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ツインズもこれで鍛えるか!! 私高校時代 トスマシーンを正面において打ってました。 下に打つと機械にガツン。 時代が進むにつれ いい機械が出てきます。
2005.09.29
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サイトの模様替えをしました。秋をイメージして作成していましたが、できあがったものは 阪神色になってしまいました。十代後半は 甲子園を目指していたせいかズーッと阪神ファンでした。甲子園に出場する 前年度に阪神が日本一になり甲子園で 阪神グッズを買いあさったのを今でも鮮明に覚えています。最近は 甲子園にいってもめっきり甲子園グッズしか買いませんが・・・・・・・。ところで 阪神と言えば野村監督?85年阪神が優勝したとき、鹿児島に夏頃いらっしゃいました。講演会があり、阪神は絶対優勝しないといってました。只 何故優勝できないかの 理由をいくつかあげており、逆にいうとそこがクリアーできればいいわけで、その年の阪神はその指摘を見事克服して、優勝しました。投手の事、打線の事 掛布のことチーム全体の流れ等々、さすがだと思いました。ところで 楽天も監督を変えられたようで、さてさて 今後の野村監督はどうなる事デショウ・・・・。野村ファンとして 注目しております。
2005.09.28
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打撃練習の 動画を1時間ぐらいかけてみています。正直すごいです。教えた 親はもっとすごい。さんまのカラクリ 問題ではありません。見れば、見るほどすごい。小さい子の練習方法も載せていた。なるほどと思った。 動画ごらんになりたい方、コイチローさんに御連絡を!!
2005.09.27
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いつ見ても 綺麗な大島の海大島で有名な鳥飯店野口みずきさんも良く来ている。店内にはサインが これは2003年2003・2004年に来たときのものがあったタイガースの48は誰。その他 ボクシング、相撲と 芸能人と沢山の方見えてます。島のブルースの 記念碑というのもあった朝 7時50分に飛行機に乗り 2時15分の飛行機で帰ってきました。用事を済ませ、西郷隆盛が愛かなと生活していた家と 奄美パーク視察してきました。途中 鳥飯を頂いた。とても美味しかったです。又機会があれば家族を連れて行きたい。
2005.09.26
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試合結果 及び写真記者政様 スポーツかごんま より
2005.09.25
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以前 知り合いのチームが火曜日に軟式の練習をナイターでしており、いつも参加させて頂いていた。そのチームには 中学、高校の先輩、同級生が多数いる。今日試合があり、見に行ったら 団地でソフトボール大会に参加されている方が、監督になっておられた。このチームは最近めっきり平均年齢があがったが、青山大学や、明治学園・社会人野球(欽ちゃんのGGとの試合で 鹿児島選抜正二塁手)で活躍したメンバーもいる。そして びっくりしたのは 対戦相手、ソフトボールのチームメイト(欽ちゃんのGGとの試合で 鹿児島選抜正捕手)がいた。又 私の後輩にも当たり 中学時代お世話になった監督の息子さんもいた。私は 最近日曜日が忙しく なかなか試合に参加できないので正式入部はしていなかった。和歌山に転勤になった同級生が、本日最後の試合となった。結局チームは負けた。転勤になった、同級生の代わりというわけではないのだが、今日から正式入部になった。このチームには 知り合いが6名もおり、新入部員という感じはしない。だが気持ちは球拾いからはじめたいとおもう。(笑)
2005.09.25
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昨日 マスターズ甲子園予選会のチームの反省会、又 来年に向けての決起会及び 和歌山へ転勤になる仲間の壮行会があった。本日は高校時代お世話になった 恩師塩瀬監督もいらっしゃってくださった。監督は 現在 高校の先生を定年され多方面にご活躍になっておられる。大変ご多用にもかかわらず 当日も試合を見に来てくださった。現在ご出身地で 地元の方からの依頼もあり大きな役をされておられる。そんな お忙しいなかはるばる鹿児島市内迄お越しくださった。一言 お言葉を賜った。「一回り 二回り大きくなっているのにビックリした。(笑)(おじさんになって太っているという意味だろう)最初 "みんなから是非ベンチで"と いわれベンチにいようと思った。しかし みんなの家族がスタンドに来ているということで、俺にとってはそちらに合うのが楽しみだった。みんなの子供や奥さんと会えたことが一番嬉しかった。君達に合えたのも嬉しいが、君達の子供達と合えたことが何より嬉しい」と言って下さった。頭が下がる思いがした。「自分の教え子が 家族をもって 元気に生活をしている。それが何よりうれしい。試合に負けたことは残念だが、元気な姿を見れたのが一番嬉しかった。君達の奥さんや 子供達と交流できたのが幸せだった」とのお話をして下さった。改めて 指導者とはそういうものなのかと感じさせられた。私達の家族の事まで気にかけて下さる。それは何より 私達の事をいつまでも気にかけて下さっておられるということだ。又 私達の両親にもご配慮の言葉を頂いた。監督は 長年県内のチームを率いており、最後はご自分の母校で定年を迎えられた。教え子は野球部員でもかなりの人数がおり 教え子たるやものすごい数だ。それをきちんと覚えておられる。頭が下がった。しかもそれをさりげなく 心遣いくださる。改めて 野球以外での凄さを実感させられた。さすがに 名将と言われるだけのことはあるお方だ。今回は 大会に参加し 監督の当時の苦労が少し感じることが出来た。それをしっかり結果が出るように 導かれたのは頭が下がる。良く簡単に指導者の事を批判してしまいがちだし、当時私たちも若かったせいか 反発した時もあった。そんなことにたいしても「当時は学生と 指導者という立場であったが、現在は同等の立場で お付き合いが出来るようになった。大変嬉しい」ともお話下さった。同じ社会人としてということであろうが「同等の立場で」なんて、とんでもないと感じた。今日は 楽しい有意義な時間を過ごした。最後は マスターズ甲子園もう一度頑張ることを誓い お開きとなった。
2005.09.25
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9月12日の日記に下記の内容を書いた。この内容を少しずつ実現出来そうな感じになってきた。マスターズ甲子園のルールは 予選参加チーム全校で決めなければならない。が、有志リーグ戦に関しては 高校卒業後 大学 社会人 プロ等で野球を続けないものは 登録して 各校のOB大会を いわゆるプチ独立リーグもしくはミニ倶楽部チームの大会をしてはどうだろうかと現在考えている。そこで 社会人や プロに進める選手も出てくるかもしれない。事実 先日のGGとの鹿児島選抜チームの選手 プロの1次試験ぐらいには楽々通る選手がごろごろいる。もちろん 鹿児島県内には 鍛えれば面白選手がたくさん要るそうだ。只 それを高める環境が現在ない。だからみんな 軟式倶楽部チームやソフトボールチームをやるしかない。もし鹿児島県の軟式チームが 硬式チームなら 立派な独立リーグになる。状況に応じては上でやる選手も出てくるだろう。もちろん軟式チームを硬式に変えるわけにはいかない。だから高校OBチームを通じ それを発展させた鹿児島オリジナルの社会人野球チームがあってもおかしくないと思う。高校のグランドなら 十分練習 試合はできる。道具もある程度問題ない。現にマスターズ甲子園はそれで進めてきた。実は 鹿児島オリジナルの社会人野球チーム 微力ながら活動を進めている。どうなるか 楽しみだ。四国の独立リーグや テレビに出てくるような倶楽部チームではないが、以前は 鹿児島にそのような大会があったそうだ。高校のOBチームのを試合を市民球場でし 入場料を頂いて試合をしていたというのだ。しかし正月にあったため、寒さの関係か いつの間にかなくなったと聞く。オールドファン達は高校野球とは違った楽しさを味わっていたようだ。プロがない鹿児島らしい。私達は お金を頂いてとまではいかないが 気楽に軟式やソフトチームをつくり、真剣に野球やソフトをやっている感覚で硬式野球が出来たらなんと楽しいことであり35歳以上はともかく 19歳~34歳のグループでは あわよくばプロや 社会人野球に進む選手も出てくるかもしれない。考えただけで楽しい。その選手が 後輩にあたる現役選手のをバックアップしていき、鹿児島の高校野球のレベルアップにもつながるような活動が出来ればなんと楽しいことだろう。現在マスターズ甲子園では この大会を通じ 母校を中心に地域の活性化ということもプランにあるようだ。まさしく 我々が考えていたことにピッタリだ。確実に風は吹いている。又 現在 国体には 40歳以上の軟式の大会はあるが 硬式の大会はない。そこで国体に 40歳以上の硬式大会を盛り込むことは出来ないだろうかということの話題が挙がった。こちらは漠然とした話だが、野球はやはり硬式でするのが本当だろう。軟式は本来 日本がまだ貧しい時代、なんとかして野球が楽しめるようにと作られたボールだ。現在は日本はこれほど豊かになった。野球発祥のち地 アメリカ(イギリスクリケットがという意見もあるがアメリカによってそれは現在定説ではなくっている)には軟式ボールはない。硬式の多少やわらかいボールで 小学生などはベースボールを楽しみという工夫はされているが これもボールも日本にもいくらでもあるぐらい時代は変わった。只 軟式は日本人に完全に定着しているのでこれをどうこういうつもりはないが、硬式ボールで野球をやりたいと思っている方は沢山いることがマスターズ甲子園を通じ改めて確認できた。国体に40歳以上の硬式大会をという夢は まだまだ非現実的な話であるが こういうことは動き出すと早い。何とか実現したいものだ。さあ どうなることやら。今日はOBチームの反省会。後日 鹿児島事務局の反省会がある。他の方々も 私と同意見の方が多数おられるとのこと。面白くなってきた。
2005.09.24
