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8月1日ダマスカスからの列車は快適だった。最新版の『地球の歩き方 シリア・ヨルダン・レバノン編』にはシリアの列車について写真や時刻表付で詳しく説明されているが、当時は数年前の歩き方のコピーしかなく、列車で移動する旅行者は皆無に等しかった。景色さえ面白くなかったが、これはシリアという土地柄仕方ない。バスでも同じはずだ。この時点で、シリアでの移動手段は出来る限り列車を使うことに決めた。アレッポの街はダマスカスと同じように、黄色のタクシーや車、通行人でゴチャゴチャと賑わっていた。宿を決め、食事に出かけた。アレッポのジューススタンド 色鮮やかなフレッシュジュースが25SP(50円強)で飲める このポテト入りハンバーガーは50SP。美味かった!現アサド大統領の肖像写真ここアレッポの街では、至る所にアサド大統領の写真が飾られていた。彼の顔を初めて見たのは東京のシリア大使館だった。シリアのお国柄に相応しく、大統領の渋い顔がかなり似合っていた。 アレッポのスーク(市場) このスークもかなり賑やかだった アレッポのモスク 床に座ってくつろぐ女性たちシリアの女性は、カジュアルな格好をしている女性も多いのだが、やはりここのモスク内ではイスラム教徒らしいチャドルを着飾った女性が多かった。顔や服装を見る限り、他のイスラム教国からやって来た人も多いように感じた。とにかく、アレッポの街ではアサド大統領の肖像写真をたくさん見かけた。 市バスの車体にも こちらは笑顔が爽やかなアサド氏 こちらはシブい顔 ちょっとイカつい顔のアサド大統領(観光案内所入口)私はシリアに来て、すっかり彼のファンになってしまった。あの渋い顔が気に入って、しかも、たまに爽やかな笑顔の写真が貼ってあったりして、なかなか面白かった。そう、ここシリアにはあの渋顔がピッタリなのである。アメリカに、イランと共に【悪の中枢】【テロ支援国家】と名指しで敵対視されていて、隣国イスラエルとも常に一発触発な関係のシリアだが、イスラム教国の社会主義国家として、アサド大統領の下しっかりと国が治まっているようだ。8月2日この日は、朝からアレッポ城に行った。 アレッポ城入口。風格のある建物だ外に見えるのがモスクアレッポ城の周りは堀になっている。この階段を上がって入口から中に入ることが出来る。中に入って、しばらく歩くとアレッポ城の屋上に出た。ここからは、アレッポ市内やその遠くまでの絶景を360℃眺めることが出来る。 政府系の建物か かなりの高さから展望が出来る 遠く広範囲にわたって同じような色の建物が広がっていたここの屋上もとても広く、所々で修復工事が手作業で行われていた。ここで、1人のイラク人と知り合った。 アレッポ城を観光しに来たイラク人彼は、私が日本人だと分かると、色々と話しかけてきた。こちらもイラク人と話をするいい機会だと思い、色々と話を聞いてみた。アレッポ城からの絶景とイラク人との会話の映像はこちら⇒(YouTubeへ)彼は、イラクのモスルというイラク第2の都市の出身であった。少々、彼の英語は分かりづらかったが、出稼ぎでシリアにやってきて、今はアレッポに住んでいると話していた。彼は、彼の祖国イラクについて悲観していた。何のための戦争なのか。誰のための戦争なのか。誰がハッピーなのか。ひょっとしたら、希望のない未来なのかもしれないが、彼は気丈に語ってくれた。この旅でイラク人と会ったのは、1度や2度ではないが、彼らはみんなが気丈で、そしてフレンドリーで、時に陽気なところを見せてくれた。そして、私がヤバーニ(日本人)だと分かると、親しみを持って接してくれて、何度となく握手を交わしたものだった。ここシリアには200万人のイラク難民がいるといわれている。同じアラブの血を引く同士、お互いにうまく溶け込んでいるように思えた。イラクというものを、ここシリアでより間近に感じた。1日でも早く、イラクや周辺諸国に平和が訪れて欲しいと切に願う。◎新しいブログを立ち上げました!☆北京五輪(オリンピック)野球日本代表星野ジャパン☆~現地観戦への旅~今後の旅行記や、北京オリンピックを見に行くまでの様子や現地のことを書いていきます!~以下、シリア編続く~
2008.01.27

