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主観というのは、自分の感性を通して物事を理解すること、客観というのは、第三者的立場になるよう努力し、主観を透明化して見ようとする事です。ちなみに『観』は『見』よりも内面性まで掘り下げたするどい見方という意味だったと思います。ただ実際問題、すべての人間に己がある以上、客観というのは無理な話であり、部分的に主観性が出てきてしまうものである、と思います。例えば、空の色は青色だという人が大半でしょうが、中にはピカソのように赤く見える人もいます。黄色に見える人もいるでしょう。同じ青でも、濃い青から薄い青までさまざまです。また赤色がかったり、黄色がかったり、それこそ捕らえようは千差万別になってきます。ですから客観的にというのは絵空事で、事実はどこまでいっても個々の主観的になっていくと思います。でも、これは問題ではありません。問題は、人間は他を理解しようとするときに、自分の主観性に基づいて判断を求めるのが問題だと思います。つまり「普通、こういうことはいけないと思う」或いは「普通、こういうことはしない、言わない」などなど。だけど、それはあくまでそれは自分の主観的な判断なのです。オギャーと生まれてから自分が経験した事、知りえた事の中の範囲で作られた主観なんですね。それって、とてもチッポケで拙いものだと思います。だけど、大半の人間はそれにしがみついてしまう。子ども達がオモチャの取り合いをしてケンカしてるのを見て、「つまらないことはやめな」と大人が言います。でも子供達の主観では、ケンカをしてでも価値のあるものなんです。だけど、オモチャを卒業してしまえば、つまり一段高いところから見れば、「つまらない事」と主観は変化していくわけです。考えてみれば、大人の争いごとも大なり小なりこんなものですね。もう少し自分の主観にとらわれず、高いところから見れば「つまらない事」と喝破出来るわけです。気宇を広げていくと、生き物すべてが親戚になってきます。自分の主観なんて、ホント小さなものです。お釈迦様の言いたかったことの1つは、その辺りにあると思います。
2008年06月14日
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書き込みしています。先回書いたのは修行に入る前でししたが、2月末に帰ってから忙しさと、半分忘れてたのと、やる気がなくなった等の理由でしばらく放置していました・・・。外見的な変化から。修行を終えて13キロほど痩せて73キロ、体脂肪15パーセントになりました。修行前は86キロ、体脂肪26パーセントでした。帰ってから、昨年の2月から体重維持のため、ジムに通うようになり現在、67キロ前後、体脂肪8パーセントというアスリート並みになりました。近眼で(軽い遠視もありましたが)日常の生活、趣味のスポーツに不自由だったので(右0.07、左0.4)、レーシック(近視手術)を去年の11月に受けました。おかげで、両目とも1.2前後になりメガネともおさらば出来ました。仕事的な変化。一昨年、修行に入る前に十年ほどお手伝いをさせて頂いていたお寺をやめることになりました。本当に色々勉強させていただきました。同じく、自分の寺とは別に、小さな寺を代務住職で任せられました。趣味的な変化。サーフィンのほうですが、以前は体重もあったので、ロングボード主体でしたが、去年からショートボード主体で楽しんでます。この冬の時期はアルペン・スノーボードでガンガンやってます。日常的な変化。一番上の子が中一になり、家族で出かけることがむずかしくなりました。寂しいことですが、しょうがないですね。彼女も友達といる方が楽しいみたいです。ですから、一番下の小3の子に遊んでもらってますw時間的なゆとりが出来たせいか、ゆっくり毎日を楽しめるようになりました。信仰も生活も趣味も。また、時々書き込みしたいと思います。
2008年03月15日
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来月11月より、修行に入ることになりました。私らの宗門の修行は、とても過酷なもので、特に「荒行」と呼ばれます。一日2度の重湯と味噌汁の食事、7回の水行(水かぶり)、4時間の睡眠、10時間以上にわたる読経生活を百日間送ります。私はこれで3度目の修行になりますが、12年ぶりの修行で、「とにかくお経を読ませて頂く」という気持ちと、「家族や友人としばらく会えない」という辛さと、「体力的、精神的に頑張れるだろうか」という不安といろんな気持ちが交錯して、不思議な思いです。この修行に入る関係で、ここ1ヶ月はひどく忙しい毎日でした。でも、普通の毎日がどれだけありがたい事か、修行に入るとよくわかります。また、しばらく日記も更新できず、さぼりまくりです・・・。
2006年10月29日
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愛媛県で臓器移植に関わる売買取引がありました。臓器移植が日本で認定されてから、必ずこのような事がおこると、以前から法話等の席で話していましたが、現実になり、ヤッパリという感じです。中国ではビジネスとして成り立っているという噂も聞きます。十年前頃、臓器移植法が脳死の問題と共に論議されている時、有識者で作られた審議委員の中でお医者さんだけがほぼ全員、「脳死を死と認定する」「臓器移植を認定すべき」という意見だったそうです。1つの業界の人間の意見で通ってしまうという事は、実はとても怖い事であると思います。これは審議委員の一人であった梅原猛氏もおっしゃられていました。幼児などの先天的難病の移植手術の為、資金を集め渡米する話もよく聞きます。我が子がこのような病気であったら、どんなにつらいだろうと、考えると身が刻まれるような思いです。しかし、臓器等の移植で命を助けるというのは、何か違うような気がします。人間はいずれ死ぬものです。造花ではありません。その限りある毎日をいかに過ごすか! という事だと私は思ってます。我が子であっても、身内であっても、そういうケースになった場合、そのゴールまでの時間をいかに一緒に過ごしてあげられるが大事だと思ってます。(なにも時間の長さという意味ではありません)花も枯れ落ちる時がくるから、咲き誇っている時期が美しいと思えるのですし、造花は、いくら精巧に作られていても「美しい」とは思えないはずです。人間も同じではないでしょうか。
2006年10月05日
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7月は東京のお盆、8月はうちのお盆、そしてそれに伴う法要等で、この時期はかなり忙しいです。子供も夏休み中なので遊びに連れて行ってあげないといけないし・・・。しばらく、書き込みできない日々が続きそうです。今日、さる県営のアパートにお参りに行った帰りのこと、エレベーターを上から降りてきて、一階で出ようとしたら、すれ違いに高校生の男の子が入ろうと待ってました。その目の合った瞬間、彼は「こんにちわ!」と気持ちよく声をかけてくれました。私も慌てて同じ言葉を返したのですが、とてもすがすがしい挨拶で、嬉しくなりました。思春期の子、特に男の子は、照れて知ってる人でさえ挨拶することは少ないと思います。ましてや、僧侶のカッコをしていると敬遠されるのか、大人でさえ目礼くらいの事が多いのです。帰り道でも、信号の無い所で、右折しようと対向車の行き過ぎるのを待ってたら、対向車の一台が止まってくれて「どーぞ」という合図(パッシング)をしてくれました。こんなささいな事柄ですが、一日嬉しい気持ちになれました。「悪い感情」も伝染していきますが、「快い感情」も伝染しますね。
2006年07月24日
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昨日の事になりますが、北朝鮮、またやってくれましたね。1世紀以上前の軍国主義国家のあり方そのものの姿勢が見受けられます。つまり軍事力で威嚇し政治交渉の土台として使うやり方です。かつては欧米諸国の十八番のやり方で、中国が「清」であった頃(アヘン戦争など有名ですが)、これによって随分苦しめられてます。日本も遅ればせながら明治後期から昭和初期にかけて、この模倣をしたゆえに愚かな戦争に突入していきました。今の日本は、この悪前例があるが故に、そういうやり方に「懲りている」という事で大人になったともいえます。が、まだ子供のままの北朝鮮・・・。やはり断じて国際世論を味方につけて抗議して頂きたいですね。そういう政治的な絡みの抗議や運動は、仏教徒としては、どうかと思いますが、国際社会のやり方では言ったもの勝ちっぽいところがありますからね。同じ土俵に立たなくてはいけないわけです。はっきり言いますと、欧米人の風潮からして「言わないヤツは馬鹿だからほうっておけ」という感じですから、「以心伝心」的、或いは「情緒」的に訴える日本人の中では美的なやり方は全く通用せず、「ニヤニヤ」して相手が察してくれるのを待っていると、「気持ち悪い人種だ」となるわけです。北朝鮮の国民に対しては、私は同じアジアの同胞として仲間意識を持っています。が、国家がああいう風ですから何ともなりませんね。これも欧米の作ってきた歴史の冷戦の犠牲なのでしょうね。
2006年07月06日
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サッカーの中田英選手のプロ引退宣言で大騒動になってますね。ワールドカップでは中村選手と共に日本チームの中で突出した技術を披露し、またマスコミ嫌いで、常に冷静な言動は、流石一流!と私は思っていました。が、ちょっとガッカリしました。引退のことではありません。「自分探しの・・・」という発言です。旅行会社の宣伝文句じゃあるまいし・・・。自分探し、なんて言葉は妄想だと思いますね。今の自分のほかに自分はありません。探すまでも無いことなのです。せめて「自分の出来る他のことを」と言ってほしかったです。著名人は、その言動が大きく一般に影響しますから、大変だといえば大変なのですが、考慮が必要であるとは思います。簡単に離婚したり再婚したり・・・(これは中田選手のことではないですが)著名人も現代社会を反映してるんでしょうか・・・。
