東洋英和を卒業した花子は21歳で山梨英和女学校に英語教師として赴任する。1919年(大正8)、教師を辞し、東京の日本基督教興文協会に編集者として勤務。後に銀座の教文館として和洋書をとりそろえる書店、出版社として発展する。教文館の裏手にあった福音印刷で夫となる村岡敬三と出会う。1923年9月1日、関東大震災で印刷中の聖書も廃塵に帰した。復興の見通しは立たず、自宅に青蘭社書房という印刷所兼出版社を起こした。市川房江の婦人参政権運動が高まり、長谷川時雨が「女人藝術」を創刊。花子は家庭文学を提唱し、雑誌「家庭」を創刊した。婦人矯風会の書記、「婦人新聞」の編集もしていた。さらにNHKラジオで「子供の時間」で、その日の出来事を子供にわかりやすく伝えるという仕事もしている。1939年(昭和14)、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発、日本と諸外国の関係は悪化し、駐日の連合国関係者は帰国を始めた。カナダ人宣教師ミス・ロレッタ・レオナルド・ショーがカナダへ旅立つ朝、教文館に送別に来た花子に、かなり読み込んだ跡のある一冊の本を「友情の記念」として手渡した。それはルーシー・モンゴメリー著の「Anne of Green Gables」だった。世界平和を愛し、クリスチャンとして、祖国の偉大な物語を手渡してくれたショーの深い思いを花子は受け止めた。どんなことがあっても翻訳して日本の読者に手渡そうと誓った。しかし鬼畜米英が叫ばれ、国家総動員法の下、文学者も戦争動員の駒にされ、貯蓄を呼びかける講演に借り出された。英文の本を持ってることさえ、官憲の目が光っていた。東京空襲がはじまり、焼夷弾が落とされる。花子は本と訳稿をかかえ、本門寺の防空壕へ逃げ込んだ。
1945年(昭和20)、第二次世界大戦終結。「Anne of Green Gables」の訳了。1953年(昭和27)「赤毛のアン」という題名で三笠書房より刊行された。村岡花子は1968年(昭和43)死去。75歳だった。