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江戸東京は、かつて日比谷入り江があったほど海が近かった。深川は、運河によって木場職人が仕事をしていたそうだ。かつて、深川の漁師たちが、アサリのぶっかけご飯を食べていたというのが深川丼の始まりらしい。たいそうな料理ではない。アサリのみそ汁をご飯にかけたというのが本当らしいが、我が家では、アサリをいっぱい買って来て、簡単なつゆを作って、深川丼にして食べる。(本当に簡単!)アサリを塩水で砂出しして、アサリは、水から茹でる。醤油・酒・みりん砂糖少々加え、長めの2-3cmに切ったネギたっぷりと、細かく切ったショウガを入れて、沸騰したらできあがり。このおつゆをご飯の上にかけて食べるのだ。ご飯は、冷えていてもおいしく食べられる。簡単な、料理とも言えない料理である。 (写真がへたで、おいしそうに見えなくてごめんなさい)
2006年04月30日
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ツツジは町中のどこでも見られるけど、一応ツツジの名所と言われている 根津神社へ行ってみた。人の多さと屋台を見に行ったようなものだが。行き方は、千代田線の根津駅からでなく、裏の南北線東大前駅から下るルート。京都の漬け物問屋さんに早速寄り道。カツオの煮付け(?)とお豆3点セットで買ってしまった。坂を下るところの塀から早速根津神社をのぞき見。昨年行ったときは、もう散り際だったが、今回は満開で、その分人も多い。鳥居をくぐると、もう写真どころでないことに気がつく。どこを写しても人人人、、、ツツジの咲く神苑(崖の部分)は、200円の寄進が必要だ。ここに神社が建てられて300年なので、だいぶ手を入れなくてはならないそうだ。昨年入ったときは時期が過ぎていて、近いとかえって花がまばらに見えた。今回は、下から見ただけで満足。奉納の踊りは、かわいらしい踊りが見られた。露天が並ぶあたりは、行き違うのも渋滞するような人出で、大阪焼200円を買って店が用意したいすに座って食べた。猿回しも出ていて、ちょこっと見て、上野方面への散策をすることにして、根津神社を跡にした。
2006年04月30日
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新橋駅前SL広場しばらくぶりに新橋駅前SL広場(西口)に行ってみるとなにか違う。SLはあるし、、、そうだ、ここに噴水がなくなっている。SLは見事に化粧直しされて、広場は広くなっていた。ここ新橋は、ご存じの通り日本の鉄道発祥の地ということになっている。ここはちょっと違うんだけど、、、新橋横浜間開業となっているのだけど、実はそれぞれ海よりの場所だ。開業時の「新橋駅」は、ここ新橋駅より東口歩いて数分の現在では再開発されて「汐留シオサイト」になっている場所・汐留貨物駅が起点だった。 汐留には、シオサイト開業の時に、「旧新橋停車場」駅舎とホームの一部を再現。「鉄道歴史展示室」が無料で公開されている。(これについてはいずれまたの機会に) ちなみに「横浜駅」というのも、現在の桜木町駅、みなとみらい21のところだ。今回は、うんちくはここまで。今回新装なったSL広場の写真だけをご案内。
2006年04月30日
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今日喫茶店で見かけた読売新聞(4/25)に「世界初のバイオガス列車がスウェーデンで走る」 という記事があった。家に帰って、今ネットで見た。実はこれ古いニュースみたい。もう元ネタがほとんど消されていた。元ネタは、昨年の秋 イギリスBBCで放送されたものらしい。その前にもAP伝で、、「9月からその実用で走り出す」と、6/20にも発表されていたようだ。日本語では、技術開発機構(NEDO)がレポートを昨年12月に発表していた。 http://www.nedo.go.jp/kankobutsu/report/969/969-06.pdf(参考資料) スウェーデン・バイオガス社ホームページのバイオガス列車情報http://www.svenskbiogas.se/pdf/en/Biogastrain_produktblad_2005.pdf 先日ハイブリッド列車をJR東日本が実験を開始したと手放しで喜んでいたら、世界の先端は、もう実用化していた。かいつまんで書くと、2005/10/24 世界初のバイオガス列車がスウェーデンで走り出した。この列車は、イタリア製の1981年の古いディーゼルカーを改造したもの。スウェーデン中部のリンシェーピング市からヴェステルヴィーク市までの全長約 120km のローカル線を約 1 時間 45 分かけて走る。 バイオガススタンド設置のインフラ整備が進めば、南部スウェーデンにも延長される見込み。車両の下と、荷物置場スペースに 計 10 本のバイオガス・ボンベを搭載し、これを満タンにすれば、120kmを 2往復半できるそうだ。最高時速は130km/hだが、線路が古いため、110km/時で走るとのこと。 環境に優しいバイオガスは、ディーゼル・エンジンを使用した場合の、一酸化炭素排出が約1/60、窒素酸化物・非メタン炭化水素が約1/3だそうだ。 バイオガス生産プラントは、農業廃棄物(穀物殻等)と有機廃棄物(畜産廃棄物等)を原料としたもので、環境に優しく、この地区のバイオガス・バスとタクシーのガス需要を満たしている。電化される見込みがないローカル線で、バイオガス供給さえ確保できれば基本的にどこでもバイオガス列車に転換可能なのだそうだ。初日試乗会には、ドイツ・ポーランド・南米からもメディアが集まったそうだ。バイオガス列車は、毎日乗客を乗せて今日も走っている。バイオガスってなんだろうかと思ったら、穀物の殻や、食肉処理された牛の余剰物からのメタンガスで燃料を生産するそうです。1頭の牛の残骸から生産されるバイオガスで、バイオガス列車を4km(2.5マイル)走らせることができるそうです。 つまりゴミでエネルギーを作るのだ。 現在、バイオガス・バス779台、バイオガス車両4500台以上が すでにスウェーデン国内で走っているという。イギリスのBBCも驚いたようだが、 日本ももっと驚かなくてはいけない。スウェーデンは、「地球温暖化防止に大きく貢献する」と強調している。「環境省」と別に「持続可能な発展省」という省まで作って、京都議定書を守るべく努力しているのだ。 地球温暖化はもう待ったなしの状態だ!