7月31日シリアの首都ダマスカスに到着の様子は⇒こちら空港からのバスを降り、安宿まで歩いた。 ダマスカス市内。この景色を見てテンションが上がり、20kgのバックパックを背負いながら撮った古臭い車体の黄色いタクシーがシブかった。もっと古そうなハイエース位の車体を利用したセルビス(乗り合いミニバス)も、もっとシブい。 ダマスカス市民の足・セルビスダマスカスの街並みも当然古く、もちろんシブくてカッコ良かった!世界で一番最初に出来た『都市』=ダマスカスとされているほど古くて味のある街なのだ。シリアの第一印象=シブい!!だった。暑い上、重たいバックパックが応えた。やはり使えない『地球の歩き方』の地図のせいで、少々迷った。そこで、通りのシリア人に何度か道を聞いた。ある人は、英語で丁寧に行き方を教えてくれ、また、安宿の近くで地図を持ってウロウロしていたら、「そこの路地だよ!」と、忙しそうなジューススタンドで働くおじさんが、言葉ではなくジェスチャーで教えてくれた。ダマスカスの安宿街に近いので、こちらが何も聞かなくても親切に教えてくれたのだ。バスを降り30分ほど歩いて、アルラビホテルというダマスカスでは有名な安宿に着いた。 運良く、ドミトリーが1ベッド空いていた。(300SP、$1=約50シリアポンド)やはり、昼前後にチェックインしたので何とか空いていたのだ。それでも、$6もする。以前に比べ、シリアの物価も上がっているようだった。というか、ダマスカスには安宿が少ないので、値上げしてもシーズン中は需要が十分にあるのだ。ちなみに、午後や夕方に到着してドミトリーが空いていない場合、又は少しでも節約したい旅行者は、屋上の雑魚寝ドミトリーに泊まることが出来る。(夏季限定200SP=約$4) これが屋上のドミトリー。難民収容所のようだ部屋のドミトリーより$2安いが、ご覧の有様だ。それでも、$4もする。シリアの物価を考えたら高過ぎる。それでも、数十人も泊まっていた。ちなみに、シリア(ダマスカス)の物価は・サンドイッチ 20SP ・フルーツジュース 20-50SP ・水1.5リットル 25SP ・タクシー 乗車15分程度 50SPである。一息ついてから、鉄道駅に向かった。安いので人気があり、なかなか捕まらないタクシーを何とか捕まえた。その前に、鉄道駅に行きたいと何人もの運転手に聞いたのだが、みんなが知らないようだった。それほど、シリアでは鉄道が全く一般的ではないのだ。でも、彼はしっかりと郊外にあるカダム駅まで連れて行ってくれた。ダマスカス市内は結構渋滞しているえっ!?シリアの首都・ダマスカスの駅は静まり返って、人気が全くなかった。それでも一応警戒している警察官にパスポートを見せて、敷地内に入った。待合室兼切符売り場に入ってみると、10数人くらいは列車待ちをしていた。アレッポという北部にあるシリア第二の都市までの運行時間と値段を聞いた。教えてくれた女性は、スカーフを被らずカジュアルな格好をしていて、欧米風に限りなく近かった。そう、シリアにはフランスの影響もあってか、非イスラム教徒の割合が高い。街を歩いていて、女性が髪の毛を露出していたり、ジーパンにTシャツを着ている人が何人かいて、それを見たときは、かなりドキドキした。無理もない。敬虔なイスラム教の国・イランに3週間もいた時はあり得ない光景だったのだ。シリア人は白い。男性はアラブ系の顔だが顔が白い人が多い。女性も欧米人に近い顔つきで綺麗な人が多い。シリアに来てそんな風に思っていた。8月1日朝、7時過ぎの列車に乗ってアレッポを目指した。値段は、1等で240SP、2等でも215SPだったので、迷わず1等の切符を買っていた。シリアを旅する旅行者の99%かそれ以上の人々は、バスを使っている。しかし、そこはあえて旅行者が全く利用していない列車に乗ってみたかったのだ。今までシリアの列車に乗った人の話は聞いたことがないし、ネットで検索しても出てこなかった。シリアの国内鉄道はどうなっているのか?単純にそれが知りたかった。念のため書いておくが、私は鉄道マニアではなく列車での移動が好きな旅行者である。ホームには数人の客が始発列車を待っていた。そうしたら、どこかからやってきた夜行列車が、このカダム駅に到着した。意外と、ほどほどの数の乗客が降りていった。やっと我々の列車が到着したようだ。すると、アフリカ系の身なりの綺麗な個人旅行者が列車の写真を撮っているのを目にした。どうやら、写真を撮っても問題ないようだったので、私も何枚か撮影してみた。これも意外だった。シリアでは、公共の建物を撮影したりするとスパイ容疑で秘密警察に注意される、とのことだったが、その時は問題なかったのだ。 