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誰が思うだろう誰が…思うだろう…お金持ちは何故お金持ちなのか?普通の家庭がいきなり神の啓示を受けてお金持ちになるわけではないということは自明のことだ。では何故お金持ちなのか?それはお金持ちになるに値する努力をしたからだ。一生懸命働いた結果がお金持ちという結論に繋がるのである。世の中で偉いとされる出来事の大半は、仕事に付随する出来事だとされている。出世した、給料が上がった、お金持ちになった。それらの要因は全て社会で働くという基盤に根ざしている。私は今の会社がそこまで好きではない。それは会社の体質的なところに言及しているわけではない。多分、会社で働く上で、会社そのものを好きかどうかということは大きな要因となるだろう。大好きな会社の為に尽くして尽くして…というスタンスはある面からは褒められるようなことなのかもしれないが、またある面ではそうではない意味を孕んでいる。私は今の会社がそこまで好きではない。だが、それでいいとも思っている。好きではないから辞めるというのはまた別の問題だ。好きではないが頑張る、その過程に様々な意味があると思っているからだ。要は考え方の問題なのであって…好きか嫌いは二の次だ。会社に入社して仕事を今から始めるという人にとっては、どんな仕事をするのか、どんな人がいるのか、そういう部分に関する不安は非常に多いだろうと思う。事実私もそうだった。仕事というものが全くわからないまま会社に入り、そして自分の立ち位置ややり方を見つける間もなく遮二無二働いた。自分の周りの状況が見え出したのなんてほんの最近の話だ。まぁまだ2年とちょっとしかいないのだから仕方ないことかもしれない。大切なのは自分の身の回りの状況を早期に理解することではない。わからないからこそわかろうとして頑張るということもあるからだ。そういうものは自ずと見えてくる。仕事というものと自分の存在というものを相対的に見られる人ならば必ずわかる、そういうものだ。だがしかし、会社に入社してから働き始めるまで、仕事の内容や人間関係について考えを及ばせる人はいても、その会社が明日にでも倒産するかどうかということまで考え至る人はいないだろう。それはある意味では明日死ぬかどうかの予想に近いものがある。会社は不変の存在ではない。経営が行き詰れば倒産することもありうる。それは自明のことだ。しかしそこまで考えている人はそういないだろう。身近な会社の人間は、そういう事情を表沙汰にしようとしない。いくら経営が行き詰っていても、明るい未来を示唆しようとする。誰だって自分の働いているところが倒産して欲しいなんて思わない。だから隠す。人間のごくごく自然な自己防衛と楽観的観測が、会社にとって最も大きな情報にバイアスをかけることになる。それは自然の流れ、必然。誰だって職を失いたくはないから。色々と意味のわからない流れで説明(?)してきたが、勘のいい方ならもうわかることだろう。つまり、私の会社が倒産の危機にあるということだ。冗談として流せるならどれだけいいのだろうか?だがそうも言っていられない。わが社始まって以来のピンチだ。厳密に言えば会社が経営不振になって倒産するわけではない。会社の最も優良で優秀で数多く人間を排出している現場先が倒産の危機にあるのだ。それは例えるなら冷蔵庫のコンセントを抜くようなものだ。最初は内部冷気でなんとか食品の質は保たれるかもしれないが、時間が経てば食品はやがて品質が悪化し腐っていく。まさにそれだ。最も売り上げを見込める会社が倒産するということはそういうことだ。勿論それによって私の運命も大きく変わってくる。今の現場から去ることも可能性としては結構な数字としてある。最悪の場合は、わが社が倒産して皆が放り出されることもあるだろう。路頭に迷うとはまさにこのことだ。仕事をしていても、いつ肩を叩かれて「君、もう来なくていいよ」と言われるかわかったものではない。それは今の現場に配属されているわが社の4人のメンバにしてもそうだ。私を含めた4人の誰かを名指しして辞めて欲しい意を伝えてくるのか、それともわが社の名前を出して誰か一人を辞めさせることになるのか、それはわからない。しかし少なくとも近い将来同等の宣告が下されることは間違いがない。以前のブログに書いた「新人2名の加入」とはそういう意味だ。つまり…執行人が来る。私達の首を刈り取る為に。私が本件で最も危惧しているのは、自分が名指しで辞めさせられることではない。そんなことは別に構わない。会社の決定だ、従うという選択肢以外はありえないのだから。そうではない、そうではなく…4名のメンバの誰か1人を辞めさせることになった時が一番怖い。そうなったら、今まで仲良くやってきたメンバの中で少なくとも1人の辞めさせられる人を決めるという名義で醜悪な争いが始まるからだ。そう、まるで遺産相続問題で骨肉の争いをするのと同じように。今まで仲が良かった分、そういう争いは耐えられない。誰が思うだろう?当たり前に起きて会社に向う通勤の道を歩めない日が来るなんて誰が思うだろう?いきなり肩を叩かれて宣告を受けることに怯える日々なんて誰が思うだろう?今まで仲が良かった会社の仲間と争いをしなければならないなんて誰が…