2006年04月25日
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丸重久しぶりに、神田のトンカツ屋さん丸重へ入ってみた。神田駅には東西南北4つの出口がある。改札口は2カ所しかないのだが。南口を出て、信号が青なら歩いて1分と掛からない。1Fがてんぷら屋で2Fがとんかつのお店。いかにも古そうな店構え。今日は土曜日だったので、ビジネス街である神田駅界隈は人が少ない。平日だと、狭いお店にどんどんお客が入ってきて、相席は当然のこと、席がなくても、「1階に行って」とか融通が利く。ロースかつ定食が820円で、サービスかつ定食が690円。どう違うのかはよくわかっていないが、今日はロースかつを注文。だいぶ前の、雨の日に行って、次回用の 「100円割引券」をもらった。「使えるか」聞くと、「大丈夫」という。得した分、「えびフライ三本・トッピング」が 200円なので追加注文。結果100円余分に払うことになった。ご飯とみそ汁お代わりOK。漬物も2-3種類いっぱいのったのが回ってくる。自分で小皿に好きなだけ取れる。今日はわさび漬けがあった。ご飯が足りないと1階のお店から融通してもらっていたりして、意外や田舎臭い。今日も、「エビが足りないから」 と1階に借りに行っていた。ご飯をお代わりした。おいしく トンカツもエビも食べました。平日はいつも混んでいる。今日はすいていたので、ゆったりと食事できた。夜は、串揚げ中心の飲み屋になるようだが1度飲みにも来てみたい。
2006年04月22日
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牡丹がきれいに咲いている と聞いて、古石場川親水公園の牡丹園に行ってみた。 ここに牡丹園ができたのも数年前だったと思う。なかなか見事な牡丹が咲いていた。牡丹の数500株以上とある。しかも入場無料。ここの地名は、江東区牡丹(元は深川牡丹町)。「牡丹」のいわれは、江戸末期から明治時代、この界隈で競って、牡丹を栽培して商ったことによって、明治2年にこの町名が付いたという。古石場の名前は、江戸時代、越中島の一部だったが、使い道がなく石置き場になったことからその名前が生まれたそうだ。そして、この公園、できてまだ10年も経たない。古石場川という掘り割りのような川を、河床をそのまま公園にしたもので、700~800mの細長い公園。公園の中を細い水路を通して子ども達が水に親しめるようになっている。この公園に接して、春には桜がいっぱい咲く牡丹町公園がある。とうんちくはここまで、牡丹の花を楽しみもう。
2006年04月22日
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高徳寺から早めに抜け出したのは、山越え で、佐助神社や銭洗い弁天に行きたかったから。以前には、滅多に人と会わなかったのに、このハイキングコース、外人もいっぱい来る道になっていました。ホントにビックリ。約半分が外人!ここは知る人ぞ知るけものみちと思っていたのに!トンネルの手前、 階段を一気に登ると、そこから急に山道となる。といっても、鎌倉の山だから100mの高さもないのだが。久しぶりのハイキング、きもちもいい。 分かれ道で、足に重さを感じる。この先の葛原が岡、鎌倉山、銭洗い弁天へは、 体力と時間を考えて断念する。 残念!手前の 佐助稲荷神社へ降りる。いつも通りに 赤いのぼりが、いっぱい並んでいる。佐助稲荷神社は、御狐様の小さな瀬戸物が多くまつられていた。ここは、縁結びの神様でもあるのだ。以前お茶をいただいた場所に、多くの外国人が赤い毛氈を敷いた場所に座っていた。トンネルのように長く続く鳥居の間の階段をずんずん下りて、人里へ。ここからは住宅街だ。と共に、小さな和風のお茶・喫茶店が所々に。佐助トンネルのあたりに、「自然を守ろう」 という看板が。トンネルを抜けたところで住宅地造成工事中だった。大きなお屋敷だったところに、工事の告知が、、、ここも開発されるのかとみると、ここは、博物館になるという。どんな博物館ができるのであろうか?駅裏のどこかの喫茶店でも入ろうかとも思ったが、足は自然と、踏切を渡って、小町通りへ。小町通りは、やはり人・人・人。おみやげ屋さんや食べ物屋さんをもの色している人々。ボクも煎餅屋さんで、お煎餅を買ってパク付く。段葛へ。ああ、ここも桜が葉桜になりかけている。また次の年には来てみたくなった。鶴岡八幡宮をちょっと散歩。静御前の舞殿は工事中?、ちょっと映像に耐えられない姿だ。翌日の流鏑馬準備の道を見て、鎌倉を後にすることにした。桜は山桜以外はすでに遅かりしでしたが、また次の春にでも来てみたいと思います。
2006年04月17日
