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3月に入ってから約束が成就されたことはなかった。そういう意味ではちょっとブルーな月だったかもしれない。約束は時々叶わないことがある。そんなことはよくわかっている。だがしかし、その約束が大切なものであればあるほど…なくなった時のショックが大きいのもまた事実だ。3月にはいってから、私は合計3つの約束をした。そしてその全てが反故になった。最初の1つ以外は仕方ないことだ。それでも残念だということには変わりない。もしかしたら私にとって2009年の3月というものはそういうものなのかもしれない。受け入れ難いが(笑)そんな流れでやってきた3月終わりの約束もまた仕方ない理由によって解除された。途端にやることを失った私は…兼ねてから計画していた名古屋旅行を敢行することにした。幸いにしてその地で待つ友人とは調整がついた。やっと約束の1つは果たされることになった。何と言うか…遊ぶ約束をしてそれが叶うというだけなのに、やたら嬉しかったのを覚えている。まぁその友人と会うのが久しぶりだという理由もあるが。新幹線で1時間30分で名古屋到着、早いものだ。昔は鈍行でしか行くつもりはなかったが、今となっては新幹線以外は考えられない。時間を持て余しお金に困窮していた時期を誰もが経るが、私も例外ではなかったということだ。今となっては時間に困窮する生活が続いている。長期的な休みが取りづらいことがその理由だろう。その為、旅行の際に移動に極力時間をかけたくないと感じるようになってきた。いい傾向…なのだろうか?名古屋では久しぶりにおもいっきり遊んだ。ビリヤードをしてビリボーをして…かなりはしゃいだ。こんな感覚も久しぶりだ。少なくとも今仕事で来ている場所にはこんなレベルでの友人はいない。ある種ストレスを感じていたこともあって、思いのほかはっちゃけることが出来た。最近では類を見ないくらいに楽しかったのを覚えている。その友人とはもう数年来になる付き合いだ。きっと私というパーソナルを最も理解している人物だろう。気兼ねない友人とよく言うが、彼がまさにそれに該当する。最低限のマナーや礼儀や筋は通すが、不必要な気遣いなどは皆無だ。きっと彼もそう思っていることだろう。それを証拠に、彼とは様々なテーマについて語り合ったことがある。その全ての明確な思いを伝えてくるので…彼との議論は面白い。そんな関係だからこそ、何年経っても付き合いが消えないのだろう。遠くに住んでいることなんて関係ない、要は人と付き合うということがどのようなことかを理解していれば何の問題もない。人の価値を自分の都合や価値の大小、打算で計ることをしないからこそこれだけ長い付き合いが出来るに違いない。尤も、そういう人間は最終的に孤独になるのだが(笑)今回の旅行については、失敗した部分が主に見受けられなかった。本当に楽しい旅行となった。久しぶりに会った友人は相変わらずのようで安心した。相変わらず…部屋も汚かったし(笑)
Mar 29, 2009
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伊達眼鏡をしていることによる弊害があるとするならそれは、眼鏡をかけている人から反感を買うことくらいか。眼鏡をかける必要のある人で、眼鏡に対して好意的な感覚を持っている人が少ないというのは、もしかしたら私の周りだけの話なのだろうか?よくはわからないが、どうにも、眼鏡をかけている人に対して、伊達眼鏡というのは反感の対象となるらしい。どうしてだろうか?その理由は極めてシンプルだ。それは、視力が良くない人に対するあてつけに見られるからだ。好きで眼鏡をかけている人ならばいいが、そうではない人にとっては、目が良いのに眼鏡をかけている人は、お金持ちなのに貧乏なフリをしているくらい見ていて面白いものではないということだ。まぁ実際のところもしも自分が目が悪いとして…伊達眼鏡をかけている人がいれば、そこまでいい印象は感じないだろう。ある意味では馬鹿にされているという見方も出来るのだから。しかし私だって、伊達眼鏡をなんとなくかけているわけではない。私なりにだがポリシーはあるし、普段の生活においてかなりの市民権を得ているところまできている。まぁどこまで行っても伊達なのは当たり前なのだが、それでも私の中ではもうすっかり定着している。そう…喩えるなら、差し歯をしている人の気持ちに似ている。別に差し歯である必要はないのだが、もう差し歯をしていることが当たり前になっているような…そんな感覚。フォローになってないか(笑)さて、本題へ。先日、会社の先輩が一人辞めた。どうやら仕事と自分の夢のベクトルに齟齬を感じてのことらしい。実際、そのような前向きな理由ではなく仕事をやめていく人はこの業界には多い。理想と現実のギャップに衝撃を受けるという意味ではどの業界でもあまり相違ないといったところか。その先輩の送別会の時、酔ったことで若干失礼さの増していた私は、先輩にあることを尋ねてみた。仕事をやめて引越しするなら、要らない家具があれば欲しいと。人の感性で選ばれた家具というのは、その人なりを見るのにもなかなか役に立つ部分がある。自分の好きな家具ばかりを選ぶと、ある意味では限界は早い。しかし、人の選ぶ家具について考えてみると、その範囲は思いのほか広がることもある。別にその先輩が持っている家具に興味はなかったのだが、飲み会の場でノリでそう言ってしまった。言ってから後悔した、失礼だったかなぁと。しかし先輩は思いのほか機嫌が良さそうで、二つ返事でくれると言ってくれた。言ってみるものだ♪これも日頃の私の態度がいいわけ…なんかではなく、単純に引越しの際に邪魔だということだった。まぁそんなものだろう(笑)そしていざ引越しの日、私は先輩の家を訪ねた。私の家から50メートルほどしかないところだ。貰うのは2つだったのだが、近いということもあって2人で搬出作業を行った。思いのほか早く済み、後は私の部屋の何処に置くかを考えるだけとなった。まぁ狭い部屋なので、置く場所とは言っても必然的に決まってくる。設置作業も一瞬だった。そんなわけで…ガラス天板の机と、本棚ゲット♪♪先輩は私の家に搬出するのが終わると、まだ引越しが終わっていないからと言って帰っていかれた。多分その先輩と会うことはもうないだろう。人の出会いはえにしと言うが、一度出会った人間がまた違う機会で出会う確率なんて本当に少ない。それこそ天文学的な数値に近くなる。もしまた会えたら…私は報告しようと思う。今はまだ情けない私だが、次に会う時にはそれなりに見れるものになっているだろう。その私が会社でどのような立場になっているのか…仕事にやりがいを見出しているのか。それを報告したい。たかだか会社の先輩後輩の付き合いとは言え、人の付き合いは大事だ。ないがしろに出来るものではない。こうして一人、私の知る人がいなくなった。色々お世話になっただけに辛いところだ。しかしこれも先輩の夢への第一歩だ。いつも仕事のアドバイスをくれ、こともなげに忙しい仕事を片付けていた先輩の新たな門出に祝福多からんことを。
Mar 28, 2009
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Un hilo estaba cortadoDel nombre la confianza llamóNo necesitaré ya encontrarmeCerca de usted
Mar 24, 2009
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晴れでも風が強いとちょっとブルーだ。もともと風が強いところから来たこともあってか、雨や雪には強いが風には殆ど免疫がない。様々なシチュエーションに於ける雨や雪の時の決断は早いが、風の時の決断は思いのほか渋ることが多い。それがちょっとした悩みでもある。思えば…私は小さな頃は本当に怖がりだった。まだ物心つかないような頃、私は風は吹くと音が怖くて泣き出したことが多々あったらしい。実家のアルバムに今でもその写真が残っている。今となっては何故風が怖かったのかはトレース出来ないが、恐らくは私は極度の怖がりだったのだろうと推察できる。まぁ…それは今でも変わらないかな(笑)さて、本題へ。掃除をしていたら昔の携帯電話を発見した。私の以前の携帯電話は、ジョイント部分と言うか…接続部分の機械が壊れてしまったために現役引退することとなったものだ。バッテリーや筐体の磨耗具合を見ても、まだまだ現役バリバリだという感想を持っているが、しかしながら壊れたところが不運だったとしか言いようがない。喩えて言うなら、砲丸投げの選手が足を負傷したようなものだ。砲丸投げにとっては、腕の力と腰の力が重要だ。而して足の力が不要かと言えばそんなこともなく、足は投げ出す為の力を溜める部分として重要だ。今回の携帯電話の破損部分も同じで、ディスプレイやバッテリィをはじめ、数多ある携帯電話を構成する要素の1つが欠けてしまったわけだ。というわけで、やむなく現役引退を余儀なくされたものだ。その携帯電話なのだが、随分昔に使っていたもので、もう今や型番は絶版になっていること請け合いのものだった。良く言えば欲しくても手に入らないというようなもので、悪く言えば時代遅れの機種だという認識を持たれることだろう。実際私も掃除をしていて発見した時には、刹那だが誰かの携帯電話かと思ったくらいだった。よく見てみると、自分が遥か昔に愛用していたものだと気づき、ちょっとだけ可笑しくなってしまった。携帯電話について、思い出のようなものがあるとするなら、それは音楽や写真、メールだろう。私の発掘した携帯電話にも写真が撮れる機能がついているのだが、FOMAであるが故に、カードがないと写真も音楽もメールも使い物にならないという些末な問題にぶつかってしまった。まぁ幸い今の携帯電話もFOMAなので、カードの入れ替えだけで事は済んだのだが、昔の携帯電話の中身を見てちょっとある衝撃を受けてしまった。そこに残されていたのは在りし日の私、大好きな人と心を通わせていた頃の私の姿だった。メールを見ても、埋め尽くされる彼女からのメール。彼女との楽しかった日々。そんなメールが出るわ出るわの950件。全部見ようかとも思ったのだが、なんだかこれはこれで見ないままにしている方がいいような気がした。その時の空気、感覚、そういうものは自分の中で再生できるからこそ物に宿らせる必要がない。忘れそうになった時にふと見てみることで…思い出はずっと色褪せない価値を持つのだろう。掃除をしていたはずなのに、何故か切ない気分になってしまった。あの頃の私は多分一生で一番幸せで…そして一番廻りが見えていなかった時期だったのだから。押入れの奥を漁っていて無くしたと思っていた漫画が出てきて読み耽る…みたいな話なら馬鹿馬鹿しいが、そうでもないからちょっとセンチな気分だ。因みに…ちょっとセンチな気分になりながら写真フォルダの写真をざらっと見ていると、随分昔に忘れ去ってしまったような写真が出てきた。当時は大事にしていたが…今となっては苛立ちの対象でしかないその写真を完全に抹消することで、思い出に浸るのは終わった。楽しい気分になった分、その写真を見て気分を害する。見事に感情のバランスはゼロに近似した。まこと思い出漁りとは人生の縮図のようなものだと感じた今日この頃だった(笑)
