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「11日ひきのねこ」で有名な馬場のぼるは、朝日ジャーナル1989年臨時増刊4月20号『手塚治虫の世界』で、手塚さんは、どんなところでも原稿を描いた。列車の中でも、蒲団の中でも……。あれは人間わざではないです。と手塚治虫の超人技を追悼している。言わずもながだが、馬場のぼるだってめちゃくちゃ巧い人だ。ねこたちの描き分けなど、手塚治虫に勝るとも劣らない。だから、今でも馬場のぼるのねこキャラは人気だ。その馬場氏をして「人間わざではない」と言わしめる手塚治虫の作画の技量よ。しかも、蒲団の中でも描ける、つまり「寝そべって延々と描ける」というのは、後にも先にも手塚治虫だけではないだろうか。寝ながら描けたらラクだと思うかもしれない。でも、やってみたらすぐ分かる。寝ながらでは、逆にすぐ疲れてしまうし、そもそもうまく描けるものじゃない。「寝ながら手塚」のイラストは、それを目撃した漫画家によってあちこちで描かれている。こちらは馬場のぼる(前掲書より)。ふたりが親しく交流できた、おそらくは初期のころのイメージだろうと思う。ニコニコ顔で楽しそうに描いている手塚治虫。それを「へーーっ」という顔で見ている馬場氏本人。どこか牧歌的なほのぼのとした雰囲気が漂うのは、時代もあるだろうけれど、馬場のぼるのイラストならでは。これはコージィ城倉の『チェイサー』より。これは、福元一義著『手塚先生、締め切り過ぎてます!』中の著者本人によるカット。若き日の手塚治虫に編集者として出逢い、その後一時漫画家として売れるも、最終的には手塚プロに入社し、チーフアシスタントとして長く手塚漫画を支えた人物なので、締め切りに追われながらシャカリキになって描いている手塚治虫の姿は、さすがに臨場感がある。ちなみに右下で待っているのが、「手塚番」と呼ばれる編集者たち。福元一義氏は、基本的に「描く」側の人間なので、『手塚先生、締め切り過ぎてます!』も、描き手としてのアプローチで手塚治虫の実像に迫っており、非常に読んでいて面白い。中でも「スピードの秘密」として書かれたエピソードは、手塚治虫の作画手法がいかにユニークなものだったかを明かしている。手塚治虫が生涯でもっとも多忙をきわめた昭和49年~51年のある日、アシスタントの福元一義に先生が話しかけてくる。「福元氏はペンだこの痛いことがあるかね?」「あります。とくに、締め切りに遅れて徹夜した時など、疼くように痛みました」「僕も、ここのところ疼くように痛くてかなわないんだ。ホラ、こんなに堅くなっている。触ってごらん」と右手を差し出すので、人差し指と中指のグリップ(握り)のあたりを触ってみましたが、それらしい部分がありません。そうすると先生は不思議そうな顔で、「君、どこを触ってるの? ここだよ、ここ」と手裏剣をかざすような仕草をしました。唖然としながら見つめると、なるほど小指から手首にかけての部分が少し赤紫色になっており、触ると堅くごわごわして、デニムのような肌触りでした。ふつうペンだこといったら、少々の個人差はあっても人差し指か中指のどちらかにできるものですが、先生の場合は違っていたのです。(福元一義著前掲書より抜粋)ここで面白いのは、手塚治虫は普通の人は、「ペンだこ」と言ったら、人差し指か中指にできるものだと思う――ということを知らなかったことだ。そして、この多作の漫画家のペンだこは、「小指から手首にかけての部分」にあったということ。この独特のペン使いを見抜いた漫画家がもう一人いる。『鉄腕アトム』の人気エピソード「地上最大のロボット」をリメイクした、天才・浦沢直樹だ。ごくごく最近だが、『手塚治虫 創作の秘密(1986年初放送のNHK特集)』で原稿を描く手塚治虫の映像を見て、浦沢直樹は、「小指が浮いてるね」「手首を中心にして描いているみたい」と指摘していた。こんな描き方は普通できない、というような話になり、その場に同席していた堀田あきおが、「浦沢さんならできるかも。僕はできない」と言っていた。福元一義は、さすがに元漫画家のチーフアシスタントだけあって、(手塚)先生は、手首を支点に、手先全体を使って大胆にサッと描かれるのに引き換え、私たちの場合はグリップを中心に小さなペン運びで描くので、その違いがペンだこのできる場所の違いになったのだと思います。(前掲書)と端的に説明している。『手塚治虫 創作の秘密』では、残念ながらペン入れ時の手塚治虫の手元はあまり鮮明には映っていない。だが、手塚治虫の筆致の大胆さと繊細なディテールと比べ合わせると、Mizumizuは氏の描き方が中国の伝統的な墨絵(日本で言う水墨画の本家)に似ていると思うことがある。中国の伝統的な墨絵(Chinese ink painting)の描き方は、日本の今の水墨画の描き方とは似ているようで異なる。さまざまな技法があり、一概には言えないのだが、以下の描き方は、手塚作画に非常に似ている気がする。https://www.youtube.com/watch?v=UAmZ3Hb0aQM中国人のChinese ink paintingのプロが、壁に張った紙に墨絵を描いて見せる動画もYou TUBEにはたくさんあがっているが、手塚治虫もよく講演などで、観客に見えるように大きな模造紙を床に垂直におろして、そこに即興でキャラクターの絵を描いて見せていた。こうした手塚ショーは観客の驚きを誘い、いつも場は大いに盛り上がったそうだが、みなもと太郎氏によれば、こういうことができる漫画家は1960年以降は、ほとんどいなくなったようだ。そのエピソードが載っているのが、以下の『謎のマンガ家 酒井七馬伝』だ。酒井七馬は手塚治虫を一躍有名にした『新宝島』の共作者であり、手塚本人はそうとは思っていなかったようだが、ある意味、手塚治虫の師匠と言ってもいい存在だ。【中古】 謎のマンガ家・酒井七馬伝 「新宝島」伝説の光と影 / 中野 晴行 / 筑摩書房 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】酒井七馬(1905年~1969年)が活動していた時代には、漫画家なら似顔絵ぐらい描けて当たり前で、よく漫画家がイベントに登壇し、大きな模造紙に即興で似顔絵を描いたりするショーは人気。実は若き日の手塚治虫も酒井七馬とこういうイベントに参加していたのだという。ところが、酒井七馬の晩年、たまたまこうしたイベントに参加したみなもと太郎は、酒井氏の司会で、呼ばれた漫画家が大きな模造紙に即興で漫画を描くように言われても、まるで原稿のひとコマを描くように、チマチマとした絵しか描けない姿を見て、酒井氏が当惑する様子を目撃している。「似顔絵を描いて」と酒井氏に促されても「描けませ~ん」と言われたそうで、当然、場は盛り上がらない。『謎のマンガ家 酒井七馬伝』の著者である中野氏は、みなもと太郎から聞いた、この「盛り上がらなかったイベント」の終焉が、酒井七馬が「自分の時代が本当に終わった」ことを実感した瞬間であろうと、大いなる寂寥を込めて書いている。酒井氏は、若い漫画家に筆で描く練習をするようにとアドバイスをしていたという話だが、そんなことをする漫画家は彼の晩年にはいなかったのだろう。ちなみに、漫画を描き始めたころの手塚治虫は墨を自分ですっていた。使っているペンはガラスペンだったという。ガラスペンの形は筆の穂先に似ていて、滑りは軽く描き具合は良好だが、1回分の浸けるイングの量が少ないので、しょっちゅう浸けていなければならず、時間のロスが大きいので、手塚治虫が東京に出て連載を持ってからはお役御免となったという(福元一義、前掲書より要約)。手塚治虫の登場で、ストーリー漫画は隆盛を極めていき、さらに発表する雑誌も月刊誌から週刊誌へとスピードが速まっていく。その経過の中で、「漫画家」という者に求められる技量が変わっていったということだ。実際、石ノ森章太郎は、自分を「漫画家」ではなく「萬画家」と称している。伝統的な呼称との決別は、自分の描く世界は「漫」ではなく「萬」だという自負もある。手塚以前・手塚後で変わったものはあまりに多いが、マンガ家に求められるものが変わるにつれ、消えていった描き手の素質もあったということだ。消えていく技量を高いレベルで維持していたのが手塚治虫本人だった、革新者でありながら実は伝統の継承者であったというのも、あまり指摘されることはないが、まぎれもない事実だろう。手塚先生、締め切り過ぎてます! (集英社新書) [ 福元一義 ]
2024.02.02
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<先日のエントリーから続く>ローラン・プティは、ヌレエフがプライベートでも天性の誘惑者だったと言っている。ヌレエフの視線は、「あなたを好きになりそうなんだけど、いい?」と言っているかのよう。そうして、狙った獲物を手に入れると、いとも簡単に新しい獲物のほうへ行ってしまう。ヌレエフが最も愛したのは、若い男の子で、やはりというべきか、筋肉質な肉体と尽きせぬ活力をもった年下のダンサーをとりわけ好んだ。ヌレエフはソレント半島の沖にある島に邸宅を構えるが、ロココ調の家具のおかれた部屋の豪華な装飾を施した壁には、そうした全裸の男性たちの絵画が飾られていたという。アメリカ人ダンサーでヌレエフの愛人の1人だったロバート・トレーシーは、『Nureyev and me』の中で、39歳のヌレエフが愛したのは、23歳の自分の「若さ」だったと語っている。2人はバレエ公演のリハーサルで出会い、すぐに関係を持った。ホテルの部屋に誘ったのは、もちろんヌレエフのほう。「ヌレエフは私の脚とそれにジャンプが好きだった。私たちはほとんど一目で肉体的に惹かれあった」(トレーシー)。もっともトレーシーは、ヌレエフを独占しようと思ったことはなかった。できるとも思っていなかった。ヌレエフには「300万人」(←いくらなんでも、そりゃないだろうが)の若い男の子がいた。もちろんトレーシーより若く、もっとナイスなバディ~を持った取り巻きも。トレーシーもヌレエフに束縛されたくなかった。トレーシーは最初のうち、世紀の大スターとたいしたことないダンサーの自分が、「長続きするはずがない」と思っていた。だが、2人の関係はやがて友情に落ち着き、ヌレエフの死の直前まで続いた。プティの言う、「ジュピターのように移り気で、ユノのように貞淑」なヌレエフらしいエピソードだ。女性との関わりで言えば、トレーシーはヌレエフから、「3人の女性と関係をもった」と聞いたという。40歳を超えたヌレエフは息子を欲しがっていた。ヌレエフによれば、彼の子供を妊娠した女性が2人いたが、どちらも中絶してしまったという(←なんか、ジャン・コクトーみたいなことを言ってる)。ヌレエフは、プティにはこんなことを言ったという。「僕はマーゴと結婚すべきだったかもしれない。彼女こそ僕の運命の女性だった」ヌレエフはエイズを発症したあとも、それを一切公表しないまま舞台に立ち続けた。晩年は、胸にコイン大の金属片を埋め、2~3日ごとに金属片についたネジを抜き、そこから注射器で心臓を拡張する液体を注入していた。そうやって彼は舞台に立ち、偉大なダンサーの役を演じ続けた。病状は悪化する一方で、彼を栄光の高みに引き上げた筋肉は破壊されていたが、それでもヌレエフは偽りの健康を装った。何も知らない観客からブーイングを浴びせられると、蔑視のポーズで答えることを忘れなかった。ヌレエフがこの世を去ったのは、1993年1月6日。「彼の死に顔は、彼が愛していた若者の顔立ちのようにほっそりとして美しかった。それは井戸の中に映し出された自分の裸体にうっとりと見とれ、悦楽とともに自らに恋焦がれたナルシスが乗り移ったかのようだった」(『ヌレエフとの密なる時』)ジャン・コクトーの作品は未来を予見するとジャン・マレーは言った。事実『双頭の鷲』では、ジャン・マレーとエドヴィージュ・フィエールの死期を予言するような台詞がある。そして、1967年の『若者と死』で健康なヌレエフが演じた、「カクッ」とうなだれて死んでいく若者の顔は、プティのこの描写の予言のよう。白々とした空間で一瞬アップになるヌレエフの死に顔は、まさにナルシスのように美しい。このときの撮影では、ヌレエフはパウダーをはたきながら、「僕のスクリーン映りはどう?」とプティに、いたずらっ子のように微笑みかけた。「マリリン・モンローよりステキだよ」とプティが答えると、ヌレエフは大ウケして笑い転げた。そして喜々として準備にいそしんだという。14歳も若く、強靭で、無限のエネルギーに満ちていたこの若者の死を、プティが看取ることになろうとは。比類なき若者、ヌレエフとの日々は、彼が永遠にいなくなったあとも、プティの心を去らなかった。ヌレエフは誰のものにもならない人だった。私のヌレエフ、君のヌレエフ、彼のヌレエフ、私たちの、あなたたちの、彼らのヌレエフ。1人1人にとって、それぞれのヌレエフが存在する。『ヌレエフとの密なる時』は、プティの見た夢とも妄想ともつかない、2人の「共演」で終わっている。それはヌレエフの死から4年たった1997年のある日。ヌレエフが歌いながらプティに近づいてきた。2人は数歩の距離で向かい合って立ち、それから一緒に踊り出した。その場でゆっくりと回転を始め、どんどん回転を速めていくと、大勢の群集がやって来て、観客となった。ヌレエフとプティはひたすら踊り続けた。そのときプティは、彼が愛してやまなかった不世出のダンサーが踊った作品の中でも、とりわけ素晴らしかったシーンを見る。『白鳥の湖』で黒のビロードに金と銀の装飾をあしらった衣装を着た王子役のヌレエフが、オデットを探しながら白鳥から白鳥へと走り抜けていくのだ。回り続けたプティとヌレエフのダンスがフィナーレを迎えようとしたとき、ヌレエフはまるで魔法にかかったように、プティの、そして集まった群集の目の前から消えてしまった。プティとヌレエフは現実では、ほとんど常に振付師とダンサーだった。2人の世界は時に交錯したが、仕事の面では軋轢も多かった。プティという惑星の近くを、忘れがたい強烈な輝きを放ちながら、時折通過していく流れ星、それがヌレエフ。だが、コクトーの小説『恐るべき子供たち』のラストシーンを彷彿とさせるようなこのエピローグは、世界的振付師としてではない、1人のダンサーとしてのプティの魂の告白だ。プティはただ踊りたかったのだ。1人のダンサーとして、1人のダンサーであるヌレエフと。ローランとルドルフと観客と、他には何もない世界で。<終わり>
2009.06.02
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<きのうから続く>モンマルトル美術館で開催中のジャン・マレー展には、当然ながら映画のポスターも多く展示されていた。個人的に一番好きなのは、コレ。ジャン・コクトー監督『双頭の鷲』から、エリザベート女王役のエドヴィージュ・フィエールと。エドヴィージュ・フィエールのファッションがまたいいのだ。革の手袋は手首の細さが際立つよう、手首の内側でぴっちりとボタンで留めている。折り返した袖と襟のギザギザの縁飾り。胸元のリボンのつやつやした布の質感。ドレス自体がシンプルなので、リボンや縁飾り、ボタンなどのディテールが引き立つ。とても上品で、ヨーロッパの古き良き時代の香りが漂ってくる。おまけに蜂のような細腰。イマドキの女優でここまで細いウエストが作れる人は、もうほとんどいないだろう。カタログに収録されていないのは残念なのだが、展覧会ではジャン・マレーとエドヴィージュ・フィエールの晩年のプライベート写真も展示されていた。Mizumizuが中でも気に入ったのは、フィエールが油絵を描いていて、イーゼルの前で、「どう?」という感じで胸をそらしている。それを、マレーが「どれどれ?」とのぞきこんでいる写真。2人とも70歳は超えているように見えたが、非常に自然で、親密な雰囲気が漂っていた。フィエールはマレーを相手役にした『双頭の鷲』の再演を熱望していたが、マレーは自分の年齢を理由にこの申し出を拒み続けた。だが、1980年の『嘘つきさん』(バーナード・ショー原作、ジャン・コクトー脚色)ではフィエールとともに舞台に立っている。そして、フィエールは、ジャン・マレーが亡くなった5日後に、まるで後を追うように亡くなってしまった。もう1人、ジャン・マレーにとって大きな存在の女優がミシェル・モルガン。もともと『悲恋(永劫回帰)』で、監督のジャン・ドラノワはマレーの相手役にモルガンを使いたかった。マレー+モルガンでどうしても映画が撮りたかったドラノワは、その後何度もモンパンシエ通りのコクトーとマレーのアパルトマンを訪れては、マレー+モルガンを想定した映画の脚本を書いてくれるようコクトーに懇願している。だが、ちょうど長編の詩作に取り掛かっていたコクトーは、脚本を書く気になれず、別の脚本家を紹介する。そしてモルガンとマレーの初共演となったのが『思い出の瞳』。ジャン・マレーはモルガンについて、「私が本当に恋することのできた唯一の女性」と自伝で書いている。マレーは晩年になって、モルガンに舞台での共演を申し込んでいる。もともと映画出身のモルガンは舞台に乗り気ではなく、なかなかOKしなかったが、1993年になって、とうとうマレーとの共演で、コクトーの『聖なる怪物』の舞台に立った。このときの2人のポスターも展示されていたが、顔を寄せ合った白髪の2人は、若いころのポスター以上に素敵に写っていた。80歳近いマレーが、モルガンの後ろにいて、肩口に手を添えている。いくつになっても女優を引き立てることに心を配っている、騎士的なジャン・マレーの性格がよく表われている。モルガンのブルーの瞳の色とまったく同じ色の素材が衣装のアクセントとして使われ、それが一番印象的で、オシャレだと思った。マレー+モルガンの舞台『聖なる怪物』が、大きな成功を収めたことは言うまでもない。これは↓ジャン・マレーの死を受けての特別追悼番組。http://www.dailymotion.com/video/x6fox7_hommage-a-jean-marais_shortfilmsマレーがコクトーの言葉をつなぎ合わせて執筆した1人芝居『コクトー/マレー』の台詞から、マレー自身のナレーションが入る。「大変悲しいニュースを伝えなければならない。ぼくが死んだ」「生者と死者は近くて遠い。ちょうど硬貨の裏と表のように」「生と死は向き合っている」そして、マレーの愛したミシェル・モルガンが壇上で挨拶するというニクイ演出。さらにもう1人、日本語版ウィキペディアではマレーと結婚したことにされてしまったミラ・パレリイ。もちろん、この情報は嘘だ。どうしてこんな間違ったことがウィキペディアに書かれてしまったかというと、もともとはcinema databaseのJean Maraisのプロフィールに誤情報がのったためだと思う。マレーは1945年、『美女と野獣』の撮影の話が進むなか、フランス解放戦線に参加し、戦場にいた。コクトーは打ち合わせのために、マレーに戻ってきてくれるよう何度も促すのだが、なかなか休暇がもらえない。そんなとき、「結婚すれば休暇がもらえるらしい」という話を聞いたマレーは、以前ちょっとだけ付き合っていた女優のミラ・パレリイにプロポーズしてみた。するとパレリイのほうがマジになってしまい、マレーは困惑する。結局、結婚の話はナシになり、パレリイは1947年にレーサーと結婚した。だが、若いころ抱いた真剣な想いは、パレリイの中でずっと消えなかったようで、こんな熱い写真を晩年のマレーに送っている。「愛しています。私のジャノ。ミラ」そしてテーブルには犬と写っているマレーの写真。マレーのほうも、晩年に書いた自作の児童小説で、美しい王女の名前を「ミラ」にしている。しかし…この場合、ミラの旦那さんの立場は?ともあれ、ミラがよき妻だったことは間違いない。彼女の結婚は一度だけだし、レーサーの夫が事故で重傷を負うと、その看病のために、すっぱり女優を引退している。追記:マレーとフィエールの関係については、2008年5月20日のエントリー参照。マレーとモルガンの関係については、2008年6月3日のエントリー参照。マレーとパレリイの関係については、2008年5月5日のエントリー参照。
2009.03.03
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いや、いや、いや~、凄すぎるものを見てしまった。鍵山選手の2026ワールド、フリー。 『トゥーランドット』は日本人の名選手、荒川静香、宇野昌磨の作品も素晴らしかったが、今回の優真トゥーランは、美しさをともなう技術の向上という意味で、フィギュアスケートの可能性をさらなる高みへ押し上げる歴史的なものだった。 もう、出だしから目が離せない。浮き上がって見えるような、重さを感じさせない滑らかさとスピード感を両立させた滑り。あまりにeffortless(苦労のあとがなく、非常に巧み)で、靴の下に加速装置でも仕込んでいるかのよう。 優雅で伸びやかなスケーティング、雄大なイーグル、高さ・飛距離・回転軸のすべてが素晴らしいジャンプ。4回転こそ2種類だが、非常に質が高く、まるで見えない糸が操っているかのような正確さ。そのうえ、連続ジャンプのセカンドに3ループをもってきたり、3Aから3サルコウに繋げたりと、多彩な技術を見せてくれる。 ジャンプの構成も濃いが、プログラム終盤にもってくるステップは圧巻の一言だ。あれだけ上下運動を含めて全身を使い、そのうえで見事なエッジ捌きを披露できる選手というのは、なかなかいない。いや、このクライマックスの作り方は、鍵山優真オンリーと言ってもいい。 この超絶ステップを見ると、現行の採点システムの欠点が見えてくる。つまり、ステップの基礎点が低すぎるのだ。高難度ジャンプに気前よく10点以上の基礎点を与えてしまって、ステップの点がコレでは、いくら「ジャンプ大会にしない」と言っても説得力がない。 ステップの基礎点は上げるべきだし、レベル3とレベル4の点差ももっと出すべきだ。でないと、「ま~、ステップは無理にレベル4取らなくてもね。レベル3でいいっしょ。ジャンプで体力使うからね」ということになりかねない(いや、誰とは言いませんけどね)。スピンも含めて、基礎点を上げて、ジャンプの比重をもう少し落とすべきだろう。 とは言え、4回転を跳びまくるマリニン選手の優勝に依存はない。日本は伊藤みどりを生んだ国だ。伊藤みどり選手の功績は、単に女子で初めてオリンピックで3Aを成功させたというだけにとどまらない。ジャンプの種類や質という、極めて客観的な技術の優位性を重んじることで、それまでほぼ白人のものだった女子フィギュアを真の意味で人種を問わないワールドワイドで公平な競技に変えた功績こそ語り継がれるべきものなのだ。 だから、いかに滑りが良くても、ルックスが良くても、感動的な表現ができても、それだけでは勝てないシステムというのは、客観的かつ公平だといえる。 優勝はマリニンで間違いない。だが、後年まで繰り返して見たくなるのは、すべての要素において高いレベルを揃えた鍵山選手のプログラムだ。 蛇足になるが、ショートで鍵山選手が8位と聞いて驚いた人も多いかと思う。演技自体は、それほど悪くは見えないはずだ。これはアクセルジャンプの失敗が響いたからだが、ショートでは決められた要素の条件をクリアしないと、ゼロ点になってしまう。この厳しい減点については、Mizumizuの中で賛否両論がせめぎあっている。 オリンピックでの女子、アンバー選手にも起こったことだが、ショートのジャンプ1つのミスが致命的になり、優勝圏外にはじき出されてしまう。これは高難度ジャンプを備えたトップ選手同士のスリリングな勝負の面白さを削ぐというマイナス面があるが、旧採点システムから受け継いできた、「ショートはフリーの短いプログラムではない、ショートでは決められた要素をいかに確実にこなすかを見る」という理念に忠実な方針でもあり、大切にすべき概念のようでもある。だが、ここには若干の矛盾がある。決められた要素というなら、すべてのジャンプの種類を統一すべきではないだろうか。2Aでもいいし、3Aでもいい、あるいは3回転でなければいけないが、4回転でもいい、というのではそもそもの前提が違っていることになる。統一すると非凡な高難度ジャンプをショートで見る楽しみはなくなり、点差もつきにくくはなるが、「決められた要素」をいかにしっかりこなすかを見るというのなら、全部を統一すべきではないか。現行システムでは、高難度ジャンプをショートで決めての「逃げ切り」も多い。これもどうなのかな、と思う。 旧採点システムのころから、優勝候補がショートでのジャンプの思わぬ失敗1つで金メダルを逃すというシーンを何度も見てきた。今回のワールドで言えば、中井亜美選手が3Aの失敗でオリンピックから大きく順位を落としている。 ハイリスクハイリターンだから仕方ない、という言い方ももちろんできるが、現行の採点システムではリスクのほうがリターンより大きく、ジャンプへの挑戦をはばみ、特に女子のジャンプの進歩のスピードが落ちる結果になっているようにも思うのだ。 基礎点の高い高難度ジャンプを跳ぶ選手が増えている現状を鑑みると、Mizumizuの心情としては、せめてショートでも基礎点ぐらいは与えるべきではないかとも思うが、それではショートは文字通り、短いプログラムというだけになってしまう。難しいところだ。単純に総合順位の結果だけから判断すれば、少なくとも今のところは、現行のままで良いのかな、とも思う。
2026.03.30
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劇団四季のミュージカル『壁抜け男』で日本人にも注目された、モンマルトルのマルセル・エイメ広場の彫刻。作品のタイトルは、ズバリ「壁抜け男」。モデルは原作者のマルセル・エイメ。そして彫刻家は誰あろう、ジャン・マレーその人。ミュージカルにちなんで紹介されることが多いので誤解されているが、この彫刻をジャン・マレーが作ったのは1989年。ミシェル・ルグラン作曲のミュージカル『壁抜け男』の初演が1997年だから、ミュージカルより彫刻のほうが8歳も年上なのだ。ちなみに、エイメが小説『壁抜け男』を発表したのは1943年。歩行の邪魔にしかならないような、東京の街に散らばる意味不明の「オブジェ」と違い、モンマルトルの瀟洒なアパルトマンの前の小さな広場に完璧に調和した彫刻作品。このさりげなさがとてもいい。まさに街並に溶け込むアート。しかも、彫刻家もモデルもモンマルトルにゆかりの人物というのが、またニクイ。現在開催中のジャン・マレー展では、この彫刻制作に取り組むジャン・マレーのスチール写真も飾られていた。制作中の姿にも妙に華がある。彫刻家というより、彫刻家を演じている俳優の映画のワンシーンのようだ(苦笑)。だが、呆れたことに、このジャン・マレー作品にはイタズラがされていた。爪がピンクに着色され、膝のところには白っぽいペンキがかかっていた。昨年テルトル広場の近くの小さな広場が、「ジャン・マレー広場」と命名されたときも、広場名を示すプレートにわざわざスプレーでバツマークを入れた不届き者がいたが、同じ精神構造を持つ輩の犯行だろう。ピンクのマニキュアと膝にかけた白っぽい液体なんて、いかにもホモフォビアが思いつきそうな最低の嫌がらせだ。『ブロークバック・マウンテン』以降に、ヒース・レジャーが公けの場で、執拗に水鉄砲をかけられて嫌がらせされたことがあったが、こういう最低の行為に及ぶ連中の根底にあるものも同じ。ジャン・マレーは、常にこうした攻撃にさらされてきた俳優だった。たとえば、彼が「生きるギリシア彫刻」だった1944年。ジャン・マレーは演出・衣装・舞台装置をすべて自分で手がけた古典劇『アンドロマック』を上演するのだが…当時のパリは、ドイツ占領下。メディアを牛耳っていた対独協力派の妨害で、6日で上演禁止に追い込まれてしまう。このときもジャン・マレーの不道徳な「ホモ的芝居」は、新聞でいっせいに叩かれた。だが、「本当の観衆」は好意的で、この芝居を高く評価していたのだ。「真の観衆は喝采してくれた。しかし、芝居を見ている間ずっと彼らは鼻と目にハンカチをあてていなければならなかった。というのもこの機会に動員されたPPF(フランス愛国党)の党員たちが悪臭弾と催涙弾を客席に投げつけたからである。観衆の愛情をあれほど強く感じたことはない。私の評判を落とそうとする意図が明らかだっただけに、その愛はなおのこと強烈さを証拠立てていた」「しまいには親独義勇隊の連中が機関銃をかまえて押し込んできて、観衆の帰宅を妨害した」(ジャン・マレー著 『私のジャン・コクトー』東京創元社)このエピソードには、現在の日本にも通じる2つの側面がある。1つは特定の権力と結びついたメディアの偏向報道。もう1つは、よいものをよいと認め、讃えようとする一般のファンの意識の高さだ。だが、欧米のホモフォビアの敵意(時には殺意)に満ちた嫌がらせと、日本での異質な者に対するイジメは似て非なるものだと思う。美輪明宏が昔、「お化け」と言われて石を投げつけられたのと、ジャン・マレーやヒース・レジャーに対するキリスト教の教義をタテにした社会からの攻撃は、一緒にすべきではない。どうも、そのへんをこのごろの日本の若者(中には大して若くもないのもいるが)はゴッチャにしているのが気にかかる。日本は基本的にひとさまの性的な好みに対しては大らかで、欧米、特に英米ほど後進的ではないのだ。それなのに、英米のほうが進んでると勘違いして、「日本の社会から性的マイノリティへの差別と偏見をなくしたい」などとトンチンカンなことを言ってるソッチ系の青少年を見ると、「オイオイ、違うだろ」と言いたくなる。『アンドロマック』でオレストに扮したジャン・マレーの写真は今回初めて見たが、これが物不足の占領下の舞台衣装かと、その豪華さ、質感の高さに感嘆する。胸のところでキッチリゆわえたラメ入りの布がひどくセクシーだ。このときのマレーは決して経済的に豊かではなかったが、それでも自腹を切り、かつ友人から出資を募って『アンドロマック』の上演にこぎつけている。衣装制作に当たっては、布地を扱う店の店主が、若い役者集団のために、非常に安く布を譲ってくれたという。パリはよく、「冷たい街」などと言われるが、どっこい、こうした人情はどこよりも篤い街だったのだ。モンマルトルの旧ジャン・マレー邸の近くには、開催中のジャン・マレー(L'e'ternel retour)展の宣伝も兼ねて、マレーの60年におよぶキャリアの中から選りすぐった写真がポスターになって飾られている。ちょっとしたベンジャミン・バトンだ。映画『ルイ・ブラス』時代のイケメン俳優・マレー(左)と赤いマフラーをなびかせた晩年のマレー(右)。マレーには赤が似合うと、コクトーも言っていた。ジャン・マレーがフランス演劇界から尊敬されているのは、美男スターとして一世を風靡したということ以上に、その長いキャリアを通じてフランスの映画・舞台文化を支え続けたことだろう。ジャン・マレー自身によれば、「入念に準備したにもかかわらず、期待したほどの成功は得られなかった」舞台も多かったというが、思った以上に評価されたものもまた、多かった。舞台では、「ジャン・コクトーもの」以上に、古典劇(とくに悲劇)を得意としていた。こちらは1978年に演じた、シェークスピアの『リア王』。猛禽類の爪のような、グロテスクぎりぎりの美を備えた、ユニークなフォルムの王冠が、いかにもジャン・マレーらしい。こちらは、ご存知『オルフェ』。このナルシズムは確かに、ジャン・マレー演劇の1つの頂点。だが、ジャン・コクトーの『白書』を読めば、このシーンのルーツは、若いころコクトーがこっそり通いつめた、いかがわしい店の男娼の行為にあったことがわかる。コクトーはモロなエロを、そこはかとない芸術的エロスに昇華させるのが巧みだった。こちらは、超美青年時代のジャン・マレー+ブロンドの荒川静香(似てないか?・苦笑)。別にいかがわしいことは何もしていないのに、なぜかどこかしら妖しげなジャン・マレーのやること。上の青年のパンツの布の量がヤケに少ないような… (ちなみに下の人がジャン・マレーね)。いたいけな少年が「すげ~」ってな視線で見てる。いいのでしょうか(別に悪くはなかろう)。追記:ナチ占領下のパリでの舞台『アンドロマック』をめぐる大騒ぎについては、2008年4月28日のエントリー参照。
2009.03.02
