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カメラはずっと、ウィルソンという男を追う。凝りに凝った映像の旨味がある。テレンス・スタンプという癖のある俳優を、スティーブン・ソダーバーグ監督が、真正面に対峙して撮りあげられた復讐劇。ドキュメンタリータッチの緊迫感、この監督の真骨頂である。出所した彼にもたらされた娘の交通事故死。どうしても信じられない。死の真実を探るためイギリスから飛行機で、単身、ロスへと向かう。1999年の映画である。1939年生まれのテレンス・スタンプが、映像を占領しつづけている。何かを考え、飛行機の座席に座る彼、アクティブなカメラアングルを独占して、腕を伸ばし銃を真っ直ぐ相手に向ける彼、ただ、立ちつくす後姿でさえも絵になっている。格好いいのである。シンプルすぎるストーリーに、細切れで挟まれる過去と現在と未来。綿密に組み立てられた展開を、力強くウィルソンは突き進んでいく。何も格好いい生き様を見せているわけでもない。アクションを堪能するには年齢が高すぎる。しかも、ソダーバーグ監督の旨さは、俳優の演技よりも演出の凄さが際だつことがある。だかテレンス・スタンプは負けてはいない。寧ろ、監督のレベルに応えて、ウィルソンという男を演じきっている。自分の存在感を悠々と見せつける老優。格好いい、はずである。凝りに凝った編集は、ウィルソンと娘の心象風景を描き出す。父親の胸にあるのは、いつまでも愛らしい娘。だが、女になっていった彼女は、ロスの街の暗闇の餌食となってしまった。悪役を演じるのはピーター・フォンダ、キャスティングの妙味である。凝りに凝った映像の旨味。実はそれがソダーバーグ監督作品と観客の距離を作ってしまうことさえある。細切れで挟まれる過去と現在と未来。綿密に組み立てられた展開。父親の娘に対する幻想が哀しく表現されるが、旨さが際だち過ぎているのも否めない。最後の戦いのために、銃を持ち倉庫に向かうウィルソン。60歳の老優が単身、敵陣へ乗り込んでゆく。ドキュメンタリータッチの緊迫感、派手ではないが見事な銃撃戦に舌を巻く。やはりテレンス・スタンプは格好いい。
2005.02.28
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明日は、今日の続き。やり残したことをそのまま引き継ぎ、終わらせるために日常を続けてゆく。終わらせるために、と、何だかの結末を見つけ出すために。母、常磐の生き様を納得した時、遮那王はやり残したことの結末に辿りついた。別れて暮らす母に心を残しながらも、子供の心には彼女が告げた別れを納得できない。源氏の棟梁、義朝に愛された女性が、平清盛に身をまかした経緯にもシコリが残る。だが全ては生き残るために。生き残るために。死んでは二度と会うことは出来ないのだ。鞍馬の寺の階段で別れた母と息子。常磐の選んだ生き様こそ、全て。彼女の辿った道を追えば、生きて可能性を信じる姿が浮かびあがる。明日は、今日の続き。出家すれば、彼の人生はそのまま続く。鞍馬の森の大いなる力に抱かれて、生ある限り歩む道の行き先は決まっている。簡単に辿りつける場所ではないが、遮那王が望む道ではない。だからこそ、彼は、決心していた。今日とは違う明日へと。その明日には、京の仲間はもういない。その明日には、母の姿はない。その明日には、清盛を父と慕う牛若丸もいない。だが、夢がある。福原の都に思いを寄せる清盛の夢。自分の夢を自分で見るには力がいると、父の言葉を胸に刻み、遮那王は道を変えた。今日とは違う明日へと続く道。伊豆では道を見つめる頼朝がいる。徳子の入内を巡る駆け引きと、維盛、資盛の都大路での烏帽子騒ぎで揺れる、平家、摂関家、公家の相関関係。距離を置き、時代を見定める彼の側には、北条政子がいて、さらに火に油を注いでいる。遮那王が選んだ道では、清盛は平家、彼は源氏の立場となる。これまで出会った人たちとも、再び会えるとも限らず。だが、生きていれば。母の縫った着物に袖を通す遮那王。もう彼は生き残ることで、新しい可能性があることを知っている。だからこそ、感謝の言葉が口をついてでる。たくさんの人に支えられて、今日まで生きてこれたのだから。
2005.02.27
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愛しているよ。どんなに言葉で言われたところで、100%信用できないもんだとわかってるのに、恋愛はいつのまにか生まれちゃってる。決定的瞬間、ありました?答えは、胸の中にあるんだろうけど。この映画を思い出すとチト、照れる。ケイト・ハドソンとマシュー・マコノヒー、魅力的な俳優によるベタベタの喜劇ネタ。アンジーとベンの初デートのかけ合いは、コカコーラを巡る男と女のすれ違い。スポーツ観戦は僅差になると俄然、盛り上がる。逆転のチャンスはぜひとも見ておきたいもの。だがアンジーは言う「コカコーラが飲みたいわ」なんとか買ってきても突き返される。「あーん、ダイエットじゃないと飲めない」男性諸君はドツイタロカ(関西風)と思うかも、だ。そもそも、二人の出会いは、恋愛をネタにした仕事絡みのギャンブルに近い。アンジーはハウツウもののコラムを書いていた。今度のテーマは失恋体験、猶予は10日間。一方、ベンは広告代理店勤務近頃の映画の中じゃ男性に人気の職業だ(余談)ダイヤモンドの広告を得たのはいいが、女性チームに制作を奪われて、腹立たしい。ということで、女性の気持ちのわかる男をアピール。パーティに自分に夢中の彼女を連れてくると宣言。やっぱり、猶予は10日間である。愛してる。だから、彼の部屋に女の子グッズを持ち込んで、赤ちゃん言葉で彼の相手をして鼻をチンとしてあげる。愛してる、愛していると、証明するために何があっても耐えている。自分の息子に女性の名前とつけられてて、遠回しに侮辱されてると気付いても。人に好かれる方法もマニュアルなら、人に嫌われる方法もマニュアルなのだ。愛してる、愛を証明するのも、破棄するのも、テクニックは必要なのだろうが、テクニックだけではどうにもならない、かといって「まごころ」なんて信用できないのに、恋愛はいつのまにか生まれちゃってる。相手を信用してなんかいないはずなのに、自分も信用されてるとは限らないのに、だ。愛が確実に伝わる方法はどこにもないのだけれど。アンジーのワガママを耐えてみせるベンと、彼を騙し続けることに嫌悪感をおぼえてくアンジー。10日間は短いか長いのかはわかんないけど、お互いの本音はチラリと顔を覗かせる。そうして確認しながら、だ、なんとなく恋愛になっていってしまうのか、と、考えると照れる、微笑ましいのだけれど。ケイト・ハドソンとマシュー・マコノヒーの軽快な演技に愉しい時間があっと言う間に過ぎてゆく。だが、惜しいのはラストへ向かう展開、二人の気持ちの変化が大雑把になってゆく。他人の恋愛の決定的瞬間を見てみたいものである。ベタベタなのはわかってるけどね。それにしてもラブコメの仮面をかぶりながら、結構、シニカルな映画でもある。男も女も相手の存在を無視することがあるのだ。勝手なもんである。
2005.02.26