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腰越から極楽寺まで江ノ電でゴトゴト。昔は2両編成だったのに、この日見かけたのは全部2+2の4両編成。江ノ電も黒字かな。極楽寺は、 極楽寺駅のすぐ裏手。門から真っ直ぐの参道は やはりほぼ散り終えた桜、しかし、鐘楼前の八重桜は見事。宝物殿の前には、「八重一重咲き桜」。これは北条時宗お手植えの、八重と一重が同じ枝から咲くという珍しいもの。1256(康元1)年、北条重時が忍性(にんしょう)を迎え開山。念仏の真言律宗の寺。釈迦如来坐像などがある宝物殿は、拝観料300円。小さな宝物殿だが、衝立の横からちらっと仏像が見える。さっき満福寺で、つまらない200円を払わなければここを見たのに!こぢんまりとした境内ながらなかなか味わいのある寺だった。鎌倉に縁のある町で育ったせいか、「鎌倉」という唱歌を、小学校の時に習った気がする。その歌詞が頭に浮かんで、極楽寺坂を下る。星月井戸を越えると、 長谷に着いた。とたんに観光客の多さにビックリしてしまう。江ノ電の長谷駅、ホントはとても好きなお寺なので寄ってみたい長谷寺を素通りして、 高徳寺へ向かう。歩道には多くの人が行きかいとても歩きにくい。元々おみやげ屋さんとか食べ物屋さんの多い道ではあるが、新しくできたお店も多い。ようやく高徳寺に着く。京浜急行のレトロ風バス りんどう号 を初めて見た。京都や銀座にあったレトロ風バスより一回り大きい。でも1度乗ってみたいな、と思わせる、真っ赤なボディ。高徳寺ここは言わずと知れた鎌倉の大仏様のお寺。ここを目指して日本人だけでなく、外国人もいっぱい来ている。裏手に回れば、 「美男におわす」 と詠った与謝野晶子の歌碑もあったが、そこまで回ってくる人は少ない。http://plaza.rakuten.co.jp/kamakurasi/diary/200604040000/大仏様にもお会いできたし、横の庭を回って、早々に退散する。
2006年04月16日
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唱歌「鎌倉」 の 歌詞1. 七里ガ浜(しちりがはま)の磯伝い、 稲村ケ崎(いなむらがさき)、名将の 剣(つるぎ)投ぜし古戦場2. 極楽寺坂(ごくらくじざか)越え行けば、 長谷観音の堂近く 露坐(ろざ)の大仏おわします3. 由比(ゆい)の浜べを右に見て 雪の下村(ゆきのしたむら)過行(すぎゆ)けば、 八幡宮の御社(おんやしろ)4. 上(のぼ)るや石のきざはしの 左に高き大銀杏(おおいちょう)、 問わばや、遠き世々(よよ)の跡(あと)5. 若宮堂の舞(まい)の袖(そで) しずのおだまきくりかえし 返せし人をしのびつつ6. 鎌倉宮(かまくらぐう)にもうでては、 尽きせぬ親王(みこ)のみうらみに 悲憤(ひふん)の涙わきぬべし。7. 歴史は長き七百年(しちひゃくねん)、 興亡(こうぼう)すべてゆめに似て、 英雄墓はこけ蒸(む)しぬ。8. 建長・円覚、古寺(ふるでら)の 山門(さんもん)高き松風に、 昔の音やこもるらん。参考:momo-mid.comhttp://momo-mid.com/mu_title/kamakura.htm
2006年04月16日
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久しぶりに鎌倉行きました。京都に比べてこじんまりしたところだけど、やっぱり古都はいいなあ。普通なら鶴岡八幡宮か、北鎌倉からスタートするのですが、大仏様と義経の万福寺に行きたくて、今回は裏口から、大船から湘南モノレールで鎌倉入りです。いつも江ノ電に乗ると気になっていた路面電車区間正面のお寺・龍口寺から見学スタートです。龍口寺は、日蓮聖人ゆかりの寺です。 といっても日蓮上人が建てたものではないのです。龍ノ口といって、処刑場だったそうです。日蓮聖人が、飢餓・疫病に苦しむ民衆を助けようと、立正安国論を起草して、鎌倉幕府に奉上したが、それが理解されず、市中引き回しの上、死罪となってまさにこの地で処刑されるときに江ノ島の方向から火の玉(?)が飛んできて、日蓮聖人の死罪は取りやめになって、佐渡流刑になったとのこと。死罪が取りやめになったのは日蓮聖人ただ一人だそうで、後世弟子によって、建てられたそうな。初めて行きましたが、なかなかいいお寺でした。桜の時はもっといいかと思いますが、今もしだれ桜と山桜が楽しめました。目の前を江ノ電が走っていて、いつも絵になります。そこから腰越まで歩いて満福寺へ。境内には義経公手洗の井戸、弁慶の腰掛石、弁慶の手玉石がありました。(ここまでは無料)拝観料200円で、弁慶の腰越状の下書きとその江戸時代の版木のみしか見られず 義経・弁慶の絵巻襖絵は、催しのため見られず、ぼったくりの印象。(この日くらいは無料にすればいいのに!)この日は、源義経の慰霊祭でした。本堂に絨毯が敷かれ、ミス鎌倉3人が座っていました。義経の法要が始まっていました。なんと鎌倉市長や国会議員のお言葉までありました。 プログラムを見ると踊りとか全部終わるのが4時半でお付き合いしたら鎌倉訪問でなく満福寺訪問になってしまうので、早々に退散しました。腰越漁港から江ノ島を眺めました。
2006年04月16日
