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多様性を失っていった日本
明治国家はその草創期には陸軍はフランスに、海軍はイギリスに学ぶという多様性がありました。しかし軍部も、そして国家制度自体もドイツのスタイルを導入してつくり上げられていきます。
最も顕著なのが参謀本部です。ドイツはときに、国家が軍隊を持っているのではなく、軍隊が国家を持っていると言われるほど、軍隊が国家を動かしているととらえられていました。それをわざわざまねたのですから、軍隊が国家を左右して破綻に至ったドイツと同じ運命をたどるのは自明とも言えます。
私は、明治一四年の政変のころ、日本が国家モデルの目標を急速にプロセイン・ドイツへと移した時期に、悪魔の下となる菌が植え付けられたと考えています。明治一四年の政変とは、一八八一年にイギリス流の国会を開設し、憲法制定を急いだ大隈重信らを、対立する伊藤博文らが追放した事件です。
大隈はイギリスをモデルにした、国会が内閣総理大臣を出したりする、国会中心の政府を作るという考え方でしたが、伊藤博文はいちいち国会に諮っていては急速な近代化もできないし、天皇の権力、ひいては藩閥の権力も弱くなってしまうので、その声を急速に国力を強めていたポロセイン・ドイツの帝権と、それを支える軍や役人が国会の議決成して、国会の意見を参考にするだけで国政を行い得るというプロセイン・ドイツ型の国家をつくりあげていきました。
結局、この一四年の政変の後に、伊藤のプロセイン型が選ばれることになるのですが、近代日本は、その後幸せな潜伏期をしばらく過ごすものの、日露戦争の戦勝がもたらした「傲慢」という名の疲れから激しく病を発症してしまった——というのが、日本という国を診察したときの、私の所見です。
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