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キンタマーニ高原に行くなら、午後より朝のほうがいい。お昼をすぎると曇ってしまう・・・というような情報をネットでゲットしていたのだが・・・1日でできるだけいろいろ見ようと欲張ったために、到着は午後1時をすぎた。棚田のあるデガラランから細い田舎道を行く。したたるような緑の並木が立ち並ぶギリギリ2車線の舗装路。どんどん標高が高くなり、涼しくなった。窓の外も高原めいた風景に変わっていくのが楽しい。道々、民族衣装の女性が頭に大きな籠を載せて歩いている姿を何度も見かけた。道端の露店には、みかんやマンゴスチンなどの果物が山積みで売られている。途中、みかん畑も通った。「ホラッ! みかんがなっています」と指差すガイド氏。・・・別にみかん畑って、日本でも珍しくはないけれど(笑)。ガイド氏は、キンタマーニ高原最大の見どころだというバトゥール山と湖が見下ろせる観光客向けバイキング・レストランになんとか午後2時までにねじこみたかった様子(たぶん、ランチタイムが2時までなんだろう)。晴れていれば、絶景が見下ろせるらしいのだが、あいにくMizumizuたちが着いたときには・・・霧しか見えませんでした・・・おまけにテーブルに着くやいなや、激しく雨が降ってきた。ウエイターが飲み物のメニューを持ってくると、Mizumizuたちの前に立ちふさがるようにしてガイド氏、「飲み物、何か頼んでください」と強要。それはウエイターの仕事だと思うのだが・・・「何にしますか?」畳みかけるガイド氏。メニューをまだ見てないっちゅーの。「マンゴージュースが美味しいですよ」そうですか。マンゴージュースは大好きなので、じゃ、それで・・・確かにここのマンゴージュースは濃厚で、相当に美味しかった。ホテルの朝食がマズすぎるだけという気もするが・・・ Mizumizu連れ合いは、ジンジャーティーをオーダー。これも非常にグッド。バリ島では、ジンジャー(生姜)をよく使う。コーヒーもジンジャー入りのものがあった。バイキングで並んでいる料理の味は、悪くはなく、そこそこと言えるのだが・・・結論から言うと、インドネシア料理って、あまり口に合わないとわかった。来る前は、ミゴレンというインドネシア風焼きそばに期待をしていたのだが、パンチのないのびた焼きそば以上のものだとは思えず。料理の彩りもイマイチ・・・ タイ料理は大好きなので、なんとなくインドネシア料理も気に入るような気がしていたのだが、幻想だった。そういえば、東京でもタイ料理やベトナム料理は評価が高いが、インドネシア料理の美味しい店というのは、あまり聞かない(知らないだけか?)。気に入った料理はとても少ないのだが、その数少ないうちの1つが、サテという串焼き(写真奥)。これは何本でもイケます。なのだが・・・サテはタイにもあるし(こちらのエントリーを参照)、正直言うと、タイのサテのほうが美味しかった。白米ご飯も、日本で典型的にマズいとされるボソボソした長米しか食べられなかった。タイの素晴らしい香り米がひどく懐かしい。けっきょくキンタマーニ高原のこのレストランでは、サテばかり食べていた気がする。それで請求された値段が、2人で270,000ルピア(2,700円)。物凄い量を食べる白人のおっさんたち↓↓には安いかもしれないが、サテばかり食べてるウチらにとってみれば、なんだかえらく高い。それにこのレストラン。ガイド氏は最初「1人100,000ルピア」と言っていたのだ。ところが入ってみると、飲み物は別に強要されるし(それもガイドに)、タックスが21%付いて、結局は上の値段。この21%というのは、別の店では「サービス料」と言われたのだが、とにかくバリのレストラン(少なくとも観光客の行く)では相場らしい。21%ものタックスだかサービス料がかかり、かつ飲み物も別に頼むのを強要されるのに、「1人100,000ルピア」とだけ言って連れて来るところが気に入らない。「1人100,000ルピア。それに飲み物とタックス21%が別にかかる」ときちんと伝えるべきだろう。額の大小ではなく、それはあくまで商売の透明性の問題。海外に行くと、なんでもかんでも安く感じた時代もあったが、それも今ははるかなる昔。東南アジアでさえ、「なんか高いなあ・・・」と思ってしまう東京人。それだけ東京のメシが安くてウマイということだ。いつの間にこうなったんだろう?肝心の景色のほうは、食べてるうちにだいたい雨が上がってくれて、霧の間にまに、山と湖を少し覗くことができた。緑の濃さはさすがに熱帯。火山と湖という眺めのせいか、北海道の摩周湖がまず頭に浮かんだMizumizu。このバトゥール湖は、ウィキペディアに「火口湖」と書いてあり、それにならったネット上の記事も多いのだが、こちらの航空写真を見ても、火口湖ではなくて、カルデラ湖だと思うのだが。バトゥール湖はカルデラの一部が湖になったカルデラ湖、そして食事をしたレストランは外輪山にあったのでは?しかし、飛行機で7時間半もかけ、さらに90ドルかけて車をチャーターして、何時間もかけてワザワザ来た場所が、「摩周湖みたい」じゃ、あんまり・・・なので、黙っておこうっと思ったとたん、横でMizumizu連れ合いが、「これなら、洞爺湖のウィンザーホテルからの眺めのほうが凄いよなあ・・・」あ~、言ってしまった。「こっちに中島の見える洞爺湖、反対側に羊蹄山だろ。絶景だよな」そうなのだ。北海道のウィンザーホテル洞爺湖は山の上にあるので、めったに晴れないという欠点があるのだが、そのかわり、晴れたらその絶景は、確かに凄い。しかし、飛行機で7時間半もかけ、さらに90ドルかけて車をチャーターして、何時間もかけてワザワザ来た場所なのだよ。強いて比べないようにしているMizumizuの気も知らず、「それに道東の美幌峠からの眺めと比べたって、あっちのが雄大だろ」寅さん、それを言っちゃあ、おしまいよぉ。
2010.02.11
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♪空をこえて~ ラララ 星の彼方 ゆくぞ アトム ジェットのかぎり~Mizumizuでもソラで歌える『鉄腕アトム』オープニング主題歌。You TUBE時代になって、アメリカ版『Astro Boy』も聞けるようになった。https://www.youtube.com/watch?v=d3UbaB7oPTwで、聞いてみて、え~! この歌詞、イイじゃん!!となった。てっきり日本語の歌詞を訳したものだと思っていたのだが、全然違う。日本語のほうがやさしい感じで、英語のほうはもっと勇ましい感じ。だが ♪Rocket high, through the skyとか♪Astro Boy, as you fly,Strange new worlds you will spy,Atom celled, jet propelled...なんてところは少し共通しているようでもある。とはいえ、「戦う」「ヒーロー」というのを思いっきり前面に出しているのは非常にアメリカ的だ。特に「すげー」と思ったのは、♪Everything is GO, Astro Boy!これ、すんごく米語的。簡単そうでいて、相当センスのあるネイティブでないと書けないようなあ…そして、続くラストの盛り上げが素晴らしい。Crowds will cheer you, you're a hero,As you go, go, go Astro Boy!Cが連続する発声のおもしろさ。Everything is GOで準備万端整えて、GO, GO, GOで皆がヒーローを後押ししている感じの強さ。日本語版とはずいぶん違って、やはりアメリカ的になってるなぁ……と、つまり、Mizumizuは日本語の主題歌が先にあったものだということを疑っていなかったので、そんなことを考えた。だが!調べてみたら、なんとオープニングの主題歌はアメリカ版のほうが先だったというではないか!!『鉄腕アトム』のアメリカでの仕掛け人とも言えるフレッド・ラッド氏と2009年に話したという「こはたあつこ」氏の記事。https://www.cinematoday.jp/page/A0002248「よく言われるんだがね。手塚氏とは、不思議とユーモアセンスも近かったよ」と語るフレッドさんが、アトムのテーマソングについて、面白いことを語ってくれた。実は、かの有名なアトムのテーマソングの歌詞はアメリカ版が作られなかったら、存在しなかったというのだ。えっ? それはどういうこと?「1963年に放映された日本語版『鉄腕アトム』の最初の5話には、歌詞はなく、楽曲だけだったんだ。でも、当時アメリカの子ども向けのテレビ番組には、必ず歌詞がつき、ボーカルが入っていた。だから、アトムのアメリカ版には、新たに歌詞を作る必要があった」と語る。そのため、「有名な作詞家であるドン・ロックウェル氏に、歌詞をつけてもらった」そうだ。「最初の3話の英語版を終えたぐらいに手塚氏がアメリカに来たから、映写室でアメリカ版を見てもらったんだ。冒頭のテーマソングが流れて、歌詞が聞こえてきたときに、手塚氏は本当にびっくりしていたね。その後試写室から出てきて、突然、日本に国際電話をかけ始めたんだ。そして大声で、何やら話している。恐らく、『おい、このクレイジーなアメリカ人たちが面白いことをやってくれたぞ! 高井氏を呼んで、日本版にも歌詞をつけてもらおうじゃないか!』としゃべっていたんだろうね」そう笑いながら話すフレッドさん。もちろん電話口の話の内容は彼の想像だが、その後、それまで歌詞がついていなかった日本版の「鉄腕アトム」にも、1963年の6話以降は、すべて日本語の歌詞がついたというから、電話口での会話の内容も的外れではないかも知れない。しかし、そんな楽しいエピソードを体験したフレッドさんも、初めは手塚氏と会うことにあまり乗り気ではなかったそうだ。「オリジナルを作ったアーティストは、たいてい英訳の吹き替え版に満足しないんだ。だから、手塚氏も同じだろうと。でも、会って本当に良かった。試写室から出てきた手塚氏は、満足そうに大きくほほ笑みながら英語ではっきりと、『Ladd, you are GOD FATHER of Astro Boy!”(ラッド、君は、アストロボーイのゴッドファーザーだ!)』と言ってくれた。わたしも思わず叫んだよ。「アリガトーゴザイマース。デモー、アナタハ「テツワンアトムー」ノファーザーダ!」とね。手塚氏の作品が、最高の名作だったからこそできたことだ。わたしのしたことはたいしたことじゃない」とうれしそうに当時を振り返った。そんなフレッドさんは、アトムのほかにも、「鉄人28号」「ジャングル大帝」「科学忍者対ガッチャマン」など、数々の日本アニメの吹き替え版を手掛けている。また、「海底少年マリン」「マッハGo Go Go」「美少女戦士セーラームーン」では、コンサルタントも務めたそうだ。さすがに81歳になった今は「若い者に任せている」とのことだが、ニコニコしながら冗談を飛ばす姿は、まだまだ元気そうだ。そんなフレッドさんに、吹き替え版を作るときに一番大切なことは何かと聞いてみた。すると今度は真剣な表情になり、「オリジナルを作った作家が言わんとしていたコンセプトをよく理解すること」という答えが返ってきた。実は、アトムの吹き替え版は、フレッドさんが手掛けた作品以外にも、ここ近年にほかのバージョンが製作されている。しかし、中には、「手塚氏が言わんとしていたメッセージが、薄れてしまったように見えるものもある」とフレッドさん。「わたしが幸運だったのは、手塚氏とじかに交流することができたことだと思う。だから、『鉄腕アトム』で手塚氏のユーモアや、彼が伝えたいメッセージが理解しやすかったのでは」と語る。では、手塚氏が「鉄腕アトム」で描きたかったことは何なんだろう?「アトムはロボットだったけど、ピノキオのように人間の気持ちを持っていたという点が重要だと思う。アトムは人間と同じように傷つきやすい面があり、人間になりたいというコンプレックスを持っていたんだ。手塚氏が生きていたら、そこをきちんと描くようにと指摘したのでは」と語る。また、「手塚氏はわたしよりもずっと賢い人だった。わたしが到底できない、未来を予想する力があった。彼には遠い未来に、人間が人間の仕事を奪ってしまうロボットを疎ましく思う時代がやって来るということが見えたんだ。手塚氏はそういう時代が来たら人間とロボットが共存するために、規則が必要になると考えていた。ロボットは人間に背いてはいけないと。でも、ロボットを支配する人間の方も、ロボットに対して責任を持たなければならないということだ」とも語る。生命に対する愛が手塚氏の重要なテーマだったことについては、「手塚氏は生命を愛していた。彼は「生きているものが大好きだった。だから『生命が宿っているものすべてに優しく接してほしい』と常に話していた。それが彼の作品にも表れていると思う」と語った。81歳のアメリカ人男性が、手塚氏についてここまで理解してくれていることが非常にうれしかった。(引用終わり)「オリジナルを作った作家が言わんとしていたコンセプトをよく理解すること」が一番大事だと語るフレッド氏。それを日本のテレビ局や映画関係者、それに漫画を原作にして脚本を書く脚本家にレクチャーしてくれませんかね? 『セクシー田中さん』の悲劇を発端に、今、まさに日本で議論されている問題ではないか!手塚治虫をここまで理解してくれた人物が『アストロボーイ』に関わってくれたのは、『鉄腕アトム』にとって幸運だったのだと改めて感動した。こういう人がいたからこそ、『アストロボーイ』がアメリカの子供たちの心に届いたのだ。先に紹介した英語版主題歌のサイトのコメント欄には、英語で多くの賛辞が寄せられている。どれほどアメリカで『アストロボーイ』が愛されたか分かる。作品には、もちろん、それが持つパワーという「車輪」が一番大事だが、それをヒットさせるには、別の「車輪」が必要なことが多い。手塚治虫という人は、とんでもない人間に引っかかることもあったが、それ以上にスケールの大きな理解者に何度も巡り合っている。図抜けた才能は、奇跡のような出会いを呼ぶということだろう。そして、なんとオープニングの主題歌はアメリカが先だったという驚きの情報。しかも有名な作詞家を手配してくれたようだ。なるほど。イイ歌詞なワケだ。おまけにそれを聞いて手塚治虫はただちに日本に電話して、誰かに何かを話していたという。この時に電話したのは、もちろん自社の関係者だっただろうけれど、日本語の作詞を担当したのは、ご存知、谷川俊太郎氏で、『二十億光年の孤独』を気に入っていた手塚治虫自身が谷川氏に電話をかけて依頼したそうだ。https://www.huffingtonpost.jp/entry/tanikawa_jp_5c5a8f05e4b074bfeb16225b「あれは手塚治虫さんが電話をかけてきて『(歌詞を)書いてみないか』みたいなことを言われて...。まだ若かったので『あの手塚さんから電話がかかってきた!』と感激しましたね」(引用終わり)谷川氏が英語の歌詞を見たかどうかは、明かされていないので分からない。アメリカサイドから歌詞をもらうことは簡単だが、それならそうと谷川氏が話しそうなものだ。あえて英語の歌詞は見せずに谷川氏のオリジナリティに期待したかもしれない。ところで、こはた氏の記述には誤りがある。青文字にした「それまで歌詞がついていなかった日本版の「鉄腕アトム」にも、1963年の6話以降は、すべて日本語の歌詞がついた」の部分。歌詞がついて放送されたのは31話から。ちなみに、すぐれた手塚評になっている『チェイサー』(コージィ 城倉)でも、第一話から歌が流れたことになっている。手塚治虫の足跡をものすごく丹念に調べ上げて描いた作品なのだが、ここは残念。Mizumizuも最初に『チェイサー』を読んだときは、第一話からあの名曲が歌詞つきで流れた――というか、歌詞が先にできたと思い込んでいたから、何の疑問も持たなかった。You TUBEには第一話のオープニングも上がっていて、それを見ると、上の『チェイサー』の映像の説明も違っている。https://www.youtube.com/watch?v=KGq6z1mEU9Q&t=2sチェイサーの映像は後期バージョンだ。それも上がっている。https://www.youtube.com/watch?v=lOn4lh-hPxUMizumizuは初期バージョンはうっすらと、後期バージョンはかなり憶えている。前期・後期の記憶がごちゃごちゃになってはいるが、初期バージョンでは、アトムの一発で悪者が将棋倒しになるところが、幼心にメチャ受けした。後期は飛行機の乗客に手を振る場面と雪山の木々の間を低空で飛んでいく場面が特に好きだった。しかし、アトムってカワイイな~。あの5本のまつ毛とか、大きな目とか、ふっくらした身体のラインとか(はあと)。手塚プロがYou TUBEの公式サイトで1963年版を限定公開してくれたのだが、その中のカウボーイのコスプレ(こすぷれ?)も似合ってた(はあと)。【中古】アニメが「ANIME」になるまで—『鉄腕アトム』、アメリカを行く
2024.03.04
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ミラノ・コルティナ五輪フィギュアスケート、ペア(個人)。まさか日本人のペアが世界トップに君臨し、五輪金メダルに輝く日がこようとは…! 団体戦のショートでぶっちぎりの82.84という点数を叩きだした「りくりゅう」。ところが、個人戦のショートではミスが出て73.11点。やはり団体戦の疲れが…と日本中がガッカリするなか、「リフト1回分の失敗だけ、大丈夫!」という超ポジティブな高橋成美氏の声が響く。何を隠そう、Mizumizuは高橋成美選手の、日本人離れした「コスモポリタンな性格」が昔から大好きだったのだ。インタビュー等で聞く現役時代の成美選手の口調・論調は、少女めいた細身、かわいい女の子そのものの外見からは想像できないくらい大人で、論理的で、男性的ですらあった。その日本人離れした精神をもつ女性が、マーヴィン・トラン選手と組んで世界選手権銅メダルまで来たときは、数年後に迫ったソチ五輪への期待が膨らんだものだ。だが、その後、トラン選手の日本国籍取得に法務省が難色を示し、成美選手の怪我があり、気が付くとペアは解消という結果になっていた。ソチ五輪で高橋成美選手と組んだのが木原龍一選手。だが、あまりに急ごしらえ過ぎた日本人ペアの結果は振るわず、「せっかくワールド銅メダルのペア女子が出たのに… やはり日本人男子ではダメなのか」とがっかりした記憶がある。その木原龍一選手が、奇跡的に相性の良いパートナーを得て、2026年の五輪に出場し、奇跡のような超絶演技で金メダリストになるなんて、一体誰が想像できただろう?もし、あのとき…トラン選手が、なんとしても成美選手と五輪に出るのだという強い意志をもって日本に来ていたら? もし成美選手の怪我がなかったら?成美選手が木原選手に声をかけることもなく、木原選手はそのまま引退してしまっていたかもしれない。「りくりゅう」は巡りあうべくして巡りあった運命の相手のように見える。だが、そこに至るまでのドラマの生みの親は、実は2012年にペア競技でのメダルという境地に達した、高橋成美氏なのだ。「りくりゅう」金メダルの実況も、彼女の名声を一挙に高めることになった。「宇宙一です!」なんて、さすが白髪三千丈の国の文化の中で育っただけのことはある。インタビューで涙ながらに喜ぶ姿を見たとき、まさにこのドラマチックな五輪金メダルのスタートラインは、高橋成美がシングル選手だった木原龍一にかけた「ペアをやろうよ」という言葉にあるのだという思いに強く打たれた。日本人離れしたコスモポリタンな精神をもつ、高橋成美というクレバーな存在。木原龍一というダイヤモンドの原石を発見した彼女の今後の活躍は、今回の金メダルによって、より確からしいものになったと思う。「りくりゅう」の金メダルを讃えるなら、同時に困難に見舞われながらも道を切り開いてきた高橋成美(彼女はスポンサー探しも自分で動いたのだという)というパイオニアの個人史にも思いをはせてほしい。
2026.02.17
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名優緒方拳がなくなって10日あまり。遺作となったTVドラマも好評だと聞く。亡くなるまでの経過を聞くと、この作品の完成と同時に力尽きてしまった感があるだけに、高視聴率という結果に結びついたのはよかった。緒方拳は個人的に特に好きということはなかったが、素晴らしい役者さんだったことは確か。一番印象に残っているのは、『復讐するは我にあり』(今村昌平監督)の壮絶な演技。この映画も好きか嫌いかと言われれば、好きとは答えられないが、感銘を受けるにせよ、吐き気をもよおすにせよ、無関心ではいられない傑作であることに疑問の余地はない。緒方拳の追悼番組が放映されているが、ただ1つ、彼の代表作であるにもかかわらず、日本で公開されていない映画がある。1985年制作の『MISHIMA: A Life in Four Chapters』(ポール・シュレイダー監督)がそれ。緒方拳死去にともない、三島の遺族が意見を変え、日本公開が決まらないものかとチラと思ったが、当然そんな話にはならなかった。コッポラ&ルーカスのプロデュース、カンヌ映画祭ではパルム・ドールにノミネートされ、最終的には芸術貢献賞を受賞している。この作品で三島由紀夫を演じたのが緒方拳。他にも永島敏行、佐藤浩市、沢田研二、板東八十助などビッグネームがずらり。ところが、「例によって」三島の遺族の抗議によって日本公開が阻まれてしまった。「例によって」というのは、三島の未亡人の平岡瑤子氏(彼女が亡くなったあとは子供たちがその意思を引き継いでいる)による数々の三島関連書籍の出版差し止め請求は有名だからだ。映画『MISHIMA』に対する抗議とおそらくは同じ動機でなされたのが、三島作品の英訳を手がけたジョン・ネイスンの「三島由紀夫―ある評伝」の日本語版への抗議。ネイスンはこの中で三島は同性愛者であり、家庭生活では夫や父の役割を「演じているだけ」だったと書いた。すると瑤子夫人が出版社に猛抗議し、同書は回収された。再出版されたのは瑤子夫人の没後。映画『MISHIMA』で描かれた三島像は、このネイスンの評伝にもとづくと思われる部分がある。それが遺族には気に入らないということだ。そのほかにも共通性があると思うのは、1998年に三島の遺児が三島の愛人だった福島次郎と文藝春秋社に対して起こした『三島由紀夫――剣と寒紅』出版差し止め請求。この作品は福島が三島との行為も含めて非常に赤裸々に2人の関係を綴ったもの。同時に平岡(三島)家の決して褒められたものではない内情もあからさまになってしまった。『剣と寒紅』に対して三島の遺児が起こした裁判は、表向き(?)は三島の書簡を福島が勝手に公開したことによる著作権侵害だが、実はそれよりも、三島の死後の彼の実母に対する遺族のぞんざいな扱いなど、表ざたにされたくない話が暴露されてしまったことが大きな動機ではないかと思う。『剣と寒紅』裁判は最終的には福島側が敗訴するのだが、すでに出版された書籍をあちこちの図書館が収蔵してしまったから、一般人でも読むことは可能。杉並区の図書館にもちゃんとある(えらいぞ!)。そもそも三島由紀夫自身も生前は自作でプライバシー侵害で訴えられている。おまけにあのチョー人騒がせな死に方。そのくせ遺族の名誉意識、権利意識はほとんど選民思想に近い。三島由紀夫ほどの存在となれば、さまざまな研究がなされてしかるべきだし、そのためには、多少(いや相当)大きなお世話のお下劣な暴露話な話が含まれているとはいえ、福島次郎のような人の証言は貴重なのだ。個人的には『剣と寒紅』は三島の子供っぽさや身勝手さや滑稽さや俗人ぶりを書くことで、福島次郎自身の志の低さと劣等感のあまりの強さが暴露されていると思うし、感想としては、そもそもキミたち、別にお互いに愛し合ってもいないのに、なんで付き合ったわけ?といったところ。簡単に言えば、三島が福島を書生にしたのは、自分のファンである田舎の文学青年のカラダが好みのガッシリ体形だったから。福島が三島と肉体関係をもったのは、三島のネームバリューで自分も大手出版社に紹介してもらいたいという打算があったから。三島は福島の文学に興味などなかったし、正真正銘の(?)ゲイである福島のほうは三島の貧弱なカラダにどうしても「燃え」なかった(それは三島がボディビルで肉体を改造したあとも同様で、要するにタイプじゃなかったのだ)。肉体的には生まれながらに「勝ってる」福島は、三島のカラダを徹頭徹尾バカにしている。もし、ほんの一瞬でも三島に対して本当の愛を感じたことがあったのなら、決して書かないだろうような表現を使って。『剣と寒紅』についてはその程度の感想しかないのだが、それでも三島の遺族がこの本を世の中から消そうと画策したことには、憤りを感じる。そして、日本人が日本語で演じた映画『MISHIMA』を、日本人が観賞する機会を奪われたことにも同様の感情をもたざるをえない。『MISHIMA』が面白いとかつまらないとか言う前に、それを論じる機会さえなくなってしまったのだから。実在の人物をモデルにした映画は、ほとんど家族には気に入らない。『サウンド・オブ・ミージック』でさえ、マリア未亡人は、映画に描かれた夫が実像と違いすぎると抗議した。だが、彼女は映画の権利をすでに売ってしまっていたので、どうにもできなかったのだ。現実とはかけ離れていたかもしれないが、映画としての『サウンド・オブ・ミージック』が大変な傑作で、時を超え、空間を超えて、今でも多くの人々に感動を勇気を与えているのは事実だし、それはマリア夫人の想像を超えた結果だった。作品というのはそういうものなのだ。残すべきか消すべきか、決めるのは本人でも、ましてやその家族でもない、世の人々なのだ。自分たちのもっている権利を最大限振り回し、自分たちが気に入らない作品の流通を妨げる。それで三島の名誉を守っているつもりなのだろうか。逆だと思う。そんなことをすればするほど三島の価値は下がるばかり。本当に、最低の家族だ。
2008.10.16
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日本橋高島屋で珠玉と呼ぶにふさわしいストールを見つけた。カシミール製。マハラジャに献上するターバンを制作していた歴史ある手刺繍工房が、ヨーロッパや日本のデザインを採り入れてモダナイズし、「ターラ・ブランカ」というブランドで世界展開をはかっているとか。夏なので薄手のシルクウールにさまざまな刺繍を施したストールが並んでいたが、一番気に入ったのが、パイナップルをモチーフにしたという、こちら。ブルー系やレモンイエロー系というMizumizuの好きな色彩に赤~ピンクの華やかなカラーも散らしている。デザインは大胆で、南国的。アジアンな雰囲気でありながら、ヨーロッパのデザインの洗練も感じさせる。西洋と東洋が見事に融合している、まさに「作品」と言いたい逸品だった。はおらせてもらうと、シルクウールのしなやかで軽い布がしっかりと身体にまといつき、冷房の効いている館内で肩がほんのり暖かい。このごろは夏でも薄手のストールを巻くのがはやりだが、これだけどこでも冷房が効いていたら女性には、おしゃれというより必需品かもしれない。長くて豪奢なストールなので、普段使いにはtoo goodだが、観劇やディナーへのお出かけには活躍してくれそう。Mizumizuが気に入ったストールは「ターラ・ブランカ」の中でも最上級ラインだったらしく、「買います」と告げると、熱心にブランドの説明をしてくれた店員も大喜び。カード清算をしに奥へ行くときは、小躍りするような歩調だった(笑)。モノがいくらよくても、買ってもらうためには、やはりそれを売り込む店員の力というのも大きい。「ターラ・ブランカ」のサイト(こちら)は、確かに美しいストールが並んでいてlook book(製品カタログ)は見ていて溜息ものだが、それだけではやはり買おうというとこまではいかない。ネット販売が発達しても、最初にお客をつかむには、こういうふうに、触れて、試して、勧めてもらえる、対面販売でないと難しいだろう。Mizumizuの買ったストールは、アリー刺繍というものが施されているとか。アリー刺繍とは、細い鈎針を使い、下から糸をすくって刺繍する技法で、円を描くように色を変えながら一針一針さしていくということだ(いただいたブローシャより)。インド・カシミールの刺繍製品というのは、安いものが日本で多く出回っているが、ここまで技術が高い刺繍製品は、さすがにめったに見ない。問題は洗濯できるかどうかだな、と思い、店員に聞いたのだが、案の定、困ったような顔で、「ドライクリーニングも含めて、基本、洗濯はできないと考えたほうが」と言われた。正直な答えだ。ファブリックというものは、上質になればなるほど、洗えなくなってくる。風合いが変わってしまうし、どうしても傷んでしまうから。「汗などがついたら、霧吹きで水をかけて蒸発させるぐらいで…」とのアドバイス。つまり、汚れたらアウトということだ。気を遣うなあー(笑)。旅先に持っていくときなどのために、薄いポーチをつけてくれる。繊細な生地なので、こうしたものは必須。暑い国にバカンスに行くときに、ホテルのディナーなどで羽織るのにぴったり。このポーチも役立ちそうだ。
2017.08.01
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水沢うどん→伊香保露天風呂→榛名神社→榛名ロープウェイと回って、いよいよ伊香保温泉といえばココ、の石段街にやってきたMizumizu+Mizumizu連れ合い。おお~、賑わっている。「THE温泉町」と言いたくなる、これぞ名湯・伊香保の風情。こちらが伊香保で入ったもう1つの温泉。「石段の湯」。立地の良さで知られる共同浴場。伊香保には「黄金の湯」と「白銀の湯」という2種類の泉質があるのだが、この「白銀の湯」というのがクセモノ。1996年に開発されたもので、成分こそ温泉だが、ほとんど効能はないと言われている。観光客が増え、温泉の供給量が間に合わなくなったことが「白銀の湯」の開発のきっかけ。名湯・伊香保の湯はあくまで古くからある「黄金の湯」なのだ。伊香保に来たのなら、設備はよくても泉質の悪い「白銀の湯」よりも、規模は小さく、清潔度は落ちても「黄金の湯」に入りたい。というわけで、立地もよく、黄金の湯かけ流しだという「石段の湯」を2番目(そして日帰り旅の最後の)温泉に選んだ。石畳の温泉街をそぞろ歩き、饅頭や食事をすませたあとに入浴したのだが、この「石段の湯」、入ってみて意外なことを知った。かけ流しはかけ流しなのだが、なんと「塩素消毒」をしているという。えっ?その表示にかなりテンションの落ちるMizumizu。源泉から遠く、温度が高くないたいめに、雑菌が繁殖する恐れがあるということだろうか? 詳しい人に聞いたわけではないから、はっきりわからないが、かけ流しの温泉が、塩素消毒するとは予想外だった。別に塩素臭がするということはない。言われなければ、単純に源泉かけ流しの100%温泉だと思っただろうから、きちんと表示があるのは良心的(というか、消毒の有無表示は義務だが、全国の温泉施設すべてが、忠実に義務を順守していると思えないのだ)だが、ネットの観光案内では、そこまで書いていないのがほとんど。共同浴場だから混んでいて、温泉地に来たゆったり気分も味わえずに終わった。露天がないのは承知の上だった。最初に野趣あふれる露天風呂に入るから、2番目は体が洗えて、かけ流しならいいだろうと思ったのが、あまりに共同浴場・共同浴場しすぎていて、伊香保まで来た甲斐がない気がしてしまった。こんなことなら、「黄金の湯」を引いている温泉旅館あるいはホテルの日帰り入浴を利用すればよかったかな? しかし、伊香保は水道水を温泉と偽って営業していた温泉旅館が大問題になったことがあり、それがたとえごく一部だったとしても、いまだに印象がよくない。あまり下調べをする時間もなく決めてしまったのだが、立地の良さのほかは、東京からわざわざ来て入るほどの浴場でもなかった。泉質だったら、源泉に一番近い「伊香保露天風呂」が最高だろう(ただし、体を洗ったりはできないが)。伊香保で塩素消毒かあ… 効能豊かなお湯というイメージだったのに… そう考えると、山口に散在している「俵山温泉」「柚木慈生温泉」「(川棚)小天狗温泉」など、素晴らしいじゃないですか。俵山温泉は、旅館のほとんどが内湯をもたずに少ない効能豊かなお湯を守っている。そのすぐれた泉質を、「西の横綱」と言う人もいる俵山温泉の共同湯には、消毒なしのかけ流し浴槽がちゃんとある。柚木慈生温泉は、体を洗うのもやっとの小さな温泉で、お世辞にもきれいとは言えないが、炭酸ガスその他の有効成分を大量に含む、全国でも珍しい泉質。小天狗温泉は、厳冬期に加温するのみの、源泉100%かけ流しの含弱放射能泉。ここも小さな旅館の温泉で、一度入ってどうということもなかったが、「本当の温泉」を守る姿勢が素晴らしい。とはいえ、伊香保の温泉街の風情と賑わいは、見て、歩いて、楽しめた。一晩泊まってもいいかな…という気持ちにもなった。車の通らない道が、温泉街のメインストリートになっているというのもいい。石畳の道を横に折れて入っていくと、旅館がある。こういう立地は最高だろう。古い伊香保町の絵図もあった。それを見ると、昔はこの石段がもっとずっと横に広かった様子。夕方になってくると、宿泊客が浴衣でそぞろ歩き始める。日帰りの身とすると、なんとなくうらやましい。急な高低差のある道の眺めは、変化に富んでいておもしろい。歩いている人にも風情がのり移るようだ。階段を登りつめると、神社があり、その先をさらに歩くと、「伊香保露天風呂」に行ける。やはり東京に住んでいたら、一度は来ないと、伊香保。楽しい温泉街散歩だった。PS:伊香保の「黄金の湯」を引いている旅館は以下:http://www.ikaho-koganenoyu.net/
2014.06.01
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<先日のエントリーから続く>ジャン・コクトーもジャン・マレーも、青年や少年をモチーフにした絵が多いという点で共通している。長くジャン・コクトーと暮らしたせいか、あるいは一芸術家として心酔していたせいか、ジャン・マレーのドローイングはコクトーの影響が顕著だが、2人の描く人物は明確に違う部分がある。ジャン・マレー作品には多分に、自分を投影している少年・青年像が多いということだ。これは、晩年に書いた児童小説『ノエル』(日本では『赤毛のギャバン』として刊行)のための挿絵だが、もともと物語が自分と愛犬ムールークの実話を下敷きにしているせいか、主人公の少年は、ジャン・マレーの分身のような存在だ。マレーは実生活でも、トルコやイタリアで出会った貧しい少年を養子にしようとして、周囲に反対されている。実際に養子にしたセルジュ・アヤラも、当時19歳の身寄りのないジプシーの青年で、本人の意志に反してジャン・マレーに売られようとしたのが2人の出会いだった。こちらは実際に愛犬ムールークを肩にのせたジャン・マレー。マレーの作品には、しばしば「非常によく似た男女」が登場する。たとえば、『アダムとイブ』と題された油絵。様式的には、新古典派+素朴派÷2といったところ。描かれた男女は、双子のようによく似ている。そして、男性は、大きな眼といい、たくましい肉体といい、どこか若い日のジャン・マレーと共通する。肌の表現はなまなましくはなく、どちらかというと陶器か何かのよう。裸体もまとわりつく蔦も、同じような質感で描かれている。一方のジャン・コクトーは、憧れを追求した素描家だった。コクトーのドローイングには、ダルジュロス、水夫リシャールといった、過去に強く惹かれた男性たちの身体的特徴が常に表現されている。『白書』で、少年の「私」は、全裸の青年の肉体の「黒々とした3点」に強烈な磁力を感じている。そして、コクトーが愛する人の寝顔を好んだことは、マレーの自伝からも、コクトーがラディゲ・デボルト・キル・マレー・デルミット全員の寝姿を描いていることからも明らかだ。これは、そうしたコクトーの嗜好がはっきりと表われた作品。有機的な線で描かれた眠る青年の表情は神秘的で、崇高ですらある。それがたくましい肉体の「黒々とした3点」の生々しさと鮮やかな対比をなしている。もう1つ、ジャン・コクトーが男性の肉体で好んだもの。それは当然のことながら、「神秘の隆起」。『白書』の「私」は、少年時代、使用人のその部分に惹かれて、「突進した」とある(困ったガキだ…)。だから、その部分は、常に入念に描かれる。このドローイングには、「ツーロン」とある。ツーロンは、『白書』で「私」が「魅惑のソドム」と呼んだ港町。コクトーが、24歳のジャン・マレーを最初の旅行に誘ったのもこの街だった。一方のジャン・マレーのドローイングは、もっと装飾的だ。男性あるいは女性の肉体の性的な部分に着目している様子はほとんどなく、むしろ華やかな衣装のおりなす襞とか、背景のディテールの美しさに心惹かれているようだ。ジャン・マレーの描く線は、コクトーのような有機的なメリハリには欠けるが、均一に力強く、緻密な様式美の中に、奇妙な「歪み」があり、それがなんともいえない魅力になっている。これなど、ビアズリーの影響もあるように思う。そして、描かれた人物はどこか奇妙に歪んでいる。多くの友人(愛人)と長期・短期に一緒に暮らしたジャン・コクトーと違い、ジャン・マレーが一緒に暮らしたといえるのは、ジャン・コクトーとアメリカ人バレエダンサーのジョルジュ・ライヒしかいない。それぞれ10年ずつと、スパンも長い。この2人の特別な人との思い出を、ジャン・マレーは晩年まで大切にしている。これはモンマルトルの自宅のアトリエでのジャン・マレー。マレーがモンマルトルに引っ越してきたのは1980年、65歳のころ。壁にジョルジュの肖像画、イーゼルにコクトーの肖像画をのせている。いずれも自作の作品だ。晩年のジャン・マレーは絵画・彫刻・陶芸制作に打ち込み、多くの友人と親しく交わっているが、コクトーやライヒとの関係のような密接なつながりを誰かともとうとした気配は一切ない。コクトーがそうだったように、マレーも人生の特に後半を「友情」に捧げた。そして、マレーは、そういう自分は「とても幸福で幸運な人間」だと、亡くなる5年前の著作『私のジャン・コクトー』で胸を張っている。追記:ジャン・マレーとジャン・コクトーのツーロン旅行については、2008年3月26日からのエントリー参照。
