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カテゴリ: 思想・理論
 社会学者、宮台真司氏によれば、宗教とは次のように定義されるらしい。

 前提を欠いた偶発性は予期外れの衝撃を収拾不能にし、意味あるものには意味がないという形で〈世界〉解釈を不安定にします。前提を欠いた偶発性は何らかの形で受け入れ可能なものに意味加工される必要があります。そうした機能を果たす社会的装置が宗教です。 

 この定義をもっと簡単に言い直せば、要するに治りようのない病気とか避けようのない事故などの、理由もなく自分に責任もない不幸にあった人間が、「なんかよう分からんけど、これは神様の意思なんや。自分のようなちっぽけな人間には理解できない、神様のふかーい思し召しなんや」 みたいにして、自分を納得させる装置が宗教なんだということだろう。

 氏によれば、彼自身によるこの宗教の定義は、これまでの次のような定義に含まれる難問を乗り越えたものだそうだ。

■第一は、聖俗二元図式を用いて、聖なるものや聖なる体験を宗教と呼ぶ定義。社会学者デュルケームや甥の人類学者モースが用いました。しかし聖なるものとは何かを巡ってこの定義は困難に陥ります。宗教定義の困難を聖なるものの定義の困難に移転しただけです。

■聖なるものを非日常的体験やトランス状態によって──日常的体験やシラフ状態との差異によって──定義するのが経験に即します。でもそうすると、ドラッグによるトリップや、激烈な地上戦下の変性意識状態が、聖なるものとなり、宗教に算入されてしまいます。

■第二は、究極性や最高性を宗教的なものと見做す定義です。様々な価値には前提被前提関係がありますが、前提とされるものを遡及し続ければ究極価値や最高価値が見つかるので、それを宗教と呼ぶ。先の定義が体験に即するのに対し、これは論理に即したものです。

■しかしこの定義にも、先の定義同様、日常的に宗教と呼ばないものが含まれます。ケルゼン流の概念法学で把握された憲法は定義に合致するし、俗に言う「科学万能主義」の世界観も定義に合致しますが、私たちは比喩を超えて憲法や科学を宗教と呼ぶのを躊います。

   以上、宮台氏による 「宗教システムとはなにか(上)」 より

 いきなり、結論を言うのもなんだが、私はこの人による宗教の定義を読んで、「なんだ、つまんねー」 としか思えなかった。

 宮台氏が依拠する 「社会システム論」 というのは、社会を様々な機能を担ったサブシステムの集合と見るもののようだ。この理論の当否についてはいずれ考えてみたいが、要するに氏は宗教も社会を構成する一つのシステムと捉え、その機能を上のように定義したということだろう。

 話はずいぶんとぶが、かつてソビエトではスターリンによる 「大粛清」 なるものがあった。

 この粛清は、1934年のキーロフ暗殺事件をきっかけに始まったもので、最初はスターリンに対するかつての反対派(トロツキーの支持者など)を対象にしていたが、やがてスターリン自身の忠実な部下たちにまで及んでいく(いわゆるトカゲの尻尾きりみたいな話)。

 実際、スターリンの手足となって一生懸命粛清を実行したエジョフという男も、あまりに熱心すぎて社会を混乱させたために 「スパイ活動、国家に対する反逆、スターリン暗殺計画」 などという滅茶苦茶な容疑で逮捕され、銃殺されている。


 なんで、こういう話を持ち出したのかというと、それはこういうことだ。

 「偉大なる指導者」 スターリンを神のように信奉している者が、ある日突然逮捕されシベリアに送られたとする。「革命の英雄」 スターリンを二心なく崇拝しているこの男にとって、そのような現実はまさしく晴天の霹靂であり、不条理そのものである。まるで神と悪魔の賭けに巻き込まれた旧約聖書のヨブのような話だが、はたして、彼はこの 「前提を欠いた偶発性」 にどのように対処し、どのようにして 「受け入れ可能なものに意味加工」 するだろうか。

 答えは簡単だ。

 自分には罪はない、偉大なる同志スターリンにももちろん罪はない。悪いのは、偉大な指導者の周りにいるやつらだ(君側の奸といいます)。スターリン同志は、本当のことを知らされていないのだ。きっと騙されているのだ。

 こうして、彼は自分を慰め、なんとかしてこの物語によって 「前提を欠いた偶発性」 「受け入れ可能なものに意味加工」 して心の平安を保つことで、何年にも及ぶ苦難に満ちた収容所生活を耐え忍ぶというわけだ。たとえ話のようだが、こういう話はソルジェニーツィンの 『収容所群島』 などを読めば、実際にいくつでも見つけることができるだろう。

 すると、宮台氏の定義によれば、この彼の 「スターリン崇拝」 は宗教だということになるのだろうか。

 いやいや、それこそ 「私たちは比喩を超えて憲法や科学を宗教と呼ぶのを躊います」 というのと同じような話になるだろう。


 とりあえず、宗教というものを一言で定義するとすれば、私は 「天上の世界」 についての意識だと思う。

 宮台氏の宗教についての定義は、どう見ても宗教について一番肝心なところを逃している。いや、むしろもっとも困難な問題をことさら回避しているとしか、私には思えないのだ。しかし、どこかの諺によれば、「ドアから追い出した泥棒は窓から入ってくる」 という(ちょっと違うかも)。

 もちろん、宮台氏は社会学者であって宗教学者ではない。だから、そのような問題についての解明を求めるのは、「木によりて魚を求める」 ようなことなのかもしれない。だが、少なくとも氏が批判している宗教に関する過去の定義は、「宗教とはなにか」 という難問に正面から答えようとしている。

 「機能主義的論理はなぜつまらないか」 というお題の意味は、そういうことだ。追記:
 宗教を 「聖なるもの」 とする従来の定義に対する、 「ドラッグによるトリップや、激烈な地上戦下の変性意識状態が、聖なるものとなり、宗教に算入されてしまいます」 という氏の批判も、いささか的外れだと思う。

 そもそも、ここで問題になっているのは、宗教においては、たとえば 「聖地」 であったり 「聖なる山」、「聖なる森」、「聖なる石」、お釈迦様やキリストなどが残したとされる 「聖なる遺物」 のような一定の対象が 「聖なるもの」 として社会的に共通して認識されており、宗教に関わるものは神聖なものとされているということだろう。これは社会的に共通して成立している(近代以前においては、宗教は基本的に共同体と一致している)意識の問題であり、したがって、当然に社会学の対象となりうるし、またならなければならない。

 だから、ここで聖テレジアだとかパウロだとか、あるいはスウェーデンボルグとかブレイクのような特別な人だとか、でなくとも特別に厳しい修行の結果でしか得られないようないわゆる「 神秘体験」 を持ち出してきて、そんなものは了解不能だみたいな批判を行うのは筋違いであり、ためにする批判のように思える。

  実際、ほとんどの宗教の場合、ごく普通の一般信者は特別な 「神秘体験」 などなくても、宗教や宗教にまつわる様々な事物を 「聖なるもの」 として信仰しているのだから。






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Last updated  2009.02.11 16:15:46
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