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先程、msk222 さんのコメントへのお返事を書きながら思い出したことを書いておこう。数日前に、近所の自転車店で同世代の店主と世間話をした時のことである。私より少し若い彼は、今年古希になるという。「なんだか年寄りになっちゃうような気がして、70代になるのに抵抗がある」と言う。そして私に、「みらいさんは、そんな気持ちにならなかった?」と聞く。私は昨年古希を迎えた。息子や孫たちがささやかなお祝いをしてくれたせいか、古希を迎えたことをありがたいとこそ思っても、嫌だとは全く思わなかった。だから、「うーん、私は古希だから老人になったなんてガッカリはしなかったな。それよりも、40代に入る時の方が焦った気持ちになったかな。まだ、自分がやりたいことができないままに年老いていくような気がしてね」と答えた。それは本当にそうだったのだ。仕事はやりがいはあったけれど釈然としないことが増えてくるし、自分の能力と実力のバランスは悪いし、吐き出すだけで充電できないような枯渇感というか息苦しさがあった。その後、仕事を辞め、通信課程で大学で学ぶようになり、同時に地域活動・ボランティア活動を求められるままにやるようになり、意図はしなかったけれど第二の人生のような日々となった。その時その時、なすべきことを一つ一つこなしながら、いつの間にかこの年になったという感じだ。その間に、祖母と父を見送り、多くの親戚たちを見送り、何人かの友も見送った。だから、次第に順番が近づいてくるという実感がある。だから、老いることも逝くことも自然の流れだし、それに抗ってもどうしようもないという気持ちが常にある。老人になるのは当たり前だし、必要以上の苦痛だけはイヤだけど、人間として味わえるものは味わってしまおうという気もある。老いることへの負け惜しみなのかもしれないが、このようなことには多少のミエも負け惜しみも許されるだろう。自転車店の店主は、高校時代に下級生で当時からの顔見知りだった。今でいえばイケメンの部類だったと思う。今でも、白髪にはなってきたが見た目は悪くない高齢者だ。「貴方は何も心配いらないでしょ。いくつになっても自分の判断で仕事はできるし、見た目も悪くないし、カッコいいおじいちゃんになれるよ」実は彼は、数年前に奥さんを亡くしている。それだけは気の毒だとは思うが、それもよくある話で残念で悲しいだろうが仕方のないことだ。「年寄りになるのに抵抗があるなんて、若い証拠だねえ。私はもう年寄りになっちゃったせいか、後は何年元気に自転車乗れるかなと思うだけだよ」と笑った。彼もつられて笑いながら、「まだまだ自転車なら乗れるよ。自転車の面倒だけはみてやるよ」。自転車が少し軽くなったような気がした。
2021年04月26日
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「合縁奇縁」という言葉がある。自分なりの解釈は持っていたけれど、間違っていたら困ると思いネット検索したら、下記が出てきた。「合縁奇縁」の使い方や意味、例文や類義語を徹底解説!私はずっと、人との出会いは縁によるもので、縁がなければお互いに一目ぼれしても結ばれないし、それが「悪縁」や「腐れ縁」みたいな縁ならば、どれほど離れたくても縁を切れずに苦しむこともある、と思ってきた。そんなことを思いだしたのは、昨日の私のブログへのコメントだった。私だって、若い頃には惹かれた人だっていたし、プロポーズされたことだってある。でも、そのような人とは縁がなかったようで、ある日突然現れたような現在の夫と、なんだかよくわからないのに、あっという間に結婚を決めた。慎重で臆病な私の行動としては、今でも不思議な決断だった。それから約半世紀、やはり縁があったのだろうと思うしかない。私は、子供の頃からあまり友達は多くなかった。他の人から見たらどうなのかはわからないが、ずっと「自分には親友がいない」と思っていた。だから、親友はいなくても必要な時に話したり、協力し合える知り合いがいればいいのだと思うようになった。それが友人というものだと割り切って40代半ばまで生きていた。それなのに、地域活動を通して知り合った人が、今では生きている間は友達でいるだろうと確信している。一般的に、「この人は私を理解してくれる。裏切らないしいつも味方でいてくれる」と思える人が親友というものだろう。彼女に出会った時も、なんだかわからないが「この人と友達になりたい」と強く思った。実際には、個人的に親しくなったのは共通の活動メンバーから離れた時であった。私は慎重なので、公的なつながりのある人とは適度な距離をとることにしていたからだ。知り合いの中には、どうも「悪縁ループにはまっているのではないか」と思える人がいる。勿論、本人の対処の仕方がまずかったということもあるだろうが、それにしてもどうして次から次へと…、と、気の毒としか思えない人がいる。あるいは、「生まれた時や場所が、そして親が悪かった」というように、本人には全く責任のないマイナス状態で生を受ける人もいる。私は理不尽なそんな状況に対して、「運が悪かった」「運命だ」と思うことが多い。そして、運命はどうしようもないので、そこでどのように生きるかが大切とも言うことがある。人生はプラスとマイナスセットだから、必ずプラスの面もあるはずだから、それを見落とさないでいようとも言うことがある。この年になると、人を励ましたり応援する場面が多くなるので、無い知恵を絞りながらであるが。悩み多く、辛い毎日を送らざるを得ない人と向き合うと、この世の理不尽さを考えずにいられない。先日も、そんな青年とのメールのやりとりで、ふと夏目漱石の草枕の冒頭が脳裏に浮かんだ。「智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」しかし、住みにくい人の世を少しでも心地よく生きようと工夫できるのは人間だ。決して運命や悪縁だけでなりたっているのではないはずだ。ピンチはチャンスと場面転換できるのも人間だ。運命を受け入れて、今可能なことを考えられるのも人間だ。でも、必死に考えて努力しても、どうもチグハグな人もいる。それもご愛敬だ。そのチグハグさも、誠実さとセットなら、きっと認めてくれる人もいる。私は今まで、悪縁に付きまとわれた体験はない。悲惨な運命に翻弄されたこともない。でも、その幸運を年を取るまで気付かなかった。それを反省するばかりである。
2021年04月09日
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血圧の薬がなくなってきたので、午前中にかかりつけのクリニックに行く。診察が始まる前に行ったのだが、待合室は受診者であふれていた。「密」である。どうしようかと迷ったが、二時間待ちというのだから午前中には終わるだろうと待つことにした。ひょっとすると時間がかかるかもしれないと本を持参したので良かった。しかし、実際に診察室に入ることができたのは11時半。顔を見るなり女医先生は「ごめんなさいねー、お待たせして」と声をかけてくれる。その顔を見ると、何となく疲れたような表情だ。それでも頑張って笑顔で声をかけてくださる様子に、心の中で「頑張ってくださいね」と声をかける。何しろ、まだまだ順番待ちの患者が控えているのだから、私は必要なことだけ話そうと決めていた。先生は、まだ小さい三人の男の子を育てながら開業したと聞いている。きつと、大病院の勤務医であるよりは子育てしやすいと思ったのではないかと想像している。(あくまでも私の想像)私も、二人の男の子を育てながら働いていた。「子育て中は働き時」と私は思っている。まだ若いし体力もあるし、仕事も自分の力を発揮できるような時期に入っているし、やりたいことも次々と湧いてくる時期だ。多少の無理だって、体力的に頑張りがきく。きっとこり先生も、そのような時期だろうと思ってしまう。人によっては、テキパキとした物言いが「キツイ」と感じる人もいるようだけど、私はまったくそうは感じない。必要なことをはっきりと言いながらも、指はパチパチとパソコンのキーを叩く。頭の回転が速いのだろう、それをしながら以前の私の情報をちゃんと確かめていることはわかる。私はこのようなタイプの女性が好きだ。随分年下だけど、働く女性として尊敬できる。コロナが始まった時に受診した時には本当にビックリしたものだ。全身手術室に入るような装備で、ゴーグルまでつけていた。受付の人たちも、「これから手術室に入ります」という感じで、換気のために少し窓を開けているため、正直言って少し寒かった。そのために、待合室にはひざ掛けが積まれていた。予防のためにできることは全てしようという覚悟が感じられた。その後、母の入院する病院などに行った時は、そのゆるさにビックリした。幸い、どちらの病院もクラスターは発生していないけれど、受診するものとしては厳しすぎるくらいで安心感と信頼感は持てる。すると、この先生の言うことならちゃんと聞こうという気になる。信頼感というものは、そういうものだ。「信頼できない人」の話は、ほとんど聞き流してしまうのが人の常。専門家でも政治家でも、それはおんなじだ。モリカケサクラ以来、私は安倍氏の話は聞く気にはなれなくなった。残念ながら菅総理の言葉も、聞き流してしまうようになった。彼の言葉はうそ寒い。このところ寒い日が続いているのに、いよいよ寒気がしてくる言葉は聞きたくない。心が温かくなるような、あるいは一緒に頑張ろうと思えるような言葉を発する政治家はいないのだろうか。
2021年01月06日
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今年もあと一日で終わります。今年の年末年始は、エライ人達がおっしゃるように、「静かな年末年始」にするつもりです。いつもなら息子一家と次男が泊りがけでやってきて、夫の手打ちそばやお寿司、オードブルなどで年を越し、お正月は私の実家で母を囲んでのおせち料理パーティですが、今年は明日のお昼過ぎに我が家に息子たちが集まって手打ちそばとお寿司を食べ、二時間程度で切り上げて実家に行き、母に顔を見せて飲食をせずに帰ることにしました。息子たちは色々な人と出会う機会も多いし、若いので感染していても無症状の可能性もあるので、94歳の母や私達高齢者に万が一でも感染したら大変なことになると、そのようなスケジュールにしました。元旦はそれぞれの家で「静かなお正月」を過ごすことにしました。独り者の次男だけは我が家に泊まることになります。結婚して以来、こんな年末年始は初めてです。それでも、一応お正月料理は用意しています。それぞれが帰宅する時に持たせたり、実家の分と我が家で食べるためです。それでも、泊りがけでの準備と比べたら格別に楽ちんで、こんなふうにパソコンに向かう余裕があります。とにかく、コロナで始まりコロナで終わりそうで暗い気持ちになることの多かった2020年ですが、みなさんそれぞれにも色々なことがあったと思います。生きていると山あり谷あり、良いことも悪いことも次々とやってきます。人生は、波を乗り越えながら楽しさを感じるサーフィンみたいなものだと思うことがあります。(私はサーフィンなんてできないけど…)きっと波に飲み込まれたりひっくり返ったりしながら、技術があがっていくのでしょう。生きることのための知恵も技術も、そんな様々な体験と失敗の中でスキルアップしてゆくものです。「今がどん底」と感じたなら、あとは浮上するばかりでもあるんです。あまりあがかずに、波のうねりに身をゆだねることもあるのかな。さて私にとっては、個人的には穏やかな一年だったと思います。そして、新しい出会いもありました。70代に突入した私には、なかなか新しい出会いはありません。出会うよりも別れることの方が多くて、自分の順番が少しずつ近づいてくるような感じなんです。(実際に、夫の先輩が昨日亡くなり、明日は告別式)ですから、新しい出会い、特に若い人との出会いはとっても貴重で嬉しい出来事なのです。所属する会での絵本づくボランティアで出会った、FちゃんとT君は小学生。それぞれ学校には行っていません。T君とは11月、12月とにも会うことが出来たのですが、毎月の変化に驚くばかりでした。言葉で自分の思いを表現する力はまだ発達途上だけど、一つの言葉の背後には膨大な内部の言葉があるんだと感じさせられました。 大人だって同じですね。膨大なモノローグの中から、対話によって少しずつ言葉は成長して発せられるものなのです。心の成長には、モノローグ(心の中の自分との対話、独白)とダイアローグ(対話)がとても大切です。それによって言葉も豊かになるし、自分の心を的確に表現する力もついてくるのです。心を殺されたり傷つけられるような場所、たとえば学校などには無理していくことはないですが、色々な人との出会いと会話はとても大切です。 年齢の違い、立場の違い、ハンディの有無、住む場所の違い、考え方の違い、価値観の違いなどなど、人はみんな違います。できれば色々な人との出会いが、子ども達にもお母さん達にもあってほしいと願っています。私も、個性ある一人の人間として、今年の出会いを次につなげていきたいと思っています。来年は誰にとっても良い年になりますように。
2020年12月30日
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数日前、北海道のローカルテレビ番組で桜木紫乃さんのインタビューを見た。私は彼女の作品も読みやすいしベタベタしていないのが好きで、結構読んでいると思う。また、地元の図書館行事で桜木紫乃さんの対談も聞いたので、その人柄もとても好きだ。今朝、昨日のブログへのコメントへのお返事を書きながら、ふと先日のインタビューの時の彼女の言葉を思い出した。彼女は釧路出身で現在は江別に住んでいる道産子だ。北海道出身の土着作家(?)は何人もいるけれど、桜木さんは現在活躍している女性作家の筆頭に近いと感じている。なぜ筆頭と感じるかというと、彼女の書く小説の主人公である女性は、私にはみんな道産子の特徴を持っているように思うからだ。彼女は、インタビューで「北海道の女性をどう思いますか?」のように聞かれて、こう答える。「北海道の女って、男を立てないよねー。だーい好き!」それを聞いて私は思わず吹き出してしまった。自分では自覚していなかったけれど、確かに私も男性を立てたりしないなーと。もちろん、仕事上で立てた方がうまく回ると思う人には、内心少々アカンベーをしながら立てることはよくあった。つまり、その分だけ相手をバカにしているわけでとても失礼なのだが、「嘘も方便が世の常」と割り切ってきた。しかし、ここは譲れないと思い、どうしてもこの人に納得してもらわなければというときは、失礼にならないように私なりに気を遣いながら主張するようにしてきた。「失礼にならないように」は礼儀であり、男性を立てているわけではない。それは、男女でも年齢差があっても、地位の上下には基本的に関係ない。こんな姿勢を、きっと桜木さんなら「それでいいのよ」と言うだろう。それと、もう一つ気に入った言葉は「逃げてもいいのよ」。私の記憶では、「現状がこのままじゃ自分がダメになる」と思った時には、新しい自分の未来に向かって踏み出すというような印象。「逃げる」といえば後ろ向きに感じるけれど、今の環境を捨てて不確実な未来でも自分の力を信じて踏み出すということだろう。うん、そうだ、道産子女性は踏ん張れて見込みを感じる間は本当によく頑張るけれど、見込みがないと思ったらあっさりとそれまでの経歴も家族も捨てるようなところがある。「家族」と書いたけれど、実際は「夫を捨てる」ことの方が多いだろう。北海道の離婚率が高いのは、道産子女が男を立てず、逃げることができるからかもしれない。それと、やはり笑えたのが、「北海道の人って、家族はあっても家系のない人が多いじゃない?」。これも至言だ。家系に縛られないと、とても身軽だ。あと、ご実家のラブホテルを高校生の時から家業と思って手伝っていた時を語った時、「ラブホテルで恥ずかしいとは思わなかったわね。仕事だと思っていたから」と言い、「昭和の女って本当によく働くのよ」と言ったこと。彼女は私より15歳年下だが、ひょっとすると釧路は漁業の町だし、周囲の友人たちもみんな、それぞれの家業の手伝いを子どもの頃からしていたのだろうと思った。みんな生きてゆくために親を手伝うのが当然と、私たちの世代の多くも思っていたはずだ。それも、道産子女の特徴の一つかもしれない。農業・漁業・商業が開拓時代からの道民の職業の大半を占め、サラリーマンは少なかっただろう。特に明治・大正・昭和初期の時代の開拓期は、「男だから、女だから」なんて言ってられなくて、女も男同様の力仕事もしていただろうし、それに加えて家事育児をこなしていた。「女は家事育児をするのが当然」と思っている夫たちだって、それに加えて家業を男同様にこなす妻を見ていたら、「男の方がエライ」なんて言えなくなるだろう。そのせいもあってか、私の見る限り道産子夫婦は「かかあ天下」が多いように思う。私の実家も、祖父母、両親がそうだったし、当然我が家もかかあ天下だ。それを一言でいえば、「北海道の女って男を立てない」ということになるんだろう。桜木紫乃さん、大好きです。私も道産子女の特徴を持っているように思うので、ご同類ですね。