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今日は私と同世代 5人の大リーガー投手を紹介しました。今日私のサイトで紹介して投手【長谷川・高津・野茂・藪・木田】 みんな同年代の申年って ご存じでしたか。この早々たるメンバーを退け 甲子園ではベスト4に!って過去の栄光ですが。正直自分たちでもビックリ。よっぽど運が良かったのでしょう。藪 1968年 9月28日 184センチ 90キロ小学生からの友人が 社会人野球チームメートでした。やっぱりプロに行くやつは違うと漏らしていたことを 思い出す!2005年、36歳の「オールドルーキー」が誕生した。藪恵壹投手がア・リーグ西地区の強豪アスレチックスと1年契約。彼が最高の舞台に辿り着くまでに歩んだ道のりは、決して平坦なものではなかった。 三重県御浜町で育った藪は、和歌山県の新宮高に進学。しかし県大会では3年夏のベスト8が最高成績で甲子園出場の夢は果たせず、その後浪人生活を経て、当時、首都大学リーグの2部に所属していた東京経済大に入学した。ここで通算36勝を挙げる活躍を見せたがドラフトでは指名されず、念願のプロ入りを果たしたのは社会人の朝日生命で2年間を過ごした後のことだった。 しかしドラフト1位指名を受けて阪神に入団した藪は、1年目の1994年から9勝を挙げる活躍を見せて見事に新人王を獲得。その後もエースとして低迷期に入ったチームを支えていく。持ち味の大胆な内角攻めはときに打者との悶着に発展することもあったが、藪は臆することなく投げ続けた。2001年には右肘を痛めた影響で未勝利に終わるという屈辱も味わった藪。しかし背番号をエースナンバーの18から4に変更して臨んだ2002年に4年ぶりの2けた勝利となる11勝を挙げると、翌2003年にはまたも故障に悩まされたものの、チーム18年ぶりのリーグ優勝に貢献。2004年のシーズンを最後に阪神との契約を満了すると、敢然とメジャーへの挑戦を宣言した。 当初は年齢などから移籍実現を不安視する声も高かったが、年明けの1月にアスレチックス移籍が決定。不屈の男は夢を実現させた。長年チームを支えたティム・ハドソン(現ブレーブス)、マーク・マルダー(現カージナルス)といった先発投手たちを手放したチーム事情もあり、地元では百戦錬磨の藪に対する期待も高いと伝えられている。キャンプでは若手投手たちからアドバイスを求められるシーンもあった。先発ローテーションに入るにせよリリーフに回るにせよ、間違いなく藪は早くもアスレチックスに欠かせない戦力となっている。木田1968年9月12日 191センチ95キロ一昨年はマイナーの春季キャンプ合流直前に交通事故に遭遇。昨年はシーズン開幕間際に腰を手術と、2年連続で出遅れを余儀なくされた木田優夫投手。故障が癒えた後もなかなかメジャーからはお呼びがかからずマイナー暮らしの日々が続いたが、ベテランはそれらの試練を乗り越えてメジャーの舞台へと返り咲き、9月にはシアトルの地で新たな一歩を踏み出した。 1999~2000年にはタイガースでプレーした経験を持つ木田。2000年には古巣のオリックスに復帰したがわずか2シーズンで退団し、さらに1年間の空白を経て2003年にドジャースとマイナー契約を結んだ。ところがキャンプ合流前日の3月1日、車を運転中の木田を交通事故が襲い、つま先骨折で全治1カ月の重傷。しかし木田は思わぬアクシデントにも腐ることなくメジャーへ挑戦を続け、8月にはついに3年ぶりとなるメジャーのベンチ入りを果たした。いったんはマイナー降格となったが、9月のロースター枠拡大で再びメジャーに昇格すると、27日にはメジャー2度目の先発登板。強豪ジャイアンツ相手に5回2失点の好投も披露した。 木田は2004年、開幕メジャーを目指して招待選手として春季キャンプに参加。しかし腰の不安から不本意な投球が続き、3月下旬にマイナー降格を通達されると、4月1日には手術を受けることに。まさにギリギリの状態まで追い込まれたが、夏前にマイナーで戦列に復帰すると徐々に調子を上げて3勝をマーク。この好投で8月にメジャー復帰を果たすと、24日の復帰初戦で石井一久投手との「日本人リレー」を完成させるなど3試合の登板で計4回2/3を無失点に抑えた。 その後、再びマイナーに降格して迎えた9月1日に、オリックス時代の同僚であるイチロー外野手がいるマリナーズへの移籍が決定。新天地での成績は振るわなかったが、今季の春季キャンプに招待選手として参加を認められた。36歳という年齢的なものも含めてメジャー昇格への道は容易ではないが、若手揃いのマリナーズでベテランとしての存在感を発揮してほしいものだ。
2005.09.23
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1968年8月31日 188センチ 106キロ1995年以降、トレードマークである「トルネード投法」と、最大の武器であるフォークボールで日米のファンを熱狂させてきた野茂英雄投手。しかし、右肩の手術明けとなった昨年は、プロ入り後最悪のシーズンを経験。日本人選手のメジャーへの道を切り開いた開拓者は今年、デビルレイズで正念場のシーズンを迎えるとともに、あと4勝に迫った日米通算200勝の達成に期待がかかる。 野茂は近鉄(現オリックス)でプロデビューした90年、新人王はもとより投手部門のタイトルを総なめにし、その後も3年連続でパ・リーグ最多勝を獲得。日本を代表するピッチャーの地位を不動のものにする。94年限りで近鉄を退団し、翌95年にドジャースへ入団すると、1年目からオールスターゲームで先発投手の大役を担ったほか、新人王、最多奪三振のタイトルを獲得する。翌96年には自己最多の16勝を挙げ、9月17日には自身初のノーヒットノーランを達成している。 ところが、その後は伸び悩み、98年のシーズン途中にメッツへ移籍。これ以降、野茂の所属球団は毎年目まぐるしく変わることになる。99年にブルワーズ、翌2000年にタイガース、2001年は古豪レッドソックスでプレー。しかし、レッドソックスでの初登板となった4月4日に自身2度目のノーヒッターを達成するなど、要所で健在ぶりをアピールしてきた。そして再びドジャースの一員となった2002年、野茂は16勝をマーク。翌2003年も、メジャー通算100勝目を飾るなど2年連続で16勝を挙げ、エースとして首脳陣から絶大なる信頼を寄せられた。しかし、この年のオフに右肩にメスを入れると、昨年は球威不足でホームランを浴びるシーンが目立ったほか、肩やつめも故障。わずか4勝(11敗)、防御率は自己ワーストの8・25に終わり、オフにはドジャース退団が決まった。 その後も簡単には新天地が見つからず、ようやく1月末に低迷が続くデビルレイズとマイナー契約に合意。年俸も昨年の900万ドル(約9億4000万円)から、今年は最高でも150万ドル(約1億6000万円)と約6分の1にダウンした。とはいえ、現在のデビルレイズには先発陣に実績のある投手が少ないため、トルネードがかつての勢いを取り戻すことになれば、頼もしい戦力に十分なり得る。過去に幾度となく困難に直面しながらも、そのたびに不死鳥の如くよみがえった野茂だけに、まだまだ期待を寄せてもいいはずだ。
2005.09.23
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1968,11,25生 183センチ81キロ高校時代は春に甲子園で対戦しました。私達は惜しくも負けました。高津投手当時 大学時代とNO2投手。プロに入って開花しました。横手投げとして知られる高津が挑んだメジャー1年目の昨季、スタートは中継ぎだったものの6月にクローザーに昇格。チームトップの19セーブを挙げる活躍だった。日本のクローザー・高津がメジャーでも通用することを証明し、ホワイトソックスはオフに契約オプションを行使。メジャー2年目、開幕からすでにチームの守護神としてのポジションを確約された5年ぶりのポストシーズン進出を狙う切り札としてメジャーの打者を切って取る。 広島工業の3年時に春夏ともに甲子園に出場した高津は、亜細亜大に進学後、1990年にドラフト3位でヤクルトに入団。翌年プロ初登板を果たした。デビュー当時は先発投手だったものの、3年目の93年からクローザーに転向した。高津の抑えとして才能が開花し、6勝4敗20セーブ、防御率2・30をマークしてチームの日本一に貢献。通算4度、最優秀救援投手、5度のオールスターに選出され、守護神として4度ヤクルトを日本一へとけん引した。ヤクルト在籍ヤクルトに在籍した13年間で通算525試合に登板し、35勝39敗260セーブ(289セーブポイント)、防御率3・13と申し分ない成績を残した。 日本を代表する守護神の高津が、2003年のシーズン終了後に選んだのは海を越えたアメリカ。なかなか移籍先が決定しなかったが、1月に投球披露会を行いホワイトソックスと1年契約で合意した。入団会見で「シカゴは私にとって『フィールド・オブ・ドリームス』です」と語った高津は、開幕ベンチ入りしたものの、クローザーでなく中継ぎからのスタート。夢舞台での公式戦初登板は、4月9日のヤンキース戦、いきなり松井秀喜外野手との対戦だった。しかもメジャーの先輩・松井に二塁打を打たれたあと、一発を浴び2点を献上するほろ苦いデビューだった。5月1日のブルージェイズ戦にメジャー初勝利を飾った高津は、その後も好投を披露して首脳陣の信頼を勝ち取り、6月12日のブレーブス戦でクローザーとして初登板して見事初セーブを挙げた。その6月、24試合連続で無失点に抑える素晴らしい活躍を見せた高津は後半戦、チームの不動の守護神として大活躍。高津独特の投球術でメジャーの強打者を仕留める姿にファンは熱狂した。1年目のシーズンは、6勝4敗19セーブ、防御率2・31という素晴らしい成績を残した。
2005.09.23
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夏 甲子園で戦った選手・生年月日 1968年8月1日 ・出身地 兵庫・加古川市 ・サイズ等 180センチ、78キロ 右投げ右打ち宝殿中3年時にエースとして全国中学軟式野球大会優勝。東洋大姫路では3年夏に甲子園出場し8強。(ベスト4をかけた試合では 私達 鹿児島商業がy破りました)2003年、オールスターに選出されるなどメジャー屈指のセットアッパーとして最高のシーズンを送った長谷川滋利投手。マリナーズと新たに2年契約を結び臨んだ2004年はチームの成績と同様、メジャーでのキャリアワーストといっていいシーズンだった。これまで体格面のハンデを明晰な頭脳と卓越した投球術でカバーしてきた長谷川にとって、メジャー9年目となる2005年はチームとともに復活をかける年になる。 宝殿中3年時にエースとして軟式野球大会で全国制覇を成し遂げた長谷川。東洋大姫路高では甲子園に3度出場している。その後立命館大へ進学し、通算40勝を挙げた。1991年、ドラフト1位でオリックスに入団した長谷川は、その年いきなり12勝を挙げてパ・リーグ新人王を獲得。95、96年には、現在もマリナーズでチームメートのイチロー外野手とともに日本シリーズに出場している。 日本プロ野球在籍6年間で57勝を挙げた長谷川が次なるステップとして選んだのは、学生時代からの憧れの国、アメリカ。97年、エンゼルスに入団した長谷川は、メジャーリーガーとして新たな野球人生のスタートを切った。1年目は不本意な成績に終わったが、98年には中継ぎに専念し8勝を挙げるなど好成績を残した。これから長谷川はチームのセットアッパーとしてなくてはならない存在となった。語学力を磨き、通訳なしでコーチや選手たちとコミュニケーションが取れる長谷川は、チームメートからの信頼も厚かった。 2001年にはイチローと対戦。メジャー史上初の日本人投手と打者の対決として話題を呼んだ。このときの使用球は、野球殿堂に贈られている。2002年にはそのマリナーズへ移籍して、イチロー、佐々木主浩投手(現横浜)との「日本人トリオ」を結成。中継ぎの柱として活躍した。2003年には、故障で戦線離脱した佐々木の代わりにクローザーを務めたほか、28回2/3連続無失点の球団記録を樹立するなど、16セーブ、防御率1・48とキャリアハイの成績を残した。オフにフリーエージェントとなりマリナーズ残留を選んだ長谷川だが、2004年はチームともども、不振にあえぐ不本意なシーズンとなった。マリナーズの中継ぎの柱として復活を期待されている2005年は、長谷川にとっても契約最終年。メジャーで生き残れるかどうか真価の問われる大事な1年となる。
2005.09.23
