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元ペルー大統領アルベルト・フジモリ氏が国民新党から参院選挙に出馬するそうだ。へえー たしか、この方ペルーに戻ろうとして途中のチリで逮捕されたはず。今はどうなっているかというと、自宅軟禁下にあって、ペルー政府からの引き渡し要求に対し、チリの最高検事がペルーの要請に応じるよう最高裁に勧告したばかりなのだそうだ。 鳩山さんの話によれば、フジモリ氏側から民主党にも出馬の打診があったらしい。民主党に断られたフジモリ氏が国民新党に話を持ちかけたのか、それとも噂を聞いた国民新党のほうから誘いをかけたのか、さてどっちでしょう。 フジモリ氏はペルーで生れペルーで育った日系二世であるが、誕生したとき(1938年)にご両親がリマの日本大使館に出生届を提出して、日本国籍留保の意思を表明したので、その時点からペルーと日本の両方の国籍を有する二重国籍者になっていたのだそうだ。であるから、法的には立候補の資格はあるらしい。 以前、野暮用で役所に行ったとき、二重国籍者に対するほとんど恫喝めいたポスターを見て、ひえーと思ったものだが、現行の国籍法によれば、次のようになっている。(1) 昭和60年1月1日以後(改正国籍法の施行後)に重国籍となった日本国民 20歳に達する以前に重国籍となった場合 → 22歳に達するまで 20歳に達した後に重国籍となった場合 → 重国籍となった時から2年以内 なお,期限までに国籍の選択をしなかったときには,法務大臣から国籍選択の催告を受け,場合によっては日本の国籍を失うことがあります。(2) 昭和60年1月1日前(改正国籍法の施行前)から重国籍となっている日本国民 昭和60年1月1日現在20歳未満の場合 → 22歳に達するまで なお,期限までに国籍の選択をしないときは,その期限が到来した時に日本の国籍の選択の宣言をしたものとみなされます。 (以上民事局のHPから) ようするに、二重国籍を今後は基本的に認めないというのが、現在の日本政府の立場のようである。この問題については、最近民主党の岩国哲人議員が国会で国際的な潮流に反しているという指摘をしているが、まったくそのとおりだと思う。ちなみに、この国籍選択に関する国籍法改正が行われたのは1984年、中曽根内閣のときである。 グアンタナモに拘留されていたパキスタン系イギリス人の青年の証言をもとにした映画があったが(残念ながら見てません)、あの場合は、彼らがイギリス国籍を持っていたことが最後には幸いしたのだろう。 先進国というか、国際的な発言力の強い国の国籍を持っていることは、その当人にとっては利益になる。そのおかげで、おかしな国での不当な処遇から解放されたり、免れたりしたような人は、世界中にかなりいるはずだ。 もっとも、オーストラリアで麻薬トラブルに巻き込まれて、15年の刑を受け現在も服役中という人の話などを聞くと、海外で不当な目にあっている日本国民に対して、日本政府がどれだけ真摯な対応をしてくれるかも少々疑問なのではあるが。 いずれにしても、国籍が複数あることは、救済と保護を求める対象と手段もそれだけ増えるということであり、個人にとっては利益になることだ。ヨーロッパでニ重国籍を認める国が増えてきた背景には、そういう考え方があるものと思われる。 いっぽう、二重国籍を禁止しようとする国の論理は、外交問題に発展しかねないような厄介なこと、面倒なことにはなるだけ関わりたくないということなのだろう。まさか、二重国籍者は 「愛国心」 に欠けるから駄目だというような理屈では、いくらなんでもないだろう (ただし、議員の中にはそんなことをいう者がいるかもしれない)。 簡単にいえば、外国に移住したり外国人と結婚したりして、最終的に外国籍を選択した者に対しては、明日からはあなたは日本国民じゃありません、はい、さようなら、今後、あなたが外国でトラブルにあっても日本国にはいっさい係わりありませんから、そのおつもりで、ということだ。 つまり、そこで優先されているものは、個人の利益ではなく 「国益」 だということだ。日本政府はこの国籍選択条項のおかげで、今後ますます増えると予想される国際結婚や海外移住により、将来に起こるかもしれないトラブルから解放され、面倒が減った、やれやれときっと胸をなでおろしたことだろう。 袖ふれあうも他生の縁という諺もあるのに、なんというか、ずいぶん薄情なお国である。まあ、ドミニカ移民や中国残留孤児、北朝鮮に渡った日本人妻などの問題を見れば、これも今に始まったことではないけれど。 フジモリ氏の場合も、二重国籍のおかげで日本滞在を認められたのだから、二重国籍はりっぱに彼の利益になっていたわけだ。国民新党といっても、亀ちゃんと綿さんの顔ぐらいしか、思い浮かばないのだが、この問題についての党としての見解はどうなっているのだろう。 二重国籍の問題は大半の国民にとっては、関係のない話かもしれない。でも、こういう薄情なお国は、「生粋」 の日本国民に対してもやっぱり薄情なのではないかと思うのだが。 参考:複国籍容認を求める国会陳情報告平成17年12月3日付読売新聞記事「国籍選択22歳の葛藤」平成19年4月17日付北海道新聞記事 日本人の条件「踏み絵」の国籍選択
2007.06.30
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暑い、とにかく暑い。 なんでこんなに暑いのだろう。 そういえば昔、井上陽水が 「かんかん照り」 なんて歌を歌っていたっけ。 「帽子を忘れた子供が道で、直射日光にやられて死んだ」 なんて、一瞬聞いている者をどきっとさせるような言葉を歌の中にさりげなく挿入するところにも、この人の斬新な感覚というか、只者ならざるところが表れていたものだ。 で、無理やりこじつけると、たぶん、この異常な暑さは現代が 「乱世」 であることの証拠なのだろう。 堀田善衛の 『時代と人間』 という薄い本は、もともと 「NHK 人間大学」 のテキストだったそうだが、なぜかいまはスタジオジブリから出ている。しかも、解説を高橋源一郎が書いているのだから、これは面白くないはずがない。 堀田善衛がこの本でとり上げているのは、鴨長明、藤原定家、ダンテによって 『神曲』 でぼろくそに書かれたというローマ法王ボニファティウス、モンテーニュ、そしてゴヤの五人である。いずれも、日本と西洋の中世に生きた人物である。その最初の放送分のテキストで、堀田は次のように言っている。 乱世というとすぐに人は中世時代のことを思いつくようであるが、しかし、私にとって現代という時代は非常な乱世ではないかと思われたきっかけは、1945年3月10日の東京大空襲のときであった。あのときは、ご存知の方も少なからぬだろうと思うが、東京の下町を中心にして大半が焼けてしまった。そして、十万人を超す人が亡くなった。・・・ その空襲の火、家がどんどん燃える火を見ていて、私にひらめくようにして襲ってきたものがあった。それは鴨長明の 『方丈記』 の中の火事の描写である。「火の光に映じて、あまねく紅なる中に、風に堪えず、吹ききられたる炎、飛ぶがごとくして一ニ町を越えつつ移りゆく。その中の人、現し心あらむや」 『方丈記』 といえば 「ゆく川の流れはたえずして」 という書き出しで有名な、中世の無常思想が表明された代表作ということになっている。しかし、堀田が描いている長明の姿は、「無常感」 などという悟りすましたような言葉から想像されるものとはかなり違っている。 堀田によれば、晩年の長明は家も官職もいっさいを捨て、牛車に組立式の家(ようするにテントみたいなもの)を積んで移動しながら生活していたのだそうだ。つまり、いまふうに言えば、りっぱなホームレスである。 一ヶ所に定住することなく、世の中のあらゆるものを見てやろうと、やせた体に目玉だけをぎょろつかせながら、飢えた人の死体が転がる京の町中はもちろん、清盛が都を移した福原、はては鎌倉にまで出かけるという、冷徹な目を持った 「狂せる」 記録者であったのだという。 「貴族社会」 から 「武家社会」 へというような変化は後世の解釈であるが、地震や大火、飢饉、血なまぐさい戦乱があいつぐ時代の中で生きていたこの人にとっても、自分が生きている今の時代こそがまさに乱世であるという強烈な自覚があったのだろう。堀田が言うような、「なんでも見てやろう」 「見たものを記録しておこう」 という彼の行為は、たぶん、そのような自覚から生れたものなのだろう。 堀田善衛が黒い函に収められた 『ゴヤ』 4部作を刊行したのは、ちょうど学生のころだった。高校時代に 『広場の孤独』 や 『歯車』 などは読んでいたが、その彼がなんで何百年も前の人を小説にするのか、当時はまるで理解できず、書店に並んでいるのを手にとって、ちょこっと覘いてみようという気すら持たなかったものだ。 