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カンザスの農場に住むドロシーは、突然やってきた竜巻に飼い犬のトートと飛ばされれて、不思議な世界「オズの国」に迷い込んでしまった。道連れは、臆病なライオンと、脳みそのないカカシ、心のないブリキのきこりの三人。彼女が家に戻るためには、エメラルド・シティに住む魔法使いのオズに会わなければならない。翼のついた猿に、魔女との戦いと、次々と訪れるピンチにみんなで助け合う。1939年、ヴィクター・フレミング監督作品。モノクロからカラーへ、鮮やかな色彩と手作りのファンタジー。ジュリー・ガーランドの歌声と、旅の道連れたちの名演にも支えられた、奇跡のような名作である。臆病なライオンが見せた勇気と、脳みそのないカカシが見せた知恵と、心のないブリキのきこりの涙。ドロシーとの旅で彼らは、自分には無いと思っていたものを見つける。一緒に旅をする仲間は一緒に生きている仲間。当たり前のように仲間のことを思って、自分の本当の力を見せた三人の勇者たち。彼らには栄誉が与えられる。ライオンには勲章を。かかしには大学の卒業証書を。ブリキのきこりには心臓の代わりに時計を。勇気と、知性と、感情。おそらく人は、それらをさまざまな理由で簡単になくすのだろう。どうしようもない事情があるのだ、なくしても誰も責められやしないはず。だが、消えたわけではないのだ。本来、人に備わっているもの、消えたりはしないのだ。1939年、第2次世界大戦のはじまり。奇跡のような名作は多くの人の目に触れただろう。児童文学を原作に持つファンタジーは、現実とは全く違う世界になってしまった。だが、映像となり感動となり、語り継がれる明日の方が、この映画が存在しない明日よりも、ずっと、マシになっていると思いたくなる。三人の勇気と、知性と、感情。三人が気付けなかったものを三人と一緒に気付く旅。映画はドロシーの現実の世界の住人が、オズのキャラクターを演じるという仕掛けである。Somewhere over the rainbow, way up highand the dreams that you dream ofonce in a lullaby
2005.02.25
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もし「スタートレック」が存在しなければ、多くの人たちの運命が変わっていたに違いない。暗黒の闇に光り輝く無数の星たち。空想の産物だと知っていても、いつのまにか何かが掻き立てられてしまっている。ワープ航法で空間を飛び越えてゆく宇宙船と、体験したことのない未知の領域を、勇気を携え、危険を乗り越えてゆくクルー。そう、未だ知ることのなかった未知の領域。だが、そこは乗り越えてゆくことが出来るのである。とまあ、真面目なことを思いながらも、この映画の冒頭から、出演者たちはやる気がない。かつて「ギャラクシー・クエスト」に出演した、宇宙船プロテクター号のクルーたち。番組終了後も熱狂的ファンに支えられ、他の役を演じる仕事とは縁遠いのに、「ファンの集い」には引っ張りだこである。Never Give Up! Never Surrender!タガード艦長役のジェイソン・ネズミスは特に大人気、クルー役の役者には傲慢、酒びたりなのに、ファンの羨望を一身に浴びていたりした。しかも、である。テレビシリーズというのは何度も放映される。役者たちの感知しないところにも視聴者がいたりする。ファンの集いに現れたのはニコニコ顔のエイリアン。ネビュラ星雲に住むサーミアン、美白肌の猫背な奴ら。彼らは、「ギャラクシー・クエスト」と地球の歴史ドキュメンタリーと間違えて、ネズミスにとんでもない依頼を頼みにきていた。ただいま宿敵サリスに攻撃されて絶体絶命。百戦錬磨、勇気凛々なタガード艦長に、救助を求めてやってきたのである。仕事の依頼と間違えてワガママいいながらも、ネズミスはクルー役の役者を巻き込んで本物の宇宙戦争に命がけで一役買うことになる。「わたしたち、ただの役者なのよ」と必死で説明しようにも、サーミアンは受け付けない。クルー達の唯一の武器は、役者としての経験のみ。第○○話で確か、似たようなことなかったけ?架空の物語のノウハウが判断の基準。ギリギリのスレスレでピンチをすり抜けてゆく。芸達者な役者がイイ感じの扮装で、「ギャラクシー・クエスト」のクルーを演じる役者を、演じているという奇妙な設定が愉しい。異様なほどに頭がフサフサのタガード艦長はティム・アレン。クルー唯一のエイリアン役は、アラン・リックマン、頭部に触覚のようなカツラをつけっぱなしである。コンピュータの声を復唱するだけとバカにされる、お色気通信士はシガニー・ウィーバー、ブロンドである。サム・ロックウェルは、乗組員6、つまり、82話で溶岩モンスターで殺されるクルーの役者の役である。本物の宇宙戦争は、命がけではあった。宇宙船プロテクター号にそっくりの船で操縦も。だが彼らは役者、訓練をつけたクルーとは違うのだ。あるのは架空の物語のノウハウのみ。だが演じるために必要だったものがある。「ギャラクシー・クエスト」作品の中にあるマインド。Never Give Up! Never Surrender!ノウハウのはずが、全てが本物になり、ファンの手助けを借りての大冒険が始まった。パロディ満載の濃いテイストの中に、「スタートレック」が持つマインドが詰まっている。未知への冒険を演じた役者たちは、自分たちの仕事の延長線上で自分の勇気を知る。未だ知ることがない、未知の領域。だが、乗り越えてゆけるのだ。確か、潜水艦を舞台にした映画だったと思う。艦長が機関士に「スタートレック」を引用していた。ピンチのときにこそ活躍する裏方の機関主任は、まちがいなく潜水艦の機関士の憧れだったようである。もし「スタートレック」が存在しなければ、多くの人たちの運命が変わっていたに違いない。テレビの中の宇宙から、本物が宇宙飛行士が生まれた可能性も十分、あり得るのである。
2005.02.24
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現実に存在したのである。幼い子供が銃を持たされた世界が。1973年ニューヨークタイムズの記者、シドニー・シャンバーグはカンボジアを訪れていた。現地の通訳兼ガイドはカンボジア人のディス・プラン、彼は親身になって仕事を助けてくれていた。だが、翌74年、政情は緊迫する。クメール・ルージュのプノンペン侵攻は目前に迫り、親米派のロン・ノル政権は75年に倒される。そんな中、シャンバーグたちは逃亡を図るが、プランのみが国内に残されてしまう。ポル・ポト政権による300万人もの大量粛正が行われる、狂気のキリング・フィールドの中に。フランスから独立したカンボジアが、祖国の解放を旗頭に歩んできた激動の歴史。親米政権から極端な共産主義への大きな変動は、血塗られた歪みを国に作ってしまった。知識は、毒、次々に殺される医者や教師たち。赤いスカーフのクメール・ルージュ、子供たちは選ばれた証のように首にスカーフを巻いている。手に銃を持ち、親でさえも密告し売り渡す。かろうじて生き延びた大人たちも、強制労働に従事させられ、息をひそめて日々を過ごすしかなかった。プランも、そう、外国語を話せることも、医者でありジャーナリストであることを隠し、死と隣り合わせの恐怖を一人、生き抜いていた。プランを演じるハイン・S・ニョールが見事だ。プロの俳優ではないという彼の演技は、実際、映画以上の体験をしたという事実が滲み出ている。1996年にロサンゼルスで銃弾に倒れたという。シャンバーグのピューリッツァー賞がプランのおかげであることは、間違いないだろう。彼がアメリカ人のジャーナリストの命を助け、祖国の現状を世界に轟かせた。誰も知ることがなければ、封印されたかも知れない悲劇。政治的な主義の是非を論じる以上に、たくさんの命が無惨に抹殺されたのは事実なのだ。現実に存在した。幼い子供が銃を持たされた世界が。知識は、毒。たくさんの人が殺された。「許してくれ」「許すことなどないよ」悲劇を越えて再会するシャンバーグとプラン。カーラジオから流れる「イマジン」が脚色だとしても、その詩が持つ意味を否定することは誰も出来ないと、思うのである。