2006年07月05日
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今日のお参りにお伺いする家に一軒、アパートのお宅がありました。10階立てのわりに新しい市営住宅で、その前には2斜線づつの道路、路肩は広く2メートルほどあります。このアパートにはよく行くのですが、いつも路肩のその部分に駐車してお参りに行って来ます。近所には駐車場もなく、一本はいると狭い道なので、駐車スペースもありません。この路肩に停めておけば、全く通行の障害にもならず、他にも宅配業者等が一時的によく停めていました。今日もそこが空いていたので、いつものように停めてお参りに。重複しますが、迷惑になる駐車にはなってない筈です。そしてお参りが終わった後、少し世間話などするのですが、どうも嫌な予感がして早々に引き上げ小走りにエレベーターまで行き、下に戻りました。車を置いてからこの間、約25分。車まで戻ると・・・2人組の制服を着た方が何やらコンピューター片手に何かやってます。「!」この前テレビで見た例の「違法駐車取締り員」でした。まだ入力中でしたので、何とかセーフ。まあ切符切られたとしても駐車禁止区間ですので文句は言えませんが、ホントに私たちのような、個人宅にお伺いする職業の人は困ってしまいます。しかも、私たち僧侶は公益業ではないにしても、商売ではないのですけどね。駐車場があるところは、入れさせてもらってますが、無いところですと、私らの月一回のお参りのために「借りてもらう」のも気の毒ですし、近くに100円○分の駐車場があれば入れるのですが、それも無い場合、お手上げです。取締り員の方と少しお話をしまして「今日は月参りだからなんですが、私らも葬式だったら停めれないと困ります」と愚図りましたが、が「私たちも、したくない場合もありますが、法令に従うしかないので・・・警察に申請して頂くという手もあります」と言われ、確かにおっしゃるとおりですので、返す言葉もなく、肩が落ちました。杓子定規ではなく、ケースバイケースの法律ってわけにはいかないですかね・・・。
2006年07月04日
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今日の新聞に、戦後の政府の「戦争への謝罪」についての世論調査の結果が載っていました。半数以上は「政府の謝罪が足りない」としてあり、逆に官僚へのアンケート調査では半数以上が「十分だ」というものでした。私は、あまり意味の無い世論調査だと思うのですが、問題は「だから政府は世論を反映してないからダメだ」とマスコミが結びつける事だと思います。世論が誤っていることはいくらでもあるわけですから。かつての日露戦争でかろうじてロシアに勝利した日本が、小村全権大使によりポーツマス条約で賠償金(戦争の通例として負けた側が勝った側に支払う)をロシアから貰う事を断念して締結したことに対して、世論が激しく激怒し、小村全権大使を非難し、暴動まで起こった事件があります。ちょうど100年過ぎた現代において、この事項を顧みて、ほとんどの本では小村全権大使の行った交渉が最良の外交と書かれています。世論というのは、大概目の先しか見えないことが多いようです。国家百年の計をはかるには、一時的に非難されようと、世論と逆の立場を取ろうと、信念に基づく事が大事なのでしょう。
2006年07月03日
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自慢ではありませんが私はお医者さん通いが嫌いです。ですからよっぽどのことが無い限り、お医者さんには行かないし、サプリメントや薬もまず常用しません。健康とか食事とかに気を遣ったことも無いのですが、それでも健康に暮らせていられるので、有難いと思っています。(まあハードなスポーツを趣味としているので、それが良いのかもしれません)だけど、健康そうでも医者通いをしている人、薬やサプリメント類を常用している人ってホントに多いですね。誰かが「日本人は薬物中毒」と言ってましたが、当たらずとも遠からずですね。昔の中国の名医、華陀(カダ:三国志の時代の名医、世界で始めての麻酔による外科手術をしたといわれている)が、ある時、王様にその医療技術を褒められたところ、謙遜してこう言ったそうです。「いえいえ、私などがする外科手術をしたりしてアクセクするのは、上中下の医者のうち、下の医者がやることです。中の医者になってくると発病する前に薬(漢方)や適切な運動(気功)で未然に防ぎます(予防)。更に上の医者になると、発病の原因になる憂い(ストレス)そのものを直します。即ちこの上の医こそが名医であります。」病気そのものの本質を看破した名言であると思います。現代にもこういうお医者さんがいるんでしょうか?
2006年06月30日
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昔の年寄りは、反道徳的な行いに対して「バチがあたる」といいました。最近、この言葉を聞かなくなりましたね。仏教的な言葉で言うと「罪障(ざいしょう)」あるいは「業(ごう)=カルマ(古代インド語)」と言います。物質文明が進むにつれ、これらの目に見えにくい因果関係(因果とは仏教用語が元です、他にも利益、平等など)を「迷信」とする向きが強くなっていったのでしょう。現代人はとかく、目に見える(或いは耳・鼻・口・体で感じられる)因果関係を重要視しますが(例えば、AさんがBさんを叩いて、その結果Bさんにタンコブが出来たとか)、この五感の奥にある心の作用については度外視する傾向が強いようです。心の働きによる作用とは、例えば、AさんがBさんを強く憎んでいて、その結果Bさんが病気になるとか(これは悪い例)、AさんがBさんの病気回復を強く願ったら、Bさんが徐々に良くなっていったという事(良い例)などです。これを発展系にさせたのが「バチ」です。心構えが悪いから悪いことがおこる、つまり心の働きによる因果関係を言ったものなのです。これらの事はデータ的にも理論的にも現代科学で証明されるものではありませんので、「科学教」に染まった現代人の多くの人は、「そんな馬鹿な」となるわけです。しかし、今、科学の「量子力学(ミクロの世界を扱う科学)」という部門の学問では、これらの心の働きによる作用を認識していく方向にあるそうです。私も詳しくないので細かいことは分かりませんが、ミクロの世界ではこれまでの常識的な科学では計り知れない実験結果が多く報告されており、その結果、各個人の心の働きによる作用が世の中を動かしている、と結論付けているそうです。科学で解明されなければ信用できないと言うのも変な話ですが、お釈迦様ははるか3千年前にこれらの心の働きによる作用を「因縁」として説かれたわけです。
2006年06月29日
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本堂前の草取りが終わり、いよいよ駐車場草取りです。ここの草はツワモノが多く、一本一本が根を張っているのが多いので少し難儀ですが、大きい草が多いので面倒では無いです。夕方から2時間余りやって、2メートル四方が綺麗になりました(笑)。草取りにもコツがあって、草を抜くというより、草の周りの地面を斜めに掘るようにしていけば、割合根っこから取れます。土木作業ですね。夕方のお勤めを終えて、ロウソクが短くなっていたので取り替えようとしたら、片方のロウソクがロウソク立(正式には燭台と言います)の芯にこびりついていて、抜けません。火を消してすぐならロウソクもやわらかくて、スポッと抜けるのですが、どうやらお参りの途中で消えてしまっていたようです。こういう時は、また火をつけてローソクを柔らかくして抜くのが常套手段ですが、ちょっと慌てていて、釘でロウソクを割りながら取るという作戦に出ました。右手に釘、左手にロウソク・・・んが、途中で釘がロウソクを削った拍子に勢いあまって左手の人差し指の腹の部分にグサッ! 「ぐ・・・」幸い深くないので良かったですが、見事に1センチほど肌がさけ、静脈の黒っぽい血がダラダラ・・・。慌てちゃいけません、何事も・・・。英語で言うと「ウォーク・ドント・ラン」ですね。ベンチャーズ、今年の夏も日本に来るのでしょうか??
2006年06月28日
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今日も午前中はお経参り、午後からは、草取りは休憩で、ひたすら掃除してました・・・暑い! 掃除ってやり始めるとキリが無いですねぇ。時間がまったく足りません・・・。今更ですが、ワールドカップのサッカー、日本代表残念でした。私はサッカー・ファンでも無いですし、詳しい事は分からないのですが、やはり、これだけ騒がれるとTV・新聞等で見てしまいますね。(試合の時間は寝てましたが)私の小学生の頃は、やっと野球のローカル少年チームが出来つつある時代で、サッカーのクラブ等は無かったです。野球の事を考えると、今の子供時代からサッカークラブに所属して一生懸命やっていた子供たちが大人になる頃、日本のレベルはまた上がっていくんだろうなぁ、と思います。スポーツは10~16くらいが一番吸収率も高く、伸びる時期らしいです。勉強も(運動と頭脳の働きは同一でしょうから)恐らく同じ位でしょう。では心はどうでしょう?「3つ子の魂100まで」という諺がありますが、心の教育は3つから始まっているとも言えます。幼年期に親や回りの大人がどれだけ心に響く育て方をするか、これが大きなキーだと思います。「騒ぐから」「いうことを聞かないから」等、色んな理由で、子供たちを仏教行事から避けてないでしょうか? 人間の生老病死、また法事や行事などの体験が心を大きく育てていく要素になるのではないでしょうか?
