたから、ちょっと待っててくれ」と言って、病室に向かった。病室に入って目を閉じてる親父の顔を見た。自分の思いを口にしようとしたときに、検診のために看護婦さんが入ってきた。タイミングを逃してしまった俺は、そのまま何も言わずに病室を後にした。車で東京へ向かう道中も、そわそわはなくならなかった。ユーターンして病院に戻ろうかどうか迷ったが、そうはせずにおかんに電話をかけた。俺が親父に伝えたかったことを伝言した。「親父の息子に生まれてきて良かった」と伝えておいてくれと。それから数日後に親父は他界した。
2005.01.13
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東京に来て1年が経った。1年間は東京⇔大阪での遠距離恋愛をしていたが、ついに同棲することになった。彼女は大阪本社で事務をしていたが、社長や役員の人たちにも理解してもらい、円満退社ということになった。一緒に住み始めたときはラブラブで、家に帰るとご飯ができていて、一緒に食べながら、仕事の話を聞いてもらったり、彼女の就職活動のことを聞いたり、二人の将来について話すことがすごく楽しかった。彼女も苦労することなく就職が決まり、仕事に行き始めた。俺は新人教育なんかをしながら、自分でも売り上げを上げないといけない立場だったので、仕事が終わる時間はいつも11時くらいだった。彼女も仕事でのストレスが徐々に出てきて、一緒に食事をするのは週末くらいになっていった。同棲して4年目くらいに、具体的な結婚の話をするようになった。ちょうど同じタイミングで俺の親父が末期ガンだということがわかった。余命3ヶ月。そんなことも重なり結婚の話を少し先延ばしにし、毎週、見舞いに帰る日々が続いた。俺は親父が40歳の時に生まれた子供だったから、父親参観はすごく嫌いだった。親父じゃなくておじいちゃんにまちがわれるからだ。そんなことで、親父とはあまり言葉を交わさなくなり、そのまま時が過ぎていった。親父の余命宣告には、正直戸惑った。見舞いに行っても話すことがない。俺は、朝から晩まで仕事しかしてなかったから、仕事の話しかできなかった。仕事の話なんて今までしたこともなかったのに、「部下が育たない」とか「部下が長続きしない」など、当時かかえていた問題なんかを口にし始めた。すると、親父から的確なアドバイスがいくつも出てきた。正直、驚いた。親父は地方公務員だったから、俺の「営業」という仕事とは畑違いだし、俺の世界は親父にはわからないと思っていたからだ。それが、少し話しただけで、的確なアドバイスが返ってきて、俺の気持ちが楽になったことにすごく驚いた。それと同時に、「なんでもっと早く、いろんなことを本音で相談しなかったんだろう、あと3ヶ月しか生きれないのに・・・」という思いで胸が締め付けられた。もっともっと息子として、親父にしてやれることがあったのに、この数年間、俺を育ててくれた家族と向き合うことを避けてきた自分を情けなく思った。
2005.01.12
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いよいよ、東京での本格的な一人暮らしがスタートした。住まいは荻窪だ。駅前には西友やちょっとした商店街もあり、住みやすい街だと感じた。引越しも無事終わり、いよいよ営業活動を開始した。アルバイト時代に3ヶ月新宿に住んでいたが、地理的には全くわからないに等しかった。とりあえず、東京都内の地図を買って、聞いたことのある地区を目指した。飛び込み営業、始めての土地が『新橋』だった。大阪での営業時代、1ヶ月に20件の新規契約を取っていた俺は、自信満々で手当たり次第飛び込んでアプローチをかけていった。最初はいつもの調子が出なかった。でも、しばらくすると勘も戻るだろうし、1日フルに回れば、見込みも何件かは出来るだろうと軽く考えていた。それがどうしたことか、夕方になっても見込み客1件すらつくれなかった。「あっれ~、東京のマーケットはひょっとして厳しいのか?」と想いを巡らせながら、初日は幕を閉じた。そして翌日、奮起して頑張ってみたものの、飛び込む先の反応はイマイチ昨日と変わらない。しかも、考えても答えすら見つからない。どうしたもんかと考えた末に、飛び込んで断られたお客さんに聞いてみることにした。「あの~、つかぬことを聞きますけど、僕は関西から東京に出てきて、営業活動してるんですけど、大阪の人はもっと話を聞いてくれたんですわ。東京の人はなんでこうも話を聞いてくれはらへんのですか?」すると、そのお客さんは、まわりくどい言い方をしながら、こんなことを教えてくれた。「私はね、関西弁を聞くと心の奥で、ダマされる・・・って少なからず思ってしまうんだ。みんながどうかは知らないよ。でも、大阪の人って商売がウマイから、警戒してしまうんだよね。」まさに目からウロコだった。それまでは「標準語みたいな女っぽい話し方なんかできるかぁ!」って思ってたんだけど、いつまでもそれじゃダメだとわかった。その日から少しずつ標準語のイントネーションを意識して営業するようになった。2日目もついにたいした見込み客すらつくれずに終えることとなった。そして3日目。前日にお客さんからいただいた教えを意識しながら、見よう見真似の標準語に切り替え、飛び込みアプローチをしていった。すると、何か反応が違う。明らかにお客さんの反応が柔らかくなった。そうこうしてるうちに、ようやく1件目の契約を取ることが出来た。まさに、昨日のお客さんに感謝だ。それからというもの、徐々に言葉遣いも慣れてきて、契約を取ることが出来るようになっていった。