2009.03.01
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やはり砂漠の国に来たからには、ラクダも見たい。アブダビからデューンドライブに参加したときにラクダ君たちに出会った。ラクダ君、あまりにカワイスギル! なんでそんなとぼけたお顔をしているの?思わずアップで撮ってしまった。睫毛が長いのは、やはり砂から目を守るためかも。デューンドライブのポイントに着いたところにいた、観光客相手にラクダ乗りをさせるお兄さん。できすぎの構図になった(笑)。Mizumizuも乗ってみたが、案外快適。馬よりずっと高いので眺めがいい(笑)。注意するのは、ラクダが膝をつくとき、つまり降りるとき。ガタッとなるので振り落とされそうになっている人もいた。
2008.01.19
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タイでは、もち米に甘いココナッツミルクをかけたものとマンゴーを一緒に食べるデザートがある、というのは聞いていた。マンゴー・ウィズ・スティッキー・ライス、タイ語ではカオニャオ・マムアンというらしい。カオニャオがもち米のことで、タイのもち米は、日本のそれとはまた風味が違うのだが、とても美味しい。以前「バーン・カニタ」というバンコクのレストランに行ったとき、ウエイターに勧められたのだが、確か日本円で1000円以上という、タイのデザートにしては破格に高かったので注文しなかった。日本ではタイ産マンゴーは高いが、バンコクの市場ではとても安く売られているし、それを切って、あとはもち米にココナッツミルクをかけるデザートにそれほどシェフの腕が関係するとも思えない。良質のもち米を使うにしても、1000円超というのは、いかにも日本人向け価格のような気がしたのだ。ちなみにオリエンタル・ホテルの「リム・ナーム」にも「ヴェランダ」にも、マンゴー・ウィズ・スティッキー・ライスはなかった。元来簡単なデザートだから、いつか食べる機会もあるだろうと思っていたのだが、バンコクでは案外見かけない。だが、今回バンコクからチェンマイに飛ぶためにやってきたスワンナプーム空港で、とうとう見つけた。この店にありました。マンゴーが半分だと50バーツ(150円)。1つ丸々だと100バーツ。しかし、そもそも米と果物を一緒に食べるって、ど~なのよ、と疑う気持ちもあったので、とりあえずハーフサイズで試してみることにした。一口食べての感想は… なかなかイケます。まさに、ココナッツ風味の甘いモチモチのもち米と、少しねっちりとした完熟マンゴーの組み合わせ――そうとしか説明できないのだが、もち米の甘さがマンゴーにつきものの、ある種の青臭さを消している。これなら100バーツのにしてもよかったな、というのが結論。階は違うのだが、同じ名前の店で、もう1つ試してみたのが、コレ↓中の黄色いひも状のモノは「フォイ・トーン」と言って、溶き卵を熱したシロップに落として作る。それを半分くるんでる煎餅みたいなのは、タイ語では何と言うのか知らないが、口当たりがパリッとしてない、湿気てしまった「亀の甲煎餅」のよう。あとは干しブドウとナッツのかけらが入って、10バーツ(30円)。お味は…これは、個人的には1度でいいです。フライト時間まで、なんとなくプラプラ過ごしていると、巨大な蝋細工が目に入った。猿がまたクレープをお供えしてる。ワット・ポーでも見たのだが、このクレープは何ざんしょ。そんなことを考えながら、さらにプラプラしてると、低い舞台のような台座で、タイの伝統的な衣装に身を包んだ、宮崎あおいを少しふっくらとさせたような美女がこちらに気づいて、横座りの姿勢を正座に直した。な、なに?と思わず見てしまうと、視線を絡めて、手を合わせ、こちらに向かってにっこり微笑んで礼をする。もちろんMizumizuもニッコリとご挨拶。で…それだけでした。さすが、タイ。空港に微笑み係がいるらしい(爆)。話は少し前後するが、バンコクで1泊して、朝食はできればオリエンタルの「ヴェランダ」で、ポメロ・サラダでも食べたいと思っていたのだが(「リム・ナーム」のほうは朝はやらない)、ディナーのあとヴェランダで聞いてみたら、朝のメニューは昼以降のメニューとは違うという。見せてもらったのだが、洋風のものが多く、食指が動かなかった。「ヴェランダ」は、タイ料理以外はダメだった。なので、ホリデイ・インとオリエンタルの間にあるちょっとした屋台街で朝を食べることにした。夕暮れ時には、あの排気ガスの充満するシーロム通りにテーブルと椅子を出して、現地の人たちがいろいろなものを食べている。路地を入ったところにはグリーンカレーを売る店もあって、結構賑わっていた。ところが…!それは、あくまで午後からの話だったよう。朝早い屋台街は、し~んとしていて、ほとんどの店はまだ営業していなかった。なんとか1つ開いてる麺屋を見つけて、例によって「センミー」を2人でオーダー。ここのセンミーはスープがナンプラー(漁醤)味で、ただ単にしょっぱいだけの科学調味料風味ふんだん(苦笑)。ハズレました(再苦笑)。オリエンタル・ホテルで優雅にポメロ・サラダの朝食を食べるアテもハズレ、屋台もハズレ、昼の飛行機までの時間がえらく間延びした、つまらないものになってしまった。唯一の収穫は、マンゴー・ウィズ・スティッキー・ライスは案外口に合うとわかったことだけだった。……バンコクからチェンマイへは、小一時間の空の旅。チャンマイの空港から市内へは、タクシーでだいたい120~150バーツだという情報を事前にゲットしていた。いざ、飛行機を降りて、荷物を受け取ると、タクシー紹介窓口に行った。受付のお姉さんに、「マンダリン・オリエンタル・ダラ・デヴィ」と言ったのだが、なかなか通じない。ようやく、「オ~、ダラ・デヴィ」と理解してくれ、行き先のパネルを指して言われた値段は、「200バーツ」え?結構高い。目を凝らして確かめたが、間違いなく、DHARA DHEVI 200バーツと書いてある。あとでダラ・デヴィで聞いたところによると、チェンマイのタクシーは、「タクシー・メーター」と車体に書いてあっても車内にメーターはなく(はあ? それじゃ、メーター・タクシーじゃないじゃん)、交渉制なのだが、ダラ・デヴィは市内からでも、空港からでも、200バーツと決まっているそうだ(それじゃ、交渉制じゃないじゃん)。ダラ・デヴィは、チェンマイの旧市街からだと20分ぐらいかかる辺鄙なところにあるホテル。泊まるのは、金持ち(地元民から見れば)と決まってるから、タクシーの運転手同士でカルテルを結んでいるらしい。まあ、600円だから、チェンマイの相場からすれば相当高いのだろうけれど、新宿から成田までバスで3000円も取る国からやって来た旅人から見れば十分安い。200バーツ以上請求されることはないワケで、返って気楽かもしれない。バンコクの空港のように、紹介料が50バーツ余計にかかるということもない。すぐにドライバーがやってきて、そろってタクシー乗り場へ。外は、暑い。確かに暑いが、といって、曇っているせいか、東京以上ということもない。チェンマイはもともと標高が高く、タイの中では涼しいところで、日本の沖縄ぐらいの亜熱帯気候なんだとか。そう言われれば、こんもりと濃い緑の山の風情が、なんとなく日本みたい。熱帯らしいヤシの木もあるにはあるが、バンコクよりずっと少ない。タクシーは混む市内を通らずにダラ・デヴィへ。20分ぐらいで、到着。タクシーの運転手は、いかにも「一生懸命お世辞笑いしています」というおじさんなのだが、不思議と感じは悪くない。なんとなく、日本の田舎にもいそうなタイプだった。金持ちらしいガイジンさんが来て、あまり扱いに慣れてないし、英語もうまく話せないが、必死に感じよく接しようと努めている――そんな態度。「アハハッ、アハハッ」という、冷静に見ると、かなり不自然なお世辞笑いが、ますます日本人みたい。父親のような年のおじさんに、そこまで気を使わせて、返って恐縮してしまった。
2009.07.25
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<ジェイク・ファンの皆様は明日おいでください。ジェイク・ネタは明日からです>昨日、レオナルドが30代後半のときに拾った少年がモデルとされる横顔の素描を紹介したが、この少年は本名はジャコモという。彼はレオナルドからルイジ・プルチの叙事詩にちなんだ「サライ(悪魔の意味)」というあだ名をつけられ、10歳でレオナルドと同居を始めてからずっと25年以上にわたって、レオナルドがフランスで亡くなるまで生活を共にした。なぜレオナルドが彼をサライと呼んだかといえば、それはこの少年が、その美貌と裏腹に、非常に品行が悪かったからだ。レオナルドの手記には、このサライに対する悪口が綿々と綴られている。彼に何を買ってやったとか、彼が何を盗んだとか、彼が何を食べたとか、いちいちその値段までつけて詳細に記録し、「泥棒、うそつき、頑固」などと罵倒している。それならば、さっさと別れればいいことなのに、レオナルドとサライはなぜか離れない。サライの「悪さ」がいつごろまで続いたのかわからないし、それが生来のものだったのか、それとも自分を縛ろうとする高名な画家への少年らしい反発心からだったのかはっきりしないが、ともかくレオナルドは手記では悪態をつきながらもサライに服や靴、指輪や首飾りなどを買い与え、彼の家族の援助までしたうえに、最期にはサライに家を含めた遺産も残している(いいな~、お付き合いするならこういうヒトだよね)。そして、そのサライとの生活を暗示するようなレオナルドの素描がイギリスにある。ソクラテスが死の直前、弟子を集めて行った論議を弟子のプラトンがまとめた『パイドン』から想を得て描いた「快楽と苦痛の寓意(アレゴリー)」だ。『パイドン』においてソクラテスは、「快楽と苦痛とは1つの頭についた2つの肉体」だと述べている。それをレオナルドは1つの肉体に2つの顔をもつシャム双生児のような寓意像にうつしかえて表現した。さらに、この双生児の顔はまったく違っており、2つの顔のうち1つは少年のように若く、もう1つはそれよりずっと年上で、老年期にさしかかっているように見える。少年はサライの素描に似ているという人もいるが、どうもMizumizuにはサライのようでもあり、自分の少年時代を描いたといわれる「キリスト洗礼」図の天使のようでもあるように見える。少年は片手に「葦竹」をもち、もう片手にはコイン(お金)をもっていて、それが地面に落ちている。年上の男は花のついた植物(とげのある薔薇だというが、よくわからない。果物かもしれない)とまきびし(敵から逃げるときにばらまいて、相手の足を止める道具)をもっている。まきびしもやはり、一部が地面に落ちている。そして、この素描には、鏡文字といって、鏡にうつさなければ読めない、さかさまに書かれた文字による注がある。この鏡文字はもちろんレオナルドが書いたものだ。レオナルドという人は元来左利きで、私的な手記などを綴るときなどは、あたかも人に読まれることを避けるかのように、決まってこの鏡文字で書いた。もちろん、普通に書くこともできた(ホント、すごいというか、変な人だ)。年上の男がもっているのは、求愛のプレゼントに使えそうな植物(あるいは快楽そのものを象徴する果実)と、相手から逃げるときに使うまきびしという道具であり(しかも、一部を地面に落とすことで、もう使い始めている)、明らかにそれは、背中合わせの少年に対するアンビバレントな感情を暗示しているようだ。少年の手からコインが落ちているのは、与えられた金の浪費を象徴しているように思われる。そして葦竹については、素描に添えられた注釈に説明がある。この注釈は一般に、「寓意に対する道徳的解釈」だとされている。それはざっと以下のとおりだ。「これは苦痛とともにいる快楽。双子なのは決して離れることができないから。背中合わせになっているのは、2人がまったく対照的であるため。彼らの下半身は1つになっている。なぜなら、快楽の根源は苦痛のない仕事であり、苦痛の根源は虚栄と気まぐれな快楽だから。だから1人は右手に葦竹を持つ。葦竹は役立たずで何の強みもない。だが、刺されると毒にやられる。トスカーナでは葦竹はベッドの脚の材料になる。(中略)ここでは、さまざまな空しい快楽が行われる。不可能なことを想像する心と、しばしば命取りになるあの喜びの両方が」。これが寓意に対する道徳的解釈だろうか? とてもそうは読めない。むしろこれは素描を描いたレオナルドのモノローグのように読める。快楽の象徴であるベッドの材料となる葦竹は、「役に立たないが、刺されると毒にやられる」もの。そしてそれをもつ少年は、年上の男とは「対照的でありながら、離れられない存在」。ベッドでは「不可能なことを考え、しばしば命取りになるようなあの喜び」にふける。「不可能なことを想像する」とは誇大妄想を言い換えたものだろう。そして、レオナルドは自他共にみとめる誇大妄想狂的性格だった。彼は実現不可能な壮大な都市計画を立てたり、実際に使うことのない武器を考案したり、当時の技術ではできるはずのなかった巨大なブロンズ像制作に挑んだりしていた。昨日紹介した「5つのグロテスク」で、グロテスクな顔に囲まれている中央の誇大妄想の男は、晩年のレオナルドの顔にそっくりで、自身をモデルに描いたものだとされている。だから、ここにはレオナルドのサライに対する感情と彼との生活が暗示されているようにしか思えないのだ。下半身が1つになっている画はサライとの関係を示している。単にソクラテスの言葉を寓意像で表わすなら、そのオリジナルの言葉にしたがって、頭が1つで肉体を2つに描けばいいことだ。実はレオナルドはもっと若いころ、具体的にいうと24歳のときに、17歳の少年に対する買春の罪で告発されている。当時のフィレンツェでは、男色に対する罰は大変に重いものだった。罰金、鞭打ち、火刑、去勢、片足の切断。ただし、こうした罰は見せしめのためには行われるものの、有力者は事実上お目こぼしにあずかっていた。このときはレオナルドの罪は不問にふされる。この告発はデッチアゲで、だからレオナルドは罰を受けなかったのだと主張する人もいる。無罪放免にされたことが、告発が陰謀であったという証拠だというのだ。だが、このサライとの出会いとその後の生活を考えると、告発がまったくの事実無根だったとも考えにくい。レオナルドは庶子とはいえ、その父のフィレンツェにおける政治的な地位は高かった。24歳の画家としてのレオナルドの名声はそれほどのものではなかったから、もし政治的な力で罰をまぬがれていたとしたら、それは父親が裏で動いたからかもしれない。だから、「しばしば命取りになるあの喜び」が何かということはハッキリしている。若き日のレオナルドに対する告発が事実無根だという人や、サライとの関係を友情だとかレオナルドの慈愛だとかいう人たちは、万能の天才、ルネサンスの巨匠、人類史上でも指折りの大天才が、男娼を買ったり、教養のないロクデナシの美少年に貢いだりしていては困るのだ。自分たちが抱いている偉大なるレオナルド像のイメージが壊れるからだ。だが、人の仕事の才能や能力とセクシャリティは、本来何も関係がない。ルーブルで人が群がっているガラスケースに入った「モナリザ」や、ミラノで長々と行列ができる、剥落が激しく、いくら修復しようとしても、もうとっくに失われてしまった名画「最後の晩餐」と違って、この寓意画はほとんど人に知られていなし、注目されることもない。だが、人に読まれることを拒否するような鏡文字が添えられた、このひっそりとした地味な素描を見ると、レオナルドの内面のダークサイドから、非常にプライベートな生の声が響いてくるようで、なんとなく胸を打たれたりするのだ。
2008.02.01
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今日午後杉並で2度にわたる集中豪雨あり。お昼すぎまで晴れていたのに、にわかに掻き曇り、叩きつけるような雨。しばらくしてあがったと思ったら今度は雷が来た。雷が鳴って一瞬パソコンが切れてしまい、書きかけのブログが消滅。……過電流を心配したけれど、パソコンは無事だった。杉並区では650世帯が停電中とか。ウチはまだ大丈夫だが…しかし、豊島区ではマンホールの中で作業をしていた5人が流されて現在捜索中とか(1人は死亡が確認された)。朝は元気に仕事に行ったはずの人たちだ。都市型集中豪雨の恐怖。XXXXXXXXXXさて、長さ46メートル、高さ15メートルにもおよぶ巨大なReclining Buddha(涅槃仏)ばかりが紹介されるワット・ポー。たいていの観光客が王宮見学のあとに疲れ切ってやってきて、「必見の足の裏」だけ「見た見た」と帰ってしまう。だが、実はこのワット・ポー、1000以上の仏像・仏画を所蔵する仏教美術の宝庫なのだ。様式も初期スコターイから後期アユタヤを経てラタナコーシン朝までと広範囲。にもかかわらず、巨大涅槃仏以外の仏像について解説した日本語ガイドブックがまったくない。なら、自分で探すしかない、とバンコクで本屋へ。すると、あったあった。『A History of Wat Phra Chetupon and Its Buddha Images』という研究書。中の写真は白黒オンリーだし、新書といいながら、若干ページが黄ばんでいるが、110バーツ(360円)という日本人からすると信じられない価格。各仏像について、その時代と様式、背景にある歴史などについて解説したマジメなスグレモノ。おまけに巻末にはワット・ポー(Wat Phra Chetupon というのが、ワット・ポーのこと)の平面図まで載っている。観光客が必ず見るReclining Buddhaがあるのが、この平面図では左上、つまり北西角の(10)番。前回はやはりこの涅槃仏だけを見て帰ったが、今回はしっかり他の仏像・仏画も見学しようと体力を温存してやってきた。ちなみに(26)番がマッサージ処。右側、つまり東側に広がる本堂エリア(実はこちらのほうがずっと広い)の境にあるのが3基の仏塔。この向こうが仏像・仏画の楽園。黄金に輝く甍がまぶしい。(1)の本堂に鎮座するのが、このまばゆいゴージャズ・ブッダ。アユタヤ様式。本堂を取り囲む離れ十字形の4棟のうち、南に位置する(3)にあるのが、弟子に説法する仏陀像…… と思ったら、解説書によれば、この仏像はもともと左右2つの立像をしたがえた3体1組のものらしい。仏陀に対して身体がかなり小さく、横一列に並んで皆こちらには背を向けている弟子(?)たちの像は後から置いたということか。仏陀像は、ラタナコーシン朝時代、すなわち18世紀後半から始まる現王朝に入ってからのもの。西側の離れ十字棟(4)には、7頭の蛇に守られた仏陀像。台座にはとぐろを巻いたエメラルド色の蛇。スコターイ様式。本堂のアユタヤ様式の仏陀より古いものということになる。超人的な仏陀のパワーを感じさせる仏像。口を開けた禍々しいまでの蛇の魔力。それを背後にいただきながら平穏な表情の仏陀。動と静、魔と聖の対比と融合が印象的。実はジム・トンプソンの家にも、これと同じ意匠の仏陀像があった。だが、7頭の蛇はすべて失われていた。ワット・ポーのものは保存状態完璧。そして、北の離れ十字棟(5)には、象と猿から捧げ物を受ける仏陀像(ラタナコーシン朝)の、これはレプリカ。新しいだけあって、仏陀のファッションは西洋風。なぜ、レプリカ写真を載せたのかというと、本物の像の前には……こんなにいろんな像を置いちゃって、肝心の象と猿が見えないのだ!位置を変えて、左側の跪く象はなんとか見えた! 右側のお猿さん(は、やっぱりあんまり見えないので、さらに移動)が枝の先に垂らして捧げているのは…… さては、クレープだなッ。このほか、離れ十字棟をつなぐ回廊には、ワット・スタットのように、Seated Buddha像がずらり(上の解説書の表紙の写真参照)。解説を読むとスコターイ様式のものとアユタヤ様式のものだそう。だが、実は、この2つの様式の違いがよくわからない。おまけに修復のとき一様にキンキラに塗り替えるから、新しいのか古いのかも一見して不明になる、と思う(詳しい方、見分けかたのポイントなどについて、コメントいただけると嬉しいのですが)。国立博物館で見たときは、スコターイ様式のほうが顔は面長で、優美でしなやかな動きのある立像が多く、アユタヤ時代に入ると顔は円く、より様式化されて静的な仏像が増えてきたように思ったのだが、ワット・ポー回廊のSeated Buddha像に関しては、必ずしもそういう特徴分けができないようだった。オマケ:3基の仏塔近くの回廊(24)で見かけたStanding Buddha。ガラスケースに収められている。仏様、お言葉を。「ここから出してくれよぉ~」「外は暑いッスよ」<明日は禁断の(?)ワット・ポー所蔵仏画・ラーマキエン壁画をご紹介します>
2008.08.05
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2021年に「岩下くま」氏がポストした手塚治虫先生との思い出。岩下くまさん(@IwashitaKuma)が7:38 午後 on 月, 2月 08, 2021にポストしました:【手塚治虫先生の思い出】 https://t.co/t6ahX1g3Qz(https://x.com/IwashitaKuma/status/1358726920305692677?t=gtHEiYEO6PQ3OL49O_fF4Q&s=03これは、いくつかの面で傑作漫画だとMizumizuは思っている。まずは、昭和という時代の雰囲気がよく出ている点。「デパート」は令和の今の時代では、縮んでいくパイに四苦八苦している斜陽の産物扱いだが、昭和時代は、消費の花形であり、ステータスだった。そこで催されるイベント、登場する「漫画の神様」。たまたまその日にデパートに行って参加する(参加できる)少女。昭和という時代のおおらかさ、平和なムード、その中での熱気が伝わってくる。それから、手塚治虫の華やかな多才ぶりを実際のイベントを通して巧みに描けている点。目から描き始めて、その場でキャラクターを造形する――これ、案外難しいと思うのだが、そこは多才な「漫画の神様」。トークで盛り上げ、造作もなくキャラクターを描いて見せる。参加者の熱に押されるように、手を挙げまくる少女。だが、突然の指名にかたまってしまう。このときのパニックぶりの絵が秀逸。「岩下くま」氏が漫画のエリートに属する少女だったことは、この表現の巧さで分かる。「うう…」と泣きそうになっている姿など、スクリーントーンをうまく使って、熱にうかされた気分から一挙に暗いパニック状態に落ちてしまった自分をシンプルなタッチで端的に描いている。そして「目の前に漫画の神様がいた、後ろにもやさしい神様がいた」――これは名台詞ではないですか。パニック状態から一転して頬を染めながら、憧れの神様からのプレゼントを受け取る少女の嬉しそうな表情。この話の持っていきかたの巧さも指摘しておきたいポイントだ。そして、手塚治虫先生の人となりを端的に伝えるラスト。それを、たった一コマで見事に描いている。司会「手塚先生、終了時間です」手塚(ノリノリで)「大丈夫です。まだまだ描きますよ」この「まだまだ描きますよ」は、とんでもない多作の天才漫画家が人生の最期まで言い続けた言葉だ。それを思うと、ふと涙が出る。戦争直後に彗星のごとく現れた天才漫画家は、高度成長期の熱気とともに漫画というメディアを一大産業にまで押し上げ、そして昭和が終わるとともに逝ってしまった。手塚治虫がたった60歳で逝き、バブルの狂乱の絶頂を見ず、その終焉とそのあとの長い経済的停滞も見なかったのは、偶然なのだろうか、それとも必然だったのだろうか。手塚治虫が亡くなったのは1989年の2月だが、日経平均株価が最高値をつけたのは1989年12月29日(3万8957円44銭)。2024年2月になってようやくこの最高値を超えたが、それまでに実に34年かかったことになる。銀座の地価が過去最高を記録するのは、バブル末期の1992年(1平米辺り3650円)。これが更新されたのは2017年だ。もっとも、都心の一等地は例外で、Mizumizuの住む荻窪に関していえば、土地の値段はバブル期の最高値にはまだまだほど遠く、今年やっとバブル前まで戻したというところ。だが、土地や株の価格だけが更新されても、昭和バブルの熱狂は今の日本には皆無だ。それ以前の高度成長期といい、あの戦後昭和という時代が放ち続けた熱気は何だったのだろう。まだ日本人はまだそれほど豊かではなかったが、未来に対しては楽観的だった。中村草田男の言う「明治」をMizumizuは知らない。同様に昭和を知らない世代は、「昭和は遠くなりにけり」と、感慨にふける年寄りを、昔のMizumizuのように見ているのか。昭和――あの頃に自分も経験できたかもしれない体験を逃してしまった者としては、こういう実話を読むとたまらなくうらやましくなる。だが、あの頃に思いを馳せることのできる漫画、それもこうした時代の雰囲気や場の熱量、登場人物のパーソナリティまでを十二分に盛り込んだ優れた作品に触れることができるのは、たまらなく嬉しくもある。
2024.03.31
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拙ブログでも紹介したテレビアニメ『鉄腕アトム』の「ミドロが沼の巻」(こちら)。有難いことに、現在、手塚プロダクションが期間限定で、この(今となっては)お宝動画を公開してくれている。https://www.youtube.com/watch?v=9lu5yUKfByM併せて、この回を担当した「スタジオゼロ」(1963年5月設立)の鈴木伸一氏が語る当時の様子が面白すぎる。https://www.youtube.com/watch?v=yS4oAjTeSzw藤子不二雄、石森章太郎、つのだじろう…漫画界のレジェンドが、どれだけアニメーターとしてダメダメだったか。それぞれが描いたアトムを紹介してくれているのが嬉しい。「みんなキャラクターのモデルシートなんか見ないの。頭の中に入ってるアトムで描いちゃう」って…笑っちゃう。今となっては笑っちゃう話だが、顔もバラバラ、プロポーションもバラバラのアトムを見た当時の手塚先生のお気持ちはいかばかりかと…と、また笑ってしまう。Mizumizuイチオシのひどすぎるアトム画は、これ↓眉毛が濃すぎるし、左目のまつ毛が眉毛の上に飛び出しちゃってる。まつ毛も太すぎてヘン。腕も太すぎて丸太みたい。もうメチャクチャ。どなたの仕業ですか? つのだじろう先生かな?それにしても、やはり「誰も歩いたことのない道」を行く手塚治虫の影響力はマグマ級だ。鈴木伸一のトークを聞くと、おとぎ話を専門に作るアニメプロダクション(おとぎプロ)をやめて、SFや未来の話をアニメでやってみたいと思ったのだって、手塚アトムの大成功を見たからだろう。鈴木氏はそこに「アニメの未来」そして「自分の未来」を見たのだろう。スタジオゼロに売れっ子漫画家たちが参加したのも、手塚先生を追ってのことに間違いない。やがて漫画家たちは漫画の道に戻り、スタジオゼロで唯一本格的なアニメーション修行をしていた鈴木伸一はアニメーション作家として羽ばたく。現在、トキワ荘で特別企画展『鈴木伸一のアニメーションづくりは楽しい!!』が開催中だ。https://www.kanko-toshima.jp/?p=we-page-event-entry&event=529563&cat=18037&type=event『手塚治虫とトキワ荘』(中川右介)によれば、スタジオゼロに参加するより前、1950年代の終わりごろに石森章太郎も、赤塚不二夫、長谷邦夫とともにトキワ荘でアニメづくりに挑戦している。手塚の名代として東映動画に派遣されたことで動画用紙やセルをたくさんもらった石森は、町の大工に木製三段のマルチプレーン式撮影台を作ってもらい、カメラも買った。本業の合間に、石森が犬の原動画を描き、赤塚がセルにトレース。長谷邦夫が白黒のポスターカラーで彩色した。ところが1秒を描くのに何日もかかり、20秒作ったところでやめてしまったという。やめてよかったのだ。この3人は3人とも、漫画の世界でゆるぎない地位を築くことになるのだから。鈴木伸一 アニメと漫画と楽しい仲間 [ 鈴木 伸一 ]
2024.05.02
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全日本フィギュア、女子シングルの結果は坂本、島田、樋口、千葉という順位になった。採点傾向を見ると、回転不足のうち、軽度のq判定はかなり厳密に適用された印象。また演技・構成点(プログラムコンポーネンツ)は5項目時代に比べて3項目になった現在のほうが選手間に差が「つく」ようになってきている。Mizumizuはかねてから、回転不足や不正エッジを厳しく見るのは、それはそれで構わないけれど、軽度ならば減点は極力抑えるべきだと主張してきたが、昨今の判定を見ると、そうなってきている、と思う。特にイチャモンのようなエッジ判定で。例えば、樋口選手のフリップ。これに執拗につく「!(アテンション)」がMizumizuはずっと気になっている。樋口選手のフリップは、Mizumizuにはインサイドで踏み切っているように見えるのだが、中立くさいとイチャモンつけられれば、それはそれでまぁ仕方ないかもしれない。しかし、例えばショートの樋口選手のフリップには、!がつきながらGOEにマイナスはなく、逆に+1をつけたジャッジも複数いる。加点は抑えられているとはいえ、ジャンプの質自体は評価されていると考えていいだろう。だが、これも何度も言ったが、なぜ樋口選手はショートでフリップにこだわるのか。樋口選手の場合、ループのほうが加点をもらえる。自分ではしっかりインサイドで踏み切っているつもりでも、多くの場合、イチャモン判定がつくのは明らかなので、一度ショートのフリップをループに変えて得点の傾向を見てみたらどうなのだろう。回転不足判定が厳しくなると、不利になるのは島田麻央選手のように、3アクセル、4トゥループを跳べる――あるいは少なくとも、試合で着氷できるレベルに達してきている選手だろう。今回Mizumizuはスマホで演技を見ていたので、細かい部分は見えなかったのだが、島田選手のショートの3アクセルはやや足りない着氷だと思った。逆にフリーのほうがきれいに見えたのだが、判定は逆でショートの3アクセルがq判定、フリーは<判定だった。フリーの<判定は、いくらなんでも厳しくないか? と思ったが、見る方向によっては、かなり足りない着氷だったのかもしれない。判定が正しいかどうかは神のみぞ知るなので、脇に置いておいて、島田選手が3アクセルやその上の4トゥループを跳ぶかぎり、回転不足判定は付きまとうということだ。フィギュアスケート選手のジャンプのピークがいつなのか、それはもちろん個人差があるが、女子選手の場合は体の軽いジュニア時代のほうが跳べる。ベテランになるにしたがってジャンプは重くなり、回転不足が増えてくる。今、島田選手があれだけのジャンプを跳んでも、qやら<やらが付いているという状況を見るに、これから大人になって回り切った3アクセルや4トゥループを跳べる未来が待っているとは、なかなかに想像しがたい。こういう話をするのは、紀平梨花の先例があるからだ。今、坂本選手のポジションにいるのは、怪我さえなければ紀平選手だったかもしれない。しかし、現実は試合にさえ出てこれない状態だ。難度の高いジャンプに挑戦したことが、紀平選手の選手生命に重大な影響を及ぼしたことは否定できないだろう。島田選手の強みは何か? トリプルアクセル? 4回転トゥループ? もちろんそう思っているファンは多いかもしれない。だが、本当は島田選手には隠れた大きな強みがある、とMizumizuは思っている。それはルッツ、フリップの踏み分けだ。今回の全日本、坂本選手のルッツにも千葉選手のルッツにも1つアテンションがついた。どちらもルッツからの連続ジャンプを跳んだ時だ。樋口選手のフリップは何度も話題にしたとおり。その中で、島田選手にはルッツにもフリップにもアテンションなし。地味に見えるが、これは非常に大きなアドバンテージではないか。それからもう1つ。セカンドにつける3T。これも多くの選手が回転不足を取られるが、島田選手はクリアしている。樋口選手は3ルッツからの3Tを跳べる選手だが、2つ目のジャンプは垂直跳びになりやすく、qだけではく、それ以上の<を取られることも、年齢が上がるにつれ増えてきているように思う。もったいない話だ。坂本選手は今回フリーでセカンドに3Tを跳ばなかったが、あれだけ質の高いジャンプを跳ぶ坂本選手でさえ、2つ目の3Tはあやういことがある。だから、島田選手は高難度ジャンプに挑戦するより、1つ1つのジャンプをもっとダイナミックに大きく跳んで、加点を引き出すほうに注力したほうがよいのではないか。今回は失敗したが、成功した島田選手の4Tを見ると、かなり幅も高さもある。大きなジャンプを跳ぶ素質は十分にある。だが、高難度ジャンプに挑戦してしまうと、そこで体力が奪われるから、他のジャンプはどうしても省エネになってしまって加点を引き出せない。加点を引き出すジャンプのほうに、体力を使うべきではないか。もうひとつ、採点の大きな傾向として、演技・構成点(プログラムコンポーネンツ)の比重が、5項目時代よりむしろ3項目時代になって上がったこと。これは多くの観客の予想に反する傾向だと思う。つまりジャッジは、選手間の演技・構成点に、5コンポーネンツ時代より「差」をつけているということなのだ。ジャンプの基礎点だけで順位が決まるのではなく、滑りやつなぎの密度、表現力をより注視しましょうということだ。3つに項目を絞ったほうが、ジャッジも細かく見て採点がしやすいと思う。その結果なのか、あるいはISUの方針なのか、1位と2位を争うトップ選手間にも、以前以上に演技・構成点の差がでるようになってきている。高難度ジャンプを入れると、どうしてもそちらに体力が奪われるから、細かい表現まではできなくなってくる。島田選手が力を入れるべきは、高難度ジャンプより、むしろこちらなのだ。今回のフリーの点をみると、技術点では島田選手が坂本選手を7.31点も上回っているが、演技・構成点で12.65点もの差をつけられた。この点差が妥当かどうかの議論は脇に置いておこう。どのみち妥当か妥当でないかなど、主観が入るから正しい答えはでないのだ。Mizumizu自身はトップを争う選手同士の差は、あまり露骨につけないほうが公平な採点に「見える」と考えているが、一度こういう流れになると少なくとも次のオリンピックまではこの傾向が続く。つまり、フィギュアをジャンプ大会にはしない。ギリギリの高難度ジャンプで攻めるのではなく、すべてのエレメンツをブラッシュアップしたプログラムを披露した選手に高い評価を与える。今季の採点の流れを見ていると、審判団はそう言っている。例えば樋口選手は、3Aも跳べるが、跳ばないほうが強いのだ。成功することもあるが、失敗が多い状態では、高難度ジャンプは武器ではなくむしろ足を引っ張る要素になる。今の採点では、とりわけ。島田選手には正確なルッツ・フリップの踏み分け、高い精度の連続ジャンプのセカンド3Tというアドバンテージがある。だが、つなぎの密度や表現の多彩さでは、坂本選手には遠く及ばない。もちろん島田選手はきれいに滑っている。だが、やはり全体的に滑りが淡泊で物足りない。いや、これはむしろ当然なのだ。フィギュアスケートに味が出てくるまでには長い年月がかかる。といって、ベテランになりすぎても、今度は体力がガタッと落ちるから、そうなるとピークを過ぎた選手ということになる。フィギュアスケート選手の命はやはり、短いのだ。短い選手生命の中でどこに重点を置くべきか。島田選手にはその方向を見誤ってほしくない。
