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阪神・淡路大震災から 30 年
災害を〝わがこと〟とする想像力
1995 年1月 17 日に発生した阪神・淡路大震災から、きょうで 30 年となる。大都市を襲った直下型地震は、老朽化した建物の倒壊など甚大な被害をもたらし、多くの尊い命を奪った。一方でこの時の教訓は、災害の備えや復興の在り方を見直すきっかけとなってきた。南海トラフ地震、首都直下型地震などの大規模災害がそう遠くない将来に起こるとされている今、過去の災害の記憶をどう未来に生かすべきか——。大震災当時、京都大学防災研究所教授で、現在は震災伝承施設「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター」のセンター長を務める河田惠昭氏に聞いた。(聞き手=水呉裕一)
インタビュー
阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター
河田 惠昭(としあき)センター長
必死の救出現場でのテレビ取材
——阪神・淡路大震災が起きた日、河田センター長は NHK のニュース番組で、被災地から実況中継で災害現場の状況を伝えておられます。 30 年前の 1 月 17 日をどのように振り返りますか。
あの日、突き上げるような激しい揺れで跳び起きました。午前 5 時 46 分のことです。
私は、大阪市北区のマンション 3 階の自室で、幼い娘を挟んで妻と川の字になって寝ていました。自身に備えて家具をクローゼットの中に入れるなどの対策をしていたため、災害はほとんどありませんでした。しばらくして、 NHK 大阪放送局から午前 10 時のニュース番組に出演してほしいとの依頼があり、テレビ局に向かいました。その時はまだ被害の全容が分かっておらず、限られた情報の中で話したことを覚えています。その後、テレビクルーに同行する形で被災地に入ったんです。
最初に向かった神戸市東灘区では、倒壊した家に閉じ込められた住人を助け出そうと、多くの人が必至で屋根瓦を剝いていました。この状況を撮影してよいのかと逡巡しましたが、「災害の様子を全国に伝えてほしい」とその場の人々に言われ、取材を続けました。
東灘区役所で区長にインタビューしたときは、区長室に 30 代半ばの男性が祖母の遺体を抱えて入ってきて、「どこに安置すればよいでしょうか」と相談に来た場面に遭遇しました。区長がその場で安置所を決め、職員に指示を出していました。まさに現場は待ったなしの状況でした。
その後、兵庫・芦屋市の被災地を回っていた最中に、偶然にも近くに NHK のテレビ中継車が止まっていることが分かりました。夜の NHK 総合テレビで実況中継することが決まり、撮影した映像を放送するとともに、被災地で何が起きているかを話しました。
南海トラフ地震に備えるために
——河田センター長は震災後から毎日、被災地を回って調査をされたそうですね。どのような思いで現場を歩いたのでしょうか。
ただ無力感でいっぱいでした。一生懸命に災害研究をやって来たのに、いざというときに被害を軽減させる何の役にも立てなかったことが、悔しくて仕方がありませんでした。
被害に遭った方々に聞き取り調査したときのことを今でも思い出します。
2 階建ての一軒家に 2 世帯 5 人で暮らしていた家族からは、こんな話を伺いました。その家では、おじいちゃんとおばあちゃんが 1 階で生活し、幼稚園児の女の子は「今日は、おじいちゃんとおばあちゃんと一緒に寝る」と言って、その比に限って 1 階に下りていったそうです。翌早朝の地震で天井が落ち、その子だけが犠牲になりました。
「何で自分が死ねへんかったんやろ」——残された家族の言葉が忘れられません。このほか、被害者に話を聞くと、だれもかれもが悲惨な経験をしていまいました。
災害研究は、どこまでも実践的でなければ意味がない。私はこのことを痛いほど実感しました。
当時、地震学者での間では、阪神・淡路大震災を〝南海トラフ地震〟と位置付けていました。いずれもっと大きな地震が起きることを考えると、私はこの災害から学ばなければいけないと思いました。そして現場を歩いてみると、家も道路もめちゃくちゃですが、その壊れ方は場所によってそれぞれ異なる特徴があることが分かりました。
被害が出た原因を部分的にでも見落とすことがあってはならないとの覚悟で、その後もすべての被災地をしらみつぶしに調査して回ったんです。
手を取り合った被災地での歩み
——災害の研究のほか、被災地の復旧や震災の記憶の継承にも尽力してきた河田センター長は、現在の復興の姿をどのように見ていますか。
当時の被災状況を思い起こすと、街は想像以上の復興を果たしたと思います。
これは、特定のだれかではなく、被災地に関わるありとあらゆる人々が手を取り合い、復興を目指してきた結晶に他なりません。私がそう実感するのも、足を運んだ被災地で、復興のために尽力する人々を見てきたからです。
阪神・淡路大震災から、ちょうど 1 年後、震災の教訓を未来へ残すこと目的とした「メモリアル・コンファレス・イン神戸」というイベントを開催しました。
この会議の特徴は、参加者を地震の専門家に限らず、一般公募したことにあります。私自身、イベント実行委員会の幹事長を務めましたが、委員会に集ったのは、被災者をはじめとする市民や行政関係者、研究者、技術者、企業人など、あらゆる分野の人々が 80 人。イベント参加者は、 1000 人を超えました。