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私の 職業柄 名園 や 美術館に足を運ぶ機会が多い。私の お勧めの庭園は沢山ありますが 今日は 中根金作先生の作品を紹介させて頂きます。陽光美術館・慧洲園 http://www.mirokuresort.com/faci_keisyu.htm 陽光美術館・慧洲園(ヨウコウビジュツカン・ケイシュウエン) 美術品として価値の高い中国の銘品に会える・九州随一の名園☆陽光美術館☆肥前陶磁器の形成に大きな影響を与えた中国の唐、宋、元、明、清の各朝廷の歴代皇帝が使用した官窯の古陶磁器や、翡翠や玉を所蔵する美術館。美術品として非常に価値の高いものが多く、テーマを決めた特別展という形で収蔵品の展示を行なうことが多い。特に「翠玉彫虫活連胡芦瓶」は非常に精緻な乾隆彫で、世界三宝のひとつに入る貴重な美術品だ。☆慧洲園☆旧鍋島藩の城跡に造られた九州随一を誇る3万坪の日本庭園。平安時代の貴族が愛したという池泉回遊式庭園で、2000tもの石組みの中に山の湧き水を循環させ、広大な池には大小様々な滝が流れ落ちる。また御船山を借景に朱塗りの橋や茶畑が大胆に配され、美しい自然をひときわ際立たせている。庭園は回遊式なので20~30分で一巡できる。抹茶や煎茶を味わいながら庭を鑑賞できる「みふね茶屋」もありくつろげる。もう一つは、中国地方の足立美術館 http://www.adachi-museum.or.jp/ja/garden.htmlと共に 中根金作先生の代表作です。両庭園とも 私も何度も足を運んでいます。いつ見ても大変綺麗です。ゴルフの宮里藍 選手は ゴルフもさることながら、教養を身につけることをお父様から常に指導されていたという。これからのスポーツマンには 文化人的要素も求められてきます。
2005.09.23
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我が子は 5人。本当は、青い空へ 旅だった子 望君を入れると、6人!ところで家の子 3男は ミレニアムベイビーだった。名前はD 由来は やっぱいこの人荒木大輔松坂大輔そして・・・・・・ 吉田大輔。と どこの親も思っているのだろうなー。きっと家の大輔が甲子園に行く年には 沢山の大輔君が甲子園に出場するのであろう。(*^_^*)
2005.09.22
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イチローの生い立ちや 父ローの教育方針等は良く読んだ。しかし、この本はそこにイチローがいるかの如くの思いにしてくれた。イチロー・ルール【楽天ダウンロード】目次第1章 日本 ・入札制度 ・入団契約 ・6年前の冬第2章 アリゾナ ・フェニックスという土地・キャンプイン・共同会見・マネージメント・オープン戦第3章 オークランド、テキサス ・ケン・モッカとの出会い・開幕戦の感動・ルーピネラという男・アレックス・ロドリゲスとの比較 ・長谷川滋利との対決第4章 ニューヨーク ・連続安打記録 ・グローバル戦略 ・MLBと任天堂 ・2億円ヌード・ 焼肉 屋にて ・新庄剛志の環境第5章 ボストン第6章 シアトル第7章 オールスターゲーム著者略歴梅田香子(うめだ・ようこ) ブログhttp://plaza.rakuten.co.jp/umedayouko・1964年7月7日生まれ。1985年実践短期大学英文科 卒。同年『勝利投手』(河内書房新社)で文芸賞佳作、12万部のベストセラーとなる。1991年、結婚を機に英国永住権を獲得して、米国シカゴに移住。『東京中日スポーツ』『スポーツ・グラフィック・ナンバー』など日本の新聞、雑誌にアメリカン・プロスポーツの記事を寄稿して、現在に至る。著書は『スポーツ・エージェント』(文藝春秋)、『マイケル・ジョーダン』(経済界)『NomoウォッチinU.S.A』など多数。 アメリカ人から見た“正しい”イチローの評価がここにイチローの凄さは、プレーや記録だけじゃない。観る者の心をかきたてる素晴らしいプレーがもたらした「イチロー現象」はシアトルの経済界に莫大な影響を与え、不動産価値までも引き上げつつある。A・ロドリゲス、ランディ・ジョンソン、野茂らの声やイチロー談話も満載! アメリカ在住のスポーツ・ジャーナリストが描き出すイチローの『今』。
2005.09.22
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高校野球連盟から 地方高校野球連盟への通達日本高野連発第W2975号平成17年8月27日高等学校野球連盟 会 長 殿 財団法人 日本高等学校野球連盟 会 長 脇 村 春 夫暴力のない高校野球を目指して今般、全国高等学校野球選手権大会で57年ぶりの連覇の偉業を成し遂げた北海道・駒大苫小牧高校の野球部責任教師が、これまで2度にわたって部員に暴力を加えていたことが判明しました。なかでも8月の暴力行為は、甲子園入りしてからの宿舎内で起き、先の明徳義塾高校の反省が全く生かされておらず、慙愧に堪えません。日本高等学校野球連盟は、戦後一貫して暴力絶滅を強く訴えてきました。特に上級生が無抵抗の下級生に対し、制裁を科す行為は厳しく戒めてきました。その後の調査の中で、加害者は暴力に及んだときの理由について注意をしたことを守らない、逆に不遜な態度をとったから、などを挙げています。自分の考え・思いを相手に伝えるのに、暴力という手法が本当に有効でしょうか。暴力で相手を封じる行為は一般社会でも厳しく戒められています。体育会系の部活動では多少の暴力は許されるとか、以前からあった、などというのは誤った考えであり、長い間引きずってきたこうした暴力を許す体質を指導者がどう断ち切っていくかが厳しく問われています。学校教育活動として行われている部活動では、生徒間の暴力はもちろんのこと、指導者の暴力も些かも許されるものではありません。学校教育法ではいかなる暴力も明確に禁止されています。指導者が自制なく暴力を振るってしまうようでは、日本高等学校野球連盟が長年にわたって訴え続けてきた『暴力絶滅』は到底達成することはできません。また仮に指導者の不祥事で大会の出場が危ぶまれたり、選手たちが努力した試合成績まで取りざたされて無に帰すようなことになった場合、その指導者は部員たちにどのような説明をするのでしょうか。まさに寒心に堪えません。最近生徒間で目立つ暴力行為では、いじめ行為があります。加害者はからかい半分でも、それが徐々にエスカレートして被害者の身体ばかりか、精神面にも重大なダメージを与えている事例があります。“いじめ”はスポーツマンシップに最ももとる行為です。相次ぐ不祥事を踏まえ、この機会に全国の加盟校指導者と選手、部員の皆さんに、暴力のない、暴力を許さない野球部を目指して改めて次のことを厳守いただきたいと強く要望いたします。記1. 暴力のない、暴力を許さない野球部の確立指導者はもちろん部員間の暴力も厳禁です。相手の行動をたしなめようとした善意に対して、不遜な行為でこたえたことが暴力を振るうきっかけになったことが余りにも多く見られます。感情のままに指導してもよい結果は得られません。暴力を受けた方も振るった方も心の傷は長く残ります。少しぐらいならとか、言っても聞かないから、などは全く理由になりません。暴力を振るうのは相手の人格と誇りを踏みにじるものです。また、体罰と見られるような制裁も是非戒めてください。このような方法では、豊かな人間性を培うことを目指す野球人を育成することはできません。2. 事後の迅速な対応と決断今回大きな波紋を呼んだ明徳義塾高校と駒大苫小牧高校では、不祥事が発生し、その後の事実を確認したあとも、所属連盟への報告がなされなかったことも問題となりました。投書や告発で明るみに出たことは決して少なくありません。報告の遅れや隠蔽は発生した事件そのものよりフェアではないと厳しい批判にさらされることになります。不祥事があったことを拭い去ることはできません。不祥事が発生した以上、その時点で最善の方法で事後の対応を迅速にとり、可能な限り対外的にも説明責任を果たしていくことこそが、問題の波紋を最小限に留める最良の方法なのです。3. 校内審議機関での正しい処理最近起きた不祥事の中では、学校内の生徒指導部会など定められた審議機関に諮らず、また学校長にも報告がなされないまま、野球部内での“処分”で済ませている事例が目立ちます。野球部の指導者としては非行の内容や本人の反省の度合いを見て野球部内で処理しようと好意的に処理したかに見えますが、他から見れば結果的にそれが不公平に映り、不満として蔓延し、投書・告発に繋がっています。以 上※管理 吉田より 上記の日記は 後日消します。只、高野連はこの通達をだし、それで終わりなのだろうか?具体的な取り組みは?内容は 私は納得出来るが、この通達だけで問題解決できるのだろうか?高野連はどこまで 指導力を発揮していいものなのか、そもそも高野連の役割とはなどいろいろ考えさせられました。いろいろな意見を教えて頂きたく、上記に記載しました。山本Q様どう思われます。
2005.09.22
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写真を貼り付ける欄があった。証明写真機で取ろうと思ったが、自宅のデジカメと、パソコンですませた。便利な時代になったものだ。写真は プロフィールに載せている。良かったらご覧下さい。
2005.09.22
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私の母校 陽光学園理事長は 以前 相次ぐ教育界の問題に 改善提案を促す意味も含め 教育復興(ルネッサンス)という本を出した。現在 私は その本を読み返している。何故か、現在 高校野球会が何かと騒がしい、私が 中学時代も 不祥事が 社会問題になった時期があった。その頃を思いだす。高校野球は いい意味で 人格形成の場だ。教育復興ならぬ 高校野球復興に貢献したい。私達は 甲子園でいい思い出を作ることが出来たが、一つしたの後輩は 予選さえ出場出来なかった。何故かは お分かりのこととおもう。そしてその次は甲子園に出場した。その後 甲子園に出場したきり 出場出来ていない。不祥事は 時として、その高校の伝統を消す。なくなることはないかもしれない不祥事。只 少しでも減っていくよう、OBとしても何とか力になりたい。ちなみに 今年の 鹿児島商業 甲子園に出場出来るチャンス大。たまたまだったのか、組み合わせが良かった。上手く行けば九州大会出場は硬い。http://www4.synapse.ne.jp/k-b/117kumiawase.pdf只、油断は禁物。われわれも この前 マスターズ甲子園で痛めにあっている。高校生諸君 悔いがないよう頑張ってください。
2005.09.22
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※現在 野球場は 自然と融合したベースボールパークに随時生まれ変わっている。外国ではそれが顕著だ。日本もそうなっていく。宮城フルスタがまずそれを目指している。又各地の球場でプロ選手、高校球児がバットの木を植えている。野球選手も、地球に優しく,自然を大切に!◎庭園は私たちの大切な財産である家や家財を、災害から守ってくれる。台風に対しては防風垣が、火災に対しては防火樹がそれぞれ働く。また、地震に対しては、ブロック塀よりも生垣のほうがより安全であるということが証明されている。強風や地震などでブロック塀が倒れるのは一瞬だが、樹木も場合は一瞬に倒れるということはないから対処することが可能。生垣はまた、ブロック塀や金綱のフェンスなどより外からの人の侵入は難しいといわれている。特にカラタチ、ナギイカダ、ピラカンサのように、とげのある樹木では人間だけでなく、犬や猫の侵入も妨げる。ハーレクインは常緑樹です。この木のチャームポイントはなんといっても大変美しい葉っぱです。ピラカンサスのカラーリーフでは代表的な品種で、どんな場所でも大変目立ちます。5~6月には手毬咲きの白い花が、爽やかに全樹を覆います。花の後は実に変わって、秋には真っ赤に色付きます。一年中、見ごたえのある木です。18cmポット