2005.02.23
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さあどうぞ、召し上がれ。ずらりと並ぶは中国の薬膳料理。蛇や昆虫、素材そのままのものもある。揚げたり焼いたり、蒸してあったり、スープ、サラダとテーブルに運ばれてくる。李仁先生は日本からのお客さんに、にこやかに料理を勧めている。看菜診病、その人が何を食べるかで、その人の病気がわかるのだと言う。世界最大の建造物、万里の長城。東の砂漠から西の日本海まで6000kmにも及ぶという。倒産しそうな貿易会社の社長、市川は、日中友好漢方旅行団を率いて李仁先生の家にやってきていた。豊かな山々の稜線に囲まれた場所、空に包まれた悠久の時間が流れる土地へ。何でも食べる人がいて、何も食べられない人がいる。食べられる料理と食べられない料理がある。李仁先生はピタリといいあてる。例えば、末期ガンだという大山さんの身体は心配ないと、最初から断言していた。ヤクザの中村さんは強面だが、インポテンツだったのである、それも、ストレスのせいだと、見抜いていた。借金取り立ては大変なのである。性同一性障害の菊池くんの爪を見て、家庭の事情による彼の重圧もさらりと診断。美容法を学びにきた和田さんには、薬草摘みの散歩をオススメしていた。ゆっくり流れる時間の中で、疲れた日本人たちの病は、少しづつ少しづつ、癒されてゆく。特効薬は何もない。有るのは、天然の食材と広大な自然と、李仁先生の笑顔とゆったりした時間。看菜診病、その人の病はその人に起因する。その人のための治療で全てが癒されてゆく。素朴な、拙ささえ感じる映像だが、それがこの作品の本質を損なうことはない。目を奪うほどの主役のいない映画であるこそ、自然の美しさ、雄々しさが伝わってくる。人間が何に疲れ、何を必要としているかも。何でも食べる人がいて、何も食べられない人がいる。食べられる料理と食べられない料理がある。その姿を観ていれば、その人の病がわかるという。医食同源、日々の食事が人の身体を癒すのだ。平常心是道癒しの時間が終わったら皆日常へ。ストレスに精神の重圧、仕事に勉強、いろいろ。避けられぬものは誰にもある。だが慌てることはない。大切なことは昔からずっと人の側にある。
2005.02.22
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華やかなりし水の都ベネチア。列をなす小舟に路上の男達の喝采は鳴りやまない。花を敷き詰めた船に、艶やかな女性が微笑む。彼女たちはコーティザン、高級娼婦。時は1583年。女性が男性の所有物とされた頃を生きた、ベロニカ・フランコの物語。せっかくの相思相愛。ベロニカとマルコは愛し合っていた。だが、結婚出来ないことはお互いが知っていた。彼は青年貴族で政略結婚が決まっていた。彼女には彼と結婚する持参金もない。もう彼とは、今まで通りに会えないはずだった。たった一つの例外を除いて。ベネチアのコーティザンは特別だった。身体は売っても、王や権力者のパートナーでもある。一流になれば貴族との交流も可能。コーティザンだった母パオラの手ほどきを受け、ベロニカは華やかに生まれ変わる。美しく咲き誇るベネチア社交界の花、大輪の花に。国防大臣、艦隊司令、司教たちも、彼女とベッドとともにするようになってゆく。だが、肝心のマルコの誘いだけは理由をつけて、断り続けていた。輝く美貌と、男を悦ばせるテクニックと、自らも詩をたしなむ教養に剣術も。唯一無比の花となるベロニカ・フランコ。だが、愛する男とは結ばれない。しかし、結婚を得た女たちもまた、家庭の中に囚われていた。地味な衣服に身をつつみ、夫の帰りを待つ。着飾って出歩くことさえも許されない。キャサリーン・マコーマックのベロニカは、娘から凛々しく華やかな女性へ見事に変貌を遂げる。胸を強調したドレスも、中世の下着姿も、眩い映像に溶け込むように美しい。マルコを演じるのはルーファス・シーウエル、情熱的なまなざしで、彼女を見つめ続けている。オスマン・トルコとの戦争で、フランス王とベッドをともにし援軍を得たベロニカ。国の英雄とも言える働きをした彼女にも大きな不幸が訪れる。ベネチアの街に蔓延するペスト。華やかな水の都は崩れるように落ちぶれていく。その責任はコーティザンに押しつけられる。華美と贅沢の権化コーティザンは魔女。ベロニカも例外ではなかった。有罪寸前の魔女裁判で、ただ一人、必死の弁護をするマルコ。彼は呼びかけていた。ベネチアの花、ベロニカ・フランコ。彼女は多くの男達とベッドをともにした。傍聴席、議長席にいる多くのお偉方たち。彼らは皆、共犯者、だが、誇りを持てばいいと。彼女と寝たことに誇りをもてばいいと。眩く描かれるベロニカの半生。彼女が選んだ自由の意味と、当時の妻たちが選ばされた結婚の意味。ラブストーリーのさることながら、女性の歴史が、シンプルに描き出されている。ベロニカ・フランコ、イタリア文学に名を残す実在の女性であるという。
2005.02.21
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浄土へ。誰も争うことのない穏やかな国へ。現実を知る者は、それは理想だと言う。理想なのである。何処を見渡そうが争いのない国は、この世には見出せない。遮那王は探し始めていた。自分の中にある二つの領域の境界を可能ならば全て消し去ることが出来ればいい。まだ清盛への思慕は消え去らず、福原の地で彼は叫んでいた。「清盛様!」帆先に立つ入道の姿を認め。海には路もあれど隔てる壁ともなる。もう父は彼の間近には居ない。探し始めた女性がいる。北条政子には自分の心に生まれた、新しい感情の意味がわからず戸惑っている。だから、探すのだ。其れが何であるかを。自分の道を探すだ。自分の道を。遮那王の家来に。武蔵坊弁慶は道を見つけた。そこに探し求めたものがあると。さがしものを見つける旅へ。まだ遮那王の承諾を得られぬままであったが。奥州は今、栄華の時代。主たちは浄土を築こうとしていた。誰も争うことのない国を。都人は、自分たちの居場所を案じ、四苦八苦、小さな争いを続けている。理想なのである。何処を見渡そうが争いのない国は、この世には見出せない。されど、京の街に一人住む、うつぼは堪えて遮那王を見送る。彼女は生き抜いていくという道で、自分のさがしものを探している。何を探すというわけでもなく。だが、何かを探している。都の外の新しい世界を知るたびに、遮那王は可能性を感じていた。自分の探すものは必ずどこかにあると。
2005.02.20
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インフルエンザ襲来。身体がウィルスと闘うという日々。マスクをしてポカリスエットを飲んで、しばらくPCとは距離を置いてました。あんまりあーだこーだと書くのは苦手で、でも、こやって記しておくのも記録になるかと、チョッコト書いておきまする。それでは、ボチボチ、再開します。またよろしくお願いします。
2005.02.19