2020年12月07日
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朝、テレビを見ていた(新聞読みながら聞いていた)ら「脱コル」という言葉が耳に入った。「脱コルって何だ?」と思ってテレビを見ると、「脱コルセット運動」ということで、いわばフェミニズム運動のようだ。それがなぜ「脱コルセット」として若い女性に支持されているのだろう、フェミニズムとどう違うんだろうと思いながら見ていたのだが、どうもピンとこない。ということで、今、改めてネット検索してみた。脱コルセット脱コルセット運動とは、韓国の「第4の波(英語版)」フェミニズムで初めて触発され誕生した6B4Tと言うラディカルフェミニズムを支持する韓国人女性達からなる、社会運動の一種である。社会から求められる”女性らしさ”から自らを解放することを目的とした女性による運動である[1]。 脱コルセット運動における”コルセット”とは、女性に対する家父長制的観点から来る美の抑圧を意味する[2]。この運動は韓国から発信され、家父長制社会下に於ける女性のステレオタイプに基づく女性像とは異なる女性の在り方を提案している[2][3]。定義と意義脱コルセット運動は、女性の自由意志に対する懐疑的視点を提示しており、女性自身がする行動と選択は、実は完全なる本人の意志から出たのではなく、社会から強制された無意識のコルセットがあると考えている。[要出典]脱コルセットは、「自己を締め付ける社会の視覚を脱却し、自らを振り返り、批判的に思考し、選択しようとする運動」とされている。いわば、脱コルセットは、「社会が女性にだけ美醜についての強迫観念を押し付けている」と考え、そこから自由になろうという運動である。[要出典]脱コルセットは、家父長制の男性社会によって規定された「社会的女性性」が存在すると考える。脱コルセット運動は自分たちを説明する際に、自身が人間であることを自覚した女性たちがこの「社会的女性性」を全面的に拒否するという、社会的、政治的かつ個人的な変革だとしている。[要出典]人間の標準は男性にあると考え、人間の基本値という意味で「デフォルト」になったという風に表現することもある[誰?]。(後略)フェミニズムフェミニズム(英: feminism)とは、女性解放思想、およびこの思想に基づく社会運動の総称であり[1]、政治制度、文化慣習、社会動向などのもとに生じる性別による格差を明るみにし、性差別に影響されず万人が平等な権利を行使できる社会の実現を目的とする思想・運動である[2][3]。女権拡張主義、男女同権主義などと訳されることもある[1]。フェミニズムは市民革命に端を発し、19世紀から20世紀前半までの女性参政権運動を中心とする第一波フェミニズムと、社会習慣・意識に根ざす性差別との闘いを中心とする第二波フェミニズムに大別される。後者においては、思想的立場により、リベラル・フェミニズム、社会主義フェミニズム、マルクス主義フェミニズム、ラディカル・フェミニズム、エコロジカル・フェミニズムなど多様な潮流がある。また、性別に限らず、人種、階級、年齢、国籍、宗教、性的指向などの文化的・社会的要素を考慮し、インターセクショナリティというより広い概念のもとで捉えられるようになっている[4]。フェミニズムの対置概念はマスキュリズム(男性解放運動、メンズリブ)。フェミニズムの推進者や同調者を「フェミニスト」と呼ぶ。つまりは、フェミニズム運動の第三派ともいわれるようで、特筆すべきは韓国発祥の運動らしい。韓国は日本と同様かそれ以上に家父長制の強い男性優位社会らしいので、現代の女性にとっては納得しがたい世間の目からの脱出を意味するのかもしれない。それにしても、その後の脱コルの例を見ていると、なんだかなあという気持ちになったのも事実。化粧や脱毛をしないとか、ハイヒールを履かないなんて、わざわざ「フェミニズム運動or脱コル」などと言わなくても…という感じがするのは私だけ?要は、世間や男性の目に合わせずに、自分の好きなような服装をして、自分がやりたいことをしたらいいのだ。それが、今でもそれほど難しいことだということに、私は少しショックを受けている。ちなみに私は、この例から言えば30年も前から脱コルである。ハイヒールは若い頃から履かなかったし、スカートも仕事をしている頃には着たけれど、常時ではない。仕事をやめてからは、スカートは喪服や正装の時だけ。メイクは自分の欠点を隠すために現在もしているけれど、眉を書き加えたり、日焼け止めの意味もあってファンデーション、唇保護のための薄い色付きのリップくらいだ。もう年だからというわけではなく、40代のころからそれに近い。そんな状態で「女のくせに」とか、「女らしくない」とは言われた記憶はない。要は、TPOに合わせながらも、自分の好きな服装をしたらいいだけだと思っている。それに今では、男性もメイクをしたり脱毛をしたりしているらしいし、服装だって見た目では男か女かわからなくなっているのが日本の現状じゃないのだろうか。私はそれよりも、未だに男性の補助的な役割の仕事のやり方や、女性が多い看護師、保育士、介護職が次々と非常勤になっている現状に苛立ってきた。脱コルも、なんだかブームのようでそれもイヤだ。家族内の家父長制に抵抗するなら、しっかりと父親たちに主張したらよい。世間の男性優位社会に抵抗するなら、見かけで反抗するのではなく、しっかりと言葉で反論したらよい。まあ、こんなことを書いてみても、若い頃にはなかなか難しいのもわかるので、最初の一歩としての脱コルもあるのかな。
2020年12月06日
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ネット記事をウロウロしていて、「ほれこみ」という言葉を知った。何の記事で知ったかというと、これ。ここに書かれている小林麻耶さんのことについては、私はあまり関心を持っていなかったのだが、「ほれこみ」が精神分析で使われる言葉(専門用語?)ということを知ることが出来た。この記事によると(前略)「麻耶さんはいま、精神分析で“ほれこみ”と呼ぶ状態にあると思われます。ほれこみと洗脳はニアリーイコール。相手への批判力を失い、過大評価する。実力以上に評価して欠点が見えなくなっているといえますね」 ほれこみが強くなるように、ほれこませる側が誘導できるという。「その状態を強化するために、夫が相談相手や依存先を制限しているとするなら、それはある種の“常套手段”です。たとえば新興宗教では、教団だけを頼りにさせるため『家族と縁を切りなさい』『友達とのかかわりを断ちなさい』と、人間関係をシャットアウトさせるのです。 (中略) 「視野狭窄から抜け出すためには、できるだけいろんな人と出会って、話を聞くことが大切です。ただ、それができない状態になっていますよね。経済的に行き詰まれば、ようやく目が覚めるのではないでしょうか。これまで多くの例を見てきましたが、洗脳されている人は、そこまでいかないと気がつかないことが多いです」(前出・片田さん)うーん、なるほど。ほれこむと洗脳状態に近くなるのか…。と次に連想するのは、某皇族のお嬢様。またまたネットで検索する私。すると、一番最初に出てきたのがこれ。この記事も、前記の片田珠美さん(精神科医)が言っているようだ。以下、記事の一部抜粋 まず、眞子さまは「ほれこみ」の状態と考えられる。「ほれこみ」とは、フロイトによれば対象の過大評価である。しばしば恋愛対象を理想化して、欠点が見えなくなる。「あばたもえくぼ」という言葉があるが、まさにその状態だろう(「集団心理学と自我の分析」)。「ほれこみ」の状態に陥ると、場合によっては無批判になり、相手に従属するようになる。その点では催眠術と似ている。恋愛の場合は恋愛対象、催眠術の場合は催眠術師に従属するわけである。 こういう状態に陥りやすいのは世間知らずで純真な人だが、眞子さまはその典型のように私の目には映る。正真正銘の“深窓の令嬢”であるうえ、純真な心を持ち続けていたいというお気持ちが強いからだ。 こうした「ほれこみ」の状態に拍車をかけているのが、「Pity is akin to love」の心理ではないか。この言葉は、直訳すると「あわれみは恋の始まり」だが、夏目漱石が『三四郎』の中で引用し、「可哀想だたほれたってことよ」と俗っぽく訳して、有名になった。 この心理が眞子さまの一途な恋心に少なからず混じっている可能性が高い。日本一の名家で何不自由なくお育ちになった眞子さまだからこそ、不遇な境遇で育った小室さんへのあわれみが強く、それを恋心と混同しておられるように見受けられる。しかも、この種の恋心は、小室さんへのバッシングが激しくなるほど強まる。これはやっかいだ。このほれ込み状態を解くには、どうしたらいいんだろうと思いながら続きを読むと…小室圭さんは<例外者> 2年間結婚を延期したのは、いずれ小室家の側から結婚の辞退を申し出るのではないかという思惑が宮内庁と秋篠宮ご夫妻にあったからかもしれない。だが、その可能性は今後もきわめて低いと私は思う。なぜかというと、小室さんが<例外者>だからである。<例外者>とは、フロイトによれば自分には例外的な特権を要求する権利があるという思いが確信にまで強まっているタイプである(「精神分析の作業で確認された二、三の性格類型」)。<例外者>は、自分には責任のないことで「もう十分に苦しんできたし、不自由な思いをしてきた」と思っている。そのため、「不公正に不利益をこうむったのだから、自分には特権が与えられてしかるべきだ」と考え、これまで苦労してきた分、今後の人生において損害賠償を要求する権利があると思い込む。 何を「不公正」と感じるかは人それぞれである。容姿に恵まれなかった、貧困家庭に生まれた、親に愛されなかった、虐待を受けた……など、本人が不利益をこうむったと感じ、運命を恨む権利があると考えれば、それが自分は<例外者>だという思い込みにつながりやすい。私はフロイトを全面的に支持しているわけではないが、こう書かれると、妙に納得してしまう。うーん、言葉がない。
2020年12月03日
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トランプ大統領が敗北を認めない最大の理由高橋浩祐 | 国際ジャーナリスト大接戦となったアメリカ大統領選での全州の結果が判明し、民主党のバイデン前副大統領(77)が勝利したのにもかかわらず、共和党のトランプ大統領(74)は敗北を認めていない。なぜトランプ大統領はなかなか敗北を認めないのか。1つには、メディアが報じているように、今後の政治的な影響力を確保したいため、できる限り「不正投票」を訴えて法廷闘争に持ち込み、長引かせたいとの思惑があるのかもしれない。特に、来年1月5日のジョージア州の上院決選投票までトランプ支持者をひきつけ、権限の大きい上院を身内の共和党が制することを導けば、2024年の大統領選への再立候補が可能だと考えているのかもしれない。しかし、筆者はトランプ大統領が敗北を認めない最大の理由は、トランプ大統領自身の幼い頃からの強い信仰に基づいているとみている。●トランプ大統領が信仰しているものトランプ大統領の宗教は、キリスト教プロテスタントのカルヴァン派の一派、長老派(プレスビテリアン)であることが知られている。トランプ大統領は幼い頃、生まれ育ったニューヨーク市クイーンズの長老教会に通っていた。そして、そこで1950年、13歳になったころに堅信礼を受けた。その後は、マンハッタン5番街にあるマーブル協同教会に毎週日曜日、約50年間も礼拝に行ったという。トランプ大統領はそのマーブル協同教会のノーマン・ヴィンセント・ピール牧師から大いなる影響を受けた。ピール牧師は、自らのベストセラーの本『ポジティブ・シンキングの力』を通じて、自己啓発や自己暗示に力を入れていた。トランプ大統領とトランプ家に関する本を2冊出版したアメリカの作家兼ジャーナリスト、グウェンダ・ブレア氏は2015年10月の段階で、政治メディア「ポリティコ・マガジン」で次のように書いていた。「ピール牧師の物の見方は(…中略…)トランプ家のカルチャーにまさにぴったりと合っていた。つまり、規則を曲げることを決していとわないこと、勝つためには何でもすること、そして、決してあきらめないこと」ピール牧師の著書『ポジティブ・シンキングの力』は何百万人の読者の助けになったかもしれない。しかし、自己啓発や自己暗示はあまりに行き過ぎると、周りに害を及ぼすことになる。トランプ大統領はピール牧師の影響を大いに受け、自己予言の成就をしていく人物となった。●「トランプの思考や行動の背後にはカルヴァン派の発想」日本でも、元外務省主任分析官である作家の佐藤優氏が早くからそうしたトランプ氏の独断的に見える思考や行動の背後に、カルヴァン派の発想があると指摘してきた。佐藤氏はトランプ大統領と同じカルヴァン派だ。筆者は2017年2月、トランプ氏の大統領就任を受け、佐藤氏の指摘も踏まえ、そのことを記事にした。(参考記事:トランプ大統領は「イスラエル中心主義者」だ 就任演説での聖書からの引用に隠された意味)同志社大学大学院神学研究科を修了した佐藤氏は2017年1月26日、新党大地主催の月例定例会で、次のように語っていた。「カルヴァン派の場合、神によって選ばれる人は生まれる前にあらかじめ定められている、と考える。本人の努力は一切関係ない」「そうすると、試練にすごく強くなる。どんなにひどいことに遭っても、負けない。どうしてか。神様が与えた試練なので、最後に勝利すると決まっていると考える。そして、問題はどういう勝利の仕方なのか、と考える」そして、トランプ大統領については「自分は神様に選ばれたときっと思っている」と分析していた。佐藤氏は最近でも、雑誌「プレジデント」2020年7月17日号の記事の中で、「トランプ米大統領の信仰する長老派の特徴は、打たれ強いこと。その代わり、負けを認めず、反省しません。新型コロナウイルスや人種差別反対デモへのトランプ大統領の対応は、俺は間違えていない。だからやり方を変えないという態度です。強い信念はカルヴァン派の思考の特徴ですが、そのマイナスの面が出ていることを感じます」と指摘している。●トランプ氏「敗北は心の問題」トランプ大統領は自書『Think BIG and Kick Ass in Business and Life』(邦題:大富豪トランプのでっかく考えて、でっかく儲けろ)で次のようにも述べている。「敗北は心の問題だ。敗北を受けいれ、絶望的な敗北者の思考形式になったとき、あなたは敗北する」「でっかいエゴを持つことは良いことだ」家族や身内の共和党議員の説得があろうとなかろうと、トランプ氏はそう簡単に敗北を受け入れないとみられる。だが、「トランプ劇場」と化してきた今のアメリカ政治が長引き、将来に「分断と対立」の深刻な禍根を残すような事態になってはいけないだろう。うーん、信仰によるものですか…。だとすると、これはやっかいだ。実は、長年うつ病で苦しんでいる知人がいるのだが、彼女は若い頃に統一教会に所属していた。色々あったし、今も色々とあって辛い思いをすることが多い人なのだけど、彼女から昨日届いたメールで、下記のようなことが書かれていた。「統一教会に行っていた時、いつも自己否定、自己否定と言われていました。今、思えば、自己否定って良いことではないのですね。」とても自己肯定感の低い人なので、私はいつも少しでも肯定的に考えられるようにと言葉がけをしている。「そのことは、困ったことでもあるけれど、このような良い面もあると思うよ」などのように。そのようなやりとりへの返信だった。そして、「統一教会は、韓国の宗教ですから、自己主張の強い韓国の国民性には向いていたのかもと思います。」と。統一教会が「自己否定」を信者に強いるということははっきりとは知らなかったが、なるほどなあと納得する点もある。しかし、彼女のように元々自己肯定感が低い人がそれを信じてしまっては、鬱傾向が強くなるのも当然だろう。同様に、もともと自己顕示欲や自己肯定感が強い人に、「敗北は心の問題」とか、「どんなにひどいことに遭っても、負けない。どうしてか。神様が与えた試練なので、最後に勝利すると決まっている」なんて宗教指導者が言ったら、現在のトランプ氏のような行動になるわけだ。うーん、カルバン派の宗教指導者の皆さん、今のトランプ氏で間違っていないのですか?
