2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全17件 (17件中 1-17件目)
1
空港の動く歩道が撓むところのお話。私は恐らく普通の人と同じくらいファストフードを利用することがあると認識している。実際、仕事に行く前にマク○ナルドに寄ることもしばしばだし、他のファストフードのお店も全く行かないわけではない。とは言っても、そこで売り出されているような商品が大好きだというわけでもない。まぁ…何と言うか、あるから使うと言ったなんとなくな理由が最もらしいものだろうという認識だ。ファストフードとは言っても、ある種類は限られてくる。マク○ナルドやロッ○リア、モ○バーガーといったところが最も無難なところだろうか。他にも地域限定のものもあるかもしれないが、おおよそ全国展開しているのはこれくらいのものだろう。関東地方にはウェン○ィーズというものもあるが、これは完全に地域限定のものだと言っていい。関西では見かけたこともないのだから。こういうお店のいいところは、注文してから商品が来るまでが早いという点にあるだろう。急いでいる時などには非常に重宝する。ただ、味の方に関しては早さに反比例するかの如く、喜ばしくない評価を下さなければならない方が多いように感じられる。まぁ味に本気で拘っているのならば、恐らく今ほどのスピードでは出てこないだろう。どちらかと言えばおやつ的なポジションであることを考えても納得出来る。別に大好きというわけでもないが、私はファストフードを利用することが多い。そして今回の話は、沖縄だけの限定ファストフードのお店があるという話を聞きつけたことから始まる。島民ならよく知っているだろう、A&Wだ。島民の間では「エンダー」と呼ばれ親しまれているらしい。メニューも一般的なファストフードのお店にあるようなものと似ているが、やはりそこは沖縄クオリティが発揮されているということらしかった。なので私が提案し、今回の旅行の目的地の1つとして行ってみることになった。好奇心が旺盛というのも少し考え物か(笑)そんなエンダーなのだが、内地の人からしたら最も違いを感じるメニューとして「ルートビア」と呼ばれるものがあるらしかった。以前より友人より話を聞いていたのだが、これがかなり独特な飲み物らしく、好き嫌いが分かれるとのことだった。そう言われてしまうと無性に気になるので、味が何に似ているかと聞いてみると、どうやらドクターペッパーに似ているらしい。私はドクターペッパーは飲んだことは無かったが、あまり良い印象を聞かない飲み物として有名なものだ。興味本位で行きたいと言ったことを若干公開し始めたが、男は度胸なので結局行くことになった。さて、飲んで見ての感想だが…何とも言えない。。。まず一番に思ったのが、コーラをベースにしていることだ。コーラならば飲めるので、結構いけるのではないかと最初は思ったのだが、後味として何とも形容し難い何かが来るのだ。それは甘いようで鼻を突く匂いも持っている。メインの味であるコーラの後ろに隠れているようなポジションかと思いきや、たまに前面に押し出されることもある。飲む度に味のバランスが崩壊していく、そんな印象を受ける飲み物だった。確かにこれは独特だった。最初の1口から口の中に広がる存在感があったのは、他の飲み物にはない特徴かもしれない。良い意味かどうかは別にして。ルートビアの飲みながら苦悶している私を見て友人は大いに面白かったようだ。無難なオレンジジュースを頼んでそれを楽しみながら、私が微妙な顔をしているのを楽しんでいたように見えた。流石S(笑)しかし不思議なもので、何度も飲んでみるとそう悪いものでもないと思うようになっていた。好きとまではいかないが、それでもたまーーーーーーーーーに飲むなら美味しいと思えるまで私は洗脳されていた。なるほど、島民に愛される理由はここにあるのかと妙な納得の仕方をしたものだった。飲む度に味のバランスが変わるというのは、ある意味では売りに出来る部分でもある。それにゲテモノではない。嫌いな人は相当嫌いかもしれないが、好きな人がいるのも頷けるような代物だった。沖縄本島の中でも結構あちこちに見かけるエンダーだが、面白いことにルートビアを売りにしているところは非常に多かった。それは観光客の好奇心に乗っかった戦略なのか、島民がそもそもルートビアを愛しているという理由なのかは定かではないが、友人のリアクションを見る限りでは後者ではないような気がする。その部分に関しての考察はまたの機会にしようと思う。兎に角、ルートビアは中々印象に残る飲み物だった。帰ってきてからまた飲みたいと思うことは恐らく1ヶ月はないだろうが、貴重な経験をした出来事だった。
Jun 17, 2009
コメント(4)
ゴキブリが他のところよりもアクティブに人間に挑戦してくるところのお話。リゾートホテルという言葉をよく聞くが、実際にその目で見たことは殆ど無かった。所謂リゾートホテルと呼ばれる場所に行ったことはあるが、想像していたものとは違う種類のリゾートホテルだった経験ならある。勿論そこに落胆が伴ったことは言うまでもないが。そういう意味では、初めてリゾートホテルらしいリゾートホテルに辿り着いたような気がする。まさに私が頭の中で描いていたような景色そのものだった。まず何よりもホテルとしての規模が違う。大きな面積を有しているホテルは他にも数多あろうが、リゾートしての機能を有したまま広大な面積を誇っているリゾートホテルというのも珍しいものだった。勿論珍しいというのは私の主観的な感想であって、客観的な意味は含まれていない。そして次に機能的且つ開放的なところが素晴らしい。私が行ったホテルが偶然そうだった可能性もないわけではないが、ホテルのど真ん中にプールがって、すぐ目の前がビーチになっているというのは内地ではそうないものだと感じられる。梅雨時期だとは言っても、ビーチの方から爽やかに吹いてくる風はとても心地よく、南国にいる気分を増幅させてくれるには十分な力を持っていた。最後に構造だ。所謂内地での一般的なホテルの規格を大いに良い意味で裏切ってくれるフォルムは、眺めているだけで軽いトリップへと誘ってくれる。まさにリゾートと呼ぶに相応しい。2日目の夜は、そこで友人と一緒にお酒を飲みながらまったりしていたのだが、その時は本当に素晴らしいものだった。お酒が美味しいのもあるが、何より雰囲気が最高だ。松明の火がゆらゆら心地よい風で揺れる中、眼前のビーチから聞こえる波の音を聞きながらお酒を飲む。ウッド調のテーブルは、まさに南国を象徴したかのようなゆったりとした造りで、目の前にキャンドルの火が揺らめく。煩過ぎないボリュームで聞こえてくる女性シンガーの歌声と相成れば、もうまったりしない方がおかしいだろう。勿論そのバーには時計なんて置いていないし、私はその必要性も感じなかった。まさにこれこそ沖縄の醍醐味の1つだろう。時が流れるのが本当にゆっくりで…ずっとそこに居たい錯覚を現実のものにしてくれる。心からのんびりしたのは本当に数ヶ月ぶりだった。最高の癒しがそこにはあった。加えて気の合う友人との心地よい会話、もうこれ以上を望むのは罰があたるというものだ。日頃お酒を飲むことが多くなった私だが、この時は最高に気分が良かったものだった。この気分を味わう為には足繁く沖縄に通ってもいいと本気で思ったものだった。こうして素敵なロケーションで風に当たりながらお酒を飲み、友人と会話する。これだけのことかもしれないが、都会で生活している上ではあまり味わうことの出来ない醍醐味がある。沖縄好きが多いのも納得の破壊力を持っていた。因みに、その時は少しいつもより飲みすぎたような気もしたが、それもいいだろう。そういう羽目を外すことを大目に見てくれるだけののんびりさにかけては沖縄は随一なのだろうから。君にはちょっとだけ…迷惑かけたかな?(苦笑)
Jun 16, 2009