ようするに、当時の自分は、アクチュアルなものとは今のこの時代以外にあるはずはないと思い込んでいた、ただのガキであったということだ。まあ、それもしかたがないとは思うけども。 ゴヤという画家は、フランス革命とナポレオン戦争によって 「国民国家」 が誕生し、その結果として、二度の世界戦争へいきつく、国家と国民のすべてを巻き込んだ戦争の無気味な 「絶対化」 が始った時代に生きた人物である。 また、膨大な 『エセー』(文庫で6冊!)を残したモンテーニュは、ローマ教会とプロテスタント諸派、さらにその背後にある王や貴族、市民、農民らの対立を伴った苛烈な宗教戦争が、ヨーロッパ中に吹き荒れた時代に生きた人物である。 堀田善衛の関心は、そのころから乱世を生き、乱世を見つめた人に向かっていたということなのだろう。それがようやく分かったのは、筑摩から出ていた 『聖者の行進』 という、やはり日本と西洋の中世に取材した短編集を、数年前にたまたま読んだときである。 この本に寄せられた娘さんの文によれば、堀田善衛という人はどんなときも毎日新聞をすみからすみまで読み、テレビのニュースも放送終了まで飽きることなく見続けていたのだという。彼にとって、中世という乱世と現代とは、太い線で一本につながっていたのだろう。 13回分の放送テキストで構成されたこの薄い本は、次のような言葉で締めくくられている。 人間の存在は、たとえば巨大な曼荼羅の図絵のように、未来をも含む歴史によって包み込まれていると思う。 よく、「歴史は繰り返さず」 というが、このことばにはもう一つ、「歴史は繰り返さず、人これを繰り返す」 ということばがくっついていたはずである。 「歴史は繰り返さず」 というこの古い箴言は、けっして 「歴史は繰り返す」 ということを否定しているのではない。 この箴言が意味しているのは、歴史は人間の意思や行為と別個にそれ自体で繰り返すものではなく、人間の愚かな行為の結果として繰り返されるのだということである。 堀田善衛はすでに9年前に亡くなっているが、それを知ったのもつい何年か前のことであった。
2007.06.28
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安倍内閣が誕生してまだ一年も経っていないが、どうやら気息奄々の状態になりつつあるようだ。最初のメッキがだいぶはげてきたと言うべきか、それとも、上げ底がばれてきたと言うべきだろうか。 ところで、この内閣の誕生が、前首相の肝いりによることは、公然の秘密と言ってもいいだろう。自民党総裁選での安倍氏の圧勝は、表立っては当時の彼の国民的人気によるということになっているが、その人気自身も、実際には前首相による様々な引き立てと演出によるところが大きい。 当時、小泉氏は谷垣・麻生両氏も総裁候補だ、などと口先では言っていたが、彼の 「意中の人」 が安倍氏であり、谷垣・麻生両氏は最初から人数ぞろえのための刺身のつまでしかなかったことは、まわりの者やマスコミも含めて、誰もが知っていたことである。 しかも、安倍首相は郵政選挙で与党が獲得した、圧倒的多数という遺産までありがたく引き継いだのであるから、現内閣はまさに前首相によってすべてがお膳立てされた 「据え膳内閣」 だと言ってもいいくらいだろう。 ここで、いささか付け焼刃的知ったかぶり的な、岸田秀ふう精神分析を試みるなら、成立後の安倍内閣の様々な迷走は、この前首相にすべてがおんぶに抱っこという、安倍内閣の 「出生トラウマ」 にもいくらかの根拠があるのではと思う。 ようするに、安倍氏は自力で総裁・総理に選ばれたのではなく、なにもかもが前首相のお膳立てによるのであって、その後の安倍氏のすべての行動は、そのことによるコンプレックス、つまりなんとしてでも小泉氏を越えたい、小泉氏以上の 「実績」 をあげたいという観念によって、陰に陽に縛られているのではないのかということだ。 安倍内閣による衆参両院での強行採決は、少年法の改正や国民投票法から年金関連法、さらに教育基本法と教育三法など、実に多数に上る。 だが、このような相継ぐ強行採決の裏には、郵政選挙で反対派の選挙区に次々と 「刺客」 を送り込むという非情さを見せた前首相以上の「強い指導者」として、また 「抵抗勢力」 の抵抗を押し切って改革を進める 「力強い指導者」 として、自己を演出しなければならないという一種の強迫観念があるように思える。 このような相継ぐ強行採決が、国会の審議そのものをないがしろにした暴挙であることは言うまでもない。また、前首相より引き継いだ国会の絶対多数という優位を、期限切れとなる前に最大限に利用したいという政治的思惑もあるだろう。もちろん、そこで成立した様々な法律が今後どのように運用されることになるかも、非常に懸念されるところだ。 しかし、そのような暴挙を繰り返しているからといって、安倍氏はけっして「独裁者」ではないし、世論をすべて無視しているわけでもない。いや、世論の動向に対しては、ある意味、彼なりにきわめて過敏であるといってもいいだろう。 現在でこそ、数の力を背景にやりたいほうだいのように見えるが、いずれにしても選挙は避けられない。すでに参議院選が近づいているが、その結果によっては当然安倍氏の進退が問われることになる。また、いまでこそ圧倒的多数を誇っている衆議院も、いずれは選挙を行わなければならない。 亡き祖父の遺言 (?) を忠実に守る安倍氏としては、「国民投票法」 成立だけで満足しているはずはなく、当然のことながら、少なくとも憲法改正の発議が可能となる三年後か四年後あたりまでは、政権を維持したいところだろう。だからこそ、彼としてはここで退陣に追い込まれるわけにはいかないはずだ。 安倍内閣の支持率が最初に下がり始めた頃、前首相が 「目先のことに鈍感になれ。鈍感力が大事だ。支持率が上がったり下がったりするのをいちいち気にするな」 と忠告して、かの渡辺淳一大先生の 『鈍感力』 という本を薦めたという話がある。 だが 「国民とは日々の人民投票である」 というルナンの言葉をもじれば、まさに 「世論調査とは日々の人民投票」 なのである。そもそも安倍氏の総裁就任が世論調査での高い支持率を背景にしていた以上、安倍氏としては世論調査による支持率の高低に 「一喜一憂」 せざるを得ないはずである。 年金問題に対する政権と与党の対応は、実に迷走をきわめたあきれたものであるが、その迷走の裏には、彼の焦りはもちろんとして、「国民の期待」 になんとしてでも応えなければならないという、安倍氏なりの強い 「責任感」 があるのだろう。 とはいえ、一国の指導者という仕事は、主観的な 「責任感」 や 「使命感」 だけで務まるものではない。野党から攻撃され、マスコミから批判されて支持率が低下すればするほど、妙な 「責任感」 に燃え上がり、国会の圧倒的多数だけを頼りに、おかしな法律の強行採決を繰り返すという人にも困ったものだ。 だが、その底には、「強力な指導者」 としての 「断固たる態度」 を示しさえすれば、大衆の支持は得られるはずだという、かなり偏った政治思想があるようにも見受けられる。そもそも肝心なことは、「断固たる態度」 自体ではなく、「断固たる態度」 でなにをやるのかということのはずなのだが。
2007.06.26
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三笠宮家の寛仁親王がアルコール依存症であるということが、宮内庁から発表された。 この人の父親は昭和天皇の弟で、戦後大学に入りなおして歴史学を学び、古代オリエント史の研究者としても有名だった人だ。「紀元節」 の復活に反対したこともあって、「赤い宮様」 とも呼ばれ、一部の勢力からはさかんに攻撃されたこともあったそうだ。その息子である寛仁親王のほうは、「ひげの殿下」 などとも呼ばれていた。 報道によれば、同親王は昨年喉頭がんを発症し、以来入退院を繰り返していたのだそうだ。今回、発表されたアルコール依存症というのも、たぶんそのあたりのことと関係があるのではないかと思う。 ところで、ほんらい、こういう情報は患者のプライバシーとして保護されることではないのだろうか。宮内庁がどういう意図や基準でこのことを発表したのかは知らないが、いささか妙な感じがする。 彼がもし皇族などでなければ、たとえ元首相のような有力な政治家などであっても、たぶんこのような発表が行われることはなかっただろう。つまり、皇族にはいっさいのプライバシーがないということだ。 いうまでもないことだが、ひとがどのような家庭に生まれ、どのような境遇で育つかは、その人にはいっさい責任のないことだ。アルコール依存症におちいることも、その人がおかれている状況によってはしかたがないこともあるだろう。 