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農民が書き残した幕末の記録
神奈川県立歴史博物館学芸員 寺西 明子
江戸で接した事件を日記に
生き抜く情報と知性を生き生きと
嘉永6( 1853 )年6月3日、アメリカ大統領の国書を携えたマシュー・ペリーが蒸気船2艘、ハンセン2艘で浦賀沖に姿を現した。長尾村(川崎市宮前区・多摩区)の村役人鈴木藤助は江戸新川で親族の法事に出席しており、事件の第一報に接する。
藤助は、この事件をきっかけにして日記をつけ始めた。この「鈴木藤助日記」書簡の表紙には「唐舟一条御座候」と墨書され、ペリー来航に関して得た情報を次々と書き留めている。情報を得る相手は江戸市中に居住する親族、娘の嫁ぎ先である幕臣、知り合いの武家、江戸近郊の商売仲間、各村の名主、多摩川を昇降する船頭や荷上場の役人のほか、しじみ売りの爺にいたるまで多種多様である。6月12日にペリーが浦賀を去るまでの間は、江戸内海警固にあたる大名の動き、艦隊の動きを警戒する江戸市中への町触、ペリー来航目的に関する風聞を集め、ペリーが去ったあとはアメリカ大統領国書写しや、「日本を茶にして来たか上きせん たつた四はいて四日寐られぬ」(茶にする…馬鹿にするの意)などの狂歌を書き留めている。
藤助は日記に極力感情を記さず、事実の記述に徹している。藤助自身にも影響が考えられる事件の第一報に接すると、自身の持てるツテを存分に利用し積極的な情報収集を行った。
ペリー来航以外にも、藤助が積極的な情報収集を行っていた様子がうかがえる。
例えば、安政7( 1860 )年 3 月 3 日大老井伊直弼が殺害された桜田門外の変について、藤助は 6 日に速報を得た後、約 1 カ月間にわたり情報収集を行っている。現在の東京都世田谷区・狛江市の一部に入池の治める彦根藩世田谷領があり、多摩川を挟んで対岸に位置する長尾村にも藩領の動向を知ることができた。国許の彦根(滋賀県)から国家老が世田谷に到着し、兵糧が集められる様子を聞き、藤助も危機感を募らせたのかもしれない。 3 月末に彦根藩士に対し老中より仇討厳禁の通達がなされ事件が一応の収束をみると、「雪なかで井伊かもだとくびをねじ」などと狂歌を書き留める。事件の記述をくすりと笑える風刺で書き留める所に藤助の人物像が垣間見える。
藤助が積極的な情報収集をなし得たのは江戸に住まう親族が多数存在したことが一因だが、江戸の親族も有事に藤助と情報共有することを望んでいた。戊辰戦争が始め利新政府軍が江戸を目指しているという情報が入った折には、霊巌嶋、湯島の親族から長尾村への避難について相談がなされている。幕末を生きる人々は情報共有を武器に賢く生き抜いていたといえる。
明治 22 ( 1889 )年まで書き続けられた「鈴木藤助日記」は 53 冊が現存する。神奈川県立歴史博物館では令和 2 ( 2020 )年度に日記の寄贈を受け、同 5 ( 23 )年度にコレクション展「藤助さんと幕末」を開催した。
展示において日記の多面的な魅力、つまり、幕末の事件だけでなく、鈴木家の商売、近所づきあい、長尾村内の状況といった藤助の身近に起きた出来事についても紹介した。
来館者の興味は幕末史、古文書の解読、郷土の歴史、藤助が生業としていた醤油醸造業について、藤助を取り巻く家族たちの生活、と様々である。会期中、興味の所在が異なる人々が藤助日記を通じて知り合い「藤助さんのおかげね」と笑顔する場面に幾度かであった。多方面に活用し得る日記資料ならではのことかもしれない。
(てらにし・あきこ)
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