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今、下関まで電車に揺られ移動中です。約7時間半の電車の旅なので、暇なので、ちょっと書いています。今回の韓国の旅は、前半釜山、慶州、その他いろいろ回って、しばらくソウル滞在、西まわりで南へ帰っていくという旅にするつもりで、その日の気分任せです。おそらく、八月末まで居ると思います。今日の夜は既に韓国洋上ということで、オリンピックの最後まで多分見ることが出来ない。仕方ない。此処までで、オリンピックの「総括」をしたい。先ず、柔道。北京以来、柔道がつまらなくなった。元柔道少年として、残念でたまらない。相手がいくら逃げようとも、以前の山下、田村、井上、古賀、鈴木らは、技の切で勝っていた。一回戦二回線は問題にもしなかった。ポイントを取る柔道になって、つまらなくなった。サッカー。男子はサプライズである。スペイン戦が今のところ全てだった。決勝進出は十二分に勝機がある。女子は、ブラジル戦が素晴らしかった。次第と、調子が出て来ていた。フランス戦を生でみた。歴史に残る死闘でした。サッカーの神様が日本についている。アメリカ戦を見ることが出来ないのが残念でならない。ところで、アメリカVSカナダ戦は睡眠時間一時間になりながら見ました。アメリカも死闘の末にかちましたが、サッカーの神様は明らかにカナダについていたのです。よって、実力ではやはりアメリカが上ですが、なでしこが勝つと私は確信して渡韓します。このオリンピックで、初めて卓球をしっかりと見た。正直に言うと、石川佳純選手のファンになりました。卓球というものは、単に体力や技術の問題ではない、あそこまで戦術で変わるということを初めて知った。19歳の佳純ちゃんがそれが出来ていることに驚いている。佳純ちゃんは、恥ずかしながらタイプなのだ。凛々しく、純粋で、強く、儚い。デビューのナタリーポートマン、シャーリーズ・セロン、初期の宮崎あおいも、やはりそうだった。何度も言っているが、私は少女が健気に頑張る姿に弱いんです。佳純ちゃんが、ずっと厳しかった表情が、勝った瞬間ぴょんと飛んで天然に喜ぶ姿が大好きです。中国戦を見ることが出来ないのが残念でならない(^_^;)。
2012年08月07日
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12月30日(土)晴れ 最終日朝、フェリーは下関港に着いたようだ。風邪気味の体調は万全とはいえないが、だいぶ取り戻した。本当は今日は下関の古墳めぐりを計画していて地図まで持ってきたのであるが、あきらめる。フェリーのコンビにはウォン立てなので朝食とお土産の残りを買った。スナックが美味しかったので箱ごと(15個いり)を買ってお土産にすることにした。このほうが海苔よりよっぽどいいと思う。税関で初めての事件は起きた。コンビニで肉を買ったのであるが(どうしても肉らしい肉を食べたかったのである)、なんと税関入り口で可愛いお姉さんが「生肉や肉製品があったら申告してください」と立っていた。私は「つい」正直にも申告してしまった。「ああ、これはダメですね」と可愛い声で仰る。「せめてお別れに写真だけでも撮らせてください」と言って撮ったのがこれである。ぶれていて、しかも(品物を撮るという名目だったので)お姉さんの顔が写っていない。それなのに撮り直しを申告できないところに、私の「小心」なところが現れていると思ってください。事件はそれだけでは終らなかった。帰りは下関から鈍行で倉敷まで戻ったのであるが、広島を通り過ぎた時に二回目の乗換えを終えてふと帰る直前両替をした「130万W」の札束の入った封筒を確かめると「無い!!」のである。いくら捜しても無い。乗り換えのばたばたの時に、椅子のところにこぼしたまま来たに違いない。私は倉敷駅に戻ったときに直ぐに駅に申告した。万全を期すために駅前の交番にも申告した(拾った人が警察に持っていったら駅では把握できないからである)。三割は諦め、七割は日本人の良心とオモチャみたいなウォン札の形状に期待していた。そしたら無事に駅の車掌さんが拾っていてくれたみたいで後日連絡が来たのであった。改めて日本人でよかった、と思ったのであった(←以前にもあったで)。今回の旅はあまり新鮮なものはなかったかもしれない。代表的な遺跡はあらかた訪ねて、次の課題は考古学者との真剣な討論、あるいは市民と対等な対話を私は求めているのかもしれない。もちろん、そのための語学力は決定的に足りない。その足りないまま、また旅に出るのはまあ無謀としか言いようが無いけど、せっかくできた時間を有効に使わないといけないし……(^^;)。とりあえず、これで2011年12月に行った八日間の韓国旅行は終り、明日たぶん史上最長の韓国旅行にて出かけたいと思います。お土産4,300w 弁当550円 電車代2500円 バス340円