人気のないホームと寂れた車両 我々が乗った車両は最新型だったガラガラの車内は、とても綺麗だった。どうやら最新型で、日本の特急列車にも引けを取らないくらいでもあった。 最新型の車内(これは次の機会に乗った時に撮影)間もなくして、アラビア語の新聞やイヤホン、スナックやチャイが配られた。イヤホンは、飛行機のように座席のプラグに接続するためで、車内にあるモニターの音声が聞けるのだ。そして、列車はアレッポへ向け発車し始めた。乗車率は、終点アレッポまででも10%程度だった。。気になる、車内の様子やシリアの風景の映像は⇒こちら!!(YouTubeへ)ネットで検索しても出てこなかったので、おそらく世界初公開映像!!だと思う。
2008.01.19

7月30日イランのテヘランで、イランからトルコへの国際列車の切符が買えないことが分かると、その場でシリア行きの航空券をネットで予約した。その航空券は、エアーアラビアという航空会社でUAEのシャルジャ経由で、乗り継ぎが悪くてシャルジャで1泊する必要があった。それでも安かったので、その航空券を選んだ。気になる航空券の値段は、テヘラン⇒シャルジャ$63シャルジャ⇒ダマスカス$125である。予約してからは、慌てて荷造りを済まし、テヘランの空港へ向かった。シャルジャの空港からはタクシーでユースホステルへ向かった。タクシーの運転手。こないだはイエメン人の運転手だったが、今回はパキスタン人だった。さすが、外国人労働者が大多数を占めているUAEだ。UAEの宿代は高い。そして、バックパッカーが少ないためか安宿も少ない。UAEへはドバイも含め、何回か訪れていたが宿泊するのは今回が初めてであった。ネットで何とかシャルジャにあるユースホステルを見つけ、何とか手に入れていた住所をパキスタン人の運転手に見せて、彼も何とかユースまで連れて行ってくれた。ちなみにタクシー代は45Dh。(約1200円)ユースのドミトリーで40Dh(会員価格。非会員は55Dh)であった。 シャルジャのユースホステルユースにはフィリピン人のスタッフがいた。そして、彼に翌朝のタクシーを手配してもらった。他の宿泊客は、ロシアからイギリスに移住して今回は仕事を探しに来たという、ロシア人には見えない中東系な若いオヤジ、タジキスタンから仕事を探しに来たという、とても他人とは思えない日本人にそっくりな小柄で若い彼、韓国人バックパッカー、そしてアレキサンドリアから来て夜中にどっかへ行ってしまったエジプト人 etc日が暮れてもサウナのような超高温多湿な中、スーパーへ食料を調達に出かけた。おっ!!ラーメンが売ってる!!パンもある!!とにかく食材、日用品が豊富だった。イランとは大違いだ。3週間ぶりにイランから出国して、物資の豊富さに感動してしまったのだ。イランでは、スーパーというものがほとんどなく、商店といったサイズの店で限られた物を買うしかなかった。それはイランという国が貧しいのではなく、文化的に彼らにとって必要ないものが売られていないということである。イランでの食事は、主にチキンサンドに代表されるイスラム式サンドイッチ、ハンバーガー、ピザ、時にはレストランでご飯や魚料理、各種肉料理といったものに限られていた。ここUAEではお金を出せば世界中の料理が食べられる。私は迷わずカップラーメンと、袋詰めのラーメン、そしてパンを買った。ラーメンやパンは、シリアに持ち込んで食べるつもりだった。スーパーには、私と同じような金欠なアジア人、特にフィリピン人やインド人が多かった。7月31日まだ薄暗い早朝、予約時間通りにインド人のタクシー運転手がやってきた。シリアのダマスカス行きのフライトに乗るためだ。ここがインドだったら、ひょっとして彼は時間通りに来なかったかもしれない。でもここはUAE。祖国から出稼ぎにやってきたインド人たちは信用出来そうな感じがした。中国人の次に、世界中でどこにでもいそうなインド人。印僑という言葉もあるように、世界で働くインド人たちは商売熱心なのだ。世界中から注目されているUAE。その経済を影から支えているのはインド人でもある。タクシーに乗って、私がインドを旅した時の話をしながらシャルジャの空港へと向かった。彼の顔を見て分かったが、ここUAEには南インド出身のインド人が多いようだ。インドを旅した人なら分かると思うが、南のインド人は顔つきが北よりやわらかく、トゲがなくて気さくで優しい人が多い。