Mar 23, 2009
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麻婆豆腐をご飯の上に乗っける魅力がわからない。よく麻婆豆腐を食べる時に、ご飯の上に乗っける人がいる。きっと私の周りだけではなく、麻婆豆腐を食べる上で基本となるものなのだろう。ただ、それをするという文化が私にはない。こういうことはきっと生まれ育った環境に起因するのだろう。美味しいかどうかは別にして、麻婆豆腐があるとご飯の上に乗っけるものだというある意味では刷り込みのような現象だと推察できる。丁度動いている扇風機があったら、廻っている羽根の前に座って…「あ゙あ゙~」と言いたくなるのと同じようなものなのだろう。脊髄反射的に行ってしまう類に分類できるのかもしれない。ともあれ、麻婆豆腐をご飯の上に乗っけたい人にとっては、美味しいという理由で行っているという人が殆どに違いない。実際に、何故そうやっているのかわからないのに乗っけている人を私は見たことがないからだ。美味しいからに理由は決まっている。では麻婆豆腐が嫌いなのかと聞かれると、答えは勿論ノーだ。むしろ大好きだし、毎日は…ちょっとキツいが、たまになら大歓迎というくらいだ。実際最近の私の麻婆豆腐率は非常に高い。3日に1回は確実に食べているくらいだ。あのピリっとした辛味が溜まらない♪脱線。。美味しいと評価している麻婆豆腐を何故ご飯の上に乗っけないのか、乗っける派にしてみれば謎だろう。子どもの頃からそうやってこなかったという家庭的な事情もあるが、それよりも件の「中華丼事件」が尾を引いているような気がする。詳細は過去ログへ。まぁ麻婆豆腐をご飯の上に乗っけるか否かは今後の課題としてとっておくことにしよう。食わず嫌いの可能性だってある、何事チャレンジ精神が肝要だということだろう。さて、本題へ。ポイントカードや会員カードは、もっと利点を明確にすべきだ。最近色んなお店のポイントカードや会員カードを作ることにはまっているのだが、そのポイントカードの特典が非常にわかりにくいということが散見される。これは非常に良くない。大前提として「そのカードを使うことに如何ほどの有用性があるか」をアピールすることは、消費者に対してメリットある行動をしてもらうという点とともに、継続的にそのお店を利用してもらうチャンスでもある。ポイントカードや会員カードの特典のみを狙っている人なんて殆どいないだろうが、確実に得する点が多いということはお店の継続的な利用を誘発する。ポイントカードや会員カードという制度を行うということは、その特典が「売り」でないといけない。だがしかし、その売りは非常にわかりにくいのでは意味がない。カードを作成する上で必要な個人情報やカードの有効期限、使用する上での諸般の注意点などは明記しているにも関わらず、メリットについては言葉を濁すことが散見される。特に某コンビニの会員カードは酷い。競合している他のコンビニで使える「○-ポイントカード」に比べても、明らかな見劣りがある。もしかしたらメリットも多いのかもしれないが、それが消費者の目に明確に入ってこないようでは、会員になるという人も少ないだろう。カード制を敷き、それによる2次的顧客を増やしたいのであれば、サービスの内容を洗練する前にキャンペーン方法を洗練すべきだと切に願う。会員になる人だって、わざわざ個人情報を晒してまで会員になろうとしているのだ。それに大して等価な説明責任を果たさないことは、サービスを提供する側にとってはあるまじき行為だ。日本に1番多いコンビニだからこそ盲目的になっているのだとしたら…これ以上残念なことはない。
Mar 22, 2009
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人の深い関係は一朝一夕では形成されない。時期尚早に形成した場合には危うい形での存続となる。そして危ういからこそ少しのきっかけで瓦解する。まるでそのこと自体を予見していたかのように。関係の希薄さを露見するかのように。見えているものを見ないようにすることは簡単だ。そのもの自身から目を逸らせばいい。見ないフリをすればいい。見えているという意識ごと刈り取るのは難しい。人は見ないフリや聞かないフリは出来ても、知らないフリは出来ないのだから。意識がある以上は知っていることを知らないという意識を持つことは出来ない。周りに振舞えても自覚レベルからの矯正は不可能だ。大切なのは自覚することではなく…認識することだ。そうしないと人は変わらない。いつまでもいつまでも同じ間違いをし続ける。本人としては真っ直ぐ正当に…自分で決めて進んでいるつもりでも、周りから見れば御飯事に見えることもしばしば。何故そんなことが起こるか、それは偏に自覚が足りないからだ。やっていることがあまりにも稚拙で…そして同じことを結局は繰り返しているのだから。わかっていることを見ないフリを続けること、それのなれの果ては決まりきっている。軽い出会い希薄な仲なあなあの空気感険悪になりたくない為の嘘、取り繕い、欺瞞結果現れる生ぬるい関係上っ面だけ見かけをよくしても、中身がないとすぐにわかる。秀逸でもない技術の模造品を見せられている気分だ。急ぎ既成事実を作ったとて、結論は変わらない。むしろ、急ぎ既成事実を作ったということ自体に嫌悪感を感じられるのがオチだ。燃え盛る火炎に如雨露で水を撒いている様に似ている。効果は…刹那。自分を貶める行為は何も生まない。一体何時までそんなことを繰り返しているの?
Mar 21, 2009
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最近飲み会が多い。こういう時期は仕方ないのかもしれない。4月に向けての人事異動、それに伴う歓送迎会の増加。異動する全ての人を一度の歓送迎会で賄うのは失礼ということで、何度か行うことによって歓送迎会は増え、必然的にそこに掛かる料金も増加していく…と。どうしようもないこととは言え、まぁ出費の多い時期となるわけだ。結婚式や葬式が重なるのとはまた違うものだ。喜ばしいことではあるが…やはり私のような貧乏人にしてはちょっと財布が寂しくなる季節だと言える。とは言え、まぁそういう会は好きだからいいのだが。ともあれ、暖かくなってきていい季節になってきた。もう春も近い。今年の桜は今までに見たこともないように情景を見せてくれるだろう。名所と呼ばれるところも廻ってみたい。綺麗な桜を眺めながら焼酎を飲む。まこと美味だろう♪そしてそんな春の日差しが差し込む中…久しぶりに掃除をした。もうお馴染みとなった私の掃除癖が春の気配で目を覚ましたようだった。夜勤前だというのに早くから目を覚まし、部屋の中枢を徹底的に掃除した。殆ど掃除し終わったのだが、部屋の意一角がまだ掃除できていなかった。そう、私の部屋の…今までは思い出の詰まった場所、そして今となっては何の感情も持たない場所。テレビ横のデッドスペースだ。ここには色々なものを置いていた。思い出、その他複雑な感情の数々。しかしもう不要だ。友人から就職祝いに貰った時計以外は全て破棄した。これは私なりの禊だ。これで晴れて掃除完了♪掃除の後のコーヒーは格別の旨さがある。これはもう掃除をする為の目的の1つにまで昇華している。実際掃除をすることが主目的であるので本末転倒なのだが、これもまたいい。あの気持ちよさと旨さを味わう為に掃除しているようなものだ。本末転倒でも結果がついてくれば何の問題もない。馬の目の前にニンジンを垂らして走らせているようなものだ。過程を経て目的を遂行することだけが全てではない。掃除に対するモチベーションというのは、どうにもまるっと1日休みの時よりも、何かスケジュールがあった時の方が捗る。掃除も洗濯も洗い物もそうだが、まるっと1日あると別のことに消化しがちだ。それに寝るという選択肢もある。日常生活のバイオリズムがばらばらであることから、どうにも休みの日にはその補填を行ってしまいがちだが…何かスケジュールがあるとそうも言っていられない。寝ることを最優先してしまうからこそ、幼児という防波堤が雑務の後押しをしてくれる。能率を上げるにはこういう方法もあるのかと感じた。日頃から掃除はこまめに行うべきだということはよく言うが、仕事柄そうも言っていられない。まぁこれは以前にも書いたが(笑)出来れば私だって毎日掃除をして、毎日洗濯物を洗って、毎日台所のシンクはピカピカにしておきたい。だが、リズムを以って生活しているのではない為に、必ず何処かでずれが発生する。そのずれを補う為に四苦八苦した結果、何も家のことについて触れないままに休日が終わることもよくある。これではいけない。だから今年…否、今月からは家の雑務を重点的にやっていく年にしようと思う。綺麗な部屋は気持ちがいい。目指せ生活感のない家だ♪その為には気に入った家具も不可欠だ。今まで拠り所のなかったお金をそちら側にまわせると思うと気分も良くなるものだ。取りあえず暫定的には6月に名古屋に遊びにいくことだけが明確に決まっている。それまではちょっとずつでも貯蓄して…いい家具を買おう。掃除をしながらそんなことを考えていた。掃除とはまこと心が洗われる行為だ。部屋が「風の谷」と呼ばれている先輩には…わかってもらえないかな(苦笑)