コメント(0)
Yナンバーの車が当たり前に走っているところのお話。路線を引くメリットを考えた場合、その多くは利便性と土地柄が大きく関係している。実際のところ、現在路線を引いて電車を走らせているところの多くは、利便性と土地の汎用性の影響で作られているところが殆どだ。ざっくり言えば、路線を引く上での問題が生じる可能性が低いということだ。それが沖縄の場合は少々込み入った問題が発生する。土地を誘致するにしても、土着している文化圏が広すぎて効率的且つ建設的な誘致が難しいということだ。そしてこれが最も大きい理由なのだが、他県と隣接していないということが挙げられる。電車の大きなメリットとしては他県への移動がスムーズになることにある。車道をまっすぐにしたいという願いは建設の段階で必ず挙がってくるトピックではあるが、実際問題そう簡単にはいかない。故に道路は曲がりくねったような…結果論では無駄な距離が発生してしまうことになる。目的地を直線で結んだ場合には短い距離でも、実際に車を運転してみると大回りしていることなんて珍しいこではない。特に土地の狭いところでは起こりやすい現象だと言えるわけだ。そこで電車という案がある。電車は車に比べて交通量は圧倒的に少ないし、一度に運搬可能な人数も遥かに多い。然るに効率性の観点から望ましい。そして大回りをしなければならないという問題も大きな山や谷がある場合を除き解決に向かうことも多いというわけだ。必然的に隣県への移動もスムーズになる。かような事情もあって、車社会は形成される。尤も、名古屋のようにどちらの機関も発展しているという例外はあるが、概ね車社会を形成する地域は公共交通機関が比較減衰しているように見えるものだ。そしてそのような状況故の必然…ドライブスルーも多くなるというものだ。私は結構色々な地域の飲食店を見てきたが、沖縄の某有名チェーン店す○家にまでドライブスルーが採用されているということには素直に驚いた。しかし考えてみれば、車での移動を主としているので、必然性は感じられるし、同時に合理的でもあると思える。だが!ドライブスルー大国の沖縄には更に凄いドライブスルーがあった。ドライブスルーと言うと何を思い浮かべるか、恐らく大半は飲食関係だろう。手軽に車から降りることなく買い物が出来、その分駐車場に遣うべき土地を少なくすることが可能になるというドライブスルーは広大な土地を有していないところでは非常に効果的だ。だが沖縄にあったのは飲食関係ではなく…銀行ATMのドライブスルーがあるのだ。最初は冗談かと思ったが、実物を間近に見ると、そのなんとも言えない存在感に驚嘆してしまった。が、同時にその存在意義について疑問符を投げかけたくなるものでもあった。例えば、その銀行ATMが金融とは全く関係ない建物に付随しているものだとすれば、さしたる疑問も持たないだろう。しかし現物はATMの元締めの銀行に付随しているものだったのだ。それが疑問に思えて仕方ない。仮に銀行ATMがマクドナルドに付随していた場合にどうなるか、それは自明だ。その銀行ATMを設置する為には設置料のようなものが発生する。その土地を本来有している法人に対してのある意味ではテナント代のようなものが掛かることだろう。同じ土地に銀行自体を配するよりは安価であることは想像に難くないが、それでも決して安いものではない。つまり設置されている根本的な意味としては間違ってはいない。だが、構造的な観点ではATMをドライブスルー化することに関しては疑問が残る。それはATMでやり取りをする工程を考えればわかる。例えばマクドナルドのドライブスルーの場合を考えればわかり易い。あのタイプは注文するものをマイクを通して店員に伝える為、ある程度車と設備までの距離があっても集音できるようになっている。つまりぎりぎりまで車を寄せる必要性はない。だがATMの場合は、取引に必ずカードか通帳が必要になるし、システム的にマイクを設置して解決出来る類のものではない。よって、ATM本体ぎりぎりまで車を寄せる必要があるのだ。旧式の高速道路の料金上の寄せ方とは比べ物にならないほど緻密なドライビングテクニックを要求されることになる。本来流れるようにお客を捌けるという利点があるドライブスルーにあるまじき非効率性だ。次に、営業時間ならば銀行本体に入って取引した方がセキュリティの都合上でも望ましいということが挙げられる。これは私の想像だが、ドライブスルーATMは夜間の取引時間外でも記帳出来るというメリットが介在しているようにも思えるが、今日びATMの取引及び記帳はコンビニでも可能だ。つまり必要に迫られてドライブスルー制度にするメリットはあまりないということになる。且つ、上記のようなセキュリティの観点から、店外にかようなシステムを置いてしまうと悪意ある第3者によっての暗証番号の盗み見を助長することにもなりかねない。セキュリティを重んじる上では致命的な構造だと言えるわけだ。結局のところ、何故かようなシステムにしているのかはわからないが、4日間の滞在中、目視できたドライブスルーATMは1台だけだった。つまり先駆的なものであり…排他的なものでもあるようだ。パイオニアとしては十分な資質を持っているという評価が出来る。希望的観測では話題性を出したかったのかもしれないが、それにしてはあまりにもリスキーだ。それでも…そのシステムが未だに存続していることを考えると、悪意ある第3者の存在はないということなのだろう。ドライブスルーATMがあることは、安全な土地であることの裏返しと思うと…或いは画期的なシステムなのかもしれないと感じた出来事だった。
Jun 15, 2009
コメント(0)
手を挙げずにタクシーが停まり、手を挙げないとバスが停まらない街のお話。これは結構有名な話なので、ご存知の方も多いだろう。バスやタクシーは必ずどの都道府県にもあるし、上記の2つを内地ではどのように止めるのかも自明のことだろう。タクシーには停車駅がなく、バスにはあることを考えればわかるはずだ。だが、バスは手を挙げないと止まらないというのが沖縄クオリティだ。その話は以前より知っていたが、実際に目の当たりにするまでは俄には信じられない話だった。私がバスが異常なまでに発達している京都生まれだから余計にそう思うのかもしれないが。その話の真偽の程をついでに確かめるべく、那覇空港からモノレールに乗って目的地へと向かった。目的地は那覇のメインストリートである国際通りに隣接する通りだ。観光客向けのお店が立ち並ぶ中、バス停はひっそりとあった。流石琉球といった具合で、バス停もただの屋根があるだけではなく瓦仕様になっていた。なんだ、普通にバス停があるし、内地と変わらないではないかと思いかけたのだが、よくよく見てみると違和感に気づいた。私が見たバス停は、内地でもポピュラーなタイプのものだった。屋根があり、バス停らしい佇まいだった。強いて言うなら質素な造りというくらいだった。屋根があるだけなのだから。そう私が気づいた違和感とは…時刻表がなかったのだ。まぁ考えてみれば、バスが定刻通りにやって来てバス停に停車し、お客を待つというスタンスならば時刻表は必ず必要になるものだが、手を挙げないとバスが停まらないのであれば極論時刻表は要らないことになる。止め方は違うものの、バスに乗る側のスタンスは内地だろうが沖縄だろうが変わらない。乗りたい人はおおよそバスが通過する時間を計算してバス停で待っているのだから。そう思うと、停め方の違いを度外視しても時刻表は必ず必要な気もするが…私が見たところだけかもしれないが、そのバス停には時刻表が無かった。これは大いに衝撃を受けた内容だった。考えてみれば、これは沖縄という土地柄に関係していることなのかもしれない。沖縄にはモノレールを抜きにすれば、電車が走っていない。つまり車の普及率は非常に高いということだ。そして米軍基地もあることから、道路の幅は非常に広く設けられており、車が走りやすい環境になっている。