2024.12.27
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手塚治虫アシスタントの食卓 [ 堀田あきお ]数ある「手塚治虫関連本」の中では、やや地味な扱いの『手塚治虫アシスタントの食卓』。手塚治虫って作品も面白いけど、本人もぶっ飛びにオモシロイ――ことを世に知らしめた『ブラック・ジャック創作秘話』ほど話題にはならなかったが、実際に手塚治虫のアシスタントを務めた漫画家が描いた作品ということで、取材から手塚治虫像を独自に組み立てた漫画とは違った醍醐味がある。「食卓」とタイトルにあるとおり、会社の経費で好きなものを食べていいという、手塚プロダクションのアシスタントたちの恵まれた食生活がメインのうらやましー境遇には驚くし、パンツ一枚で原稿を持ってくる漫画の神様のリアルな姿には笑うし、アニメに手を出して(かつ漫画の連載も同時進行で)ヨロヨロになってしまう人間・手塚治虫の仕事にかける情熱と超人的エネルギーには「これで60歳まで身体がもったのが逆に奇跡?」と今更ながら信じられない気分になる。だが、そうした手塚治虫メインのエピソードとは別に、ちょこちょこと出てくる脇役(?)のエピソードが実に効いているのだ。たとえば、チーフアシスタントの福元一義氏。『手塚先生、締め切り過ぎてます!』の著者でもあり、もともとはプロの漫画家(しかも売れっ子だった)。『手塚先生、締め切り過ぎてます!』は、このブログでも何度か取り上げたが、堀田アシスタントから見た、仕事人としての福元氏は、まさにプロ中のプロ。アシスタントを束ね、背景をメインに手塚作品を作画の面で大いに支えている様子には感嘆してしまう。常に複数の締め切りに追われ、ときに感情的になる天才・手塚に対し、福元氏は常に冷静沈着。部下の新米アシスタントが「それ面倒くさい(やりたくない)」とわがまま言えば、「そうか、じゃ、俺がやるか」と責めもせず、淡々と自ら仕事をこなしていく。用意した食事にも手をつけず(というか食べるのも忘れて)仕事をする、その集中力は半端ではない。またマネージャーの松谷氏は、のちに手塚プロダクションの社長になるだけあって、公私にわたって手塚治虫を支えている。手塚治虫から困りごとを相談されれば、「分かりました。なんとかしましょう」と安心させ、原稿が遅れて殺気立つ編集者から手塚を守る防波堤となり、アシスタントたちの不平不満を聞き、手塚治虫が制作に集中できる環境を守り続けている。人当たりがよいので、調整役にはぴったり。ルックスもよいので、夜の街ではモテたという。手塚治虫がしょっちゅう「松谷氏はどこですか?」とキョロキョロしている様子は傍から見ていると微笑ましいが、松谷氏にかかるストレスは大変なものだったらしく、辞表を「お守りがわり」に常に身につけていたのだという。そうした手塚神を支える使徒キャラクターも素晴らしいが、『手塚治虫アシスタントの食卓』でMizumizuが最も感銘を受けたのは、手塚治虫の老いた父君の姿だ。彼については、「厳格な人だった」「息子が漫画を描くのに反対で、やっと漫画家・手塚治虫を認めたのは、晩年。『陽だまりの樹』を描いてからだった」というような話はよく出ている。漫画の神様の父親に対する態度は冷ややかで、対照的に母親のことはほとんど崇拝しているということで、エディプスコンプレックスと絡めて批評する知識人もいたのを覚えている。歴史上の人物を取り上げて、「エディプスコンプレックスのなせるわざ~」などと囃すのが流行っていたときがあるのだ。最近はあまり聞かなくなった。今は発達障害だとか、パーソナリティ障害だとかいうのがはやっている。ま、歴史に名を残すような天才はだいたい奇人だし、普通じゃないですからね。こういう論評、まじめに聞く必要もないだろう。そーゆー意見もあるということだ。手塚治虫によれば手塚父は、「女遊びで母親を泣かせた」そうだが、『手塚治虫アシスタントの食卓』で息子に引き取られた老父は、社交的でファンをもてなす役割を買って出ている紳士。治虫には、「おさむちゃんと呼ばないでください!」とか「そんな恰好で(お客様の前に)でないでください!」などと怒られてばかりいる。息子が「偉くなる」のは父親にとって誇らしいことだろう。だが、「偉くなりすぎる」のは?漫画の神様と呼ばれる存在にまでのぼりつめ、なお不眠不休で仕事をする息子を見守る年老いた父親の、息子を思いやる短い言葉には無力感と寂寥がにじんでいる。どんな言葉かって? それは本書を読みましょう。あまり描かれたことのない、天才・手塚治虫の老いた父親の実像を知ることができる。それが『手塚治虫アシスタントの食卓』を重要かつ稀有な作品にしていると思う。
2025.01.08
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センターポジションに置かれなくても、ダイアモンドのような輝きを放ち、観る者の目を釘付けにしてしまうジュード・ロウ。その魅力がもっとも冴え渡った作品はやはり、アンソニー・ミンゲラ脚本・監督の『リプリー』ではないかと思う。『リプリー』はルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』のリメイクだと紹介されているが、違うと思う。もっと言えば、『太陽がいっぱい』も『リプリー』も、原作の『The Talented Mr. Ripley(才能あるリプリー氏)』を下敷きにしてはいても、それぞれ相当の脚色がなされている。まずは基本的な人物設定からして違う。『太陽がいっぱい』も『リプリー』も、主人公のトム・リプリーとディッキー・グリーンリーフの容姿は似ても似つかない。だが小説での2人の容貌は、「よく似ている」ことになっている。『The Talented Mr. Ripley』でトムがディッキーを殺して彼になりすまそうと考えるのは、2人の背格好が同じだったということも大きく影響しているのだ。『太陽がいっぱい』では、アラン・ドロンが主人公のトムを演じた。まさに水もしたたるいい男。『リプリー』のトムはマット・デイモン。初めてジュード・ロウ演じるディッキーとビーチで顔を合わすシーンなど、生っ白い肌に黄色いデカパンがア然とするほどダサい。『太陽がいっぱい』では主人公のトムが美貌の青年だったが、『リプリー』では美形はディッキーのほう。『リプリー』のトムは、そのディッキーに屈折した激しい恋情を抱く。『太陽がいっぱい』でもっとも魅力的なシーンの1つは、トムがマージを誘惑する場面だろう。アラン・ドロンの悪魔的な美貌を際立たせるカメラアングルといい、哀愁をおびた音楽の盛り上がりといい、監督のルネ・クレマンはここを最高の見せ場の1つとして描いているが、実はこれも『太陽がいっぱい』のオリジナル。小説はそんな筋書きにはなっていないのだ。一方、『リプリー』で青春の残酷さと美しさを担うのは、ロウ演じるディッキー。たとえば、コレ↓南イタリアの海が見える部屋で、サックスを吹くディッキー。窓の下の青い海を小船がゆっくり通り過ぎて行くのが見える。この絵画的な哀愁をおびたシーンは、ちょっかいを出した女の子が妊娠したうえに自殺をしてしまったあとに来る。このエピソードも小説にはない、『リプリー』のオリジナルなのだ。そして、マージとディッキーの関係。『リプリー』ではマージとディッキーはステディな関係であり、そこにトムが割り込んでくるカタチになっている。ところが小説は必ずしもそうではない。『The Talented Mr. Ripley』はトムの視線で語られるストーリーになっているのだが、トムの目を通して見たマージとディッキーは最初、それほど近しいものではない。トムとディッキーが急速に親しくなり、一緒に旅などして「やや特殊な関係」になってきたとたん、ディッキーがトムによそよそしい態度を取り始め、それまで大して関心のなかった(とトムには見えた)マージに接近していく。小説では、それをディッキーの裏切りと感じたトムが殺意を募らせるという筋書きになっている。『リプリー』では、トムがディッキーに抱く憧れと欲望がないまぜになった激しい感情は、これでもかというくらい露わに描かれているが、ディッキーには一見、そのケはないようにも見える。ところが小説ではそうではない。ディッキーは明らかに、「ボーダーラインをうろうろしている」セクシャリティの持ち主なのだ。彼はトムとの距離が縮まってくると急に警戒し始め、「自分はゲイじゃない」とトムにわざわざ宣言し(←まるで『ブロークバックマウンテン』のイニス)、ビーチでアクロバット芸を見せている「明らかにゲイの」軽業師に露骨な嫌悪感を示す。そして、マージという女性の性格づけ。小説でトムの目を通して描かれるマージは、相当嫌な女だ。トムのことも嫌っていて、ディッキーへの手紙に「彼は何の取り柄もない人」「ゲイではないかもしれないけど、ゲイ以下」「なんらかの性生活が送れるほどノーマルな人ではない」「彼と一緒にいるとき、あなたはなんだか恥ずかしそう」(河出文庫『リプリー』パトリシア・ハイスミス、佐宗鈴夫訳より)とクソミソに書いている。事実、小説のトムは、マージが手紙に書いたとおりの人間なのだが。だが、ミンゲラの作り上げたマージ像は、小説とは違って、非常に魅力的だ。神秘的ですらある。『リプリー』のマージは女性的な優しさと寛容さを併せ持ち、トムに対しても穏やかに、好意的に接する。ミンゲラ+ロウの最後のコラボレーションになった『こわれゆく世界の中で』のリヴにも共通したムードがある。北欧的な美貌といい、ミンゲラの理想の女性像なのかもしれない。『コールドマウンテン』のヒロインも同じ線上にいる女性だろう。『リプリー』のマージは、ディッキーがトムに「飽きて」、邪険にし始めると、「彼っていつもそうなの」とトムをなぐさめたりする。マージはこれまでディッキーにトムと同じように扱われた男友達の名前を挙げる。ディッキーが積極的に友達になろうとするのは、いつも…マージは女性特有の勘で、ディッキー自身ですら気づかずにいる、彼のある種の嗜好に気づいている。このとき、マージが挙げたディッキーの男友達の中に、『リプリー』の後半でトムと重要なかかわりをもってくるピーターの名があるのだ。『リプリー』ではディッキー亡き後、トムとピーターが「ほとんど一線を越えそうな」関係にまで発展するが、小説ではそんなエピソードはない。わずかに、トムがピーターに対して、ディッキーとの間に流れたような微妙な空気を感じて羞恥心を覚えるだけだ。ピーターとのかなり突っ込んだエピソードは、映画『リプリー』のオリジナルなのだ。『リプリー』の中で重要な意味をもつのは、浴室のシーン。そして、もちろん、ジュード・ロウの十八番のキラー目線。余談だが、トムがディッキーから、「別れよう」と言われるのは、ナポリにあるガレリアを出たところだ。ガレリアの階段を降りて、「サン・レモでさよならだ。それがぼくらの最後の旅」とディッキーがトムに告げる。Mizumizuは同じ場所で、道行く人に愛想を振りまいている捨て犬を見た(詳しくは、2007年10月28日のエピソードを参照)。『リプリー』を観たのはその後なので、捨てられつつあるトムの姿が、捨てられた犬のイメージに重なって、胸が痛んだ。小説でのディッキー殺しが、ある程度計画的に行われるのに対して、『リプリー』の殺人は突発的なアクシデントだ。サン・レモでボートを借り、海上に出たところで、トムとディッキーが言い合いになる。「マージと結婚する」と言うディッキーに対して、トムが並べ立てる台詞は、「一見」あまりに一方的で、思い込みの激しいストーカーのよう。「マージのことなんか、愛してないくせに」「きのうは別の女の子を口説いていただろ」「浴室でチェスをしたあの夜、君も特別なものを感じたはずだ」「ぼくは自分に正直なのに、君はそうじゃない」… あげくに、こんなことまで言い出す。そして、「君は一体何がやりたいんだ」とトムに言われると、ディッキーが激昂し、2人は取っ組み合いになる。このときにディッキーが見せた常軌を逸した暴力性が、結局はディッキーの命を奪う結果になるのだ。映画はこのあと、完全犯罪にすべく奔走するトムの姿を描き、サスペンス映画としての面白さを十分に堪能させてくれる。フレディ殺しにまつわるエピソードに関しては、『太陽がいっぱい』のリメイクと言ってもいいかもしれない。だが、結末は『太陽がいっぱい』とはまったく違っている。『リプリー』では、物語の終盤になって、意外なディッキーの過去がトムに明かされる。アメリカにいた大学時代、ディッキーは「女のことで」男友達とケンカになり、相手が障害者になるほどの大怪我を負わせていたのだ。それゆえに、ディッキーの父親は、息子が「また」同じような経緯から、友人のフレディを殺してしまい、自殺したと簡単に信じ込む。だが、マージだけは、ディッキーはトムに殺されたのだと確信していく。周囲はディッキーの過去をマージには伏せている。ゆえに、こう思う。「マージは本当のディッキーを知らない。だからトムが犯人だと誤解しているんだ」と。一方で観客は、真実を見抜いたのはマージだけだということを知っている。ここに、不思議なパラドックスが生まれる。ディッキーは一点の曇りもない、太陽のような男だった。少なくとも、この過去が明かされるまでは、そう見えた。過去に友人を半死の目に遭わせたなど、そぶりにも見せなかった。トムはディッキーに「自分は大学時代の知り合い」だと偽って接近する。そのトムに対しても、自分の引き起こした不祥事について知っているのか、どう思っているのかなど、探りを入れることさえしなかった。トムがディッキーの筆跡占いをして、「誰にも言えない秘密を抱えている」と言ったときも、まるでピンときていない様子で、「本人にもわからないなんて、たいそうな秘密だな」などとごくごく自然に答えている。だが、ディッキーには、大きな秘密があったのだ。アメリカにどうしても帰りたくないわけも。ヨーロッパにとどまることで、ディッキーは自分の過去から逃げていた。そして、トムとディッキーがボートの上で殺し合いになってしまうケンカを始めたのは? やはり、マージという女性をめぐってのことだった。トムのような男友達を、ディッキーは作っては捨てていた。妊娠して自殺したイタリア人の女性はファウストというディッキーの男友達の婚約者だった。だとしたら、アメリカで起こった事件も、同じような経緯で生じたのではなかったのか? 「本当の自分から逃げ、やりたいことをやらないまま、たいしてやりたくもないことには次々に手を出す」――こういう自分の本質に触れられると、ディッキーは理性を失うほど怒り狂うのではないか?だからもしかしたら、サン・レモの海の上でトムがディッキーに言った台詞は、すべてがトムの一方的な思い込みではなく、ディッキーの真実、あるいは真実の一部だったのかもしれない。ディッキーの心の奥深くに隠されたセクシャリティをうかがわせるのが、ディッキーの死後、トムに積極的に近づいてくるピーターの存在だ。もともとピーターはディッキーの男友達。映画ではつまびらかにされないが、マージの台詞から、トムと同じような立場だったことが暗示されている。トムとピーターは、ディッキーを通してつながるのだ。ディッキーという太陽が隠れたあと、2人は隠花植物のようにひっそりと愛を育もうとする。だが、ピーターは薄々、トムの心に「消せない誰か」がいることに気づいている。サスペンス映画としてのテンポの良さや、ハラハラする展開の面白さで観客を惹きつける一方で、ジュード・ロウというたぐいまれなダイアモンドをディッキー役に配することで、原作者のハイスミスが追究した「隠されたセクシャリティ」というテーマを別の手法で織り込んだ、なかなかに深い作品。のちにハリウッド映画界を代表することになる名優が、こぞって参加しているのも頷ける。
2009.05.05
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<きのうから続く>さて、2人の私生活に話を戻すと、1946年1月に『美女と野獣』を撮りおえたコクトーは、翌月マレーと離れてスイスに近いモルジーヌで療養。このときに1944年にマレーと約束した本を書いている(このときのエピソードについては5月2日のエントリー参照)。それが内省的な批評エッセイ『ぼく自身あるいは困難な存在』。この朗読を聞いてマレーは「驚嘆した」と言っている。「ジャンを尊敬すればするほど、自分が恥ずかしくなった」(マレー自伝より)。マレーが驚嘆したこのエッセイ、のちにコクトーはその生原稿を、「ぼくたちの思い出に」といってマレーの誕生日に贈っている。モルジーヌでの皮膚病の治療はさしたる効果をあげずに終わった。1947年7月封切の『美女と野獣』が大成功をおさめると、モンパルシエ通りのコクトーとマレーのアパルトマンは、ますます訪問客が増えていった。電話や呼び鈴が鳴り続け、コクトーはほとんどまったく仕事ができなくなる。このころの2人の関係を暗示するような記述が、マレーの自伝にひっそりと書かれている。「そのころ、ジャンは修道僧のような生活を送っていた。彼ぐらいの年齢(注:このときコクトーは57歳)になると、ある種の交際(やりとり)は破廉恥でしかなく、滑稽なものになると、自ら考えていたようだ」。さて、パリのアパルトマンでの創作活動に限界を感じたコクトーは、「別荘が欲しい」と言い出す。1946年の夏、コクトーのマネージャーのポールがフォンテンブロー近郊のミリィ・ラ・フォレに司祭館のような上品なたたずまいの物件を見つけてくる。コクトーもマレーも一目で気に入った。2人にはこの別荘を現金で買うほどの持ち合わせはなかったので、借金をすることに。内装の改修をマネージャーのポールにまかせたところ、ほとんど物件購入と同等の金額を要求された。1946年8月にコクトーがマレーに送った手紙。「ポールはミリィにかかりきりですが、大変な出費です。なんとか必要なものをかき集めるべく頑張っていますが、後々どうやって暮らせばよいものやら。でもいいのです。パレ・ロワイヤル(注:モンパンシエ通りのアパルトマンのこと)で苦労しているくらいなら、ミリィを手に入れ、それで苦労するほうがずっといい」(『マレーへの手紙』より)内装工事の終わったミリィにコクトーとマレーが入居したのは1947年1月。別荘は3階建てで、3階がマレー、2階がコクトー、1階が共同スペース。家具や置物すべてを2人は「愛と友情をこめて」(マレー自伝より)一緒に選んだ。ところが、この別荘、モノを書くコクトーには天国だったが、映画のロケやパリでの舞台の仕事のある俳優のマレーには不便だった。結果、マレーはあまりミリィには来ることができなくなる。マレーは若いころから絵を描くことが好きで、時間があれば描いていた。そこでミリィをアトリエにしたのだが、『美女と野獣』以降は絵どころではなくなってしまった。さらに1947年の夏に、コクトーはパレ・ロワイヤルの画廊で22歳の画家志望の青年に出会う。レイモン・ラディゲに似た風貌のこのたくましい若者をコクトーは一目で気に入り、別荘の庭師助手にならないかともちかけ、まもなく息子として遇するようになる。それがエドゥアール・デルミット。1949年撮影の『恐るべき子供たち』で主役のポールを演じることになる青年だ。そしてデルミットが原因で、マレーはパリのアパルトマンを出ることになる。1948年のことだ。「モンパンシエ通りでは、ジャンが援助しようとする友人を手厚くもてなしていた。ジャンの部屋は狭く、それより広い私の部屋との交換を彼に申し出た。しかし彼は、私をわずらわすことを全然望まず、申し出を丁寧に断った。私は彼の生活をいっそう快適にする方法を考えた。もし私が引っ越せば、かえってジャンは苦痛だろう。そこで新鮮な空気と太陽が欲しいという口実を使った。モンパンシエ通りのアパートはパレ・ロワイヤルのアーケードの下にあったから、公園の反射光を受けるだけだった。伝馬船ならば、一時の出来心に見えると思った。小さなハウスボートを見つけ、セーヌ河の淀みに居を構えた。私の引越しは出発という雰囲気ではなかった」(『ジャン・マレー自伝 美しき野獣』石沢秀二訳 新潮社)この「援助しようと手厚くもてなしていた」友人というのが、エドゥアール・デルミットだ。こうしてマレーは、「出来心に見せて」コクトーとのアパルトマンを出て行ってしまう。コクトー自身はこのときは、マレーと自分にはミリィもあるし、またマレーと一緒に暮らせる日が戻ってくると単純に考えていた。マレーのほうもコクトーと別れるつもりはまったくなかった。だが、現実にはこれ以降コクトーとマレーはお互いのさまざま事情から、少なくとも表面上は、同じ屋根の下で暮らすことはなくなってしまう。つまりジャン・コクトーとジャン・マレーの共同生活は事実上10年で終わったのだ。マレーはセーヌに浮かんだハウスボートを「放浪者(ノマード)号」と呼んだ。放浪者号の内装は非常に豪奢で、床まですべてマホガニーと銅でできており、19世紀の船内家具がいくつもしつらえてあった。フランス中のすべての雑誌が、このジャン・マレーの新居を写真つきで掲載し、「放浪者号の装飾品のコピー」がパリのアンティークショップで売られる始末だった。マレーとコクトーは放浪者号とモンパンシエ通りのアパルトマンをお互いに行ったり来たりする生活になっていた。ちょうどそのころ、ハリウッドで華々しい成功を収めたジャン・ピエール・オーモンがフランスに帰国。コクトーに会いに来た。自分と妻のマリア・モンテスのための映画のシナリオをコクトーに書いてもらえないかというのだ。コクトーが気にしたのは、マレーだった。ジャン・マレーはもともとは、いわばジャン・ピエール・オーモンの代役としてコクトーが抜擢した俳優だった(オーモンとマレーについては、3月18日、3月19日、3月27日のエントリー参照)。いまさら自分がオーモンにかかわると、過去の話をおもしろおかしく蒸し返され、また要らぬスキャンダルの種になるかもしれない。マレーに事情を説明し、「君に迷惑がかからないかな?」と、気にするコクトー。「なぜ?」「昔のことで、また何かかや攻撃してくるぼくたちの敵がいるかもしれないからね」「気にするなって。ぼくは全然大丈夫だよ。それより、シナリオが出来たら読ませてもらえるかな」安心したコクトーは、オーモンの年齢に合わせた「詩人」のイメージで台本を執筆する。それが、『オルフェ』。今ではジャン・マレーの代表作の1つとしての評価が確定し、ほとんどマレーのために書かれたと思われている作品だが、意外にもこれは、もともとはオーモンのために作られた物語だったのだ。その主演がなぜマレーに行くのか。運命の歯車が動き出す。<明日へ続く>
2008.05.29
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国立博物館へはチャイナタウンからタクシーで行ったのだが、案外苦労した。タクシー運転手にNational Museumと言っても、通じないのだ。1人目はあっさり「知らない」と言うので、乗らずにやりすごし、2人目には地図を見せて説明。わかったような顔をして、走り出した最初の信号で、「やっぱりわからない」と言われて(苦笑)途中下車(料金は払わず)。ちょい途方に暮れた。どうも日本語の地図を見せてもよくわからないようだ。文字は外国語かもしれないが、道の交わり方などでわかると思うのだが。ドライバーのくせに、地図もロクに読めないのか、とちょっと暗澹となる。だんだんわかってきたのだが、バンコクのタクシーの運転手は非常に当たり外れが大きい。マトモな人も多いが、明らかにおかしい人間もいる。急に欲を出してふっかけるヤツもいる。ホテルやしっかりしたレストランで呼んでもらって乗るときは、ホテルやレストランのボーイが、トラブルが起こったときのためにタクシー運転手の情報をメモした紙を乗車時にわたしてくれるのだが、街中ではそうはいかない。女性旅行者は1人で拾わないほうがいいかもしれない。地図を見せて説明するより、タイ語で「国立博物館」と書いてある文字を見せたほうがいいのじゃないかと思いつき、『地球の歩き方』を見たら、ちゃんとタイ語で書いてある。3人目のドライバーは、ややお年のいった実直な感じの運転手だった。『地球の歩き方』をわたして、「国立博物館」のタイ語の流麗な文字を指し示す。一生懸命見ている。しばらくたって…まだ見ている。明るい窓のほうに本をもっていって、一生懸命見ている。そ、そんなに見えないの!? 運転は大丈夫なのか?? 本を斜めに動かしながら必死に読もうとする運転手。「降りたほうがいい?」と一瞬よぎるが、とてもマジメそうで真剣な態度に、もうちょっと待ってみようと決心する。やがて、「あ~!」と言って、走り出した。わかってくれたよう! 地図を見ながら方向を確かめたが、ちゃんと行っている! もともとチャイナタウンから国立博物館への道はそんなに複雑ではないのだ。走り出したらスイスイと国立博物館に到着。72バーツだったので、いつものように80バーツを出すと、すぐに5バーツおつりをよこそうとする! こんな人は初めて。だいたいみんな、ゆっくり数えるフリをして、我々が降りていってしまうのを待っているのに。もちろん、受け取らずに、外に出て、窓越しに合掌してお礼。こういう心がけのタクシー運転手ばかりだと助かるのだが、そうはいかない。博物館にも「小悪党」がてぐすねひいて待っている。門の外で、「チケット?」と言って別の場所に誘導しようとするのだ。博物館のチケットを野外で売るわけがない。もちろん無視して門の中へ。チケット売り場で40バーツ(132円)を払い、リュックのような大きな荷物は預けて見学開始。上がチケット、下が博物館の地図。かなり広くて見て回るのが大変。建物内は冷房が入っている部屋もあるが、広いのであまり効いておらず、暑さで体力を奪われる。展示物は多いので、ある程度見るポイントを絞っておかないと疲れるだけかもしれない。もちろん何に興味があるかは人によって違うだろうけれど、個人的には中央の建物を囲むように配置されたL字型の棟にある仏像がお勧め。この仏像を見る体力は是非残しておこう。写真は石仏。もちろん、木像もあればブロンズ像もある。中でも必見なのは、スコターイ王朝時代の仏像。面長で優美な造形は特筆もの。場所としては地図の左上の棟にある。仏像には大きく分けて、Reclining Buddha、Seated Buddha、Standing Buddha、Walking Buddhaがある。日本の仏陀像はほとんどSeated Buddha(観音様はよく立ってるが)で、Reclining Buddha(涅槃仏)は法隆寺の涅槃像土(8世紀)などがあることはあるが、あまり馴染みがない気がする。Walking Buddha(遊行する仏)となると、まったく見たことない。なぜ日本にないのだろう? タイ国立博物館の白眉は、やはりこの日本にはないWalking Buddhaだろう。StandingとWalkingの違いは、足の位置。そろっていればそれはStanding(立像)。前後に開いていればそれがWalking(遊行像)。しかし、そんなことより、ピタリと身体にはりついた衣の透けようが異様に肉感的…… などと思うのは仏様に対する冒涜でしょうか? でもハッキリ言って、仏像好きは、こういう衣の流れや手や顔の優雅な表情に惹かれるのだと思う。スプーンのように曲がった右腕がイイ。そしてこの妖しげな腰のくねり方。う~ん、ホテルのバトラー君のクネった歩き方はモンロー・ウォークではなく、ブッダ・ウォークだったのかもしれない。だが、しかし、造形的にもっとも優美な仏像が多く作られたスコターイ王朝ですら13世紀。アユタヤ王朝となると14世紀。あまり古くないのだ。そのわりには、全体的に、日本の仏像で言えば鞍作止利(7世紀)のような素朴で大らかな造形が多いような気がする。そして、かなり様式化されていて、日本の仏像のような個性には乏しい。いや、もちろん顔はつぶさに見れば一体一体違うのだが、それは「違い」であって、人の情念にまで迫る個性というふうには思えないのだ。日本の仏師は西ヨーロッパのルネサンス期の彫刻家に匹敵するような個性と力量を備えた者もいる。「その作品」だけにみなぎる仏師個人の情念を強く感じる忘れがたい造形美。そういったものがタイの仏像にはあまり感じられない。こちらの無知が深い観察を阻んでいるのかもしれないが、たとえば、興福寺の阿修羅像のような、ハッとするような作品には出会えなかった。タイでは、信仰心の篤さが逆に仏師の制作上の自由を許さなかったのかもしれない。様式化された仏像は、東ヨーロッパの正教会のイコンを思わせる。日本人だから日本のほうが優れていると思いたい気持ちがあるのかもしれない。国立博物館に日本人がとても少ないのも、そう思っている人が多いからかもしれない。美術的な価値の優劣はともかく、スコターイ王朝の仏像には日本にないものがある、それは事実だ。間違いなく一度見る価値はある。同様に長い仏教美術の歴史をもつ、同じアジアの同胞として。で、タイの仏像の本買いました。1200バーツ(4000円弱)。写真も美しく、説明も英語でわかりやすい。オマケ博物館のカフェで飲んだココナッツ飲料。一見おいしそうでしょう? 実はゲキまず。ほとんど飲めなかった。何を飲んでもおいしいホテルとは大違い。
2008.06.18
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中世ヨーロッパでもひときわ異彩を放つ神聖ローマ帝国皇帝フェデリコ2世。彼についてはすでに1月30日のエントリーと4月22日のエントリーで紹介したので、詳しくはそちらを読んでいただくことにして、今日ご紹介するのは、フェデリコ2世が南イタリアのプーリアに建設した「カステル・デル・モンテ」。カステルとは城、モンテとは山を意味する。その名のとおり、小高い丘の上に建つこの城は、世界遺産にも登録され、イタリアの1ユーロ硬貨の裏面の絵柄にもなっている。だがこの山城は、いろいろな意味で謎に満ちている。まず、まったくもって城らしくない。こちらは、ネットから拾った空中写真だが、ご覧の通り、8角形の外壁、8角形の塔が8角形の中庭を囲んでいる。装飾の花や葉も8枚ずつになっているらしい(ただ、実際に行っても、この目で確認はできなかった)。13世紀の城といえば、通常要塞の役割を兼ねるのが普通だが、この城は軍事的には、完全に無防備。堀も厩も銃眼も何もない。客をもてなすための城としても、明らかに役不足だ。大きな厨房もなく、広間もない。中庭を囲む塔とそれをつなぐ空間は、どこも均一で、主従の居室の区別がつかない。オリーブ畑の続くプーリアの平原。小高い丘のうえに建つカステル・デル・モンテは、かなり遠くからも見える。まるで山のいただいた王冠のよう。クルマで行ったのだが、城が視界に入ってきてからも、なかなかたどり着かなかった。それくらい、今でさえも辺鄙な場所だ。フェデリコ2世の好んだ鷹狩の拠点にしたという説もある。なるほど、実用的な意味では、そのくらいになら使えたかもしれない。実際に城として使うには、あまりに不便な造りなのだが、この実、この城は、ストーンヘンジやマヤの遺跡、あるいはエジプトのピラミッドにも通じる、綿密な天文学的計算に裏打ちされた設計になっているのだ。こちらは中庭の壁を撮った写真。太陽の影が見えるが、この影は、春分と秋分の日の正午に、中庭の一辺とぴったり重なる(ということはつまり、秋分の日と春分の日の間は中庭の床には日が差さないということ?)。ユリウス暦で8番目の月に当たる月の8番目の日、現在でいうと10月8日に、南西の高窓と中庭側の低窓を太陽光が一直線に結ぶ。また、夏至の夜には、中庭の中央のちょうど真上にヴェガが来るのだという。設計自体にフェデリコ2世自身が深く関わったことは文献等から知られている。皇帝は8という数字に、非常に強いこだわりをもっていた。キリスト教では、8はキリスト復活までの日数であり、イスラム教では天国を表す数字だという。その知的精神で「最初の近代人」とも称されるフェデリコ2世が、迷信ともいえるような「8」への執着を、大掛かりな城建設で見せたことは、非常に興味深い。論理的で合理的な思考の持ち主が、ある面で呪術的ともいえる神秘主義に傾倒するという傾向は古今東西を通じて、しばしば見られるからだ。フェデリコ2世は言語の天才で、さまざまな言葉を話すことができた。アラビア人とも通訳なしで話している。言葉にはそれぞれの論理があり、多くの言語を操るということは、それだけ多くの世界を心の中にもつことになる。ある意味でそれは、精神が相対する論理で分裂する危険性をはらむ。そして、フェデリコ2世の治世後期には、領土内でのキリスト教徒とイスラム教徒の対立が激しくなり、ノルマン・シチリア王国の繁栄も陰りを見せ始めていた。フェデリコ2世がこの世を去ったのは、1250年の12月。1+2+5で8になるという偶然が、最後までつきまとった。「城」としての機能をほとんどもたない、「8」という数字と大いなる宇宙の神秘に捧げられたとしか思えない、美しい孤高の城。小高い丘に建つこの城の上階から眺めると、オリーブ畑と小麦畑が海のように広がり、神の視線を手に入れたような錯覚にもとらわれる。その眺めはヴァイエルンの狂王ルードヴィッヒ2世の建造した白鳥城のもつ眺望に、ある程度似ている。ネオゴシックだの擬似ビザンチンだの、過去のさまざまな様式をゴッチャにしたルードヴィッヒ2世の城のインテリアを見ると、王のネジの取れっぷりに圧倒されるが、この世にはない世界とつながろうとしたという意味では、フェデリコ2世のカステル・デル・モンテも同じではないか。政治的な力をほとんど持たなかったルードヴィッヒ2世と、神聖ローマ帝国皇帝にしてノルマン・シチリア王であり、中世ヨーロッパで絶対的権威をもっていた教皇との対立も辞さなかったフェデリコ2世の人生に類似点はほとんどないのだが、内面に何かしら現実には成し遂げられない壮大な夢を秘め、それを大掛かりな土木工事という形で、うつせみの世に残そうとした情熱には共通点がある。そして、それは有史以来、「力」を手にした人間がほとんど必ずとらわれる妄執でもある。
2009.12.03