2012年08月06日
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買い物に行く前に食事だ。ホントは最後に真珠食堂に行きたかったけど手荷物もって遠回りは大変なのと、時間的に厳しいので大淵駅に帰る途中で食べることにした。もうひとつはこの旅であまり食べなかった「肉」を食べたかったのである。ちょっと高いけど肉屋さんみたいだ。ここにしよう。ところが入って見て気がついたのは、焼肉定食のように見えたのは鴨の肉でした。鴨肉も一度も食べていないのでまあよしとしよう。日本では鴨鍋はあるが、このようにステーキみたいにするのは無いのではないか。柔らかくておいしかった。駅に帰る途中で気がついたのは、この行列。何かと思えば、テジクッパを食べるために並んでいるのである。韓国に来て、行列のできる食堂を見たのは初めてである。大淵駅から市立博物館に行く大通りの左手にあります。腹はいっぱいだし、時間的に到底並ぶのは無理だけど少し心残りでした。後は買い物の時間。去年あったお茶屋さんが見つからなくて高いお茶を買ったり、欲しい物がどうしても見つからなくて最後の一時間ほどは二キロぐらいあるポリ袋(コチュジャンやお酒やお菓子類を買ったので重たい)を下げて歩いたことなど、色々あるのだけど一切写真はなし。しかも、博物館あたりから風邪のひきばなみたいになっていて、身体がふらふらする。あ、そうそう。大淵駅前の銀行で次回の旅用にお金を九万円両替しました。14.55だったかな。約130万wになりました。重たい荷物を持って、行き倒れになりそうな感覚でやっとのこと港に着く。フェリーに乗ってから同室の人に葛根湯をもらい、夕食もとらずにずーと寝ていました。チャージ5,000 パン1,600 お昼9,000 お土産107,000 フェリー代102,000 飲み物2,000合計 226,600歩数 20,995歩
2012年08月05日
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12月29日(木)晴れ 7日目宿のトイレは少し詰まっていた。道理でトイレットペーパーが来た時に濡れていると思った。やはりそれなりの宿である。沙上駅から華明駅に行き、漁村民俗博物館を先ず見ることにする。場所は駅前というくらいしか分からないので、駅周りの地図を捜したのだが博物館は載っていない。駅のインフォメーションセンターに行って聞いてみることにした。「博物館は何処か教えてください」そうすると、其処に地図が貼ってある。見せてもらった。スマホで地図を撮る。こうやって携帯で撮っておけば拡大縮小で見ることができるので便利だ。これからはそうしよう。(民俗館は地図に載っていないと思ったら手書きで書いていた)歩いて10分。その手前で朝めしのパンを買う。袋つめ途中だったみたいで、手で触ると注意された。クリームがまだ温かい。本当の焼き立てだ。本当はこの「漁村」の回りも歩いてみようと思っていたが、勘違いしていた。周りはビルだらけだった。この博物館には漁労具は少しあるだけ。あとは全部、ビデオや写真、ジオラマだった。いわば、昔の伝統や景観を潰してきた謝罪のために、この立派な博物館を作ったというわけだ。見るべきものはほとんど無かった。ジオラマが豊富で力作だらけなのだが、あくまでもきれいごとだからなのだろう。予定を変えて市立博物館に行くことにした。華明駅から乗り換えなしで大淵駅までいけばいい。思えば93年に行ったきりだ。日本語のガイドブックができていたならばラッキーなのだが。前と違って日本語ガイド(機械)は付いていた。それで初めて知ったのは、この隆起紋土器(旧石器時代)は、やはり粘土を土器に押し付けて焼いたそうである。