2020年11月18日
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秋晴れの良い天気。長沼のクレスで友人二人とランチ。このお店は、野菜がメインのビュッフェスタイルのランチで、年に何回か行くのだが、今年はコロナのために自粛していて今年は初めてである。このお店に来ると、野菜料理のヒントが一杯あって、それも私のお気に入り。イクラ野菜がメインと言っても、沢山食べたらお腹が苦しくなる。その後、近くの仲野果樹園でプルーン狩りを楽しむ。ここでは、リンゴ狩りもできるが、今がプルーンの旬だというので、プルーンをとることにしたのだ。コロナ予防のために、今年は園内で食べることはできず、取っただけを量り売り。そのため、入園料は取っていなかった。私は、プルーンの樹を見るのが初めてだったので、思ったより大きい木でビックリ。もぎたてを食べたことがなかったし、その場で食べることも出来なかったので、約二キロをとったのだけど、帰宅してたべてその美味しさに感動。ということで、秋を満喫した一日だった。
2020年09月29日
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久しぶりに友人の家を訪れて、半日おしゃべり。最近の政治のドタバタ(?)のことや、読んでいる本のこと、共通する活動の話など、あちこち飛びながらも頭も使わず、気も使わず。このような話し相手が身近にいることを本当にありがたく思う。彼女との付き合いは、もう25年近くにもなるのかな。月日が経つのは本当に早い。この日も蒸し暑い日であったが、彼女の家はエアコンがあるので快適だった。あー、エアコンが欲しいと思う毎日。
2020年09月07日
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昨日までの残暑が嘘のように、今日は一転して寒ーい。涼しいを通りこして寒いのです。多分、15~16度前後でしょう。本州は今日も35℃を超えるような暑さなのに、その温度差は倍以上。明日からはまた暖かいというか暑さが戻るみたいだから、今日はこの寒さを楽しむとしましょう。寒いと言えば、今、ネットで下記の記事を読んだ。菅官房長官 総裁選への出馬意向を二階氏らに伝える8/30(日) 10:48配信安倍政治の責任を取るつもりなんでしょうか。いえいえ、色々な責任は彼にもあることは明白なはず。これでまとまってしまうなら、私は少なくても自民党には絶望感しか抱けない。ホント、寒気がします。
2020年08月30日
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Milkywayさんのブログ「命は自分だけのものなのだろうか?」を読み、亡き祖母の言葉を思い出しました。下記の文章は、所属するグループのために書いたものを少し手直ししたものです。私の祖母は101歳で亡くなりました。95歳頃から施設や病院での生活が続き、最後の二年くらいは病院の療養型ベッドで寝たきりの状態でした。でも、意識は最後まではっきりしていて、記憶力は低下していたけれど認知症までにはなっていなかったように思います。1900年生まれで2001年に亡くなったので、19世紀から21世紀まで生きたことになります。その時代を生きたということは、楽な人生ではなかったと思いますし、祖母の思い出話を聞いても本当に大変な時代を生き抜きました。二人の息子を育てましたが、長男の父は92歳まで生きましたが、父の弟である叔父は、終戦後に北大を卒業した直後に自死しています。将来を期待していたであろう息子が亡くなり、祖父母の衝撃はいかばかりだったでしょう。ショックで体も壊してしまった祖父を支えて生きた祖母はとても気丈な人でした。叔父の死についても、「あの子は自分で決めて逝ったのだから、私が嘆いては可哀そうだ」と言ったことを聞いたことがあります。しかし、それだけに母親としての悲しみや後悔を一切語ることはなく、それは潔いとは思ってました。それでも、悲しみや切なさは決して消えたわけではないということを、ある時私は知りました。 私の長男が大学を卒業するころ、一緒に祖母の生活する施設に行った時のことです。まだ進路を決めかねていた長男に対してかけた言葉が忘れられません。「どんな仕事をしてもいいけど、身体だけは大事にしなさいよ。あんたの身体は、あんただけのものじゃないんだからね。父さんや母さん、兄弟や叔父さん叔母さん、あんたを可愛がってくれた人みんなのものなんだからね。自分の身体や命が自分のものだと思ったら大間違いだよ」その言葉の底には、自分で逝ってしまった愛する息子に言っておきたかったという思いがあるように感じたのです。世の中には、本当に理不尽な環境に生まれ育っている人も多いと思います。死んだ方がましだという気持ちになってしまう状況も起きるでしょう。肉体的苦痛だけではなくて、精神的苦痛から楽になりたい時もあるでしょう。私自身も若い頃、自分が無価値のように思えて、このまま生きても良いことがないように感じ、できれば早くこの世からお別れしたいと思った時があります。それは、当時はわかりませんでしたが、「うつ状態」だったからです。「死」を願う時は、ほとんどがうつ状態かうつ病だからだと思います。その時はまわりが見えなくなっていますから、自分を大切に思ってくれる人の存在も思い出せないことがほとんどです。だからこそ、健康な状態の時に「自分の命は自分だけのものではないのだ」と心に刷り込んでおくことが大切だと思います。 話は変わりますが、小山内美智子さんという脳性麻痺の女性が札幌にいらっしゃいます。その方は、障がい者は施設で生きることを強要されることが当たり前だった時代、障害を持っていても、自立生活をしたいと「札幌いちご会」を立ち上げた方です。 小山内美智子1953年生まれ。脳性マヒ。77年札幌いちご会を始める。自立生活の寄付金を集め、職員を雇い、ケア制度を作る。札幌オリンピック開催時、地下鉄にエレベーターがなく、仲間と共に用事もないのに地下鉄に乗り、腰を痛めた駅員たちも巻き込んだ。これが、私の代表する障がい者運動の始まりだった。 小山内さんはブログを書いていて、私は時々拝見しています。三浦春馬さんの死についても、次のような記事を書いているので、ぜひお読みいただきたいと紹介します。 三浦春馬くんは、きっと今頃天国でそろばんで頭をたたかれているだろうこの記事の中で、「死にたいときに、大声でそう言える相手がそばにいればいい」と書かれています。そんなことを言える人がいないと思っている人は多いかもしれません。大声でなくてもいいのです。優しそうだと思える人に、呟くようにでいいから(でも相手には聞こえるように)「最近死にたいと思う時がある」と言ってみましょう。きっと「どうしたの? 何かあったの?」と聞き返してくれるでしょう。少なくても、私ならそう言います。もう少し丁寧に自分の気持ちを話したら、きっと何か返してくれるはずです。「死」をタブーにせずに話すことで、今の生活に新しい視点が生まれるかもしれません。 私の命は、太古の昔からずっとつながってきた命です。天変地異や疫病、戦争などをの危機を乗り越えて、先祖からつながってきた命です。どれほどの数のご先祖様がいるのか、見当もつきません。その末端に今の自分がいると思うと、それだけでありがたくなります。 つながれてきた命のバトンを、自分の一存で捨てないでください。人間には寿命がありますから、必ずいつかはその時が来ます。焦らずにその時まで与えられた命を生ききりたいと思っています。
2020年08月08日
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我が家にもようやくアベノマスクが届きました。この二枚で、いったいいくらなのだろう。確かに小さめで高級品には見えないけれど、高価格マスクには違いないでしょう。あちこちでこのマスクを回収して、必要なところに届けているみたいだけど、さて我が家ではどうしようか…。政府支給の布マスク「アベノマスク」の寄付に関してNPO法人もったいないジャパンマスクを海外支援に!(北海道マスクの寄付)近くに回収ボックスでもあればいいのだけど。
2020年06月05日
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下記の文章は、私が管理しているグループに投稿したものです。日頃、社会の様々なニュースにイライラしたり腹を立てたりしている自分自身への自戒を込めて、こちらに一部修正して載せたいと思います。北海道では、施設や病院での集団感染がなかなか収まらず、特に札幌が大変です。感染者がほとんどなくなった地域では、緊急事態を一部解除されてきたようですが、まだまだ油断できない状況ですね。この三か月ほど、「大変だ! 大変だ!」という情報が錯綜し、さほど緊急事態ではない状況の人も、何となく不安を煽られ続けていると思います。不安や緊張が続くと、それだけで心身の調子がマイナススパイラルに陥りがちです。こんな時は意識して、過剰な不安に自分自身が支配されないように気をつけたいものです。その一つの方法として、毎日「良いこと探し」を心がけようと思います。 北海道は自然のいろどりが日々鮮やかになる季節です。木々も草花も次々と鮮やかな花や新芽を開いていきます。毎日のように、色んな花が咲き競い始めています。それぞれの家庭の庭先にも、花壇やプランターに花が並び、公園には黄色いタンポポが次々と開き始めます。我が家の庭では、レンギョウ、ツツジ、ボケの花が咲き、もう少しでライラックも咲きます。芝桜もピンクや白の絨毯が広がり始めました。同時に、芝桜の甘い香りが広がります。 楽しいことが見つからなければ、ちょっと散歩に出て、自然の変化を味わいましょう。それだけで、気分転換にはなりますし、運動不足の解消になります。人間たちに様々なことが起きようと、自然の命は季節の変化と共に、当たり前のように命の輝きを見せてくれます。私はいつも、そんな自然の力に励まされ、教えられながら月日を重ねてきたように思います。 そして、できれば日常生活の中で、「良いこと探し」のゲームで楽しみましょう。どんなことでも良いのです。家族と笑いあえることがあったら、「楽しかったな、今日は良い日だ」と思い、テレビで好きな歌手や俳優の顔を見ることが出来たら「嬉しいな」とワクワクし料理がうまくできたら「ヤッター!」と思い、子どもの笑顔が見れたら、「幸せだな」と思う。その日、いくつ良いことを探すことが出来たのか、意識してみてもいいですね。 自分の心をコントロールできるのは、自分自身の力にかかっています。自分の心に嘘をついてまですることではないですが、どのようなことで自分の心が喜ぶかを見つめることも大切ですね。 とにかく、周囲に広がる不安や焦りを強化するような情報に振り回されないようにしたいものです。ちなみに、「良いこと探し」は、「少女パレアナ(ポリアンナ)」という少女向けの小説に出ています。私は中学生の頃(もう、半世紀も前のことだ!)、この小説にとても感動して、その頃「良いこと探し」のゲームを始めるようになりました。その後も、いつもは忘れているのですが、何か辛いことや悩むことが多くなった時に、この「パレアナ精神」を思い出すのです。
2020年05月17日
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午前中はとても良い天気で気温も高かったので、市内の自然公園の近くに住む友人の誘いででかける。公園内には湧水があり、そこから流れ出す清らかな水が小川を作り、水辺や公園内には初夏の草花が花盛り。公園を一回りするだけで5000歩近く歩いた。この公園は、高校時代に時々足を運んだ場所でもある。自然公園なので公園内の山菜等は採ってはだめなのだが、あちこちでちょっとつまんでいる人たちも見かける。二輪草やエゾエンゴサクなどが花盛りで、とても美しかった。オオイヌノフグリも可憐な花を咲かせているのだが、どうしてこんな名前がついたんだろうと不思議。こんな名前を付けられて、きっとイヤだろうな散歩して友人の家に着いて間もなく、空が急に暗くなりザーッと雨が降り始めた。good timingであった。
2020年05月12日
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リンクしているぼちぼちさんのブログで知った記事。とても共感するので、私もコピーしておく。看護師を再び使い捨てにするな 崩壊の危機に国がやるべきこと4/27(月) 10:32配信 連日の新型コロナウイルス報道に接しながら、改めて気づくことがある。リーダーの器量の大小である。 首相、大臣ら政府関係者、自治体の首長らが連日、テレビに登場する。マスクで顔を隠していても、表情や語り口から、熱意や決断力の有無、誰のために政治をしているのかが伝わってくる。 それにしても、出てくる人、出てくる人、都知事を除いて男性ばかりだ。官僚も、医療の専門家たちも。制度を作り、運用し、この国を動かしているのは男性なのだ。 対照的なのが、切迫した医療の最前線で働いている人たちだ。看護師の多くは女性だし、押し寄せる市民の相談に応じて、検査の可否を判断し、次のステップにつなげる仕事をしている保健師も、ウーマンパワーが支えている。 看護師や保健師はもともと女性の職業だったが、近年は男性の参入が増えた。といっても、厚労省の調査(2018年末)によると、男性比率は看護師7.1%、准看護師6.3%、保健師2.5%で、あいかわらず女性が中心だ。 ついでに言えば、働く女性たちを支えている保育園や学童保育、訪問介護の担い手も、ほとんどが女性である。それらの現場から悲鳴があがっている。 中でも、いま最も深刻なのが看護師不足である。コロナ感染症の重症患者を治療するとき、人工呼吸器やECMO(体外式膜型人工肺)を装着すると、一般病床の患者に対するときに比べ、何倍もの人数の看護師が必要だという。 体力的にも精神的にも厳しい状況であるため、看護師たちの免疫力が落ちて感染する危険も高まる。院内感染が起これば、感染の可能性がある人は現場を離れざるを得ず、ますます人手が不足する。この負の循環は、各地の病院で既に始まっている。 市中感染や、自身から家族への感染を恐れて車中泊をしている人までいると聞くと、何とかならないかと胸が痛む。 人手不足解消のために、日本看護協会(福井トシ子会長)が離職中の看護師たちに復帰を呼びかけている。 看護師不足は、いまに始まったことではない。毎年、新卒者が就職している一方で、離職者が多いからだ。看護協会の「2019年 病院看護実態調査」によると、離職率は正規雇用看護職員全体で10.7%、新卒の場合で7.8%もある。再就職者に至っては17.7%にのぼり、6人に1人が採用された年のうちに離職しているという。 離職の大きな理由は「仕事がきつい」「賃金が安い」「休暇が取れない」といったブラックな労働環境にある。夜勤の繰り返しなど過重労働の結果、十分な看護ができていると感じられず、達成感がないというのも離職理由にあがる。患者によるセクハラ被害も多い。 解決するためには、ワークライフバランスを重視する方向に転換し、働き方の多様化・柔軟化を認める必要がある。それが離職を防ぎ、看護師らの復職につながると指摘されながら、なおざりにしてきたツケがまわってきたといえる。 国会会期中である。離職している看護師や保健師に戻ってほしいのなら、議員立法によってでも、待遇を改善する法律を早急に作り、危険な労働に応じた手当や、安心して働けるような感染対策を十分に講じてほしい。 新型コロナに対する緊急経済対策について安倍首相は「世界的に見ても最大級」と胸を張るが、規模を誇るより、こうした緊急に必要なところにお金をかけるべきではないか。 もう一つ気になるのは、感染症との闘いを戦争にたとえ、「国難」とか「非常時」という言葉が飛び交っていることだ。「こんなときだから国に尽くすべきだ」という声がどんどん大きくなり、離職看護師を追い詰めることにならないか心配だ。 かつて、日中戦争から太平洋戦争敗戦時まで、日赤看護婦(日本赤十字社看護婦養成所を卒業した者)を中心に、5万人以上が従軍看護婦として戦地に赴いた。「忠君愛国」をたたき込まれた女性たちが、「女の兵隊」である従軍看護婦を志願したのだ。 白衣の天使、崇高な女性ともてはやされ、「女ながらもあっぱれ」という賞賛の声が後押しした。だが、軍隊組織のなかでは最下層の傭人(ようにん)として扱われた。激戦地に送り込まれて命を落した看護婦も多いが、戦死者の総数すら、いまも詳らかでない。 戦後補償も遅れた。兵隊には軍人恩給(年金)が支給されたが、「女の兵隊」は対象から外された。ねばり強い要求に応じて慰労給付金の支給が始まったのは、戦後30年以上たってからで、金額も少なかった。労に報いられることもなく、使い捨てられたに等しい。 いま国難だからと、離職看護師たちの義侠心に訴えて、命の危険をともなう“戦場”に再び召集し、ゆめ使い捨てにすることがあってはならない。(女性史研究者・江刺昭子)女性が多い職業は、看護師だけではない。福祉分野の介護職も、保育園や幼稚園、留守家庭児童会の指導員、さらには市町村に配置されている家庭児童相談員や児童福祉士、みんな女性が多い職業だ。共通するのは、非常勤やパートなど、処遇には決して恵まれていないことだ。私は詳しくはわからないのだが、ひょっとすると現在PCR検査の実務を担っている検査技師も、女性が多いのではないか。だとすると、他の女性の多い職業と共通する背景があり、それが検査数増やせない要因ではないか。今まで「女性が輝く社会」「女性活躍社会」なんてどこかの首相が言うたびに、私は気分が悪くなっていた。処遇改善にちっとも手をつけず、パートで働きやすくするなんて、女を都合よく使おうとする魂胆だとしか思えなかったからだ。それでも女性の多くは、ムカつきながらも目の前の命や老人や子どもや病人を守らねばと、自分の心身を削りながらでも頑張ってしまうことが多い。今現場で頑張っている人たち、本当に体に気をつけてくださいね。
2020年04月28日
