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海外もね、滞在が長くなってくるといろいろあるものです。相手のことを「いいように解釈しよう。」って思っても、明らかに「差別?」とか思う言動を経験することだってあります。今日は生徒さんから「アメリカでは、どうやって怒りを表したらいいんでしょうか?」という質問でした。こういうとき、やはり日本とアメリカではちょっと対応を変えたほうがいいかなと思います。日本だとよく「どうしてくれるのよ~。」みたいにあからさまに機嫌を悪くしていることを店員に見せ付けて「申し訳ございません!!!」みたいなパターンを期待することになりますが、米人はそんな簡単に謝って来ません。つまり、口をへの字にしたり、ほっぺをふくらませても大して効果がないということです。じゃあどうするかというと、私だったら恐らく、Can I have your name?と行くかもしれません。もちろんむっとした気持ちはぐっと抑えて、ちょっと大人になり、むしろ半分笑顔だったりすると余計怖いかも(相手には)。もちろん自分の不満はとりあえず話す(あくまでも穏やかに)。そして相手に悪意がなく、誠意でも示されれば誤解だったということもあるし、許すこともあると思います。でも、向こうも意地になってきたり、明らかにわざとやってたような場合だってあります。名前とかを聞かれるのは、彼らにとってとても大きな問題です。その後ゆっくりとマネージャーに報告するなり、会社にメールを送るなりできます。もし、相手に直接名前を聞くのがイヤであれば、その人の同僚やちょっと年配の人の所まで行って、そこで「すみません、あの女性はなんて言う名前ですか?」とか聞くのもいいと思います。絶対聞かれたほうは「どうしてですか?」って聞いてくると思うので、そうしたらShe has an attitude problem with me.(彼女の私への対応に問題があるので。)ぐらい言えばいいと思います。ポイントは「あまり感情的にならない」ってことかも知れません。日本でも同じかな?「ちょっと、どうしてくれんのよ!」とかってヒステリックになられるより、「済んでしまったことですから。私は大丈夫です。」とかって言われるほうが、余計に申し訳ない気持ちになったりしません?アメリカではこっちのタイプの方が断然通ると思います。ちょっと英語で怒ってみます?
2007年09月19日
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今日は、must と have to は違うんだという話をしてきました。must のほうは、簡単に言うと、「絶対…」みたいな訳が入るので、他人を主語にして使ったりしないんですよね。だって、You must go. って「あなたは行かなければならない。」ってことで、こんなこと人に言うチャンスなんてないでしょ。たまに、空港などで、「あちらへ行ってください。」みたいな意味で、言われることはあるかもしれないけど。have to のほうは、must とは全然雰囲気が違う。「~しなきゃ。」ぐらいですかね。だから、「あ、この手紙出してこなきゃ。」とか「ちょっと子供を迎えに行かないと。」とかそんな類で使うので、結構よく使います。「今日は早く寝なきゃ。」とかね。ただ、同じ「今日は早く寝なきゃ」でも、We must go to bed early tonight.だと、「明日朝早く起きないと、飛行機に間に合わないから。」みたいな、絶対必要な理由があったりします。この説明の後、生徒さんに「ご近所の方に、集まりがあるから、You Should Come. って言われたんですが、これって、You have to come. とはどう違うんですか?」って聞かれました。「Should」はよく「べき」とかって訳しますが、こういうときの Should は「強い勧誘」でしょうか。「もう、絶対来てよかったって思うと思うから、来て!」って言う感じでしょうか。これが、 You have to come. だとちょっと押し付けがましい。なんかこの会に参加しないと、何かとてつもない問題に巻き込まれるみたいなプレッシャーがあります。 なので、誘われるときには、You have to come. ってあんまり言われないと思います。さらに、自分から人を誘うときに、Should でもなく、Have to なんかでもなく、もっと「来たら?」みたいに使えるのが、You can come. と You better come. ですかね。You can come. だと、相手へのプレッシャーはゼロ。の代わりに、そんなに強く勧めてもいない。You better come. だと、「来たほうが為になる。」みたいな感じです。例えば、「もし、○○さんの奥さんに謝りたいんだったら、You better come to that party.」みたいな感じでしょうか。You can come. だと、「誰でも来ていいみたいだから、You can (also) come (if you like).」 みたいなところでしょうか。アメリカの場合、もちろんこう言う言い方で、目上の人を誘っても、全然失礼にならない場合もたくさんあります。でも、もしもっと丁寧に人を誘いたければ、I would like you to join us.とかIt'll be my pleasure if you could join us.みたいな感じもハイソな感じで素敵。英語にも結構「敬語」ってありますからね。
2007年09月14日
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もちろん、You're Welcomeに決まってるじゃな~いと思うでしょ。でも、全然使われてないんですよね、実際。先日もあの Wall Street Journal にこんな記事が。I would like to call your attention to"You're welcome." Nine out of ten times,when I tell someone "Thank you" the responsewill be "No problem." It's driving me crazy."You're welcome" has disappeared. つまり、最近 You're welcome の代わりにNo problem を使う人が激増してるから、頭にくる。って言うようなことを言っていますが、これは本当。私は頭には来てません。ちなみに。正直なところ、自分でも意識しないと You're welcome は出てこないし。No ProblemIt's OK.Never mindSureなんかがポピュラーなところです。実は今日生徒さんに、こんな状況でもYou're welcomeを使っていいんですか?って聞かれました。例1:障害のある人に道を譲った後、その人にThank you と言われたとき。例2:お土産を買ってきてあげたら、相手からThank you と言われたとき。何がいけないの?って思うかもしれませんが、自分をその状況においてみると、気持ちはわかるっていうやつです。結論から言うと、もちろん両方の状況でYou're Welcome と使ってOKです。OK というか、全然いいと思います。例1 の方は、障害を持っているから「あなただったら(障害を持ってるから) Welcome よ。」みたいな返事に聞き取られるのがイヤだと思うかも知れません。障害を持った人を特別扱いするのは、決していいことではありません(彼らの立場に立つとわかると思いますが)。ですが、そんなに微妙なことまで心配するのもどうかと思います。例2 の方ですが、逆に You're welcome じゃなく、他の言い方をした場合、もっと失礼じゃないかと思うんです。例えば、Never Mind なんかだと、「(どうせ大したものじゃないから、)気にしないで。」みたいな。日本人的には「つまらないものですが。」っぽいですよね。でも、英語ではこんな状況では堂々と、You're welcome で行って欲しいと思います。同様に、Good afternoon なんかも、アメリカじゃだーれも使ってません。でも私は外人だし(彼らにしてみれば)、素敵な表現だし、是非復活させたいと思いますが…。
2007年09月14日
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前回のクリスマス プレゼントの続きです。今日、ニーマンマーカスから、「最終ギフトカタログ~!!!」みたいなのが届いた。早速二人でちらちら見てたら、今回もおもしろいのがいろいろあった。Oakley のサングラスとMP3が合体したやつとか、アイスクリーム マシンとかね。(実は Hugo くんは前からアイスクリームマシンを狙ってる。)最後の方で Hugo くんが「これだ!」って言うのがあって、それは電気かみそり。もともとひげがほとんどないので、大した手間じゃないんだけど、旅行中は電気かみそりがありがたいらしい。しかも、充電式じゃなくて、電池式。それもうれしいらしく、「だって、アダプターとか持って歩くのやじゃない。」なるほどね。ちなみに値段は$66で、イニシャルが入れられる。送料入れたらまあ$80ってとこかな。すでに Dual Alarm を手に入れている私には痛い出費だが、こんなときでもないと、ギフトを買うチャンスもないし…。なのでこれからニーマンマーカスのウェブに飛びます。
2006年12月06日
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なんでもおいしいのよー!!!どして?病み上がりの私のために、友達がご飯一杯作って持ってきてくれまちた。手作りのシュウマイなんかあったんだぜー!!!(シュウマイって作れるんだね…)他にもお野菜をゆでてくれたり、にんじんなんかお花の形してたし。炊き込みご飯でしょ、豆腐のサラダ(ドレッシングつき)。もう、私って幸せ者~。主人に一言「もう、回復してるくせに…」って言われたけど。でもいいんだもーん。主婦だから、人が作ってくれるご飯が何よりうれしいんだもーん。食後主人に「お返しどうするの?」って聞かれて「…」しばらくは、シュウマイを味わって暮らそう。だって、3日分くらいくれたんだもーん。
2006年12月05日
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おっひっさ。ということで、いきなりですが、私が今年主人にリクエストしたクリスマスプレゼントは、毛皮(ラビット)の手袋&マフラー。意外な値段で$150。(たっ高い?!)でもさ、マフラーと手袋(ミトン)がくっついてるんだよ~。ちなみに帽子はリクエスト外。(さすがにこれは…)マフラーと手袋がくっついてると、子供のころを思い出すわ~。小学校のとき、手袋はいつも毛糸でつながっていたのよねー。しみじみ…。ちっちなみに、主人に買ったプレゼントは、Dual Alarm さ。今まで二つの時計を別の時間に設定してたんだけど、Dual Alarm があれば、一つの時計で二つの目覚ましが設定できるので。これは彼のリクエストで早々と買ったんだけど、リボンのかかった、赤い箱は彼の眼にまだ触れていない。それがいいのかわるいのか、昨日の朝になっていきなり、「やっぱ目覚ましいらないわ。それより来年の手帳、なんかいいやつがほしい。」とか言われて、大しょっくー今だに Dual Alarm 購入済みと言えずにせっせとオンラインで手帳を探す悲しい日々。だってさー、手帳もね、「こういうやつがいい。」って言われたのが私が使ってるエルメスの手帳。もらいものだからいくらか自分でもわからなかったけど、調べたら軽く$500とかいってるわけ。(そんなものあげらんないよー!!!)FiloFax あたりで妥協してもらおうかと思ったんが、「穴が開いてるタイプ(リフィル用)はやだな…」とか言っちゃって、エルメスをちら見。はっきりと「これは高いからだめだよ。」って言ったけど、そしたら「手帳は自分で買うからいいよ。」って言われた。これで振り出し。一体何をあげればいいのでせうか。
2006年12月04日
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今日は土曜日で、とってもパーティ日和でした。(いや、別に外でしたわけじゃないですけど)朝からパン焼いてたので、それを少し持っていったり、ラザニア焼いて持って来ました。「今日って持ち寄りパーティだったの?」って言うくらいみんなすごくおいしそうなもの持参してくるから、とっても楽しかったし、お得な気分でした!もちろん、ホストのおうちでは、お料理も教えてる人が開いたので、みんな大きな期待を抱いて参加したと思います。もちろん私もです!こういう持ち寄りパーティっていいですよね。お邪魔するっていう罪悪感が少し軽減されるような気がして。実際は、飲み物とかもホストが用意して、お掃除したり、後片付けしたり、たかだか一品くらい「持ち寄った」ところで、全然釣り合わないんですけどね。英語のクラスとか取ってるクラスメート同士のパーティっていいですよね。いろんな国のお料理とか味付けがトライできるし、今日なんか「ベネズエラ人」と初めて話をしましたよ。私の最初の質問は「ベネズエラってどこ?」って言うまったく教養のないもんでしたけど。ははは。来週は Spring Break なので、四日ほどキーウェストに行ってきます。けちけち旅行なんですが、おいしいものだけは逃さないつもりです。やっぱシーフードかな…。なんて心はすでにフロリダ…。イルカと泳げるかもしれないなー。イルカと泳ぐのは一生のうちでしたいことのリストに入ってるイベントなんです!みなさんは「死ぬ前にしたいことリスト」とかありますか?
2006年03月12日
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このスーパー体の固い私が、最近ヨガ始めました。自慢じゃないが、私より体の固い女性を見たことがない。「初心者クラス Hatha Yoga 101」ってやつに出てみたら、先生の体型が、超うらやましいナイス バディ。いわゆる「出るとこ出て、引っ込むとこ引っ込んで」ってほうじゃなくて、とにかく「スレンダー」の一言につきる。シナヤカで、脂肪がなく、とっても華奢なので、小柄に見えるんだけど、この前近くに行ったら、私より長身だった!(ちなみに私は 165センチくらいあるよ。)さらに、同じく初心者だけの集まりなんで、私レベルの体の固い人がごろごろいた。驚き。ので、俄然やる気になったんだけど。スポーツ、ダンス関連って、インストラクターの体型って大事だと私は思ってるんですよ。「ああいう風になりたい」っていう憧れももちろんモチベーションだし、実際続けていればそうなる可能性は高い。ヨガも最近は、かなり私の生活の一部化されてきて、ついに TJMaxx でヨガマット購入。先生が使ってるような、シンプルな黒いのとかもあったんだけど、同じ値段だったので、ピンク地にアロハなハイビスカスがデザインされてるやつにしちゃった。スポーツはつねに形から入ってきた私です。ヨガを初めて以来、一ヶ月くらいでするすると体重が落ちたのよね。朝起きるとなんかお腹周りが軽いかんじ。ヨガで体重が減るとは期待してなかったので、なんか得した気分。でもって、ほんとに体重が減るモンなのかがよくわからない。体重が減るというよりは、私の場合余計な部分を効果的に燃やしてくれたら…って思うんだけど。始めた頃は、直角に座れなかった私。足をどーんと前に出して上半身と足が 90 度を作るあのカッコですよ。あれが出来る人がどんなにうらやましかったことか。その状態でつま先に触るなんて、言語道断な行い…だった。それが今じゃ、ちゃーんと 90 度に座ってつま先タッチできるんだぜい!!うーん、私の体も捨てたモンじゃない…。ストレッチとかヨガ、バレエみたいに「体の柔らかい人用エクササイズ」に背を向けて生きてきただけに、ヨガをしてる自分が新鮮。逆さになったりとかよくするんで、血行もよくなりそうだし。ただ血圧低いんで、逆さになると、後がつらい。たまに終わったあと気持ち悪くなったりしてるんですけど。酸欠?腰痛にも効くようで、初めてしばらくした頃は人に言われるまで腰痛のことすっかり忘れちゃってたくらい。最近また腰痛を感じるけど、お風呂上りにヨガすると、大分いい感じ。確実に痛みが和らぐというか。もちろん、とーってもよく眠れます。ってもとからとってもよく眠れる人なので、あんま関係ないかもしれないけど。ヨガしてる人のブログとかも覗いてみようかな。
2006年03月08日
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自分が夫にとっていまだ魅力的な妻であるかどうかは、結婚して三年も立てば、遅かれ早かれ誰もが「ちら」っと頭をよぎるところじゃないだろうか。以前学生だったころ、東京中野のお好み焼き屋のおじさんに、「結婚って言うのはな、結婚して六ヶ月後に後悔するもんなんだ。」って言われて、なぜか私は妙にくやしかったことがある。「結婚さえしてれば、こんなとき言い返せるのに…」って言うのが、くやしかった理由だけどね。私はもともと結婚願望が妙に薄い人だったけど、それは周囲を見渡しても「結婚して、こんな風に幸せになりたいな…。」みたいな夫婦を見たことがなかったからかもしれない。(いい前例がなければ、踏み切るのに二の足を踏むってモンだ!)結婚してから知ったのは、「幸せなうまくいってる夫婦」って言うのはおとなしくしてるってことだ。結婚当初の「ノロケル」時期を過ぎて、だんだん毎日が当たり前になってくると、「幸せなカップル」は口を閉じてしまう。日本って特にそうなのかもしれない。「毎日主人のことばかり考えてます。」とか、「この人と結婚して、ほんとによかったって毎日彼に感謝してます。」とかって、結婚して5年も経って言う妻も少ないだろう。なぜか。それは「あの人、縦のものも横にしないのよね、最近。」とか「釣った魚にエサはやらないってことよ。」とかっていう妻の発言の方がパワフルで、深刻で、さらに共感を得やすいから、会話として成り立ちやすいんだと思う。先に結論から言うと、「この世の中で変えることができるのは自分だけだ」ってことだ。夫を変えることはできないし、することにも意味がないと私は思っている。特に言葉を使って夫を変えようとするのは、百害あって一利なしだと思う。男の人はシンプルで、繊細だと私は思う。「シンプル」と言うことに関しては、妻が何かを imply 「示唆」してメッセージを送ろうとしても、まあ通じることはほとんどないという意味のシンプルさだ。例えば、「えー!雨降り出しちゃったみたい!(だからゴミ出してきて。)」なんてのは絶対に通じない。繊細だっていうのは、なかなか信じてもらえないかもしれない。だが、私ら女性よりは確実に繊細だと私は思う。言い方ひとつで、「殻」に閉じこもる夫を見たことはないだろうか。すっと別室に行ってみたり、子供に逃げてみたり、一人で何か趣味にふけってみたり。そういうのは「殻」に入っちゃってるわけで、まあはっきり言って妻を避けてるわけよ。私たち女性はある意味とても鈍感で、ぞんざいで、デリカシーに欠ける行動をするものだ。夫というのは、いろんなところで妻を喜ばせようとしているんだが、「そんなのウソウソ、うちは絶対ありえない。」って言う妻ほど、あっけなく夫のそんな行動を無視しているモンだ。例えばせっかく時間とお金を費やして買ったお土産やプレゼントを「何これ。」って言われたり、まったく気が付いてもらえなかったら、私だって「殻」に入りたくなる。夫っていうのは、そういう気が付いてもらえなかった失望に耐え、打ち明けず、それでもまた奮起して何か喜ばせようとする、可哀想な生き物なんじゃないだろうか。「私はプレゼントをもらったら、無視なんかしない。」って思っているかもしれないが、そう思っていても、まあ 3%くらいなんじゃないかな、夫のプレゼントをすべて受け取ってる妻って。プレゼントっていうのは、「物」じゃないから繊細なのだ。もちろん「物」の時もある。前から欲しかった物をもらうときなんかだ。でもそんなものは毎日じゃない。夫からのプレゼントって言うのはひょっとすると毎日たくさんあったりする。それは立て付けの悪いドアにスプレーを塗ってくれたとか、子供の自転車を直してくれたとか、ちょっと遠いスーパーまで車を出してくれたとか、そういうことだ。「そんなの夫婦なんだから当たり前じゃない。」って思った妻は、そう思わなかった妻に比べて、3万点くらい遅れを取っている。「夫婦と言っても所詮は赤の他人」とたまたまご縁があって、一つ屋根の下に暮らしているわけだ。「結婚した頃の新鮮な関係を保ちたい」と思っていなかっただろうか。結婚した頃に初々しく何にでも感謝していた気持ちを忘れては、「新鮮な関係」を自分から放棄していることになる。と私は思う。魅力的な妻でいるためには、二つの要素が欠かせないポイントだと私は思う。一つは上記の「プレゼントを受け取るスベを磨く」ということ。そして二つ目は「自分の希望を言う」ということだ。どちらも決してやさしいことではない。両方ともかなり手ごわい。今までしてなかった人には特に。ほとんど不可能に見えるかもしれない。なぜなら、まず「何がプレゼントかを知る」アンテナが絶対に必要だ。これはすでに感受性の域。気が付かない人は一生気が付かない。夫は決して「喜んでもらおうと思って、こうしたのに…」とは言ってくれないし、ヒントもくれないからだ。じーっと夫を観察してても、私のために何かしてくれてるとは思えない…。という人は、「夫が毎日元気に働いてきてくれる」ことにまず感謝をしたらどうだろうか。夫の外の世界では、いろんなことが毎日起こっている。でも、妻に言わないことがほとんどじゃないだろうか。何をどうありがたがっていいのかわからなくても、とりあえず夕飯の時、帰宅したときなんかをチャンスに「あなたがこうして毎日健康で働いてくれるから、私は好きなことをさせてもらって幸せだと思う。」とか「今日も一日お疲れ様。私も何かできることがあったら言ってね。肩を揉んだりするくらいならできるから。」とか、何か夫に感謝の気持ちが伝わることを言ってみて欲しいです、手始めに、是非。聞きなれてない夫は最初は「何、どうしたの急に。気持ち悪いよ。」とか言うかもしれない。でもそれは「照れてる」んです。しつこくしつこく毎日言ってみてください。そのうち「気持ち悪い。」なんて絶対いわなくなります。その代わり「いや、今日は大したことなかったよ。」とか「今日はちょっとまいったんだよねー。」とか仕事のことを少し話すようになるかもしれません。あるいは「そっちはどうだった?病院行ってきたんでしょ?」とか「英語のクラスどうだった?」とか妻の生活に興味を示すような発言をするかもしれません。とにかくポイントは、今魅力的な妻になるには、相手を変えるのではなく、自分が変わることが必要だと言うことなんです。妻に感謝され、尊敬されて困る夫はいません。逆に少しづつ「目に見える」プレゼントが増えてくると思います。確実に。それは感謝する妻にもっと感謝されたい夫が織り成す相乗効果でもあるのです。さて、世の中には「何をプレゼントしたらいいのかまったくわからない夫」と言うものが存在します。「あー。それだわ、ウチの。」とか思ったら、これも妻が変わることで何とでもなります。それは「希望を伝える」ってことです。「何をプレゼンとしたらいいのかわからない」んだから、教えてあげればいいじゃないですか。何が妻を喜ばせるのか。しかし以前にも書きましたが、「要求」と「希望」じゃ全然違います。「要求」したら、不幸になります。「希望」すると手に入ります。なぜなら、自分は希望するもの(こと)を夫に伝えるだけで、それを夫が叶えるかどうか、またどう叶えるかは夫が決めるからです。「前に欲しいって言ってた掃除機、まだ買ってくれてないよね。」とか「誕生日には外食するって言ってなかったっけ。」って言うのは脅迫のかかった要求です。言葉というのはとてもデリケートで危険なものだと私は思っています。同じ内容でも言い方一つで受け入れられたり、拒否されたりするものです。じゃあどうしたらいいかっていうと、「○○だったらいいな。」か「○○したい。」か「○○がほしい。」この三つのどれか以外の話し方をしないことです。「今度は庭のある家だったらいいな。」「ジムに通いたい。」「新しい水着がほしい。」って言うんですよ。シンプルに。絶対に遠まわしな言い方はしてはだめです。前述しましたが、夫はシンプルな人なんですよ。この三つの言い方以外では夫に通じません。ホントです。その結果、「ああ、いつかね。」「高いからだめだよ。」「また三万くらいするやつとか買わないでね。」って言われても、めげないことです。最初は夫だって半信半疑なんですから。今まで信用がなかった妻は特にこういう目に合います。めげる代わりに反省です。ちなみに、妻の希望をかなえてあげたいと思っても、実際に無理な場合だってたくさんあります。分譲のマンションを買ったばっかりなのに「やっぱり庭はいいなあ。」なんて言われたらショックですよね。また「殻」に入っちゃうかもよ。「耐える妻」って言うのはこれもだめなんですよね。実際は。今日もある主婦が「こっちがいい顔してるとどんどん付け上がってくる。」って言ってました。それは片手間なんです。ちゃんと希望を言ってないからなんですよ。従順な妻なんて簡単です。「はいはい、そうね。」って言ってりゃいいんですから。「希望を言う」と言うことは、こういう「耐える妻」にとってとてもとても難しいことではないでしょうか。だいたい「主人は忙しいから、迷惑をかけたくない。」とか思ってるみたいですが、魅力的な妻の待つ家に帰宅する夫のわくわくさを奪い取っているようなものです。自分が何を希望するのかがわからない人。これは以外と多い。それは自分をよくわかってない場合もある。自分がどういう人なのかわからなければ、好みもわからないってもんですよ。そういうときは「この新しい映画を映画館で見てみたいな。」とか「銀座のワインバーに行ってみたい。」とか「週末に高島屋をぶらぶらしたい。」とかって言う具体的で、手近な希望から始めるのがいいと思う。ただし、「これを夫が『ダメ』って言ったら、切れるかもしれない!」みたいなものを言わないこと。「ダメで元々」な希望を夫が叶えてくれるから価値があるんですよ。そういう小さな希望を叶えてあげることで、夫は責任を感じ、もっともっと希望を聞きたくなってきちゃうんです。そして、希望が叶ったら素直に「ありがとう。」って伝えること。これでひとつのプレゼント(「希望」→「プレゼント」→「叶う」→「感謝」)が幕を閉じるわけです。私は好循環だと思うんですけど。ちなみにウチはこれでずーっとうまく行ってます。まあ、「魅力的な妻候補」の初心者の方には信じられないと思いますが、私は毎日夫に「あなたと結婚できたことを幸せに思っている。」とか「私はあなたを喜ばせることだけを毎日考えている」とかって子犬のような目で言ってます。言うまでもなく、夫からのプレゼントはアメアラレです。逆に夫は私を幸せにするためだけに存在しているんじゃないかと思うこともある毎日です。
2006年02月28日