2006年06月27日
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先日の続きになりますが、皆さんは空腹を味わったことはあるでしょうが、「飢え」を味わったことがあるでしょうか? 戦中戦後を生きてきた方は当然あるでしょうが、それ以降の世代の人は少ないかと思います。戦中戦後の世代の方々がいまだに「子供の頃に食べたあの味が忘れられない」と言われるのは、そのものが美味しかったと言うより、飢えている時に常には食べられないものを食べたと言う話が多いです。「飢えは食事を最大のご馳走にする」と思います。空腹くらいですとまだ、好き嫌いのワガママが言えますが、飢えると命に関わりますからね、食わないと死んでしまうわけですし、おおよそ人の食べているものなら好き嫌い言えずに、おいしく食べれると思います。私は修行で「飢え」を体験しました。それ以降、好き嫌いは言わなくなれました。いや、言えなくなりました。どんなものでもおいしく食べれて幸せだと思います。最終的に、食べれると言うことに感謝が無ければ、どんな高価のものもおいしくないし(食べ続ければ飽きますしね)、逆にどんなささいな食卓でも、家族で食べる食事はおいしいはずです。専門精神科医の話によると、特に子供の頃の味覚は、その場の状況からくる精神状態と密接な係わり合いがあるそうです。つまり、怒られながら下を向いて食べている食卓ではご馳走でも「おいしかった」という記憶と結びつかないそうです。考えてみれば「楽しい気分で食べれる」この事が、一番の精神面での「治療」であり、「医食同源」たる要素なのかもしれません。話はちょっと違いますが、10年以上前、ある食堂でカツ丼を頼んだら、髪の毛入りのカツ丼が出てきましたが(しかも白髪まじりの)。それを一本一本出しながら食べてたら、食べ終わるまで20本以上も入っていました。作るほうも商売でやっていて客(私)に出す以上、これは失礼な事なんで、最後に言っておこうと思ったら、作っていたお婆さんが、奥からヒョコっと出てきました。70過ぎのその人を見たら言えなくなってしまいました。まあ悪意で入れたわけじゃないんで。作る側ってのも大変だと思います。世の中の主婦の方々、ご苦労様です。(旦那が作ってるとこもありますね・・・)
2006年06月26日
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ちょっと前、ある事件がありまして、その対応やら色んな雑務に追われて、なかなか日記が書けません。書くことはたくさんあるんですけどね。事件については、後日書こうと思います。近年、グルメ・ブームよりも人気があるのは、健康食(ダイエット食)ブームですね。これは日本人の余裕度が反映していると思います。戦後の物がなかった時代は「3食ちゃんと食べること」、そして高度成長期以降は「ぜいたくなものを食べること」、更にそれにも飽きてくると「健康に良いものを食べること」と食文化が推移していったと感じられます。テレビで放映されて「これが体にいい」となると、凄いブームになる、怖いくらいです。ちょっと前の「ナタデココ」やら「紅芋」「梅干」「タマネギ」「寒天」等々。ですが、いくらそれが体に良いから、ダイエットに良いからといって、それだけを食べ続けるわけには行きませんし、食べ続けたらそれこそ逆に害になるはずです。大事なのはバランスよく食べるという事なんでしょうね。古い中国の言葉で「医食同源」という言葉があります。つまり、「食べるという事は医術と同じ事ですよ」という意味です。我々が食しているものは、それぞれ何かしらの効能があり、すべてが体にとって必要なものなんですよね。そういう意味から、個別に1つだけを取り出して論ずるべきことでは無いような気がします。大事なのはそれを「頂くという気持ち」であり、態度であり(いただきます、っていいますよね)、それが感謝につながっていくと思います。
2006年06月23日
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一昔前に「ひとつ屋根の下」というホームドラマがありましたよね。江口洋介が長男役、福山雅治が次男役、酒井法子が長女役、他にいしだ壱成、大路恵美、山本耕治が兄弟というキャストで、両親の事故死をきっかけに離れ離れになっていたこの兄弟たちが、一緒に生活をし始め、色んなトラブルやら出来事にあっていくストーリーです。もう10年近く前のドラマだと思うのですが、いまだに忘れられませんね。チューリップの「サボテンの花」が主題歌で、毎週かかさず見ていました。野島伸司氏の脚本だったと思いますが、素晴らしい内容でした。このドラマの中で通称「アンちゃん」こと長男(江口洋介)がよく「そこに愛はあるのかい?」というセリフを言っていました。このセリフを出すタイミングが絶妙で、感心した覚えがあります。仏教では「慈悲」(我執を離れた愛)と言いますが、どんな行為だろうと、この「慈悲」が無い行為は我欲だと言えます。最近、世の中の多くの出来事にこの「慈悲」が感じられない事が多くなりました。私自身の日常でも多くあります。たまにこのドラマを思い出して言いたくなります。「そこに愛はあるのかい?」
2006年06月20日
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今日は私の寺の定例法要(先日日記参照)でした。お参りの後、みんなで草取りをする予定でしたが、朝からシトシト雨で、迷った挙句、お参りが終わっても降っていたので中止。その後、私は月参りに行ったのですが、なんのことは無い、雨は止んで晴れてきました。皮肉なものです。午後からは少し草取りしましたが、子供たちが手伝ってくれて(お小遣い目当てですが)、ワイワイ騒ぎながらも草取りが出来ました。本堂・庫裏前の草取りは完了、これからは、本堂裏、駐車場の草取りになります。日が長くなりましたね。夏至が21日ですから当然ですが、7時過ぎてもまだ明るいってのは、ワクワクします(笑)。
2006年06月18日
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月参りが無い日に土日が当たるのは、年間通して少ないのですが、今日はそんな一日でした。前々から友人と約束していて海に向かいました。今日の波は胸腹サイズ。まあ楽しめるサイズです。今年初めて週末に顔を出したものですから、昔からの知り合い(みな、当然ながら土日休み)に「久しぶりだね!顔白いよ。」と冷やかされたりしました(一般社会で見るとやや黒いくらいですが、サーファーは黒い人だらけですので)。昔からなじみの大衆食堂で仲間たちと昼から宴会になり、その後は昼寝。残念ながら午後からの1ラウンドは雨が降ってきて入れずじまいでしたが、久しぶりに楽しく体を動かすことが出来て、とても気持ちが良い一日でした。しかし、サーファーはみな、いくつになっても元気です。
2006年06月17日
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私ら地方のお寺には『月参り』という習慣があります、別名『月経』『月並み』。これは、檀信徒のお宅のそれぞれの家で、一番最近の亡くなった方のの命日の日にお参りにお伺いするものです。例えば、そこの家のおじいさんが3月5日に亡くなったとすると、毎月5日が命日の日となり、その家へお伺いしてご回向のお経(先祖代々の回向とあわせて)を上げるわけです。この風習は、太平洋側で言えば、愛知県より西にしか無いようで(日本海側では富山までらしいです)、関東では無いそうです。この習慣のおかげで、私たちは頻繁に檀信徒と顔を合わせてお付き合い出来、一軒一軒のお宅の家族構成から仕事、趣味から性格まで知ることが出来(お互いに)、濃い付き合いが出来るわけです。私のお寺では月2回の定例法要を行いますので、だいたい月3回以上、顔を合わせる方も多いです。逆にこの『月参り』が無いところでは、下手すれば法事・葬儀ぐらいしかお寺の住職と檀信徒の顔を合わせる機会が無いようで、それでは「お互いに意思の疎通が出来ないんだろうな」と気の毒に思うわけです。意思の疎通の無いところでは、誤解と言うものが生じますからね。人間、コミニュケーションが大事ですね。
2006年06月16日
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昨日の続きです。やはり朝になってもツバメは巣にいませんでした。すぐには旅立つことはないので、近くにいるんだろうなぁと思っていた矢先、さっき玄関先でタバコを吸っていたら、2羽戻ってきました。巣には戻らず、玄関のアルミ戸の上にチョコンと止まりました。子供のほうです。この強風と雨で仮の宿ではつらいので、安心できる軒先に来たのか、最後の挨拶に来てくれたのか、それはわかりませんが、安心したと同時にとても嬉しくなり、久しぶりに旧友に会ったような気持ちになりました。きっと、これから待っている彼らの長旅にも耐えれるでしょう。昨日、下で歩いていた雛を巣に戻すときに、ちょっと「迷った」と書きましたが、それは『人間が自然に対して余計な介入をしていいのか?』という迷いなんです。この種のことをすると「助けてあげた」と思う人もいるかもしれませんが、私はそれは人間の思い上がりだと思います。やってあげたほうは、自己満足するかもしれませんが、彼らが求めたわけでないのに、手を出すことは「助けた」事にはならず、自分が相手より上にいるから手を差し伸べるあげる、という曲がった自意識からくる身勝手な行動だと思うのです。人間の人間に対する行為でも、似たようなことがあります。先進国による発展途上国(いづれの言葉も一般的言葉としての意)に対する援助もこんなものだと思います。物資や金銭を与えるのは、「彼らは私たちと違って文明的な暮らしを出来なくて、可愛そうだから」という考えで、これはかなり相手を馬鹿にしてると思いますし、自己満足行為じゃないかと思えるのです(全部がそうだとはいえませんが)。私が思うに、どっちが先進国か分からないと思います。発展途上国といわれてる国家の人々のほうが、家族や親戚、まわりの人々、そして自然を大事にして、日常を豊かに過ごしています(少なくとも私の知っているアジアの国の人は)。そういう意味からして、日本もアメリカも後進国じゃないかと思えます。私も昨日、「余計なことをしたかなぁ」と自己嫌悪に陥りましたが、思いがけなく今日彼らに会えて幸せな気持ちになりました。
2006年06月15日
