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第 27 回=完 継 承 創価学会教学部編
「法華経の行者日蓮」と署名
日蓮大聖人が 32 歳で立証宣言されてから 53 歳で身延に入られるまでの 21 年間は、迫害に次ぐ佐渡流罪中、釈尊滅後の悪世に法華経弘通に励む人に起こる迫害を「山に山をかさ(重)ね、波に波をたた(畳)み、難に難を加え、非に非をま(増)すべし」(新 72 ・全 202 )と記されており、これは御自身のことを踏まえての仰せであると拝されます。
その佐渡では特に過酷な環境下での生活を強いられ、肉体的にも、精神的にも大きな負担があったと推察されます。続く 9 年間におよぶ身延での生活で、大聖人は、長年の労苦のために健康を害されたことにより、胃腸病を患われ、しばしば重篤な症状に陥られたのです。
病を押して渾身の激励
60 歳になられた弘安 4 年( 1281 年)春から、大聖人は次第に衰弱されます。この年の 5 月に池上兄弟に送られたお手紙(「八幡宮造営事」)では次のように仰せです。
「この法門を弘通して始めて、すでに 29 年がたった。日々の問答、月々に受けた難、(伊豆と佐渡への) 2 度の流罪で、身も疲れ、心も痛んだ故でありましょうか、この 7 、 8 年の間、年ごとに衰え病気がちになっていても、大事には至りませんでしたが、今年の正月より体が衰弱してきて、すでに一生も終わるに違いない。その上、年齢もすでに 60 歳に満ちた。たとえ、十のうち一つ今年は無事、過ぎたとしても、あと 1 、 2 年をどうして過ごすことができましょうか」(新 1506 ・全 1105 、通解)
同年 12 月には、食事もほとんど取れない状態でした(新 1926 ・全 1583 、参照)。老いや病に苦しまれている様子をありのままに伝える文に、一個の人間として苦痛や衰弱に直面しながらも、悠然と達観された大聖人の御境涯が拝されます。
このように困難な中、大聖人は、翌・弘安 5 年( 1282 年) 2 月には、自ら筆を執り、当時、重病を患っていた南条時光に渾身の励ましを送られました。(「法華証明抄」)。
「すでに仏にな(成)るべしと見え候えば、天魔・外道が病をつ(付)けておど(脅)さんと心み候か。命はかぎ(限)りあることなり。すこしもおどろ(驚)くことなかれ。
また鬼神め(奴)らめ、この人をなや(悩)ますは、剣をさか(逆)さまにの(呑)むか、また大火をいだ(抱)くか、三世十方の仏の大怨敵となるか」(新 1931 ・全 1587 )
法華経の行者を守るという誓いを忘れ、時光を苦しめる鬼神〈注〉を、厳しく叱責されています。大聖人はこのお手紙に、「法華経の行者日蓮(花押)」と署名されています。このような署名を現在まで伝わる御書の中では本抄一遍しかありません。大聖人が「法華経の行者」として生き抜いてこられたことを示すと同時に、「法華経の行者」の弟子として、何ものをも恐れずに病魔と闘い、勝利するよう、後継の青年を励まされたとも拝されます。大聖人の厳しくも温かい激励を受けた時光は、以後、 50 年を生き抜くのです。
末法の闇を照らす太陽の仏法
池上宗仲邸で
弘安5年( 1282 年)、大聖人は、常陸国(現在の茨城県北部と福島県東南部)へ病気療養(湯治)に行くため、身延山をたたれます。 9 月 8 日のことと伝えられています。甲斐国(山梨県)の各地の門下宅に宿泊した後、駿河国(静岡県中央部)、相模国(神奈川県の大部分)を通り、 18 日の昼、武蔵国(東京都大田区池上とその周辺)にある池上宗仲の屋敷に入られたようです。翌日には、日興上人に代筆させ、地頭として身延の地を管理する波木井実長にお手紙(「波木井殿御報」)を送られています。