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北海道では、病院や施設での集団感染もあり、感染者が急上昇。多少は病院や福祉施設の状況を知っているだけに、現在そのような職場で働く人たちのことを考えると本当に心が痛む。福祉施設や病院などは、通常でも勤務は過酷なことが多い。一番の要因はギリギリのスタッフでの運営だからだ。そんな中でスタッフに感染者が出たなら、簡単に職員の補充も出来ず、さらに消毒や検温など通常業務よりも手間がかかるようになるから、その勤務の過酷さは想像を超える状況だろう。検査体制や病院の重症患者への対応能力などのニュースを見聞きするにつけ、これほど日本の医療福祉体制が脆弱だったのかと、心底失望している。台湾や韓国は、かつてのSARSやMERSの経験の反省から、感染症対策に力を入れていたらしいが日本はどちらかというとこの二つの感染症を抑え込んだために、厳しい対策を講じていなかったことと、今回もその経験から楽観視していたのが現在の状況につながっているらしい。きっと次の感染症が発生した時には、今回の反省が生かされるのだろうが、とにかく今は、この状況を何とか乗り切るしかない。政府の対応は全て後手後手どころかお粗末なことが多くて、今は民間や地域がこの難局を何とか乗り切ろうと、様々な支援活動が始まっている。例として、地域の商工会議所や農業団体が、様々なプロジェクトを始めている。当市でも、クラウドファンディングを利用しての「飲食店応援プロジェクト」が始まった。私も早速、頑張ってほしい飲食店への支援の申し込みをした。といっても、コロナ騒動が落ち着いてからその飲食店で使えるチケットの申し込みなので、寄付というものではない。支払いを先にするというだけだ。また、通常はお弁当などの提供はしていないお店も、今はそれぞれデリバリーも含めて取り組んでいる。私はまだ利用はしていないが、週に一度くらいは利用しようかと話している。このような状況なら、連休明けに緊急事態が解除されるかどうかもあやしい。毎年楽しみにしていた、孫が在学する農業高校のグリーンフェアも中止となった。孫は、時間割に添って出されている課題をこなしているらしい。課題を提出したら評価につながるらしく、真面目にやっているようだ。休み中の課題を準備するのに、先生たちも大変だっただろうと思う。通信生の高校などでは、オンライン授業のシステムがありそれを最大活用しているらしい。その点では、私学の方が進んでいる。今まで、通信制の高校と言えば、不登校の生徒たちの進学先のように言われていたが、こんな状況になったら道立高校よりも学生への支援は充実しているから、今までは少し肩身の狭い感じがしていた子も、コンプレックス解消となっていればいいなと思っている。とにかく私は、コロナウィルスに取りつかれないことに気をつけよう。自分が感染するのも嫌だけど、知らずに感染して移してしまうことが怖い。呼吸ができずに苦しみながら死ぬのはイヤだし、身内が万一病気になり、見舞いにも付き添いにも行けないなんて絶対嫌だ。そんな状況にある人が、日本では10000人近い。苦しみながら亡くなった人も、今日現在338人。1日も早い終息を祈るばかりである。ちなみに私は、昨日・一昨日は、二日続けて畑での作業でした。
2020年04月26日
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30代から40代にかけて、高校生ボランティアの活動を推進する仕事をしていた。その頃の市内の高校のボランティア部の顧問だったS先生から、電話をもらった夢を見た。最後に会ってからすでに30年以上は経っていて、ほとんど思い出すことがなかった人だった。とりあえず夢で覚えていることだけ書いておいて、後から補足したいと思う。私は、現在の私のようである。誰かから電話が来ていると言われて出てみると、「Sです。お元気ですか。こちらに来ているので、ちょっと会えませんか?」とのこと。私はとてもビックリしながら、「久しぶりですねー。大丈夫ですよ、どこに行ったらいいですか?」と答える。すると、S市がいいとのことで、すぐさま準備をして駅に向かい、電車に乗ってK市まで行き、そこで乗り換えることになる。しかしそれからが、夢の恒例パターン。どうしても目的地まで行けずに焦り、時間までに着けないようだと電話をしようとするが、それもどうしても電話が出来ずに焦りまくって終わる。結局、彼の声を聞いただけなのだが、本当に懐かしくて嬉しかった。ちなみにその彼は、地方の高校に転勤後癌を発症して、やがて亡くなっている。まだ30歳になるかならないかの年齢だった。どうして彼が夢に現れたのかわからないが、彼を連想するきっかけとなる出来事はあった。今日はこれからちょっと忙しくて書けないので、明日以降に書けたら書いておきたいと思っている。以下、上記の続き ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・S先生は、当時仕事で関わってた高校のボランティア部の顧問だった。新卒で、ご自分はボランティア活動は未経験だったようだが、学校の役割分担で顧問になったらしい。背広を着ていなければ、「誰が生徒で先生か」という感じであった。「ボクは何もわからないので…」と、ただただ生徒と一緒に動いていて、当然指導らしいこともしない。ボランティア活動では生徒の方が先輩なので、私達や生徒たちの言うことに従いながら、時々意見を言う程度だった。私から見たら、それはボランティア部顧問として最高の対応であった。私の「高校生ボランティアの推進」の方針は、とにかく高校生の福祉に対する好奇心や意欲を育てるということだから、生徒たちがやりたいと思うことを形にしてゆくことに心を砕いていた。同じ思いを共有する、福祉施設や福祉団体の若い人たちを仲間として事業を組み立てていたので、当然ボランティア部の顧問であるS先生もその仲間となっていった。どうも「教師」という職業を長年続けていると、「指導する」ことが習い性となってゆくようだ。何かを指導していないと、自分の仕事をしていないというような気分になるのかもしれない。私は仕事を通して何人もの「顧問の先生」と出会ったけれど、生徒たちを管理し指導することが自分の役割と思う人が多かったように思う。特に、地域で生徒たちが活動することになるのだから、色々な意味で生徒たちを守ろうとする思いから、「老婆心」による口出しも多くなる。その気持ちは十分に理解しながらも、私は(地域で活動する時には、先生の指導はじゃまだなあ)と感じることもあった。その意味では、S先生はその杞憂は全くなくて、それどころかちょっと生徒たちに軽く扱われすぎてるなとすら感じた。だから生徒たちには「先生には敬語を使おうよ。友達じゃないんだから。それは、お年寄りに対してもおんなじことだから」などと注意することもあった。それでも生徒たちは「だってえ、何も知らないんだもの」なんて言うことすらあった。そんな懸念はあったけれど、生徒たちはS先生に仲間的な兄貴という親しみを感じているようだし、そのためもあってなのか、以前よりどんどん自主的になり意欲的になっていった。それを見ながら「これが本当の教育だなあ」と改めて考えるようにもなった。ところがである。何事にもプラス面とマイナス面がある。先生との心理的距離が近いだけに、ある頃から一人の女生徒がS先生への好意をあからさまにするようになった。男女関係には鈍いと言われる私も、一緒に活動する時の彼女の先生への態度は、明らかに行き過ぎているように思えるようになった。先生の方は戸惑いながらもそれを拒否することもできず、内心ではまんざらでもないと感じているように見えた。最初は成り行きを見守っていた私も、ある時やはり注意しようと、まずは女生徒と二人の時に声をかけた。「先生にあまりベタベタしたら、先生が困るよ」「だって、みんなもやってるよ」「いや、貴女はちょっとやりすぎのように見えるよ。多分、他の子たちもそう感じてると思うよ」キッとした感じで「誰かがそう言ってるんですか?」「いや、私がそう感じたってこと。S先生のこと、好きなんでしょう?」「好きです。可愛いんだもの」 (ハァーッ?という気分で)「好きなのは仕方がないし悪いことじゃないけど、先生と生徒である間はそれなりの節度は必要だよ。二人が怪しいなんてことになったら、一番困るのは貴女が大好きなS先生なんだから」「うーん、でも私は困らないし…」(フーッという気分で))「大好きな人を困る状態にしないように心を配るのが愛情だと思うけどな…」とまあ、そんな埒もない会話に終始し、彼女が相当に彼にお熱で、周りすら見えなくなっていることだけはわかった。そうなると、やはりS先生に注意しなくてはならない。その時のやりとりの詳細は覚えていないが、彼はやはりとても困惑していたようだし、どうしていいのかわからないというのが正直なところだったようだ。それから二人の間でどのようなやりとりや付き合い方の変化があったのか、私は知らない。私としては、二人に言うべきことは言ったと思い、あとは大人で教師であるS先生が何とかするしかないだろうと思っていたのだ。やがて彼女の卒業の時が近づいてきた。ある日、彼女が一人で私の職場にやってきた。何か話があるのだろうと話を聞くと、先生から「卒業したらもう付き合えない」と言われたという。またもや私は、ハアーッという気分になった。多分彼は、私から注意を受けたころから彼なりに彼女との距離を取り始めたのだろう。しかし彼女は、その意図を誤解していたようだ。「卒業したら…、それまでの我慢」というように。それなのに、卒業直前でそのように引導を渡され、ほとんどパニック状態のようで話しながら号泣する。(まいったなあ)と思いながらも、ここは彼女を何とかなだめて了解させなくてはならない。ここで引導を渡したということは、彼には彼女に対する異性としての愛情はなかったということだ。どんな言葉で彼女に話したのかはっきりとは覚えていないが、基本的な私の考え方は今も昔も変わりはないので、多分次のようなことを話したと思う。「自分がいくら大好きでも、時とタイミングが合わなければどうしようもないことがある。貴女が心から大好きだと思った気持ちは間違いではないし、それを自分なりに相手に伝えようとしたことは偉いと思う。でも、ちょっと相手の立場に配慮するという愛情が足りなかったのかもしれない。そんなことも見えないほど好きになった貴女を、私は羨ましく思う。いつまでも彼を好きでいていいんだよ。彼に拒否されたと今は辛いだろうけれど、今までの先生との幸せで楽しい思い出は消えるわけじゃない。月日の経過とともに、今の辛い思いがきっと素晴らしい宝物になって、これからの貴女の道しるべになる。何回も言うけれど、嫌いになれないのならずっと好きでいていいんだよ」それから間もなく、彼の転勤を知った。すると、彼から「転勤する前にお会いしたい」と連絡があった。転勤後の顧問のバトンタッチの連絡や紹介もされていたと思うので、うーん、どうしようかと迷った。私は基本的に、余程の事情がない限り、特に仕事がらみの人とは男性と二人では会わない。だけどその時は、「多分、彼女との顛末の話だろう」と思ったし、もう会うこともないだろうと市内の料理屋で会うことにした。そこで聞いたのは、彼の正直な思いであった。傷つけたくないという気持ちが、一層傷つけてしまったという後悔。彼女の情熱に負けてしまった自分の弱さなどなどが話のほとんどだった。その話を聞きながら、ひょっとしたら…という疑念も抱いたが、さらに疑問を問うても詮無いことだとやめておいた。「お世話になったみらいさんだけには、ちゃんと話しておきたかった」と言ってくれた。それが彼と話した最後であった。彼はその後、若くして癌を発病し(多分、肺がんだったと思う。タバコは吸っていなかったが…)やがて亡くなってしまった。後任の顧問の先生からその知らせを受け、「当時のボランティア部員と葬儀に行くので一緒に行きますか?」と誘われたが、遠方だったので香料をお願いして葬儀には行かなかった。葬儀には、彼を大好きだった彼女も参列したそうだ。ずっと泣きっぱなしだったと顧問の先生は話してくれた。彼女とのことも、ちゃんとご存知のような口ぶりだった。この顧問の先生も、本当に素晴らしい教師であった。その彼女も、今は三人の子の母親である。年賀状のやりとりだけはしているので、年に一度彼女の元気を確認してホッとしている。その時だけは、チラリとあの時のことを思い出すが、もう記憶のかなたのS先生。夢の中で、何か私に話したいことがあるのかなとチラリと思った。先生がとうの昔に亡くなっていることを、夢の中では思っていなかった。ただ、「久しぶりに会える」と嬉しく思っただけだ。本当に夢は不思議だ。
2020年03月17日
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3月5日、町内の知人の葬儀に参列した。知人といっても、特に個人的に付き合いのある人ではなく、かつて町内会の役員をしていたころからの顔見知りの人である。亡くなったのはご主人で、小さな個人商店を長年営んでいて、私はその奥さんと「町内会婦人部」で一緒に活動した人である。お二人とも、商人らしくない地味な人柄で、扱っている商品もどちらかというとマイナーなもので、今ではコアな趣味の人相手のような感じであった。社交的な人ではなく、どちらかというと亡くなった人は良い人なのだけど不愛想。町内会活動にも、ご本人はあまり参加している感じではなかった。そんなこともあり、きっと参列者は少ないだろうなと思いつつ、それでもかつては奥さんに協力もしてもらったしと参列したのだ。…それにしても、行ってビックリだった。身内以外の参列者は、町内会長と私の二人だけ。だから家族葬のような感じで、私はどのように振舞ったらよいのか戸惑うことが多かった。仮にも町内で長年商店を営んでいるし、新聞のお悔やみ欄にも出ているのだから、みんな知らないわけはないだろうに、あまりにもクールなわが町内。正直なところ、とても残念な思いがした。葬儀一切を葬儀社が引き受けるようになって何年も経つ。今では、受付も司会も故人の紹介も弔電披露も、全部葬儀社の人がやっている。私が結婚したころは、葬儀はお寺が多かったし、葬儀社もその後出てきたけれど、やっぱり町内会が取り仕切っていた時期が結構あった。通夜の日から町内の区単位で女性たちが集まり、通夜と葬儀の朝までの食事の準備をした。男性たちは、受付や会計、弔電の整理などと手分けして手伝っていた。通夜と葬儀の時の故人の家の留守番も、町内会の誰かが引き受けた。いつのまにか、食事→受付→会計→司会→葬儀委員長などの順に町内会のお役目はなくなり、一切を葬儀社にお任せの葬儀がほとんどになってきた。それは、故人のご家族にとっては面倒もなく気を遣わずに済み、とても楽なことで悪いとは思わない。しかし、そのプロセスの中でどんどん町内会のつながりがなくなってきたのは事実だ。かつて区長になった時には、「区長している時に葬儀がなければいいな」と願ったものだが、今はほとんどそんな心配はない。うっかりするとお悔やみ欄を見逃して、近くの人が亡くなったことも気付かぬことがある。そんな時は、今回参列した程度の付き合いの人には、後で家を訪ねてお悔やみすることもない。しかし…だ。やっぱり私は、なんだかとても寂しい気がしている。「ご近所に迷惑かけたくない」という気持ちは私にもあるが、多少は迷惑かけあってのご近所だろうとも思う。葬儀に参列することは、私にはちっとも迷惑ではない。生きている間、あるいは故人のご家族と多少なりとも関わったのであれば、ちゃんと参列して「長い間ありがとうございました」くらいは言いたい。自分がそうしてほしいというわけでもないけれど、私はそうしたい。あの、「近所の葬儀がなければいいな」と思った頃が、ふと懐かしくなってしまった。一緒に料理を作りながら、近所のお年寄りに色々と教えてもらったり、昔話を聞いた頃を思い出している。
2020年03月08日
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昨日は、常用している高血圧の薬がなくなったので、かかりつけのクリニックへ。このような時期なので、事前に電話したら「体調に問題がなければ、薬の処方だけします」とのことで、指定の時間にクリニックへ。通常はとても混んでいるのだが、この日は今までで一番すいていた。窓口で処方箋を受け取り、隣にある処方箋薬局へ。この場所は、JR駅前で二軒のクリニックがあり、その処方を受け付けるのが大部分と思うが、ここは通常の三倍近い人がいた。混んでいるというほどではないが、今までで一番の混雑。多分、私のように薬の処方だけの人が多いのだろう。というわけで、クリニックでは5分。薬局で10分くらいかかったかな。気になったのは、私のかかりつけのクリニックは、医師もスタッフも全員女性。それも、見たところ医師をはじめとして子育て世代のような感じ。これから学校は全部休校になるので、困っている人も多いのではないだろうか。帯広では、学校休校の影響で病院職員の確保が難しくなり、予約患者以外の一般外来診療を、28日から当面見合わせることになっている。予約以外の外来診療見合わせ 休校で帯広厚生病院02/28 12:13 更新 そのような病院も今後増えるのではないだろうか。私は今までも思っていたのだが、大きな企業はもとより、病院や介護施設、学校や幼稚園、大型スーパーなどの、女性が多く働く職場には、企業内保育施設の設置を推進した方が良いのではないか。できれば、学童保育的なものも併設したなら、女性は随分働きやすくなると思う。調べていないので実態はわからないが、国は企業内保育などにどのくらいの支援をしているのか。午後三時頃から、市内の大型温泉施設に行く。実は当市では、高齢者(75歳以上だったかな?)で介護保険を利用しない人に、市内で使えるチケットを渡している。その利用先にこの温泉施設があり、3月で有効期限が切れる。もちろん使えるのは本人だけなのだが、せっかくのチケットを使わないのはもったいない。きっとこの時期だから、かえって空いているのではないかと行くことにした。予想通り、通常よりは利用客も少なく、ゆっくりと温泉と岩盤浴を楽しみ、併設のレストランで早めの夕食をとって帰ってきた。帰宅してテレビをつけると、鈴木知事が緊急事態宣言の会見直前だった。それを見ながら、「ギリギリセーフ。今日行って良かった!」と思ったのが正直なところ。さて、これからどのような推移をたどるのかわからないが、一日も早く終息宣言が聞きたいものだ。とにかく今日は外出せず、自宅で読書三昧でもしようと思う。今のところ、多分私も夫も保菌者にはなっていないと思うので。
2020年02月29日
