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輪廻とは仏教思想に非ず
日蓮の時間論を概観してきたが、その視点に立って、これまで巷で語られていた宿業論を見てみると、まったく違った風景が見えてくるのではないか。
輪廻と業(カルマ)は、仏教の思想だと思っている人が多いが、そうではない。紀元前六、七世紀のウパニシャッド(奥義書)に登場した。それをバラモン教が、バラモン(司祭)階級を絶対的優位とするカースト制度を正当化するために利用した。バラモンと生まれるのも、シュードラ(隷民)や不可触民のチャンダーラ(旃陀羅)と生まれるのも、過去世の業の善悪によると一方的に決めつけた。
このようにインドの社会通念となっていた輪廻と業を、釈尊は倫理的な意味に読み替え、現在から未来へ向けて善い行いと努力するように強調した。
原始仏教では、人の貴賤は「生まれ」ではなく現在の「行い」によって決まると説き、「バラモンと言われる人であっても、心のなかは汚物にまみれ欺瞞にとらわれている」「チャンダーラや汚物処理人であれ、努力精進に励み、常に確固として行動する人は、最高の清らかさを得る。このような人たちこそバラモンである」などと階級を無条件に上位とする差別思想を批判した。
過去の事実は変えられないが意味は変えられる
繰り返しになるが、原始仏典では次のような時間論が強調された。
過去を追わざれ。未来を願わざれ。過ぎ去ったものは、既に捨てられた。未来は未だ到達せず。現在のことがらを各自の状況において観察し、動揺せず、それを見極めて、その境地を拡大させよ。ただ今日なすべきことをひたむきになせ。(『マッジマ・ニカーヤ』)
前世のことなど言われても誰もわかりはしない。そんな過去のことにくよくよして生きるのは愚かである。仏教は現在を重視した。現在の自分は、はるかな過去からの行い(業)の総決算としてある。けれども、その行いの内容は知る由もないし、過去にあった事実は変えようがない。しかし、現在の生き方によって過去の〝意味〟は変えられるのだ。
最近、原稿をかいていると、街角で街頭インタビューする NHK の「街録」というテレビ番組の音声が聞こえてきた。「あなたの忘れることのできない言葉は?」といった質問に、山口県の棒高校の卒業生が、野球部員の時、大きな失敗をしてずっとくよくよしていたそうだが、監督に言われた言葉が忘れられないと言う。それは、「過去にあった事実は変えることはできないが、現在の生き方によって過去の〝意味〟は変えられるのだ』と言われたことだった。「どこかで聞いたことだな」と思っていたら、妻が「これは、あなたが書いてたことじゃない!」と叫んだ。拙著『今を生きる仏教100話』(平凡社新書)の第二十五話に書いたことが、そんなところで生かされていたことを喜んだ。
極端に言えば、過去をどのように見るかは、解釈にしか過ぎない。バラモン教はカースト制度を正当化するために過去を悪用した。棒教団は、過去の先祖が地獄で苦しんでいるなどと人を不安に陥れて、その隙に付け込んで工学の寄付をさせた。仏教は「無畏施」(畏れなきことの施し)と言って人の不安を取り除き、安心させることが目的だったのだ。仏教の名を騙り、人に不安に陥れ、恫喝して布施を強要することがあるやに聞いているが、もってのほかである。
仏教は、基本的に現在から過去と未来を捉えることを説いた。忌まわしい過去を引きずって現在を生きるか、あの過去があったからこそ現在こうなれたとするかは、現在の生き方次第である。
大乗仏教とが、「自らの悪業は、悪業に苦しむ人々を救済するために自ら願って身に受けた(願兼於業)」と主張したのも過去の〝意味〟の現在における主体的転換であった。『維摩経』に登場する天女が、不退転の菩薩の境地に達していて、女性の姿をしているのは、世間で蔑ませている女性を救済するために、自ら願ってのことであるということが、主人公である在家の菩薩によって明かされる。女性として生まれたが故に女性の苦しみを理解できる。だからこそ、女性を救済できるのだという意味が込められている(植木訳『サンスクリット版 維摩経 現代語訳』、二四〇頁)。大乗仏教とは、身に受けている悪条件の〝現在〟を主体的に受け止め、他者救済の原動力に転じたのである。
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