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いよいよ11月も残… New! キラーコイルさん

September 12, 2018
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感情は振幅するが故にドラマティックな様相を見せ、小説よりも大いに奇なる事実を我々に補填する。闇夜では黒いものが本来自らが持っているその強さを発揮することができなくなるのと同様に、あるいは木を隠すには森の中こそが相応しいように、あるものがその個性をより強く主張するためには、白に対しての黒、光に対しての影というような、
いわば対極に位置している相対化の対象物を必要とする。
人の感情に喜怒哀楽というものがあるのも、このこととあながち無縁ではなかろうと私には思えてならない。

喜と哀、楽と怒という両極端に位置する対照的な感情の狭間で、人は心を、そして身体を振幅させながら生きている。人の心理状態は、ある時はピアニッシモを表現する器楽奏者の弦の揺れのように幽かで儚げであったり、またある時は祭り囃子の太鼓に抗うことができずに思わず身体を動かされたりするように昂揚することもある。意識的、無意識的の如何を問わず、いや、意識を自ら統御することの可否を問わず、人は感情を揺さぶり、感情に揺さぶられながら、自らのアイデンティティを確認する。ところが、このアイデンティティ、自己同一性というものは、考えてみると極めて逆説的な存在である。自己が自己であるということに本来他者という存在は必要がないはずなのだが、自己が他者ではないということを他者に対して客観的に証明するためには、自己を相対化するための自己以外の存在、つまりは他者という存在が必要になるということである。また、アイデンティティの確認のための自己相対化の対象は、自己に対しての他者という関係だけに留まらず、「いまこの瞬間の自己」と「いまこの瞬間以外の自己」という関係も存在する。

ものごとを演繹的に考えるのか。あるいは帰納的に考えるのか。どちらもアプローチとしては正しくもあり、同時に正しくはない。たしかに、ものごとを丁半博打やコイントスのように二元論としてとらえてしまえば、自ずと導かれる答は単純化、明瞭化され、求めている答を迅速に得られることになるだろう。けれども、単純化、簡素化の弊害が例外無く生じてしまうのも不可避のことである。場合によっては単純化、簡素化されることによって、そのもののエッセンスまで亡くしてしまうことすら往々にあり得る。こうなると本末転倒ということである。それでも多くの人は不確定で流動的な、必ずしも明るいとは思えない「先」へ急ぐことばかりを善として、単純化、簡素化を極限にまで追求している。喜怒哀楽という言葉を用いて表現するなら、「喜と楽」だけを追いかけているとでも言えばよいだろうか。

相対化することでしかアイデンティティを確認し得ない人間。これを認識することなしに、あるなにかを可能な限り正確にとらえることは困難である。ほとんど不可能であると断言しても差支えはないだろう。日々の営みひとつひとつを考え、それらにささやかな喜びや哀しみ、怒りや楽しみを感じ、自己の心や身体を適度に揺さぶり、揺さぶられること。これこそが人が人として生きる醍醐味ではないだろうか。





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Last updated  September 12, 2018 07:08:38 PM
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