Oct 30, 2009
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久しく雨を見ていなかった。雨が降ると気温が下がる。特に今のような季節の変わり目の時期にはその傾向が顕著だ。今日は久しぶりに雨が降ったのだが、そのせいで随分と気温が下がったように思える。こういう時は暖かい格好をしているのが一番なのだろう。突然寒くなるのはそういう意味でも非常に厄介だと言える。着る服を迷うのはきっと大切なデートに行く時かこういう時しかないのかもしれない。さて、本題へ。嫌な予感がした時、それが的中する確率はどれくらいなのだろうか?私はあまり勘のいい方ではない。しかし、鈍感とも言える私だって嫌な予感くらいは感じる。その感覚は人によって千差万別だろうが、私の場合には丁度遠い空が陰ってきているような感じに近い。もうすぐ雨が降ることを予感させるようなそんな気配、杞憂だといいと感じる楽観的観測。そのようなものが入り混じったような決して愉快とは言えない気持ちの連続を指す。その嫌な予感をつい先日感じてしまい、そしてそれが成就してしまった。今回はそんな話。私の職場は今圧倒的に人が足りない。かと言ってこの不況だ、おいそれと人員を増やすということも難しい。再三人が足りないことを主張してきてはいたのだが、門前払いを喰らい続けてきた為、最近では声高に主張することもなくなってきていた。しかしそんな時、ふっと沸いたように新しい人材が現場に配属になるという話を聞いた。これは晴天の霹靂と言えるビッグニュースだった。新鮮味の欠けた今の現場に一陣の風を吹き込ませるにはこれ以上のタイトルはないと言えるほどの衝撃だった。時に、私は常々から教育担当として仕事の片手間に教育用資料の作成に着手していた。しかし現行仕事をまわしているメンバにはそれは必要ない代物だった。まるで砂塵の楼閣のように、見えないものを相手に遮二無二足掻いてきた今のメンバだ、今になって誰かが誰かに教育的指導をする必要なんて見いだせない。皆が同じレベルの技術を持ったプロだと認識していることだろう。勿論私もそうだ。なので、いつ来るのかわからない新人の為の資料作成が、一体何の意味があるのかと日々自問自答していた私だった。しかしそこにふって沸いた新人配属の話となり、私は資料作成にいつも以上に気合を入れて臨んでいた。誰が教育担当になるかはわからないが、その際に困らないクオリティのものは仕上げておこうと思っていたのだ。この時私は、まさか教育担当に自分がなるとは思いもしなかった。それは資料作成という「大義名分」があったからに他ならない。資料作成は私の仕事なのだから、教育は別の次元で行われるものだと勝手に思い込んでいた。まさにそれが落とし穴だったのだ。まぁ後になって考えてみれば、私が適任だということは自明のことなのだ。誰よりも教育分野に於いて邁進してきたのだから、勿論資料についても一通りは理解している。つまり適任なのだ。何故この恐怖の図式に気づかなかったのか。新しく入ってくる新人と教育について管理職の方と話をしている間に、どうももう上層部では私一択だということをそこはかとなく漂う嫌な予感を感じていたのだが、その考えを必死に否定し続けていた私自身が最も落ち込む結果となってしまったわけだ。日々の業務に新人教育が入るとなると…苦労は2倍以上増しだろう。でもまぁ…逆に考えてみれば、これはチャンスかもしれない。来るべき新人を立派に使える人材に育て上げるということは、その人材が優秀であると同時に教育者の努力を反映するものになるからだ。キチンとやり遂げられれば評価に繋がる、そう考えれば捨てたものではないと思えるようになった。否、そう考えないとやっていられない。というわけで来たるべきXデーに備えて私の緊張は否がおうにも高まっているわけだ。嫌な予感はいつも当たる私だが…これを好機と見るかどうかは結局のところ私次第ということだろうか。試練の11月はもう目の前。。。
Oct 24, 2009
