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 「 インディアンサマー・クリスマス

 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 など多数の著作で知られる、かのマックス・ウェーバー (ヴェーバーと呼ぶ人もいるが) は、政治について 「神々の戦い」 と表現している。

 それは、政治が 「理念」 やイデオロギーをめぐる闘争の場であり、しばしば非和解的な対立がもたらされるということ、と同時に、そのような対立は単純な 「善」 と 「悪」 の戦いなどではなく、もじどおり 「正義」 と 「正義」 の戦いなのであるという二重の意味を持っている。

 だが、まだ終わったばかりの20世紀を振り返ってみれば、戦争が非常な苛烈さを帯びるようになったのは、そこに 「民族」や 「革命」、「正義」 といった理念が持ち込まれるようになったことと並行している。

 なぜなら、その結果、戦争の相手国は、立場こそ違え、自分と対等の 「正義」 を持つものとしてではなく、なんらかの 「悪」 あるいは 「劣等」 なものとして描かれるようになったからだ。

 戦争にそのような理念が持ち込まれることで、国家や政治党派は自国の国民と持てる資源のすべてを戦争に動員し、敵に対する情け容赦ない攻撃を行うことも可能になった。そのことはむろん、党派による内戦などの場合でも同様である。

 たとえば、第一次大戦は 「すべての戦争を終わらせるための戦争」 と称され、第二次大戦は 「民族の生存をかけた戦い」 として、あるいは 「ファシズムを打倒するための戦い」 として戦われた (第三帝国の所業が 「悪逆非道」 であったことはたしかにそのとおりだが)。

 政治に関する「友・敵」 理論で知られ、主としてワイマール時代に活動した、ドイツの法学者・政治学者 カール・シュミットは、こんなことを言っている。

このような (すなわち、人類の、そのときどきに決定的に最終の戦争と自称される) 戦争は、とくに激烈な非人間的な戦争であることは必然的である。
 なぜならば、このような戦争は政治的なものの領域を越え出てしまって、敵を、道徳的およびその他のカテゴリーにおいて非難するとともに、予防されなければならないのみならず、決定的に絶滅されなければならない、
 それゆえもはや単にそのものの国境の中へと追いかえさるべき敵ではない、非人間的な恐ろしいものにされねばならないからである。
「政治的なものの概念」 より

 むろん、このような戦争の全体化は、近代的な科学の発達によって可能になったことではある。だが、科学の発達一般と、そのような科学を利用して強力な兵器を開発すること、さらには、そのような兵器を生きた人間に対して、実際に使用することとはまた別のことだ。

 ダイナマイトを発明したノーベルは、自分の発明品が戦争で利用されるようになったことに心を痛めて、ノーベル賞を創設したと言われている。しかし、当時よりもはるかに 「進歩」 した現代の兵器に比べれば、それはまだまだおもちゃのようなものにすぎないだろう。

 そして、そのような戦争の徹底化のあとを追うように、現代では、政治的な 「暗殺行為」 もまた、かつてのような、目標とする人物のみを狙う限定的行為から、その命を確実に奪うためなら、周囲の者らを多数巻き込むことも辞さないものへと 「発展」 したようだ。

 「聖戦」 なる言葉は、たしかに宗教的な起源を持つものかも知れない。しかし、現代でのこの言葉は、けっして 「野蛮」 で 「狂信的」 なイスラム原理主義者らによって、ある日唐突に、過去から現代に持ち込まれた言葉なのではない。これもまた、現代の歴史そのものに深く根ざしており、そこから生れた言葉というべきだろう。

この世がデーモンに支配されていること。そして政治にタッチする人間、すなわち手段としての権力と暴力性とに関係をもった者は、悪魔の力と契約を結ぶものであること。
 さらに善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとって決して真実ではなく、しばしばその逆が真実であること。
 これらのことは古代のキリスト教徒でも非常によく知っていた。これが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である。
「職業としての政治」 より 

 だが、ウェーバーのこの言葉は、なにも 「職業的政治家」 や、「職業的政治家」 を目指す者らのためにだけ書かれているのではない。なぜなら、民主主義という制度では、すべての国民が多かれ少なかれ、「政治家」 としての役割を果たすことが期待されているのだから。
 どこの国にも、確かに国民に対する影響力の強い組織や機関は存在する。しかし、現代の政治はけっして、一部の 「支配者」 や 「権力者」 の意思だけで動いているわけではない。とりわけ、そのことは 「危機」 的な状況や、先の見えない混乱した状況であればあるほどあてはまるだろう。 
 「理想」 や 「理念」 を語ることは悪いことではない。しかし、そのようなとき、おうおうにして人は 「ナイーブ」 という病におちいりがちである。「主観的な善意」 というものが、それだけではいかなる正しさも保証しえないことは、どんな世界でも言えることであり、そのような 「善意」 が、ときには取り返しのつかない 「地獄」 へとつながるものなのだ。その程度の教訓は、歴史を振り返ればいくつも転がっている。 
 それにしても、年の最後にはまったく相応しくない無粋な内容になってしまった。





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Last updated  2008.01.03 12:33:14
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