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私の見える場所にはやくきて。はやく、きて、いつまでもそこにいないで。ピーター、はやく、ここへ。東京で教鞭をとる大学教授の突然の投身自殺。さっきまで横で眠っていた妻は、足を奇妙な形で折り曲げて、頭部を血の海に浸す夫を目撃する。ここへ、ここへ。赤い自転車に乗って訪問看護に訪れた大学生の洋子は、もう二度とその自転車に乗ることはなかった。ここ。そこへ、彼女は行ってしまった。その家に訪れた者が感じる気配。洋子の代わりにその家に訪れたカレンも感じていた。形容し難い不定形な未知の気配を。まとわりつくように浮遊しているそれは、生ぬるい体温を記憶したまま現世に止まっている。その家に。その家に惨劇が訪れたのは2001年11月11日。住んでいたのは、佐伯剛雄・伽耶子夫婦と、一人息子の俊雄。妻の横恋慕を知って夫が逆上する。彼女はずっと、ピーターを見ていたのだ。ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと。惨劇はその家に焼き付けられたしまった。音がして。軋む音がして、軋む嗚咽があって。その家に訪れた者はそれが何か探し回るのだ。音はやがて大きくなる。軋む音、軋む嗚咽。正体を見極めようと周囲を見渡す。見つからない、頭をゆくりと左右に動かす。確かにこの場所だ、間違いない。そう思ったのもつかの間。誰一人例外なく、みなそこへ連れ込まれてゆく。そうやって演出される恐怖の瞬間。積もり積もった情念は一見、些細もののように見える。伽耶子も俊雄も激しい感情を一切見せない。だからこそ、恐怖の瞬間は、ゆくりと訪れる。音響効果に頼ることなく、ただ役者の演技のみに焦点がおかれ、絶妙のタイミングでみなを連れ去ってゆく。その家に、もうきてしまったのだ。もう、その気配を感じてしまったのだ。気配を感じてしまったら、みなそこへ連れ込まれてゆく。それが、この映画の恐怖に思えた。
2005.02.15
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ホラー映画を観るのなら、怖いか怖くないかは大問題である。だが、その「怖さ」と一口に言ったところで、その内容にはいろいろと幅がある。ビデオ版から始まった呪怨シリーズ、いきなりハリウッド版の鑑賞となってしまった。怖いか怖くないか、その大問題を一時棚上げして、映画の枝葉末節を呟いてみたくなったのである。■バフィー×ロズウェル、夢の共演!!主演のカレン役サラ・ミシェル・ゲラーのカワイイお顔は、実はご存じの方も多いはず、「バフィー 恋する十字架」のヴァンパイアスレイヤー、バフィーちゃんだもんね。しかも、彼氏ダグ役のジェイソン・ベアくんは、「ロズウェル 星の恋人たち」のマックス・エバンズ。日本の怨念と戦う海外ドラマの主役たち。製作、サム・ライミの陰謀に違いない。(笑)■洋子、あんたの行動がわからんぞ。呪いの家で、アメリカ人の老女を介護するのは、大学生の洋子さん、赤い自転車が似合うカワイイ女性である。二階の天井裏の物音を聞いて、覗き込むなんて、もう。カヨワイ女の子がすることじゃありません。まるで、「呪い殺されキャラ」だと申告してるようだわさ。■こどもの怨念が残った理由。大人なんて、大人なんて、もう。勝手に好きになって、勝手に結婚して、その上に、勝手に子供産んで、勝手に殺して、勝手に。。。俊雄くんの気持ちを考えると、かなり切なくなる。■どの写真にも、同じ「顔」がありませんか。気付いてないだけなんです、という構造だ。アナタは知らなくてもアナタのことを知ってる人がいる。もしかしてアナタ以上に。■死に方に観る、呪いの構造。ギギギ、ギギ、不気味な音には意味がある。浴槽に、階段上に子供がいるのも意味がある。カレンの頭から指が出るのにも意味がある。目をひんむいてる伽耶子さんの顔は、アノ時のまま。■でも、やっぱり洋子さんは。どうして突然、大学に現れて、口が壊れちゃったの?■テニプリ声優、ハリウッド進出!!声優というわけじゃないんだけど、松山鷹志さんと言えば、「テニスの王子様」リョーマ様のお父さんの声の方。ダークヒロイン、伽耶子の旦那さん役、名演技!■呪いの在り方に観る、日米文化のギャップ。映画の中で、カレンちゃんに中川刑事は説明していた。日本の呪いは、こうこう、こうだよ、と。説明が必要であることが、文化のギャップである。■バフィー×ロズウェル、夢の共演!!その2カレンとダグのお二人、ベッドでイチャイチャ。バフィちゃん、エンジェルはいいのかよ~。マックスくん、リズ一筋なのに、浮気かよ~。■時間を遡り、呪いを疑似体験する。呪われてしまうというのは、呪いの源に遡ることなんだと気付いてしまった。何が原因で呪いは発生したのか。全てを知っても生き残れるとは限らないけど、知ってしまった方が、ヤバイとは思うのだけれども。だったら、全てを知った私たちはもう・・・。■謎の死の原因は誰にもわからない。あの家に触れた人が呪われるのなら、だ、ご近所の方も大変だ、郵便屋さんも、宅配屋さんも。殺人事件もあったから、鑑識も、新聞記者も。謎の死はそこいら中にいっぱいある。ビデオ版×2、劇場版×2と、増殖する「呪怨」シリーズ、中味の方は有名でも、体験することこその、清水崇監督の演出。面白かったのは上映後のお客さんの反応である。エンディングが始まるとソソクサと立ち上がったのは、何も映画が面白くなかっただけじゃないようだ。とにかく、その空間から逃れたいように、皆さん、席から立ち上がっていた。
2005.02.14
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動きたくても動けずに、その場所に縛られ動けぬ時はある。思い悩むことで、答えを出せずに、新しい決断を下せぬまま止まる時もある。それでも、だ。世界は常に廻っている。伊豆の源頼朝、知人よりの文にて、都の動静、清盛の思惑を見定めていた。亀の前と軒先にゴロリと寝ころんでいても。金屏風に描かれた福原の都。父と思いし平清盛の側には自分がいる。その時の心のときめきを今も忘れられずに、遮那王はまだ、止まっていた。次の一歩が進められずに。平家はもはや清盛の手になく、時子は子供たちを集めて源氏の生き残りを憂う。牛若丸と遊んだ知盛、重衡はいざ知らず、幼き頃より宗盛には積もりに積もった遺恨がある。その思いの蓄積が、彼の決断の材料になる。遮那王はまだ、止まっていた。だが、世界は止まることを知らない。出家か、都を離れるか。彼を巻き込み彼を動かそうとするのは世界、彼の廻りを弛まず止まらず常に動きを続けている。人は世界に関わる限り、世界の流れに巻き込まれてゆく。金売り吉次は見定める。今まさに大きく動こうとする世界を。商人のまなざしはいち早く、世界を見つめる。世界は廻る、弛まず止まらず。武蔵坊弁慶は探し求めていた稚児の名を知る。遮那王、源氏の御曹司、彼はほくそ笑み、動き始めていた。大きな時代のうねりとなる源平の争乱の中に。人は止まることがある。その場所に縛られ、思い悩みながらも。だが、世界はいつも廻っている。戦乱は続いている、平家であり、源氏であり、親兄弟が争う時代。身を置く者は皆、止まり続けることを許されない。人は世界に関わる限り、世界の流れに巻き込まれてゆく。
2005.02.13