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久々のお休み♪一般的に、休日の多い月は歓迎されることが多い。働くことで対価を得、それにより糧を見出す。そのことに何の異論もないはずなのに、何故か人は休むことを欲する。これは非常に不思議なメカニズムだ。休みたいのに働かないといけないという軋轢はどこから来るのか、それは恐らくは日本人は働きすぎだと言われる所以に起源があるだろう。まぁ今回のテーマとは関係ないので割愛するが。10月は比較的休みの数が多い。なので大型連休もまた発生しやすいということになる。私の現場はシフト制なので、連休の恩恵は今与えられることになった。というわけで、平日連休を頂いた私は、暇を持て余しながら過ごしていた。幸か不幸か家の雑多な用事は以前の休日に片付けてしまっていた。日用品の買い足しも必要ない。こんな時はふらりと電車に乗ってどこかへ出かけるのが一番だ。そんなわけで私は最寄の駅から数駅という微妙な遠出に出かけることにした。近隣に住んでいる方ならわかるだろうが、私の最寄の路線は東急田園都市線だ。基本的に住宅地として分譲している区間であり、その傾向から宅地開発の盛んな場所であることが類推される。首都圏へ向う国道246号線と東名高速道路が並行する場所であり、ロケーションとしても悪くない。そんな理由で宅地開発が進められてきたことだろう。もしかしたらニュータウン計画なんかもあったのかもしれない。国道246号線を境に東西で商業地・住宅地と住み分けが行われているところを見てもその点は推し量ることが出来る。田舎やそこらではありえないほどの高価格のマンションや一戸建てがどんどん売れるというインフレ状態を起こしているのもその理由として挙げられるだろう。まぁそれはいいとして。買い物というよりもウインドウショッピングを一通り済ませていざ家に帰ろうと思って電車を待っている時、私はふいに面白いものを見つけた。今回はそんな話。東急田園都市線には変わった名前の駅がある。ご存知の方ならピンと来るかもしれないが、南側の終点から数えて13駅目になる。一体何故そのような名前になったのかを知っている人はそう多くないだろう。私がこちらにやってきて1年以上になるが、その頃から今に至るまで工事が終了したことがない特異な場所だ。恐らくは住宅地が犇く中に商業の発展した場所を作ろうという画策のもとだろう。急行電車が停車する駅としては異例の存在感を示しているが、それは恐らくは成田空港・羽田空港へのバスのアクセスがあることだろうと推察出来る。これで何駅かわかった方も多いのではなかろうか。そう、あのカタカナのついた変な名前の駅だ。東急田園都市線の全ての駅を見てみても、この駅は特段買い物に対して汎用性が高いわけではない。むしろ渋谷の方が有用性が高い。しかし中間地点くらいに住んでいる私のような人からすれば、結構便利だったりする。そんなわけで明確な目的がなかったとしても取り敢えずそこに行けば何かあるのではないかという淡い期待があった。今回もそんな感じだった。一通り買い物を済ませて帰ろうと電車を待っていた時、手持ち無沙汰だった私は不意に向かい側のホームの広告が目に付いた。何やら色々と広告が貼ってあったのだが、その中で一際目をひいたのは歯科医院の広告だった。「どう矯正歯科」なるほど、昨今の歯科医院は胴の矯正もしてくれるのか。多角経営が好ましい流れが強い中で、歯科と接骨、カイロや整体まで取り揃えておくことが生き残る為に重要なのか。と、考えながらも、どうさんという方がやっている歯科医なのだろうとちょっとネーミングに受けながらも眺めていた。そしてひとしきり下らない思考に耽った後、更に横に目をやってみるともう一つ違う広告が目に付いた。「はな眼科」これはもう不覚にも笑ってしまった。狙っているとしか思えない配置だ。私がその時立っていた場所から反対側のホーム…つまり広告が貼ってある場所に目をやると、必然的に両方が目に付くという点が小憎らしい。周りに何人か人が電車待ちをしていたのだが、私は不覚にもこのコンボにふきだしてしまった。これは悪意もとい受け狙いの気概が感じられる。今までその駅のことは好きだったが、これまで以上に好きになったのは言うまでもない。因みに、今もその広告は貼ってあることだろう。見てみたい方は、東急田園都市線たまプラーザ駅渋谷方面ホームの北側のエレベータの近くの広告を見ていただくといいだろう。このセンスには私も久々に脱帽だった(笑)
Oct 23, 2009
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リンスは嫌い。ずっと私はそう思っていた。初めてリンスを使ったのはそう、いつだったか。覚えていないくらい前だ。安物のどこのものかわからないようなリンスを初めて使った私の感想はまさに初めてのものを試す人のリアクションだった。しかも好意的ではない部類の。はっきり言って嫌悪感以外何も抱けなかった。ぬるぬるしているし、何よりもシャンプーを使った後でもう一度シャンピーに似た行為をしなければならないことに意味を見出せなかった。それに見合うだけのメリットがあるかどうかと言われれば、疑問視するしかなかった。そんな経緯があってか、私はお風呂に入る際にリンスを使わない習慣になっていた。それがマイノリティであることは十分に理解していたが、嫌なものを許容しながら生きていくなんてまっぴらだったので、それでもいいと思っていた。しかしその考えが浅はかだったということをつい先日思い知ることになる。今回はそんな話。私はもう3度も引越ししてきている。もう引越しも随分と慣れたものだ。