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中学・高校時代からの友人二人と、久しぶりに会って話をした。Kさんは本州に住んでいるのだが、お母さんの三回忌で帰省したので声がかかった。もう一人のTさんは、年末にお母さんを見送ったばかり。Kさんのお母さんは、一人暮らしをしていたのだが、早朝階段のある玄関に新聞を取りに出て、転倒して階段下に落ちてそのまま亡くなった。転倒直後は意識があったらしいが、階段を上ることが出来ず、軽装だったこともありそのままになってしまったらしい。この季節、北海道では結構「凍死」も多い。昔は、酔って玄関先でそのままとか、吹雪に巻き込まれてそのままという話もよくあった。しかし、年齢的には90歳を超えていたので、子どもとしてはショックではあったけれど、長患いで苦しまなかったと思えるようである。Tさんのお母さんは、施設で暮らしていたのだが、かなり認知症が進んでいたらしい。しかし、身体は格別の病気もなく、その日も普通に食堂で食事をとり、居室のベッドに横になり、次に介護の人が様子を見た時は呼吸をしていなかったとか。これはもう、「大往生」と言って良いだろう。不謹慎ではあるが、友達であることもあり「それは羨ましい亡くなり方だねえ」と話すことになってしまう。誰もが必ずその時が来るのだが、どんな最後になるかは誰にも予想がつかない。私達ももうすぐ70代になりそうな年頃なので、それぞれ体の不都合が出てきている。それにもまして話の中心になるのは夫との付き合い方。夫だって、「亭主元気で留守」とはならない年で、それぞれに色々と思いがあるようだ。それでもここまで一緒に暮らしてきた相手なので、何とか穏やかに日々を過ごし、できれば自分が健康で前向きに生きたいものだという話に落ち着く。三人とも、親は90以上まで生きているわけだから、私達も長生きの可能性は高い。最後は「次に会うまで元気でいようね」である。
2020年02月05日
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震災から丸25年 午前5時46分に祈りささげる1/17(金) 5:32配信 神戸新聞あの朝のことは、今でも昨日のことのように思い出される。あの時から、私は「命があればそれでいい」という気持ちが強くなった。当時神戸で大学生だった長男の進路のことも、自分がやりたいことをやればいい、世界のどこに住んでもいいと思うようになった。それは今でもそう思っている。25年経ち、孫は当時の長男の年齢に近くなった。下の孫は高校二年生。進路のことを考える時期に来ていて、本人はケーキやパンなどを作る職人になりたいと考えているようだ。農業高校在学なので、専門学校に行くか、卒業してすぐにそのような店に就職して修行するか迷っているようだ。親である息子夫婦は、進学を勧めるかもしれないが(二人とも大卒なので)私は本人が「今やりたいこと」をやることがいいと思っている。あの大震災で、将来のために今を頑張っていた若者たちの未来が、どれだけあっという間に消えたことだろう。あるかないかわからない未来のために、今やりたいことを我慢することはない。それを痛感させてくれたのが、あの大震災だったような気がする。
2020年01月17日
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今日は成人の日。実は、孫も成人式を迎えるのだが、大学進学しても住民票を移してないらしく、「成人式のために帰るのはムダ」と言い、帰省していない。男の子なのでそれもありだろうと私は思うが、親であるお嫁さんはちょっと寂しそうだった。「男の子なんてそんなものよ」と慰めたけれど、私以上に子育てに生きがいを感じてきた彼女にしたら、息子の成人はそれなりの感慨があるのだろう。今年の成人式のニュースでも、女性はみんな振り袖姿。たまーに洋装の人を見ると、「エライ、エライ」と拍手したくなるくらいだ。男性は和装・背広半々?三年後には下の孫も成人するが、女の子なのでやはり振袖をきるのだろうか。今や、日本の和服文化や織物や小物等の技術は、成人式で成り立っているかもしれないので、一生に一度くらいは、振袖を着るのもいいのかもしれない。考えてみたら、私は振袖を着たことがなかったかもしれない。でも、結婚式のお色直しは、ひょっとしたら振袖だったかな。もうずいぶん前のことなので、詳細は忘れてしまった…。それでも、結婚する時に付け下げや訪問着、留袖や喪服など一通りは母が用意してくれたので、結婚式出席が多い時期には結構着たと思う。私はなで肩寸胴の和服体形なので、これでも和服は似合うのだ。だから、高齢になり暇が出来たら、日常的に和服を着てもいいかとおもっていたが、その年頃になった現在はまったくその気にならない。やはり和服はじゃぶじゃぶ洗濯もできないし、なにしろ窮屈だ。慣れたらそうでもないともいうけれど、やっぱりとても億劫で、あの箪笥の肥やしをどうしようかと思っている。とにかく、成人式を迎えた皆さんにとって、これからの人生が幸せなものでありますようにと心から祈ってしまう。
2020年01月13日
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今年も慌ただしく年末年始を過ごしています。珍しく雪のないお正月ですが、このまま冷え込むのも困ります。息子たちは「凍害にならなければいいが」と心配する朝です。皆様にとって、良い年になりますように。私は今年も、物忘れメモのつもりでブログを書いていこうと思いますので、よろしくお願いします。
2020年01月01日
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気付けば年末である。年賀状も無事投函し、チョコチョコと年末の掃除や洗濯をしながら、いつのまにか28日になってしまった。今日はこれから、年末年始料理の食材買い出しに行く。個人的なことで書きたいこともないわけではないが、気になるニュースが次々と。覚書として書くことに追われている感じ。こんなドタバタの陰で、官邸主導での様々な問題に責任を取ろうともせず、官邸主導でやりたいようにやってゆく。これが政治主導というのなら、もう真っ平ごめんの気分である。それでも良いという人たちが多いのだろうか。最近は読書備忘録もまったく書いていなかった。最近気になって読んでいるのは、「縄文文化」に関する本達。例によって次々と忘れてしまうのだが、縄文時代は魅力的だ。とにかく、今日はこのくらいにいたしましょう。
2019年12月28日
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私の子ども時代にサンタクロースはいなかった。というより、私の家には来なかった。あまり周囲のことを気にする子ではなかったので、クリスマスという言葉は知っていたと思うし、それがキリスト様の誕生日のようだとはわかっていたと思うが、それを祝っている人たちが周囲にいるかどうかも気にしていなかった。我が家は田舎だったが、町には教会もあったし、教会の日曜学校に行っているクラスメートもいるらしいと知っていたけれど、それだけだった。どうもクリスマスにはサンタが来てプレゼントが貰えて、クリスマスケーキとやらを食べるらしいと知ったのはいつの頃だっただろう。知ったとしてもそんな家庭を羨ましいとも思わなかったのだが、ある時父がクリスマスケーキを持って帰った。多分、職場でとりまとめたのか、仕事柄付き合いのあったお店から買ったのだろう。初めて食べたクリスマスケーキは、バタークリームのケーキだったが、とても美味しくて妹たちと喜んで食べた。ぼんやりとその光景を思いだせる。その後も、私自身はクリスマスプレゼントはもらわずに成長し、やがて結婚した。わが子が育つ頃には、親や祖父母がサンタさんに成り代わってプレゼントを用意するのが普通になった。クリスチャンでもないのに玩具屋や菓子屋の商売に協力しているような気分はどこかにあったが、子どもたちは保育園時代からクリスマス行事に洗脳されているので、我が家だけはサンタさんは来ないというわけにもいかなかったし、やはり子どもを喜ばせたい気持ちは十分にあるので、何とかサンタさんを信じさせようと頑張ることになる。息子たちがサンタを信じていたのは、多分保育園の頃までだろう。その後も、おじいちゃんサンタや、両親サンタのプレゼントに歓喜し、クリスマスっぽい料理やクリスマスケーキは、年中行事の一つだった。それはそれで、やはり楽しい思い出だ。子ども達が成長し、学校や就職をして家を離れてしばらくは、私たち夫婦だけになる。だから、せいぜいショートケーキを買い、鳥のから揚げなんぞで世間に同調していた。当然ながらクリスチャンではないので教会には行かないし、クリスマス商戦にも乗らない。長男に孫が生まれてからは、またまたサンタさんに成り代わる時期がしばらく続いていた。それはそれで、やはり楽しいことではあった。イブのほとんどは孫たちとクリスマスケーキやクリスマス料理を食べ、その夜は泊まり、次の日の朝、クリスマスツリーの下にプレゼントがあることを発見した孫たちの狂喜乱舞を見て、孫がいる幸せを味わうことが出来た。しかしそれも、孫たちが小学校低学年までのことだったと思う。最近では、孫の好きなチョコレートセットをクリスマス用にプレゼントするのが定番。年末年始には、餅つきや正月料理準備、そして年越しなどと息子たち家族と過ごすので、クリスマスを盛大に楽しむことは全くない。昨夜は、スーパーで買ったショートケーキを食べたのが少し世間に合わせたということか。(とにかく、スーパーに行ったらそんな商品が並んでいるので…)少子化が進み、さらに結婚しない人や子どもを持たない人が増えている。様々な状況から、私はこの流れは当然だろうと思う。しかし、クリスマス一つとっても、私は子どもがいたおかげて沢山の楽しい思い出を作ることが出来た。もちろん、子どもを育てるということは楽しいことばかりではないし、想像できないような苦労を背負うことになるのかもしれない。だけど、身近に子どもの声が聞こえない社会は、とても寂しいことだと思う。朝の番組で、病児保育をする施設が少ないと報道されていた。私はそれを見ながら、どうして病気の子どもを保育施設に預けなくてはならないのだと思った。子育てをしていたら、子どもが次々と病気になるのは(ほとんどは風邪などのウィルス性の病気)当たり前で、そのような時には親が安心して休むことのできる体制を作るのが先だろうと思う。病気で体調が悪いのに、なじみではない保育施設に預けられる子どもの視点がないことに、私はテレビに向かって「何考えてるのよ!」と腹立たしかった。そんな職場環境も作ろうとせず、子どもを生めとか女性も働けなんて、人をバカにしている。「安心して預けられないのは困りますねー」なんて、大人の勝手な言い分だ。話がずれたが、人が生きてゆく社会には子どもは宝なのだ。大人の都合に合わせた子ども像ばかりを押し付けられる社会に、子どもだって生まれてきたくはないだろう。
2019年12月25日
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父の後輩であり、友人であり、同好の志でもあったMさんが亡くなった。若い頃から仕事をしながら小説を書いたりしていて、市内の「市民文芸の会」の代表も長年していた。実は父も、最初のこの会の代表であり、さらに地元の社会福祉法人の理事長も担っていた。その他にも様々な縁が重なり合って、私達も息子までもお世話になった人でもある。父は脳梗塞を繰り返して失語症の障害が残ったが、最後まで自分の変化を好奇心を持って受け止め、できることを楽しんだ人だった。そんな父を励ましながらも、いつも様々な行事に誘ってくださったMさんもまた、父に通じる波乱万丈の人であった。連れ添った奥さんは認知症を発症し、ずっと在宅で介護して看取り、そのすぐあとにご自身も認知症を診断された。近くに住む弟夫婦や、道内に住む娘さんが時々来ていたようだが、最後まで一人で生活をしながら、ライフワークともいえる物書きの活動をしていた。長年使っているワープロは使えたようで、残されたスケジュールにはこれからやりたいことも書かれていたという。経歴などを葬儀で聞いていたら、誕生日も亡くなった日も、父と同じ月だと知った。縁のある人は、こんなところでも共通項があるんだなと不思議な気持ちになった。きっと今頃はあちらのせかいで、楽し気に会話していることだろう。「やあやあ、Mさん、もう来たのかい?」「Yさん(父のこと)までは生きれなかったけど、もう十分じゃないかい?」「Mさんも、よくやった。最後までボケも楽しんでいたようだね」「そりゃあ、Yさんのお手本を見ていたから、ボケという未知の世界を楽しんだよ」「ああ、頭の腐ったことじゃあおんなじかあ。それでも楽しむこともゆるくなかったしょ」「ゆるくないけど、ボヤクよりボケを笑った方がいいって教えてくれたのはあんたじゃないか」「ここはいいよ。もう、楽に話せるしねえ。知ってる人だっていつぱいいるし、これからはもっと楽しもうよ」「そう思って喜んで来たよ。これからはお互いご先祖様になるんだねえ。楽しみだねえ」なーんて、私の妄想は葬儀のお経をBGMに続くのであった。
2019年11月13日
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新聞で下記の記事を読みながら思う。パラチケット抽選、22日から申し込み 9月9日まで受け付け 北海道新聞 08/22 05:00 2020年東京五輪・パラリンピック組織委員会は22日から、来年8月25日に開幕するパラリンピックのチケット抽選申し込みを公式販売サイトで受け付ける。締め切りは9月9日午前11時59分で、結果は10月2日に発表する。後略今年は北海道も猛暑で、当然本州もまだまだ暑い季節だ。私は、オリンピックで死者が出なければいいけどと本心から危惧している。家の中にいても熱中症になったり、「戸外にはできるだけ出ないように」なんてテレビでも注意を呼び掛ける季節に、世界中からのアスリートや観客を呼び込もうなんて、何を考えてるんだと思っている。室内競技だけならまだしも、屋外競技は選手も命がけになる。ましてやパラリンピックは、身体に障害のある人が選手なのだ。障害によっては合併症を抱える人や、体温調節が難しい人たちがいる。そんな人たちに本州で競技をさせるなんて、何がアスリート・ファーストだと思う。日程は変えられないのだろうから、せめて屋外競技を本州よりは涼しい北海道にしたらどうですか?先日、お台場海浜公園で行われたトライアスロンで、大腸菌騒ぎがあったけれど、近年は豪雨災害も珍しくはないから、このような事態も起きることがはっきりした。その直後に、北海道トライアスロンが洞爺湖周辺で開催されたけれど、ここなら宿泊施設も十分にあるし、景観も最高。今からでも遅くないから、可能な涼しい場所に変更はできないものでしょうか。
2019年08月22日
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昨日は午前中は雨模様で、湿気も強く蒸し暑かった。しばらく続いたジメジメ天気で、庭も草がグングン伸びて気になっていた。午後からは晴れたので、少しでもと除草作業をしたのだが、さほどの高温でもないのに多湿のためか、一時間くらいで汗がタラタラ出始め、さらにそれが冷や汗に…。ヤバい、これは熱中症の予兆だ。というわけでサッサと家に入り、保冷剤などで頭などを冷やしながら水分補給。大事には至らなかったけれど、それから夕方まで調子が悪かった。それでも、夜には息子一家が市内の夏祭り&花火大会のために来るので、頑張って稲荷ずしなどを準備。私の体はとても出来が良くて、多少の不調もやらなくてはならないことがあれば頑張れる。昨夜も、息子一家が帰ってからはバタンキューなのに、見送る瞬間までは体調不良がどこかに行っている。それで今日である。今日も暑くなりそうだ。庭の草たちが気になるけれど、今日はやめておくことにする。うーん、クーラーが欲しいなあ。暑さに強い夫にそう言っても、「短い夏なんだから…」と却下。人は、他人の弱さには冷たいものだ。きっと、私もそうなんだろうと諦める。
2019年07月28日
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山本太郎「れいわ新選組」から当選した2人をネトウヨが差別攻撃!「重度障害者に国会議員が務まるのか」「介助に税金使うな」リテラ 2019.07.24 09:04 山本太郎率いる「れいわ新選組」が参院選の比例区で2議席を獲得した。議員となる舩後靖彦氏は難病を抱え、木村英子氏は重度の障害をもつ。舩後氏はALS(筋萎縮性側索硬化症)患者で舌や喉も含め全身の筋肉を動かすことができない。木村氏は0歳時の事故と脳性麻痺により両足や左手がほとんど動かない。来週の臨時国会が初登院となる。 舩後氏も木村氏も大型の車椅子に乗っている。舩後さんは人工呼吸器を装着し、定期的に痰の吸引などが必要だ。コミュニケーションにも補助を借りて文字盤を使う。国会のバリアフリー化や、質問時の補助などの整備、態勢づくりは急務だ。2人を特定枠として議員に押し上げ自らは落選したれいわの山本太郎代表は、政見放送でこう語った。「700人以上いる国会議員には人工呼吸器をつけた人も、重度の障害がある人もいません。そのような、いわゆる健常者が国会で障害者施策を決めて法律がつくられる。しかし、当事者のニーズを最もわかっているのは当事者。だから、その声を反映させる必要がある」 だが、Twitter上ではこんなグロテスクな声が出ている。〈山本太郎が担ぎ上げたあの重度障害者が本当に国会議員としてあの仕事が出来ると思いますか? 政治とかは、そんなに甘いものですか?誰が見たって国会議員の仕事を遂行できるわけが無い!〉〈そしてたった二人のために国会をらバリアフリー化、そのために我々の税金はいくら使われるんでしょうかね。〉〈問題は常人とリアルタイムで会話することのできない人を議員にして何をさせるつもりなのか、話題作りのためだけに障害者を利用する山本太郎の腹黒さに皆嫌気がさしてるんだよ。〉〈彼らに無理させて万が一の事態になったら「国会のせい」にして逃げるんでしょうね〉 こういう声は圧倒的にネトウヨに多い。たとえば、ヘイト漫画家・はすみとしこ氏は〈これを機に。。いいんじゃない?でも介助人のコストは、自分のポケットから頼むよ。障害は個性なんでしょ?〉とツイート。 “ネトウヨインフルエンサー”である千葉麗子氏は〈国会議員になった以上、国会議員としての義務が生じる。当然議会のスムーズな進行と有益な議論に寄与するよう務めなければいけない。その際に例え体調が悪かろうが、障害を抱えていようが全ては自己責任〉などと投稿している。 また、“ネトウヨジャーナリスト”の石井孝明氏は、山本太郎氏が「一番しっかりとサポートしなければならないのは国会」「健常者のリズムだけで進められることはこれからなくなる」とテレビで発言したのに対し、〈ほら始まった。自分では何もしないのに「健常者のリズムだけで進められることはこれからなくなる」と配慮を押し付ける。これって山本のリズムを押し通すということと同義だろう〉などとあげつらった。 いったい、この人たちは何を言っているのだろうか。長いので以下略よく「ネトウヨ」という言葉を見聞きするが、それらの人たちの考え方をちゃんと聞いたことがないので判断はできないでいる。しかし、この記事に書かれていることが本当だとするなら、何という考え違いだろう。彼らの考えの歪みは治らないかもしれないが、これから舩後さんと木村さんの発言や生きる姿勢を見聞きした人が、彼らから大切なものを感じ、考え、気付いてほしいと願っている。