2005.09.21
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「生きて死んでいるよりも、死んでもなお生き続ける人になれ」上記は私が通った 陽光学園の建学の精神です。下記は学長著書より。「この建学の精神は、学生にとってすばらしい人生の送り方、生き方を学んでもらいたいという私たちの願いである。決して偉い人、有名な人になって欲しいのではなく、人のために生きることの出来る人になって欲しいのだ。 今の日本人は、たいていのものは何でもそろっている。物質的に非常に豊かな生活を送っている。その結果、物事の価値をモノやカネに置くようになってしまった。お金があることが、幸せになるための条件であるかのように錯覚してしまっている。 しかし、いくら食べるもの、着るものが豊かになったとしても、財産を築いたとしても、それが本当の幸せといえるだろうか。本当の幸せとは、物質的なものではないはずだ。 モノ、カネ中心に刹那的にその日を暮らしている日本人。その中で生まれ育った若者が、極楽トンボのような生き方をしていても、それを責めることは出来ない。 現在は、物質的な豊かさというものは獲得されている。だから逆に考えれば、今の青年ほど、物やお金に対して、こだわらないことのできる条件にあるものはいない。 したがって陽光学園では「生きて死んでいる人よりも、死んでもなお生きつづける人になれ」、このような建学の精神を打ち出した。 今度は、物やお金では買えないもの、物質的なものより精神的なものに価値を置く時代が到来するだろう。何が本当の幸せだろうか、今、このことを真剣に考え始めている人が増えつつある。 自分の一生をどのように築いていくかを考えたとき、どの道がいちばん素晴らしいのか、判断に迷う、あるいは悩む、これは当たり前のことである。 その中で、自分だけの幸福を求めるより、人の幸福を考え、行動したとき、人に喜びを与えることができ、そして人からの感謝の波動を受ける。 そのときの感動は、いっさい物やお金に代えられるものではない。多くの人に喜びを与え、その喜ぶ姿を見て自分の喜びとすることができる。それが真の幸せではなかろうか。 陽光学園では、青年たちに本当の幸せをつかめるような、悔いのない生き方をして欲しい、それが一番の願いであり、そしてそれを軸にして教育を展開している。 人の生き方という、何よりももっとも大切なことをここで学んでほしい。」 著書 『教育復興』 より
2005.09.20
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21世紀は「環境の世紀」といわれているように、今、世界的に環境問題に対する意識が高まってきている。 というのも、地球の温暖化現象や海洋汚染、森林破壊など、今まで人類が自然を使いたい放題、汚したい放題の勝手なやり方で、自然界のバランスを崩してしまったために、地球のあらゆるところで狂いが生じてきているからだ。これは人間が自分たちの利益のために、自然を貪り取るだけでは成り立たない時代に入って来ていることの表れである。 本来、人は自然と共存する、共に生きることによってバランスを保っている。昔から日本人は自然を慈しみ、自然と共存する生活を無理なく行ってきた。自然の流れに逆らわず、それに従う生き方である。 日本の家屋はそのよい例である。「家庭」という言葉が示しているように、日本では家と庭が一体になっている。庭があって、濡れ縁、廊下、障子、部屋と続き、障子を開けると、これらの空間が連続的につながる作り方をしている。すなわち内と外の区別がなく、自然も家の一部というわけだ。 ところが、アメリカではアパートやマンションが主流で、庭がない家が多い。一軒屋でも頑丈な壁で内と外が遮られ、、ハウスとガーデンにハッキリと区別されている。これがアメリカやヨーロッパ、西洋の考え方である。ここにも日本と西洋と考え方の大きな違いを見ることが出来る。 最近、日本の家屋がアメリカで見直されてきている。ロックフェラーなどのように、日本からわざわざ庭師を呼んで、ニューヨークのマンション郡の上に日本庭園を造って楽しんでいる人もいるようだ。また座禅や茶道、華道といった日本文化も海外で大きく評価されてきている。西洋でも自然と共に生きる生き方が求められてきていると言えるだろう。※著者の講義を聞いたときのメモより
2005.09.20
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妻が楽天サイトを全然更新しなくなった。昨日私は いたたまれなくなって、ジャックした。妻は笑っていた。妻は 英語講師(県内幼稚園、市内小学校、中学生の個別指導)、通訳と忙しい。その他、父から受け継いだ家業の手伝いもしている。そして5人の子育て。もちろん小学校、幼稚園の保護者活動も参加させて頂いている。そのわりには 20代に見られたり、独身に見られるから不思議だ。まさに ウルトラサッコだ。今日も午前中は 某小学校に教えにいっている。という ご多用のようなので、本格的にサイトをジャックする事にした。これからそのサイト名を 陽光ベースボール倶楽部とする。静岡にいるとき、学校OBで野球チームを作った。将来 高校が出来たときの為だ。夢はあきらめていない。又、そちらのサイトでは 陽光学園で学んだ教育方針を元に、野球に対する指導法や、野球を通じ人格向上を指針としたい。最近 鹿児島ベースボール倶楽部が めっきり、私の講義原稿をつくる たたき台になっているので 随時 そちらにまとめてみようと思う。
2005.09.20
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私の 家業は総合建設だ。父が創業した。私は 家の手伝いをする一方 大理石の会社に勤めていた。又 専門学校卒業後は 施設管理及び敷地管理ををしていたこともある。その時 広大な土地を管理する機会があった。60万坪の敷地のうち15万坪を仲間と管理していた。伊豆の広大な土地で、土地を管理する傍ら ここに素晴らしい庭園をつくるという作業もしていた。その時、庭園とは何か、自然とはということを学ぶこととなった。有名な言葉に「建築は絵画であり、庭園は音楽である」というのがある。つまり建物は一度出来上がってしまうと、その後の動きがない。庭園は春、夏、秋、冬という四季の変化を見せてくれる。それはちょうどオーケストラの演奏が、同じ曲を指揮者の持ち味によってことなるのと同じような動きがある。都会の人ほど、山や郊外の野原へ散策に行きたがるのは、そこに自然が息づいているからだ。自然の息吹とは、四季の変化だけではない。生物に必要な日光も与えてくれる。私たちにとって十分な光を取り入れる家に住めることは幸福である。又 隣家からプライバシーを守るために高い塀を作るよりも、生垣や目隠しの樹木を植えた方が風通しも良く、また自然も豊かになる。 このように庭園は私たちの生活に必要な条件を満たしてくれるだけでなく、庭園を形つくっている樹木、芝生、池、草花など、いろいろなものが精神的な面に恩恵を与えてくれる。自然という無限の尊い財をよりよく利用するというところに庭園に対する知識が求められる。私が一年に2度以上は必ず訪れる 日本庭園。友の会にも入会してます。 九州随一の名園陽光美術館・慧洲園 (ヨウコウビジュツカンケイシュウエン)旧鍋島藩の城跡に造られた九州随一を誇る3万坪の日本庭園。平安時代の貴族が愛したという池泉回遊式庭園で、2000tもの石組みの中に山の湧き水を循環させ、広大な池には大小様々な滝が流れ落ちる。また御船山を借景に朱塗りの橋や茶畑が大胆に配され、美しい自然をひときわ際立たせている。庭園は回遊式なので20~30分で一巡できる。抹茶や煎茶を味わいながら庭を鑑賞できる「みふね茶屋」もありくつろげる。〒 843-0022 佐賀県武雄市武雄町武雄4075-3 0954-20-1187 陽光美術館入館料は大人1500円、高・大学生1000円、小・中学生無料
2005.09.19
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私が 母校で お手伝いをさせて頂いている時に、学長から次のようなことを教わった。本来「educate(エデュケート・教育)」は能力を引き出すという意味の英語であり、今後その言葉どおりの教育になっていかなくてはならないと。又 「教育とは人格の完成をめざす」ものだとも。これは『教育基本法』の第一条にある教育の目的について 福沢諭吉から直接指導を受けている 慶応義塾大学の高橋誠一郎教授が昭和22年3月 吉田茂内閣の文部大臣として提出したものだ。この戦後教育の基本法は、占領軍の中でアメリカの二流の学者たちが書いた草案でなので、中身についてはアメリカの民主教育の押しつけそのものだが、その第一条にある教育の目的については、「教育は人格完成をめざす」という冒頭の一文は、高橋先生の信念そのもと思われると教えて頂いた。私は 将来 自分の子どもに野球を通じ 共に一つのボールを通じお互いを高めることが出来たら、なんと素晴らしいことだろうと考えるようになった。出来れば 野球を通じ 楽しく 人格の向上を図れたらと。その為には まず楽しくなければと考えるようになった。もちろん 野球を通じ気分転換を図るときがあってもいいだろう、野球を通じ子供たちが有意義な人生を歩むことが出来たらなんと素晴らしいことだろうとおもう。まずは 我が子と もっともっと野球を楽しみたい。
2005.09.19
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私は 自分が学んだ私塾のような学校が 法人になるとき お手伝いをさせて頂く機会を頂いた。当初 理事長に 私は学も無く何をさせて頂けばと伺ったところ、生徒と一緒に行動すればいい、朝のマラソンを一緒に走り、一緒に風呂に入り、一緒に食事を取る。何も気取る事はない。ともに学べばいいといわれた。主業務としては 家業が建設をしているということもあってか、施設の管理を任せて頂いた。その他 車の管理等々、一部用務員のような業務もさせて頂いた。学校は2年間全寮制のため 当時独身の私も 一緒に生活した。私は生徒に教えるというより 共に学ぶという気持ちでいた。共に生活をしていると、何気ない事で相談をされたり、質問を受けたりしていた。常に自分の考えを教えるというより、自分の体験や 経験したこと、自分の勉強方法伝えていた。時には 女生徒の数名が 食堂の 少しかけた食器を溜め込んでおり、それを処分するとき 思い切りその食器を投げたいといわれ、ごみ捨て場に行き、思いっきり投げさせた時もあった。他の指導者にいったら そんな事を賭するなといわれそうで 私のところに相談にきたらしい。他の指導者に 生徒とごみを捨てに行くといって、皿割りをした。いけないことかも知れないが、少し生徒の気持ちがわかった気がした。その後 個別の相談が増えた。只 生徒の悩みや相談を真剣に受けているうちに、こちらがいろいろ勉強させられている事に気がついた。いつも満足な答えは出して上げられなかったかもしれないが、共に考えた。生徒達は 適切なアドバイスを受ける事で得る事も多いようだが、共に考えてあげることによって 解決する力を養っていっているような気がした。その時 野球の指導もそうなのかなと思った。