お好み焼きソースなどを製造する会社の社員が参加すると聞いた時には、〝こんな人まで参加してくれるのか〟と驚きました。
その社員は自社工場で被災した状況にあって、地域の今後の発展を考え、同じ場所で再建するべきか、それとも移転すべきかを真剣に悩んでいました。
もし私が研究だけに専念していたら、こうした人々の悩みをじかに聞くことはなかったでしょう。当事者の生の声を聴くことで初めて認識する課題もあります。
当然のことですが、被害の影響は被害に遭った地域に関わる全ての人に及びます。復興に踊無上で、その地域にタス触る人々が、立場や分野を超えてつながり、互いに知恵を出し合わないと、必ず支援の手から零れ落ちてしまう人が出てしまいます。
このイベントは 2005 年まで毎年、それぞれの立場で得た教訓や、抱える課題を共有しながら復興を目指して開催してきました。 10 年を一区切りとして「災害メモリアルアクションKOBE」と名称を変え、実行委員も次世代に引き継ぎ、今も大震災の教訓を発信し、次の災害に備える活動を続けています。
復興を果たしてきた連帯の力
命をつなぎ止める 人の優しさ
防災の習慣化が身を守る対策に
——阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター」でも、展示などを通じて震災の記憶を伝える活動を続けておられますが、教訓を未来に生かすためには、どのような視点が大切だと思いますか。
災害を〝わがこと〟と捉えることです。
阪神・淡路大震災の際に行った聞き取り調査を思い起こしても、同じ災害に遭っていながら、誰一人として同じ体験をしている人はいませんでした。住んでいる場所や置かれている状況も異なるため、いざというときに〝自分ならどうするか〟と想像し、自分で行動することが求められます。
防災において、どこまでも大切なのは自分の命は自分で守るという姿勢です。
それがどうも、今の社会には、自分の命が危険にさらされことへのリアリティーに乏しく、他人任せになってしまっている人がいるように感じます。
自分の「命」を守ることを考える上で、たとえば「健康」という言葉に置き換えてみるとどうでしょうか。自分の健康を維持するために、食事や運動、睡眠などの生活習慣に気をつけている人はとても多いと思います。防災に求められる考え方も全く一緒です。
私は仕事柄、上京することが多いのですが、新幹線に乗る時は、必ず飲み物と駅弁を買って乗車します。事故など新幹線が止まったら、簡単には運転再開しませんから。また上京した際には特に、災害時の停電に備えて、電子ロックのコインロッカーは使わないようにしています。
こうしたルールを生活主観の中で定め、地震をトレーニングしていく中で、不測の事態に陥ったときにも対応できる自分自身になっていけると考えます。
〝関連死〟を防ぐ人とのつながり
——教訓を単なる知識としてではなく「自助」の心を育む糧にすることは必要ですね。南海トラフ地震などの大規模災害が起こるといわれる今、河田センター長が懸念していることはなんでしょうか。
人と人とのつながりの希薄化してることです。他人に干渉していないことを是とする社会の風潮の中で、「共助」の働くつながりが弱まっていくことを懸念しています。いざ災害が起きた際に、いくらボランティアの人に協力してもらっても、日常的なつながりのある人との支え愛に勝る安心感はありません。多少〝お節介〟になるぐらいがちょうどいいんです。
実は、昨年 3 月に出る予定だった南海トラフ地震の被害想定の更新結果が、まだ発表されていません。避難生活の疲労やストレスなどが原因で亡くなる「災害関連死」の推定ができないからです。
昨年の元日に能登半島地震が起きましたが、 11 月に能登の関連死の数が、熊本地震の数を上回り、今も増え続けています。震度 6 弱以上の地域に住んでいた人は能登半島地震が 17 万人、熊本地震が 148 万人と、被災者の絶対数がこれだけ違うにもかかわらずです。
避難所の居住環境や医療体制など、改善できることは全部やろうと努力していますが、根本的な解決にはいてっていません。
被災すると、人は肉体的でなく、精神的にも傷つきます。見えない〝心の傷〟は簡単には治りません。単に時間が解決してくれるものでもないと思います。
この 30 年の復興を振り返る中での実感ですが、そうした〝心の傷〟を追いながらも、生き方を変えることができた人や、何かを信じることができた人、〝災害に負けてたまるか〟と前を向けた人は幸せになっているように思います。そうした人々が前を向けるようになったのも、人との関りや励まし合いがあったからにほかなりません。
目の前の一人の苦しみを〝わがこと〟として、困っている人がいれば声をかけて寄り添う。想像を絶する被害が出るであろうと災害に際して、そうした「人の優しさ」は絶対に必要です。
阪神・淡路大震災から 30 年というときに当たり、改めて一人一人が災害への備えを振り返るとともに、今の社会委の風潮を見つめつつ、未来に起こる災害の被害を想像して、自分には何ができるかを考えてもらいたいと思います。
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