皇族を自分たちの政治的利益のために利用する人間も愚劣だが、こういう発表を利用して 「ただの類人猿として一生を宮内庁病院で終えるのだ」 などとくだらぬ当てこすりを言っている自称 「左派」 ブロガーも愚劣というほかはない。 「左派」 を称するのは人の勝手だが、あるひとがアルコール依存症におちいったことについて、その背景も考慮せずに揶揄するだけの愚劣なことを書いている人間は、ただおのれの品性の下劣さを満天下にさらしているにすぎないことぐらいは認識すべきだろう。 終戦直後に発表された 『五勺の酒』 という短編の中で、中野重治は次のようなことを主人公に言わせている。 このことで僕は実に彼らに同情する。このことでといってきちんと限定はできぬが、要するに家庭という問題だ。つまりあそこには家庭がない。家族もない。どこまで行っても政治的表現としてほかそれがないのだ。ほんとうに気の毒だ。羞恥を失ったものとしてしか行動できぬこと、これが彼等の最大のかなしみだ。個人が絶対に個人としてありえぬ。つまり全体主義が個を純粋に犠牲にしたもっとも純粋な場合だ。・・・ 皇后は彼女の責任で笑っているのではないのだ。こっち向きなさい。そこで笑ってください。写真屋の表情までのさしずの図以外のなんでこれがあるだろう。 せめて笑いをしいるな。しいられるな。個として彼らを解放せよ。僕は共産党が、天皇で窒息している彼の個にどこまで同情するか、天皇の天皇制からの解放にどれだけ肉感的に同情と責任を持つか具体的に知りたいと思うのだ。 雅子さんの病状に関連した皇太子の発言が波紋を呼んだことも記憶に新しい。女系天皇を認めるかどうかといった議論は、秋篠宮家の男子出生でいつのまにやら雲散霧消してしまったが、昔も今も彼らは自分自身や家族のことを、自らの意思では決められないという状況には変わりない。 皇室というものに、かつてのような尊崇感情を持つ者がはたしていまどれだけいるだろうか。右翼やナショナリストは、ただ自分の勝手な政治思想のために彼らを利用しているか、すでに死にかけた 「伝統」 なるもののあるべき姿を、良くも悪くも現代の中で生きざるを得ない彼らに一方的に投影しているに過ぎない。 「有栖川宮」 夫婦を自称した詐欺師の事件もあったが、あの詐欺師カップルに騙された連中は、ただ自己の空疎な 「虚栄心」 のために 「宮家」 というブランドに目がくらんだだけだろう。いずれにしても、彼らを 「制度」 や 「虚像」 としてではなく、生きた人間として尊重している者など、身近に接している人らを除けば、皆無に等しいだろう。 「愛子さまー」 などと街頭で声をかけている者らは、まだわずか5歳にすぎないこの幼い女の子にやたらめったらとそのような嬌声をあびせ、ばちばちと写真を撮ることが、幼い女の子の心にどのような負担をかけているかなど、まったく考えていない。ようするに、そのような人々にとっては、「愛子さま」 もアザラシのたまちゃんも同じなのだ。 中野が上のようなことを書いたときから60年以上が経過している。しかし、彼らをめぐる状況はちっとも変わっていない。いや、むしろこの人たちにとっては、ますます生きにくさが増しているのではないかとすら思う。追記:この人の弟になる桂宮宜仁という人は今も独身のままだが、「結婚するのは苦しむ人を増やすことになるから私は結婚という時代錯誤なものはしない」 と述べたことがあるそうだ。この発言は、今の皇族が置かれている複雑な立場をもっともよく表しているように思う。皇太子夫妻の状況を見てもまさにそのとおりだろう。______________________________________________追記の追記:皇族は日本国民に含まれるのか、また基本的人権を有するのかという議論がある。戦前の大日本帝国憲法の場合には、「国民」ではなく「臣民」と呼ばれていたわけで、その場合皇族が「臣民」には含まれていなかったことはいうまでもない。その流れからすると、日本国憲法の「国民」には皇族は含まれないということになるのかもしれない。ただし、そのことと皇族に人権があるか否かという議論は別のことである。基本的人権といってもいろいろだが、もっとも根本的な「人間としての権利」は、国民であろうとなかろうと、その地域内に居住するすべての人間(自然人)に与えられているというのが、本来の人権思想が意味するもののはずだ。たとえ不法滞在者の場合であっても、法に反した措置や拷問などを受けない、奴隷的拘束を受けないといった人間としての最低限の権利は有している。したがって、皇族には基本的人権がないという議論は、実態はともかく、少なくとも憲法論としては間違いだろう。皇族は国民でないから人権がないというのであれば、外国人にも人権がないということになってしまう。しかし、いうまでもないことだが、そのような議論は国際的にもとうてい通用しないものだ。
2007.06.23
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「特定アジア」 という言葉がある。どうやら、この言葉は中国、韓国と北朝鮮という、一部の日本人によって 「反日的」 と言われている三国をまとめて指す言葉として、いつのまにか使われるようになっているらしい。 いうまでもないことだが、「特定」 という言葉はそれだでけでは意味をなさない。中央アジアも 「特定」 のアジアであるし、東南アジアも西アジアも 「特定」 のアジアである。そこで使われている 「特定」 という言葉がどこの地域を指しているのか、はじめに定義されていなければ、この言葉がアジアのどこを指しているのかは誰にも分からない。 にもかかわらず、この 「特定アジア」 という言葉は、中国と韓国、北朝鮮という 「特定」 の諸国を指す固有の言葉として、とりわけそのような諸国やその国民、出身者に対する嫌悪や侮蔑の感情をあらわにする人々によって使われているようだ。それは、あちこちの掲示板やブログなどで、この言葉がどのように使われているかをちょいと調べてみればすぐに分かる。 つまり、「特定アジア」 という言葉を使っている人々は、その 「特定」 という言葉が具体的にどこを指すかを、自分たちで明確に定義することなしに、暗黙の前提としてこの曖昧な言葉を使っているということだ。それは、たとえば 「差別語」 として使用が禁じられた言葉のかわりに、巧妙に作られた別の言葉を用いて行われる 「ほのめかし」 という行為と同じことのように思われる。 ようするに、そのような掲示板などで行われているのは、ネットという公開空間で行われる論理的な話し合いや批判ではなく、トイレや更衣室の片隅のような閉鎖的な場所で行われる、仲間内だけでしか通用しない隠語を使ったひそひそ話であり、そこであらわになっているのは、お前らは知らないだろうけど、おれたちは知っているのだよという、奇妙な優越感と連帯感なのだろう。 そして、そのような態度は、たとえば、直接的な表現を故意に避けた曖昧なほのめかしによるイジメを注意された者らの、おれたちはなにも 「馬鹿」 とか 「死ね」 なんて言ってないよ、だからなにも悪くないだろう、という子供じみた開き直りの態度と共通しており、明確な言葉を使うことによって自分の言葉に責任を取るということを回避する態度であるといってもいいだろう。 Wikipedia によると、この言葉は、「中国・韓国・北朝鮮を特定する様々な呼称(極東三国、極東三馬鹿、反日国家等)」 が「当該三国に対する侮蔑的表現」 であり、「このことを憂慮する人々により、本来的意味のアジアを縮小解釈する、すなわち侮蔑的表現にあたらない同義の語句の模索が図られた。その結果として、同義語として特定アジアの語句が提唱(下記の記述を参照)され、使用が拡大しつつある。」 のだそうだ。 この項目を編集したのが誰かは知らぬが、ずいぶん馬鹿なやつもいたものである。「特定アジア」 という言葉が 「極東三馬鹿」だの 「反日国家」 だのといった言葉の言い換えとして使われるとすれば、そこに直接の 「侮蔑的表現」 が含まれていなくとも、「侮蔑的意思」 は含まれており、そのような文脈で使用されることになるのは必然的なことだ。その結果、この言葉は、まさにそのような意味を持つものとして了解され、実際に流通しているのではないか。 それは、たとえば戦後の一時期に使われた 「第三国人」 という本来単なる説明的字句にすぎない言葉が、特定の対象に対して特定の意図を持って使われることにより、差別的な言葉として認識されるようになった経緯を見ても分かることだ。 サルトルは 『ユダヤ人』(岩波新書)の中でこんなことを言っている。 今、私は、反ユダヤ主義者たちの 「言葉」 をいくつか並べたが、それはみんな馬鹿げている。・・・ だが、反ユダヤ人主義者たちが、これらの返事の無意味なことにまったく気付いていないと思ってはならない。