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先日はじめて「サンク・コスト(埋没費用)」という言葉を知った。サンク・コストというのは、例えば1800円で取った映画のチケットだったが、5分でこの映画はつまらないということを確信したにも関わらず、もったいないという気持ちから、最後まで観てしまう。チケット代の1800円は絶対取り戻せないのだから、映画館を出て別の楽しいことを見つければ、無駄は最小限に抑えれるという理論。ゲームやパチンコなどのギャンブルも、そのサンク・コストを巧みに利用した上手い商売だと思う。パチンコで1万円突っ込んだが単発しか当たらず、もう1万円突っ込めばペイできるなんていいながら、最終的には5万円の負けなんていう話はよく聞く話だ。損するとわかった時点で損切りをする。いかにもアメリカ的合理主義な理論で、白か黒か、善か悪か、損か得かなど、過程を重視ぜずに結果のみを追い求める風潮だと思う。サンク・コストの具体例であったのが「10年間ピアノをやってきたが、もったいないのでなかなかやめられない」という内容があった。確かにこの時点でピアノをやめれば、コストは抑えられるだろう。しかし10年間ピアノをやってきた中で、何も得るものがなかったのか?仲間や先生との関係、ピアノに対する取り組み、集中力の向上など色々あったのではないかと思う。それはプライスレスな部分で、表面的なコストには当てはまらないと思う。ウチは駅からも会社からも学校からも離れていて、買い物に行くのも車がないと不便なところにある。これをサンク・コストと捕らえて、駅や会社近くに引っ越すとなると、今まで築いた近所付き合いや友人関係を全てリセットすることになり、新たに人間関係を構築する努力は大きなコストになる。確かにやらない立場からするとギャンブルは無駄だと思う。何かの役にも立たないし、息抜きすらならない。ただギャンブル以外のことについては、やったことに無駄なことはないと信じている。なぜなら日本人の考え方として、結果よりも過程を重視する傾向にあるからだ。ワールドワイドやグローバル社会などといわれて、成果が求められる時代ではあるが、日本人の根底にある「心」を大切にしたいと思う。 これ、自分流。
2016年09月30日
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役員報酬の金額が適正かどうかのよく議論される。カルロス・ゴーンは何億だとか、柳井は何億だとか。役員報酬を下げて、社員の給料に反映してやれば、なんてこともよく言われる。じゃあ大企業のトップの立場に立ったらどうか。何万人もの社員を抱え、中小の下請を抱えたプレッシャーは相当だと思う。戦略を誤れば、人員削減や生産調整をしないといけないし、株主からの批判にもさらされる。ウチの社長もよく言うが、社員とその家族の生活を支えてると。そう考えると、社員数や社員の給料水準に見合った報酬はもらって当然だと思う。社員とそんなに変わらないくらいの報酬だと責任逃れや決断も投げやりになりかねないと思う。責任者っていうのは大変だなぁ。 これ、自分流。
2016年09月30日
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自分自身、才能がある人間だとは思っていない。仕事もできない、学歴も高くない、運動もできない、身長も高くない、容姿もよくない。趣味だってないし、友達もほとんどいない。言わば「負け組」だろうし、確実に平均以下だと思っている。とりえを言うなら、知識・情報量の多さと、そこから生み出される色々な発想くらいだろうか。ただ、自分の思い通り行かないことが嫌いで、場合によってはかなり不機嫌になる。それも瞬間的に不機嫌になるのならまだいいが、ある程度溜まってから爆発させる傾向にあるから厄介だ。やることも意外と陰湿で、子供に対しては怒鳴ったり傷つくくらいの嫌みを言ったりする。妻にはあからさまに掃除をしたり片付けたりして、プレッシャーを与える。そしてしばらく会話をしない。こうして書き綴っていると、自分がいかに最低な夫であり、最低な父親であるか。現在家庭内はかなりギクシャクしていて、家族の会話がまったくない。日曜日の朝に子供を怒鳴り、イライラしすぎて徹底的に掃除。その流れから、カミさんに対しての色々な不満が体からにじみ出て、今に至る。カミさんにしてみれば、仕事から帰ってきたら急に不機嫌で、何を怒っているのかわからない。不機嫌になる理由もわからないので、カミさんも不機嫌になる。冷静に分析してみたら、自分自身のダメ具合が半端ないことに気づいた。どこかで関係を修復しなければいけないという気持ちはある。しばらく時間を置けば、何事もなかったかのように普通の生活に戻るんじゃないかととも思っている。もしかすると、愛想つかされるかも!?どちらにせよダメ人間であることには変わりないし、これからもダメ人間として生活していくのだろう。自己弁護するわけではないが、色々アプローチをして変わろうという努力はしているつもり。本当に変わるためには、長時間かかるだろうが、それまで家族が家族であれればいいと願っている。 これ、自分流。
2016年09月13日
