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5月8日に放送されたNHKのクローズアップ現代『”AI兵器”が戦場に』。この内容を起こした記事"AI兵器"が戦場に 自律型致死兵器システム開発の現状は - NHK クローズアップ現代 全記録を読んですぐに脳裏に浮かんだのが、手塚治虫の『火の鳥 未来編』。ここでは人類は5か所の地下都市でのみ生きながらえている。支配者として君臨するのはコンピュータ。そして、ささいなコンピュータ同士の対立から2つの都市が戦争になる。「計算」に基づいたコンピュータの判断は絶対で、その命令には人は誰も逆らえないのだ。そして、戦争は2つの都市のみで起こったはずなのに、残りの3つの都市もなぜか同時に爆発して消えてしまう。コンピュータがどういう「計算」をしてそうなったのかは分からない。一瞬の、あまりにあっけない人類の滅亡だ。『”AI兵器”が戦場に』では、以下のように問題を提起している。AIの軍事利用が急速に進み、これまでの概念を覆す兵器が次々登場しています。実戦への導入も始まり、ロシアを相手に劣勢のウクライナは戦局打開のために国を挙げてAI兵器の開発を進めます。イスラエルのガザ地区への攻撃でもAIシステムが利用され、民間人の犠牲者増加につながっている可能性も。人間が関与せず攻撃まで遂行する“究極のAI兵器”の誕生も現実味を帯びています。戦場でいま何が?開発に歯止めはかけられるのか?”究極のAI兵器”とは100%自律的に動作する殺戮機械のこと。人間が判断し、指示する必要がなくなり、「正確な計算」に基づき「効率的・効果的」に敵を倒すことができるようになるというのだ。ヤレヤレ…実に不愉快な話。いや、不愉快ではすまない、ぞっとする話だ。元米国防総省 AIの軍事利用政策に携わる ポール・シャーレ氏「AIシステムは、より多くの任務を果たすことができます。その性能は時間とともに向上しています。機械は民間の犠牲を考慮せず、単に計算をして攻撃を許可・実行してしまいます。結果、人々により多くの殺戮(さつりく)や苦しみをもたらしかねません。人間が命の重さを考えることができなくなれば、向かうのは暗黒の未来です」(以上、『クローズアップ現代』の記事から引用)手塚治虫が常に世に問うてきた「命の重さ」。それを考えることができなくなる、暗黒の未来が来るというのだ。規制を求める声は、当然ある。しかし、かつての核兵器開発競争と同じく、AI兵器の開発競争も、止めることなどできない。ウクライナ デジタル変革担当 アレックス・ボルニャコフ次官「技術革新は私たちが生き残る手段です。ロシアは躊躇(ちゅうちょ)することなく、より致命的な兵器の開発に取り組んでいるのです。いつ、この開発競争が終わるか分かりません。総力戦に向かうことが、人類にとって正しい道だとも思っていません。それでも開発を続けねばなりません。さもなくば、彼らが優位に立ってしまうからです」(『クローズアップ現代』の記事より)「人類にとって正しい道だと思わない。でも、やらなければ敵が先に開発を進め、優位に立ってしまう」――この理屈、この恐怖。それが人類を破滅へと導く。『火の鳥 未来編』が描くのは、完全自律型AI兵器のさらに先に待ち受ける、完璧(だと人間が思い込んでいる)コンピュータが支配する世界なのだ。まさに手塚治虫の「予言」どおりに、世界は進んでいる。NHKは昨夜(2024年6月11日)Eテレでアニメ『火の鳥 未来編』のワンシーンが流れる番組を再放送していた。「なぜ機械のいうことなど聞いたのだ! なぜ人間が自分の頭で判断しなかったのだ」そう誰かが叫ぶのは、遠い未来なのか、あるいはそう遠くない未来なのか。火の鳥(2(未来編)) [ 手塚治虫 ]
2024.06.12
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センターポジションに置かれなくても、ダイアモンドのような輝きを放ち、観る者の目を釘付けにしてしまうジュード・ロウ。その魅力がもっとも冴え渡った作品はやはり、アンソニー・ミンゲラ脚本・監督の『リプリー』ではないかと思う。『リプリー』はルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』のリメイクだと紹介されているが、違うと思う。もっと言えば、『太陽がいっぱい』も『リプリー』も、原作の『The Talented Mr. Ripley(才能あるリプリー氏)』を下敷きにしてはいても、それぞれ相当の脚色がなされている。まずは基本的な人物設定からして違う。『太陽がいっぱい』も『リプリー』も、主人公のトム・リプリーとディッキー・グリーンリーフの容姿は似ても似つかない。だが小説での2人の容貌は、「よく似ている」ことになっている。『The Talented Mr. Ripley』でトムがディッキーを殺して彼になりすまそうと考えるのは、2人の背格好が同じだったということも大きく影響しているのだ。『太陽がいっぱい』では、アラン・ドロンが主人公のトムを演じた。まさに水もしたたるいい男。『リプリー』のトムはマット・デイモン。初めてジュード・ロウ演じるディッキーとビーチで顔を合わすシーンなど、生っ白い肌に黄色いデカパンがア然とするほどダサい。『太陽がいっぱい』では主人公のトムが美貌の青年だったが、『リプリー』では美形はディッキーのほう。『リプリー』のトムは、そのディッキーに屈折した激しい恋情を抱く。『太陽がいっぱい』でもっとも魅力的なシーンの1つは、トムがマージを誘惑する場面だろう。アラン・ドロンの悪魔的な美貌を際立たせるカメラアングルといい、哀愁をおびた音楽の盛り上がりといい、監督のルネ・クレマンはここを最高の見せ場の1つとして描いているが、実はこれも『太陽がいっぱい』のオリジナル。小説はそんな筋書きにはなっていないのだ。一方、『リプリー』で青春の残酷さと美しさを担うのは、ロウ演じるディッキー。たとえば、コレ↓南イタリアの海が見える部屋で、サックスを吹くディッキー。窓の下の青い海を小船がゆっくり通り過ぎて行くのが見える。この絵画的な哀愁をおびたシーンは、ちょっかいを出した女の子が妊娠したうえに自殺をしてしまったあとに来る。このエピソードも小説にはない、『リプリー』のオリジナルなのだ。そして、マージとディッキーの関係。『リプリー』ではマージとディッキーはステディな関係であり、そこにトムが割り込んでくるカタチになっている。ところが小説は必ずしもそうではない。『The Talented Mr. Ripley』はトムの視線で語られるストーリーになっているのだが、トムの目を通して見たマージとディッキーは最初、それほど近しいものではない。トムとディッキーが急速に親しくなり、一緒に旅などして「やや特殊な関係」になってきたとたん、ディッキーがトムによそよそしい態度を取り始め、それまで大して関心のなかった(とトムには見えた)マージに接近していく。小説では、それをディッキーの裏切りと感じたトムが殺意を募らせるという筋書きになっている。『リプリー』では、トムがディッキーに抱く憧れと欲望がないまぜになった激しい感情は、これでもかというくらい露わに描かれているが、ディッキーには一見、そのケはないようにも見える。ところが小説ではそうではない。ディッキーは明らかに、「ボーダーラインをうろうろしている」セクシャリティの持ち主なのだ。彼はトムとの距離が縮まってくると急に警戒し始め、「自分はゲイじゃない」とトムにわざわざ宣言し(←まるで『ブロークバックマウンテン』のイニス)、ビーチでアクロバット芸を見せている「明らかにゲイの」軽業師に露骨な嫌悪感を示す。そして、マージという女性の性格づけ。小説でトムの目を通して描かれるマージは、相当嫌な女だ。トムのことも嫌っていて、ディッキーへの手紙に「彼は何の取り柄もない人」「ゲイではないかもしれないけど、ゲイ以下」「なんらかの性生活が送れるほどノーマルな人ではない」「彼と一緒にいるとき、あなたはなんだか恥ずかしそう」(河出文庫『リプリー』パトリシア・ハイスミス、佐宗鈴夫訳より)とクソミソに書いている。事実、小説のトムは、マージが手紙に書いたとおりの人間なのだが。だが、ミンゲラの作り上げたマージ像は、小説とは違って、非常に魅力的だ。神秘的ですらある。『リプリー』のマージは女性的な優しさと寛容さを併せ持ち、トムに対しても穏やかに、好意的に接する。ミンゲラ+ロウの最後のコラボレーションになった『こわれゆく世界の中で』のリヴにも共通したムードがある。北欧的な美貌といい、ミンゲラの理想の女性像なのかもしれない。『コールドマウンテン』のヒロインも同じ線上にいる女性だろう。『リプリー』のマージは、ディッキーがトムに「飽きて」、邪険にし始めると、「彼っていつもそうなの」とトムをなぐさめたりする。マージはこれまでディッキーにトムと同じように扱われた男友達の名前を挙げる。ディッキーが積極的に友達になろうとするのは、いつも…マージは女性特有の勘で、ディッキー自身ですら気づかずにいる、彼のある種の嗜好に気づいている。このとき、マージが挙げたディッキーの男友達の中に、『リプリー』の後半でトムと重要なかかわりをもってくるピーターの名があるのだ。『リプリー』ではディッキー亡き後、トムとピーターが「ほとんど一線を越えそうな」関係にまで発展するが、小説ではそんなエピソードはない。わずかに、トムがピーターに対して、ディッキーとの間に流れたような微妙な空気を感じて羞恥心を覚えるだけだ。ピーターとのかなり突っ込んだエピソードは、映画『リプリー』のオリジナルなのだ。『リプリー』の中で重要な意味をもつのは、浴室のシーン。そして、もちろん、ジュード・ロウの十八番のキラー目線。余談だが、トムがディッキーから、「別れよう」と言われるのは、ナポリにあるガレリアを出たところだ。ガレリアの階段を降りて、「サン・レモでさよならだ。それがぼくらの最後の旅」とディッキーがトムに告げる。Mizumizuは同じ場所で、道行く人に愛想を振りまいている捨て犬を見た(詳しくは、2007年10月28日のエピソードを参照)。『リプリー』を観たのはその後なので、捨てられつつあるトムの姿が、捨てられた犬のイメージに重なって、胸が痛んだ。小説でのディッキー殺しが、ある程度計画的に行われるのに対して、『リプリー』の殺人は突発的なアクシデントだ。サン・レモでボートを借り、海上に出たところで、トムとディッキーが言い合いになる。「マージと結婚する」と言うディッキーに対して、トムが並べ立てる台詞は、「一見」あまりに一方的で、思い込みの激しいストーカーのよう。「マージのことなんか、愛してないくせに」「きのうは別の女の子を口説いていただろ」「浴室でチェスをしたあの夜、君も特別なものを感じたはずだ」「ぼくは自分に正直なのに、君はそうじゃない」… あげくに、こんなことまで言い出す。そして、「君は一体何がやりたいんだ」とトムに言われると、ディッキーが激昂し、2人は取っ組み合いになる。このときにディッキーが見せた常軌を逸した暴力性が、結局はディッキーの命を奪う結果になるのだ。映画はこのあと、完全犯罪にすべく奔走するトムの姿を描き、サスペンス映画としての面白さを十分に堪能させてくれる。フレディ殺しにまつわるエピソードに関しては、『太陽がいっぱい』のリメイクと言ってもいいかもしれない。だが、結末は『太陽がいっぱい』とはまったく違っている。『リプリー』では、物語の終盤になって、意外なディッキーの過去がトムに明かされる。アメリカにいた大学時代、ディッキーは「女のことで」男友達とケンカになり、相手が障害者になるほどの大怪我を負わせていたのだ。それゆえに、ディッキーの父親は、息子が「また」同じような経緯から、友人のフレディを殺してしまい、自殺したと簡単に信じ込む。だが、マージだけは、ディッキーはトムに殺されたのだと確信していく。周囲はディッキーの過去をマージには伏せている。ゆえに、こう思う。「マージは本当のディッキーを知らない。だからトムが犯人だと誤解しているんだ」と。一方で観客は、真実を見抜いたのはマージだけだということを知っている。ここに、不思議なパラドックスが生まれる。ディッキーは一点の曇りもない、太陽のような男だった。少なくとも、この過去が明かされるまでは、そう見えた。過去に友人を半死の目に遭わせたなど、そぶりにも見せなかった。トムはディッキーに「自分は大学時代の知り合い」だと偽って接近する。そのトムに対しても、自分の引き起こした不祥事について知っているのか、どう思っているのかなど、探りを入れることさえしなかった。トムがディッキーの筆跡占いをして、「誰にも言えない秘密を抱えている」と言ったときも、まるでピンときていない様子で、「本人にもわからないなんて、たいそうな秘密だな」などとごくごく自然に答えている。だが、ディッキーには、大きな秘密があったのだ。アメリカにどうしても帰りたくないわけも。ヨーロッパにとどまることで、ディッキーは自分の過去から逃げていた。そして、トムとディッキーがボートの上で殺し合いになってしまうケンカを始めたのは? やはり、マージという女性をめぐってのことだった。トムのような男友達を、ディッキーは作っては捨てていた。妊娠して自殺したイタリア人の女性はファウストというディッキーの男友達の婚約者だった。だとしたら、アメリカで起こった事件も、同じような経緯で生じたのではなかったのか? 「本当の自分から逃げ、やりたいことをやらないまま、たいしてやりたくもないことには次々に手を出す」――こういう自分の本質に触れられると、ディッキーは理性を失うほど怒り狂うのではないか?だからもしかしたら、サン・レモの海の上でトムがディッキーに言った台詞は、すべてがトムの一方的な思い込みではなく、ディッキーの真実、あるいは真実の一部だったのかもしれない。ディッキーの心の奥深くに隠されたセクシャリティをうかがわせるのが、ディッキーの死後、トムに積極的に近づいてくるピーターの存在だ。もともとピーターはディッキーの男友達。映画ではつまびらかにされないが、マージの台詞から、トムと同じような立場だったことが暗示されている。トムとピーターは、ディッキーを通してつながるのだ。ディッキーという太陽が隠れたあと、2人は隠花植物のようにひっそりと愛を育もうとする。だが、ピーターは薄々、トムの心に「消せない誰か」がいることに気づいている。サスペンス映画としてのテンポの良さや、ハラハラする展開の面白さで観客を惹きつける一方で、ジュード・ロウというたぐいまれなダイアモンドをディッキー役に配することで、原作者のハイスミスが追究した「隠されたセクシャリティ」というテーマを別の手法で織り込んだ、なかなかに深い作品。のちにハリウッド映画界を代表することになる名優が、こぞって参加しているのも頷ける。
2009.05.05
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Mizumizuは現在、ペッパーミルはプジョー製、ソルトミルはコール&メイソン製を使っている。ソルトミルのほうはもうずいぶん長く――おそらく15年以上は――同じものを使っている。毎日使うほどではないが、といってほったらかしということもなく、常に食卓の上にあり、切れることなくピンクソルトが入っていて、しばしば使うという感じ。ペッパーミルのほうは、ソルトミルより少し早く、ウサギ形のものを買った(メーカー名は失念)が、数年で壊れてしまい、次におしゃれっぽい小物を売っている店で、1000円ちょっとの安いものを買ったが、それもすぐに胡椒の詰まりがひどくなり使えなくなってしまった。そこで、質に定評のあるプジョー製に替えたら、それ以来ずっとトラブルなく快適に使えている。コール&メイソン製のソルトミルはオーストリアのバートイシュルの岩塩専門店でピンクの岩塩を買ったときに、それ用ということで買ったもの。話が逸れるが、ここで買ったピンク岩塩は、日本でよく売っているヒマラヤのピンク岩塩なんて及びもしないほど美味だった。塩の味の中に不思議な甘みがあり、まろやかな味。記憶の中で美化されている部分もあるとはいえ、その後、あの味を越える塩にはお目にかかれていない。で、ミルに話を戻すと、壊れないのでずっと使い続けていたのだが、先日、ピンク岩塩が切れて、たまたま気まぐれでクリスマス島のクリスタル結晶の塩を買ってみた。何の気なしにソルトミルに入れると…あれ? 削れない。なんだか滑ってしまっているようだ。調べてみると、ソルトミルは厳密には岩塩用と海塩でギア(刃)の作りが違うようだ。それはそうかもしれない。だが、Mizumizu所有のは刃はセラミック。セラミックなら海塩でも大丈夫な気がする。ま、もし海塩が原因で削れないのなら、岩塩にすればいいだけだ。というわけで、いつものピンク岩塩を買って入れてみた。が、結果は同じだった。滑ってしまっているようで、削れない。「ソルトミル 削れない」で検索してみたが、たいした妙案はなかった。塩を全部出して、構造をじっくり見る。バラすことはできないが、中にバネが入っていて、頭部のツマミを閉めるとその圧力で、上下になっている下のほうのギアが移動し、噛み合わされて削るというシンプルなものだ。下のギアの部分を見ると、だいぶ塩がついている。単純に、これで削れなくなっているように見える。だったら、水洗いして、しっかり乾かせばよいだけの話ではないか?バラせないから乾燥させるのがちょい難しいかな、とは思ったが、もし水洗い→乾燥で直らなかったら、それは壊れたということだし、コール&メイソンはギアを交換してくれるという話もあるので、聞いてみてもいい。というワケでお湯を勢いよく流し、そのあと少しお湯につけてセラミックのギア部についた塩を除去してみた。これが洗浄後。こびりついていた塩はきれいに取れた。そして、内部の乾燥には、コレ↓ダイソンのヘアドライヤー! コイツがすんばらしい働きをしてくれた。このドライヤーは、元来のドライヤーとしても、心からおススメできる。あっという間に髪が乾いて、しかもふんわりとボリュームが出る。値段は飛び切りだが、実にGOODなドライヤー。コイツをコール&メイソンのソルトミルの開口部に近づけて、中の水滴を次々と飛ばしていった。ドライヤーだけでほぼ乾いたといえるぐらいになったが、それでも念のため、数日放置して自然乾燥。で、ピンク岩塩を再度入れたら…おー! ちゃんと削れる。新品に戻ったようだ(って、新品時代のことは実はもうよく憶えてないのだが)。これでまた使える。めでたし、めでたし。こんなことなら、もっと早く、というか、もっとマメに水洗いするべきだった。コール&メイソンのセラミック・ギアは、実に秀逸なのだなあ…と改めて感心した。クリスマス島の海塩が削れるかどうかは、実はまだ試していない。大丈夫な気がするが、万が一、せっかく直ったミルなのに、海塩が原因で削れなくなってもイヤなので、海塩用のソルトミルをもっとしっかり調べてから、ピンク岩塩が終わったあとにこのミルに海塩を入れて使うか、あるいは別に海塩用のミルを買って、同時に違う塩を楽しむのもいいかな、とも考えている。もちろん、次に買うのも、定評あるミルメーカーのものにするつもり。
2019.01.26
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シラクーサのホテルは日本から予約せずに来た。イタリアはよっぽどの観光地のハイシーズンでない限り、ホテルが見つからないということはない。シラクーサのように文化遺産テンコ盛りの街は、アクティブに観光して歩きたい。そうなるとタオルミーナのような滞在型の豪華ホテルではなく、経済的でそこそこ便利な場所にあるホテルに泊まったほうがいい。駅で母に荷物を見ていてもらい、近くのホテルを見に行った。さっそく手ごろそうな3つ星ホテルを見つけて飛び込む。フロントには若いイケメンのお兄さん。「今日ともしかしたら明日も、泊まりたいんだけど、ツインの部屋ありますか? できればバスつきの」「バスつきはないよ。シャワーだけ」「あ、じゃシャワーだけでも。いくら?」「86,500リラ(=約5,000円)」やっ、安い!「部屋代? それとも1人の宿泊料金?」「部屋代だよ」「泊まるかどうか決める前に、部屋を見せてもらえる?」「いいよ、もちろん」イタリアでは泊まる前に部屋を見せてもらうのは全然OK。どこでも気軽に見せてくれて、嫌な顔をされたことはない。見せてくれた部屋は、日本のビジネスホテルなら12,000円ぐらいは取りそうなレベル。内装はモダンで、シャワーはドロップ式ではなく、ちゃんとノズルがあった。ベッドのスプリングや水の出方などチェックして問題ないので泊まることに。シラクーサに着いた時間が遅いので、2泊すると告げる。泊まってくれると知ったお兄さんは、より親しげな口調になった。「キミ、日本人? イタリア語うまいね」つーか、ホテルに泊まるかどうか話してるだけなんですが。「イタリアに住んでるの?」来たっ! お決まりの質問。イタリア人は褒められるのも大好きだが、褒めるのがまた輪をかけてうまい。北イタリアの都会ではそんなことはないのだが、南に来ると、必ず「イタリア語うまいね」から始まって、「イタリアに住んでるのか」「イタリア語はどこで勉強したのか」と聞かれる。店でもホテルでも、観光案内所でも(苦笑)。イタリアに住んだことはないし、勉強も日本でしただけだとこれまたお決まりのパターンで答えると、ホテルのイケメンにーちゃん、「うそぉ。信じないよ」とオーバーなリアクション。とっても話しやすい雰囲気なので、ついでにいろいろ聞いてしまった。「あさっての朝、ピアッツァ・アルメリーナにバスで行きたいんだけど、バス停はどこ?」すると、フロントから出てきて、ホールにある市内地図の前にMizumizuを連れて行き、「バスは、ここから(←と街の中心からちょっと離れた場所を指し)出るんだけど、どのバスも、こう通って(←と道をたどり)、ここに来るんだ(←とホテルの近くを指す)」「来るのにどのくらいかかる?」「10分ぐらいじゃない、なんで?」「アルメリーナ行きのバスの時間は調べてきたんだけど、たぶんその時間はこのターミナルから出る時間だと思って」「ああ、そうか。いや、キミ、本当にイタリア語うまいね」つーか、バスの乗り方聞いてるだけなんですが。「アルメリーナ行きも必ずこのバス停に来るのは確か?」「言ったろ、全部のバスがここに来るんだ。間違いない」このイケメンのにーさんは、「雇われ」でないことは確かだ。たぶん家族経営のホテルなんだろう。ヨーロッパの「雇われ」の態度はおおむね悪い。ことに中級程度のホテルやレストラン、それにショップでは。逆に家族経営の店だと、非常に商売熱心。日本のように労働者のレベルが平均的に高い国から行くと、「雇われ」と「オーナー」の仕事ぶりの違いにしばしば驚かされる。街にも詳しそうなので、ついでに美味しい店も聞いちゃおう。「何食べたいの?」「パスタとか、リゾットが好きなんだけど」「パスタなら、絶対Quelli della Trattoriaだよ」「どこにあるの?」「カブール通り。ちょっと待って…」と、フロントに戻り、下から市内地図を出して、ボールペンでマルをした。「このあたりだよ。自家製のパスタの店で、スカンピのクリームソースのフェットチーネが最高」なんともクレバーなお兄さんだ(おまけにイケメン)。イタリアってなぜか美形のほうが感じがよく、親切なのだ。それは女性も同じ。おかげで次の街への行き方もわかったし、夜の食事の場所も決まった。さらにお兄さんは、地図の海岸沿いの道を指して、「ここは、海に沈む夕日がきれいだよ」なんて至れり尽くせりのアドバイス。そりゃどうも。さては、ずいぶんご利用になっていらっしゃるようで。ま、Mizumizuの場合、一緒に行くのは母だがね(笑)。駅で待ってる母を連れて、ホテルの部屋に入り、荷物を置いて市内見物に出発した。ホテルは旧市街からは離れている。バロック建築で有名なドゥオーモ広場に行こうと、タクシーだまりに行くと、ズタボロのイタ車で半分寝たようにダラけているじーさま運転手がタクシー列の一番前にいた。ヨレヨレのチェックのジャケットを着ている。うっ、やる気なさそうなじーさんだ。でも、最前列のタクシードライバーに優先権があるのは、イタリアの掟。しかたなく、あけっぱなしの窓から覗き込み、「ドゥオーモ広場まで行きたいんだけど、いくら?」と聞いた。じーさんはあわてて姿勢を正す。「クインディチ」15,000リラ(約900円)という意味だ。シワだらけの顔だが、人は悪くなさそう。タオルミーナが20,000リラからスタートだったので、さすがにそれより安い。OKしてズタボロ車に乗り込んだ。いざスタートすると運転はうまい… というべきか若いというべきか。とにかくイタ男はハンドル握ると素っ飛ばすもんだと思っているらしい。運転は総じてみな巧みだとは思うのだが、事故も多い気がする。街では、真昼間にしょっちゅう救急車のサイレンの音を聞く。あれは自動車事故がほとんどだろう。勝手に想像してるだけだけど。さらに、このじーさん、やや耳が遠いらしい。ちょっと話しかけると、後ろをぐうッと振り返り、こっちの目をしっかり覗き込んで、「え? 何?」と聞き返す。もちろんその数秒間は前を見てない。で、前を向いてくれたところを見計らって、さらにこちらが何か言うと、また振り返ってしっかり視線を絡めてくる。こ、怖いってばさ。前見てよぉ。も~、会話はなるたけ控えよう。ドゥオーモ広場の近くに着くと、ケータイの電話番号を書いた紙をわたしてくれて、「またタクシーが必要だったら、ここに電話して。市内だったらどこでも15,000リラでいいから」おお、それは便利。呼び出しても同じ値段なら安心だし。けっこう商売うまいじゃないの。これが、シラクーサのもう1つの見所、壮麗なバロック様式のファサードをもつドゥオーモ。ファサードの扉には、貴婦人のかぶるレースのような繊細な装飾が施されていた。旧市街のカブール通りは、まさに「バロックの小道」。石畳にバロック風のバルコニーや装飾をもつ石造りの建物の並んだ昔ながらの狭い通りだ。夜、食事にもう一度来たのだが、柔らかな街灯に照らされた道は、スペイン絶対王政時代の上品な残り香が漂い、ギリシア劇場やローマ劇場といった古代の遺跡を見たあとはなおさら、「ここって一体どこの国だったっけ?」と混乱してしまう。惜しむらくは、路地に活気がないこと。昼間から何をするでもなく、手持ち無沙汰に立ってる土地の人たちが、またうらぶれ感を増幅させていた。夜はさらに閑散として、ひと気がない。こちらは夜のドゥオーモ広場。ムーディなロウソクをテーブルにおいて、白いパラソルをひろげてまだ客を待っているドゥオーモ前のカフェ兼レストラン。でも誰も座っていない(苦笑)。さびし~『ニューシネマパラダイス』『海の上のピアニスト』『みんな元気』で有名なジョゼッペ・トルナトーレ監督の映画『マレーナ』でも、シラクーサの旧市街がロケに使われていた。この広場をモニカ・ベルッチ扮するマレーナが歩いているシーンがあった。さて、タクシーは公衆電話から呼び出すとたいがい来てくれて、非常に助かった。だが、一度だけ、「今ダメだから」と言われて、別のタクシーを使ったのだが、このタクシー、真っ白なピカピカのメルセデスで、グラサン(←死語?)をかけた30代のやる気(ぼる気?)まんまんのガタイのいい兄さんだった。「15,000リラ」と事前交渉して乗ったのに、いざ目的地に着くと、実はメーターを動かしていて、「ほら」とメーターを指し示す。2万リラを超えていた。カッとなったMizumizuは、「15,000リラって言ったじゃない!」と怒鳴った。その勢いに気後れしたのか、一見ヤクザ風(失礼!)のにーちゃん、驚いたように、気弱な声で、「み、見せただけだよぉ」だって!「なんで、メーター使うのよ! 見せただけぇ? 嘘つき! 1万5000リラって言って、それから2万リラって言うつもりだったんでしょ。サイテーね。シチリアのタクシー運転手はみんな親切だけど(←もちろんウソです)、あなたは最低!」と一方的にまくし立てて15,000リラをわたして、とっととタクシーを降りるMizumizu。Mizumizu母も黙ってついてくる。逆ギレされても面倒なので、相手が呆気に取られてるうちにどんどん道をわたって遠ざかった。安全圏内に入った(?)ところで振り返ると、タクシーから離れるわけにもいかず、ドアのそばに立ちつくしたグラサンの顔が、ジト~ンとこちらを睨んでいた。観光を終えた夜遅く、ホテルのそばを歩いていると、なんとじーさんのほうのタクシー運転手が友人とおぼしきおっさんと歩いてるのに出くわした。さっそく、ヤクザ風のにーちゃんに、15,000リラと言っていたのに、それ以上取られそうになった話を路上でするMizumizu。「あなたのほうがずっとよかった」と言うと、いきなり、それまでの話はすっかり頭から飛んでしまった(もともとあまり聞えてなかった?)らしく、「オレのがいいんだ!」何年洗濯してないのかわからないチェックのジャケットの胸をふくらませて、大声でリピートするじーさん。「そうそう、あなたのが優秀」調子を合わせると、ものすごく嬉しそうな顔になり、またこっちの顔を覗き込むようにして、「明日はどこ行くの? 朝迎えに行くよ」お抱え運転手にへんし~ん。明日は朝早くバスでピアッツァ・アルメリーナに行くからと断わると、じーさんはうなずき、「じゃあ、いい旅を。また来てね」と、友人とおぼしきおっさんと夜の(シケた)シラクーサの街へ消えていった。あのあと酒をのみながら、今日東洋人の観光客から気に入られた自慢話をおっさんに語ったのだろう。教訓:シラクーサでタクシーに乗るときは、ピカピカのメルセデスではなく、ズタボロのイタ車を運転してる枯れたじーさんのほうが無難。