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そんなはずはない、と。人生を振り返りその途中経過でもある、「現在」を否定してみても、一体何を求めていたのかなんて、明確な答えはあるはずもなく、そもそも、どんな自分だったらOKかさえわかっちゃいない、っていうのに。ふと。エド・クレインは新しい人生を考えた。1949年の夏、北カリフォルニア、サンタ・ローザ。妻の兄が経営する理髪店の美容師。自分のおかれている状況のどれもこれもが、宙ぶらりんで自分の意志ってものが存在しないような。そんな男が墓場まで真っ直ぐにみえた人生から、逸れてみようかと思ってしまった。高級人毛100%カツラのセールスマン、クレイトン・トリヴァーの話に乗っかって。ドライ・クリーニングのオーナー。清潔産業、明るい未来。出資金は1万ドル、そのお金を捻出するために、妻の浮気相手を正体を隠して巧妙に脅迫したのはいいが、すぐにバレて挙げ句の果てに、男を刺殺、犯人として逮捕された妻は自殺してしまうという顛末。お金を渡したトリヴァーは行方不明。疲れ切った彼の心を安らげてくれたのは、知り合いの弁護士の娘、バーディのピアノ演奏。未来を切り開くのだ、未来を。だが彼は事あるごとに「ふりだし」に戻っていく。逮捕された妻の裁判費用を稼ぐために、来る日も来る日もハサミを持ち他人の髪を切る。絶えず流れる曲はベートーヴェンの『悲愴』。淡々とした静かな映像は、モノクロームの美しさをより一層引き立てる。ビリー・ボブ・ソーントンを主役に迎えた、コーエン兄弟のフィルム・ノワール。全てにおいて巧さが際だつ。撮影、演出、脚本、ビリー・ボブ・ソーントンの一人の男になりきった押さえた演技。そんなはずはない。だが、彼の未来は確実に変わってゆく。理容師が犯罪者に。家族であり、親戚であった人間も、もはや、この世にはいない。それでも、だ。自らの意志で逸れたはずの人生なのに、望むべき場所とは違う道を歩いてしまったいた。自らの意志で逸れたはずなのに、裁判所でも彼は見向きもされない。弁護士がずっと、喋っている。一体何を求めていたのか。彼の心を慰めてくれていたはずの少女は、運転中にもかかわらず、彼のチャックを下ろし男の欲望を慰めようとした、それもまた、彼の望まぬことであっただろうに。そんなはずはない、と。裁判の結果はまるで、彼自身の消滅を意味しているようでもある。だが、彼は笑っていた。初めて望んだ人生を得られたかのように。
2005.02.12
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ウンザ・ウンザ・ミュージック。バルカン諸島を発祥とする2/4拍子のリズム。演奏は「ノー・スモーキング・オーケストラ」、2003年2月5日、国名の消滅したユーゴスラビアを祖国に持つ11人編成のバンド。ロックにジャズ、ジプシー音楽、クラシック、etc語りきれない程のボーダレスジャンルの音の洪水、メンバーでもある映画監督エミール・クストリッツァの撮るEUツアーを追ったロード・ムービー。いつのまにか、熱くなる。ニュースで伝わる激動の国々をツアーバスは巡る。戦争で廃墟になった街の光景。ストーリーのない作品への戸惑いは、音が身体に染みてくればいつのまにか消えていた。メンバーの生い立ちや日常が紹介される。愉快なモノクロのプロモフィルムの撮影風景。バスの中、数人が「私が○○○です」本物は誰でしょう、とメンバーの自己紹介を邪魔するおふざけぶり。楽器でゴチャゴチャのバスの中、決してルックスの良くないオジサンたちは、ずっと喋りっぱなしである。音楽を言葉で語るのは勿論、愚行。あえて語るなら、音はオマツリ騒ぎのハイテンション。緩急自在のボーカルに、交わるはごった煮の音楽。それぞれが主張し、それぞれのリズムになり、熱い空気となって会場を包んでいる。素人が見ても、十分わかる、スーパーテクは、澱むことのない音からも十分伝わる。ウンザ・ウンザ・ミュージック。ウソかマコトか、体内のタンパク質を増加させる働きが。いつのまにか熱くなる、音楽の高揚。アップテンポのリズム。ツアーの間にも出会いがある。知り合ったミュージシャンと音を交わすメンバー。良き音を学び、貪欲に取り入れてゆく。それは、彼らの第一次欲求。食べることや寝ることと同じことにみえる。ミュージシャンになること、もがく必要があるのはどんな夢でも同じだが戦争ない土地に住めば手の届く範囲。だが、彼らは違っていた。人生観、政治的思想、激動の祖国の歴史、皆違うそれぞれの考え方、それぞれの音のように。だが、音は熱い空気のうねりとなる。音楽なら愉快になれるというのに。バラバラになり争う人の歴史、だがバラバラの音楽でも、熱い空気のうねりとなる。ゴッタ煮の音楽、バラバラの音楽、それでも音楽になれば、争いは必要ない。ウンザ・ウンザ・ミュージック。いつのまにか、熱くなる。8mmカメラで撮られたノンフィクションムービー。イタリア・ドイツの合作、2001年度作品。メンバーの監督に撮られて皆、息抜きっぱなし。個性的な衣装の個性的なステージング。音楽の至福に充たされて観客は揺れている。観客の一人になれたら、と思わずにいられなくなっていた。
2005.02.11
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A League of Their Own1943年、第2次世界大戦中のアメリカ。男たちは戦争に駆り出される、もちろん、プロ野球選手も例外ではない。選手がいなければゲームは成立しない、野球存続の危機。だからピンチヒッターが呼び寄せられた。全米女子プロ野球の誕生である。それから45年の歳月を経て、ドティとキット、二人の姉妹は再会を喜んでいた。ロックフォード・ピーチズのかつてのキャッチャーとピッチャー。駆け抜けるようにグラウンドでプレイした熱い時間が甦ってくる。選手としたのスタートからして波乱含み。姉ドティの野球センスに目を付けたスカウトだったが、妹キットの方がやる気満々で参加したがる。ドティは、キットと一緒にという条件で参加するが、スター選手としてメキメキ頭角を現したのは姉の方だった。何をやっても姉には勝てない。当然、キットの不満は蓄積されてくる。1943年から54年の間、実在した全米女子プロ野球チーム。彼女たちに課せられたのは、人気をとること。ミニスカートの可愛らしいユニフォーム。ファインプレーの度に観客の妙な声援が飛ぶ。選手は、美人であることが原則。だが、彼女らのプレーは本物だった。例え、見せ物扱いされようが、ユニフォームを着て、ボールを追っかけている間は、彼女たちのグラウンド、何をするも思いのまま。渾身のプレー、懸命のプレー、最高の試合が、彼女たちから生まれていた。酒で失敗して現役を退いたという過去を持つ監督、ジミー・ドゥガンにトム・ハンクス、ホントにダメっぷりだが、いざとなればプロの司令塔。スター選手ドティにはジーナ・デイビス、チームの要のキャッチャーだが、野球よりも家庭を大事にする。妹、キットはロリー・ベティ、勝ち気な女性。俊足メイはマドンナ、通称やりまくりのメイ。カッコイイプレーをするが、後に8回も結婚するスゴイ人。美女軍団の例外扱いの強力4番バッターに、子連れで参加のお母さんはヘマばかりだが、可愛らしい。選手たちの人生、選手たちのまなざし、ベニー・マーシャル監督、女性監督の視点が彼女たちは輝かせている。THIS USED TO BE MY PLAYGROUNDマドンナが歌う曲が彼女たちのプレイと重なる。姉に反発して敵チームへうつるキット。ドティ対キット、最後の姉妹対決は息詰まる熱戦である。彼女たちのグラウンドだ。人生の、彼女たちだけの舞台。渾身のプレー、懸命のプレー。1988年、姉妹は再会する。女子プロ野球達が野球殿堂入りを果たしたのだ。戦争から男達が戻ってきて、再び活気を取り戻す米野球。そのグラウンドが最高の状態で引き渡されたのは、彼女たちの功績の大きさ故である。まさしく、最高のピンチヒッター。A League of Their Own家庭に戻っていったドティと最後まで残ったキット。最後まで、プレイしたい選手もいただろう。そんなことを、ふと、思ったりした。叶わぬ夢、だっただろうけど。