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JR東日本の「燃料電池の列車」 近く試験車両完成今日の新聞によると、 JR東日本が、世界初の燃料電池電車を1両、近く完成させる と発表した。今年から試験運転を開始し、来年夏頃から小海線に導入する予定だそうだ。(これは 以前にご紹介したハイブリッド列車「NEトレイン」 http://plaza.rakuten.co.jp/lovingEuropeTrip/diary/200511090001/を改造したものだそうだ。)参考:JR東日本ホームページhttp://www.jreast.co.jp/press/2006_1/20060404.pdf前回取り上げたときは、ディーゼルエンジンと蓄電池との組み合わせだったが、今回の改造で、ディーゼルがなくなって、燃料電池と蓄電池の組み合わせに代えるという。燃料電池は、水素タンクを搭載し、水素を酸素と反応させて電気を発生させ、動力として利用する。そして、余った電気やブレーキ時に発する電気を蓄電池にため、補助電源となる。これによって、ディーゼルなどの化石燃料と異なり、排出するものは水だけとなり、地球温暖化防止に寄与するという画期的なもの。天井の上に蓄電池、65Kwの燃料電池を床下にを載せ、時速100km/hで走れるそうだ。来年の夏には小海線で実用運転にはいるというのだからなんとも現実味を帯びてきた。そうなると小海線は非電化といわれていたけど、その後はなんと言われるのであろうか?時速100kmでは特急や快速運転には向かないが、ローカル線に架線も不要になるし、環境にも優しいというのなら 願ったりかなったりだ。水素自動車より実用化が早いなんて未来は着実に近くなっている。この方法でなんとか、地球温暖化も食い止め、原子力発電の利用にも歯止め が掛かるようにできないだろうか。
2006年04月12日
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小金井公園へは、本当に久しぶり。武蔵小金井の駅から、バスで10分くらい。道路地図で見ると、JRの武蔵小金井駅と東小金井駅の間よりも東西に長い大きな公園だということがわかる。木々に囲まれて、チューリップとか花壇もある、なかなかいい公園だ。先週で見納めかと思われた桜は、雨にも強風にも負けずに4/9現在、まだ散らずにいた。小金井公園は桜の名所でもあった。たてもの園前の広場で、にぎやかに、さくら祭りが行われていた。この町の各地の商店街がたこ焼きとか焼き鳥とかの屋台を並べ競っている。ハイキング用に並べられたベンチ部分も芝生にも人人人、楽しく明るい花見がそこにあった。それでも、とても広い公園のほんの一部でもある。さて、小金井公園に「江戸東京たてもの園」が10数年前にできたと言うことも知っていたが、機会がなかった。この日には思い出さなかったが、この場所は以前には武蔵野郷土館といって、縄文時代からの武蔵野の土器や化石なども並べられたのだが、それが東京両国の江戸東京博物館の別館として「江戸東京たてもの園」に模様替えになっていたのだ。江戸東京たてもの園 小金井市桜町3-7-1。都立小金井公園内。ここは、江戸時代の茅葺きの民家が4つと、明治大正昭和の江戸から東京の時代の住宅や、商店が集められていた。西ゾーン常盤台写真館、三井八郎右衛門邸、前川国男邸、田園調布の家(大川邸)、小出邸奄美の高倉、吉野家(農家)、八王子千人同心組頭の家、綱島家(農家)、中央のゾーン旧光華殿(ビジターセンター)、旧自証院霊屋、高橋是清邸、西川家別邸、伊達家の門、会水庵東ゾーン小寺醤油店、鍵屋(居酒屋)、子宝湯、仕立屋、武居三省堂(文具店)、花市生花店、 万世橋交番、植村邸、丸二商店(荒物屋)、村上精華堂、川野商店(和傘問屋) 天明家(農家)など常盤台写真館、三井八郎右衛門邸、前川国男邸、田園調布の家(大川邸)、お金持ちのお宅にお邪魔しているようでおもしろい。吉野家(農家)、八王子千人同心組頭の家、綱島家(農家)、茅葺きの家の囲炉裏端にお邪魔して、ボランティアの方とお話しして和んでしまった。高橋是清の邸宅。明治の総理大臣・大蔵大臣を何度も行ったダルマとあだ名されるかわいい顔のおじさんの写真があった。立派なお宅を拝見して、226事件の現場であったとはまだ想像できない。庭もすばらしい。お宅の中でおそばも食べられる。子宝湯「千と千尋の神隠し」の湯屋のモデルとなった銭湯だそうだが、別に感慨もない。小寺醤油店、鍵屋(居酒屋)、仕立屋、武居三省堂(文具店)、花市生花店、 丸二商店(荒物屋)、村上精華堂、川野商店(和傘問屋)明治村ではないが、昭和の商店街はまだ記憶に残るところが多い。 一軒ずつ解説しようと思ったがやめます。専門家でもないし、実際に見て楽しめればいいと思う。このたてもの園の裏手も、まだまだ武蔵野の面影が残っていて、林の中を散策するのも楽しそうだ。もっとすいてるときに来るといいかもしれない。武蔵野郷土館の収蔵品はどこへ行ったのかと残念に思います。
2006年04月12日