2009.01.23
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竹久夢二は、特に好きな芸術家ではない。いや、夢二の代表作『黒船屋』の記念切手はかなり好きで、今でも大事に取ってあるから、嫌いなわけではないが、といって、「ゆめじ、ゆめじ」と追っかけさながらのファンというわけでもない。伊香保で夢二記念館に行こうと思ったのも、ほかにあまり行きたい場所もなかったから。旅に出ると、ついでに1つか2つ、観光地にある美術館を訪ねてみたくなるのは、業界の「仕掛け」にうまくのせられているのかもしれない。入場料が高いわりには、たいしたことない美術館も多い。管理が行き届かず、先行きの暗さがアリアリとわかる美術館もあるし、実際、行こうと思ったらもうつぶれてた…なんてこともある。というわけで、たいして乗り気ではなかったものの、「それでも夢二だし、どうせ一生に一回しか来ないし」というつもりで、竹久夢二伊香保記念館へ行ってみた。ヨーロッパの猿真似をした、安づくりの建物かと思っていたら、案外、ハリボテ感はない。新緑と桜越しに見る白亜の洋館は、どうしてなかなか風情があるではないか。ここは本館のほかに、新館もあるとかで、全部見るとかなり大変なうえ、料金も高い。そこまで夢二マニアでもないので、本館だけにするとチケット売り場の女性に告げた。入ってみて、驚く。ただし、今回は水沢うどんの店で感じた、「呆れ」の入った驚きではない。建物といい、夢二時代の照明器具を集めたという調度品(別に夢二がデザインしたとかということではない。ただ同時代というだけだが)といい、相当に上質のものが揃っている。教会の礼拝堂を思わせる椅子の並んだ、広めの部屋で聞かせてもらえるアンティークオルゴールも、魅惑的な音を響かせているではないか。床材はヘリンボーンだし、天井は下にステンドグラスをはめ込んだ二重構造。壁を飾るいくつかのキュリオケースはデザイン様式はバラバラだが、ダークブラウンの木製で統一している。夢二作品も、美人画あり、イラスト風の小品ありで、夢二ファンでなくとも、十分に楽しめた。夢二の作品を引き立てる調度品にも妥協がない。一体、だれがこれだけのものを集めてきたのだろう?? 審美眼の高さと「夢二とその時代」に対する並々ならぬ、真摯な情熱が隅々に漂う記念館だ。大学は上野で、美術を学んだMizumizu。急にアカデミックな血が騒ぎ、「このデッサンはないよなー。着物の中に(立体的な)体がおさまらないじゃない」と、基本的な突っ込みを入れたくなるような作品もあるのだが、色彩の配置やデフォルメされたフォルムの面白さという視点から見ると、実にユニークで魅力的。時代を超えて、夢二ファンが多いのも頷ける気がした。アカデミックな画壇が夢二を認めたがらなかったのも、このデッサン力では無理からぬ面もある。だが、イラストレーターとしての個性は比類がない。上階にあるカフェで、「夢二サブレ」をコーヒーと一緒にいただいて、また驚く。ココナッツの風味が個性的な、ちょっと珍しい、そしてさっくりと美味しいサブレではないか。これ、かなり本気で作ってる。ココナッツの大好きなMizumizu。これは買うしかないでしょう。買ってみてわかったのだが、このサブレ、味もいいが、包装紙から箱に至るまで、夢二作品で埋め尽くされた、実に洒脱な品。包装紙に印刷された、少女の儚げなまなざし。小動物を抱いているところなど、まさに夢二。赤い箱のデザインも夢二作品から。夢二はやはり、優れたイラストレーターだったと思う。原物よりも、何かの装飾やイラストとして印刷されたほうが魅力的に見えるモノもかなりある。サブレはなんとハート形(笑)。サブレを包む夢二イラストも3種類刷ってあるという凝りよう。舌だけではなく、目でも楽しめる贅沢。いや~、参りました夢二記念館。観光地の、観光客を当て込んだ、テキトーな商売だと思ったら、とんでもない。美術館ショップに溢れる、粗悪品にかなりヘキエキしているMizumizuだったが、夢二記念館のグッズは、総じて質がよく、種類も豊富。思わず絵葉書も買ってしまった。有名な「黒船屋」は見られなかったが、赤い頭の鳥の絵がとても気に入った。小動物への繊細なまなざしも、夢二の世界の重要な構成要素。さすがに鳥の絵は、原物のほうがずっとよかった。しかし、この絵葉書、いまどき郵便番号が5桁って…印刷自体は悪くはないが、いいのか、それで?カフェで出された夢二羊羹。抹茶だったのが、まずかった。Mizumizuは抹茶の羊羹が好きでないのだ。夢二のデザインしたキャラメルパッケージ。10年以上前になるが、復刻限定版としてここで発売した当初は、たいへんな人気を集めたよう。実は夢二の時代には、このパッケージデザインはボツになったとか。キャラメルの味は普通でした(←キャラメルも特に好物ではないMizumizuの感想ですので)。黒船屋をあしらったクリーナー。眼鏡を拭いてもよし、グラスを拭いてもよし。案外重宝している。というワケで、夢二記念館で夢二にハマったというよりは、夢二作品を商品化したグッズのアイディアに魅了されたといったほうが正確かもしれない。それは当然、夢二作品に魅力があるからに他ならないが、いかに魅力のあるものでも、それを見出し、付加価値をつけ、世に出す人が必要だ。それはたいていは、本人以外の人間のほうが、うまくいく。夢二は自分の作品を海外に売り込もうとして成功しなかった。だが、この記念館は、夢二作品に魅せられた人が、さまざまなアプローチで夢二の素晴らしさを再構成し、訪れる人に訴えかけている。夢二を芸術家と呼ぶのか、あるいは今風にアーティストと呼ぶのか、イラストレーターと限定するのか、それはこの際たいしたことではない。「夢二っていいでしょう。大正ロマンって素敵でしょう」と語りかける誰ががいる。誰かの熱意が確かにある。ここで夢二以上にMizumizuが感動したのは、その事実だ。
2014.05.27
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<ジェイク・ファンの皆様は明日おいでください。ジェイク・ネタは明日からです>昨日、レオナルドが30代後半のときに拾った少年がモデルとされる横顔の素描を紹介したが、この少年は本名はジャコモという。彼はレオナルドからルイジ・プルチの叙事詩にちなんだ「サライ(悪魔の意味)」というあだ名をつけられ、10歳でレオナルドと同居を始めてからずっと25年以上にわたって、レオナルドがフランスで亡くなるまで生活を共にした。なぜレオナルドが彼をサライと呼んだかといえば、それはこの少年が、その美貌と裏腹に、非常に品行が悪かったからだ。レオナルドの手記には、このサライに対する悪口が綿々と綴られている。彼に何を買ってやったとか、彼が何を盗んだとか、彼が何を食べたとか、いちいちその値段までつけて詳細に記録し、「泥棒、うそつき、頑固」などと罵倒している。それならば、さっさと別れればいいことなのに、レオナルドとサライはなぜか離れない。サライの「悪さ」がいつごろまで続いたのかわからないし、それが生来のものだったのか、それとも自分を縛ろうとする高名な画家への少年らしい反発心からだったのかはっきりしないが、ともかくレオナルドは手記では悪態をつきながらもサライに服や靴、指輪や首飾りなどを買い与え、彼の家族の援助までしたうえに、最期にはサライに家を含めた遺産も残している(いいな~、お付き合いするならこういうヒトだよね)。そして、そのサライとの生活を暗示するようなレオナルドの素描がイギリスにある。ソクラテスが死の直前、弟子を集めて行った論議を弟子のプラトンがまとめた『パイドン』から想を得て描いた「快楽と苦痛の寓意(アレゴリー)」だ。『パイドン』においてソクラテスは、「快楽と苦痛とは1つの頭についた2つの肉体」だと述べている。それをレオナルドは1つの肉体に2つの顔をもつシャム双生児のような寓意像にうつしかえて表現した。さらに、この双生児の顔はまったく違っており、2つの顔のうち1つは少年のように若く、もう1つはそれよりずっと年上で、老年期にさしかかっているように見える。少年はサライの素描に似ているという人もいるが、どうもMizumizuにはサライのようでもあり、自分の少年時代を描いたといわれる「キリスト洗礼」図の天使のようでもあるように見える。少年は片手に「葦竹」をもち、もう片手にはコイン(お金)をもっていて、それが地面に落ちている。年上の男は花のついた植物(とげのある薔薇だというが、よくわからない。果物かもしれない)とまきびし(敵から逃げるときにばらまいて、相手の足を止める道具)をもっている。まきびしもやはり、一部が地面に落ちている。そして、この素描には、鏡文字といって、鏡にうつさなければ読めない、さかさまに書かれた文字による注がある。この鏡文字はもちろんレオナルドが書いたものだ。レオナルドという人は元来左利きで、私的な手記などを綴るときなどは、あたかも人に読まれることを避けるかのように、決まってこの鏡文字で書いた。もちろん、普通に書くこともできた(ホント、すごいというか、変な人だ)。年上の男がもっているのは、求愛のプレゼントに使えそうな植物(あるいは快楽そのものを象徴する果実)と、相手から逃げるときに使うまきびしという道具であり(しかも、一部を地面に落とすことで、もう使い始めている)、明らかにそれは、背中合わせの少年に対するアンビバレントな感情を暗示しているようだ。少年の手からコインが落ちているのは、与えられた金の浪費を象徴しているように思われる。そして葦竹については、素描に添えられた注釈に説明がある。この注釈は一般に、「寓意に対する道徳的解釈」だとされている。それはざっと以下のとおりだ。「これは苦痛とともにいる快楽。双子なのは決して離れることができないから。背中合わせになっているのは、2人がまったく対照的であるため。彼らの下半身は1つになっている。なぜなら、快楽の根源は苦痛のない仕事であり、苦痛の根源は虚栄と気まぐれな快楽だから。だから1人は右手に葦竹を持つ。葦竹は役立たずで何の強みもない。だが、刺されると毒にやられる。トスカーナでは葦竹はベッドの脚の材料になる。(中略)ここでは、さまざまな空しい快楽が行われる。不可能なことを想像する心と、しばしば命取りになるあの喜びの両方が」。これが寓意に対する道徳的解釈だろうか? とてもそうは読めない。むしろこれは素描を描いたレオナルドのモノローグのように読める。快楽の象徴であるベッドの材料となる葦竹は、「役に立たないが、刺されると毒にやられる」もの。そしてそれをもつ少年は、年上の男とは「対照的でありながら、離れられない存在」。ベッドでは「不可能なことを考え、しばしば命取りになるようなあの喜び」にふける。「不可能なことを想像する」とは誇大妄想を言い換えたものだろう。そして、レオナルドは自他共にみとめる誇大妄想狂的性格だった。彼は実現不可能な壮大な都市計画を立てたり、実際に使うことのない武器を考案したり、当時の技術ではできるはずのなかった巨大なブロンズ像制作に挑んだりしていた。昨日紹介した「5つのグロテスク」で、グロテスクな顔に囲まれている中央の誇大妄想の男は、晩年のレオナルドの顔にそっくりで、自身をモデルに描いたものだとされている。だから、ここにはレオナルドのサライに対する感情と彼との生活が暗示されているようにしか思えないのだ。下半身が1つになっている画はサライとの関係を示している。単にソクラテスの言葉を寓意像で表わすなら、そのオリジナルの言葉にしたがって、頭が1つで肉体を2つに描けばいいことだ。実はレオナルドはもっと若いころ、具体的にいうと24歳のときに、17歳の少年に対する買春の罪で告発されている。当時のフィレンツェでは、男色に対する罰は大変に重いものだった。罰金、鞭打ち、火刑、去勢、片足の切断。ただし、こうした罰は見せしめのためには行われるものの、有力者は事実上お目こぼしにあずかっていた。このときはレオナルドの罪は不問にふされる。この告発はデッチアゲで、だからレオナルドは罰を受けなかったのだと主張する人もいる。無罪放免にされたことが、告発が陰謀であったという証拠だというのだ。だが、このサライとの出会いとその後の生活を考えると、告発がまったくの事実無根だったとも考えにくい。レオナルドは庶子とはいえ、その父のフィレンツェにおける政治的な地位は高かった。24歳の画家としてのレオナルドの名声はそれほどのものではなかったから、もし政治的な力で罰をまぬがれていたとしたら、それは父親が裏で動いたからかもしれない。だから、「しばしば命取りになるあの喜び」が何かということはハッキリしている。若き日のレオナルドに対する告発が事実無根だという人や、サライとの関係を友情だとかレオナルドの慈愛だとかいう人たちは、万能の天才、ルネサンスの巨匠、人類史上でも指折りの大天才が、男娼を買ったり、教養のないロクデナシの美少年に貢いだりしていては困るのだ。自分たちが抱いている偉大なるレオナルド像のイメージが壊れるからだ。だが、人の仕事の才能や能力とセクシャリティは、本来何も関係がない。ルーブルで人が群がっているガラスケースに入った「モナリザ」や、ミラノで長々と行列ができる、剥落が激しく、いくら修復しようとしても、もうとっくに失われてしまった名画「最後の晩餐」と違って、この寓意画はほとんど人に知られていなし、注目されることもない。だが、人に読まれることを拒否するような鏡文字が添えられた、このひっそりとした地味な素描を見ると、レオナルドの内面のダークサイドから、非常にプライベートな生の声が響いてくるようで、なんとなく胸を打たれたりするのだ。
2008.02.01
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北海道にマンガミュージアムを!大和和紀&山岸凉子展 (hokkaido-life.net)に展示された(らしい)山岸凉子の「手塚先生との思い出」。山岸凉子が紡ぐ、この日のお話は、雪の札幌という背景もあいまって、一種幻想的なシンデレラストーリーのようにも思える。デパートの催事場で漫画の神様の神技に驚き、喜ぶ大衆。必死に声をかける漫画家志望の高校生。多忙にもかかわらず、常識的なハードルを設けたのちに、熱意ある漫画家のタマゴの作品を見てくれる手塚治虫。山岸凉子の兄の態度も素晴らしい。当時は大学生だったということだが、今の大学生よりずっと大人だ。手塚治虫の「予言」どおり、すぐにデビューした大和和紀。デビューまで数年を要したのち、誰もが知る少女漫画の大家となった山岸凉子。その彼女が、「私はあの時の手塚先生のように読者や漫画家を目指す人たちにやさしくできただろうか」と自問するラスト。手塚治虫が「神様」なのは、その作品が漫画のお手本であるということも、もちろんあるが、それだけではない。非常に頭がよく、絵に情熱をもち、かつ優れたストーリーテラーの素質をもつ稀有な若い才能を日本全土から「漫画家」という職業に引き込んだからなのだ。今の漫画を見ても、漫画家には優れた作画の技量だけでなく、幅広い教養が必要だということが分かる。漫画家を目指す若者に、手塚治虫がどれほど親切だったかは、こちらのエントリーでも紹介した。自らの作品と人柄で、漫画家の種を蒔き続けたという業績は、まさに神の名にふさわしい。なお、山岸凉子『手塚先生との思い出』は、【手塚治虫文化賞20周年記念MOOK】マンガのDNA ―マンガの神様の意思を継ぐ者たちで全編が読める。
2024.03.27
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時計というのは、お手ごろな価格の日本製クオーツが一番よく働く。しかし、スイス製のデザイン性の高い時計も捨てがたい魅力がある。というワケで、気がつくといろいろ買っていたりするのだが、Mizumizuが所有した時計で一番の困り者がロンジンの超薄型文字盤のクオーツ時計だった。写真一番左がそれ。まん丸いゴールドの文字盤は厚みがわずか4ミリ。時間を示すインデックスはシンプルな細いライン。クロコの濃紺の革バンドとの組み合わせはとてもエレガント。余計なものをそぎ落としたようなデザインが非常に気に入って買ったのだが、「薄いから電池はわりと早く切れます」と言われたとおり、すぐに止まってしまうのが難点だった。そのうえ、使ってるうちにどんどん電池切れの間隔が短くなる。薄型の特殊な時計ゆえか、電池代も高い(高かった)。ロンジンを扱っているショップに持っていったり、デパートの修理コーナーに行ったりしていたのだが、時間もかかり、預けてから別の日にまた出直さなければならない。そのうちに、電池を交換してからしばらくしまっておくと、使う前にもう止まってるというような異常な状態に。デパートの修理コーナーにいた職人さんに話を聞くと、中の部品を新しくすれば、長持ちする新しい電池が使えるようになると言われた。どうもよくわからない話で、内心、それってつまり、ムーブメント自体に最初から不具合があったってことじゃないの?と思ったのだが、こんなに電池切れが早いんじゃやってられない。数万かけて部品を入れ替えてもらった。で、最近はあまり腕時計をして出かけない。そもそも出かける時間もなく仕事に追われまくっている。たまにでかけても、携帯電話に時計がついているので、腕時計はなくてもいい。気がつくと、家中の腕時計が止まっていた!(笑)写真はそのうちのいくつか。左からロンジン、4℃(アクセサリーブランド)、クルマ屋さんからもらったノベルティグッズ、一番右が連れ合い所有のセイコー。これだけバラバラだと、時計を売ってるショップに持っていっても、「これはできますが、これはお預かりになります」などとメンドウくさい。修理を専門にやってくれるプロの店が近くにないかな~と思っていたら…あるじゃないの!家から徒歩10分の西荻窪の街角に。いつできたんだろう? 最近まで気づかなかった。で、写真一番右の時計は、連れ合いのなのだが、ブレスレット部分のパーツを細いピンで留めてつなげているのが、ピンがはずれやすくなってきたと、これまた困っていた。Mizumizuのいろいろなブランドの時計と、セイコーのブレスレットのピンの修理を一挙に頼んでみたら…「ハイ、すぐできます」と心強い返事がソッコーで返ってきた。しかも…聞いてたまげるほど安い!http://padonavi.padotown.net/detail/pages/1109/00000905000.html↑ここのお店紹介に載ってる料金ほぼそのままで、薄型ロンジンのような特殊なものも、「預かり」ではなくすぐその場でやってくれた。ピンの交換もその場でチョイチョイ。あっという間に直してくれて、古くなってサビの入ったピンを見せてくれ、「こんな感じになっていたので抜けやすくなっていたんだと思います。ピンを1つ1つ押してみて、緩そうなのだけ新しいのと交換しました」と作業の説明もバッチリ。でもって、これまた「そんな値段でいいんですか?」というぐらい安い。工房には3人スタッフがいて、1人はお年のベテラン。あとは30代ぐらいの若手の職人が2人。ルーペを額にくっつけて(作業中は目に移動)、いかにもデキそうな感じ(笑)。ロンジンの薄型時計の電池交換には過去、毎回毎回そーとーなお金を払っていた。あれは何だったんだ。電池交換のあまりの安さと速さに驚いて、「大丈夫なんだろうか、そんなに安くやって」と返って心配してしまったのだが、ここはやっぱり、どちらかというともっと手の込んだマニアックな時計、つまり機械式時計のオーバーホールを請けていきたいんだと思う。店の紹介を見ても、地方発送の準備などしている。オーバーホール以外にないよね、これは。ちょうど連れ合いはブライトリングの機械式時計など持っている。そして、オーバーホール代にビビってあまり使っていない(笑)。オーバーホールの腕前はまだ拝見していないが、頼んでみて後悔することはなさそうだという気がしている。ブライトリングを頼む前に、調子の悪くなってきたレビュートーメンのクリケットのオーバーホールを頼んでみようか、と連れ合いが言っている。店に行ったとき、ちょうど彼が腕にはめていたのだが、「こういうのもできますか? 実はこのごろ…」と、調子の悪いところを説明したら、「あ、それは…」となぜ調子が悪くなっているのか、予想されるムーブメントの機能劣化について軽く説明してくれ、こちらが言う前から、「クリケットなら修理できますから」とモデル名をあっさり言い当てていた。小さな店の中はまさしく時計職人の工房そのもので、余計なものは何もおいていない。「お休みはいつですか?」と聞いたら、「え、あのぉ~」と口ごもって、「決めてないんです。今のところ適当」なんて、正直に言うところが、ゆる~い街・西荻の店らしくて笑ってしまった。西荻は、吉祥寺の一駅隣りだが、ディープでマニアックな店がある反面、とってもゆるい。お昼開店の店に正午に行ってもまだ開いてなかったりと、適当なところは、イタリアそこのけ。この時計修理工房も商売っ気があまりないのが心配だが、ガツガツしなくても、いいモノ・いいサービスを売ればやっていける(儲かってるかどうかは…どうかなぁ。あんまり儲けたがってる人もいない気がする)、つまり目の肥えた地元民が多いのがこのあたりのいいところ。こういう職人の店こそ長く生き残ってほしいもの。どんな時計でもすぐ電池交換してくれるだけでMizumizuとしてはかなりハッピー。心強いパートナーを見つけた気分だ。
2009.01.06
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ファントマにからめて「ぼったくり」番組呼ばわりしてしまった天知茂の『江戸川乱歩の美女シリーズ』。実際、あちこちの洋画をぼったくった作品であることは間違いないし、特に初期のころのお下劣さ、エグさ、人命軽視は呆れるばかりなのだが、明智小五郎を演じる天知茂という俳優のニヒルなキャラクター(と眉間のシワ)がすべてを救った長寿人気番組。なかでも最高傑作の呼び声が高いのは、江戸川乱歩の『黒蜥蜴』を脚色した『悪魔のような美女』。こちらが黒蜥蜴のアジト。もういきなり、『美女と野獣』のぼったくり。野獣の城にあって黒蜥蜴のアジトにないものは、気品。黒蜥蜴のアジトは、怪しげなキャバレーのよう。黒蜥蜴の趣味は、人間の剥製作り。↑は剥製にされた「美青年」。なんてたって役名も「美青年」。しかも演じているのは宅間伸らしい。その黒蜥蜴からリッチな宝石商に脅迫状が届く。狙いは20億のダイヤか!?「ダイハツ」で現場に急行する明智小五郎。『ファントマ』のファンドールがBMWのロードスターをカッコよく乗りこなしていたことを思うと、その落差にはただただ涙。宝石商の滞在先:電話は4126=よいふろ(海底温泉もある)http://www.sunhatoya.co.jp/20億のダイヤを所有しているというのに、信じられないぐらいの庶民派だ。さて、黒蜥蜴の正体を見抜いた明智だが……催眠スプレーを発射され、あっけなく逃げられてしまう。明智小五郎はいつも、コレで悪人を取り逃がしている。そして、ホテルからは、張り込んだ刑事の誰も気づかない見事な変装で逃走。黒蜥蜴はまた、見事な変装メイク、いや変装パックも披露。これで宝石商の娘になりすましている…… あまりに見事なためか、またもや誰も気づかない。事件を報道するテレビ。なんと! 「やじうまプラス」、いや「やじうまワイド」かな? とにかく吉沢アナはベテランだということを再確認。ファントマのごとく、海上へ逃亡する黒蜥蜴。しかし、乗ってる船には眼を疑う。ただの作業船では? おまけに相当くたびれて汚い。なのに、あたまに冠をのっけて、ひとりゴージャスに着飾る黒蜥蜴。数々のワンパタな展開を経て、いよいよ明智に追い詰められ……指輪に仕込んだ毒をあおる黒蜥蜴。実はこの場面はすべて、ジャン・マレー主演の『ルイ・ブラス』のぼったくり。あんまり堂々と同じなんて、初めて見たときは心から驚いた。明智小五郎はいまだかつて、悪人を生け捕りにしたことがない。毒を飲んだ黒蜥蜴に、愛の告白をされる明智小五郎。寅さんなみのワンパターンなエンディング。黒蜥蜴は接吻を要求。毒を飲んだ唇を避ける、案外小心者の明智。黒蜥蜴の死に顔はグレタ・ガルボ(『椿姫』)+ジャン・マレー÷2といったところか?出ずっぱりの特別出演小川真由美。-完-【◎メ在庫30台以上 】悪魔のような美女 江戸川乱歩黒蜥蜴 【日本映画】 KINGRECORD KIBF-3161
2008.05.15