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南イタリア、プーリア州の州都バーリ。ここに住む友人の家に遊びに行ったとき、最高に美味しいフレッシュチーズに出会った。それが「ブッラータ」。見た目はモッツァレラ・ブファラ(ふつうのモッツァレラより一回り大きい水牛のモッツァレラ)を5倍ぐらいの大きさにして、巾着にしたような感じ。味はモッツァレラよりクリーミーで濃厚。実際、切ると中から生クリームがじわっとしみ出てくる。ただ、まったく日もちはしない。スーパーフレッシュなチーズなのだ。そのブッラータを今日、なんと東京でついに見かけた! なんだかバーリでみたブッラータよりずいぶん小さくて、しかも「3000円!」。高過ぎるとは思ったが、バーリに行く予定もなし、思い切って買ってみる。「今回初めて入ってきたんです」と店員。家に戻って袋を開けてみる。んっ? ちょっと微妙なにおい? 賞味期限は明日になっているが、もしかして味は落ちてるかな~と覚悟して、とりあえず、食べる前にパチリ。で、ナイフで切ってみる。ところが生クリームが固まったようになっていて何も出てこない。一口食べてゲェ~!! となった。これは腐ってる! 後味の悪さが舌に残り、慌てて吐き出す。チーズ屋に電話したのだが、「ただいま電話に出られません。おかけ直しください」と留守電メッセージが流れて一方的に切れてしまう。店なのに、留守電対応で、メッセージも入れられないとは… ついさっき買ったときは(小さな店のクセして)、店員は3人もいたはずだ。しかも、ふだんから売り込みが非常に激しい店なのだ。完全に頭にきて、直接店に直行。クレームして返金となった。ブッラータはあまりに日持ちしないから、日本で食べたいというのはそもそもムリなのかもしれない。いくら空輸でも現地で食べるものほど美味しいワケはない。だが、3000円でモロに腐ったフレッシュチーズを売るとは何事だろう。そういえば(?)この店は、他店に比べて同じモノでも高い。パルミジャーノなんかは切り分けてからだいぶ日にちがたってるらしく色もよくない。ブッラータの賞味期限は明日だった。あれも、実はムリヤリ延ばしたのかな? ほかにも腐ったブッラータを買わされた人がいるんじゃないかと気になる。痛んでしまってはいかに元来美味しいチーズでも食べられたものじゃない(当たり前か)。まあ、ブッラータなんて、知らなければ買わないだろうし、腐りかけを知らずに食べてしまって、「まずいチーズだな、ブッラータって」なんて思うこともないかな、とは思うのだが…
2007.09.27
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手塚治虫については、「若い才能に嫉妬して…」などというエピソードがやたらと語られる。そういう話のが面白いからだが、手塚がどれほど若い漫画家の卵たちに親切だったか、ファンを大事にしたか、傷ついたかもしれない表現者にやさしかったか、そちらのほうのエピソードのほうがよほど多いのに、忘れがちになるようだ。藤子不二雄がトキワ荘に入る際、先住者だった手塚治虫が敷金を置いておき、藤子のふたりは家賃だけ払えばよいようにしてくれたのは、『まんが道』で有名だが、彼の見返りを求めない親切はもっと語り継がれるべきだと思う。なので、今日はネットではあまり拾えない、そうしたエピソードを紹介したいと思う。赤塚不二夫「どんなチンケな、漫画家のタマゴでも、手塚先生のところを訪問すれば、手あつくもてなしてもらえた。彼は、そんないそがしいのに(注:徹夜続きで編集者に睨まれながら仕事をしていることを言っている)、東京駅や上野駅にわかい連中をタクシーで自らおくってあげるほど、心くばりのふかい人だった」(『ボクはおちこぼれ』より)松本零士:(原稿を描くために旅館にカンヅメにされたとき、手塚が来て)「ここにいるくらいなら、僕のうちに来なよ」と言って、初台の新しい家に連れて帰った。松本が「お金がない」と話すと、手塚はいくらか渡した。そのお金で、松本は新宿で『OK牧場の決斗』を見て、九州へ帰った。(中川右介『手塚治虫とトキワ荘』より)つげ義春:ホワイトの使い方が分からず、編集部に問い合わせたものの、それでもはっきりしなかった。そこでトキワ荘の手塚治虫を訪ねると、たまたま彼はいて、「ファンです」というつげ義春を招き入れ、丁寧に教えてくれた。原稿料についてつげが聞くと、それも教えてくれた。(同上)サトウサンペイ「ある時、私の描いている『フジ三太郎』がどっかの雑誌で誰かにたたかれたと聞いた。多分それを意識してであろう、パーティでお会いしたら、『うちの女房はフジ三太郎のファンでね』と、ウソか、マコトか知らないけれど、言ってくれた。なんと心やさしい人だろうと思った」。(朝日ジャーナル『手塚治虫の世界』より)永六輔「毎年、障がい者のためのバザーでご一緒になりました。その時に、山のような色紙を前にどんな主人公でも手を抜かずにキチンと描き続け、バザーが終わっても待ってる人がいる限りやめない方でした。その色紙を僕が売るのですが、高くすると、『安く! もっと安く!』と言いながら描き続ける、そういう方でした」。(同上)
2024.02.09
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手塚治虫著『ぼくはマンガ家』によれば、彼は「誇大妄想的突発性錯乱症」なのだそうだ。それが事実であるということを、めちゃくちゃ汚い絵これまでにない個性的な作画で、あますところなくギャグにした不朽の迷作――それが『ブラック・ジャック創作秘話』だ。【中古】ブラック・ジャック創作秘話(2)-手塚治虫の仕事場から- / 吉本浩二これはホントに面白い。手塚漫画より手塚治虫のが面白いんじゃないかと思えるくらい、面白い。手塚治虫ファンじゃなくても面白い。まだ読んでない不幸な人は、すぐに読むべき。さまざまある手塚先生「錯乱の場」での中でも、もっとも意味不明で、Mizumizuイチオシのシーンは、これ。制作進行担当社員の河井氏に、「もう待てない」と言われて突発性錯乱症スイッチが入る手塚先生。社長なのに、「やめます!」と叫んで、机の下に逃げ込む。しかも頭だけ。行動が猫。ちなみに、この河井氏が(旧)虫プロを辞めたあとのエピソードは、手塚治虫がどれほど思いやりのある人間だったかを端的に示す例。そして、その厚意に応えて、河井氏が手塚未亡人のために取った行動も、素晴らしい。それについてはまた次のエントリーで。誇大妄想入った突発性錯乱の場は、こちら。冷静になったときの手塚先生の弁は、「編集の方から野放しにされたら、半分の作品も生まれなかったですよ」。で、「自由にしてくれ」と言われて、「分かりました!」と野放しにした編集者の原稿は、結局3回連続で間に合わず、その後その編集者が会社を辞めたと聞いて…自分のせいだと思ったとたん、怒涛の責任転嫁…言うことやることメチャクチャだ(苦笑)。ちなみに、なのだが、『神様の伴走者:手塚番1+2』に、その編集者とおぼしき人物のインタビューがあり、本人は「自分が会社を辞めたのは手塚さんのせいではない」と話している。もともとやりたかったことが別にあったからだそうで、本人は手塚治虫含めて周囲の人たちが「手塚番をしながら3回も連続で原稿を落としてしまったので、会社を辞めたんだ」と思っていたことも知らなかった。お次は、のちに松本零士となる松本晟少年の証言から。このシーンには、夜中の「メロン」「ケーキ」「スイカ」などのバリエーションあり。テレビのドラマでも採り上げられて、かなり有名になっているエピソード。さらに…完全に少しイカれたおっさん…手塚治虫「正史」とも言える『手塚治虫物語』では…誇大妄想的突発性錯乱症のコの字もモの字もサの字もなく、仕事にひたすら邁進する手塚像が描かれ…藤子不二雄Aの『まんが道』で、神になったというのに…『ブラック・ジャック創作秘話』では…と、言われて編集者が慌てて手塚先生愛用のユニの2Bを買ってくると…こんな人だとバラされましたとさ。いずれは歴史上の人物として、その一生が映像化もされるであろう偉人・手塚治虫。その際は「正史」に描かれた軌跡だけでなく、こういうぶっ飛びエピソードも入れてほしい。うしおそうじの『手塚治虫とボク』にも、若き日の手塚のぶっ飛びエピソード「手塚治虫の遺言」編もある。このブログでは敢えて紹介しなかったのだが、手塚という人が、スイッチ入ったらいかに「やめられない止まらない」人だったか分かるエピソードだ。ああいった秘話(?)も、漏れなく入れてほしいもの。
2024.04.29
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経験上、欧米の美術館・博物館で飲み食いをしたら、必ずハズレルと思っている。だが、午前10時ぐらいから入ってしまうと、規模が大きい施設では、どうしてもお昼にかかってしまう。Mizumizuは1食ぐらい抜いても別に何てことはないのだが、Mizumizu母は規則正しく何か食べないとダメな人。「食べだめ」もできない人で、1度に食べられる量も少ない。なんで、できるだけ避けたいと思っていた美術館・博物館での軽食を、アメリカ自然史博物館でやらざるをえないハメになった。昼過ぎにカフェに行ったのだが、メニューや並んでる軽食を何度しげしげ見ても、食べられそうなものがない。それでスナックとジュース、それにエスプレッソにしたのだが…これだけで、なんで1000円近くかかるのか、理解できません。ポテトチップスの袋は最小サイズなのに。おまけにエスプレッソは、近年捜しても見つからないぐらいの泥水コーヒー。いやぁ、こんなにマズいエスプレッソは久々に飲んだ。後日Mizumizu母友人に聞いたら、「あそこはダメよぉ~」と一言のもとに切り捨てられた。えりすぐりのハズレスポットで食べてしまったよう。自然史博物館は、アッパー・ウエストサイドのわりに辺鄙なところにある。前で店を出してる屋台もボリボリで、500mlのペットボトルの水に3ドル払った。ホテルのそばの屋台で1.5ドル。国連ビルのそばの小さな小売店では700mlで1.5ドル。中の展示は見ごたえがあり、近年ではIMAXなどの映像アトラクションを作って娯楽性を高め、集客に力を入れている。Mizumizuたちも、特別なドーム型の映画館で上映される「スペース・アドベンチャー」と、IMAXシアターでの「ワイルド・オーシャン」(もう1つ恐竜モノがあったのだが、海洋生物モノを選んだ)を観た。この2つのアトラクションに関しては、宣伝勝ちかな、という印象。子供なら喜ぶかもしれないが、大人にとってはそれほどの魅力はなかった。「スペース・アドベンチャー」は、一応擬似的な宇宙旅行を体験するというコンセプトで、隕石が飛んでくる様子などは3Dに近く、まあまあ迫力あり。試すなら、こちらだけで十分かも。アトラクションに関しては、子供向きの感が否めないが、この博物館に来ると、アカデミックな展示物の見せ方の上手さにいつも感心させられる。動物の剥製にアメリカの大自然の風景を合わせてみせる。その発想とセンス、ディスプレイのレイアウトの巧みさ、もちろん剥製技術の高さ、すべて素晴らしい。アカデミックなモノをエンターテイメントとして見せる。こうしたことをやらせたら、アメリカ人の右に出る者はいない。巨大なセコイアの切り株には驚きます。恐竜の骨格標本は、あまりにも有名。マンモスも迫力満点。世界最大のブルーサファイア(スター・オブ・インディア)の展示は、お昼までで、残念ながら今回は見損ねた(以前見てるので、いいのだが)。これから行かれる方はご注意を。見たいなら午前中に行こう。とにかく広く、グルグルしてるうちに見たいモノの場所をうっかり通過してしまったり、たどり着けなくなってしまったりするので、お目当ての展示物を事前にピックアップして、それがどのあたりにあるのか頭に入れておくのも大切。くれぐれもカフェ利用は避けたほうが無難。
2009.06.17
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茅野(蓼科)で一泊した翌日は、朝からヴィーナスラインを通って、松本へドライブすることにした。時間的に行くかどうか決めかねていたのが、美ヶ原高原。茅野(蓼科)から霧ケ峰を通って松本へ行くなら、美ヶ原高原の手前にある扉峠から下って行くほうが近い。美ヶ原高原方面からぐねぐねと遠回りして松本へ抜ける道も、地図上ではあるように見えるが、どんな道かわからない。それならば扉峠まで戻ったほうがわかりやすそうだ。有名な美ヶ原スカイラインとヴィーナスラインは、ちょうど美ヶ原にさえぎられるかっこうで、直接的にはつながっていないのだ。途中で土地の人に聞こうと、扉峠ルートと美ヶ原高原ルートを保留したまま出発する。天気予報は「晴れ」だったが、あいにく雲一つなかった前日とは違い、朝から頭上にはやや重そうな雲。茅野からまずは、藤城清治の影絵美術館のある白樺湖へ。湖は絵的には、悪くない。だが、天気のせいもあるにしろ、なにやらうすら淋しい場所だった(苦笑)。白樺湖は全体的に「さびれたリゾート地」という雰囲気に覆われている。廃屋になって放置された観光関連施設が、さらにうすら淋しさに拍車をかけている。街にこういう建物がポツポツあると、他の施設・業者がいくら頑張っても無駄なあがきになってしまう。せっかく湖あり、白樺あり、山ありと自然に恵まれた立地なのに、「あそこもつぶれました」「ここもつぶれました」の景色で、ほとんどすべてが台無しに…観光は各々の業者が競いあうだけではなく、街全体を一体として考えていかないと、もはや立ちいかないのかもしれない。こちらは湖の反対側、車山方面を湖越しに見る位置からの1枚。湖と山と見てる分には、風光明媚だ。街の一部の人工物を見なければ、ね。車山方面にヴィーナスラインを登っていく。眼下に白樺湖。車山高原にはスキー用のリフトがある。夏は高山植物が楽しめるらしいが、あいにく行ったのは秋。寒々しく雲をかぶった山頂を見て、「曇ってるし、寒そう。行く価値あるかしら?」と迷う。リフトから降りてきた女性に直撃取材(笑)すると、「素晴らしいですよ! 是非行ってください」と手放しに薦められた。ありったけの服を着込み、リフトに乗り込む。3人掛けだった。ああ、寒そう…上りは南側に開けた、湿原のパノラマを眺めながら行く。途中で一度乗り換えてから山頂近くへ。北側には、信州の山が幾重にも重なる眺めが待っていた。近くの山は、緑だ。遠くの連山は、蒼い。感動的なグラデーション。『青い山脈』という歌があるが、なるほど山脈というのは確かに蒼いのだ。山頂付近に着いたときは曇っていたが、強い風が雲を吹き飛ばし始めた。下るころに晴天が広がってくる。しかし、残念。迂闊にも軽装で来たから、寒すぎて長居する気になれなかった。雲が取れて、蓼科山が真正面に見え始めた。麓には白樺湖。ここから見れば、あの静かな湖のあたりにゆったり滞在してみたいと思う。広々とした車山湿原、すんなりとした姿の美しい蓼科山、さらに遠くの蒼い山並み。確かに絶景と言っていい。まあまあ晴れてくれてよかったが、もっと雲が遠慮してくれれば、さらに素晴らしいパノラマが広がるだろう。途中のロープウェイ駅のカフェで、ホットココアをいただく。このごろ観光地の食べ物は、どこもレベルが上がっている。旧態依然とした、高いだけでまずい一見客相手の店では、やっていけないのだろう。このカフェも、手作りを謳ったおいしそうなメニューが並んでいた。車山の麓に下りたあと、店のお兄さんにドライブルートを聞く。やはり美ヶ原に行ったら、引き返して扉峠から松本に行くルートが一般的らしい。美ヶ原はちょうど盲腸のようになっていると考えるとわかりやすい。時間的に、今回は無理そうだ。今日のうちに松本も歩きたいし。そいうわけで、美ヶ原には寄らずに扉峠でヴィーナスラインを終えることにした。
2014.01.27
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ジャン・ジャック・アノー 監督作品の中では、『薔薇の名前』よりも、『愛人/ラマン』よりも、『セブン・イヤーズ・イン・チベット』よりも、『スターリングラード(Enemy at the Gate)』が好きだ。この作品、舞台は第二次世界大戦下、史上もっとも悲惨な市街戦となったスターリングラード攻防戦なので、典型的な戦争映画と思いきや、大河なる歴史の流れよりもむしろ、個人の感情の動きにスポットを当てたヒューマンドラマで、愛国バンザイでも反戦マンセーでもない。いかにもフランスの知識層による演出らしい、アナーキーな思想が滲み出た物語になっている。とはいえ、戦争映画の大作らしく、大規模な空爆や、狂気の銃撃戦を含めた死者累々の地上戦など、カネかけた迫力ある戦闘シーンも当然大きな見どころになっている。スターリングラードの「赤の広場」の噴水の情景は、ぞっとするほどリアルだ。だが、『スターリングラード』で一番興味深かったのは、ヴァシリ・ザイツェフ(ジュード・ロウ)と宿敵ケーニッヒ少佐(エド・ハリス)、それにヴァシリの同志ダニロフ(ジョセフ・ファインズ)の3人の男たちの人間模様。ヴァシリとダニロフの友情を破綻させることになる、才色兼備のターニャ(レイチェル・ワイズ)の存在感も光った。ヴァシリは、ウラルの山育ちの羊飼い。幼いころから羊の番をする都合上、必要に迫られて狼を撃つことで銃の腕を磨いてきた。戦場でヴァシリに出会った文才のある青年将校ダニロフは、ヴァシリの卓越した射撃の腕に驚き、戦場のヒーローに仕立て上げて、国威発揚に利用しようと画策する。ヴァシリに将校を次々と射殺され、さらにはそれをネタにしたソ連の宣伝工作にも煮え湯を飲まされたドイツは、ヴァシリを暗殺すべく、超一流のスナイパーをスターリングラードに送り込んでくる。それがバイエルン貴族のケーニッヒ少佐。生まれも育ちも対照的なヴァシリとケーニッヒ少佐。映画での初登場シーンが、そのすべてを語っている。ヴァシリは、他の多くの兵士と一緒に、鉄道の狭い貨物車両に、モノのように積まれて戦場に運ばれてくる。外から鍵をかけられた、ぎゅうぎゅう詰めの列車内では、兵士たちは立ったまま、ほとんど身動きさえできない。そんな中で、青年ヴァシリは、まるでロマンチックな出来事を待ちでもするかのように、遠くを見つめている。列車が青年兵士たちを運ぶのは、地獄のような激戦地なのだが、その運命を誰もまだ知らない。車両に日が差してきて、青年ヴァシリの瞳を美しく輝かす。ケーニッヒ少佐の初登場シーンは、太陽がとっくに沈んだ夜。シャンパンをテーブルに置いた豪華な専用車両に1人で乗り、戦地へ向かう。貴族然とした物腰も、ヴァシリとはあまりに対照的だ。このとき、向こう側の線路に、負傷兵を詰め込んだ車両が入ってくる。傷を負った兵士たちは、隣りの豪奢な車両に1人でゆったりと腰掛けている、いかにも階級の高い将校の姿に、当然のように注目する。すると、ケーニッヒ少佐は、無造作に窓のカーテンを降ろして、彼らの視界を遮ってしまう。そこには、何の同情も共感もない。下々の人間には一切の関心がない、いかにも心冷たい貴族的な態度だ。ヴァシリは自分を暗殺すべくやってきたドイツ人将校の射撃の腕前が、自分をはるかに凌ぐものであることに、すぐに気がつく。「5歳ですでに狼を射殺した」などという、誇張されたエピソードで世紀のスナイパーに仕立てあげられたヴァシリだが、所詮は羊飼い。もともとは「工場で働きたいなぁ」というささやかな夢をもった、田舎の労働者階級の息子に過ぎなかったのだ。ヴァシリは、ちょうど羊を狙う狼のように向かってくる敵や静止している敵を撃つのには長けていたが、ケーニッヒ少佐の腕はそんなレベルをはるかに超えていた。建物から建物へ飛び移ったわずか一瞬を狙って、同志を一発で射殺されたヴァシリは、「あんな腕前は見たことがない」と全身を震わせて恐怖する。まともにやりあって勝てる相手ではない。ヴァシリは、自分を無敵のヒーローに祭り上げた同志ダニロフに、その苦悩をぶつける。最初のうちは、有名になったことを単純に喜び、有名にしてくれたダニロフに感謝していたヴァシリだったのだが…ダニロフに、無敵のスナイパーとしてではなく、ただの一兵卒として戦いたいと訴えるヴァシリ。だが、ヴァシリにはもはや、その道は許されない。この作品、大作なのだが、微妙な小技も効いている。ケーニッヒ少佐が捨てていったタバコを拾って、吸ってみるヴァシリ。少佐愛飲のタバコは、フィルター部が金の巻紙になっている、めったに見ないようなお高そうなモノ。ゆっくりと吸い止しを唇ではさむヴァシリ。このときのジュード・ロウのアップは、なぜか場違いに淫靡な雰囲気(カントク、狙ってますね)。自分とは縁のない上流階級の味は気に入らなかったようで、吸ったとたんに、「なんだ、こりゃ」と言わんばかりに、すばやく口からタバコをはずすヴァシリだった。やがて、ヴァシリとケーニッヒ少佐は、戦況などそっちのけで、互いを仕留めることしか眼中になくなっていく。国対国の壮絶なはずの争いが、いつしか男と男の決闘の陰に押しやられ、ウラルの羊飼いとバイエルンの貴族にとって重要なのは、自分の国がスターリングラードでの戦闘に勝つことではなく、自分自身が相手を倒すことになっている。銃を構えたジュード・ロウのアップは、もちろん麗しいのだが…そんな彼も、ケーニッヒ少佐演じるエド・ハリスの圧倒的な存在感の前では、しょせん青二才か? 自分の息子に対しては深い愛着を垣間見せる一方、敵国の貧しい少年は利用するだけ利用し、ためらいもなく冷酷に惨殺する偏った人間性も、ケーニッヒ少佐の特殊な育ちを強く意識させる。だが、ケーニッヒ少佐は、本来なら負けるはずのない相手に敗北し、時代とともに没落する貴族階級さながらの運命を辿ることになる。普通ではかなわない相手との闘いに命を懸けているヴァシリだが、戦場に咲く一輪の花のようなターニャとの間に、熱いロマンスが芽生える。ところが、ターニャには同志ダニロフも横恋慕。ヴァシリとは親友といっていいほど仲がよかったダニロフなのだが、ターニャがヴァシリに思いを寄せていると知ると、あっけなく友情は放り出して、ガクのないヴァシリを蔑み始める。ターニャに、「ヴァシリなんてさ~、射撃の腕がいいだけのバカな羊飼いじゃん。あんなヤツはさ、いずれはお役ごめんで死ぬことになっているの。ボクとキミはさ、インテリゲンチャよ。戦争終わっても役立つ人材だろ。ボクらは教育受けてるしさ、無学なヴァシリなんかとは、違った使命をもった人間なんだよ。だからボクらがくっつくほうが正しいの!」とまあ、そこまではさすがに言ってないが、それに近い選民思想をチラつかせ、ターニャを口説く。もちろん、こんなこと言うオトコは振られることになっている。ターニャは、ダニロフ無視のヴァシリ一筋。他の兵士たちと雑魚寝のヴァシリに、大胆にも夜這いをかけるのもターニャのほう。純朴なヴァシリも燃えます。衛生状態(ついでに周囲の眼も…)モノともしないラブシーンは、さすがフランス人監督。おフランス映画のかほりの漂うシーン。向こうで口あけて寝てる兵隊さんが、なんか妙にゆるくてグッド。ほんっとこの映画、小技効いてるなぁ…ターニャに振られたダニロフは、ヤキモチを炸裂させる。ヴァシリと自分を切り離すように、2人仲良く写った写真にハサミを入れるダニロフ(案外ロマンチックなことするお方ですこと。それじゃヴァシリに振られたみたいじゃん)。ダニロフは復讐を開始。ヴァシリに反共産主義的な言動が見られると、軍本部へ密告するのだ(インテリゲンチャは、案外やることがセコい)。ダニロフの告げ口にびっくりして眼をむいている、タイピスト役のオバさんの表情がイイ。だが、最後にはダニロフはそんな醜い自分の心根を嫌悪し、命を投げ出して、ヴァシリとの友情を償おうとする。「隣人をうらやむことのない平等な社会を築こうとしても、結局のところ、羨望は人間の性。人は自分にないものを欲しがる。そして、愛に恵まれるか否かという1点だけとっても、貧富の差はどうしようもなくある」――ダニロフがヴァシリにつぶやく今際の言葉は、共産主義批判に留まらず、人間の普遍的な真実を突いている。社会体制がどう変わろうと、人が平等たりえることは決してない。だが、ダニロフが望んでも得られなかった愛に恵まれたヴァシリは、ダニロフがこれを最後と思い決めて話す「真理」をほとんど聞き流しているようでもある。ヴァシリは難解な話は理解しない。ヴァシリが激しい反応を見せるのは、人の生き死にかかわるときだけだ。自殺に等しいダニロフの死は、図らずも、知識階級のもろさと労働者階級のたくましさをあらわにする。この映画、最後は、死んだと思っていたターニャを病院でヴァシリが見つけ出して寄り添う、優しくもロマンチックなカットで幕切れとなる。ダニロフは死んだが、愛し合う2人は生きている。ヴァシリとターニャの純な愛の美しさと同時に、愛そのもののもつエゴイズムも、そこはかとなく感じさせる大人の演出。大掛かりな戦場のシーンはハリウッド的だが、筋書きに漂う哲学はいかにもフランス的。主役のジュード・ロウも準主役のジョセフ・ファインズも全然ロシア人に見えない。『スターリングラード』の無国籍的な味わいは、Mizumizuにとっては欠点ではないが、伝説の狙撃手ヴァシリ・ザイツェフに思い入れのあるロシア人から見たら、違和感アリアリの映画かもしれない。
2009.05.14
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<きのうから続く>『美女と野獣』でコクトーの技術顧問を務めたルネ・クレマンは、コクトーからさまざまなものを学んだと言っているが、中でも「アクシデントには常に心の準備をしておくように」という言葉が印象に残っているとしていた。そして名作『太陽がいっぱい』では海上の殺人シーンの撮影時に疾風が吹いて、あわやヨットが転覆しそうになるアクシデントが起き、それがあの場面に異様な緊迫感を与えたというのは有名な話。『恐るべき親たち』でも最後の最後にアクシデントが起きている。ラストシーンでカメラが後退(トラックバック)していくのだが、撮影が終わってセットをバラしたあとの試写で、このトラックバックの動きがうまくいっていなかったことが判明する。カメラが後退しはじめたときから、画面がぶれるのだ。「もう一度セットを組み立てて、撮り直し?」皆が顔を見合わせ落胆したところで、コクトーのツルの一声が響いた。「大丈夫だ。撮り直す必要はない。この画面にナレーションを入れよう。『こうして家馬車は走り続ける。流浪の民は立ち止まらない』とね」こうしてアクシデントによる画面のブレは、建物全体が揺れ動く「家馬車」のイメージにぴったりになった。「詩人は事故をとらえて、詩に変容させた」(マレー自伝より)。さてさて、『恐るべき親たち』(1948)の配役だが、『美女と野獣』とかなりダブっている。ミシェル…ジャン・マレー(『美女と野獣』では野獣・王子・アヴナン)マドレーヌ(ミシェルの恋人)…ジョゼット・デイ(『美女と野獣』ではヒロインのベル)ジョルジュ(ミシェルの父)…マルセル・アンドレ(『美女と野獣』ではベルの父)この3人の『美女と野獣』とはまったく違う演技もおもしろい。ジョゼット・デイについていえば、『美女と野獣』ではやさしくいたわっていた自分の父親役のマルセル・アンドレを、「息子のためなんて言って。本当は嫉妬だけじゃない」と罵る場面が迫力満点。デイはコクトーの友人だった映画監督兼小説家マルセル・パニョルの愛人だった女性で、彼がコクトーに『美女と野獣』で使って欲しいと依頼した。パニョルとデイの痴話げんかにコクトーが仲裁に入っている様子が、コクトーの『占領下日記』に綴られている。「1944年2月25日 マルセル・パニョルから電話。つらくてやりきれない、すぐ会いたいという。彼はやってきた。ジョゼットの置き手紙を見つけたのだ。破局だ。あの娘と彼は互いを支えあって生きていた。彼は彼女を愛している。リッツ(注:ホテル)のジョゼットに電話を入れる。すぐ来るように言う。その後、2人をぼくの部屋で2人にしてやる」このときパニョル49歳、デイ30歳。が、そのあとすぐデイとパニョルは本当に破局した。そして、マレーが志願兵となってパリから離れ、『美女と野獣』を撮るかどうかプロデューサーサイドとコクトーがもめている時期に、デイのほうからコクトーに接近している。パニョルのほうはデイと破局後、さらに若い20歳の恋人を見つけて、コクトーに「彼女は素晴らしい。問題はまだ20歳ということだが」という手紙を書いてよこしている(おさかんなことで)。デイのほうはコクトー・ファミリーの一員として2本の映画に主演したのち、裕福なビジネスマンと結婚し、女優業を引退している。そして、ミシェルを取り巻く2人の大人の女性イヴォンヌ(ミシェルの母)…イヴォンヌ・ド・ブレレオ(イヴォンヌの姉)…ガブリエル・ドルジアこの2人の演技はどちらも最高に素晴らしい。イヴォンヌ・ド・ブレについて、コクトーは「ほとんど神の領域」と手放しで絶賛している。マレーも「イヴォンヌが舞台に立つと、他の役者はかすんでしまう」と賞賛を惜しまない。滑稽で、残酷で、辛辣で、鈍感で、繊細で、愛情豊かで、そして毒気にあふれたド・ブレのオンナの感情表現の見事さは、まさに比肩するものがない(ド・ブレとマレーについてのエピソードについては、4月13日のエントリー参照)。ガブリエル・ドルジアも潔癖な女性をやらせたら、右に出るものはいないかもしれない。ドルジアも早くからコクトー・ファミリーの一員で、1938年の舞台での初演当時から『恐るべき親たち』に参加している。コクトーから台本を読んで聞かされ、「熱狂的に役を引き受けた」と、マレーの自伝にある。ドルジアは『ルイ・ブラス』でも宮廷のしきたりに忠実な石のようにお堅い公爵夫人役を憎々しく演じていた(5/22のエントリーに写真あり)。『恐るべき親たち』は室内セットも魅力だ。実際の邸宅で「ロケ」を行った『恐るべき子供たち』とは対照的に、『恐るべき親たち』には登場人物の性格にぴったりの室内セットが用意されている。とくに螺旋階段のあるこじゃれたマドレーヌの居室は、まるでイマドキのマンションのモデルルームのよう。清潔なマドレーヌの家と違って、ミシェルの家はカオスそのもの。たいてい暗い部屋のベッドにいる自堕落なイヴォンヌ、いつもきちんとした格好で自分の部屋はしっかり整頓している行かず後家のレオ、散らかった部屋の床に転がって子供のように泣くミシェル。何をやっているのかわからない仕事場とキッチンをうろうろしている自称「発明家」のジョルジュはどうやら、かなりの夢想家のようだ。『恐るべき親たち』は1939年に一度映画化が企画されていた。セットも組まれていたのだが、マドレーヌ役をめぐってコクトー&マレーと出資者である劇場支配人が対立。結局、契約は破棄され、セットも壊されてしまった。このときのコクトーとマレーはプライベートでも熱い蜜月時代。映画化が頓挫すると、さっさとサン・トロペへバカンスに行ってしまう。マレーを旅行に誘うコクトーの詩↓新婚旅行に出かけようしかも本物の蜜月旅行を!狂暴に、桁外れの馬鹿になろう天からこない者のためにおお、ぼくの天使、お願いだ!(君はぼくの幸福を好むだろ)狂気の4日間をすごそう眼以上にふくれる腹を満たそう。抑圧し、説教する者は皆無裂けんばかりの脈打つ心臓眼下には、幸福な殉教者らの薄紫のアネモネの花。(注:アネモネはギリシア神話では美少年アドニスが流した血から生まれた花とされる)手と膝を捉えぼくらの間に忍び込みぼくらの愛撫を遅らせる怠惰を決して放置するな。幸福とは職業か?幸福とは教えあうものそしてぼくの流す白い血は全世界を甦らせるもの。(石沢秀二訳)この詩には続きがあるのだが、あまりに生々しい(上の詩だけで十分生々しいか)のでカット。興味のある方は、マレーの自伝をお読みください。そして、バカンス先で2人が戦争勃発を知るのは、すでに書いたとおり(詳しくは3/30のエントリー参照)。ちなみに、このころのマレー君は、こんなにカワイイ↓これは映画のためのスチール写真ではない。動員されたマレーが戦場で撮ったスナップ。戦場の兵士が、犬を抱いて(この犬は駐屯地でマレーが拾った)こんなにステキに笑っていいのか。当時の日本じゃ考えられない。もちろん、約10年たって撮られた映画版『恐るべき親たち』でのジャン・マレーもやっぱりハンサム。舞台『恐るべき親たち』の前の戯曲で、「ジャン・マレーはといえば、美しい。それがすべて」と批評家に書かれたマレーは、「次は美男でない役を」とコクトーにリクエストした。だが、映画を撮ったコクトー自身は、「君が映えるよう、あらゆる効果に気を配り、強調したつもり」とマレーへの手紙で書いているし、そもそも美男なのだから、やっぱり美男に映っている。さらにコクトーはマレーの演技についても、「君には泣かされました」と褒めている。『ルイ・ブラス』での「体操教師」発言のように、マレーに対してはだいたい批判的だった当時の批評家も、この作品のマレーの演技は高く評価した。
2008.05.28