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今日の朝から玄関の軒先のツバメたちの様子が変です。親鳥が餌を運んでくるまではいつもと一緒なんですが、雛に餌を与えた後、とんぼ返りしてまた餌をとりに出ていたのですが、今日は餌を与えた後、しばらく巣の少し離れた場所に留まって雛に向かって鳴いています。そうです、巣立ちの日が来たみたいなんです。あんまり観察しすぎるといけないので(6/5日記参照)、すぐにその場を去りました。朝のお勤めを終えて、朝食をして、一服してたら、学校へ出かけるために外に出た子供たちが騒いで私を呼んでいます。外へ出ると、どういう訳だか、雛が2羽、巣の下のあたりをチョロチョロ歩いてるんです。「あーきっとまだうまく飛べないんで落ちたんだよ」って言って、ちょっと迷いましたが、ハシゴを使って2羽とも巣に返してやりました。親鳥たちは警戒しているのか、近くにはいません。うまく飛べるようになってくれ、と祈るだけです。お経回っている間も、気になっていました。寺に帰って巣を見ると、やはりいません。あ、なんと本堂の前に2羽チョロチョロしています。近寄ってみると、1羽はぎこちないながらも、飛んで逃げましたが、1羽は階段の隅に隠れています。飛べないみたいです。やはり、観察しすぎるとよくないので、去りました。雛は巣に4羽いたはずです。2羽は初めから飛べたんでしょうか・・・飛べないあの雛はどうするんでしょうか・・・この時間になっても、未だ、巣には誰も帰ってきません。気になります。
2006年06月14日
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本日も午前お経回り、午後休憩しながらの草取りでした。『晴耕雨読』という言葉がありますが、私の場合、この時期は『朝経昼草』ですね。この生活パターンが私には一番幸せです。今日も実質2時間くらいかけて、1メートルほど綺麗に出来ました(それだけかって・・・笑)。蟻の活動が活発になってきましたね。黒蟻、赤蟻、共によく動き回ってます。数年前、ある場所で100メートル以上の蟻の大行列を見て、驚いた覚えがあります。私らのイメージでは、蟻は『働き者』という感じですが、研究者の実験によると、あの行列の中の、実は10割中3割くらいしか働いてないそうです。じゃあ他の7割の蟻はというと「働いてるフリをしている」そうです(大笑)。で、その働いている蟻だけ集めて再度実験を行うと、やはり7割くらいが「働いてるフリをしている」ようになるそうです。更に、最初の「働いてるフリをしている」怠け者の7割を集めて実験をすると、なんと、3割くらいが働きだすそうです。これは蟻のDNAの中に「全体の中の3割がキチッと仕事をしていれば、仕事量的には間に合うと言うことが組み込まれているのではないか」という事でした。よくよく考えてみると、我々人間も同じかもしれません。どの職場でも社員の全員が十割の仕事能率で行っている所は無いと思います。だけれども、いざとなったら、なんとかなってしまうのは、社員一人一人に、働き者の心もあわせ持っているからだと思うのです。仏・菩薩の心も同じですね。衆生(生きとし生けるもの)はすべて、仏・菩薩の慈悲の心を持っているのですが、普段これが発露することは稀です。追い詰められて初めて顕されるものなのかもしれません。
2006年06月13日
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今日は私のお手伝いさせてもらっているお寺の『お講』の日でした。『お講』とは、そこの寺の檀信徒が集まり、私たち僧侶と一緒にお経を上げ、法話を聞き、一緒に修行する行事です。この『お講』は檀信徒はお布施とか出す必要は無く(ご供養で物を上げられる方はいらっしゃいますが)、僕ら僧侶は無報酬で行っています。このお寺では月に2回、私の寺でも月2回、このような行事を行ってます。寺によって呼び方は違いますが、多くは『お講』『信行会』『定例法要』とか称しています。大事なことは、檀信徒にお寺に参ってもらうという趣旨で、檀信徒及び僧侶の修行の為に行われている事なのです。口の悪い人は「坊主は檀家から金を集めることしか考えていない」と言いますが、このようにお寺と檀信徒との、お互いの気持ちで絆で成り立っている行事を大事に、大事に行っている寺もたくさんあります。私ら僧侶はお布施がないと生きてはいけません。ですが、形があるもの(布施や物)ばかりにこだわってはいません、形の無いもの(精神や気持ち)も大事にしたいと思っているわけです。
2006年06月12日
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今日は近所の先輩のお寺の「御祈祷会」でした。この「御祈祷」とは祈願と同意語ですが、特にうちの宗門では、『荒行』と呼ばれる過酷な修行を終えた僧侶に許される、『修法』(仏法に則った特殊な儀式)を行う御祈願であるわけです。この『荒行』、私は2度体験しましたが、僧侶の資格を得るための修行とは別物で、行っても行かなくても良いモノなんです。行ったからと言って僧侶の位もあがりませんし、まさに自分の修行の為に(多少のハクつけもありますが)行くようなモノです。ごく簡単に修行内容を説明します。この『荒行』は千葉県市川市にある大本山 法華経寺の中で、毎年冬の11月1日から翌年2月10日までの百日間、篭りっきりで行われます。朝3時前に起床して、朝3時、6時、9時、午後12時、3時、6時、11時と一日7回の水行(水をかぶる修行)、一日4時間弱の睡眠、ムシロの上で一日15時間以上の読経三昧、朝夕「重湯(粥の薄いモノ)と味噌汁」のみの食事で過ごす、大雑把に言えばこんな修行です。私は体重があるほうなので、二回共、約25キロほどダイエット出来ました(笑)。一年くらいで、またリバウンドして元の体重に戻りましたけど。『寒さ』『飢え』『眠さ』『痛さ』等、言葉で表せないくらい過酷な修行であるわけです。この『荒行』に関しては、体験の世界ですので、どうこう説明してもあまり意味が無いかもしれません。ただ、私にとっては一生を左右するほどの大事な経験であった事は間違いありません。今日も私と同じように『荒行』を経験した先輩・仲間と久しぶりのひと時を過ごし、充実した一日でした。
2006年06月11日
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ツバメの子世話って凄いですねぇ。私はたいてい朝5時半くらいに起きるのですが、その頃から雛に餌をやるためにツガイ(雄雌)で飛び回ってます。日中も変わらず・・・夕暮れ時の今も、タバコ吸いに出て見たらまだ飛び回ってます。一日14時間以上、餌をとっては巣に持ち帰り、雛に与える生活なんですよ。私事ですが、一番上の子が産まれたのが、12年前。もう小学校6年生になりました。今でも忘れませんが、この子が産まれたとき(3人とも同じですが)、「五体満足で健康に産まれてよかった」とこれだけでした。だけど、成長するにしたがって、「これをやらせなきゃ」とか「あれをおぼえさせなきゃ」とか欲目が出てきます。当然、世の中のルールやしつけを教えるのは親の義務で必要なことでしょうが、一番の願いは「健康で育って欲しい」これしかないんですよね。一番上の子は、もう来年中学ですから、子供時代も終わりに近づいてきました。なんか早かったですねぇ、考えてみれば。もう小さい頃のように抱いてあげることも出来ないし、ヨシヨシも出来ません(小2の末っ子にはまだやってます(笑))。ツバメの親の事を考えると、この12年で、彼女に何をしてあげれたかなぁと考えると寂しいような気持ちになりました。
2006年06月10日
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午後から雨が止んだので、今日も草取り3時間・・・ちょっと腰が痛いです。「鼓腹撃壌」という話があります。大昔の中国、堯帝(ぎょうてい)が地方を視察に回りました。とある城下で一老人が腹鼓(はらつづみ)を打ち、大地を叩いてこう唄っていました。「王様なんかいたっていなくたって関係ない、俺はこうして歌って踊っていれば幸せだ」これを聴いて、堯帝は満足して帰ったといいます。つまり王政を意識することなく、庶民が暮らせた(庶民が太平を謳歌=理想的な政治)という話です。中国の王朝の歴史は、庶民が圧政を受ける歴史が多く、一般庶民がこのような楽な生活(衣食住が充実し、王政に対する意見を自由に言える)が出来るのが理想的な政治体制であり、立派な君主である、という意味でもあります。ちなみに勘違いされる方が多いですが、日本の江戸時代なんかは、少なくても天領(幕府領)では圧政と言うことはほとんどなく、TVの水戸黄門で出てくる悪代官(代官=旗本の中から優秀な人材が選ばれて天領を管理した、その役目の人)は作り話です。この話は儒教の理想社会のあり方として、堯帝の治世をたたえるのと共に、長く伝えられてきました。今の日本(まあ海外の先進国も同じでしょうが)は正しくこの「鼓腹撃壌」的状態であると言えます。しかし、誰もこれを理想的な社会であると思っていないでしょう。確かに昔と比べれば、格段に自由で恵まれた社会ではありますが、これが当たり前になってしまえば、もっと上を望むのが人間の常であります。仏教説話に「地獄の箸、極楽の箸」という話があります。地獄の人の使う箸は、長さが3尺(90センチ)もあり、その長い箸を使ってご飯やおかずを食べようとするから大変です。おかずを取って口に運ぼうとすると、右の人がこれを自分の箸で奪います。またこれを奪い返して、今度は左の人のごはんを奪うという具合で、喧嘩ばかりしています。一方、極楽の箸はというと・・・何のことは無い、同じ3尺の箸です。ただ、おかずをとってもご飯をとっても、自分の口に入れようとはせず、それを左右の人の口に入れてあげるのです。本当の幸せな社会は「太平を謳歌する社会」でなく、こんな「お互いに譲り合う社会」でないかと思います。
2006年06月09日
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今日も午前中はお経回り、午後からは草取りです。境内がきれいになっていく事は気持ちよいですし、心が充実しますね。お釈迦様のお弟子に「シュリハンドク」という方がいました。心は素直ですが、物忘れのひどい人で(現代で言えば若年アルツハイマーでしょうか?)、お釈迦様の説法を聞いてもすぐに忘れてしまう、仲間に注意されてもすぐに忘れてしまう人でした。ある時、お釈迦様が、一本の箒を彼に与えて、「塵を払い、垢を除かん」と唱えながら、掃除を毎日してなさいと、教えられました。元来素直な方ですので、それだけを忘れずに毎日毎日来る日も来る日も掃除ばかりしていました。仲間の仏弟子は「お釈迦様の教えも聞かずに、同じことばかりして」と、陰口をたたきましたが、彼はひたすら、掃除しました。やがて、「シュリハンドク」は光り輝く人となり、阿羅漢の悟りを開いたと言われています。掃除は「心の垢」を落とす行いでもあるわけです。3時過ぎに末っ子(女の子、A型)が学校から帰ってきて、1時間ばかり一緒に草取りを手伝ってくれました。嬉しかったですね。甘すぎるとは思いましたが、彼女が前々から欲しがってた「一輪車」を買ってあげる約束をしました。はぁー痛い出費・・・。