丹塗磨研土器は鉄分を含んだ泥を表面に塗ってから焼くのだということ。東莱貝塚から製鉄屑が出たというので、そこを調べにきたのであるが、この博物館では三韓時代に分類しており、なあんだという感じ。それなら製鉄の材料が出てきても少しも不思議ではない。ノンポ遺跡(三韓時代)で小さめの甕棺を展示してあった。日本との関連が気になったが、この遺物自体に何の説明も無かった。面白いのはこの三韓時代に偏頭人骨、つまり整形手術をした人骨が見つかっている。整形の伝統はこの時代から始まっているのか。筋金入りじゃないか。頭の良さは頭の形で決まると信じられていたようだ、と日本語ガイドは説明していた(今思うのだが、何を根拠にその時代の価値観を調べたのだろう。眉唾眉唾)。もうひとつ抜歯の習慣も紹介していた。これは日本にも輸入された。抜歯の痛みに耐えた人間が成人の証として村に迎え入れられたのである。一つを選択してもう一つを選択しなかった。これは大変興味深い。金海伽耶(3-4C)の筒型土器。中に玉を入れて振れば音のする楽器だったようだ。どんな音楽だったのだろうか。近現代の部屋は実はこの博物館は一番力を入れているみたいなのだが、なぜか日本ガイドは沈黙してしまった。なんだかなあ。これは昔の南浦洞のジオラマ。この日本語ガイドも今日の収穫だったのであるが、一番の収穫は博物館図書室だったかもしれない。遺跡地図を発見したのである。昨日行った大邱の沙月支石墓群もこんな地図としてみることができる。もっともこれは高層住宅を開発する前の地図なので、これを見ていたとしてもそれはそれで迷ったかもしれない。これを見ると、支石墓は川を隔てた向かい側にももう1ヵ所あった事が分かる。tyそして灯台下暗し、1930年代の釜山や大邱の地図が実はここにあったのである。古書店を捜すのではなく最初からここに来ればよかったのだ。次回はこれを見ながら散策できるかな。売店には、日本語のガイドブックはおろか、ハングルの本さえ売ってなかった。展示品も昔とあまり変わっていない。ところが気がつくと12時半になっていた。あれこれの思惑は放り出して、これからは南浦洞でお土産買いに集中することにした。
2012年08月04日
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街中に古墳?横穴式石室か?と思ったら違ってどうやら18cの氷倉庫だ。この公園からずっと市場が続いている。野菜もある。値段は1円=10W時代のことを考えれば日本ともう変わらない。(私は今のw安はいずれ10Wに落ち着くものだと思っている)まあ、日本のより少しやすいものもあるが。この魚は明らかに安い。日本で言うと秋刀魚の位置づけだろうか。人が寄っている。爆発がしている。何かと見ればポップコーンを作っている。米を持ち寄って作る、昔のやり方である。(私のところではポンポン菓子と言った)日本では民俗館に入る代物だ。写真を一枚撮ると、ひどく怒られた。「闇」なのかもしれない。豚の頭を飾っている店はよく見るが、牛の頭は初めて見た。牛の頭はもの悲しい。市場の外れにこんな「タバン(喫茶店)」があった。昼間に見ると普通のちょっと変わった喫茶店に見える。けれども、一般には売春センターらしい。入る勇気は無かった。バスセンターにもどると釜山行きのバスがあり、直ぐに乗る。かつて知ったる西部バスセンターにもどる。直ぐにしたのは、明日のフェリーの予約を取ること。沙上駅まで降りて公衆電話を探したが、なかなか見つからなかった。電話をするとつながったと思ったら別のところにつながる、ということが二回ほど続いた。諦めず国際ターミナル前の観光案内所にかけてみる。今度はつながった。もちろんここでは予約はできない。下関フェリーの直通番号を教えてもらう。やはり番号違いだった。かけてへんなところにつながった。もう一度かけてつながる。今度は予約が取れた。……結局、公衆電話のボタンはきちんと押さないと番号を押したことにならないみたいだ。日本と違いボタンの感度が良くないのだ。でもこれで予約は取れた。明日は安心して釜山を回れる。便利な沙上周辺で宿を取ることにする。前と違う宿を取ることにした。ポクソンジャン(福城場?)旅館。208番。面白いことにこの旅でとった宿の沙上の二日は208、大邱は308、そしてこの宿も208。