彼らは、自分たちの話が軽率で、あやふやであることはよく承知している。彼らはその話をもてあそんでいるのだ。 言葉を真面目に使わなければならないのは、言葉を信じている相手のほうで、彼らには、もてあそぶ権利があるのである。話をもてあそぶことを楽しんでさえいるのである。なぜなら、滑稽な理屈を並べることによって、話し相手の真面目な調子の信用を失墜できるから。 彼らは不誠実であることに、快感をさえ感じているのである。なぜなら、彼らにとって、問題は、正しい議論で相手を承服させることではなく、相手の気勢をくじいたり、戸惑わせたりすることだからである。 むろん、独裁政権や圧政的な支配のもとにある場合のように、ときには直接の名指しを避けた 「ほのめかし」 という方法によってしか、批判や風刺が行えないという状況もある。 しかし、そのような必要性がないにもかかわらず行われる、不誠実な「ほのめかし」 という 「言葉をもてあそぶ」 行為には、つねに隠微な悪意と陋劣な心情が潜んでいると言うべきだろう。追記 : 上の記事とは意味合いが異なるが、「特定失踪者」 という言葉もやはり日本語としては奇妙である。 聞いただけでは意味が分からぬこんな言葉よりも、「推定拉致被害者」 などの言葉のほうが、はるかに意味明瞭であり分かりやすい。 それだけでは意味の分からぬ符牒のような言葉は、運動の利益から言っても、使わぬほうがよいのではないかと思うのだが。
2007.06.20
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ヨーゼフ・ディーツゲン(1828~1888)という人の 『人間の頭脳活動の本質』(岩波文庫)という著書に、次のような一節がある。 近代のある生理学者は次のように言っている。「分別のある人なら誰でも、精神力の座を、ギリシア人のように血液の中に、中世におけるように松果腺の中に求めようとは思わない。 ―― そうではなく、われわれはみな、神経系統の中枢にこそ動物の精神作用に関する有機的中心が求められる、と確信している」 いかにもそのとおりである。書くことが手の作用であるように、思惟は脳髄の作用である。しかし、手の研究と解剖とが、書くとはなんであるか、という課題を解きえないと同じように ―― 脳髄の生理学的研究は、思惟とはなんであるか、という問題に近づくことはできない。われわれは解剖刀でもって精神を殺すことはできるが、発見することはできない。『人間の頭脳活動の本質』P.28 ディーツゲンという人は、なめし皮工場を経営する一家に生まれ、高等教育はいっさい受けず、働きながら独学で哲学や経済学を学び研究した人である。 彼の業績は、エンゲルスにより 「この唯物論的弁証法は、…… われわれとは独立に、いなヘーゲルからさえも独立に、ひとりのドイツの労働者ヨゼフ・ディーツゲンによっても発見された」(フォイエルバッハ論)と賞賛されている。 また、マルクスはクーゲルマンという友人にあてた手紙の中で、「彼は 『思惟能力』 にかんする草稿の断片をおくってきたことがある。それは多少の混乱やおびただしい重複があるにしても、すぐれた点がたくさんあり、一労働者の独力の所産としては、驚嘆に値するものさえある」 と書いている。 思惟はいうまでもなく脳という器官の作用である。しかし、その内容は単なる脳の生理的作用には還元されない。あたりまえのことだが、胃や腸のような消化器官が胃液や腸液を分泌するように、大脳は 「思惟」 や 「認識」 なるものを分泌しているわけではない。 エンゲルスはディーツゲンについて、「『ドイツ人』労働者でなければこのような頭脳の産物を生むことはできない」 と言ったが、これは単なるお国自慢というよりも、卑俗な生理学的唯物論でしかないフランス唯物論と、カントやヘーゲルの遺産を受け継いだドイツの唯物論の差異を指摘したものだろう。 ところで、関曠野は 『歴史の学び方について』 の中で、ことあるごとに 「コントとマルクスは」 というように二人を一緒くたにして論じている。 彼はその中で、たとえばコントの 「社会学のような科学では、事象の根本的関係の直接研究によってではなく、人間に関する生物学的理論があらかじめ提供してくれる不可欠の基礎に立って、事象の根本的関係をア・プリオリに考え得るという特徴がある」 (社会静学と社会動学)という言葉を引用している。 だが、そのような直接研究によらないア・プリオリな方法(先験的論理主義)こそ、マルクスによるヘーゲルの法哲学と論理学への批判の根幹ではなかっただろうか。それは、マルクスを一度でもまともに読んだことがある者なら、誰でも知っている常識である。 そもそもコントが言うように、「事象の根本的関係の直接研究」 によらずに、「事象の根本的関係をア・プリオリに考え得る」 というのであれば、マルクスはなぜ十数年にもわたって大英図書館に通いつめ、膨大な統計資料や報告書の類にまで目をとおし、さらにはロシアやインドの共同体についてへと、完成するあてもない際限のない研究を終生続けなければならなかったのだろうか。 関によれば、「ベンサムもコントもマルクスも、まるで申し合わせたように労働者階級を改革者としての自分の潜在的同盟者と考えたが、それはなまじの余計な教養を身につけた他の階級よりは労働者階級のほうがたんなる生物に近く、それだけ彼らの理論に基づく社会の改革に適応しやすいという理由による」 のだそうだ。 これは、もうあきれてものも言えない。 ならば、なぜベンサムもコントもマルクスも、都市労働者よりももっと 「無知蒙昧」 で 「たんなる生物」 に近い農民を自分たちの 「潜在的同盟者」 に選ばなかったのだろうか。革命後のレーニンとトロツキーをもっとも苦しめたのは、ロシアにおいてはそのような 「なまじの余計な教養」 など身につけていない 「たんなる生物」 に近い農民が圧倒的多数を占めていたという事実ではなかったのか。 レーニンは、「量は少なくとも質の良いものを」 という彼が残した最後の論文で、こんなことを書いている。 この機構(革命後の国家機構のこと)を作り出すために、わが国にはどのような要素があるだろうか。たった二つである。第一に社会主義のための闘争に熱中している労働者である。この要素は、十分に啓蒙されていない。・・・ 第二には、知識、啓蒙、教育という要素であるが、これは他のすべての国家に比べて、わが国には、おかしいほど少ない。 関は、なんの根拠もなくただ自分の偏見を語っているにすぎない。ありふれた定型的批判を語る前に、歴史の中で避けがたく生じる困難について少しは想像してみたほうがよいだろう。まったく、カニは自分の甲羅に似せて穴を掘るとはよく言ったものである。 言うまでもないことだが、どんな天才的人物にでも、一人でできることには限りがある。人間にはだれもが限界があり、誤りを犯す可能性を持っている。ましてや、100年以上前に生きていた人物の思想や理論が、現代にそのままの形では通用しえないことも明らかである。 だが、マルクスを乗り越えるというならば、まずマルクスがなにを考え、なにを言ったかを正確に理解することが最低限必要なことだ。『歴史の学び方について』 における関曠野のマルクス批判は、とうていその水準に達していない。 おやおや、なんだか途中で話がずれてしまった。
2007.06.19
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関曠野という人がいる。以前から名前だけは知っていたのだが、きちんと著書を読んだことはなかった。で、とりあえず 『歴史の学び方について』 という薄い本を読んでみたのだが、これはなんというか、問題意識は分からぬではないにしても・・・・・・ため息が出た。 関のマルクス批判は、マルクスの思想は 「経済決定論」 であるということであり、さらにつきつめれば 「生物的決定論」 だということになるようだ。 たとえば、彼はこんなことを書いている。 類としての人間の物質代謝から説き起こして生産力の発展を歴史の唯一の推進力とするマルクスの理論の極度に生物学的な性格については、今さら指摘するまでもない。・・・ コントとマルクスによれば、19世紀の政治的混乱は、人間があくまで社会的存在であることを科学の法則として認識し、この法則によって社会を再組織すれば完全に克服される。・・・ こうして生物学的政治理論は、人間を生物に還元することによって、文明人のディレンマそのものを抹殺する。生物としての人間には集団形成の本能があるとし、ゆえに政治的秩序の問題はア・プリオリに解決されていると主張するコントとマルクスの理論は、本質的に全体主義的な教説である。 『歴史の学び方について』P.144 および P.147 これはごく薄い本であるから詳しい論証がされていないのはしかたないとしても、フランス啓蒙思想とその生理学的唯物論の流れをくむコントと、ドイツ観念論からフォイエルバッハの感覚的唯物論にいたる流れの延長にあるマルクスを同列に並べるとは、思想史の常識を無視したずいぶん無茶な話である。 