Mar 20, 2009
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インターホンに付属されている電話を誰も使ってくれない。「その点が家を選ぶポイントでした♪」というわけではないが、インターホンに付属されている電話のようなものを誰も使ってくれないことに密かに悩んでいる。別に必要性を感じているわけではない。家の中にインターホンと連動している電話がおいてあることに近代建築の技術の結集を見ることもたまーーーーーにあるが、それが必要だと感じたことは一度もない。インターホンを押す人なんて、荷物を持ってくる運送会社のお兄さんでも宗教の勧誘でも綺麗なお姉さんだとしても、いずれにせよ玄関の扉のところについている覗き穴から見ればわかる話だ。必要性がないとは言っても、一度くらいは使ってみたいと思うのが人の心情だ。なので、両親からの荷物が届く予定の日、時間になってインターホンが押された時、思い切ってインターホンに連動している受話器をとって話したことがあった。あれはかなりの英断且つ意味のないことだった。本来インターホンの持つ意味から著しく乖離した行動だったのは自覚していたが。が、しかし、運送会社のお兄さんはその電話の存在に気づいてくれず、部屋の中で受話器を耳に当てている私にはいつまでも虚しいノイズが聞こえてくるだけだった。その間もインターホンはなり続けているので…仕方なく普通に出ることにした。もう二度と使うまいと心に誓いながら(笑)そんな機能なんて要らないから部屋のレイアウトをもっと見直してくれなんて…言えない言えない。さて、本題へ。チョコレート味のガムが出来たという話を聞いた。ちょっと驚きだった。もうこのニュースは随分古いものかもしれないが、そもそも世の中の動向やゴシップに興味の欠片もない私には、今頃届いてきた最新ニュースだ。味をつけるという技術が格段に進歩した昨今、別にチョコレート味のガムが出来たとしてもさしたる盛り上がりも見せないようにも思える。だがしかし、味をつけるのではなく、本当にガムにチョコレートを練りこんでいるのだとしたら、それは素直に凄い技術だと評価できる。子どもの頃、誰もがやったことではあると思うが、ガムとチョコレートを一緒に食べるとチョコレートの油分でガムが溶けるという現象が起こる。ガムを包み紙に出したりしなくていいということで、チョコが嫌いにも関わらず興味本位で何度かやったことがあった。これはどのガムにも言えることで、そもそも現在ガムと称されているものが全て同じ構造であることの証拠だとも言えるわけだ。そんなガムの天敵とも言えるチョコレートとの同居話は、業界的には衝撃的なものなのだろう。きっとやりたくても技術不足で出来なかった会社も多かっただろう、そんな中での快挙とも言える。勿論その業界の中だけでの話だが(笑)そう思うと、アイスの天麩羅も最初は同じ扱いだったのかもしれない。アイスと言えば冷たいもの、天麩羅と言えば熱いもの、この相反する2つの要素が丁度いい感じに混ざり合ったのだから、アイス天麩羅は当時は評価されたに違いない。居酒屋などにあると取りあえずは一度は頼まれること請け合いだ。今でこそその影は「慣れ」という名の大きな壁に阻まれ、一部のお店にしか置かれていないなどという扱いになり薄くなってしまっているが、それでも当時を偲ぶだけの存在感は一部のお店では展開されている。チョコレートのガムも同じような扱いを受けるのだろうか?その問いかけに関する答えはきっと言わない方がいいだろう。同じような境遇のアイス天麩羅とチョコレートガム、大元を質すと天麩羅とガムだ。どちらの単価が高く、そしてどちらの需要が大きいか、それは考えなくてもわかるだろう。物珍しさを売りにしているとしても、それが今ある他の同業者の中に食い込んでいけるかどうかを思うと…楽観的未来が開けているとはちょっと考えにくい。しかしこれはある意味ではステップに過ぎない。今後常識を逸するような食品が出来る為の準備段階かもしれない。そう思うと、チョコレート味のガムも捨てたものではない。出来ればその存続に惜しみない賞賛を送り発展に協力したいものだが…私はチョコレートが嫌いなので協力は諦めて欲しいかな(苦笑)
Mar 19, 2009
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布団を干すのは3日に1度くらいが目安だ。本当は毎日干せるのがベストなのだが、そう贅沢も言っていられない。実際毎日家にいて掃除や洗濯が何時でも出来るような状態ならそうだろう。多少の天候の影響で毎日は厳しいかもしれないが、それでも今の私のような環境よりは多くの機会が得られるだろう。しかし私だって仕事をしている。もう誰にも頼らずに生きていくと決めた。年齢的に甘えを許されるものではない。仕事をしながら布団を干すというのがこれまた難しい。実際休みの日に干せばいいのだと思うかもしれないが、休みの日だって一日中部屋の中にいるわけではない。買い物にだって出かけないといけないし、用事だってある。家をあけている時間の方が長い休日だって珍しくない。そして、布団を干すという行為は、他の洗濯物に比べて殊更天候に注意しなければならないものだ。雨が降ったら取り込まないといけないのは他の洗濯物と同じだが、布団はより慎重にならねばならない。服はいくらでも代えはきくが、布団はそうはいかない。服の数よりも布団を多く持っているという人ならばそうでもないかもしれないが、私のように一人暮らしをしている人で布団を大量に持っている人なんてそうはいないだろう。要するに失敗した時のリスクが大きいのだ。いよいよとなれば布団がなくても寝られることは寝られるが、やはり寝心地が悪いのは否めない。となると…布団を干せるのは何も予定がないか、家をあける時間が極端に少ない休日に限られる。そこのところの采配が難しいものだ。さて、本題へ。花粉症に何故か今年だけならない。花粉症はなる人とならない人がいるらしい。そして、ならないからと言って恒常的にならないかと言えばそんなこともなく、突然なったりするとの事だ。今までは「花粉症って何ですか?」と言っていた人でも、次の年の今くらいの時期になればマスクが手放せないということもある。実際、私はもともと鼻炎持ちだったのが関係してか、数年前から酷い花粉症に悩まされてきた。毎年の病院通いは当たり前、薬を飲まなければ安静に出来ないほど酷いものだった。実家にいた頃も、京都で一人暮らしをしていた頃も、桜の咲く前…今くらいの季節からは少しづつあの悪魔が忍び寄ってきていた。くしゃみ1回で発生するものはなんとか大魔王だけで結構だ。そんな私だったのだが、今年の春は全くなんともない。まるで花粉症の諸症状と呼ばれるものにもかかっていない。毎年毎年悩んできただけに、今年の変化には喜ぶというよりも戸惑うという部分が大きい。周りが花粉症で苦しそうにしている中、マスクも何もしないで平気で外に洗濯物を干したり歩き回ったりしているということに、些かの優越感を感じるところまで理解が及んでいる。だがしかし、突然花粉症になるということはあっても、突然花粉症が治るということは実際にありえることなのだろうか?ちょっとだけ検証してみる。まず何故私が花粉症になったのか?その理由は数多あるだろう。恐らく決定的な事項を挙げるのは難しい。もともと生まれたところが山だらけだったこと、一人暮らしをしていた場所が盆地で山に囲まれていたこと、慢性的な鼻炎持ちだったこと、このような理由がそれっぽく思えるが、しかし的を射ていないような気がする。それは花粉症を発症させる花粉のメカニズムを考えればよくわかる。花粉症というものは、花粉を発する木の傍にいるからなるものではない。花粉は遠くで散っても風に乗ってどこまでもやってくる。隣町くらいのレベルなら平気で飛んでくるものだ。となると、生まれが山の近くだろうが海の近くだろうが、風が吹くという条件下では、どこにいても同じ発症率のはずだ。まぁ山の近くの方が若干だが多いという結果に終わるかもしれないが、有効数字有効数字4桁レベルで違いが生じるとは考えにくい。それに、京都という山近くに住んでいたから花粉症になり、今度は神奈川という海近くだから花粉症にならないというのも納得できない。私が生まれたのは海の本当に近くだ。にも関わらず花粉症に悩まされていたことを考えると…因果関係は薄い。とすると、今度は関西と関東の違いがあるのか?というテーマになるが。残念ながらこれも論外だ。確かに花粉症を発症させる森林密度には若干の差異があるかもしれないが、それだって関西では発症し関東では発症しないという理由にはならない。荒唐無稽もいいところだ。関西と関東のそもそもの違いは全体の面積における都市部の密集率の違いだが、その添と花粉症の発症率には因果関係がないものと考える方が無難だ。では都市部の密集率と花粉症の発症率には違いがあるのか?それも議論に値するかどうか微妙だ。今度調査してみようとは思うが。何故花粉症が治るということが起こるのか?その命題に関する私の到達した暫定結論はこうだ。たまたまじゃない?(笑)たまにはこういうのもアリだろう♪而してこれでは納得できないのが私の悪い癖だ。これはより深く調べる必要があるのかもしれない。
Mar 18, 2009