最初こそどうしていいのかわからずに四苦八苦していたが、今ではもうそんなこともない。手馴れたものだ。そんな引越しなのだが、その機会に要るものと要らないものを選別するという行為は誰しもが行うだろう。私もそうだったのだが、私は殊更この選別に於いて妙な癖があった。それは人が残したものを捨てられず後生大事に持っておいてしまうというものだ。私の家は何故か昔から人が集まる傾向にあった。会社の人にしろ学生時代の友達にしろだ。なので私の家には色々と物が集まってしまう。確か2回目の引越しの頃だろうか、名古屋に住んでいる友人が私を訪ねてきた。その時私の家に泊まっていったのだが、その友人がお風呂にお気に入りのシャンプーがないということでどこぞで買ってきた旅行用のシャンプーを使っていて、帰り際にそれを私のお風呂に置いていった。そのシャンプーはどこにでもあるようなものなのだが、今でも私の家のお風呂の片隅に置いてある。友人が残した物ということで、いつかまた来た時の為に使えるように置いておいたのだろう。それが丁度2年前の話になる。つい先日、私の家のシャンプーがなくなった。前からなくなる傾向にあったのを察知してはいたのだが、まだ大丈夫と高を括っているうちになくなってしまった。買いに走ろうにも店はどこもやっていない。というわけで苦肉の策として、友人が2年前に置いていったシャンプーを使ったのだが、このシャンプーに衝撃を覚えた。私が今まで使っていたものよりも何といい香りと使いやすさだろうか!?ここ最近では一番とも言えるほどの衝撃を覚えたものだった。あまりの使いやすさに、私はあろうことかリンスにも手を出した。以前の嫌な記憶が脳裏を掠めたが、それでも使ってみると…なんと髪に馴染むことか!ここでまた感動してしまった。次の日私は仕事だったのだが、その帰り道、ちゃんとしたシャンプーを買ったのは言うまでもない。ここまで衝撃的な出会いはそうそうない。忘れないうちに手に入れておこうという算段だった。食わず嫌いならぬ使わず嫌いのリンスに目覚めた私は、今までよりも遥かにお風呂が好きになってしまった。お風呂に入る度にいい香りとさらさらの髪の毛になれる。それだけでうきうきしてお風呂に入るようになってしまった。なんて単純な性格なんだろう(笑)髪を洗う度に、梳く度に君の香りが私を包むあの時香った仄かな微香はその香だったのか香とともに蘇る思い出また君に逢いたくなったな
Oct 21, 2009
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免許の更新行って来ました。免許の更新はもう2回目のことになるのだが、2度とも同じロケーションで更新をかけたわけではないので、いまいち慣れるということがない。1度目は京都での更新だったのだが、この日大切にしていた携帯電話が壊れたという個人的にはセンセーショナルな事件があったのでよく覚えている。確か講習を受けている最中に机に腰をぶつけたというようなことがあった。そこが丁度携帯電話を仕舞っているポケットに近かったというのが、今のところ最も納得出来そうな理由だ。事実がどうだかはわからないが、壊れたショックが大きかったというのはよく覚えている。話が若干ずれたが、講習については、長いというくらいにしか感じなかった。何やら悲惨な事故の現場ばかりを収録したようなビデオを見せられたということも覚えている。気をつけて運転するよう啓発する意味合いを持たせようとしているだろうとは思うが、あれでは車の運転をやめろと言われているようにも思える不思議なビデオだったのをよく覚えている。そして今回は2回目の更新となった。今回の更新では、免許に記載されている住所を変更するという作業も加わる為、長い拘束時間が予想されたのだが、実際はそうでもなかった。手続き上の雑多なものがあるだけで、実際には大したことはしていないように思える。私は車は所有していない為、車の運転はレンタカーを借りる時か、実家に帰った時しかしない。それでも運転が殊更下手だという認識はない。まぁ今の会社に就職が決まるまでは車で毎日のように片道3時間半の道のりを疾走していたわけだし…それなりの技量があると自負している。そんな私は2回目の更新によって見事ゴールド免許の資格を得た。聞いたところによると、ゴールド免許の資格を得た人は、免許更新時の拘束時間も短いということらしい。更新くらいで2時間も3時間も割かれるのはまっぴらなので、その部分では助かるというところか。さて、免許の更新と住所の変更をしに警察署へ向かった私なのだが、今の立地は本当に助かっている。何しろ以前のブログに書いたことがあると思うが、私の家の立地はかなり便利なことこの上ないからだ。ちょっと話がずれるがそっち方面について少々。。。私の家の周りは本当に静かだ。しかしだからと言って田舎かと言われればそうでもない。実は首都圏へ向かう道路国道246号線が近くに走っている。加えて神奈川ではかなり大きい方に入る国道12号線も目の前だ。よって車でのアクセスは非常に便利となっている。