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ただいまー。ドイツ旅行に行ってましたー。10 日ほど。ベルリンとミュンヘンと、ちょっと足を伸ばしてザルツブルグ(オーストリア)にも一泊してきました。ほんとはその旅行のことが書きたいんですが、その前に緊急なトピックが出現したので、そっちを書きます。今日は旅行から帰ってきて3日目。そろそろ英語のライティングのクラスも遅れを取っていることだろうと思って、行ってきました。私以外の人は、「自分の国の食生活について」のペーパーをすでに提出済みで、その内容でいろんな国の食生活について話がでました。先生は「スペイン」「ルーマニア」「中国」「韓国」の四つに絞って、似ている点、特殊な点などを議論させていました。スペインと、ルーマニアの学生は二人とも賢い留学生。なんで賢いかっていうと、まず、スペインの人の場合、発言内容と、彼の書くペーパーを読めば、ロジカルで、研究熱心で、鋭い感性を持っていることがよくわかる。そして、ルーマニアの学生は、なんと哲学メジャー。「なんと」って書いたのは、哲学とかでアメリカに留学するっていうことは、よっぽど大学に気に入られるような研究対象を持っているっていうことだし、さらに全額奨学金で、お小遣いまでもらわなければルーマニアの学生は十中八九アメリカには住めないので、それだけの出費を大学が背負ってまで、彼を留学させているということは、彼にそれだけの価値があるという風に私は見たからです。まあ、とにかく授業に出てても、この二人がおもしろいので、私は退屈せずにいられるといったところもあります。スペインの食生活について、ものすごい論文を持ってきた、スペイン人のラウル君。かなり科学的にカテゴリー化された内容で、長かったけど、とってもおもしろかった。スペイン料理はパエリアだけじゃない…と思いました。そしてお次はルーマニアのニック。一枚にまとめられたペーパーを読み進むうちに、誰もがきっと思ったに違いない。「これって、自分の国の食生活を最初っから非難してるんじゃ…?」簡単に内容を抜粋すると、主食はジャガイモであること。お肉は豚肉を食べること。後は、料理に油を使いすぎるので、ゆでたほうがいいということ。などだった。私は読み終わる頃には一人トリップしてた。何を隠そう 1993 年のクリスマスを私はルーマニアで過ごしているのだ。そのときに食べた食べ物、受けた印象などが、どーっと押し寄せてきて、しばらく次の「中国」のペーパーに進めなかった。しばらくして、先生がディスカッションに移った。スペインの話ではほとんどの学生と先生が「スペイン料理のバラエティを知れて、いい勉強になった」という感想で締めくくられた。私も同感だった。次にルーマニアの話になったとき、「ジャガイモ」と「豚肉」が当然話題に上った。なぜならそれ以外の食べ物がほとんど記述されていないからだ。先生が「どうして他のお肉じゃなくて、豚肉なのかっていうのも話し合ったらおもしろいでしょうね。」と言い出したあたりから、私はどきどきし始めた。なぜならルーマニア人のニックの立場にすっかり同化して聞いていたからだ。(ここから先はルーマニアの人には読んで欲しくないな。)ルーマニアはとにかく貧しかった。「貧しい」というと、金銭的なものや、物質的なひもじさのみを表すことになると思うので、イマイチ適切じゃない。もっとはっきり言うと、あんなみじめな国に私は行った事がない。さすがの私もなんと表現したらいいのかわからないくらい、重いところだった。物がないとか、仕事がないとか、そういう貧しさだけじゃない。冬だったせいもあるが、とにかく寒かった。ルーマニアだけは、申し訳ないが、行った人にしかわからない独特の空気がある。元共産圏の国だということももちろん、大いに関連している。教会に来る人や、町で物を売る人、地下鉄でギターを弾いて日銭を稼ぐ若者や、電車に乗ってる人なんかを見てると、誰も彼も表情がなく、この「表情のない顔」というのを一度見てしまうと、ぐっと胃に重さを感じるようになる。以前アメリカはロードアイランド州で、私が一ヶ月ほど、英語を勉強してたとき、一人の英語の先生が「私はルーマニアに行った事があるんだけど…」とふと言ったことがあった。私は思わず「私も…。」とつぶやいた。そうしたら先生は私をまじまじと見て、「あそこは…。行った人にしかわからないよね。」と言った。二人とも黙ってしまって、それっきりだった。私は「あー、先生もあの空気を知ってるんだ…」って思った。以前、ルーマニア人と結婚した日本人で、ご主人が戦死したために日本に帰ってきた人をテレビで見た。北海道に実家があるらしく、子供を二人連れて日本に戻ってきた女性だった。彼女の顔をテレビで見たとき、ルーマニアの空気のすべてを思い出した気がした。彼女にもまた、表情がなかったからだ。私は、一緒にテレビを見ていた母に「こういう顔って見たことある?」って聞いたような気がする。あわや自分もルーマニア人と結婚するかもしれなかっただけに、人事とは思えなかった。とにかく、ルーマニアの人に食生活を語らせるのはとても酷なことかもしれない。私は個人的にはそう思う。食べるということは、生き延びるためであり、舌を楽しませたりするものではない。先生が「ルーマニアの特別な料理って何?」って無邪気に聞く傍らで、ニックが耳まで赤くなっているのを私は見た。ほんとにそういう世界じゃないのだ。ニックはしばらく考えて「ワインを作る葉っぱで巻いた料理があって…」と小声で言い出した。私はすぐに「あー、ギリシャ料理によく出てくるやつか…」って思ったけど、言わなかった。でも先生は「中近東に多い食べ物よね。」と言った。その一言で「ルーマニア特有の食べ物」ではなくなってしまった。他の生徒も同じように説得されてしまって、ニックがますます赤くなっていくので、私は思わず手をあげてしまった。「93 年にルーマニアに行ったことがあるんですけど、そのとき生まれて初めてヤギのチーズを食べました。最初木綿豆腐みたいなものがでてきてなんだろうって思ったんですけど、みんなはそれをナイフで少しずつ削るように切って食べるんです。新鮮だからだと思いますけど、全然チーズとは思えない味で、おいしかったですよ。」と言った。みんなの焦点が一気に「ヤギのチーズ」に集まった。2、3 質問もされた。そして誰もがなんとなくルーマニアのいいところを見つけたような気持ちになって、食生活に関する議論にピリオドが打たれた。しかし、さらに先生は「スペインとルーマニアは国益にどの程度の差があるの?」とか「西側のヨーロッパとはどのくらい違うの?」とか聞いていく。私は付き合っていたルーマニア人に「月に 500 ドル(アメリカドル)あれば、優雅で、おもしろおかしく暮らしていける。(もちろん家賃も入れて)」と言われたことを覚えていたので、ニックへの集中攻撃をかわすつもりで「大学を卒業したら、平均的な月収はどのくらいですか?」とニックに聞いた。この答えを聞けば先生が気がついてくれるんじゃないかと思ったからだ。そしたらスペイン人のラウル君が、「うーん、スペインでは大学とかで働くんだったら、30万ドル(日本円で350万円くらいかな?)くらいしかもらえないと思う。」と言った。この一言でニックはますます言いにくい状況になってしまった。なぜなら、そんな金額とは比較にならないくらい低所得だからだ。そして私の質問を濁すように食事の話を始めたので、濁すなら濁してもいいと思った。そしたら最後に「月収の話ですが、月に 200 ドル(アメリカドル)もらえたらいいほうだと思います。」と小さな声で言った。先生はそれ以上何も彼に聞かなかった。首都ブカレストでマクドナルドに入ったのを覚えている。私としては「もう、疲れちゃったし、ちょっとマックで休んでいこうよ。」的ノリだった。でもこういうチェーン系のファストフード店というのは、後進国へ行くと高級店に早代わりする。なぜなら値段がどこの国に行ってもほとんど変わらないからだ。アメリカで 5 ドルするバリューセットは、ルーマニアでも 5 ドルするのだ。200 ドルのお給料をもらう人がどうしてその、1/40 にあたる金額を気軽に使えるだろうか。私が見た家族は、お父さんが蝶ネクタイをして食べていた。家族連れで来ていたが、かなりの収入なんだろうと思った。他にも若い子(ティーンかな)を何人か見た。きっと両親がお金持ちの上位 1% くらいの家庭だろうと思った。授業の後、車を走らせてスーパーへ向かったが、ずーっと胸が痛かった。あの時「ルーマニアに行ったことがある」って言ってよかったのかどうか。なぜだかとても気になった。まるでニックが隠そうとしているものを私が「私、それ知ってるわよ」とでも言うかのように聞こえたんじゃないだろうか。私がルーマニア人だったら、果たして自分の国について知って欲しいと思うだろうか。それがどんなにみじめで、悲しい国だとしても。
2005年10月26日
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その 2 が中途半端だったんで、ここは「2.5」ってことで。前章で書いた「The Simpsons and Philosophy(シンプソンズと哲学)」の本ですけど、この中で、著者が言う沈黙って言うのは、例えば儒教で言う「言葉と言うのは、決してすべてを表すことはできない」とかっていうあたりの意味で、「黙っている」ことを指すのではなく、「言葉では語りつくせない微妙な部分」の話だと、私は勝手に解釈しました。つまり、積極的な意味での「沈黙=故意に黙っている」ではなく、むしろ消極的な「沈黙=言葉以外の部分」でしょう。例えば人にお礼をする場合、もちろんみんな「ありがとうございます」とか言いますよね。でもそれだけじゃ気持ちが十分伝わらないから、三越からサラダオイル送ったりするわけじゃないですか。これだって、立派な「沈黙の価値」を語る一例だと思うんです。「ご無沙汰してますが、あなたのことは忘れてませんよ」とか「最近連絡してませんが、気にかけてるんですよ」とか、そういうことをなんとか「言葉の力を借りずに」、別の形で表そうとする日本人の気持ちがそもそもお歳暮やお中元なんだと私は思います。あ、もちろん「きれいごと」ですけど。送りたくない相手でも、「去年送ったのに、今年送らないのもおかしいから、なんかソウメンでも送っとく?」みたいなのが実際だと思うんで。ただ、私が今回是非強調させていただきたいと思ったのは、日々の忙しさとマテリアルな風潮に流されて、「沈黙の価値」をみんなが忘れてしまっては、沈黙に価値はなくなっていくと思うということです。「沈黙」と「言葉」を比較したとき、どちらのパワーが強力だと、あなたは考えますか?私の答えは「沈黙」であり、「言葉」です。「言葉」は、派手です。口に出して、しかも饒舌によどみなく、あるいは唐突に出てくる言葉と言うものは(書き言葉もそうですけど)、「テレビ」を見るかのように、インパクトを人に与え、それによって瞬時に人は泣いたり喜んだりすることさえできるという、本当にパワフルな存在です。私自身好きな人の口からは「ありがとう」とか「感謝してるよ」とか「さすがね」なんて言われたいし、言われれば単純にうれしい。でも、言葉と言うのは花火のようなもので、その場では強力なパワーを持って人を魅了しますが、言葉となってその人から離れた瞬間に(あるいは、人に届いた瞬間に)それで終わりなんですよ。少なくとも西洋社会では。ところが沈黙のほうはどうでしょう。少なくとも「唐突に沈黙」されても、瞬時にうれしくなったりすることはないです。つまり、ひとつの「沈黙」に価値を見つけるには時間がかかるということなんです。しかもその沈黙に価値を見出せるかどうかは、各個人の感受性と大いに結びつくところがあって、気がつかない人は一生気がつかない。(感受性の薄い人は、ごめんなさい。私はどう考えても、感受性の薄い人だけは、どうしてあげたらいいのかわからないんです。もって生まれたものなのか、感受性を鍛える(というか整える)経験をしてきていないからなのか。だから、感受性が薄くて、いろんなことに気がついたり、感動したり日々できないんだとしたら、心から同情します。)でも「日々の忙しさとマテリアルな風潮に流されて、沈黙の価値を見失う」ということはがんばれば避けられます。忙しすぎる人はだめです。何をしても。どんなにたくさんすることがあっても、人は一つのことしか一度にできないんです。ご飯を作りながらテレビを見たとしても、テレビを見てる瞬間はご飯は作ってないんですから。ご飯を作ってた時間にテレビを一緒に見ていたからといって、同時に作業を行っていたわけじゃない。なのにそういうつまんない忙しさがあまりにも多すぎるような気がするんです。禅の世界じゃないですが、ひとつひとつのことに集中して、丁寧にしていくというのは素晴らしいことだと思います。そういう人こそが、他人のする沈黙(言葉では語りつくせない部分)に価値を見出すことができて、言葉では語れない多くの幸福感や充実感で胸を一杯にすることができるんじゃないでしょうか。そしてこれが人を「豊かな気持ち」にしたりするんじゃないでしょうか。桜の花が「咲いたから見て!見て!」「花吹雪が舞っててきれいだから見て!」って言わないからこそ美しいって言うじゃないですか。桜の花ほどドラマチックじゃなくても、世の中たくさんの「沈黙」が花を咲かせてると私は思います。
2005年10月06日
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続編。前編を書き出したときに言い忘れたけど、このタイトルについて書こうと思った裏には、ある文章の存在があって、それを言わずに書いていくのはなんとも「誰かの裏をかいてる」みたいに気分が悪いので、書きます。今、The Simpsons and Philosophy(シンプソンズと哲学)っていう本を読んでて、それが小さな章にいっぱい分かれてて、楽しい。前に日本でも「ぷーさんの哲学」みたいなのありましたよね。あんなかんじです。シンプソンズはもともと好きだけど、まさか彼らから哲学をインスパイアされた人達がいるとは思わなかった。ちなみにシンプソンズがどんなものが興味があったら http://www.thesimpsons.com/ を見てね。このサイトもいけてるから。漫画の中に Maggie(マギー)っていう赤ちゃんがいて、私が書いた「沈黙の価値」は、その赤ちゃんについて書かれた章なんです。赤ちゃんなんで、シンプソンズの漫画の中では一切しゃべりません。(実は一言だけマギーがしゃべったことがあって、その声をエリザベス テイラーがやって話題になったことがあるけど。)だから、マギーの存在は極めて薄いし、居てもいなくても、ストーリーにはほとんど関係なし。ただ、私が興味を持ったのは、この存在の薄いマギーに焦点を当てた、アメリカ人の学者がいて、しかも彼の焦点が、「マギーが沈黙している」ということにあったのが、非常におもしろいと思ったんです。前回も書きましたが、この「言葉社会」の権化みたいなアメリカで、誰かが「沈黙」というコンセプトに焦点を当てるというのはたいしたもんじゃありませんか。タイトルを見たときから(ちなみにタイトルは「Why Maggie Matters; Sounds of Silence, East and West(なぜマギーが問題なのか-サウンド オブ サイレンス、東と西)」)、こいつは絶対アジア哲学に触れてくると思ってたんですが、案の定「儒教」とか「孔子」とか出てきたし、インド哲学も拾ってました。私のようなアマチュアくんが言うのもなんですが、このアジア哲学の引用はイマイチ浅くて、もうちょっと掘り下げがほしいところでしたが、西洋哲学も引用がニーチェとかハイデッガーなので、まあ同じような範囲でしょうか。とにかく、結論から言うと私はうれしかったんです。この「言葉パワー」全開のアメリカで、誰かは「沈黙」ということに価値を見出してくれてるんだ、って思えることが。日本の場合は、この「沈黙パワー」が全開ですよね。っていうか、私にはそう思える。他の国にもいろいろ住んだり、行ったりしたけど、あんまないよ、日本みたいに「あ、うん」の呼吸がある国って。あ、ちなみに、まったくないわけじゃなくて、ヨーロッパとか行くと私はこの「あ、うん」に出会えてほっとすることがしばしばある。「外人」なのに、「あ、私の考えてることを Guess して、待っててくれてるんだ」とか、「あ、なんか気まずいよね。でも、向こうはわざと気づかなかったフリしてくれてるんだー。」なんて思ったりね。つまり、相手は日本人じゃないのに「まるで日本人とコミュニケーションしてるかのように」気持ちが通じるときがある。ドイツ人とかかなり日本人に近いなって思ったことあるし、イタリア人もいける人がいる。フランスとかちょっと難しいけど。(今日は時間ぎれ)この続きはまたすぐに…。
2005年10月06日
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さあ、久々に書きたいトピックスに出会いましたが、今のところ考えがあまりまとまってないので、また続編を書きます。あらかじめ。英語っつうのは、とにかくよくしゃべる人用言語なんすよね。つまり「しゃべったもの勝ち」みたいな。ほんとですよ。私はかれこれ 10 年近く日本に長期住んでないので、日本語カルチャーとは遠ざかる一方で、とても悲しい。ところで、英語に不自由のない生活に慣れていくと、なぜか自分ががさつになった気がしないでもない。自分のもともとの性格もさることながら、言語っていうのは、立派な文化なので、その文化を吸収し、Assimilate(『同化』でしょうか、ここでは)してしまった今となっては、The Simpsons(コメディー)の時間を楽しみに待ってたり、新しい映画を見るたびに「辛く批評」してる自分もいたりして、まあ、こんなことは日本にいたときはなかったことですよ。とにかく、簡単に言えば、英語で英語を理解するようになってしまうと、そこからは雪だるまのように、アメリカ文化を吸収してしまうんですよ。良くも悪くも。まあ、好きで吸収してる人は吸収率もいいでしょうが、私のようにシニカルであってもやはり吸収してしまうもんです。まず、距離が違うんですよ、距離が。なんの距離かって言うと、人間と言葉の距離なんですけど、アメリカ人にとっての言葉の「位置」が、私とは全然違うんだと思ったことがある。思い起こせば、あれは留学して間もない頃、ニューヨーク大学の裏にある、スーパーのレジでのことでした。(あー、妙に懐かしい。ちょっと浸らせて。)NY に来て間もない頃なので、スーパーのレジに並ぶだけでも「ちょっとどきどき」したもんだ。(私にもこんなかわいい時代があった。)順番を待ちながら、前のお客さんを見てた。彼女は中年というにはちょっと申し訳ない、キャリア風のおばさんで、スーパーのかごからチャキチャキとグロサリーを出してはベルとコンベアーの上に並べてた。レジに立つバイトのような、これもおばさん(でもヒスパニック系)は、「いらっしゃいませ」でもなきゃ「ハロー」でもなく、ただ黙々とスキャンしていくんだけど、これは NY に住んでると慣れる。別に機嫌が悪いわけでもなんでもない。全部スキャンした後、レジのおばさんが「37 ドル 65 セント」ってそっけなく言った(ってもちろん、金額覚えてるわけないから、ここはでっちあげ)ら、私の前にいたキャリアのおばさんはさっとお財布を開けて 40 ドルを取り出した。お金を見るか見ないかのうちにレジのおばさんは「チーン」と音を立ててレジのキャッシャーボックスを開けた。そのときだ、私の前にいたキャリアのおばさんが「Let me find the small change.」とかなんとか言って、40 ドルを渡しながら、もう一度小銭を探し出した。これはショックだったんだよねー、私には。「エ、何が?」って思ったでしょ。いやいや読んでるあなたは何も見逃してないよ。ほんとにこれだけのことだったんだけど、後ろに並んでた私はびっくりして、心臓どきどきしちゃったんだから。何にどきどきしちゃったかっていうと、「小銭があると思うからちょっと待って。」って言うようなことまで、口で言わなきゃならないのかって思ったから。もちろん日本に帰ったとき、スーパーで試したよ。私が財布を覗き込んでる限り、日本のスーパーのレジの人は、絶対に待ってくれる。私が何も言わなくても。ちなみに、いくつかの日本のスーパーでは、私が財布から顔を上げるまで、先に出したお札にも手をつけないで待っててくれた。私は NY のスーパーでこのおばさんのセリフを聞いて、いろいろ考えさせられたもんだ。まず一つは、「小銭あるかもしれないからちょっと待って。」って言わなきゃ待ってくれないってことだ。いや、アメリカのすべてのスーパーのレジがそうだとは言わない。でもかれこれアメリカも四つ目の州に住むと、大体「感じ」が掴めて来るというか、マジョリティがわかるようになるので、多かれ少なかれ、こんな感じなんです。ただ、「待ってくれない」って言うと、「待ってくれる」国、日本から来てる私はどうしても批判口調になってしまいますが、ここで強調したいのは、「彼らは意地悪なわけでもないし、悪気は全然ない」ということだ。NY の無愛想なレジの人達はなんだか「わざと嫌がらせしてんじゃないの?」とか日本人の私に思われても仕方ないんだけど、カンサスの田舎にあるスーパーで若いバイトの女の子が満面の笑みで「How are you today?」とかやってくれても、お札を出したら「チーン」とすぐ来るんだから。だから、まず前提として、彼らに悪気はないということを頭に入れておいて欲しいのだ。じゃあ、そうなると、「気が利かないのか」ってことになると思うが、これは難しいところだ。私のように日本で生まれ育った人間から見たら、アメリカで「気が利く」と思える人に出会うことはすでに期待していない。文化の違いと言ってしまえばそれまでだが、「気が利く」と言うことにそれほど価値がないといったらフェアーかもしれない。それぞれの文化で価値のあることは、「その国らしさ」を表す。日本では気を使ったり、使われたりすることに価値を高く置いてるので、その文化が根付くわけだ。アメリカに留学なんかして、ホストファミリーに気を使うあまり「Relax!」とか日々言われる日本人は多いのではないでしょうか。こっちにしてみりゃ「十分リラックスしてるつもり」なんだけど、アメリカ人から見たら「そんなに気を使われると痛々しい(というか、こっちも疲れる)」っところじゃないでしょうか。気を使わないということに関連して話を進めると、「気を使わない分、言葉で穴埋め」というルールがほぼ自然にできてくる。つまり、まったく相手を Guess しない状態で、でも相手にナイスにするには、「言葉を使ってそれをダイレクトに表現するのが一番手っ取り早い」わけだ。レジのおばさんは「小銭を出したきゃ言ってくるだろ。」って思ってるかも知れないし(っていうかそれすら考えてないと思うが)、小銭を出すほうは「小銭があるときはちゃんと言うから。」って思ってるだろう。これがうまくいけば、誰もいらいらしたり、「小銭があったのに…。」っていう苦い思いをしながらスーパーを出ることも避けられる。まあ、とっても実用的なコミュニケーションというわけだ。この「実用的」という部分がアメリカのカルチャー以外の何物でもないと私は思うのだ。さらに考えたのは、「小銭があるかどうか、ちょっと見てみるわ。」って言うことがアメリカでは評価される、ということだ。試験的に日本でやってみたが、言ってみてなんか気まずかった。十分な小銭が財布にあるかどうかもわからない常態で「あー、ちょっと小銭あるかどうか探してもいいですか?」なんて日本で真顔で言う人がいるかどうかを考えると、極めてあやしい。つまり、そんなことは言わなくても、「あ、うん」の呼吸があるのだ。日本では、スーパーで値段を告げられた瞬間から、お客とレジ子の間には、non-verbal communication が始まると言っていい。何も言わなくても、小銭まできっちり払うのか、それとも小銭が足りなくて一万円札でおつりをたくさんもらうのかがわかるまで、沈黙がひたすら続くのだ。私は小銭がないときは、ついクセで「これでお願いします」と言いながらお札を出してしまうが。ここで私が思う、アメリカと日本における言葉の距離の違いは、アメリカでは、相手に自分が今考えていることを明らかにするということが、大変高く評価されるということだ。言語と人間の距離と言うとわかりにくいかもしれないが、例えば目の前にあるキャンドルは明るくて熱いが、三メートル先にあるキャンドルは薄暗くてはっきりしないもんだ。言語と人間の関係もキャンドルのような距離というものがあると私は思うのだ。(同じような感覚で、法律と人間の距離というのもある。日本では法律が非日常的なもので、距離を遠く感じるが、これはまたいつか別の機会に。)アメリカでは言葉がとても近くに存在するので、日本のように「寡黙な男」だとか「沈黙は金」とかはハヤんない。いかに今の心情や状況を口で豊かに説明できるかがとてもとても大切なことなのだ。だから結論からすると、レジで私の前にいたキャリア風のおばさんは「小銭があるかもしれないから待ってくれ」とレジのおばさんに告げる「とってもナイスな人」だったのだ。何故なら、もし彼女が「待ってくれ」といわなければ、ヒスパニックの無愛想なレジ子は、とっととおつりを勘定し始めていたはずだからだ。そのあとで、お客がひっそりと 65 セントを差し出したら、レジ子は間違いなくムッとしただろう。お客が一言「小銭を見てみるわ」と最初に言ったことで、レジ子は無駄な努力を避けられたわけだ。アメリカは決して日本のように時間に追われる環境ではない、ほとんどの場合。だから、時間がかかることを嫌だと思う人は日本ほどいない。でも、無駄な努力をさせられたり、避けられたことをわざわざさせられたりするのは、おもしろくないのだ。って誰だってそうだけどさ。こんなことは小さな小さなエピソードだが、こんな小さなエピソードからも、アメリカに住むということが、いかに違う文化の中で生きると言うことなのかがわかるってもんだ。タイトル「沈黙の価値」だったのに、そこまで行かなかった。次回へ。
2005年10月03日
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この前週末に、近所の図書館に行ってきた。どうしても哲学とかエッセイとかメタフィジカルな方面に走りがちな私。フィクションとかあんまり興味ないんだよね。ハリーポッターぐらいしか。というわけで今回読んだ本も、「フレンチ フェミニズム」っていうやつで、読み始めてどっきりしたのが、最初の一行に「日本の女性にとって大きな問題であるように、フェミニズムはフランス女性にとっても近年大きな課題なのです。」って始まった。注釈がしてあったから、見てみると、この文章は 1966 年に日本で筆者が講演したものを出版したって書いてある。この本には数多くのエッセイが載ってたが、結局この第一番目にあった「日本での講演」を読んだ。だって、40 年も前の日本人女性が、どんな気持ちでこの演説を聴いたかなって思ったらとっても興味がでてきたんだもん。40 年前と言えば、私は生まれておらず、戦後 20 年ちょっとですよ。この時期にフランスのフェミニストが日本に行って講演したって言うのが驚き。だって、日本の戦後って経済復興の真っ只中で、それこそ男性は 200%仕事に打ち込んだ時代でしょ?女性が社会に出るとか、家庭を出て仕事を持つなんて、そんなにポピュラーな話じゃないはず。その時期にフランスから「フェミニズム」を日本人女性に語りに来たっていう事実が、ちょっと私を驚かせた。その時期の日本人女性がこの講演の内容をどう聞いたのかほんとに興味があるところだけど、まあ今となっては知る由もないわけで、ただ内容として興味深かったのは、今読んでみても、そんなに突飛じゃない考えがいくつかあって、例えば私がおもしろいと思ったのは、「男女同権とか平等の権利とかって言うけど、何が一体同じなの?女の子に生まれて、男の子と同じように親に期待されてますか?」とか「家庭を持って子供を育てること以外に、何か使命感を持ってしてる仕事がありますか?」とかってあたりで、これはちょっとふーんと考えさせられた。さらに筆者のポイントが家族構成に及ぶあたりがおもしろい。彼女の言い分だと、男の子だと親はお金をつぎ込んで勉強させたり、旅行なんかの経験を積ませるけど、女の子だと「お料理やお裁縫ができた上で、さらにやりたければ...」になる。つまり、女性のほうが賢く器用でなければ男性と同じ能力を身に付けられないことになる。さらに父親と子供の関係に話が及んで、「男の子は父親を超えるようになると一人前だとか、ひとり立ちできるとか言われるけど、女の子は決して父親とは比較されないし、超えることも期待されない。」って言うんだけど、これはほんとだと思った。そして、女性でも成功してる作家を例にとって、「彼女は、小さいときから父親に期待されて育った。幼い頃から物を書くことを奨励されて、賞を取ったりするとものすごく父親に褒められたりする子供時代を過ごした。」って書いてあった。この「父親に期待されて育つ」って言うことがどうしてそんなに大切かって言うのがその後に説明されてるんだけど、これがイコール「使命感」につながるっていうのが彼女の言い分で、この「使命感」こそが、女性が社会で大成功する上で絶対的に欠けてるものなんだって言う点を何度も力説してた。これは、言えてると思ったんですよ。確かに家にいて、時間があっても「何か社会に貢献できることを探さなくちゃ...」って言う主婦はあんまりいないんじゃないかと思った(私も含めて)。特に日本は(個人的には、この辺が特殊だと思うんだけど)、「知らない」「できない」「わからない」女性って言うのに何らかの価値を置く国民性でしょ?「お嬢さん育ち」とか「擦れてない」なんて形容詞が今も昔も価値のあるキャラクターとして使われる。これの延長上に、「知らなくてもいい」「できなくてもいい」「わからなくてもいい」っていうのが続いてて、究極的には、それが本人の意思じゃなく、「周囲にとってよく見えるため」だったりするから、ちょっと悲しい。私の理想は高い。日本人の女性には、例えお茶を習ったり、着付けに通ったりして、伝統的な女性らしさを身に着けながらも、コンピュータ プログラマーだったり、弁護士だったり、ジムのインストラクターだったりして欲しいなと思うから。周囲にどんなに女性らしいと思われても、仕事もできるし、出世欲や野心もある。そういう女性がこれからは大はやりだと思ってる。ちょっとポイントがずれてきちゃったけど、ここで大切なのは、自分の中の「女性気質」をいかに大切にできるかと言うことだと思う。40年前のフェミニズムは、社会でばりばり貢献して、一流を目指す女性の姿を支持し、それが受けてきた。ニューヨークなんか行くと、今でもそういう雰囲気を感じる。でも21世紀のフェミニズムは、もっと賢いと思う。髪を振り乱したり、女性であることを捨てる必要なんか全然ない。むしろ「女性らしさ」を大活用できて、さらに仕事の能力や使命感が男性並みな人がインなんじゃないだろうか。どっちしても、女性はいつの時代も要求されることが多いようで...。
2005年08月23日
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「私の夢は、」なんて書き出すと、小学校を思い出すなー。「○○になりたい」って言うのがだいたいその後に続いて、私の場合、「探検家になって旅行紀行とかを書くジャーナリストになりたい」って書いたのを覚えてる。小学校六年生かな。中学だったかな?かわいくない夢だなー。今思うと。スチュワーデスとか、保母さん、美容師とかが人気職業だったし。「夢」って言うのは楽しい。寝てるとき見る夢も思い出深いものがたくさんあって、思い出すと泣けてくるやつとかもある。だいたいストーリーがドラマチックで、妙にリアル。人によっては夢の中で「どうせこれは夢なんだから」とか思って、意識しながら好きなことするっていう人もいるらしい(って主人がそうなんだけど)けど、私は夢の中で「これは夢なんだ」って思ったことは一度もない。今の夢はヨーロッパに住むこと。東ヨーロッパだとちょっと無理だから、ドイツとかイタリアとかフランスとか、ベルギーなんかも楽しいかも。あとはアムステルダムやルクセンブルグでも文句言わない。ちょっと離れてデンマークとかでも住めると思う。とにかくヨーロッパがあこがれの地なのだ。どうしてかな。自分でもどうしてヨーロッパが好きになったのかわからないんだけど、日本に近いからかなー。近いってもちろん物理的距離のことじゃないんだけど、説明しにくいな。例えば、アメリカになくて、日本にあるものっていうと歴史だと思う。歴史があって、ロイヤルファミリーがあって、民族意識があって、でもそれをひけらかしたりしないところなんか。代々続く老舗や骨董品、年代物の受け継がれたアンティークなんかの価値を(よくわからなくても)尊重するところとか、「あの方のおじいさまは、日本で最初に鉄道を引いたかたで…」みたいな小話聞くと妙に神妙な気持ちになったり、でも言われてる当の本人は「いやー私はまったくの凡人でして…」みたいに謙虚だったりする感じとかが、私は個人的に好き。で、ヨーロッパに行くとそういう「あ、うん」の呼吸を満喫できる。アメリカが嫌いなわけじゃない。アメリカが便利なものを次々と商品化するおかげで、ラクな生活をさせてもらってるし、地方に行けば生活環境だって悪くない。特に今みたいに、内陸に住んでると、素朴なアメリカ人に出会うことができて「あー、アメリカ人もがさつってばっかりじゃないな」って思うもん。アメリカが苦手だから、ヨーロッパに住みたいんじゃなくて、アメリカはアメリカなんだけど、私が好きなのがヨーロッパって言うことなんでしょうね。それともただのないものねだりかな。テレビでヨーロッパの石畳や郊外の森、都心のカフェ、市場なんかみたりすると、すぐトリップする私。地震がない彼らの町はやっぱり歴史的建物が多い。イタリアなんかすごい。ローマに行くと頭がパンクしそうになる。だってその変の道端の柱とかが、ローマ帝国時代のうんたらだったりするんだもん。ヨーロッパはいつ行っても、帰ってきた後に必ず思うのが、「ああいう建築物に囲まれて育ったら、人間性に影響があるんじゃないか」っていうことなのよね。生まれたときから近所に噴水のある広場があったり、「石畳を守ろうとする会」なんかが身近にいたら、うまく言えないけど体で美的感覚とか、誇りとか、尊敬の仕方なんかを学ぶんじゃないだろうか。私が建築でも勉強したら、是非その辺の哲学を探りたいかんじ。アメリカでヨーロッパの人と知り合いになったりするともう小躍り。だって彼らアメリカ人と同じ白人なのに、全然違うんだもん。例えば「遠慮」「気遣い」「察する」なんてことが、日本人と同じような感覚で通じ合う。これも私が魅力を感じるところ。そしてヨーロッパの人は、子供のときからほんとにしっかりしてる人が多い。「しっかりしてる」って言うと親の言うことを聞いて、忘れ物とかしない人みたいだけど、そうじゃなくて、「自分を大切にすることを親から教育されてるかんじ」っていうか、相手に失礼にならない範囲内で自分の好き嫌いがきちんとしてるかんじかな。以前台湾で中国語を習ってたとき、朝早めに学校に行くと、いつもクラスメートのフランス人の女の子は一人で新聞を読んでた。周りにはアメリカ人、カナダ人なんかの白人が何人かいて、やっぱり白人は白人同士「つるむ」んだけど、彼女が彼らに混じっているのを見たことがなかった。別に嫌われてるとか、嫌ってるとかじゃなく、もし一緒に夕ご飯なんかに誘われれば行ったりもしてた。でも行く行かないを決める基準になってるのは、「彼らと一緒に遊びたいか」ということじゃなくて、「自分はそこへ行きたいかどうか」っていうことだったりするみたいだった。「タイ料理は一回食べたけど、合わないから次に誘われても行かない」とか「あそこのバーは一度も行ったことがないから行ってみたい」とか。つまり、「イベント対自分」が判断基準であって、「人にどう思われるか」とか「今参加すると友達になれるんじゃないか」とか、そういうことは彼女の辞書にはないかんじだった。そして私は若干20歳のそんな彼女がとっても好きだった。自分にないものを持ってるからかなー。やっぱり。こういうキャラっていうのはある意味「自己中心的」だったり見えるけど、私は絶対違うと思う。私には彼女のような人は「自分のケアが上手な人」のように見える。この「自己中」と「自分ケア」の違いは微妙だが、確実に違うのだ。何故なら前者は周囲に迷惑をかけるが、後者は絶対に迷惑をかけないことが前提だから。例えば、もし彼女が何かの気まぐれで突然キャンセルすることで、何かのイベントがおじゃんになるとしたら、彼女はキャンセルなんかしないだろう。彼女は比較的おとなしくて、決して馬鹿騒ぎが好きなタイプではなかったが、ものすごくおもしろい人だった。面白い話とか笑える冗談が大好きで、でもおかしくないときは周りが笑ってても笑わない。会えばにこにこしてるけど、愛想笑いはしない。そういう気質が私には妙に魅力的。だらだら書いちゃった。夢は持ってるだけじゃ、限界があるかも。夢を楽しむのも、それに向かってちょっとでも前進するとますます盛り上がる、と思う。私のヨーロッパ好きはこれからもちょくちょく顔を出すはず。また思い出したら何か書こうっと。