2005.02.10
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女の子が変身する。婦人警官にバイクレーサー、はたまた、路上のヒッピー風シンガーその実体は愛の戦士、キューティーハニー。佐藤江梨子、サトエリの開脚180度可能のハニーである。女の子がコスプレする。監督・脚本は庵野秀明、でもって、キャラクターデザインに安野モモコも参加して、振幅激しい、キャラクターたち。ゴールドクローは甲冑姿で、コバルトクローはボンデージ風。スカーレットクローは十二単衣モドキである。しかも、及川光博、ミッチー参戦、シスター・ジルは胸を強調した篠井英介である。おっと忘れてた、コスプレなしだが、巨大化した「京本政樹」なる離れ業も登場する。女の子が戦う。警視庁公安8課所属の秋夏子警部。巷で起こる若い女性の誘拐事件やらなんやらで背後に潜むパンサークローまで行きつくが、警察組織は取り上げてくれない。行きがかりで行動をともにするのは、自称新聞記者の早見青児と、如月ハニー。どうも胡散臭い連中である。女の子の怒りが爆発する。変身したハニーの沸点が上昇するとヤバイらしい。なにせ彼女はアンドロイド、銃弾でも死なないが、怒りで爆発しそうに。如月ハニーは女の子。不死身の体を持っていても、泣いたり笑ったり、怒ったり喜んだり、すねたり、オシャレしたりする。友達がいれば、彼女を庇うために必死になる。秋夏子警部は友達だ。看病をしてくれたりする優しさと、人質を解放されるために自分が人質になれる女性。一緒に戦える友達。女の子の若さというもの。若さを維持するために若い女性の精気を吸っていたジル。今年で2,222回目の目覚めだというが老化は防げない。ハニーのiシステムは永遠の若さのために必要だった。友達を助けるためにと、ジルとの同化を受け入れるハニーの気持ちがわからない。女の子の可愛らしさ。女の子の頑固な強さ、図太さ。人間は老いて、滅びゆく。だが、手をとりあって生きてゆける。しかしそれは、若さにくるまれた愛情や友情にみえる。滅んでしまったシスタージルは新芽となって生き残っていたが。女の子は変身する。普段は年功序列にお茶も組めない派遣社員。日頃の動力源は「おにぎり」の如月ハニーである。だが、変身すれば野太い声で愛を貫く。サトエリはわかりやすく好演していた。
2005.02.09
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弁護士には守秘義務がある。つまりは依頼者の秘密を守る義務である。だが、犯罪が絡んでいたとしたら。ハーバード大学を優秀な成績で卒業して、テネシー州の税務専門の大手法律事務所に就職したミッチ。破格の労働条件を得て意気揚々と幼稚園の教員の妻を伴いメンフィスで働き始める。上司トラーの指示を受けながら仕事と司法試験の準備で忙しい日々を送っていた。忙しい日々を過ごすうちに、組織の在り方が身体に馴染んでくるものだろう。しかも、家や車、家庭を維持するのにもお金がかかる。生まれてくるベビーの教育費もバカにならない。確固たる生活基盤が出来てしまえば、それを簡単に捨てることは出来なくなってしまう。だからこそ、ミッチは目をつけられた。事務所はマフィアが麻薬取引で儲けたお金を、マネーロンダリング(資金洗浄)していたのである。まだ彼は会社の悪事に本格的に荷担してはいない。FBIは協力を求め接触してきた。シドニー・ポラック監督作品。ジョン・グリシャムの出世作が原作である。ミッチを演じるのはトム・クルーズ。彼が演じているのだ、苦境にたった主人公が危険を乗り越えてゆく映画的面白さは堪能できる。2時間を越える作品ながら、後半はたたみかけるように展開してゆく。先輩弁護士の不審な死。私立探偵に依頼し調査を始めたミッチだが、肝心の探偵が殺されてしまう。案の定、会社の方針に反対して弁護士は抹殺されてしまっていた。FBIに捜査協力しなければ、いずれミッチも悪事に荷担して逮捕されてしまうわけだが、協力すればマフィアが放っておくはずがない。窮地に立たされるミッチ。弁護士という立場ではあるが、ミッチの苦境は特殊ではなくなってきている。組織の犯罪、だが、簡単に内部告白とはいかない。生活基盤がある、または、身の危険も。彼が立たされて苦境は、組織に「個人」押し出されたの象徴だ。どっちに転んでもロクなことがない。だが、トム・クルーズ主演である。FBIとマフィアの間をスリリングにすり抜けてゆく。映画的な面白さは十分堪能できるが、同時に、組織の中の「個人」が浮き彫りにされている。そちらの方は、現実的にさえ思えたのである。
2005.02.08
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銃撃とともに、生まれる音。発射音、轟音だ、耳をつんざくほどの。それから最後の咆哮と、周囲の悲鳴。だが、彼には何も聞こえない。タイ・バンコク。生まれつき耳の聞こえない青年は、まるで定められていたかのように殺し屋となった。渡された銃。コンは一発で標的の心臓を撃ち抜いた。汗ばんだ薄汚れた下町と高層ビル。二つの世界を行き交う、殺し屋もまた人殺しの道具。道具である限り、使われることに疑問をもたない。仕事の直前に銃を渡され、標的は悪人と信じて引き金を引く。決して裕福にはなれないほどの報酬で。コンに仕事を教えたジョーが利き手を負傷しリタイアしたことがもう悲劇の始まり。荒んでしまった心が恋人のオームさえ遠ざける。人殺しの道具が使えなくなって使い捨てられてゆく。だが、オームがレイプされたと知り、猛然と復讐を始める、彼の熱さ。道具ではないのだ、人間、なのだ。生身の人間。音のない世界で生きるコンに、恋愛は柔らかな手のぬくもりとして現れた。熱を出しても薬局で自分の病状も話せない彼に、さしのべられたフォンの手。ぬくもりは音では触れ合えない彼の心を柔らかく充たす。彼女の笑顔もまた、柔らかい。コンの顔にも柔らかい笑顔が浮かぶ。お互い、言葉を交わすことの出来ない恋愛。だが余計なものが混じらない。「あなた、仕事は?」そのフォンの質問に答えられないコン。だが、二人夜の公園を歩いているとき強盗に襲われる。質問の答えは、躊躇なく強盗を撃ち殺すコンの銃にあった。彼は、まだ、人殺しの道具。フォンがそんな彼を否定するまでは。銃撃とともに、生まれる音。彼には聞こえなかった、ただ、引き金を引いただけ。発射音と人の悲鳴、命が消え去る音。一つの命が消えることで、生まれる哀しみの立てる音。自分を育ててくれたジョーの死が、彼を生身の人間に変えてゆく。身近な死がもたらす哀しみの音を初めて彼は聞く。意志を持った道具の殺戮が始まる。香港でカラーリストとしてキャリアをスタートさせたオキサイド・パン。鮮烈な印象を与える美しい映像はそのキャリア故か。双子のダニー・パンと監督、脚本とも共同で名を連ねる。細かく編集された画面にもこだわりを感じさせる。コンを演じるパワリット・モングコンビシットが好演。道具ではなく、本当の人殺しになったコン。生身の人殺しになったコン。それは、フォンが否定するコン。雨が降りしきる。混じりけのない透明の雨が降りしきる。追い詰められ逃げ場のないコンの身体にも雨が。フォンが彼を見つけ叫んでいた。コンの死のために雨は演出される。混じりけのない透明の雨、彼女の声は届いて、いたのか。
2005.02.07