更に、すぐ近くに東名高速のジャンクションがある。これに乗ってしまえば、名古屋まで簡単にアクセス可能だ。車で旅行するにはかなり便利な場所だと言える。更に行政面でも抜かりはない。以前ブログにも書いたが、私の家から100メートルの場所には区役所がある。大体の雑多な手続き…例えば住民票の交付等は全て歩いていける距離で行うことが可能だ。更に最近気づいたのだが、警察署も150メートルくらいの場所にあることがわかった。これで免許関連のこともすぐに行えるということが判明したわけだ。今回の免許の更新も歩いて警察署まで向った。何故近いのに気づかなかったのか、それは警察署のお世話になることが今までなかったからだ。まぁ普通に生活していたらそうだとは思うが(笑)更に、消防署も近い。これで火事で家が燃えてもすぐに対応してもらえることだろう。燃えないのが一番だが(苦笑)そんなわけで今回の免許の更新ものんびりと秋の空気を感じながら警察署まで歩いて向った。着いてすぐに書類を提出し、写真を撮ってもらい、後は講習を受けるだけとなった。しかしこの講習があまりにも適当であることに驚きを隠せなかった。書類などを提出する受付の近くに長めのソファが3組ほどあったのだが、そこが講習を行う場所だった。そこには3人ほど既に座っていて、ビデオを見ていた。私が書類を提出してソファに座り待っていると、ビデオも一段落し、おじさんが出てきて講習を始めようとしていた。教本も貰ったし、これから1時間ぐらいは講習を受けるのだなと教本を開く準備をして学生気分で待っていたのだが、そんなやる気満々の私を見て講師のおじさんに言われた一言は流石に驚いた。「あっ、君。すぐに書類出来上がると思うし、わざわざ教本開かなくていいよ」あっ、そうですか…(苦笑)実際に講習が始まって15分もしないうちに私は受付に呼ばれ、書類を頂くことになった。また1ヶ月後に来るように言われて私はそのまま強制的に帰らされた。勿論その間講師のおじさんは熱心に講習をしているのだ。優良ドライバー講習ってこんなになぁなぁでいいのかと思いながら、それでも早く終わったので帰って洗濯や掃除でもやろうと気分も軽くなった今日この頃だった。
Oct 18, 2009
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めっきり秋らしい空気になってきた。夜はもう窓を開けっぱなしにしていては少し肌寒いくらいまで気温が低下してきている。もうはっきりと秋の訪れを予感させる気候になってきた。この時期が一番過ごしやすいと私は思う。しかし、それと同時に、着るものとして何を選んでいいのかという問題点もある。薄手と着込みの両立を日によって使い分ける器用さと、ニーズにあった服の選定が必要とされるわけだ。まぁ私は服装に関するセンスは皆無なので、人一倍その部分には苦悩するということになる。いいセンスを持っている人が本当に羨ましい。さて、本題へ。例えば電車に乗っている時、貴方の目の前に一人のサラリーマンがいたとしよう。そのサラリーマンが、電車の中だというのに携帯電話で大声で話していたとしよう。それに対して貴方はどう感じるだろうか?感じ方は人それぞれだとは思うが、おおよそ大半の人は嫌悪感を抱くだろう。人の迷惑を考えない人だという認識を持つ人が多いはずだ。イメージとはこうして作られる。たとえそのサラリーマンが如何に会社で立派な成績をあげていようとも、そのサラリーマンの優秀な部分というのは、電車の中で携帯電話で話している様からは決して見られないだろう。人はこうしてイメージを構築する。その人のことを詳しく知らなくてもイメージは作られるものなのだから。そしてイメージというものは一旦固着すると、なかなか改善されないものだ。これはどのような事例でも例外なく適応される事象だ。同じことが私にも言える。こうして長くブログをやっていると、私という性格がある程度文章から滲み出してくるものだ。読んでらっしゃる方と、私を実際に知っている方とでは、必ずしもイメージに齟齬が生まれないとは言えない。むしろ逆、実際の私を知っている方からすれば、ブログの上での私は違和感を感じることだろう。これは致し方ないことだ。ある意味自明のことだが、私は普段からブログで使っているような口調で話しているわけではない。人のイメージはまず印象から形成される。その最たるファクタは、やはり口調や雰囲気だ。このブログでの語り口調で話しているのであれば、イメージは作られたもののまま守られることになる。しかし実際がそうではないのだから、やはりイメージ的に崩れてしまうのは避けられないだろう。それが嫌だと言いたいわけではない、それは仕方ないことなのだ。私生活を常に見ることが出来、それでいて常に近くにいる上でイメージを形成したのであれば、それは矍鑠たるイメージとして定着するものだろう。しかしあくまでここは私の心象であり…抽象化した茫洋たる空間だ。