2005年08月17日
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こんにちわ。ホントに久々の日記です。実はまた、引っ越しちゃったんです。カンサスからインディアナ州です。きっと日本の人にはどっちもよくわからないところでしょうねー。私的に言ってもどちらも Midwest と呼ばれるところなのでさほど変化はないといえばないんですが、それでも微妙に違うのよねー。そうだなー。ちょっとイギリスの郊外からアムステルダムへ行くぐらいの違いはあると思う。って言ってもますますわからないですよね。生活レベル的にはちょっと都会に近づきました。マンハッタン/カンサスにはなかったスターバックスやバーンズ&ノーブル(本屋)があるし、ベストバイ(電気製品)や TJマックス(ブランドのディスカウント店)なんかもあるから。でも、Hugo くんも私もなぜかカンサスが恋しい。それはやっぱり人が違うからだと思う。カンサスの人はほんとに親切で、気取りがない。でも、ダサいとかじゃなくて、意外と垢抜けてたりする。その変が妙に「スカンジナビア」っぽい。北欧(と言ってもデンマーク)にしばらくいたことがあって、スウェーデンとかもちょくちょく行ったんですが、自分がそこにいるときにはあまり感じない「よさ」っていうのがあって、そこを離れて自分の日本の暮らしに戻ったときに初めて「あそこはすごいとこだったかもしれない…。」って思うようなそんなところです。北欧では、例えば、車で言えば制限速度を守るとか、歩行者のために道を譲ることとか、社会制度で言えば、障害者の一般職業への浸透度とか、空き瓶のリサイクルとか、そういうことが、当たり前のようにかなっていて、でもその国で暮らす彼らは外国人にそういう面を強調したり、自慢げに「いかに自分達の国がすごいか」とかを語ったりする人はゼロ。(だから、帰国して自分の生活と比較するまで気づかなかったんですから)デンマークは農業国なので、ハイテク産業や、観光業でもうけてるわけじゃないのに、デパートへ行けば、安物は売ってないし、センスもいい。以前飛行機の中の雑誌でデンマークのことを「理想の国?」っていうタイトルで記事が出てたけど私は一人「うーん、そうかもしれない…。」って思いました。だって、女性の裁判官とか、政治家なんて半数を占めてて、思想的にはほんとに成熟した国なのに、首都コペンハーゲンのメインストリートでは終日歩行者天国(車禁止)で、日曜日には紙芝居とかやってるんですから。子供も素朴ですれてなくて、でもしっかりしてて、当時 23 だった私は自分を未熟だと思ったモンでした。うーん、懐かしいなー。ってインディアナの話だった。ここ「ラファイエット」はカレッジタウンっていうのとはちょっと違う。ウェスト ラファイエットのほうはカレッジタウンぽいけどラファイエット市の方はもっと大きなコミュニティ。小学校が点々とあったり、中古車販売が並ぶ通りがあったり。私はスーパーとかに買い物に行くのに、車で往復一時間は絶対かかる。そしていつ行ってもさほど空いてなく、さほど混んでもいない。つまり始終誰かが買い物に行ってるので、それだけ人口が多いっていうことなんですよね。私は本屋さんが大好きなので、大きな本屋は全部チェックしました。バーンズ&ノーブルはスターバックスが中に入ってて、本の持込みが自由。せこい話ですが、たまにスターバックスでお茶しながら好きなだけ本をじっくり見て、どうしても欲しいものはインターネットで注文してます。バーンズ&ノーブルも好きなんだけど、ネットで買うと安いんだもん…。今日は車の保険やさんに行ってきました。引っ越したし、もうすぐ切れちゃうので相談に行きました。日本だと、車の保険とか買ったことないので、アメリカのほうが私は詳しい。必要な情報をエージェントに話すと、すぐに「こんなもんでいかがでしょうか。」っていう値段を出してくれる。結局今持ってる保険より安くなったので、買うことにしました。
2005年08月09日
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今日は最近のマイブームとなりつつあるフランス語について。とにかく『難しいんだってば!!!』に尽きる。先学期初めて取った授業では、「初心者クラス」って言ってるのに、ほとんどの生徒が「ずっと前に少しやってたんでー」とか「ほとんど忘れちゃってるんでー。」とか言うんだけどみんな何気によく知っていた。私なんか最初の授業で「Allons-y!」(Let's Go のこと)と、「Je M'appelle Nana」(My Name is Nana)って言えただけで、小躍りしてたって言うのに…。レベルが合わないクラスにいると、つらいのよね。他のみんなが納得してるから先生もどんどん進んじゃう。「あのー」って授業を止めてもいいんだけど、あたしに合わせてたら二分ごとに授業を止めなきゃなんない。中には私レベルの人もいて、たまにお互い顔を見合わせて「同病相哀れ」んでたけど、それも悲しかった。今学期はまたまた同じ「初心者クラス」に参加。先学期の生徒は一人もいない。新しく三人のクラスメートと一緒にクラスをスタートさせたんだけど、初回でひとり脱落した。だから今は三人(おじさんと、学生の女の子)でやってます。おじさんは「ちょっとやったことがある」って言ってたけど、これがほんとにちょっと。学生さんは、まるで先学期の私を見るよう。ちっともわかっていないのがよくわかる。二学期目に入ってやっと先生の説明するスピードで消化してる自分がわかる。先生が「これは女性名詞だから、冠詞はこのようになりますよね。」って言うと「あっそうそう。」とか思ってる私。ふふふ。これがうれしい。自分でも参考書つき問題集とか買って、家で勉強してるんだけど、その成果がじわじわ授業で出つつあるところなのだ。つまり、「先生が何説明してるのかがわかる」ようになったって言うのがうれしいわけだよ。フランス語はとーっても難しいと思う理由はいくつもあるんだけど、初心者に取っての壁は「名詞の性別に関する文法(まー、いろんな冠詞があるんだよ、これが)」と「発音」に尽きるのではないかと思います。「発音」は、まったくの初心者には思い切りがいる。先生の真似をしたいのはやまやまなんだけど、いざ言ってみても「ほど遠い」のが自分でもよくわかる。何回か言ってると先生は「うん、そういう感じ」とか言ってくれるんだけど、先生がしゃべると全然違ってる。そこでくじけちゃうのよね。「フランス語の音は美しい」って当たり前のように聞くけど、私は個人的にそう思ったことはないのよね。「じゅぶじゅぶ」言ってるのが、ロマンチックだとか、きれいだなんて思ったことない。その代わり、「むちゃくちゃ笑える音」だと思う。これでコメディ聞いたら馬鹿受けするんじゃないかといつも思う。だって、映画の「Taxi」とか見てても、フランス語全然わかんないのに、やたらおかしくないですか??日本人にも、日本人にしかわからない「笑いのツボ」があるように、絶対フランス人にも「外人さんにはわかるめえ」っていうノリがありそうな気がするのよねー。だから授業中先生が、正しい発音をしてくれるんだけど、私はたまに吹いてしまうときがある。(もちろん下向いてにんまりしてるだけだけど)だからいずれフランス語でフランス語のコメディがわかるようになる!っていうのが私の目標なんです。今日も、がんばって勉強するぞぉ。
2005年02月26日
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楽天広場に戻ってきました、でも今カンサスなんです。そうなんです。去年の8月にアメリカのカンサス州に引っ越して来たんですよ。え?とか思ってるあなた。ドロシーのカンサスですよ、ドロシーの。主人がカンサスの大学で Ph.D してるんです。最初は「えーなんでー。なんでカンサスなのよー。」って主人にぶつぶつ言ってたんですが、今となっては、「ま、いっか。一生いるわけじゃなし。」ってかんじです。彼には言えませんが、私的には、「台湾よりマシ」です。何がましなのかって聞かれるといろいろあるんですが、やはり、『人』に尽きるでしょう。私は、台湾でさんざんいい思いもしました。Hugo くん(主人です)はほんとに献身的によく面倒を見てくれたし、週末は郊外へドライブに行ったり、おいしいものを食べたり、いいこともたくさんあったんです。でも、あそこには住めないといつも思うのは、『人』のせいだと思います。私は旅行もそうなんですが、「行く場所」よりも「行くメンツ」ってほうで、誰と行くかっていうのが旅行のメイン ポイントで、つまり何が言いたいかって言うと、「どこに住んでも私は私」っていうタイプじゃなくて、「こういう人たちに囲まれて暮らしたい」っていうタイプなんです。ま、つまり環境によって幸せを感じるタイプってことです。これは余談ですが、結婚するときも、相手がいないうちから、現実的に条件を三つ揃えてました。それは、結婚するなら、1.婚約指輪があること。2.彼に職業があること。3.どこに住むのかがわかっていて、それが私の好きなとこであること。夢もロマンもない私ですが、結婚するならこの三つが揃ってないとお話にならないと思っていたものですから。結果的に、結婚した当時は、3 が不満で(台湾に住んでたから)、今は 2 が欠けているんですけどね。アメリカで学生になると、仕事しちゃいけないので、彼は今仕事してないんです。ちなみに学生の配偶者ビザって最悪です。私はあくまでも、学生である彼の「おさんどん」(今時使わないですよねー、こんな表現)するのみが許されているので、私が勉強できるのは、せいぜい英語くらい。仕事なんて言語道断ってやつです。ちなみに子供もまだいません。だから毎日どうしてるかって?家事一般って言っても寮だから狭いし、大して掃除するとこないんです。洗濯とか、お料理とかはだいぶやってますけど、あとはジム行ったり、友達とお茶したり、こうやって日記書いたりかなー(って今日久々に戻ってきたくせに)。というわけで、これからまたよろしくお願いしまーす。できるだけちょこちょこいろんなこと書きたいと思います。こんな平和なカンサス暮らしでも、まあちょっとはいろいろあるんですよ。
2005年02月17日
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実は友達にかわいい商品とかを紹介してたら結構注文を受けたので、友達以外にも日本で興味がある人を対象にショッピングアシスタントをやってみようと思います。アメリカのウェブサイトでお買い物しませんか?欲しかったものが「こんなに安くていいの?!」って価格で「これでもかっ」っていうほどざくざく掲載されているアメリカのデパートのウェブサイトとそのお買い物を代行します!実はアメリカのウェブサイトを通してオンラインショッピングする場合、アメリカに住所や電話番号、クレジットカードなどがないと買い物ができないサイトが多く、さらに日本へ送るとなると、馬鹿にできないのが送料。これらの障害を一気に解消して、安い送料と日本の銀行への振込みでお買い物ができる「ショッピング アシスタント」をすることになりました。お買い物の方法としては、1. すでに買いたいものが大体決まっている人例:テーブル クロスと、ナプキンのセット 6人分例:予算 2000 円ほどの写真たて など2. 買いたいものは決まってないけど、シチュエーションは決まっている人例:5000 円以内で彼の誕生日プレゼント例:3000 円以内で母の日のギフト などがあげられますが、1.の場合、欲しい商品の写真が掲載されているウェブサイトのリンクをお客様のメールアドレスに送ります。そこから自分の好きな商品を写真つきで(多くの場合、拡大アリ)見ることができます。商品が決まったら、商品名(あるいはリンク)を送信していただければ、確認の後購入して、日本へお送りする手続きをいたします。2.の場合、とりあえずシチュエーションと予算に応じたサイトをできるだけ集めて(例:男性用ギフト商品)1.と同様リンクを送信するので、その中から写真と予算を見て商品を選ぶだけ。基本的には「写真を見て選ぶだけ。」後はこちらの質問内容(住所とか)に答えていただくだけで、商品がお手元に届きます。詐欺などの防止のために、商品を購入したレシートをお客様にメールいたします。ちょっと気の利いたプレゼントや、どんなものを送ろうか迷ったとき、あるいは「えっこんなものまで売ってるの??」的なアメリカならではの商品(例:電動缶切)まで、見ないと損!っていう商品をたくさん抱えているウェブサイトたち。一度ごらんになりたい方は、ご連絡お待ちしています(もちろん無料でごらんになれます!!!)。メールしてね!!
2004年08月01日
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えー、最近はまってます。オンラインショッピング。この夏にはHugoくんと、アメリカに戻ることになって、結婚式でいただいたお祝いなんかをぱーっと使って自分の好きなものを揃えるつもり。結婚してそろそろ丸二年。台湾に住んでいても、いづれここを出るってわかってるから、ちっとも落ち着いて買い物ができない。「あー、そろそろまた引っ越すしなー。」って思うと「いい物」が買えない。だって引っ越してから買い揃えればいいって思うじゃない?たとえば、バスローブとかタオル。私はキッチンとバス用品はいい物を長く愛用したい主義。でも、バスタオルひとつとっても台湾にいるせいとは限らないが、ちっともいい物を買う気にならん。私がアメリカにいたときに愛用していたデパート、それは Neiman Marcus(ニーマン マーカス)。アメリカじゃ高級デパートなんだけど、オンライン ショッピングをチェックしてみると、ラルフローレンのバスタオルがセールだったり、シーツに無料で素敵なイニシャルを入れてくれたり日本で同じものを買うことを考えたらびっくりするほどオトク。また、デザインや色もバラエティにとんでて、ニクイぐらいステキ。ここ最近のヒットは、シューズバッグ。巾着型で、ワッフル生地みたいなコットンでできてる袋なんだけど、刺繍されてる靴のデザインがなんともほんとにかわいくておしゃれ。女の子だったら絶対一個は欲しい。こんなかわいいシューズバッグが旅行用のスーツケースからでてきたら感激!なので、自分の分と、ママのと、姉のと、友達にも教えてもう10こ以上オーダーした。だって、ひとつ$15(約1620円くらい)だし、そのうちの一番かわいいやつ(だと私は思う)なんか、セールで$11.90(約1300円)なんだもーん。しかもイニシャルをピンクで入れてくれて無料。ニーマンマーカスには他にもほんとにたくさんのものがあって、オリジナルも多し。興味がある人は、ぜひぜひ覗いてみて!お気に入りのリンクに登録してあるので、私の日記のホームページからどうぞ!
2004年06月08日
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夫の父は口では言い表せないほどサイテーな人で、どうして私の夫はこんなにやさしくていい人なのにといつも疑問に思う。本当の父親じゃないと言われたら納得なんだけど。とにかくわたし的には「コントロール フリーク」としかいいようがない。周りの人間とか物事がすべて自分の思うとおりに動かないとがまんができない。がまんができようができまいが、思い通りにならないことなんて世の中山のようにある。そういうとき夫の父がどうするかっていうと、いわゆる英語で言う Nag っていうやつなんだけど、しつこくしつこくがみがみがみがみ自分の気が治まるか状況が都合よく変わるまで言い続ける。このしつこくがみがみがほんとに長くてしかも声が大きい。もう誰も相槌すら打たないのに延々と言い続ける。わたしは彼の家族が何の反応もせずだまーってテレビを見てるのに、夫の父だけが嵐のように怒りくるってテーブルをたたき出したり、どなったりしてるのを何回か見たことがある。ちなみにわたしの中国語は大したことないので、何が起こったのかわからないときがある。でも夫が悲しそうに微笑むのを見ると「今聞いちゃいけないな」とか思うわけで、後から説明してくれるのを待つこともある。でもその原因となることがあまりにも幼稚というか、くだらないというか、わたし的には「それがそんなに怒るようなこと??」っていうような内容だったりすると、あきれて逆にびっくりしちゃう。こういう人って想像つくと思うんですけど、何に対しても感謝ができない。先週末彼の弟の赤ちゃんが生後一ヶ月目のお祝いで義母が午後一杯かかってご馳走をたくさん作った。わたしは彼の母親の手料理は見るのも食べるのも大好き。だから邪魔にならないように、料理を作るのを観察したり、手伝えることを手伝ったりしてた。夕飯になってみんなが集まってきて、わたしだけじゃなく主人も「今日はすごいごちそうだね!」ってことになった。そうやってみんながほめたりすると、おもしろくないのか、夫の父は「この前のほうがおいしかった」とか「どうしてアレを入れなかったんだ」とか始まる。どんなに中国語がわからなくても場が白けていくのはわかる。夫は概して敵を作る人間じゃないが、見かねて「じゃあ、次は自分で作れば」と嫌味のひとつもたまには言っているらしい。夫いわく、夫の父は学歴がなく、そのことに海より深いコンプレックスを抱いているらしい。だからみんながいいと思うもの(考え方であろうが、レストランであろうが、団体旅行のプランであろうが)に賛成すると、いかにも芸がない(=学がない)と思われたくないばっかりに、「こんなのは大したことない」とか「あそこの店のほうが安くてうまい」とか、どうしてもひとこと反対せずにはいられないんじゃないかと言う。さすがは息子だと思ったが、そこまで分析されている夫の父はやはり気の毒で悲しい人だと思ってしまう。わたしが日本人であることや、夫とニューヨークの大学院を出たことや、翻訳を仕事にしたりしていることすべてが、彼にとっては「牛耳れない」存在として写る。何とかこの「未知の存在」をコントロールするすべはなかろうかと、夫の父はわたしの顔をみるたびに「中国語をもっと勉強しなさい」か、「子供はまだか」の二つについて振ってくる。サイテー。うちの親は夫に日本語を習えと言った事も、習って欲しいとも言ったことがない。でもわたしは中国語なんてちっとも興味ない(あたしはそれよりフランス語がやりたいのだー)って言ってみたい。そして子供には絶対に中国語では話しかけないと心に誓った。
2004年06月06日
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台湾のスーパーでよく売ってるんですけど、「五香粉」って書いてある商品があって、いわゆるフランス料理なんかに使われるブーケガルニ。五香っていうからには五つの「におい」が入ってるんだけど、八角とか、山椒とか入ってる。なんかこれ入れるとなんでもかんでも台湾ぽくなるから不思議。豚の角煮なんかに入れたら完璧。あたしは結構よく作るんだけど、Hugo くんいわく、「最近の若い人って脂肪分が多いとか言って食べない人多いけどね。」らしい。あたしは何かの本で読んだけど豚の角煮の油の部分は長く煮込むとコラーゲンになるって聞いたから(誰か聞いたことない?ホンとかな?)結構それを信用してるんだけど。こっちで結婚式に出たことがあって、やっぱ中華テーブルでぐるぐる回しながら食べるんだけど、豚の角煮のときは、女の子に人気がなかった、確かに…。あたしは「もうそろそろ帰ろうか。」なんて言われ始めたもんだから必死になって食べてたけど。そうそう五香粉だけど、煮出し麦茶みたいに袋に入ってて、煮るときにぽんと入れるだけ。ながーく入れとくと、よりいっそう五香粉が香り立つらしい。日本にもあるのかなあ。あるんだろうな、きっと。
2004年06月03日
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やっと日本語が打てるようになりました。Hugo くんが新しく買ったコンピュータに日本語を入れてくれました。今日占いに行ってきました。過去世とか見てくれる人なんだけど、トランプと水晶と、手相で見てくれた。友達三人と行って来たんだけど、何気にみんな当たってて大爆笑。ちなみにあたしには前世で三人の夫がいて、いつも自分の意見を通してきた人なんだって。夫が言うことよりも、あたしが言うことのほうがだいたい正しくて、夫に常にアドバイスをする立場にいた奥さんだったんだって。さらに「仕事は何してるの?」ってシツコク聞かれて、「えーっと今たいしたことしてなくって、大学院では宗教学勉強してて…。」つたない中国語でもごもご言ったら、「あんたは仕事してなんぼの人。やったらやっただけどんどん向上していく。挑戦があるたびに人生が上向きになる人。仕事してない?人生無駄にしてるじゃないの!」って怒られちゃった。確かにあたし仕事好きなんだよねー。アメリカで仕事してたときも、仕事をいやだって思ったことがほとんどない。忙しいとうれしくなっちゃう。きっと死ぬほど忙しい目にあったことがないからかな。でも仕事で徹夜とか結構うれしかったりしてた。8月にはアメリカに戻ります。よおしまた仕事するぞー!!と決意を新たにした占いの午後でした。
2004年05月28日
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というわけで、自分のコンピュータのメモ帳使って打ってます。後で Hugo くんのコンピュータに移して日記コーナーにアップロードするのよ!!うーん、自分でも泣けてくる情熱だー。早速ですが、今日の献立よん。トウバンジャンのスープであったまるのが今日のメインです。今日のメニュー:-焼き魚(何の魚だろ、赤身で切り身を買ってきました。)-冬瓜とひき肉のトウバンジャンスープ-菜の花炒め-ニンジンと大根のきんぴら焼き魚:えーっとただのお魚の塩焼きです。台湾のキッチンには魚焼き機がない。何で焼くのかというと、フライパン。以前はオーブン使ってたんだけど、魚焼くとクッキーとか焼く気がしなくなる。Hugo くんのお母さんがフライパンで焼いていたので、真似してる。台湾のお魚はほとんどが塩焼きにするみたい。あたしは煮魚派なんだけどね。冬瓜のひき肉のトウバンジャンスープ:ナンと言ってもこれが今日のメインよ。トウバンジャンをスープに入れるんじゃなくて、トウバンジャンにスープを入れるところがポイント。まあ、簡単なので作り方見てね。材料:豚ひき肉 150 グラムぐらい。冬瓜(なければ大根でも)400 グラムぐらい(大根だと半分くらい)。醤油大さじ3。酒大さじ1。トウバンジャン大さじ2(辛さは自分で調節してね、これは結構辛いほうです)。米酢小匙1。塩小匙1/2。中華スープ(またはチキンスープ、ブイヨンでもOKよ)カップ6(3人分にはなる)。サラダ油大さじ1。ごま油大さじ1。作り方:1 冬瓜の皮を剥き、タネを取り、一口大に切る。煮ていくとめろめろになるので、小さ過ぎないように。2 油をフライパンで熱し、ひき肉を入れる。ジュッと音がするくらいフライパンは熱すること。すかさずお酒だけ入れて炒める。3 色が変わってほぐれてきたら、醤油、トウバンジャンを入れてじゃんじゃん炒める。焦げないように火を弱め、味の濃い煮物みたいになるように煮詰める。2 分ほど。4 すべてのひき肉が辛くなってきたら冬瓜を入れて一緒に炒める。5 冬瓜から水気が出てくるあたりでチキンスープ、塩を入れ、スープにする。ぐつぐつ沸騰させて、冬瓜を透明な色になるまで調理する。6 火を止めた後で、酢とごま油を上から回しかけてできあがり!ピリカラよん!*うちって塩気が少ない夫婦なので、塩加減は火を止める前に調節してください。菜の花炒め:こんなのわざわざレシピに載せるほどんじゃないので、省略します。菜の花って茹でて辛し和えとかが一般的だと思うんだけど、今日はあえて油炒めにします。なんか台湾の巨大な菜の花見てたら炒めてやりたくなっただけ。ニンジンと大根のきんぴら:実は昨日ごぼう見たのよね、市場で。でも「どうせ使いっこないしい」なんて思って素通りしてしまった。人生って皮肉よね、そういうときに限って何が何でもきんぴらが食べたいんだから…。うるうる。ニンジンと大根で作ってこれをきんぴらと思って食べることにします。材料:ニンジン半分、大根1/3、ごま油大さじ1、出し汁1/4カップ、醤油大さじ2、みりん大さじ2、七味好きなだけ。作り方:1 ニンジンと大根の皮を剥き、5cm 弱の長さに短冊切り。2 フライパンにごま油を熱して、野菜を炒める。油がまわってきたら出し汁を入れてちょっと煮立たせる(こうしておくと後からぐんぐん味が入る)3 醤油、みりんを入れて弱火で煮る。4 どのくらい煮ればいいのかわからないので、しょっちゅう味見して、美味しいところで火を止める。七味をかけて(あたしは結構かけてます)できあがり。今日はちょっとピリカラな晩御飯。だってそろそろ台湾だって寒いのよ。今朝、初めて 20 度を切ってたわ。夜は 15 度くらいまで下がってるのかなあ、でも暖房ないし。だからホットな夕飯で体を温めてます。みなさんも風引きやすい時期だと思います。お互い気をつけましょ!そうそう、次回台湾生活約二年目にして発見したデザートをお知らせしまっす!またみてねー。ばいばーい。
2003年11月12日
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SUMIMASEN! JITSUWA HIKKOSI SITANDESU. SONO AIDA Computer GA TSUKAENAKUTE, SARANI WATASHI NO (nihongo) Computer GA internet DEKINAKUNATTA!! (do-site??) DAKARA, SHUJIN NO computer WO TSUKATTE IMASU. DEMO NIHONGO GA UTENAINDAYO--!!RO-MAJI JA ZETTAI MINIKUI DESHO. DAKARA KAKIKONDE NAINO. TAMANI YOTTEKUDASATTERU KATA, HONTO NI KANSHA DESU!!! TOBUN KAKEMASEN NODE, HOKANO NIKKI WO TANOSINDE KUDASAI...SAYOUNARA~~ KANASII..IMA ICHIDO upload SITANDESUGA, YAPPARI NIKKI WA AKIRAME RARENAI... SUDENI SEIKATSU NO ICHIBU KAMO (OOGESAKA).DAKARA...I decide to continue! but only in English DAYO.. Maybe it’s good for my practice. It’s OK if nobody wants to read my diary... but I will still GAMBARUZE--! GAIJIN SAN WO target... NANTENE... Huh...TOIUWAKEDE, KOREKARAMO TSUZUKEMASU! YOROSIKUU--- (DEMO YAPPA NIHONGO GA IIYO~) :-(
2003年11月02日
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おとといは女の子の友達2人呼んで「ガールズナイト」しました。女友達同士だと、いつも思うんだけど話しはネバーエンディング。なので、席をなるべく立たなくていいように、オーブン料理にするんだけど(話してる間に勝手に料理してくれてるから)、そんなわけでおとといは「ミートローフ」を作りましたあ。「ローフ」と名がつくとなんかお洒落で料理上手だわといつも思う私。私の思いこみは別として、このミートローフ実はただの「ハンバーグ」なんです。オーブンで焼いてくれるから「ローフ」と名づけました。お客様が来たときにでも使ってくださいこのレシピ!「ハンバーグなんだけどミーとローフと呼ばせて」の作り方材料:合びき500グラム、パン粉大さじ2、牛乳大さじ3、たまご一個、玉ねぎ(小さければ)一個みじん切り、ナツメグ大さじ1、シナモン少々、塩小匙1、胡椒小匙1、1 玉ねぎをみじん切りにして(大きめでも炒めるのでOK)油(大さじ1)で炒める。透き通ってきたらバットにでもあけて冷ます。2 パン粉をお茶碗にとって、牛乳を入れて浸す。たまごはハンバーグをこねるボールに割り入れて、溶いておく。3 ひき肉、玉ねぎ、パン粉+牛乳、調味料すべてをたまごと一緒にする。こねてこねて、お肉が白っぽくなるまで混ぜる。4 耐熱皿にこねたタネを全部うつす。耐熱皿にアルミホイルをかぶせて 180 度のオーブンで1時間焼く。5 忘れなければ最後の10分はアルミホイルを取って、ちょっと焦げ目をつけるようにすると見栄えがおいしそう。(でも私は忘れました…。)あつあつのジューシーなところを取り分けて赤ワインでも開けちゃってください!!一緒に茹で野菜(たけのこ、にんじん、ジャガイモ、いんげん)なんか沿えて市販のドレッシングで食べてもそれなりにカッコがつく。手抜きなんだけど、女友達なんで許して!!っていうメニューでした。デザート?もちろん彼女たちに買ってきてもらいました…。だからデザート2品だったのよん。美味しい紅茶でも入れれば最後まで楽しいこと間違いなしよ!!