2006年06月08日
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今日明日と叔父の本葬儀のため、東京出張です。この2ケ月で、密葬、団体参拝と今回で3回目の東京です。しかも来月は1週間、お盆の手伝いでまた東京です。私らの宗門の大学が東京にあった関係で、東京には4年間おりました。今でもお盆参りで毎年行っているので、車を運転してもさほど迷いませんが、やはり「ここには住めないなぁ」と思ってしまいます。人が多すぎる、田んぼがない・・・など理由はいくつかあるんですが、やはり人工物しかないってのが私には大きいような気がします(東京の方、ごめんなさい)。まあ感傷的な好みの部分は、生まれ育ちに影響するのでいたし方ないですね。それでも、学生の頃は楽しかったですし、色んな経験が出来たことも感謝してます。年取ると共に、この日本の首都へ行くのがオックウになってきました。人工的な刺激に興味が無くなったからでしょうかね。
2006年06月06日
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軒先のツバメの雛が孵ったようで、昨日からピーピー可愛い声を出しています。親鳥は2匹とも一日に何百回も飛び出ては戻って、餌を与えています。微笑ましい子育ての姿です。去年、うちの子供たちがあまりにも観察しすぎたせいか、雛になる前に卵を巣から親鳥が落としたみたいで、結局1羽も孵らずに終わりました。自然界の生き物は敏感で、デリケートですね。よその人が来た時も低空飛行でギリギリでかすめて威嚇するときだってあるんです。ですから、今年は子供たちに「なるべく知らん顔してね」と言ってあります(笑)。とはいっても、玄関の軒先ですから、何度も目を合わせるわけで、私なんか軒先でタバコ吸ってますし(家の中は禁煙にされてます・・・涙)、少々心配だったのですが、今年は良かったです。私たちに心があるのと同様、犬にも鳥にも、そして植物にだって心があるってのが仏教の教えです。私も玄関を出たり入ったりするとき、ツバメたちに対して、心が躍らないよう、心が見透かされても脅えさせないよう、気を遣ってます(笑)。軒を貸して母屋を取られる、訳ではないので、自然界で生活する仲間である以上、彼らとは私らは平等だと思ってます。
2006年06月05日
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昨日のPTAの反省会の酒が残って、少し頭がボーっとするにも関わらず、今日は忙しい一日でした。8時半からうちの寺での定例法要、10時から隣の市での葬儀、11時から法事・・・ってな具合で半日分刻みでした。私はいつも法事のお経の後は必ず法話をするのですが、今日は正直に「昨日の酒が残って頭が痛いんで、難しい話はやめときます。」って話したら大笑いされちゃいました。(ノ_
2006年06月04日
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いよいよ蚊が出てきましたねぇ。草取りをしている2時間の間に5ケ所も喰われてしまいました。よく「酒を呑んだあとは刺されやすい」とか、「太った人は刺されやすい」「血液型によって・・・」とか俗説?がありますが、私は酒飲まなくても、どういうわけか真っ先に刺されます・・・。(T_T) 先日もお払いを頼まれて(樹木を移転するための)、外でお経をあげたのですが、木と雑草が生い茂り、いかにも蚊が多そうな所、お経中は両手に道具を持ちますし、痒いからって動いたり掻いたり出来ませんから、さされ放題! 約15分の間に20ケ所も刺されました。蚊もさぞかし喜んだ事でしょう・・・。(;_;) 私らは袴をはくので、夏場は少し短め(膝下くらいの)の白衣を着ます。白衣にしても、袖元は大きく膨らんでいますし、下の袴はスカート状態ですから、袂からも下からも蚊が入ってきます。おまけに重ね着ですから夏場はメチャメチャ暑いです。暑い上に声を出してお経をあげるので(特に私は大声)、夏場は本当に辛いものがあります。お経回りをするのは、私は冬が一番好きです。そのかわり、襦袢が絞れるくらい汗をかいて、家に帰って衣を脱いだときの開放感は最高です!その後の晩酌のビールも最高です!今年も、夏がきましたね。
2006年06月02日
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うちは子供が3人いる関係か、くどいくらいによく教育関係の通信販売等の電話がかかってきます。たいてい「お母さんに」と指名があるので、家内に替わってしまうのですが、今日はたまたま私しかいなかったので、クドクド話を聞かせれました。うちの方針は「勉強塾にいかせない! 教材関係販売を買わない!」ですので(貧乏なのも原因ですが)、いつも断るのですが、今日はあまりにもしつこい方で、私が「うちには必要ありませんので」と断っても「いやいや、そう言わず、聞いてください」と延々10分以上。最後には「お父さん、あなたが子供さんの教育に関心がないと子供さんが可愛そうですよ」と怒られる始末。あの・・・私もとても関心があるのですが・・・考え方が違うだけで。ちょっと失礼すぎるので言い返してしまいました。私「それでは聞きますけど、勉強ばかりやらせて成績が良くなり、いい高校いきました、いい大学いけました、いい会社はいれました、これがアナタの言ういい子供のあり方なんですか?」電「いえ、そうじゃないですけど、いいに越したことは無いと思いますので。」私「うちはお手伝いをする子が一番えらい子だとしつけています。次に友達やら他人に迷惑をかけないこと。勉強が出来る出来ないはその次でいいと思ってます。」電「あーそうですか。ガチャ」結構ムッときましたが、忍耐・・・。まあ世の中、教育=勉強で、勉強は学校より塾で、という時代ですから、ああいう強気な姿勢で電話で話せるんでしょうね。でも教育の原点は、やはり道徳的なシツケだと思いますし、それがない知識的詰め込み学習は、『知恵のある鬼』を作るだけのような気がします。近年の犯罪の低年齢化も、こんなところに背景があるのでしょう。うちは、家内が習字を教えている関係で、習字と、スイミングだけ習わせてます。あとは「宿題」は絶対いの一番にやらせてます。これは先生と子供のルールですからね。守らせなきゃいけません。あとは好きなだけ遊んでます。( iдi ) まあ私も子供の頃、そうでしたし、それ以上の事は言えないと思って。テストの点が悪くても怒らないようにしてます(家内は怒ってますが)。ただ、その科目が嫌いにならないよう、好きになるようアドバイスをしてあげるようにしてます。嫌いでなければ、いつか興味がわけば、自主的にやれますからね。そんなこんなで、うちの子は3人とも、体育会系っぽいです・・・。うちの雑事のお手伝いに関しても、口をすっぱくして子供たちにやるように言ってます。まあ当然ですが、たまにしかお手伝いはしません。でも、いいんです。親がいつもそれを言っていたと言う事を忘れずにいてくれれば。
2006年06月01日
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2週間ぶりに海に行ってきました。サーファーが『海行く』と言えば、イコール サーフィンです。通常私は朝のお勤めがあるため、5時半には起きるのですが、海に行くときのサーファーはこの時期、下手すると4時半には海に入ってます。とすると、家からの距離によりけりですが、3時前に家を出て海に向かうって人もザラです。中には前夜に来て車で仮眠して海に入ると言うツワモノもいます。私もかつては、そんなスタイルでしたが、今は日常のリズムを崩したくないので、通常より30分早いくらいの5時起きで、お勤めをしてから海に向かいます。「何故、そんなに早く海に入るのか?」といいますと、一つは、少しでも長く海に入りたい、早朝は多少空いている、という理由もありますが、大きな理由として、早朝は風が弱いことが多いからです(夕方も夕凪という言葉があるとおり、風が弱くなります)。風が弱いと言うことは、波のコンディションが崩されにくいという事で、簡単に言うと「波が良い」という事になります。知らない方が多いと思いますので説明すると、サーフィンにとって理想的な波は陸から吹く風(オフショア)なんです。これによってバラバラだったウネリが筋状に揃い、これが岸付近の浅瀬にヒットして崩れ、波乗りが可能になるわけです。確かにウネリ波自体は外洋での強い風(他にも月の引力=潮の満ち引き)によって作られますが、波乗りをする岸付近のポイントで風が強いと(どちらの向きの風にしろ)波の形は崩され、波乗りするには不向きのコンディションになるわけです。今日は波は腰サイズで小さく物足りないモノでしたが、良い天気で、仲間もたくさんいて、楽しい一日でした。でも、水温が少し低いのが気になりましたね。先日アコヤガイの大量死のニュースがありましたが、黒潮蛇行の関係だったと思いますが、その影響で水温が低いのでしょう。これも人間の自然破壊のバチでしょうかね。
2006年05月31日
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カンカン照りの中、草取りをしてたら、急に雲が多くなってきて、涼しくて助かるなぁと思ってたら、暴風になり雨がパラついてきて、あっという間に土砂降り・・・天気予報で「今日は大気が安定しないでしょう」と言ってたのが大当たりでした。先日からの続きになりますが、法律に触れないからって自分勝手なことをする人が多いですよね。結果他人に迷惑をかける・・・。(ここのエロサイトへの勝手なトラックバックも(笑))世の中って、ある程度『お互いの善意』で動いていますよね。これは法律以前の問題です。もし、みんなそれぞれが、勝手なことを言い出して好きなことをやり始めると、人間世界ソノモノが回らなくなります。仕事とか義務とかには応じるけど、それ以外なら何をしてもいいってな訳にはいかないわけです。普通に生活している人にとっては、当たり前のことですよね。ところが最近、そういう人がやたら多くなったような気がします。ゴミのポイ捨てもそうですよね。ちょっと違う問題にもなりますが、地区の係とかも受けない人がいるみたいです。例えば、周りの人すべてが、自分と同じことをやったらどうなるかって考えた事あるんでしょうかねぇ。最近多い、海や山への自然葬(なんと宇宙葬まであるらしい)なんてのも、日本国民全員がやったら日本の海は死の海、死の山になりますよねぇ。「俺だけなら」とか「誰々がやったから」とか「故人の遺志で(故人の遺志だったら悪いこともしていいのか、という理屈になります)」とか、もっと考えて欲しいと思うわけです。自分の家の周りの道路の掃除をしている人や、無償で地域の役を頑張ってる人、そんな人もたくさんいます。頭が下がる思いです。人間社会の原動力は、経済でも文明だけではありません、他人の為に、他人に迷惑をかけないようにという『善意の力』もあるわけです。