とりあえず、まず指摘すれば、マルクスが指摘した人間と自然の物質代謝とは、単純な生物的欲求のレベルの話ではない。たしかに人間はなにも食わなければ死んでしまうわけだから、生物としての欲求が根底にあることは 「今さら指摘するまでもない。」 しかし、人間の欲求はたとえ食欲のような生理的欲求に根ざす場合であっても、極度の飢餓状態にでもない限り、単なる生物的欲求に還元されはしない。もし、人間が牛や馬のように、そのへんにある草などを取って食べるだけで満足できるのであれば、絢爛豪華な北京料理やフランス料理など生れているはずもない (食べたことないけど)。いや、そもそも、生産力の発達も文明の発展もありえないことだ。 マルクスがいう生産力というものは、けっして自動的に発展していく魔法のようなものではない。その根底にあるのは、人間の人間としての欲求である。だから唯物史観の基底をなしているのは、単なる生物としての人間ではなく、人間としての人間、言い換えればすでに人間となっている人間なのだ。 たとえば 『経哲草稿』 には、次のような文がある。 人間的本質が対象的に展開された富をとおしてはじめて、主体的人間的な感性の富、音楽的な耳や形態の美に対する目や、ようするに人間的享受を可能とするもろもろの感覚、すなわち人間的な本質的諸力として確証されるもろもろの感覚が、はじめて発達し、はじめて産出されるのである。 これが、どうして 「人間を生物に還元する生物学的決定論」 などということになるのだろう。関の 「マルクス批判」 は的外れどころか、まったくあさっての方を向いている。初期マルクスの草稿の存在が知られていなかった時代ならばともかく、今の時代にこんなレベルでは全然話にならない。 そもそも、人間は社会的存在であるというマルクスの規定での 「社会」 とは、高崎山のサルの群れのような、個体が直接に結合した実体的集団のことではない。いささか面倒だが、『経哲草稿』 からもう一箇所引用したい。 社会的活動と社会的享受はけっして、もっぱらただ、ある直接的に共同的な活動と直接に共同的な享受という形態でのみ存在しているわけではない。・・・ けれども、私が科学的等々の活動をしているときでも、この活動は私がめったに他の人々との直接的共同においては遂行しえないものだが、それでも私は人間として活動しているがゆえに社会的である。 私の活動の材料が私にとって社会的生産物として与えられている ―― 思想家の活動が行われる言語でさえそうであるように ―― ばかりでなく、私自身の現存在が社会的活動なのである。 人はたとえ社会への参加をすべて拒んで自分の部屋や家の中に引きこもっていても、他人が制作したテレビ番組を見、CDを聞き、ゲームやネットにふけり、コンビにだとかで売っている食品に依存している限り、やはり 「社会的存在」 なのである。マルクスが言っているのはそういう意味である。 であるから、このマルクスの規定は、個人を抹殺する集団主義や全体主義とはなんの関係もありゃしないのである。マルクスは人間は社会的存在だから、すべての活動を直接に共同化=集団化すべしなどとは一言も言っていないのだ (もっとも、そのようなお馬鹿を言っていた 「マルクス主義者」 がいたこと自体は否定しないが)。 ところで、関の処女作である 『プラトンと資本主義』 にはこんな一節がある。 それでも、経済の面から見るならば、この時代はギリシアにおける鉄器時代の始まりを告げた。オリエントから伝来した鉄器の技術は徐々に普及し、ギリシア人の日常生活を変えていった。 青銅に比べて安価で頑丈かつ大量生産に適するこの新しい金属が生み出した最初の経済的効果は、農具の改良と普及であり、農業生産性の向上であった。 この農業の発展はおそらく土地の開墾だけでなく、麦のような滋養に富む穀類の生産をも促した。強化された農業の地盤はやがて前八世紀以降のポリスの形成を可能にすることになる。 (同書 P.12) 執筆の順序がいくら逆とはいえ、マルクスを 「経済決定論」 だなどとさんざん批判しておいて、これはないだろう。これは、どう見てもマルクスの唯物史観のパクリではないか。
2007.06.16
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最近、なぜだかどういうわけだか、ユダヤ人問題に関する新書を三冊続けて読んだ。一冊目は、内田樹氏の 『私家版・ユダヤ文化論』、それからあとの二冊はずっと古いサルトルの 『ユダヤ人』(1956) と、ドイッチャーの 『非ユダヤ的ユダヤ人』(1970) である。もっともあとの二冊は、書棚の奥で十年以上も眠っていたのをたたき起こして読みなおしたのであるが。 アイザック・ドイッチャーという人は、『武装せる予言者』 に始まるトロツキー三部作やスターリンの評伝などを著した、ポーランド生まれのユダヤ系マルクス主義者である。また、膨大なソビエト史研究を残した E. H. カーとの交友でも知られている。 かれが亡くなってから、すでに40年たつ。スターリンの統治に対しては否定的であっても、そのもとでの近代化は評価し、市民の成長による社会主義の再生という歴史の弁証法に期待するというのが、かれの基本的な立場であったと思うが、その後の歴史の展開は、かれの予測をはるかに越えてしまった。 ドイッチャーが生れた当時のポーランド = リトアニア地域は、帝政ロシアやドイツ帝国などによって分割支配され、多数のユダヤ人が暮らしていた地域であった。ここからは、ローザ・ルクセンブルクと彼女の終生の盟友であったヨギヘス、スターリンに粛清されたカール・ラデックなど、多くのユダヤ系革命家が輩出している。 ユダヤ人ではないが、悪名高きソビエトのチェーカーとGPU(KGBの前身)の初代議長・長官であったジェルジンスキーもポーランド出身であるし、フランスに現象学と実存思想を紹介したレヴィナスも、この地域出身のユダヤ人である。ドイッチャーは1907年生まれ、レヴィナスは1906年生れと同世代であり、どちらもアウシュヴィッツで家族を失うという経験をするなど共通点も多い。 『非ユダヤ的ユダヤ人』(岩波新書)は、そのドイッチャーのユダヤ人問題とイスラエルに関する戦後の発言を、彼の妻がその死後に集めて出版したものだが、そこでの彼の立場には、ナチによるポグロムを経たせいもあってか、いささか複雑で微妙なものがある。 同じ岩波新書に収められたサルトルの 『ユダヤ人』 が、東欧とはまったく状況の異なるフランスのユダヤ人問題を、あくまで理論的に扱っており、その分著述もすっきり明快であるのに比べて、こちらの書には、問題の当事者である筆者自身の記憶と体験が、その成員の多くとともに、地上から永遠に失われた社会への深い哀惜の念を伴ってこめられている。 たとえば、こんなふうに 今でも私は、夕刻、年齢を問わず、労働者や職人や貧しい人々が大勢集まって詩や脚本の朗読に傾聴している光景を思い出す。…… 世界中探してみても、高度に文明の発展したこの世界のどこに、あの頃のワルシャワや、ポーランドからリトアニアにまたがる地方のユダヤ系労働者ほどの喜びをもって、自分たちの作家や詩人の言葉に耳をかたむける民族があっただろうか。 イーディッシュ語は雄渾な力にあふれ、つねに新しい豊かなものを宿していた。しかしそれは間もなく、一夜にして死語と化す運命にあったのである。ユダヤ系作家、詩人は労働運動の中に沈潜し、その運動自体はアトランティス号のように沈没することとなるのである。 ドイッチャーは、もともとトロツキー派としてポーランド共産党を追放された過去を持っており、その立場から、戦後にパレスチナ人を追い出して建国されたイスラエルに対しては、時代遅れのナショナリズムを掲げた「民族国家」にすぎないという姿勢を取っている。また、周囲のアラブ民族との対立を暴力で解決しようとする、その根強い傾向にも批判的である。だが、その一方で、イスラエル建国に一定の必然性があったことも承認している。 それは、いうまでもなく20世紀の半ばに起きたナチの暴力によって、西欧の理性と文明に対するかれの信頼が揺らいだ結果だろう。パレスチナへの 「帰還」 を主張するシオニズムに反対してヨーロッパに留まったユダヤ人の多くが、結果的にナチによって命を奪われたことを思えば、そこにある種の悔恨を読み取ることも不可能ではないだろう。 当然のことながら、マルクス主義者であるドイッチャーは、古いユダヤ教の因習には批判的である。しかし、この本を編集した彼の妻によれば、彼はラビの家系に生まれ、「偉大なタルムード学者」 になることを周囲から期待されるほどの秀才であり、実際に、わずか13歳でユダヤ教の教師であるラビになったのだそうだ。