仕事を始めると移動が多くなり、必然的に車の使用も多くなることから、沖縄は名古屋などと同じように車社会が形成されている。因みに、沖縄は運転代行の数も他県に比べて多いということらしい。要するに車がメインというわけだ。ではバスはどのような人が利用するのか。上記を踏まえると、消去法で「車を運転しないor出来ない人」という括りになる。つまりは子どもや年を召した方ということだ。仕事や急ぎの用事が発生しやすい働き盛りの人に比べて、子どもや老人は急ぎの用事が発生し難い。これは断定しているわけではない。確率論の話だ。急ぎに利用されることがない為、バスの比重は低くなる。よって時刻表がない場合も見受けられるという結論に至ったわけだ。恐らくかような理由ではないだろうが、一理はあるような気がする。実際に沖縄のバスを見てみると、内地のバス…主に首都圏などで見受けられるバスとは違う点が多々ある。その最たる部分が「行き先表示の細分化」だ。バスの前の部分…運転席の上の部分には最終的な行き先が書かれていることが多い。例えば渋谷まで~とか新宿まで~といった具合だ。往々にしてバスには最終目的地のみ書かれており、バス内部に停車駅が記載されていることが多い。だが、沖縄のバスは、本来最終目的地が書かれている場所に、停車駅が事細かに書かれているのがよく見受けられる。これは、乗ることが予想される層への配慮があらわれているのではないだろうか。時刻表を閲覧するよりも、乗るバスに書かれている方が判断し易いし、何よりそうすることによって急ぎの用事が発生し難い観光客にも対応出来る。まさに一石二鳥というわけだ。今回の観光でバスに乗る機会は無かったのがほんの少しだけ残念だったが、また近いうちに沖縄には訪れようと思うので、その時には利用してみるのも面白いかもしれない。沖縄のバスの支払い方法についてリサーチをかけるのが、目下私の目標でもある。こういうことはネットで調べると面白さは半減してしまうものだ。自分の目で体験することに大いに価値がある。そういうことで満足できるのなら…きっと旅行なんてしていないのだから、ある意味では自明なのかもしれない(笑)
Jun 14, 2009
コメント(0)
帰って参りました。日本は緯度と経度の関係上、他の国にはあまり見られないような気候の変化が顕著に見られる国として珍しい存在だろう。実際に、北海道と沖縄では全く違う気候となっている。そしてそのような認識は日本中の誰しもが持っているものだと推察出来る。しかし実際にどう違うかというところに関しては行ってみないとわからない部分もある。数字として気温をはかることも、ロケーションを見ることも今となっては難しいことではない。だが、自分自身の目以上に顕著に違いを感じられる部分は少ないだろう。肌で、目で、感じられる空気や気温、匂いは持ち出すことのできないパーソナルなデータだからだ。その意味でも、私は大きな衝撃を受けた。話に聞く沖縄は、まさにリゾートという感じだった。24年の人生の中で、訪れることの無かった沖縄、それでも行ってみたかった場所。今回初めて降り立ち、その空気を感じることで、机上で知っているものと実際に味わうものがそこまで違うものなのかということを強く感じることになった。というわけで、今回から暫くは旅行に関してざっくばらんに書いてみようと思う。長い長い報告記というわけだ。沖縄の梅雨は凄い。多分常夏の島というイメージから、梅雨と言えども沖縄の夏はからっとして気持ちのいいものだと感じている人も多いだろう。しかし沖縄の梅雨…というよりも今くらいの時期は、本当に凄いことになっている。じとじと感が凄いのだ。外に出ただけでも汗ばむような暑さ、気持ちのいい暑さでは全くない。地元民にすればそこがいいところだろうと思うかもしれないが、全く耐性がない状態でのあの気温はかなりきついはずだ。各言う私も、暑さにはそれなりに耐性を持っているつもりだった。しかし沖縄…那覇のあの気温は尋常ではない。私も慣れるまでに随分と時間が掛かってしまった。直接的に表示される気温と体感気温がそこまで違うという意味でもとても有意義な体験となった。今回の旅行のプランは、現地で私を案内してくれる地元の人がいたから成就したものだった。この友人は、もう随分長い付き合いになる。この方について紹介してもいいような気もするが、あまり詳しく書いてしまっても当人からのクレームが来ることだろう。ここだけの話だが、私はその方に憧れている。私の知らないことを沢山教えてくれる人、学校で習う勉強以上に大切なことを教えてくれた人、大切でかけがえのない友人、気心のしれない友人。まぁ友人の紹介はこれくらいにしておこう。なにせ、今回の沖縄旅行を語る上で、その方の存在はかかせないのだから。避けることの出来ない要因である為、頻出を余儀なくされるわけだ。さて、いざ本編といきたいところだが…もう900件以上のブログを書いてきた私とて、今回のことを上手く纏められるかどうかの自身はない。なので、今回はこれくらいにしておこうと思う。物事は一気に捲くし立てるよりも小出しにした方が面白いように見えるのだから。
Jun 13, 2009
コメント(2)
台風の心配がある。何故だか私の周りには雨の関係のものが多くあるような気がする。別に意図して雨を呼び寄せているわけでも、それを望んでいるわけでもない。しかし何故だか私には雨が付き纏う。こういうことは日頃の行いといったような抽象的な内容を、第3者から半ば強制的に与えられるものだ。如何に自分で弁解しようとも、実際に雨がよく降る環境にあってしまうと言い訳のしようもない。そういう意味で言えば、私はもう立派な雨男なのだろう。実際旅行に行くことになったのだが、直前までいい天気の予報だったのが、いまや台風が来るだの来ないだのという話になっている。一体どうしたものか。とは言っても、こういう事象は自分の力のみではどうしようもない。どうしようもない力だからこそ抗いたくなるものなのだが。というわけで、今日ようやく旅行に行くことになった。ぎりぎりまで天候の心配をしていたのだが、どうやら朝の様子を見ると心配も不必要そうだ。大切なのは空港までのアクセスではなく、飛行機が飛ぶかどうかと降りられるかどうかの問題となる。電車や車に比べて飛行機はナイーブな乗り物なので、その部分を気にしないといけなくなる。そういえば、飛行機は場所と場所を移動する乗り物の中で一番事故の可能性の低いものらしい。普通に考えてみれば車や電車の方がよっぽど安全そうに思えるものだが、実際は飛行機が一番安全らしい。飛行機は少しの天候の変化でも予定を順延して飛ぶことが多い乗り物だ。そういうナイーブなところが安全性に比例しているのかもしれない。安全なだけに価格もお高くなっているのだが(苦笑)話が逸れた。というわけで、久しぶりの旅行の目的地は沖縄ということになった。まぁこれも諸所の理由があってのことだが・・・それは敢えてここで書くようなことではないと認識している。要は結果であって過程ではない。それを観察する第3者にとっては余計にそうだ。無駄な味付けや料理の説明をされることほど苦痛を感じることはない。誰だって料理の説明をされることを望んでいるわけではないのだから。目の前に出された料理をただ食せばいい、食べるか食べないかは出された人の自由なのだから。というわけで出かけようと思う。帰ってくるのは暫く先になるが…一足先に夏休みのバカンスと洒落込んでくるとしよう。去年も夏休みがなかったのだから罰は当たらない…よね?(笑)
Jun 12, 2009
コメント(2)