そこには、険しい道のりを、同行した実長の息子たちのおかげでに池上に着けたという報告とともに、身延で大聖人を支えた実長の志への感謝がつづられています。さらに、「病身であることゆえ、もしものことがあるかもしれない」(新 1817 ・全 1376 、通解)、「どこで死んだとしても墓は身延の沢に造らせたいと思っております」(新 1818 ・全 1376 、通解)と仰せです。迫害のため、たびたび、所を追われた大聖人を、身延の地に迎え入れた弟子に対して、心からの謝意を表されたものと拝されます。
9 月 25 日には、門下に対し、病を押して「立正安国論」を講義されたと伝えられています。最後まで立正安国の御精神を伝え遺そうとされたのです。 10 月 8 日には、日興上人を含む 6 人の「本弟子(高弟)」(六老僧)を定め、後事を託されました。
そして、弘安 5 年( 1282 年) 10 月 13 日の辰の刻(午前 8 時頃)、日蓮大聖人は、池上宗仲邸で御入滅されました。全ての人々に仏の境涯を開かせようという誓願と大慈悲を貫き、『法華経の行者』として生き抜かれた 61 歳の尊い御生涯でした。
池田先生は、次のように講義しています。
「御入滅は辰の刻、午前八時前後です。この時に桜が咲いたと伝えられる。小春日和の陽光のなかでの御入滅であられたがゆえの伝承でしょう。
日蓮仏法は『太陽の仏法』です。日輪とともに御入滅を迎えられた。
まさに、末法万年の闇を照らす御本仏にふさわしい御姿であられたと拝察する。
それとともに、最期の最後まで『戦う心』を弟子に教えられた偉大なる師匠であられた。(中略)
究極は、三世にわたって、法のため、民衆のために戦い続ける心を体現した生であり死である。その心にこそ、妙法蓮華経の永遠性が顕現しているのです」(『池田大作全集』第 33 巻)
日興上人
御入滅の翌 10 月 14 日に葬儀が営まれました。その後、御遺骨は 21 日に池上を立ち、 5 日に身延に戻られたとも伝わります。
大聖人は、「本弟子」の 6 人が当番のときに大聖人の墓所に香華(仏前に供える香と花)を供えるように遺言されていました。このご遺言に基づいて、翌・弘安 6 年( 1283 年)正月、日興上人を中心に当番が定められましたが、この当番制度は守られなかったようです。
日興上人は弘安 7 年( 1284 年) 10 月に、「身延の沢の大聖人の御墓が荒れ果てて、鹿の蹄に荒らされていることは、目も当てられないありさまです」(新 2166 ※新規収録、通解)と記されています。さらに、「『師を捨ててはいけない』という法門を立てながら、たちまちに本師(=大聖人)を捨て奉ることは、およそ世間の人々の非難に対しても、言い逃れのしようがないと思われます」(新 2167 、通解)と、五老僧(六老僧のうち日興上人を除く五人)を非難されます。一方、日興上人は、これらの文が書かれた時期、(大聖人の三回忌に当たる)までには身延に定住し、墓所の管理に当たられたようです。
弘安 8 年( 1285 年)頃、本弟子の一人である日向が身延にやってきます。喜んだ日興上人は、日向を学頭(寺の学事を統括する者)に任じられます。大聖人が期待をかけられた弟子を、大成させてあげたいという思いがあったと推察されます。
ところが、日向は大聖人の御精神に背きます。日興上人は、折に触れて日向が説く法門の誤りを指摘されましたが、日向は聞きいれませんでした(新 2170 ※新規収録、参照)。
身延の地頭である波木井実長は、日向の影響を受け、釈迦像の造立、神社への参詣、念仏塔への供養、念仏道場の造立などを行い、大聖人の教えに違背しました(新 2176 ・全 1602 、参照)。
実長は、文永 6 年( 1269 年)頃に日興上人の教化により入信したとされ、長年、信心を貫いてきたはずです。その実長が、大聖人御入滅後、ほどなくして魔に付け込まれてしまったのです。
日興上人は、実長に対しても厳しく諫められますが、実長は、「日向これを許す」(新 2176 ・全 1603 )、「我は民部阿闍梨(=日向)を師匠にしたるなり」(新 2171 ※新規収録)と言って憚りませんでした。
師匠の法門の流布が大切
日蓮仏法を受け継ぐ
