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「ドイツ服」の落とし穴
このことに司馬さんも気づいていたはずで、「この国のかたち」に「ドイツへの傾斜」という章があります。
「日本は、周知のように、十九世紀もなかばすぎてから、異質なヨーロッパ文明を受容した。それも植民地化によるものではなく、みずからの意志によってそのようにした」(三、50)
それが他の国々とは違うと司馬さんは指摘します。植民地になりたくないからヨーロッパ文明を受容したのであり、なかでもいちばん軍事的に強い国家の法制度を入れたということになります。
「明治維新をおこして四年目(一九八一年)に、プロセイン軍がフランス軍を破ったことが大きい。/在欧中の日本の武官は、目の前で鼎の軽重を見てしまった。/彼らはドイツ参謀部の作戦能力の卓越性と、部隊の運動の的確さを見、仏独の対比もした。その上、プロセインはこの勝利を基礎にして、連邦を解消してドイツ帝国を作った。ほんの数年間、明治維新をおこした日本人にとって、強い感情移入をもったということはいうまでもない」(同前)
大日本帝国憲法についても同様です。当時のドイツはヨーロッパでは後進的な国で、市民社会がまだできておらず、君主の権力が非常に強いものでした。それが当時の指導者・伊藤博文たちは、日本の国情によく似合っているようにいるように思えたのです。
ヨーロッパという名の憲法国家のブティック(洋服屋さん)に日本人が入ってみたようなものです。どの服が似合うだろうかと思ったら、その当時、ドイツという服を着ているのがいちばん華々しく、自分の体にも合いそうでした。ちょうどいいと、試着室でプロセイン・ドイツの服を着てみたところ、これがなかなかピッタリでした。天皇や政府と言った頭や上半身の大きな当時の日本の体つきに合っていたのです。
指導者の中には大隈重信や学者の福沢諭吉のように「イギリスの服の方がいい」と、言い張った人もいました。しかし、伊藤博文たちは「だめだ」と言って、大隈を政府から追いだし、結局、ドイツ服を買って帰りました。
そして、天皇の国家がドイツ服を着て大日本帝国を名乗ったのです。ところが、このドイツ服には落とし穴がありました。この服に合わせた軍隊ブーツ(軍靴)が、なんと一度はいたら死ぬまで踊り続ける「赤い靴」だったのです。日本は軍事国家になって踊り続け、右足の陸軍、左足の海軍という足を切り落とされるまで止まらなかったという、恐ろしい結果になった——というのが、昭和に至るこの国の歴史です。
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