本格的にじめじめする季節になってきた。この時期になると、どうしても憂鬱になってしまうことが多い。やはり天候とテンションには何らかの因果関係があるのだろう。梅雨時期のじめじめとした空気にいい思い出があれば別なのかもしれないが、生憎と私にはそのような思い出はない。晴れのいい天気にいいことがあったとかそういう微笑ましい物事に比べると、やはり絶対数は限られてくるものなのだろう。統計をとっているわけではないので定かではないが。そういえば…もう沖縄旅行まで日がない。随分先のことをリザーブしたつもりでいたが、目の前まで迫っている。思えば私も随分とアクティブになったものだ。一昔前ならば、自分の住んでいる場所から出るということに少なからず抵抗を覚えたものだった。やはり自分が生まれて根ざしている地域の方が落ち着くというのが人の常だし、敢えて環境を変えようという考え方には賛同しかねる性格だった。それがいつからだろうか、色々なところに行くことを純粋に面白いと思えるようになった。それは恐らく…人格的な成熟というよりも、金銭的な余裕が生むものなのかもしれない。金銭的な余裕は、待っていても訪れるものではない。自分自身で切り開いていくものだ。仕事を始めてからは、自分の時間を切り売りする代わりに、金銭的余裕を感じるようになった。やはり旅行というと、少なからず金銭的負荷が掛かるものだ。学業を主としているような時期では、そうそうに出来るものではない。そういう意味では大人になったということなのだろうか?多分そうではない。大人になるということは、自分の時間と好きな時間を綺麗に二分できることを指すのだろう。有り余る時間と共に貴重なものだと認識している幻のようなものを切り捨てていく作業、それが大人になるということだ。そういう意味ではまだまだ子どもだといったところか(笑)さて、本題へ。私の仕事はパソコン関係だということは、以前より数度書いたことがあるので、特に真新しい情報ではないかもしれない。が、実際のところ、パソコン関係と一口に言ってもかなりの分野にカテゴライズすることが可能だ。なので、少しばかり仕事の話をしてみようと思う。つまらないことは請け合い。私の仕事は、パソコンを使うものの、本体をセールスする仕事ではない。私に会ったことがある諸兄はわかるかもしれないが、私には営業の才能は皆無だ。言葉を上手く話すことが出来ないとまでは言わないが、おべっかが極端に下手だと認識しているし、それは第3者的な考察とも相違点は少ないだろう。そういう類ではなく、私のしている仕事は簡単に言ってしまえばパソコンを「みる」ことにある。みると一言で言っても、パソコンをじーっと眺めているわけではない。勿論そういう部分もあるが、もっと簡素に言ってしまえばパソコンの中で動いているシゴト達を観察するようなものに近い。シゴト達は、1つではあまり意味がない。なので、全ての仕事は独立することなく、全体で幾つあるのかわからないシゴト達で大きな意味で1つのネットワークを形成する。そしてそのネットワークと呼ばれるものが現代社会に還元可能な「財」という形で人々に提供されている。つまり極端な話、1つのシゴトが不調になるだけで、全てのネットワークは停滞してしまい、会社に損害を与えてしまうわけだ。丁度この考え方は人間の社会によく似ている。人が1人いて、その人は家族というグループを形成する。そして家族が集まって村というグループを形成する。村というグループが集まって町というグループを形成する。そんな具合に、都市、県、国、世界の順で形成されていくが、もとを糺せばそれは1人の人によって作られているものだ。もしも1人が風邪で寝込んでしまってそれを放置してしまえば、それは家族へと波及し、いずれ大きな影響を齎す。まさにそのような仕組みになっているのだ。子どものいる家族、いない家族。独身、既婚者。家族と一口に言っても、様々な形態がある。それと同じく、シゴト達にも色々な形がある。2つのシゴトで1つのグループを形成するものもあれば、10以上のシゴトが集まって1つのグループが形成されるものもある。しかしシゴトのグループに共通するのは、幾つのファクタで構成されていようが1つのグループとしての価値は同じだということだ。独身者だから地位が低い、既婚者だから地位が高いということがないのと同じ道理だと言える。どれも同じだけの価値がある。そして一番重要なのは、シゴトのグループの中のどれか1つでも仕事をサボってしまうと、グループが上手くいかないという部分だ。これが一番価値ある概念だと感じる。そして他のシゴト達は上手くいかないシゴトを間接的に手伝うことが出来ても本質的に助けることは出来ないようになっている。宛ら人生そのものではないだろうか。多くのシゴトが犇めき合う様は、まるで人の社会そのものだ。そして1つたりとも余分なシゴトは存在しない。そういう部分が好感が持てる。私は今まで、仕事の本質的な部分に意味を感じることはなかったが、かように考え方を変えることで、ツールという名の社会に犇くシゴトという名の個に愛着が沸くようになってきた。飛躍しすぎかもしれないが、長らく使っている道具に愛情を感じるのと同じ道理だと感じる。きっと長く仕事を続けていくにはこういうモチベーションも必要なのだろうと思う。もの言わぬシゴト達は24時間休むことなく働き続けている。それを見守るのが私の仕事。これだけの意識の変革で見方が変わるのだから、なかなか捨てたものではないんじゃなかろうか(笑)
Jun 11, 2009
コメント(0)
梅雨に入ってから初めてまともな雨が降った。去年の今頃も、まさに空梅雨で雨なんて殆ど降らなかった。一般的に梅雨の雨は嫌われる傾向にあるが、私は特にそう思っているわけではない。何故なら梅雨の時期は必然的にじめじめするものだが、雨が降らないままにじとじとしている状態が一番気持ち悪い。どうせなら雨が降ってくれた方が気持ちがいいことだってある。そういう意味では雨が降ってくれて若干気持ち良かった部分もある。まぁ洗濯でもしようかと思っていた矢先の雨だったので、全面的に受け入れられるかどうかは別問題にして。そういえば…空梅雨の年には必ずと言っていいほど言われるのが渇水の問題だ。全国的に渇水の問題は毎年このぐらいの時期から言われ始めるが…それに関しても少し思うところがある。関西に住んでいた頃は近くにダムがあったから、その部分で渇水云々の話は結構出た。実家に住んでいた頃は水道から水を引いていたわけではなく地下水だったのでそういうことに関して考えたことは無かったが、市内に出てきて一人暮らしをする頃になると渇水の問題は意外に深刻であることを認識することになった。断水や節水の動きが活発になったからだ。そうこうしながら関東に引越してきたのだが、関東で渇水の問題について言われたことは聞いたことがない。十分な雨量があってそれで渇水の問題が表面化しなかった可能性もあるが、去年は確実な空梅雨だった。それを考えると、渇水にならなかったのが不思議に思える。考えられるのは、関西に比べて関東の方がダムなどの貯水施設が多いということだ。多少雨量が少なくても、貯水施設が機能しているから問題ないということだ。しかしそんな話も聞いたことはない。まぁ渇水や節水の必要がないというのはありがたいものだ。節水は必要に迫られてするものではなく、日頃のエコの考え次第ということもわかってはいるのだが。さて、本題へ。ただいま8連勤の最中。。。世の中の仕事は月曜日から金曜日まで9時間勤務で出勤し土曜日と日曜日は休みというバイオリズムで動いている。会社によっては土曜日も仕事というところもあるかもしれないが、それでも連続で勤務する限界は6連勤までが相場だ。そんな中、私は今8連勤というある意味では苦行の中にいる。不幸かと言われればそうでもないが、やはり楽ではない。しかも、何事もない時間が過ぎていくのなら問題ないが、昨日なんかはもうてんやわんやしていた。滅多に起きないことが起きてしまったからだ。そのせいでいつもの夜勤の2倍は疲れた。もう流石に慣れてしまったとは言っても、現実の仕事とは著しく乖離している今の状況に手放しに喜べないのもまた事実だ。