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今回、見に行ったところは、南禅寺の水路閣。ここへ行く途中で、今は使われなくなったものですが、とてもすごいものを見つけました。それは、インクライン!明治時代の京都はすごいです。琵琶湖から船が山を越えて京都へ!これは、現在は使われていないが、南禅寺の「水道橋」です。ヨーロッパの水道橋は有名だが、日本では珍しいと思います。「琵琶湖疎水」の一部で、当時は景観を悪くすると批判があったようだが、レンガ造りの水路閣は、京都の風景の中になじんでいる。明治時代、東京遷都で沈んでいた京都の復興のため、3代目の京都府知事が、東京大学卒業の技術者・田邉朔郎を主任技術者に任命し、琵琶湖疎水を造らせたものだそうで琵琶湖から水を引いてきただけでなく、水力発電でもあった。日本で最初の市電が京都で走ったのも琵琶湖疎水による発電のおかげだったとか。詳しくは、琵琶湖疎水博物館で見て欲しい。水路閣だけで満足してしまって、南禅寺はよく見なかった。 インクライン実は南禅寺に行く途中でとんでもないものを発見してしまった。(いやあ、ボクの価値判断ですが)南禅寺への入り口の橋の下、桜の季節にはすばらしい散歩道があります。と見おろすと、幅の広い線路みたいなものが4本敷かれていた!なんじゃこりゃ!あわてて近くにいた人に、「すみません、これなんですか?鉄道ですか?」と聞いたが、知らんぷりされる。聞いた人でない人が、「そこの立て看板にちゃんと書かれているよ!」と、怒ったように言って行ってしまいました。看板によると、 傾斜鉄道?「琵琶湖疎水 インクライン」 ? なんじゃこりゃ?読んでは見たけど、最初は意味がよくわからなかった。4本のレールで船を運ぶクレーン車みたいな装置なのか?と思った。そうではなく、2本ずつの複線だった。線路幅2.2m 延長582m 高低差36.4m 勾配 60.6/1000なんと、琵琶湖から、比叡山をトンネルで水路でつなぎ、さらにこのインクラインが、水路の底に線路が引かれている。船に乗った人は、乗り換えする必要なく、船のまま、この大きな鉄橋みたいな台車(写真は以下)に乗って京都市内まで行かれるのだ。なんと三十石船まで載せられるそうです。インクラインは、琵琶湖疎水の水で発電された電気を動力源として利用し、インクラインの両端に船溜りを設置して、そこでを荷物ごと船を船受枠(船を乗せる台車)に積んで坂を上下させるのです。これは、形態保存のためわざわざ復元したもの。ちょっと見、鉄橋にしか見えない。この台車は、水面の下で待機して船を載せるのだ。建設当初は、水車動力でドラム(巻上機)を回転して、ワイヤーロープを巻き上げて台車を上下させる設計でしたが、蹴上水力発電所の完成により電力使用に設計変更されました。(京都市水道局HPより)http://www.hi-ho.ne.jp/kyoto/biwako.html1891(明治24)年11月運転開始し、1948(昭和23)年運転休止してしまったもの。荒れ果てたままだったものを、1977(昭和52)年形態保存のため復元したというもの。その線路敷きのところがそのまま遊歩道として解放されている。なんというすばらしいロマンであろうか!?琵琶湖から比叡山をぶち抜いたトンネルを掘り、京都までの水路を確保した。そこまでは普通だが、そこを利用しての水運を通したのだ。このインクライン(傾斜鉄道)の上に、船をのせてそのまま坂を登る!明治の人が、「船、山に登る」と驚いたと言うが、ボクだって驚いてしまう。江戸時代・明治の初めまで、逢坂山の山越えに苦心していたのをこれによって荷物も人も苦労せずに越えたという。船が、琵琶湖から、トンネルを通って蹴上から、水中に沈んだ台車に船のまま乗って、582mの坂を下り、そこから京都の中の掘り割りを通って、淀川へと結んだというのだ。あの 伏見とも繋がっていたのであろう。残念ながら昭和初期には鉄道の輸送量が勝り、インクラインの利用が減った。ついに戦後の昭和23年に廃止されたという。これもやはりヨーロッパの技術だという。インクラインは、現在でもオランダ・ベルギー・フランスで使われているという。さらには、船ごと乗せるエレベーターみたいなボートリフトというものも、イギリスやドイツにあるようだ。運河文化もいいなあ。それにも乗りに行ってみたい。ヨーロッパもすごいけど、京都の明治の人もすごいなあ。いつの日か復活するんじゃないかと期待してみたい。(日本では無理かな)(加筆:平成19年5月)
2006年04月10日
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日本橋の再生?昨年末に小泉総理大臣が、日本橋に青空を取り戻せ と声を上げた。石原慎太郎都知事も同様の考えを唱えている。そこで、現在、国土交通省が予算を組み、検討が進められている。日本橋の上に、首都高速道路ができたのは、東京オリンピック前だったので、42年の年月が経ったことになる。日本橋はよく見ると、欄干も大きな立派な橋だ。日本橋が最初に造られたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603年)とされているそうです。お江戸日本橋の起点たる 日本橋は、江戸時代にも東海道・中山道・日光街道など5街道の起点だった。現在も、日本の道路の起点で、「日本道路元標」が埋め込まれている。国道1号線ばかりでなく、国道4号、6号、14号、15号、17号、20号も日本橋を起点としている。