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日本では圧倒的に小説『恐るべき子供たち』のほうが、戯曲『恐るべき親たち』よりも有名だが、フランスではむしろ『恐るべき親たち』のほうが認知度が高いかもしれない。ジャン・コクトーも晩年、自身の戯曲でもっとも成功したのは『恐るべき親たち』だと明言している。ルキーノ・ヴィスコンティもイタリアでこの戯曲を演出しているし、コクトーの存命中にフランスで再演話が持ち上がったときは、『太陽がいっぱい』に出る前のアラン・ドロンがコクトーに自ら「ぼくにミシェル役を」と売り込みに来ている。ただ『ジャン・マレーへの手紙』を読むと、コクトーはジェラール・フィリップは非常に評価しているが、アラン・ドロンはあまりお気に召さなかったようだ。ジャン・マレー自身も、晩年は父親役で『恐るべき親たち』を舞台にのせ、後進の指導に当たっている。もちろん、1938年に24歳のジャン・マレーがミシェル役を演じたときのような大評判を取ることはなかったが。だが、ジャン・マレー以外にたった一人だけ、『恐るべき親たち』の舞台をセンセーショナルなヒットに導いた俳優がいる。それも『恐るべき親たち』初演から半世紀以上たった1990年代になって。その俳優こそ、イギリス人のジュード・ロウ。ロウがロンドンで、『恐るべき親たち』のミシェル役を演じたのは21歳。しかも、ロウは同作をひっさげてアメリカはブロードウェイに進出して大ヒットさせ、ハリウッド進出の足がかりを築いた。ウィキペディアのジュード・ロウのエントリーには「1995年にブロードウェイで公演されたキャスリ-ン・ターナーやアイリーン・アトキンスと共演した『Indiscretions』でシアター・ワールド賞を受賞、トニー賞助演男優賞にもノミネートされた」とあるが、このIndiscretions(放蕩)というのが、『恐るべき親たち』なのだ。ちなみに、1948年にコクトー監督・マレー主演で映画化された『恐るべき親たち』の英語のタイトルはThe Storm Withinになっている。『恐るべき親たち』のミシェル役というのは、非常に難しい役だ。ミシェルは、客を笑わせ、呆れさせ、怒らせ、そして泣かせなければならない。単細胞のダメ息子だが、そこに愛らしさがなければいけない。マレーはコクトーにこの戯曲を書いてもらったとき、あまりの難しさに、「この役を演じる才能も力量も今の自分にはない。絶望的だ」と思った。「でも、ジャンの信頼を裏切りたくない」。コクトーのほうは、呆然としているマレーを見て、「気に入らなかったのかな?」と一瞬がっかりした。コクトーはコクトーで、最初の読者であるマレーが自分の作品を気に入ってくれるかどうかを常に心配していた。それは晩年まで一貫して変わらない。「おもしろくない?」と聞くコクトーに対して、「素晴らしいと思う」と答えたマレー。「じゃあ、なぜそんな顔をしているの?」「驚いているんだよ、ジャン。君が想像できないくらい、ぼくは感動してる。この作品はどこか幻想的だ。そこが素晴らしいと思う」素晴らしいとマレーが感動した『恐るべき親たち』は、2人の予想を超える成功をおさめた。『恐るべき親たち』は、舞台の初演から10年も遅れて映画化されるが、そのときコクトーはもともとの舞台にはなかったシーンを付け加えている。それがミシェルの入浴シーン。コクトーと仕事を始めたごく初期のころは、よく「脱がされて」いたマレーだが、すぐに自分の肉体美を売り物にするのを嫌がるようになる。映画『恐るべき親たち』での露出はマレーとしては珍しい。このころのジャン・マレーは筋骨隆々、まさにギリシア彫刻のよう。もともとの台本を読むと、このシーンはミシェルがお風呂に入っているのではなく、お風呂の水を入れているだけだ。映画化にあたって、やや視覚的に「セクシー」なシーンに変えたということだろう。ただセクシーなだけでなく、おっちょこちょいのミシェルの性格を表すコメディ風のシーンもある。そして、ミシェルは浴室からバスローブをはおって出てくる。窓枠の影が美しい。このシーンももともとの舞台劇にはない。ジュード・ロウ版舞台『恐るべき親たち』では、ロウはもっと大胆に、フルヌードで入浴し、お風呂から出てくるという設定になっている。悲喜劇両方の側面をもった『恐るべき親たち』のミシェル役は、そもそも難しい役だが、やはり客を集めるには、演技力だけではなく、俳優が若く、セクシーで、チャーミングである必要がある。その条件を完璧に満たしていたのが、1930年代のフランスに1人、1990年代のイギリスに1人だけいたということだ。ジャン・マレーは『恐るべき親たち』執筆前のコクトーに、「君はどんな役が演りたい?」と聞かれて、「極端で、活気があって、現代人の役。泣いたり笑ったりして美男でない役」と答えている。そうして生まれたのがミシェルというキャラクターなのだが、マレーにしろロウにしろ、結局とびきりの美男だ(笑)。1997年以降のジュード・ロウの映画界での活躍は多くの人が知るところだが、監督としてロウと相性がよかったのはやはり、アンソニー・ミンゲラだろう。ミンゲラはロウの魅力を最大限引き出した監督だ。まずは、1999年『リプリー』のディッキー・グリーンリーフ役。この映画、どう考えたってロウのための映画だ。『ダークナイト』がヒース・レジャーのジョーカーを見るための映画になってしまったのと同じ理屈で。そのくらい、『リプリー』のロウは強烈なオーラを放っている。『リプリー』は『太陽がいっぱい』のリメイクと紹介されるが、それは適切ではない。『太陽がいっぱい』より、原作のThe Talented Mr. Ripleyに忠実だとネットでは書かれていたりするが、それも当たっていないように思う。いや、もちろん『太陽がいっぱい』よりは忠実かもしれない。だが、『リプリー』もやはり、脚本を書いた監督のミンゲラが相当に原作を「翻案」している。映画『リプリー』と『太陽がいっぱい』、それに小説The Talented Mr. Ripleyはそれぞれ、まったく別の作品だと思ったほうがいい。たとえば、主人公のリプリーがディッキーを海上で殺すシーンは、原作とまるで違う。原作ではリプリーが最初から殺すつもりでディッキーをヨットで海に誘うのに対し、映画『リプリー』では、ディッキーに誘われて乗ったヨットで、ディッキーの女友達のことで2人が口論になり、狂気にかられたディッキーに恐怖を覚えてリプリーが偶発的に彼を殺してしまう。この海上でディッキーがリプリーを、「お前は退屈なんだよ」と罵るシーンは、明らかにロウの『オスカー・ワイルド』(1995年)でのボジー役を彷彿させる。というより、ほとんど台詞が同じなのだ。ミンゲラは『オスカー・ワイルド』で病気のワイルドを残してボジーが遊びに出かけてしまうシーンのロウの演技からヒントを得て、この海上での殺人シーンの脚本を書いたとしか思えない。そして、もう1つ。ディッキーとリプリーの間に微妙な空気が流れるのが、浴室でのシーン。ディッキーが入浴し、リプリーとチェスをしている(なんで、風呂入りながらチェスなんかすんのだ? そもそも)。映画『リプリー』では、非常に重要なシーンなのだが、こんなお風呂の場面も原作にはないのだ。バスタブに入っているディッキーに、リプリーが「入ってもいい?」と聞くシーン。このときロウ演じるディッキーは、露骨にバカにするような視線をすくい上げて、リプリーを凝視する。どうよ、この色悪ぶり。相手を上からあからさまに品定めするような、こうした侮蔑的目つきをさせたらジュード・ロウの右に出る人はいない。しかも、その相手はほとんど必ずオトコ。「ノー」と冷たく突き放されて、リプリーはあわてて、「一緒にじゃないよ」。すると、ディッキーは、「じゃ、オレは出るから入れよ」とバスタブを出て行く。このミンゲラのオリジナル・シーンのルーツは、やはりロウの出世作『恐るべき親たち』にあると思うのだ。そして、ディッキーのキャラクターづけは『オスカー・ワイルド』のボジーに相当影響を受けている。リプリーはディッキーに「気味が悪い」「やめろよ、そういうの」と侮辱されればされるほど、ますますディッキーにメロメロになっていく。2003年の大作『コールド・マウンテン』を経て、ロウとミンゲラは2006年に『こわれゆく世界の中で』で再びタッグを組むが、この最後のロウ+ミンゲラ作品でも、重要な場面にお風呂が出てくる。「もう嘘をつくのはやめよう」「いいえ、ずっと嘘をついていて」――男女の思惑の違いが、決定的になるシーン。このあと、自分の思い違いを知って、ロウ演じる主人公は無言でバスタブから出て行く。ミンゲラ作品3つのうちの2つに出てくる浴室。そのルーツは、だからジャン・コクトーが映画『恐るべき親たち』でマレーをお風呂に入れたときにさかのぼると思うのだ。ロウがジャン・マレーを意識しているかどうかは不明だが、彼の将来の夢は、「84歳でリア王を演じること」だと言っていた。84歳はマレーが亡くなった年。マレーはその前年まで舞台に立っている。リア王も当たり役の1つだった。シェークスピア劇をあげるということは、ロウの頭にあるのは、あるいはイギリス最高の俳優ローレンス・オリビエかもしれない。どちらにしろ、いくつになってもその年に応じた演技が楽しみな俳優、それがジュード・ロウだ。ミンゲラは明らかに、俳優としてのジュード・ロウの才能に最も惚れこんでいた監督だった。ミンゲラ作品でのロウは、1作ごとにまったく違う、そしてその年齢にぴったりの役を演じて、甲乙つけがたい極上のキャラクターに仕上げている。<も、文字制限… 続きは明日に>
2009.03.16
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Mizumizuが手塚漫画にハマるきっかけになったのは、『海のトリトン』を読んでからなのだ。そして、この漫画に行きついたのは、アニメ『海のトリトン』のオープニングを飾った『Go! Go!トリトン』からだ。https://www.youtube.com/watch?v=LIetONBzm9kいきさつは、こうだ。このアニメは子供時代、テレビで放映されていた時に、数回見た記憶がある。少年向けアニメにありがちな、「次々現れる敵と戦う(そして、倒す)」というストーリーにすぐ飽きて見なくなったのだが、オープニングの曲とトリトンと白イルカの躍動感あふれる海洋でのアクションシーンは大、大、大好きだった。『Go! Go!トリトン』は不思議で、いったんはまったく聞かれなくなったのが、ずいぶん経ってから復活して、なぜか甲子園でよく演奏されるようになった印象があった。You Tubeで検索したら、『Go! Go!トリトン』はやはり人気で、アップされた動画にはたくさんのファンのコメントがついていた。歌詞も大人へのステップを踏み出す少年と神秘的な海のイメージを融合させた素晴らしいものだし(作詞は林春生)、曲もいい。調べてみたら作曲はジャズ畑の鈴木宏昌。子供向けのアニメソングに、なんともオトナな異色の才能をもってきたものだ。メロディラインはもちろんのこと、楽器の使い方もカッコイイ。成熟した男性歌手の歌もうまいし、そこに児童合唱がかぶさってくることにもテーマ性を感じる。このアニメソングを聞いて、デーモン小暮閣下は歌手を目指したとかいう噂も聞いた。『海のトリトン』の原作は手塚治虫。ところが、一部アニメファンの(元)少年たちの原作に対する評価が、えらく低い。「アニメと全然違って、つまんなかった」「面白くなくて、メルカリで売った」等。演出…といいながら、最終回の脚本は完全に自分のオリジナルだと話す富野由悠季に至っては、「原作漫画はつまらなかった」「手塚先生も失敗作だと思って、自分の自由にさせてくれたのだと思う」などと勝手なことを言っている。手塚漫画はたいていストーリー展開が複雑で、ドンパチアニメが好きな少年たちにあまり受けないのは、分かるのだ。しかし、手塚治虫自身が自作の『海のトリトン』を失敗作だと言った――という話は聞いたことがない。いろいろ調べてみると、「アニメのトリトンはぼくのトリトンではない」「ぼくは原作者という立場でしかない」という発言は見つかった。「ぼくのトリトンをあんなに改変しやがって」的な発言はまったくない。ちなみに実写映画『火の鳥』と『(宍戸錠版)ブラック・ジャック』については、「火の鳥をあんなにしちゃって。あの映画は失敗です」「(宍戸錠のメイクに対して)あんな人間いません!」と酷評したという話は残っている。だが、アニメ『海のトリトン』の出来に関しては、公けには否定も肯定もしていない感じだ。あえて触れないようにしているようでもある。それは、もしかしたら『海のトリトン』プロデューサーで、天下の悪人、西崎義展とのトラブル…というか、手塚の信頼につけこんで西崎が起こした著作権かすめ取り事件…のせいかもしれない。Mizumizuは手塚版トリトンを読んだことがなかったのだが、それほどおもしろくないと言うなら、どんなつまらない作品なんだろう…と思って図書館で借りてみた、というわけなのだ。で、読んでみたら…面白いじゃん! これ!なんとまあ、アニメとはまったく別作品と言っていい。これって、原作って言えるのか? というレベルのかけ離れ方だった。原作は実によく構成されている。先が気になって、どんどん読んでしまう。以下のように漫画版『海のトリトン』を奨めている人もいる。アニメと原作の違いを短い文章でうまく説明している。https://konomanga.jp/guide/66230-26月8日は、国際的な記念日である「世界海洋デー」。もとは1992年の本日に開かれた地球サミットにて提唱されたもので、2009年より正式に国連の記念日として制定された。その趣旨を要約すると「海の環境と安全を守ることは、人類の責任である」といったところだが、そんな記念日に読んでいただきたいマンガといえば……海を舞台にした作品は数あれど、やはり手塚治虫の代表作のひとつである『海のトリトン』をまずはオススメしておきたい。本作はテレビアニメ化された映像作品のほうで知っている人も多いとは思うが、原作とアニメでは登場人物や設定がかなり異なっていることはご存じだろうか?もちろん、手塚治虫のどメジャー作品だし「読んでて当然!」……と言いたいところではあるが、アニメの直撃世代の人に「原作にはオリハルコンってまったく出てこないんですよ」とか言うとたいがい驚かれたりするのもまた実情だったりする(※少なくとも観測範囲では)。そもそも当初は主人公がトリトンですらなく、アニメに登場しない矢崎和也という人間の少年を軸に物語が展開するのだが、ほかにもトリトンに海中での戦い方を指南する丹下全膳や、トリトンに心惹かれ、大きな役割を果たす少女・沖洋子、さらにトリトンをつけ狙うポセイドン族の刺客でありながら、その洋子に情愛の念を抱く怪人・ターリンなど、原作のみに登場する重要キャラクターは多数。そして何よりも重要なのは、トリトンと人間との出会いはアニメ以上にセンシティブな問題をはらみ、人間の身勝手さが強調されていることかもしれない。『海のトリトン』の原作においては、人間が海洋汚染などにもう少し敏感でいれば回避できたであろう悲劇もたびたび描かれている。そして海に生きる者からの視点もしばしば登場する本作は、「世界海洋デー」に読むにはピッタリだろう。<文・大黒秀一>大黒氏は、明らかに手塚のトリトンを面白いと思って書いている。Mizumizuも同感だ。Mizumizuなりに追記するとすれば、『海のトリトン』は『ジャングル大帝』と双璧をなす親子3代にわたる大河ロマンだ、ということだ。『ジャングル大帝』アフリカのジャングルを舞台にしたライオン、『海のトリトン』は海を舞台にした海洋族が主人公。そして、初代、つまり主人公の親は、人間界とはかかわりを持たない存在として、さっそうと登場するが、すぐ亡くなる。2代目、すなわち物語の主人公は人間と深いかかわりを持ち、成長していく。その中で様々な闘争に巻き込まれる。そしてちらっと出てくる3代目は、2代目が持ったような幸せで親密な関係を人間との間にもつことはなく、どちちらかと言うと人間の醜い面を目の当たりにして、おそらくは物語の終了後、人間社会とは離れた存在になっていく(であろう)――というような展開も共通している。アニメ版主人公のトリトンの顔は、髪の毛の色以外は…まぁ確かにギリシア風の衣装とか、手塚アイデアだろう(ただし、手塚作品では、トリトンは少年から成長し、大人になって子どもを作るのだ)。イルカのルカーも色と目つき以外は、原作に近い役割のキャラクターだ。アニメのオープニングで海洋爆発があるが、これは原作にあると言えば、ある。だが、アニメ版の最初、上から爆発の場面をとらえ、次にカメラを引いて、それが海洋上であることを示し、さらに、古代チックな石が吹き上がってきてタイトルの文字になる…というのは完全にアニメチームのアイデア。秀逸ではありませんか! それに続くルカーとトリトンそのアクロバティックな海のシーンも、アニメでしかできないダイナミズムと美しい色彩にあふれている。素晴らしいじゃありませんか!<長くなってきたので続きは次回>
2024.02.06
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手塚治虫アシスタントの食卓 [ 堀田あきお ]堀田あきお氏が「あまりに美味しくて」残っていた分を全部食べてしまったというお菓子、「更科」。高田馬場の青柳という和菓子屋のスペシャリテ。手塚治虫のお気に入りだったらしい。確かに、美味しいのだ、この更科。過剰な期待をして食べると裏切られるが、素材の上質感もあって飽きの来ない味。皮のもっちりしっとり感はMizumizu好み。高田馬場に行くたびに買っている。青柳には、手塚治虫キャラにちなんだ創作和菓子もある。コレ↓ 誰だか分かりますか?(笑)ちょっと食べすぎちゃった感はあるが、アトムなのだ。中身は栗餡。手塚治虫先生が亡くなったあとに考案したご当地(?)饅頭といったところ。高田馬場はアトムの生誕地なので。皮はかためで中身がしっかり入っている。古風な和菓子。これまた強烈なインパクトはないが、あれば食べてしまう。ウランちゃんもある。こちらは和三盆を使った餡。Mizumizuにはやや中身の餡子が多すぎる。個人的にはアトムの栗餡のほうが好き。お土産用の包装紙。最初はこんなふうに箱で買ったが、2回目からは自分用だけバラで買っている。高田馬場からは少し歩くが、アトム像の看板があるので分かりやすい。風が強い日に行ったら、このアトムがいなくて、通り過ぎてしまった。小さい店だ。和菓子屋なので、もちろん他にもいろいろある。でも、やはり「更科」が一番。
2025.01.11
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高田馬場の小さな町中華、第一飯店。何の変哲もない店だが案外人気店らしく、お昼時は並んでいる人の姿も見かける。ここの「特製上海焼きそば」は手塚治虫が考案したという触れ込みになっている。もちろん、食べましたとも。「海鮮とキノコの旨味たっぷり」という宣伝にたがわない味。全体の味付けも濃いめで、いかにも昭和風。しかもすごいボリューム。これを食べるときは朝食を抜いて、遅めのランチタイムに行くようにしている(つまり、もうリピートしているのだ)。個人的にはキノコ類が豊富なのが気に入っている。シイタケ、キクラゲ、ストローマッシュルーム…自分ではなかなかここまでキノコ類を入れた料理は作れない。ボリュームが凄くて、食べ終わるころには、「さすがに飽きた。もうしばらくはいいかな」と思うのだが、あ~ら不思議。しばらく経つとまた食べたくなる。『手塚治虫アシスタントの食卓』にも、この店の焼きそばのエピソードが出てくる。店の名前は変えてあったが、テーブルといい、料理といい、イラストは明らかに第一飯店。『手塚治虫アシスタントの食卓』を読むと、手塚プロダクションが高田馬場にきてから、周囲の飲食店がいかに潤ったかがハッキリわかる。なにせ、大勢のアシスタントが会社のお金で豪勢に食べまくっているうえ、関連業者や編集者も押し寄せるから、当然、喫茶店など利用するだろうし(なにせ待ち時間が長い)、いやはや、一人の大天才による「高田馬場飲食店」への経済効果はいかばかりだったのかと。藤子不二雄A&藤子・F・不二雄によるエッセイ『二人に少年漫画ばかり描いてきた』でも、自分の仕事を手つだってくれた駆け出し漫画家に対して、手塚治虫が若いころからお金を惜しまず美味しい食事をふるまっていた様子が日記風に書かれている。藤子不二雄Aは、「(アシスタント代をもらったうえ)こんなにごちそうになってばかりでいいのだろうか」と思ったそうだ。漫画を一大産業にのし上げたのも手塚治虫だし、日本アニメの先駆者となったのも手塚治虫だし、グッズ販売が「儲かる」商売だと世に知らしめたのも手塚治虫のキャラクターだし、アシスタント分業制を採用して漫画の量産に道を拓いたのも手塚治虫だし、のちに大物となる有望な漫画家の卵を編集部に紹介したのも手塚治虫だし、漫画の神様が直接・間接に日本の経済に及ぼした影響ははかりしれない。そして、「グルメブーム」なんてものが起こるはるか前に、こうやって食をつうじて、地元の経済を回していた、というのも業績のひとつに挙げたいくらいだ。
2025.01.15
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<きのうから続く>ロシアが生んだ20世紀を代表する男性バレエ・ダンサー、ルドルフ・ヌレエフとミハイル・バリシニコフ。この2人の天才ダンサーが演じた『若者と死』(ジャン・コクトー原案、ローラン・プティ振付)が収録されたDVDは、日本でも出ている。2007/04/01発売ローラン・プティ・ガラ/若者と死ヌレエフ版は1967年のスタジオ撮影。ヌレエフは相手役にプティの妻でもあるジジ・ジャンメールを希望した。準備期間は1週間と非常に短かかった。というより、たまたま空いたヌレエフのスケジュールを埋めるのに、この作品の撮影を選んだと言ったほうが正確かもしれない。ヌレエフ版では、若者が死んだあと部屋の壁が上がり、パリの夜景が現れるシーンは省略されている。ヌレエフ演じる若者が、絞首台となった柱で首を吊ったところで終わっている。ホワイトナイツ 白夜(DVD) ◆20%OFF!バリシニコフ版は映画『ホワイトナイツ』の冒頭にある。これは劇場で上演されている『若者と死』を編集したスタイルになっており、満員の客の入った大劇場での公演の様子をドキュメンタリー風に撮りながら、スタジオ撮影と組み合わせて、さまざまなカメラアングルを工夫した、非常に凝った演出になっている。パリの夜景が現れるシーンもある。私見だが、ヌレエフ版、バリシニコフ版、熊川版の3つの中で、もっともカメラワークが優れているのがバリシニコフ版だ。『ホワイトナイツ』の制作者による解説でも、この冒頭のバレエシーンの演出には細心かつ最大限の注意を払い、工夫を重ねたと言っている。映画の観客は、ときに映画の中の劇場の観客と同じ空間に座って一緒に舞台を眺め、ときに劇場の客席からでは望めない距離あるいは方向からバリシニコフの表情や動作を堪能することになる。ただ、バレエ作品として見ると、途中一部カットされてしまっているのが残念だが、あくまで映画の中のバレエシーンなのだから、仕方がない。バリシニコフの踊りを見ると、ヌレエフを相当に意識しているのが感じられる。バレエ・ダンサーの優劣がテクニックで決まるのであれば、バリシニコフは恐らく、ヌレエフを凌いで最高峰に位置づけられるダンサーだろう。ヌレエフが、回転動作でときどき軸がブレたり(←GOEマイナス1?・苦笑)、完全に回りきる前にフリーレッグを降ろしてしまったり(←ダウングレード?・苦笑)しているのに対し、バリシニコフはまるで精密機械のように動作の最初から最後までまったく軸がブレず、ピルエットでも常に完璧に回りきってから脚を下ろしている。また、跳躍技のあとの着地でも、空中で余裕をもって回りきって降りてくるから、微動だにしない。意識的に動作を一瞬ピタッと止めている。ヌレエフの踊りで、テクニック的に少し「気になる」部分を、あたかも意識的に完璧に修正して演じて見せたようですらある。全身にみなぎる緊張感も、ヌレエフにはないものだ。だが、その完璧さが、逆に物語のドラマ性を弱めているかもしれない。ヌレエフ版『若者と死』は、実のところヌレエフの踊りとしては、跳躍技の高さも回転技の技術も今ひとつだ。ヌレエフといえば、まるで重力がなくなったかのように、ふわりとジャンプする――その高さと滞空時の静止画のような男性的なポーズの力強さと美しさが図抜けている――というイメージがあるが、『若者と死』はそうしたバレエではなし、小道具が並んでいる狭い舞台空間でリハの期間も短かったということもあるかもしれない。一言で言えば、バリシニコフほど「テクニック的にはリキが入っていない」のだ。それでもヌレエフ版『若者と死』は、ヌレエフという男性がもつ自然な魅力が不思議ににじみ出てくる作品になっている。魅力というより、魔力といったほうが適切かもしれない。ダンサーとしてというよりも、あくまで1人の男性、1つの存在として、ヌレエフが醸し出す魔力だ。不思議なことに、見れば見るほど味わいが深くなる。こうした磁石のような魅力は、バリシニコフ版には薄い。このバレエは、男性が上半身裸で演じる。バリシニコフは明らかに「見せる筋肉」を上半身につけている。ヌレエフにはそうした人工的なトレーニングの気配はみじんもない。生来のたくましさに均整のとれた筋肉をまとったダンサー。ヌレエフの筋肉は見せるために作ったものではなく、あくまで踊るために身についたものだ。身体の動きは非常にしなやか。ヌレエフという人は、特段イケメンではないが、顔の表情には、毒気をはらんだ媚態のようなものがある。それも教えられて身につけたものには思えない。ヌレエフという人が元来もっている、得体のしれない魔力のようなものが、身体全体、そして顔の表情から漂ってくる。プティの語る「男性的で、クレイジーなところがあり、踊り手としては超絶技巧だが、自然でなくてはならない」という「若者」のイメージは、まさにヌレエフを指しているように思う。熊川版の舞台『若者と死』が素晴らしかったのは昨日書いたとおりだが、残念ながら熊川版DVDには激しく落胆させられた。ヌレエフ&バリシニコフと比べるのが、そもそもおこがましいという人もいるかもしれないが、ダンサーとしてどうこう以前に、演出がひどすぎる。舞台『若者と死』はダンサーだけでなく、振付、音楽、舞台美術すべてが一体となって感動を誘った。バレエはまさしく総合芸術なのだ。舞台とDVDは違うとはいえ、熊川版DVD『若者と死』は、舞台ではほぼ完璧に表現されていた総合芸術を安手のトレンディドラマに変えてしまった。バレエダンサーは俳優とは違う。単に女性とセクシーに絡んだり、彼女に振られて悲しんでる表情をしたりといったドラマの表現では、ダンサーは(イケメン)俳優にはかなわない。だが、ダンサーには俳優にはない魅力があるはずだ。第一にダンサーは姿勢がいい。立ち姿が何もしなくても美しいし、ポーズもバランスが取れていて、身体全体に緊張感がある。動きも無駄がなく、流れるよう。熊川版DVD『若者と死』は、変にワザとらしい表情を作った顔のアップを多用したり(しかもワンカットが長い)、スローモーションを入れたり、「スタイリッシュ」に撮ろうとして、返って熊川を三文役者にしてしまった。最近、時代劇の立ち回りなどでもスローモーションが多用されるが、あれは要するに、近ごろの役者――特に経験の浅い若い役者――が「動けない」からだ。「動ける」ダンサー、しかも非常に機敏に流麗に動けるダンサーを使ってドラマを作るなら、俳優には真似できない身体を使ったドラマ性の演出を心がけるべきであって、熊川哲也の「顔芸」なんて、熊川ファンなら喜ぶかもしれないが、バレエファンが見て感銘を受けるようなものではない。カットする部分も完全に間違っている。舞台では、部屋の壁が上がり、女性が死神となって再び現れ、若者が木偶人形のように、彼女について歩くシーンがある。そして、階段を上がり、パリの夜景を見下ろす位置に来たところで、死神がどこかをまっすぐに指差す。この部分は生の世界から死の世界への移行を意味している。熊川の舞台は非常に素晴らしかったのに、ただ歩くというモーションが冗長だと判断されたのか、DVDではほぼ全部カットされてしまった。パリの夜景は「死後の世界」の象徴なのに、ラストシーンでは空しか映っていない。「天空への旅立ち」だという新たな解釈なのかもしれないが、それではこの作品でパリの夜景がもっていた力強い象徴性が薄れてしまうし、そもそも「死=空へ」というイメージがチープだ。どうしてこんなバカげた「改悪」をするのか。ヌレエフ版のほうは、若者が首を吊ったポーズで終わる。パリの情景が入っていないのは、準備期間が短く、セットを用意できなかったという現実的な問題があったのかもしれない。ヌレエフ版は、絞首台と若者以外は何もない白い空間でラストとなるのだが、空中にぶら下がったヌレエフの身体のラインが、足先まで非常に美しく、神々しくさえ見える。熊川版のような安い三文ドラマの終わりとは違う。どうしてこういう演出ができないのか。プティが熊川に「若者」を踊る権利を許諾してくれたことは喜ばしいことだ。今後も熊川は舞台で『若者と死』を演じていくつもりだという。舞台は「総合芸術」として素晴らしいのでお奨めだが、DVDを見る限り、熊川というダンサーは、ヌレエフやバリシニコフとはスケールが違いすぎる。DVDの解説では、熊川の「若者」は表現力ではバリシニコフ以上のものがある、などと持ち上げているが、いくらなんでもそれは身びいきが過ぎるというもの。ヌレエフの現役時代の話をすると、プティはヌレエフ+ジャンメールの『若者と死』の収録を終えたあとも、この作品をヌレエフに舞台で演じてほしいと思っていた。『若者と死』は、舞台装置も単純だ。最後のパリの夜景が現れる部分を省けば、テーブル1つ、椅子4脚、ベッド1台、それに絞首台になる柱があればいい。それなのにヌレエフが公演の演目に入れないので、なぜ踊らないのかとプティは何度もヌレエフに直接尋ねている。ところが、プティが『若者と死』を、ヌレエフの後に現れたロシアのもう1つの輝ける才能に許諾すると、ヌレエフはプティにこんなことを言ってきた。「『若者と死』の振りをミーシャ(バリシニコフ)にあげてしまったの? 僕は彼より前に踊ったことがあるのに。どうして僕の巡業用の作品にしてくれなかったの?」(新風舎『ヌレエフとの密なる時』ローラン・プティ著 新倉真由美訳)この微妙に甘えた物言いの裏には、ヌレエフとプティの「特殊」な関係がある。<明日へ続く>
2009.05.26
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前回のホイアン旅行で、気に入ったホイアン名物ホワイトローズ。日本に帰ってきて食べたいと思っても、案外ない。今回ホーチミンに行くので、「そこらのレストラン」で食べれるのかと思いきや、これまた案外ないことを、ネットで調べていて知ることに。だが、まったくないわけではない。今回Mizumizuたちが行ったのは、ホイアン・クアン(HOI AN QUAN)という店。ホイアン・クアンという名の店はいくつかあるようだが、住所が285/94A Cach Mang Thang Tam, P.12, Q.10, TP.HCM電話:(08)5404-5505なのでお間違えなく。ホテルのコンシェルジュに予約してもらい、わざわざホワイトローズ(ベトナム語では「Banh Hoa Hong Trang バイン・ホア・ホン・チャン」と言うらしい)のお取り置きをお願いした。「何ポーション欲しいのか(ポーション=皿)」と聞かれたので、「2ポーション」と答えるMizumizu。結果的に2人で3皿頼んだのだが(笑)。このホイアン・クアンというレストラン、中心部からはちょっと外れていて、しかも道が案外分かりづらい。タクシーがもしかして迷うかもしれないので(その根拠は後日)、位置を頭に入れておくといい。まずは大きな地図で見てみよう。右端の黒丸で囲ったところがスーパーのLucky Plaza。その真横がホテル「ザ・レヴェリー・サイゴン」。赤の↓で示した一方通行の通りが名高いショッピングストリート、ドンコイ通り。黒の↑↓で示したのが、人民委員会庁舎前(緑で丸した建物)の2本の一方通行の通りだ。ホイアン・クアンの位置は左端の黒丸で囲ったところ。わりと距離がある。ここが「分かりにくい」のは、Cach Mang Thang Tamという大きな通りと、ホイアン・クアンに通じる285 Cach Mang Thang Tamという脇道があり、しかも、住所の285/94A Cach Mang Thang Tamというややこしさが示すとおり、285 Cach Mang Thang Tamという脇道がU字の「底」で右に折れて続き、店はその右に折れたすぐの右の道を入ったころにあるからだ。言葉で書くとわけがわからないと思う。詳しい地図を見てみよう。Cach Mang Thang Tamという大きな通りから、下にU字を書くように脇道がある。この脇道285 Cach Mang Thang Tam通りのU字の「底」のところを、ちょっと右に折れ、すぐ先の道を右に入った右側。285 Cach Mang Thang Tam通りのU字の「底」のところを右に折れないと、285 Cach Mang Thang Tam通りは283 Cach Mang Thang Tam通りと数字が変わってしまい、そのまま気付かずに行くと、また元のCach Mang Thang Tam大通りに戻ってしまう。ここが分かりにくいようで、レストランからタクシーを呼んでもらったときも、「着きました」と店に連絡が来て、店の外に出て直進してみたが、タクシーはいなかった。そこで店に戻り、店の人がタクシーに連絡してなにやら説明していた。Cach Mang Thang Tamという大きな通りからは下の地図に示した緑の矢印のように行けばいいのだ。Cach Mang Thang Tam大通りを、285 Cach Mang Thang Tam通りで左折。そのまま285 Cach Mang Thang Tam通りを進む。U字の底で右に折れるのが285 Cach Mang Thang Tam通りの続きで、右に折れずにU字の底から元の大通りに戻る道は、同じ道が「283」 Cach Mang Thang Tam通りになる。一度頭に入ればなんでもないのだが、初めてだと戸惑う路地だ。ちなみに、ホイアン・クアンからタクシーを呼んでもらって、ホテルまで帰るのに、夜8時ぐらいに混んでいる大通りを通って、30分ほどかかったように思う。料金は75,000ドンだったが、切り上げて80,000ドン(400円)払った。遠いといっても、その程度で往復できる。レストランはとても感じが良く。値段もリーズナブル。ホーチミンの中心部の有名レストランは白人だらけの店や日本人と白人しかいないレストランも多いが、このホイアン・クアンは、案外地元民が多かった。味のほうも、ホイアンで食べたものと大きな差はなかった。タレが多少単純な味だったかもしれないが。ホワイトローズをホーチミンで食べたいという人には心からオススメできる。中心部からちょっと遠く、初めて行く人には道がわかりづらいのが難点だが、上の地図を見ていったん道と位置関係を頭に入れておけばそれほど難しくはない。こちらがホワイトローズ。写真はレストランのホームページ(https://www.foody.vn/ho-chi-minh/hoi-an-quan)から。食べ方だが、タレを直接上からふりかけたり、タレにホワイトローズをつけたりする(餃子のように)のではなく、まずホワイトローズをテーブル横にある小鉢とスプーンの上にのせ、その上にタレをかけて、スプーンでいただくのがマナー(らしい)。確かにそうしないと食べにくい。タレには唐辛子が一片入っていて、タネを食べてしまったMizumizuが思わず咳き込む(笑)。すると追加でもう一皿頼んだときは、唐辛子を抜いてくれた。別にそこまでしてもらわなくても辛すぎるタレではないのだが、辛さが苦手な人は、タレが運ばれてきた時点で、唐辛子を取り出すといいだろう。ホワイトローズだけじゃ、さすがにあんまりなので頼んだカオラウ。こちらもホイアン名物の麺。野菜がたくさん入っていてヘルシー。食べ方が分からないMizumizuたちのために、ウエイターさんが、テーブルの上の調味料を足して混ぜ混ぜしてくれた。何の調味料を足してくれたのか、分からなかった(笑)。しかし、しっかり混ぜて食べるのだということは分かった。中心部の有名レストランのように混んでおらず、ゆっくり食べることができる。オーナーの女性は英語を話す。ウエイター、ウエトレスはあまり英語はできないようだが、そのかわり、とても物腰が丁寧で丁重。帰りはタクシーを呼んでくれ、タクシーが来たら教えてくれて、乗るところまで付き添ってくれた。良い店だった。お値段のほうは、ホワイトローズ3皿にカオラウ1つ。それに自動的についてくる冷たいお茶2つで281,000ドン(1400円ぐらい、サービス料とTAXこみ)。クレジットカードは何でも使えるということだった。Mizumizuが使用したのはJCBカード。サインの前にPIN(暗証番号)を聞かれるので、数字を思い出しておこう。ホーチミンではおしぼりとお茶は、手を付けなければ請求されないとかいう情報をネットで読んだのだが、Mizumizuたちはこのレストランでは気にせずおしぼりで手をふき、冷たいお茶をいただいた。ホーチミンでは案外ないホワイトローズ。食べてみたい方はホイアン・クアン(HOI AN QUAN)へGO!