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<先日のエントリーから続く>ローラン・プティがルドルフ・ヌレエフと初めて出会ったのはウィーン。ヌレエフが故国を捨てる数ヶ月前のことだった。プティもヌレエフも同じ芸術祭に招かれ、それぞれのバレエ団の主宰者と専属ダンサーとして参加していた。アプローチをかけてきたのは、ヌレエフのほう。プティは宿泊先のホテルを伏せていたのだが、ある日、終演後にプティの後をつけてきたソ連(当時)人のダンサーがいた。彼は自己紹介すると、満面に笑みを浮かべてプティのバレエを賞賛し、ヘタな英語で、「またお会いしましょう」と言った。ヌレエフはフランスで亡命。プティはニュースで彼の顔を見て、それが数ヶ月前ウィーンで自分に会いに来た若者だということに気づいた。天才ダンサーはロンドンに渡り、マーゴ・フォンテーンの相手役として一世を風靡し、その名声は瞬く間に世界中に広まっていった。彼が出現する前は、バレエはまだまだ一部のブルジョアのための芸術だった。だが、ヌレエフがバレエ人気を真に大衆的なものにした。これまでバレエとはまったく縁がなく、何の関心も示さなかった田舎の主婦までが、フランク・シナトラやエルビス・ブレスリーを語るように、ヌレエフの噂話をし、ヌレエフに夢中になった。公演先でたびたび起こすスキャンダルも、ヌレエフのアイドル化に拍車をかけた。プティが聞くヌレエフについてのニュースといえば、カナダで警官のズボンに手を突っ込んだとか、コールドバレエのダンサーに暴力を振るったとかいった、よからぬ話ばかりだった。ルックスだけで言えば、ヌレエフには際立ったところはなかった。だが、ひとたび捉われてしまうと、抜け出せなくなる魅力があった。やがてプティは、そのことを身をもって知ることになる。ヌレエフと自分のために新作バレエを作ってほしいとプティに依頼に来たのは、フォンテーンだった。プティはロンドンに向かうが、最初のうち仕事はうまく行かなかった。いや、プティとヌレエフは仕事の面では終生軋轢を繰り返している。要するに振付師プティとダンサー・ヌレエフは、本来あまり相性がよくなかったのだろう。プティのバレエはしばしば見るが、洒脱でいかにもフランス的なプティの作品を、「ヌレエフが踊ったら」と考えても、あまりしっくり来ない気がする。このときプティは心身のバランスを崩し、いったんフランスに帰国する。疲れたプティを癒してくれたのは、妻のジジ・ジャンメールだった。ほどなくモチベーションを取り戻したプティは、再びロンドンに向かい、彼より14歳も若いスーパースター、ヌレエフに合わせ、彼の気に入るような振付をした。つまり、振付師プティはヌレエフに対しては、最初から妥協したのだ。とにかくヌレエフは踊りに関しては、このうえなく頑固で、石頭だった。プティの指示を素直には聞かない。プティ「今のところ、3回繰り返して踊れるかい?」ヌレエフ「できるかよ。せいぜい1回だね」↑いちいちこんな感じ。このときは、プティが怒って立ち去ると、翌日ヌレエフのほうが折れてきた。こうして2人は衝突を繰り返しながら、徐々に互いの距離を縮めていく。そんな折、プティの母親がロンドンにやって来た。慣れない外国で仕事をしている息子の食事の面倒を見るためだ。ところがプティの母親は、1人で夕食をとるハメになった。そのころ、ヌレエフは車を手に入れており、朝プティを迎えに来て、夜は家まで送ってくれていたのだが、プティはいったん帰宅しても、母親の手料理は食べずにまた出かけてしまう。実は、送ってくれたヌレエフと再び外で落ち合い、一緒にロンドンの夜の街を遊び回っていたのだ。母親は数日で帰国してしまった。それからのプティとヌレエフは、ますます離れがたくなり、朝から晩まで一緒に過ごし、プティがヌレエフの家に泊まることもしばしばになる。「私の魂は彼によって稲妻に打たれたような衝撃を受けた」と、プティは『ヌレエフとの密なる時』に書いている。プティを驚かせ、ある意味で呆れさせたのは、ヌレエフの乱れきった夜の私生活だった。彼はプティをさまざまないかがわしい場所に案内する。ヌレエフは精神的な欲求を抑制することのほとんどない性格だったが、肉体的欲望に関しては、輪をかけて素直で、ブレーキをかけることは皆無だった。彼の一夜の愛人になることはまったく簡単で、ヌレエフにとってそれは、手を洗う程度の意味しかもたなかった。ロンドンでプティとヌレエフのコラボレーション第一作となったのは、『失楽園』というバレエだったが、ゲネプロのころには、ダンサーのヌレエフが勝手に振付を変えてしまい、もはやプティの作品とは言いがたいものになっていた。初日の夜、心配するプティに対して、ヌレエフは、「心配ないよ。今日はもう3回もヤったから、僕は絶好調」などと言って、プティを赤面させる。作品はプティのものではなくなっていたが、公演は大成功だった。1960年代の終わり――このころのヌレエフはまさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。どこで何を踊っても観客は総立ちで大喝采。ヌレエフはどんどん仕事を増やし、70年代に入ると、年間250回に及ぶ公演をこなすようになる。舞台に立つ時間は750時間。それはつまり、その2倍以上の時間を練習とリハに費やしていることになる。ヌレエフはまさに、暴君のように肉体を酷使していた。公演を終えるとお付きのマッサージ師が始めるのは、ヌレエフの身体に巻かれた数十メートルにおよぶ粘着テープを引き剥がすことだった。ヌレエフの情熱は、バレエだけに向けられており、それはほとんど宗教的なものだった。どれほど放埓な夜を送ろうと、朝10時には必ず稽古場に来て、基礎からの練習を怠りなく繰り返す。だがプティは、ヌレエフの公演回数が多すぎると感じていた。事実、ヌレエフの舞台は、次第に質にムラが出るようになる。プティがそれをヌレエフに指摘すると、ヌレエフは激怒して暴れた。2人の間にはっきりと亀裂が入ったのは、新作バレエ『オペラ座の怪人』(マルセル・ランドウスキー作曲)を準備しているときだった。最初の予定では、ダンサー・ヌレエフがこの新作バレエに割く時間は6週間だった。振付師のプティにとって、新作の準備期間としては、それでも短かった。 ところが、多忙をきわめるダンサーの都合で、6週間は5週間に、そして4週間に、しまいには2週間になってしまった。業を煮やしたプティは、ヌレエフとの間に入っているエージェントに、長編バレエをこのような短い期間で創作するのは無理だと伝えた。すると、ヌレエフは忙しい公演のスケジュールをぬって、遥か彼方から飛行機でプティのもとに飛んで来た。だが、もちろんプティの言うことを素直に聞くタマではない。わずか1時間の話し合いで、「それなら、別のダンサーに躍らせろよ。僕なら1週間もあればできるけどね」と捨て台詞を残して、流れ星のように去ってしまった。プティは、ヌレエフについて、「ジュピターのように移り気」だが、同時に「ジュピターの妻ユノのように貞淑」だったと書いている。新作バレエの話が流れたとはいえ、2人はプライベートでは友人であり続けた。プティが病気で倒れたときは、毎週金曜日の夜に電話をかけてきて、「君がそうしてほしいなら、明日飛行機で君のところいって、一緒に週末を過ごすよ」と言ってくれた。一方で、こんな話もしている。「チューリッヒでさ、公演の後、すぐに寝る気になれなかったんだ。ぶらぶらしていたら、好みのタイプに会った。ホテルに連れて行けなかったから、湖の広がる茂みで愛し合った。すばらしく衝撃的だったよ」プティという人は、ヌレエフにこういう話をされると、非常に気になるのだ。数ヵ月後、チューリッヒに行ったプティは、わざわざそのホテルの近くを歩き回り、「湖の見える茂み」を捜したりしている。結局、「できそうな」場所は見つからなかった。なので、プティは、「あれは作り話かな?」などと思いをめぐらしている。そう、プティはヌレエフに夢中だったのだ。プティはたとえば、俳優のヘルムート・バーガーのように、ドン・ファンのリストならぬヌレエフのリストに名を連ねるつもりはなかった。プティの望みは、ヌレエフにとって「唯一の存在」になることだった。つまり、ヌレエフから「最高の振付師」と言われたかったのだ。だが、ヌレエフはずいぶん長い間、別の振付師に心酔していて、プティの前でも彼のことを褒めちぎってプティをウンザリさせていた。仕事では軋轢があったとはいえ、プライベートでは続いていた2人の関係。そこに壊滅的な亀裂が生じる事件が起こる。場所はニューヨーク。メトロポリタン歌劇場でプティが、マルセイユ国立バレエ団の引越し公演を行ったときだった。<続く>
2009.05.29
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ジャン・ジャック・アノー 監督作品の中では、『薔薇の名前』よりも、『愛人/ラマン』よりも、『セブン・イヤーズ・イン・チベット』よりも、『スターリングラード(Enemy at the Gate)』が好きだ。この作品、舞台は第二次世界大戦下、史上もっとも悲惨な市街戦となったスターリングラード攻防戦なので、典型的な戦争映画と思いきや、大河なる歴史の流れよりもむしろ、個人の感情の動きにスポットを当てたヒューマンドラマで、愛国バンザイでも反戦マンセーでもない。いかにもフランスの知識層による演出らしい、アナーキーな思想が滲み出た物語になっている。とはいえ、戦争映画の大作らしく、大規模な空爆や、狂気の銃撃戦を含めた死者累々の地上戦など、カネかけた迫力ある戦闘シーンも当然大きな見どころになっている。スターリングラードの「赤の広場」の噴水の情景は、ぞっとするほどリアルだ。だが、『スターリングラード』で一番興味深かったのは、ヴァシリ・ザイツェフ(ジュード・ロウ)と宿敵ケーニッヒ少佐(エド・ハリス)、それにヴァシリの同志ダニロフ(ジョセフ・ファインズ)の3人の男たちの人間模様。ヴァシリとダニロフの友情を破綻させることになる、才色兼備のターニャ(レイチェル・ワイズ)の存在感も光った。ヴァシリは、ウラルの山育ちの羊飼い。幼いころから羊の番をする都合上、必要に迫られて狼を撃つことで銃の腕を磨いてきた。戦場でヴァシリに出会った文才のある青年将校ダニロフは、ヴァシリの卓越した射撃の腕に驚き、戦場のヒーローに仕立て上げて、国威発揚に利用しようと画策する。ヴァシリに将校を次々と射殺され、さらにはそれをネタにしたソ連の宣伝工作にも煮え湯を飲まされたドイツは、ヴァシリを暗殺すべく、超一流のスナイパーをスターリングラードに送り込んでくる。それがバイエルン貴族のケーニッヒ少佐。生まれも育ちも対照的なヴァシリとケーニッヒ少佐。映画での初登場シーンが、そのすべてを語っている。ヴァシリは、他の多くの兵士と一緒に、鉄道の狭い貨物車両に、モノのように積まれて戦場に運ばれてくる。外から鍵をかけられた、ぎゅうぎゅう詰めの列車内では、兵士たちは立ったまま、ほとんど身動きさえできない。そんな中で、青年ヴァシリは、まるでロマンチックな出来事を待ちでもするかのように、遠くを見つめている。列車が青年兵士たちを運ぶのは、地獄のような激戦地なのだが、その運命を誰もまだ知らない。車両に日が差してきて、青年ヴァシリの瞳を美しく輝かす。ケーニッヒ少佐の初登場シーンは、太陽がとっくに沈んだ夜。シャンパンをテーブルに置いた豪華な専用車両に1人で乗り、戦地へ向かう。貴族然とした物腰も、ヴァシリとはあまりに対照的だ。このとき、向こう側の線路に、負傷兵を詰め込んだ車両が入ってくる。傷を負った兵士たちは、隣りの豪奢な車両に1人でゆったりと腰掛けている、いかにも階級の高い将校の姿に、当然のように注目する。すると、ケーニッヒ少佐は、無造作に窓のカーテンを降ろして、彼らの視界を遮ってしまう。そこには、何の同情も共感もない。下々の人間には一切の関心がない、いかにも心冷たい貴族的な態度だ。ヴァシリは自分を暗殺すべくやってきたドイツ人将校の射撃の腕前が、自分をはるかに凌ぐものであることに、すぐに気がつく。「5歳ですでに狼を射殺した」などという、誇張されたエピソードで世紀のスナイパーに仕立てあげられたヴァシリだが、所詮は羊飼い。もともとは「工場で働きたいなぁ」というささやかな夢をもった、田舎の労働者階級の息子に過ぎなかったのだ。ヴァシリは、ちょうど羊を狙う狼のように向かってくる敵や静止している敵を撃つのには長けていたが、ケーニッヒ少佐の腕はそんなレベルをはるかに超えていた。建物から建物へ飛び移ったわずか一瞬を狙って、同志を一発で射殺されたヴァシリは、「あんな腕前は見たことがない」と全身を震わせて恐怖する。まともにやりあって勝てる相手ではない。ヴァシリは、自分を無敵のヒーローに祭り上げた同志ダニロフに、その苦悩をぶつける。最初のうちは、有名になったことを単純に喜び、有名にしてくれたダニロフに感謝していたヴァシリだったのだが…ダニロフに、無敵のスナイパーとしてではなく、ただの一兵卒として戦いたいと訴えるヴァシリ。だが、ヴァシリにはもはや、その道は許されない。この作品、大作なのだが、微妙な小技も効いている。ケーニッヒ少佐が捨てていったタバコを拾って、吸ってみるヴァシリ。少佐愛飲のタバコは、フィルター部が金の巻紙になっている、めったに見ないようなお高そうなモノ。ゆっくりと吸い止しを唇ではさむヴァシリ。このときのジュード・ロウのアップは、なぜか場違いに淫靡な雰囲気(カントク、狙ってますね)。自分とは縁のない上流階級の味は気に入らなかったようで、吸ったとたんに、「なんだ、こりゃ」と言わんばかりに、すばやく口からタバコをはずすヴァシリだった。やがて、ヴァシリとケーニッヒ少佐は、戦況などそっちのけで、互いを仕留めることしか眼中になくなっていく。国対国の壮絶なはずの争いが、いつしか男と男の決闘の陰に押しやられ、ウラルの羊飼いとバイエルンの貴族にとって重要なのは、自分の国がスターリングラードでの戦闘に勝つことではなく、自分自身が相手を倒すことになっている。銃を構えたジュード・ロウのアップは、もちろん麗しいのだが…そんな彼も、ケーニッヒ少佐演じるエド・ハリスの圧倒的な存在感の前では、しょせん青二才か? 自分の息子に対しては深い愛着を垣間見せる一方、敵国の貧しい少年は利用するだけ利用し、ためらいもなく冷酷に惨殺する偏った人間性も、ケーニッヒ少佐の特殊な育ちを強く意識させる。だが、ケーニッヒ少佐は、本来なら負けるはずのない相手に敗北し、時代とともに没落する貴族階級さながらの運命を辿ることになる。普通ではかなわない相手との闘いに命を懸けているヴァシリだが、戦場に咲く一輪の花のようなターニャとの間に、熱いロマンスが芽生える。ところが、ターニャには同志ダニロフも横恋慕。ヴァシリとは親友といっていいほど仲がよかったダニロフなのだが、ターニャがヴァシリに思いを寄せていると知ると、あっけなく友情は放り出して、ガクのないヴァシリを蔑み始める。ターニャに、「ヴァシリなんてさ~、射撃の腕がいいだけのバカな羊飼いじゃん。あんなヤツはさ、いずれはお役ごめんで死ぬことになっているの。ボクとキミはさ、インテリゲンチャよ。戦争終わっても役立つ人材だろ。ボクらは教育受けてるしさ、無学なヴァシリなんかとは、違った使命をもった人間なんだよ。だからボクらがくっつくほうが正しいの!」とまあ、そこまではさすがに言ってないが、それに近い選民思想をチラつかせ、ターニャを口説く。もちろん、こんなこと言うオトコは振られることになっている。ターニャは、ダニロフ無視のヴァシリ一筋。他の兵士たちと雑魚寝のヴァシリに、大胆にも夜這いをかけるのもターニャのほう。純朴なヴァシリも燃えます。衛生状態(ついでに周囲の眼も…)モノともしないラブシーンは、さすがフランス人監督。おフランス映画のかほりの漂うシーン。向こうで口あけて寝てる兵隊さんが、なんか妙にゆるくてグッド。ほんっとこの映画、小技効いてるなぁ…ターニャに振られたダニロフは、ヤキモチを炸裂させる。ヴァシリと自分を切り離すように、2人仲良く写った写真にハサミを入れるダニロフ(案外ロマンチックなことするお方ですこと。それじゃヴァシリに振られたみたいじゃん)。ダニロフは復讐を開始。ヴァシリに反共産主義的な言動が見られると、軍本部へ密告するのだ(インテリゲンチャは、案外やることがセコい)。ダニロフの告げ口にびっくりして眼をむいている、タイピスト役のオバさんの表情がイイ。だが、最後にはダニロフはそんな醜い自分の心根を嫌悪し、命を投げ出して、ヴァシリとの友情を償おうとする。「隣人をうらやむことのない平等な社会を築こうとしても、結局のところ、羨望は人間の性。人は自分にないものを欲しがる。そして、愛に恵まれるか否かという1点だけとっても、貧富の差はどうしようもなくある」――ダニロフがヴァシリにつぶやく今際の言葉は、共産主義批判に留まらず、人間の普遍的な真実を突いている。社会体制がどう変わろうと、人が平等たりえることは決してない。だが、ダニロフが望んでも得られなかった愛に恵まれたヴァシリは、ダニロフがこれを最後と思い決めて話す「真理」をほとんど聞き流しているようでもある。ヴァシリは難解な話は理解しない。ヴァシリが激しい反応を見せるのは、人の生き死にかかわるときだけだ。自殺に等しいダニロフの死は、図らずも、知識階級のもろさと労働者階級のたくましさをあらわにする。この映画、最後は、死んだと思っていたターニャを病院でヴァシリが見つけ出して寄り添う、優しくもロマンチックなカットで幕切れとなる。ダニロフは死んだが、愛し合う2人は生きている。ヴァシリとターニャの純な愛の美しさと同時に、愛そのもののもつエゴイズムも、そこはかとなく感じさせる大人の演出。大掛かりな戦場のシーンはハリウッド的だが、筋書きに漂う哲学はいかにもフランス的。主役のジュード・ロウも準主役のジョセフ・ファインズも全然ロシア人に見えない。『スターリングラード』の無国籍的な味わいは、Mizumizuにとっては欠点ではないが、伝説の狙撃手ヴァシリ・ザイツェフに思い入れのあるロシア人から見たら、違和感アリアリの映画かもしれない。
2009.05.14
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萩尾望都に漫画家になることを決心させた手塚治虫の『新選組』。作家の藤本義一も好きな手塚作品にこれを挙げていた。萩尾望都は分かるとして、藤本義一が『新選組』を選んだのは意外。ただ、藤本氏は『雨月物語』の現代語訳をやった作家…と考えれば、少しつながるかもしれない。で、今日はちょっとしたトリビアを。現在、手塚治虫『新選組』を原案とする『君とゆきて咲く』が放映中だが、主人公の名前、深草丘十郎。この丘十郎というネーミング、おそらくはあるSF作家から来ている。それは海野十三。日本のSFの始祖の一人と言われている作家だ。手塚治虫は『のらくろ』の田河水泡と海野十三を「ボクの一生に大きな方針を与えたくれた人」だと書いている(『手塚治虫のエッセイ集成 わが思い出の記』立東社より)。海野十三には別のペンネームもあり、そのうちの1つが丘丘十郎なのだ。少年手塚治虫は海野十三の小説を寝食を忘れて読みふけった経験があるという。海野も大阪で頭角を現してきた青年漫画家、手塚治虫のことは知っていて、妻に、「自分が健康だったら、この青年に東京に来てもらい、自分が持っているすべてを与えたい」と語っていたという(中川右介『手塚治虫とトキワ荘』より)。海野は1946年ごろから結核にかかり、1949年5月に51歳で死没する。手塚治虫+酒井七馬の『新宝島』発売が1947年1月。1947年に『火星博士』、1948年に『地底国の怪人』と『ロストワールド』。『メトロポリス』が1949年9月だから、海野が読んでいたのはおそらく『ロストワールド』まで。手塚治虫と海野十三には個人的なやりとりは何もない。それでも海野は、手塚治虫という青年漫画家が自分の影響を受けていることを作品から読み取ったのだろう。手塚治虫が医師国家試験に合格し、東京のトキワ荘を借りるのが1952年。海野が亡くなって3年後だ。もう少し海野が生きていたら、二人の対面もなっていただろう。1950年前後の日本に、SFという言葉はない。SF作家と呼べる人もほとんどいなかった。星新一や小松左京が出てくるのはもう少し先の話だ。手塚作品と海野作品の共通点については、Mizumizuは海野作品を読んだことがないので語ることはできないが、タイトルが、明らかに海野十三オマージュだと気づく作品が多い。『日本発狂』(手塚)『地球発狂事件』(海野)のように。もっとも、猫が重要な役割を果たす手塚作品『ネコと庄造と』のタイトルは、『吾輩は猫である』なんて目じゃないほど猫の生態に精通した作品『猫と庄造と二人のをんな』からだから、手塚治虫という人の博覧強記ぶりには驚かされる。いや、『猫と庄造と二人のをんな』と『ネコと庄造と』は、全然似ているところはない作品なんですがね、話の内容は。ただ、谷崎潤一郎という人の猫に対する愛情と理解の深さは、夏目漱石なんて足元にも及ばない。というか、夏目漱石は明らかに人間に興味はあっても、猫については無知だ。話を手塚版『新選組』に戻すと、この作品、テレビドラマが始まってから初めて読んだのだが、なかなか面白かった。萩尾望都と『新選組』については、このYou TUBE番組が面白い。https://www.youtube.com/watch?v=Z1q21iHz-Y4Mizumizuが惹かれたのは、その様式美。花火を背景にした一騎打ちはそのクライマックス。そのほかにも、下からアングルで描いた橋の下での魚釣りとか、上からアングルで見た階段での襲撃とか面白い構図があちこちに出てくる。物語として惹かれたのは、あまりに「語られないエピソード」が多すぎて、逆にこちらが二次創作してしまう点。例えば、大作は、人並みはずれた剣の技を持ちながら、なぜああも虚無的なのか。彼はおそらく死に場所を求めてスパイとなった(と、頭の中で妄想)。そして、ワザと丘ちゃんに負ける(と想像)。親友の手にかかって死ぬことを選ぶまでに、彼の前半生に何があったのか。長州のスパイだというから、吉田松陰の薫陶を受けたのかもしれない。だが、志を抱いた倒幕の志士と考えるには、彼はあまりに傍観的だ。過去が何も語られないからこそ、自分でそのストーリーを補いたくなる。ここは是非、萩尾望都先生に鎌切大作を主人公に、その生い立ちから丘十郎との出会い。出会ってからの彼の心の揺らぎを描いてほしい。丘十郎の純粋さが鎌切大作の内面をどう動かしたのか。ある意味、大作は丘十郎の純粋さに命を奪われるのだから。丘十郎に海外留学の手筈を整える坂本龍馬のエピソードは、あまりに飛躍しすぎだが、もしかしたら坂本がフリーメーソンと関わりがあったというのがこの突拍子もない展開の背後にあるのかもしれない。そのあたりも語れそうだ。手塚治虫はあとがきで、「時代考証メチャクチャ」「異次元の新選組」と言っているが、時代考証完全無視の異次元時代劇は今大流行りなので、手塚治虫がその元祖だったということか(笑)。あまり人気が出なくて途中で打ち切ったという手塚『新選組』だが、全集を見ると、それなりに版を重ねていて、不人気作品とも思えない。なにより1963年の作品が、2020年代になって歌舞伎になったりドラマになったりしている。ドラマ『君とゆきて咲く』もイケメンがダンスする、異次元・新選組になってる。将来的には、こうした「特別な友情」にキュンキュンする層をターゲットにした、ミュージカルにもなるかもしれない。新選組 (手塚治虫文庫全集) [ 手塚 治虫 ]
2024.05.04
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4月に流れた「浅田真央がブライアン・オーサーにコーチを打診した」という噂。結論から言うと、これについては先ごろオーサー自身が「彼ら(浅田真央本人を含めた事務所)からの(オファーは)まったくなかった」と明確に否定した。http://www.nicovideo.jp/watch/sm11881670この動画の4:00あたり。「オファーはまったくなかった」。なるほど。だが、それならば4月に「噂」が流れた時点でオーサー自身が公けの場でそう言えば、今になってまたこの話が蒸し返されることはなかったはずではないだろうか?まったくなかったオファーの話が、「決別の1つの原因」などと言っているキム・ヨナ事務所が、では、一方的にデタラメを言っているのだろうか?もちろん、その可能性もある。反日感情の強い韓国で、あえて浅田選手の話を間接的に(つまり、名前を出さずに)持ち出すことで、この後味の悪いコーチ解任劇に対するキム・ヨナへの批判をかわそうとした、のかもしれない。だが、オーサーの態度も変だ。「噂」が流れた時点で公式に即座に否定しなかったこともそうだし、動画のインタビューで答えている、「噂」後のキム・ヨナに対するメールも不自然ではないだろうか?動画インタビューでオーサーは、キム・ヨナへの「噂」と題したメールで、「噂は聞いたと思うけど、アタシにはアナタが一番だから。アナタだけを優先させるから」と書いたと言っている。なぜこんなもってまわったような思わせぶりな書き方をするのか? 「噂はまったくのウソよ。オファーなんてまったくなかったわ」。これでいいはずだ。「メイン・プライオリティはヨナだから」・・・これでは、「オファーはあったのよ。でもね、アタシにはアナタが一番。アナタだけよ。だから早くアタシと練習しましょうよ」、そんなプレッシャーをかけたメールと取れないでもない。少なくとも、キム・ヨナにとって一番の関心事であろうはずの、「本当にオファーがあったのかなかったのか」について何も言わないのはおかしい。そもそも4月の時点での噂の出所はオーサーサイドなのだ。浅田選手サイドはこの噂をすぐに否定している。http://www.nikkansports.com/sports/news/p-sp-tp0-20100425-622183.html真央、ヨナの元コーチにオファー報道否定バンクーバー五輪フィギュアスケート女子銀メダリスト浅田真央(19=中京大)のマネジメント会社は24日、浅田側がカナダ人のブライアン・オーサー氏(48)にコーチ就任のオファーを出したとする23日の韓国での報道を否定した。同氏は、浅田のライバル金妍児(韓国)を同五輪金メダルに導いていた。浅田の担当マネジャーは「根も葉もない話。なぜ韓国でそのような話が出たのか分からない」と話した。 浅田陣営は、最近2シーズン師事したタラソワ氏に代わるコーチを探している。一方の金は、現役続行かプロ転向か未定。そんな状況で降ってわいた、オーサー氏へのコーチ就任打診の話に、同マネジャーは「日本スケート連盟の方からも問い合わせがあったけど『そんな日本と韓国の仲が悪くなるようなことはしない』と答えた」と話し、今後の打診の可能性についても否定した。 2010年4月25日8時42分だが、この「否定」コメントは、英語圏にはまったく伝わっていなかった。英語でプレスリリースを出さないのだから当然と言えば当然だが、このあと、米タイム誌の「世界で最も影響力のある100人」に、圧倒的な韓国からの組織票を得て選ばれたキム・ヨナは、ロイターとのインタビューで、「オーサーがライバル選手からオファーを受けたという話があるが」と水を向けられ、「オーサーが他の選手のコーチをするという話はウソだということを私は知っている。他の選手はコーチと多くの問題を抱えているが、私が今日あるのはオーサーのおかげだと思っているし、そうした信頼関係で結ばれている」と答えていたのだ。The stories that have been going around that Brian Orser will coach another athlete, I know to be false. Other athletes have many troubles with their coaches, but I think I was able to get where I am now because Orser and I had that relationship of trust.''円満を強調した(ついでに、浅田選手を含めたOther athletes はコーチと問題が多いなどと余計なことまで言っている)この英語圏でのインタビューは5月だったのだが、今になって「オーサー・コーチとは5月から他の選手からのオファー説でギクシャクしていた」「4年間、まったく問題がなかったわけではない」などと、態度を180度変えて非難合戦を繰り広げているのだ。するとオーサーが今度は「オファーはなかった」などと、今頃になって全面否定。まさに狐と狸の化かしあいのような話だ。もう1度、話を4月の「噂」が出た時点に戻そう。浅田選手は否定をした。だが、その後、オーサーサイドから韓国メディアに、「あれは浅田本人からの正式なオファーではなかったが、あくまで間接的な申し出だった」という話が流れたのだ。韓国紙は、今でもこの線で報道している。http://www.chosunonline.com/news/20100825000013ATスポーツによれば、キム・ヨナとオーサー氏の関係は今年5月からギクシャクしていたという。5月といえば、オーサー氏がキム・ヨナのライバル、浅田真央側から間接的にコーチのオファーを受けていたといわれる時期だ。 http://www.chosunonline.com/news/20100826000047(オーサーは)、浅田真央については「コーチのオファーを受けたことはあるが、断った。浅田を指導するつもりはない」と語った。さらに尾ひれをつけているメディアもあるようだ。http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0825&f=national_0825_053.shtmlキム・ヨナとコーチの決別、「理由は浅田真央?」-韓国メディアそれ以上に注目を集めているのは決別の背景だ。AI SPORTSは「オーサーコーチとは5月から、他選手のコーチオファー説で関係がこじれていた」と決別の背景を説明。そして、キム・ヨナ選手は6月から一人で訓練を行っており、8月に空白期間を設けることでオーサーコーチと合意していたと主張した。 韓国メディアは、AI SPORTSの指す「他選手」とは浅田真央選手のことだと指摘。「キム・ヨナ側が示した不快な関係とは、浅田真央のコーチ提案説とみられる。真央側は、今年初めから絶えずコーチの提案を行っていた」と伝えた。複数のメディアが、キム・ヨナ選手とオーサーコーチの決別には4月に「浅田真央側がオーサー氏にコーチへの就任を提案した」と報道されたことが背景にあるという趣旨の報道が相次いでいる。 いやはや・・・ 動画で見るように、「浅田からのオファーはあったのか」という質問に対し、オーサー自身が、「まったくない」と答えているのだから、それが真実ではないだろうか? ところがいつの間にか、「間接的にオファーを受けていた」から「コーチのオファーを受けたことはあるが、断った」になり、「真央側は、今年初めから絶えずコーチの提案を行っていた」という話にまで膨らんでいる。まるでキム選手の「練習妨害」発言のときの騒ぎのようだ。キム選手の発言を、韓国メディアが大々的に、あたかも日本選手が邪魔をしているかのような動画まで編集して伝え、騒ぎが大きくなって日本のファンが怒り、連盟が重い腰をあげて抗議すると、今度は、キム選手が、「日本人とは言っていない」「メディアが勝手に報道したことだから、私はもうこれ以上コメントしない」などと言い出した。その「自己の目的のためにはスポーツマンシップをかなぐり捨てたかのような態度」に、日本でのキム・ヨナ人気は一挙に凋落したのだ。キム選手の熱烈なファンであることを公言してはばからなかったなかにし礼氏でさえ、「とても残念。決してフェアではない」と批判した。キム選手のような態度を日本人選手がとったら許されるだろうか? いやそもそも、決められた人数で行う練習、自分1人のためのものではないリンクで「練習を妨害された」「ここまでやるのかと思った」などと、いち選手が公けの場で発言するのを許すコーチがいるだろうか? 日本人のコーチは「礼儀」に非常に厳しい。山田コーチが伊藤みどりを育てていたとき、「成績がよくなると、練習のときに他の選手に対して態度が傲慢になってくる。それは厳しく戒めた」と言っていた。今回もキム・ヨナ側は、「浅田真央」とは言っていない。「ブライアン・オーサー・コーチとは5月から他の選手からのオファー説でお互い不便な関係が続き」というのは、「(実際にはない)オファー説を流したオーサーに不信感が募った」と読めなくもない。だが、一般には、「オーサーとの間に、浅田真央が割り込んできたために、順調だった関係にヒビが入った」と解釈するのが普通だろう。まさか、「あれはジュベールのこと」などと言うわけにもいくまい。その「解釈」を勝手に発展させて尾ひれをつけるカタチで、韓国メディアが連日派手に報道しているのだ。<続く>