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月明かりが照らす五条大橋。それは、桜の花びらが散り行く一夜の舞台。遮那王と武蔵坊弁慶、後の主従はここで初めて出会う。お互いのことを何も知る由もなく。平清盛と時子の娘、徳子。彼女は後に、高倉天皇の女御となり子をもなす。我が子は滅び行く平家とともに死する運命。その運命を知らず、貝合わせに興じる。もうすぐ彼女に訪れる出会いは、父や母が平家の栄華を願ってのこと。しかし彼女が見届けるのは、平家の衰退。笛が鴨川に落下する。母、常磐御前からもらった大事な笛が。遮那王と武蔵坊弁慶、それが、刃をかわす発端となる。弁慶の長巻きをヒラヒラと身軽に逃れる遮那王。その武術の礎は、鞍馬での修練にあり。鬼一法眼との出会いにあり。その姿を物の怪と例える弁慶、だがその例えはやがて、生き仏となる。京の五条の橋の上。その出会いは紛れもなく偶然のもの。平家の栄華を願うがために。徳子は天皇の女御となるべく画策される。彼女の出会いは偶然ではない。寧ろ、必然。短い出会い。静御前、平家の警護の武士より遮那王を助ける。去り際に二人、お互いの心に姿を残す。時間の長さなど、意味を成さない、大きな感情を生み出す出会いもある。出会いは「時」の接点。美しく演出された五条の大橋、月明かりに桜舞う。二人の過去が二人の未来に向かう場所。平家憎しの武蔵坊弁慶と、平家が仇の遮那王である、この出会い、まるで歴史の必然のようでもあり、しかしまた、偶然の出会いでもある。全て出会いなくば、後の未来はあり得ない。遮那王と武蔵坊弁慶、後の主従は五条大橋で初めて出会う。
2005.02.06
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「ロロ・トマシ」犯人を指し示した名前だったはずが。その名を持つ者は警察内部にいた、おまえこそ、ロロ・トマシ。発端は1953年のロサンゼルス。ダウンダウンのカフェ「ナイト・アウル」で元刑事を含む6人の男女が惨殺される。三人の刑事が事件の真相に迫りながら、事件そのもの以上の暗黒に触れることになる。犯罪の隣りにはいつも警察が。膨大な原作を持つ映画には消化不良がつきまとうが、この作品に関しては無用の感覚だろう。時代の匂いが絡みつく。渾然一体となる正義と悪。ベロニカ・レイクに似た女がいる。女は唇に秘密を隠し持つ、そして、闇を隠蔽する。女優に似た女を商品にする売春宿のオーナーも殺され、用心棒の元刑事も殺される、関係者は次々と。事件は血とともに闇に葬りさられる。「ロロ・トマシ」その名は犯人の代名詞、若き警察官エドがそう名付けた。警察一家に生まれた彼は「正義」という代名詞と暮らしていたはずなのだ、だから、産み出された言葉。それは一人の刑事の命を奪う。ジャックは洒脱で軽妙で、頭の切れる男だった。新聞記者と結託し、刑事ドラマの監修をつとめている。自分を演出することに長けた男は、最後の最後に舞台から引きずり下ろされる。ロロ・トマシ、その名を残し。ベロニカ・レイクに似た女を愛した刑事がいた。バドは女に暴力を振るう男を許さない、それが全ての発端。彼は真相とは一番遠い場所にいながら、闇を暴く一番大きな力となっていた。女は唇に秘密を隠し持ち闇を隠蔽しようとした。数多く流れた血も、闇を隠蔽しようとした。だが、闇は。おのれが暴かれることに無頓着。簡単に隠蔽される、警察内部の犯罪。若い警察官だったエドは、真実を知った代償に昇進を約束される。そうして闇は、配下を得て、一層肥え太っていく。ラッセル・クロウ、ガイ・ピアーズ、そして、ケビン・スペイシー。存在感のあるソリスト三人が、同じ舞台にたち、一つの作品を奏でているかのようで、また、その作品そのもの、つまり脚本が緻密。多くの登場人物が無駄なく個性を発揮し、一つのテーマに滑り込むように行きつくのだ。つまりは、渾然一体となる正義と悪。時代の匂いが絡み合う、が、しかし、若い警察官は、その闇に取り込まれてゆく。図太く、連綿と続く血脈が見える。ロロ・トマシ、その名は犯罪者を指し示す。永遠に彼は、または彼女は、罪を犯している。驚くべき事実でもない、なんでもない。闇はいつも、自らを隠蔽するため、多くの血を流し続けている。
2005.02.05
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西暦60年代のローマ帝国。イエス・キリスト没後30年、皇帝は暴君ネロ。栄光の都に身を置く青年将校マルクス・ウィニキウスはローマに凱旋の途中、一人の女性を見初める。今は人質となったリギ族の王女リギア。彼女が砂に書いて見せた魚の絵。それは、キリスト教徒である証だった。原作はノーベル文学賞受賞作品。サイレント時代のイタリアで3度映画化され、1952年アメリカ製作の映画はアカデミー賞8部門ノミネートの名作。2001年のリメイクはポーランド・アメリカ合作。3巻6話に及ぶ、大スペクタクル巨編である。テレビ番組とは思えないスケール。快楽と悦楽と。自らを芸術家と酔いしれる皇帝ネロが催す酒池肉林の宴。側に仕えるは、趣味の審判者ペテロニウス。皇帝の声や詩、踊りを、口先で褒め称え、宮廷での地位を築いていた。彼の甥、マルクスの道ならぬ恋をも、受け入れてしまえるのは本物の好事家であるが故。虚栄心に満ちた女ではなく、純愛を胸に抱き、ローマとともに滅びる男。そう、ネロとともに。暴君ネロ、母も妻も次々と殺したのは自らを更なる芸術家の高みへ押し上げるため。芸術は大いなる悲劇から生まれる。ローマ炎上、焼け出され路頭に迷う市民、そして悲劇の傷を宥めるために、キリスト教徒が生贄に、放火したのはキリスト教徒と。コロセウムで信者をライオンに食わせ、手足に杭を打ち、イエス・キリストと同じ磔に。幾人かのものは蝋燭の如く火あぶりにされる。栄光とともにあったマルクスが、リギアに出会い、清貧と助け合いの思想に触れる。女を力づくで奪い、妾にしようとしていたのが、一人の男として女性に向き合うように。彫りの深い端正な顔だちのマルクス役の俳優は、丁寧に主役を演じ、大作を引っ張っていた。クオ・ヴァディス、どこへ行く。作品の底流に流れる思想の息吹は感じこそすれ正面から向き合うことは出来ないままに。だが、それ以上に魅力的な登場人物。鮮やかな極彩色の映像に目を委ね、史劇の醍醐味を堪能する。リギアをはじめ、主な女優たちが美しく、絵画から抜けだしてきたような趣であり、また、ペテロニウスのただ純粋に快楽を追求する姿、胡散臭いギリシャの哲学者ギロン、使徒ペテロたち穏やかな顔や、リギアに付き従うウルススの牛の首をへし折る怪力、文学の中の中に存在する、絢爛たる娯楽性。栄光のローマ、現代のローマに、使徒ペテロが戻りゆく場面で物語は終わる。再び、罪を背負うためにか。
2005.02.04