2017.05.02
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<前回、2024年2月6日のエントリーから続く>アニメ版『海のトリトン』は、番組の最初と最終話がYou TUBEにアップされている。アトランティスやオリハルコンといったワードから連想されるのは、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』。宿敵への復讐を遂げて、ピピとイルカたちを伴って海の彼方に去っていくラストシーンは『モンテ・クリスト伯』を思わせる。ただ、最終回は、富野由悠季が「こういう終わりにすると話したら絶対に反対されるので内緒にしていた」というように、意表をつくどんでん返しが用意されていたのだ。それは主人公トリトンの属するトリトン族は、過去にポセイドン族を人身御供として扱っていた、という歴史的事実だ。被害者と思われていたトリトンが実は加害者の子孫であり、わずかに生き残っていたポセイドン族も、トリトンが、そうとは知らずに根絶やしにしてしまっていたという大いなる罪の告発だ。富野氏の見解は、「少年は大人になる時、なにかしら罪を背負うもの」。それをこのアニメのラストで描きたかったのだという。善と思われていた側は実は悪でもあったという二重性を、子供向けアニメにぶっこんだというのは、実に挑戦的かつ革新的だ。ただ、番組上でのその説明…かなり長く一方的なので、多分当時の子どもには分からなかっただろう。もちろん、そんなことは承知のうえでのシナリオだろう。手塚漫画が子供時代によく理解できなくても、大人になってその重層的な意味に気づくように、富野由悠季も加害者と被害者、善と悪は逆転しうるという哲学を、子供たちの未来へのメッセージとして残したのだ。このラストシーンでのどんでん返しがなければ、たとえ『ガンダム』があろうとも、アニメ版『海のトリトン』の再評価はなかったはずだ。一方の、手塚版のトリトンも、一族の血を守るため、ポセイドンの子供たちをすべて葬る。そして最後は、不死身のポセイドンとともに「ともだおれ」となることを選ぶ。手塚版で感じるのは、戦争体験の根深さだ。満身創痍になりながら、倒せない敵にどこまでも向かっていく姿は、まるで特攻隊員。そして、死にゆくトリトンの目に映るのは…「地球は海でいっぱいだ。青いうつくしい海。あのどこかにピピ子と子どもたちがすんでいる」そして、帰ってこないトリトンを待つピピ子は、まるで美しくも哀しい戦争未亡人。彼女は残された子供たちの「自ら成長しようとするたくましさ」を見て、(おそらくは)悲劇を乗り越えていく。戦乱の不条理の中で生まれた子供は、はやく大人になるのだ。父親トリトンの遺志を継ぐべく、自ら立ち上がるブルートリトンの幼くも凛々しい姿は、ある意味、親の描く理想の子供像でもある。戦争による飢餓を体験したからこそ思い付いたのだろうと思える怪物も出てくる。いくら食べても食べても満足できず、食べた分だけ毒の排泄物をまき散らして歩くゴーブだ。奇怪で滑稽なこの怪物は、その破壊的な行為とはうらはらに、どこか哀れですらある。アニメ版『海のトリトン』は、のちの評価はともかく、放映当時はさほど視聴率が取れなかったが、実は南米でも放映されていたようで、You TUBEで面白い投稿を見つけた。https://www.youtube.com/watch?v=QPcCNfepLRQ投稿によると、なんと最終回は「(子供向け番組としては)暴力的すぎる」という理由で放映されなかったというのだ。You TUBEで字幕付きで最終話をアップしている動画を見て、感激している海外ファンが昔を懐かしんでいる。ワールドワイドな人気を博した日本のアニメの一つと言っていいのだろう。トリトン役の塩谷翼の声が、また傑出している。ホンモノのボーイソプラノで、日本の少女たちを虜にしたようだ。少年役は女性が当てることが多いなか、この塩谷少年の声と迫力は、アニメを一層感動的なものにした。と、同時にこの魅力的な声が「大人になるトリトン」を描いた手塚版との違いを決定づけた。手塚版のトリトンでは、あの名曲『GO! GO! トリトン』も生まれなかっただろう。イメージが違いすぎる。このように、『海のトリトン』は、天才漫画家の作品も素晴らしいが、アニメ版を作るために集ったメンバーも才能あふれる面々で、まったく違う魅力をもった別々の作品になったという、珍しい好例だろうと思う。ただ、富野由悠季氏の、手塚治虫自身も漫画のほうは失敗作だと思っていたのでは――などというのは、とんでもない言いがかりだ。それは手塚治虫漫画全集『海のトリトン』4巻(講談社)の手塚治虫自身のあとがきを見ても明らかだ。サンケイ新聞に、長い間「鉄腕アトム」を掲載したあと(編注:「アトム今昔物語」のこと)、編集部との話し合いで、"海を舞台にした熱血もの"をかくことにきめたときは、まだ、こんなSFふうのロマンにするつもりはありませんでした。(中略)かいていくうちに、物語は、はじめの構想からどんどんはなれて、SF伝奇ものの形にかわっていきました。よく、主人公が作者のおもわくどおりに動かず、かってに活躍をはじめることがあるといわれますが、トリトンの場合もそのとおりで、あれよあれよと思っているうちに、ポセイドン一族やルカーやゴーブができていってしまったのです。↑このように、キャラクターが勝手に動き出す…というのは、作者自身がノって描いている証拠だ。手塚治虫の代表作の一つだという人もいる。トリトンやピピ子が、変態によって一挙に4~5歳成長するという設定も、それこそ「格の違う変態」手塚先生ならではのエロチシズム。変態を終えて成熟したピピ子の美しさにトリトンがドギマギするシーンなどは、Mizumizuが好きな場面の一つ。超自然的な存在であるガノモスが、最後に浮き島となってトリトンの家族を守るというのも、絵画的に美しく幻想的なラストだ。複雑に絡み合う多彩なキャラクター、予想もつかない展開、重層的なテーマと詩的なラスト――やはりMizumizu個人としては、手塚版トリトンに軍配を上げたい。
2024.02.06
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米アカデミー賞でアジア映画初の視覚効果賞を受賞した『ゴジラ-1.0』(山崎貴監督作品)。パニック映画の大げさな特撮シーンが実はかなり好きなMizumizu、この作品は映画館で観た。面白かった。初代ゴジラ映画(1954年)も、テレビ放送を観ている。最高に素晴らしい娯楽映画だった。そのあとの「ゴジラシリーズ」は、さすがにおちゃらけすぎたり、マンネリ化したりして、全部は追っていないが、渡辺謙が出た『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』は劇場まで足を運び、楽しんだ。みんな大好きゴジラだが、手塚治虫もゴジラが大好きだった。これは手塚治虫のエッセイ『観たり撮ったり映したり』から、ゴジラにまつわるエピソード。『ウルトラQ』に『W3』が「蹴散らされてしまった」時のエピソードを臨場感あふれる筆致で面白おかしく書いている。イラストが秀逸なんてもんじゃなく、最高。テレビから出てきたゴジラ(と、それをもとにした怪獣たち)が、W3のキャラクターを打ちのめし、それを手塚治虫の実子手塚真(眞)氏が大喜びで拍手喝采。父でありW3の生みの親の漫画家がくやしがっている。ゴジラとあわせて、ウルトラQのスター怪獣(?)がイイ。柔らかめの線で描かれたカネゴンなんて、素晴らしいじゃないですか。このイラスト原画、残っているのだろうか?? 「なんてったってゴジラが最高作」という手塚治虫の眼はさすがに鋭い。1950年代の日本で作られたキャラクターが日米で人気を博し、何度も映画化され、ときには大コケしながらも、アイコン的存在として受け継がれ、ついにアカデミー賞の舞台で伊福部昭の、あの誰もが知るテーマ音楽が流れるというところまできたのだから。ところで、手塚治虫は恐竜にインスパイヤされたと思われる、「ゴジラに似た」キャラを何度も作品に登場させている。Xユーザーの時星リウス@妄想自由人さん: 「手塚治虫先生はゴジラ公開より6年前の昭和23年に『ロスト・ワールド』という漫画にゴジラっぽい恐竜を描いてましたね。 #手塚治虫生誕祭 #ゴジラの日 https://t.co/kYARUbcFRo」 / X (twitter.com)そして、奇しくも(笑)、ゴジラ様と漫画の神様は誕生日が同じなのだ。これ、ネタにしてる人いるよね? と思って検索してみたら、いました、いました。Xユーザーの妖介🐐さん: 「推しの誕生日全然把握しとらんなワイ…11月3日だけは手塚治虫とドルフ・ラングレンとゴジラの誕生日なので覚えてる。 https://t.co/oxITNGopCx」 / X (twitter.com)しかし・・・11月3日は、日本を近代国家へと導いた明治天皇(別名:明治大帝)の誕生日なのですよ、もともとは。それで祝日なのですよ。手塚治虫の本名は手塚治で、「明治節」から取ったのですよ。ついでに、11月3日はさいとう・たかをの誕生日でもあるのですよ。さらに言うと、11月3日は、フィギュアの皇帝「エフゲニー・プルシェンコ」の誕生日でもあるのですよ。手塚治虫も宇宙人などと言われたが、プルシェンコも現役時代は、宇宙人と呼ばれていたのですよ。手塚治虫とゴジラとプルシェンコのコラボマンガは…さすがに見当たらなかった。だれか描いてください。最後に、手塚プロダクション公式サイトの「虫ん坊」からゴジラにまつわるページを。https://tezukaosamu.net/jp/mushi/201806/column.htmlこれは是非とも『手塚治虫×ゴジラ展』を! 著作権的に微妙ですかね…? そのへんはお話し合いをお願いします。【中古】 観たり撮ったり映したり / 手塚治虫 / キネマ旬報社 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】
2024.03.12
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北海道にマンガミュージアムを!大和和紀&山岸凉子展 (hokkaido-life.net)に展示された(らしい)山岸凉子の「手塚先生との思い出」。山岸凉子が紡ぐ、この日のお話は、雪の札幌という背景もあいまって、一種幻想的なシンデレラストーリーのようにも思える。デパートの催事場で漫画の神様の神技に驚き、喜ぶ大衆。必死に声をかける漫画家志望の高校生。多忙にもかかわらず、常識的なハードルを設けたのちに、熱意ある漫画家のタマゴの作品を見てくれる手塚治虫。山岸凉子の兄の態度も素晴らしい。当時は大学生だったということだが、今の大学生よりずっと大人だ。手塚治虫の「予言」どおり、すぐにデビューした大和和紀。デビューまで数年を要したのち、誰もが知る少女漫画の大家となった山岸凉子。その彼女が、「私はあの時の手塚先生のように読者や漫画家を目指す人たちにやさしくできただろうか」と自問するラスト。手塚治虫が「神様」なのは、その作品が漫画のお手本であるということも、もちろんあるが、それだけではない。非常に頭がよく、絵に情熱をもち、かつ優れたストーリーテラーの素質をもつ稀有な若い才能を日本全土から「漫画家」という職業に引き込んだからなのだ。今の漫画を見ても、漫画家には優れた作画の技量だけでなく、幅広い教養が必要だということが分かる。漫画家を目指す若者に、手塚治虫がどれほど親切だったかは、こちらのエントリーでも紹介した。自らの作品と人柄で、漫画家の種を蒔き続けたという業績は、まさに神の名にふさわしい。なお、山岸凉子『手塚先生との思い出』は、【手塚治虫文化賞20周年記念MOOK】マンガのDNA ―マンガの神様の意思を継ぐ者たちで全編が読める。
2024.03.27
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橋本一郎『鉄腕アトムの歌が聞こえる』という書籍があるが、著者はYou TUBE動画も開設して、手塚治虫とその時代について様々な証言を行っている。鉄腕アトムの歌が聞こえる ~手塚治虫とその時代~【電子書籍】[ 橋本一郎 ]その中に手塚治虫が率いていた(旧)虫プロのアニメーターの高待遇ぶりを語った動画がある。https://www.youtube.com/watch?v=dwvTatm6Qk88分17秒ぐらいから。(旧)虫プロのアニメーターは凄い勢いだった。東映動画から金に糸目をつけずに雇ってきたうえに、時間外が青天井だったため、とてつもない収入があった。自宅を(都内に)次々新築していき<Mizumizu注:虫プロで3年働くと都内に家が買えたという話もある>、虫プロの駐車場には高級車がずらりと並んでいた。<以上、発言をまとめたもの>これはなんといっても、『鉄腕アトム』の大ヒットとそれに伴うマーチャンダイジングの急拡大がもたらしたもの。 手塚治虫自身『ぼくはマンガ家』(1969年)というエッセイで、次のように書いている。<引用>「アトム」がそれほど話題にならなければ、類似作品も作られなかったろう。「アトム」が儲かるとわかるとスポンサーはどんなに大金を積んでも、どこかにテレビ漫画を作らせようと躍起になった。アニメーターたちの引き抜き合戦が始まり、アニメーターの報酬は、うなぎ登りに上がった。高校を出たか出ないかの若い者が 月々何十万もサラリーを稼ぎ<Mizumizu注:上掲の橋本氏の朝日ソノラマでの月給は、虫プロ全盛の時代に2万弱だったという>、マイカーを乗り回すといった狂った状態になった。<引用終わり>つまり、手塚治虫の『鉄腕アトム』がもたらしたのは、アニメーターバブルだったのだ。安い給料で奴隷労働させたなんて、デマもいいところ。手塚治虫が生きていれば、こんなデマはまかり通るはずがない。丹念な取材に定評があり、『手塚治虫とトキワ荘』の著者でもある中川右介は、以下のように総括している。https://gendai.media/articles/-/75170?page=4<引用>アトムを真似できなかった制作会社『鉄腕アトム』の放映開始は1963年だが、早くもこの年の秋に、3本の子供向けTVアニメが、制作・放映される。虫プロは『鉄腕アトム』を週に1本製作するため、技術面でさまざまな技法を編み出した。それは極力、絵を「動かさない」という本末転倒したもの、ようするに、「手抜き」なのだが、そのおかげで、日本のアニメは「ストーリー重視」になった。この手法はすぐに真似され、1963年秋からTCJ(現・エイケン)の『鉄人28号』『エイトマン』、東映動画の『狼少年ケン』が放映された。「アニメが儲からない」のは、虫プロではなく、この2社のせいである。TCJはテレビコマーシャルの制作会社で、当時のテレビCFにはアニメを使うものが多かったので、アニメ部門があった。『鉄腕アトム』の成功を見て、電通がTCJに発注したのが『鉄人28号』で、TBSが発注したのが『エイトマン』だった。TCJは虫プロと異なり、電通やTBSの下請けとして、安い価格で受注したのだ。このとき、利益の出る価格で受注していればいいのに、コマーシャルで儲けていたので、赤字覚悟で受注した。『鉄人28号』はTCJもアニメの著作権が持てたので、マーチャンダイジング収入があったが、『エイトマン』のアニメの権利はTBSと原作者の平井和正と桑田次郎にしかないので、キャラクター商品が売れてもTCJの収入にならない。『狼少年ケン』はNET(現・テレビ朝日)が放映した。NETは当時は東映の子会社で、東映社長の大川博がNETの社長だ。東映動画も、もちろん東映の子会社である。東映はNETに対し、「東映動画に適切な製作費を払うこと」と指示できる立場にあったが、そうしなかった。それでも東映動画は『狼少年ケン』の著作権は保持していたので、キャラクターのマーチャンダイジング収入は得た。テレビ局と広告代理店は、アニメの利益がキャラクター商品にあると分かると、その権利を得て、一度得ると手放さない。その結果、制作会社は低予算を押し付けられたあげく、著作権も持てず、経営は厳しくなり、社員の給料が安くなる構造が生まれる。これは、別に手塚治虫のせいではないのだ。さらに、東映動画はTVアニメに乗り出すと人員を増やしたが、今度は人件費が経営を圧迫して人員整理をし、労働争議になり、ますます正社員は採用しなくなり、下請け、孫請、フリーランスを使うようになっていく。その過程では、腕のいいアニメーターは正社員だった頃よりも収入は上がった。<引用終わり>東映動画のやり方は、実にエグい。だが、人員整理(つまりクビ切り)をして、正社員ではなく下請けにやらせるという構図は、なにもアニメ業界に限ったことではないし、そうやって東映動画は生き残ったのだ。 一方の虫プロは、テレビ局からの受注減、劇場公開長編アニメ映画の赤字、それに労働争議も重なって倒産した。 アニメーターバブルが弾けた時、多くのアニメーターは収入を減らしただろうが、才能のある一握りだけは、大きな組織を離れることで、逆に収入が上がる。これもよくある話だ。そして、手塚治虫が労働者であるアニメーターに、いかに「甘かった」か。それは、うしおそうじの『手塚治虫とボク』(草思社)に端的な例が書かれている。<以下、次のエントリーで>
2024.04.12
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手塚治虫のチーフアシスタントだった福元一義によれば、1950年代、売れっ子すぎて他の漫画家から敬遠されがちだった手塚治虫と積極的に付き合っていたのが福井英一だったという。当時2人を担当した編集者の証言によれば、福井は、「なんであんなに手塚の線はきれいなんだ」「どんな道具を使っているんだ」と聞いたりしていたという。「俺が聞いたことは手塚には内緒だよ」などと口止めまでして。馬場のぼると3人でカンヅメにされたときは、3人で映画の物まねをして盛り上がり、原稿が進まず、それから出版社は漫画家同士を1つの場所にカンヅメにするのをやめたのだという。強烈なライバル意識とやっかみがあったのは、むしろ福井のほうで、酒の席で手塚に、「やい、この大阪人、あんまり儲けるなよ」「金のために描いているとしか思えねえ」などと難癖つけて絡んだりしている。手塚に自分の家で一緒に仕事をしようと持ち掛けたのも福井英一のほうだった。福元チーフはその場にいることになったのだが、二人の仕事ぶりは対照的だったという。福井のほうはキッチリ下絵を入れてペン入れをするオーソドックスなスタイル。うしおそうじと同じタイプだ。福井もうしおもアニメーター出身なので、似ているのかもしれない。手塚は簡単なアタリを入れて、すごい速さでペン入れをしていく独自のスタイル。当然、生産枚数は違ってくる。そのイライラもあったのでしょうが、よほど興奮したのか、ふだんは徹夜がまったくできなかった福井先生が、その晩は完全徹夜をしたのです。障子の外ですずめが鳴く声を聞いてビックリしたら夜が明けていたということで、福井先生自身喜んでいたのですが、最後のセリフは、「もう君とは二度と一緒に仕事しない」でした。手塚先生の超人的な仕事ぶりに、よほどリズムを狂わされたのでしょう。(福元一義『手塚先生、締め切り過ぎてます!』集英社新書より)【中古】 手塚先生、締め切り過ぎてます! 集英社新書/福元一義【著】酒を飲んで突っかかったと思ったら、一緒に仕事しようと誘っておいて、あげく「もう二度と一緒に仕事しない」とか、言いたい放題(苦笑)。明らかに福井は手塚に甘えている。1950年当時は、「手塚は絵が下手」などと言う先輩漫画家が多かったのだが、ちゃんと手塚タッチの美しさに気づいていたのはさすがの審美眼だが、その創作の秘密を探ろうとしたしたものの、一緒に仕事して、とても真似できるテクニックではないことを知ったのだろう。そこにいくと、素直に「驚倒した」「仰天した」と書いたうしおそうじは素直だ。ちなみに、うしおそうじは、福井英一が亡くなる前に、一度だけ彼に会っている。同じ東京下町の職人の倅同士ということで、すぐに打ち解けたのだが、そのわずか数日後に福井の訃報が舞い込む。電報で知らせてくれたのは手塚治虫だった。これは1953年の記事だが、「中卒」と「医学部卒」とか、書く必要あるのかね? これじゃ福井英一が気の毒だ。ちなみに手塚治虫が入学したのは阪大医学専門部だから、学歴詐称だというヘンな人がいるが、手塚卒業の年に医学部が医学専門部を吸収しているのだから、医学部卒と書いても別に間違いではない。https://www.museum.osaka-u.ac.jp/jp/exhibition/P13/TezukaChirashi.pdf手塚治虫が前代未聞の、年上にサバよむという年齢詐称(笑)をしていたのは事実なので、この記事では26歳とあるが、本当はまだ24歳だ。「この商売の寿命はほんの2年ぐらい」と言っているところを見ると、この頃は、売れなくなったら医者に戻ろうという気持ちもあったのかもしれない。手塚治虫の『ぼくはマンガ家』によれば、福井英一が手塚作品を褒めたのはたった一度。『弁慶』という時代物だった。手塚は歌舞伎の「勧進帳」の舞台を使ってユーモラスに弁慶を描いたそうだ。それを見て福井が「やりやがったな、うめえ」と、うなったのだという。だが、本当は福井は手塚作品を全部揃えて持っていた。それを手塚が聞かされたのは福井の葬儀の席でだった。「なあ、手塚さんよ」と、山根一二三氏がポツリと言った。「あいつは、俺にいつも、手塚がライバルなんだと言ってたぜ。そして、つい最近も『俺は手塚に勝ったんだろうか?』って訊いてた。あんた、気がついていたかい? 奴の家にはあんたの本が全部揃っていたんだ。こんな感じですか?コージィ城倉『チェイサー』より。主人公の漫画家・海徳光市が、隠し持っている手塚作品コレクションを読もうとしている場面。「手塚に勝ったんだろうか?」――この自問、どれだけ多くの人気を得た漫画家がしたことだろう?コージィ城倉も『チェイサー』で、主人公の海徳光市が、商業的成功を第一目標とする「ジャンプ」システムにのることで、子供だましの、自称「おバカ漫画」が大ヒットし、一時手塚作品以上に売れたとして「(俺は手塚に)勝ったのだが…」と言わせている。だが、主人公が一度は「勝った」はずの手塚は、どこまでも彼の先を行ってしまう。それを一番知っているのも主人公自身、という設定だ。現代にも続く正当派スポ根漫画『イガグリくん』と同時期に手塚が連載していたのは『ジャングル大帝』だが、当時は明らかに『イガグリくん』のほうが人気があった。『鉄腕アトム』より『鉄人28号』のがアンケートでは上だったと雑誌編集者が証言しているし、今では初期手塚の代表作と言われているSF大作『0マン』より寺田ヒロオの『スポーツマン金太郎』のほうが、やはりアンケートでは上だった。ちなみに、『ブラック・ジャック』も、アンケートが取れず、編集部がその人気に気づくのは、突然休載になったときに、編集部に抗議の電話が殺到したことがきっかけだった。手塚に勝つ――同時代の人気や作品の売り上げだけの話なら、「勝った」漫画家はいくらでもいるのだ。だが、例えば、ウィリアム・シェークスピアよりアガサ・クリスティのが読まれているからといって、アガサ・クリスティのがシェークスピアより偉大な作家だと言う人はいないだろう。先ごろ、1万円札の「顔」の候補に手塚治虫が挙がったが、漫画家で彼と競った人はいない。そういうことなのだ。
2024.04.27
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2024年6月30日放送予定の実写ドラマ『ブラック・ジャック』。放送間近になって、ドクター・キリコが女性に改変されたことが話題になっている。https://news.yahoo.co.jp/articles/080e976183672b4b14c1d94b6fd26d0313f1a6d2(上の記事から引用)キリコについて「なぜ自分で自分の死を決めてはいけないのか。いまだ答えの決まらぬ重い問いを、キリコは理路整然と突きつけ、BJのエゴを暴いてしまう。このドラマにも、絶対にいなくてはいけない存在だった」(引用終わり)ドクター・キリコは軍医として地獄を見た経験から、安楽死を請け負う「死神」になった。個人的には、この設定は外せないと思っている。原作のファンなら、ほとんどがそうだろう。だから、女性に改変と聞いて、「あーあ」と思った部類だ。とは言え、「なぜ自分で自分の死を決めてはいけないのか。いまだ答えの決まらぬ重い問い」という番組プロデューサーの視点も、それはそれであってもいいと思う。ただ…今日本で問題になっているのは、治癒の見込みのない患者(多くは老齢者)に対する過剰な医療介入。苦痛しかない人生を長引かせるだけの治療は、虐待ではないかという考えなのだが、このプロデューサーの「調べてみると、海外で安楽死をサポートする団体には、なぜか女性の姿が多い印象があった。脚本の森下佳子さんと相談しているうち、『優しい女神』のような存在が、苦しむ人のそばにいて死へと導くのかもしれない、と想像するようになった」という言葉の軽さがひっかかる。Mizumizu個人は安楽死は認められるべきだと思っているが、それは「苦しい。こんな人生はイヤ」と訴える人にすべからく、「じゃあ、死んで楽になりましょうね」という話とは違う。人はギリギリまで生きるべきだし、それは長短とは関係ない。そもそも生きることには苦痛が伴う。100%生きてて楽しい、なんて人、いるんでしょうかね?また、この新作『ブラック・ジャック』の女性キリコのキャラクターは、コスプレ感が高く、そのビジュアルもドラマを薄っぺらくしてしまう悪寒がする。「高橋一生はよかったけど、キリコがあれじゃーね」と言われるオチになりそうだ。ただ、見てみないとどんなものか分からないので、その意味で、番組放送前にトレンド入りするほど話題になるのは、よい宣伝になった。視聴者に興味をもってもらい、番組を見てもらうよう誘導するという意味では、成功している。そもそも、手塚マンガの面白さ、その深さを二次創作で凌駕するなんて、ほぼ無理な話。手塚マンガ以上に面白い原作手塚のアニメもドラマも観たことないですから、Mizumizuは。でもね、それでい~のだ(いきなり手塚から赤塚に)。先日、大阪の御堂筋線で見た『ブラック・ジャック』の文庫本を読んでる青年。彼が『ブラック・ジャック』を知って、漫画を読んでみようと思ったきっかけはなんだろう?一番ありそうなのは、アニメではないか。手塚眞が監督した子供向けのTVアニメ『ブラック・ジャック』を、最近になって配信で見たのだが、登場する動物が原作ではほとんど死んでしまうのに対し、手塚眞版『ブラック・ジャック』では、かなり徹底して「死なない」設定に改変されていた。Mizumizuはこの改変が非常に気に入った。特に嬉しかったのは犬のラルゴが死なずにブラック・ジャック一家の一員になっている設定。これは現代の価値観にマッチしているし、そもそも動物が死ぬ映像が苦手で、その傾向が年を取れば取るほど強くなっているMizumizuには、手塚流の非業の死(特に動物)はショックが大きすぎるのだ。。『ブラック・ジャック』作品の持つ切なさ、キツさ、そこに描かれた「生」のはかなさは、もう少し大きくなって漫画を読んで知ればよいことだ。Mizumizuはクリエイターの立場ではないから言えるのかもしれないが、原作への敬意があれば、改変はおおいに結構だと思っている。別の才能のインスピレーションが加わることで、新しい魅力が生まれ、ファン層が広がるのなら、二次創作は成功だと言えるし、「なんだこれ、ひどすぎる」「手塚治虫への冒涜」といった、よくある酷評も二次創作者はバネにすればいい。また、そうした新しい作品をきっかけに、元の作品への興味がわいて、「手塚治虫の『ブラック・ジャック』? 知らないけど読んでみようかな」でもいいし、「手塚治虫の『ブラック・ジャック』? そー言えば昔読んだかな。また読んでみるか」でもいい。また原作が読まれれば、そこで「こんなすごい漫画があったのか」と気づく人が増えるはずだ。その数はなにも爆発的に多くなくてもいい。そうやって名作を「つないでいく」ことが大事なのだ。そもそも、漫画をアニメ化するに当たって、原作者が最も大切だと思う部分を改変され、ハブられたのは手塚治虫が元祖といっていい。1960年の東映動画『西遊記』のこと。この時の経験が、手塚治虫にアニメ制作会社を作らせた。この時の顛末を、それぞれの立場からの考え方の違いを踏まえて、冷静にレポートしている著作が、以下。手塚治虫とトキワ荘 [ 中川 右介 ]
2024.06.23