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なんだか最近どうも同じようなことばかりを書いているような気がする私だって、それなりに面白いことも経験しているし、それに似たようなこともある。面白かった話をその日一番のトピックにしたいという気持ちも当然ながらある。それに面白い話の方が内容の構成を考えている時にうきうきする。どのような手法で話の内容を膨らませようかと考える時は、ブログをやっている醍醐味と言えるだろう。事実長い間続けてこれたのも、そういう意味でのモチベーションが支えになっているからだ。だがしかし、それ以上に最近の私の周りでの出来事はシリアスな方向へ動き出している。まるで重要な決断をしなければならないように。今回もそういう意味ではちょっと笑えない話だ。まぁ主観的に面白いと思っていても、客観的には面白くないということは世の中ごまんとある。そういう意味では自己満足の域を出ないのは自明なのだが…まぁあくまで主観的に面白くないと言っているに過ぎない。面白いと思う人にとっては面白い内容なのだろう。今回もまたそんな話。前置きは例によって無。人に対する考え方というのは、その人の根幹的な思考に起因する。「今までそうだったのだからこれからも例外なくそうだ」慣れという名の根幹的思考は、少しくらいの衝撃では変わらない。何故か、それが楽だからだ。人生何年生きてきたにせよ、その信念を曲げる必要性がなかったから曲げなかった。簡単なことだ。確固たる人生を上手く生きていくバイブルがあるのに、それを敢えて曲げようなどとは誰も思わない。さながらそれは困難な道を自ら選ぶが如く。要するに成人となるのを待つか待たないかぐらいの時期に、物事の価値観・優先順位というものは確立される。勿論バックボーンは今まで生きてきた環境だ。それで上手くいっているのだから疑わない。そうなってくると、必然的に身の回りの存在は、似たような思考の人間で埋め尽くされていく。その人達と上手くやっていくことを考えなくても、周りが似たような思想なのだから、敢えてあわせていく必要性なんてない。つまり…それが感性の意味での生活観の構築だ。慣れ親しんだ環境の形成となる。勿論それが悪いことだとは言わない。すすんで苦難に挑んでいく必要性なんかない。世の中を生きていくことは仕事ではない。故に、楽しく笑顔で暮らせる方法が目の前にあるのだから、そこに依存するのは悪いことでは決してない。だが、そこにだけ妄信的に固執するのは…自ら人間的な感性の広がりを阻害する行為と言える。こういう例は周りの関係を財布の中身に喩えるとわかりやすい。例えば1000円しか持っていないような人が100円を落としてしまったとしよう。その人は、全財産が1000円しかないのだから相当焦る。落としたと思しき場所を一生懸命に探すだろう。財布の中身の一割を不本意に無くすのは痛すぎるからだ。この場合の100円の扱いは非常に大きい。残りの金額にしても同じだ。財布に入っている全てのお金には等しき価値がある。だがしかし、財布に100万円入っている人が100円を落とした場合はどうだろう?財布に1000円入っている人ほど100円の損失を気にするだろうか?答えは否だ。財布の中に多くのお金を有している人の思考回路は決まっている「100円くらいいいか」だ。100円が何処にいったのかを一生懸命探すのなんて時間の無駄だ、他のお金がそうならない為の対策を講じる。そして、これから同じことがないように残った99万9900円の守りを固める。100万円財布に入っている人にとって、落とした100円はこれくらいの価値しかない。未来に於ける再発防止、現存勢力の固持。100円という存在が放つ固執の時間はそんな刹那。この「刹那の時間気にされる」という行為が、100円にとっては辛いものとなる。どうせなら100円落としたことに気がついてもらえない方が幾らマシだろうか。あっさり切り捨てられる方が100円にとっては幸せだ。心優しい誰かに拾ってもらい、交番にいくこともできるし、拾った誰かによって優遇的扱いを受けることもある。お金持ちは道端に100円落ちていても決して拾わない。そんな卑しいことをしなくても、十分にお金を持っているからだ。中途半端に気にされることが一番辛い。お金の無い人にとっては重宝されるかもしれないが、お金持ちにとっては何の価値もないようなお金。不意に切り捨てられようとも気づかれない存在。だからと言って自己をアピールしようと思っても、500円玉や1000円札には勝つ要素がない。比類ない特徴のない100円はそれだけの価値しかない。尤も、それは財布の中身の充実している人の考え方だ。財布の中身がそれほどない人にとっては、100円はそこそこの効果を発揮する。もうちょっとでジュースも買えるしね♪(笑)だから100円の存在価値は人の付き合い方の感性によって決まる。100円をないがしろにする人はそれだけの考え方。同様に50円や10円、5円や1円をなくしたとしてもそれをなくしたことにすら気づかないだろう。つまりはドライな考え。だから100円としたら、お金があるないに関わらず自己の存在を明確に把握してくれる人の財布にいきたいと願う。その中で自己を大きく伸ばすことの方が、他に強烈な存在感を示すお札達の中でひっそり生きていくよりも幸せだからだ。落とされることが罪なのではない落としたことに気づかないことそれだけの価値しか感じていないことそれこそが一番の罪財布がお金でいっぱいってのも考え物かも(笑)今、貴方の財布から100円が落ちましたそれは貴方にとってどれだけの価値がありますか?
Mar 17, 2009
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マフラーももう要らない時期になったのかもしれない。日本は四季豊かな国だ。他の国々にも四季という概念はあろうが、日本ほどはっきりとした移り変わりを感じられる国もそうないだろう。日本に生まれて良かったと思えるのは明確な四季の移ろいを感じられることと…日本語という言葉のおかげだと言える。四季もそうだが、日本語という言葉は本当に綺麗だ。自分の生まれた国は2つと持てない。必ず誰しもが母国を1つしか持てないのだから、母国が一番だと思うことはよくあることだろう。しかし、日本に於いては愛国精神が非常に強いと常々思っている。やはりそれは日本という国の…自然の部分での魅力が強いからだろう。私自身日本という国は好きだ。海外には恐らくよほどのことがない限り出て行かないだろう。文化圏の違う国に出て行くのはやはり腰が重くなる。まぁ機会があればということだろうか。なんか若干話がずれたので修正。今日なんかは朝でも気温が14度もあり、マフラーをしているとちょっと変な目で見られるほどだった。もう春も近い。春は別れの季節だと言う。別れ…私にとっては最もつらいものだ。出来れば私を慕ってくれている人、私の慕っている人とは別れたくないものだ。実距離よりも心の距離が離れること、それが本当の意味での別れだと思っている。卒業などの別れは本当の意味ではない。友達なのだから別れというよりも、新たな旅立ちという方が正しい。本当の別れは辛く…そして心が締め付けられるほどに悲しいものだ。何度も味わっている私は雄弁ということか(苦笑)さて、本題へ。4月度から次の期になる。勿論会社での話だ。会社に限らず、おおよそ組織というものは、4月を区切りとしているところが多い。私の会社も例外ではない。4月になっても、人事異動や出世・降格はあっても、社内の規定まで変わることは殆どない。もう長らくその規定でやっているのだから、たかだか年度が変わったくらいで見直すこともないということだろう。だがしかし、私の会社は違う。今回はそんな面白くもない話。世の中には幾つくらいの中小企業があるだろうか?おおよそ見当もつかないが、1000はかたいところだろう。その中で中小企業且つ起業して10年以内で、尚且つ従業員数100名以内の会社というのはどれくらいあるかというと…ほぼ7割を占めていることだろう。統計学・集合論的に矛盾しているかもしれないが、見当違いな数値ではないはずだ。そしてそのような中小企業に共通すること、それは劣悪な環境で働いているということだ。私の会社には有給制度というものはあるが、そんなものは絵に描いた餅のようなものだ。実際今上に立っている人だって、若い頃は有給を使えなかった。なので、新人たる私のような存在がいけしゃあしゃあと有給を使えるかと言えば、答えは自明だ。使えるわけがない。実際にそうやって有給は本人の知らないところでどんどん溜まっていき、そしていつの間にか湯気のように消えてしまうものだと認識していた。それは今までの社長がワンマン経営だったという理由が強い。中小企業に共通することの2つ目がそれにあたる。自分のやりたいようにやることを美徳と勘違いしている社長があまりにも多すぎる。しかし私の会社は昨年大きな転機を迎えた。社長が諸事情で変わったのだ。表向き合併、平たく言えば吸収された私の会社は、新たなる経営陣の下、組織としても規定としても大きな変革を向かえた。最も大きいのが給料制度の改定だ。今までの環境は劣悪過ぎた。景気のいい企業と同等のものを貰おうなんておこがましいことは言わないが、せめて労働に見合っただけのものをいただきたい。今まではそれすらなかった。アルバイターと同レベルの扱いを受けていたのだ。だがしかし、それも来期から変わる。明確な算定をし、給与計算も明確にされることになった。残業についてもキチンと見直され、まさに本当の会社らしくなってきたわけだ。そして上を目指すものには、まっとうなメリットを用意するという制度まで出来た。今までは1階級偉くなったところで、増える給料は新千歳空港-札幌間を片道もいけないような額だった。だがしかし、昇進による給料面での保護は十分なほど約束された。これで誰もが「昇進しても責任だけ増えて意味がない」という呪縛から開放されたことになる。勿論それは私も例外ではない。かような説明を上司から受けた時には、小躍りするくらい嬉しかった。劣悪な環境にいすぎると、そこが劣悪かどうかを考える頭を失う。そういう意味でもいい変革を遂げると期待できる。来期からが楽しみだ。と、ふとそこで思った。なんだか私が入社してから最高の流れが来ているのではないかと。上述のとおり、私の会社は大きくないし、東証一部上場もしていない。まさに絵に描いたような中小企業だ。ワンマン経営も空振り、社員のモチベーションも低い。そんな悪い流れの渦中にあるような会社だった。だがしかし、これからは違う。どんどんよくなっていくはずだ。社長がしっかりしているのだから、それは安泰だろう。思えば入社したての頃は本当に酷かった。それを思うと、今は会社としても纏まってきているし、何より明確な目標を立ててがんばっている。去年まではいつ辞めてもいいかなと思っていたが、どうやら私はこの会社の急成長に絆されたらしい。会社の行く末を内部から見たいという欲がほんの少し出てきた。会社を大きくすることに貢献すること、案外これは癖になるかもしれない♪仕事が楽しいとまでは言わないが、そういう部分で少しだけモチベーションを見つけた今日この頃だった。
