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小高い丘の入口から石段が伸び、その上の社殿に続く。
鳥居の前を守護する狛犬は、毬持ち・子持ちのもので、平成2年に寄進された若いものです。
阿形の背後に古そうな手水鉢があり、その奥に複数の石の社が祀られています。
ここには社名不明の五社が祀られています。
嘉永四年(1851)に寄進された鳥居には、「若宮八幡宮」の額が掲げられている。
鳥居をくぐると、入母屋・銅葺の拝殿が建つ。
拝殿に額はなく、比較的新しい三枚の奉納額が掛けられ、中央の額には信玄の姿が描かれています。
境内は二段構成となっており、下段に拝殿・幣殿、上段には覆屋が建てられ、その右手に社名不明の石祠が祀られています。
覆屋内の本殿は流造で、本殿左側の斜面にも石祠が祀られています。
白州町誌(1986)の当社解説は以下。
「若宮八幡神社(旧郷社)
鎮座地 白須1598番地
祭神 仁徳天皇・神功皇后・応神天皇
祭日 九月二十三日
由緒
『岐北神社誌』には、後醍醐天皇の御子・守邦親王の時代に勧請・創建されたと記されています。
一方、『甲斐社記』では「勧請の時期は年暦が分からない」としつつ、伝承として、甲斐源氏の祖・新羅三郎義光が任国の折に神主・石田道麿へ命じ、宮原の北側に白須八幡宮を鎮座させたとあります。
これ以降、武田家の祈願所として代々厚く尊崇されました。
永禄年間(1558~1570)には、白須刑部少輔義政が馬場信房と協力し、現在地へ遷座して社殿を造営しました。
徳川氏の治世においても崇敬を受けたと伝えられています。
明治四年に上知となり、明治六年には郷社に昇格して社勢は大いに栄えました。
しかし、明治四十年(1907)九月十六日の祭典で、提灯の失火により本殿・拝殿が全焼しました。
その後、明治四十三年五月にようやく再建され、大正三年(1914)四月二日に神社財産登録の許可を受け、現在に至っています。
若宮神主殿
社殿建造物 仮本殿・拝殿・石灯籠・石鳥居
宝物
青銅神鏡一面、掛軸一軸(宗良親王白須松原を詠める御歌、阪正臣書)、額面三面。
境内末社
琴平社・東照宮社・道祖神社・稲荷社・山神社・八坂社・熊野社・秋葉社・愛宕社・石尊社・春日社。
その他
境内にモミの巨木がある。
根回り6.5m、目通り幹囲5.84mの規模であったが、落雷で幹部は中断、南枝が伸びているが、幹の内部は空洞。町の天然記念物に指定されている。」
創建時期や、当初の鎮座地とされる「宮原」が現在のどこにあたるのかは明確ではないが、永禄年間(1558~1570)当地に遷座したようだ。
拝殿の向かいに聳えるモミの巨木。
落雷により主幹は途中で失われてしまったが、脇の枝から上に向け伸び続けている。
樹齢は書かれていなかったが、落雷前の樹高がどれほどのものだったか知りたいところです。
若宮八幡神社の社頭から左へ進むと、別の参道と思われる鳥居が立っています。
当初、脇参道かと思っていたが、石段を上ってみるとどうやら違うようだ。
昭和17年寄進の鳥居をくぐると一対の常夜灯が立てられていました。
この辺りは若宮八幡神社の境内にも繋がっていますが、参道は更に上へ伸びています。
参道左側に解説板が立てられていた。
「旭嶽皇大神宮社前宮。
祭神 天照大神・成田不動明王
由緒 口伝によれば、成田山不動明王のお告げにより、開祖酒井鉄次郎(天神霊神)崇敬者と計り地蔵嶽中腹旭嶽に社殿を建立、御祭神二柱を勧請し祭祀したが、老若者の参詣困難なため、昭和10年(1935)現在地に大教正伊奈波弘宜 前宮を造営し国家太平家内安全を祈願した。
春宮祭 4月20日
末社 八方神社他6社。」
昭和10年に建立された前宮とあるが、文中にある「地蔵嶽中腹旭嶽に社殿」がどこにあたるのか分からない。
「老若者の参詣困難」……?、この参道の方角には赤岳があるが、地蔵嶽は知らない。
解説の後方に聳える甲斐駒方面には地蔵ヶ岳はあるが、向きが違うように思える、……良く分からない。
上に続く石段の先の常夜灯、ブッシュの先に複数の石の社の姿が見られます。
それが前宮なんだろうか。
確かめにいこうか?
いやいやローカットのスニーカーでブッシュに分け入る度胸はない、ここまでにしておこう。
諦めて道路に戻り若宮八幡神社の杜の全景を収める。
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