北のインド人(デリー、アグラ、バナラシ、コルカタ等)は、キツイ顔つきでボッタクリや詐欺師が多いので十二分な注意が必要だ。 シャルジャ空港すっかり慣れたシャルジャ空港で、シリアのダマスカスへ行くためにチェックインを行った。ここで、間一髪で取ってきたシリアビザの出番だ。実は、過去のブログでも書いたのだが、日程の都合で東京のシリア大使館に行ったのが日本出発の前日で、何とかお願いして即日でシリアビザを出してもらったのだ。朝の10時代に、民家にそっくりなシリア大使館に着くと、インターフォンを押して中に入った。廊下には、あのアサド大統領のポスターが何枚も貼られていた。おお、これがシリアか!!それらしい、厳かな雰囲気で一杯であった。普通シリアビザは、申請した翌日に取得することになっている。日本語が堪能な若くてイケメンな担当官は、私がどうしても今日中にビザが欲しいと言うと、「ダメですね。出来ませんよ。」と最初は言っていた。「そうですか。そうすると、トルコかエジプトで取らなくては行けないんですよね?」すると、「いや、そこで取れるとは分かりません。東京でしか取れませんよ。」実際には、イスタンブールかアンカラ、カイロで取れることは彼も知っているはずだが、保障出来ないので、彼の立場上、取れるとは言えないのだ。困った感じをして、しばらく粘ってみると、明日のフライトなので今日しか時間がないことを分かってもらい、「ちょっと相談してきます。」と彼が言って席を外した。この時点で、ビザが即日取れる気がした。そして、「今回は特別ですよ!」といって、その日の午後にビザを出してくれた。シリアビザ翌日に取得出来るということは、おそらく、その日のうちに手配しているであろうから、何とかなりそうな気はしていた。レバノンやヨルダンからの国境でも取れているようなので、それほど難しいビザではないのだ。最悪、取れなかったかもしれないが、ある程度の自信があったのも事実だ。この旅でお馴染みとなったエアーアラビアに乗って、シリアの首都ダマスカスへ向かった。隣に座ったシリア人のおじさんは、オマーンかクウェートか忘れたが、そこで立派な仕事をしていて故郷シリアのダラーというヨルダンとの国境の町に住んでいた。今回は実家に帰るらしい。UAEで息子さんと会ったらしく、立派な携帯電話の中には彼の写真が入っていた。色々と気さくに話をしてくれ、良かったらダラーの実家に来ないかと言って、電話番号や住所を書いてくれた。その隣に座っていたのは、イラク人で私と同世代位の男性だった。ダマスカスに着いて、入国審査の列に並んだ。ここで驚いたことが2つあった。おい!シリア人らしき男性が、タバコを吹かしながらパスポートを差し出し、入国審査官も何食わぬ表情で応対していた。シリアはタバコを吸いながら入国審査が出来るのか!!しかも国際空港で。隣にいた韓国人の若い女性の団体は、嫌でも目立つデカいカメラで写真をバシバシ撮っていた。それも全く問題なし。入国審査台を通過するときも、1人1人のパスポートと顔を確認していなかった。写真撮影はご法度なはずの空港。しかもイスラム教の国で、シリアは特にスパイ監視の為に秘密警察が厳しく取り締まっているはずなのだが。。そのくせ、係官は一昔前の中国みたいな緑色のいかにも社会主義っぽい制服を着ていて、一見厳しそうには見えた。確かに首都の国際空港にしては、かなり頼りなかった。トイレは小さく、そこらへんの公衆トイレ並だった。シリア商業銀行のカウンターで両替をしようとしたら、誰もいなくて、しばらく待たされた。まあ、シリア人は優しいらしいし、それ位は別に大したことではない。市内へのバスに乗ると、先ほど機内で知り合ったイラク人と再会した。英語は話せなくて、大人しい彼だったが隣に座らせてもらった。バスは、いよいよダマスカス市内へと入っていった。イランより立派ではないが、古びた車やタクシー、乗り合いミニバスのセルビスで道路上は混雑していた。バスを降り、頼りない地図を片手に20kgのバックパックを背負いながら安宿を目指した。狭い道路に車やセルビス、通行人でゴチャゴチャしていて、交差点では警察官が交通整理をしていた。シリアの首都だが、ダマスカスの街は全く近代化されておらず、昔ながらの古臭い、人間臭い街の香りがした。このレトロな街並み、雰囲気がすっかり気に入った。渋い!シブい!そんな渋カッコイイ街・ダマスカスの街を、安宿へと向かって歩き続けた。シリア。世界最古の都市、ダマスカス。これは大いに期待できそうだ!! ダマスカス市内の様子。シブくてカッコイイ街だ!