さすが、栴檀は双葉よりかんばしというべきか。 とはいえ、かれは自らがユダヤ人であり、その知的伝統に連なる一人であることを否定していない。この書の題名にもなっている講演の中で、かれは子供の頃にユダヤ教正典の注解書で知ったという、ある正統派のラビとその師である異端者をめぐる奇妙な逸話を紹介したあと、こんなことを言っている。 かれら (スピノザ、ハイネ、マルクス、ローザ・ルクセンブルク、トロツキー、フロイトら) の中には、何か共通のものが宿っていたのであろうか。かれらがかくも人の思想を動かしたのは、かれらがとくに 「ユダヤ的天才」 だったからであろうか。 私は、ある民族にその民族のみの天分が宿っているなどということは信じない。それにもかかわらず、ある点で彼らは非常にユダヤ的であると思う。かれらの中には、ユダヤ人の生活とユダヤ人的知性の本質的なるものが宿っている。 「前提からすれば」 かれらは例外である。なぜなら、この人々はすべてユダヤ人でありながら、異なる文明、宗教、民族文化等の境界線上に立っているからである。 またかれらは、各時代の転期の境界線上に生まれ育っている。かれらの思想がその成熟をみたのは、非常に異質的な文化がたがいに影響しあい養いあう地域においてであった。かれらはそれぞれの国で、その周辺や片隅に空間を求めてそこに生活していた。 みんな社会の中にあると同時に、よそ者であった。みんな社会に属していながら、その社会には受け入れられていない。かれらにその社会を越え、民族を越え、時代や世代を越えた高い思想をもち、広い新しい地平にその精神を飛躍せしめ、またはるかの未来にまで考えをすすめることを可能ならしめたのは、まさにこの点であった。『非ユダヤ的ユダヤ人』 P.35 伝統というものは、たんに黴の生えた因習や道徳を墨守することによって引き継がれるものではない。 伝統に対する異端者であり反逆者であることによって、引き継がれていく伝統というものもあるというべきなのだろう。
2007.06.13
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六月だっ! などと、いまごろ言うのもなんであるが、『六月の子守唄』 という歌が昔はやったのを思い出した。 たしか福岡出身の ウィッシュ という女性デュオで、「きょうお、お葬式をします。私の愛が死んだのです。同情も今はいりません。ただ見守っていてください」(ご案内)などという、ちょっと暗めの歌もあった。 調べてみたら、西南出身の伊豆丸さんという姉妹が歌っていたのだそうだ。ということは、チューリップの財津和夫の後輩ということになる。ただし、この「六月の子守唄」はウィッシュのオリジナルではないそうだ。 この歌、結構多くの人の記憶に残っているようで、あちらこちらのブログとかサイトで取り上げられていた。 星がひとつ空から落ちてきた 六月の子守唄をうたう母のもとへ さわるとすぐにこわれそう ガラスのようなおまえだから 風がわるさせぬように 悪魔がさらっていかぬよう そしておまえが目をさましたならば 一番はじめに私が見えるよう 作詞 あだちあかね 作曲 野田幸嗣
2007.06.12
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忘れていたというほどのことでもないのだが、先日あちらこちらのブログを覘いていたら、詩人の清岡卓行が亡くなってちょうど一年が経っていることに気が付いた。 この人の名前を知ったのは、たしか高校の図書館で 『アカシヤの大連』 を借りて読んだのが最初だったように思う。その後、原口統三の 『二十歳のエチュード』 で彼と原口との交友について知ったように記憶している。 彼が 『アカシヤの大連』 で芥川賞を受賞したのは48歳のときだ。すでに詩人としては高い評価を得ていたのだが、当時、詩人の受賞ということで話題になっていたような覚えがある。 ただし、よく考えると、当時はこちらはまだ中学生だったのだから、あとで知ったこととごっちゃになっているのかもしれない。正直に言うと、中学の頃の記憶と高校の記憶が、友人の名前だとかなんだとか、いろいろごちゃまぜになっていてはっきりしないのである。 原口統三の 『二十歳のエチュード』 には、清岡の名前がなんども出てくる。たとえば、次のように 僕は、なんの躊躇もなく清岡さんに尊敬を捧げて交われた日々を懐かしいと思う。沈黙した清岡さんに対して僕は信頼していたのだ。彼が何を言おうと、僕はけっして怒らなかった。 「ランボオこそは君。ぴんからきりまで男の中の男ですよ」この清岡さんの言葉が胸を刺した。そして、それ以来、僕の誠実さの唯一の尺度となった。 「私は、『地獄の季節』 に驚きはしない。私が驚くのはあのランボオですら、一冊の本を書かずにおれなかった、という事実なのだ」 清岡さんのノートはこうだっただろうか。 原口統三『二十歳のエチュード』 より 清岡と原口はともに戦前の日本の植民地であった大連で育ち、先に一高から東大へと進んだ清岡のあとを追うようにして原口も一高に入学する。原口の遺稿である 『二十歳のエチュード』 からは、敗色が濃厚になっていく戦争の中で、詩と芸術という仮構の世界にのめりこんでいた二人の若者の姿がうかがえる。 一時大連に帰郷していた原口は敗戦直前に東京に帰り、清岡のほうはそのまま大連に留まることになる。そして、清岡と別れた原口は、その翌年に逗子の海に入って自ら命を絶ってしまう。 今、手元にある古い講談社文庫版の 『アカシヤの大連』 の解説(高橋英夫)によれば、 「戦後間もない一時期に文学的青春を過ごした世代にとっては、『二十歳のエチュード』 という奇妙に透明な青春の遺書を通じて、清岡卓行という名前は原口統三やその友人橋本一明の名とともに、いや彼ら以上に、ほとんど神話的な名前として響いてきたものであった」 のだそうだ。 大連に残された清岡はといえば、前掲書に書かれた自筆年譜に、「敗戦。かつての日本の植民地における戦後の明るい混乱の中で、数年来の<憂鬱の哲学> を忘れる」 と書いている。 その一方で、おそらくは彼の <憂鬱の哲学> の影響を強く受けていただろう原口は、翌年に逗子の海に入って自ら命を絶ってしまう。たぶん、そこには、アルジェリア育ちのカミュと同じように、敗戦によって帰るべき故郷を失ったことも、強く影響していたのだろう。たとえば、原口はこんなことを書いている。 僕が戦争を嫌うのは、戦争は 「正義」 の仲間だからだ。 日本では年じゅう黴が生える。この国の人々の手は汗ばんでいる。 自叙伝 ―― 気まぐれな植民地育ちの夢想児は、日本の土を踏んで、祖国の鈍重な阿呆面に、失望し、退屈したあげく、苦り切って一人お芝居をした。 清岡卓行という人は、年少の友人が残した一冊のノートにより、自分のあずかり知らぬところで 「神話的人物」 となるという奇妙な現実から、戦後の生活をスタートさせたのだ。 氷りつくように白い裸像が ぼくの夢に吊るされていた その形を刻んだ蚤の跡が ぼくの夢の風に吹かれていた 悲しみにあふれたぼくの目に その顔は見覚えがあった ああ きみに肉体があるとはふしぎだ 清岡卓行 「石膏」 より
2007.06.10
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対馬斉という人が書いた 『人間であるという運命』(作品社) という本がある。 といっても、たぶんこの人の名前とこの本の名前を聞いて、ああ、あの人のあの本か、とぴんとくる人は少ないと思う。なにしろ、この人が生前に出した本はこの一冊だけで、しかもこの本を出した直後に亡くなっているのだから。 この本が出版されたのは2000年のことであるが、この人がデビューしたのはずいぶん前のことだ。手元にあるこの本の帯には、「柄谷行人氏 推薦!」 という文字が躍っているが、実は柄谷と対馬という人には海よりもふかーい因縁があるのである。 というのは、柄谷と対馬斉とは、1966年と67年の 『東大新聞』 の五月祭賞に、連続してともに佳作に入選した経歴を持っているからなのだが、柄谷は前掲書の帯の推薦文で 「私は、この年長の友 (対馬のほうが11歳上である) から、マルクスの存在論的読み方、そして、『学位論文』 の読み方に関して、深い影響を受けた。それは今も、私の中に活きている」 と書いている。 「マルクスの存在思想」 という副題がつけられた、この本の内容を簡単にまとめるとすれば、物質的な世界や客観的な関係によって制約された存在としての人間、ということになるだろう。むろん、このような表現自体は、とくに新しいものではない。しかし、そこにこめられた対馬の思想には、硬直化しすでに無効を宣言された多くのマルクス理解に再考を迫る独自のものがある。 