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古代の城と明治の砲台が共存
城郭ライター 萩原さちこ
金田城
今から約 1350 年前、大和朝廷が九州北部を中心に造った古代山城の一つです。 633 年、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した日本(倭)は、同盟を結んでいた百済の貴族に指導を受けて国防のため古代山城を築いたとされます。『日本書紀』によれば、九州と朝鮮半島の間にある津島(長崎県)に金田常が築かれたのは 667 年のこと。防衛目的の防人(兵士)が置かれ、通信手段の狼煙台が設置されたと記されています。
古代山城の特徴は、土塁や石塁が谷ごとに包み込むように山の峰や斜面に巡らされていることです。北九州の古代山城では土塁が大半を占めますが、金田常の城壁はほぼ石塁。なんと、現状で総延長2.3㌔の石塁が確認されています。その壮大さもさることながら、残存ども古代山城の中でトップクラス。浅茅湾南岸の山城に築かれており、穏やかな黒瀬湾、浅茅湾と石塁との共演もたまりません。
四つ見つかっている城戸(城門跡)も見どころです。一ノ城戸や三ノ城戸では、ほぼ垂直に剃り達石塁の底部に排水溝(水門)が残り、現在でも機能しています。
全国でも類を見ない特筆点は、古代山城と明治時代の砲台の共存です。山頂付近に近づくと、突如として砲台跡や弾薬庫跡など近代の片鱗が現れます。日露戦争時、山頂吹き因だけが改変され「城山砲台」として再利用されたのです。浅茅湾の占拠を狙うロシアに対し、明治政府は湾内に幾つも砲台を造り備えました。浅茅湾に突き出す金田城も、絶対に押さえておきたい重要地だったのです。 1200 年後にべつの目的で再利用されるとは、さすがは国境の島・対馬とうならされます。
登城道が歩きやすいのも、明治時代に陸軍が整備した軍道だったからです。緩斜面が続く計画的な道筋、馬車が通るための見事な一定幅。岩盤を大胆に削り込んだ、強引ともいえるほどの完璧な道筋です。切石を敷き詰めた排水路も設けられ、対策も完璧。陸軍の緻密な仕事ぶりに、当時の情勢や技術力、価値観をうかがい知ることができます。
【 日本全国 】公明新聞 2025.1.30
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