常にその日の食事のことばかりを考えている人がいないように、やはり人は生きていく上では難しいことや具体化出来ないことを考えるものだ。そこだけを抽出した私のブログなのだから、やはりイメージとしては別ベクトルにいってしまうのは仕方ない。まぁこの文章のままのイメージを描く人もそうそういないだろう。私だって生きている人間だ、少しくらいは社会に適合しようと思うし、上手く切り抜けていきたい場面だって少なからずある。要するにそういうこと、自明の真理なのだ。こんな当たり前のことを書くのも、ある時ふいに指摘を受けたからだ。私は実際とブログ上での本質が異なると。書く為の題材としては良しと出来るが、新しい発見を得られるものかと言われれば、答えはノーだ。何度も書いているが、これは自明なのだから。百科事典を編纂した人物がそのままの人格かと言えばそうではないのと同じ理論だ。とは言っても、まぁ大体考えていることは記述している内容と相違ない。要はイメージの作り方次第なのだ。見たこともない人物にイメージを宛がうのは自由だが…それによって破綻する道理を私は受け入れるわけにはいかないのだから。
Oct 15, 2009
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土地が有り余るなんてことが現代の日本で起こりうることなのだろうか?首都圏をはじめ、おおよそ人口が飽和状態に近しい場所では、土地が有り余るなんてことはありえない。もし現在進行形でそのようなことが起こっているならば、首都圏など都市近郊の地価はもっと低くてもよさそうなものだ。かような理由から、提供される側が選ぶのではなく、提供する側が選ぶという図式になっている。法外とも言える地下がまかり通っていることがその確たる理由になる。もともと日本はそこまで土地に恵まれた場所ではない。少ない領土を太古より争いや合意のもとにわけてきた。日本の土地は狭い、それは自明のことだ。だが、そんな背景があるにも関わらず、膨大に土地が有り余っているところがあるのも事実だ。それが所謂田舎ということになる。もうこれまで何度書いてきたか正確には覚えていないが、私の地元は田舎だ。しかも「超」とか「ド級」とか陳腐な形容詞を用いることに抵抗を感じられないほどの田舎だ。町の街灯の数なんて、信号の数と比例するくらいしか存在しないし、店だって太陽が沈めば閉店してしまうような状況だ。のんびり安寧としていると言えば聞こえはいいが、要するに、発展する見込みがないという言葉で容易に片付けられてしまう。そんな田舎で私は育った。土地が余っている、そのことに薄々と気づき始めたのは、私が方程式を学ぶよりも前だった。町全体が所有している土地に対して、使用している土地の比率は、本来100%で釣り合うが道理だ。上述したように、日本の土地は狭い。1坪辺りの地価の高さを鑑みても、土地の利用は常に限界まで…というのが通常だ。しかし私の地元はそうではない。明らかに使用されていない土地が散見される。これには自明の理由がある。それは人がいないことだ。土地が有効且つ利潤を孕んだ使われ方をする最も大きい理由は、住宅地としての使用だ。教育施設があったり、その場所に人が入ってくる誘因があれば、人の出入りと人の留置をまず考える。つまり土地を住宅地として開発するという方向に話がいくはずだ。しかしそのような動きは、少なくとも私が物心ついた時から片手の指で足りるくらいしかない。しかもその動きも言ってみれば、以前にあった建物を改築するといったような、いわば前衛的な理由ではない。つまり、新しい建物を建てるだけのメリットが見当たらないわけだ。建てたところで誰も入らなければ、それらは無用の長物と化す。野山をそのまま残しているよりも非建設的な施設が出来上がるというわけだ。住宅地として開発出来ない、人がいないということ、そのことが住宅地以外での開発の歯止めになっている。そして利便性の上がらない土地には、若者が住み着かなくなってしまう。皆が皆、私のように都会へ旅立つことになる。そして町としての人口絶対数は少なくなってしまい、人の住んでいる家の数も減少する。誰も住んでいない家はあっても意味がない為、取り壊そうと思うが…次に何かしらの建物を建てたいという意欲がなければ、家を壊す為に必要な対価のみを捻出してしまう為、家もそのまま。必然的に使用出来ない土地がまた増えるという負の連鎖に入ってしまう。土地ばかりが余り、どんどん人口が減っていくという図式は崩れない。漠然とした流れで考えているだけなので、特に急を要しているわけではないのだが、この構図があと20年続けば、町としての存続も怪しいだろう。日本にはこのような町が一体幾つあることだろうか?贔屓目に見積もっても、人口5万人都市の数よりは少ないだろう。一方で土地の値段が天井知らずに高騰する中、他方では土地の値段が際限なく下がることになる。これが非建設的と言わずしてなんだろうか?そんなことを考えながらもう10年以上変わらない地元の野山を見ていた。田んぼや畑、山が占拠する広大な土地を切り開いて前衛的な何かを作れば、きっと効果的だろうかなどと考えながら、それでも人口の少ない場所でそのようなものを作ることの無意味さもまたよく知っている。科学技術がいくら進歩しても、そういうメンタル面を重視した技術は1つも進歩していないと感じた今日この頃だった。