普通の人なら8日連続で仕事に行かなければならない状況にうんざりすることだろう。しかし逆に考えれば、8日連続で仕事に行った分休みも固まってとることが可能なのだ。普通のバイオリズムで仕事している場合には、祝日のある月以外は2連休以上は難しくなる。休みをとろうと思うと、どうしても有休を消化することになるからだ。しかし、私のような仕事をしている人にしてみれば、月のはじめの方に何連勤もしておくと、後半に4連休を取ることも可能なのだ。休みの数は労働基準法で決まっている為、その部分で損をするということもない。そういう仕事をしていると、不思議なもので趣味が変わってくるものだ。私も今までは趣味らしい趣味もなかったのだが、今では休みの長さを利用しての旅行が趣味になった。遠くまで出かけることが出来るのはなかなか面白い。根付く文化に触れることが出来るからだ。そこにしかないものに会いに行くのが旅行の醍醐味だと感じている。逆に、同じ現場で仕事をしている人もそのような趣味を持ちそうなものなのだが、案外インドア派が多いことに驚くこともある。何故外に出て行こうとしないのか理解に苦しむが…人の趣味というのも千差万別なのだから、それこそ私の介入するところではない。結局何が言いたかったのかわからないが、苦しいことが待っていると、その分楽しいことも待っているということだろうか。人生のバランスはこうして保たれている。まぁ今は苦しいことだけが取り巻いているような気がしないでもないが(苦笑)
Jun 10, 2009
コメント(0)
虫歯になりやすいかどうかは、3歳までに決まるらしい。結構有名な話だから、誰でも知っているかもしれないが、虫歯は食生活によって引き起こされるという誘因の他にも先天性があるらしい。まぁ先天的に虫歯になりやすい体質ではなかったとしても、食事の後に歯磨きをしなければ虫歯になりやすいなんてことは自明だろう。要するに、虫歯になるかどうかは日々の歯磨きが関係しているということだろう。そして私は、虫歯になりやすい体質らしい。もう何度虫歯になったのか覚えていない。現在も虫歯の治療中だ。今まで関西と関東の様々なところで生活してきたが、各々の場所にいきつけの歯医者があるくらい虫歯と私は切っても切れない関係にあるらしい。こっちとしては出来るだけ早く絶縁したいのだが(苦笑)3歳までに虫歯になりやすいかどうかが決まるということらしいが、ではどのような事で決まるのだろうか?ちょっと考えてみることにしよう。まず最初に考えられるのは、3歳までに効果的な歯磨きの方法が出来ているかどうかということだ。3歳に至るまでに歯磨きをしないということはないと思うが、もしも3歳まで歯磨きをしないで生活してきた子どもと、効果的な歯磨きを教えられてきた子どもとでは、虫歯体質になるかどうかにも若干の差異が生まれることだろう。勿論前者がなりにくいということだ。2つ目に考えられるのは、本当の意味で先天性が関係しているということだ。虫歯にどうやってなるのかというメカニズムを考えてみればわかりそうなものだが、歯磨きをろくにしないということの他にも、口の中の細菌の量も大いに関係してくる。こういう部分は、血液の中の血小板の量が人によって違うように個人差がある。これは日々の生活習慣も勿論のこと、先天性が非常に大きい。上記の2つの部分を比べてみると、結局は生活習慣や食生活、そして先天性という見事なバランスの上に成り立っているもののように思える。が、実はそうではない。冒頭の方でも記述したように、虫歯にならない為には効果的な歯磨きが最も有効なのだ。それは虫歯になりやすいなりにくいに全く関係しないことだ。3歳までに虫歯のなり易さが決まるというが、それまでに効果的な歯磨きを教えてあげれば、仮に虫歯になりやすい体質になったとしても、虫歯を抑え込むことは可能になる。私は多分効果的な歯磨きを教えて貰えなかったのだろう。しかしまぁ歯磨きは勿論している。なんだか虫歯になりやすい体質は損をしているような気分にもなるが、こういう体質だからこそ歯磨きも入念に行うようになっていることを思うと…そう捨てたものでもないような気もしてくる。まこと…世の中は上手く出来ているものだ。
Jun 9, 2009
コメント(2)
ってどうなんだろう。漫画やアニメ、それこそ実写の映画でさえも、悪者の常套句と化している「世界征服」なのだが、これは実際のところどうなのだろうか?悪者は無法を主としている。人々を襲ったり、金品を略奪することを仕事であるかのようにしている。そんな悪者が「世界征服」という1つの目的に向かって手を取り合っているのはまこと微笑ましいものではないか。ふとそう思う。悪者の常套句として用いられる「世界征服」は果たして合理的な世界なのだろうか、ちょっと考察してみるとしよう。例えば正義と悪が対立している世界があったとして、その力は拮抗しているものとしよう。テレビやアニメでは拮抗しながらも、必ず正義の方が強かったりする。だから最終話近くでは悪が滅びることになる。だがしかし、もしも悪の力が強かったら…つまりテレビやアニメで悪が目標にしている世界征服への道が視界良好だとしたら、どうなるのか。まず悪の組織の世界征服の道を邪魔しようとする正義の味方、漫画やアニメでヒーローとされる人物は最初に駆逐されることになる。世界各地で出没する悪に対して日々出撃するヒーロー、休暇も有休も使えない。そのうち休みも貰えず疲弊して…精神的に病んでくる。通院生活になるが、悪の勢いはおさまらない。そうして正義の味方は戦えなくなる。漫画やアニメでいうところの正義の味方が早々にいなくなるのだ。そうなると、次に悪は自分達の世界制服の思想に反対する人物を消そうとする。悪の思想に共感する人も少なからずいようが、世の中の殆どの人は世界征服なんて望んではいない。となると、そういう反対する人物は正義の味方という特殊能力を用いる人物さえやっつけた力をもって反対勢力を駆逐しようとする。当然ながら一般市民はなす術なくやられることになる。また新たな正義の味方が組織されるかもしれないが、最初の正義の味方が戦っていた状態とはバックボーンが違う。最新鋭の技術を以って生み出された正義の味方がやられたのだから、勢力拡大を続ける悪には勝てるはずもないだろう。よって、世界征服の思想に反対する者、それに組するもの、そういう人物は消えていく。結果的に、そう時間も掛からず世界は悪の組織で埋め尽くされることになる。恐らくその頃には、人口は現在のものの3割ほどに減少している頃だろう。そしてその全てが悪の組織に組する人物ということになる。事実上の世界征服だ。しかしこれでは終わらない。人とはかくも欲深き生き物だ。組織としての世界征服が達成されたとしても、組織内で派閥が形成され、少しでも自分の地位を向上しようという動きが出来てくる。外から組織を潰そうという動きがないのだから、必然的に内紛が生まれる。仲間割れの発生だ。そうなってくると、力や財力の強い者が弱い者を淘汰することになる。悪の組織の中でも、力の強い者だけが生き残り、組織の人口も少なくなる。そうして力の強い者だけが残るが、それでも争いは消えない。自分こそナンバーワンだという考えは争う相手がいるからこそ消えないものだ。そうして事実上組織の中でも最強の1人が決まることになる。もともとの性質が悪であり、正攻法などとらないことを思うと、邪魔者を消すということなんて平気でするだろう。強い者が弱い者を消し、そしてどんどん数が少なくなっていく。最終的には相手のいなくなる1人という状況が形成される。つまり、たった1人になってしまった状態が真の世界征服だということになる。確かに世の中に自分1人しかいない世界だったら、世の中の全てが自分のものということになるし、世界征服の状態としては相応しいものになっているだろう。しかし…一体そこから何が生まれるのか?世界征服なんて、隷属させる相手がいるからこそ意味があることだ。しかし邪魔者を野放しにしておくと、最初は力が弱くても数を束ねて強力な組織となる可能性がある。そういう芽は早くに摘んでおかなければならない。しかしそうすることによって、世界征服をする「目的」を失うことになるのだ。つまり性か征服とは突き詰めれば矛盾を包括している目的なのだ。そんなものよりも、正義の味方をやっつけるだけの技術力を世の中の為になるものを開発する方向に向けて、社会的に認知される方がよっぽど建設的だろう。世の中に便利な技術や力を誇示した方が賞賛されることもあるだろう。自分とは相容れないものを掃討するのではなく、その者から賞賛され平伏させる方がよっぽど気持ちのいいことではないだろうか?とは言っても、漫画やアニメで悪の組織が正義の味方に向かって「我々の目的は…圧倒的な技術力で社会的に不動の地位を獲得することだ!!!」と言っても、多分何も始まらない。戦いは起きないだろう。もしかしたら、正義の味方もその考え方に賛同して悪の組織入りをするかもしれない。まぁそうなったらその組織は「悪」でもなんでもないのだが(笑)