2010.08.26
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エスプレッソマシーンを買ったのが、ほぼ3年前。どんなのがいいのか見当もつかなかったので、とりあえず、安かったポルトガルのブリエル社ファーストクラスを選んでみた。以来、ほぼ毎朝お世話になっている。ボタンとランプのそばに用途を示す(?)絵文字が書いてあったのだけど、だんだん取れてきてしまった(笑)。まあ、使っていればわかってくるから消えてもどうということはないが…入れ方はごく簡単。背面のプラスチックボックスに水をいれて、まずはコーヒーを入れずにセット。ランプがついたら湯通し開始。これでカップがあたたまったら、コーヒーの粉を入れて、上を平らにする。コーヒーの粉はとりあえずイリーを使ってる。味にそんなに深みはないが、泡立ちはよいように思う。これをセットして、またランプがついたら、エスプレッソ抽出開始。ランプが消えたら、すばやくカップを取り去って、できあがり(このときに、どうしてもコーヒー液がマシンの下の灰色のトレーに漏れてしまうので、トレーが汚れる)。写真でもわかるように、毎回右と左で色や量が違ったりする(笑)。イタリアのポジターノで買ったエスプレッソカップ&ソーサー。思いっきりのいいブルーとレモンの絵柄はまさしくソレント半島のイメージだ。これを買った当時はまだユーロも安かった。もっと買っておけばよかったな。気になるのは後ろの水を吸い上げるホースの中に常に水がたまっていて、掃除できないこと。長い間、家をあけるときなどはどうしたらいいのだろう。今のところマメに使って、最初に湯通しして出すようにはしてるけど…というわけで、安く買ったわりにはアタリだったと思う製品。小さくて場所もとらない。エスプレッソ好きにはお奨めだ。
2007.07.17
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タイでは、もち米に甘いココナッツミルクをかけたものとマンゴーを一緒に食べるデザートがある、というのは聞いていた。マンゴー・ウィズ・スティッキー・ライス、タイ語ではカオニャオ・マムアンというらしい。カオニャオがもち米のことで、タイのもち米は、日本のそれとはまた風味が違うのだが、とても美味しい。以前「バーン・カニタ」というバンコクのレストランに行ったとき、ウエイターに勧められたのだが、確か日本円で1000円以上という、タイのデザートにしては破格に高かったので注文しなかった。日本ではタイ産マンゴーは高いが、バンコクの市場ではとても安く売られているし、それを切って、あとはもち米にココナッツミルクをかけるデザートにそれほどシェフの腕が関係するとも思えない。良質のもち米を使うにしても、1000円超というのは、いかにも日本人向け価格のような気がしたのだ。ちなみにオリエンタル・ホテルの「リム・ナーム」にも「ヴェランダ」にも、マンゴー・ウィズ・スティッキー・ライスはなかった。元来簡単なデザートだから、いつか食べる機会もあるだろうと思っていたのだが、バンコクでは案外見かけない。だが、今回バンコクからチェンマイに飛ぶためにやってきたスワンナプーム空港で、とうとう見つけた。この店にありました。マンゴーが半分だと50バーツ(150円)。1つ丸々だと100バーツ。しかし、そもそも米と果物を一緒に食べるって、ど~なのよ、と疑う気持ちもあったので、とりあえずハーフサイズで試してみることにした。一口食べての感想は… なかなかイケます。まさに、ココナッツ風味の甘いモチモチのもち米と、少しねっちりとした完熟マンゴーの組み合わせ――そうとしか説明できないのだが、もち米の甘さがマンゴーにつきものの、ある種の青臭さを消している。これなら100バーツのにしてもよかったな、というのが結論。階は違うのだが、同じ名前の店で、もう1つ試してみたのが、コレ↓中の黄色いひも状のモノは「フォイ・トーン」と言って、溶き卵を熱したシロップに落として作る。それを半分くるんでる煎餅みたいなのは、タイ語では何と言うのか知らないが、口当たりがパリッとしてない、湿気てしまった「亀の甲煎餅」のよう。あとは干しブドウとナッツのかけらが入って、10バーツ(30円)。お味は…これは、個人的には1度でいいです。フライト時間まで、なんとなくプラプラ過ごしていると、巨大な蝋細工が目に入った。猿がまたクレープをお供えしてる。ワット・ポーでも見たのだが、このクレープは何ざんしょ。そんなことを考えながら、さらにプラプラしてると、低い舞台のような台座で、タイの伝統的な衣装に身を包んだ、宮崎あおいを少しふっくらとさせたような美女がこちらに気づいて、横座りの姿勢を正座に直した。な、なに?と思わず見てしまうと、視線を絡めて、手を合わせ、こちらに向かってにっこり微笑んで礼をする。もちろんMizumizuもニッコリとご挨拶。で…それだけでした。さすが、タイ。空港に微笑み係がいるらしい(爆)。話は少し前後するが、バンコクで1泊して、朝食はできればオリエンタルの「ヴェランダ」で、ポメロ・サラダでも食べたいと思っていたのだが(「リム・ナーム」のほうは朝はやらない)、ディナーのあとヴェランダで聞いてみたら、朝のメニューは昼以降のメニューとは違うという。見せてもらったのだが、洋風のものが多く、食指が動かなかった。「ヴェランダ」は、タイ料理以外はダメだった。なので、ホリデイ・インとオリエンタルの間にあるちょっとした屋台街で朝を食べることにした。夕暮れ時には、あの排気ガスの充満するシーロム通りにテーブルと椅子を出して、現地の人たちがいろいろなものを食べている。路地を入ったところにはグリーンカレーを売る店もあって、結構賑わっていた。ところが…!それは、あくまで午後からの話だったよう。朝早い屋台街は、し~んとしていて、ほとんどの店はまだ営業していなかった。なんとか1つ開いてる麺屋を見つけて、例によって「センミー」を2人でオーダー。ここのセンミーはスープがナンプラー(漁醤)味で、ただ単にしょっぱいだけの科学調味料風味ふんだん(苦笑)。ハズレました(再苦笑)。オリエンタル・ホテルで優雅にポメロ・サラダの朝食を食べるアテもハズレ、屋台もハズレ、昼の飛行機までの時間がえらく間延びした、つまらないものになってしまった。唯一の収穫は、マンゴー・ウィズ・スティッキー・ライスは案外口に合うとわかったことだけだった。……バンコクからチェンマイへは、小一時間の空の旅。チャンマイの空港から市内へは、タクシーでだいたい120~150バーツだという情報を事前にゲットしていた。いざ、飛行機を降りて、荷物を受け取ると、タクシー紹介窓口に行った。受付のお姉さんに、「マンダリン・オリエンタル・ダラ・デヴィ」と言ったのだが、なかなか通じない。ようやく、「オ~、ダラ・デヴィ」と理解してくれ、行き先のパネルを指して言われた値段は、「200バーツ」え?結構高い。目を凝らして確かめたが、間違いなく、DHARA DHEVI 200バーツと書いてある。あとでダラ・デヴィで聞いたところによると、チェンマイのタクシーは、「タクシー・メーター」と車体に書いてあっても車内にメーターはなく(はあ? それじゃ、メーター・タクシーじゃないじゃん)、交渉制なのだが、ダラ・デヴィは市内からでも、空港からでも、200バーツと決まっているそうだ(それじゃ、交渉制じゃないじゃん)。ダラ・デヴィは、チェンマイの旧市街からだと20分ぐらいかかる辺鄙なところにあるホテル。泊まるのは、金持ち(地元民から見れば)と決まってるから、タクシーの運転手同士でカルテルを結んでいるらしい。まあ、600円だから、チェンマイの相場からすれば相当高いのだろうけれど、新宿から成田までバスで3000円も取る国からやって来た旅人から見れば十分安い。200バーツ以上請求されることはないワケで、返って気楽かもしれない。バンコクの空港のように、紹介料が50バーツ余計にかかるということもない。すぐにドライバーがやってきて、そろってタクシー乗り場へ。外は、暑い。確かに暑いが、といって、曇っているせいか、東京以上ということもない。チェンマイはもともと標高が高く、タイの中では涼しいところで、日本の沖縄ぐらいの亜熱帯気候なんだとか。そう言われれば、こんもりと濃い緑の山の風情が、なんとなく日本みたい。熱帯らしいヤシの木もあるにはあるが、バンコクよりずっと少ない。タクシーは混む市内を通らずにダラ・デヴィへ。20分ぐらいで、到着。タクシーの運転手は、いかにも「一生懸命お世辞笑いしています」というおじさんなのだが、不思議と感じは悪くない。なんとなく、日本の田舎にもいそうなタイプだった。金持ちらしいガイジンさんが来て、あまり扱いに慣れてないし、英語もうまく話せないが、必死に感じよく接しようと努めている――そんな態度。「アハハッ、アハハッ」という、冷静に見ると、かなり不自然なお世辞笑いが、ますます日本人みたい。父親のような年のおじさんに、そこまで気を使わせて、返って恐縮してしまった。
2009.07.25
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ロブションと並ぶくらい東京での「チェーン展開」が東京で目立つ、ポール・ボキューズ。高級フレンチのファミレス化に一役買ってしまっている感はあるが、新国立美術館(六本木)の、宇宙的とも言える空間デザインの「ブラッスリー ポール・ボキューズ ミュゼ」は、一度は行く価値がある。新国立美術館は、故黒川紀章の建築だが、久々に行ったら、優美な曲線を描くガラスのエクステリアや、壮大な抜きぬけの内部空間、目を奪う逆円錐形の、カフェ・レストランを支えるコンクリート構造の重量感など、「すげーな、おい」と改めて感動を覚えた。ここの3階にあるのが、ブラッスリー ポール・ボキューズ ミュゼ。半角スペースと中黒の使い方が実にめんどくさい正式名の表記だ。リヨン郊外で50年以上3つ星を守っている料理界の天才、ポール・ボキューズ。その名を冠しつつも、円形の広々としたフロアにテーブルを、これでもかとぎっちり並べて高級感を台無しにするセンスとか、良く訓練されていて落ち度はどこにもないが、みーんな同じで、いっそもうロボットに給仕させたら? と思うようなサービスとか、「お値打ちコース」には、それなりに高級感のある素材を織り交ぜつつも、それはあくまでちょこっとでメインの魚素材なんかやっぱりスズキになっちゃうありきたりぶりとか、そこここに漂う「レストランひらまつ」ぶりが、どうもリピートしたい気持ちを萎えさせる。…と、思う人が多いのかどうか、日曜日のディナーというのに、お客は数えるほど。本当に、両手の指で数えたら余るぐらいの人しか来ていなかった。ご近所の西荻の個人経営の人気レストランのほうが、よっぽど人が入って、賑わっている。やっぱり日本人は雰囲気よりなにより、「味」にウルサイ民族だな、とつくづく思う。ぎちぎちに並べられたがゆえに、虚しさ倍増の空席を横目に見つつ、予約していたおかげか、曲線を描く外壁の窓に一番近い良い席に案内される。夕暮れと呼ぶには少しだけ早い東京の景色がパノラマ的に広がって見える。都会的な高層ビルだけでなく、木々の緑も目に入り、空気の澄んだ天気の良い日だったせいもあって、素晴らしい眺めだった。今回予約したのは「ルーヴル美術館展特別ディナーコース」。前菜はフォアグラのソテーとリゾット。フォアグラのソースはモリーユ茸を使ったものだとか。この高級キノコの風味は実は、あんまりよく分からなかったが、モリーユっぽい食感が多少入り、甘辛く、日本人の口に合う濃い目の味付けになっていた。リゾットとフォアグラ―のソテーの組み合わせは大好きなので、大いに気に入る。魚料理は、ブラックオリーブの衣をまとわせたスズキのポワレで、にんにくのクロケットが上にのり、トマトのセッシュの酸味とオレンジの風味をきかせたというブールブランソースの爽やかさが、良い出来だった。ブールブランソースはフレンチの醍醐味、と思うぐらい個人的には好きで、それぞれのシェフの作る味わいの違いをいつも心から楽しんでいる。けど、結局魚はスズキだし。火入れ具合も特筆することもなく。日本のフレンチでコースを選ぶと、魚はスズキばっかりで、もう飽きてしまった。ワインは重めの白を合わせた。肉料理は牛ほほ肉の赤ワイン煮。じゃがいものピューレにムーレット(ポーチドエッグ)までついて、お上品な見た目とは裏腹にボリュームがあった。まぁ、普通に美味しかったですよ、ハイ。しかし、牛ほほ肉のワイン煮も、よくあるメニューですでに飽きている。そのうえ、赤ワインのチョイスを失敗。シラー種を使った重めのものを選んだつもりだったが、味がない。昔の、シラー種=安くてまずいワイン、のイメージだったころのシロモノという感じ。単に個人的な嗜好だが、Mizumizu的にはハズレでがっかり。デザートはジュレをのせた桃のコンポート。バニラアイスとアーモンドのチュイル。バニラのそばにはフランボワーズのソースが薄くのばしてるのだが、ほとんど見えない。日本人はフランボワーズを好まない人も多いので、好きでない人は食べないで済むような配慮なのか? と思うぐらい少なかった。最後にティーバッグ感ありありの紅茶をいただいて、会計を済ませ、エレベータで1階へ。大都会のど真ん中の六本木とは思えないぐらいガランとして人がいない。しかし、夜の灯りの点った新国立美術館は、中から外を見ても、外から振り返って建物を見ても、実に壮麗で、凛と美しかった。半角スペースと中黒の使い分けが実にめんどくさいブラッスリー ポール・ボキューズ ミュゼ。メニューを見るとアラカルトにフォアグラのソテーとリゾットもある。アラカルトだと3000円ぐらいだが、中途半端なお値打ちコースにするより、アラカルト一皿をゆっくり堪能するぐらいが、今のMizumizuには合っているのかもしれない。この得難い空間デザインを味わいに、またぜひとも家族で来たいもの。ランチだと美術館に来た人で混みそうだが、美術館が閉館したあとがこんなにすいているなら、東京の穴場と言っていいのでは?
2018.06.04
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これをやれる日本人女子シングル選手がいるとしたら、それは紀平選手だと思っていた。2018年にそう書いた(こちら)。だが、日本人女子としては初、世界をみわたしても56年ぶりという快挙をなしとげたのは、2018年当時は予想もしていなかった坂本花織選手だった。これには、ロシアの問題も絡んでいる。ロシア女子に対抗すべく3A以上の高難度ジャンプに挑んできた日本人女子選手は、ケガに泣かされてしまった。そういった背景のあるなか、自分の強みをしっかり伸ばしてきた坂本選手が3連覇という偉業を達成したのは、まさに神の配慮と言えそうだ。勝負は時の運ともいうが、自分でコントロールできない世界のことに振り回されることなく、地道に自身の道を究めていくことの大切さを、坂本選手の奇跡的偉業が教えてくれているように思う。ロシア人が坂本選手を見てどうこき下ろすかは想像できる。「私たちの選手が4回転を跳ぶ時代にトリプルアクセルさえない選手が3連覇など悪夢」「女子フィギュアが伊藤みどり以前に戻ってしまった」などなど…だが、坂本選手が長い時間をかけて磨き上げてきた世界は、観る者を幸福にする。スピード感あふれる滑り、ダイナミックなジャンプ。大人の雰囲気。ロシア製女王生産装置の中からベルトコンベヤで流れてくる、選手生命が異様なほど短いロシア女子シングル選手には、求めるべくもない魅力だ。今回の優勝を決めた要素をあえて1つだけあげるとすれば、それは連続ジャンプのセカンドに跳ぶ3Tの強さだろうと思う。これを回転不足なく確実に決められるのは、長きにわたる世界女王の条件とも言える。もちろん、それは単独ジャンプのスピード、幅、高さがあってこそだ。欠点は、やはりルッツ。これまで見逃されることも多かったが、今回のフリーではEがついてしまい、減点になった。テレビでもばっちり後ろから映されて、見ていて思わず「ギャーー」と叫んでしまった。・・・完全にインサイドで跳んでる・・・ う~~・・・ エッジがインに変わってしまう前に跳ぶことができるのだろうか、彼女? それをやろうとすると跳び急ぎになって着氷が乱れてしまいそう。といって、しっかり踏み込めば、今回のようになる。その状態がずっと続いているように見える。同じく3連覇のかかった宇野昌磨は4位という結果に終わったが、これはある程度仕方がないように思う。宇野選手ももうシングル選手としては若くはない。長いフリーで最初の高難度ジャンプで失敗すると、それが尾を引いてしまう。ジャンプ以外にもあれだけ上半身を、そして全身を使って表現するのだから、一言でいえば体力がもたないのだ。だが、宇野選手のショートは「至宝」だった。肩に力の入ったポーズで魅せる選手が多いなが、上半身の無駄な力をいっさい抜いた、それでいてスピード感あふれる滑りには驚かされる。至高の芸術品をひとつひとつ作り上げていくようなアーティスティックな表現は、ただただ息をつめて見つめるしかなくなる。こうした、「スケートとの対話」の見事さは、浅田真央がもっている孤高の表現力に通じるものを感じる。今回のショートはジャンプもきれいに決まった。宇野昌磨、完成形といったところか。これ以上はもう望む必要もないし、これまで日本シングル男子の誰もが成し遂げられなかったワールド2連覇という勲章だけで十分だ。マリニンの優勝は、当然だろうと思う。4アクセルに4ルッツ、4ループまで装備し、3ルッツのあと3Aを跳んでしまう選手に、今、誰が勝てるだろう? 鍵山選手の成長は見ざましく、すんげー4サルコウに加えて、4フリップまで来た。それでも難度ではマリニンには及ばない。プログラムコンポーネンツでは勝っているが、やはり得点の高いジャンプの難度で勝負はついてしまう。マリニンにはフリップを跳んでほしい。4ルッツ2回に3ルッツ1回。それは素晴らしいが、やはりバランスが悪い。これは他の選手にも言えることだが、ルッツとフリップを両方入れる選手が減ってきている。ジャンプの技術を回転数だけではなく、入れる種類の多さで見るようルールを変えるべきだ。以前も書いたが、ボーナスポイントではなく、すべての種類のジャンプを入れなかった場合は「減点」とするのがよいと思う。それも1点とか2点とかではなく、大胆な減点とすべきだ。すべての種類のジャンプを成功させたときのボーナスポイントとなると、なにが「成功」なのかという判断が難しくなる。Wrong Edgeを取られたら、回転不足を取られたら、それは「不成功」なのか、あるいは軽微なら「成功」とみなすのか、試合ごとの判定によって判断も違ってきてしまう。それよりも、ジャンプの偏りに減点するほうが明解だ。
2024.03.25
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買った直後のエントリーでは、「硬すぎて痛い」「腰痛再発!?」などと、まぁ、あれ読んだら、読者が買おうとは思わないだろうなあという内容だったMizumizuのエアウィーヴ評価。しかし、数か月使ってみて、かなり劇的とも言える変化が起こった。まず…硬い、痛いと思っていた「寝心地感」が変わった!今は逆にこの硬さが、非常にほどよく感じられ、時にはすうっと体が浮くような「リラックス感」が強くなることもある。そして、なんといっても大きいのが、肩こりから完全といっていいほど解放された!以前は、1日1万字ワープロソフトで入力したら、翌日は肩が重くだるかったが、今はまったくない。これはまさに劇的な変化で本人もビックリ。そして、「起きたあとのスッキリ感」が、凄い。エアウィーヴでは深く眠れる、というのはウソではないのだろうと思う。これは、西川AIRでもなかった感覚。しかも、ある程度の期間使ってやっと、「本当にそうだな」と体で実感できる感覚だ。腰痛は、残念ながら、ときどきほんの少しだけぶり返しているようでもある。だが、このごろは古くなってきた西川AIRではなく、エアウィーヴで寝たいと思うようになり、実際にそうしている。寝つきに関しては、劇的に改善されたとは思わないが、とにかく起きたときの目覚ましい「疲労回復感」は、間違いなく、これまでの寝具では味わえなかったもの。う~ん、不思議だエアウィーヴの効果。これが眠りを科学した結果なのだろうか?ポイントはやはり、「枕も一緒に買うこと」だったと思う。あまり高い枕ではなく、沈み込みも強くないので、横になって寝たときに、肩に体が「乗る」ように寝てしまうことがない。結果負担がかからない。最初は姿勢が変わるので、寝心地が悪く感じるのだが、実際には負担のない寝方に修正されているのだと思う。エアウィーヴを買う時は、枕も一緒に揃えること。これがMizumizuから購入を考えている読者へのアドバイス。
2015.05.16
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スパッカナポリは「ナポリを真っ二つに割る」という意味。山から見るとクローチェ通り(おそらく)がナポリの街を文字通り2つに切っているように見えるらしい。残念ながら、「スパッと割ったナポリ」を実感できる眺めを見ることはできなかったのだが、「造形美の坩堝」であるスパッカナポリは、もちろん歩いて堪能した。こちらはジェズ・ヌォーヴォ教会。特異なファサードに思わず足が止まる。異様な力強さで視覚に迫ってくる。そのそばにある広場。建物に囲まれた暗い路地から、いきなり明るく日の当たった広場に出るとき、ちょっとした感動を覚える。トキメキとか、解放感といってもいいかもしれない。陣内秀信はそれを「広場との感動的な出会い」と表現している。ナポリに行くなら同氏の「南イタリアへ!」を読むといい。これはとてもわかりやすく、しかも示唆に富んだ南イタリアの街と建築の解説書になっている。美術史家の著作は過去にもいろいろあったが、特に建築史家としての立場から、ここまでイタリアの街の構造と建築物のおもしろさを日本に紹介した人はいなかったのではないか。南イタリアへ!たとえば、陣内はナポリの街角の広場に立つグーリア(guglia)についても詳しく解説している。グーリアとは「尖塔」「尖頂」のことで、教会の屋根の上にある。上の写真で広場の真ん中に建っている塔がそれだ。一見「オベリスク(obelisco)」の小さいもののように見えるが、グーリアとオベリスクは起源がまったく違う。オベリスクは古代エジプトで権力者の功績などを記念するために作られた方尖柱(塔)のことだ。グーリアはあくまで、教会建築の屋根の頂上を装飾する尖った構造物。陣内によれば、ナポリでは、その尖塔を宗教的祭礼の行事の際に、祝祭のための象徴物として置いたという。それを広場のモニュメントとして恒常的に設置したのが、スパッカナポリの小広場にしばしば見られるグーリアというわけだ。だからオベリスクのような権力者の権威を示すためのものではなく、熱狂的な大衆の祭りの記憶を広場に留めて日常化させたものと解釈できるという。そして陣内は、「この装飾要素は、都市空間に舞台装置的な効果を生むのに大いに貢献している」と指摘する。確かに、庶民が片寄せあって暮らす下町の狭い路地から、ふと明るい広場に出たときに、開けた空間の中にグーリアが屹立し、そこに太陽の光が当たり、周囲に日常品を売る店やちょっとしたものを食べさせる店のパラソルが並んでいるのをみると、何か、ある舞台美術の中に入り込んだような気持ちになる。生活する人々の声が聞こえる。働く声、時間をつぶす声、楽しむ声、怒る声もしているかもしれない。こうした活気は「本番の舞台演劇」で響くセリフそのものだ。スパッカナポリの広場に足を踏み入れる瞬間、それは下町の広場という舞台に、あなたも役者の1人として出て行くということなのだ。ナポリの人はみな、こうした「舞台装置的な空間」の中で自分の人生を演じている。こちらはサンタ・キアーラ教会の中庭。マヨルカ焼きの柱とベンチが整然としつらえてある。この「舞台装置」はよく手入れされた、きわめて静謐な空間の中にある。教会の外の都市的な雑踏とはまったく別世界だ。こうした静寂と喧騒の見事なまでの対比、しかもそれがごくごく隣接して存在していることにナポリの大きな魅力がある。細部まで見ると、マヨルカ焼きの絵付けの技量自体はそれほど高いものではない。だが、それがこうして柱となり、背もたれ付きのベンチとなって大規模に計画的に設置されると見事の一言だ。日本のたとえば有田だったら、スポンサーさえいれば、これ以上の美術的な価値のある空間が作れるだろうに。このベンチはいかにも「座って休みたくなる」ような清潔感がある。だが、ちょっとでも座ろうものなら、あるいは何かを置こうものなら、眼を光らせている係員がやってきて、いちいち注意する。日本だったら看板をそこら中に立てそうだが、ナポリ的美意識ではそうした余計な「舞台装置」は排除すべきものらしい。かわりにナポリ人は、「言葉によるルール伝達」を優先させている。そうした意識はある意味、日本人とは対極にあるかもしれない。
2007.10.31