対馬は、「およそ革命には受動的な要素が、物質的な基礎が必要なのである」(ヘーゲル法哲学批判序説) とか、「思想が全社会を革命化すると人々はいう。しかしこれはただ、旧社会の内部に新しい社会の要素がすでに形成されており、旧社会の生活諸関係の崩壊と歩調を合わせて旧社会の思想の崩壊が行われているということを、いいあらわしているにすぎない」(共産党宣言) といった文を引用して、次のように言う。 人間の現実の生活には、生き方には、思い通りにならないなにかがあり、その意識ではどうしようもない 「なにものか」 が、案外人間を現実に動かしているのではないかという、それは思い通りにならない意思行為への懐疑である。…… 普通このような 「人間であるという運命」 へのこだわり、目的意識的な活動への懐疑、それは後代のマルクス主義にあってはもとより、マルクスその人の思想としても、それこそ縁もゆかりもないもののように思われている。 だがマルクスの文面にいたるところにみられる 「物質的な」 ものへのこだわり、「思考から区別された存在、精神の自発性から区別された自然のエネルギー、悟性から区別された人間的本質力、能動から区別された受動」 へのこだわり、それらは、いわゆる運命論、宿命論としてはたして一概に無視しうるであろうか。 「人間であるという運命」 P10~11 対馬はこのような立場から、エンゲルスの 『空想から科学へ』 に始まり、レーニン、スターリンから毛沢東の 『実践論』 へと受け継がれ純化されてきた、「目的意識的実践」 とか 「理論と実践の統一」 などというおなじみの論理に対して根底的な批判を提起している。 たとえば、毛沢東は 『実践論』 の中で、「マルクス主義の哲学が非常に重要に考える問題は、客観的世界の法則性を理解することによって世界を解釈することができるということではなく、この客観的法則性の認識によって能動的に世界を改造することである」 と書いている。 このような人間の実践の 「能動性」 を極度に主張する、ひどく楽観的な論理に対して対馬が対置しているのは、「人間は自然的な肉体的な感性的な対象的な存在として、動物や植物がそうであるように、一つの受苦している、制約を受け制限されている存在である」 という 『経哲草稿』 の中のマルクスの言葉である。 マルクスによれば、人間とはつねになんらかの飢えをかかえ、客観的な対象や関係によって制約されている存在なのであり、人間の主体的能動性とは、そのような制約によってこそ生まれるのである。 人間が自己の生存にとって自然や他者といった対象を必要とする存在であるということは、人間がそのような欲求、すなわち欠乏をつねに抱えているということと同義である。いわゆる史的唯物論の根底にあるのは、そのような人間の被制約性についての理解なのだ。 であれば、本来の実践とは、そのような対象、すなわち具体的な歴史的世界による制約のもとで必然的に生まれる人間の行為を意味するものであり、そのような必然性によって迫られた行為としての 「実践」 に比べれば、理論的な正しさと主体的な決意にのみ基づく 「実践」 など、歴史においてはなにほどの役割もないというべきだろう。 実際、ロシア革命にしても中国革命にしても、革命の勃発は、なによりもその当時のそれぞれの社会が置かれていた具体的な状況、すなわち一方においてはツアーリズムの腐敗、また一方においては日本を始めとする列強諸国の侵略という状況の結果なのであって、イデオロギーや理論、ましてやレーニンや毛沢東らが果たした役割など、それに比べればはるかに限られたものにすぎない。 この本に収められ、その題名ともなっている 「人間であるという運命」 という論文を、対馬は次のような言葉で結んでいる。 マルクスのいう階級闘争の歴史、その歴史をつくりあげた者こそ、おそらく、生きるために、その反逆が敗北をもたらそうがもたらすまいが、生きる必然として社会的に反逆へと追い込まれた、実践の宿命を負った無数の人々ではなかっただろうか。 この人々へのかかわりをこそ思想としている者にとって、その実践は、生涯その人を離れぬ宿命である。すでに述べたように経済学批判のマルクスの思想が、なによりもそれを直裁に示している。
2007.06.09
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政権与党というものは、国家機構の中枢を握っているわけだから、実質的には国家において最も強大な権力を握っている組織といってもいいくらいだろう。しかもそれが、長期にわたって権力を独占してきたのだとすれば、その力は非常に強大なものだと言ってもいいだろう。 そのような強大な権力を持った組織が、たとえば教職員組合やその他の官公労のような政治団体ですらない特定の民間組織、あるいは社会保険庁のような、政府自身が責任を持って統括すべき役所やその職員などを、「あきれた …… の実態」 などと、品格もなければ美しくもない陋劣な言葉や描写でもって攻撃するというのは、いったいどういうことなのだろうか。 こういった、特定の者を対象にしたデマゴギーによってことさらに対立をあおったり、社会の不満をその本当の原因からそらすために、一部の者をいけにえにして、そこへ不満を集中させたりというやり方は、明らかにかつてヒトラーが用いた手法と同じである。 世耕某とかいう広報担当の内閣補佐官は、一部でゲッベルスというあだ名で呼ばれているそうだが、彼の愛読書はきっとデマゴギーの効用を説いた 『わが闘争』 なのだろう。 このような責任感覚のなさや破廉恥ぶり、節操のなさも、まさに無頼者集団に特有のもののように思える。政権を攻撃する野党ならばともかく、万年政権与党自身が自ら責任を負うべき役所や公務員を攻撃するということは、誰が見てもたこが自分の足を食っているようなことでしかないだろう。 しかし、それにしても 「なぜ、このような事態になったのでしょうか・・・その責任は!」 などと、年金問題の責任を、わずか1年大臣を務めたに過ぎない菅直人に押し付けるような発言を首相自らが嬉々としてやっているところを見ると、現内閣はその主義主張がどうだこうだと言う以前に、精神年齢があまりに低すぎなのではないかと思う。 「教育再生会議」 の面々も、このようなお馬鹿な首相のもとにいて恥ずかしくないのだろうか。ジャイアンだってブタゴリラだって、こんな愚かな言い訳はしないだろう。それとも、ヤンキー先生は自分の生徒がこんな言い訳をしても、問題なしと認めるのだろうか。 実際、下のような宣伝は、すでに自爆ものでしかないと思うのだが。 自民党 政策パンフレット ・ あなたの年金が消えたわけではありません!! ・ あきれた教育現場の実態 ・ あきれた社会保険庁の実態 ・ あきれた官公労の実態 かりに、上のパンフレットに書いてあるようなことが、彼らの言うとおりに事実であるとすれば、その責任は長い間政権を担ってきた与党自身にあると考えるのが常識人の考えというものだろう。いったいどこの会社に、「あきれたわが社の実態」 などと言って、世間に大々的に宣伝するような馬鹿な社長がいるだろうか。 そんなことを言えば、世間の嘲笑を浴びるに決まっているだろう。まずは、社長の首をすげかえる必要があると考えるのが一般的な常識というものだ。そんなに公務員や役所の実態があきれたものであるならば、与党はまずそのような 「実態」 を生み出してしまった長年の責任を負い、そのことをわびて野に下るのが筋というものではないか。天に唾するようなことを言って、いったいどういうつもりなのだろう。 そんな簡単なことも分からないとすれば、彼らの論理的思考力はゼロに等しいということだ。どうも、今の与党中枢には、まともな頭脳を持った人間どころか、それはちょっとまずいよと親切に忠告してくれる相手すらいないようだ。すでに、首相と彼の側近グループは 「裸の王様」 状態なのだろうか。実際、彼に比べれば、「サメの脳みそ」 と言われた森元首相のほうが、はるかに常識人であるように見えてくる。 だが、もし彼らがこういった馬鹿げた宣伝を下らなさ承知でやっているのだとすれば、彼らは恐るべきニヒリズムと大衆蔑視的心性の持ち主だということになる。そして、それは 「大衆は小さな嘘よりも大きな嘘に魅力を感じる」 とか 「嘘も100万回繰り返せば真実になる」 などと言った、ちょび髭の元伍長の心性と同じということになるだろう。 結局、小泉を越えるには、小泉以上のデマゴギーを振りまくしかないということなのだろう。やはり、飛び級昇格では総理は務まらないというべきだろうか、それとも「偉大」 な前任者の後を継いだ者の焦りというべきだろうか。 郵政職員を槍玉にした手法が一度成功したからといって、それと同じやり方をまた繰り返すというのは、真珠湾攻撃のやり方をそっくりそのまま繰り返して大失敗した戦前の軍とそっくりである。 丸川珠代も、もう一度考え直したほうがいいと思うのだけどね。