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とある番組で、芸人が歴史について授業を行うような番組があったので、一部だけ見ていた。内容はヒトラーが独裁者として君臨し、どのような手段を用いて歴史に名を残したのかというような内容だった。「正義は勝つ!」でも触れたが、ヒトラーは「絶対悪」だったのだろうか?最低でも自国の繁栄を願っていただろうし、ユダヤ人を迫害するにも「大義名分」や「正義」があったかもしれない。ただ戦争に負けたがために、「史上最悪の独裁者」として歴史に名を残してしまうことになった。ヒトラーには人の心をつかむ「演説力」とたぐいまれな「才能」があったと解説している。日本でもそんな人はいた。田中角栄や小泉純一郎、鳩山幸夫などがその部類ではなかっただろうか。アメリカにおいてもトランプあたりはこれに当てはまるんじゃないかと思う。テレビの解説では、ユダヤ人を迫害した事実を現在も真摯に受け止め、メルケル首相が移民を積極的に受け入れている。日本はこれから東京オリンピックを迎えるにあたって、どう外国人と付き合っていくか考えなければいけないというような締めくくりだった。しかしここで疑問に思った。ポツダム会議からメルケル首相の対応まで70年あり、その間に東西ドイツの分裂やベルリンの壁崩壊など、さまざまな歴史があったにもかかわらず、そこには何も触れていない。メルケル首相は器がでかいんだなという印象を与えたくらい。じゃあ日本はこれからどうすればいいのか。見習って移民や難民を積極的に受け入れるのがいいのか?自分の考えでは「ノー」である。まずドイツの民族性から考えると、元々は遊牧民族であり、「ゲルマン人の大移動」に代表されるように土着民族ではない。つまり、住みよい環境があればそこに移り住み、先住民が居れば戦争をして奪い取るような民族だ。その中で、他民族との共生などもあり繁栄してきたと思われる。一方で日本民族は古来から島国の農耕民族で田畑を開墾して食料を栽培し、その土地に長く暮らす民族である。それがバブルの時にあった「土地至上主義」で、今でも空き家や更地などを手放しもせず荒れ果てた状態で保有している人が数多く居る。そこに海外から都心の一等地や山、島を買い上げられることがあれば、近隣住民も喜んでとは言いがたいのではないだろうか。中には「地域やはたまた日本が乗っ取られるのでは?」という不安を覚える人も居るだろう。この民族のルーツの違いは大きな問題であり、あそこの国はこうだからウチもこうすれば成功するだろうという安易な考え方は大変危険であると思う。そういった討論は報道やバラエティー番組などで目にすることもあるが、まず実現不可能だろう。歴史は必然的に起こったものではなく、いくつもの偶然が重なり合ってできているものだと考える。歴史について色々解釈を加えることはかまわないが、都合のいいように捻じ曲げるのはやめていただきたい。 これ、自分流。
2016年09月12日
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自分の息子の名前に「正義」とつけようかと思ったくらい、「正義」という言葉は好きだ。色々な考えがあって別の名前にしたが、改めて「正義」について考えてみた。一時期話題になった『これからの「正義」の話をしよう』。読んだことはないが、Amazonの商品説明には「1人を殺せば5人が助かる状況があったとしたら、あなたはその1人を殺すべきか? 」とある。「正解のない究極の難題」とあるが、自分が思うにはどちらも正解だし、「正義」であると思う。その根拠は歴史を紐解けば一目瞭然である。第2次世界大戦終盤、アメリカ軍は広島と長崎に原爆を投下し、30万人以上の人々が犠牲になりました。日本人や被爆者遺族から見れば、アメリカ軍は多くの民間人を巻き込み、ひどいことをした「悪」だと思う。アメリカ軍からすれば、これ以上日本軍による犠牲者を増やさないようにした「正義」だという。戦後70年以上経過した現在においても、アメリカ政府から謝罪がないのはそのためである。例を挙げていけばきりがないので1つだけにするが、お互いに争うには大義名分があり、どちらも「正義」である。その「正義」がぶつかり合ったとき、勝ったほうが「正義」であり、負けたほうが「悪」になる。だから戦後70年以上経った今でも、中国や韓国に反省だの謝罪だのという言葉を繰り返さなければいけなくなっている。戦隊モノやヒーローシリーズには必ず「悪」が存在する。大抵は「絶対悪」として。自分は現実社会に「絶対悪」は存在しないと思っている。しかしあの怪人や怪獣に大義名分があればどうだろう?家族や仲間、もしかすると自分たちの住みよい環境を探すためにやってきたのかもしれない。ただ少数派で「正義」に負けてしまったから「悪」なのではないか。「正義は勝つ」とよく言われる。それは「勝ったほうが正義」だからではないか。話をテーマに戻すと、うちの部署でも色々と揉め事が起こる。あいつが悪いだの、こいつがどうだのということもしばしばある。それは仕事をしていく上での価値観や考え方の違いもあると思うが、○○のためにこうしたいとか、××のここをこうしてもらうとうまく業務が進むなど「正論」がぶつかり合って揉め事になる。「正論」も「正義」と同じで、大声を上げたり、畳み掛けるように口撃したり、賛同者を増やして多数派になったりして結局勝ったほう、強かったほうの意見が「正論」になってしまう。では負けたほうはどうか。「お前の考えもわからなくはないが、間違っている」という結論に至る。意見がぶつかり合うこと自体、間違っているとは思わないし、新たな発見や考えに結びつくと思う。ただ、ぶつかり合ったときの周りの影響や、仲裁に入って引き分けにもっていった場合の消化不良が新たな火種になりそうで、泥沼化しないか心配である。自分自身不器用なので、色々な視点から物事をいうことはできるが、自ら発信しないし風向きを変えることもできないだろう。そのなかで何に気づき、どんな提案ができるのか。現在模索中です。よい案があれば教えていただきたい。 これ、自分流
2016年09月12日
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