2008.01.14

今回は、7月11日~7月30日までの20日間滞在したイランについての総集編として記事を書いてみようと思う。イランという国を旅する前に、イランという国について、世間一般、国際社会で思われているようなマイナスイメージが少なからずあった。・危ない国、核開発を進めている国、敬虔なイスラム教国家、アメリカの敵対国、旅行者が少ない国、旅行がしづらい国、ビザが取りづらい国、以前の日本で不法滞在で働いたり偽造テレホンカードを売っていたイラン人...etcしかし、逆に、旅行者からの情報だと、そのマイナスイメージに関わらず評判の良かった国でもあった。『深夜特急』の沢木耕太郎を筆頭に、アジアからヨーロッパへ陸路で旅した旅人の場合、必ずイランを通って行ったことが多い。その彼らが、イランは良かった。と言っているのだから、これは期待出来ると確信した。個人的には、こういった(語弊があるかもしれないが)『ベールに包まれた不思議な国』を旅してみたいと思うのは当然であった。そのような期待を持ちながら、イランを旅することとなった。 第一関門はイランビザの取得。男性の場合は東京でほぼ問題なくビザが取れるイランビザの取得は、日本の東京以外では難しいというか、取得出来たとしても相当な手間がかかる、という話は長期旅行者の間では有名である。パキスタンでは血液検査を受けなければならないし、他の国でも時と場合によっては取得出来たり、出来なかったりする。とにかく、かなり面倒なことは確かで相当な労力と時間がかかってしまう。かと思えば、バングラデシュのダッカでは、拍子抜けするほど簡単に即日でイランビザをもらえた、という旅行者もいた。とにかく、今回の旅でイランには、色々な意味でかなり期待をしていたので、東京の大使館で確実にイランビザを取得しておいた。男性でも、窓口で断られたりするケースもあるようだが、それは本人の気合が足りないというか、何か係官の気に触ることがあったに違いない。私の場合は、交渉して通常よりも1日早くビザを発行してもらった。あと、電話でイラン大使館へ問い合わせをすると、「ツアーでないと、ビザを発行しません。」といったように一蹴されてしまうことも多いようだ。堂々と大使館に行って申請すれば女性でも何とかなると思う。要は、申請者の気持ち次第だとも言えるかもしれない。イランビザ取得については、こちら⇒※※イランビザは各自の責任で取得して下さい。さて、私はUAEのシャルジャというドバイの隣の首長国から、エアーアラビアでテヘランへ飛びイランへ入国した。イラン入国時には、荷物検査が厳しく隅々までチェックされると想像していた。事実、そういう情報もあったのだが、実際のところはノーチェックだった。いかにも怪しい90リットルのバックパックを所持していたのだが、ノーチェックだった。これは、かなり意外なことであった。そして空港内で、またも意外な光景に出くわした。イランの空港内では当然、写真撮影は禁止されている。しかし、堂々と写真を撮っているイラン人ファミリーがいて、何の問題もなかった。もちろん、私も空港内を撮影したのは言うまでもない。写真撮影に関しては、こんなこともあった。撮影した私も、もちろん悪いのだが、このときは、ちょっと頭のおかしい(精神病か何かの中毒者)イラン人が警察に知らせたことが致命的となった。しかし、女性の写真撮影が出来るとは思いもしなかった。テヘランでイラン人の家庭を訪問したときもそうであったし、エスファハーンでも何度となく女性の写真を撮影出来た。(もちろん、相手の承諾があっての話)イランで最も衝撃的だったことがある。エスファハーンのエマーム広場でのことだ。いつものように、夜のエマーム広場で幻想的にライトアップされたモスクや噴水を眺めながらボーっとしていた。すると、近くに座っていたイラン人女性と話すことになった。彼女の隣には母親が座っていた。まだ高校生の彼女は英語を上手に話し、将来は医者になりたいと話してくれた。私たちは、イラン人と日本人として、色々な話をしていた。雰囲気も良く、堂々と明るく接してくれた彼女との別れ際のことだった。「もし良かったら、2人でエスファハーンを色々と案内しましょうか?」母親には聞こえないようにそう言って、電話番号やメールアドレスを渡してくれた。語弊があるかもしれないが、未成年でもあるイラン人女性からデートの誘いを受けたのだ。