2005.09.19
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仕事柄、人に説明をするということはよくしていた。後 今でいえばプレゼンとかいうかっこいい言葉になるのだろうが、いわゆる説明会なども度々開いていた。実は今日も セミナーを開いている。ホワイトカラーの方は大な小なりある事だろう。それから私は母校が学校法人になるとき一時お手伝いをさせて頂いており、その時 生徒に講義をする機会を与えられた。その後、環境庁子どもエコクラブの活動を子どもとするようになった。我が子には 野球を教えるより こちらのほうが先だったと思う。ボール遊びは1歳の頃からしていたが、自然に触れ合う事を優先させていた。子供達の友人にも 環境庁からもらう資料や 絵本を使って自然についてのあれこれを説明をしていた。それがきっかけで ちょくちょく 講演会を開くようになった。といっても 人数もさまざま 少ないときは5人から 年に数回 大勢の方にお集まりいただいての講義をしたりする。母校の専門学校主催の講義で 500名近い青年の前でお話させて頂いたこともあった。いろいろな立場で講演をさせて頂く機会を頂いているが、決して私は話が上手なわけではない。学歴があるわけでもない。只、お話をする機会を頂いて、それに向け勉強をする。その為、本を読んだり、文章をまとめたりする。こんな私でも お話を聞いて下さる方にはいつも感謝している。いつも聴講者、受講者と一緒に勉強をさせて頂いて感じがする。これからも 日々勉強です。
2005.09.19
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区大会の決勝戦は試合途中から振り出した雨の中、泥んこになっての逆転サヨナラ勝ち。赤い帽子の”田双”ナインはその場で抱き合って泣いたという。「ユニフォームも無く、体育の紺のジャージを着ただけのチームでしたが、優勝は本当にうれしかった。学校に帰ってからは、いただいた優勝カップにオレンジジュースを注いでみんなで一緒に飲みました」そんな思い出を語るソフトボールメンバーだった。校内の球技大会でも、雅子さまが入っているグループは必ず優勝するという”伝説”もあった。だが、決して目立つ存在ではなかったというのが、当時のクラスメートの”雅子さま評”「ドッジボールでも、オワはエースでした。ただ、最初から攻めまくるタイプではなくて、当てられてみんなが”外野”にまわってから、いよいよ前に出てくるんです。結果的には、オワだけは最後まで当てられずにしぶとく残るというタイプだったと思います。さりげなくて、そして頼りになるのがあのころのオワでした。でも・・・・・・ドッジボールでオワにぶつけられると痛かったんですよ」》中学時代の得意科目は地理と古文、高校時代は理数系。ソフトボールに熱中され、帰宅すると疲れていても勉強もそこそこに寝てしまうような日々。それでも勉強とスポーツを両立させられた。との事その後 ベルモルモンド・ハイスクールのソフトボールチームで活躍された。
2005.09.19
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雅子さまは 肩が強く、ロングヒッターだったという。はじめ試合に出ると、連戦連敗だったが中学3年生の時に世田谷の大会に出場。見事優勝された。雅子さまは、自宅に帰ってからも父親の恒さんと時々キャッチボールをされたが、恒さんの手が赤くなるほど速くて強いボールを投げられたという。ちなみに、雅子さまの双子の妹さん、礼子さん、節子さんもスポーツはよくだきたという。『素顔の雅子さま』(主婦と生活社刊、1993年)は、この頃の雅子さまのご様子について次のように紹介している。《クラブができたばかりのころの田園調布双葉チームは試合にのぞんでも、たいていがコールド負けという”出ると負け”のチームであった。 ところが、3年生の夏の区大会では様子がガラリと変わった。「初戦はラッキーな勝ち方でした。相手チームのピッチャーがファーボールを続けて、自滅したようなかたちで・・・・・・。それで勢いがついてしまったんです。オワ(雅子さまのこと)の打順は3番か、5番で、ホームランや長打でt-無の得点現の一人でした。守備ではサードを主に守っていました。とにかく肩が強く、たびたびピンチを防いでくれました。あわてずアガらずのタイプだったから、舞い上がっているみんなに声をかけて、どんなピンチでもコンスタントにプレーできる人でした」と、ソフトボール部時代の友人と話した。明日に続く・・・・・・。
2005.09.18
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皆様の 理想の女性は どなたですか。私の場合は 一番は妻ですが、妻以外の女性では やはり 雅子さま。雅子さまといえば皆さんは何を創造しますか?私は 雅子さまイコール スポーツ少女です。中学時代は大変スポーツに熱中されておられます。「ソフトボール抜きにしては語れません。ソフトボールに明け、ソフトボールにく暮れる日々でした」と、ご家族は知人に話されたという。雅子さまに 通われた学校は東京都世田谷区にある。東京都と神奈川県堺を流れる多摩川にほど近く、川沿いには巨人軍のグランドがある。雅子さまは休日に巨人軍のグランドに出かけられ、プロ野球選手たちの練習を熱心に見学、自分も野球がやりたくなられた。「そうだ、友達を誘って学校で野球をしよう」しかし、学校のグランドは野球に使うほど広くなく断念。ソフトボール部を作ろうと学校に働きかけ、ソフトボール部を誕生させた。雅子さまは主力選手。続く・・・。
2005.09.18
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「子は親の鏡」けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになるとげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる不安な気持ちで育てると、子どもは不安になる「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる子どもを馬鹿にすると、引っ込みじあんな子になる叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう励ましてあげれば、子どもは、自身を持つようになる広い心で接すれば、キレる子にはならない誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ愛してあげれば、子どもは、人は愛をすることを学ぶ認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ親が正直であれば、子どもは、思いやりを学ぶ子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ和気あいあいとして家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになるドロシー・ロー・ノルト 1954年50年代のアメリカでは、子どもを厳しく叱ることが親の役目だと思われていたそうだ。子育てで大切なのは、子どもを導くこと。子どもは親を手本として育ちます。親の姿こそが、子どもに最も影響力を持つ、ということを学んだ時、野球の指導もそうなのではと思った。そして、子どもに野球を教える以上、私もプレーし続けよう、その姿を通じて 子ども達に野球の楽しさが伝わればと思うようになった。私の 指導理念が少しは伝われば 幸いです。
2005.09.18
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本日 DAISUKE&ユウユウの保育園運動会。ユウ は先生にだかれ走った。いつもは早いらしいが、その正体をしらない。DAISUKEは2番だった。我が子の中では今までで最高順位。私の同級生の MIYAZONOの長男もDAISUKEと 同じクラス。このMIYAZONOと私は 高校の1年から3年迄同じクラス。現在は ソフトも同じチーム。そのうち軟式も同じチームになるだろう。そしてマスターズ甲子園では同じチーム。極めつけは 子供が同級生。私は今だに打撃フォームを チェックしてもらっている。二人の子供は来年 新1年生になる。さっそくソフトボールの練習をしているらしい。その子は足も早い。私はDAISUKEは 小学3年ぐらいに入部させようと思っていたが、どうもそうはいかなくなるかもしれない。このMIYAZONO 野球センスもバッチし。教え方も上手いです。来年我が子のチームは 頼もしい父兄が又増えます。まずは早速 上級生を指導してもらいたい。足は私のほうが速いはずだが、走るのを教えるのも上手。子供は1番だった。運動会で暫く一所にいたが、話題はやはり マスターズ甲子園の事。鶴丸が決勝でぎりぎり負けた。俺達があの時勝っていればと悔やんだ。後の祭り、子供の運動会のはずが 試合のプチ反省会になっていた。でも 子供達よしっかり 見ていたからね!
2005.09.18
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マスターズ甲子園 第一回 鹿児島県予選 優勝は 鹿児島実業でした。定岡さんも 甲子園には行かれるのだろろうか?詳しいことは 政さんの記者の本音でどうぞ昨日はダブルヘッダーだった。層が厚い 鹿児島実業に軍配は上がった。本音を言うと 今回は 鶴丸高校の方々の誠意で鹿児島県予選を開くことが出来た。私達 鹿児島商業が負けたのは 大変な 屈辱であったが 鶴丸の方のご尽力を考えると 是非 今回は 進学高OBの皆様に甲子園にという思い出応援していた。只 鹿児島実業のOBも 現役が最近振るわないので OBが結果を出し 勢いをわけてあげたいと 熱が入っていた。甲子園に出場出来なかった世代が中心に チームをまとめ上げたと聞く。実際プレーされたかたは 高校時代甲子園の土を踏まれた方もおられたかも知れない。いずれにしても 今大会 いくつになっても 甲子園は聖地なんだなーと 改めて感じた。来年こそは 我々も 甲子園を出場を果たしたい。
2005.09.18