Jun 8, 2009
コメント(0)
先日、飲み会をした。その時の話。私の職場には太っている人がいる。とは言っても、先天的に太っていたわけではなく、休みの日や暇な日には家に篭ってオンラインゲームばかりしており、食べるものと言えば出前のピザが殆どの人だ。まぁそんな生活をしているのだから、太るのは必然だと言える。そんな先輩も含めた現場の人を集めた飲み会。私はそんな場が好きだった。飲み会が始まって、最初はくだらない話で盛り上がった。以下は話のくだりであり、今回の話の全てである。因みにH先輩というのがその太っている人で、私の先輩にあたる人だ。H先輩「いやぁ、最近めっきり太ってきてさぁ…」I先輩「見たらわかりますよ(笑)」M先輩「せやけど、入社当時に比べて随分お腹周りやばくなってきたんちゃう?」H先輩「今なんてスラックスのズボンに財布入れてたらはみ出てきますよ」I先輩「知ってる知ってる(笑)」H先輩「そういえば、こないだ入社当時のスラックス履いたんですけど…」M先輩「履けんかったしょ?」H先輩「ええ、履けませんでした。全然入らなくてなんだこれぇ!って思いましたよ」私「いや、多分それはH先輩よりも…スラックスがそう思ってますよ」
Jun 7, 2009
コメント(0)
関西の梅雨入りから遅れること1日関東も遂に梅雨入りとなった。そういえば、去年の梅雨は空梅雨だった。雨は数えるほどしか降っていなかったし、特に降るわけでもない季節と似たような降雨量だったような気がする。梅雨が何の為にあるのか、それは人為的な意味で存在価値があるわけではない。農業を営んでいる人にしてみれば、梅雨はなくてはならない存在だ。しかしそれはあくまで人間主体の考え方であって、自然現象が何故起こっているのかの確証にはならない。世の中の自然現象というのはそういうものだ。人は古来より自然現象に意味を求めようとした。山や川など、人が人為的に造り上げたのではないものには神が宿り、畏怖と信仰の対象になったようだ。そうすることで、自分達よりも「大きな力」が作用していると思い込んでいる。そうしていないと不安なのだ。自分の力よりもはるかに大きな力が存在していることに対して納得出来るそれなりの「理由」を欲した。そして自然現象もまた神の所業だと信じた。現代はそこまでラディカルなことはないにしても、それに似たようなことはまだ残っている。例えばお祭りがそうだ。無病息災を祈ったり、神を奉るようなことは、結局は神と生活が近しい位置にあるということ、それは神信仰がなくなっていないことの証拠だ。困った時や願望がある時、えてして人は神に縋る。古くからの習慣とは言え、そういうものが不思議に思えるものだ。私は無宗教だからこんなことが言えるのかもしれない。話が若干脱線した気がするので本題へ。人は何の為に仕事をするのか?この問いに対して、恐らく意見は半々に分かれることだろう。単純に「お金」か「モチベーション」かだ。仕事をお金を稼ぐ為の手段として捉えるか、モチベーションが上がって楽しいからやっているのかという点で相違が発生する。あくまで主観的意見だが、後者の方が動機として立派なように思える。誰だって遊んで暮らせるほどお金を持っているわけではないし、お金を稼ぐ為に仕事をしているという意見は否定できないだろう。そこにモチベーションが付随するかどうか、それだけで仕事としての価値は大きく上がる。志ある仕事スタンスは男女問わずカッコいいものだ。とは言えども、今のところ理由の7割は前者である私だ。そんな私は今月も給与明細を心待ちにしていた。そして実際に届いた給与明細を見た時、なんとも渋いリアクションしか出来なかった。私の現場は夜勤がある。当然のように夜働いているのだから、それに対する手当ては発生する。しかしその夜間の手当ては当月分が次月に支払われるわけではない。わかりやすく言うと、5月の給料は6月に支払われるのだが、5月の夜勤手当は6月には払われないというわけだ。5月の夜勤手当は7月に支払われることになっている。つまり…今月支払われる夜間手当ては、4月分ということになる。4月は残業が殆ど出来なかったので、今月支払われた5月の給料が残業や夜勤手当がつかない純粋な金額になる。その金額を計算していた。以前のブログで下がった下がったと騒いでいたのだが、どうやら一概に下がったとは言えないということに気づいた。計算機を引っ張り出してきてしっかりと計算したところ、どうやら上がっていることに気づいた。1000円だが(涙)実力を正当に評価し、それに見合うだけの金額を払うという当たり前の換算を経てそれならばいいのだが、私の会社はそうではない。実力=給料というわけではないからこそ余計に切ない。この1000円が重役を集めて社内規定を設定し直した結果なのだから平社員はやりきれないものだ。とは言っても、実際には下がったわけではない。この部分が一番扱いにくい。喜べも悲しめもしないということだ。1000円上がるということがどういうことなのか、考えたらわかるのだが敢えて考えないようにしよう。世の中には知らない方がいいこともあるのだから(笑)
Jun 6, 2009
コメント(0)
私ももうそろそろブログ中級者くらいだろうか?たまに他の方が運営していらっしゃるブログにお邪魔することがある。これは恐らくブログをやっている人ならば1度は経験することだろう。別に目的があるわけではないにしても、ちょっと覗いてみようと思うことはあるはずだ。私の場合は、他の方がどのような文章の構成をしているかを見に行くことがある。自分の文章の構成方法が全てだなんて慢心はないにしても、他の方が書きたい内容をどのように構成して伝えようとしているかに興味があるからだ。そしてその人となりに惚れ込んだ時にはメッセージを残すようにしている。そういう独創的且つ魅力的な文章を書く人に少しでも感化されたいと思うからだ。そうやって他の運営者様のブログを見ることがあるのだが、最近になってふと思うことがある。昔…それこそブログを始めた頃は、見るブログ見るブログが全て10000アクセスとか20000アクセスとか、始めたばかりの私には途方もない数のアクセス数を誇っていた。そういう方のブログを見ることが面白かった。そしていつか私もそういう沢山のアクセス数を誇るブログを書きたいと思ったものだった。名も知らぬ多くの先輩達をお手本にしたものだった。でも最近は、見るブログの7割以上が私よりも少ないアクセス数のブログになってしまった。期せずしてもう長い時間ブログを運営していることになる。いつからか、私も随分とベテランチックになったものだ。見習うべきかどうかは別にして(笑)そして今、私のブログのアクセス数は80000に達した。キリ番の度にこんなことを書いている気がするが、これも偏に見てくれた或いは通りすがってくれた方々のお蔭だ。感謝の気持ちは耐えないものだ。お約束とは思うが、80000のキリ番を踏んだのは…また何処の誰か存じ上げない方だった。これはもう定番と化しているような気がする(笑)80000を迎えて何かあるかと言えば、特に何もない。だが、まだ始めたばかりで何を書いていたのかはっきりと覚えていないような頃、凄いアクセス数を誇っていたブログを憧れのまなざしで見ていたように…私のブログもそうなれると嬉しい。ただ惰性でやっているだけのブログだけは続けたくないものだ。それを決めるのは私自身なのだが。というわけで、80000ヒットの御礼を申し上げます。次は何時になるやらわからないが、90000ヒットの時にこの報告を書くとしよう。継続は力なり、何もいいところのない私のただ1つの矜持を見守ってくれる方々に感謝の気持ちを込めて。