Mar 16, 2009
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添付の「添」という漢字はちょっと面白い漢字の成り立ちについて小学校の頃ひどく熱心に学んでいたことがあった。もうその癖もなくなってしまったが、全盛期にはノート何冊にもわたって漢字で埋め尽くされていたこともあった。あのノートは何処に仕舞ったか覚えていないが、実家を探せば出てくるかもしれない。そんなことは関係ないが。。。話がずれたが「添」という漢字は、他の様々な漢字と比べても、比類ない特徴を持っている。尤も、凹凸という漢字もそういう意味では変わっているが、あくまで漢字を構成する元素としての「部首」と「つくり」という概念を有した上での奇怪さを持っているのは「添」の持ち味だろう。何故変わっているのか、それは他の漢字の構成を見てもよくわかる。例えば「例」という漢字にしてもそうだ。「例」という漢字を分解してみると、人偏に列という構成になっている。人偏は漢字の中でも比較的ポピュラーな部首だし「列」だって他に色々な漢字で転用されているものだ。つまり「例」という漢字は本当に平凡な構成をしていると言える。だがしかし、「添」という漢字にはそのような傾向が見られない。確かに部首としてはさんずいへんを用いている部分では普通だと言える。この漢字で最も違和感を覚えるのはそこではなく、つくりの方だ。「添」の右側の部分は、他の漢字には見られない構成となっている。右側の上の部分のつくりは「香」の上の部分に似ているようで若干違う。「妖」の右側のつくりに似ていなくもないが、構成するパーツとして考えると別物だと言わざるをえない。そして「添」の右下の部分、ここが最もネックとなる。「小」に似ているが、よく見ると異なる。かと言って同じ使い方をする漢字は常用としてはあまり思いつかない。本当に不思議な構成だ。察するに、この漢字は何かしらのファクタを含んで生まれたものではないだろうか。敢えて王道でいかない辺りに、この漢字を構成した人間の遊び心が感じられる。意味があるとしても、こじつけのような気がしてならない(笑)さて、本題へ。携帯電話を電車の中で使ってはいけない、これは常識だ。しかしながら、電車に乗る度に、この注意勧告を聞いている。私だけではないはずだ。バスだって飛行機だって、公共交通機関なら必ずこの常套句を注意勧告として口にする。何故か、それはルールが守れていないからだ。私は、公共交通機関を利用する時には必ず携帯電話をマナーモードにする。そうすることには、周りへの迷惑を配慮してのことであると同時に…己を律する行為であるからだ。世の中にはルールを守るということを格好悪いことだと思っている人種もいるようだが、ルールは守ってこそのルールだ。そこからはみ出すことは何のメリットもない。背徳心で得られるものは一時の満足感でしかない。ルールを守れないということは、そのルールが何故ルールとして明確に確立しているかの理由を知らないからだ。先に挙げた携帯電話の話にしても、本来は心臓が悪かったりペースメーカーを使用している人の為に、電波を発するものを極力使用しないようにとの配慮だ。転じて、車内で大声で話すこと・電話の着信音を自粛すること、そのような意味が込められている。公共交通機関で平気で携帯電話の音を鳴らして使っている人というのは、健常者であることが殆どだ。そして、その行為にどれほどの危険性があるのかをわかっていない。実際に自分自身が公共交通機関で電波を発する物によって何らかの弊害を受けたとしたら、きっとルールは守ろうと思うに違いない。総じて人は痛い目を見ないと学べない。つまり、以上のことから、公共交通機関での携帯電話の使用自粛等のルールを守れない人は、思いやりがないとの結論に至る。自分がそうなった時に初めて気づくのではなく、その人の気持ちにたって行動出来ないようでは、まだまだ人としての底が痴れる。いくら取り繕おうとも、ルール遵守にルーズな人は必ずボロを出す。例外はない。実際電車に乗ってみると、そういう人などごまんといる。通路に足を投げ出している人、携帯電話で大声で話す人、着信音を響かせている人。そういう人を見て、年上だった時には悲しい気持ちになる。人生の反面教師としては逸材だが、あまり目の前にいつもいられると反面教師でなくなってしまう可能性だってある。きっとそういう人を見て育った子どもが…ルールを守れない子どもになるのだろう。赤信号はみんなで渡っても痛ましい事故は防げない。良い学校に行かせる、良い塾に通わせる、それだけでは何の価値もない。己を律する、ルールを遵守する、そういう方面に長けている人の方が、頭が良くて将来有望なだけの人や、給料を多く稼いだりバリバリ仕事する人よりもよっぽど魅力的に感じる。人間性の帰結はつまるところそこなのだから。
Mar 15, 2009
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幸せと不幸は背中合わせ誰かが不幸になると誰かが幸せになる私の不幸は誰かの糧私の幸せは誰かの幸せを奪うならいっそ思いっきり不幸になってやろうかふとそう思う私の周りの友人はいつも幸せそうだそれは私が不幸だからだろうか?ならそれでもいい私の幸せは友人の不幸そんなわけないのに非科学的なのに何故か最近そういう傾向が強いそんなことを考えてちょっと悲しくなった貴方は幸せですか?そうなら嬉しいそうでないのなら…
Mar 14, 2009
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通常何歳からが大人だろうか?この命題に関する答えは人によって違うだろう。そして、今回の内容はそのことに起因する。私が見てきた中で最も打算的な本質、心の中で計算する音が聞こえるほどの流れ。全くもって気分が悪い話だ。そもそも先日、久しぶりに友人に連絡をとった。もう数年来の付き合いになる友人だ。その友人とは色々なことをしてきた。このブログにも何度も登場してきたことのある友人。遠慮も体裁も要らない友人だ。だが、その友人との間でも共通で流れている思考がある。それは「親しき仲にも礼儀あり」だ。どんなに仲が良いとは言っても、失礼なことをしたらちゃんと謝るし、埋め合わせはしようとする。然るべき対応はするつもりだ。実際似たようなことがお互いにとってあったが、その時もお互いに取るべく対応はとってきた。それは仲が良いからという理由でおざなりにしていいものではない。こういう部分は誠意が必要だからだ。重い軽いに関わらず、誠意はどのような人間関係に於いても重要とされている。而してこういう概念は、大人になるに従って形成されるものだと思っていた。実際私の知っている友人や知人は、このような概念を持ち合わせていた。当然だ、多かれ少なかれ、人が付き合っていく中で、誠意は必要不可欠なのだから。誠意無き仲はいずれ瓦解する。誠意無き方の裏切りによって。そして、24年間生きてきた私の身の回りには、そういう概念を当然のように持ち合わせた人ばかりがいた。礼を尽くす、親しき仲にも礼儀あり、誠意を持って生きる。このような概念は何も特別なことではなく、当然のように遂行されるべきものだと思っていた。あの時までは…。しかし出会ってしまった。人の間の付き合いを打算で考え、大切な方を優先して大切ではない方をいとも簡単に切り落としてしまう意思に。礼儀も誠意もない…生まれたての赤ちゃんのような意思に。欲望のままに大切だと思っているものとどうでもいいものを秤にかけてしまう意思に。驚愕した、まさかこんな意思がこの年齢まで生きてきてまだあるとは思ってもみなかった。まっとうな教育を受けてきた私は、人同士の意思の疎通に礼儀の大切さ、恩を恩として忘れない気持ちを当然持っていた。筋を通すことの重要性を理解していた。だがしかし、そんなもののない…例えるなら真っ暗な闇の中に握手を求めていくような行為。全ての行為が無に帰すような空虚。そんなものに出会ってしまった。日々、生きている中で多くの人と関係を結ぶこともあるだろう。年齢を重ねていく毎にその範囲は比例して広がっていく。そして、関係の深い人物とそうでない人物にわけられることになる。かく言う私もそのような関係を形成している。端的に言ってしまうと「仲が凄くいい人」と「仲が良い人」の2つだ。まぁ少数ながら「仲が悪い人」もいるが、そういう人がいたとしても、私は付き合い方に区別をつけることはない。約束を取り付けるにしても、仲が良い人を優先するのではなく、約束を先に取り付けた方を優先する。そしてブッキングしてしまった人には後で埋め合わせをする。今度はご飯を奢るから~とか、相手が気に病まないように。こういう考え方は普通だと思っていた。大切なものなら、関係を築いてくれる人全てで、その間に特別さの入り込む余地はない。約束をするにしても、大切だからと選んだことなんて一度もないし、もしそれで反故にされそうなことがあれば埋め合わせは必ず行う。それが筋を通すということであり、礼儀だからだ。人間関係を形成する上でこのようなことは不可避だし、それが正しいことだと思っている。何故礼儀を払わないのか、それは底辺の中の底辺の礼儀さえあればいいと思っているからだ。例えば仲のいい友人とそこらへんを歩いている若者と2人にどちらにより礼を尽くすかというと、仲のいい友人の方であると答える人が殆どだろう。それはそうだ、仲がいいのだから、これからも関係を築いていくのだから。そして上記の意思はこう考える、逆に知らない人とは一期一会だ。もう会わない可能性の方が高い。だからどうでもいい、別に適当にあしらっておけばいい。それっぽい理由を挙げておけばいい。その意思が私は怖い。人間関係を利益関係で考えるのは意思を持つ人間にしか出来ない行為であり…そして最も恐ろしい帰結だ。いくら相手が歩み寄ろうとも、その感情ごとねじ伏せる、捨てる、踏みにじる。何故ならどうでもいいから。大切な方を優先する上で邪魔な存在でしかないから。かようなことを友人と話していた。もしかしたら誰に対しても礼を尽くすこと、筋を通すことは私だけの固有の考え方ではないかと。しかし友人もまたその考えには賛同していた。きっとマイノリティではないのだろう。だからこそ怖い、その意思にこの年齢になって出会うことが。失礼なことをしたらちゃんと正規の手順を踏んで謝る、自分に非があるならそうしたいと思うだろう。何より、相手の気持ちを考えればそうでざるをえない。大切なものを大切と捉えるのは重要なことだが、だからと言って邪魔となるものを完全排斥するのでは人間としての…感情を湛えた人間としての底が痴れる。口上でいくら取り繕おうとも、態度は言葉以上に物を言う。だから礼を尽くす、筋を通すということは重要なのだ。禊として、自分自身がまっとうに生きる為に。大切な人を大切と胸を張って言う為に。こんなことは当たり前だ、小学生でも知っている。非があると思ったら謝る、適当にあしらうのではなく礼を以って。3時間にもわたる会話はそのことをこれ以上ないくらいに再認識させてくれた。このお礼は必ずする。そうだ、今度遊びに行こう。勿論私の奢りで。そして面と向かってちゃんとお礼を言おう。それが私が今まで形成してきた人と人との関わりの成果であり…自明のことなのだから。