2003年09月29日
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えー、おとといはマーボ茄子にしました。昨日はなんか食欲がなくて、お魚焼いて食べちゃいました。(Hugo くんのリクエストでまた例のタイ風グリルにしました)台湾の茄子って長いのよお。あたしの指先からひじぐらいまであるんだから!それを2本使ってご飯がすすむマーボ味にしました!材料:なす(日本のだったら4本くらい)、揚げ油(底から2センチくらい)、豚ひき肉(100グラムぐらい)、中華スープ(一カップ)、醤油・酒・砂糖・トウバンジャン・テンメンジャン 各大さじ1、ねぎみじんぎり一本分、ショウガとにんにくを多めに(各大さじ1)みじん切り、水溶き片栗粉(片栗粉と水、各小匙1)、1 茄子を一口大に乱切りして高温の油でさっと揚げる(茄子に火が通ればOK)2 フライパンに 油(大さじ1)を熱しひき肉を炒める。色が変わってきたら、ねぎと中華スープ以外のすべてをいれて炒める。3 いい匂いがしてきたら中華スープを入れて煮たてる。4 スープが煮立ってきたら水溶き片栗粉を入れてしばらくかき混ぜる。固まってきたら火を止めてできあがり!中華って下ごしらえさえしておけば、すぐにアツアツが食べられるので、時間のないときでも大丈夫。珍しいメニューじゃないけど、たまにはいかがですか?そうそう、お弁当に持たせるときは、翌日までに、茄子の油が表面に浮いてくるので、それを捨ててから持たせるとぎらぎらしなくていいと思います。
2003年09月25日
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冷房をつけないようになって三日目。ついに30度を下回る気温になって参りました。えーっというわけで、グラタンにしちゃいました。食欲の秋を先取りー。なんてね、実はスーパーでホワイトソース缶を発見。でも自分でホワイトソースが作りたくなって、結局グラタンを作ってしまった私。生クリームが必要とか、ルーがダマになるとか、いろいろ心配が多いホワイトソースですが、そういう心配は一切なしよ。なんせ根がマジメじゃないのでどうしてもずるしちゃうんだよねー。えー、今日は牡蠣のグラタンなんです。しかもパスタ入りよ!ご飯も炊かなくていい。ハハハ。まずは材料です。材料:パスタ(短いやつ、マカロニでもOK)2人分、牡蠣ひとパック分、玉ねぎ1/4個、えのきだけ(グラタンの材料ってみんなふにゃふにゃしちゃうじゃない?ちょっとえのきを入れると食間が楽しい)ひとパック、ブロッコリー一株、シナモン、ナツメグ、塩、胡椒、粉チーズ、パン粉各少々。ホワイトソースの材料:バター50グラムぐらい、小麦粉大さじ3、牛乳(冷たくてもいいのよ)500ccぐらい。そうそう、オーブンを使うので、深めの耐熱皿を用意してね。オーブン料理ってラクよー。ちょっと下ごしらえして後はオーブンにお任せでしょ?その間にいろんなことできるし。1 下ごしらえとして、野菜とえのきと牡蠣を洗ってできるだけ水気を切っておく。2 ホワイトソースを作る。火は中弱火まずフライパン(大きめ)にバターを溶かして、小麦粉を加える。最初バターを吸ってポソポソになるけど、しつこくやってると滑らかになる。そこへ牛乳を入れる。冷たくてもいいし、一度に入れてもOKよ。ダマにならない秘密兵器があるのだ!それは泡だて器。ポイントは、ある程度牛乳が温まるまで焦らずにじっと待つ。人肌程度に温まってきたら泡だて器を使ってダマを潰していく。(湯気が出るほど火を強くしないでね。)ちなみにいつまでもやってると、固まってきちゃうんです。そこまで行くとNG。3 ちょっと片栗粉入れたみたいになってきたら、用意しておいた牡蠣、野菜、えのき、塩胡椒、シナモン、ナツメグなどをすべて入れる。火を通す必要はないので、ソースを具に絡めるようにするだけ。ナツメグはねー、肉料理によく使うけど、私はホワイトソースに入れるのが好き。シナモンと一緒だと風味豊かでおいしそうな匂いがするよ!4 耐熱皿の底にパスタ(乾いたまんま)を並べる。そうなんです。パスタですらあらかじめ茹でる必要はないんです!!オーブンに一緒に調理してもらおうじゃありませんか!!(オーブン万歳)Pasta の上にフライパンの中身を全部移して、上からパン粉を少々粉チーズをどばどば振る。これが焦げるとおいしー!170度のオーブンで1時間調理する。オーブンもね、あらかじめ暖めて置かなくても大丈夫よ。チーンとなったらいただきます!Hugo くんにお弁当でこのグラタンを持たせた。おいしいって喜んでたよ!そうそう、タバスコかけても結構いける。
2003年09月23日
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昨夜はねー、カレーだったんですよ。ハウスの。なもんで、書くことがない。ちなみに具は豚肉、ジャガイモ、ナスでした。ナスを大きめに切ってカレーとかシチューに入れるとおいしいんだよねー!あとは、野菜炒めを2種類作ったんだけど、昨日は市場のもやしが妙に新鮮で生で食べたいくらいしゃきしゃきだったので、その歯ごたえを残すために秘密兵器を使いました!以下はそのもやし炒めのレシピ。人様に教えるのが恥ずかしいほど簡単ですが、もやしを見る目が変わるかもしれません。是非一度試してください。今日の一品:もやし炒め材料:もやし(好きなだけ)、ごま油、黒酢、塩、香草そうなんです、秘密兵器とは『黒酢』のこと。なければ普通の酢でもいけるはず。黒酢を使うとなぜかほんのりブルドック ソースの匂いがしてくる。それがまた食欲をそそるんだけどね。1 もやしを洗って、水気を切っておく。2 大きいフライパンにごま油を大さじ2ぐらい入れ、フライパンから湯気が出るほど暖める。3 水気の切れてるもやしを一気にフライパンに入れ、じゃーっと言わせる。10 秒ぐらいいためる。4 黒酢を大さじ3ぐらい(結構思いきった量を入れる)入れて再びフライパンをうならせる。(黒酢がツーンとした匂いを発するけど、一瞬で消えます。)あとは塩を好きなだけ入れて味をつける。しゃきしゃきしてる状態で火を止め、器にもる。5 香草をみじん切りにしてもやしのうえに散らす。できあがり。胡椒はつかわないんですよー。黒酢がね、なんかもやしの甘味を引き出すような感じなんで、塩が控えめだとむしろ甘めの一品になるんです。だから胡椒入れちゃうとそれが全部わかんなくなっちゃうのよね。しゃきしゃきやってください!今夜あたり。
2003年09月22日
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今日は忙しい1日でした。朝はゆっくり起きたンだけど、すぐに大学へ出かけて(生徒じゃないよ、私達)あたしは図書館で授業準備、Hugo くんはオフィスで試験勉強してた。2 時ごろ大学を出て引っ越し先のアパートへ。(台湾へ来て三度目の引っ越し…)引っ越しは2週間後なんだけど、とにかくほこりだらけのアパートなので、掃除に行きました。Hugo くんは力仕事、あたしはゾウキンがけ。無口になるまで働いて、帰宅。お腹が空かないどころか、キッチンに立つ気もしなかったのよね。Hugo くんが、冷蔵庫をもそもそ探って「俺が作る!」って言ってくれたときはほっとした。Hugo くんが作ってくれたのはざるうどんサーモンとほうれん草のサラダでした。ざるうどんは三越で買ったフツーの讃岐うどんで、サーモンサラダは冷凍のサーモンをトースターでグリル。言い匂いがしてきたら取り出して、少し冷ます。ほぐして皮と骨をとる。ほうれん草、サラダ菜(ちょっと苦味のあるやつ、高かったー!!)、きゅうりをベースにしたサラダにサーモンを混ぜ、ドレッシングで和える。ドレッシングは、Hugo くん得意なんだよねー。(なんたって Salad の本持ってるんだから!今年の夏、ダイエットに目覚めて自分でサラダ ランチ作ってたときがあって、ドレッシングもぜーんぶ手作りよ!)ちなみに今日のドレッシングは、オリーブオイル、白ワイン ビネガー、レモン汁、にんにく、塩胡椒、ディル、タラゴン、和からし、だそうです。そうそう、台湾には「豆腐乳」っていう豆腐でできたビンづめのおかずがあって、要は「お粥の友」で、日本人が梅干食べるみたいにちょっとづつ食べる品があるんだけど、あたしが初めて食べたときは「チーズみたい…。」って思った。ちょっと発酵してるんだよね。ウチの冷蔵庫には「麻豆腐乳」って言うのがあって、「麻」ってつくとちょっと辛い。実は Hugo くん、和からしのほかにこの「麻豆腐乳」も入れたんだって、ドレッシングに。ちなみに、サラダの具にサーモンを使ってるから「レモン汁」と「白ワイン ビネガー」と酸味を両方入れて、サーモンの生臭さを消したそう。にんにくをきかせてちょっとピリカラにしたから美味しかったあ!!ほうれん草も生で食べたのなんて超久し振り。なんか夜なのに健康的になった気がした一品でした!
2003年09月20日
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今日は、ダイレクトにメニューから行きます。だって、ほんとにおいしかったんだよ!!これが!!ちなみにレシピ見たんだけど、自己流にアレンジしました。-Sea Bass のタイ風グリル (日本語は何なんだろう…。スズキか。白身で大き目のお魚(2人で一匹食べるみたいな)なのがベター。できればあんまり身が崩れにくいやつ。調理しやすいから。-インゲンのソテー-ゆで野菜(お芋の葉っぱ)そうなんです。今日は買い物に行かなかったので、魚以外はサミシイメニューとなりました。でも、野菜でお腹一杯になるのも悪くないかも!たまには!えっとまず、スズキの台風グリル。材料:スズキ 一匹、レモン 2個、ナンプラー(大さじ5)、香草(チャンサイって言うんでしょうか?中国パセリです。なければ普通のパセリで代用してください。でもとっても大事なのでできればチャンサイを探し回ってください)10茎ほど、にんにく 5かけ、ショウガ(皮なし5センチを縦にうすくスライス)1 下ごしらえをします。スズキはあらかじめ買うときにきれいにしてもらった方がいいです。うろことか、内臓とかをとってもらって。表と裏に4ヶ所ぐらい包丁で斜めに切り込みをいれます。2 すべてのにんにくと、香草5本分の茎の部分をみじん切りにして、レモン一個分の絞り汁(種は取る)、ナンプラー大さじ3と一緒に混ぜ合わせる。香草の葉っぱの部分はみじん切りにして取っておく。3 大き目のお皿に魚を置いて、魚の表と裏に均等に2 をかける。かけるっていうよりは、味が染み込むようにたたきながらぬる。お腹の部分に残りの香草5本と、ショウガの薄切りを入れる。そのまま最低15分くらい置く。4 残りのレモン一個の半分を使って、薄めの輪切りを作る。魚を盛り付ける皿に並べるように敷く。(後からこのレモンの上に魚が乗る)後の半分のレモンは絞って種を取り、ナンプラー大さじ3と合わせておく。(焼きあがったとき上からかけるソース)5 魚が一匹入るようなフライパンを熱し、油を大さじ2ほど入れて、中火で油を温める。油が温まったら(湯気を出すほど暖めないで!)つけておいた魚をフライパンに入れ、一気にじゅわっと言わせる。しばらくすると焦げた匂いがする(って実際にんにくが焦げてるんだけど)がまんして少々焼きつづける。フライパンをゆすったとき魚が動くようだったら裏に返す。再びじゅわっと言わせて、しばらく焼く。裏を焼いてる間に表の焦げた部分を菜ばしで取り除く。以外と簡単に取れる。6 両面合わせて6分ほど焼き、菜ばしを突き刺して簡単に下まですっと入るようならできあがり。7 さっき敷いておいたレモンの上に魚を置き、先ほど作っておいたレモン+ナンプラー ソースをまんべんなくかけ、刻んでおいた香草の葉の部分を魚の上に散らす。できあがり!ほんっとにおいしかったんだってば!インゲンのソテー材料:インゲン 20本ぐらい、にんにく 大き目の薄切りで4かけぐらい、白ワイン 1/4 カップ、オリーブ オイル 大さじ2、塩 胡椒 各適宜簡単なんだけど、お洒落でおいしくて高級感もあるんです!白ワインのせいかな?1 インゲンの筋を取り、食べやすい一口サイズ(5センチくらい)にカット2 にんにくは大きな薄切りにする。3 フライパンを暖めてオリーブオイルを入れる。オイルが十分に温まったらインゲンを入れる。インゲンの色が変わってくるまで炒めて、まだ固いうちに白ワイン、にんにくを入れてすぐにフタをする。ジューっていう音が低くなったらフタを開けて塩胡椒をぱぱっと振ってできあがり!白ワインの香りとにんにくの香りでちょっとお洒落な炒めものです。ゆで野菜(お芋の葉っぱ)お芋の葉っぱは台湾で最も簡単に手に入る野菜のひとつで、茹でるとちょっとぬるっとしてきて栄養ありそー!っていう風味になります。市販のにんにくソース(台湾にあるんです)とかオイスターソースなんかで食べれます。材料:お芋の葉っぱ 一把、油 大さじ2、オイスター ソース1 お芋の葉っぱは茎をまったく食べないので、葉っぱだけちぎって洗っておく。2 鍋にお湯を沸騰させて塩を入れ、葉っぱを全部入れる。ぬるぬる感が出てきたら油を入れる。葉っぱを引き上げるときに油がからむようにする。あつあつのうちにオイスターソースを好きなだけかけて食卓へ!お芋の葉っぱ以外にも、A菜(これも台湾の茹で野菜の代表格)とかほうれん草とかもこの方法でおいしいくなりますよ!
2003年09月18日
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今日は、中国語のクラスでなんとクラスメートの不倫発覚。老師(先生)の何気ない質問「あなたは彼氏いるの?」って聞かれた韓国人のクラスメートは「ええ…でも、結婚してるんです…。」あたしは内心「そんなことクラスで言っちゃっていいのお?」って思ったけど、実際彼女の顔も見れなかった!あたしが恥ずかしがることでもないか?!えっと昨日は市場へ買い物に行きました。台湾には菜市場っていうのがあっちこっちにあって(正しくは伝統市場)、ローカルの主婦はスーパーへは行かないのよ。菜市場にも2種類あって、台北なんかだと、朝市しか見た事ないんだけど、私の住んでる台中には朝市と夕市があって、両方行って見たんだけど夕市のほうが魅力的。朝市にはないものがたくさんあるんだ。例えば調理した煮魚とか、揚げたてのさつま揚げとか、パン屋(!)とか。果物や野菜を買うのが目的で行き始めたんだけど、最近魚も買えるようになってきた。人と話さないと買えない代物は未だに苦手。お肉とか。昨日菜市場に行ったので、新鮮な野菜はあるし、手作りのおいしいお豆腐も買ってあるしということで、今日のメニューです。-アジの干物(三越デパートで見つけた!珍しいんだから、干物は!!)-湯葉としいたけとニンジンの煮物-空心菜いため-冷奴(えー、アジの干物は説明しません。魚焼きグリルがないので、オーブンで焼きました。(200度、15分))湯葉としいたけとニンジンの煮物材料:湯葉(台湾では大きな湯葉がすごーく安く手に入るんです。)できるだけたくさん(なければアゲでもOK)、しいたけ(10個)、ニンジン(1/2個)。1 ちょっと深めのフライパンにごま油を多めに(フライパンの底が隠れるくらい)ひいて油を温める。乱切りにしたニンジンをごま油で炒めて、ちょっと火が通ってきたらしいたけも入れる。しばらく炒めたらだしを入れて、水を1カップ半入れる。2 沸騰してきたら、醤油(大さじ3)、酒(大さじ2)、砂糖(小匙1)、みりん(大さじ1)を入れて、味をちょっと薄目にする。クツクツ煮る。3 煮汁の味見をして、しょっぱくなかったら、湯葉を落とす。湯葉は薄い場合はさっと煮るだけでOK。火を止めてからテーブルに出すまでの間に味が染み込むので。七味なんか振りかけたり、インゲンを茹でて載乗せたり、きれいに飾ってテーブルへ。空心菜いため。最近日本でも手に入るんじゃないでしょうか?茎の部分がしゃきしゃきしててほんとに飽きない野菜。おいしく炒めてみてください!材料:空心菜(一束)、にんにく(2、3 かけ)、サラダ油(大さじ1)、塩(小匙 1/2)、水(半カップ)、酢(小匙 1/4)、1 以外と下ごしらえに時間かかるかも知れませんが、この野菜は、洗った後、一本一本丁寧に葉っぱの部分を摘み取ってざるに置いていきます。茎だけ集めて最後に食べやすい大きさに(4、5センチ)切って、葉っぱとは別に置いておく。にんにくはみじん切りにしておく。2 フライパンを熱し、油を入れる。湯気が立つほど油を熱したら、茎の部分を一気に入れて炒める。15 秒ほど炒めたら、葉っぱの部分を入れる。10 秒ほど炒めたら、塩、酢、にんにく、水を次々に入れる。よくかき混ぜて火を止める。塩以外に台湾独特の調味料「沙茶醤(サーチャージャン)」を入れるとより一層アジアン。ポイントは葉っぱがしんなりし過ぎない程度で火を止めることです。酢を入れると葉っぱがしゃきしゃきします。味はほとんどしません!
2003年09月17日
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えーと、はじめまして。プロフィールでも書きましたが、結婚して一年になりました。私達はアメリカで知り合って、ハワイで結婚して、今台湾に住んでいます。知り合って約六年、その間遠距離恋愛二年を経ての「亀のような」ゴールインでした。いろいろ障害となることはあったものの、毎日が「結婚してよかったな」っていう日々です。昔友達と、東京中野のお好み焼き屋で(私は中野区育ち)彼氏の話しとか、結婚観とか、理想の相手とか、まあ若かったせいもあって、たわいもなくおしゃべりしていたときのこと。カウンターでしかも2時ごろお好み焼き食べに行ったからお客が全然いなかったのもあって、店の主人が私達の話しに割って入ってきた。「結婚って言うのはね、神様が世の中で一番合わない者同士をくっつけて、半年後にそれを気づかせることを言うんだよ。」って薄ら笑いしながら言ってきた。私はそのとき彼氏はいないし、適齢期だったから、一応結婚経験者である店の主人の話しを聞くには聞いたが、お店を出てから友達と 2 人で「なによ、あれ。自分が結婚に失敗しただけじゃない!!」とかなんとかぷりぷりしながら、家路へついた。でもその頃から、「結婚って言うのはしたあとで絶対何かある」っていう先入観を抱くようになった。誰だって結婚で失敗したくない。だから私もすごく疑心暗鬼だった。でも、結婚記念日をプーケットで過ごして(でも、彼の親付き)、色違いのサロン(リゾート プールとかで腰に巻いたりする布)買ってもらって、あの店のおやじが正しくなかったことを自分で証明できてほんとにうれしかった。この前ふとした拍子に「ねえ、もしかして、知り合ってから7年ぐらい経ってる?」ってことになってほんとに驚いた。結婚してからはたかだか一年だけど、実は7年も付き合いがあることがわかった。Hugo くんは、ここまでくれば十年ぐらい楽勝だね。って言ってたけど、なんかそんな気がしてきた。とにかく、毎日 Hugo くんが「あっ」と言う手料理を作る毎日。どんなに忙しくてもこれだけは欠かせないのだ!と、いうわけで、今日のレシピです。メニューは、-サーモン ローフ-トマト スープ-ハムとほうれん草のパスタの三品です。メニューは2人分の計算ですが、Hugo くんはとてもよく食べるので(でも、太ってないよ)、多かったら翌日のお昼にでも召し上がってください。まず「サーモン ローフ」だけど、ぜーんぜん簡単なの!「ローフ」とか言うとちょっとお洒落でしょ。台湾でも、サーモンは簡単に手に入るんだけど、普通のお魚より高い。ノルウェーとかからの輸入だからね。だから私は冷凍のサーモンを見つけたときにこのメニューを作ります。作り方はこちら。材料:冷凍サーモン(400gぐらい、または2枚)、たまご(2個)、セロリ(2本)、パン粉(1カップ)、牛乳1/2 カップ、ベーキング パウダー(小匙1)1 冷凍サーモンを沸騰してる鍋に入れて調理しちゃう。要はサーモンがほぐれればいいので、箸でたまにつっついてほぐせるほどになったら火を止める。2 皮をとって、身をほぐす。缶のサーモンぐらいにほぐせば大丈夫3 ボールにたまご2個、パン粉1カップ、セロリ2本(細かく刻む)牛乳1/2 カップ、ベーキング パウダーを入れてよく混ぜて、サーモンを入れる。サーモンが行き渡るようによく混ぜる。4 オーブンに入れてもいい容器(できれば平べったいやつ、パイとか作る)に均等に種を流し込む。隙間を無くすように詰めていく。5 オーブンを180度ぐらいにして30分~40分くらいこんがりとするまで焼く。ケチャップなんかのお好きなソースでどうぞ。私はブルドック ソースで食べました。「トマト スープ」。これはたぶんみなさんが思う、ケチャップが薄くなったようなスープではないんです。作り方はこちら!材料:チキンブイヨン、水(600cc)、トマト一個、玉ねぎ1/4個、塩、胡椒、ローズマリー(葉っぱで10枚くらい)1 鍋に600CCぐらい水を入れて、チキンスープの素(ブイヨン)を入れる。(あるいは、缶のチキンストックを使ってもOK)2 湯気が出てきたら、トマトを一個細かく乱切りにしたのをダイレクトに入れる。(トマトは湯剥きした方がいいんだけど、私はしなかった…)3 玉ねぎをみじん切り(よりは大きい)程度に切って、これも鍋にじゃぶんと入れる。4 クツクツ煮てる間に塩胡椒でテキトーに味をつける。私は庭のローズマリーをむしって来て少し入れました。玉ねぎが透き通ってきたらできあがり!「ハムとほうれん草のパスタ」。これがねー、企画してからスーパーに行ったらなんとほうれん草がなかった。急遽バジルに変更しました!台湾は売ってるバジルが巨大で、量が多いので、「ハーブ」類に入ってない感じ。ひと袋買うと、毎日何かに使っても一週間ぐらい冷蔵庫にある。Hugo くんはバジル大好き!なので、ほうれん草がバジルになりました。作り方はこちら!日本でもバジルは手に入りやすいハーブだと思います。たくさん必要ないのでお験しください!材料:1 家にある一番大きい鍋でパスタを茹でる。ちょっと塩を多めにいれて、アルデンテ にする。2 その間にハム(好きなだけ)をさいころ状にカットして、バジル(一掴みぐらい)を洗っておく。バジルの葉っぱは小さければカットしなくてもOK。にんにくもみじん切りにしておく。3 フライパンにオリーブオイルを多めに入れて油を温める。4 ハムを炒めて香りを出す。茹でたパスタも入れる。にんにくを入れて和えるようにする。(にんにくは先に入れると焦げることがあるし、どうせみじん切りにしてあるので、生で食べるくらいの勢いで、最後にいれる。にんにくが利いておいしいです。)全体が均等になったら火を止める。5 火を止めても慌てないで、15 秒ぐらい待ってからおもむろにバジルを入れる。(バジルは温度が高すぎると黒くなって汚いし、味も落ちる)バジルを余熱でシナっとさせる。できあがり。タバスコとかチーズとかお好みでたっぷりどうぞ。シンプルでいつでも作れるけど、ちょっとお洒落なパスタです。
2003年09月15日
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海外にいるとよく耳にするのよねー。日本人女性って結構オープンだねって。私に向かって言ってるわけじゃないんだけど、「日本人の彼女がいた」っていう外国人男性は結構多い。実際何回かダイレクトに聞かれたこともある。例えば、「友達が日本人とつきあってるんだけど、その彼女、英語ほとんどできないんだよね。どうしてコミュニケーションできないのに外国人についていけるの?」とか「だいたい 3 回くらいデートに誘うと、日本人って朝まで一緒にいるってほんと?」とか。ムカツク。この手の疑問にむかつくんじゃなくて、そういう印象を与えてる原因になってる日本人女性たちにムカツク。もっと誇りとか威厳とか、尊厳とかそういう「人として」の最低限のバリアを持って欲しいよ。ホント。ないのかなあ、そういうの。日本人って「誇りを持つ」ことに慣れてないのか、持ち方を知らないのか。特に海外にいて、自分の身は自分で守らなくちゃ守ってくれる家族や法律だってないのに、どうして?日本人女性だっていうことが、世の中(海外)にでるとどんなに貴重で価値があることなのか、前にも書いたことありますけど、日本人は外国のお世話にならなきゃ生きていけない国民でもないし、自分の国を抜け出すために、外国人と結婚しなきゃならないわけでもない。もし、フィーリングが合ったから、それがたまたま外国人だったっていうんだったら、それって雰囲気とかルックスの好みのことなんでしょうか。外国人と付き合うのに、コミュニケーションほど大切なことはないと、個人的には思うんですけど。確かにコリアンとかチャイニーズとか、お箸の人たちだし、言わなくても通じる感覚はアメリカ人なんかより多いかもしれない。でも、やっぱコミュニケーションは絶対に欠かせない。日本人とは欠いても OK ってわけじゃない、もちろん。でも、外国人だったらもっと突っ込んだコミュニケーションが必要だっていうこと。例えば「ねえ、どうして私に興味があるの?」とか。日本人同士でも聞く人はいると思うけど。私は外国人にアプローチされると必ず聞く質問のひとつ。だって「私が日本人だから」かもしれないんだもん。つまり、あたしはどうでもよくて、「日本人とつきあってみたい」からかもしれない。そんなのご免だよ。冗談じゃない。あたしにもし、興味があるんなら「私のどこに興味を持ったのか、一緒にいた○○ちゃんじゃどうしてだめなのか、あたしとつきあって何をしたいのか、どういう付き合い方をしたいのか、…」あたしは聞くよー。相手が逃げ出すかっていうくらい聞きまくる。そしてその答えに説得力がなければ「あきらめてもらう」。しかもあたしにちょっと聞かれたくらいで逃げ出すようなら所詮その程度の人なんだし、あたしに対する執着心だってたかが知れてるってもんだ。個人的な意見だけど、つきあってみるのに、そんなに好きである必要はあんまりないとおもう。なんか「すごく好きな人」「ずっと片思いだった人」以外の人とつきあうと軽いようなイメージが日本ってあると思うんだけど、それは「軽い」っていう定義には入らない、と私は思う。だって、「付き合ってみる」っていうこと自体、「もっと良く知り合う」ためなわけで、それ以上でもそれ以下でもない。私にはね。だから、つきあった人の数なんて覚えてないけど、結構いると思う。日本人、外国人を問わず。だから、付き合うのも早いけど、見切りをつけるのも早い。「がまんしてつきあう」なんていう文字は私の辞書にはない。だめだと思ったらすぐ別れちゃう。ま、余談だけど。とにかく No と言えない日本人っていうのは、おじさんの政治の中ばかりではないということですよね。NY のクラブへ行って、ナンパされる。よく知らないのに(当たり前だ!)「パーティやってるから来ない?」なんて言われると「私もニューヨーカーの仲間入り」とでも思うんだろうか。NY のクラブまで来て「健全にホテルに戻る」のがつまんないから?あたしも NY のクラブでナンパされたことがある。そのとき付き合ってる人がいたから、滅多にクラブなんて行かなかったけど、日本人の女の子と行くとほとんどナンパは避けられない。あたしに声かけて来たのはビジネスマンだったけど「俺、スシ大好きでさー。」とか言うから「まさか、スパイシーツナとかカリフォルニア ロールじゃないでしょうね。」って言ったら「えー。なんでいけないの?おいしいじゃん。」と来た。だから「悪いけど、それってスシの内に入らないんだよ、あたしには。」って言った。かなり冷たくしたにもかかわらず離れないから「悪いけど結婚してるの。あたしに何か期待しないでね。」って言った。引き潮より早く引いていった。これはアメリカ人にはとてもよく効く。結婚してる女性に関わっていい思いをした例がほとんどないのだ。法律が結婚を守っているから。だからもし彼氏がいてもあそびに行きたいんなら、左手の薬指に指輪をしていくことをオススメする。それでも言い寄ってきた場合?クラブの関係者か、外にいるおまわりさんにでも頼んでその酔っ払いを追い出してもらいましょう。だって、誰にも邪魔されずにクラブで楽しく飲んだり踊ったりする権利があるんですから。だいたい、しつこい男性っていうのは男性にも嫌われる。クラブの関係者だったら、喜んで追い出してくれます。まあ、とにかく、日本人女性は軽いって思われるのって、心の底からくやしい。そうじゃない、がんばってる女性だってたくさんいるのに。今じゃ「白人至上主義」なんてあんまり聞かないせりふだけど、外国人とお付き合いするなら、ほんとに「これでもかあ!!」っていうくらいよおく話し合うことを強くオススメします。「付き合う」っていうことは「相手をよく知るため」なんだから。だいたい「青い目」とか「彫りの深さ」でつきあうなら失礼って言うもんだよ、相手にだって。
2003年06月29日