2006年05月30日
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人間の心はいつも揺れ動いています。5/12の日記で書きましたが、十の世界があります。●朝起きて「眠たいなぁ、会社行くの面倒くさいなぁ」というのは『畜生』(愚痴)の心、●通勤途中、強引に割り込む車がいれば「なんだ、コノヤロー!」と『修羅』(闘争)の心、●会社に着いて「まあ、一日頑張ろうか」と『人』の心、●部下が困っているのを見て「教えてあげる」のは『天』の心、●下請けの社員の失敗を「まあ、見なかったことにしてあげるから、次は頑張れよ!」という『菩薩』の心、●昼飯時間、自分より高級なものを食べている同僚を見て「うらやましい」と感じる『餓鬼』の心、●上司から成績のことで注意されて「ムシャクシャ」して回りにあたる『地獄』の心、●仕事が終わって家に帰り、子供の寝顔を見て「やさしく頭をなでる」のは『仏』の心。例えてみれば、一日のうちでも、目まぐるしく心の状態は変わっていきます。よく「あいつは良い奴だ」とか「あの人はチョットねぇ」と他人を評価するときがありますが、人間である限り、善人といえども悪い心の状態の時もあり、社会的悪人でも心の良い状態のときもあるわけです。とすると、人が「あいつは良い奴だ」と言った時、自分にとって都合の良い人間であるという意味合いが込められているともいえます。ですから、人間が他人を良い悪いで評価することは難しく、客観的に評価することは無理ともいえます。仏教の修行(なにも僧侶だけに限らず)は、この揺れ動く心をなるべく菩薩・仏の状態に保っていく事にあります。
2006年05月29日
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政治界では、憲法第9条の件で色々ともめてます。私は共産党に肩入れするつもりは毛頭ないですが、わざわざ変えるべきではないと思ってます。この件は私の尊敬する養老先生も「超バカの壁」で書かれてますが、私もほぼ同意見です。『法』とは(大辞泉)1.守るべき規範。法律。おきて。2.手本。模範。3.人としての道理。人道。4.仏の教え。仏法。また、戒律。5.基準とする長さ。尺度。といった意味があります。一般的に『法』と言ったら憲法・民法・刑法などを考える方が多いかと思います。『法』によって国家を治めるという方法は古代中国では韓非によって主張され、秦の始皇帝によって実践されたのが始まりだとされています。この秦の国の法律、現代社会並みに細かい法律(刑法主体)だったらしく、大げさに言えば、普通に生きていても法律に触れる程であったと言われてます。この『秦の法』は大変に不評で(現代でも中国人は法律に縛られるのを嫌うらしいです)、始皇帝死後まもなく、秦は滅亡します。変わって立った劉邦は、秦の本拠地である関内を平定したとき、数千数万あった今までの法律をたった3条に変えた事で有名です。時代は流れ、三国志の時代、蜀を劉備が平定したとき、有名な軍師 諸葛孔明は無法になっていた、かの地に網のような細かい条例を設けたと言われています。要は先人たちは、臨機応変に『法』というものを変えていったと解釈できると思います。日本においては聖徳太子の憲法17条、北条泰時の御成敗式目、徳川家康の武家諸法度・禁中公家諸法度、明治時代の大日本国憲法、そして戦後の日本国憲法と、法律は時代に応じて変わっていきます。つまり、どれも長い歴史から見れば、人間の営みによって一時的に有効なもので、決して永久的なものなど無いと知るべきなのです。仮に人間すべてが、模範道徳的な生活をしていれば、法律などいらないはずです。逆に考えれば、悪い事を考える人間がいるから、法は細分化され、我々は一般人では理解できないほど細かい条目に縛られていくわけです。つまり、悪いことをする人のおかげで、善人は面倒な思いをするわけです。『法』と犯罪は追いかけっこの感があります。法に触れないギリギリの所での犯罪をする、それが多発してそれに対する条項が出来る、といった具合です。結局、私たち人間の心を直していかない限り、この繰り返しなのでしょう。そういう事で、私は憲法9条を含め、今の日本国憲法が絶対的に優れた『法』とは思ってません。しかし、今という現代の、そして日本で生きていく以上、これを遵守するのが義務であるとは心得ていますし、守って生きているつもりです。『仏法』の事を続いて書こうと思いましたが、次回にします。
2006年05月28日
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久々に地元のサーファーの友人たちと飲み会をしました。趣味の仲間って良いですよねぇ。肩書きとか年齢差とか無しで、前置き無しで、お互い言いたいこと言って楽しくやれました。私は生中5杯に焼酎2杯でヘロヘロになりました・・・。まだちょっと頭痛いです・・・。だけど、仲のいい友人だからこそ、ルールってものがあります。「親しき仲に礼儀あり」この仲間は皆、お互い見えない所で、相手を気遣う気持ちを持ちながら付き合える友人たちです。やっぱり、言ってはいけないこと、してはいけない事、最低限のルールってのを忘れたら友達付き合いは出来ませんよね。久しぶりに、顎が痛くなるほど大笑いをして過ごしました。
2006年05月27日
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仏教の基本として有名なものに、『七佛通戒偈』(法句経)という教えがあります。願諸衆生 諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教 という経文なのですが、意訳すると、以下のような意味になります。すべての生き物たちよ!願わくば悪事をしてはいけない善行を行いなさいそして自らの心を清らかにしていくこれが仏の教えです簡単明瞭ですね。昔、中国に「白居易(白楽天)」という有名な詩人がいました。ある時、さる高僧に「仏教の教えとは、どのようなものですか?」と尋ねました。すると高僧はこの『七佛通戒偈』を説かれました。白居易は「そんな簡単なこと、5歳の子供でも知ってる」と、ガッカリすると、高僧はこう言いました。「5歳の子供でも知っているが、大人でもこれを出来るものは少ない」白居易は唖然として悟り、仏教に帰依していったそうです。ここに1つの大きなポイントがあります。『良いこと』って何でしょう?『悪いこと』って何でしょう?これは生真面目に考えれば考えるほど難しい主題になってきます。『良いこと』・・・例えば人助けをすることなのでしょうが、こういう場合どうでしょう?●仕事もせず、ギャンブルや酒に溺れ、身内に迷惑をかけているのだが、地震などの被災地へボランティア活動をしに行った青年。●よその子供の面倒を見てやるこことに夢中で、自分の子供は、ほかりっぱなしの母親。『悪いこと』・・・例えば人を傷つける事、殺すこと、人のものを盗む事なのでしょうが、こういう場合どうでしょうか?●本当に生徒の事を思って、生徒がしたいたづらに対して手を上げ、怪我をさせてしまった先生。●自分の子供を殺されて、仕返しに犯人を殺した父親。人間の思考は文章で書くほど単純でなく、とても複雑です。わかりやすい例を出しましたけど、生活上色んな事柄が、実は善と思って悪事をしていたり、その逆であったりするわけです。ともかく、オギャーと産まれてから数十年しか生きていない人間が、その中で知りえた知識やら体験だけで、善悪を測ることってとても怖いことだと思いませんか?ですから、古来人間は、道徳的要素の高い宗教を生きる指針にしたと思います。現代人は宗教離れにより、宗教の持っていた道徳からも離れてしまいました。現代人のほとんどは「昔の人より私たちのほうが、高い脳水準である」と思っている人が多いかと思いますが、私は逆だと思いますね。確かに科学的知識は増えたでしょうが、根本的な人間の生き方だとか、善悪とかという事は、むしろ先人たちのほうがはるかに熱心に、そして深く考えていたたようです。。。『大岡越前』が『罪を憎んで人を憎まず』と言ったのは有名ですが、善悪というものを常に真剣に考えていなければ出てこない言葉でしょうね。犯罪とかのニュースやら記事を見ると、その手口は、年々巧妙になって行きますが、犯人の動機やら人間性は年々幼稚になっていくような気がします。
2006年05月26日
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今日もいいお天気になりました。晴れてみると改めて5月ってのはいい季節だなぁと思います。日中はT-シャツで過ごせますし、蚊はいないし・・・。昼前にお参りが一段落したので、久しぶりに手洗いで洗車をしてみました。普段使ってるのはホンダのモビリオスパイクなんですが(約3年目で7万キロオーバーしました・・・)、鉄粉の付着がひどく、前から落とさなきゃと思ってたトコでした。どうして鉄粉って付くんですかねぇ?ご存知の方がいたら、お教えください。ともかく粘土状の鉄粉落としを使い、約2時間半かけて、やっとリアの部分だけ完了しました・・・(*TдT*) また夕方にお参りがあるので、今日はここまで。昔、20年位前・・・友人と私と、それぞれ付き合っていた女性がいて、それが同じ日に別れて(ふられて)、その週末(良く晴れた5月に)、行くトコも無く、二人で一日かけてピカピカになるまで車を洗ったのを思い出しました。そういえば、あの頃は洗車機なんて無かったですね。ワックスも固形のものを使ってかけてました。彼女に連絡を取るのも、携帯電話なんてありませんでしたから、自宅に電話して、親とかが出るときもあったりして、いつもドキドキでした。コンビニも地方にはまだ無くて、(近所じゃ恥ずかしいので、ちょっと離れた)スーパーで買出しをして、友達の家でタムロしてました。苦いような、恥ずかしいような、楽しいような思い出です・・・。ここ20年で、世の中別物くらいに変わりましたねぇ・・・。
2006年05月25日