「日本道路元標」は、橋の中央・車道の真ん中に埋め込まれているため、一般の人には近寄れないため、コピーが三越側の歩道に作られている。 それを見て、本物はあそこにあるのかと納得する仕組みになっている。しかし、首都高速にとっても日本橋ジャンクションは、以前よりは渋滞が少なくなったものの、環状線部分と箱崎インターチェンジを結ぶ重要な部分で大変な構造になっている。ビルとビルの合間に、よくぞこんなものを作ったというものなので、移転させたらその費用は、3000億円とも4000億円とも言われている。実際に工事が始まれば、それどころでなく、工事費はうなぎ登りになるであろう。10年(定かではない)くらい前に、首都高の下部に多くの蛍光灯を取り付けたため、以前の「真っ暗な日本橋」というイメージよりはましになっているが、それだけの多くの税金をそこに投入するなら、もっとその前にすべきことがあるんじゃないかと思ってしまう。もちろん、青空の下の日本橋を見てみたい気持ちはボクも同じではあるが。とまあ、ここまでが前置き。今回のテーマは、日本橋川に架かる3つの「ときわばし」のこと。日本橋から、200mくらい上流に向かって歩いていくと、そこには、日本銀行と貨幣博物館の交差点に着く。その交差点には、一石橋と、新常盤橋が、ほぼ直角に首都高の下にある。この2つの橋は、車道も片側二車線以上ある大きな橋です。ところが、日銀側から見て、「新常磐橋」の右側に、「常磐橋」と、「常盤橋」が二つ並んでいる。つまり、ここに、「ときわばし」が3つ並んでいるのである。できあがった順番は、常磐橋、新常磐橋、常盤橋の順だそうだ。これらはすべて、首都高の下にあって、見た感じはみすぼらしく見えてしまう。ところが、よく見ると、常磐橋も、常盤橋も、なかなかいい味が出ているメガネ橋なのだ。「常磐橋」江戸時代には、「常盤橋」であった。 江戸城の常磐橋御門(常盤橋御門)が、将軍家や水戸家の、日光や奥州方面への正面玄関だったそうです。常盤橋御門 は明治 6年に廃止され、木橋 の「常盤橋」 が残ったが、明治10年(1977)に門跡の石垣石を使って、現在の石造アーチ橋が架けられた。橋は、国の史跡に指定されており、130年の歴史の都内最古の橋。(全長 31.6 m 全幅 10.8 m 構造 : 石造2連アーチ橋) 参考:「東京探訪」というホームページ:http://www.geocities.co.jp/tokyo_ashy/bn-tokiwabashi1.html「常盤橋」 昭和元年 (1926)に架けられた、一見石造りに見えるが、実際は鉄筋コンクリートに石張りのアーチ橋。関東大震災の復興計画の一環で架けられたもののようだ。こちらも80年の歴史。(全長 38.6 m 全幅 27.0 m 構造 : 鉄筋コンクリート石張りアーチ橋) 参考:「東京探訪」というホームページ:http://www.geocities.co.jp/tokyo_ashy/bn-tokiwabashi2.html「新常盤橋」 最初の架橋は大正9年(1920)に路面電車の開通のため架けられ、常磐橋を意識したコンクリート製の3連アーチ橋だったそうですが、現在の橋は、東北新幹線の高架建設により架け替えられた、鋼製のなんのおもしろみもない橋です。(全長 39.35 m 全幅 27.00 m 構造 : 鋼製 )つまり、「常盤橋」の完成した昭和元年(1926) には、新常磐橋・常磐橋・常盤橋と並び、三橋とも石造や石張りのアーチ橋で、邪魔な首都高もなかったので、見事な景観であったと推測されます。現在は、首都高速と、東京メトロの三越前駅の出口に景観を邪魔され、またそれぞれの橋は、古びたまま整備も行き届かず、とても残念な状態です。常磐橋公園(とても小さな公園)も、なぜに渋沢栄一の像が建っているのか、(もちろん立派な方だということはわかっておりますが)よくわからない感じです。いい知らせと言えば、この日本橋川を再生しようというNPOが、この常磐橋の下から何回か体験クルーズが行われていることです。なんと船着き場があるのです。(ボクも乗ってみたいです)日本橋を再生するより前に、こちらも何とかして欲しいです。
2006年04月06日
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坂本竜馬ゆかりの場所 2坂本龍馬の墓は、土佐の実家以外に、京都は霊山護国神社にあると聞き、訪ねることとした。最近やたら流行っているねねの寺・高台寺脇の坂を登ったところにある。ここは清水から続く、二年坂・三寧坂と観光の中心地で、人通りも多く、人力車も行き交う。そこから、この急坂を登る人は意外と少ない。「幕末から明治維新に関する博物館は、ここ以外にない」と書かれた「幕末維新ミュージアム・霊山歴史館」の看板が気になる。この坂自体を 維新の道 と名付けられているようだが、、坂の途中で、「翠紅館」跡 との看板。(霊山観音を左に見て、右側)これは勤王の志士たちがよく集会して、攘夷実行を決議したところだそうです。現在は「京大和」という料亭になっているようだ。急坂を登り詰めたところの 右手が霊山歴史館で、 左手が霊山護国神社だった。