Jun 5, 2009
コメント(2)
徐々に本州も梅雨の気配が迫ってきた。風が気持ちいいとは言えない時期になってきた。こういう時期は、なんだか空気も生暖かくなってきて気持ちよさはあまり感じられなくなってくる。日中は兎に角涼しく過ごすことを大前提にしなければならない。まぁそれでもまだまだ梅雨までは時間がある。梅雨が来ると洗濯物を干しにくくなるという問題が出てくる。その間の洗濯物の扱いには非常に困る。部屋の中に干すと生乾きの嫌な匂いがするからだ。それにしてもこういう時期は気分も盛り上がらないものだ。そして、先日も私の元に気分が滅入るような出来事が。その日、お酒を飲みながらぼんやりとしていた。風が気持ちよく吹いている。こんな日にはいいことがありそうだった。多分すっきり寝られることだろう。閑静な住宅街に静かな風が吹く、気持ちいいものだ。横の部屋から男女が楽しそうにゲームをしている声が聞こえてくる。丁度静か過ぎる夜にはいいBGMだ。そういえば横の部屋の女性はよく彼氏を連れ込んでいる。別に盗み聞きするつもりもないのだが、聞こえてくるものは仕方ない。よく笑い声が聞こえていたものだった。別に私が幸せなわけではないが、そういう楽しそうな声を聞くと嬉しくなるものだ。そんな声を聞きながらいつものようにまったりと過ごそうと思っていたのだが…そこから先がいつもの展開とは異なっていた。その日は風が気持ちよかったものの、夜になってもそこまで気温が下がっていくわけでもなかった。私は勿論窓を開けていたのだが、横の部屋のカップルもまた窓を開け放してゲームをしていたようだった。そして仲の良いカップルの必然。その行為が始まってしまった。そう、ゲームをしながら盛り上がってしまい、愛し合い始めたのだ。そしてその声は閑静な住宅街に響く響く…。愛し合う行為を止めることは、当事者同士がなんらかの終わりを見ないと難しいものだ。閑静な住宅街に艶っぽい声が響こうが何をしようが、盛り上がっている2人を止めることは私には出来ない。これはまずいことになっているとは思いながらも、止める術を持たない私は無力だっただろう。人の無力さはこういうことにも似ている。結局、ことが終わりを迎えるまで私はやきもきしながら聞いているしかなかった。まぁ終盤に差し掛かった時に窓が開いていることに気づいて窓を閉めたらしく、声のトーンは幾分か抑えられたものの、それでも私の部屋には十分聞こえてくるレベルだった。そして私は、伴侶がいないことを寂しく思うのであった。これは何かの罰ゲームなのだろうか(涙)
Jun 4, 2009
コメント(0)
休日のお昼下がりすることがなくてのんびりこういうタイプの休みが私には非常に多い。それは単純に、することがないことに起因している。家のことは結構こまめにやることが多い分、することがなくなってしまうと、テレビでも見ながらのんびり過ごすことが多い。先日もそんな感じで過ごしていたのだが、その時ちょっと面白いことを考え付いた。今回はそんな話。最初に言っておくが、この件で被害を受けた方を中傷するつもりは全くない。被害を受けた方は文字通り「被害者」であって、加害者ではないからだ。つまり圧倒的に謝罪を受ける立場にある。よって私が介入していくのもおこがましい話だし…関係あることだとは思えない。ただ、今回テーマとなるのは、その被害を引き起こした本人であって、その周りの方については一切関係ないということを予め付記しておく。テレビでニュースをやっている。どうやら、自己破産をした経営者がいるらしい。事件の顛末というのは…今年2月に経営破綻した商工ローン大手「SFCG」(東京都中央区、旧商工ファンド)について、東京地裁(佐村浩之裁判長)は21日、破産手続きを開始する決定をした。同社が資金繰りに行き詰まった昨年秋以降、貸し出し債権など約2670億円(簿価)分の資産が関係会社や創業者の大島健伸元会長(61)の親族会社に流出していた。 (ニュース引用)ということらしい。しかも別件のニュースで報じられているのだが、この会社に内定が決まっていた150人の新入社員の内定も取り消しになったらしい。経営破綻なんてどこに転がっていてもおかしくない話だが、最近ではめっきり多くなっているような気がする。これも不景気の煽りなのか。そんなニュースを寝惚けながら見ていたのだが、見終わって最初に思ったことがこれだった。これがホントの「るろうにけんしん」だなぁ…と(笑)
Jun 3, 2009
コメント(0)
文章を書くということを苦痛だと思わない人は一体どれだけいるのだろうか?ふと考える。文章を書くことを生業にしている人以外で、一体どれだけの人が文章を書くことに対して抵抗がないのだろうかと。例えば、仕事場や学校で、ふと何気ないことに対しての感想や考察を原稿用紙2枚程度で書いて提出しろというような課題が出た場合、どのくらいの割合の人間が嫌がらないで書こうとするかというようなことだ。私のおおまかな予想では、2割がいいとことだろう。恐らく職場や学校のように、どのような趣味を持っているのかがバラバラな人間の集合体、玉石混合の状態でhどのような嗜好であろうと3割を超えるものはそうそうない。しかも今回のテーマは文章を書くことを好意的に見ている人という…一般的には少数であろうテーマなので、2割あれば十分だと言ったところか。悲観的な数字ではない。各言う私は、勿論文章を書くのが好きな方だ。それは何故かと聞かれることは最近はあまりないが、強いて答えるとしたら…文章を書くことは自分を表現することの1種なのだから。例えば目の前に綺麗な絵があったとしよう。その絵に対してどう思うか、それは殆どの人が同じだろう。まずはその絵が「綺麗か否か」という点から始まり、綺麗ならば褒めるような意味の美辞麗句を述べる。逆に綺麗だと思わないならば、どういうところが綺麗ではない要因なのかというようなことを書き、人によっては自分ならどういう種類の絵が好きなのかと言ったような言葉も入るだろう。ただし例に挙がった絵の話の好き嫌いで意見が分かれることはあっても、その絵の歴史的背景や書かれた時代の作風との相違点まで掘り下げていくようなことはないだろう。その理由は単純、絵の感想でそんなものは意味がないからだ。では逆に「差別についてどう思うか」というテーマだったとしよう。その場合には、好きか嫌いかという二者択一の選択肢ではなく、個々人の意見が求められている。つまりざっくりと2分割出来ない。そのようなテーマの場合には、どう思うかを多くの言葉と文章で語ることは自己の表現であり、己が考え方を伝えることに繋がる。勿論全てがそうだとは言わない。短い言葉で語ることの方が深みが増すということも多分にある。上記もしたが、文章を書くことは自己の表現の1つだ。論文を書いてみると、その意味するところはよくわかる。小学校や中学校で書く感想文とは一線を画しているもの、それが論文だ。何が最も違うか、それは感想文が主観的な見方で書かれているのに大して、論文では客観的な見方が必要になってくる。