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こんなんで痩せていいの?そうなんです。どっきりするほど痩せました。もともと「太っている」って人に言われる体型ではないけど、やはり三十路も半ばに指しかかると、ボディコン時代の体型はキープできない。台湾に来てから、とにかく最初はよく食べた。しかもほとんど運動もせずに。台湾料理って中華ともまた違う。スープとかよく食べるかなって感じ。Hugo くんのお母さんは味付けも薄いし(意識して調味料を使わないらしい)、なんか「素材の味を大切にしたい」っていう感じの料理が並ぶ。でもやっぱり北京ダックみたいなのとか、炒め物とかは外へ行けば必ず出てくるし、最初の頃は「暑さに負けちゃいけない」と思って無理しても食べてた。Hugo くんのお父さんに「だいぶぽちゃぽちゃしてきたな」って言われたときが始めてのサイン。二の腕や太ももなんてカモシカのようだったのに、見る影もなし。食べるとホントに太るんだ…。そして台中に移って来て、毎日のように「タピオカ入りミルクティー」を飲みつづけたのだ。あれって台中が発祥の地って言われてて、巷でもそこかしこで安く手に入る。「ここのタピオカは大きい」とか「こっちのほうが歯ごたえがある」とかだんだんエスカレートしてきたもんだ。ところがある日 Hugo くんがつぶやいた「俺、太ったと思わない?」Hugo くんはカモシカとは言えないが、いわゆる「スイマー体型」で、筋肉質ってタイプじゃないけど、がっしりした感じ。でもそう言われてみるとお腹のあたりに余分なお肉が…。「ついに俺もデブの仲間入りだ。」そう言われて自分を見てみると、確かにもともとついてた余分な肉が、パワーアップしてる。パンツがきついのは洗濯したばっかりだから…とか、今は食べたばっかりだから…とかいろいろ自分で自分に言い訳してたが、太ったのを認めたくないからに過ぎなかった。「この私が太るなんて…」信じたくなかったのよね、結局。ジムに通い始めて少し「気休め」にはなった。体重計に乗っても大して変化はないから「まあ、この年だし、増えなきゃいいや」って思って。ところが最近、泳ぎ始めた。かれこれ 1 か月になるかなあ。泳げない日は別として、ほぼ毎日泳いでる。まあ、前回も書いたけど、もともと泳げないので、ジャグジーで α 波出したり、ボード使ってバタ足したりしてとにかく 20 分くらいは泳ぐようにした。さらに最近、スイマーの Hugo くんに適切で小出しな(これが大事なんだ)指示をもらって、毎日小さな目標を立てたりしながら、実験のように泳いでる。例えば、「平泳ぎの手は、意識して水をかくようにするべきなのか、それとも水面と平行にすいすいやるだけでいいのか。」とか「同じく平泳ぎの足は伸ばしたときくっつけた方がいいのか」とか。いろいろ。そうしたらだんだん泳ぐのが楽しくなってきた。それで毎日 30 分くらい泳いでいる。そしたらなんかどんどんやせてきちゃった。みるみる。水泳したあとってとんでもなくお腹が空く。だから「どうせ泳いでるしー。」って思って食べたいだけお腹一杯食べてる。でも太らないっていうよりは、太れない。今じゃ、この身長で一番軽かった 47キロ を切ろうっていうことろまできた。一月前までは 50 は確実にあったのに。ちなみに一年前は 53 くらい余裕であった。なんとしても落ちなかったその辺が、劇的に減ってきた。しかも、落ちて欲しいところが落ちている!あたしがにくらしく思っていたお腹の周りと脚の付け根、太ももがなんかほっそり。「あれ?このパジャマゆるかったっけ?」みたいな。水泳万歳。こんなに効くとはね。うそみたいなホント。2003/06/29 12:08:07SARS だから仕方なく水泳ここ最近スイマーな私。正直言って泳げなかったので、水泳は好きじゃなかった。クロールとか子供の頃意地になって 25m 泳げたりしたこともあったけど、あまり水泳ではればれとした気持ちになったり、いい思い出はない。Hugo くんは水泳が得意。出会った頃「俺のクロールを見てくれ!」って言われたことがある。プエルトリコの海岸で颯爽とクロールを披露して「どうだった?かっこよかったでしょ?」って水を滴らせたのを今でも覚えている。この年になってわざわざ水泳を始めたのにはれっきとした理由がある。それは SARS。ご存知とは思うが最近の「台湾」と言えば SARS。親戚、家族、友達から「ねね、大丈夫なの?」と言ったメール、小包、いろいろもらった。気にかけてくれるのはほんとにうれしいんだけど、私が住んでるのは「台北」じゃない。だから SARS とはあまり縁がないのだ。でも、こんな小さな島国だったら「どこも同じ」だと思うのが普通だよね。大騒ぎしてるのは台北のしかも大病院だけなので、私の生活にはほとんど影響がなかった(そして私の中ではすでに過去形)。SARS だと、デパートとか、図書館とか、とにかく人が集まるところを避ける傾向があって、当然私の「ジム通い」にも疑問の声があがった。デパートなんかよりもっと危険なのだ。だって「ジム」といえば「器具」。マシーンとかロッカーとか、とにかく人の体液と接触するチャンスがあまりにも多過ぎる。だからジム通いは自粛することにした。しかし皮肉だったのが、健康的な生活、とくに適度な運動は SARS を予防する 6 か条にちゃんと書いてあるのだ。つまりこの時期、ジム通いは SARS 予防のはず。なのに地元台湾人との体液の接触を恐れた私はジムを 1 か月以上遠ざける生活を送った。やはり日頃の運動のチャンスを奪われるとストレスが溜まる。これはホント。なんかいらいらしやすくなったり、小さなことでむっとする。最初は仕事のせいだと思ってたが、「そうだ。ジムに行けなくなったからだ」と思ったら、説得力がある気がしてならなかった。1か月運動しないと体型も衰えを見せ始める。お化粧のノリ、目の下のくま、気になる部分のぽちゃぽちゃ具合なんかが目に見えて変化しているのがわかる。自分の体型が崩れてくると、なんか自分に自信がなくなるのか、ハイヒールをはいても、いまいちしゃきっとして見えない。私の住んでいる台中市から SARS の疑いがなくなってまもなく、ジムに復帰した。ところが、新たな問題がでてきた。SARS は怖くなくても、この暑いなか(そうです。もう日中は 30 度以上行ってるんです)わざわざ汗掻くこともないだろっていうこと。確かにジムはひんやりしてて、気持ちいいんだけど、2 分もマシンにのってりゃ汗だく。もともとシティ ガールだから、汗って苦手なのよね。はっきり言って。そこで「涼しそうだから」っていう理由で仕方なくプールで時間を過ごすことにした。プールは、冒頭でも書いたけど、得意とは言えない。最初はボード使ってバタ足したりして様子を見た。プールとは縁のない人生を歩いてきたけど、ここのプールで好きなことがひとつある。それはジャグジー。台湾の人って日本人に負けないくらい温泉好き。でも、日本の温泉と大きく違うことがひとつだけある。それはどこの温泉に行っても「滝に打たれないと意味がない」らしいのだ。どこの温泉に行っても必ず滝のようにお湯が出てくる仕掛けがある。傘の柄の部分を巨大にしたようなパイプから、ものすごい勢いのお湯がしぶきをあげて飛び出してくるわけだけど、そこに立ってお湯に体を打たせるわけ。これもいろんな種類があるんだけど、あたしはいまだに細いパイプの下には立てない。痛いから。年配の方々はその下に下手すると 20 分くらい平気で立っている。熟練なのか、皮膚が固いのか、あたしにはとてもまねできない。もちろん、あたしの行ってるジムのジャグジーにもこの手のパイプがついているが、それだけではない。背中をぼこぼこするお決まりのジャグジーのほかにも、足用(そこに立つとちょうどふくらはぎとか、太ももに当たるようになってる)とか、ちょっと変わったところでお腹用(手すりにつかまって、スーパーマンのように浮くと、お腹のところに勢いのある泡が当たって、体を持ち上げるようになる)なんていうのもある。これがまた適温で、冷たいプールのあとにはため息の出るここちよさ。だから最初はバタ足 15 分のジャグジー 20 分みたいなことしてた。思いきって Hugo くんに私の泳ぎ方を話してみた。私の息継ぎには大きな問題があったことがわかった。私は水のなかでは息をこらえるものだと思っていた。だから息継ぎの瞬間、息をはく、そして吸うのを両方やってた。当然時間がない。だからいっぱい息が吸えない。結果は 25m も泳ぐと、くらくらして酸欠、だったのだ。息継ぎは「吸うだけ」だなんて、だれも教えてくれなかった!ってあたしが聞かなかったからかも知れない。そんなこんなで少しづつ上達のきっかけを掴んだ。SARS 以降ジム通いが解禁になってから、約 1 ヶ月だが、いまじゃ 150m くらい、止まらずに泳げるんだぞお!はっはっはあ!おまけに痩せた。すごく。今度はその話しでも。2003/06/26 16:52:04
2003年06月26日
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SPOON の夏休み7 月にパリへ行く。イタリアとパリに行くんだけど、イタリアは電車に乗ったりバスに乗ったりして、いろんな町へ行く。でも、フランスはパリだけ。ほんとは郊外に足を伸ばそうかとも思ったけど、たまには都会にとどまっていろいろ観察したりするのもいいかなと思って。パリといえば、食。世界的にも有名な、いわゆる「セレブなシェフ」がしのぎを削り合うパリなわけで、これを試さない手はない。イタリアでキアンティ三昧もいいんだけど、ミシェリン三ツ星は是非この機会にパリで試したいと思っていた。知ってる人は知ってると思うが、今一番ホットなシェフと言えるかもしれないのが「アラン デュカス氏」パリとモナコを含め、なんと 5 つの三ツ星レストランを抱えるオーナー シェフ。まさに怪物シェフなわけなんだけど、その彼が経営する一番新しいレストラン(って聞いたんだけど)が、パリにある「SPOON(すぷーん)」というレストラン。彼が新しくオープンしただけあって、とても変わったレストラン。ガイドブックに書いてあった受け売りだけど、オーダーするときに「前菜」「主菜」「デザート」を国籍で選ぶ。例えば「前菜は日本で主菜はスペインでお願いします」とか。何が出てくるかはお楽しみらしい。たのしそー!!早速予約の電話を入れてもらった。7/27 にパリへ向かうので 7/28 か/29 のディナーをお願いした。ところが返事は「SPOON は 7/26 から、約 1 か月の夏休み休暇に入ります。」なにい!なんだとお?!?!レストランの夏休み?1か月?!信じられないが、パリのレストランは夏休みがあるらしい。さすがヨーロピアンだよねえ。日本だったらいつでも「お客様が優先」で「働いてる人が休みとって店閉める」なんて考えられないよねえ。まあ、ちなみに私は彼らは夏休みを取ることには何の異議もないんだけど、夏休みが始まるのが私がパリへ行く前日っていう偶然が悲し過ぎる…。ついていないとしか言いようがない…。7 月 8 月っていうのは、ヨーロッパ全土が夏休みに入ったかのように大したイベントがない。でも、ホテルなんかが「キャンペーン中」でやたら安い。一泊得したり、朝食が普段は別料金なのに、込みだったり。でも冬じゃないので、イタリア行ってもオペラのひとつも見れないのは悲しいが…。イタリアはワイン飲むからいいさ。今回はちゃんとキアンティの里をバスで回ってワイナリで試飲する日本語ツアーにも申し込んでるし。ワインを買って帰るつもりはないけど、現地でビンテージものなんか飲めたらサイコー。予算足りるかな。2003/06/24 21:59:15入籍記念日?忘れてた…そうだった…。去年の 6/13 に入籍したのに、すっかり忘れてた!今日って、…24日。すでに 10 日以上経ってる。偶然にもウチの弟の誕生日で、それも忘れてたわけか。6/13 は最後の授業だったんだ。今カレンダー見たけど。今学期最後の日本語のクラスで、いろいろ立て込んでたっけ。その後たたみかけるように期末試験作ったりしてたからか。Hugo くんは、もちろん忘れている。私が覚えてないんだから、Hugo くんが覚えてるはずがない。そうそう、Hugo くんと記念日と言えば、とっておきのエピソードがある。昔付き合ってた頃、NY の地下鉄の中で「ねね、明日は何の日か知ってる?」って聞いた事がある。Hugo くん焦って「え?明日?何か記念日?何か忘れてる?俺」って聞きかえすから「…Hugo くんの誕生日だよ…。」って言ったことがある。ちなみに「うそでしょ。」って思うかも知れないけど Hugo くんは自分の母親の誕生日を知らない。ほんとに記念日に弱い人で、上記のエピソードの後、「ナナ、俺がこの世で一番恐れてる質問は『あしたは何の日か知ってる?』ってナナに聞かれることだ。」って自白した。結婚記念日は 8/12。今度こそ忘れないぞおおおお!!2003/06/24 21:08:39
2003年06月24日
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「結婚のススメ」も第 7 章までくるとシリーズ化してきた感じ。前回の(6)「結婚のココロガマエはただひとつ」から、だいぶたってしまいましたが、(6)の最後で、書き残したトピックスを発見したので、つづきを書くことにしました。ずばり、「いったいいつ、別れることを考えていいのか」ということです。そもそもタイトルが「結婚のススメ」なので、「別れてもいいとき」について書くのは矛盾しているわけです。さらに以前読んだことのある方なら知っていると思いますが、私は結婚の定義について「絶対に別れないこと」だと書きました。だからこの「別れること」について書くのはやっぱりオカシイかな。ところがそうでもないと思うんです。理由は、世の中どんなことにも、限界はあるからです。ちょっと余談になりますが、私は常々「どんなにいいことでも、やりすぎたら意味がない」と思っています。身近な例で言うと、エクササイズとか、家事とか。確かに体によかったり、家をきれいに保つわけですから、やればやるほどいいみたいなものだけど、私は違うと思う。エクササイズだって、「よおし!!今日から毎朝縄跳び 500 回だあ!!」って決めて、毎日励むのは大したもんだと思うし、その意気込みだけでも、健康になった気がする。でも、それが「義務化」して、ストレスになったら何の意味もないわけで、むしろ害(私にはね)。家事だってそう。確かに誰かがやらなきゃいけないことだし、毎日掃除機かけたり(うちの場合、ほうき)洗濯したりするのは当たり前だと思ってるかもしれないけど、私は正直言って「やりたくないときは無理にはやらない」ことにしている。洗濯も夜やってみたり、床が汚れてないときは掃除を 1 日さぼったりしてる。彼に「床だいぶ汚いね」って言われても、「ごめんね、今日は他にやりたいことがあって、できなかった。明日きれいにするね。」って言う。まあ、そうすると大体「いいよ、床はおれがモップでささっと掃除するよ、週末にでも。」ってことになるから、うちの場合やらなくてもプレッシャーはゼロなんだけどね。まあ、要するに「自分と周りの限界を見ながらやればいい」と思うんですよね。植木が好きだからって 1 日中世話したり、子どものために習い事にお金かけたり、一見いいように見えるけど「どんなにいいことにも限界はある」ということが言いたいわけです。余談でしたが、そんなにトピックスから外れてもいないんです。つまり今日書きたい内容は「限界」なんです。「結婚のススメ(6)」の終わりで、「別れることを考えてもいい状況は 2 つある」と書きました。それがズバリ「あなたの限界を超えたとき」です。ひとつは簡単にわかる限界で、もうひとつはとても難しい限界です。それは、1.肉体的限界を超えたとき2.精神的限界を超えたときです。1 のほうは簡単です。単刀直入に言うと、暴力を振るわれたときですね。私は結婚する以前から彼には「もし、一度でも私に暴力を振るったら、離婚を考える」と言ってあります。どんな状況でも例外は認めません。体力的に絶対強者である男性が、弱者である女性に暴力で立ち向かうということに私は最大の軽蔑を感じます。一切のいいわけは聞きません。暴力は暴力ですから。以前アメリカでティーン向けの映画をやってて、実話をもとにして作成されたんですが、これのテーマが暴力だった。高校生の彼女が最終的にはボーイフレンドに殺されてしまうんですが、彼の暴力を彼女は「愛情の裏返し」だと言い張り、母親にすら話すことができなかったんです。例えば「どうして俺と言う彼氏がいながら、あいつと仲良く話したりするんだよ。俺がまんできないんだよ、おまえのことが好きだから。」とか言って殴るわけですよ。後から「殴ってごめん。でも、おまえのことを誰かに取られそうでつい…」とか言われて彼女は「いいの。あたしにはわかってる。あなたは愛情表現が下手だから、どうしても暴力を振るっちゃうのよね。でも、それはあたしをそれほど愛してるっていうことだから。」とか言って感動すらしちゃう。母親とか友達とか、みんなに反対されて、心配されても、「彼のことは私にしかわからない。」と思いこんじゃう。これは超危険信号。「あの人のことは、周りにわかってもらえなくてもいい。私さえ理解してたら…。」これは大きな大きな大勘違い。だって、ほんとにあなたにとっていい人だったら誰から見てもいい人なはずなんですから。こういうときはむしろ、他の人に見えてることが、あなただけは見えていないということなんです。「暴力」だけは、No Mercy。情け無用ってやつです。もうひとつのほうは、ちょっと難しい。「精神的限界を超えたとき」なんですけど。もちろん精神的に病気になるまで待つわけじゃないですから。これを見極めるのが難しい理由は「自分の精神的限界を知っているかどうか」に関わるからなんです。正直言って私にもわからないと思います。「自分がこう感じるようになったらダメだ」っていう限界を「どこに」引くかっていうことなんですけど、私だったらとりあえずまだ心が健全なうちにいろいろ対処すると思う。何かできることはないかとか、これ以上状況が悪くならないために、今何ができるかとか。一番簡単で最悪な例といえば浮気でしょうか。これは突然発覚する場合、心の準備もないし、もし突然じゃなくて「なんとなくそうじゃないかと思っていた」とすれば、その間も地獄でしょうね。これは相手を信用していれば必ず打撃。たぶん相手が謝るとか反省してるとかに関わらず、された側にはある程度の時間が必要だと思います。人によってはそれが一生許せないことかも知れないし。あたしはすでに結婚前に「浮気」なんてことになったら、「問答無用で即離婚。裁判になっても、あなたには勝ち目がないと思うよ。慰謝料だってすごいからね。」って言ってある。まあ、そんな争いとは一生縁がなさそうな人だから結婚したんだけど、一応ね。私の話しはおいといて、精神的に苦痛を感じるかどうかがまず「限界」を見るための基本ですよね。精神的苦痛っていうといろいろあると思うけど、プレッシャーストレス我慢犠牲感なんかでしょうか。同居してる親からの日々のプレッシャー、仕事と家庭の両立から来るストレス、子どもの教育費のために自分にお金をかけない我慢、どうしてあたしだけやらなきゃいけないのっていう犠牲感。まあ、他にもいろいろあると思うんですけど、人生経験少ないんでこんなとこしか今考えつかなくてすみません。こんな程度の精神的苦痛だったら毎日あると思ってる人、とても不健全な生活を送っていることを自覚する必要があると思います。人には精神的にも、肉体的にも健全な生活を送り基本的幸福を追求する権利があるんです。でも、今のストレスやプレッシャーはあたしが変えられるものじゃないって思うんなら、それらを大したことないやって思えるようなもっと他のことをするとか考えればいいんです。例えば、劣悪度にもよりますけど、1 日最低 3 つは、自分のためになること、あるいは好きなことをする。「これがあったらやっていける」みたいなこと。小さなことでいいんです。長風呂しながら好きな音楽を聴くとか、自分だけの入浴剤を買うとか、ドーナツを食べるとか。月に一度は夫と 2 人で外食する日を作って食べ歩くとか、年に一度は旅行に行くとか。そういう先の目標があるとやっていけるっていうことありません?時間がある人にお勧めなのはエクササイズとアートな時間。私は最近スイマーに転換。SARS のせいでジムも通えなかったので、プールに変更したんです。無我夢中で泳いでそのあとぼこぼこのジャクジーに入ると頭が空っぽになる。ジャクジーの中でひとり薄ら笑いをするあのひととき。エクササイズは体よりも心に効くんではないかと最近思う次第です。さらにアートな時間。日本では、アートについて考える機会があまりにも少なかったような気がしますが、こうして台湾の真ん中に来てみると、アートなことへの関心が高まってきて、にわ鶏も四本足描いちゃう程度の絵心なのに色鉛筆を買ってみたくなったり、植物園に行きたくなったりする。このアートな時間っていうのはいいもんです。人が描いた絵を見るのもいいですけど、日本なんてデパートへ行けばデザイナーの洋服を見て歩いたり、高級なキャンドルスタンドや和食器を見ることだってできる。料理の本を本屋で立ち読みしたり、今まで作ったことのない凝った料理に挑戦するのもアート。もちろん自分がやりたいからやるわけですが、要するにきれいなものを見たり、何かを創作したりすることは、想像以上に心にゆとりと栄養を与えると思うんです。これも、自分の精神面をより一層管理するためには上級手段としてお勧めしたいところです。人間は劣悪な環境に置かれるほどサバイバル能力が育つんです。ぼーっと劣悪な環境に甘んじていないで、自分から跳ね返して行かないと。「跳ね返す」っていうとなんかガッツがあって、エネルギッシュじゃないとできないかんじがしますが、そういうことじゃなくて、普段から、自分の精神的な幸福にどれだけ気を使うかということです。これは大人だったら当たり前の管理だと思います。賞味期限の切れた牛乳は買わないでしょ?それは買っても飲んだら体を壊すから買わないわけで、これも立派な自己管理。でも、自己管理っていうのは体だけじゃない、心だって管理やメンテナンスが必要なんです。いやなことっていうのは、結局最後のところで誰にも助けてもらえない部分があると思います。普段から精神面を管理するくせをつけておくと、どうすれば自分は幸せを感じるのか、また不快感を感じるのか、また自分の喜ばせかたがわかってくる。自分で自分の精神的幸せにどれだけ気をつかっているかを自覚することで、常に自分の精神的幸せをチェックするわけです。この「精神面の管理」をしていくと副産物が 2 つあります。ひとつは「他人があなたの精神的幸せに注意を払うようになる」、もうひとつは、「精神面の限界」が見えてくる。ここが大事なポイントなんです。あなたが常日頃から自分の幸福に貪欲であれば、周りは必ずそれに反応を示し、さらに協力するでしょう。ご主人や家族で早速試してもらえればすぐにわかると思います。「私はいいわよ。」とか「ママは欲しくないから。」じゃなくて、「今日はどうしても見たいドラマが 8 時からあるから、その後でお皿洗うからね。」「キアヌ リーブスの新しい映画、絶対見に行きたい!」「ここの釜飯って有名なんだって、食べてみたい。」自分の欲求に素直な人は自分の精神面の健康を大切にしている人です。あなたの周りはみんなあなたに幸せでいてもらいたいと思っていることを忘れないで欲しいと思います。そして、自分が精神的に幸せを感じることを「自己満足」だとか「自己中心」だとか、いろんな言葉でもみ消さないで欲しいと思います。そんな暇があったら、自分が精神的に幸せを満喫することで、どれだけ周囲の状況が好転するかを考えてみてください。大事なのはバランスです。家事もするけど映画も見に行く。仕事もするけど、その分休みも取る。このバランスをうまくつくることが大人の精神管理だと思います。そしてもうひとつの副産物である「限界」も、だんだん見えてきます。「自分は毎日できるだけの努力を家族の為にしている(もちろん自分の楽しみも持ちながらですよ。ここが大事)のに、この仕打ちはないでしょ。」こう思えたら限界が見えている証拠です。この「仕打ち」すなわち I don’t deserve it. ってやつなんですが、これが見えてくると精神面の限界線を引くことができるでしょう。忘れてはいけないのは、あなた自身常日頃から「自分にごほうび」を与え、バランスの取れた努力をしているということです。この自己管理がしっかりできている人は「この仕打ちはないでしょ」というとき、…
2003年06月20日
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お久し振りでーす。ちょっと近況報告させてください。今週からまた主婦に戻りました。わーい。ぱちぱちぱち。過去 4 ヶ月を振り返ると最初の 2 ヶ月(いや、3 ヶ月)くらいはストレスの塊だった。日本語教えるってほんとにばかにできないと思った。同時に中国語も習ってたんだけど(毎日)、中国語の勉強する暇なんてないくらい日本語の準備に追われる日々。どうして「家族は ニューヨークに います」っていうときは「は」で、「ニューヨークに 家族が います」っていうときは「が」なのか。とかさ。まあつまり「助詞」なんですよね、問題は。場所を表すときは「へ」とか「に」とかを一般に使いますけど、「大学で 日本語を 勉強しました」とかっていうときは「で」だったりして。実感したのは「日本語が話せる」っていうのと「教えられる」っていうのはまったく別っていうことです。当たり前か。日本語教師のみなさん、改めて尊敬します。主婦に戻ったので、また徒然に書くことにしました。今日のテーマは「自由」です。どうして自由について書こうとしたかっていうと、アメリカにいた頃自分が肌で感じ取っていた「自由」の意味が、日本に帰ってきたらどうやら意味が違うということに気がついたからなんです。じゃあ、まず私達日本人が一般に考える「自由」っていうとどんなイメージがあるでしょうか。まあ、自由って言ってもなんか漠然としちゃうかも。では「自由な生き方」とか「自由な生き方をしてる人」っていうとどういうイメージがあるでしょうか。自分の好きなことだけして暮らす何にも束縛されない暮らしプレッシャーやストレスのない生活気ままな暮らし起きたいときに起きて寝たいときに寝るやらなきゃいけないことがないなどなど…。こんなもんでしょうか。いいですねえ。まさに極楽人生って感じで。この中であたしが一番好きなのは「自分の好きなことだけして暮らす」かな。ちょっと余談だけどアメリカに「Ben&Jerry(ベン アンド ジェリー)」っていうアイスクリームの会社がある。日本には入ってないんじゃないかあ。アメリカじゃあ結構有名なんですけど。あたしが好きなのは彼らのアイスクリームのフタ。ガリガリくんみたいな棒アイスじゃなくて、ハーゲンダッツみたいな円柱のカップタイプの容器に入ってるんですけど、そのフタに「If not fun, why do it?!」らしき文句が書いてある。アレ?もしかしたらフタじゃなくて彼らのお店で見たのかも?すみません、情報が正確じゃなくて…。とにかく、Ben と Jerry っていう創業者のスマイルをこの文句が丸く囲んでるんです。意味的には「今やってること、楽しくないならなんでやってるの?」みたいな感じかな。シンプルなメッセージなんですけどあたしは大好き。ほんとに同感。もっと日本語チックにすると「やりたくないなら、やめれば」みたいな感じでしょうか。私は嫌いなんですよ、「私が犠牲になります」とか「報われなくてもいいです」みたいな顔見るの。それくらいならやらないでって言いたくなる。だってひねくれてると思いませんか?自分がやりたくもないことを義理とか建前とかでとりあえずやってて、それでぶつぶつ言って周りの雰囲気悪くしたり、周りに気を使わせたりするのって。私が言いたいのは「ブツブツ言うな」とか「周りに気を使わせないようににこにこやれ」っていうことじゃなくて、「そんなにイヤならやめれば」っていうことなんです。「世の中ね、そんなに簡単に『やりたくないからやらない』なんてわけには行かないんだよ!」って今思ったでしょ。「まったく、こっちは仕事なんだし、やりたくないことだってやらなきゃいけないときっていうのがたくさんあるんだよ。」って思ったでしょ。否定しません。社会に出るとほんとにたくさんの「イヤなこと」があって、いいことよりむしろやなことのほうが多かったりして、でもそのうちそれが普通の生活なのかなって思えてきて、そういうイヤなことにすら慣れていって、大して落ち込んだりイヤな思いしなくなってる鈍感な自分を発見したりして。でもね、私はこう思うんです。例えば仕事。毎日の仕事が楽しくて仕方がない人を除いて、大概の人は多かれ少なかれ仕事やそれにまつわる人間関係にストレスを感じているわけです。私の場合は感じない程度の小さなストレスが日々たまっていって、いつか爆発するタイプなんですが、ストレスが実感できるレベルになってきたらもうすでに危険なわけで(精神的に健全な状態じゃないっていうこと)、社会人一年生だったらそういうストレスのコントロールも人生経験のステップとして四苦八苦する時期もあるかもしれませんが、2 年、3 年、それ以上働いてきたんだったら、もうそろそろストレスのコントロールを学んでもいいんじゃないでしょうか。ちなみにここで言いたいのは「ストレスコントロールについて」じゃありませんからね。ストレスをコントロールするのは社会人の義務というか、「大人の定義」のひとつだと思いますから、自分でなんとかするのは当然なんです。なんとかするっていうのは、「森林浴しなさい」とか「アロマセラピーがいいらしい」とかっていうことじゃなくて、「自分は何をすればストレス解消になるのかを知る」ということです。つまり(以前どこかで書きましたけど)「自分をよく知らないとできないこと」のひとつなんです。社会人なんですから自分の管理ができるのはむしろ当然でしょ。「自分の健康(精神的な健康と肉体的な健康)を管理できる」からこそ、会社はあなたに「仕事を安心して任せられる」わけです。さらにもっと自分のことをよく知っている人は「限界」も知っている。どこが「これ以上やったらだめだ」っていうラインなのかを知っているということです。強調しておきますが、「精神面」と「肉体面」の両方の限界です。この限界についてももちろん「自分をよくしらないとできないこと」です。「ストレス」と「自分の限界」っていうのはとても強い絆で結ばれていて、この「限界」を知らない人が「ストレスに潰される」「ストレスにコントロールされている人」なわけです。自分の限界を知る人は「自分は何ができて、何ができないか。」を知っているわけです。これがわかっているとストレスをかなりの確立で防ぐことができる。少なくとも無防備ではないわけです。「社会人なんだから、ストレスくらい自分でコントロールするのは当たり前」って書きましたけど、もちろんすべての人がストレス管理できてるなんて思ってません。じゃあ、どうしてストレスを感じているんでしょうか?何があなたにイヤな思いをさせているんでしょうか。これならわかるんじゃないでしょうか。もし「何がストレスなのかわからない」のであれば、もう少し時間をかけて、意識して原因を探してみると、徐々になんとなくでもわかってくると思います。もし原因がわかっているのであれば、さらにつっこんで、「じゃあ、なぜその原因となること/人があなたをそんなにいらいらさせるのか」を分析してみたらどうでしょうか。恐らく結果として「なんで私が(俺が)これをしなきゃいけないんだ。」とか「こんなことされる筋合いはない」とか「私(俺)って、こんなことするためにここで働いてるわけ?」とかっていうある種の矛盾を感じる場合が多いのではないでしょうか。つまり「人に言えない矛盾」を感じるのはストレスなわけです。「言える矛盾」もあると思うかもしれませんが、原因である(または原因を作っている)上司や同僚に面と向かって言えないのであれば「言えない矛盾」と同じなので、結局それ以外の人に話すのは「愚痴」っていうやつですよ。じゃあ、どうして言えないのか。どうして解決しようとしないのか。むしろ問題はここだと思います。人間には問題を解決する能力と言うものが備わっていて、それが人間のサバイバル能力だったりするわけです。「解決って言ったって、上司に食って掛かったら今のご時世クビが飛ぶかもしれないし…。」「今の同僚とはうまく言ってないけど、この仕事を辞めるわけにはいかない。」とかそれぞれ事情があるから言い出せないわけですか?だったらあなたは「今のストレスのある状況を自分で選択して暮らしている」わけですから、自分の好きなことしてるわけですよ。今の自分にとって何が大切か。「ストレスのたまる仕事」と「職を失う」ことを天秤にかけて、前者を明らかに選択しているわけです。ここで私が言いたいのは「誰でもない、自分で選択した人生は、自分の好きなことだけしてる暮らしと同じだ」ということです。だって「職を失う」っていう選択よりも「今の仕事を続けていたい」んでしょ?だったら「好きで選んでる」わけじゃないですか。少なくとも「職を失う選択よりは、好きな選択」ではないでしょうか。それでも今の仕事にどうしても我慢できない人は「とっくに辞めてる」と思います。例えすぐに啖呵切って、上司に食って掛かって辞めなくても、「この会社は自分には合わない」と思えば、会社でこつこつ実力をつけて、自宅ではオンラインで仕事を探して、十分に準備をしたところであっさりと辞めていく。「辞めるために、今の会社で準備する」と思えば、ストレスもあまりないのではないでしょうか。私は「仕事は大事」だと心から思います。自分が仕事をしていないと人生を無駄にしているような気持ちになるし、今まで私を育ててくれた社会に対しても申し訳ないような気持ちになるんです。私にとって「働く」ということは、自分のためだけじゃなくて、ある意味「社会への恩返し」でもあるからです。ですから、仕事はとても大切に考えています。でも、私は仕事よりも大切なものもあるんです。自分とか、自分の夫と過ごす時間とか。もし、仕事よりも大切なものを犠牲にする仕事だったら、かなり悩むと思います。恐らく、期間を定めて「最低 2 年くらいはがまんして働こう。お金もいいし。」とかすると思います。そして夫の了解も得てその期間は真剣に没頭すると思います。でも、その間にイヤなことがあっても、恐らく「イヤなことだと感じない」と思います。なぜなら、それは私が選択したことだからです。遠回りになりましたけど、私がアメリカにいた頃肌で感じた「自由な生き方」というのは、「選択できる生き方」です。私のなかでは「Freedom(自由)=Choice(選択)」です。自分の人生の選択権がない生き方、私はそういう人生を「自由のない生き方」だと思います。そういう束縛された、何か(人以外にも時間とか、考え方とか、ストレスとか)にコントロールされた人生を軽蔑すらしています。一度、夫とまだ付き合っていた頃、彼の友人男女とドライブに行ったことがありました。彼らはずっと中国語で盛り上がっていたので、もともと機嫌は悪かったんですが、夕方も過ぎ、そろそろお腹がすいてきた頃、私がそっと「ねえ、今どこに向かってるの?」って聞くと彼は「うん、これからジャンボステーキを食べさせてくれるステーキハウスに行くんだよ。」というではないか。私は楽しくない 1 日を過ごしたばかりでなく、食べたくもないジャンボステーキの店に向かっているということに耐えられなかった。もちろん彼にはこういった。「もう決めちゃったような言い方ね。どうして私も一緒に食べるのに、どこに何を食べに行くかを相談してくれないの?」実はジャンボステーキが食べたくなかったから駄々をこねたわけではもちろんない。じゃあ、なんで怒ったのか、それは「何を食べるために、どこへ向かうか」という選択権が他人の手によってあっさり奪われてしまったことに我慢がならなかったのだ。そのときの状態では、「ステーキが食べたくない」という権利も、「今夜は 9 時からみたいドラマがあった」ことも、「このドライブはつまらないから早く車から降りたい」という私の選択もすべて奪われていた。運転しているのは彼の友達だし、私の知らない間にジャンボステーキハウスに向か…
