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小説家 中村 彰彦
真田幸村(信繁)とその配下の鉄砲足軽六千人が、大坂城外・東南端に築いた半円形の出城真田丸に籠り、寄せ来る徳川方兵力を散々に打ち倒したのは慶長十九年(一六一四)冬のことだ。幸村の武名はここに確立し、六連銭の旗印や兜の前立ては、現代っ子も知っているほど有名になった。
ただし時代考証的にいうと、幸村はこのとき六連銭の旗印は用いなかった。徳川方の軍勢の中に兄信之(上州沼田六万三千石藩主)がいて六連銭の旗印を使用していたため、兄に遠慮して赤一色の旗を用いていた。
それは徳川家康と豊臣秀頼の間でいったん講和に及び、真田丸が破却されて慶長二十年に夏の陣がはじまってからもおなじこと。同年五月、三千に減少した兵を率いて天王寺の茶臼山に陣を張った真田勢は、より南方の低地に位置する家康の本陣とあわよくば刺し違えようとした。大地に伏せた三千が一斉に立ち上がった姿は、「 躑躅 ノ花ノ咲キタル如ク」だったという( 『武徳編年集成』)。
幸村は家康本陣の馬印を突き倒すほどみごとな戦いぶりを示して「日本一の 兵 」と謳われたため、夏の陣が終わって間もなく歌に詠まれた。
花のやうなる秀頼さまを
鬼のやうなる真田がつれいて引きも引
いたり鹿児島へ
源義経に見るごとく、英雄については「生存伝説」が作られがちなものだ。この時点で幸村も「生存伝説」を持つ英雄となったわけだが、寛文十二年(一六七二)には軍記物『難波戦記』が成立。幸村は南北朝時代の南朝の忠臣楠正成に、そのせがれ大助は正行にたとえられるヒーローへと育っていった。
江戸時代の後半から明治にかけては講談がブームでありつづけたが、講談の主流は軍談だから、昌幸・幸村・大助の真田三代に関する演目には人気があったようだ。しかも明治時代には速記術も確立されたため、講談や落語を講演速記した本も数多く出版されるに至った。
講談師神田伯龍(五代目)の出した口演速記本のタイトルも『難波戦記』(一八九九)だから、伯龍は琵琶法師が平曲に乗せて『平家物語』を語ったように、軍記物『難波戦記』を自分なりにアレンジして寄席に掛けたのだろう。
ちなみに、この段階ではまだ猿飛佐助、霧隠才蔵といった「真田十勇士」は登場しない。十勇士はすべて虚構の人物だから当たり前といえば当たり前だが、かれらが登場するのは書き下ろし講談シリーズ立川文庫が刊行されてからのこと。一九一四年に出された『真田十勇士 忍術名人 猿飛佐助』が爆発的に売れたので、おなじシリーズに由利鎌之助、霧隠才蔵が入り、ついには数が十勇士までふくらんだのだ。
なおこれらが人気を得たのは、同文庫の版元立川文明堂が大阪にあったことと無縁ではあるまい。大阪で人気のある歴史上の人物といえば、太閤秀吉。幸村はその子秀頼のため戦って死んだ英雄だからこそ、大阪人たちは十勇士を「熱烈歓迎」したのだろう。
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