大聖人は身延の地について、「地頭が法に背く時には、私も住まないであろう」(新 2166 ※新収録、通解)と遺言されていました。日興上人は、正応元年( 1288 年)の暮れ、身延を離れることを決心されます。「この身延山を立ち退くことは、面目なく、残念さは言葉で言い表せませんが、いろいろ考えてみれば、いずれの地であっても、大聖人の法門を正しく受け継いで、この世に流布していくことが一番大切です」(新 2171 ※新規収録、通解)
このように、師匠が晩年を過ごし、墓所と定められた地を去らなければならない悔しさ、自らが教化してきた実長を改心させられなかった心情をつづられると同時に、大切なことは、大聖人の仏法を伝え弘めていくことである点を強調されています。
日興上人は、南条時光に招かれ、駿河国富士上方上野郷(静岡県富士宮市内)に弘教の拠点を移されます。その後、隣接する重須郷(富士宮市北山)で弟子の訓育に当たられます。
他の弟子たちが大聖人を天台宗の僧侶と位置づけ、自らも天台宗の僧侶を名乗ったのに対し、日興上人は、大聖人を、上行菩薩の働きを果たし、法華経本門の大法を弘通された「末法の教主」と位置づけ、大聖人が表された文字曼荼羅の御本尊を信仰の対象とする方向性を明確にされました。そして、本尊を書写し、多くの門下に授与していかれます。
さらに、幕府や朝廷に対して「立正安国」の実行を働きかけるとともに、大聖人が著された著作や書簡を「御書」として大切にし、末法の聖典として拝していかれます。
また、研鑽を奨励し、行学の二道に励む多くの優れた弟子を育成されました(「富士一跡門徒存知の事」「五人所破抄」を参照)。
大聖人が確立された仏法を、そして不惜身命に貫かれた大聖人の広宣流布・立正安国の精神と行動を、日興上人がただ一人、正しく受け継がれたのです。
◇
創価学会が誓願を受け継ぐ
大聖人の御入滅後、およそ 650 年の時を経て、 1930 年(昭和 5 年) 11 月 18 日、創価学会(当時は創価教育学会)が創立されました。
創価学会は日興上人を範として、初代会長・牧口常三郎先生、第 2 代会長・戸田城聖先生、第 3 代会長・池田大作先生という三代会長のもと、御書の仰せのままに、世界広宣流布を進め、今日までに世界 192 カ国・地域に日蓮大聖人の仏法を伝え弘めてきました。
対立と分断が深まり、核兵器使用の危機や気候変動、自然海外、環境問題等の困難に直面する現代において、創価学会は、大聖人の誓願を継承し、すべての人に備わる偉大な生命を開き輝かせる人間革命運動を進めながら、幸福と平和の連帯を世界中に広げているのです。
(終わり)
池田先生の指針から
妙法こそ、究極の「生命尊厳」「万物共生」の音声であり、「こくどあんのん」「せかいへいわ」への根源の推進力であります。
大聖人が、末法万年尽未来歳を展望してくださった『立正安国』の対話の大道を、創価三代の師弟は『師子王の心』で貫いていきました。
そして今、一念三千の哲理を掲げ、元初の旭日の大生命力を発揮して、「大悪お(起)これば大善きた(来)る」(新 2145 ・全 1300 )と人類の宿命転換に挑み抜く大連帯こそ、「世界青年学会」なのであります。
不思議にも、開幕のこの時を選んで躍り出た宿縁ふ化器不二の若人たちが、必ずや、平和凱歌の希望の鐘を未来へ打ち鳴らしてくれることを、私は祈り、信じてやみません。
( 2023 年 11 月 2 日付「聖教新聞」、第 16 回本部幹部会へのメッセージ)
〖関連御書〗
「八幡宮造営事」、「上野殿母御前穂返事(大聖人の御病の事)」、「法華証明抄」、「波木井殿御報」、(以下、日興上人文書)「美作房御返事」、「原殿御返事」、「富士一跡門徒存知の事」、「五人所破抄」
〖参考〗
「池田大作全集」第 33 巻(「御書の世界〔下〕第十九章)、『勝利の経典「御書」に学ぶ』第 6 巻(『法華証明抄』講義)
【 日蓮大聖人 】 大白蓮華 2024 年 9 月号
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