2019年07月26日
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〇今日は投票日。私は期日前投票を終えているのだが、何とか安倍一強にブレーキをかけ、風向きを変えてほしいと祈っている。何よりも、障害を持つ人など、マイノリティーに属する人が国会議員になってほしい。残念なことに、国会では女性も少数派だが、女性なら誰でもいいということではない。念のため。〇首相の街頭演説へのヤジ規制札幌でも、首相に対してヤジに対して警察が制止したというようなニュースがあったけれど、誰が見ても明らかな忖度規制だろう。官民挙げての過剰忖度に加え、最近はメディアもそのような傾向があるとか。これ以上きな臭くなるのはごめんだ。〇吉本興業って芸人さんと反社会勢力(闇社会)とのつながりがそもそもの発端だったように思うが、なんだかこの会社こそが闇社会のように見えてきた。あまりよくわかっていないのだが、理不尽なことには声をあげなくちゃね。〇京都アニメーションへの放火事件は、大惨事となっている。現在「なつぞら」で日本のアニメーションの創成期が描かれているが、このような若い人たちが一瞬で大勢犠牲になったことには言葉もない。私はアニメーションに特に思い入れもないのだが、追悼のために現場を訪れた若い人や海外の人の言葉を聞き、日本のアニメが世界中の人たちにどれほど影響を与えていたのかと、あらためて知ることになった。容疑者は身勝手な思い込みによる憎悪や怒りをこの会社に向けたのだろうが、近年はこのようなタイプの事件が何件も起きているように思う。それは、個人的な要因だけではなく、そのような憎悪を増幅させる要素がこの日本に土壌としてあるのだと思っている。〇ひょっとしたら若年性〇〇症? 先週、所属する団体のミニイベントで、以前出会った女性の大学准教授に再会。最後に会ったのは10年近く前のような気がするが、あまりの印象の変化に誰かわからなかった。さらに驚いたのは、以前に色々話したことがある私や仲間の何人かも、彼女は忘れているようなのだ。(私はちょっとだけあいさつ程度の会話をしたけれど、顔貌や印象の変化に彼女と認識できなかった。以前の彼女なら、私を覚えていないはずがないが、そのような表情も見せなかった)私は現在役職は離れているので直接名乗っての会話をしていないのだが、彼女たちは名刺を渡されて気付き、少し(いや、かなり)戸惑ったらしい。私は終了後にそれを聞き、本当に驚いたのだけれど、このような場に足を運ぶということはまだお仕事をされているのだろう。自分自身の変化に気が付いていないわけがない。それを何とかカバーしながら、不安と焦りの毎日を送っているのではないだろうか。人一倍繊細で真面目な人だったような印象があるので、あれから彼女のことが気になってならない。〇続く豪雨九州方面での豪雨がなかなか止まらない。近年はこのようなことが本当に多くて、「100年に一度、50年に一度」という表現も近いうちに使われなくなるだろう。その代わり、「今年も」「毎年のように」というようになってしまうのではと本当に心配だ。そのような地域の皆様のご無事を祈るばかりだ。
2019年07月21日
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悪魔の子は誰の心にも宿っていると私は思っている。ほとんどは、理性や他の人への愛や思いやり、周囲の人の感情への想像力や総合的な判断力によって制御され、表面には出てこない。あるいは、状況によって顔をのぞかせても、また引っ込んでしまうのではないか。しかし、様々な環境やその人の気質などによっては、徐々に悪魔的なものが育つことがある。その悪魔がその人を支配してしまうとき、何らかの悲劇や事件が起こるように思う。たとえ悪魔が支配していても、周囲が明らかにわかることは少ない。時として、悪魔は善意の仮面を被って、自分が利用できる人に近づくことがある。ひょっとすると、悪魔に支配されている自覚もなく、友達になりたい人(自分にとって有用な人)に近づくのかもしれない。その相手はきっと、人を信じやすく、相手のことを考える優しい人だったりする。悪魔に支配されている人は、状況的に幸せな人は少ないだろう。自分の不運を嘆く心や、不満が渦巻いていることが多いだろうし、それだけに自分を良い人に見せようとする。悪魔は実に巧妙に、自分自身も相手も騙してゆくものなのだ。そのような人と深く関わってはいけない。でも、それを見分けるのはとても難しいかもしれない。ただ、付き合う中で多少違和感を感じた時には、適切な距離をとりながら付き合った方がいい。決して、拒否した方が良いと言っているわけではない。「適切な距離が必要」と思うのだ。私はとても臆病で慎重な方だと思う。だから、心から信頼している人にだって、多分本人も気付かぬ闇や悪魔的なものがあると思っている。だって、自分自身がそうだと思っているから。私だけではなく、人間はそのようなものだと思っている。それも含めての相手を信じていこうと思うので、どれほど親しくても、大切な人でも、適切な距離は必要だと思うのだ。そんなことを、この数日は考えることが多かった。どんな人も、まるごと悪い人はいない。生まれつきの悪魔はいない。どんなに一時的に悪魔に支配されていようと、その内部には「善」を求めるものだってあると信じたい。
2019年07月13日
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春の町内会清掃日。もう何年も、隣近所の人たちと顔を合わせるのは、春と秋の清掃日くらいになってしまった。私が結婚したころは、葬儀も区内の人たちが手伝うことが多かったので、ご近所さんともその時に色々な話をする機会があったけれど、最近では葬儀場に受付や食事などの葬儀に関わることは頼むことが普通になり、同じ班内に住んでいても、背中合わせの住宅に住んでいる人とは顔を見る機会も激減。さらに最近では、町内にお悔やみ回覧を回さない人が増えて、班内の家族が亡くなっても気付かないことさえ稀ではない。煩わしいことが減って楽のかもしれないが、それでいいのかと思うこともある。私達の班も高齢化が進み、清掃に出てこない人も増えた。新しく転居してきた若い世帯もあるのだが、その場合は清掃に参加しない人も多い。久しぶりのご近所のおばさん達のおしゃべりで、お互いの健康のことや新旧住民の情報交換などをしたけれど、顔を出さない人のことは互いに気がかりではあるけれど、踏み込んで付き合おうともしていないのが現状。道路を挟んで向かいの班に至っては、アパートやマンションなどでどんな人が住んでいるのか全くわからない。清掃に出ている人も、数少なくなった戸建ての旧住民のみ。その人たちも年々高齢化するのだから、これからどうなってゆくのか。それでも、顔を合わせた人たちとは、「元気でいましょうね!」などと声を掛け合ったり、我が家のはみ出た芝桜を欲しいという人もいてお分けしたりと、久しぶりのご近所づきあいの時間になって何となく心温まる人一時になった。
2019年05月12日
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朝は快晴。起きるなり夫が、「ピョン採りに行かないか? そろそろ出てると思うから」と言う。「時間が遅くなると車が混んでくるから、行くなら早いうちに出たい」。せっかくの良い天気だし、行ってみるかと急いで朝食を準備し、家を出たのは午前七時。さすがに交通量は多くなく、スムーズにいつもの場所に着いた。まだ出始めたばかりのようで、そのままでも食べられそうな若葉状態のピョン(あずき菜)を沢山採ることが出来た。今、あずき菜で検索して、和名は「南天萩」ということを初めて知った。祖母も母も「あずき菜」と呼んでいたのだが、結婚してから周囲の人たちは「ピョン」と呼んでいた。以前に検索した時、「ユキザサ」とも呼ぶことを知ったが、「南天萩」は平成最後に初めて知った次第。鶯がお互いに呼び合うような鳴き方をしていて、林に目を凝らしたのだが一羽だけしか見つけれなかった。支笏湖に近い場所なので足を延ばそうかと思ったが、その頃にはずいぶん交通量も増えていたので、混雑しているところに行くのも億劫だったので帰宅。帰宅してからは、台所に防寒のために敷いていたカーペットを洗濯し、掃除機をかけたり採ってきたピョンを茹でたりして午前中は終わる。昼食頃から、天皇の退位関連のテレビを見たり、返却期限がうっかりと過ぎていた本を図書館に返しに行ったり、買い物に行ったりと、自宅を出たり入ったり。夕食後は、またまた天皇皇后関連のテレビを見たりしながら、平成最後の日を過ごした。
2019年04月30日
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近親〇〇の実態などと、少しドッキリする件名にしたのだが、最近ちょっとショックなことがあった。(「〇〇=soukan」を漢字で書くと、「本文にわいせつ、もしくは公序良俗に反すると判断された表現が含まれています。」と、公開できないので、以後近親〇〇)もう15年以上も前に知り合った若者がいる。関西に住む若者だが、「不登校関係」の行事で出会った。その時、多少の会話をかわした印象では、神経質そうな多少こだわりの強いタイプで、その個性のために学校になじみにくかったのかなと感じた。私が(多分)何かのことで声をかけたことがきっかけで、時々メールのやりとりをするようになる。しかし、会ったのはその時だけで、時折自分のやっている活動のことなど、メールや手紙や電話も届く。この10年くらいは、二年に一度くらいの割合で「元気ですか?」というような電話がきて、私の印象では相変わらず定職にはつかずに、従来の活動のようなものをしているようで、電話はそれらのことに納得がいかなかったり、ストレスが溜まっている時のようで、多くの人とのコミュニケーションは下手のままのように感じていた。それでも、そのような個性を持ちながらもなんとか頑張っているなと思い、その都度励ましてきた。さて、一週間ほど前に、とても慌てた様子の電話が入り、何事かと聞くのだがあまり要領を得ない。どうも、母親が入院して手術をしたということに関係があるらしい。詳細は省くが、その会話の中で、母親とは成人した息子と母親との親子愛を超えているような日常があるようだと感じた。まったく想像していなかったので、最初は私はからかわれているのかと思ったのだが、(私も彼の母親とほぼ同世代で、彼も息子に近い年齢だから)どうも冗談ではなく、それを普通のことと感じているらしい。だから、母親の病状を心配するよりも、一緒に暮らせないことが彼のストレスの要因のように感じた。私の頭の中は、今まで身近に経験したことのない事例だったので、どのように話をつづければよいのかと、正直なところパニックになりそうなくらい慌ててしまった。そして、できるだけ彼の不安を「一般論」として受け止めた形で、「お母さんが早く良くなればいいね」などで電話を切った。その後、やはりとても気になり、彼の言葉を思い出して、それは冗談でもないし、彼の家族的習慣に近いものだろうと思っている。つまり、かなり「近親〇〇」に近い状態の中で彼は育ち、現在進行形なのだろうと。想像するに、彼の現在は社会的ひきこもりに限りなく近いはずだ。(会っていないし、彼の周辺の知り合いもいないし、詳しく聞く権利もないし、聞いたってどうしようもないから、彼の言い分をそのまま受け止め、あとは想像するしかない。)そして昨夜、児童福祉に詳しい友人とそのことを話し、彼女の意見を求めた。(彼女も私と同じように、15年前の集会で彼に一度だけ会っている)彼女は言った。「近親sは日本社会には少なくはないらしい。今は『児童虐待』としてクローズアップしているが、昔からあったようだ。そのような経験をした子は、『解離性障害」となったり、『発達障がい』に似たような状態になることが多いらしい。」うーん、やっぱりそうかと思った。そして、今朝そのことについての研究がないかとネットで調べている。事例研究等はいくつかあるようだが、被害者ともいえる子どもの追跡調査などはあまりないように感じる。タブーに関することなので、体験者が自ら話すことは少ないだろうし、研究はやりにくいだろう。でも、幼い子供にとって家族によるノーマルとは言えない行為は、「誰でもやっていること」と言われたら納得して受け入れるしかないだろう。その子たちが成長してどのように人を愛し、家族を作っていくのか。昨日話した友人は、「家族的な連鎖がある」とも言っていた。「解離性障害」もそのような体験の結果発症する例は多いと聞いている。実際に、「解離性障害」の人にも何人か仕事で関わったことがあったけれど、「この人も幼い時そんなことがあったのかな」と思うことはあったけれど、現在進行形とは想像もしていなかった。私は電話をくれた彼に何もしてあげることはできないし、もしももっと詳しく実態を聞いたとしても、それを非難することもできない。母親を失った時に彼はどうなるのかと心配だけど、それも彼の住む地域の支援関係者にゆだねるしかない。私にできることは、時折届く電話やメールに、普通の付き合い方のように接して励ますことしかない。
2019年04月11日
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日本で一番人口の少ない市である歌志内市では、歌志内なまはげ祭りが33年間続いている。縁があって一時期息子がこの町でなまはげをやっていて、今は後輩がそれを引き継いでいる様子。「悪い子はいねぇがー!?」と子どもたちを脅かしているけれど、昨今は「悪い親はいねぇがー!?」と探すこともしてほしいと思ったりして。
2019年02月04日
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毎日のように、残念なニュースばっかり見聞きすると、もうこのような現象は急な坂道を転げ落ちる積み木のようで、止めようがないような気がしてくる。そして、落ちるだけ落ちて行き止まりになってやっと、こんな状況でもかろうじて壊れていない人たちが、次の時代を作っていくのかもしれないと。最終的には、事態を立て直すのはその時に生きている人間でしかない。いくらAIロボットが進化したとしても、人間社会は人間が何とかするしかないのだ。こんな状況(嘘や誤魔化し、弱肉強食、自己中心性、金儲け主義などなど)の中で、過剰適応してしまう人たちはモラルも失い、やがて自分自身をも傷つけ、仕事への使命感はもとより意欲も活力も失ってゆく。それでもなお、その中でも自分を見失わず、様々な苦労やバッシングも糧にしながら頑張れる人はいる。このような状況の中で、本物の人としての矜持を失わない人だけが、次の時代を立て直せるのではないかと思う。そのような人がどこにどれだけいるのかわからないが、サバイバーでありチャレンジャーは必ずいるし、それは今の社会や組織の中ではきっと目立たないのではないかと思う。きっと、周囲と過剰につるまず、時には一匹狼みたいに言われて疎外されているかもしれない。でも彼らは、決してひきこもることなく、自分の可能な範囲の努力を続けているはずだ。失望や虚しさとも闘いながら、諦めることをしないチャレンジャーのはずだ。これからは、身近にいるであろうそのような人を見つけて、可能な限り応援したいと思う。
2019年02月02日
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年末からは息や孫たちが集まり、無事に年末年始を過ごすことが出来ました。今年はどのような年となるのかわかりませんが、世界も日本も北海道もそして我が家も、あまりひどいことがなく穏やかな年であってほしいと願うばかりです。これを読んでくださっている皆様にとっても、平和で穏やかな年でありますように。
2019年01月02日