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陽光学園に 入学しようという話になった。私は もう社会人として 仕事をしていた。妻は婦人警官になるために公務員学校か 日本女子体育大学を目指していた。しかし ある日 陽光学園に行くと。私は 行く予定は無かったが、母からも進められた。父は反対したが、最後はしっかり勉強して来い。関口さんの元でしっかり商売を学んでこいといわれた。2年で 鹿児島に帰る予定が、卒業後 関口氏から家業と関連の仕事を任せられた。鹿島建設や 三井建設、コンサルタント会社 三井造船 その他の方々と仕事をさせて頂いた。家業をそのままついでいたらなかなか経験できないような大きな仕事を体験させて頂いた。いろいろな技術を学ぶ事が出来た。家内はその間 関口氏関連の仕事を東京、神奈川し、陽光学園の流れで ニュージーランド アメリカに留学した。私も 職務の関係上 タイ、アメリカ、台湾と回った。そして、半年程ではあったが陽光学園が 学校法人になるという事で 職員としてお手伝いをさせて頂いた。将来は 高校もつくり 甲子園に出場すると。理事長が 校歌の歌詞を考えた。作曲をまかされた、陽光学園卒業生は元 巨人の星や 暴れん坊将軍の主題歌のトランペットを吹いておられ 自分でも一時学校を運営しており、N響で活躍された方。その方に 理事長は 甲子園にふさわしい曲をと依頼した。高校が出来たらコーチとして使ってやるといわれ、血が騒いだ。その時期 妻との婚約が決まった。結婚後 理事長の秘書を 3年間させて頂いた。大変 貴重な時間だった。この3年間が私の人生を 考え方を変えた。又 この時期 いつ高校が出来てもいいように 陽光ベースボール倶楽部を作った。各種大会に出場し優勝した。その後 3人目の子供を授かったことをきっかけに、鹿児島に帰り 父の仕事もお手伝うようになった。私は 家業の建設とは別に 庭園管理や ITの事も知識を高めていたので主にそちらを担当するようになった。もちろん 野球はいつ高校が出来てもいいように研究を進めた。それから現在にいたっている。※ 私の履歴書 順調に進んでます。誰も興味は無いかも知れないが、自分の体験を元に 将来 本を書いてみたいと以前から思っていた。現在 時間を見つけては自分を見つめなおす事も含め 原稿のねたをあれこれつづっています。このサイトが出筆活動の種になってます。このサイトを元に 少年野球に対する指導方法、高校野球の問題点、大人になってからの野球の環境等の考えも提示していきたいと思っている。多分 このような経緯があったから 吉田隼人は野球に対する このような考えをもっているんだと 理解できるような冊子を目指しています。将来 子供が読んで ”親父ってこんな人間やったんやー”と思ってもらえるような本。又 この本通じ 自分の子供達に何かが伝われば幸いです。123456789計チーム夫1000000001チーム妻0000000000
2005.09.17
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妻は 私の顔を見たとき どこかで見た事があると思ったそうだ。私が今だに親しくしている、MIYAZONOは甲子園で5番で甲子園の星にも2ページに渡りでかでかと載るような人気者になっていた。1年から3年迄たまたま同じ組だった。体育祭の時 野球部紹介があり その後 ユニフォームを着たままクラスごとに写真をとった。その写真は何故か 一部に広まったようだ。(犯人はわかっているよH君)もちろん みんなMIYAZONOが目当てだが その写真に私も写っていて、この人知っている 写真で見たとよく言われていたが、その写真を家内も友達から見せてもらっていたようだ。家内は キリスト系の学校でなぎなたをしており、インターハイ3位 国体にも参加していた。となればどうしても 私の野球の事を聞かれる。話をしているうちに その当時の生活と 高校時代の生活のギャップに気付き、自分の人生を考え直す機会に巡り合えた。このままでいいのか。自分は何をしたいのか。そのころの私は 仕事も 遊びも一所懸命がモットー。20歳そこそこで 上司に連れられ 月一ではあるが、市内で一番高い会員性のクラブや料亭にかよい、スナックに連れていかれた。大理石の仕事で 20歳そこそこでそんなとこに出入りする。そこでも少し年上の女性は 興味を示す。夜の世界の仕組みをその時知った。居酒屋なんていったことない。とにかく一番高い店。今ではそれらの店も普通の店になっている。世はバブル。だから 余計 妻と出会った時は 衝撃的だった。
2005.09.17
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20歳になった時 妻と知り合った。年はつした。私の母とは以前から 親しかったようだ。母が通っていた ボランティアグループに来ていたのだ。母は若いのに関心と 仲良くなったようだ。そのグループの会に私も参加させて頂き知り合った。タバコを吸っていないという事が衝撃的だった。自分の周りには タバコを吸う女の子や 女性が当たり前のようにたくさんいた。話を聞いていると 住む世界が違うと感じた。こんな純な世界もあるのだと。そして芯もある。さすがお嬢様学校の子は違うと思った。
2005.09.17
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野球部の先輩が可愛がってくれた。DCの洋服屋にいっても 鹿児島商業の野球部だったの 俺も、という感じだった。あるとき警察の方にお世話になり 夜中に声をかけて頂き、次の日の夕方迄 お話をする機会があった。(これって取調べっていうのかな?)野球部ではなかったが 柔道部の大先輩だった。その方は 私を信じてくれて、結局お咎めなしとなった。友人から いいタイヤが捨ててあるから取りにいこうと。仕事が終わり、夜 そのタイヤを車に積んで 帰ろうとしたら、検問をやっており、「このタイヤ どうしたのか」と「捨ててあったから、もっていく」どこから「あそこです」「あそこは○○さんの家の敷地だ」「えっ」「あそこは車屋の資材置き場だ」「ウソ、あんなのが、単に捨ててあるかと」(良く考えたら あんないいタイヤが捨ててあるわけない)結局 警察の方に説明しても 知っててわざと盗んだという事になった。それで結局1日警察に。友人とその彼女と私。別々の部屋でお話を聞かれた。私と 友人は彼女は何も知らないから関係ないといい早めに返してもらった。彼女も私は何も知らないと 3人と口裏を合わせたように同じ事を。これが 取調べ室かとか これが地下かとか これがトラが入るところなんだとか、いろいろしなくてもいい社会勉強をした。結局 警察の方かわるがわる話をした、「今なら前科は一つですむぞ」「他にもあるんだろ」等々。ちゃんと説明してもだめ。頭来て、「ないといったらない!」といったところで 高校の先輩にあたる方と話が出来た。信じてくれた。朝取ってくれた ラーメンを脇に話をズーっと聞かれ 先輩の登場でやっと ラーメンを食べれたのは夕方。のびたラーメンを涙ながらに食べた。友人も他の部屋でそうだったらしい。その間 飲まず食わず。「これじゃ いやでも やりましたといいたくなるわなー」と思いながらも 野球で鍛えた根性で?(こんな時はいらんかな) 見事 無実を証明した。今なら完全に訴えてやるの世界だ。只 このときの警察の駆け引きは非常に面白かった。ちゃんと目をみて、まるで 投手と打者の心理戦。こんなことやったから長くなったのだろうか?同じ事を何度も聞いてくる。大体 警察の手口は判った。このころから 警察が嫌いになった。しかし 今では 警察の方とも良好な関係を築いている。鹿児島商業は柔道、剣道が強いので警察官になる方が多い。どこに行っても 学校の先輩は後輩を大切にしてくださる。親は引取りにはこなかった。仕事が忙しかった。(本当です)おじさんが迎えにきた。家に帰ったら両親は 笑っていた。よっぽと信用してくれていた様だ。”父はお前も俺の子だな”と どういう意味だったのだろう。知り合いからは鈴木なんとかさんの”20代に読んでおく本”というのを頂いた。このおじさん卓球で日本一になった方。今でも鹿児島では理事をされている。あの時は お世話になりました。お蔭様で、今はこんな真面目な? 人間になりました。って 本当に悪気があったわけではなかった。人生の中で最大のイレギュラーだった。このおじさんも実は鹿児島商業OBです。本当に先輩がたには頭が上がりません。
2005.09.17
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高校卒業前後から マハラジャや プールバーに通うようになった私は(20代以降全然いってません。世はその後ジュリアナに変わりましたので、さすがに扇子はふれません)、ファッションと 音楽の世界にも興味を頂くようになった。音楽はデェビットボーイや マドンナ シンディローパー 和楽では レベッカ ボーイ 渡辺美里(マイレボリューション) モッズ 外せないのが YAZAWAだ。システムコンポもバイトでお金ため凄いのかった。CDの出始めであったが、父の仕事を手伝い買った。父の仕事は小学時代から見ており 中学時代は バイトで現場にもよく行った。(今思うと労働基準法上 違法だったのかな?) しかし 一番こったのが ファッション。なんせ マハラジャに入るときは 服装チェックがある。私たちの流行は 上から下までビシッと決めるが、靴はラバーソウルを履いていく。店の入り口でチャックがはいる。しかし 店も商売 どうしても入ってもらいたい客には 靴を貸してくれるのである。これがいわゆる店から望まれているか いないかの目安になる。他の客は決めていてもなかなかが入れないのに、われわれには店から靴かしますから是非となる。変な優越感!私達はまずスタイルが違う。野球やっていた為か ヒップが上を向いていた。(らしい)野球選手が ファッション界で活躍する時期があったが、納得できた。それに 服はいつもにニコルかビギ。75キロあった体重も 60前後まで落とし、まるで芸能人?なみに。ちなみに身長は175センチ。目指すはビーバップハイスクールで有名になった、清水こうじろう。髪型もまねた。高校の同級生が マハラジャ黒子の一番人気になっていたので 良くしてもらった。ハッキリいて 今思うと 弾けたように 馬鹿ばかりしていた。
2005.09.17
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先ほど書いた 白球魂 この言葉は 同世代の甲子園優勝投手 天理本橋選手が 鹿児島商チームメートの色紙にサインをしてくれた時の 言葉です。高校時代 その友人の家に遊びに行ったとき その色紙をみて知りました。今でも好きな言葉です。同世代は 天理が甲子園で優勝。私たちの一つ上は KKコンビのPLが優勝。一つ下は立浪、片岡のPL。3年連続宗教系の学校が優勝。宗教系の学校って何かが違うのではと感じた。昔逆転のPLと甲子園で騒がれていたとき、よく選手が 手を胸に当てていた。子供達の間では、お守りを胸につけ打席に入るとき ピンチの時など 胸に手を当てるしぐさが流行った。もちろん私もした。そのことを思い出した。甲子園には 神社がある。その名も甲子園神社。本来は スサノオ神社というらしい 神話に出てくる、スサノオノミコトを祀っているとの事。阪神星野元監督は 明治野球部時代 同校監督に「みっともないプレーをすると野球の神様に申し訳ない」といわれていたそうだ。又、だれもいないグランドに 頭を下げ続けてきた私たち。良く 心・技・体といわれる。外国では フィジカル・メンタル・スピリチャァル(イチローの本より)を重視されるとの事。スーパープレイヤーイチローの事を修行僧というものもいる。父ローは浄土宗を熱心に学ばれている方と聞く。わが家は浄土真宗だが、京都の西本願寺には 父ローの講和のテープがあった。中学、高校とボール縫いをよくしたものだ。その時、数えたわけではないが、野球の硬式ボールの縫い目は108といわれている。良く 煩悩を取ると仏教でいうが、その儀式の一つ 除夜の鐘の回数となぜか同じ。野球と精神性は どうも深い関係があるようでならない。合掌(久しぶりに 真面目な事書いてみました)
2005.09.16