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うら若き乙女の悲鳴あらば、全てを投げうち救出に向かわねばならぬ。微笑み絶やさず、愉しそうだ。ファンファン・ラ・チューリップ、只今、参上!!1952年の作品のリメイク。若くして散った伝説の美男子、ジェラール・フィリップに捧げられた作品。ペネロペ・クルスをヒロインに迎え、美男子というよりは、子供にも人気の笑顔のファンファン、ヴァンサン・ペレーズが縦横無尽に演じている。陽気で自由、我が道を行く。その日、恋を語っていた娘の父親に見つかって、強制結婚させられそうになるが軽やかに逃げ去っていく。これまでに浮き名を流した娘たちも集まって、みんな愛していると笑顔をふりまくファンファン。だが、誰とも結婚するつもりはない。運命の相手と出会うまでは。時は18世紀、フランスはルイ15世の御世。プロシア、イングランド、アイルランド国々はスポーツのように戦争三昧に明け暮れていて、王たちはチームのオーナーのように、選手増強を計ろうとしていた。お金と好待遇を振りまいている。なにやら、皮肉めいた設定である。「あなたは王女と結ばれる運命」「そのためには軍隊にはいらなきゃ」黒髪に黒い瞳の美女、アドレーヌの手相占いを、本当に信じてか、ワザとなのか、ファンファンは軍隊へ。実は彼女、兵隊募集係の兵士の娘。兵士になりたがらない男たちを唆すための定番の大嘘。なのに、そんなとき、うら若き乙女の悲鳴が彼の耳に入る。フランス王女の馬車が襲われていた。運命は現実に!!裏切りと陰謀、ファンファンにスパイの嫌疑も。王女への求愛がいつしかアドレーヌとの恋に。彼がピンチならば、自らも出陣する彼女である。卑怯な敵がいれば、拳銃で威嚇し、相手の足が屋根をブチ抜けば、その足を引っ張りに行く。死罪目前の彼のためにルイ14世に直談判へ。ファンファンが縦横無尽に活躍すれば、いつも彼女はその片棒を担いでいる。面白そうに。愉しそうに。洗濯が上手、料理の上手、そんなアドレーヌに求愛する男がいる。「彼は、洗濯や料理をしてくれる道具が欲しいんだ」ファンファンはにこやかに皮肉を言う。ファンファン・ラ・チューリップ、アドレーヌと結ばれるのは必然の運命である。フランスの王、王妃も祝福する二人のウエディングは、チューリップをあしらった可愛らしい衣装。にこやかなファンファンと愛らしいアドレーヌは幸せをふりまく。そして彼は言うのである。「彼女は僕と子供との家庭を統治してくれるでしょう」と誇らしく。
2005.02.03
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母親に連れられてアーロン少年がやってきたのは京劇学校。もう、勉強しなくてもいいから、なんとなく彼は嬉しそうだ。でも、母親は哀しい顔をしながら契約書にサインをしていた。さぞ、貧しい家庭だったのだろう。京劇を学ぶ代わりに、息子の衣食住は保障される。デカ鼻の子供は後のジャッキー・チェンである。1962年、アーロンは9歳。京劇学校の年長者、サモ・ハン・キンポーは13歳。ユン・ピョウもいる、まだ6歳だ、幼い。香港明星を演じる子供たちがとてもよく似ている。厳しいユー先生を演じるのはサモ・ハン・キンポー、子供たちを怒鳴り、指導しながら、愛情深く見守る暖かい恩師の姿があった。子供たちの笑顔が明るい。京劇学校に送られてくるのはワケありの子供たち。先生のいないときはバカ騒ぎ、一般の家庭の食料を盗もうとしてりする。だが芸を学ぶ時は真剣である。信じられない角度で曲がり、回転し、狂いなく着地する、バネのような身体と、お腹から出される声は、強く、しかも澄んでいて、世界に行き渡るかのように轟いている。最初は拙かったPainted Faces京劇の派手な化粧もやがて上手くなってゆく。親もない、家もない子供たち、いつも笑顔を忘れず助け合っている。明るい笑顔だ。心から笑っている笑顔に見えた。京劇のみを学んできた子供たち。学校に通い、家庭で育った子供たち。何も違いはない、何も。要は、何を育み、収穫してきたか。京劇を学ぶ代わりに彼らは、一般の教育を受けることなく過ごしていた。いつも同じ服装、髪型、履き物。差別の対象ともなってゆくが、ユー先生は彼らに誇りを持つことを教える。それだけの芸を彼らは培っていた。連日の舞台の素晴らしさ、興味深いのは、夜、学校を抜けだし、彼らがディスコで踊りくるっている姿だ。縦横無尽、明らかに他とは違っている動きだった。ただし、アーロンの恋は、環境の違いで、あえなく散ってしまったが。時代の移ろいは激しい。京劇の衰退、ウー先生の同窓のスタントマンの死。学校は閉校を余儀なくされる。生徒たちの行き場を必死に探すユー先生。彼はスタントの事務所にあの三人を推薦する。サモ、アーロン、ピョウ。彼らの初の仕事は虐殺される中国人。カメラが主役に向けば、ベテランスタントは起きあがるが、三人は監督のカットがかかるまで、死の苦しみを表現して演じ続けていた。それが、ウー先生の教え、芝居が続く限り、最後まで演じる、監督がカットというまで、芝居は続いている。全て彼らには、当然のこと。仕事を失ったユー先生は、誘われていたアメリカへ旅立つ。厳しかったユー先生、何度も怒られ、叩かれ、だが生徒たちは別れを惜しみ続けていた。1991年の映画、その時はまだ、ユー先生は、アメリカで後進の指導をされていたという。もちろん、三人の香港明星の活躍は周知の通り。この学校の卒業生たちはスタントを含め多くの方々が映画で活躍している。明るい、子供時代の笑顔。彼らは多くを育み、実りを収穫した。厳しい修行だったというのに、本当に、明るい笑顔。真剣に生きていたのだろう。
2005.02.02
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タイプライターとゴキブリが合体して、死んだ妻に似た女を誘惑しろ、と命令する。そいつは、バグライター、つまり、虫のタイプライターが動いている。。ウィリアム・バロウズの原作を、デビッド・クローネンバーグ監督が映画化。白状しよう。とてもじゃないが、バロウズを語ることなど出来ない。クローネンバーグ監督についても同じだ。監督に関していえば、「何かを作ることは自慰行為」的発言が、やけに印象に残っていたりする、自分の中にある言葉や感情を吐き出すことが、しばしとはいえ、心を充たすことがあるのは周知の事実だ。書くという行為による、恍惚感。この映画の主人公、ウィリアム・リーもまた、作家となる、その前の仕事は害虫駆除だったのだが。本も出ているらしい、彼の名義である。まあ、そんなことはいいとして、問題なのは、バロウズ同様、主人公も麻薬中毒者ということだ。だからマグワンプなんて怪物が現れる。インターゾーンなんていう幻覚世界が日常になり、麻薬中毒にはムカデのパウダーが効くと渡されるが、そんなワケない、あり得ない。殺虫剤でラリっている。ラリった男の頭の中、男は絶えず命令されてる。幻覚に支配されていると言えばそれまでだが、支配されているのが何か、と思えば、つまりは人の「本性」というわけかも知れない。「本物」とでも、言い換えておこうか。そうすれば、「偽物」という言葉が使いやすくなる。ゴキブリでもなく、タイプライターでもなく、だが合体すれば、「バグライター」となる、すなわち、「偽物」は別のものに、それはもう、或る種の、「本物」。幻覚は作家の「本物」となる。と、書き綴っているうち、文章は思わぬ展開を遂げてしまうことがある。こんな意味不明な戯言さえも、いつしか、完結してしまうというのも難儀だ。それは往々にして書いている本人の思考を裏切る。単語と単語の間に、埋もれてしまいがちになる。カット・アップ。コラージュに似た現代美術の技法だと言う。本当に詳しくないのだ、調べて、当て嵌めるのが精一杯、スピード感と偶然性が介在するとある、成る程。現代国語の問題のように、この表現は何を指し示しているのか考えても無駄なのか。在るがまま、在るがまま。でないと、気持ちの悪い難解な映画となる。理解したなんてとてもじゃないが言えない。ただ、バロウズもクローネンバーグ監督も、結構、多くの人に愛されてるというのも事実で、シニカルなことだとも思うのだが、ワカルものでなくワカラナイものも作品として愛される。何かが、響くのだろうか。自分ではワカラナイ、自分の何かが。
2005.02.01
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