もちろん、下心なしで、現地の人に案内をしてもらうことにはとても興味があった。しかし、ここはイラン。そうもいかない。日常生活から様々な制約を受け、特に男女関係については厳格なイスラム社会だ。テヘランで警察に事情聴取されたことも頭にあった。もちろん、彼女の誘いにのっても問題はなかった可能性も意外と高いはずだ。しかし、外国人がイラン人女性と、しかも未成年の彼女と昼間から堂々と、という訳にはいかなかった。 彼女との2ショット写真彼女の親切心だけを心に受け止めて、こちらから連絡することはなかった。しかし、エスファハーンの宿で知り合った日本人旅行者は、同じようにイラン人女性から誘われて、エマーム広場周辺を2人でデートしたそうだ。そのことを知っていても、私は彼女の誘いを断った。ここはイランだからである。エスファハーンでは、何度となく女性からも話しかけられた。通りがかりに挨拶されたり、サンドイッチ屋で話しかけられたり。しかも恥ずかしそうにではなく、堂々と、ひょっとしたらこちらに気があるのではないか、と思わせるくらい積極的に話しかけてくる女性も多かった。特に、イラン人や中東の女性はエキゾチックな顔立ちがセクシーで、余計にこちらの気を引こうとしているような錯覚に陥り、かなりドキドキした。実際に、男女交際が厳格に制限されているとはいえ、逆に、彼女たちが何かを求めているような気もしたのも事実だ。こちらが外国人だからかもしれないが、イラン人女性は、特にエスファハーンではこちらに対してかなり積極的であったのは間違いない。これは、とても衝撃的であった。イランを旅する前は、女性と話すことなんて出来るとは思いもしなかったし、写真撮影も出来るはずないと想像していた。しかし、現実のイランでは、女性は思いのほか解放的で積極的であった。それは服装や髪型にも表れていて、髪を茶色や金髪に染めスカーフから露出させたり、ジーンズを履くのは当たり前になっていて、化粧が派手な女性もたくさんいた。男性のほうも、やはり女性に興味があるのは当たり前で、エマーム広場で知り合った若者の携帯電話には、ガールフレンドであるイラン人女性の生々しい写真が収められていた。テヘランの地下鉄では、4人組の若い男性が少々騒ぎながら週末のよるに出かけようとしていたのだが、一緒にいたハッサン氏に聞いてみると、やはり女性の話で盛り上がっていたらしい。そして、ハッサンはこんなことも教えてくれた。「あの女性たちは売春婦かもね。」と言って、ケバケバしい化粧をした女性の方を見ていた。「あの男は麻薬中毒だね。」と言って、微妙な顔をしている男の方を見ていた。実際に、週末の夜、地下鉄の駅前には、ケバケバしい化粧をした女性が何人もいた。そして、麻薬中毒者と思しき男も何回も見かけた。ヤズドからテヘランへ戻るときに乗った夜行列車で同じ車両になった若い男も、今思えばかなり怪しかった。ちょっとハイテンションでせわしなく、やたら女の話をしてきた。顔を見れば分かるものだ。何の被害もなく、我々同じ車両の仲間にチャイをおごってくれたりと、なかなかイイ奴ではあったが。ここイランにも売春婦が存在するのだ。これもまた衝撃的な事実だった。まあ、世界中に売春がない国の方が珍しいというか、そんな国はないのかもしれない。イラン人は、生まれてからずっと様々な制約を受けながら暮らしている。その彼らがかなりのストレスを受けているように見えたのは明らかであった。テヘランの市街地では、皆が同じように、狂ったかのように車やバイク、バスまでもが暴走していた。ロンリープラネットには、テヘランの交通事情について、【道路を渡るのは非常に危険で、まるでロシアンルーレットのようだ】と評されているほど、危険極まりない。冗談ではなく、本当に道路1本渡るのは命がけであった。ある者は麻薬に奔り、ある者はブラックマーケットでアルコールを摂取する。化粧や髪型は益々派手になっていき、服装も半ばカジュアルになりつつある。実際に、イランへ入国、イランから出国するときにに乗り合わせたフライトでは、イランの外ではイラン人女性はスカーフは被らず、服装もカジュアルであった。ごく一部の女性は売春もしているらしい。。。これもまたイランの真実であった。~次回、シリア編へと続く!~⇒⇔海外旅行ブログランキングへ
2008.01.03
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