Mar 13, 2009
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麻婆豆腐のコストパフォーマンスは異常とろろ昆布にはまっているという話を以前にしたと思うが、最近はまっているものとして新たに浮上してきたもの、それが麻婆豆腐だ。麻婆豆腐のコストパフォーマンスは本当に異常だ。豆腐が安いのがその原因として大きい。私の住んでいるところは東急沿線ということで、東急ストアが幅をきかせているのだが、やはり沿線に店を構えるだけあって、価格の方も良心的であるとは言いがたい。貧乏な私としては、少しでも安い方へシフトしていくことになる。そこへきての豆腐だ。豆腐は一般的な巣ー派でも1丁100円くらいはするものだ。しかし、家の近くのドラッグストアならば、1丁38円で買える。この安さは本当に多雨s駆る。ドラッグストアというお店は、貧乏人のオアシスだとも言える。加えて麻婆豆腐の素だって、普通のスーパーで買うのに比べて30円程度…コンビニと比べると50円くらいも違う。この差は非常に大きい。短期的に見るとそうでもないが、食事に関わる事象だということをかんがみれば、その差の大きさは実感できるだろう。麻婆豆腐としての既製品で満足できるのであれば、豆腐2丁と素のセットで、2食300円以内で収まることになる。これを逃さない手はない。更に、工夫しやすさもある。ちょっと香辛料のようなものを加えるだけで、料理としての質も一気に向上する。まさに一人暮らしの強い味方だ。とろろ昆布と麻婆豆腐のセットでほくほく♪さて、本題へ。以前に昇進の話をしたと思うが、その話はどうやら延期になったらしい。まぁ詳しいことはわからないが、敢えて口に出して導火線に火をつけるようなことは出来るならば避けたい。というわけで、風の噂レベルで遠巻きに話を聞いているうえでは、延期になっているらしい。まぁ3月は決算期というし、わざわざ忙しさに拍車をかける必要性もないだろう。取りあえずは暫定的に保留だ。しかし、その代わりと言っても難だが、どうやら私は現場的に昇進するらしい。別に昇進したから給料が増えるわけでもないし、立場が偉くなるわけでもない。この昇進はある意味では仕事の仕方が認められたというものに近い。非常に喜ばしいことではある。而して、手放しには喜べないことがあるのも事実だ。実際、私よりも長い時間かような仕事に従事してきた先輩をさしおくという結果になってしまうことが懸念材料として残っているということだ。こういう問題は案外ナイーブだったりする。会社レベルでの昇進となると、仕事っぷりは勿論のこと、他の部分でも認められなければならない。例えば会社のイベントに出来る限り参加するだとか、イベント毎に積極的に発言していくだとか、そういう部分が見えないと昇進は難しい。しかし、現場レベルでの昇進の話は別だ。色々な会社の人が入り混じるような業種であるが故に必然とも言うべきか、現場レベルでの昇進は、純粋に仕事が出来るかどうかが指標となる。まぁ私の場合は単純に他に良い人がいなかったから昇進という可能性も否めないが、そうなってくると、余計にその先輩のことが気になってしまう。後輩に先に偉くなられることは、喜ばしいことではないからだ。況や出世に興味のある人なら尚更。まぁそれでも、単純に仕事の仕方が評価されたことは嬉しい。応じて責任の大きさも発生するのは、仕事をする上で避けられない状況だろう。より高みの存在と、下からの突き上げや管理。今おかれている状況よりもスタイミーなことは自明だが、それでも仕方ないと思って頑張るしかない。こういうことが、ひいては評価につながるのだから。手早くパッパとスタイリッシュに仕事をこなしたいと思うからこそ、効率を重視しようとしてしまう。結果的に山積みになる前に仕事を片付けることになる。こういうことは、ノウハウよりも性格が先に立つことが多い。ずぼらな人よりは社会的に認められる可能性が高いということは、こういうことでもよくわかるという良い例だろう。部屋を綺麗にするのが好きで良かった(笑)
Mar 12, 2009
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♪ 思えば遠くへ来たもんだ~ ♪北海道へ旅行していた時、3日連続で通ったバーのマスターが、これまた3日中2日かけてくれた曲のワンフレーズ。良い人だった。今回は懐古話。今まで数多くのバーに行ったことがあるが、このバーのマスターだけは今までの人とは少しだけ違った。何と言うか…独特のオーラを持っている人。気さくな人物であることに変わりはないのだが、言葉では表現しにくい魅力を持った人。そんな良い意味で変わったマスター流が散りばめられたお店だからこそ、店の雰囲気もどこか落ち着き、それでいて懐かしい雰囲気を持っていた。近くにあれば毎日でも通うこと請け合いのお店だ。これだけ褒めちぎれば回し者だと思われても仕方ないだろう(笑)少々あって、このバーには3日連続で入り浸ることになったのだが、最初の印象と同じく。このバーを気に入るのにそう時間はかからなかった。マスターもさることながら、そこに飲みに来るお客さんも素敵な人達ばかりだった。擦れていない、そんなイメージを持たせる雰囲気。気持ち良いものだ。私はこのバーで初めて自分のリミットを越えるお酒を飲んだ。もう2回目からは本名で呼ばれるほどに馴染んでいた。顔馴染みのお客さんともふれあい、楽しい時間を過ごさせてもらった。思えば…あの時、雪が吹雪く中、小さくて安っぽい(と書いたら怒られるかもだが)扉を開けたのが全ての始まりだった。中にはマスター一人、ちびちびとお酒を飲んでいた。見るなり「あぁ、確か昨日来た…!」その一言で嬉しくなる。忘れられていない、むしろ良い意味で覚えられていた。この土地には私を排斥する者の存在しかない。その中で唯一私を迎え入れてくれる人の存在。心が震えた。普段はいきなりテンション高めに話すこともないのだが、この時ばかりはテンションもややあがってしまっていた。重い荷物を下ろし、端っこから2番目の席へ。同じものを注文し、小さく乾杯。寒さの中でも暖かさを帯びる液体が微かに震えた。それからはもう自分の許容量も忘れて飲んだ。マスターの話は面白く、そして私の話も沢山した。不幸な話、昔の話、総じて笑い話…etc 全ての話に上手く反応してくれるマスターが最高に素敵だた。そのうち常連とおぼしき人も現れ、今度は3人で盛り上がった。私が関東から来た関西人というだけで入りは上々で、後は関西で鍛えられた話術で盛り上げることが出来た。マスターが新しく入ってくるお客さん全てに私を紹介してくれるのも嬉しかった。午前0時をまわった。もう4時間以上いる。そろそろ帰ろうかと思った矢先、遂に彼が現れた。未だに名前も知らない彼は、私の横に偶然座ったのだが、次の瞬間から私に絡みだした。酔っている人間の典型、同じ話を繰り返す。それが彼の固有能力のようだった。まぁ場数はそれなりに踏んできているので、そういう状況でも上手く相手を気持ちよくさせるスキルは持っている。だが、逆にそれがいけなかったのかもしれない。テンションの上がりきった彼は、私に奢ると豪語して、更に飲ませようとしてきた。もうなんだかよくわからないノリになっていたので、それを受けて更に飲む。限界まで飲む↓なんか盛り上がる↓更に飲む↓更に盛り上がる↓最初に戻る図式的には磐石の流れをもっていた。もうやばいと思うレベルを遥かに超え、私は飲み続けていた。何かを忘れるように。結果的にはつぶれることになってしまった。店で静かに飲んでいた他の常連さんには迷惑をかけたことだろう。仕方ないとは言え、いい大人が情けない。その日は謝りながら帰ることになった。次の日も同じような時間、私はその扉を開け、店を訪ねていた。デジャヴかと思うくらい同じような絵がそこには展開されていた。浮かない顔の私をマスターは迎え入れてくれた。家に帰ってきたかのような安心感。当然その日も猛烈に飲んだのは言うまでもない。お酒が楽しいという意味がわかった。それ以降はそのバーには行っていない。行きたいと思ったが、予定が予定だけに無理だった。結局何も言わずに横浜へ帰ってきてしまった。今はそのことだけが気がかりで仕方ない。連絡を取る方法がないのが悔やまれる。しかしそうなってこそ思う、必ず…必ずまた行こうと。そこ以外には行くあてもないのだが、必ず行く。これは私の意地だ。感謝の言葉を直接伝えたい。そしてあの空気は癖になる。あの感覚はアルコールよりも愉悦だ。薄暗い店内微かな音楽ジャズだろうか?傾けたグラスに入った琥珀色の液体をぐっと飲み干す喉を通過する度に微かな熱を帯びる良い雰囲気で飲むお酒は格別だ楽しいトークに気分も盛り上がる私はここを忘れない。
Mar 11, 2009