神社の山の中腹に、坂本龍馬と中岡慎太郎の像、そして両名の墓が並んでいるようだ。また坂本龍馬と中岡慎太郎だけでなく、多くの志士たちや藩の慰霊碑が集められているようだ。手前におみくじ売り場があって、 そこに、 改札口のようなものがある。どうやら入場料を取るようだ。 300円?ためらってしまった。他にもここまで来て300円の壁を越えられない人たちがいる。しばらく見ていたが、入る率の方が少ない。なぜかというと、隣の霊山歴史館の入場料が400円と先ほどの看板に書かれていた。どうせだったら、博物館の入場料の方がいいかと結論付けた。霊山歴史館http://www.ryozen-museum.or.jp/霊山歴史館の入場料は実際は500円だった。看板に偽りありだが、ここまで来たらジタバタしないぞっと。まずはビデオコーナー。意外と短く、中身が少なかった。失敗だったかな? と、ちょっとショック。さて、収蔵品はいかがなものか。最初にあったのは、坂本龍馬を切ったとされる 小刀!そこには、小刀使いの名手として見回り組の 桂早之助が斬ったとして、その子孫からこの博物館に寄贈されたものだった。こんなものがあるのか!?龍馬暗殺の犯人もわからないというのに!1階の展示はそれくらいにして階段を登る。まずは、さきほどの霊山護国神社の志士の墓の配置などをビデオで見る。なるほど、各藩の慰霊碑などが集められている。残念なことに歴史に詳しくないボクとしてはほとんどの志士の名前がわからない。ペリー提督の「日本遠征記」があった。とても分厚い、2分冊と3分冊があるという。とても貴重なものに思える。幕末の新選組・徳川慶喜・土佐藩など、いろいろな書状や、錦絵などが、並んでいた。気に入ったものがあった。池田屋の模型、近江屋の模型。なるほどこれで詳しく、池田屋事件の様子や、近江屋の龍馬暗殺の場面が想像できる。そして、龍馬暗殺の犯人捜しのテレビ番組のビデオが流されていた。上岡龍太郎と鈴木蘭蘭が出演していた、見たことのある番組ではあったがまた見てしまった。 維新の歴史年表を見て、 改めて、江戸末期の時の流れのテンポを感じた。そして、あとは、その1つ1つのパネルで、もう1度再確認。霊山歴史館は、意外と楽しめた。1時間くらいはゆっくりしていた気がする。霊山歴史館をあとにして、そこから、 鴨川を渡って、 繁華街の四条河原町まで移動。目的地は、 坂本龍馬遭難の地。四条河原町は、 京都一の繁華街とあって人が多い。交差点を渡って、右の、バス停の並ぶ歩道を進むと、ありました。京阪交通社前に、「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」 の石碑が。昨年の池田屋跡で想像はしていたけど、ここ、近江屋の跡地は通行人の誰もが見向きもしない。幸いなことにあれだけの人並みがとぎれてうまく写真を撮れた。土佐藩邸があった高瀬川の脇も散歩した。またゆっくり、龍馬が行く を読んでみたい。京都のことも詳しくないまま読んだときと違う、新たな発見があるかもしれない。
2006年04月04日
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昨年に続いて、京都の、坂本竜馬ゆかりの場所を訪ねてみた。まずは 伏見。市内からは鉄道で2つのアクセスがあった。京都市営地下鉄から近鉄乗り入れと、出町柳・京阪三条からの京阪電車。京阪の方が本数も多く、伏見桃山駅へ向かった。駅から西側には大きなアーケードの商店街、東側は近鉄の桃山御陵駅があって、その先に大きな鳥居がある。伏見稲荷大社かと思ったら違った。桃山天満宮の大鳥居であった。さらに東には 明治天皇桃山御陵と桃山城があるそうだが、今回はパス。と、古い京料理屋「魚三楼」に鳥羽・伏見の戦いでの銃弾の跡が残る格子があった。銃弾の跡は、御所の蛤御門でも見かけたが、今もこうしたものが残る京都の町の不思議さを感じる。伏見奉行所からまわってみようかと思ったが、適当に歩いていたら、奉行所の方向がわからなくなった。打ち水をしていた女性に聞いてみた。マンション群の中に小さな石碑だけということで、次回回し。せっかくだからと伏見にまつわることをいろいろ教えていただいた。この近くの南北の通りは、真ん中だけが銀座町で、両端は両替町になっている。そこは、豊臣秀吉が、日本最初の「銀座」を慶長6年(1601)開設したところだそうだ。言わずとしれた銀貨鋳造所が「銀座」なのだが、こんなところにあったとは。その両替町も、昔の貨幣経済が織りなす、両替文化がこんなところにあった。両替すると、少し少なく受け取ることになっていたとか。当時の生活に、イメージをふくらませる。そして、すぐそこにもあるのは日本酒の醸造所だ。維新の町というイメージで、今の今まで思い出しもしなかったが、ここ、伏見は酒所であった。それも大手の月桂冠・黄桜をはじめとして、大小30もの酒蔵があるという。ともあれ、よそ者が自由に闊歩できないように、わざと真っ直ぐの道を造らなかった、水運の要衝であった伏見の町を楽しみたい。月桂冠の古い元本社の前をカクカクと曲がっていくと、何軒かの古い町並みが見える。本陣と船宿であろうか。そこに2つの歴史の舞台となった 寺田屋があった。