PR
Calendar
Category
Comments
Keyword Search
天正十六年(一五八八年)。絢爛豪華な聚楽第の一室で、一人の女が涙を流していた。
彼女の名は茶々。
かつて近江の小谷城で、そして越前の北庄城で。彼女は二度、業火の中で父と母、そして義父を失っている。
その憎き仇である老人に、無理やり女にされる屈辱――。彼女は嗚咽を堪えることができなかった。
老人は、獣のような興奮を隠そうともしなかった。
「ひゃっはっはっは! ついに……ついに、おぬしを手籠めにしたぞ! 母親(市)にはまんまと逃げられたが、これでわしの執念は成就した。これをもって、わしは名実ともに織田を超えたのじゃ!」
それは茶々の誇りすら踏みにじる、非道な勝ち鬨であった。
それでも彼女は耐え続けた。こうなることを覚悟の上で、今日まで命を繋いできたのだ。
死んで誇りを守るのは容易い。だが、それでは「目的」を達せられない。
浅井の血、そして織田の矜持。それを踏みにじった男への復讐こそが、彼女を動かす唯一の熱量であった。
(復讐してあげるわ……豊臣秀吉。女にしかできない方法で、必ず……)
茶々は屈辱をその身に宿しながら、心の奥底で冷たい刃を研ぎ続けていた。
時は流れ、文禄元年(一五九二年)十月。肥前名護屋城。
玄界灘から吹き付ける夜風は、秋というのに刺すような冷たさを孕んでいた。
秀吉が朝鮮出兵の拠点として築いたこの巨城は、昼間こそ天下の威信を誇示する喧騒に包まれるが、夜の帳が下りれば、どこか仮初めの宿のような寂寥感が漂う。
その静寂のなかで、二人の男女が密通を重ねていた。
一人は、今や「淀の方」として権勢を振るう茶々。そしてもう一人は、彼女の乳母・大蔵卿局の息子であり、兄妹同然に育った大野修理亮治長であった。
天下人の目が光るこの場所での密通は、まさに命を懸けた禁忌である。しかし、淀君の瞳に迷いはなかった。
「すまぬな、修理。わらわの目的のために、おぬしの命まで……」
「淀様。あなた様と本懐を遂げて死ねるのなら、これ以上の本望はございませぬ」
「その言葉、女子として嬉しいぞ。……あの男が汚したわらわの体に、おぬしの手で新たな『命』を刻み込んでおくれ」
「承知いたしました。あの猿の汚泥を拭い去り、浅井の血を、豊臣の芯へと流し込みましょうぞ!」
二人はかつて、鶴松という子を儲けていた。しかしその命は儚く霧散した。
今度こそは――。二人の執念は、もはや鬼気迫る狂気へと昇華していた。
秀吉が夢の中で大陸制覇の野望にうなされている隣で、豊臣の根幹を根絶やしにする「真実」が、静かに形作られていった。
慶長三年(一五九八年)八月。
淀君にとっての仇敵、秀吉が今まさに臨終を迎えようとしていた。
死期を悟った秀吉は、諸大名を枕元に呼び、秀頼の行く末を涙ながらに懇願し続けた。
そして最期に、最も愛したはずの女、淀君を呼んだ。
「おお、淀よ……やはり最期はおぬしの側で逝きたい……。わしから離れんでくれ……」
淀君は冷徹な眼差しで、秀吉の脈を、その呼吸を見つめた。
もはや命の灯火が消えかけていることを見極めると、彼女は周囲を払わせ、二人きりになった。
沈黙が流れる一室で、淀君は不気味な笑みを浮かべ、これまで隠し続けてきた毒を吐き出した。
「藤吉郎よ。お主のような下賤の者が、よくも長年、わらわを辱めてくれたな」
秀吉の濁った瞳が、驚愕に見開かれる。
「木下(豊臣)の家はこれで終わりよ。秀頼は貴様の子ではないわ。最後まで間抜けな男よのう!」
「な……なん、だと……」
「信じていたのは貴様だけよ。見れば分かるではないか、秀頼のどこに貴様の汚い血が流れているというのだ。だいたい、貴様は元より『種無し』ではないか。そんなことすら気付かぬほど、貴様は阿呆であったのよ! あっはっはっは!」
最も残酷な告白が、秀吉の耳を貫いた。
病に蝕まれた心臓が、激しい怒りと動揺に耐えられるはずもなかった。
「ひ、ひぃ……ぐふっ……!」
秀吉は、絶望と憤怒に顔を歪ませたまま、喉を鳴らして絶命した。
復讐は成った。
淀君は、物言わぬ肉塊となった秀吉を、汚物を見るような目で見下した。
それから、こぼれそうになる歓喜の笑みを必死に押し殺すと、悲劇のヒロインを演じるべく、人を呼びに廊下へと駆け出すのであった。