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高校卒業してから 球と棒を見ると(ビリアードの事です 笑)妙に燃えた。タイミング ボールの当たる位置 強さ 角度 相手との駆け引き。いつも野球を置き換えて楽しんでいた。そう 野球は2度としないと誓ったのに、頭は野球を応用していた。正直 このころ ビリアードかボウリングのプロになろうかと本気で考えた。最初100行かなかったボーリングも 得意のサブマリンですぐ180台に 悪くて140前後。友達に誘われ 行きつけの店も 沢山出来、知り合いも増えた。どこにいっても 何故か 鹿商で野球をやっていたやつと紹介される。甲子園いったのとか いろいろ聞かれ そのたび 僕はレギュラーじゃなかったからと答えていた。でも レギュラーじゃないのに何故 野球続けたのと良く聞かれた。この質問 私が小学生の時 鹿児島商業のグランドでレギュラーでない選手に同じ質問をしたことがあった。今思えば 大先輩にあたる方なのだが・・・。その大先輩は ”ココまで続けてきたら止めたくない、野球好きだから”といわれた。今思うと 大変失礼な事をお聞きしたと反省している。私も友人に ”野球好きだから続けた”と答えた。ジャーまだ野球続けるのと聞かれ もうしない 好きだけとしない。このころから 自分の中で矛盾が生じていた。何故野球好きなの、何故続けたの 本心は 好きなら何故しないのと 無理をしている自分がそこにいた。私は 逆に鹿児島大学に進んだ友人に「いつもこうやって遊んでいたんだ。いつも楽しくていいね」と聞いたら、”俺たちは 夢中になれることがないから、しょうがないから遊んでいたんだ。おまえの方が羨ましい”といわれた。他の 野球やっていなかった友人や 女の子達も”そうそう”と口をそろえた。一瞬”えっ”て思った。そうなんだと。何をやっても 長続きしなかったり、いろいろなことに夢中になれなかったそうだ。また 挫折を味わうとすぐ止めていたと、大方のものが言っていた。正直”へー”と思った。俺って 打ち込めるものがあって幸せだったんだなー、そんなものなんだと その時思った。
2005.09.16
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高校3年生の時 国体が終わり一息ついているとき、良く友達の友達にいろいろな遊びを教えてもらった。卒業前後には よくディスコ(現在のクラブ?)にも連れて行ってもらった。鹿児島にはキャッツアイと スクランブルシティー ジェイコネー そして マハラジャと 当時次々に出来ていった。お金があるときは マハラジャ ないときは キャッツアイとかみんな使い分けていたようだ。ユーロビート系の音楽が全盛期の時だ。その他 外人さんが集まるプールバーにも よくいった。年上のお姉様から良くナンパされた事を思い出す。何故かこのころ 年上の女性から良くお誘いを受けた。高校時代は 自分の学校そっちのけで 我が校の体育祭に来ている子、高校生・中学生などもいた。いわゆる甲子園ギャル?。甲子園でも 沢山の知らない子から声をかけられたが、鹿児島でも凄かった…写真責めが。僕はレギュラーじゃないといっても、いいですから一緒に撮ってと。しかし「あそこにレギュラーいるよと」伝えると「どこどこ、あ あの人だ ありがとうございましたー」とこんな感じの時もあった。(笑)結局何でもいいんだと。当時 定岡さんいらいの 甲子園ベスト4ということで 鹿児島では相当騒がれた。甲子園の星や熱投甲子園など、やらせもだいぶさせられ、こんなモンなんだと改めて感じた。本当に 鹿児島では 一時社会現象になった。ある面 ありがたいことだ。どこにいっても 甲子園に行き騒がれた年代の子というのがやけに受けていたようである。よく相談も受けた。私の彼氏は 野球をやっているが 休日も野球ばかりやっていて デートに誘ってくれないとか、誘ってくれても野球場とか。そんなのばっかりだった。真剣に野球やってた人 遊びしらんのかというぐらいこの事で悩んでいる女性が多かった。僕は野球はもうしないから 良くわからないと答えていた。野球はしないと決めていたから・・・。続き…打ち込めるものがあるって幸せ? 2
2005.09.16
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2年ほど仕事をした。内1年は 建築石材の営業を。月 1千万円がノルマ。時代はバブル、20歳前の私でも 目標達成できる日が多くあった。途中免停になり その間は 大理石の加工工場で。暇があるときは 素振りをするようになっていた。それから いろいろあり 熊本に暫く行き 家業を手伝うようになった。そのうち 家内と出会い、静岡の学校に行くようになった。父が元気だったので もう少しいろいろ勉強させて頂くことになった。父が 尊敬していた方の一人 それが関口氏だ。関口氏のことはいずれお話する。関口氏は 精神的なこと、実践力 行動力その他 いろいろな面で 若者を教育されていた。当時 鹿児島といえば 京セラの稲盛会長のことが大変話題になっていた。稲盛さんも 仏教を中心に 精神論を重視し 稲盛教 といわれるぐらい 京セラは その会長の精神性が 浸透していたらしい。父には稲盛会長や ソニーの盛田会長や、松下幸之助の本をよく読まされた。実際 松下幸之助さんには 父は指導を受けた時期もあったようだ。会社を経営するには 精神論をしっかり学ばなければ駄目だと考えるようになった。その頃から さまざまな ビジネス書 経営者の書籍 営業の本を読むようになった。静岡の専門学校を2年で卒業し 関口氏の関連の仕事をさせて頂くようになった。続く・・・。
2005.09.16
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19歳の夏 仲間から 遊びで ソフトや 軟式の野球を誘われた。人数がいないからと。実はこのころ野球をしたくてうずうずしていた。でも野球はやらないと決めたからと・・・。只 人数が足りず おつきあいで試合に出た。軟式の試合だった。試合が始まると夢中になった。試合に出て こんな 野球の楽しみ方もあるのかな?と思った。これからは 遊びで野球をするということなら 野球の神様も許してくれるかなと自分を慰めた。軟式だから いくらがんばってもプロになることはない。それにしても、何故 硬式の倶楽部チームが鹿児島にはないのか、何故硬式の草野球チームがないのかふと疑問に思った。又 なぜ 少年野球のような大人の倶楽部チームがないのかとも・・・。
2005.09.14
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甲子園夏の県予選前 小学 中学時代 お世話になった方々から 高校ではレギュラーにはなれなかったが、社会人で十分通用する、紹介するからといわれた。お世辞だろうと思って断った。大学にどうしても行きたい学部があった。もしくは 九州産交に行きたかった。父に両方とも 反対された。秋になり 友達に たばこを勧められた。その時 ”俺は野球をもうしないと”決めていた。野球をやる限りは たばこは絶対吸わないが信条だった。野球を止める決意として たばこを吸った。咽せることもなく吸えた。結局 数校大学を受けたが 父の仕事を手伝うことにした。只 しばらくは知り合いの会社で 建築石材の会社で 大理石 建築を勉強し、家に戻った。
2005.09.14
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高校は 家から徒歩で25分ぐらいのところだ。夜の9時過ぎに 自宅につくと飯を食い、ベランダで 200球 機械でティーバッティングをし、それから5キロ~10キロ毎日走った。おかげで 出る試合では 必ずヒットを打った。打数が少ないこともあったが アウトになったことはない。足も 回復し 俊足のチームメートにも 見劣りしないようになった。恒に1軍と練習し 遠征にも連れて行ってもらい、試合にも出場した。が それ以上に 正選手は結果と 実績を残していた。死ぬ気でやって 駄目なら 高校で野球を止めると決めていた。その代わり私に取っては 最後必死だった。
2005.09.14
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「☆名門・強豪高校のデメリットについて」を読んで ふと考えさせられた。何故 今私が 野球にこうして携わっているのか。実は 私は1度野球を止めた。2度と 野球には携わらないと思った。家業の建設をしている。商業高校を選んだのは 甲子園に行くため プロに行くためだった。只 父は 建設業といっても 仕事は商売、経理ができんと商売は出来ない。建設の仕事は 後で学べるということで 家業は建設業に関わらず 商業高校に進学させてもらった。結局 高校では 正選手になることは出来なかった。入学早々 体調を崩し遅れた事が原因で 3年生にやっと追いつけそうだったが、駄目だった。そのころは 遅れを取り戻そうと、死にものぐるいで練習した。
2005.09.14
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私達が うねりとかいう言葉を知らずに うねりの大切さを教えられていたのかなという練習方法をひとつ紹介します。只 文章では 非常に誤解を受けやすいですので、アレっと思われる方、どうぞご指摘をお願いします。よく ノンステップで ティーの練習しましたよね。現在 後ろ足に体重を残して 打つ練習してます。今日の朝 何気なくノンステップで ティーの練習 しました。その時 多少足も開いたりして、いろいろなスタイルで。その時 思いました。そういえば 昔 こんなことさせられていたなと後ろ足に 体重を残し バックスイング(ためと表現したほうがいいのだろうか)いわゆる”2”のタイミングの状態から ボールを打つ。ステップしない分 右打者なら 右足親指の部分で蹴り つま先立ちになるぐらいに ボールに体重をかけ体を回転させないと 勢いのあるボールは打てない。ピッチャーでも 大きく足を広げ 投げる練習したりした。ノンステップのまま 反動をつけ投げる。その時 うねる状態を作らなければ いい投球、打撃ができない。うねりを考えずとも この状態で 正しいフォームを作ろうと思うと 自然と うねっているのだ。昔から うねりとは いわれずとも 別な形で うねりは教えられていたのかなと感じた。そういえば 手塚氏も 自分の理論は 新しい理論ではなく 好打者 好投手の共通点をいろいろな方法で 表現していると本に書いていた。今も 昔も 多少の 違いはあるにせよ 素晴らしい打撃をしているときは 同じなのだなーと改めて思わされた。 あと 一流の指導者は その子にあわせ いろいろな引き出しを持っているそうだ。その子の 変な癖を いろいろな方法で 無理なく 正して いいところをどんどん伸ばすことが出来るそうだ。なんともうらやましい限りである。そうなりたいものだ。みんなで知恵を出し合い いろいろな引き出しを 学べたらいいですね。
2005.09.14
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★トップチームプロデューサー代表SHIMAの日記★ 元甲子園球児のアマチュア野球革命! DREAM CHAMPLE で新サービスがスタートしました。その名も 個人野球指導です。(そのままの紹介ですいません。汗)代表SHIMAさんの私書箱にどんどん相談下さい。時間に余裕がある時限定とのことですが 大変わかりやすい指導をされます。是非 ご利用を!!又 ★甲子園球児プロジェクト★ 第1弾企画『★夢・憧れの甲子園を30分で目標に変える技術!』 代表SHIMAさんがまとめた小冊子発売中です。発売以来 大好評!是非ご一読を!!