誰が見てもテーマに納得できるように多くのデータから必然性を導き出す。わかりやすく言えば、感想文は「1+1=○」のようなものだ。既に境界条件の式は立式されており、その答えを求める。つまり与えられた条件に対しての答え=自分の気持ちを書くといった具合だ。対する論文はそうではなく「○+○=2」のようなものだ。「2」という結果は既に見えていて、その結論に至るまでの過程をある意味では推理するようなものだ。この虫食い算を成立させる境界条件を「2」という結論を鑑みた上で限定していく。それが論文の特徴だ。ここで重要なのは「答えが1つではない」というところだ。人によって物事に対するアプローチの仕方が異なることに起因している。例えば1ホールのケーキを12分割する場合、まずは十文字に切ってから考える人と、ケーキの外周を求めて12で割り、その上できり始める人もいる。後者は文型の人間からすれば信じられないかもしれないが、理系の人間にはこういう人も結構いる。ケーキを切るという結論は同じにしても、アプローチの仕方はまちまちだ。よって、論文のアプローチの仕方も人それぞれ異なる。それが偏に面白い。学生時代の私は、そういうのが大好きだった。そして学生時代に培われたそのような内容は、私が今こうして書いているブログにも反映されている。私がブログをしているのは、私だけが見て感じた物事を如何「わかりやすく」するかということだ。私が見て感じたのだから、そのまま頭の中に留めておくことは容易だ。だがそれではアウトプットに齟齬が発生する。そうではなく、ほんの少し言葉を多めにすれば、誰にでもわかりやすくなる。人との根底的な違いを感じる最も大きな要因は「理解できる道筋で理解できない結論」だ。その最たるものを私はやっている。人から「変わってる」とよく言われる私だからこそ、その考え思うところを文章に綴っていくことに意味を感じているのだ。だから私はブログを続けている。面白いものを書こうとして意味不明になったり、詳しく説明しすぎて冗長になることもしばしばだが、大部分が未完成だからこそ、稀に完成した時の感動も大きいというものだ。しかしこれは才能ではない。文章は長ければ長いほど価値あるものではないからだ。短く的確に伝えられる方が余程才能に溢れている。長い文章を書くということは、ほんの少しの自己満足が生み出した副産物だ。グリコのおまけの玩具のようなものか。私は文章を書くのがすきだ。願わくばこれを読んでいる貴方が文章を読むのが好きな人ならばこれ以上の幸せはないだろう。
Jun 2, 2009
コメント(0)
財布が小銭でじゃらじゃら…解決策として、自動販売機に10円ずつお金を入れていって120円の飲み物を買おうを思ったら、10円玉が11枚しか無かった時のお釣りレバーを回す時の力はいつもの3割増で強い気がする(笑)誰しもが一度は思う「世の中上手くいかないこともある」ということ。その最も卑近且つ悔しさが伴うのがこういうくだらない例だろう。まぁ本当に悔しくて悔しくて仕方ないことなんて、探さなくても世の中には溢れている。例えばFXをやって失敗しただとか、希望の就職先に入れなかっただとか。「あそこでこうしていたら」とか「もうちょっと頑張れば」などと言った「たられば」の最高峰が、人生にかかわってくる上記のような事象だろう。そうなってくると、悔しい気持ちだけが満たされることになる。勿論悲しさも切なさも…混ざり合って混沌とした気持ちになるものだ。だが、冒頭で挙げたような事象は悔しいという観点では同じかもしれないが、そのレベルはたかだか痴れている。無くしたものは、効率的に行った場合と比例した微々たる時間だけだ。やってみて失敗したからもう1回やったら上手くいった、一言で言えばその程度だろう。こういう類の悔しさには、何故か少しの笑いが混じってくる。これが不思議だ。何故思い通りにいかないことがあったのに、悔しさと共に笑いが出てくるのだろうか。思うに、涙には2種類の意味があるのと同じではないだろうか。涙は基本的には悲しい時に出るものだが、時として素晴らしい景色を見た時や、主観的に物凄く嬉しい出来事が起こった時でも出ることがある。これは悲しくて出た涙ではない。一口に涙とは言っても、意味合いは正反対だったりする。つまり…くだらない失敗をして出る涙は、面白いものを見た時の笑いとは異なっていて、爆笑というよりは嘲笑や失笑、苦笑に近いということになる。何かしら1つの結論に至ったのだが、ああいう時の気分は出来れば人生の中でも数回にしておきたいものだ。いい気分とは程遠いし、ああいう時ほど自分が嫌になる瞬間もそうないのだから(苦笑)さて、本題へ。さも儲かりそうな話があったから飛びついたら大損させられた。という話は最近珍しいものではない。その最たるものは詐欺だろう。近年どんどん複雑化してくる詐欺の手口に、対応する側もなかなか手こずっている。まぁそうだ、社会を構成してきた人はお金を還元する方法よりもお金を搾取する方法を考える時の方が頭が働くものだから。取ることに関しては、法律の範囲内でも範囲外でもえげつないものだ。それが社会。話が脱線しかけたが…上手い話があるから引っかかるのを同じで、やはり魅力的なものには人気が出る。お得さは何物にも変え難い魅力であることは言うまでもない。その最たるもので…そしてその中で最も卑しいものが今回のテーマ「レディースデイ」だ。「女だから」この一言は一昔前は特に問題視されることはなかった。それは何故か、単純に男男尊女卑の考え方が普及していたからだ。しかし現代はそうではない。男女間の格差は一般的な生活に於いても仕事の一部に於いても是正されつつある。一昔前に比べたら女性の力も十分に強くなってきているのだ。だからこそ思う、あの「レディースデイ」という罠のことを。レディースデイの「レディー」とは何か?簡単だ、答えは淑女。つまり女性の中でも一際気品があって美しい女性をさす美辞麗句だ。気品があって美しい…。今の世の中男女平等と言われながらも、男性優遇の日がないのに女性優遇の日が明確に存在している。そしてレディースデイのお得さに負けて買い物なり食事なりに行く女性。これが卑しくなくて何だろうか?ある時は男女平等を訴え、女性の社会進出を訴えながらも、またある時にはレディースデイを謳歌する。まるで動物愛護団体が肉を食べているような構図だ。こういうのが「淑女」と呼べるだろうか?恐らく今日本で行われているキャンペーンの施策の中でも5指に入るくらいくだらないものだろう。そしてこのレディースデイの一番恐ろしいところは、それに釣られて買い物をしたり食事をしたりすることで自ら淑女ではないということを露呈しているということだ。どんなに取り繕ったところで、女性の社会的立場向上を訴え、反面レディースデイを謳歌している時点で淑女たる資格はとっくになくなっている。そういうある意味では偽善の仮面を剥ぐ効果があるもの、それがレディースデイだろう。甘い香りを出して虫を吸い寄せる食虫植物のような恐ろしさがそこにはある。とは言っても、焦点や百貨店等、レディースデイをやりそうな場所もキャンペーンの仕方に四苦八苦しているのもわかる。実際に真新しいものを次々に出していくなんてそうそうできることではない。だから目の前にあるレディースデイというものに飛びついてしまうのもわからないでもない。だが、だからこそ女性だけをお得にするのではなく、もっと男女格差のないキャンペーンを行って欲しいものだ。その部分でいつまでも区別的な見方が消えないならば、本当の意味での男女平等なんて永遠に来ない。いつか本当に男女平等を作りたいならば、目の前にある事象の本質に目を向けることからはじめるべきだ。当然のように日常的にあるものを変えることが、新しいものを作ることと同じくらい難しくて…それでいて本当に価値あるものなのだから。
Jun 1, 2009
コメント(0)
全17件 (17件中 1-17件目)
1