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久しぶりの仕事雑務が溜まっていてびっくりだ。たかだか5日程仕事を休んでいただけなのだが、それだけでも5日前とは全く状況が変わっていることに驚く。今まで当然のようにしてきたことのやり方が変わっていたり、簡素化・効率化が図られていたりする。きっと今まで仕事を大幅に休んだ人も同じ経験をしていることだろう。新鮮ではあるが、何度も経験したいものではない。流石に仕事のやり方を忘れるとまではいかなかったが、それでも全盛期ほどの速度を以って出来るというわけでもなかった。まぁその辺は経験則がものを言うというところか。振れ幅が大きい分、戻しも大きく出来るのは、ある意味ではキャリアが長いから。とは言いながらも、いきなり私はやらかしてしまった。現場で使っているパスワードを一部失効させてしまった。尤も、これは個々人に振り分けられているもので…言ってみれば、みんなで同じ鍵を持って仕事をしている中、私だけその鍵を何処かに落としてしまったという状況だ。私が無くしたから全体の調和が乱れるわけでもないが、まぁ仕事をする上では困るという代物だ。というわけで、私の復帰最初の仕事は、その「鍵」をもう一度作ってもらう為の申請書を出すということから始まった。いやはや、先が思いやられる(笑)さて、本題へ。先日まで旅行に行っていたと書いたが、これはその時…殊更飛行機に関して思った出来事。今回はそんな話。関東在住且つ国内線を利用する場合には、殆どの場合羽田空港を利用することになる。羽田空港は、他の空港に比べて広大な面積を誇っている。それはそうだ、というよりも空港という機能から考えてもそれは自明のことだ。ヘリポートのように飛行機が着陸出来るのならあれほどの面積は要らないが、一度に多くの客を乗せなければならないことを考えると、そうも言っていられない。空港が広大であるということは、羽田・成田を有する関東人や新千歳・旭川・釧路・稚内・函館(もっとあるだろうが、取りあえず浮かんだレベル)を有する北海道人には当然のことだ。安全なフライトをする上で、空港…つまるところ滑走路の広さは重要だ。しかし、上述した場所以外の空港は案外そうでもないことが多い。特に都市部から少しだけ離れた空港がいい例だ。槍玉に挙げて申し訳ないが、名古屋国際空港やセントレア空港は特にその傾向が強い。土地がない分滑走路が短いのかどうかはわからないが、兎に角離陸・着陸の両面で、飛行機がかなりの角度になる。もうああなるとジェットコースターのようなものだ。半分アトラクションのような気分が味わえる。同様に、伊丹空港・関西国際空港も程度は違えど外套する。関西国際空港なんて海を埋め立てて作ったという意味では羽田空港となんら条件は変わらないのに、何故か安全性の観点からは異なるように思える。きっと、こういう部分は空港という存在がその周辺地方にどれほどの「貢献」をしているかに依存しているのだろう。国内線と国際線の利用が多く、その分就航数が多い関東の2大空港は、利用頻度に見合うだけの期待を持って建設されたことだろう。故に滑走路が狭いというトゥリビアルな事情は起こりにくい。同様に、滑走路が狭い空港等は、頻度が極端に低いことや就航数が少ないという事情が起こり得る。かような問題は、電車等の公共交通機関と同じような問題でもある。要するに…「JR東海道本線沿線なのに、何故新幹線停車駅ではない駅の方が多いのか?」という命題に近い。止まる駅にはそれだけの意味がある、利用頻度という名の。空港もまた然り。就航数に応じた空港規模ならば、きっと羽田・成田あたりは最強の面積と汎用性を誇るべきだろう。実際面積面ではなく汎用性部門では、新千歳空港とは比べ物にならないレベルにある。では、何故北海道の空港悉くに面積部門で負けているのか?それは考えなくても自明だ。地価と根本的土地面積が圧倒的に違う(笑)利用頻度・貢献度・汎用性 < 地価・根本的土地面積現実はまぁこんなものだろうか(笑)結論から言えば空港は、土地と汎用性の兼ね合いで面積が算出される。当たり前の答えが出てきたことにびっくりだ。因みに…どこの航空会社とは言わないが、機内サービスでお茶を出してくれるのだが、あのカップに入れるのはやめた方がいいと思う。全体的に白くてちょっとだけアクセントに模様の入ったカップに黄色いお茶…。そして小さくて掴みやすいカップの大きさ…。敢えては言わないが、一度意識するともう駄目だ(苦笑)健康診断の時のアレを思い出すから。。。
Mar 10, 2009
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随分とまた凄惨たる部屋ですこと。。。帰ってきて部屋の中を見渡せば、そのような有様に溜息しか出ない。旅行中に滞在した部屋と比べても、まさに雲泥の差だ。比べることすらおこがましいような部屋の有様だった。予定を1日早めて戻ってきた私は、人形のようだった。ベッドの上に乱雑に置いた鞄の中身を部屋に戻す作業も、食事をとることもしなかった。もう2日以上何も食べていない。前回の日記に「食べないことが贖罪」と書いていたが、2日以上食べていないことは贖罪の類のことではない。単純にお腹が空かないのだ。何かを食べようという欲が全く沸かない。喉も渇かないし、お腹も空かない。そして感情の起伏も薄い。そう、まるで人形のようだった。とは言っても…このまま何もしないで残り一日の休みを消化するわけにもいかない。色々な意味で切り替えが必要な私にとっては、最後の一日を掃除にあてるというのが、長い時間考えて導き出された答えだった。そして早起きをして、今しがたやっと掃除が終わった。長かった。洗濯物の数が尋常ではなかった。旅行に出かける前から溜まっていた洗濯物と、旅行で使った服の洗濯。それだけでかなりの量になってしまい、自慢の広いベランダもそれで殆どが埋まってしまった。まぁ旅行の着替えの方は殆ど使っていないのだからいいのだけれど(笑)とにもかくにも、取りあえずこれでようやく普通の生活に戻れた。まぁこういうことは切り替えが大事だと言う。うじうじ考えても仕方ない。凹むのは昨日で終わりだからだ。その件に際して…ここにコメントをくださった2人の方々にはこの場でちゃんとお礼を言おうと思う。本当にありがとうございました♪幾許かではあるが、気持ちが楽になったのは事実だ。心配してくれる人がいるのは嬉しいものだ。空虚な私が携帯電話を掴んで淋しさのあまりメールした友達。電話した元彼女。「凹んだ時には友達に甘える」という言葉をかけてくれた友達。吐く息も白い地でコンビニの前で、夜も1時半にも関わらず電話した友達。全ての友人に多謝だ。というわけで、弱音タイムはこれくらい。明日からはいつも通り笑顔で毎日を過ごすとしよう。明るく笑顔で面白く。それが私のプライド。
Mar 9, 2009
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朝から心霊動画を見るのはなかなかおつなものだ。朝起きたのが大体6時くらいだったのだが、旅行の為の用意をするでもなく、せかせかと動き回るでもなく、何故か私がしていたのは動画を見ることだった。しかも心霊動画。理由は今となってもわからない。まぁ初めて乗る飛行機を前にしての気負いを隠すためだろう。仕方ないと言えば仕方ない。小学校の頃、学校というものに初めて行く日の朝のような…そんな適度な緊張感が心地よかったりもした。そして朝9時、私は慣れ親しんだ家を出発した。しばらくは放置することになる。帰って来た時の惨状が若干目に浮かんだが、考えないことにした。そういうことを考え出すと気持ちが後ろ向きになってしまう。考え方次第で幾らでもマシになるということだろう。その後まぁいろいろあって…羽田空港到着。出発の時間までおよそ3時間弱ある。暇な3時間を過ごすような気もしたが、空港という建物のポテンシャルを知ったその時には、3時間という空白の時間は長いものではなかった。色々な店を見に行ったり、お土産を買っているとあっという間に3時間は経過してしまっていた。そしていよいよ飛行機初搭乗だ。こういうものはとても緊張する。出来るだけ「飛行機での旅が慣れている感」を出そうとしたが、多分出発ぎりぎりまで窓から外の風景を眺めていた私は、周りから見れば完全に「おのぼりさん」だったのだろう。ポーカーフェイスもまだまだ板についてこない24歳。。。その日はとても珍しい日だった。飛行機が天候悪化の為に飛ばない可能性があるということを、時間の1時間前に知ってしまったからだった。だれぞに言われた「きょうは雨男」説が濃厚になりつつあるのを振り払うように、私はただ飛行機が無事に空港につくことだけを願っていた。もう数え切れないほどしてきた神頼みの一端だ。神の存在等信じていないのに、こういう時だけ神様に祈ってしまうというのは、ある意味では日本ならではの光景かもしれない。宗教が根強いのは歴史が深いだけではないといういい例だろう。なんて考察したり。再ランディングという稀有な経験をさせてもらったのは、喜ぶべきことなのだろうか?少なくとも私の中で、飛行機という乗り物に対して、絶対的な信頼感はないということは確実だ。空港周りの風景が見えてきたのに、再び上空に上がる絶望感は、ある意味ではゴミ箱に捨てたごみがゴミ箱に一回で入らなかったのをノーバウンドで受け取ってもう一回投げたら、それをもう一回はずすような感じに似ている。安堵感と絶望感のバランスは、安堵感が大きいほど辛い。殊更飛行機に関しても例外ではない。北海道の地は、思っているより寒くなかった。きっとそれは私の過度とも言えるような期待の成したことなのかもしれない。上手く言えないが、多分そうなのだろう。時計台を見るわけでも、ラーメンを食べに来たわけでもない。北海道に来た目的はただ1つだ最愛の妹に逢う為だ。もう数ヶ月前からの大事な大事な約束だ。その為にはどんな苦労も厭わないでやってきた。仕事帰り、忙しい中、ちゃんと駅まで来てくれた妹は、前に逢った時よりもちょっとだけ髪が長かった。久しぶりに逢うとやっぱり照れくさい。真っ直ぐに顔も見れないで、私は話していた。最初の頃にはよくあったことだった。一緒にご飯を食べて食事して…仕事の話や、お互いの話をする。別にどこでだって出来ることと言えばそれまでだ。しかし、横浜でやるのとは全く次元が異なる。付加価値が違いすぎる。