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5)ジャン・コクトー 「ジャン・マレエ」 出帆社コクトーの公式な俳優ジャン・マレー論なのだが、1950年代初めと、書かれた時期が比較的早いせいか、はたまた翻訳がよくないのか、あんまり面白くない(笑)。『ジャン・マレーへの手紙』を読むと、「友人だからよく書いたと思われないように」客観的に冷静な評論にすべく苦心しながら書いている様子がうかがわれ、そっちのほうがむしろ人間臭くて真に迫ってきたりして……私たちは最晩年までのジャン・マレーの作品をすでに観ているのに対し、1950年代初めの俳優マレーはまだそれほど、彼の能力のすべてを発揮していなかったというのも、このジャン・マレエ論と私たちの抱くフランスの大俳優ジャン・マレーのイメージとの齟齬につながっているのかもしれない。初期のジャン・マレーは、コクトーの愛人、美貌のスターというイメージだったかもしれないが、長いキャリアを通して、コメディやアクションなどの娯楽作品でも、重厚な歴史大作でも存在感を発揮できる多才な名優になっていったのだ。6)ジャン・コクトー 「美女と野獣 ある映画の日記」 筑摩書房こまかく訳注を入れるなど、翻訳者の探究心の深さに感動できる一冊。映画の日記の翻訳なのに、ほとんど研究書レベルの緻密さで作業している訳者には脱帽。ふんだんに入った映画のスチール写真も美しい。筑摩書房って質の高い翻訳本出していたんだなぁ…… 偉い出版社だ。コクトー関連本では、東京創元社もよいものを出版していると思うが、筑摩書房の本は緻密な作りこみに日本出版社の志の高さを感じることができる(あくまで、コクトー本に関して、ね)。この本でのマレーとの関係に関して言えば、コクトーが非常にマレーの機嫌を気にしているのがわかる。メイクがうまくいかずに癇癪を起こしたり、思うように撮影が進まず不機嫌になったりしているのを、コクトーは(かなりびくびくしながら)見ていたようだ。コクトーを含めて、スタッフの健康問題に悩まされた撮影だが、不思議なことに、主演女優のデイはあまり体調の面で問題がなかったよう。贅沢な女性だったので、ロケ先で泊まるホテルには大いに不満だったらしいが、撮影での苦労というのが彼女に関してはほとんど書かれていない。あの重たげな衣装とエクステンションをつけての凝ったヘアメイクを見ても、準備は大変だっただろうと推測できるが、不満やグチを言っていたようすもない。『美女と野獣』の成功はデイのプロ意識にも大いに助けられたのかもしれない。あとはコクトーの病気。マレーの自伝とあわせて読むと、いかにこの撮影がコクトーの健康を完膚なきまでに破壊したかが手に取るようにわかる。またコクトーの病院嫌いも、このときの入院がトラウマになったのかもしれない。友人たちが帰ってしまった夜、他の病人の苦しげな声を聞きながら、コクトーが恐怖心にさいなまされている様子が克明に描かれている。もともと身体の弱かったコクトーだったが、『ジャン・マレーへの手紙』を読むと、マレーがそばにいてくれることで心身ともに安定し、闘病の勇気がわくことを認めつつも、「君をぼくの看護人にするつもりはない。ぼくの望みは君が幸福でいてくれること」と書き続けた。7)ジャン・マレー 「私のジャン・コクトー」 東京創元社マレーが80歳直前に書いたコクトーとの思い出。コクトーが亡くなって30年(!)後の著作ということもあってか、マレーの中ではコクトーという存在は一種の形而上的愛の対象に昇華してしまっているようだ。若いころのオイタは忘れ、ひたすらコクトーを人生の師として崇めている。同時に、実像を離れて誤解がひろまっているコクトーを徹底的に擁護するという確固たる意思も感じられる。ただ、自伝で明かしていなかった事実について触れた部分もある。それは出会う以前のコクトーへの想い。実はマレーはコクトーに強烈に憧れていた。『地獄の機械』を見たときは、コクトーが自分に語りかけているとすら思い、「どんな犠牲を払ってもこの人に接近しなければ」と考えている。つまり、コクトーはマレーが演りたいと思う戯曲を書く作家であり、彼と出会えば自分の役者としての才能が開花するかもしれないことを、マレーはどこかで予感していたのだ。自伝ではそこまで書いていなかったので、なぜコクトーと聞いて、自発的にオーディションに行く気になったのか、ちょっと曖昧な部分もあった。つまりコクトーとの出会いは完全な偶然ではなく、マレーがある程度、「どうしても会いたい」という意志を持って会ったのだということが、この本で明らかになっている。最晩年のマレーは、コクトーが自分の演技を認め、賞賛してくれたことに誇りを感じながらも、「いろいろな役を演じたい」という自分の仕事への情熱がときに2人の時間を奪ったことに苦さも感じている。マレー自身によれば、自分はコクトーが言うようなよき天使などではなく、成功のための条件を整えようとする出世主義者だった。晩年のマレーのコクトーに対するほとんど宗教的ともいえる尊敬と愛慕の念は、そんな自分を無償の愛で常にやさしくつつんでくれたコクトーに、本来自分はもっと慎ましく仕えるべきだったという後悔の念ともあいまって、ますます強まっているようにも見える。8)桜井哲夫 「占領下パリの思想家たち」 平凡社新書タイトルどおり、占領下のパリの作家の政治的な立場を概観した研究書。コクトーと、彼の愛人としてのマレーにも触れられている。コクトーに関しては、ジュネを擁護したことで、「ジュネはコクトーの愛人(そりゃないって…。コクトーは面食いなのだ)」などと対独協力派新聞から醜聞を書きたてられたこと、それでいながら解放後、自分を攻撃した対独協力派の助命嘆願に尽力するなどコクトーの人道主義的な一面についても触れられている。このエピソードは、マレーが繰り返し主張した、「憎しみを知らず、愛することを愛した人」というコクトー像を側面から裏づけるものともいえる。9)キャロル・ヴェズヴェレール 「ムッシュー・コクトー」 東京創元社13年の長きにわたってコクトーの一大パトロンヌだったフランシーヌ・ヴェズヴェレールの一人娘のキャロルが書いた、思い出の中の父・ジャン・コクトーのプライベートな実像。キャロルはマレーに寄せるコクトーの真摯な想いを、少女らしい曇りのない眼で常に感動をもって見つめいてた。コクトーが最初の心筋梗塞で倒れたとき、マレーはアメリカにいたが、すぐに飛んで戻ってきて、コクトーの枕元から離れなかった。それを見てキャロルは初めて大スター、マレーの素顔に触れたと思う。実はキャロルは知らなかったが、コクトーの生命が有限であることをはっきり自覚したこのときから、確かにマレーはコクトーに回帰し始めたのだ。マレーはこれ以前にできていた2人の間の距離を埋めようとした。それが一方では、ジョルジュとの訣別につながっていく。コクトーの深刻な病気は、キャロルとマレーの距離も近づけた。以来、彼女は母がコクトーと絶交しても、常にコクトーのよき娘、マレーの賢い妹であり続けた。本業は映画のプロデューサーだが、マレー没後は彼の評伝も書くなど、ライターとしても知られている。この本の最後には、キャロルへのコクトーの私信も収められているが、泣いてばかりのマレーへの手紙とはうってかわって、ふざけてばかりでおもしろい。「地理のテストでびりだった君なら知ってるだろうが、ドイツって長靴の形の半島で、その先にコルシカ島という別の小さな島のある国だ」などとデタラメばっかりを教える見事な教育者ぶり(笑)。ちなみに、ドゥードゥーことエドゥアール・デルミットが、コクトーについてもマレーについても何も書いていないのが、奇妙な感じを受ける。キャロルの言うように、寝てばかりの怠け者だったせいか、まったく文才というものがなかったのか、控えめな性格ゆえなのか、ドゥードゥーの見たコクトー、あるいはマレーについては何も残っていない。ドゥードゥーは一応画家ということになっているが、今はその作品を見る機会は皆無に近い。マレーもラディゲについてはよく言及するものの、ドゥードゥーについてはほとんど何も触れていない。自伝には会話1つさえない。ドゥードゥーはコクトーの死後、すぐに結婚し、あっという間に2児の父となり(そのうちの1人の名づけ親はマレー)、フランシーヌとも和解してサント・ソスピール荘に再び出入りするようになった。スーパーエゴの持ち主ともいえるコクトーやマレーと違って、彼は平凡な、「色のない」タイプだったのだろう。個性の強いキャラクターのそばに長く留まれるのは、案外こういう人なのだ。ドゥードゥーは一時、明らかにコクトーとマレーを隔てる原因の1つにもなったが、実のところこの非凡な2人の緩衝材のような役割も果たしていたのかもしれない。ドゥードゥーは晩年は、マレーとコクトーが買い、のちにコクトーがマレーの持ち分を買い取ったミリィに住み、年上のマレーより早く亡くなっている。アメリカ人バレエ・ダンサーのジョルジュ・ライヒは、1960年に入る前にマレーとの関係を解消し、その後ベルギーの映画などに端役として出た後にフランスを去り、1960年代の半ばにはカナダやアメリカで振付師として活躍していた。1985年ぐらいまではショービジネスにかかわっていたらしいが、その後の消息は不明。生きているのか死んでいるのかもわからない。生きていれば今年82歳。映像は、プティ振り付けのバレエ映画『ブラックタイツ』のクリスチャン役ぐらいしか残っていない。昨日紹介した、マレー作・画『赤毛のギャバン*6つの愛の物語』(TBSブリタニカ)から「ミラ」の物語の挿絵。棹立ちになった馬にまたがる王女。この場面の描写は非常に美しく、そのまま映画のワンシーンになりそうなほど「猫の王さま」の物語の挿絵。昔(1939年)コクトーとマレーが一緒に過ごしたル・ピゲの町を2人で再訪したときに、「ジャン・コクトーがしてくれた話」だという。再訪したのがいつかは不明<明日は、意外と多くてビックリ、フランスで出版されたジャン・マレー評伝をご紹介します>
2008.09.13
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麻布台ヒルズの大垣書店で開催された、鈴木まもる 『火の鳥』原画展に行った(6/2で終了)。アーチ形のおしゃれな入口の先に細長い展示スペース。広くはなかったが、その分至近距離で見られるのが嬉しい。いや~、これはね、行って良かった。原画の色彩は想像以上に素晴らしい。最近は印刷技術が進んで、原画よりキレイに見えたりするのもあるのだが、鈴木まもるの微妙な色彩の美しさは、やはり印刷では再現しきれていない。特に印象に残ったのは、上の写真の一番右の上に見えるブルーのページ。絵本はもっと暗めの色で、微妙なグラデーションが暗さの中に沈んでしまっている。原画はもう少しだけ全体的に明るく、動物たちの身体のラインがしっかりと見えた。なにげに強烈だったのが、シンプルなこの作品。絵本では裏表紙に使われてる絵。眠る火の鳥の羽と巣が一体化したかのよう。それがシンプルなで線で表現されているのだが、火の鳥の身体は簡略化されている分、生きている鳥のふくよかな量感がよく出ている。そして、巣の質感。一見すると短い線をラフに描いているようで、鳥の巣の「材料」の少し硬めの手触り、そして鳥の身体から出た熱を含んだ温かさが伝わってくるよう。さらに、構図。鳥と巣以外は何もないのだが、上の空間が広いことで、広がっている空を想像させる。鳥と巣を包み込む。この絶妙な空気感…いやぁ、匠の技ですあ…。絵本ではこの空気感が出ていない。下に巻く帯と右上に印刷する定価などの文字とのバランスを考えて鳥を配置しているので、絵そのものは平面的になっている。違いますねえ…絵本の絵と原画。逆に原画を見て、印刷でもうまく再現できているなと思ったのが火の鳥の「目」の表情。表紙では人間の女性の蠱惑のまなざし…といった感じなのだが、飛び立つページの火の鳥の目は、野性的な鳥のそれ。こういう描き分けは、かなりの再現度だと再確認した。いいなぁ、鈴木版火の鳥のお目目。手塚版火の鳥は、時にめちゃくちゃ「性悪な目」になるんですよ。ひっで~罰を人間に与えるときなんて、ね。残念だったのは、展示されている原画数が少なかったこと。麻布台ヒルズでの原画展は終了したが、次は6月26日~7月16日まで千代田区神田神保町2-5 北沢ビル1Fのブックハウスで開催予定のよう。7/5にトークショー(これは大人向け)、7/6にワークショップ(お子様とどうぞ)があるという。トークショーは前回のエントリーで書いたように宝塚で参加したが、面白かったですよ。最初は手塚るみ子氏との掛け合い(?)だが、ノってくると裸足で(なぜ? 手塚るみ子氏はちゃんと靴を履いていましたが)あっちこっち動きながら鳥の巣の話をする鈴木まもる画伯。年代モノの自家製『火の鳥』(COM連載版)も見せてもらえるかも。ちなみに、ボランティアで学校の子供たちに絵本の読み聞かせをやっている友人が、さっそく絵本『火の鳥』を購入して学校へ行ったところ、手塚治虫と聞いた先生のほうが食いついてきたとか。手塚治虫『火の鳥』、さすがに日本中に浸透している。漫画『火の鳥』には早すぎる子供たちも、これからは絵本『火の鳥』がある。いい時代です。<『火の鳥 いのちの物語』原画展>日時:2024年 6月 26日(水) ~ 7月 16日(火)11:00~18:00(最終日17:00まで) 会期中無休会場:ブックハウス1階 ガリバー+鈴木まもるさん&手塚るみ子さんトークショー日時:2024年7月5日(金)18時00分~会場:ブックハウスカフェ2階 ひふみ定員:60名(店舗) 100名(オンライン) 先着順 見逃し配信あり参加料金:2000円 (絵本「火の鳥 いのちの物語」とセットで3000円)☆終了後サイン会あり+ワークショップ <火の鳥の巣をつくろう!>日時:2024年7月6日(土)①11時00分~/②14時00分~会場:ブックハウスカフェ2階 ひふみ定員 各回12組 先着順参加費 1500円(1組=小学生以下のお子さま1名+大人1名)☆終了後サイン会あり
2024.06.04
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マルチェロ・マストロヤンニとジャン・マレーの少年時代は対照的だ。『マストロヤンニ自伝』(小学館)を読むと、彼がある意味、古き良き時代のイタリアを代表するような職人の家に育っていることがわかる。祖父と父が一緒に同じ仕事をし、母親も家族の誰よりも早く起き、一番遅くに床につく働き者。そこにあるのは典型的なイタリア庶民の愛情に満ちた家庭だ。年頃になって、祖父から「道具箱をもってきてくれ」と頼まれると、そんな姿を通りがかりの近所の女の子たちに見られたらカッコ悪いじゃないか、などと考えている。マストロヤンニは11歳から教会主宰の舞台劇に出ていたが、目的は主にそこで仲間とふざけ合うこと。大きくなると女の子を冷やかしに出かけた。演劇はそんな楽しみの1つだったという。ジャン・マレーの幼年時代はそれに比べるとはるかに暗い。『ジャン・マレー自伝 美しき野獣』(新潮社)によると、彼はシェルブール生まれだが、幼いころ母が父のもとから去り、祖母、母、兄とパリで暮らし始めた。マレーは周囲が「女優さん?」と聞くほど美しい母を崇拝しており、母もマレーを盲目的に愛し、2人の「異常なまでに緊密な関係」はマレーがコクトーと出会うまで続く。マレーが幼いころ、母はときどき長いこと家を留守にすることがあった。「手を怪我した」などといって手紙さえ来ない。実はそのとき母は刑務所に入っていたということを、マレーは長じて知ることになる。マレーの母には窃盗癖&虚言癖という重大な問題があった。父と別れた理由についても、マレーにはずっと「父さんがあなたに暴力をふるったから」と説明していたのだが、それも後年まったく嘘だったとわかる。この母の窃盗癖と虚言癖は結局最後まで完全に矯正されることはなく、生涯にわたってジャン・マレーを苦しめることになる。マストロヤンニは高校卒業後、いったんローマ市役所で製図技師として働きはじめる。このころ、つまり20歳前後のころの忘れられない経験として、彼は戦時下のヴェネチア・メストレから乗った列車での出来事を挙げている。当時敵の爆撃を恐れ、列車は電気を消して走っていた。その暗い車両の中で、マストロヤンニがタバコに火をつけたところ、一瞬照らし出された彼の顔を見て、女性が近寄ってきた。そして火が消えたところで2人はキスを交わしたという。マストロヤンニはその女性の顔を見なかった。若かったのか年配だったのかも、美しかったのか醜かったのかもわからない。彼女は途中で先に列車を降りてしまった。だがマストロヤンニにとってそれは、「すばらしい体験」だったという。なんともはや、のちの「ラテン・ラヴァー」にあまりに似つかわしいエピソードだ。きっと若い美人だったよ、マストロヤンニ君。キミのお相手はいつもそうじゃないか。その後マストロヤンニは映画配給会社の経理の仕事を紹介されるが、演劇への興味を捨てきれず、21歳でローマ大学に入学し、大学の演劇センターに通い始める。並行して映画会社に売り込みを始めるが、こちらは効果なし。マレーはといえば、高校で退学処分になっている。その理由というのがふるっている。「他人を演じること」に興味のあったマレーはある平日の自由時間に、母の服を失敬して女装(!)し、仲間の妹ということにしてピクニックに出かける。そこで、引率の教師がマレーに一目惚れし、「午後中かかって」口説きにかかった(オイオイ、教師!)。それが学校にバレ、「女装なんて不道徳なことはけしからん」となぜかマレーだけ責めを負って放校になってしまう(オイオイ、学校!)。役者になりたいと決めたマレーは、10代の終わりから映画会社に自分の写真を送ったり、いろいろなオーディションを受けたりし始める。だが、誰も拾ってくれない。そこで、年鑑から演出家の名前を拾い出し、直接自分を売り込もうと決める。アポなしで訪ねたのが、マルセル・レルビエという映画監督の家だった。レルビエに「今は何をしているの?」と聞かれて、「絵を描いています」と答えるマレー。それは本当だった。レルビエはマレーの描いた絵を買うといい、代金は分割で払うからその都度取りに来いという。ところが、マレーが実際に絵を渡そうとすると、「もらっても物置行きだから」。マレーが演技を見せても、「ダメだね」と冷たい。そんなある日、レルビエはマレーをディナーに招待し、ある特殊なサロンに連れて行く。そこにはダイニングスペースの奥にもう1つ部屋があり、開いたドアの向こうに整えられたベッドが見えた。その異様な雰囲気にマレーはすっかり硬くなり、レルビエが話しかけても「はい」「いいえ」ぐらいしか答えなくなる。そのつれない態度を見て、こんどはレルビエのほうが冷淡になった(オイオイ、監督!)。レルビエはその後、自作の映画の準備をするたびに、「主役をあげる」と言ってはマレーを呼び出すのだが、結局エキストラや端役しか与えない。そこでマレーは別の演出家シャルル・デュランのもとでエキストラを始める。それを知ったレルビエは手切れ金のようないくばくかのお金と一緒に、「これで2人の勘定に決着をつけよう。君が白パンを食べられなくなったとき、君の心の恋人『演劇氏』が黒パンを食べさせないといいのだがね」などとイヤミな手紙を送ってよこしてマレーとの関係(もともと何もないのだが)を解消する。そんな時期に、マレーは街角であるポスターを見る。ジャン・コクトーの戯曲『地獄の機械』。実際に劇場で芝居を見て、マレーはすっかり魅了される。「コクトーの作品に出演できるなんて、この俳優たちはなんて運がいいんだろう!」(東京創元社『ジャン・マレー 私のジャン・コクトー』より)。このときマレーはあることに気づく。『地獄の機械』で主役を演じたコクトーお気に入りの俳優ジャン・ピエール・オーモンは、自分とほとんど同じ体形だということだ。それならば自分もオーモンのような役を演じられるかもしれない。21歳のマレーは、ジャン・コクトーと自分が「いつか出会う」と信じるようになる。コクトーに近づき、その作品に出たい。だが、そのためには演技を磨かなくてはダメだ。そう考えたマレーは、デュランのもとで練習に励む日々を送った。ちなみに映画監督マルセル・レルビエはその後、IDHECという映画学校を設立し25年にわたって校長を務めた。ここからはルイ・マルなどの著名人も出ている。俳優志望の若者にセクハラまがいのことをしていた監督が映画学校の校長とは…… なんてありがちな話なんだろう!<明日は2人の「23歳での出会い」をご紹介します>
2008.03.18
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<きのうから続く>さて、2人の私生活に話を戻すと、1946年1月に『美女と野獣』を撮りおえたコクトーは、翌月マレーと離れてスイスに近いモルジーヌで療養。このときに1944年にマレーと約束した本を書いている(このときのエピソードについては5月2日のエントリー参照)。それが内省的な批評エッセイ『ぼく自身あるいは困難な存在』。この朗読を聞いてマレーは「驚嘆した」と言っている。「ジャンを尊敬すればするほど、自分が恥ずかしくなった」(マレー自伝より)。マレーが驚嘆したこのエッセイ、のちにコクトーはその生原稿を、「ぼくたちの思い出に」といってマレーの誕生日に贈っている。モルジーヌでの皮膚病の治療はさしたる効果をあげずに終わった。1947年7月封切の『美女と野獣』が大成功をおさめると、モンパルシエ通りのコクトーとマレーのアパルトマンは、ますます訪問客が増えていった。電話や呼び鈴が鳴り続け、コクトーはほとんどまったく仕事ができなくなる。このころの2人の関係を暗示するような記述が、マレーの自伝にひっそりと書かれている。「そのころ、ジャンは修道僧のような生活を送っていた。彼ぐらいの年齢(注:このときコクトーは57歳)になると、ある種の交際(やりとり)は破廉恥でしかなく、滑稽なものになると、自ら考えていたようだ」。さて、パリのアパルトマンでの創作活動に限界を感じたコクトーは、「別荘が欲しい」と言い出す。1946年の夏、コクトーのマネージャーのポールがフォンテンブロー近郊のミリィ・ラ・フォレに司祭館のような上品なたたずまいの物件を見つけてくる。コクトーもマレーも一目で気に入った。2人にはこの別荘を現金で買うほどの持ち合わせはなかったので、借金をすることに。内装の改修をマネージャーのポールにまかせたところ、ほとんど物件購入と同等の金額を要求された。1946年8月にコクトーがマレーに送った手紙。「ポールはミリィにかかりきりですが、大変な出費です。なんとか必要なものをかき集めるべく頑張っていますが、後々どうやって暮らせばよいものやら。でもいいのです。パレ・ロワイヤル(注:モンパンシエ通りのアパルトマンのこと)で苦労しているくらいなら、ミリィを手に入れ、それで苦労するほうがずっといい」(『マレーへの手紙』より)内装工事の終わったミリィにコクトーとマレーが入居したのは1947年1月。別荘は3階建てで、3階がマレー、2階がコクトー、1階が共同スペース。家具や置物すべてを2人は「愛と友情をこめて」(マレー自伝より)一緒に選んだ。ところが、この別荘、モノを書くコクトーには天国だったが、映画のロケやパリでの舞台の仕事のある俳優のマレーには不便だった。結果、マレーはあまりミリィには来ることができなくなる。マレーは若いころから絵を描くことが好きで、時間があれば描いていた。そこでミリィをアトリエにしたのだが、『美女と野獣』以降は絵どころではなくなってしまった。さらに1947年の夏に、コクトーはパレ・ロワイヤルの画廊で22歳の画家志望の青年に出会う。レイモン・ラディゲに似た風貌のこのたくましい若者をコクトーは一目で気に入り、別荘の庭師助手にならないかともちかけ、まもなく息子として遇するようになる。それがエドゥアール・デルミット。1949年撮影の『恐るべき子供たち』で主役のポールを演じることになる青年だ。そしてデルミットが原因で、マレーはパリのアパルトマンを出ることになる。1948年のことだ。「モンパンシエ通りでは、ジャンが援助しようとする友人を手厚くもてなしていた。ジャンの部屋は狭く、それより広い私の部屋との交換を彼に申し出た。しかし彼は、私をわずらわすことを全然望まず、申し出を丁寧に断った。私は彼の生活をいっそう快適にする方法を考えた。もし私が引っ越せば、かえってジャンは苦痛だろう。そこで新鮮な空気と太陽が欲しいという口実を使った。モンパンシエ通りのアパートはパレ・ロワイヤルのアーケードの下にあったから、公園の反射光を受けるだけだった。伝馬船ならば、一時の出来心に見えると思った。小さなハウスボートを見つけ、セーヌ河の淀みに居を構えた。私の引越しは出発という雰囲気ではなかった」(『ジャン・マレー自伝 美しき野獣』石沢秀二訳 新潮社)この「援助しようと手厚くもてなしていた」友人というのが、エドゥアール・デルミットだ。こうしてマレーは、「出来心に見せて」コクトーとのアパルトマンを出て行ってしまう。コクトー自身はこのときは、マレーと自分にはミリィもあるし、またマレーと一緒に暮らせる日が戻ってくると単純に考えていた。マレーのほうもコクトーと別れるつもりはまったくなかった。だが、現実にはこれ以降コクトーとマレーはお互いのさまざま事情から、少なくとも表面上は、同じ屋根の下で暮らすことはなくなってしまう。つまりジャン・コクトーとジャン・マレーの共同生活は事実上10年で終わったのだ。マレーはセーヌに浮かんだハウスボートを「放浪者(ノマード)号」と呼んだ。放浪者号の内装は非常に豪奢で、床まですべてマホガニーと銅でできており、19世紀の船内家具がいくつもしつらえてあった。フランス中のすべての雑誌が、このジャン・マレーの新居を写真つきで掲載し、「放浪者号の装飾品のコピー」がパリのアンティークショップで売られる始末だった。マレーとコクトーは放浪者号とモンパンシエ通りのアパルトマンをお互いに行ったり来たりする生活になっていた。ちょうどそのころ、ハリウッドで華々しい成功を収めたジャン・ピエール・オーモンがフランスに帰国。コクトーに会いに来た。自分と妻のマリア・モンテスのための映画のシナリオをコクトーに書いてもらえないかというのだ。コクトーが気にしたのは、マレーだった。ジャン・マレーはもともとは、いわばジャン・ピエール・オーモンの代役としてコクトーが抜擢した俳優だった(オーモンとマレーについては、3月18日、3月19日、3月27日のエントリー参照)。いまさら自分がオーモンにかかわると、過去の話をおもしろおかしく蒸し返され、また要らぬスキャンダルの種になるかもしれない。マレーに事情を説明し、「君に迷惑がかからないかな?」と、気にするコクトー。「なぜ?」「昔のことで、また何かかや攻撃してくるぼくたちの敵がいるかもしれないからね」「気にするなって。ぼくは全然大丈夫だよ。それより、シナリオが出来たら読ませてもらえるかな」安心したコクトーは、オーモンの年齢に合わせた「詩人」のイメージで台本を執筆する。それが、『オルフェ』。今ではジャン・マレーの代表作の1つとしての評価が確定し、ほとんどマレーのために書かれたと思われている作品だが、意外にもこれは、もともとはオーモンのために作られた物語だったのだ。その主演がなぜマレーに行くのか。運命の歯車が動き出す。<明日へ続く>
2008.05.29
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<きのうから続く>ロシアが生んだ20世紀を代表する男性バレエ・ダンサー、ルドルフ・ヌレエフとミハイル・バリシニコフ。この2人の天才ダンサーが演じた『若者と死』(ジャン・コクトー原案、ローラン・プティ振付)が収録されたDVDは、日本でも出ている。2007/04/01発売ローラン・プティ・ガラ/若者と死ヌレエフ版は1967年のスタジオ撮影。ヌレエフは相手役にプティの妻でもあるジジ・ジャンメールを希望した。準備期間は1週間と非常に短かかった。というより、たまたま空いたヌレエフのスケジュールを埋めるのに、この作品の撮影を選んだと言ったほうが正確かもしれない。ヌレエフ版では、若者が死んだあと部屋の壁が上がり、パリの夜景が現れるシーンは省略されている。ヌレエフ演じる若者が、絞首台となった柱で首を吊ったところで終わっている。ホワイトナイツ 白夜(DVD) ◆20%OFF!バリシニコフ版は映画『ホワイトナイツ』の冒頭にある。これは劇場で上演されている『若者と死』を編集したスタイルになっており、満員の客の入った大劇場での公演の様子をドキュメンタリー風に撮りながら、スタジオ撮影と組み合わせて、さまざまなカメラアングルを工夫した、非常に凝った演出になっている。パリの夜景が現れるシーンもある。私見だが、ヌレエフ版、バリシニコフ版、熊川版の3つの中で、もっともカメラワークが優れているのがバリシニコフ版だ。『ホワイトナイツ』の制作者による解説でも、この冒頭のバレエシーンの演出には細心かつ最大限の注意を払い、工夫を重ねたと言っている。映画の観客は、ときに映画の中の劇場の観客と同じ空間に座って一緒に舞台を眺め、ときに劇場の客席からでは望めない距離あるいは方向からバリシニコフの表情や動作を堪能することになる。ただ、バレエ作品として見ると、途中一部カットされてしまっているのが残念だが、あくまで映画の中のバレエシーンなのだから、仕方がない。バリシニコフの踊りを見ると、ヌレエフを相当に意識しているのが感じられる。バレエ・ダンサーの優劣がテクニックで決まるのであれば、バリシニコフは恐らく、ヌレエフを凌いで最高峰に位置づけられるダンサーだろう。ヌレエフが、回転動作でときどき軸がブレたり(←GOEマイナス1?・苦笑)、完全に回りきる前にフリーレッグを降ろしてしまったり(←ダウングレード?・苦笑)しているのに対し、バリシニコフはまるで精密機械のように動作の最初から最後までまったく軸がブレず、ピルエットでも常に完璧に回りきってから脚を下ろしている。また、跳躍技のあとの着地でも、空中で余裕をもって回りきって降りてくるから、微動だにしない。意識的に動作を一瞬ピタッと止めている。ヌレエフの踊りで、テクニック的に少し「気になる」部分を、あたかも意識的に完璧に修正して演じて見せたようですらある。全身にみなぎる緊張感も、ヌレエフにはないものだ。だが、その完璧さが、逆に物語のドラマ性を弱めているかもしれない。ヌレエフ版『若者と死』は、実のところヌレエフの踊りとしては、跳躍技の高さも回転技の技術も今ひとつだ。ヌレエフといえば、まるで重力がなくなったかのように、ふわりとジャンプする――その高さと滞空時の静止画のような男性的なポーズの力強さと美しさが図抜けている――というイメージがあるが、『若者と死』はそうしたバレエではなし、小道具が並んでいる狭い舞台空間でリハの期間も短かったということもあるかもしれない。一言で言えば、バリシニコフほど「テクニック的にはリキが入っていない」のだ。それでもヌレエフ版『若者と死』は、ヌレエフという男性がもつ自然な魅力が不思議ににじみ出てくる作品になっている。魅力というより、魔力といったほうが適切かもしれない。ダンサーとしてというよりも、あくまで1人の男性、1つの存在として、ヌレエフが醸し出す魔力だ。不思議なことに、見れば見るほど味わいが深くなる。こうした磁石のような魅力は、バリシニコフ版には薄い。このバレエは、男性が上半身裸で演じる。バリシニコフは明らかに「見せる筋肉」を上半身につけている。ヌレエフにはそうした人工的なトレーニングの気配はみじんもない。生来のたくましさに均整のとれた筋肉をまとったダンサー。ヌレエフの筋肉は見せるために作ったものではなく、あくまで踊るために身についたものだ。身体の動きは非常にしなやか。ヌレエフという人は、特段イケメンではないが、顔の表情には、毒気をはらんだ媚態のようなものがある。それも教えられて身につけたものには思えない。ヌレエフという人が元来もっている、得体のしれない魔力のようなものが、身体全体、そして顔の表情から漂ってくる。プティの語る「男性的で、クレイジーなところがあり、踊り手としては超絶技巧だが、自然でなくてはならない」という「若者」のイメージは、まさにヌレエフを指しているように思う。熊川版の舞台『若者と死』が素晴らしかったのは昨日書いたとおりだが、残念ながら熊川版DVDには激しく落胆させられた。ヌレエフ&バリシニコフと比べるのが、そもそもおこがましいという人もいるかもしれないが、ダンサーとしてどうこう以前に、演出がひどすぎる。舞台『若者と死』はダンサーだけでなく、振付、音楽、舞台美術すべてが一体となって感動を誘った。バレエはまさしく総合芸術なのだ。舞台とDVDは違うとはいえ、熊川版DVD『若者と死』は、舞台ではほぼ完璧に表現されていた総合芸術を安手のトレンディドラマに変えてしまった。バレエダンサーは俳優とは違う。単に女性とセクシーに絡んだり、彼女に振られて悲しんでる表情をしたりといったドラマの表現では、ダンサーは(イケメン)俳優にはかなわない。だが、ダンサーには俳優にはない魅力があるはずだ。第一にダンサーは姿勢がいい。立ち姿が何もしなくても美しいし、ポーズもバランスが取れていて、身体全体に緊張感がある。動きも無駄がなく、流れるよう。熊川版DVD『若者と死』は、変にワザとらしい表情を作った顔のアップを多用したり(しかもワンカットが長い)、スローモーションを入れたり、「スタイリッシュ」に撮ろうとして、返って熊川を三文役者にしてしまった。最近、時代劇の立ち回りなどでもスローモーションが多用されるが、あれは要するに、近ごろの役者――特に経験の浅い若い役者――が「動けない」からだ。「動ける」ダンサー、しかも非常に機敏に流麗に動けるダンサーを使ってドラマを作るなら、俳優には真似できない身体を使ったドラマ性の演出を心がけるべきであって、熊川哲也の「顔芸」なんて、熊川ファンなら喜ぶかもしれないが、バレエファンが見て感銘を受けるようなものではない。カットする部分も完全に間違っている。舞台では、部屋の壁が上がり、女性が死神となって再び現れ、若者が木偶人形のように、彼女について歩くシーンがある。そして、階段を上がり、パリの夜景を見下ろす位置に来たところで、死神がどこかをまっすぐに指差す。この部分は生の世界から死の世界への移行を意味している。熊川の舞台は非常に素晴らしかったのに、ただ歩くというモーションが冗長だと判断されたのか、DVDではほぼ全部カットされてしまった。パリの夜景は「死後の世界」の象徴なのに、ラストシーンでは空しか映っていない。「天空への旅立ち」だという新たな解釈なのかもしれないが、それではこの作品でパリの夜景がもっていた力強い象徴性が薄れてしまうし、そもそも「死=空へ」というイメージがチープだ。どうしてこんなバカげた「改悪」をするのか。ヌレエフ版のほうは、若者が首を吊ったポーズで終わる。パリの情景が入っていないのは、準備期間が短く、セットを用意できなかったという現実的な問題があったのかもしれない。ヌレエフ版は、絞首台と若者以外は何もない白い空間でラストとなるのだが、空中にぶら下がったヌレエフの身体のラインが、足先まで非常に美しく、神々しくさえ見える。熊川版のような安い三文ドラマの終わりとは違う。どうしてこういう演出ができないのか。プティが熊川に「若者」を踊る権利を許諾してくれたことは喜ばしいことだ。今後も熊川は舞台で『若者と死』を演じていくつもりだという。舞台は「総合芸術」として素晴らしいのでお奨めだが、DVDを見る限り、熊川というダンサーは、ヌレエフやバリシニコフとはスケールが違いすぎる。DVDの解説では、熊川の「若者」は表現力ではバリシニコフ以上のものがある、などと持ち上げているが、いくらなんでもそれは身びいきが過ぎるというもの。ヌレエフの現役時代の話をすると、プティはヌレエフ+ジャンメールの『若者と死』の収録を終えたあとも、この作品をヌレエフに舞台で演じてほしいと思っていた。『若者と死』は、舞台装置も単純だ。最後のパリの夜景が現れる部分を省けば、テーブル1つ、椅子4脚、ベッド1台、それに絞首台になる柱があればいい。それなのにヌレエフが公演の演目に入れないので、なぜ踊らないのかとプティは何度もヌレエフに直接尋ねている。ところが、プティが『若者と死』を、ヌレエフの後に現れたロシアのもう1つの輝ける才能に許諾すると、ヌレエフはプティにこんなことを言ってきた。「『若者と死』の振りをミーシャ(バリシニコフ)にあげてしまったの? 僕は彼より前に踊ったことがあるのに。どうして僕の巡業用の作品にしてくれなかったの?」(新風舎『ヌレエフとの密なる時』ローラン・プティ著 新倉真由美訳)この微妙に甘えた物言いの裏には、ヌレエフとプティの「特殊」な関係がある。<明日へ続く>