25000wで取れたのはみんな8が着いている。最初の最悪の宿だけが203番だった。旅の神様が何か細工したらしい。部屋はまあ綺麗だ。シャワーだけどお湯は確認した。この沙上周辺の旅館は25000wで統一しているのではないか。食事をしに外に出る。ずっと魚系の食事ばかりしていたので肉が食べたい。できたら牛肉が食べたい。それで、ずいぶんとウロウロとした。ここぞ、と思ってはいると「一人ではダメだ」と二回も断られた。この店もそうだ。定食だからと言って一人でOKにはならないらしい。最後にたどり着いたのが駅からバスセンターに出たところにある「イ・ビョンウさんのソルノンタン」店である。不本意ながらしっかりとした肉ではないソルノンタンを頼む。右には過去どれだけテレビや雑誌で取材されたかを書いている。1980年「文芸春秋」が取材してべた褒めしたらしい。確かに不味くはなかった。キムチはとても美味しかった。しかし、あの記者が書いたように「アジアで有名な美味しい店」では決して無い。思うに、まだ韓国に不慣れだった記者は、韓国南部を取材するに便利なこの沙上に宿をとっていたのだろう。そして、この私のように、独りで食事をするにこまっていたのだろう。そういうときにこの店はありがたかったに違いない(キッパリ!)。まだ口が寂しかったので、ファミリーマートでチョウンディとツマミ用のラーメンと海苔を買う。しめて2,900w。お店で飲むのと同じ値段である。ゆっくりと飲めるのでこれでOK。この写真の意味は、実はお気に入りのチョウンディを見せたいわけではなく、その向こうの椅子のデザインと壁紙のデザインが面白いと思ったのだ。この唐草模様はこの宿の趣味かもしれないが、広く韓国で採用されている「意匠」である。さかのぼれば加耶時代までさかのぼる意匠である。日本もかつては孤紋帯があった。今はあまり見ない。この連続性と不連続性の違いはなんだろう。と、つらつらと酔いながら夜は更けていったのでありました。コインロッカー2,000 地下鉄3,600 博物館本とお土産20,400 バス3,000 昼飯5,000 お菓子1,500 タクシー3,600 チャンニョン博物館500 大邱→昌寧3,300 昌寧→釜山6,400 宿代25,000 夕食6,500 酒ツマミ2,900 雑誌3,000 ソックス5,000合計89,700歩数21,162歩
2012年08月03日
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バスセンターのある聖堂池駅に帰ろうとして博物館前からそっちの方向へ適当なバスに乗ったら、反対方向にいってしまった。適当な地下鉄の駅に行き着くだろうと期待したのがよくなかった。とんでもないところに行きそうになったので途中で降りてバスに乗り換えた。これで1時間ロスをした。これは聖堂池駅の地下通路入り口にあった自転車を押して中に入るための通路。日本にもそろそろ増えているのかもしれないが、駅の中に自転車置き場がある。腹が減った。しかしバスに乗るのが大変遅れたために時間はあまり無い。バスセンターとなりの粉式食堂で「20分で食べたい」というと「のり巻きとうどん」というのでつい勢いでOKというと、二つとも出てきてしまった。まあ安くて値段の割には不味くなかったからいいか(二つで5000w)午後からチャンニョン(昌寧)の古墳群を見るためにバスにのる。2:20分に着いた。時間の節約のために仕方なくタクシーを使う。10分もせずに着いた。昌寧博物館。周りは古墳群が囲んでいる。ここからは最後に学芸員の方に質問したことに関連する写真を載せるので見た順番は変わります。チャンニョン古墳群はこの地域に約150基の古墳を擁している。5-6世紀の古墳群である。後期加耶時代であり、建国は金塊よりもずっとあとということになる。墓の製造方法はジオラマでこのようになる。版築方式をとっている。つまり、性質の違う土を交互に入れて踏み固め盛り土の強度を飛躍的に高めるのである。面白いのは、縦のみではなく、回りもこのように土を変えている。このほうが強度が強くなるらしい。墓の周りの下側は石で囲んでいた。これも墓が崩れないようにするためだが、「初めて見た」というと、「慶州でもしていますよ」という。「(同じ大伽耶の)高霊池山洞では見なかった」というと、「しているはずだ」という。私の勘違いなのか。博物館の裏手では発掘調査をしていた。聞くと石槨墓の調査だという。私が質問している間にも次から次ぎにお客さんがやってくる。どうやらとても忙しい時に質問したみたいだ。お礼を言って辞し、歩いてバスセンターに向かう。この家の建て方は下垈(ハデ)地域と似ている。家の周りの壁と家とがくっ付いているのである。練塀を採用している家はほとんど無い。しかし、きちんと作っているところでは下垈のそれとほぼ同じだ。家の形は少し違う。広い道に出ると古墳みたいなものがあるので近づいてみた。
