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歴史学者 藤野 豊
土門拳というと、私は奈良の古寺や仏像の静粛な写真を思い起こす。しかし、土門拳には激しい怒りの写真もあった。
1959 年、すでに、写真家としての地位を確立していた土門のもとに、筑豊をテーマにした写真集の依頼が寄せられた。依頼したのはパトリア書店というと出版社である。
これを受けて、土門は撮影を開始し、『筑豊の子どもたち』(パトリア書店、 1960 年)をつくり、さらに『るみえちゃんはお父さんが死んだ 続・筑豊の子どもたち』(研光社、同)を刊行した。
どちらも、あえてザラ紙に印刷し週刊誌の体裁にした。定価は 100 円であった。そこには虐げられた人々、貧しい人々と共に国の炭鉱合理化政策と戦おうとする土門の怒りが込められていた。
『筑豊のこどもたち』は 10 万部を突破したというと。
「著者のことば」で、土門は「日本各地の炭田地帯には、いま炭鉱離職者の大集団がいる。貧窮のどん底にありながらなぜ、かれらが暴動を起こさないのか不思議なくらいだった。それがマケ犬の忍従なのか、いわゆる日本人のネバリ強さなのか、ぼくにはわからない。長い圧迫の歴史が、かれらのエネルギーをどこかに閉じこめてしまったかに見える」と述べている。
国策により生活を破壊されたのもかかわらず、暴動も起こさず忍従する炭鉱失業者の秘められたエネルギーを、土門は子どもたちの表情に求めたのである。
反響は大きかった。東宝が映画化に踏み切る。監督は当初、広沢栄が予定されていたが、当方と意見が合わず、川内清一郎に代わった。土門も映画化に全面的に協力した。
原作が写真集であるので、映画は完全な創作となった。閉山された筑豊の小さな炭鉱が舞台となり、失業し、希望を失った加東大介演じる江藤新吾とその子の武らを軸にストーリーつくられた。
撮影にはセットを使わず、全て田川市近郊の東洋炭鉱でロケが行われた。ライトも使わず、ニュース映画用のカメラを使用し、出演者はメーキャップもしなかった。あえて、ドキュメンタリー風の映画に仕立てたのである。
撮影には筑豊の炭鉱労使双方が協力した。
映画では、筑豊を訪れた代議士が、秘書に「石炭産業はもう救いようがないよね、まあ、せいぜいあと五年か」「それが歴史というもんだ。世の中が進歩するにはそのくらいの犠牲はつきものだよ」と語るシーンがある。
この言葉に、土門拳の怒り、内川清一郎の怒りが凝縮されていたのであろう。
【炭鉱のまちを歩く [15] 】聖教新聞 2017.8.10
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