兄さんと話す時のような安堵感…家族といる時のようなリラックス感。こういう空気を妹は作ってくれる。それが堪らなく居心地がいい。~ここから超本音注意~そんなだったけど、俺の不手際で、妹に悲しい思いをさせてしまった。大切だから大事にしたい、そんな気持ちとエゴがかようなことを生んだのだろう。そして今私は北海道某所のネカフェでこの日記を認めている。そして昨日の俺は本当に酷いものだった。ここだけにそのありのままの情景を綴ろう。二度はない、そんな体験。午後8時前、バーに赴く。昨日知ったばかりのマスターが迎えてくれる。まだ名前も知らないような俺を暖かく迎えてくれた。それからはお酒を飲みながら色々な話をした。詳しく話はしなかったが、まぁ色々あって今こうしているというようなことを遠まわしに告げた。それでもマスターは暖かかった。その日私は許容量を超えたお酒を飲んだ。途中からあまりよく覚えていない。バーから今いるネカフェまで来たのはかろうじて覚えているが、その時一緒についてきてくれた人のことをあまりよく覚えていない。確か5杯目を飲んだ時に隣に座ったお兄さんだったのは覚えている。どんな話をしたのかは皆無。。。ネカフェについて、部屋に案内してもらって、部屋に入る。漫画でも読もうと思って立ち上がったら、ふらついて倒れてしまった。起き上がろうにも足が言うことをきかない。通りかかったおねーさんに「大丈夫ですか!?」といわれてしまう始末。ざまぁない。その後ネカフェの店員さんに散々迷惑をかけて…泥のように眠った。店には…今もそうだが、何故かジブリのBGMが流れている。紅の豚のテーマが流れた時には、一人ブースで泣いてしまった。またしてもざまぁない。こうなってしまったきっかけは俺のせいだ。俺はどうやら、触れ合った人を悲しませる傾向にあるらしい。大事にされ過ぎて結局使われないままのお気に入りの文具みたいに、大切にすることが100%喜ばれることではないということを知った。それでも大切にしていきたいと思うのは俺が子どもだから思い描いてしまうエゴだろうか…?自分が子ども過ぎることに気づかされ、自分にどうしようもなく腹が立った。腹が立ったので、今日は何も食べないで過ごしてやった。さっきから腹が鳴って仕方ないが、これは戒めであり…贖罪だ。さて…またバーに行くとしますか。俺の旅行はまだ終わってない。
Mar 7, 2009
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髪を切ったらまた失敗した。これで転勤してから2回目となる失敗だ。はっきり言って痛手過ぎる。何しろ髪の毛に関することは失敗してしまうと取り返しようがない。事は身長に行うべきなのだが、美容院というのもまたやってみないとわからないところがある。上手くいくかどうかは切ってみないとわからない。そして美容院自体の腕の評判を事前にある程度しか知ることが出来ない。かような数多な理由が重なって髪の毛を切ることを失敗するという事象は生まれる。まぁ単純に美容師の腕云々という話もあるが(笑)そしてその稀有な体験を2回連続ですることになったのは、ある意味では貴重なことなのかもしれない。喜ばしいことかは別にして。それに関連して…美容院というのは、理髪店に比べて入るのが非常に難しいところだ。特に女性よりも男性がこの問題を抱えやすい。美容院という響きから考えても、基本的には男性向けの場所ではない。そのような場所にアポ無しで突入しなければならないのだ。伴う緊張感は結構なものだ。男性ならばこの手の問題に関しては一度は経験あることだろう。そして、そういうお店の価格設定というものは、理髪店のそれに比べて総じて多角設定されているものだ。カットの技術云々よりも、髪の毛全体的なケアの部分まで行き届いているということが、そのまま価格に反映されているということなのだろう。リーズナブルを売りにしている理髪店よりも、そういう部分でもまた足を遠ざける理由になっているのかもしれない。拘りのない人なら尚更。私は今回髪の毛を切りに行ったのは2度目になる美容院なのだが。そこでちょっとだけドキドキするような体験をしてしまった。基本的にはいつも財布にそれなりの金額を入れて持ち歩く私なのだが、給料日前ということで、6000円しか財布に入れていなかった。そんな状態で美容院に突入してしまったのだ。そのことを、追加でシャンプーまでしてくださいと頼み、シャンプーの技術に惚れ惚れした後に気づいてしまい、髪の毛をカットされながらも不安でいっぱいだった。「お金が足りなかったらどうしよう…」「もうこのお店には行けなくなる…」えもいわれぬ不安に駆られながら、出来上がりが上手くいくかという部分には気が回らなかった。結果的に完成した状態の確認をされたが、完全に上の空だった。会計の時、もうテンパってテンパってやばかったのを覚えている。まぁ結論から言うと持ち合わせでぎりぎり足りたのだが、その時には安堵で胸を撫で下ろしたものだった。髪の毛の仕上がりがどうとかいうことは全く頭の片隅にもなかったわけだ。そして帰りしなにお金を下ろし、家に帰って冷静になってみると…カットに失敗したのだということが粘性強く私の中に居座ることになってしまった。なんかダブルで凹まされたような出来事だった。さて、本題へ。明日はいよいよ旅行当日だ。3月に入ってからというもの、それだけを楽しみに生活してきた。仕事中も常にカウントダウンをしていたし、最後の日勤が終わった時には心の中でガッツポーズをしていたものだった。家に帰ってからはうきうき気分で荷造りを開始し、テンションは最早最高潮といったところだった。考えてみれば、転勤してからこっち、まともな休みを一度も使ったことはなかった。あったとしても、3連休がいいところで、その休みも実家への帰省という内容で終わってしまうような、ある意味では拙いものだった。しかし今回は違う。明らかなる自分の意志だ。5連休を取るということで、気のせいではないレベルで現場からは羨望の眼差しで見られたが、私の直前に6連休をとった先輩がいたことで、若干の緩和が見られたのは気のせいではないはずだった。とは言っても、夏休みも使わずあくせく仕事をしていたのだから、その部分を咎められる謂れはない。新業務も入り、皆が皆あくせくと動き回っている中、私は悠然と飛行機でバカンスだ。これ以上の幸せがあるだろうか♪一人旅行ならそうでもないが、今回は待っている人がいる。そのことがテンションを天井知らずにあげる要因となっているだろう。さてさて、荷造りも終わりを迎えた。後は楽しい旅行に旅立つだけだ。明日は早い、早々に寝ることにしよう。ブログの更新が滞る上でこれ以上の理由は見当たらない。帰ってきてからの反芻、ブログの更新は忙しくなりそうだが、それがまた楽しみでもある。では…行ってきます♪
Mar 4, 2009
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雪が降った。べた雪だった。別に珍しいことではない。生まれが雪国だったこともあって、雪なんて冬になれば嫌というほど見てきたものだった。雪が積もったせいで車が身動きとれなくなってしまい、除雪をする為に親に起こされたり、やりだしたらあまりの膨大さに汗をかくくらいになってしまったり、そこまでいくと逆にテンションがあがってしまい、最終的には必要のない場所の除雪までしてしまって筋肉痛になったりと、あまりいい思い出がない。見ている分にはとても綺麗で、芸術的とすら思えるものだ。雪の日に初恋をした。もうおぼろげになりつつあるほど古い話しだ。そう考えると、いい思い出もあるものだ。まぁ雪に付随する思い出は綺麗だが、現実的な意味での雪にはあまりいい思い出がないといったところか。そんな雪が降った。暫く眺めていたが、やはり都会の雪は田舎の雪とは違う印象を受ける。物が溢れてごちゃごちゃした都会を、一瞬だけ田舎のような光景にしてくれるのが都会の雪の印象だ。時がゆっくり進んでいるように見え、気持ちが落ち着く。そして幼い気持ちを呼び起こしてくれる。ふわっとしたものをゆっくり包み込むような…そんなイメージ。と綺麗に言ってみたものの、豪雪地帯生まれの人にとってはそんな悠長なことは言っていられないだろう。ほんの少しだけ与えられる安らぎが今日の雪にはあった。さて、本題へ。いよいよ3月だ。3月には私の計画した大きな旅行が待っている。初めてのお使いに似た気分で今から期待が膨らむ。もともと遠くに行くことが好きな私が、年男脱却とともに大きく掲げる旅行プラン。それは北海道旅行だ。飛行機に1人で乗るのは生まれて初めてだ。付随する微々たる問題(客観的)が、私にはどうしても大きな問題に見えて仕方ない。金属探知機がぴーって鳴ったらどうリアクションしていいのだろうか。おっきい鞄とかはどのタイミングで預ければいいのだろうか。そういう普通の人ならば一笑に付すような小さな問題を抱えて、期待と不安でえもいわれぬ心境だ。まぁ先に挙げたような問題は、空港に行ってからでも解決は出来る。これは心配性の私の悪い癖だと言えるだろう。実際にその場になってみれば、知らないことでも冷静な顔をして行うのが私だ。内心の心臓バクバクを隠すのはそれなりに上手いつもりだ。今回の旅行には5日間の休みを用意した。私の2008年度の夏休みを消化しての旅行ということになる。今更夏休みをとるということが既に現場の忙しさを物語っているが、それはいいっこ無しだ。他の人の休みを優先していたら3月になった、ただそれだけなのだから。4月になったら消滅する夏休みを前に、ぎりぎり滑り込みと言ったところか。目的は勿論決まっている。妹に逢う為だ。妹の為に海を越えるとは、我ながらなかなか粋な兄だろう♪シスコンと思われても仕方ない(笑)取りあえず、そんなわけで、3月は長い間暖めてきた計画を実行にうつす時だ。きっと北海道では楽しいイベントが待っているだろう。今から楽しみだ♪楽しみにしている遠足の前の夜のように。クリスマスイヴの夜のように。そんな気持ちで毎日の仕事を片付けている。楽しみは先にあるほどいい、モチベーションが高い水準で保てるから。
Mar 1, 2009
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