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内田樹氏のブログ「空虚感を抱えたイエスマン」を読んだ。なるほど…と思ったので、コピペしておこう。私が読みやすいように、適当に改行する。「空虚感を抱えたイエスマン」学者の会のニューズレターから寄稿を依頼された。一般の方の目に触れる機会のあまりない媒体なので、ここに再録する。世代論というのはあまり好きではないのだけれど、どの世代でも、先行世代において支配的だった「作法」のようなものに対して集団的に反発するということはあると思う。私は「全共闘世代」に類別されるが、次の世代は「しらけ世代」、その次は「新人類」と呼ばれた。その後はどうなったのか、よく知らないけれど、たしかに世代的な特徴というものはある。 ある新聞の取材で「どうして今の若い人たちはこんな政治の現状に抵抗しようとしないのでしょう?」と質問されて、「空虚感を抱えたイエスマンだから」という答えがふと口を衝いて出て、言った自分で「なるほど、そうか」と妙に腑に落ちた。「空虚感を抱えたイエスマン」というのは、わりと適切に今の20代30代の多数派の心性を言い当てているように思う。イエスマン、事大主義者、曲学阿世、「野だいこ」の徒輩はいつの時代にも一定数いる。別に珍しい生き物ではない。けれども、イエスマンが多数派を形成するということはふつうはめったに起こらない。諫言することを恐れない硬骨漢から「下らん奴だ」と見下されるのが、けっこう本人にはつらいからである。イエスマンはそこそこ出世はするが、めったにトップには立てないし、同僚や後輩から信頼されたり慕われたりすることもない。だから、イエスマンは長期的には「間尺に合わない生き方」というのが世の常識であった。ところが、どうもそれが覆ったようである。イエスマンが主流を占めるようになったのである。それは「空虚感を抱えた」という形容詞がくっついたせいである。 「虚しい・・・」と言いながら、現状を追認し、長いものに巻かれ、大樹の陰に寄るのは、ただのゴマすり野郎とは違う。むしろクールでスマートな生き方だということを言い出す若者たちがわらわらと出て来たのはおよそ10年ほど前のことである。社会のシステムは劣化し続けているが、このシステムの中以外に生きる場がない以上、その「劣化したシステムに最適化してみせる」他にどうしようがあるというのだ。そう暗い眼をして嘯く虚無的な青年は、上にへらへらもみ手するイエスマンよりだいぶ見栄えがいい。見栄えがいいと、フォロワーが増える。「こんな糞みたいなシステムの中で出世することなんか、赤子の手をひねるように簡単だぜ」という虚無的に笑ってみせると、額に汗し、口角泡を飛ばしてシステムに正面から抗っている愚直な「左翼」とか「リベラル」とか「人権派」より数段賢そうに見える。だったら、そっちの方がいいか。出世や金儲けはともかく、「スマートに見えるかどうか」ということはいつの時代でも若者たちにとって死活的な問題である。というわけで、「ただのイエスマン」ではなく「身体の真ん中に空洞が空いたようなうつろな顔をしているイエスマン」が輩出することになった。原発が時代遅れのテクノロジーだとは熟知しているが「それ以外に何か経済合理性にかなう代案があるとも思えぬ」と苦笑し、日銀による官製相場が毒性の強い政策だと知りつつも「国民の税金をオレの個人口座に付け替えてくれるなら安倍=黒田体制にはできるだけ長く続いて欲しい」と嘯く。この世界がろくでもないものであることをオレはよく知っているし、オレは誰よりこの世界を嫌っているけれども、それはこの腐った世界のシンプルな仕組みから自己利益を引き出すことを止める理由にはならない。最初のうちは「変なのが出て来たな」と思っていたが、そのうちに「ああ、これが当今の風儀なのか」と気がついた。そう言えば、ドナルド・トランプというのはその典型だった。彼はリバタリアンだから、兵役を忌避し、連邦税の支払いも拒んだ。公共のために私財や私権を犠牲にする気はないけれど、公共のものを私するにやぶさかではない。そういう生き方がクールでスマートに見える時代になったのだ。ある種の「ポイント・オブ・ノーリターン」を通過してしまったらしい。この軌道がこの先どこへ続くのかは、私には想像がつかない。内田先生がこの先どこに向かうのか想像がつかないのだもの、私に想像がつかないのはあたりまえかもしれない。それでも、人間は今の時代を土台にしながら、自分にとって望ましい方向を見出そうとするものだと私は信じてもいる。信じなければ絶望感しか抱けないもの…。
2018年12月26日
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昨夜、やっと年賀状を書き終え、今日ポストに投函した。住所録と昨年いただいた年賀状、そして今年の喪中はがきを見比べながら書いたのだが、年々喪中はがきが増え、かつご本人が故人となっていくのを寂しく感じている。人は必ず生まれて死んでゆくものなのだが、亡くなり方は本当に色々である。高齢となり、本人もご家族もそれなりに覚悟もしているその時もあるが、昨日まで元気に話していたのに、次の日には突然の知らせとなる場合もある。やはり、どのような状況であれ不意打ちのような死は、本人も家族も茫然となるのだが、本人には何も非がない事故だったり、最悪の場合は殺されたりすることだってある。可能であればそのようなことに遭遇したくはないけれど、そのような人は沢山いる。日本でもそうであるが、紛争地帯にすむ人々はなおさらである。昨日の天皇陛下の会見の中に、「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに,心から安堵どしています」とのお言葉があったが、子ども時代は戦争の時代だった陛下にとっては、それが一番の願いだっただろうし、そのためにご自分立場でできる限りのことをされてきたと思う。次の時代も、そうあってほしいと私も心から願っているが、時々とても不安に感じることが度々ある。今年は、私にとっては忙しい時期もあったけれど、ほぼ予定通りの穏やかな一年となった。来年の今頃も、年賀状を書いてホッとしていたいと思う。
2018年12月24日
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天皇陛下お誕生日に際し(平成30年)宮内庁(全文をコピー)宮内記者会代表質問 問 天皇陛下として迎えられる最後の誕生日となりました。陛下が皇后さまとともに歩まれてきた日々はまもなく区切りを迎え,皇室は新たな世代が担っていくこととなります。現在のご心境とともに,いま国民に伝えたいことをお聞かせ下さい。 天皇陛下 この1年を振り返るとき,例年にも増して多かった災害のことは忘れられません。集中豪雨,地震,そして台風などによって多くの人の命が落とされ,また,それまでの生活の基盤を失いました。新聞やテレビを通して災害の様子を知り,また,後日幾つかの被災地を訪れて災害の状況を実際に見ましたが,自然の力は想像を絶するものでした。命を失った人々に追悼の意を表するとともに,被害を受けた人々が1日も早く元の生活を取り戻せるよう願っています。 ちなみに私が初めて被災地を訪問したのは,昭和34年,昭和天皇の名代として,伊勢湾台風の被害を受けた地域を訪れた時のことでした。今年も暮れようとしており,来年春の私の譲位の日も近づいてきています。私は即位以来,日本国憲法の下で象徴と位置付けられた天皇の望ましい在り方を求めながらその務めを行い,今日までを過ごしてきました。譲位の日を迎えるまで,引き続きその在り方を求めながら,日々の務めを行っていきたいと思います。第二次世界大戦後の国際社会は,東西の冷戦構造の下にありましたが,平成元年の秋にベルリンの壁が崩れ,冷戦は終焉えんを迎え,これからの国際社会は平和な時を迎えるのではないかと希望を持ちました。しかしその後の世界の動きは,必ずしも望んだ方向には進みませんでした。世界各地で民族紛争や宗教による対立が発生し,また,テロにより多くの犠牲者が生まれ,さらには,多数の難民が苦難の日々を送っていることに,心が痛みます。以上のような世界情勢の中で日本は戦後の道のりを歩んできました。終戦を11歳で迎え,昭和27年,18歳の時に成年式,次いで立太子礼を挙げました。その年にサンフランシスコ平和条約が発効し,日本は国際社会への復帰を遂げ,次々と我が国に着任する各国大公使を迎えたことを覚えています。そしてその翌年,英国のエリザベス二世女王陛下の戴冠式に参列し,その前後,半年余りにわたり諸外国を訪問しました。それから65年の歳月が流れ,国民皆の努力によって,我が国は国際社会の中で一歩一歩と歩みを進め,平和と繁栄を築いてきました。昭和28年に奄美群島の復帰が,昭和43年に小笠原諸島の復帰が,そして昭和47年に沖縄の復帰が成し遂げられました。沖縄は,先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め,私は皇后と共に11回訪問を重ね,その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは,これからも変わることはありません。そうした中で平成の時代に入り,戦後50年,60年,70年の節目の年を迎えました。先の大戦で多くの人命が失われ,また,我が国の戦後の平和と繁栄が,このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず,戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました。平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに,心から安堵どしています。そして,戦後60年にサイパン島を,戦後70年にパラオのペリリュー島を,更にその翌年フィリピンのカリラヤを慰霊のため訪問したことは忘れられません。皇后と私の訪問を温かく受け入れてくれた各国に感謝します。次に心に残るのは災害のことです。平成3年の雲仙・普賢岳の噴火,平成5年の北海道南西沖地震と奥尻島の津波被害に始まり,平成7年の阪神・淡路大震災,平成23年の東日本大震災など数多くの災害が起こり,多くの人命が失われ,数知れぬ人々が被害を受けたことに言葉に尽くせぬ悲しみを覚えます。ただ,その中で,人々の間にボランティア活動を始め様々な助け合いの気持ちが育まれ,防災に対する意識と対応が高まってきたことには勇気付けられます。また,災害が発生した時に規律正しく対応する人々の姿には,いつも心を打たれています。障害者を始め困難を抱えている人に心を寄せていくことも,私どもの大切な務めと思い,過ごしてきました。障害者のスポーツは,ヨーロッパでリハビリテーションのために始まったものでしたが,それを越えて,障害者自身がスポーツを楽しみ,さらに,それを見る人も楽しむスポーツとなることを私どもは願ってきました。パラリンピックを始め,国内で毎年行われる全国障害者スポーツ大会を,皆が楽しんでいることを感慨深く思います。今年,我が国から海外への移住が始まって150年を迎えました。この間,多くの日本人は,赴いた地の人々の助けを受けながら努力を重ね,その社会の一員として活躍するようになりました。こうした日系の人たちの努力を思いながら,各国を訪れた際には,できる限り会う機会を持ってきました。そして近年,多くの外国人が我が国で働くようになりました。私どもがフィリピンやベトナムを訪問した際も,将来日本で職業に就くことを目指してその準備に励んでいる人たちと会いました。日系の人たちが各国で助けを受けながら,それぞれの社会の一員として活躍していることに思いを致しつつ,各国から我が国に来て仕事をする人々を,社会の一員として私ども皆が温かく迎えることができるよう願っています。また,外国からの訪問者も年々増えています。この訪問者が我が国を自らの目で見て理解を深め,各国との親善友好関係が進むことを願っています。明年4月に結婚60年を迎えます。結婚以来皇后は,常に私と歩みを共にし,私の考えを理解し,私の立場と務めを支えてきてくれました。また,昭和天皇を始め私とつながる人々を大切にし,愛情深く3人の子供を育てました。振り返れば,私は成年皇族として人生の旅を歩み始めて程なく,現在の皇后と出会い,深い信頼の下,同伴を求め,爾来じらいこの伴侶と共に,これまでの旅を続けてきました。天皇としての旅を終えようとしている今,私はこれまで,象徴としての私の立場を受け入れ,私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに,自らも国民の一人であった皇后が,私の人生の旅に加わり,60年という長い年月,皇室と国民の双方への献身を,真心を持って果たしてきたことを,心から労ねぎらいたく思います。そして,来年春に私は譲位し,新しい時代が始まります。多くの関係者がこのための準備に当たってくれていることに感謝しています。新しい時代において,天皇となる皇太子とそれを支える秋篠宮は共に多くの経験を積み重ねてきており,皇室の伝統を引き継ぎながら,日々変わりゆく社会に応じつつ道を歩んでいくことと思います。今年もあと僅かとなりました。国民の皆が良い年となるよう願っています。私は、この天皇が在位した時代に生きたことを、心から感謝し誇りに思うようになっている。しかし、時代は変化している。天皇や皇室は、これからどのような歩みをしていくのだろう。
2018年12月23日
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数日前、知人のことで少し衝撃的なことがあった。詳しく書くことはできないのだが、今回も人の心の複雑さというか難しさを感じている。その時私の心に浮かんだのは、「うっかり相手の心の地雷を踏んでしまったのだろう」ということ。「心の地雷」について以前に書いたような気がしたので探してみたら、2004年08月10日 に、2004年08月10日 に、「人の心にも地雷がある」と書いていた。このブログを書くきっかけとなった事件を私はすっかり忘れていたので、検索したら下記の記事を見つけた。<殺人事件>元同級生の母親刺殺、高1男子逮捕 北海道石狩(毎日新聞)この事件から14年以上たっているが、この少年は今どのようになっているのか。どんな理由があろうと人を殺してしまってはいけないし、その罪はしっかりと償って生きなくてはならないと思う。色々な殺人事件があるけれど、その中には「普段は虫も殺せないような人」だったり、「おとなしくて真面目で、誰にでも優しい人」ということもよくある。反対に、殺められた人の中には「社交的で明るい人」だったり、「誰にでも信頼されている人」ということもある。だから、どちらから見ても「どうしてあの人が!」となってしまうのだが、そんな時に私は「きっと地雷を踏んでしまったんだ」と感じるのだ。社交的な人や信頼されている人は、自分が認められて友人関係も多いから、自分は悪いことはしていないと思いがちだ。自分の考えていることもどんどん話すだろうし、その分だけ相手の話を聞かずに正論を言うことも多いだろう。人間関係がうまくいっている場合はそれでもいいのだが、少しこじれてしまった時には要注意だと思う。口数の少ない人は、何も考えていないわけではない。話さない分だけ、自分の思いを抱え込んでしまう。相手の気持ちを忖度しすぎて言いたいことも我慢してしまうだろうし、我慢することも嫌なので距離を取り始めることもあるだろう。距離をとるだけでいいことはそれでいいけれど、距離をとることが難しい関係ならどうなるか。私は、以前のブログにも書いたけれど、人の心には必ず地雷がひそんでいると思っている。そして多くは、その地雷に気付かずに生きていると思う。自分で気付かないようにしている場合もあるし、封印しすぎて自分でも忘れていることだってある。人が人を理解することは本当に難しい。毎日共に生活している家族だって、配偶者や親、そして子供のことを本当に理解していると思ったら大きな間違いだと思う。人は、自分が理解できるようにしか理解できないし、完全に理解していると思ったら思い上がりに近い。「夫だから、妻だから、親だから」自分を理解してくれるはずだと思い、相手にそれを求めすぎると歯車は狂い始める。自分でも気づいていない地雷を他人がわかることはとても困難だ。だからできることは、地雷をうっかり踏まないように気をつけることしかない。気をつけるのにはどうしたらいいか。必要以上に相手を責めたり、相手の言い分を否定しすぎないことだろう。つまりは、他人に対するような気づかいをすることではないか。夫婦や家族は甘えたり甘えられたりする関係でもあり、それはそれで大切なことだけど、やはりそれなりの節度が必要だろうと思う。地雷を踏んでしまったら、そしてそれが想定以上の暴発となってしまったら、取り返しのつかないことになることが多い。そのことの恐ろしさを、この数日考えずにいられない。
2018年12月21日
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穏やかな年末年始を迎えたいけれど…
2018年12月20日
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お気に入りブログの一つ、ぼちぼち7203さんの「ミチシルベ」という題名が気になり拝見した。子供にとっては人生最初のみちしるべは、親、である。ほどなく、親以外の大人もその道しるべ団に入る。子は、社会の子でもあるからだ。長じて、友達、所属する組織の大人たちも、身近なミチシルベとなろう。成人後は、自分よりも若いミチシルベにも出会う事になる。照れずに言ってしまうと、70になってもミチシルベには出会うものなのである。上記の言葉に、しみじみと「本当にそうだなあ」と感じ入った。最初に出会うミチシルベの影響はとても大きい。しかし、すぐに「親以外の大人たちの道しるべ団」と遭遇し始める。人間のミチシルベは、「あっちだ! いや、こっちだ! そうじゃないだろう!!」などと勝手なことを言うことが多い。まだ自分自身の確たる判断力を持たない幼子にとっては、身勝手なミチシルベ団に放り込まれたら、なかなか苦労の多い人生になることだろう。ぼちぼちさんの書かれている二人の漫才師のことについては、私はその情報をスルーしていたらしくて誰のことかまったくわからない。でも、大人になるまでに良いミチシルベに出会っていなかったのか、出会っていても受け止められる力がそなわっていなかったのか。さて、今の政治家さんたちは、どんなミチシルベによって生きてきたのだろう。既に引退されたり亡くなられた自民党の議員さんたちの中には、私が見ても素晴らしいミチシルベの方々がいらっしゃったように思う。大人と言うよりは、すでに高齢者の部類となり、後に続く人たちのミチシルベである人たちなのだが、彼らの態度を見て後に続く人たちは何を受け止めるのだろうか。ミチシルベは人が自分の進むべき道を判断するためには大切なものだ。しかし、教師にだって「反面教師」となる人がいるように、「間違いだらけのミチシルベ」だってある。それを判断できるのは、自分自身だけである。人の言うことを素直に従っているだけでは、判断力は備わらない。セクハラ、パワハラでの問題が噴出した一年だった。暴力の被害者となり、様々なことを学んだはずなのに、同じような暴力で今まで人生を賭けて頑張ってきた青年が相撲界を引退した。所属した集団に適応しすぎた悲劇のようにも感じる。過剰に適応しすぎると、自分自身の内部にあるミチシルベを見失うことがある。さて、自分の今までのことを考えると、本当に多くの人たちのおかげで何とかまともに生きてこれたと思う。それぞれの人達から学んだり勝手にミチシルベにしてきたことは間違いないが、最終的には私は自分の内部の「直観」ともいうべきミチシルベに従ってきたように思う。この直感は、どのように培われたのだろうと時々考えるが、よくわからない。ただ、誰にでも自分のミチシルベとなる直感の種は、もともと備わっているように思う。赤ちゃんだって、自分が好きな人嫌いな人を判断する力はあるのだ。良いこと悪いことを直感する能力の種だって、みんな備わって生まれてきているはずだ。大切に自分の内部のミチシルベを育ててほしい。いくつになっても、生きるにはミチシルベは必要なのだから。ボチボチさんも、私のミチシルベです。題名をパクりました、ごめんなさい。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・もしも十年後、自分でこのブログを読んだらどんなことを連想しながら書いたかわからなくなるだろうから、関連ニュースを書いておこう。改正入管法、未明に成立=政府、来年4月導入へ準備―外国人就労を拡大何としても人手不足を解消しなければと、私から見ても論議不足であり、従来の研修生制度の検証もされぬままに強引に成立。こんなひどい国会議員の姿を見ていて、子どもや若者たちはどう感じて何を学ぶのかとそれが心配。貴ノ岩が引退 何度も頭下げ謝罪 元貴乃花親方の質問に…言葉詰まらせ感極まる被害者となった時に横綱日馬富士が引退になったし、その後師匠の貴乃花が相撲協会を離れることになったのだから、責任の取り方はこれしかないのだろうが、これから彼はどうするのだろうと心配。今、上記の記事を探していて、ボチボチさんの取り上げた漫才師の顛末を知った。とろサーモン久保田&スーマラ武智、8日にも上沼恵美子に直接謝罪…M-1審査に暴言私は、M-1とやらにもあまり興味がないのでよくわからないが、お笑い芸人の社会ではどんなことを言っても受ければOKという価値観があるのだろうか。私は今の「お笑い芸人」の芸は、芸だと思えないことが多くてあまり見ていない。自分自身を笑いネタにしたりするのは構わないが人を笑いものにしたり、社会風刺ならまだしも、個人攻撃に近いものはとても不快である。それになにより、最近の若者カルチャーに疎いので、話についていけないことが一番の要因だろう。ともあれ、この一件では彼らも随分批判されているようだから、これを大切なミチシルベとして精進していただきたい。