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職業柄、一日の結構な時間を『正座』で過ごす訳ですが、大抵の人は苦手でしょうね。私らだって、そう長くは座れませんが、1時間くらいなら、シビレを切らさず座れます。これも一種の慣れだと思います。ちなみに修行ですと、一日15時間以上は座りますから(しかも座布団でなくコモというムシロの上に)、大抵の人が足を壊します。私の場合は軽いほうでしたが、出てから一年くらいは足の甲の感覚がありませんでした。そういうわけで、足首には決して良いとは言えない『正座』ですが、腰や肩、首などの部分にはとても良いようです。あと、忘れがちなのが、正しい『正座』を行うことによって、ヘソ下に気が集まり、リラックスした精神状態になれる、という事もあります。『正座』に就いては●足が短くなる●O脚(オーキャク)になるなどの俗説がありますが、それに関しては、こんなホームページがありましたので、参考になさると良いかと思います。あと座るコツとしては、●膝の間をコブシ1~2つ分あける●両足の親指を軽くあわせる●腹(ヘソ)を少し前に出すイメージで●あごを引き、肩の力を抜くなど、ありますが、特にヘソ下に意識を集めて上半身の力を抜くと良いでしょう。ちなみに『正座』は中国から入ってきたものですが、家元の中国では(日本でも有名な)「三国志」の時代はまだ『正座』だったらしいんですが、唐の時代頃からシルクロードにより西洋の文物が入ってきた影響で、椅子が普及して、正座は使われなくなったらしいです。法事等などのとき、私は極力『正座』してもらいます(膝の悪い人は別ですけどね)。だって、書いたとおり正しい座り方ですから。でも、一言話ます。「シビれてきたら、遠慮なく立ち膝して下さいね。それでも、ダメなら一回トイレへどうぞ。」まあ座椅子でも良いのですが、立ち膝だけで、血は通うので通常のシビレは取れるはずです。一度お試しください。うちでは食事の時も『正座』です(スタイロ畳で・・・)。子供たちは保育園に上がる前から『正座』して食べさせています。食べ終わるまで『正座』です。おかげでファミリーレストランに行ってもソファー椅子の上で『正座』、ゲームやってるときまで『正座』してます・・・。
2006年05月24日
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5月も後半になりましたが、ほぼ毎日のように雨ですね。しかも細かい雨で降ったり止んだりの毎日で、梅雨特有の降り方と言えるでしょう。ご存知の通り、入梅は通常6月10日前後から入るのが常ですから、完全に異常気象の現れとも見られます。昨年の12月の大雪、今年の2月からの暖冬、そして5月の長雨・・・。自然が何かを訴えているように思えて仕方ありません。これも地球温暖化の一現象だと見る学者もいます。人間そのものの存在自体、本来は自然のはずです。少なくとも数百年以上前までは、他の動物とたいした変わりも無い生活(大量消費社会でなく大量殺戮兵器もない社会)を営んでいたハズです。ここ数百年、殊にこの百年で大きく人類は変わりました。「文明」の名の元に自然開発が行われ、「富国強兵」の名の元に兵器が大きく進歩し、「便利」の名の元に大量消費社会が成立し、結果、人間以外の生き物を「人間の為にある他の物」としか存在価値を見出せなくなってしまいました。これは、人間の体を地球上の自然全体として、人間を脳の部分に例えると、脳が都合のいいように体中を切り刻んで改造していくのに似ています。結果、体という自然のバランスは大きく崩れ、脳(人間)にも悪影響を及ぼしていく事になります。仏教では「衆生」という言葉を使います。お釈迦様は「衆生よ」という語りかけから説法を始められます。勘違いされる方が多いのですが、「衆生」とは人間だけのことではありません。「衆生」は『生きとし生けるもの』という意味で、すべての動植物に向けられています。キリスト教等は、人間は自然界のリーダー的存在であることを神から許されている、という見解らしいですが、仏教は人間もまた他の生き物と平等という捕らえ方をします。ですから、お釈迦様の亡くなった時の絵である『涅槃図』には、あらゆる生き物(動植物問わず)が描かれ、そして嘆き悲しんでいるのです。逆にキリスト教を主体とした西洋社会は「人間の力で自然を克服する」で始まってます。東洋の「自然と調和をはかる」という仏教的思想と比べ、ここに大きな違いが現れるわけです。ご存知の通り、日本は明治以降、他の国々でも第二次世界大戦後、世界中ほとんどの国がこの西洋的文物に染まることで、便利と強さ(兵器的)を手に入れてきました。そして、その結果、今(極度に唯人間的繁栄された社会)があるわけです。私は懐古主義ではありません。手に入れてしまった便利さは、まず手放せませんので、今から出来ることを考えねば、と思うわけです。人間にとっての便利さを追求しすぎると、間違いなく人間は馬鹿になるでしょうね。
2006年05月23日
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幸いなことに、二日とも好天に恵まれて、気持ちよくお参りさせてもらえました。毎年そうですが、行き先のご寺院の貫首様はじめ皆様に感謝、感謝です。また1つ『徳』を積ませて頂きました。
2006年05月22日
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本日より一泊二日の「団体参拝旅行」に出かけます。簡単に言うとお参りの旅行です。行く寺々で、そこのご本尊様のお顔を拝して、そこで一緒にお経をあげさせて頂き、伽藍・歴史・寺院経営等々を勉強させてもらいます。私の代になってから、もう15年くらい毎年一回のペースで続けています。手を合わすこと主体の旅行って一般の人には経験が無いことかもしれません。しかし、私たちはこの旅行をとても大事にしています。「心の洗濯」という言葉がありますが、そんな意味あいかもしれません。毎回、お邪魔させて頂くお寺のほうも(ほとんど本山級の寺院)、わずかばかりのお礼にも関わらず、大変気を使っていただいて、おもてなしをして下さいます。これは信仰の為に来てもらったのを、同じく信仰で返すという姿であり、とても美しい姿でもあります。今回の目的地は、東京池袋 法明寺(雑司が谷 鬼子母神)さん、堀の内 妙法寺さんです。おっと、みんな集まってきたので、出発です・・・。
2006年05月21日
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久しぶりに音楽CDを購入しました。RocoというアーティストのCDです。たまたま、さる雑貨店で買い物してたら、BGMでかかっていた曲で、とても気に入り、店員さんに聞いて衝動買いしたものです。このCDの2曲目がとても素晴らしいです。「○×アーメン」というタイトル(アルバム・タイトルと同じ)で、タイトルとサビの「誓いますアーメン」という部分は頂けませんが(仏教徒ですから)、メロディと他の部分の歌詞は良いですね。50'sとジャズを現代風にアレンジしたような雰囲気です。♪よくみてごらん、悲しみに隠れて♪いつでも近くに幸せあるんだよ♪世の中全部ナゾナゾ♪僕の夢は変わらない♪世の中 マルとバツじゃない♪どんなに転んだって♪どんなにぼやけたって♪ゆっくり行こう最近、メロコアの曲ばっかり聞いておりましたので、とても新鮮です。音楽っていくつになっても心をときめかさせてくれます。
2006年05月20日
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映画「ダヴィンチ・コード」が明日封切りになるようで、新聞雑誌等で話題になってますね。イエス・キリストに子供がいたという仮説を扱ったものらしいですが、見てみたいなぁと思ってます。今回のこの映画にはバチカン当局始め、カトリック系の諸団体が、かなりボイコット等の運動を表明しているようです。そりゃそうですよね、教会側の見解と違う教祖像を宣伝されるわけですから。しかし、ハリウッド映画は宗教モノが多いです。全盛であった50年代から現在に至るまで、数年に一度の割合で、宗教(キリスト教)に関する大作が作られています。これは良いにつけ、悪いにつけ、欧米人の宗教に関する関心がいかに強いかを物語っていますね。これに対して日本は・・・各宗派が記念事業等で製作するくらいなもので、とても民間映画会社が一般ヒットを狙って作った宗教映画なんて無いのではないかな?まあ、だからダメなんだとは思ってませんが、日本人の宗教に対する意識の低さが伺われるわけです。先日、ある葬儀でのこと。葬儀後、喪主挨拶でその時の喪主さんが、こう言われました。「・・・きっとオヤジも天国で見守ってくれいると・・・」もちろん仏教の葬儀なわけです。いうまでもなく『天国』という言葉はキリスト教の言葉です。そういえば、子供たちの会話で「死んだら天国に行く」なんて言ってました。テレビドラマや映画でも『天国』という言葉が当たり前に使われます。一昔前までは、間違いなく『極楽』とか『浄土』と言っていた筈です。どうして変わっていったのでしょう?そもそも、多くの日本人には、昔からある宗教(和洋問わず)に関心が無いのです(オミクジとか占いなどはインストントで、わかりやすいので、現代的宗教として受け入れられていますが)。ですから、前述の喪主さんについても、別にクリスチャンの信仰をしているわけではないのです(だって仏教で葬儀してるんですから)。なのにキリスト教の言葉を使うということは、単に『天国』という言葉が今風だと思っているからでしょう。もっといえば現代的なグローバルな言葉だと信じているからでしょう。逆に『極楽』とか『浄土』という言葉は、爺さんや婆さんの言葉で、俺たちはそんな言葉を恥ずかしいから使わないよ、っていう気持ちが心のどこかにあるのでしょう。これはこの喪主さんだけでなく、多くの日本人がそう思っているハズです。これには日本の閉鎖的な島国という地理と、その歴史も関係しているのかもしれません。大昔から日本人は外国から文物を吸収して、それを自国に合うようにアレンジして取り込んできました。遣隋使の頃から足利義満(一休さんに出てくる将軍様です)の時代までは中国から、戦国期から江戸まではポルトガル、後はオランダから。明治以降はイギリスをはじめヨーロッパ諸国から。戦後はアメリカから。時代の新しい文物は多くの民族の交わるところで発明・発見・流行していくのが常ですから、単一民族の日本はよそからそれを取り入れるしかないのは当たり前のことです。日本人は世界から遅れをとると恥ずかしいから、せっせと新しい文物を輸入し続けてきたわけです。日本人の新し物好き・ブランド好きの理由は、こんな原因だと思います。つまり自国で使い古されたものは、物にしろ、言葉にしろ、多くの日本人は魅力を感じないのであり、新しい匂いのする物や言葉に飛びつくのではなかろうか、と思います(一昔前の流行語が死語として嫌われるのもそうですね)。理屈が長くなりましたが、そんなわけで現代は古臭い言葉である『極楽』や『浄土』という言葉よりも『天国』という言葉がもてはやされて使われるわけですし、クリスマスも盛り上がるし、チャペル・ウエディングがはやるわけです。細かいことを言うと『極楽』と『天国』は別モノなんですけどね。あとグローバルという感覚もあると思います。映画やTVで見ている欧米人のライフスタイルに自らを近づけることによって、自分も世界的普遍性の中にいる(わかりやすく言えばカッコイイ)、と勘違いしている傾向ですね。不思議なもので、インドネシアやタイ、モロッコやチリのなどの人々の生き方をグローバル・スタイルだと思っている日本人は少ないはずです。このあたりが、日本人のナンセンスな所であると思います。もちろん、日本人にしかないようないい部分もたくさんありますが、ことに、宗教とか民族とかという観念に関しては鈍感な民族なんでしょうね。