2012年08月02日
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12月28日(水)6日目朝7時に宿を出る。大邱のコインロッカーは昔から指紋認識方式。てっきり韓国全土に広まるのだろうなと思っていたら一部にとどまっているようだ。大邱市長の独断だったのだろうか。とかなんやかんや言っても認証が上手くできずに駅員さんを呼んでしまった。今朝の朝食は「私の愛」という大げさな名前のりんごジュース。聖堂池駅から一号線、二号線と乗り継いで二号線の終点沙月駅に降りる。今日は国立博物館が開館するまでにここの近くにあるという支石墓群を探ろうという試みである。朝だ。身を切るように寒い。韓国の地図(特に観光地図)は信用できないといえ、比較的道路が書かれている。ともかく川を渡って鉄道を渡ると言う事は間違いが無いと思える。とおりががりのおばさんに聞く。「知らない」と逃げていく。いつもの反応である。この時点では畑の向こう側に支石墓があるに違いないと思っていた。団地から出てきた少し若いおばさんに聞く。「ああ、それならあっち。……ああ、あなた!この人にコインドルを教えてあげて」と、ラッキーにも団地の門番の人に引き継いでくれた。地図はやはりいいかげんだった。道の右側の畑の中ではなかった。左側、つまり思いもかげず、高層団地の中にあったのである。この団地を作るときに発掘されたに違いない。門番の人が連れて行ってくれた。青銅器時代の遺跡である。南国風の支石墓らしく、ほとんど足が無い。しかし、これぐらいの石を運ぶには100人程度の人手は要ったのではないか。ちゃんとした村がこのあたり一帯にあったということだ。このとおりの右側に支石墓はあった。高層住宅に隠れて今は当時を想像することは難しいかもしれないが、川を手がかりに当時を想像してみる。現地の遺跡めぐりの楽しみはこの瞬間である。次ぎに地下鉄で晩村(マンチョン)駅まで戻り、バスで国立大邱博物館に行く。完全に住宅地の真ん中にある珍しい国立博物館である。着くと野外展示場があったので小山を登ってみる。三国時代の窯(玉山洞窯)が発掘された当時のままに再現されていた。当時としては最新の窯。この仕組みで高温を出すことができたから、陶質の硬い土器ができたのだろう。遺跡公園をめざしてさらに行くと大邱梨泉洞支石墓(内部構造)が移されていた。全ての支石墓がこうなっているのかどうかは知らないが、これならばまるで石槨墓じゃないか。弥生時代の石槨墓、木槨墓のルーツはやはり朝鮮の墓にあるのだろう。だとすると、日本の渡来人の、特に前期弥生人のほとんどは中国から来たのだという説はどうかと思う。上洞青銅器時代の住居跡も復原展示されていた。寒いのでわりと深く掘っている。丸い住居、木ではなく石で囲っている。初めて見た。国立博物館は日本語の展示解説本(2004年刊行)が販売されていた。あんまり室内展示品の写真を載せるのは怒られるかもしれないので控えめに(^^;)。これは大邱新川洞竿頭鈴(加耶時代)。こういう形の祭祀土器は遂に日本には伝わらなかった。稲作やその他色色な技術は日本に伝わったが、所謂支配階級の精神のよりどころとなるような文化は日本に伝わってこなかった。それは何を意味するのか。星州礼山里黒色磨研土器(原三国時代)。地域のアイデンテティである特別な土器も伝わってこなかった。つまり、日本にやってきた渡来人は朝鮮の支配階級ではなく、一段下の技術屋集団だったのではないか。博物館を出ると母子が韓国の伝統遊びである矢投げに興じていた。
2012年08月01日
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