2005.01.11
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まぁ、仕事に一生懸命だと、トラブルやクレームも避けては通れない。俺は1ヶ月で20件くらい新規顧客を作っていた。ほぼ毎日、飛び込みで契約を取るのはかなりのもんだ。先輩は俺よりも売上を上げていたが、会社の財産である顧客からの売上も少なくはなかった。だから、新規開拓という分野では、俺はトップにも等しい存在だった。それぐらい契約を上げていると、キャンセルやクレームも少なからず出てくる。自分で治めることができるものは自分で処理し、自分じゃどうにもならないクレームは上司を頼った。当時のクレーム処理方法は、客に泣き寝入りをさせる強気な方法だった。ビジネスに無知な俺は、「あぁ、こんなふうに相手の弱みに付け込んで納得させていくのが商売なんだ!」とえらく感動したのを憶えている。今思えばとんでもない。そんなある日、「会社の売上も順調に右肩上がりだから、そろそろ東京に支店でも出そう」という話が出てきた。社内の雰囲気は「誰か名乗りを上げるやつはいないか?」そんな感じだった。売上を引っ張っていた先輩たちは、「彼女がいるから・・・」とか、「地元を離れるのはちょっと・・・」みたいな反応だった。俺は10代後半に20代の生き方を決めていた。『何事も経験に勝るものはないから、20代はとにかく経験していこう。そして楽な道としんどい道があったら、すべてしんどい道を選択しよう。』ということで、「東京支店 支店長代理」という肩書きをもらって、東京の地を再び踏んだのだった。アルバイトで東京に来てから、2年後のことだった。
2005.01.07
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数日後に直属の上司である次長と二人で、謝罪に行くことになった。当然、俺が悪かったことと、相手が普通の人じゃないってことで、念入りに作戦を立てて行くことになった。次長からの指示は、「お前は黙ってうつむいて、申し訳なさそうにしておけ」ということだった。次長が主導権を握って謝罪を進め、30分ほどしてから、うつむいたままの俺が肩を震わせ、土下座をして、涙を流して大きな声で謝るというシナリオだった。何回かのロープレを行い、現場に向かった。練習をしていたお陰で、それほどの緊張もなく土下座をし、肩を震わせながら床に頭をこすり付けた。我ながら迫真の演技だ。(よしっ、これで許してもらえるだろう・・・)そう思った。ところが甘かった。何度も何度も本気で謝ったが、「次長じゃ話にならない」ということで、結局、社長が直々に訪問することになった。その後は、あまり詳しくは聞いていないが、社長が何度か訪問し、結局はその事務所が資金稼ぎのために販売していた商品を、会社が購入させられたとのことだった。いち社員が引き起こした一連の出来事に対し、社長までもが身体を張って守ろうとしてくれる会社に、俺は心が熱くなった。「俺もこの人たちのようになりたい。いっぱい会社に貢献して、恩返ししたい。」本心からそう思えた。だから、自分の「時間とエネルギー」を全部、仕事に捧げようと思えたし、頑張れたんだと思う。実力も経験もない若造が、人より抜きに出るには、やっぱ何かを差し出さなきゃいけない。能力や経験のない俺に差し出せるものは「時間とエネルギー」しかなかった。この経験を経て、「自分の時間とエネルギーを仕事に使い切る」ということを学べたことに感謝している。
2005.01.06
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飛び込みの営業マンにとって、ヤクザ事務所は地雷のようなものだ。飛び込むことに一生懸命になればなるほど、地雷には気付かなくなる。かといって、地雷のことを気にしすぎてしまうと、そうでない客まで地雷に見えてしまう。ヤクザ、金融、風俗、その他同業・・・地雷はいっぱいだ。俺が踏んでしまった地雷は、かなりしつこかった。会社に戻って一部始終を次長と部長と社長に報告した。叱られるかと覚悟をしていたけど、全然叱られなかった。むしろ、落ち込みはしないかと気遣ってくれてさえいた。「一生懸命に営業してればこんなこともあるから、あとは任せておけ。明日からも気にせずに、ガンガン営業してくれ。」と言ってもらえた。まぁ、ここまでは想像できる話なんだけど、ここから先が想像を通り越えた。俺が会社に対して多少の罪悪感を感じていると、部長と課長がこんな話をしているのが聞こえてきた。部長「わかったか?」課長「はい、自宅はもう押さえました。」部長「よっしゃ、とりあえず出方を見るか。」俺 「・・・?」 「あの、すいません、何の話ですか?」課長「君が今日お世話になったヤクザ屋さんの自宅の件や。」俺 「えっ、自宅住所を調べたんですか?」課長「そうやで、こっちも足元見られるやろうから、相手の弱みも握っておかんとな!はっはっは」「ヤクザよりこの人達のほうが怖い・・・」と思ったのが正直なところだ。このときに、この会社に一生を捧げることを心に誓ったのだった。
2005.01.05
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