2007.06.03
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最近、renqing という方が開設されている 「本に溺れたい」 というブログで、ちょっとしたやりとりをしました。 renqing さんの幕末=維新の過程についての具体的な歴史認識については、ほとんど同感なのですが、理論的な認識についていささか疑問を持ちました。それで、若干の議論になったわけですが、先方のコメント欄に書き込んでばかりではなんなので、こちらで書こうと思います 問題は、結局のところマルクスの唯物史観についての理解であり、もっと遡ればマルクスがヘーゲルから学んだ弁証法という考え方についての理解に関わるのではないかと思います。 ただし、その全部について論じるような力はとてもありませんので、とりあえず前にも引用したことがある、『経済学批判』の序言の有名な一節の引用から始めたいと思います。 人間は、彼らの生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意思から独立した諸関係に、すなわち、彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係に入る。 これが実在的土台であり、その上に一つの法律的および政治的上部構造が立ち、そしてこの土台に一定の社会的諸意識形態が対応する。 物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。 これは、一般に 「唯物史観の定式」 と呼ばれているものであり、マルクスはこの定式について、「私にとって明らかとなった、そしてひとたび自分のものになってからは私の研究にとって導きの糸として役立った一般的結論」 というふうに述べています。 このマルクスの 「導きの糸」 という言葉は、ウェーバーが 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」 の中で、「文化と歴史の唯心論的な因果的説明を定立するつもりなど、私にはもちろんない」 と言い、同書での研究を 「研究の準備作業」 と呼んだこととも照応しているように思います。 さて、このマルクスの唯物史観の定式についてですが、まず、この定式は抽象性のレベルが非常に高いということに注意する必要があると思います。言い換えれば、ここで提出された 「実在的土台」 とか 「上部構造」、「社会的諸意識形態」 といった概念を、そのまま現実の社会や歴史についての説明に持ち込むことはできないのではないかということです。 もう少し詳しく説明します。 マルクスは、この定式で社会の構成を、「実在的土台」 と 「上部構造」、「社会的諸意識形態」 という三つの概念で説明しています。しかし、このような概念的構成は、いうまでもなく理論的抽象によって得られたものです。現実の社会は、必ずしもそのような三つの概念に照応して成立し存続しているわけではありません。 現実に存在している社会は、つねに総体としての1つの社会です。現実の社会というものは、たとえばコンピュータの回路のように、「実在的土台」 と 「上部構造」、「社会的諸意識形態」 という三つの互いに独立したモジュールで構成されているわけではありません。 したがって、このマルクスの定式から、現実の社会がそのように三層構造を成しているというふうに理解したり、またマルクスが現実の社会そのものをそのようなものとみなしていたと考えるのは誤りではないかと思います。 マルクス自身が 「導きの糸」 と言ったように、これは具体的な社会・歴史の研究を進めていく上での手掛かりであり、社会についての彼の原則的な見方を分かりやすく図式化したものに過ぎないと言った方がいいと思います。 マルクスが 「実在的土台」 と呼んだ 「生産諸関係」 にしても、具体的に見るなら、人間の様々な意思や意識と無関係にそれ自体で存在し運動しているわけではありません。たとえば、「資本論」 のどこかに、蜂による精巧な巣作りと人間の目的意識的な労働とを比較した一節がありますが、協業と分業による人間の労働は、それ自体、指示・命令など、人間同士の様々な意思の関係を必要とします。そして、そのような意思関係は、必要に応じて社会的規範として 「客観化」 されることになります。 人間はただの機械でもロボットでもないのですから、このようなことは当然のことでしょう。ましてや、社会的分業が高度に発達した資本主義社会では、法律のような一般的規制から就業規則のような個別的なものまで、様々な社会的規範による規制や統御が存在しなければ、生産過程それ自体が成立・存続しえないことは明らかだと思います。 つまり、現実の社会においては、「実在的土台」 や 「上部構造」、「社会的諸意識形態」 といったものが、マルクスが定式で描いたようにきちんと三つに分かれて存在しているわけではないということです。現実の社会というものは、もっと複雑なものであり、様々な関係が相互に入り組みながら成立し存在しています。 現実の諸関係は、これは 「土台」であり、これは 「上部構造」である、というふうに明確に分類できるようなものではありません。かつて、三浦つとむという人が、この定式について 「アナロジー」 という言葉を使ったことがありますが、その意味はこういうことなのだろうと思います(どこでだったか、忘れましたが)。 要するに、このような概念は、社会を高度に抽象した結果、得られたものにすぎません。したがって、そのような抽象的概念やその関係を現実の具体的な社会の記述にそのまま持ち込めば、いろいろな問題が生じることは、ある意味当然だろうと思います。 しかし、現実の社会的過程を見ても、社会の発展に応じて実状に合わなくなった法律は改正・廃止され、逆に新たな必要性に応じて、新たな法律が制定されるというような事実は、日々、生起しています。 ですから、そのような社会総体をそのままの現実としてではなく、理論的に反省し抽象し、あるいは概括的に見た限りでは、まず 「実在的土台」 が成立し、それに一定の 「法律的および政治的上部構造」 と 「社会的諸意識形態」 が対応するという定式の表現は十分に首肯しうるものと思います。 そして、そのような見方は、『ドイツ・イデオロギー』 での 「われわれが出発点としてとるところの諸前提は……現実的諸個人、彼らの行動、および彼らの物質的生活諸条件である」 という、若き日のマルクスとエンゲルスの宣言以来、一貫したものであると言えます。 エンゲルスは晩年のJ.ブロッホに宛てた手紙(1890)の中で、「唯物史観によれば、歴史における究極の規定的要因は現実の生活の生産と再生産である。それ以上のことはマルクスも私も今までに主張したことはない。……しかし上部構造のさまざまな諸要因も……歴史的な諸闘争の経過に作用を及ぼすのであって……」 というように述べて、「土台」と 「上部構造」 を含めた 「すべての要因の交互作用」 ということを指摘しています。 この説明は、必ずしも間違いというわけではないでしょうが、確かにいささか簡略に過ぎるように思います。とくに、「終局的には経済的運動が必然的なものとして自己を貫徹する」 といった言い方をしてしまえば、なんだかんだ言っても、結局のところ、経済決定論じゃないの、というような批判が出てくるのは仕方ないかもしれません。 ただし、エンゲルスを弁護するなら、ここで彼が言っている「経済的運動」とは人間の具体的な生活過程全体を指しているのであって、近代的な自立したシステムとしての「経済的過程」といった狭いものではないというべきでしょう。 現実の歴史について論じる場合、マルクスは 『資本主義的生産に先行する諸形態』 にも見られるように、前近代社会の基礎をなす共同体の構造など、様々な要因を追求しており、エンゲルスのように問題を単純化してはいません。『フランスにおける階級闘争』 などにしてもそうでしょう。言うまでもないことですが、このような具体的な歴史記述は、「唯物史観の定式」 なるものを現実に対して応用すれば出来上がる、といったものではありません。 私見では、マルクスの唯物史観についての様々な教条的な理解や批判の多くは、ここまで述べたような、理論的抽象によって成立した定式と現実の社会や歴史的過程との抽象度の差異の無視や、その無自覚な混同から生じているのではないかと思います。 マルクスが 『経済学批判』 で披露した自らの定式を 「導きの糸」 というように呼んだのも、そういう意味ではなかったのかと思います。 さて、トラックバックうまくいくかな
2007.06.01
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