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谷口雅春の才覚と手腕
1930 1893 年 11 月。出身地は兵庫県八部郡鳥原村(現・神戸市兵庫区)。地元の中学を経て早稲田大英文科予科に進んだが、本科に進んで間もなく中退し、紡績工場勤務などを経て大本教入りした。
早大予科時代には直木三十五や青野末吉、西條八十といった著名文筆家と同期で、谷口自身、文才に恵まれていたらしく、大本教でも機関誌の編集などで頭角を現した。だが、まもなく大本教から離脱し、糊口をしのぐ方法として 1929 年に個人誌『生長の家』を発刊、「病気の治療」や「人生苦の解決」などに効果があると評判を呼び、購読者を増やして一挙に軌道に乗せていく。
この経緯や背景について評論家の故・大宅壮一が 1955 年、『文藝春秋』に発表した「谷口雅春論」が興味深い。大矢らしい皮肉たっぷりの筆致で喝破しつつ、谷口という人物と生長の家の本質を端的に捉えているからである。一部を引用してみよう。
〈金をもうけるといっても、彼(引用者注・谷口雅春のこと)としては文筆によるほかはない。それのこれまでの経験からいって、たまに単行本を出すぐらいでは生活が安定しない。個人雑誌という形で好きなことを書いて、一定のファンを獲得し、これを少しずつでもふやして行くことを考えたのは、初めから手持ちのファンが若干あったからである。大本教にいたころの彼は、〝手紙布教〟という役を担当していた。これは各種の名簿によって、これはと思う人物に目星をつけ、あなたのこれまでの生涯の中で興味のある話があったら、世間に発表したいと思うから知らせてほしいという手紙を出す、少しでも地位のできた人間は、だれでも自分の過去を語りたい欲望を持っているものだから、感激してすぐ返事をよこす、するとまた折返し、彼の書いてきたものに対する感想を書いて送る——といったような方法で、文通を行っているうちに、相手をうまくおびき寄せて信者にしてしまいのである。男では軍人、女では未亡人が一番この手にかかりやすい。
谷口は大本教でこれを長くやっていて、そのコツをつかんでいるし、大本教の信者を横取りして、谷口個人のファンにしてしまったものも少なくない。これは従来属していた宗教から独立して一派を開くものがいつでも使う手である〉
〈かくて一サラリーマンのヘソクリで細々とはじめた個人雑誌「生長の家」は、次第に、〝生長〟していって、昭和九年(引用者注・ 1934 年 9 月)には、資本金二十五万円の株式会社光明思想普及会として新しく発足するころまで行ったのである〉(いずれも大宅「谷口雅春論」より。旧仮名遣いや旧漢字は現代仮名遣いと新字体に改めた)
したがって生長の家は創設からしばらくの間、みずからを宗教団体とは位置付けず、「教化団体」と称していた。会員も「信者」ではなく「誌友」。戦前の宗教団体法にもとづいて宗教団体となったのは 1940 年のこと。あくまでも株式会社として谷口がつくった光明思想普及会は雑誌『生長の家』のほか『白鳩』、『光の泉』、総合雑誌『いのち』など数種を発行し、新聞に大きな広告を載せては「誌友」を急速に増やした。
特に戦中は戦争遂行を全面賛美して教勢を拡大し、機関誌の発行部数は 80 万部を突破した。また生長の家の公称によれば、現在までの総発行部数は 1900 万部にも達するという。
つまり、機関誌や出版物を次々に発効して信者に購入させ、大儲けするという宗教的手法——昨今の新興宗教が常套手段としている手法をいち早く確立したという点において、怪人物・谷口雅春の才覚と宗教経営の手腕は大したものだったというべきなのだろう。
また、神がかり的な教祖の多い新興宗教団体のなかにあっては谷口は一応、文才のあるインテリであり、出版宗教という教団成り立ちの性格上、信者にも一定以上の知識層が多かったのも特徴といえば特徴だった。この点は、生長の家から熱心な政治活動化を輩出した遠因ともいえる。
その生長の家の教義をごく簡単にいえば「万教帰一」。すべての正しい宗教は元来、唯一の神から発したものであり、時代や地域によってさまざまな宗教として真理が唱えられてきたが、根本においては一つである——そんな理屈のもとに仏教、神道、儒教、キリスト教から心霊学、果ては米国のニューソートやクリスチャン・サイエンス、フロイトの精神分析までをごっちゃ混ぜに取り込んでいると言われていて、大宅壮一は前出の「谷口雅春論」で生長の家を「カクテル宗教」「宗教百貨店」と揶揄した。
これに対して成長の家や谷口側は「百貨店には一流の商品がならんでいて、市井の小売店よりも優良品がそろっていますように、そこには真理なる生粋の優良真理を抜粋して陳列してある」「デパートにはよい商品が集まっている。その伝でいうなら、生長の家には各宗教の真髄だけが結集されていることになる」などと主張、これも大宅に「自ら〝百貨店〟であることを認め、他の宗教を専門店、いや、〝市井の小売店〟あつかいしている」と皮肉られている。
また、なんといっても「病気の治癒」や「人生苦の解決」こそが生長の家の信者の獲得の最大手段であった。それを支えたのは、谷口の著書『生命の実相』や『甘露の法雨』などに記された次のような独特の〝理論〟である。
〈物質は畢竟「無」にしてそれ自身の性質あることなし。
これに性質を与うるものは『心』にほかならず。
『心』に健康を思えば健康を生じ、
『心』に病を思えば病を生ず〉
〈物質は無い。
われわれが病気であるというのは、われわれが病気だという観念波動を送り出している状態にすぎない。
ただあるのは『健康の観念』または『病気の観念』ばかりであります〉
その上で谷口は、
〈病的思想が無くなれば病気が無くなる。病気が無くなれば病気の治療に要する一切の費用がなくなる〉
と唱え、こう訴えるのである。
〈わが言葉を読むものは、あうぃんうぃの実相を知るが故に一切の病消滅し、師を超えて永遠に生きん〉
つまり、谷口の著書を熱心に読むだけで病が癒り、これこそが奇跡の神癒だ——そういう〝理屈〟であり、実際に病が治ったという信者が殺到して教勢は急拡大していたというのだが、本書における私の目的はこうした生長の家の教義を分析したり論評したり批判したり、あるいはそのバカバカしさを皮肉ったりするところになるのではない。
したがって生長の家の成り立ちや宗教的協議にかんするはなしはこのあたりにとどめ、戦後日本の右派活動や日本会議の「源流」にもなったという谷口の政治思想や生長の家の政治活動に話題を移そう。
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