2009.05.26
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のっけから、すごいドアップになってしまったが、これは有馬温泉の旅館、銀水荘 兆楽のオリジナルのお菓子、丹波の黒豆の寒天寄せ。有馬温泉土産として、定番すぎて平凡化している炭酸せんべいに変わって推したい。黒豆好き、寒天寄せ大好きのMizumizuなので、この手のお菓子なら気に入るのは当然なのだが、普段、お菓子に関しては、あまり好みが合わないMizumizu連れ合い、Mizumizu母の家族3人が絶賛。なので、お土産にしても好まれる率は高いかと。銀水荘 兆楽は、結論から言うと、素晴らしい宿だった。少し温泉街からは離れているが、いつでも送迎してくれるし、お目当ての温泉は、金泉、銀泉の両方を持っているし、部屋食の食事も、満足のいくものだった。素材の組み合わせが、個性的だが美味しく調和していた。寒天寄せが割合多く出て、そのあたりも不思議とMizumizuの好みに合っている。ここの料理人の方とは、味の嗜好がかなり似ているな、そんな印象だった。やはり、和食はどう考えても関東より関西のがレベルが高い。今回も改めてそう思ったのだった。しかし…温泉旅館というのは、とてつもなくコストがかかる商売だ。温泉の管理も大変だし、料理の質も大事だし、清掃もとんでもなく手間がかかる。中心地から離れていたら送迎もあったほうがいい。今どきならWifiも必要だろう。それでいてあまり宿泊費が高いと人は来ない。銀水荘 兆楽は、すべて揃っていて、それでいて値段も高くはなかった(平日のせいもあるだろうが)。平日とはいえ、それなりにお客さんもいて、といって混んでいるという感じでもなく、泊まるほうとしたら、ちょうどよかった。良質の温泉に入り、美味しい料理を上げ膳据え膳でいただき、のんびりくつろぐ。目的はそれで、他にはない。そんな旅にぴったりの宿。銀水荘 兆楽――リピートしたい温泉宿の1つになった。
2018.07.28
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現在、You TUBEの「手塚プロダクション公式チャンネル」で限定公開中の『千夜一夜物語』。大人向けアニメラマと銘打った(旧)虫プロダクションの野心作だが、このキャラクターデザインと美術担当にいきなり抜擢されたのが、アンパンマンの作者やなせたかしだ。レア本『ある日の手塚治虫』(1999年)にやなせたかしの寄稿文とイラストが載っていて、それによれば、1960年代の終わり、手塚治虫からやなせに突然電話がかかってきたという。虫プロで長編アニメを作ることになったので、やなせに手伝ってほしいという依頼だった。わけがわからないまま、やなせは「いいですよ」と返事をする。当時を振り返って、やなせは「同じ漫画家という職業でも、手塚治虫は神様に近い巨星、ぼくは拭けば飛ぶような塵埃ぐらいの存在」と、書いている。いくらやなせ氏が謙虚な人だといっても、それはチョット卑下しすぎだろう…と読んだ時には思ったのだが、1969年は、まだアンパンマンが大ヒットする前だった。多才なやなせは詩人として有名だったし、すでに『手のひらを太陽に』の作詞者として知られていたが、漫画では確かに大きなヒットはまだなかったようだ。やなせはアニメの経験などゼロだったから、手塚の申し出は冗談だと思ったらしい。だが、『千夜一夜物語』が始まると、本当に虫プロ通勤が始まる。手塚治虫と机を並べて描いてみて、やなせが「たまげてしまった」のは、そのスピードと速さ。あっという間に数十枚の絵コンテをしあげていくのだが、決してなぐりがきではない、そのまま原稿として使えるような絵なのでびっくりした。(『ある日の手塚治虫』より)完成したアニメ『千夜一夜物語』では、やなせたかしは「美術」とクレジットされているが、キャラクターデザインもやなせの手によるものだ。上はやなせ直筆のイラストとエッセイ。わけわからないまま始めた仕事だが、やってみると案外これは自分に向いているのではないかと思ったという。特に「マーディア」という女性キャラクターは人気で、後年になっても「マーディアを描いて」と頼むファンがいて、やなせを驚かせた。「キャラクター」の波及力に、やなせが気づいた瞬間だろう。『千夜一夜物語』がヒットすると、手塚治虫はやなせに「ぼくがお金を出すから、虫プロで短編映画をつくりませんか」と申し出てくれたという。会社としてお金を出すというのではなく(社内で反対があったようだ)、手塚がポケットマネーから資金を提供したのだ。そうして完成したのが、やなせたかし初演出アニメ作品『やさしいライオン』(1970年)。毎日映画コンクールで大藤賞その他を受賞し、その後もたびたび上映される息の長い作品になったという。こうしたアニメ畑でのキャラクターデザインの仕事がアンパンマンにつながっていったのだと、やなせは書く。『千夜一夜物語』から『やさしいライオン』を経て、やなせのキャラクターデザイン技術は、「シナリオを読めば30分ぐらいでラフスケッチができる」までに向上した。「基本は虫プロで学んだのである」。キャラクターデザインの達人、やなせたかしの飛躍のきっかけを作った手塚治虫。だが、「少しも恩着せがましいところはなく、『ばくがお金を出して作らせてあげたんだ』などとは一言も言わなかった」(前掲書より)やなせと手塚は気が合ったようだ。その後、「漫画家の絵本の会」で一緒に展覧会をしたり、旅行をしたこともあったという。「いつも楽しそうだった」「あんなに笑顔のいい人を他に知らない」「そばにいるだけでうれしかった」と、やなせ。そういえば、やなせの価値観と手塚のそれは非常に似通っている。時に残酷だという批判を受けるアンパンマンの自己犠牲精神は、戦争を通じて経験した飢餓からきたものだというし、「ミミズだって…生きているんだ。ともだちなんだ」という『手のひらを太陽に』の歌詞は、手塚の精神世界とも共通する。戦争は大きすぎる悲劇だが、あの戦争が手塚治虫ややなせたかしの世界を作ったとも言える。『第三の男』ではないが、平和とは程遠い15世紀のイタリアの絶えざる闘争の中でレオナルドやミケランジェロ、つまりはルネッサンスが生まれたように、日本という国を存亡の危機にまで追い詰めた第二次世界大戦があったから、今私たちが見るような手塚マンガが生まれ、次々と新しい人材がその地平線を広げていくことになったのだ。「ぼくは人生の晩年に近づいたが、最近になって自分の受けた恩義の深さに気づいて愕然としている。 漫画の神様であるだけではなく手塚治虫氏自身も神に近い人だったのだ。 どうやってその大恩に報いればいいのか、ぼくは罪深い忘恩の徒であった自分を責めるしかない」(前掲書より)手塚治虫を「神」と呼ぶとき、それは漫画の力量がまるで神様というだけでなく、次に続く人材を「創生」し続けたという意味も含むだろう。藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、里中満智子はよく知られているが、さいとう・たかおだって、楳図かずおだって、手塚治虫がいなければ漫画家にはなっていなかったかもしれない。つげ義春さえ、漫画家になるにあたって「ホワイト」だとか「原稿料」だとかの実際を聞かせてくれたのは手塚治虫なのだ。そして、やなせたかし。今や、やなせのアンパンマンキャラクターは、世界でもっとも稼ぐキャラクターのトップ10に入っている。https://honichi.com/news/2023/11/16/media-mix-ranking/そのキャラクターデザインの出発点が大人向けアニメ+ドラマと銘打った(旧)虫プロの『千夜一夜物語』だったというのは、今ではほとんど忘れられているようだが、まぎれもない事実だ。やさしい ライオン (やなせたかしの名作えほん 2) [ やなせたかし ]
2024.05.07
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傑作か、駄作か――膨大な手塚治虫の中で、おそらく評価が真っ二つに分かれるだろう作品のひとつに挙げたいのは、『サンダーマスク』。最近見つけた記事で手塚版『サンダーマスク』を傑作認定している人(松浦晋也氏)がいた。手塚治虫の知られざる傑作「サンダーマスク」:日経ビジネス電子版 (nikkei.com)あまり知られていない作品の中にも「すごい」と感嘆せざるを得ないような作品も存在した。その中のひとつが「サンダーマスク」だった。(中略)私にとって「サンダーマスク」は、まごうことなき傑作である。確かにラストは打ち切り作品らしく早足なのだが、それを補って余りあるオリジナリティーが込められている。変身ヒーローのサンダーマスクと魔王デカンダの対立というテレビ版の構造は、完全に換骨奪胎され、かなりハードなSF作品となっている。それどころか、映画「タイタニック」を思わせるメロドラマでもあるのだ。 物語の語り手は、手塚治虫本人。この時期の手塚作品には「バンパイヤ」に代表されるように手塚本人が時折登場している。手塚が命光一という若者と知り合うところから話はスタートする。(引用終わり)この記事を読んで、「おお、同志よ!」と思ったのだ。Mizumizuは最近になって初めて電子書籍版で読んだのだが、この『サンダーマスク』、相当面白い。手塚作品の中ではマイナーな『サンダーマスク』を、なぜ電子書籍版で買おうと思ったか・・・それは、ガチ手塚(真の手塚マニア)であるyou TUBER某(なにがし)氏が同氏の手塚治虫全巻チャンネルで、珍しくテンション下がりっぱなしの口調で「面白いとはいえない」と評したからだ。ファンがつまらないと言ってる作品、どのくらいつまらないの? と興味をひかれたのだ。【都市伝説】手塚治虫パンデミックを予言!支配者層の闇を暴露? (youtube.com)某氏は、手塚治虫自身もこの作品を気に入っておらず、その証拠にあとがきがあまりにアッサリしていること、書籍化の時に描き直しをする手塚治虫が手を入れていない(らしい)ことを挙げている。本人が駄作だと思ってそうしたのかどうか、Mizumizuは断定できないと思うのだが、「力が入ってない」と思うのは、作品の中身ではなく、講談社全集版の表紙の絵。手塚治虫の元チーフアシスタントが証言しているのだが、この全集版、手塚の力の入れようは並々ならぬものがあり、表紙の絵は新しく描きおろし、金の額縁の着色も、アシスタントに細かくダメ出しをしたそうなのだ。だが、『サンダーマスク』の表紙の絵は、過去に書籍化されたものをアップにしただけ。新しく描き直した形跡はゼロ。あとがきの短さ、全集版に向けての描き直しなし、表紙絵使いまわし――その作品が、今頃になって話題になるなんて、ご本人もびっくりかもしれない。漫画の文庫本には反対のMizumizuだが、電子書籍に関しては、利点があると思っている。それは、スマホと一緒にどこにでも持っていけること。本だとしまい込むと捜して出すのが億劫になる。それに、新幹線や飛行機の中に本を持参するのは面倒だが、電子書籍なら気軽に読める。手塚作品は楽天KOBO電子書籍ストアで安く買えるので、結構最近は買って、新幹線や飛行機の移動中に読んでいる。『レオちゃん』なんて、絵が好きだから、絵本版と電子書籍版の両方を買ってしまった(内容が少し違っていたが)。話が逸れたが、この『サンダーマスク』、Mizumizuにはかなり面白かった。夜中に真黒な大きな手が出てきて、クルマをつぶすところなんてホラーそのものだし、飛行機が乗客乗員ごと石になって落下してくるところ、町全体が石になってしまうところなんて、「山崎真監督の特撮映画で見たい!」と思うような発想だ。人類の敵となるデカンダーの正体も、「うわー、そうきますか」という奇想天外なもの。これがサイエンスフィクションというものですか、と妙に納得してしまう。こういったアイディアが秀逸で、次から次へと出てくるのがスゴイ。山崎真監督の映画で見たい、と思うのは、ラブロマンスもちゃんと入っているからだ。『タイタニック』のようだとは思わなかったのだが、『ゴジラ-1.0』にも、こういうロマンス要素がちゃんと入っていたことを思い出し、「さすが手塚作品、ツボは外さない」と変に感心してしまった。ラストシーンでのヒロインの姿には、悲劇でありながら、ほんのわずかな希望を必ず残す手塚治虫ならではの味わいがある。こういうラストは、他の誰も書けないのではないか。そして、個人的にツボったのは、ところどころにあるギャグ。5回は大笑いしてしまったわ。手塚マンガが好きなのは、ふいうちのように繰り出されるギャグがなんといっても理屈抜きに面白いこと。永井豪が登場する温泉のシーンは、力が抜けたおふざけで、大好きだ。こ~ゆ~のも、描けませんよ、なかなか。ところで、あのダサいサンダーマスクのマスク・・・手塚治虫のアイディアではないらしい。テレビドラマが先行した『サンダーマスク』は、サンダーマスクのキャラクター設定と怪獣のキャラクター設定は別の人がやったよう。テレビ版『サンダーマスク』の権利関係のごたごたが最近やっと解決したらしく、動画があがっているが、エンディングにはサンダーマスクデザイン 上山さとし怪獣デザイン 成田マキホとある。上山さとしって、誰? 成田マキホはウィキペディアに情報がある。手塚版『サンダーマスク』では、デカンダーの姿はドラマとはまったく異なっているが、サンダーマスクのマスクはかなり似ている。似ているが、ちょっと違う。違うのは、手塚版はまさにマスクで口元は普通の人間のそれのように見えること。テレビドラマ版では口元までマスクで覆われている。推測するに、テレビ版のサンダーマスクデザインを手塚作品でも使ってくれるよう制作側が依頼したのではないか。手塚版『サンダーマスク』の中で、このマスクのデザインを手塚治虫がさらさらっと描くシーンがあり、なぜか「デザイン料はいらんぜ」とわざわざ言っているのだ。この不自然なセリフ、ちょっと気になったのだが、テレビ版のキャラクター設定を踏襲したものだとしたら合点がいく。テレビでは上山さとしデザインと出てるんだから、そりゃデザイン料はナシでしょう。手塚版『サンダーマスク』、楽天KOBOで安く買えるので、読んでみて。サンダーマスク|マンガ|手塚治虫 TEZUKA OSAMU OFFICIAL面白いか、面白くないかは、アナタ次第。
2024.06.05
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信憑性の薄い神話がまことしやかに語られるのは、歴史上の人物になった有名人にはありがちだが、「カルティエのトリニティリングはジャン・コクトーがレイモン・ラディゲに贈るためにデザインした(あるいは、デザインさせた)」という逸話は、その最たるものだろう。このエピソードがあたかも既成事実のように書かれているサイトがもっとも多いのは実は日本語サイト。フランス語や英語のサイトでは、あまり見ない。主にカルティエのトリニティリングを扱うショップサイトで、表現に多少の違いはあれど、「トリニティリングは、ジャン・コクトーがレーモン・ラディゲ(「愛する人」とぼやかしているサイトも多い)に贈るために、『この世に存在しないリングを』と注文を出してカルティエに制作させた」というように書かれている。ちょっと前までは「コクトーがデザインした」という話が多く流布されていたのだが、それはさすがにありえないとわかってきたらしく、最近では「ラディゲのために、コクトーがカルティエに制作させた」説が幅を利かせている。さらにそれを見た(のだろう)、素人のブログでも、この逸話は爆発的に広まっている。カルティエのトリニティリングといえば、「コクトーが恋人のラディゲに贈るために作らせたんですって! 知ってました?」「コクトーがラディゲに贈ったもので、若くして亡くなったらラディゲの分も合わせて2つ、晩年まで肌身離さずつけていたのは有名な話ですよね!」などと書いてあるブログもある。「有名な話ですよね」なんて言われると、よく知らなくてもついつい、「そうそう、知ってる知ってる」などと相槌を打ちたくなってしまうようなものだが、このエピソード自体、Mizumizuはそもそも「ほとんどありえない話」だと思っている。ブランドにまつわる話は、もちろんそのブランドの公式サイトを読むのがいい。カルティエ社はトリニティリングの誕生についてどう説明しているのだろう?www.cartier.com/en/Creation,B4038800,,Trinity%20de%20Cartier-Rings ↑ここの英語の説明を読んでみると、プラチナ+レッドゴールド+イエローゴールドからなる3連のリングに関する最初の資料があるのが1924年。3色ゴールド(「3色」としか書いていないが、つまりプラチナのかわりにホワイトゴールドを使ったということだろう)の3連リングについての記録が残っているのが1925年。ジャン・コクトーがはめていたことは書かれている(もちろん、それは事実だからだ)。コクトーという人が1920年代の時代の寵児であったこと、彼がトリニティリングのフォルムを非常に気に入ったこと、そしてコクトーといえばトリニティリングというイメージが広まったこと、それによってこの指輪のカルト的な人気が高まったことなども紹介されている。だが、「コクトーが制作を依頼した」なんてことは一言も書かれていない。そもそもラディゲが亡くなったのが1923年。トリニティリングの発表が1924年。もし、日本のネット上にはびこる神話が事実だとしたら、1923年以前にコクトーがカルティエに制作を依頼し、できあがったのがラディゲの死の翌年だったということになる。ナルホド、まあそれはあるかもしれない。だが、それならば、コクトーは1924年からこのトリニティリングを、贈れなかったラディゲの分も含めて2人分はめていなくてはおかしい。だが、若いころのコクトーの写真を見ると、トリニティリングと組み合わせて小指にはめているのは、別のリングなのだ。ネットでは見にくいかもしれないが、これが若いころのコクトーのはめていた指輪で、ボリュームのある平べったいリング、その上にトリニティリングを1つ組み合わせてはめている。若いころはほとんどこのコンビネーションだ。これはジャン・マレーと暮らし始めて間もないころの写真だが、上の写真と同じく、平べったいリングの上にトリニティリングを1つ計2つはめている。しかも、この写真では右手の小指。では、コクトーがいつもいつも指輪をはめていたのかというと、そうではない。これは同じくジャン・マレーととったスナップだが、この写真では指輪はなし。コクトーがいつも指輪をしていたわけではないことは、この写真からも明らかだが、他の動画をみてもコクトーはわりあい「作業をするとき」は指輪をはめていない。指輪をするのは、外出するとき、ある程度構えた写真を撮るときなのだ。上のマレーとの2つの写真の違いは、指輪をはめたほうは写真の構図の緊張感、くっきりしたライティングから判断して、プロの写真家による撮影、指輪のないほうは、日常のスナップに近いということだろう。ラゲィゲの分と合わせて2つのトリニティリングを小指にはめていた、という伝説が真実なら、亡くなってからそれほど時間のたっていない若い時期になぜ「別の指輪」をはめているのか説明がつかない。コクトーはトリニティリングを取ったりはずしたりしていたし、つけるのも必ずしも左手ではなく、右手のこともあったのだ。こうしたことから考えると、小指の指輪はあくまでオシャレ用だった、というのが普通の結論だろう。コクトーが2つのトリニティリングを小指にはめていたのは、髪の毛が白くなってから、つまり晩年なのだ。これが晩年のコクトーが小指にダブルではめていたトリニティリング。www.youtube.com/watch?v=tlEcnuvMHiI↑この動画のしょっぱなにも最晩年のコクトーがトリニティリングをダブルではめている様子が映っている。コクトーの素描には、トリニティリングをはめた自身の指を描いたものも確かにあるが、たとえば1924年のドローイングでは…このように指には何もない。この絵は「鳥刺しジャックの神秘」という一連の自画像のうちの1枚だが、これをコクトーが描いたのは、1924年の秋、11月ぐらいだ。もし、トリニティリングがラディゲのためにコクトーがわざわざ注文して制作されたものだったのなら、できたてホヤホヤのリングをこの自画像に描き入れたってよさそうなものだ。こちらは1955年にベルナール・ビュッフェが描いたコクトー像の部分。これをみると左手の小指に1つだけトリニティリングが描かれているのがわかる。つまり、コクトーがトリニティリングをはめたのは、1924年のこのリングの発表直後ということは考えにくく、かつはめ始めてからも、相当長い時期「1つだけ」しかつけていなかったということなのだ。「最晩年のコクトー」がしばしば2つのトリニティリングをはめていたのは事実だが、やはり指輪をしていない写真もある。この写真や、その他の(YOU TUBEにある)動画からも、2つのトリニティリングをはめ始めた晩年も、作業中ははずしていることが多く、必ずしも「肌身離さず」つけていたわけではないことがわかる。もう1つ、Mizumizuが「ラディゲのためのリングなわけないでしょ」と思うのは、リングのサイズだ。コクトーは常に小指にトリニティリングをはめており、2つともコクトーの小指にぴったりだ。きついぐらいぴっちりとはまっている。めったにないぐらいヤセヤセのあのコクトーの、しかも小指ですよ。ラディゲの写真を見ると、コクトーほどには際立った痩身ではない。コクトーの小指にピッタリのリングがラディゲにはまるとは思えないし、そもそも、コクトー自身は小指にはめるのが好きだったにしても、愛する人に贈るのになんで自分の小指用にしかならない、相手にとっては明らかに小さすぎるリングを贈るのだ?あの極細コクトーの小指にピッタリのリングをはめることのできる男性なんて…… それこそ『ロバと王女』のお姫様探しのごとし、だろう。指輪を贈ろうとした相手がラディゲではなく、1932年にコクトーと交際し、妊娠した(と少なくともコクトーが信じた)ナタリー・パレのような女性だったとしても、サイズが果たしてあれで合うのか、なぜ上に挙げたマレーと出会って以降(1937年~)の写真で1つしかはめていないのか、といった疑問はやはり解けない。さらに言えば、もしコクトーがラディゲに指輪のような通俗的なプレゼントをしていたのだとしたら、コクトーは後の最愛の人マレーにも同様のモノを何か贈っていてもおかしくない。ところが、コクトーがマレーに贈ったのは、マレーのために書いた自身のオリジナルの戯曲、自身の詩(これは第三者が読むことを前提としない、マレーのためだけに書いたラブレター的なものもあるし、『火災』のようにマレーに献上するつもりで書いたものもある)、晩年は「君の誕生日に何かプレゼントしたい。『存在困難』の原稿を贈らせてもらえますか」――つまり、コクトーは大量生産が可能な「モノ」ではなく、常に世界中で自分にしか贈れないたった1つのものを愛する人に捧げようとした人だったのだ。マレーのほうは、初期のころの手袋屋の看板に始まり(このエピソードについてはの3月26日のエントリー参照)、スイス製の時計だとか、あるいは花だとか、とても「男の子らしい」プレゼントをコクトーにしている。現存している写真から考えても、コクトーの性格から推測しても、トリニティリングはコクトーがラディゲのために作らせた、なんていうのは、とっても眉唾な話なのだ。それがあたかも事実のように日本語のサイトに大量に書かれている。コクトーが、ルイ・カルティエに「愛する人のために、この世に存在しないリングを」(このフレーズは、Bunkamuraでのコクトー展での晩年の写真に添えられたものだったらしい)と言ったなんて、「講釈師、見てきたような嘘を言い」の典型だろう。では、なぜ最晩年のコクトーがトリニティリングをダブルでつけていたのだろう?むろん立証は不可能だが、取ったりはめたりを繰り返していたことを考えると…ある日のコクトー「あれっ? トリニティリングが見当たらない?」しばらく捜して「やっぱないな~。失くしたかな。仕方ない、もう1つ買おうっと」買った後に「あ、見つかった」それじゃってことで「2つ一緒にはめちゃおうっと」と、案外この程度の話だったのかもしれない。ちなみに、コクトーは1955年にアカデミー・フランセーズ会員に選出された際、会員の正装の一部である剣を、自らデザインし、カルティエに制作させている。これは神話や伝説ではない事実。(追記)コクトー作品は、Bunkamuraザ・ミュージアム発行のカタログLe Monde de JEAN COCTEAUから拝借しました。
2008.09.15