Oct 11, 2009
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とは言っても私ではないので悪しからず。聡明な方ならば、私が結婚するなんて考えられないとお思いになることだろう。実に的確な意見だ。事実、私にとっては今のところ結婚なんて遠い遠い幻影のような存在だ。その視界は茫洋としており…まるで距離感が掴めない。将来的にいい人に出会って結婚するというビジョンが明確に見えないのだ。勿論結婚願望については、他の誰にも負けないくらいあるということは自負している。しかし、願うことと叶えられることはまた別のベクトルであるのも事実だ。悲しきかな、これが現実と言ったところか。脱線した。急に結婚の話がテーマとなったのは、私の兄の友人が結婚するという話を聞いたからだ。その友人とは、高校生くらいの頃から懇意にしている人で、色々な面で私の生活に関わってくる人だった。実家にもよく顔を出していたし、2番目の兄といったところだろうか。その2番目の兄とも呼ぶべき人が結婚するという話を聞いたのは、もう2ヶ月程前の話になる。そのニュースを初めて聞いた時には、何故か驚きがなかった。高校生時代から何かとスキャンダラスな一面を持っており、兄と同様に、非常にモテる人生を歩んできた人だった。女性問題に関しては、聞かないことがないくらいに充実していたのをよく覚えている。そんな人でも、結婚するとなるとかなり慎重になるということだろうか。齢20代後半まで結婚の時期がずれ込んだのは、恐らく将来を遠く見据えていた故の必然なのだろう。実に賢明な判断だと言える。結婚に際して、私も式や披露宴には出席したいと思ったのだが、生憎と遠方過ぎる為、どうやら参加は出来ないようだ。しかも友人の弟ということで、そもそも呼ばれもしないだろうことは予想に難くない。まぁ結婚式ほどの大舞台なら、せめて親しい人だけでやりたいという気持ちもわからないでもない。そっとしておくのが吉だということだろう。せめてご祝儀くらいは送ろうと思っていた。低所得者なので、そんなに多くは包めないが、気持ちばかり包んでおくとしよう。そんな感じで漠然と考えていたのだが、今回の帰省の際に、その人に会うことになった。結婚相手を見たことは無かったのだが、今回初めて出会うこととなった。まぁ適度な緊張感は否めない。私はそもそも初めて出会う女性にはめっぽう弱いのだ。顔もろくに見られない。今回も例外ではなかった。頑張って話そうとはするものの、それでも顔を見られたのは一度か二度くらいのものだった。恥ずかしいというよりは、何と言うか…居た堪れない気持ちになる。不思議なものだ。そう言えば、名古屋の友人の彼女もまともに見られなかったような気がする。結局女性関係については、私はまだまだと言ったところか(苦笑)しかしながら、いい人だということはすぐにわかった。時々彼女とその人が話しているのが見えたのだが、本当に仲睦まじいといった具合だった。照れるというよりも、むしろかなり羨ましかった。自分の存在を、自分の場所を見出してくれる人がそこにいること、それはかけがえのない幸せなのだから。安心できる場所、居心地のいい場所、結婚はそんな場所を与えてくれるものだと再確認した。幸せそうな夫婦(見込み)を見ていると、なんだか嬉しい反面、少しばかり切なくなった。私は何を守れるだろう?結婚している人は無条件で羨ましいと思える。それは私があまりにも結婚願望が強すぎるからだろう。その想いはもう3年以上燃え続けているが、よりどころのない気持ちであることもまた事実だ。秋の夜長に、一人。寂しくないなんて強がって笑っているけれど、本当は誰よりも渇望している。そんな気持ちを思い起こす出来事だった。
Oct 8, 2009
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久しぶりの更新と相成りました。予定というものは、いつも期せずして重なるものだ。まるで、予定の全てが別のベクトルでスケジューリングされていたかのように。本人が予定を上手く組み立てているつもりでも、実はもう全ての予定は最初から組まれている。そう、死せるその予定までも。。。思考が飛躍し過ぎている(笑)久しぶりのブログだからこそ余計に、勘というものが取り戻せないでいるのもまた事実だ。実際のところそこまで玄人であるかどうかは別にして。さて、今回のブログ滞りの言い訳をさせてもらうとしよう。今回は、実家に帰省していたことがそもそもの原因だった。時を遡ること、およそ4日前。私は京都へ出張する用事があった。日頃家族とはあまり連絡をとらない方ではあるが、その時は京都に関連しているということで、京都出張の旨を家族に報告した。