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ニマンヘミン通りでは、新感覚の雑貨を扱う店が多く集まっている、とガイドブックで読んだ。さっそく地図でミマンヘミン通りを探す。旧市街の北西、空港の北。案外大きな通りで、距離も長いらしい(全長2キロ)。いろいろ調べてみると、雑貨店はミマンヘミン通りの北、旧市街から延びるHuay Kaew Rdと交差するあたりに集中してるらしいことがわかった。チェディ・ホテルでもらった地図には、ニマンヘミン通りの拡大図があった。これで見ても、Huay Kaew Rdとニマンヘミン通りの交差点にある、Amari Rincomeホテルからニマンヘミン通りを南下して店巡りをするのがよさそうだ。雑貨店が集中してそうな、ニマンヘミン通りの北の拡大図。このニマンヘミン通り、Huay Kaew Rdを横切って北上すると、そのままチェンマイの外環幹線道路「スーパーハイウェイ」になる。さて、そのミマンヘミン通りには、旧市街からソンテウ(チェンマイの庶民の足、乗り合いタクシー)を拾って行った。最初ドライバーに値段を聞いたら、「2人で60バーツ」と言われた。「50バーツで」と粘って、承諾してもらう。ソンテウの相場は、旧市街周辺で1人20バーツ。ちょっと遠くなると1人25バーツから30バーツ(と聞いたのだが、たいてい25バーツで行ってくれた)。で、ミマンヘミン通りに着いてみると…通り沿いにずらっと雑貨の店が集まってる… という感じではなかった。ニマンヘミン通り自体は、複数車線の非常に大きな、車の交通量の多い大通りで、道に面して店がポツポツ散在しており、あとはニマンヘミンから横に入った路地に、小さな雑貨店が並んでいる、という感じ。Huay Kaew Rdとニマンヘミン通りの交差点から道路の右側を南下。路面店を冷やかしながらしばらく歩くと、ニマンヘミン・プロムナードという路地に出た。こういうこじゃれた店のカンジは、東京と変わらない。チェンマイの若者にも人気のエリアだというのも納得。なぜかビーズの店が多い。銀製品の店もある。デザインは目新しいものも多い。そして、あくまで「カワイイ系」。プロムナードの奥からニマンヘミン通り方向を見たところ。茂っている木は、さすがに緑の力強さが東京と違う。セラドン焼きを扱う店で買った、アロマバーナー。900円ぐらい。この方向から見るとまぁまぁだが、実際にはボテッとしていて、やや間の抜けた造形。それでも、値段を考えれば、普段使いには十分。現在東京の家で活躍中。レモングラスの香りを立てて楽しんでいる。セラドン焼きを扱う店も、ニマンヘミン通りにあるのは、日常的に使える手ごろなものを大量に積み上げて置いてあった。東京でいえば、浅草あたりにある庶民御用達の陶器店のよう。高級セラドンを買うなら、東の郊外のサンカムペーン通りにある窯元の店に行ったほうがいい。チェンマイといえばセラドン焼き。だが。派手なベンジャロン焼きも捨てがたい。というワケで、ベンジャロン焼きのアロマバーナーも買ってみました。上に水とアロマオイルを入れ、下のスプーンに丸い蝋燭を入れて暖める。買ったのはバンコクのスワンナプーム国際空港の免税店。2550バーツ、カードで払って7215円。チェンマイの空港の免税店は、シケまくりで、「何もない」と言ってもいいくらい。チェンマイから来ると、スワンナプームの免税店がものすごく華やかに見えた。チェンマイではあまりベンジャロン焼きを見なかった。バンコクにはたくさんあったのに…と思って調べてみたら、なんのことはない、ベンジャロン窯はバンコク郊外にあるよう(こちらのブログが写真も多くて詳しい)。基本的に、チェンマイ=セラドン焼きバンコク=ベンジャロン焼きと、覚えるといい。セラドン焼きを買うならバンコクよりチェンマイのほうが、品数豊富で安い、ということ。こちらは、ニマンヘミン通りのAmari Rincomeホテル側にある路地の店で見つけた銀製の鍵。スーツケース用に購入。よく見ると市販の南京錠を象で「くるんだ」だけのもの。値段は失念、でももちろん安い。象はチェンマイのシンボル。あちこちで象入り製品を買いまくる、典型的観光客のMizumizu。だが、当のチェンマイでは、動物園で生まれたパンダの赤ちゃんに人気が集中しているとか。このLoyFarという銀製品の店、なかなか凝った細工の銀製品が手ごろな価格で買える良い店だった。デザインも新鮮で面白い。サンカムペーン通りにある伝統的な銀細工の店――保守的なデザインが多い――と比べてみるのも一興。チェンマイの原宿、ニマンヘミンを堪能して、帰りはソンテウでワロロット市場へ。ソンテウはすぐにつかまり、今度は簡単に「2人で40バーツでいい」と言われた。え?と思って乗り込んだら、先客が2人。ニマンヘミンに雑貨を見に来たと思しき20代ぐらいの白人の女性。しかも、同じワロロット市場で降りたのだった。観光客の考えるルートは、だいたい同じってことだろう。
2009.08.09
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理不尽なことをされても抗議もできない日本人もどうかと思うが、韓国人の自己主張の強いふるまいには逆の意味で驚いたことがある。それはローマの空港に遅くついた夜のこと。翌朝からレイルパスを使う予定だったので、ホテルに入る前にテルミニ駅に寄って、夜のうちにパスの使用開始印を押してもらえるかどうか確認しに行った。夜10時をまわっていたと思う。空いている窓口は1つだけ。そこで、なにやら駅員に英語でまくし立てているアジア人の男女がいる。後ろに並んだが、駅員が全然英語を理解しないので、話が進まない。アジア人は英語のアクセントから判断するに韓国人だ。待つのも面倒なので、しゃしゃり出て、「どうしたんですか? イタリア語ができますから、通訳しましょうか?」と英語で話しかけた。韓国人カップルは、これ幸いと説明を始める。「インターシティで来たんだけど、電車が3時間も遅れたんです」「だから、100%返金してもらいたいの」――はあああ?ショージキ驚いたが、まさか私から「そんなことしてくれるわけないじゃないですか。ここはイタリアですよ。3時間遅れ? 別に珍しくもないんじゃ? それに遅れたといっても乗ってここまで来たんでしょう? 難癖つけてタダ乗りするつもりですか?」などとも言えず、「返金ですかぁ?」と確認するに留めた。すると、「100%よ!」と、念押しする女性。若くて美人だが、発想は完全にオバちゃんの領域に足を踏み入れている。仕方ないので、イタリア語で駅員に話す。どう答えるかな? と思ったが、イタリア人駅員のとった作戦(?)は、「たらいまわしの術」だった。「私は、そういうことをする立場にない。明日朝7時にあっちの総合窓口が開くから、そこで話してほしい」なるほど、そうきましたか。面倒なことはたらいまわしネ。返金なんてされないってこと、わかってるのに。顔色も変えず、ぬけぬけと言ってくれるワ。Mizumizuは今度は英語でカップルに話す。一晩たってしまえば返金などされないことぐらい、彼らもわかっているだろう。男性のほうは、「あ~、そう」と、がっかりしながらも納得したようだったが、女性のほうはなおもMizumizuに食い下がる。「どうして彼が返金しないの?」「そういう責任をもってないからだって言ってますよ」こういうときは男性のほうが物分りがいい。男性にうながされて女性も諦めて去っていった。また、ローマの空港から帰国するときも、大迷惑の韓国人ツアー客に遭遇した。彼らは集団で免税ショップを物色し、タバコやらお酒やらをじゃんじゃんカゴに入れてキャッシャーに殺到する。自分の前を歩いている人も押しのけるような勢いで、単純にいえば順番抜かしをしてキャッシャーに並ぶ。ところがいざ、払う段になると、わずかなドル札を出すだけなのだ。それも買った品物に対して、出している金額が全然足りない! 「別の通貨はないの? カードは?」とキャッシャーのお姉さんが聞くのだが、英語も全然通じない。足りないということはわかるらしく、「これとこれを省いたらいくらになる?」などと、今度はキャッシャーで品物をカゴから出している。キレた店員に「ダメ」出しをされても、なおも粘ろうとするが、いよいよ拒否されて、しぶしぶもう一度買い物をやり直しに戻る。それが1人や2人ではないのだ。みんながそのパターン。自分で計算せずに品物を持ってきて、キャッシャーで計算したあとに、全然足りないドル札をぴらぴら出す。そこから品物を引いていこうとしているのだ。要は、余ったドルを使い切って帰りたいということなのだろう。ついに奥から責任者とおぼしきイタリア人のおじさんが出てきて、韓国人観光客の集団に、タバコケースを見せながら、「これはXXドル。ここに値段がある、10ドルでは買えない!」などと大声でレクチャーを始めた。さらに1人ひとりに寄っていって「あなたのもっているのは何ドル?」などとヘルプしている。汗だくで真剣、かつ相当怒った声だ。しかも、彼らは英語を理解しないから大変だ。「彼らは値段がわかっていないのね」とキャッシャーのお姉さんに話しかけると、「わかってやっているんでしょ!」とこちらまで怒られた。藪へび、藪へび(苦笑)。う~ん、「あの」イタリア人をここまでイラつかせる韓国人団体ツアー客パワー、恐るべし。昔日本人の農協ツアーのおじさんが、世界中でご迷惑をかけたやに聞いているが、彼らはそのその再来、韓国版農協ツアーなのかもしれない。日本人と韓国人って違うよな~、でも全然イタリアでは違いが認知されていないけど… 2002年韓国で行われたワールドカップの韓国vsイタリア戦の審判が公正でなかったことは、イタリアの若者の間ではだいぶ尾を引いているらしい。あのあとイタリアで若者に、「ヘイ、韓国!」などと呼ばれて、思わず見るとアッカンベーをされたことがある。トホホ。キミらの国であったワールドカップの審判も、サッカー史に残るぐらい、ずいぶんとイタリアびいきだったって話を聞いたけどね。審判が公正でも不公正でも、自分たちが勝てばいいのよね。そんなところも韓国とイタリアはいい勝負かもしれない。それに公共の場での大声でのおしゃべりも。ああ、そういえば、いい歌手が多いことも共通してる。さて、ナポリの一日目も暮れてきて、いよいよバロックオペラだ。明日のバレエはチケットをカード決済で買っておいたのだが、オペラのほうは小劇場でやるようで、「キープしておくから直接来て」というメールを受け取っていた。パバロッティもお気に入りだったサンカルロ劇場へ向かう。サンカルロに行くためにはガレリアを抜けていく。La galleria a Napoli, qui vite che non si incontrano stanno passandoガレリアは、要するに十字路のアーケードだ。床のモザイクが見事。ここで「ババ」というナポリの有名なお菓子を買って食べてみた。ババとは、お酒と砂糖づけにしたブリオッシュで、言ってみればサバランだ。本場のババはお酒も甘さも強烈だった。最初にかじったときは、「うっ」と思ったが、今となっては懐かしい。日本ではあそこまで強烈なお酒づかいと甘さのババはない。ナポリに行くことがあったら、また食べたいな。このガレリアを抜けたところで、1つの哀しい出会いが待っていた。
2007.10.27
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温泉饅頭の発祥の地は、伊香保らしい。詳しい話は、「勝月堂」のホームページを読むと書いてあるのだが、かいつまんで言うと、明治のころに勝月堂の半田勝三氏が地元の「伊香保に新しい名物を」という声に応えて考案したのが、茶色い温泉の湯の花をイメージした饅頭で、それが各地に「温泉饅頭」として広まっていったのだそうな。温泉地で温泉饅頭を好んで買うかと言えば、そうでもない(苦笑)Mizumizuだが、元祖の勝月堂「湯乃花饅頭」は食べてみることにした。石段街の一番上のほうにある、きれいな店構えの勝月堂。店員も笑顔で、はきはきと感じがいい。バラで1つ買って、店の外でパクリ。感想は…ふつうに美味しいお饅頭ですね。質の悪い饅頭にありがちな、くどさや、カサカサ感はなかったが、特に大感動することもない。それこそ今となっては、よくある温泉饅頭。由来にまつわるエピソードを聞かなければ、ブログに取り上げることもなかったかもしれない。ところが、勝月堂よりさらに上のほう、石段街が終わって、伊香保露天風呂に向かう道の途中に、古い店構えの饅頭屋があったのだ。店にいるのは夫婦2人。その場で製造・販売するスペースがあるだけの文字通り最小限の店。元祖湯乃花饅頭に対抗したのか、元祖子宝饅頭と名乗っている。まあ、ネーミングはどうでもいい。どっちが何の元祖でも。饅頭で大事なのは、味でしょ。こちらでも、当然バラで売ってもらえるだろうと思い、「すいません、バラで買えますか」とご主人に聞くと、「いいですよ。いくつ?」と逆に聞かれたので、「1つ」と言ったら、「えっ」と物凄く不機嫌な顔をされた。「1つじゃ売れない。2つから」ぼそっと言うので、「じゃあ、2つ」と2つ買うことに。バラ売りというのは、通常1つずつ売ることだと思うのだが、この店だけは違うらしい(苦笑)。この露骨な態度と「下の店より安いです」という、卑屈な手書きの宣伝文句に、ハズレかな~ と覚悟したのだが、一口食べて…えっ、これは美味しい!つやつやと黒光りしている皮は、もっちりとした食感が素敵だし、しとやかな風味がしみている。餡も甘すぎず、いい感じだ。ほっぺたが落ちるほど…などとは言わないが、とても好きな食感と味で、もっと食べたくなった。そこで…箱で買いました。賞味期限が短いので、自宅に戻ってから、余りそうな分は1つ1つラップにくるんで冷凍し、後日少しずつ自然解凍で食べた。もちろん、風味は落ちるが、家で食べるおやつとしては十分。知名度から言えば勝月堂だし、店もずっときれいだし、客あしらいも比較にならないぐらい上だが、味で言えばMizumizuは子宝屋に軍配を上げる。本当に手作り少量生産というのが、舌で納得できる。饅頭好きではないMizumizuだが、また伊香保に来たら、必ず「子宝屋」の饅頭を箱でリピートするだろう。
2014.06.02
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前回のエントリーでは、手塚治虫の原作漫画とかけ離れていても名作になったアニメの話をしたが、今回は、「この企画がボツって良かった」例を挙げたいと思う。それは、『0マン』。1959年に「週刊少年サンデー」で始まったSF超大作で、初期手塚の最高傑作の呼び声も高い作品。漫画史における歴史的意義としては、それまで月刊誌が中心だった少年漫画の潮流を週刊誌へと変え、毎週「次はどうなる」と読み手をワクワクさせて引っ張っていく、「週刊誌における長編漫画」のスタイルを確立したエポックメーキングな作品だ。このあたりの詳しい話は、You TUBERの某(なにがし)氏による動画がオススメ。https://www.youtube.com/watch?v=V_kQm_RyDUQまた、コージィ城倉による『チェイサー』では、漫画雑誌の編集者(つまり、大人)たちが「面白い」「次が気になって」と夢中になっている様子が描かれている。この『チェイサー』については、後日詳しく書くつもりだが、日本の高度成長期、漫画が新しい庶民の娯楽として爆発的に人気を得ていく――その「昭和の熱気」の雰囲気を背景に、手塚治虫を口では批判・否定しつつ、本当は大好きで手塚の真似ばかりしている漫画家を媒体にした、一級の手塚治虫論になっているところが素晴らしい。…だそうだ。重層的なテーマをもった手塚作品にふさわしく、何を面白いと思って読んだのかは、人それぞれなのだが、もう人生の終盤(苦笑)になって、初めて『0マン』を読んだMizumizuがヤられたのは、主人公リッキーのかわいさだ。コンパスよりきれいな円を描く――と言われた手塚タッチが生み出した、とことん「丸い」お顔のリッキー。大きな、独特のお目目、いつもかぶっている赤いキャップ、足首のない「末広がり足」――そして、ふわふわの大きな尻尾。最初、表紙でこの絵を見たときは、「うーーん、少年向きのマンガだよね」と、なかなか食指が動かなかったのだ。だが、評論家を含め、面白いと言っている大人が多いことに背中を押されて、図書館で借りて読んでみた。で、今は…全集版のサイズ(B6)では飽き足らず、それよりデカいB5判を揃えてしまった。しかし…実はこれはカラーでないのが気に入らない。B5サイズでカラーの限定版も過去に出たようだが、当然、今はプレミア価格で当時の定価では買えない。ま、多分、また出るでしょう。カラー&大型サイズの豪華版(また買うのかよ)。カラーではないとはいえ、サイズが大きいので、流麗な手塚タッチが堪能できる。リッキーは運動能力に優れ、屋根から屋根へピョーンピョーンと飛び移ったり、ありえない跳躍を見せたりするのだが、そこがまたカワイイ。卑怯な真似が大嫌いなのは手塚ヒーローの定番設定だが、人間のためにやらざるを得なくなったときは、うつむいてキャップで顔が隠れている。そんなひとコマにも、ヤられてしまった。健気なリッキーは、自らの苦悩を大人に漏らさず、自分の中にそっと閉じ込めて、周囲に悟られないようにする。幼いルックスからは想像もつかない独立心の強さも魅力のひとつだ。驚かされたのは、うたたねをしていた田手上(たてがみ)博士が目覚め、その間に重大な決意をして涙するリッキーを見て、そのいきさつをしらないまま、「(自分だけが寝てしまって)さみしがっている?」と誤解し、丸っこい小さなリッキーを抱き寄せて、「かわいい子じゃ。わしの孫みたいじゃ」と愛おしむ場面。このリッキーをパッと抱き寄せて、抱きしめている嬉しそうな表情は、まさにかわいくて仕方がない孫をいつくしむ祖父の姿。この漫画を手塚治虫が描いたのは、30歳になるかならないか。その若さで、「孫に対する(年寄りの)気持ち」をさりげなく、しっかり描き切っているところに驚かされたのだ。山田玲司は手塚治虫を「オトナなんだけど、子供でもいたい人」と評したが、若くして老成した視点も持っていたことがこのシーンから分かる。ところが、だ。手塚治虫の「あとがき」によると、発表からだいぶたって、『0マン』を(旧)虫プロダクションでアニメ化しようという企画があり、パイロットフィルムを作ったそうだ。ところが、当時は『巨人の星』『明日のジョー』に人気が集まっていたとかで、かようなチマチマした可愛らしいキャラクターではどうも、というテレビ局からのつよい要望で、でき上ったテレビ用のリッキーは、星飛雄馬がシッポをつけたようなチグハグな人物でした。れいの跳躍をしてみても、ただの体操選手の走り高跳びのようにみえて、あんまりおもしろいアクションにはなりませんでした。(手塚治虫漫画全集 『0マン』より)手塚プロダクションの公式ホームページには、その時のキャラクターが載っている。https://tezukaosamu.net/jp/anime/103.htmlゲーー なんじゃこれ『0マン』の最大の魅力は、幼くまるっこく、かわいいリッキーのルックスにある。それを流行りにのっかって、変えろと? 当時のテレビ局の担当者が、いかに『0マン』を理解してなかったか分かる。ボツって良かった!しかし、アニメにならなかったのは個人的には残念だ。作りようによっては面白い作品になったハズ。「手塚流悲劇」が控えめで、主要人物がほどんど死なないというのは、当時よりも、むしろ今の時流に合っている。どこかで作ってくれませんかね。金星への移住など、現在の常識では無理だと分かっている部分もあるから、そこは「改変」が必要だろうが、ストーリーの骨格は今でも十分楽しめるから、アニメ化は荒唐無稽な話ではないはずだ。オートメーション化が進み、「ひと」が仕事を失ってヤケになっているシーンなどは、むしろ現代のほうがリアルに見る者に迫ってくるのではないか。手塚治虫の先見性は、ときに恐ろしいほどだ。アニメ化することで原作漫画の認知度が上がるというのは、まぎれもない事実。だから原作者は弱い立場に置かれる。その結果、『0マン』パイロットフィルムに見るように、「テレビ局の意向」で作品の良さが完全に損なわれてしまうこともある。富野由悠季氏が『海のトリトン』の最終話のシナリオを隠したというのは、勇気ある英断だった。テレビ局に漏れたら100%改変を強要され、名作と再評価されることもなかっただろう。
2024.02.08
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今でも時々メディアでお見かけする漫画家ちばてつや。いつどんな話を聞いても、本当に人柄の良い方だなぁと感服する。ちば氏の語る、亡くなってしまった昭和漫画界の巨匠との思い出話は貴重なうえにとても面白いのだが、『あしたのジョー』の初代テレビアニメについて、Wikiには吉田豪氏の丸山正雄氏へのインタビューからの引用として、「虫プロダクションでの制作であったが、社長の手塚治虫は本作品をライバル視していたため、アニメ版の制作にも関知しなかった」とある。だが、これはちばてつや氏の証言によれば、ウソだ。『ある日の手塚治虫』でちば氏は、『あしたのジョー』を(旧)虫プロでアニメ化する企画が持ち上がった時に、「手塚先輩がわざわざ打合せで訪ねてきてくださった」と書いている。工事中で道路に穴があいていて車が通れなかったので、手塚治虫は車を待たせ、穴のあいた道路にわたした板の上を歩いてきたそうで、その時の情景をちば氏がカラーで描いている。その絵の下の、ちば氏直筆の文が以下。危ない板を渡ってくる姿を見てあせったちば氏が「こちらからスタジオに出向きます」と叫んでも、手塚氏は「いやいや、礼儀だから」と言って、ガンとして聞かなかった、とある。『あしたのジョー』が「今だに何度もあちこちで放映され、長い間ファンに愛されている」アニメ作品になったことを、ちば氏が嬉しく思っているのは確かだ。ちばてつやのところに手塚治虫が打合せに行ったことを、インタビュー時には丸山正雄氏が忘れてしまっていただけのことかもしれない。しかし、原作者本人は20年たっても憶えていて、手塚氏の律儀さに恐縮しているのに、「ライバル視していたから関知しなかった」などと、事実と違う話を言いふらすのはいったいどういう了見なのだろう?
2024.04.05
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うしおそうじは戦前、東宝でアニメーションの制作工程を学んだ人だった。そのときの室長が大石郁雄で、芦田巌(別名:鈴木宏昌、芦田いわを)はその門下生だった。その縁で、うしおは芦田とも面識があった。芦田は独立して三軒茶屋にアニメスタジオを持ったのだが、師匠の大石のところに来て話すのは、「生フィルムの入手が困難になった。このままでは零細プロは早晩消滅する」という愚痴ばかりだったという。その様子をうしおは見ていたが、師匠のところでときどき会う先輩アニメーターというだけで、個人的な付き合いはなかったようだ。その後、うしおは労働争議もあって東宝を辞め、漫画家からピープロの社長へと転身を重ねていく。ピープロの経営が軌道に乗ってきた1961年春、アトムが放映開始の2年間になるが、手塚治虫がうしおに突然連絡をしてきて、三軒茶屋まで来てほしいと言う。うしおがさっそく駆けつけると、芦田巌にアニメの肝心なコツを即席に教わりたくて、申し込んだら今日午後1時に来いと言われたので、一緒に来てほしいのだと。天下の手塚治虫が、なんで今さら芦田社長にアニメ即席入門の交渉を?――うしおはあきれ返ったが、手塚の目はキラキラ輝いて真剣そのもの。「じゃあ、とにかく芦田厳にボクから正式によろしく頼むと言って口添えすればいいのですね」手塚はそうだと言う。うしおは手塚に芦田という人間は態度が悪い、相手の目の前でせせら笑うような態度を取るので、そのつもりで会ったほうがよいと忠告する。2人で芦田をたずねると、手塚は自分は本気でアニメプロダクションを興すつもりだが、今、同族会社システムのアニメプロで成功しているのは芦田漫画しかないので、経営のコツやアニメーションの動かし方を教えてほしい。門下生としてこちらに自分が通うと真剣に話をする。その真摯な態度にうしおは脇で胸を打たれるのだが、肝心の芦田はうしおの言ったとおりの態度で、「君みたいな漫画家の頂点に立つ人間がいまさらアニメの一兵卒など務まるわけがない」「漫画家は絵が描ければすぐにでもアニメができるような幻想にとらわれる」「勘違いして、プロダクションを興そうなんて甘い」「アニメーションは絵と同じくらいに撮影の要素を大切に考えない者は失格。鷺巣君(うしおのこと)はそのことをいちばんよく知ってるから独立しても仕事が舞い込むんだ」そんな上からのお説教ばかりで、1時間話し合っても手塚の頼みを聞いてくれるのかくれないのか、いっこうに埒があかない。うしおが手塚に目配せすると、手塚も肝が決まったらしく、芦田に対してきっぱりと、「私の考えが甘かったので、これで失礼いたします」。その語気には、それでも自分はやるという覚悟の決意が込められていることを、うしおは感じ取った。表に出ると手塚は厳しい表情をしていた。それを見てうしおは、彼は必ずやるだろうと思い、無言で手を差し出すと、彼も無言で手を固く握りしめてきた。(うしおそうじ著『手塚治虫とボク』草思社より)その後、うしおのもとには手塚が『鉄腕アトム』の第一話、営業用のパイロットアニメに本格的に取り組んでいるという噂が流れてくる。テレビアニメ『鉄腕アトム』の誰も予想しなかった、恐ろしいばかりのヒットは、日本中が知るところだが、芦田巌はその後どうなったのだろう?芦田巌という名前は今ではほとんど忘れ去られているが、1940年代の後半から1960年代までは、アニメ界では知られた人物だったらしく、大塚康生も芦田の門を叩いている。(以下、大塚康生著『作画汗まみれ』アニメージュ文庫より引用)芦田漫画という会社は社長の芦田巌さんという方が戦前からのアニメーターで、山本(善次郎=早苗)部長とは古い友人という関係で東映動画から仕事が行っていました。実をいうと、私は東映動画に入る前に、そのころ三軒茶屋にあったその芦田漫画に「入れほしい」と頼みに行ったことがありました。そのときに、芦田巌さんが私の絵をみてこういわれました。「きみの絵はアニメーションに向いていないよ、絶対やめたほうがいい…」そういわれて、私はスゴスゴと引き揚げたことがあったのです。(引用終わり)手塚治虫も1947年、東京進出を考えて自作を手に出版社に営業をかけていたときに、たまたま京王電車の駅の電柱に漫画映画制作者の求人広告が貼ってあるのを見て、『新宝島』や自著の赤本数冊をかかえ、そのままその漫画映画のプロダクションに飛び込み、使ってほしいと頼んだという。しかし、「一度、出版界の味をしめてしまうと、報酬その他、割がいいもんだから、けた違いに不利な漫画映画などつくる気になれない。諦めるんだな」と、断られたという(手塚治虫著『ぼくはマンガ家』より)このエピソードは1967年の東京新聞「私の人生劇場」でも手塚自身が語っているが、何というプロダクションだったのかはどちらにも書かれていない。書かれていないが、それはどうやら芦田漫画だったらしく、手塚以外の著者(Mizumizuが見た中では、うしおそうじや中川右介)の本には、1947年に手塚が飛び込み入社志願をして断られたのは芦田漫画だと書かれている。ただ、手塚治虫本人がそう言ったのかどうか、Mizumizuとしては確認が取れない。ちなみに2012年9月の「虫ん坊」では、東京新聞「私の人生劇場」をもとに記事をまとめているので、昭和21年(1946年)となっているが、『ぼくはマンガ家』では、「ぼくが戦後はじめて東京の街を見たのは昭和22年(1947年)の夏だった」とあり、Mizumizuもこちらを採用している。なぜなら『新宝島』が発売になったのが1947年。手塚はその大ヒット作を持って東京の出版社に営業をかけるのだから、1946年ではおかしい。話は戻って、1947年に手塚が飛び込んだ会社がもし芦田漫画だとすると、手塚治虫は、まだ東京進出を果たしていない、駆け出しのころに1回、漫画界の頂点に立ち、アニメに進出する直前に1回の、計2回も芦田に弟子入りを志願したことになる。一時はアニメ界の第一線に立っていた、その芦田厳がその後どうなったのか、実はよく分かっていない。だが、うしおの前掲書には、芦田のその後が書かれている。手塚治虫がアトムのパイロットフィルムを制作しているという噂を、うしおが聞いてからしばらくたって、夕刊記事の三面記事に小さく、三軒茶屋のパチンコ店内で地回りのチンピラやくざの抗争でピストル発射事件があり、客の芦田厳氏にそれ弾が当たったが無事だという記事が載っていた。「ああ、相変わらず賭け事が止まらないのだな」とボクは概嘆した。(『手塚治虫とボク』より)さらに数十年経って、うしおは芦田漫画のあった場所の近くにたまたま行く機会があった。芦田漫画は畳屋にかわっていて、その畳屋の親爺にそれとなく芦田のことを聞いてみると、親爺は物凄い剣幕で怒りだし、畳を斬り落とす包丁を握りしめながら叫んだという。「あんたは芦田と親しいのか。親しいなら、芦田の現住所を教えろ。あいつには借地権の線引きでごまかされたんだ」。
2024.04.17
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西荻と吉祥寺の間に1軒のお屋敷があった。城かと見まごう(?)石垣と背の高い門が聳え、堂々たる造りで外からの視線をシャットアウトしていた。表札には「来世研究所」。そう丹波哲郎の豪邸だ。丹波哲郎はかなり好きな俳優だった。照れずにカッコつけるところは日本人離れしたスケール感があったし、声のトーンも独特の音楽のような響きがあった。日本アカデミー賞を辞退した黒沢明監督に対して、「愚の骨頂」などとズバッと言ってみせる自信も、不思議と憎めなかった。最後に俳優・丹波哲郎を見たのはNHKの大河ドラマ「義経」の源頼政役だった。ひどく痩せて、さすがにほとんど動けないようだったが、準備不足のまま平家打倒に動かざるをえなくなった頼政が、宇治平等院で炎の中で討ち死にする最後のシーンで、ニヤリと笑って死んでいくその表情に丹波演劇の円熟を見たような気がした。丹波哲郎が亡くなったとき、西荻にある丹波邸も少しの間報道陣に囲まれていた。りっぱな石を組み合わせた門の奥も、丹波の出棺のときに少し写った。「ヘリポートがある」などという噂は嘘だとわかったが、よく手入れされたツツジと門までの長いアプローチはさすが大俳優の豪邸にふさわしいものだと思った。その後しばらくして丹波邸の前をとおったら、ショベルカーが入って遠慮なくすべてを壊していた。そして、そこは完全な更地になった。りっぱな石垣も門も何もかもなくなった。一度きれいな土に戻したと思ったが、今日とおりかかったら、すっかり草が生えていた。常に手入れされ、刈り込まれていなければいけない植栽ははかないが、雑草はたくましい。ずいぶん背が伸びていた。丹波邸のような贅を尽くしたお屋敷も結局遺族が相続できないと、こうなってしまう。あの門だけでも残せなかったのだろうか。大俳優の生きた証しがあっさり消されてしまったようで、なんだか寂しい。ここはどうなるのだろう? 間口のわりにはかなり奥行きのある敷地だが、それでもマンションには少し小さいかもしれない。何軒が建売が建つのかな? それが一番ありそうだ。こういうお屋敷もどんどん細分化され、美しく手入れされた植栽や古い樹木もばっさり切られてしまう。業者にしてみれば、儲けるためには、それが一番なのだろうけれど、武蔵野の面影を残す大木や、前の主人が丹精した植栽が、根こそぎ消されていくのを見るのは寂しい。杉並の高級住宅地の魅力は、ゆったり大きなお屋敷、植栽、そして樹木にあると思うのだが、そういった場所もどんどんつまらないキチキチした普通の住宅地に姿を変えていっている。
2007.08.22
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