2006年05月19日
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先日、お参りに伺った家でのことです。そこには小さな子供さんが2人おられます。一人は5、6歳くらいの女の子、一人は保育園前の3歳くらいの男の子。お経が終わってお茶を頂いて話しているときに、その二人の子供さんがおいかけっこをして遊んでました。と、弟のほうが何かの拍子につまづいて、思いっきり前に転びました(子供の転びかたって前にペチャンと転びますよねぇ)。痛かったらしく、その子は大声で泣き始めました。前を走っていたお姉ちゃんは、弟の異変に気づき、弟に近寄ってきました。この時、私はこの光景を見ながら「きっと弟を助けて起こしてあげるんだろうなぁ」「いや、それとも叱咤して『泣いちゃダメよ』って励ますのかな」なんて考えていました。ところがどっこい・・・いづれでもありませんでした。お姉ちゃんは、泣いている弟より少し後ろまで下がり、弟がしたように、少し走ってから同じように弟の横に転んでみせたのでした。そして隣で転んだ状態のまま泣いている弟に向かってニコッと笑いかけました。弟はそれを見て泣き止んで、お姉ちゃんを見て、やはりニコッと笑いました。そして何事も無かったように、二人でまた遊び始めました。普通に見れば、ごく一般日常的な光景です。何も感じない人もおられるかも知れません。でも、私はショックを受けましたね。なぜなら、そのお姉ちゃんの姿は、「弱者と同じ痛み、苦しみを身でもって経験し、そして立ち直させる(導く)」つまり仏教で説く《菩薩》の行いであったからです。子供に教えられました。
2006年05月18日
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こういう話があります。昔、ある国で、1つの論争が起こりました。それは生まれてきた子供が、どうして母国語を話せるようになるのか?という議論で(現代人の我々が見れば、馬鹿らしい話ですが、昔のことですから)、一方の学者は「生まれ育っていくうちに、常に聞いている為に、その国の言葉が話せるようになる」と主張し、もう一方の学者は「いやいや、両親がその国のものであるから、生まれる前から脳にその国の言葉が備わっているのだ(現代風に言えばDNAでしょうか)」と互いに譲らず、国を挙げての大論争になりました。そこで王様(後者の学者の意見を支持していた)は、これを実験するために、プロジェクトを組みました。それは、その国の生まれたばかりの赤ん坊とその母親 百組を集め「これから一年間、母乳は与えても良いが、言葉を話しかけてはならん(無論、母親は自由に食事が取れます)」として、孤島にとじこめたのでした。前者の学者の主張が正しければ、赤ん坊は話せない子供になるわけです。後者の学者の主張が正しければ、親が話せずとも赤ん坊は自然に話せるようになるはずです。王様以下、国中の人々がその結果を固唾を呑んで待ちました。そして、一年後 母親と赤ん坊を連れて、迎えの船が孤島から帰ってきました。どういう結果になったと思いますか? ・・・・結果は赤ん坊の大半が死んでしまったのです・・・その原因は現代流に解釈すると、生まれてからの発育過程で通常、周囲からの言語等による刺激によって進化していく大脳部分の進化が行われずに、更にはそれらからくる極度のストレスにより、死んでしまった、という事です。私たちは赤ん坊を見かけたとき、暖かい微笑でもって言葉をながかけます。赤ん坊の両親、家族、周囲の人々はなおさらでしょう。これが、実はとても重要なことなのです。人間の脳はこういったコミニュケーションによって発育し、考える力を養っていくのだそうです。赤ん坊に必要だということは、言い返せば、大人にも必要なのです。私たちが家族や友人や同僚、すべての会う人間と常に会話をしていくことが、脳にも心にもとても大事なことであるのです。近年、買い物にしても会話無しに(ネットで)買い物できたり、メールなどで意思の交換が出来る時代になりました。とても、便利ですし安いので、私もインターネットで買い物したり、このような場所を使って主張したりしています。ですが、いや、だからこそ、少なくなっていく身の回りにあるコミニュケーションの場を大事にしていきたいとも思ってます。人間、実際に顔を合わせて話してみないと心は伝わりません。人間は機械ではないのですから。(注:この昔話は十年以上前に聞いた話ですので、細かいところで誤りがあるかもしれません。大筋は間違ってないと思いますが)
2006年05月17日
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《小欲知足》という経文があります。少しの欲で足りることを知る・・・つまり、衣食住など暮らしていけるだけの欲で満足しなさい(それ以上は求めない)、という意味です。よく勘違いされますが、仏教は禁欲主義ではありません。人間には色んな欲望があり(食欲、睡眠欲、物質欲、名誉欲、性欲等々)、とくに食欲と睡眠欲を無くしてしまったら、死んでしまいます。逆に、どれもありすぎると、これまた身を滅ぼします。ですから、仏教では《少しの欲》で満足しなさいと教えるわけです。そしてそれをコントロールする心の強さを持ちなさい、という事なのです。お釈迦様は肉食を禁じた、と一般的に言われています。しかし、お釈迦様の生活の食は托鉢に頼っておられ、托鉢というのは「くれたものは何でも頂く」という方針ですので、何がダメとか、そんなこだわりはなかったんじゃないかと、私は思ってます。植物だって生き物ですからね。生き物を殺生して頂くと言う分には肉食も穀食も変わりが無いわけです。ただ、修行するにあたっては、穀物系の方が持久力がつきますし、体内はきれいになるので(自己経験からです)、お釈迦様の亡くなられたあと、僧侶の集団生活のルールとしての戒律に加えられていったのかもしれません。かくいう私も、どの欲も人並みにあるので、「修行がたらん!」と言われそうです(笑)。欲が行き過ぎたときは、この経文を思い出し、懺悔をしております。どこで線を引くかって事なんでしょうね。
2006年05月16日
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人それぞれに《本分》というものがあります。うどん屋さんはウドンを作るって食べさせること、大工さんは家を建てること、銀行員は銀行業務をこなすこと、学生は勉強を。それぞれの《やるべきこと》ってのは一番大事なことのはずです。私たち僧侶の本分は、《布教》ということです。文字通り、色んな手段で、お釈迦様の教えをひろめていく事です。これはどの宗教でも同じで、優先順位では必ず1番のはずです。(ですから、「エホバの証人」の信者の方が各家庭を回ったり、一昔前、創価学会が折伏と称して回ったりしたのも、宗教的に見ればマジメな態度であるわけです・・・手段は正しいとは思えませんが) が、実質問題、その気が無い人に宗教の話をしても、本人にとっては至極迷惑なことなので、「機(会)」というのが必要であると思ってます。その次に私ら僧侶の大事なことは《お経をあげる(読む)》ことだと、私は固く信じています。ですから、毎日、出来るだけお経はあげるようにしています。私の子供の頃は、師匠である父に、「勉強なんかしなくていいから、お経を読め!」とよく言われました(注:時代劇のような話ですが、昭和40~50年台頃の話です)。子供の頃は「なんて親だ!おしつけるのもたいがいにしろ!」とかなり反抗しましたが、大学を出て、父が亡くなって、住職を継いで、修行もして、父の言ってたことの正しさがやっと分かるようになりました。「お佛飯」を食べさせてもらって、大きくなったんですから。最近、僧侶でも行事や法事・葬式をこなすだけで、布教もしない、布施の無いお経はあげない人が多くなりました。情けないことだと思います。僧侶だけでなく、どんな職業の人間も、その本分を忘れずにがんばっていれば、世の中、そうおかしくなることは無いはずですよね。
2006年05月15日
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近頃、《脳を鍛える》をうたい文句にしたゲームをよく見かけます。うちも子供が持っているので、やらせてもらったこともあります。この前やったとき、私の脳年齢は30代でした・・・。確かにはやってるだけあって、とても面白いものです。テレビでもクイズ系の番組がかなり多くありますが、そういう風潮なんでしょうね。ですが、これらが単なるゲームとしてだけでなく、本当に大事なトレーニングだと思い込んでしまったら危険であると思います。古来、人間は一人前の大人になるのに、たくさんの習熟すべき事柄があり、これらの大半は、頭だけでなく体の動作を伴った事柄でした。例えば洗濯は井戸の近くの洗い場で、洗濯板を使って汚れ物をこすったわけです。これだけの事にしても、どの程度の力加減で、どの程度の反復運動で、どの程度の水分量を使うか等々、色んなコツがあり、体を使って覚えていったのです。掃除にしたってそうです。ホウキの持ち方から、はき方、体の使い方、いくつものコツがあり、それらの事を習熟していって、大人になっていたわけです。現在では洗濯は洗濯機、掃除はクリーナー、食事さえもがレトルトになりつつあります。まあ、それにしたって、コツが無いわけではありませんが、昔と比べて、コツやら工夫や経験やらがあまり必要でなくなったことは確かです。いわゆる、便利になったということでしょう。誰もが便利になることはいいことだといいますし、私もその通りだと思います。ですが、便利になってその結果、体を使って覚える事柄が減ってくるというのは、危機感を感じます。お医者さんでさえ、今の医者は脈が取れない、と聞きます。つまり、機械でデータをとってデータの値に基づいて処置をする、確かに経験とかなくても大きな間違いはすることは無いでしょうが、《プロの勘》というものがなくなっていくと言う事はさびしい限りです。大工でも八百屋でもタクシーの運転手でも、また私たち僧侶も、どんな職業でも新米から入って、体を使って仕事を覚えていくのが今までのやり方でした。それが今、大きく変わりつつあるような気がします。《頭でっかち》な子供や若い人が多くなったのは、こんな理由もあるのではないでしょうか?頭ばっかりでなく、体を使って覚えるって事を、もっと大事にしなければいけないんじゃないでしょうか?
2006年05月14日
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