2003年06月17日
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恋愛レベル(2)-勝者の恋愛恋愛にもレベルがあると思う。生まれつき上級の人もごくたまにいるけど、大体の人はいろんな経験からうまくなっていくと思う。前述したのは、「恋」と「愛」はまったく違う代物で、はっきり言うと「恋」は自分愛。「愛」は他人愛。「恋」っていうのは、自分の思うとおりになればいい=自己愛の塊で、自分可愛さから来てるのに対し、「愛」は自分より大切な何かがあってはじめて「愛」だと言える。上級レベルの「愛」っていうと、やはり相手の変化を恐れないことではないでしょうか。これから結婚を考える人、あるいは今付き合っている人の恋愛レベルを見たとき、自分が本当の意味で「愛」されているのかどうか、自分は相手を「愛」しているといえるのかどうか。大概あとから後悔したり、いずれ「はっと」気がつくのは明らかに「恋」の状態で「愛」がない場合だと思います。「恋」が瞬間的ならば、「愛」は流動的。つまりいろんな形に愛情が変わっていっても「愛」は「愛」だから。「恋」は妥協が許されない。絶対的な自己愛がそこにはあるので、「うまく行かない」ということが、恐ろしくストレスになるし、感情も一喜一憂しやすい。「愛」はもとから流動的なので、一定の形にこだわる必要もなく、それを要求することもない。例えば遠距離恋愛。極端な遠距離恋愛(一年ぐらい会わないとか)は別として、(それでもしっかりした「愛」があればたぶん平気)「愛」があれば、会えない間の相手の寂しさや気持ちを埋めようとがんばるのに対し、「恋」の状態ではいかに自分がつらい思いをしているかを吐露することに終始する。遠距離恋愛で寂しい思いをしているあなたに「何か習い事でもしてみたら?」といえる相手は「恋」ではなく「愛」を注いでいるわけです。何か自分の世界を開くようなことに興味を持って欲しい。自分のことで寂しい思いをして暮らさないで欲しい。これが「愛」されている証拠。これを言う側もある程度の覚悟がいる。だけど、相手に向上していって欲しい、寂しさや悲しさで毎日を過ごしてほしくないと思うから言えるまさに上級の「愛」。新しい友達ができたこと、本を読んで感動したこと、映画を見て影響を受けたこと、こういうあなたのちいさな変化を微笑ましく見守ってくれる人はあなたに絶大な「愛情」を注いでいる人です。さらにあなたのために活動の場を提供したり、あなたの留学や出張、キャリアアップにつながることを率先して考えてくれる相手。もうそれは間違いなく「買い」でしょう。「愛されている方が上」とか「どっちか好きな気持ちが強いほうが負け」なんて言われていることに、わたしは常々疑問を感じています。なぜなら、私は絶対に「好きなほうが勝ち」だと思うからです。相手をより多く好きなほうが勝ちですよ、絶対に。ただここでポイントなのは、あなたが「恋」じゃなく「愛」で相手を好きで要るかどうか。「恋」っていうのはもともと自己愛ですから、自分を幸せにするためにがんばるわけで、うまく行くか行かないかは「自分の思うとおりになるかならないか」っていうだけ。「愛」っていうのは、自分より相手が優先。相手のことを心から大切に思い、幸せにしたいとか、なにか自分にできることはないかと始終考えている人はとても幸せな人。相手の喜ぶことを次々と考え、「自分が相手を幸せにできる立場にいる」ことを自分自身の喜びとしている。もちろんうまく行かない時だってある。よかれと思ってしたことが、彼(女)の好みじゃなかったりすることもある。それでも、めげたり、むっとしたり、「もうしない」とかっていうんじゃなく、「次こそはもっと喜ばせたい。さて、何を考えようかな。」という方向に行くわけだ。これもある意味「自己愛」かもしれない(好きな相手を喜ばせて幸せを感じるわけだから)が、「恋」ではないので、自分のしたことが報われなかったことに対する怒りや「もう絶対にやらない」といった傲慢な態度に出ることもない。報われなかった「愛情」はただ少し悲しい思いをするだけだ。しかし極端な話、相手の気持ちには少々鈍感でもいい。自分よりも大切な相手に思いっきり自分がしてあげたいことをしてあげる。これが究極的な恋愛における幸せであり、勝者の恋愛だと私は思う。これが恋愛レベル上級における「双方が幸せな」愛の形ではないでしょうか。ゲームはしない。駆け引きも知らない。自分の大切な相手を心から大切にする、そしてそれを表現できる立場にいるということ、それがステディな関係であったり、結婚に結びついたりする恋愛なのではないでしょうか。2003/05/01 17:01:39恋愛レベル(1)個人差はあるけど、ある程度の年齢になれば相手の外見とか、雰囲気だけで好きになったりするわけじゃなく、一緒に過ごしているうちに惹かれたり、電話で話してるときに興味が沸いてきたりする。「外見」で相手に惹かれているうちは(もちろん重要なファクターだけど、それだけじゃないでしょ。)アイドルに惹かれているようなもので、別に相手が可愛かったりカッコ良かったりしなくても、自分にとって魅力的な外見であれば同じこと。要するに、「見てるだけで幸せ」っていうやつでしょうか。それ以外にも話し方が好きだとか、運転の仕方が好きだとか、たばこの吸い方がすきだとか、いろんな部分で惹かれたりするものですが、こういう事柄で相手に夢中になる時期というのは誰にでもあるかもしれないけど、恋愛レベルも初級といったところでしょうか。「恋愛レベル」と書きましたが、日本語には「恋」と「愛」と2つあって、確実に意味は違う。前者のように「外見」「話し方」「食べ方」「笑い方」みたいなものに魅力を感じ、興味を持ち始め、どんどん夢中になるような恋愛は明らかに「恋」の方で、「愛」とは全然違う。「恋」は男女間(一般的に)に使われることはあっても、人類愛とか家族愛には使えない。「恋」と「愛」の違いはいろいろありますが、私が思う一番大きな違いは「恋」は自分のためであり、「愛」は相手のためであると言う事だと思います。具体的に説明すると、相手が自分の物になればいいと思うのは「恋」で、相手のためなら身を引けるのが「愛」とでもいいましょうか。身を引くっていうとなんか浪花節っぽいですが、つまり自分よりも、相手が大切に思えて初めて「愛」だということです。母性愛とか、愛国精神という言葉も、自分以上に優先するものがあるから「愛」なんだと思います。「恋」というのは、とても自分勝手でナルシスト。片思いで悩んでる人もこう考えてみたらどうでしょうか。相手はあなたが相手のことを好きだと言う事を気がついている。にもかかわらず、あまり反応がない。これはあなたに魅力を感じないからという理由もあるかもしれませんが、そんなに自分を卑下しないでください。見落としてはいけないのは、あなたの気持ちが「恋」であって「愛」でないことを、彼(女)は気がついているかもしれないということです。つまり、「恋」をされるというのと「愛」されるというのは、その気持ちを向けられた相手にとっては、とても区別のつきやすいことなのです。例えば、廊下ですれ違っただけで真っ赤になってあなたを見る人がいるとする。あなたは話しもしたことがないし、相手の名前も知らないとする。同じことが真っ赤になった相手にも言えるわけで、真っ赤になった相手もあなたのことをよく知らないのに真っ赤になっているわけです。つまり「外見」とか「人気」とか、なにか表面的なことであなたに夢中になっていることはあきらかで、きっと一度でも話しかけたり、握手でもしてあげれば、真っ赤になった人にはいい思い出になるでしょう。つまり、あなたそのもの(人格、個性)が大切なのではなく、あなたという外見や、人気や、そのほか表面的な何かで惹かれているだけなので、あなたが真っ赤になっている相手に何か悩みを相談したいと思ったりする可能性はまずないでしょう。このように「恋」されていることは案外たやすく相手にバレルものですが、その多くがかなわない理由は、相手が本能的にあなたの感情は自己中心的な「恋」であって、「愛」でないことに気がついているからかもしれません。つまり「恋」というのは自分のためであって、決して相手のためではありません。すごく好きな相手だったのに、両思いになった途端に冷めたとか、実際付き合ってみたら思ってた人と違って失望したなんていう経験は誰でもあると思いますが、これらは「恋」がいかに自己中心で、残酷で、ナルシスト性を持っているかを証明していると思います。「恋」をしているときは、相手の嫌いなところは何もない。それはあなたが相手を十分に知らないか、美化しているかのどちらかで、まったく現実性に欠けているわけです。両思いになった途端に冷めたりするのは、自分の目的があくまでも「両思いになる」ことで、彼(女)のことをもっと知りたいとか、相手を幸せにしたいということにはないからです。さらに「こんなはずじゃなかった」というパターンも、想像力で必要以上に相手を美化し、自分のイメージの中で会話していた相手が、いざ現実の相手として自分の目の前に出てくると、生身の相手はあなたの想像していた相手とも違うし、知りたくなかった人間的な面や嫌いな面も見えてくる。こういう「イメージのギャップ」に耐えられなくて「こんなはずじゃなかった」というセルフを吐く羽目になるわけですが、さんざん美化された側にとったら「いい迷惑」。彼(彼女)は自分らしくしているだけなのに、「こんなはずじゃなかった」と言われるんですから。さらに「恋」が「愛」でない証拠に「相手には永遠に変わらないでいて欲しい」というものがあります。これは「愛」とはまったく対照的な気持ちです。「愛」は相手の成長、変化など、相手がどんどん変わっていくことがむしろうれしく、相手がいろんなことに興味を持ったり、トライしたりすることを応援することはあっても、決してその気持ちをくじくようなことはしません。「恋」は瞬間的なものです。「今、この時間がずっと続けばいい。」っていうのは明らかに「恋」で、なぜなら今こうしている「あなた」が心から満たされているから「ずっとこのままでいたい」わけで、相手が成長していったり、変化していけば、この状態が変わってしまう。この状態が変化していくと、自分が味わっている「おいしい幸せ」も何かしら変化があるわけで、そうなって欲しくないから「相手には変わらないでいてほしい」わけです。「恋は刹那的」って言われるのがわかるような気がします。とにかくものすごーく自分勝手なわけです。自分が誰かを好きなときはそれが「恋」なのか、「愛」なのか、考えて見たことはあるでしょうか。見分けるのは簡単です。もちろん上記のように「外見」や「雰囲気」で好きになったりしている場合は特に簡単に見分けることができますが、「瞬間的」で相手に変化して欲しくないと思っているときも「恋」だということができます。もうひとつ簡単に見分ける方法があります。彼(女)が何かあなたを傷つけるようなことをしたとします。想像でもいいです。電話すると言ったのにしなかったとか、そんな簡単なことでもいいんです。あなたはどう感じますか?A:ムカツク!B:悲しい。悲しくなっちゃったあなた、それは「愛」です。ムカツクのは、自分の思うとおりにならなかったっていうのと、相手を信用できない、自分に自身がないなどの理由からくるわけで、つまりすべて自分かわいさに関すること。電話が来なかったことで「何かあったんじゃないか」と相手を心配する人は、恋愛体質。今自分が好きな相手に対してあなたは本当に「愛」を持っていると言えますか?それとも自分の「恋心」を満足させたいだけですか?くれぐれも自分が後者のターゲットとならないようにしたいですよね。「恋心」でぶつかってくる人っていうのは、究極的にはあなたより、自分のほうが大事なんですから。
2003年05月01日
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えっと、つづきです。「集団性」の対極としての「個人性」にはかなり限界があるというあたりで昨日は終わりました。つまり「集団性」が「黒」だったら、個人性は「白」だったり、「赤」だったり、「黄色」だったりと黒以外の色を出していくことで「脱集団性」を計るだけ。「集団性」が「黒」っていうときに「うーん、あたしは雨かな。」っていう選択はない。これは「個人性」がつねに「集団性」あっての「個人性」という定義から抜け出せないことを示しているわけだ。これが日本人が考えている「個人性」であり、「個性」であり、「他とは違う」自分だったり、「自分らしい」と錯覚している「個人性」の定義となる。だから、どこまでいっても「俺は違う」って思ってても、海外なんか出て「個人性」のかたまりみたいな文化に触れるとなんかフェイクっぽくなってきたり、はげはげっていうか、うそっぽいものが出てくる。そりゃそうだ。それらの「個人性」は自分が作り上げたものじゃなくて、集団に対して「アンチ」的になってるだけだからだ。海外に出ると、多かれ少なかれ、この「集団性」が少ない。あるはある。でも、なかなかわからないか、滅多にない。だから個人として振舞おうとか自分らしく振舞おうとしても、頼りにしてた「集団性」が見当たらないので容易にパニくることになる。結局語学学校なんか行って、多国籍に触れたりすると、付け焼刃(あるいは自分ではそう信じていた)「個人性」はまったく通用しなくって、結局「日本人っておとなしいよね。」とか「日本人ってなに考えてるのかわからない。」なんて、日本人が「これだけは言われたくない」と思ってるようなことを印象付けていくことになる。じゃあ、「集団性」とは関係ない「個人性」とは何か。まったく関係ないとは言いきれないが、少なくとも「集団性」を意識しない「個人性」はある。これを実行するのはとても簡単とも言えるし難しいとも言える。なぜなら「個人性」とは「好き嫌いを持つ」ことだからだ。あなたは自分の「好きなもの」「嫌いなもの」がどこまでわかっているだろうか。「好き嫌い」は実は奥が深い。食べ物や、服のセンスだけではないからだ。例えば人。どんな人が好きで、どんな人が嫌いなのか、そして理由はなんなのか。一人の友達を「あの人はいい人だよね。」っていうのは簡単だが、「あの人のここは好きだけど、こういうところは好きじゃない。」っていうのは少し難しい。例えば、「あの人はフレンドリーで知り合いが多くて、さっぱりした感じがして、好きなんだけど、自分の気に入らない友達には冷たい態度を取るところがあまり好きになれない。」とする。そうしたら「どうして、『気に入らない友達に冷たくする人』が好きになれないのか」を考える。例えば「自分の母親もそういうところがある。だとしたら、母親のそういうところも嫌いか。」とか「自分は一般的に『人によって態度を変える人が嫌いなんじゃないか』」とかって考えていく。そうこうするうちに別の人に出会ってそれを確信するかもしれない。「うん、やっぱりあたしは『人によってころころ対応が変わる人って信用できないから好きじゃないんだ。』」っていうことがわかる。ここまで来て初めて「自分はどんなタイプの人が嫌いなのかを知っている」ということができる。すべてのことはこういうノリで対処していく。「あたし、パパイヤは苦手なんだよね。」「どうして?じゃあ、マンゴーは?ドリアンは?ジュースでもだめなのか、カットフルーツだからだめなのか。」嫌うには理由があるはずだ。さらに、絶対的に苦手なんじゃなくて、一部が苦手なこともある。そういうことをすべて口で説明できるようになって初めてあなたは「自分の好き嫌いを知っている」と言える。どんなに大人っぽく振舞ったり、年齢を重ねていても、私のなかではこの「好き嫌いのわかっていない人」に対する評価は極めて低い。なぜなら、「自分の好き嫌い」を人に伝えられないほどはっきりしていない人は、「好き嫌い」をはっきりさせなきゃいけないような環境におかれたことがない人=世間知らずで、ほとんどの場合、自分のことがよくわかっていない。「好き嫌い知っている」ということと「自分の好き嫌いを主張する」というのは少し違う。自分の好みというのは、人に押し付けるために存在しているわけでも、人に迷惑をかけるために存在しているわけでもない。自分のことをよりよく知っておくための一手段にしかすぎない。これを勘違いしている人はたくさんいる。「あたし乗り物酔いするから、遊園地は避けてね。」「えー、インド料理なんて辛いだけジャン。あたしはタイ料理が好きなんだけどな。」っていうのは、「自分の好き嫌い」を「自己主張」に利用しているだけで、こんな人は最低。「インド料理?うーんこの前食べたのはすごく辛かったけど、おいしいのを食べたことがないだけかもしれない。みんながそれでいいなら行ってみよう。」っていうことはできるのだ。これはもう性格の問題。世の中「好き嫌い」の選択を迫る事柄で一杯だ。コンピュータを買う。マックにするのか、PC にするのか、どうしてマックが買いたいのか、機能性はどうなのか、どうして PC じゃだめなのか、買ったら何がしたいのか、コンピュータ以外に何を買えばいいのか、どこまで必要なのか、問いただせば切りがないが、決して安い買い物じゃないんだから、この程度の質問くらいははっきりさせてから買いに行きたいもんだ。一見「好き嫌い」とは違うように見えるが、人が選択するときは自分の好き嫌いにおいて選択するものだ。(だいたい買い物なんていちばんわかりやすい例だが、嫌いなものにお金を出す人はいないし、だしたくもない。いい買い物ができたと思えるのは、自分の好きなものをそれに見合う金額で買ったときだ。)上記の例で言うと、「自分はなぜかマックに惹かれる」としよう。どうしてマックが好きなのかを考えるのだ。「そうだ、友達の家に行ったとき、オレンジの iMac がオレンジの机においてあってかわいかったなあ。あたしはあれにあこがれてるんだ。」とか「前の彼もマックのほうが使いやすいって言ってたから。」とか、「どうしても、マックで写真の修正とかやってみたいから。」とか、理由は必ずある。好きなものを好きだと知っているだけでなく、なぜ好きなのかを考えることでだんだん「自分」が見えてくる。「あ、そういえば、グッチのバックも、彼女の影響で買ったんだ。もしかしてあたしって彼女の真似したいだけなんじゃないか。」とか「前の彼がマックがいいって言ってたから、買うなんて、ばかばかしい。いまだに未練があるのかな。」とか。いろんなことがわかってくる。これらの自分に対する情報が、自分を知ることにつながっていく。自分を知っておくとどんないいことがあるか。これはもう答えられないくらい膨大なメリットがある。身近な例で言うと、自分のことがよくわかっている人は、自分にはどんな人がふさわしいかとか、どんな人と結婚したいのかとかがわかる。このあたりについては、別の機会にきちんと書きたいが、ある程度自分を知ると言う事は、ぜひ適齢期までにすませておきたい。とくに結婚は自分のことがわかっていて初めて相手を見つけ出すことができる代物。自分のことも(好き嫌いも)良くわかっていないようでは、結婚を現実的なものとして考えるのは非常に危険だ。私は恋愛=結婚というシナリオは好きだし、ハッピーエンドは見るのも聞くのも大好き。ただ、結婚は恋愛だけではないというところが、結婚と恋愛の違いだと思う。結婚にはもっとたくさん、いろんな価値が入ってくると思うからだ。自分をよく知り、そして相手のことも知る能力を持って初めて真剣に考えたいことだと思う。ちょっと余談だったが、このように「好き嫌い」および「その理由」を明確に知っている人は知らず知らずのうちに「個性的」な人になっていく。「ピンクが流行ってるからピンクを着ない」のが「個人性」を表しているのではなく、「あたしの好きなピンクが流行ってるみたいだから、今日は全身黒だけど、うすいピンクのスカーフしよっと。」こっちが「個人性」を体現している人の「個性」の表し方。ピンクが好きならば着ればいい。でも、ピンクのシャツじゃなくてスカーフだったりするところで彼女は「個人性」つまり「個性」を出してるわけで、流行だから、あえてピンクは着ないとかっていうのは、すでに流行に左右されている証拠。「だって、ピンクは私によく似合う色だし、雑誌にも今月のラッキーカラーだって書いてあったし。」こういうほうが「個人性」を持っていることになる。つまり、「集団性=流行、一般、風潮、社会」とかはほとんど関係なく、自分が好きだから着る。似合うから着たい。これが「個人性」なのだ。だから自然とブランドモノや、流行に対する見方、捉え方も変わってくる。「集団性」に対抗していたころの「個人性」は、「集団性=流行」を敵視し、いかに「アンチ集団」として振舞うかに命をかけていたが、本当に「個人性=自分の好き嫌い、自分らしさ」をわかっているひとにとって、流行はむしろ楽しいもの。「流行ってるんなら、着てみようかな。」っていうリラックスした雰囲気すらある。そしていざ流行を意識しても、それにとらわれることはない。つまり、着てみても自分に似合わないもの、つまり好きじゃないものを咄嗟に判断できるからだ。「うーん、雑誌だとかわいかったけど、あたしが着ると雰囲気が違うなあ。」とか「今はきたい靴とは全然マッチしないから、やめとこうかな。」とか、選択は極めてシンプルかつ絶対的。「好き嫌いを知る」そして「その理由を知る」ということが、いかに「自分を知る」ことにつながるかは実践してみればしみじみとよくわかってくるはずだ。毎日の暮らしの中で好き嫌いを試されるできごとにあえて身を置いてみて欲しい。雑誌一冊買うときだって、いろいろあるなかから選んで買ってるわけでしょ?例えば、サンダルが買いたいから、たくさんサンダルの写真が載ってるから雑誌を買ったとしよう。たくさんサンダルの写真が乗ってるから、カタログを見るノリでいろいろ見れるから買ったのか、雑誌が「いちおし」って言ってくれたサンダルを買いたいからかったのか、それとも気になったサンダルがどこで買えるかがわかるから買ったのか。理由はいろいろある。さらに、もし「たくさんサンダルが見たいからその雑誌を買った」んだとすれば、もしかしたら、見た後に買う気がなくなって結局買わないかもしれない。だとすれば、結局今どんなサンダルが流行ってるか知りたかっただけで、買う気はあんまりなかったことがわかる。もし「雑誌で『一押し』って言ってくれるサンダルが欲しいから雑誌を買った」のなら、自分の目は当てにならないから雑誌を当てにしてることになるわけで、「私はサンダルを見る目がない。またはどんなサンダルが自分は好きで、似合うのかを知らない」という自分を発見することができる。さらに「気にいったサンダルがどこで買えるのかを知りたいから雑誌を買った」のなら、気に入ったサンダルを見つけて「よし、このお店まで行ってみよう」ということになるかもしれない。サンダル一足に対する熱意と努力に驚く自分を発見するかもしれない。自分は何が好きで、何が嫌いなのか、そして理由はなぜなのか。自分に関するたくさんの情報を集めていけばいくほど、人生はシンプルになっていくような気がします。「自分の好き嫌いを知っていく」と、選択の場に直面したときにものすごく簡単に決められるようになる。それを繰り返していくと、できごとや物から選択を迫られるんじゃなく、自分から積極的に選択の場に身を置くことができる。それは「私には今、何がどのくらい必要で、何が全然必要ないこと」なのかを知っているから自ら積極的に必要なものを選択していけることになる。これも「何が自分をハッピーにすることで、何がその逆にすること(つまり要らない事)なのか」を知っている、つまり「…
2003年04月29日
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えーと。お久しぶりでーす。ご無沙汰してました。最近いつもこんなフレーズで書き始めていますが。もっと書きたいと思っているんですけど、思索にふける時間がなかなかできなくて…。悲しいです。団体旅行の旗なんかを海外で見る機会はめっきり減り、高校のクラブ活動や大学のサークル活動も全盛を過ぎた。日本では「みんな一緒に」的スローガンは「ださい」ものの象徴であるかのように、あらゆることが「個人単位」で考えられるようになった。セットメニューが売りのランチタイムでも「アラカルト OK」だったり、「あなたのお肌に合わせた」処方を出してくれる化粧品、「地球の歩き方」的旅行、「カスタマイズ」してくれるブラウザや、主婦の身長に合わせたシステムキッチンまで、日本は今「個人単位」のコンセプトの上にあらゆるサービスが考えられている。日本人にとって、集団性から個人性への移動は大変な努力を要すると思う。日本は島国という環境だけでなく、幸いにも一度も日本の領土を他国とシェアした経験がない。沖縄の米軍キャンプとか、北方領土とかは別だが、過去に他国の文化や教育を強要された経験がない。どこか他の国が攻めてきて、そこの文化を押しつけられたら、簡単にいうと「新しい価値観」を植え付けられることになる。それら「新しい価値観」は良くも悪くも「日本独自の文化」に必ず何かしらの影響を与えるわけで、侵攻されなかったときのようではいられない。こんなに小さな極東の島国が、「侵攻による変化」をほとんど受けていない。日本は奇跡的な国だ。その分「日本独自の文化」が誰に邪魔されることもなく、延々と続いてきた。こうなると国民全部が親兄弟みたいなもので(他国の血がほとんど皆無)、他国との比較が必要ないからか、自分たちのなかで「よそもの」とか「身内」とかっていう感覚を発達させてきた。つまり同じ血を持った国民なのに、別の村から引っ越してきた家族は「よそもの」だったり、20 年も一緒の会社で働いた同僚は他人でも「身内」扱いされるわけだ。つまり日本人同士が「敵」になったり「味方」になったりする状況が発生する。いつまでも「身内」でいるためにはそれなりの努力が必要となる。それが「集団性」のキープだ。身内なら身内同士の暗黙の了解や合意がある。同じものを嫌ったり、同じ所に価値観を置いたり、同じものを食べたりなんていうのも典型的な例だ。当然そこには苦痛を生じることがある。週末にゴルフなんて行きたくないのに、「身内扱い」されていたいために週末も出かけるとか、ほんとは井戸端会議なんて苦手だし興味もないのに行かないと「仲間はずれにされる」から行くとか、いろいろ。それら苦痛を承知の上で集団性を自ら「選択」してきた国民にとって、いまさら「個人性」を発揮しろなんて言われても…、日本人にとってはまったく難しい世の中になったというわけだ。ところでこの「個人性」だが、一般的に日本人はこの「個人性」をどう捉えているのだろうか。「自分らしさ」とか「自分を大切にする」とかいろんな新しい言葉が、「個人性」の台頭によって生まれた。それまでの日本人には考えられなかったコンセプトだ。日本人にとって「個人」というのはあくまでも「集団」と比較したときの個人で、つまり「みんなとは違う」ことを強調するのが「個人性」だと解釈するところが大部分ではなかろうか。そこで奇抜なものが流行る。遠い昔の「竹の子族」なんかはセミ個人性の現れ。一般の人とは違う表現方法を持っていることを強調したいが、それでも徒党を組んでしまうあたりが、セミ個人性と言わざるを得ない。竹の子族の頃、日本人の若い学生達はまだまだマジメだった。学校と家の往復だけで、家に帰れば母親を手伝ったり、塾へ行って習い事をしたりする。つまり「集団」がマジメだったので「個人性」を強調したい彼らは「不良になる」ことを選んだわけだ。竹の子族を笑えないのは、悲しいかな今の日本人も大して変わらないというところだ。「誰よりも早く夏を先取り!」「あの子とは違う!わたしだけのジーンズ」「今こそ取り入れたい!クラシックな目元」とか雑誌の表紙を見るとあきらかに「集団」を意識して初めて生まれる「個人性」がもろに伺える。「誰も夏を意識していないときこそ、夏っぽいファッションをする」「今の流行に流されない、自分らしいジーンズの着方」「誰もが忘れているいまこそ、クラシックなメイクで自分らしさをだす」なんて、どれもこれも、竹の子族となんら変わらないわけだ。だって、その雑誌が出す情報を何十万という人がシェアするわけでしょ?結局自分一人がやってるわけじゃないんだから、「個人性」が発揮される余地はないわけで、これはあくまでも「流行」とか「風潮」とかいわゆる「集団」にない何かを提案することで「個人性」を追う日本人をターゲットにしたセミ個人性以外の何物でもない。結局日本人はこうやってメディアに提案されるセミ個人性をいつまでも追い続けることになる。じゃあ、なぜいつまでたっても日本人はセミ個人性なのか。答えは簡単。「自分らしく」とか「自分を大切にする」なんて言われても「どうしていいのかわからない」からだ。どういうことが「自分らしい」ことなのか。どういうことをすれば「自分を大切にしている」ことになるのか。それがわからないからだ。メディアはこの日本人が抱える不安の中に、確実にビジネスチャンスを見ているわけで、だからこそ「らしさ」とか「個人」にターゲットを当てたさまざまな商品やサービスを考えだす。「たまにはエステで自分にご褒美」とか「一泊二日、日常を脱ぎ捨てる旅」とかを提案することで、「自分を大切にしたい」日本人の欲求を満たそうとすることになる。だから今、エステとかネイルとか、小旅行的な、いわゆる「自己投資」って大流行りでしょ。これも、自分を大切にしたいんだけどどうしたらいいのかわからない日本人向けにあらゆる産業が提案してる企画のひとつだったりする。じゃあ、いったい「個人性」に別の定義があるのかというと、ある。ここが宿題の部分だ。前述の定義における大きなポイントは、「個人性」というものを「集団性」の対極としか捉えないところだ。確かに「個人」という言葉、そのコンセプトは「集団」があって初めて存在するわけだから、一理ある。しかし、「自分らしくいる」とか「オリジナル」でいるということは、この「集団に対する個人」という感覚からは出てこない。なぜなら、「集団に対する個人」というのは常に「集団あっての個人」つまり集団を意識せずには存在しないことになるわけで、常に「集団を批判する」立場から逃れることができない。結局は「集団」というコンセプトに常にコントロールされるわけだ。何かにコントロールされているという状態では、自分らしくはいられない。この「コントロールされる」という言葉は非常に意味が重い。ちょっと難しいかもしれないので、もう少し説明します。例えば人。これがいちばん簡単な例だと思うけど、誰かにコントロールされるということは自分を押し殺している状態でしょ。ナチとかはいい例だけど。例えば上司に「今日はこの仕事徹夜してでも終わらせて。」って言われたら、その日の夜は、何か自分のためにすることはできなくなるわけで(もちろん、断ればできるんだけど)、仕事に没頭することになる。まあ、社員として企業に属していればある程度の個人的な楽しみの犠牲はやむをえないところだが、まあ、これは具体的な例。もっと中級レベルのコントロールだと、物質があげられる。例えば、どうしてもシャネルバックが買いたいために働くとかっていうのは、あきらかに自分の生活を「モノ」にコントロールされていることになる。この例は身近にたくさんみられる。さらに上級編になると、例えば洋服。ファッションショーで見るような流行のスーツ。何十万もしたんだから、それなりに見えてくれないと困る。そこで髪型や髪の色も流行に合わせて、メイクや小物も絶対にスーツがださくみえないように気を配る。こうなると、せっかく買ったお洋服のそれなりの価値観を出すために、そのスーツにあった気配りをする。こうなるともう自分がそうしたいかどうかよりも、すべてはスーツにふさわしいかどうかの問題になる。つまり、あなたはスーツにコントロールされているから、その髪型とそのメイクとバックと靴を合わせるわけだ。あくまでも「集団」が「個人性」を作る上で影響を及ぼすのであれば、その「個人性」はかなり限られたものにならざるをえない。だって、「集団性」の逆を行ってるだけだから。さらに、その「個人性」が逆に「集団性」に転じる可能性も高い。竹の子族がどんどん増えていって国民すべてが不良になってストリートで踊ったら、もう誰も「奇抜だ」とか「個性的だ」という人はいない。日本の流行はいつもそうだ。何かが流行ると、流行り出すちょっと手前がいちばん「旬」で、あとは必ず「集団化」していく。そうすると流行に敏感な人達は次の「脱集団性」を探るべく、雑誌を開くことになる。じゃあ、「集団」とは関係ないあなただけの「個人性」って何か。それはつづきで。(つづく)