(維新の始まりであった寺田屋事件と、坂本竜馬をおりょうが逃がした)屋根の高さからは江戸時代のものとは思えぬ感じがしたが、やはり再建されたもののようだ。開館時間を過ぎて中には入れなかったが、中は、刀傷や、おりょうもつかったとされる風呂とか、竜馬が逃げた隠しハシゴもあるとか。旅籠の提灯と建物を写真に撮った。次回は中も見学したい。坂本竜馬通りといかにも新しく付けた名前の商店街を半分くらいのところの右の路地には、黄桜のカッパカントリーがあって、小島功のカッパのCMと全国のカッパ伝説のショールームがあった。 寺田屋に戻ると、向かい側には、きれいに護岸工事され、今となっては小川のようにしか見えないが、当時は、ここから多くの船が大阪淀川との間を出入りしていた。内陸なのに、京都の入り口の港だったのかと思うと、当時の華やかさはいかばかりであったろうか、と思いをはせる。春から秋にかけては観光船ではあるが、十石船と百石船が運行するという。月桂冠の大蔵記念館も開館時間を終了しており、そのまわりをぐるっと回って、中書島の駅へ向かった。駅前の立ち飲み屋さん「時代屋」で、伏見の酒を楽しんで京都へ戻った。
2006年04月03日
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お花見行って来ました。しかも連チャンで。東京は、今日の雨が「花散らしの雨」ということで、満開の桜を見なきゃ損だとばかりに。まずはたまたま訪れた染井村の桜。現在の住所は、東京都豊島区駒込。たまたま、そこにある商店街が気に入っていました。表通りからはスーパーマーケット脇のほんの狭い路地で始まる、霜降銀座商店街(しもふり)が、途中から染井銀座商店街になっている。どこまで続いているのだろうかと思うほど長い商店街です。ここは、東京の名園、六義園と、旧古河庭園のちょうど中間地点。散歩の途中で幾度も通っていたのに気付かなかったが、ある時、人の流れに誘われて入ってみました。昔ながらの商店街は、魚屋、八百屋、お菓子屋など目玉商品を揃えてにぎわっていました。その途中のおでん屋さんが気に入って、時たま寄って世間話をしていました。ここは「霜降」という位なので、元々は谷になっていてまわりに比べて寒かったとのこと。今にしてみれば温暖化で、ここも特別寒い町ではないけど。そして、「染井」、ここは植木屋さんの町で、とても広い苗樹園が江戸時代からあったと英国人植物学者が140年前の著書で書いていたという。現在ではそんな風景はあとかたもない。さてさて、ソメイヨシノのお話を調べてみると、そんな江戸時代に、染井村の植木屋・伝 伊藤伊兵衛政武が、エドヒガンザクラとオオシマザクラを接ぎ木によって「吉野桜」という名前で世に売り出した。ソメイヨシノは、今はやりの言葉でクローン植物なのだそうだ。ところが、本物の吉野桜は山桜系で、ソメイヨシノは5枚の花びらと、似ても似つかないものだった。明治33年(1900年) 植物学者・藤野寄命の上野公園の桜の調査によって、初めて「染井吉野」と命名されたそうだ。そんなことをふと思い出して、おばあちゃんにソメイヨシノの名所を聞いてみた。商店街から南に折れて、駒込小学校から直角の路地が桜並木だという。行ってみたら、桜の路地があった。さほど多くはないけど、人々が訪れて桜の写真を撮っていた。その奥手に、染井稲荷神社があって、4/1(土)の夕刻5時から お花見の宴会が始まるようだった。すごく素敵なところへ行ったわけではないけど、ソメイヨシノのルーツを見てきたようで、ちょっとうれしい。ちなみに、この町は、名探偵浅見光彦の住む街第5回ミステリーウォークが、2006.5.12(金)~28日(日)に行われるそうです。さてさて、ハシゴしたのは、いったん家に帰って夜友人と桜見物。そこはもちろん東京の桜の名所、千鳥ヶ淵だ。地下鉄の九段下駅の雑踏を抜けたと思ったら、九段坂はもっと長い列ができていた。北の丸公園と靖国神社の桜をちらちら眺めながら、千鳥ヶ淵の遊歩道へ。それはそれは見事なものでした。桜の枝はよく整形されていて見せるための枝っぷりは、夜空を埋め尽くすようです。残念ながら、数年前からここで宴会を開くことは許されず、お堀の側は、 靖国神社からの一方通行になっている。ライトアップされた桜は、本当に見事で、よくぞ日本人に生まれけりである。デジカメ・携帯のカメラでそちこち写真渋滞が起こる。ライトアップが明るすぎるところが人気があるようだが、ちょっと変!英国大使館では、バグパイプの演奏で花見の宴をやっているようだが、残念ながら塀の外からではその風情はわからない。携帯のカメラではうまく写せなかったけど、ホントに今年も桜を見たという満足感だった。そして、今日もまた家族と、午前中から同じ千鳥ヶ淵の遊歩道に出かけてみた。青空をバックの桜も見たかったけど、曇り空でも、お堀の向こう側の北の丸公園の桜と、ボートを見て、千鳥ヶ淵戦没者墓苑をお参りし、最後に飛島建設の10階の展望ルームからも桜を見せていただいて、家路についた。
2006年04月02日
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