すると、その勢いで帰って来いといったような内容を突きつけられた。自由意志ではない、何故か強制的な意味合いが込められていたような気がする。確かに京都と言えば、ちょっとそこいらのコンビニに行く感覚では行けないような距離だ。機会を有効に活用しろというようなニュアンスだったのだろうが、現場が大変な今の時期に、京都に帰り且つ実家まで足を伸ばすような休みがもらえるものなのだろうか?駄目もとで一応現場と調整をつけてみたところ…あっさり快諾。言ってみるものだ。というわけで、京都出張+実家帰省が現実のものとなった。京都の出張の方は、まぁ全社員集まっての総会みたいなものだったので、仕事と言われれば仕事で、休暇と言われれば休暇のような内容だった。ただ久しぶりに会う関西メンバーとお酒を飲みながらご飯を食べるというような内容だった。確かに仕事面での話も少しながらあったが、それははっきり言えばおまけみたいなものだった。交流会なのだから仕方ない。それが終わったのが19時。そこからが私の本当の休暇だ。京都市から遥か北、誰も知らないような田舎の町、そこが私の地元だ。電車で移動するのはもう慣れっこだった。たかだか6年前には、私は電車に乗ったこともないようなひよっこだった。それが今となっては、日本の半分を横断するような距離を電車で平気で移動するようになった。それどころか、一人で飛行機にも乗るようになった。人の成長とはまこと度し難いものだ。結局は慣れの問題なのだろうが、それでも6年前の私は今の私の姿を想像だにしなかったことだろう。臆病で引っ込み思案、保守的な私はいつも外に出て行くことを恐れていた。自分の暮らす小さな町が全てだった。そしてそこから出て行くなんて思いもしなかったことだろう。それが今では、遠く関東の地まで仕事で来ている。この変化が最も私を成長させたと言えるだろう。誰にも頼れない空気は、己が気持ちを律する。私が成長したいと遮二無二頑張っていたあの頃、都会に出て行って働きたいと夢見ていたあの頃、電車に乗って新しい街を夢見ていたあの頃と逆の道筋を辿って私は地元に帰ってきた。所要時間は横浜から換算しておよそ6時間30分。大旅行だ。得られるものなど何もないと高を括っていたその地方は、まるで時が止まっているかのように静かな空気を持っていた。何も変わっていない。駅前だってあの頃と何も変わっていない。古ぼけた看板や、何世代前かわからないほどの古い商品を未だに取り扱っている店。時期を過ぎて鄙びた海。閑散とした町並み。大きな駅から分岐して、ローカル線に入った時に、窓の外の風景を眺めながら、ふと考えた。私は仕事終わりということで、実家に初めてスーツで帰ることになっていたのだが、その格好とローカル線の雰囲気が酷くアンマッチな気がしたからだ。都会のお店で仕立てたスーツとローカル線。なんて不似合いなんだろう。でもそれが逆に今まで18年間生きてきた田舎を象徴するようで少し可笑しかった。もう何年も実家に帰っていないような不思議な感覚があった。何故だか少しだけ切なくなってしまった。真っ暗な線路を電車が走る。これは比喩ではない、本当に真っ暗なのだ。街灯の数も都会のそれとは比較にならない。本当に真っ暗なのだ。学生も都会の学生のように、お洒落な感じなんて全くない。田舎クオリティが全開の様子だ。そう、丁度…都会の学生のようにお洒落になりたいと精一杯背伸びしているようなもの。微笑ましい。駅に到着したのは23時。駅には兄が迎えに来てくれていた。その場には兄の同級生で、懇意にしてくれていた友人もいてくれた。私は正直その友人のことがあまり好きではなかったのだが、まぁ場の流れというか何と言うか、一緒に夕飯をとることになった。場所は町でその時間に空いている唯一と言っていいような焼き鳥屋だった。焼き鳥屋にスーツで入る、なかなか愉快な光景だろう。焼き鳥屋では、もう既に出来上がっている客が3組ほどいたが、その全てのグループが当たり前のことなのだが、私の田舎の方言を使っていた。久しぶりに聞いたが、なんだか懐かしいというよりも新鮮な感じがして不思議だった。こんな言葉を使っていた時期もあったなと、感慨に耽るような不思議な感覚だった。思い出したように聞いた言葉なのだが、ちゃんと話している内容は理解出来ている自分が可笑しかったのをよく覚えている。と、話の途中だが。。。今回はこれくらいにしておこうと思う。これからしばらくは、帰省の話をしていこうと思う。新たに発見した気持ち、そして感情。その殆どは、言葉に還元しにくいものであることは自明だが、少ないボキャブラィで表現していこうと思う。言葉とは元来拙いもの、後付のもの。言葉で完璧に表現出来るものは逆に言えばそれだけの存在。真に思いを伝えるは言葉に非ず。月並みの言葉に込めるは言葉に還元出来ない気持ちの集合。気が向いたら読んで頂ければ幸いだ。
Oct 7, 2009
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