2003年04月28日
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あれは去年のクリスマス。Hugo くんが奮発して一年分のジムの会員権を買ってくれた。日本のジムの会員権に比べたら、はなくそみたいな金額だけど、Hugo くんとあたしにはとても高価なお買い物。だから、それ以来毎日通っている。最初の頃、動機と言えば、せこいんだけど通えば通うほど安くなるかと思うとなんかうれしくて。日本にちょこっと帰省してて、約1か月通わなかったときは気が気じゃなかった。「1か月も休むので、その間お休み扱いにしてください。」ってジムに頼んだら、「あなたはいちばん低いレベルの会員(ゴールドとかじゃないってこと)だから、お休み取るのにお金かかります。」って言われた。だから「お休み扱い」にはするのをあきらめた。1か月もジムを休むと体はすでに「以前と同じ」。クリスマス以降あんなにシェイプアップした結果も幻のように消えて、二の腕とか足の付け根が気になってきた。再び通い出したのが2月の下旬。それ以来今日まで、週末を除くほとんど毎日通っている。週末は Hugo くんと遊びに行く計画があっていろいろ忙しいので、ジムには行けないから。ジムでの私のメニューは、結構盛りだくさん。友達にメールで内容を教えたら「タフだね-!」って言われた。ちょっとうれしい。だって、自慢じゃないけど体力ないんだ、私は。受験戦争に打ち勝つために勉強ばーっかりしてた青春時代。高校だって茶道部だった。大学時代も運動らしい運動をした記憶がない。一度だけシンディ クロフォードのウェイトを使ったビデオにはまったことがある。あれは 1997 年の春、渡米する3ヶ月前から、とにかく毎日2キロのウェイトを使って、シンディと一緒に憧れのボディをめざした。結果はすごかった。若かったせいで効果テキメン。下着のサイズがどんどん変わっていく。肩幅がしっかりしてきて、歩く姿勢もなんだかシンディに影響されている。さらに驚くべきことにいわゆる 6 パック(腹筋のこと。ビールが 6 缶セットで売ってるのあるでしょ?あれ状態ってこと。)があわや見えるかっていう雰囲気だった。渡米してすぐの頃、私は痩せてはいたもののいわゆるナイス バディ。Hugo くんは後になって「ナナのあの頃の腹筋に惚れた。」って何度も言ってた。そんな彼も今では「だまされた」って言い出すほど、私の腹筋はどこかに溶けてなくなっている。いまさらあの若き日の腹筋を取り戻す野心はないが、今のジム通いは気に入っている。最近では「通えば通うほど…」っていうせこい動機じゃなくて、「もうちょっとこの憎いおしりが上がるとあたしも…。」とか「肌の調子が悪いから、汗でもかいてスチームサウナでパックしよう。」とか、いわゆるジムによく通ってる人が抱きそうな動機に変わってきた。うちはジムまで歩いても 3 分とかからない。雨でも億劫にならない距離。だから、最初からジムで運動する格好で行く。泳ぐ日は中に水着を着て行く。チェックインすると、ロッカーへは荷物を入れるだけ、がぶっとお水を飲んでいざトレーニングの開始。ジムには所狭しとマシンがあって、あたしが好きなようにストレッチできる場所が少ない。混んでるときは伸びをしながら前や後ろにちょこちょこっと移動しなきゃいけないときもある。私は必ず準備体操をする。これが「シンディ時代のくせ」というか、もう体が覚えている。5-6分準備体操に費やしたら「燃焼系」トレーニング。これは中野サンプラザのジムに行ってたときにインストラクターに教わった。先に有酸素運動をした方がいいらしい。私は階段を上るようなカッコになるマシンで約 20 分、脂肪燃焼とヒップアップにせいをだす。ヒップアップって言うのは、階段を上ってるから。昔旅行中に山に登って日の出を見るツアーに参加したときに、たった一度の山登りでヒップがぐっとアップした気になった記憶がある。だから私は階段を上ることはヒップアップになると信じている。20 分も階段を上り続けると、汗っかきじゃないわたしも汗をかく。よろよろしながらぶらぶら歩いて休憩すると、次はマシン。どのマシンが何に効くのか。いまだによくわからないので、置いてあるマシンのほぼすべてに手をつける。好きなマシンと嫌いなマシンがある。好きなのは下半身をぐるぐる回転させるやつ。うまく説明できないけど、椅子に座ってひざを固定させると、下半身がねじれてウエストがくびれるようにできている。あと、ウチモモを鍛えるやつ。ウチモモってなんか忘れられているようで、鍛えておくといいことがきっとあるっていう気にさせられる。嫌いなのは腹筋でしょ、あと座った状態で足首の前にある重しをぐっと上に持ち上げるやつ。どうして嫌いかっていうと、できないから。いちばん軽い重しを使っても「こんなことしたら、体に悪い。」っていうぐらい限界を感じる。全部一通りやるとあとはストレッチ。ストレッチは体がスーパー固いから嫌いなんだけど、このジムにはストレッチマシンがある。座ってぐーっとかやるだけて、いろんな部分が伸びる。体の固い私もなんだかストレッチできる人たちの仲間入りできた気分になれる。全部終わったらサウナに直行。まずスチームサウナで200ぐらい数える。ちっとも暑くないから長くいられる。そしてざーっとシャワーを浴びて、そのあとドライサウナにも入る。これはほんとに乾かす程度。全工程を終えてチェックアウトするころには、1時間半くらい経っちゃう。これが友達に「タフだね-!」って言われた理由なんだけど、あたしはのんびりやってるから。10 回X3くらいをひとつのマシンでやると、筋肉が戻るまでぼーっと座ってる。はっきり言ってこの時間のほうがマシンで動いてる時間より長いかも。とにかく、毎日続けるとかならず体型、体調に変化が現れる。1日おきも試してみたが、現状維持のみ。これから今日もジムへいく。今度はジムに行くとどんな人とお目にかかってるかも書いてみます。
2003年03月24日
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昨日はひっさびさに Lycos に足を踏み入れたので、思いっきり書いた。書きまくったので、終わる頃には外が暗くなってた。さらに二の腕にもだいぶ力が入ってたので、ちょっとマッサージなんかもした。実は昨日はジムに行かなかった。なんか体調悪かったので思いきって休んでみた。こっちの旧正月以来ほぼ毎日通っていたので、日課というより「義務」っぽくなってたかも。そんでもって急に休んでみると、とっても優雅な午後が過ごせることがわかった。Lycos に日記なんか書けたのも、ジムをお休みしたたまもの…。ジムに行かないと、1時間半も「ゆっくり」できる。昨日は、Lycos のほかにもクッキー焼いたり、アイロンかけたりできた。実は昨日はほんとに冷蔵庫の中にちょっとの牛肉と野菜しかなくって、どうやって Hugo くんをお腹一杯にするかってかんじだった。牛肉はとりあえず牛丼風にしたので玉ねぎと煮てまず一品。ナスがあったから、オーブンでやいてから、皮をむいて、自家製ドレッシングをかけた冷菜に。野菜(おいもの葉っぱって書いてあるんだけど)を蒸し煮にしてあつあつのところにガーリックと醤油のドレッシングを作ってかけて、3品目。4品目はスープ。昨日は寒かったし、牛乳が余ってたからミルクスープにした。冷蔵庫に残ってる野菜のほとんどすべて(にんじん、白菜、インゲン、たまねぎ)をいれて、水とブイヨンで煮てから牛乳をたしてできあがり。ちょっとナツメグとかベイリーフなんか使うと奥の深い味わいになるし。Hugo くんはいつもより満足でした。夕飯も半ばで「なんかよく見てみると俺たちの食事ってへるしーだよネ。だって、このおかず(牛丼風煮込み)以外は全部野菜なのに淡白な感じもしないし、でもオイリーなものもほとんどないんだよね。」って言ってたけど、内心「やった!」って思った。だってほんとに野菜しかなかったのに、Hugo くんは私がクリエイティブだと思ったみたいだったから。彼が冷蔵庫事情を把握する必要はないし、せっかく誉めてもらったのでただうなずいて「そうだね。」って言っておいた。味をしめて、今日もジムを休んでしまった。だからこうやってまた Lycos を書いてるわけだけど、あしたは行きます。今度またジムの話しなんか書きます。
2003年03月20日
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海外でたまに日本人と触れ合うチャンスがあると、会ったあと必ずと言っていいほど「あー、この人が円満に海外生活をエンジョイして無事に帰途につくことを心から願いたい。」気持ちにさせられる。男女ともだ。去っていく後姿に十字でも切って「どうか無事でありますように。」とでも祈りたくなる気持ちになることがよくある。なぜか。それは日本人のあなたを海外で見るととてつもなく Insecure に見えるから。「Insecure = 頼りない」とでも訳したらいいんでしょうか。男性でも同じ。日本人の男性の場合、ヘンにカッコつけたがる人が多いぶん、わたしの目には余計に頼りなくうつる。はっきりいってこの誰から見ても Insecure に見える部分が、海外で日本人のあなたを日本人らしくみせている一番の原因だと思う。海外にいてInsecure に見えない日本人。そんなあなたは一人でもきっと大丈夫なんでしょうね。お父さんやお母さんはあなたのことを心配してても、こころのどこかで「ウチのこは大丈夫だ。」って納得してる部分が必ずあるとおもう。日本の外にいて、「Are you a Korean? Are you a Chinese? Are you an American?」なんて聞かれたことがあるあなたは、きっと海外旅行で日本からくる日本人よりはるかに Independent で I can manage myself. っていう人だと思うので、Should be pround of yourself. 誇りに思っていいと思う。日本人の持つこの Insecure な部分っていうのは、どこの国の人でも多少持っている。じゃあ、どんな人が持っているのか。答え=こども。どこの国でもいい。小学生くらいの子どもに話しかけてみたらいい。彼らの反応は、A.恥ずかしがって答えない。B.くすくす笑って逃げる。C.答えるけれどもただひたむきで一生懸命。D.友達や親を探して代わりに答えてもらおうとする。などなど。こんな反応を見た事ないですか?海外で見る日本人の反応ってまさにこんな感じ。幼稚っぽい。こんな反応する大人ってあんまりいないから、こういう日本人の大人を見ると、日本人以外の人はよくいえば、「日本人ってなんてピュアなんだろう。」悪く言えば「あのー大丈夫??」ってことになる。中身は子どもみたいなのに、年齢は十分だから、へんなプライドが邪魔をして、妙にカッコつける人たちが出て来たり、やたら外国慣れしてるように振舞う日本人が続出する。こういった行動は、つまり裏返しで、「日本人はダサい。わかってない。通じない。へん。」とかって思われるのが怖いからその反動で外観や振るまいでそれを帳消しにしようとするわけだ。日本国内だってそうだけど、自分に自信がある人ってそうそうヘンなかっこしたり、とっぴな行動に出たりしないもんだ。洋服の青山で買ったスーツを着てても東大卒で外務省勤務してる人はいる。逆に超有名ハイテク会社に勤めるエンジニアでも、ベルサーチのスーツしか着ない人だっている。そのエンジニアの人と初めて話しをしたとき、ちょっとびっくりした。服に驚いたんじゃなくて、そんなドハデなスーツ着てるのに、ちょー自信なさげで、声も小さくて、わたしの顔もまともに見れないくらいシャイな人だったからだ。個人的に付き合えばきっと人のいいおっとりしたタイプの人なんだろうなって思った。ただ、インターパーソナルスキルに関してはお世辞にも友達が多いとは思えなかった。服の話しで少し引っ張るけど、わたしは個人的に男性の服装にはうるさいほうだ。うるさいっていうのは「ツイードのジャケット着てあのネクタイはないでしょ。」とか「どうしてああいうシャツにこういうタイを合わせるかなあ。」とか、そういうセンスの問題じゃない。わたしにとって、男性の服装で一番大事なのは、最後にその人と会った時に、彼が何を着ていたかをわたしが覚えているかどうかだ。もちろん、キアヌリーブスに会ったら、彼の履いていた靴下の色まできっと覚えているに違いないが、ただちょっと立ち話しただけとか、ばったりレストランで会ったとか、そういうちょっとしたシチュエーションにもかかわらず、もしわたしが彼の服装をあとあと覚えていたとしたら、わたしにとってその人はかなりネガティブな印象を与えたことになる。まず、センスのいい組み合わせ、その場にふさわしい服装をしている男性は、服装を滅多に覚えられないものだ。女性は別。女性はパーティでいえば花。ご主人と歩けばご主人のためにきれいにしてるのは普通のこと。ちょっとアンティークの時計をしてた女性とか、ジーンズなのに普段使いのように高級スカーフをしてて、かっこよかった女性とか、女性がファッションでアイデンティティを語り、同時にまわりに清潔感や華やかさを与えるのは大賛成。これこそ女性ならではの魅力であり楽しみでもあるとわたしは思う。ところが、同じことを男性がやってのけた場合、つまり女性よりも目立つくらいの魅力溢れるファッションで登場したとする。外見で「すてきー。」って思われることはあっても、「うん、この人なら責任感もあるし、自分のこともよくわかってる。頼り甲斐があって、健康的で、話しが合いそう。」って思う?一般的にはノーと言わざるを得ない。いるにはいる。でも滅多にいない。このへんはパラドックス的だと思う。なぜなら、自分に自信のある男性というのは、滅多に服装に気を使わないし、使ったとしても目立たない程度。覚えてもらえない程度の服装で満足してるわけだ。もちろんわざとやってるわけじゃない。わざとダサくしてるんじゃなくて、気を使ってるつもりだけど、あくまで服装で脚光を浴びようとは思っていないからだ。だからわたしは一般的に「最後にあったときの服装を覚えられているような男性」が苦手。実際話してみれば、中身に自信がないことがそこかしこに見えるし、へたするとナルシストが入ってたりする。だからジェームスボンドは貴重なのかもしれない。彼は頭も切れて、運も強くて、体力もあって、さらにスマートなお洒落をする。スマートなお洒落といっても、彼が着るのはスーツかタキシード。どちらも一般的な服といえば一般的。彼は何を着ても魅力的に見えるのは自信に溢れているからかもしれない。逆にいうと、自分に自信がある人は、普通のスーツを着てても Somebody(ひとかどの人物)に見えるってことだ。服の話題でかなり引っ張ったが、男性の服装でわたしが厳しいチェックを入れるのはただひとつ。TPO をわきまえているかどうかだ。同じチェックは女性にもいれる。山の中腹にあるカフェでわざわざブランチしようっていうときにピンヒールで登場するとか、風が強い海辺までドライブするってわかってるのにタンクトップで来て「寒いから車のなかにいる。」とかっていう人。こういうその場にふさわしくない服装で登場し、周りに迷惑ならず不快感を与える人をわたしはチェックしている。「夏だけど映画館はきっと寒いだろうから。」って言ってカーディガンやスカーフを持ってくる女性、「寒いけどデパートの中はきっと暖房で暑いだろう。」と思って脱ぎ着しやすい服装で来る男性をわたしはチェックしている。こういう人たちは自分をとてもよく管理している。自分を大切にしているということだ。自分を大切にしている人、よく管理している人に対して、わたしはほぼ自動的に敬意を抱く。ほとんど暗示状態だが「彼らが、ここまで自分を大切にしているんだから、きっとそれだけの価値のある人なんだろうな。」って思わされるからだ。海外にいて、日本人の一番気になる部分がまさにこれ。自分を大事にしてるように見えないのだ。自分の管理のしかたを知らないかのような無謀な行動。リスクのあることに平気で飛びこんだり、日本にいたら恐らくしないだろうと思われる行動を平気でとる。「ここでひるんだら馬鹿にされる。」とか「ここで、考えさせてって言ったら優柔不断だって思われる。」とかいろんな考えで頭でっかちになってて、かえって自分が本当に望んでいることがわかっていないかんじ。こういうふうに、人に評価されることを恐れて、自分のほんとうにしたいことや、自分が本当はどう感じているのかが見えないうちは、あなたはとっても「Insecure=頼りない人」に見える。なぜかというと、地に足が着いていないことが、見え見えだから。「自分が本当はなにが欲しい/したいのか。」これがわかっていない人はふらふらして見える。そりゃあそうだ。だって自分がこれからどこへ行くのか、どこへ向かっているのか、どうやっていくのかが、まるでわかっていないからだ。そういう時期は誰でもある。若いうちは頻繁にそういうことに悩むものだ。悩んでるうちはまだましだ。悩むこともわからないようでは、海外生活には向かない。なぜなら、そういう時期は自分の国で過ごせばいいからだ。海外へ出てくるなら、目的を持って、高い理想や夢の実現のために海外生活を生かして欲しい。何をしていいのかわからないなら、海外に出ても結果は同じだとわたしは思う。つまり、自分の国で、日本でがんばれないようなら、他の国で成功するチャンスは確実に低いからだ。ただなんとなく海外に来て、大きな収穫を得ようなんて、うーん、ちょっと勘違いだと思う。海外生活はそんなに甘くない。少なくとも、自分で自分を大切にすることを知ってから(こういうことは教えもんじゃないんだけど)海外に出てきて欲しい。自分の健康管理、お金の管理、学生なら学業とプライベート、仕事なら仕事とプライベートの両立、平日と休日のバランス、責任を果たしながら適度にストレス解消するとか、予定を立てて着実に実行していくとか、そういう、積極的な自己管理がきちんと出来るような人に対して、周りは確実に敬意を払う。長い付き合いになればなるほど言えることだと思う。こういうことは年齢とは関係ない。19 才でもこれらをきちんとこなす人を知っている。わたしは日本人に生まれた自分を誇りに思うし、日本人というだけで、海外生活でも何度となく「おいしい思い」をしてきた。しかし、ナメラレテル日本人もまた数多く見てきた。それは彼らに「誇り」「自尊心」「目標」「規律」「しつけ」とかそういう、他人が敬意を払うべきものを持っていないからだ。どんなに遊びに行きたくても「ごめん、お金を使いたくないから今日は行けない。」って言う人を笑う人はいない。逆にそれで笑うような人と友達でいる必要なんか全然ない。留学先で、一緒に授業をサボって喫茶店でお茶しようって誘われたとき「うーん、でも今学期はオールA狙ってるからどうしても授業には出たい。ごめんね。」っていえるような、それでも友達でいられるような、そういう強い人に海外に来て欲しい。そういう人に敬意を払うことはあっても、なめることはない。海外ってそういうところだと思う。
2003年03月19日
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Long time no see... My life gets busy these days since I got a part time job in the university teaching Japanese ’in English’.. My Chinese language school is also for everyday, Mon-Fri. Besides, I go to the gym near by everyday Mon-Fri in the afternoon. Other than those, I’m a house wife. Doing laundry, sweeping floor, cooking everyday.. I have a lot of stuff that I’d like to write on this website, but I just don’t have enough time. I met a girl recently who is a Japanese, pretty face, around 25 years old female. She is "fine." I mean, decent, sweet, not weird, humble, moral, and well-educated. I like her basically since I’ve met a lot of strange Japanese overseas, I kind of felt relieved that I could still meet such a nice Japanese outside of Japan. However, I kind of start to feel annoyed to get along with her last couple of days.. Why?? The answer is that she is too innocent for me so that I have difficulty to enjoy conversation with her especially when the conversation goes to ’Being Honest with Yourself’ kind of contents. Let me tell you the example.Two days ago, on Saturday night. I and my husband invited her for dinner because her boyfriend had some kind of party. She looked depressed when she might be going to that party, so I suggested to come over to my apartment to have dinner with us. I tell you, it’s not fun at all when the party goes on with the language you don’t know. Believe me. I & my husband speak in English for each other and if the guest can join us, there is no problem for us. So, she came over. My husband is a great cook in terms of creativity and balance of the course. He cooked Italian seafood rissotto baked in the oven, served with grilled fillet of fish on the top, side dish of stirred vegetables with Korean beanpaste (hot) sauce. I contributed ceaser salad of table side service when the guest was at the table. We open the crispy Chardney and empty it in an hour. It was such a delighted dinner which we used to have in NY... My friend was so entertained that she looked carried away a bit. My husband told me later that she might’ve not been having good time these day so that she could be easily laughing at the topics that we talked. It was OK, you know. At least she looked happy. However, there were some strange moments that I cannot help noticing about her. For example, my husband and I often talk about politics, history, ecology, economics, educational systems in different countries, and so on. (Well, it’s probably not very fun for some people to talk about those at the dinner table, though) When one of the topic went to human nature or something, my husband suddenly mentioned something that our guest wouldn’t know about. It was from the story of Star Trek, Voyager. Well, we are big fans of Star Trek, Voyager for last several months that we look for 8pm every mon-fri to see the program after dinner. When my husband took some example from the TV story, I, of course, understand right away since we watch together every night. However, I’m sure that our guest doens’t know about it. When my husband was still quating from Star Trek, I saw my friend nodding deeply as if she totally agreed with my husband, then I interrupted my husband to ask her a question. ’Do you know Star Trek, Voyager? Have you ever watched the TV program?’ Then her answer was no. She had no clue what the Star Trek was. But my husband was talking about some crew members in the Star Trek for a while alraeady and she didn’t even show puzzled face or anything. It was not a matter of English listening comprehension, I guess, because we have been enjoying our conversation pretty well so far. So, why does she show her understanding or agreement when we talked something that she had no clue??Actually, this is not the first time I see such behavior among Japanese people, both male and female. I have some foreign friends whose English is not very good, but I never had such impression on them that she/he shows total agreement when they don’t know what’s going on. Why Japanese like to show ’Understanding’ or ’Agreement’ so much?This is definitely cultural. There are several reasons that I can come up now. First, she doens’t know, but she doens’t care because she just want to finish this topic. Second, she doesn’t know but she wants to pretend that she knows. Third, she doens’t have any other comments or opinions, so she cannot interrupt anyway. Fourth, she thought it’s rude to interrupt my husband asking ’Er... what is Star Trek??’ Fifth, she thought she would understand if she listens more. etc... How do you think? In any case, my conclusion is she shows lack of confidence of herself behaving such. Japanese people like to agree with anyone. This is totally humiliating. When you agree with something, please consider what you are agree with. If you’re not sure or simply don’t know, just say ’I don’t know’ or ’I never thought about it.’ Japanese society is built on disagreement-free communication, in …
2003年03月10日