2005.09.13
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マスターズ鹿児島県予選大会は 来週 鶴丸対中央鹿児島実対鹿児島工業でベスト4 2試合が行われる。本当なら 鹿児島商対樟南というのを予想していた。決勝は勝者と鹿児島実かと。今大会 鹿児島商、樟南は 進学校の鶴丸 中央に惨敗をした。鹿児島商業OBの大先輩に 御挨拶に伺った時 「昔もそうだった」と教えて頂いた。野球校は 高校卒業後大学 社会人野球 もしくはプロになっても 意外と指導者(中学、高校の先生及び監督)になるケースは まれである。その点 進学校は 大学で野球を続け その後 指導者になっておられるケースが多い。そして 現役の 中学生や高校生を教え、又自分もそこでプレーを体を動かしているケースが多い。特に 20代 30代の監督ならなおさらだ。時には40歳 50歳で高校生に負けないぐらいお元気な監督さんもおられる。進学校は 野球校に比べ 部員が少ないので OBの方々がまめに練習をお手伝いされたり、教育実習に来たり、OB対現役の試合をされているケースが多いようだ。つまり 常日頃から 硬式に携わり 高校生の若い気に触れ プレーするきかいが多い。その点 野球校は 軟式などで プレーはしているが、打球の距離感等が若干違う。その為か 一人一人の能力は やはり朝から晩まで 高校時代野球をしていたものが 高いが 体の動きが 普通校がいいというのだ。確かにそれは 先日感じた。例えば プレーの流れは 綺麗なのだが 早さが 少し遅い場面があったり、ぎこちない捕球や フォームではあるが ちゃんとアウトにしたり、得点したり。技術的には 学生時代から野球ばかりして 社会人になってからも野球をやっている人と 学生時代 しっかり学業を積まれ 社会の中心で活躍されている方の差だから、事実と認めざる終えない。しかし、試合では 常日頃から 母校を中心に 多少なりともOB活動をされていたところはまとまりの質が違った。又 進学校は バッシッと ユニホームをそろえ意気込みが違う。野球校は鹿児島実業以外は それぞれのチームのユニホーム。当初 甲子園が決まったらそろえようと話していたが、その時点で意気込みが違う。我々は 甲子園に出たことあるから、進学校は どんなことをしてもいきたいと凄い勢いだった。又 チームメイトには 相手の道具をみて 気合いの入り方が違うと言っていた。私を始め数名は そんなこと気にもしていなかったが・・・。そういえば 春の甲子園で 高津の広島工業に負けたとき 強いチームは道具が違ったと、気後れしている選手がおり、夏の大会は 不安要素を全部取り除くため 道具だけは 全部一番いいやつを用意した記憶がある。その結果かどうか、中学時代 全中(私は正直軟式はよくわからない)優勝した長谷川の東洋大姫路他 多数の甲子園常連校と対戦したが 全然気後れしなかった。 しかし ベストの4の天理は凄かった。只 もう少しで挽回できる状態までいったのだが・・・。本橋投手が素晴らしかった。来年は 専用のユニホームをそろえ 今年の内から母校で練習をする計画を立てた。勝つために やはり守りでも攻めでも連携プレーが必要だと。後 投手と 外野のフライの距離感。このあたりを抑えると 条件は五部と五部 来年はチャレンジャーとして マスターズ甲子園予選に臨みます_(._.)_(*_*)(@_@)(=_=)m(_ _)m(-_-;)(-_-)(^_^;)(^_^)(^o^)(^_^)v!(^^)!(気持ちの変化 試合後 → 現在 → 将来のイメージ)
2005.09.13
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現在 鹿児島では 高校 大学を卒業すると 硬式を使っての野球は出来ない。すなわち 鹿児島県内からは高校、大学からプロに進む以外は プロになる道はないということだ。鹿児島は とても野球が盛んな地域だ。なのに硬式チームは 鹿鉄が国鉄からJRになるとき 廃止され1チームもなくなった。現在は欽ちゃん対戦したホワイトウェーブを クラブチームにという話もあるが、これがなかなか大変なのだ。実は 私も 鹿児島に倶楽部チームの設立を考えていた一人だ。問題は 資金面と 練習場の確保だ。そこで 目をつけたのが 少年野球の運営方法だ。鹿児島には30近い硬式少年野球チームがあるが これは全部 部費でまかなわれている。少年野球の大人版を作れば いわゆる 独立リーグに近い形で 費用も何とかなる範囲で出来るのではないかと思った。現在ある 少年野球のOBチームで対抗試合をしてもいいと思っていた。昨年実は 少年野球のOB試合を 中学時代お世話になったチームでさせていただいた。以前ヤクルト2軍がキャンプに使っていた湯之元球場を使用した。その時の感想は やはり硬式は楽しいというのが皆の感想だ。昨年それを企画した時は、私が鹿児島に硬式のクラブチームを作りたいと思って声をかけたことは誰も知らない。只 少年野球の中学部のグランドは どんなに専用グランドあり広くて 環境が整っているといっても 所詮 中学生レベルなのである。大人が使えばらくらく場外ホームランになってしまう。練習は そのようなところを使い試合は球場を使う。只 参加チームが集まるだろうか、等々思案していた。その矢先 マスターズ甲子園の 鹿児島県予選の話が出てきた。又 欽ちゃんもGGも鹿児島に来るということで鹿児島に大人が硬式野球を出来る環境が整った。只 これはあくまで 高校 大学 社会人 プロを引退し 一線を退いたものの大会だ。これで活躍し 上を目指すという趣向のものではない。子供達のプロへの夢を広げるためのものではない。只 今回の マスターズ甲子園を目指し 各校がOB代表チームを作った。これを機に 定期的に 県内OB有志のチームで リーグ戦をしてはどうかという話が出ている。マスターズ甲子園は 基本的に 34歳未満のチームと 35以上のチームで構成される。今回 鹿児島は35歳以上が盛り上がり 予選でも4回以降に30歳が出場できるというルールにした。マスターズ甲子園のルールは 予選参加チーム全校で決めなければならない。が、有志リーグ戦に関しては 高校卒業後 大学 社会人 プロ等で野球を続けないものは 登録して 各校のOB大会を いわゆるプチ独立リーグもしくはミニ倶楽部チームの大会をしてはどうだろうかと現在考えている。そこで 社会人や プロに進める選手も出てくるかもしれない。事実 先日のGGとの鹿児島選抜チームの選手 プロの1次試験ぐらいには楽々通る選手がごろごろいる。もちろん 鹿児島県内には 鍛えれば面白選手がたくさん要るそうだ。只 それを高める環境が現在ない。だからみんな 軟式倶楽部チームやソフトボールチームをやるしかない。もし鹿児島県の軟式チームが 硬式チームなら 立派な独立リーグになる。状況に応じては上でやる選手も出てくるだろう。もちろん軟式チームを硬式に変えるわけにはいかない。だから高校OBチームを通じ それを発展させた鹿児島オリジナルの社会人野球チームがあってもおかしくないと思う。高校のグランドなら 十分練習 試合はできる。道具もある程度問題ない。現にマスターズ甲子園はそれで進めてきた。実は 鹿児島オリジナルの社会人野球チーム 微力ながら活動を進めている。どうなるか 楽しみだ。四国の独立リーグや テレビに出てくるような倶楽部チームではないが、以前は 鹿児島にそのような大会があったそうだ。高校のOBチームのを試合を市民球場でし 入場料を頂いて試合をしていたというのだ。しかし正月にあったため、寒さの関係か いつの間にかなくなったと聞く。オールドファン達は高校野球とは違った楽しさを味わっていたようだ。プロがない鹿児島らしい。私達は お金を頂いてとまではいかないが 気楽に軟式やソフトチームをつくり、真剣に野球やソフトをやっている感覚で硬式野球が出来たらなんと楽しいことであり35歳以上はともかく 19歳~34歳のグループでは あわよくばプロや 社会人野球に進む選手も出てくるかもしれない。考えただけで楽しい。その選手が 後輩にあたる現役選手のをバックアップしていき、鹿児島の高校野球のレベルアップにもつながるような活動が出来ればなんと楽しいことだろう。現在マスターズ甲子園では この大会を通じ 母校を中心に地域の活性化ということもプランにあるようだ。まさしく 我々が考えていたことにピッタリだ。確実に風は吹いている。又 現在 国体には 40歳以上の軟式の大会はあるが 硬式の大会はない。そこで国体に 40歳以上の硬式大会を盛り込むことは出来ないだろうかということの話題が挙がった。こちらは漠然とした話だが、野球はやはり硬式でするのが本当だろう。軟式は本来 日本がまだ貧しい時代、なんとかして野球が楽しめるようにと作られたボールだ。現在は日本はこれほど豊かになった。野球発祥のち地 アメリカ(イギリスクリケットがという意見もあるがアメリカによってそれは現在定説ではなくっている)には軟式ボールはない。硬式の多少やわらかいボールで 小学生などはベースボールを楽しみという工夫はされているが これもボールも日本にもいくらでもあるぐらい時代は変わった。只 軟式は日本人に完全に定着しているのでこれをどうこういうつもりはないが、硬式ボールで野球をやりたいと思っている方は沢山いることがマスターズ甲子園を通じ改めて確認できた。国体に40歳以上の硬式大会をという夢は まだまだ非現実的な話であるが こういうことは動き出すと早い。何とか実現したいものだ。明日は マスターズ甲子園予選 なぜ普通高が勝ち進んでいるか報告します。OBの大先輩に挨拶に行ったとき 昔 OB大会があった時のことを教えて頂いたが普通高が強かったというのだ、やはりそれには理由があった。よく考えると 今年もまったく同じ状況であることに気づいた。それがわかると 昨日負けた理由が ある程度ハッキリしていた。これ書くと 来年に影響があるかも知れませんが 書きます。それぐらい来年の対策は バッチリ立てました。普通高の皆様 来年は今年のようにはいきませんよ!!(関係者の普通高の、笑って聞き流して下さい。たんなる言い訳ですから 笑)SHIMAさん【9.12更新】
2005.09.12
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本日 マスターズ甲子園予選で使った道具をお返しするため鹿児島商業グランドにいった。その時 前野球部OB会長もいらっしゃり、昨日のことを詫びた。いろいろなアドバイスを頂いた。話の途中 対戦相手の鶴丸の喜びがサイトに載っていると聞いた。甲子園でベスト4し 国体優勝 鹿児島では負けなしのチームに 勝ったと書いてあったと。”君たちが甲子園で活躍したのは知っていたが、そんなに強かったのと”と改めて聞かれた、事実なので”ハイ”とお答えした。昨日の負けが始めてですと。来年も 我々を中心に 前後の年代を補強して チームつくりする方向性でいいのではと 言って頂いた。現 OB会長などともお話をしなければいけない。昨日の メンバーは みんな悔しがった。みんな 初の負けに 悔しい 悔しいの連発。誰を攻めているのではない。みんなが自分を責めているのだ。いろいろなルートで メンバーの昨日の様子が伝わって来た。その他奥様方のネットワークで メンバーの様子が伝わって来た。みんな 頭がめまいしていたり、ショックで半日寝込んでいたり、何かに当たってみたり。昨日は 試合後 ショックのあまり 簡単なミーティングをしてすぐ別れた。一晩 眠れなかった者もいるという。早速 本日 仲間の一部と連絡を取り合い 来年に向けての 計画を話し合った。絶対来年 優勝するためにどうしていくかということと、やはり 硬式は面白いということだ。現在 軟式をやっているものが大勢いるが やはり 全然楽しさが違うと。私は この年代の メンバーで 40才になった時 国体に出る計画を立てていた。よく考えると 軟式の国体はあるのに なぜ社会人の40歳以上の硬式はないのか。働き かけて国体で40歳以上の硬式の部を作ってはどうかという意見も出た。真剣に働きかけてみたい。とにかく 大人が 硬式で野球ができる環境が 改めて出来たということは大変なことだ。私は 高校、大学を卒業しても 鹿児島でプロを目指せる環境を作りたいとという夢を持っていた。野球高で選手になれなかったものでも、強豪高を卒業していなくてもプロを目指せるという環境だ。少し その風が吹いてきた。その風に乗っていけば 私の夢も実現可能だ。次は その今までのプラント これからの予想される展開、現在取り組んでいることを紹介したい。※ 野球の技術研究も忘れず 同時に進めています。鶴丸高校野球部応援サイトBBSより鹿児島商業にサヨナラ勝ち! 投稿者: ●● 投稿日: 9月12日(月)11時25分29秒 マスターズ甲子園 鹿児島大会 準々決勝鹿児島商業を見事破り 準決勝進出です。鹿児島商業は、S62甲子園ベスト4チーム。現役当時は、国体で優勝もしました。鹿児島県内のチームには、公式戦はもちろん練習試合でも負けたことがないという 信じられないほどの強さを持ったチームでした。試合の流れは、初回2本の長打で3点先行。3回表に2死から5点奪われ逆転。しかし、その裏、うまい試合運びで すかさず同点に!4回、5回を無得点に抑え迎えた5回裏 2死から押し出しで見事さよなら勝ち!(試合時間が1時間30分を超えたら次のイニングには進めないルール)初戦に続き緊迫の試合展開、見事 強豪鹿児島商業を下しました。実は、私もS62年組、1年から3年までの間に、鹿児島商工、鹿児島実業、玉龍、川内実業等には、勝ったことありましたが、鹿児島商業だけには、どうやっても勝てなかったですね。その鹿児島商業に勝てたといううれしさは、格別です。甲子園まであと2つ次の相手は、樟南を破った 鹿児島中央。17日土曜日 湯の元球場で 9時プレーボールもう一試合は、鹿児島実業 対 鹿児島工業この日のうちに決勝戦が行われます。つまり甲子園出場チームが決定します。念願の甲子園まであと2つ、鹿児島中央戦が 山になります。皆さん応援よろしくお願いします。
2005.09.12
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