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西荻と吉祥寺の間に1軒のお屋敷があった。城かと見まごう(?)石垣と背の高い門が聳え、堂々たる造りで外からの視線をシャットアウトしていた。表札には「来世研究所」。そう丹波哲郎の豪邸だ。丹波哲郎はかなり好きな俳優だった。照れずにカッコつけるところは日本人離れしたスケール感があったし、声のトーンも独特の音楽のような響きがあった。日本アカデミー賞を辞退した黒沢明監督に対して、「愚の骨頂」などとズバッと言ってみせる自信も、不思議と憎めなかった。最後に俳優・丹波哲郎を見たのはNHKの大河ドラマ「義経」の源頼政役だった。ひどく痩せて、さすがにほとんど動けないようだったが、準備不足のまま平家打倒に動かざるをえなくなった頼政が、宇治平等院で炎の中で討ち死にする最後のシーンで、ニヤリと笑って死んでいくその表情に丹波演劇の円熟を見たような気がした。丹波哲郎が亡くなったとき、西荻にある丹波邸も少しの間報道陣に囲まれていた。りっぱな石を組み合わせた門の奥も、丹波の出棺のときに少し写った。「ヘリポートがある」などという噂は嘘だとわかったが、よく手入れされたツツジと門までの長いアプローチはさすが大俳優の豪邸にふさわしいものだと思った。その後しばらくして丹波邸の前をとおったら、ショベルカーが入って遠慮なくすべてを壊していた。そして、そこは完全な更地になった。りっぱな石垣も門も何もかもなくなった。一度きれいな土に戻したと思ったが、今日とおりかかったら、すっかり草が生えていた。常に手入れされ、刈り込まれていなければいけない植栽ははかないが、雑草はたくましい。ずいぶん背が伸びていた。丹波邸のような贅を尽くしたお屋敷も結局遺族が相続できないと、こうなってしまう。あの門だけでも残せなかったのだろうか。大俳優の生きた証しがあっさり消されてしまったようで、なんだか寂しい。ここはどうなるのだろう? 間口のわりにはかなり奥行きのある敷地だが、それでもマンションには少し小さいかもしれない。何軒が建売が建つのかな? それが一番ありそうだ。こういうお屋敷もどんどん細分化され、美しく手入れされた植栽や古い樹木もばっさり切られてしまう。業者にしてみれば、儲けるためには、それが一番なのだろうけれど、武蔵野の面影を残す大木や、前の主人が丹精した植栽が、根こそぎ消されていくのを見るのは寂しい。杉並の高級住宅地の魅力は、ゆったり大きなお屋敷、植栽、そして樹木にあると思うのだが、そういった場所もどんどんつまらないキチキチした普通の住宅地に姿を変えていっている。
2007.08.22
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少女漫画の神様が萩尾望都なら、里中満智子は漫画界に君臨する女帝とも言える存在だ。漫画を描くだけではない、漫画家の社会的地位を高める、権利を守るといった社会的な活動でもリーダーシップを発揮している。漫画の文化的価値について、彼女ほど理路整然と語れる才媛はいない。高校生のときにすでにプロデビューし、すぐに売れっ子になるという稀有な才能の持ち主だった故に、「大学」という学歴はないが、これだけアタマのいい人にそんなものは必要ない。実際、大卒ではないが、大学の教授職も務めるというマルチぶりだ。この傑出した才能が、漫画家という職業を選ぶきっかけになったのは、やはり手塚治虫。里中満智子の凄いところは、自分がどのように手塚治虫の影響を受けたか、手塚治虫の何か凄いのかを、筋道立てて語れるところだ。機会があるごとに手塚治虫の偉大さを語る彼女は、藤子不二雄(A&F)と並んで、もっともすぐれた「手塚治虫の教え」の伝道師だ。なかでも、非常にまとまっていて素晴らしいのが以下の手塚るみ子氏との対談。https://www.asahi.co.jp/50th/satonaka.html手塚「里中さんは私の父、手塚治虫のことでいろいろお世話になっています。先日2月9日、父の十七回忌にもご出席頂きました。今日は里中さんから父、手塚治虫のことをお聞かせ頂こうと思います」里中「人生の恩師というと、やっぱり手塚先生が最大の存在です。私は運良く漫画家になりましたが、漫画家になっていなくても私の少女時代にとって一番大きな影響を与えてくれた存在として一生思い続けたと思います」手塚「一番最初にマンガと出会ったのは?」里中「昭和29年、小学校に上がったら毎月一冊少女雑誌を買ってくれることになっていて、選びに行ったんです。それで選んだのがちょうど創刊されたばかりの“なかよし”でした。それは巻頭に手塚先生の作品が載っていて、その絵が気に入ったからです。それがマンガとの最初の出会いです。でその作品が気に入って、貸本屋に行って手塚先生の作品を捜しました。そうしたらありとあらゆる本、というと大げさですが...に掲載されていました。それらをちらほら見ていてすべて気に入ってしまいました。ですから少女雑誌、少年雑誌に関わらず読みました。その中で一番気に入ったのが“鉄腕アトム”でした」手塚「いつぐらいから漫画家になろうと思ったのですか?」里中「小学6年~中学1年の時でした。それも手塚先生がきっかけです。小学4~5年の時に“子供には良い本を与える”という名目で、子供にマンガを読ませないという運動があったんです。悪い本の代表が“鉄腕アトム”でした。その理由が第1にマンガである。第2にロボットが感情を持つなどということはあり得ない。子供の科学の認識を誤る、ということでした。でも科学は想像が大事なのにと思いました。それがなければ飛行機やヘリコプターも世に無かったと思います。また大人達が与える本の中にはくだらない物が多かったんです。私にとって“鉄腕アトム”は心の肥やしでした。漫画家になろうと思ったのは世の中がマンガを滅ぼすと思ったからです。それを止めるにはマンガの味方が一人でも多い方がいいと子供心に思い、漫画家になると宣言しました」手塚「里中さんは16歳でデビューされていますが、実際に憧れの職業に就いてどうでしたか?」里中「自分の作品が初めて印刷された時に、お金があったら町中の本を買い占めたいと思ったぐらい、私はなんてヘタなんだろうと思いました。アマチュアの時はいくらでもやり直しが出来るのですが、プロになってしまうと自分の作品に責任が生じてしまいます。ですからプロになってからが苦しかったですね。でも好きなことだと苦労を苦労とは思えないんですね。それで18歳の時に出版社のパーティーで手塚治虫先生のお姿を垣間見ました」手塚「その時に初めの出会いだったのですね」里中「出会いではなくて一方的に見ただけです(笑)」手塚「初めて言葉を交わして覚えていらっしゃることはありますか?」里中「思ったよりも少し高い声をしていらっしゃるなという感じだけで、返事が出来るようになったのはそれから2年位してからです(笑)」里中「一番私が思い出に残っているのは、3時間ほど先生と二人っきりで過ごせたことです。それは大阪でのサイン会に行く時の新幹線の中でです。先生はいろいろなお話をしてくださる方で、その時は先生が新婚の時のお話ですとか...」手塚「そんなプライベートな話を...」里中「その他にもいろいろなお話をされていて、その内に“僕が本当に描きたい物は真のエロティシズムなんだ”と仰ったんです。でそれまで疑問に思っていた手塚作品の底に流れる微妙なエロティシズムの謎が解けました。それで“いつ頃描いてくださるんですか?”と聞いたら“そのうちね”と仰ったのでずっと楽しみにしていたんです」里中「先生がありとあらゆるテーマでマンガを描いていたので、後に続く作家はどんなテーマ、ジャンルで描いても良いんだと、当たり前のように思っています。良くアメリカの人に“なぜ50年ぐらいの間にマンガ文化が進んだんだ?”と聞かれます。それで説明しているのが面倒なので“我が国には手塚治虫がいたからだ”と答えています」今では、想像もできない話だが、「教育熱心な親」が漫画を燃やす…なんてことが本当に起こった時代があるのだ。里中氏のように、漫画が世間から糾弾され、憎まれていた時代のあることを知っている漫画家の証言は貴重だ。どんなテーマで漫画を描いてもいいという「自由」の根底にあるのが手塚治虫だというのも、慧眼としか言えない。皆が当たり前のこととして享受している権利は、実は手塚治虫のような先達が世間の矢面に立ち、それでも描くことをやめなかったからこそ得られたもの。こうした視点をキチンと指摘できる存在のあることは、手塚治虫という個人にとっても、漫画界全体にとっても、日本の文化にとっても、とてつもなく大きい。
2024.01.26
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以前、リモージュ焼きのソーサーを直してもらった文京区の修理工房 六屋。またも割れ物がでたので、修理してもらった。こちらは急須のフタ。2つに割れたうえ細かい破片に分かれてしまった。製造元に問い合わせても、フタだけの在庫はないと言われたので六屋に持ち込んだ。漆などを使って接着させたあと、金粉を蒔き、十分に乾燥させたあと、サンドペーパーで研いで表面を滑らかにするのだとか。金の線をさっと描いただけのようにも見えるが、実は手間も時間もかかっている。要はこの部分だけ磁器ではなく蒔絵になるので、食洗器や乾燥器にかけない、漂白は最小限にしなくてはいけないなど、それなりの扱いが必要になるのだが、割れ目が模様のように見え、おもしろい味わいが出た。こちらはヴェネチアで買ったガラスのコップ。食洗器にかけてるうちに、見事に3つに割れてしまった。通貨がリラで、物価の安かった時代のイタリアお土産で、たいして高いものではないし、捨ててしまおうかとも思ったのだが、小さな家族経営のガラス工房で、「誰が作ったの?」と聞いたら、「オレさ!」と自慢げに胸をそらせていた小柄な老人の姿が脳裏に蘇り、捨てるのがしのびなくなった。あの年老いたガラス職人は、もしかしたらもうこの世にいないかも・・・ そんなことを思ったら、直せるものなら直して使ってみようと。実はこちらのガラスのほうが六屋のご主人は確信なさげだった。「うまく接着しないかも・・・」と言うので、「ダメならダメでいいですよ」と答えた。だが、できあがったものを見たら、非常にきれいに直っている。うまくつかなかったらそっと飾っておくだけにしようかと思ったコップが十分実用に耐える。もともと日常的に使うためのコップなので、さっそくそのお役目に戻った。不況のせいか、六屋には地方からも多くの修理依頼が舞い込むのだという。愛着のあるモノを直しながら使う・・・ そんな気持ちを取り戻すことができたのが長引く不況のせいならば、それはそれで悪くない。
2010.09.16
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宿泊したのは、本栖湖にほど近い、森の中の一軒宿「小さなホテル スターティングオーバー」。周囲に民家も何もない細い道をかなり奥まで行くので、途中「ホントに、この道でいいの?」と不安に。迷いようがない一本道なのだが。オーナーによる自称「小さなホテル」は脇に置いておいて・・・こうした宿を、「プチホテル」というのか、「ペンション」というのか、あるいは「オーベルジュ」というのか・・・ハッキリ言って、カテゴリーに当てはめるのは野暮だという気がした。一番そぐわしい印象は、「料理上手な友人の別荘に、泊めてもらった」ような感覚。女性好みのロマンティックな内装の室内。掃除はよく行き届いている。ペンションに泊まると嫌なのは、部屋にバス・トイレがないことだが、ここは狭いながらも両方ある。そして、大きなお風呂もあり、3組しか泊まれないという小さな宿の特権として、貸切で利用できる。小さな子供の受け入れには制限があり、その分、非常に静か。「そこそこのホテル」に泊まると、宿泊客がワサワサして、高級難民キャンプに来たような気分になることがあるが、ここはプライバシーが守られている。「隠れ家」というほどに、大げさなものではない。「3組限定」と聞くと高そうだが、1泊2食付で約1万4000円と非常にリーズナブル。それもこれも、ご夫婦だけでやっているから、できることだと思った。「コストを削る」のではなく、最初から「かけない」ようにする。2人でできる範囲で最大限のおもてなしをする――そういう原則に忠実にやっている。だから、料金とのバランスで考えた満足度は非常に高い。2階が客室。3つしかないせいか、食事以外のときは、他の宿泊客と顔をあわせることもなかった。廊下の脇のニッチ空間には本棚がしつらえてあり、自由に閲覧できる。並んでいる本は、技術者が好んで読みそうなジャンル。ご主人は元技術者かもしれない。そう思ったのは、ご主人の接客態度もある。「いかにも客商売」ではない。あまりお世辞も出ないし、口も軽いほうではない。玄関のドアを開けて入ると、しばらくしてから、ぬぼ~ッと現れた。別に感じが悪いわけではないが、訓練を受けたホテルマンの態度ではない。こうした個人経営の宿だからこそアリなキャラクターだ。スターティングオーバーというのは、ジョン・レノンの曲から取った名前かもしれないが、もともとの意味は、「再出発」。脱サラしてプチホテル経営に転じたオーナー夫妻の思いを込めたものかもしれない。聞いたわけではないのだが、そんな印象を受けた。ディナーは1階の大きなリビングで。席には蝋燭が灯され、ムーディに。飲み物を注文してから出てくるまで、ずいぶんかかった(笑)。なにせ奥様が料理担当(おそらく厨房でも1人で作っている)、ご主人がサーブ担当。2人だけだ。東京だと、飲み物はあっという間に出てきて、「さっさと飲んで、追加で注文してよ」という感じなのだが(苦笑)。前菜は、なすと生ハム。なすにしっかり味がついている。本場のフランス料理は、相当味が濃いのだが、ここの味のしっかり感は、フランスのそれと言うより、関東の和食の味の濃さを連想させた。一応、フレンチのフルコースということになっているが、フレンチ、イタリアン、そして和食のフュージョンという感じ。決して「本場」の料理ではないが、その分、どの年齢層の日本人にも合う家庭的な味になっていて、1つ1つの皿が丁寧に作ってある。ズワイ蟹のコンソメスープは、まろやかでやさしい味。エビとしめじのリゾット。イタリアのリゾットは、向こうの言い方ではアルデンテ、日本的感覚で言うと「生煮え」が多いが、ここのリゾットは、しっかり水を含んで柔らかい。イタリアのリゾットに慣れた舌には、「水が多すぎ」なのだが、たぶん普通の日本人には、こちらのほうが安心だろうと思う。Mizumizu母は、イタリアのリゾットは好きなのだが、しばしばそうとしか呼びようのない、あちらの国の「煮方が適当で硬い米料理」というのは、やはり抵抗があるようだ。Mizumizuはと言えば、芯のあるアルデンテのリゾットでも平気。日本のリゾットは、ゆるすぎる。ちなみに、信州出身のMizumizu連れ合いは、スパゲテッティのアルデンテも、「認めん」という人。たしかに、蕎麦が「アルデンテ」だったら、「生煮えの蕎麦」ということになりそうだ。不思議なタイミングなのだが、スターティングオーバーでは、メインの前に暖かなフランスパンが出てくる。これも2人でやっているゆえの苦肉の策かもしれない。つまり、肉を焼く時間をパンを供することで埋め合わせているということ。ちなみに、パンの味もグッド。メインは子牛。日本は和牛(成牛)が美味しすぎるせいか、子牛は人気がない。ヨーロッパでは、子牛は間違いなく、成牛より高級。育て方もさまざまある。最高級の子牛は、「完全ミルク飼育」。子牛に草を食べさせなければいけない時期に入っても、あえてミルクだけで育てる。与えなければいけないものを与えない、自然の摂理に逆らった飼育方法なので、当然子牛は、長く生きられない。統計によれば、3ヶ月とちょっとが限界なのだという。その限界日の直前に屠殺する。すると真っ白な極上の子牛肉ができるというわけ。パリの星付きレストランで食べた子牛は、溶けそうなほどに柔らかく、極上の味わいだった。日本の子牛は、ここまでのものはないように思える。そもそも子牛は白い。少しピンクがかったものもある(草を与えると肉は赤くなる。飼育方法と屠殺するまでの時期によって肉質は多少変わってくる)が、赤くはない。だが、日本の子牛は、成牛と変わらないくらい赤い肉のものも出回っている。牛肉=赤というイメージがあるせいか、子牛を豚肉と勘違いする人もいる。何を隠そう、Mizumizuも初めて子牛を食べたのは、オランダのフレンチレストラン。当時ライデンに住んでいた父が連れて行ってくれたのだが、「牛だ」と言われて頼んだ肉が、豚肉そっくりに白くて、「これ、豚肉じゃないの?」と、父に文句を言った記憶がある。デザートは、カカオだけで作ったケーキ。普通のチョコレートケーキとまた、一味違う。甘くないのに、濃い感じ。夕食のときは客同士が向かい合うようにセッティングされていたテーブル。朝食では、窓の外の景色が楽しめるように位置を変えてくれる心遣いが嬉しい。朝は、味噌汁がわりなのか、野菜たっぷりのミネストローネ。サツマイモや豆まで入っている! ショートパスタも2種類入っていた。なんと朝から本格的シフォンケーキが・・・。ひきたてのコーヒーを飲んで、朝からすっかり満足。マンダリンオリエンタルのような、ノウハウばっちりの高級ホテルもいいが、こうした個人の力量を最大限生かしてやっている、小さなホテルも大好きだ。料理が美味しい、掃除が行き届いている、設備も最小の中で最大限、お客の求めるものを満たしている。書けば簡単なようだが、こういう宿になるのは難しいのだ。一定のレベルを長い間維持していくのはまた、さらに難しい。経営は決してラクではないと思う。それでも質を落とさずに頑張っているからこそ、ちゃんとお客が来るのだろうと思う。「商売は牛のよだれ」――商売は牛のよだれのように細く長くやるものだということだが、人は欲を出して、ラクに稼ぎたくなったり、面倒になると手を抜いたりする。このホテルには、そうした個人経営のオーナーが陥りがちな欠点が見えない。これからも、このまま変わらず3組のお客様に最高の満足を届けて欲しいもの。絶景があるわけでも、アメニティが充実してるわけでもないが、また是非リピートしたい宿。
2009.10.16
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チェンマイでの庶民の足「ソンテウ(乗り合いタクシー)」。行く前は、簡単に拾えるのか不安だったのだが、行ってみたら街中では流しのソンテウが頻繁に走っていて、見つけるのに困ることはなかった。「ソンテウというのは一定の範囲を往復してるので、目的地が遠い場合は、終点まで行って乗り換えるといい」と難しいこと書いてるブログもあったのだが、これは相当のチェンマイ通のやること。短期滞在の旅行者は、ソンテウがどこで折り返してくるのかなんてわからないし、そこから目的地方面に向かうソンテウをどうやって見つけるのかもわからない。それよりは、多少割高でも貸切をオファーしたほうがいい。ただ、「たとえ近距離でも、方向に注意」――この事前情報は役に立った。貸切で値段交渉する場合は別だが、進行方向と逆方面には、距離的に近くても行ってくれない。特に方向・方角にヨワイ婦女子の皆さんは、注意しましょうね。貸切したのは3回だが、ガソリンクーポン付きの店回りが安くすんだのは例外としても、500バーツで半日(郊外のエレファント・パークまで往復)のときも、400バーツで数時間のときも、運転手はホクホクで、彼らにとって貸切が悪い仕事でないことは明らかだった。しかし、そんなに得な仕事なのかな?たとえば、エレファントパークまでは、ゆっくり走ったとはいえ、小1時間かかった。途中多少寄り道して往復したので、ざっくり見て走行時間2時間。走ってるよりは待ってる時間のが長い。市内近距離で1人20バーツとして、500バーツということは25人乗せなければならない。あとは時間。走行時間は2時間だが、待ち時間も入れれば半日つぶれる。人数だけ考えたら、半日で25人というのは、そんなに無理な数字でもなさそうだ。だが、市内を走り回って半日で25人乗せるというは、案外大変なのかもしれない。信号の多い市内だとストップ&ゴーの繰り返しになり、燃費も悪くなる。タイというのは、ガソリンが実はそれほど安くない。日本よりわずかに安い程度だ。物価に比べてガソリン代は非常に高いと感じた。それなら、待ち時間が長くても、確実に500バーツになる半日貸切のほうが有り難い仕事なのかもしれない。こちらにとっても、帰りの「足」を心配しなくていい半日貸切を、たった1500円程度でやってもらえるのなら、何も文句はない。女性だけでチェンマイに行った日本人が、物凄く乱暴な運転をされて不愉快な思いをした・・・ という体験を書いているのを読んだが、今回Mizumizuは男連れだったせいか、そういう「女性を甘く見た嫌がらせ」的なことは皆無だった。女性だけの旅行はどうしても、そうした不快な目に遭う確率は高い。弱い者、弱そうに見える者は軽んじられる。それが世界というものだ。吹っかけもほとんどなかった。一番高かったのが、40バーツ(120円)で行く市内を80バーツと言われたこと。これだって「吹っかけ」というほどのことですらない。トゥクトゥクの「吹っかけ」も、「着いてみたら倍の値段を言われた」と書いてる人がいたので少し警戒していたのだが、まったくなかった。ターペー門からワロロット市場(距離的には非常に近い)まで、ヒマそうなトゥクトゥクのおじさんが声をかけてきたので、「40バーツなら乗る」と言ったら、ややしぶしぶながらOKした。そうそう、1度チェディ・ホテルで、旧市内まで「60バーツ」と言ってきたトゥクトゥクの青年がいた。「40バーツ」と言ったのだが、「50バーツ」と頑固なので、断った。すぐに流しのソンテウをつかまえて、40バーツで行ったことは言うまでもない。ワロロット市場で客待ちしているソンテウに声かけられて、「チェディ・ホテルまで」と言ったら、「60バーツ」と言われたこともある。当然「40バーツ」と交渉したが、シブるので、断って、流しのソンテウを拾って、もちろん40バーツで行った。こんなふうに、せいぜい言ってくるとしても20バーツ増し(60円)。断って流しのソンテウを見つければ、ちゃんと40バーツで行く。むしろ、客待ちして「60バーツ」と言ってくるソンテウは使わないほうがいい。「外国人は60バーツで行く」ということになれば、それが相場になって、だんだん高くなる。この便利なソンテウ、だがしかし、何度も書いたように、乗り心地は最低。それに結構危険でもある。まずは、入り口。後ろから、この荷台(笑)にヨイショっと乗り込むのだが、天井が低いので、最初に乗ったときは、まず間違いなく頭をぶつける。気をつけましょう。座席はこんな・・・レトロというのか、単にボロボロというのか・・・ ちなみに、もうちょっとマシなソンテウも多いです。個体差あり。運転席と荷台客席の間には、仕切りがあるので、基本的に運転手と話はできない。そして、この客席も、とってもアブナイ。座席と壁の間に三角形の金具が出ている。ここ、1度は必ずお尻をぶつけて、「イタッ」となる。勢いよく座って腰骨ぶつけたら、相当痛いこと間違いなし。気をつけましょう。旅行者は、ソンテウに乗る前に、運転手に行き先を告げて、運賃を確認するといい。現地の人は黙って乗り込んで、降りたい場所でボタンを押して運転手に意思表示をするみたい。便利で安心なソンテウがすっかり気に入って、メーター・タクシーは結局、空港からダラ・デヴィに行くときに1度使っただけ。本当にタクシーは走っていない。
2009.08.30
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ルネサンスの天才、レオナルド・ダ・ヴィンチが38歳のときに書いた日記に、以下のような記述がある。「1490年マッダーレナの日(7月22日)、ジャコモ来たりて我とともに住む。10歳である」(『レオナルド・ダ・ヴィンチ』 田中英道著 講談社学術文庫)ジャコモは輝くような金髪の巻き毛をもつ美少年だったという。レオナルドはこの10歳の少年に、ルイジ・プルチの叙事詩『モルガンテ』に由来する、悪魔と同義の「サライ」とあだ名をつけ、少年の素行の悪さに手を焼きながら、結局死ぬまでそばに置き、面倒を見ている。サライとレオナルドのエピソードについては、「快楽と苦痛の寓意」のエントリー参照。サライをモデルにしたといわれるデッサンは、こちらを参照。そのサライが好んで食べたといわれるのが、「アニスの実の砂糖菓子」。アニスの実はイタリアでは、非常に好まれるフレーバー。アニス酒やアニゼット酒もポピュラーだし(アニスのお酒については、こちらのブログが詳しい)、アニスで風味付けしたスイーツも好んで食べられている。Mizumizuも大好き。こちらのサイトによれば、アニスの実の芳香は、甘草に似ているという。確かに、クセのある一種クスリめいた強烈な風味は共通しているかもしれない。そして、ヨーロッパ(特に地中海沿岸地方)では好まれるのに、日本ではあまり見ないという点でも共通している。だが、そこは何でも売ってる21世紀のトーキョー。見つけました、サライが好んだ「アニスの実の砂糖菓子」に現在一番近いと思われるスイーツを。イタリア、トリノのメーカーLeoneのアニスのPastiglie。Pastiglieはいわゆる「ドロップ」のこと。ただ日本語ではドロップというと、フルーツフレーバーの半透明のお菓子を思い浮かべるせいか、「アニスのラムネ」と紹介されていた。ドロップと呼ぼうとラムネと呼ぼうと、要するに、砂糖を固めたもので、風味付けにアニスを使っているということだ。で、このイタリア式アニス風ラムネ・・・うまぁ~い!口に2つも放り込めば、強烈な甘い芳香がいっぱいに広がる。歯磨き粉のような「清涼感」もあり、薬草のような苦味もある。口臭防止にもなりそう。この小さな砂糖菓子にここまでアニスの風味を付けるというのが、実にヨーロッパ的。この手の味に慣れていない「昔ながらの」日本人だと、「うわ~」「ゲ~」と言って吐き出すかもしれない。そのくらい、クセが強い。ところで、アニスについて、ウィキペディアを読んでいたら、意外なことがわかった。アニスはセリ科の植物で地中海東岸が原産。スターアニス(八角)はシキミ科で中国(南部)原産。日本でアニスと言ったら普通、スターアニスを指すと思うのだが、アニスとスターアニスは、「植物学上の類縁関係にはない」そうだ。ただ、成分のほとんどがアネトールであることが共通しており、スターアニス(八角)のほうが安価ゆえ、アニスの代用品として使用されることがあるのだとか。へ~へ~へ~我が家では、午後にミルクティーを飲む習慣がある。スパイスの効いたチャイにすることもあるが、たいていは煮出したスターアニスもしくはシナモンスティックで風味付けしている。Leoneのアニスの砂糖菓子の風味は、ウチで使ってるスターアニスと基本的にまったく違いは感じられない。ただ砂糖菓子のほうが、断然香りが強い。アニスの原産地に近いイタリアの老舗メーカーが、スターアニスをアニスの代用に使っているということはないと思うが、どうだろう。レオナルドがサライと出会ったのはミラノ。Leoneはミラノと地理的にも比較的近いトリノの老舗メーカー。ルネサンス時代の北イタリアのお菓子の伝統を受け継ぐには適役だ。レオナルドのメモによれば、サライはレオナルドが他人から贈られたトルコ革(靴をつくるための革)を盗んで売り払い、それでアニスの実の砂糖菓子を買って食べたという。この不良少年は、だが、レオナルドの生活に混乱をもたらしただけではなかった。サライを得てからのレオナルドは、あたかも「子供を授かった男性」がそうであるように、仕事により邁進し、宮廷画家として確固たる地位を築く一方で、さまざまな分野の研究で成果を挙げていく。当初レオナルドを怒らせたサライの盗みグセも、少年が大人になるにつれて、落ち着いたのではないかと思う。レオナルドの28歳年下のサライに対する愛情は、ちょうどジャン・コクトーの24歳年下のジャン・マレーに対する愛情が、息子に対するそれと恋人に対するそれと混じり合ったものだったのと似ているかもしれない。17歳になったサライに、レオナルドは緑のビロードの付いた銀色のマントを贈っているが、コクトーも戦争中、出征中のマレーに「手元にもうお金はほとんどないけれど、君が晴れの場に出たときに着る服をあつらえるための費用だけは残しておきたい」と手紙を書いている。レオナルドに愛された美少年を虜にしたこのスイーツ、東京では日本橋の三越で買える。ダルジュロスのマカロン(←勝手に命名)も同じデバートで購入可能。予告どおり(?)週末にゲットしました。ローズのマカロンも今回はあった。どれもこれも麻薬めいた魅力があるが、伝統的な日本人の味覚には合わないかもしれない。そういうものでもちゃんと売っている、さすが世界都市・東京。
2009.09.06