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¥tHarry Potter…。結構はまってたりするんだけど、今日は「ほうき」のお話し。そうだよ、Harry がまたがるあのほうき。¥t実はウチにはソージキ(掃除機)がない。いまどき掃除機のない家なんてあるのかなあ、日本では。私は掃除機のない生活をはじめてかれこれ 1 年になろうというこのごろ。ふと考えたことがあるので、書いてみることにしました。あのー、言っとくけど掃除してないわけじゃないよ!! 掃除機を使わない現実的な理由があるんです。1. 彼の家に引っ越したとき、アパートが小さかったのでクイックルワイパーで十分だった。2. カーペット、じゅうたんがない。(床は石っていうか、タイルっていうか)3.彼の実家のお母さんも掃除機を使っていない。4. 節約(掃除機代、光熱費)のため。¥tじゃあ、どうやって床を掃除してるかっていうと、「ほうき」なんだ、これが。「ほうき」と「ちりとり」使って家のなか掃除してるんです。自分で言うのもヘンだけど、「ほうき」と「ちりとり」なんて、公園の清掃してる人なんかが使うもんだと思ってた。(ところで、「ちりとり」ってなんかカワイイ発音。)ウチで使ってる「ほうき」と「ちりとり」はセットになってて、ちりとりの柄の部分が床に垂直になが-くてあたしの手のところまで伸びてる(だから、ごみを取るときかがまなくていい)。「ほうき」のほうは、幅は広いんだけど、厚さがとっても薄くて、お人形の髪の毛みたいに栗毛色でつやつやしてる。この「ほうき」と「ちりとり」はジョイントする部分があって、くっつく。だからしまっておいてもなんだか Neat。そうそう、ディズニーランドでお掃除してる人たちが使ってるようなやつ。ちなみに私の床掃除の全工程を紹介すると、まず「ほうき」を使って目に見えるごみやほこりを丁寧に取る。クイックルワイパーを使って、「ほうき」が届かないベッドの下とかテーブルの下を含めてすべての床をもう一度お掃除する。こうやってほとんど埃らしきものがなくなったら、「モップ」の出番。今のアパートには前に住んでたフランス人がおいてったモップ搾りがある。基本的には四角いバケツ形で、足でペダルを踏むと 2 つあるローラーが接近してきて、2 つのローラーの間にモップを入れるとローラーが左右からモップを押すので、じゃーっと搾れるようになってるやつ。そのモップ絞り機の中に、床掃除用の洗剤を水で泡立てて、モップをその中に入れる。ローラーで固く搾ったら、すべての床をモップで拭いていくわけだ。これがねー、ほんとに床をキレイにするんだわ。キッチンの床なんて毎日のように黒い斑点ができていく。だってもとの床が「白い」んだもん。油や水が落ちたところをあたしがスリッパで歩き回るから、極端なときは、夕飯ごとに床がきったなくなる。それをモップは一瞬で元通りの白い床にするから小気味いい。今回は別にモップの自慢したいわけじゃないんだけど、モップで掃除なんてしたことなかったから、結構気に入ってる。モップで拭いたあとの床は当然濡れてる。このときにじたばたしないで、ソファにでも座ってゆっくりテレビでも見ながらお茶でもすする。そうすると乾いた床は Sparkling よ。たまに、お客が来たりすると、妙に床が気になる。まあ、またモップでさっと拭けばいいんだけどさ。¥tところで、「ほうき」の話しだけど、「ほうき」っていうのは結構トリッキーな道具で、私の個人的定義からすると、「怒ってるときには使えない」代物。なんとなく「むっ」としてたり、忙しいときに使ってもだめ。逆にいうと「平常心じゃないと使えない」道具だということを最近発見した。理由?それは「ほこりが舞っちゃって、集められない」から。試しに「むっ」としてるときにほうきで掃いてみた。全然ダメ。2 分くらいして、おかしくなっちゃった。だって、全然掃除になってないんだもん。ほうきを使ったことない人、または使ったことはあるけどあんまり覚えてない人は想像力を働かせてほしいんだけど、「ほうき」は「行き」は床の上を「帰り」は宙を舞うわけだから、「行き」にせっかく集めた埃を「帰り」に散らかしちゃったら掃除の意味がないわけで、この「ほうき」が宙を舞う「帰り」の状態のときに私の精神状態が問われることになる。「忙しい」「機嫌が悪い」「焦ってる」「怒ってる」「混乱してる」「放心してる」なんてときは無意識に動作が速くなるのか、雑になるのか、まあ、他のことに集中できないんだよね、きっと。そうすると、どんなに自分ではゆっくり、きちんと掃除しようと思っても、ぜーんぜんうまくいかない。逆に「悩み事がない」「ストレスもない」「考え事と言えば今日の献立くらい」「特に楽しいことがあったわけじゃないけど、不満もない」なんていう「平常心」に極めて近い精神状態のときは、「ゆっくりきちんと掃除しよう」なんて意識もしてない。でも、埃はきれいに集まるし、簡単に取れる。ほんとなんだってば。¥t「ほうき」で掃除をするときの最大の山場はなんといっても集めたほこりを「ちりとり」に入れるとき。これもね、「行き」と「帰り」の呼吸が乱れると Disaster。せっかく「ちりとり」に入れた大きな埃のたばが、「帰り」のときに「ほうき」にくっついてきてまた「ちりとり」の外に出ちゃったりとかするんだよ。これは痛い。たまにその埃のかたまりを「ほうき」からマニュアルで剥ぎ取ることもある。つまり「ほうき」っていうのはシンプルで古典的で、知名度も高いし、誰だって使えそうな代物に見えるけど、あれでなかなか使う人物を選ぶわけだ。「しょちゅうイライラしてる人」にはまず無理だと思う。うそだと思ったら一度是非試していただきたい。テクニックの問題じゃない。あんなシンプルな道具、小学生だって使える。埃がちっとも集められないようだったら、「帰り」に「ほうき」が宙を舞う状態に注目してほしい。今せっかく集めた埃を再び散らかしていないだろうか。たかが「ほうき」とは言えなくなる。¥t「ほうきで掃く」という仕事は奥が深い。まず、「ほうき」を使える環境が必要だ。周りに子供なんかがいたらまず使えないし、そばに誰かがいてもやりにくい。その人に埃がかかっちゃうような気がするし、せっかく掃いたところを行き来されるのもおもしろくない。さらに、「ほうき」で掃くときには必ず埃が舞う。だから「窓を開ける」とかの換気も必要になる。掃除機ならばほこりが立たないので、窓を閉め切っていてもできそうだ。冬場は重宝しそうだが、冬でもやっぱり換気は必要だ。「ほうきで掃く」と、必然的に換気をすることになる。そして「ほうき」を手にして床を一心に見つめるとき、それはまさに「禅」の世界。埃を集めることにのみ精神を集中し、「ほうき」の「行き」と「帰り」の動きに細心の注意を払う。現代のこの「くそ」忙しい世の中で、「ほうき」の動きに、集められていく埃に、そしてきれいになっていく床に真剣になる私を笑ってくれて構わない。自分でも書いてておかしいんだ、実は。ただ、私にとっては大きな発見で、最近はむしろ、「ほうきで掃く」ことで、自分の精神状態を測ったり、ヒーリングにもなってる。「ん?今日はなんか乱れてるなー。無意識になにか気になってることがあるかも。」とか、「あー、やっぱなんかストレスがたまってるんだー。意識してゆっくり掃いて見よう。」なんてやってるとしまいにはだんだん落ち着いてくる。「禅の世界」って書いてみて思ったんだけど、お寺の境内って竹ぼうきでよく掃いてるお坊さんとかドラマでみるじゃない?あれってやっぱ修行の一部じゃないのかな。「ほうき」ってただ動かしててもダメっていうのは 1 分もやってれば誰だってわかる。本気で「ちり」を集めたいなら「ほうき」の「行き」と「帰り」の動作(方向、スピード、力加減)、さらに集中力なんかが一体にならないと、極めて非効率的な道具なのだ。¥t「ほうき」の話しでこんなに書けるとは正直思ってなかったけど、どんなささいなことからも、発見はあるものだ。「ほうき」って地に足のついた生活をしていないと、決して使いこなせない、けったいな代物なのだ。ところで、昔の日本人は掃除機を使わないで「ほうき」を、クイックルワイパーを使わないで「ゾウキン」を使って床を掃除していたはずだ。彼らの生活は私達の今の生活よりシンプルだけど demanding だっただろう。物質的にも精神的にもミニマリズム。今の私達の生活には彼らが決して持つことのなかったテクノロジーが山のように溢れている。コンピュータ、電子レンジ、冷蔵庫、テレビ、ビデオ、オーディオと切りがない。それらを利用して昔の人たちより便利な生活、ゆとりのある生活を楽しまなければ、はっきり言ってそれらハイテク製品を使う意味がない。何が言いたいかっていうと、今回の「ほうきの生活」のポイントは、「ゆとりある生活を享受しようじゃないか」っていうこと。今の時代、肉体的にゆとりのない生活(飢餓とか、炭坑で働くとか)っていうのはあんまりないから、精神的ゆとりが叫ばれるンだと思うけど、日本人って『ホンッとに!!』忙しい国民だと思う。忙しくないと Loser なのかな。そういうイメージないですか?次の約束、次の予定がないと急に焦りを感じたり、むなしくなったり。あたしは自分が日本に住んでたときそうだったよ。それに海外に住んでるからたまに日本に帰ると人の忙しさに圧倒される。東京なんて人間らしさを感じられないほど。それが東京のキャラクターでもあるのかもしれないし、逆に楽しんでいる人もいるかもしれない。でもあまりにも自分の忙しさに追われ過ぎて一緒に電車に乗ってる小さい子供やお年寄り、大きな荷物を持ってる人や妊婦さんなんかをケアしてあげる余裕のある人なんて一人もいないんじゃないかと思えてくる。ケアしてあげるどころか、満員電車に乗って来るそういうマイノリティを「何でこんな時間にでかい荷物で乗って来るんだよ!」みたいな敵意すら感じる。そういう私も敵意を抱いたことがあるのでわかるのだが、これっておかしいよ、やっぱ。杖をついたようなおじいさんが何も好き好んで朝の山手線に乗ってくるわけがない。きっと人間ドックの予約があるとか、孫の忘れ物を届けに行くとか何か理由があるわけだし、そんなのひとそれぞれ。この辺のいわゆる Humanity が日本人には希薄な気がしてならない。忙しいのも結構だが、人間性を失うほど忙しいのもどうかと思うし、忙しさは自分でコントロールできると私は信じている。自分の時間、自分の人生なんだから、何が自分にとって必要で大切なのかは自分で決めたい。選択する意志があれが、必ずできる。要は選択する意志がどれほど強いかという問題だ。「うーん、でもまあ周りも忙しいのに自分だけってわけにも行かないし…」「自分がやらないとやれる人がいないし…」なんてあたしには全部いい訳と意志の弱さの暴露にしか聞こえない。結局「他人の目」の方が「自分の人生」より大事っていうことでしょ?もしくは「この仕事を他人と共有したくないエゴ」の現れとか。本気で自分の人生を豊かに充実したものにしたいと思うかどうかは本人次第。¥t 随分言いたいこと言いました。今回も。でも日本ではそういう気持ちというかスピリットを持っている人があまりにも少ないのも事実。要するにロールモデルがいないんだよね、きっと。「あー、あたしもこんなゆとりある人生送ってみたい」っていうモデルが。天井の高い大きなリビングリームに薄いプラズマ テレビを壁にかけて、イタリア製のソファに座って紅茶を飲みながら DVD を見る。こういう生活にゆとりを感じる人が多いのではないでしょうか。とっても『日本人的な』ゆとりある生活って感じ。あたしが思ってるゆとりある生活っていうのは、「ベランダのミントが大きくなってきたから、大きめの鉢に植え替えないといけないな。」とか「あしたは友達が尋ねてくるか…
2003年01月13日
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My PC is totally down. Now I cannot find any computer around to type Japanese. Until I have someone fix my PC, I’ll be away a while. Thanks for reading so far. Wish you all the best.
2003年01月08日
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¥t前回デンマークのことを書いてたら、Rumania のクリスマスを思い出した。私は東ヨーロッパにあるルーマニアでクリスマスを過ごしたことがある。1994 年のクリスマスだ。なんでルーマニアかっていうと、デンマークの学校で知り合ったルーマニア人とその頃付き合い始めたからだ。デンマークの学校は 12 月に終わったので、そのあと彼のファミリーのクリスマス休暇に招待されたわけだ。彼はお医者さんの卵で医大を卒業したばかり。ご両親とも大学の教授をしてて英語よりフランス語がぺらぺら。弟さんがいて、あたしが初めて訪れた日に紅茶のティーバッグをギフトとしてくれたのを覚えている。なんで紅茶のティーバッグなの?って彼に聞いたら「ルーマニアでは紅茶がなかなか手に入らないんだよ。でもナナが紅茶をよく飲むっておれが前に話したことがあるからだと思う。」って言ってた。なんかとてもありがたくいただいた。このルーマニア人の彼については後日かなりの Mess(どたばた)を引き起こしたのでむしろ思い出したくないが、冬のルーマニアに 2 週間滞在した思い出は特筆に値する。2 週間の間、彼の親戚を尋ねたり、首都のブカレスト(Bucharest)に電車で行ったり、いろんなところへ旅行もしたが、なんと言っても印象深いできごとが 2 つある。ひとつは、クリスマス ツリー、もうひとつは修道院だ。今日はクリスマスにちなんで、クリスマス ツリーについての話。¥t実は彼のおじいさんおばあさんの住んでいた町の名前が思い出せない。とにかく雪の深いところで、駅からは徒歩で 20 分くらいあったと思う。ブーツは履いていたがなかなか前に進まないようなかんじ。誰も雪かきとかしないし、除雪車?何それっていう雰囲気の町だった。「町」っていうけどお店は一軒も見当たらない。平地に一個建の家が道路に面して並んで立ってるかんじ。道幅はある程度広くて車が両方向から通行できるくらいはある。でも、その日は車は一台も見なかった。たどり着くと黒い犬が出迎えてくれた。彼曰く、これは彼の犬なんだそうだ。彼の町の治安が怪しくなったときおじいさんちに連れてきたそうだ。私は犬と遊べる人が好き。自分は自慢じゃないがペットを持ったことがないので、どう接していいのかわからない。嫌いじゃないんだけど、いつも途方にくれたように動物に接している。雪の中彼はしばらく犬と上手に遊んだ。「上手に」っていうのは、犬が喜んでるのがとってもよくわかったから。家に入るとおばあさんがあたたかい飲み物をくれた。ミルク コーヒーみたいなあまい飲み物だった。家はふた棟にわかれていて、ひとつがリビングとかベッドルームのあるほう。もうひとつがキッチンと収納倉のある方。この 2 つを行き来するには外へ出なくてはいけない。トイレ?これも外。トイレまで行くのに雪道をさくさく歩いて行く。キッチン小屋の前に小さな畑があって、そこの端にトイレの小屋が立っている。おじいさんは私のためにトイレまでの道を雪かきしてくれていた。¥t玄関を入ると小さなリビングルームになっていて、天井まで届く大きな鉄の暖房が部屋の 5 分の 1 を占めている。部屋の右手にはドアがあって、開けるとベッドルームだった。ベッドルームは部屋の 3 分の 1 がベッド。そのベッドの前には クリスマス ツリーが立っていた。彼は「これはナナのために彼らが特別に用意したんだよ。」って言った。ベッドに腰掛けてツリーをまじまじと見た。まじまじと見ないとこれがクリスマス ツリーなのかどうかよくわからなかったから。「寒そうな木」が部屋の中にあるっていう印象。高さは私の身長ほどあったが、とにかく枝が細くて数が少ない。さらに葉っぱがほんとに少ない。私のクリスマス ツリーのイメージっていうのは、深い緑色の葉っぱが、幹や枝を覆い隠すように茂っていて、星とかキャンドルとかを重そうにつけているやつ。時代物のオーナメントを合計 10 個くらいはつけていただろうか、目の前のクリスマス ツリーがあまりにも、あまりにも貧弱でしばらくの間、ショックを隠しきれなかった。彼は「電気もつくと思うよ」と言って電源を入れてくれた。ついたり消えたりする電気じゃないが、電気がついてようやく「クリスマス ツリーだ、これ。」って思った。でも、そのたかだか 30 個くらいの電気がまぶし過ぎると感じるほど、木が貧弱だった。こんなクリスマス ツリーを見た事がなかった。こんなクリスマス ツリーを飾る人たちがいることを初めて知った。私は「肥えたもみの木」しか知らない自分を世界一幸せな環境で育てられてきたような気がした。夕飯は彼と私で作った。クリスマスだと言う事でポークをガーリックで炒めたような気がする。量も少ないので 4 人で分け合って食べた。キャンドルの灯りだけの夕飯の後、彼が持ってきたワインを飲みながら、おばあさんは「何でもいいから歌を歌ってくれ」と私に頼んだ。「歌…ですか?」初対面の人の前で歌を歌うチャンスは今までなかったのでちょっと考えたが、デンマークの学校ではさんざんみんなで歌を歌ったのでそのうちの一曲を披露した。おばあさんは私が歌うのをじっと聞いていた。歌い終わると彼が「おれのおばあちゃんは、歌を歌える人は心がきれいな人だって思ってるんだよ。」と言った。そういう彼は歌がまったくだめ。オンチを通り越して音になってない。私は「そうか、行くとこに行けば『歌が歌える』っていうことがすごいことになるんだ。」って思った。おじいさんはもう眠っていた。私もベッドルームへ戻り(実はこのベッドルームはいつもはおじいさんとおばあさんが使っている。今日は特別に私に提供してくれて、彼らはリビングのソファに眠ってくれたのだ)薄い布団の中へもぐった。もう一度クリスマス ツリーの電気をつけてみた。ベッドから真っ暗な中でこのツリーを見ると、ほとんど木そのものが見えない。電気だけが暗闇に浮かび上がって点灯しているようなかんじだった。涙が止まらなかった。この家に来てからずっとこらえてきたような気がした。彼らはテレビで見るような飢餓に苦しんでいるわけでもなく、戦争状態にあるわけでもない。私がここに住むわけでもないし、彼らに同情する気はない。安っぽい同情心を持つほどおごっていないし、かといって私にできることなんて何もない。ただどうしようもなく惨めな気持ち。この高齢になってこういう厳しい生活をしている彼らが存在しているということ、蝶よ花よと育てられ、思いきり好きなことだけをして暮らしてきた自分とのギャップが、もう私の許容できる限界を超えていた。¥t私は彼らの生活を変えることはできないし、そんな気もない。こういう状況の人たちに偽善的な人って吐き気がする私。かと言って自分の生活環境を変える気もないし、ましてや彼らのような生活を真似るなんて彼らをばかにしてる。じゃあ、私がルーマニアでクリスマスを終えて帰ってきて何か変わったことがあるかって考えると、ある。ひとつだけ。それは自分の立場や環境を当たり前だと思わなくなったことだ。このクリスマス ツリーを思い出すたびに今ある自分に感謝せずにはいられなくなる。私が健康で安定した生活を持ち、箪笥には洋服があり、財布にはお金が入っている。お腹一杯好きなものを食べることもできるし、いつだって紅茶も飲める。こういうことに私はたまにものすごく感謝したくなる。こういうことが当たり前でいられることに泣きたくなることがある。ルーマニアの「クリスマス ツリー後遺症」はいまだに残っているような気がする。
2002年12月26日
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デンマークにいたとき、Anya(アンニャ)って言う子と仲がよかった。彼女はデンマーク人でそのとき 18 才くらいだったかなあ。顔が細くて長い髪をちょっと赤毛に染めてた。ある日の週末「ナナはこの週末どうするの?」っていうから「別に、何も予定はないよ。」って言ったら「じゃあ、招待するからウチへ来て!」って言われて一泊二日で彼女の家を訪れた。超やさしそうなお兄さんが駅に迎えに来てくれて、行った先は典型的なデンマークの家。ちょっと小太りだけど「痩せたらきれいな人だろうなあ。」っていうおかあさんがいつもにこにこしてて、最近身長では息子に追い越されたっていう背の高い痩せたおじさんがおとうさんで四人家族だった。家の中をお父さんに案内してもらってる間、お母さんはデンマークの名物料理をいろいろ作ってくれていた。なんか田舎のおっかさんって感じのおかあさんが作ってくれたローストポークや赤キャベツ、しんじゃがポテトはいまだに忘れられない。一見どう見ても「古いタイプの家族」だと思うでしょ?ところがところが、これからがデンマークらしいエピソード。夕飯を食べ終わると Anya のボーイフレンドがやってきた。背が高くてきれいな Anya には「ちょっと」っていうくらい背が低くて印象の薄い彼だったが、なんとその彼とお父さんが一緒に台所に立ち、皿を洗い始めた。あたしは「この彼、皿を洗いに来たのか!」って思ったほど驚いた。もちろん Anya に会いに来たんだけど「ついでだから…」って。驚くあたしに気がついたのかお父さんが「日本のボーイフレンドはお皿なんか洗わないの?」って聞くから「見た事ない。」って答えた。その頃つきあってた彼に食事を作ったことはあったけど、洗い物してもらったことなんかない。ましてや自分が食べていない食器まで洗ってる…。お父さんが食器を洗ってるのにも驚いた。別にあたしがいるからやってるわけじゃなく「自分は料理が苦手だから」って一言。とっても印象的だった。さらに食後、リビングに移ってみんなで話しをしていたときお父さんに「お父さんの職業は何?」って聞いたら「大工だ」って言う。きっと「大工」っていう職業に縁のない私は「え?」っていう顔をしたんだと思う。お父さんは「好きなことを仕事にできて楽しいよ。」って言った。あたしはこの小太りでにこにこしてるお母さんに職業があるなんて考えてもみなかった。だからお母さんに同じ質問はしなかった。するとお父さんが「それに、ワイフが銀行の副支店長だから、収入はそっちに任せてるんだよ。はっはっは。」って言うじゃないか。『なに!このおっかさんが銀行の副支店長だって-?』あたしは心の底から「人って見かけによらない」って思った。お母さんが働いてる銀行はあたしでも知ってる有名な銀行で、Anya の住む町では一番大きな銀行だった。彼女はそこの副支店長。そしてご主人は大工さん。もうほんとにデンマーク人って…ってつくづく脱帽だった。翌日 Anya とご両親に地元の観光地を案内してもらった。「ここはギネスにも載ってるのよ!」なんてお母さん相変わらずにこにこだった。そのお母さんと 2 人で並んで歩いていたとき、なぜか Gender Politics の話題になった。お母さんはきっとその頃典型的日本人女性の看板背負って歩いてたあたしに興味があったんだと思う。Anya のお母さんは「日本では女性は女性らしく、男性は男性らしくって育てられるの?」って聞かれたから「そうだと思う。」って答えた。事実そういうことに私の母も祖母もとてもうるさかった。だから「これは女性ならやるべき、これは男性だからやるべきっていう暗黙の事柄がある」って答えた。それを聞いてしばらくして彼女は「私はね、上の男の子が生まれたとき、とにかくやさしい男の子に育つようにできるだけ注意したの。だって男の子はそれだけでとても強いでしょ?だからやさしさや思いやりを第一にって。そして Anya が生まれたとき、この子にはとにかくたくましい女性に育つように注意したわ。だって女性はまだまだ弱い立場でしょ?この世の中で幸せを掴み取るのにはやっぱりある程度のタフさが必要だと思って。」このお母さんのセリフには圧倒された。とっさに「日本とは逆だ。」って思った。男の子は強くて当たり前。だからやさしさとか思いやりのある子に育って欲しい。女の子は弱い存在。だから自分の幸せを掴み取るたくましさを養って欲しいっていう考え方。私は自分に子供ができたら、こういう風に育って欲しいと心から思った。Anya とお兄さんがお母さんの理想通りに育ってるのをみてつくづく思った。このお母さんのセリフは実はあとから何度となく思い出した。そのときはたぶん「日本とは逆だ」っていうことに単純にショックを受けた程度だったが、そのあと日本へ帰り、日本の Gender Politics について随分考えさせられた。「男の子は社会的に強い存在だから、できるだけやさしく。そして女の子は社会的にも肉体的にも弱い存在だからできるだけたくましく。」このセリフはまさに観念先進国デンマークを最も私に印象付けた言葉のひとつだ。彼らは自分たちの考え方が進んでることをひとつもひけらかしたり自慢したりはしない。だからそんな印象は薄い。しかし、デンマークのように牧歌的農業国で、アンデルセンが有名人なんていう国からは想像もつかない素晴らしい Gender Politics が国の隅々にまで行き渡っている。ちなみにデンマークの国会議員は男性より女性のほうが多い。最年少の判事はバツイチで子持ちの女性。そして週末になるとクラブやバーへ行くのは女性が多く、男性をピックアップするんだそうだ。男性はナンパされるのを待っているらしい。(これはデンマーク人の男の子達にも聞いて確認をとったので間違いない。)一見、日本よりテクノロジーや流通で遅れていて、世界の最先端を行っているとはとても思えないデンマークが、Gender Politics ではすでに日本の逆までたどり着いていて、それも遅かれ早かれ飽和状態になるだろう。ちなみに日本で女性国会議員の数は 10% 以下だ。先進国のなかでは驚異的低さ。私は個人的には、デンマークに限らず、北欧や西側ヨーロッパ先進諸国は考え方、モラル、価値観、公正さ、義理人情なんかにおいてはアメリカの比じゃないと思っている。うまく言葉にできないがとにかく進んでいる。一度行けばわかる。リベラルというか水準が高いというか。だって銀行の副支店長してるおっかさんがデンマークの伝統料理を上手に作る。大工をしてるお父さんはそんな奥さんを誇りに思い、夜は食器を洗う。そんなことを当たり前にしているアメリカ人をあたしは知らない。そして彼らはけっしてコスモポリタンでもなければ、キャリア思考のニューヨーカーでもない。お洒落な最先端の人種ではないのだ。コペンハーゲン(デンマークの首都)から電車で 5 時間も離れた田舎に住むごく一般的な家庭なのだ。恐るべしデンマーク人。この家族のアイデンティティはいまだに私の記憶に新しく、鮮明な印象を残している。今から丁度 10 年前のデンマークの田舎での話しだ。
2002年12月23日
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ここ最近気合を入れて日記とは思えない深い事柄に触れていたので、ちょっと休憩したくなった。とか言って今日もちょっと哲学的かも。だいたい「哲学」っていう言葉のイメージ自体カタイ。きっと哲学がピークだった時代の哲学者があまりにもわけわかんないこと言い過ぎて、そのイメージがいまだに付きまとってるんだと思うんだけど。ギリシャ哲学なんていいですよねー。かわいくて。この世の中がなにでできてるかとか何から始まったかとかさ。まだキリスト教がなかったころの人たちだからやたらシンプルでわかりやすい。哲学はキリスト教と出会って災難だった。災難でもないか。キリスト教のおかげでうんと発展したっていうのも事実だし。でも、神様のことを説明しようとして哲学を使うっていうのは今の時代で言うと科学の力で神の存在を証明しようとするのと同じだよね。どんなに哲学や宗教学に縁がない人でも「アリストテレス」は知ってるでしょ?プラトンの弟子だったんだけどプラトンに同意できなくて独立して自分のアカデメイア作った人。あたしはアリストテレスって好きだな。プラトンよりドリーマーでもないし理想家でもない。もっと今で言う「現実的」。花を見て「花の神よ」とかいって詩を作るより虫眼鏡で「花びらが何枚ついてるか」調べるみたいな。アリストテレスもプラトンもキリスト教以前の人だから、キリスト教が勢力を伸ばし始めたころにはすでに過去の人もいいとこですっかり世の中から忘れ去られていた。ところがこのプラトンとアリストテレスを再び哲学のステージに呼び戻す人たちが現れた。彼らは自分たちのキリスト教的「真実」とプラトンやアリストテレスの考えた「真実」に共通点を見出すことでキリスト教を「時代を超えた普遍の真実」にしようとしたわけよ。わからなくはない。キリスト教を知らない時代の人たちが唱えてたことがのちのキリスト教と一致すれば「神は唯一普遍のものって言える!」って思ったわけですよ。「ほおらー。ジーザスを知らない人たちだって聖書と同じこと言ってるよ!やっぱり神は唯一普遍なんだ。」みたいな。トーマス アクイナスっていう神学者がアリストテレスをうんと研究した。そして「えーっとここも共通してるでしょ。あとこれも同じ意味でしょ。」ってやった。まあ、アリストテレスにしてみりゃ「うーん、別にそういう意味でもないんだけど。」っていうこともトーマス アクイナスはすべて自分に都合のいいように解釈していった。アリストテレスはプラトンと違っていろんな話題の本をたくさん残してるんだけど、その中のほんの一部をご紹介すると、アリストテレスは「この世の中の始まりになるモトっていうのは、ある特定の条件が備わったものだ」って言った。アリストテレスは前述の通り、とても研究熱心な科学者だった。だから花の種が芽を出すこと、せみが抜け殻をやぶって表に出てくることなんかをすべて「何らかの力が働いているから次のステータスに移るんだ」って考えた。この世の中で変わらないものはないっていうことを考えたんですよ。例え大岩のように見た目にはちっとも変わらないようなものでも雨の浸食とかで絶対に変わっていく。アリストテレスは、この「他を動かす存在」っていうのをどんどんさかのぼっていくといづれ「この世のモト」に行きつくって考えた。でもアリストテレスによると、この「モト」になる存在は他の存在と唯一異なる点が 1 つだけあった。それは「モトっていうのは他を動かすことはできるけど自分は動かされない」っていうことだった。つまり「モト」が誰かから動かされちゃったらそれを動かしてるものが「モト」より以前に存在することになっちゃうから。これがアリストテレスの言う「Unmoved mover(動かされずに動かすもの)」で、この世の「モト」「源」「素」「元」。理屈ではなんとなくわかるんだけど、じゃあ具体的には何?ってことになるんだけど、アリストテレスはそれもちゃんと説明した。彼は「それは絶対に美しいものだ」って言った。例えば山の手線の電車に乗りこんだ途端に「はっ」っとするほどきれいな人を見たとしましょう。彼女はまったくこちらの存在にはきがついていない。でも、見てるこっちはなんかどきどきしてきちゃって彼女の持ち物とか服装とかメイクなんかも一生懸命観察する。そして「そうか、あんな色のアイシャドーも使ってみたらきれいかも。」とか思う。そして翌日には自分も同じような色のアイシャドーにトライしてみる。こうなると「はっ」とするほどきれいだった彼女は「Unmoved Mover(動かされずに動かすもの)」でそれに影響されたあなたは新しい色のアイシャドーを真似することによって自分に変化をもたらしたわけです。これはまさにちまたの具体例だけど、アリストテレスはモトになってる存在とはそういうものだといったわけです。つまり、モト自体はただ「絶対美」として存在するだけで、まわりはそれを見て動かされる。アリストテレスはこの「絶対美」以外のものは「Unmoved Mover」にはなり得ないと考えたわけです。なんかロマンチックだと思いませんか?アリストテレスって。のちのトーマス アクイナスはもちろんこの説を多いに利用した。「神は絶対美である」ってな具合に。アリストテレス Meets トーマス アクイナスで「神は美しい存在だ」ってことが証明されたことになった。ちなみにこれを教えてくれた NYU の教授は、この話しの締めくくりとして、「っとまあそういうわけで、もしあなたが自分の美しさに自信があるのなら、絶対に彼に電話をしてはいけません。彼は必ずあなたに電話をしてきます。」と言った。
2002年12月20日
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