2018年12月08日
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12月2日に小学校時代からの友人Kちゃんが、中学時代の担任の関わる行事のために来道。私と彼女は、小学校4年生の時に彼女が大阪から転校してからの付き合いである。その頃のことをブログでも書いたような気がするが、今見つけられないので概略説明しておこう。彼女はとても明るく積極的に見え、おとなしい私とは対照的な子に見えた。そのKちゃんが、下校途中に唐突に「ねえ、ともだちにならん?」と声をかけてきた。私はとてもビックリしたが、他のクラスメイトから「友達になろう」なんて言われたことがないので、なんだか自分が好かれているように感じて嬉しかった。だから、彼女の問いかけを戸惑いながらも拒否するわけもなく、なんとなく友達関係になり、性格が正反対なのでまあ色々あったけれど、彼女が中学二年の時に転校してからも、文通や時々の互いの家訪問(彼女は高校生まで札幌に住んでいたので、行くこともできた)などが続き、大学生になった時に関西に転居してからも、あの時彼女が声をかけてくれたことを嬉しく思っていた。ところが、成人してから私にとっては驚愕の事実を知る。転校してきたとき、彼女のお母さんは担任教師に「うちの子が友達になったらよい子は誰でしょう」と聞き、担任は私の名前をあげたのだそうだ。そんな裏話を彼女は笑いながら話してくれたのだが、もう大人になっていたにも関わらず、私はショックのあまり声も出なかった。なぜなら、私はその担任が大嫌いであり、今でも思い出したくない教師なのだ。もちろん、私はいわゆる「良い子」だったから、担任から嫌われたりいじめられていたわけではなく、むしろ逆であった。ただ、私の子どもながらの直感や、彼の言動にかなりの嫌悪感を抱いており、やがて大人になってから私の直感は正しかったのだと知ることにもなる。そんな出会いだったが、彼女は私を「生涯の親友」と言ってくれるし、私もそれを否定はしない。思い出せば本当に色々あったけれど、彼女との付き合いの中で感じたり考えたりしたことは、私の人格形成の土台の一つである。さて、そんな彼女が来てくれるのだから、私は市内のビジネスホテルで一泊し、次の日はやはり小学生時代からの幼馴染のО君にアッシー君をお願いし、一緒に息子たちのワイナリーやその地域のファームレストランでランチの後に彼女を空港まで送っていった。幼馴染の三人が話すことは昔話が定番である。何度も会うたびに話したことを繰り返すことが多いのだが、その中でも再発見することも多い。今回の私の再発見は、幼馴染仲間の絆をつないでいる大きな要因は、このО君の存在だということだ。それは以前から感じていたことであるが、年を取るとともにその思いは強まり、今回は「彼がいなかったら、私は幼馴染仲間の輪からははずれていただろう」という確信であった。彼が偉かったのは、思春期の頃に幼馴染とは言えお互いが男女を意識しあい、それが絆の糸を絡ませたり混乱させたりしたときに、彼はその誰とも一定の距離を取り続けていたことだ。それがなぜなのかは私は彼に聞いたことがないのではっきりわからないが、多分彼にとっては異性としての好意や愛情よりも、小さい頃からの関係を壊したくない気持ちが誰よりも強かったのではないかと想像している。その絶妙な距離感のおかげで、私は今に至るまで彼を異性として意識したり気を使ったりしていないように思う。もちろん、人間同士としての気遣いはしているつもりではあるけれど。私から見たら、他の男性メンバーは彼に本当に甘えていると思うし、私達女性メンバーも彼には遠慮なく頼んだりもしている。それは昔からのことで、一歩間違えば「パシリ的な存在」となる可能性もあった。しかし決してそうではなく、みんな彼を頼りにしてきたし、彼もまた自分のその役割を今に至るまで楽しんでいるように見える。彼は、いわゆるリーダータイプではない。それでも、仲間の絆のメンテナンスにはそのような存在がとても重要なのだと思う。彼女と空港で別れてからのドライブの中で、私は心から「О君がいたから、私達友達関係を続けてこれたと思うよ」と感謝の言葉を伝えた。彼は、「そうかなあ、そんなことないと思うけど、ありがたく受け取っておくよ」と言い、呟くように続けた。「俺はね、あんたの〇〇がみんなをつなげていると思ってるよ」と。今回の再会の中で、一番驚いたのはその言葉だ。若い頃には特に、様々な出来事から彼らとの付き合いを面倒に感じ、時には自分も他人も傷つけたと思い関係を断っていたことすらある。それなのに、どうして彼はそのように思っているのか。彼の大いなる勘違いにしか思えないが、彼の性格から全く思ってもいないおべんちゃらを言うはずもない。「えっ!」と絶句してしまった私は、否定することも感謝することもできず、結局「じゃあ、私もありがたく受け取っておくね」と言うのが精いっぱい。いやー、私も年を取ったと感じることは多いが、〇〇という言葉で表現されたら、私の人生も最終章なのだろうかと思ってしまう。私は長生きすると思っているのは、単なる思い込みなのかもしれない。
2018年12月05日
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この日は、20代の頃から色々なかかわり方ではあるがずっとつながり続けてきた私を含めて4人と、久々のお集まり。でも、考えてみれば四人が同時に会うことは初めてのような気がする。全員仕事がらみで出会った人たちで、今回はその一人が定年退職した「お疲れさん会」であった。四人で会ったことがないというには理由があった。彼女たちは、行政職員であったり(正職員、臨時職員と立場は違うが)私のような民間福祉法人の職員で出会い、退職後はボランティア・地域活動をしていた関係から、それぞれが役割で関わりあうことが多かったためである。利害関係まではないけれど、仕事などで関係しあう時にはお互いに個人的な付き合いには距離を置いていたので、それぞれ心の中では「色々話がしたい相手」だったけれど、控えていたのである。今回、全員が仕事をやめ、安心して忌憚なく話ができるようになったわけである。60代以上の女性たちが集まる時の話題は、「親の介護、夫の愚痴、親せき関係、子どもの話」が多い。しかし今回の四人で話題になったのは、政治のこと、福祉や教育のこと、日米関係や最近の日本の様々な不安(天災や社会のモラルの低下、無責任病の蔓延、若者の右翼化)など、およそ女性の飲み会とは思えない話題ばかり。結局、みんな仕事をしていたし、私は一番早くリタイアして地域活動をしてきたわけで、ずっとそのようなことに関心を持ちながらも、内心で思っていることをおなか一杯話せる機会に飢えていたということだろう。唯一話題にならなかったのは「経済問題」かな。ハッキリ言って、みんな働いていたし独身でもなかったから、経済的には困ってはいないことが大きいのだろう。そんな話をひとしきりした後は、私を除く三人は時期は違うけれど大きな病気や手術も経験していたので、「その後は大丈夫?」から始まって少し健康問題。それから少し遅れて親の介護問題と流れ、最後に一人が「私、終活についてみんなの考え聞きたかったんだよね」と言い始めた。しかし聞いてみたら「断捨離」に関するような話題であり、私は思わず「なんだ、そんなことで悩むことないよ」とバッサリ。自分の死後に絶対に身内に見せたくないものがあればさっさと処分して、あとは葬式代と遺品整理の費用だけ準備しておけばいいと思っているからだ。終活という言葉で私が想像したのは「遺産相続問題」と「延命治療・臓器移植の是非の意志表示」くらい。別れ際にHさんが言った。「私は女になり損ねたタイプだと思っていたけど、みんなもそうだねえ。今日の話は女のおしゃべりじゃあないよ」。確かにそうかもしれないが、天邪鬼な私は「そうだねえ」と言いながらもふと思った。結局私たちも、世間のジェンダーといかに折り合いをつけながらいかに自分の考えを他の人たち(特に男性)に理解してもらおうかと闘ってきた。自分の内面の葛藤などを見せることはなかったから、結果的にはジェンダーを容認し、時には男性を立てたりして女性として認めてもらい「だから女は無責任」だの、「生意気な女のレッテル」を避けようとしてきたと思う。今の男性社会を後押ししているのは女性のそのような戦略のせいもある。きっと、このような女性は多いのではないだろうか。私は、若い頃には男性と話をするのが好きだった。仕事のことなどで議論できるのは男性が多かったからだ。しかし、ある時期から私はとても慎重になった。「生意気」というレッテルを貼られるとそれだけでとても不自由になるし、私にはその気は全くなくても、私を「気がある女」として見る人もいる。うっかりそんな人と親しく話したら、変な噂になったり「あの人は〇〇さんのメンコ」と言われたりもする。仕事をしている女性は、多かれ少なかれそのような狭間の中で慎重にふるまい、自分の身を守りながら自分の意志や信念を守るのは、私にはとても難しかった。だが、この年になったら話をしてみたい男性もとても少なくなっている。結局、同じような思いを潜り抜けてきた意見の近い人と話すのが楽しいのだと実感した。まだ私たちは「思い出話」より現在の関心事で話したいことが多い。「また会いたいね」と別れたが、私たちの「また」とか「いつか」はそれほど早くは来ないような気もする。
2018年09月24日
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野田聖子さんのブログを時々見ている。政治家としての彼女への評価は、私には定まらない。でも、彼女の生きる姿勢には驚きとともに感動もし、応援している。きっかけは、彼女が不妊治療の後に体外受精で妊娠・出産し、その子が重い障害を持っていることを知った頃からだ。最初にそのことを知った時には、野田氏に対して多少の批判めいた気持ちがあった。それは「そこまでして子どもを産みたいのだろうか」という気持ちが強かったからだ。私は「子は神様からの授かりもの」という思いが強いので、不妊治療も程度問題だと思っていたのが正直な気持ちだった。(今でも、程度によってはそう思う)しかし、私自身はそこまでして我が子が欲しいという気持ちが実際にはわからないので、「ほしいと思い、その方法があるならチャレンジしたいのもわかる」という理解の仕方だった。重度の障害があり、常に命の危険と背中合わせの彼女の愛児のことを思うと、より複雑な気持ちになりながらも「今は医療が進んでいるからひょっとしたら…」と思い、「この体験を政治家として福祉の面で生かしてほしい」と思い続けている。そんなこともあり、数年前から彼女の子育てブログともいえる「ヒメコミュ」を読んでいる。今朝、ブログ更新のお知らせがあり、「あと二年」を読んだ。最後の文章政務で、パラ2年前イベントへ。ムスコさんを連れて行く。2年後のムスコさん!生きていてね。一緒にパラリンピックへ行こうね。突然のように私の両目が涙で曇り、画面がぼやけた。この私が、人のブログで涙が出るなんて自分でも信じられない…。生きていてね、お母さんと一緒にパラリンピックでその笑顔を見せてね、貴方が生まれてきたことには、間違いなく大きな意味があるね。色々なパッシングにもめげずに毅然として自分の道を歩く貴女を、私はとてもカッコいいと思うし、今まで以上に応援しています。そんなお母さんの強さとカッコよさを支えているのは、間違いなく君だよ!
2018年08月26日
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この数か月、ずっと頭の中の半分くらいはそのために使い続けていたことが、やっと終了した。本当はお盆前の先週で完了させるつもりだったのだが、一つだけ請求書が遅れていたのだが昨日それの振り込みも終わった。全部の書類を整えて担当部署に提出してホッとする。厳密に言えば、まだいくつかやることはあるのだが、とりあえずはホッ…。その間にお盆を挟んでしまったので、墓掃除と息子たちと一緒に墓参りやお寺参りと、お盆恒例のイベント続き。残念なことに、お盆期間は雨が多くて湿った毎日が続いているが、本州の台風も絡んだ豪雨と猛暑の地域の人たちのことを思うと文句を言ったら申し訳ないだろう。今日は、二番目の義姉を誘って三番目の義兄の盆参りに行く予定。天気が悪いせいか、はたまた懸案事項が終了した脱力感なのか、朝からずっと頭が重い。とにかく、今日のやるべきことをやることが肝心。そうだ、今日は終戦(敗戦)の日だ。73年前のこの日、誰もが深い脱力感に襲われたことだろう。毎年この日が近づくと、様々な戦争体験のニュースを目にする。語られることよりも、語られなかったままの事実の方が大事だと思うけれど、それはないものとされて消えてしまっている。73年前のこの日から、責任ある者たちの隠ぺいや証拠隠滅、資料改ざんの伝統は強化されながら続いているのだろう。様々な政治関係のニュースを見聞きすると、またまた脱力感に襲われる。
2018年08月15日
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このところ、週末の行事のことでバタバタしているが、ストレスは忙しさではない。行政の担当部署の対応の上から目線と非協力に、心底苛立っている。しかし、とにかく行事が終わるまでは忍の一字でしのぐしかない。今日書きたいのはそんなことではないのだ。同じ行政がらみではあるが、本州の灼熱地獄はもはや天災である。屋外や路上で熱中症で倒れて亡くなる人が後を絶たない。こんな時こそ、「国民や市民を守る」のが政府や行政ではないのか。と苛立ちながら私が考えたのは、公共施設の猛暑避難所設置だ。どんな市町村でも「地域会館」のような建物があるはずだ。その一室を暑さからの避難所にしたらよいだろう。もともと、災害の時の避難所として多くは公共施設を指定しているはずだから、その一室に冷房を入れて、水や紙コップを置いておくだけで良い。暑さを避けてデパートや図書館などを利用する人はいるだろうが、長時間にわたってその施設に居座り続けるのも気が引けるものだろう。安心して気兼ねなくそこにいることができれば、それは素晴らしい住民サービスだと思う。夜間も、避難所と同じ対応をしたらいいのだ。暑さからの避難だから、食べ物などは自分で準備することにしたらいい。すでにそのような対応をしている自治体があったらいいのだけれど。
2018年07月24日
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三年ぶりの集まりである。女三人、男4人と、まあまあバランスは良い。二人は小学校時代から、五人は中学時代からではあるが、もう、どの時代に同級生だったか思い出せないくらいに昔のこと。ともあれ、「幼馴染」とみんな思っているみたい。それに逆らわないで付き合う私ではあるが、はっきり幼馴染と感じるのはたった一人。でも、彼は男の子だったので、小学生の頃同級生という認識はあるが、親しく遊んだりした思い出はない。このような集まりに参加すると、思い出って不思議だと思うことがよくある。たとえば、小学校低学年の学芸会は、事実は一つであるはずなのにそれぞれの思い出は異なる。時には、まったく違う思い出となっていることもある。私は、私の記憶が正しいと当然ながら思うのだが、相手は「違う! それ間違っている」なんていう。まあ、今となってはどうでもいい話なので、たいていの場合私は「そうだったかなあ」とゴニョゴニョ。だけど、内心は「違うと思うんだけと…」と心の中でブツブツ言っている。幼い頃の平和な思い出ですらそうなのだ。とても嫌な記憶、認めたくない記憶は、たいていの場合歪むのではないかと思う。オウム真理教の死刑執行で、麻原や元信者が亡くなったことで真実が検証されなくなるという論議もあるが、私は本音でそれは無理ではないかと思ったりする。事実は確かな証拠でなくては明らかにならない。なぜあのようなカルトに知性も教養もある人が吸い寄せられるのかという検証は、それらのカルトの洗脳から離れることが出来た人からの証言で研究するしかないのではないか。話はそれたが、今となってはなんでも話しても良い年齢になった私なのだが、まだ小中高時代の自分の勝手な思い込みや被害妄想、ある種の罪の感情など、笑って話したいとも思わない。機会があれば話したっていいのだが、みんなそれぞれお互いの「その人像」があるから、なかなかそこを取り払って話すことにならない。また、それぞれ色々な悩みや葛藤が現在もあるだろうが、このような場はそんなことを忘れて「楽しかった過去」に戻りたいものなのだ。そのせいか、あまり現在の話はしない。せいぜい、趣味の話やあたりさわりのない話ばっかり。それを邪魔する気は私にはないし、場を壊さないように楽しそうに思い出を共有する私でいようとしている。それでいいんじゃないかと思っているし、その輪の中にいる自分が不思議なような嬉しいような気持ちも確かにある。持参した息子の白ワインが大好評だったのが、私には一番うれしかった。ずっと営業の仕事をしていた男性二人が、「これはすごいよ。高級ワインにひけをとらない」みたいなことを言ってくれて、ヨイショを割り引いても嬉しかった。
2018年07月08日
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