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マントンからニースに帰って来たときは、もう日が暮れかけていた。バスターミナルはちょうど旧市街の近く。旧市街にはレストランが多い。やはり、ニースに来たからには、一度ぐらい旧市街のレストランで食べてみたい。ということで、道をわたって旧市街に入った。野菜好きのMizumizu母にはラタトゥイユ(野菜のトマトソース煮込み)などいいのではないかと思い、南仏の家庭料理を食べさせてくれるようなレストランを探したのだが、そういう店はそもそもあまりニースにはないようだ。いや、あるのかもしれないが、観光客が何も知らずにウロウロしてすぐに見つかる場所にはないということ。ラタトゥイユなんて、ニースあたりならどのレストランでもあるんじゃないか、などと考えていたのだが、とんだ見込み違いだった。旧市街に入って、賑わっているカジュアルなレストランをのぞいても、またもピザだのパスタだのを出すイタリアンの店。フランスでイタリアンはできれば避けたい。ふと見ると、その横に、エスニック風の店がある。メニューを見ていると、東洋人がかった白人というのか、白人っぽい東洋人というのか、不思議にミステリアスな初老のウエイターが出てきて、「どうぞ」と愛想よく誘う。プロムナードデザングレのホテル、ウエストエンドで食べたエスニック風のスープも地中海的アレンジが面白かったし、よし、じゃあ、ここにしてみようと入ることにした。ウエイターはとても親切で、東洋的なサービス精神を感じた。メニューは何がなんだかよくわからいのだが、カレーつきの子牛のケバブと野菜スープ、それにハーフサイズの赤ワイン(ボルドーのメルロー+カルベネソーヴィニヨン)を頼んだ。これは、ごくごく普通の爽やか系。以前は、フランスは日本に比べてワインは格段に安くて美味しいという印象だったが、今は日本にも南米あたりの安くてそこそこのワインが多く入ってきているせいか、レストランで普通のワインを頼む分には、フランスのほうが安いとも美味しいとも思わなくなってしまった。ヤレヤレ。デイリーワインを生産しているフランスのワイン製造業者が、最近こうした第三国の安いワインに押されて商売が苦しくなってきているというのも頷ける。で、料理はと言えば・・・結果として、かなりアタリのレストランだった。子牛は柔らかくクセがない。カレーソースも野菜たっぷりでマイルドな酸味が上品。サラサラした長米に非常によく合う。米にはラタトゥイユ風に料理した野菜と干し葡萄がのっていた。さらに、カッテージチーズをまぜたほうれん草のソテー(手前)とすりおろしたリンゴ(奥)、それに生野菜が添えられ、実に健康的なプレートになっている。野菜のスープも、エスニックというよりアラビックと呼びたい逸品。煮込んだ豆の食感とヨーグルトの風味が新鮮。どこか懐かしいようでいて、これまで食べたことのない味だ。「どう?」と聞いてきたウエイターに、「素晴らしい」と褒めちぎるMizumizu。「シェフはフランス人なの?」と聞くと、「ノー、アフガン」だという答え。そして、「私も、半分フランス人、半分中国・ベトナム人だ」とのこと。へ~~~~そう言われて周囲を見ると、お客も白人にまじってアラブ系らしい人も多い。なんともインターナショナルな、不思議空間だった。料理に大満足したので、デザートも追加で取ってみた。「カルダモン風味のミルクプリン」ということだったのだが・・・これはカルダモンをふった甘いミルクをゼラチンで固め、アーモンドを散らしただけ・・というシロモノだった。しかもゼラチンの量が多すぎて、固まりすぎやあ。デザートは素人臭かったけれど、全体としては非常に満足。値段は41ユーロ(5244円)。めずらしくチップをテーブルのうえに置いてきた。向こうは全然気づいていないようだったけれど。フランスのレストランはカード決済のときにチップを書き込む方式でないのがいい。あの書き込み方式、Mizumizuはどうにも信用できない。レストランのチップは元来給料の安いウエイターへの心づけだ。いや、それだって基本的に変な話だと思う。アメリカあたりでは、この「習慣」あるいは「洗脳」は社会の隅々まで行きわたっていて、誰もかれも、チップを払うのは、「あの人たち(ウエイター)は給料が安いから」だと口を揃える。この件に関しては、みな同じことを言うのだ。どれだけその理屈がアメリカ人に刷り込まれているか、よくわかる。だが、よく考えてみて欲しい。決まった価格でサービスを客に提供する、そのためのスタッフに適正な給与を支払うのは経営者の義務なのだ。もし売上げが少なくて給料を十分に払えないというのなら、スタッフを少なくするか、経営の取り分を少なくするか、あるいは値段を上げるのが筋だ。客から正規の料金を取り、そのくせ労働者の給料をめいっぱい安くして、その埋め合わせを客にさらに負わせるなど理屈が違うだろう。チップではなくサービス料として一括に客から徴収するほうがよほど透明で公正だ。実際に、アメリカでもNYのような都会ではレストランはそうなってきているが、それでもサービス料を15%だの17%だの取った上に、できればチップもよこせ、という店も多い。チップを直接ウエイターにわたすならともかく、上乗せ料金をカードに書き込んでしまったら、経営側に売上げの一部として入ってしまい、肝心の「給料の安い」ウエイターにちゃんと行く保証がなくなってしまう。実際に、寿司を売り物にしているアメリカの高級和食レストランでは、チップをマネージャーや寿司職人に多く振り分けていたとして、ウエイターから訴訟を起こされた。こうしたレストランのチップはとっくにチップでなくなっているのだ。バンコクのオリエンタルホテルでは、宿泊客がレストランで食事をすると、チップ上乗せをしない請求書が部屋に回ってくる。ところが宿泊しない客がレストランで食事をしてカードで払おうとすると、ちゃっかりチップを客が書き込む方式になっている。宿泊客と非宿泊客で請求方法を変えているというわけだ(苦笑)。イタリアでは、チップ書き込み式している観光客相手のレストランもあるが、老舗のレストランに行くと、常連客がウエイターのポケットにお金を突っ込んでいるのを見かけることもある。ああいうのが、本当の「チップ」だろう。店を出ると、あたりはすっかり夜で、ライトアップされた旧市街の古い建物が美しかった。マセナ広場からプロムナードデザングレを通ってホテルまでは徒歩でも、10分ほどだし、特に危険な道でもないのだが、できれば近くまでバスで行きたいと、サン・ミッシェル通りのバス停(バスターミナルではない)で、若い黒人のお兄さんに、「ホテル・ネグレスコのほうに行くバスはあるか」と聞いてみた。ネグレスコの名前を出せば、知らない人はまずいないはずだ。すると、驚いたように、「すぐそこだよ。歩いて2分」などと言い、熱心に身振り手振りで、「まっすぐ行って、海に出たら右に行って・・・」と教えてくれる。おかしいのは、その仕草がすでにラップダンスになっているということ。いや、カモシカのようななが~い足のキミには歩いて2分かもしれないけどね、我々が歩いたら15分はかかるわ。親切な天然ラッパーの黒人のお兄さんをやりすごして、バスの運転手に聞くと、「XX番のバスが近くまで行く」と教えてくれた。教えられたバスに乗り、「ホテル・ネグレスコのそばに来たら教えて」と頼み、例によって忘れられないように、運転席のそばに座った。バスはプロムナードデザングレではなく、2本入ったBuffa通りを西に走る路線だった。だいたいのところで、「降りるのは次?」と聞くと、「そうだ」と言われ、次で降りた。結局プロムナードに出るのに、2ブロック歩き、そこからまた2ブロックほど歩いたので、たいしてラクにはならなかったのだが。
2010.06.05
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1950年代末から1960年代の初めにかけてフランス映画界で巻き起こった時代劇ブーム。騎士道華やかなりしルイ王朝時代のロマン活劇を、ジャン・マレーは3年の間に4本も撮っている。そのうちの3本の監督を務めたのが、アンドレ・ユヌベル。時代劇ブームが去り、スパイ映画が流行ると、今度は再びジャン・マレーと組んで『ファントマ』3部作を撮り、これもヒットさせた。『怪傑キャピタン』はアンドレ・ユヌベルがジャン・マレーをキャスティングした騎士道活劇の2本目(1本目は『城塞の決闘(Le Bossu)』)で、日本でもDVD化されている。◆新品DVD★ 0922PUP2 【080918_dvd】 【080925_dvd】 ユヌベル作品のよいところ――好みによっては、物足りないところにもなるかもしれないが――は、過剰なお色気がない、残酷なシーンがない、娯楽に徹していて深刻でないことだ。ジャン・マレー主演作品に関して言えば、ジャン・マレー+喜劇役者+美女をセットにしたことが映画がヒットした最大の理由だと思う。ファントマで共演したルイ・ ド・フュネスは、騎士道モノでもマレーと組んでいるが、彼のおもしろさは、なんといっても弾丸のようなそのしゃべり。一方、 『怪傑キャピタン』のブールヴィルは「間」のおもしろさが絶妙の喜劇役者。そしてブールヴィルは外見からは想像もつかない(?)美声の歌手。『怪傑キャピタン』でも、ブールヴィルはハッピーな歌を存分に披露してくれ、結果、作品にミュージカルのような楽しさが加わった。下の写真は王妃(イタリアのメディチ家から来たマリー・ド・メディシス)付きの侍女との間に、恋が芽生えるシーン。聞きおわったあとすぐ口ずさみたくなるようなキュートなメロディにのせて、楽しげに侍女の周りを踊るブールヴィル。ブールヴィルはどうみても大道芸人なのだが、自称「詩人」。だからって、この歌詞…………ジャン・コクトーへのイヤミですか?(笑)コクトーはジャン・マレーへの手紙で、「君の『怪傑キャピタン』と『クレーヴの奥方』を観るのを楽しみにしています」と書いている。『クレーヴの奥方』はコクトーの脚色、大御所ジャン・ドラノワ監督だったのだが、現在の日本では観ることはほぼ不可能。封切り当時も『怪傑キャピタン』のほうがヒットした。騎士道物語の原則は、日本の時代劇と同じく勧善懲悪であること。なので悪役は……「完全超悪」なワルモン面。リナルドという名前といい、巻き舌でRを発音するところといい、明らかにイタリア人。今じゃ、こんな差別的な設定は難しいだろう。『ファントマ』でジャン・マレーの恋人役だったのは、コケティッシュでセクシーながら、「脱がない美女」だったミレーヌ・ドモンジョ。ユヌベル監督というのは、この手の過剰でない媚態を発散させる美女をキャスティングするのが得意。そして、しばしば「もう1人のタイプの違った美女」も登場させる、とっても視覚にウレシイ監督なのだ。それでいて、007シリーズのように、入浴シーンだのベッドシーンだののような露骨なお色気シーンがない。この「慎み」もMizumizuがこの監督が好きな理由だ。1960年代のフランス映画ならではの、洒落た大人の演出という気がする。ハリウッドでもルイ王朝時代の騎士道モノは作られるが、どうしてもアメリカンな俳優がフランスの時代劇の主役を演じると違和感がある。そこへいくと『怪傑キャピタン』は衣装といい、景色といい、役者の表情や立ち振る舞いといい、フランスそのもの。フランスの香り、という気取った言葉よりむしろ、土着の匂いと言ったほうがふさわしいかのもしれない。そう、ルイ王朝時代の騎士道物語というのは、必ずしも絢爛豪華なだけではない、そこはかとない「ローカルさ」もただよっているのが魅力なのだ。『怪傑キャピタン』のヒロインはイタリア人のエルザ・マルティネリ。ちょっと離れ気味のつぶらな瞳がなんともチャーミングな美女。初登場シーンは……なぜか男装!? ストーリー的にはあんまり意味のない男装。コスプレの原点かもしれない。彼女は勇敢にも、ピストル一発でジャン・マレー演じるド・カペスタンの危機を救う。彼女の名はジゼル。緑の羽飾りをなびかせた「リボンの騎士」といったところ。とにかく麗しいの一言。さっそく一目惚れしたド・カペスタンは、「私につかまって!」とかけよったリボンの騎士の背中に……早くもジワジワ~と腕を回し、つかまるというより、ほとんどすでに抱きしめている。騎士道原則その1:気に入った美女には、すばやくストレートにモーションをかけるべしでもって、傷ついた自分を手当てしてくれるリボンの騎士に、ド・カペスタンは……またジワジワ~と腕をなぜたりして、わかりやす~いアッピール。ところが、いつの間にかリボンの騎士が、フランス人形に変わってる!?こ、こっちでもイイのでは? と思わせる金髪碧眼の美女。さてさて、ブールヴィル演じる大道芸人のコゴランは、「まさお君」をさらにダメにしたようなワンちゃんを連れて旅をしている。左、フランスのまさお君。右、コゴランの芸を楽しんでみてるド・カペスタン。コゴランは得意の美声を披露。ところが! コゴランは旅の途中で、強盗に襲われ身ぐるみ剥がれてしまう。主人の大ピンチだっていうのに……馬車で「お座り」して見物してるまさお君(右)。全然役に立たない…(笑)。さらに、ご主人がこんなになっちゃったというのに、まさお君は……明らかに足元でノンビリしてる。そこへ、都合よくド・カペスタン登場。2人はともに旅することに。しかし、コゴランのこの↓台詞には驚いた、というか笑った。道で動物を使った芸を見せてコインを投げてもらっていたので、旅の大道芸人と思いきや……え? 詩人だったの?ジャン・コクトーに対抗してるだけでは?ちなみに、コゴランは映画中歌は歌うが、詩を披露することは一度もない。歌う詩人ということなのだろうか。詳細は映画公開から50年たった今も不明……「旅する騎士の友になってくれ」とド・カペスタンに言われ、喜んで承知するコゴラン。「あなたの恋人たちのために、(詩人の私が)愛の詩を作りましょう」とまるでシラノ・ド・ベルジュラック気取り。そんな詩人に騎士は、「恋人は……」と純な台詞。騎士道原則その2:騎士は一途であるべしそこへなんと、消えてしまったリボンの騎士が、貴婦人になって登場。喜んで声をかけるド・カペスタン。ああ、なのに……貴婦人になったリボンの騎士は、こんなにもつれないのであった。ガ~ンとなるド・カペスタン(左)。「これは何かある」とふんだ騎士は詩人に、「彼女の使用人に酒を飲ませて、彼女の名前を聞きだせ」と軍資金を渡すのだが、夜酒盛りをした詩人は自分のほうが酔っ払ってしまい、相手から情報を聞き出すどころか……ド・カペスタンのことをベラベラ。さすがにまさお君の主人だ。「何か聞き出したか?」というド・カペスタンに……って……。詩人って役に立たないなあ。翌朝、リボンの騎士はパリに発ってしまい、恋する騎士は後を追いかける。美女は途中、山賊に襲われ……そこへ、ド・カペスタンがマントをひるがえしてカッコよく登場!もうもうと上がる土煙、カーブを描いた道を疾走する馬、馬上で大きくサーベルを引き抜く騎士、たなびくマントと帽子の羽飾り――すべてが完璧。ことに衣装に使われている赤が非常に印象的で、かつ美しい。これぞまさしく、騎士道映画の王道を行く場面。<続く>
2008.09.19
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ザンクトギルゲンからザルツブルクへ行く間に、フシュル湖畔にある古城ホテル「シュロス・フシュル」に泊まった。シュロスは城という意味で、15世紀の大司教の館として建てられた由緒ある建物だ。ホテルのグレードとしても5つ星。なるほど、ロケーションといい建物の雰囲気といい、素晴しい。午後着いてすぐ、ホテルのテラスでお茶をした。ちょうど、天気がよく、午後の日差しを受けてフシュル湖が宝石のように輝いていた。頼んだチョコレートケーキも最高においしい。夜もここで、アスパラ(初夏のドイツ語圏ではこればっかり)と肉料理に舌鼓をうつ。味はよかった。部屋は「グランド・デラックス」という湖の見える部屋にしたのだが、窓をあけると大木が湖の眺望を阻んでいた。部屋もグランドではなかった。ただ、設備はたしかにデラックスだった。ところで、このホテル、ハード面では確かに5つ星にふさわしくゴージャスなのだが、ソフト面、もっといえばホテルの従業員がいただけなかった。まず、ホテルに着いて、エントランスの階段をのぼるとき、ポーターが入り口にいるのだが、見てるだけで何もしない。齢70を超えようという母が自分で荷物を運び上げようとしている姿を見てるのに、だ。そこでMizumizuがポーターに「手伝ってあげて」と英語で話しかけた。すると…!「ハァ~ン?」と言うのだ。つまり、英語が通じてない!英語が分からなくても、こういう場合、何を言ってるかぐらいは想像つきそうなものだ。だが、この手のことには慣れているMizumizuは、すぐにドイツ語に切り替えた。すると…!「Ja!」と、ものすごく感じのよい声音で答えて、さっと母の荷物をもってくれた。5つ星のホテルのポーターが英語ができないなんて、ありえるのだろうか?? いや、もしかしたら、彼はポーターではなくて庭師か何かだったのかも。そういえば、服装がそれっぽくなかった。だったら、ポーターはいったいどこにいたのだろう?また、メイドの態度もいただけないものだった。夕食を終えて部屋に帰ってくると、ベッドメイキングがされていない。何回ベッドメイキングをしてくれるか、それがどの程度丁寧か、というのが、高級ホテルのソフト面を評価するバロメーターだ。たとえば、今度サミットが行われる北海道・洞爺湖の「ザ・ウィンザー・ホテル洞爺」は外出から戻ると常にベットがきちんと整えられていた。シチリアの「サン・ドメニコ」では、ディナーから戻ると脱ぎ散らかした服をちゃんと整えておいてくれた。ところが、シュロス・フシュルではメイドが仕事をした気配がない。そして、なんと午後10時を過ぎてやってきて、ノックをし、ドア越しにワザとらしく優しげな声で「ベッド・メイキングにきました」とのたまうではないか。「普通なら夕食の間にやっておくことでしょう」と、説教を垂れようかと思ったが、疲れていて面倒なので、「もうやってしまった。必要ありません」とだけ言って去ってもらう。こんなわかりやすいサボり方をして、ベッド・メイキング(つまり自分の仕事)を省略して嬉しいのだろうか。ゲストをバカにしている。やはり、きちんと抗議すべきだったと思う。日本人はたいてい、失礼なことをされても、「まあ、いいや」とイイ人になったつもりで何も言わないが、こうした事なかれ主義的な態度の人間は、ヨーロッパでは「都合がいいヤツ」とは思われるかもしれないが、「尊重」はされない。チェックアウトする際にも、「ポーターを部屋によこしてくれ。母が荷物を運べないので」とフロントに伝えたのに、「Yes」といいながら、先に支払いを済まさせようとしている。ジョーダンではない。支払いを済ませたら(つまりフロント係の仕事が終ったら)、さっさと奥に引っ込んでポーターのことなど知らんふりしかねない。そこで、再度、「ポーターを部屋によこしてくれ。母が荷物を運べないので」とオオムのように繰り返した。こういうときに感情的になってはダメなのだ。あくまでこちらの意思をきっちり伝えなくてはいけない。それでフロントのねーちゃんはようやくポーターを呼ぶ。さらに、支払いのときに、明細をみたら、UNICEF 1 Euroとあるではないか。ナンじゃこれ? と思って聞くと、「ユニセフに1ユーロ寄付してもらっている。かまいませんか?」と慌てた様子。別に1ユーロぐらい、いいといえばいいが、寄付をお願いするなら先に言うべきではないのだろうか? あるいは、明細を見せながら自分で説明すべきだろう。明細を突き出しておいて、こちらがチェックして見咎めてから、「かまいませんか」ってのは筋が違う。それに、ホントにユニセフに寄付するかどうか、アヤシイものだと思う。各ゲストから1ユーロずつ勝手に徴収して、それを彼らがただの収入にしていないと、どうやって証明できるだろう?というワケで、この古城ホテル、ソフト面でのサービスは最低レベルに近かった。ちなみに、確かアメリカ資本のホテルグループ傘下に入っていたと思う。宣伝は超一流だ。ネットのホームページを見るとどんな素敵な夢のホテルかと思う。もちろん、その後、改善されたかもしれない。ただ、あくまで一旅行者として宿泊してみての感想は、「サービス業のプロとしての従業員の意識が低い」というのが正直なところだ。ちなみに、ウェイターはまずまずだった。このホテルでは、日本人の団体客10人ちょっとと遭遇した。ちょうど日が落ちかけるころ着いて、バスから降りたご婦人方は、だいぶ疲れているようで、ホテルの入り口の階段に腰を下ろしてしまった。添乗員は、フロントで仕事の遅いオーストリア人相手に必死になっている。せっかく5つ星のホテルに来たのに、エントランスの階段(つまり外)で待たされるなんて、かわいそうだ。そのホテルはエントランスを入っても空間が狭く、フロントデスクしかないが、実は右のほうへいけば、ゆったりとしたサロンがあるのだ。そのサロンは狩猟の館としてのこのホテルの歴史を物語るしつらえで、暗いといえば暗いが、非常に雰囲気がある。ヨーロッパの人間は、こうした空間でくつろぐのが好きだ。本当なら、チェックインまで、こうしたサロンのソファで待つのが当たり前ではないのだろうか? だが、ホテルの従業員は何も言わない。日本人客も、「こんなところじゃなくて中に座って待てる場所はないの?」とも思わない様子で、石の階段にへたりこんでいる。日本人団体客が着いたのは日暮れどきだったから、残念ながらフシュル湖は上の写真のような色ではなかった。光線の具合もあるから、湖や海が本当に美しく見える時間というのは、実は1日のうちでも限られている。団体客は夜のテラスでディナーをとり、翌朝は早く発ってしまったようだ。部屋も湖に面していない別棟のほうを割り当てられていたから、このホテルのロケーションのよさは、それほど味わえなかったのではないかと思う。他人事ながら、ちょっと残念だった。もう3時間早く着けば、宝石のように輝く湖の美しさを堪能できたのに。だが、ツアーを企画する旅行会社としてみれば、午後の早い時間に着いて、天気が悪かったらどうする、というのもあるだろうと思う。湖畔の古城ホテルというのは、孤立した場所にあるから、近くにお土産屋があるわけでもない。ホテルのまわりを散策といっても、それほど時間はつぶせないし、あまり早い時間にホテルに入ってしまっても、クレームのネタになるかもしれない。だが、一方で、バスから降りてすぐ、石の階段にへたりこむほど疲れた様子を見ていると、そんなに引きずりまわすのもどうかな、という気もしてくる。翌朝もずいぶん早かったようだし、あれでは疲れが取れないだろうな、とも。Mizumizuたちはといえば、個人旅行の気楽さで、午後ゆったりお茶をのみ、ちょっと散歩し、寝心地のいいベッドでウダウダし、朝も遅めに起きて、お昼近くになってからザルツブルクへ向かった。名所・旧跡をひたすら精力的に回る旅行も、若いうちはいいが、そればかりでは疲れてしまう。ロケーションのいいホテルで「何もしない」という贅沢も、すでにやめられない快感になっている。
2007.10.05
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宝塚に行ってきた。お目当てはもちろん手塚治虫記念館。特別展として火の鳥の原画が展示されているし、絵本作家の鈴木まもる先生の『火の鳥』も発売になって、同氏のトークイベントとサイン会がある。これは行かないと!ということで、プランニング。宝塚なので日帰りもできるのだが、体力面を考えて前泊することにした。宝塚は週末はホテルが高いので、新幹線の着く新大阪に泊まり体力温存したうえで、翌朝、満を持して出かけることに(←おおげさ)。事前に新大阪から宝塚の行き方を調べたのだが、複数あって便利のようで、案外面倒だった。というのは、直通だと時間がかかり、乗換ルートのほうが速いのだが、その乗換も複数ある。ネットで検索して調べた結果、一番簡単なのが尼崎で乗り換える方法だという結論に達する。このところ、スマホが外で具合が悪くなることが増えてきた。現地でそんなことになると慌てるので、一番効率よく、時間帯もよく宝塚に行けるルートを紙に手書きするMizumizu。で、当日予定どおりの時間に新大阪駅のホームで網干行き快速を待っていると、真後ろで駅員に宝塚に行く方法を聞いてる女性がいた。駅員が「宝塚行きはこっちのホームだけど、こっちで乗換るほうが…」というような説明をしている。そうそう、直通はそっちなんだけど、こっちの快速のが速いし、乗換も多分向かいのホームなので楽なのだ。駅員の説明に、ちょっと戸惑ったような表情を浮かべる女性。この時間に新大阪駅から宝塚と言ってるということは、宝塚劇場か手塚治虫記念館目的なのは明らか。なので、メモを指し示しながら、女性に、「私も宝塚に行くのでご一緒しましょう」と話しかけた。女性は、いきなり話しかけられて、一瞬びっくりしたよう。でも、メモ書きを見ると納得したようだった。駅員も「ありがとうございます」と行ってしまった。二人で快速に乗り込んで座る。彼女もやはり乗換が面倒だと困ると思っていたらしい。尼崎なら乗換も簡単みたいですと説明する。宝塚に行く目的を聞くと、劇場のほうだという。こちらは手塚治虫記念館だと言うと、「手塚治虫、好きです」と! 『リボンの騎士』『アトム』、それになんと『W3』まで名前が出てくる。え~、『W3』まで見てた? それ、ガチ手塚(筋金入り手塚ファン)じゃないですか。宝塚劇場に行くということは…と思い、『ベルばら』の話をすると、なんと初演に行ったというではありませんか。マジですか? 榛名由梨の時代? Mizumizu「『ベルばら』見にいきたいんですよね~」彼女「やってますよ!」Mizumizu「『フェルゼン編』でしょ~(←なぜかちゃんと調べてる)」彼女「『オスカル編』がイイですか~?」など、初対面なのに話が盛り上がる。彼女は少女漫画にも詳しく、里中満智子、萩尾望都…全部知ってる。少女漫画にとどまらず、手塚直系、石森章太郎『サイボーグ009』まで知っていた。で――「高校ぐらいのときに、いったん離れなきゃと思って」そうそう、当時の少女たちはたいていそうだった。大人になる準備をする時期に、アニメや漫画からは離れなくてはと思うものなのだ。今、『ポーの一族』で国際的な名声を得た萩尾望都も、当時は、「あれ(『ポーの一族』)を描いたのは24歳(←この年齢は記憶ベース)の時だから、そのくらいまでなら読めるのかな」と言っていた。つまり、20歳半ばには読者も卒業するのだろうと。だが、『ポーの一族』は平成に入って少女漫画歴代ナンバーワンの名作に選ばれた。最近になってフランスで出版され、衝撃を持って受け入れられた。そうした流れの中で、日本でいったん卒業した読者も戻ってきて、豪華版など買っている(←Mizumizuね)。あのころが少女漫画ルネサンスの時代だったのだろう。そして、ルネサンス期の少女漫画家を創生したのも、手塚治虫なのだ。池田理代子も里中満智子の対談で、「私たちのころは、みんな手塚先生よね」と話していた。Mizumizuは『リボンの騎士』がなければオスカル様もない…ような気がしているのだが、それについて池田理代子自身が話しているのは聞いたことがない。ただ、オスカルのビジュアル面でのモデルがヴィスコンティ監督の『ベニスに死す』のアンドレセンだという話は知っている。さて、話が盛り上がって、宝塚に着くと、今後は彼女が道案内をしてくれた。その時に、クラシカルな外観のティールームのそばを通ったのだが、「ここは紅茶がおいしい」「シナモントーストがおすすめ。お好きなら」と教えてくれる。実はホテルでトースト食べてしまったのだ。それも、売れ残りのパンの半切れみたいな情けないトースト。しかも冷めかけ。パンはほかにもあったが、全部「コストコ」の安い冷凍パンを大量に仕入れました…みたいなクオリティで、がっかりだった。で――手塚治虫記念館は予想以上に見ごたえがあり、なかなか上階に行けない。生前の手塚治虫を知る有名人たちの話をビデオで流しているのも、それぞれの「手塚先生」像が面白くて、全部見終わるまで立てない。手塚治虫の実験アニメーションは定評があるが、一番好きな『Jumping』を大きな画面で見ることができて、満足満足。『おんぼろフィルム』は、「ここ笑うところですよ〜」と思ってるところで笑っている人がかなりいて、「うんうん、ここツボだよねー」と、自分の演出でもないのに、勝手にニンマリ(Mizumizuは何度も見てるので笑いませんでした)。肝心の企画展を見る前に、鈴木まもるx手塚るみ子トークイベントが始まってしまうという始末だった。ランチを食べる間もなく参加するMizumizu。トークイベントに続いてサイン会もあり、ひとりひとりに丁寧にサインする鈴木先生。トークイベントも面白かったが、サイン会でも、みな先生と一緒に写真を撮ったりしながら盛り上がっていた。やっと企画展の『火の鳥』原画を見る。六本木であった『ブラック・ジャック』原画展ほど数は出ていなかったが、えりすぐりが出展されていて、「見たかったページ」はほぼ見せてもらった感じ。かの有名な「乱世編 村祭り」(←もうこれ、国宝級ね)の見開きもありました。カラーもあって、『火の鳥』の時代の彩色はアシスタントによるものがほとんどだと思うのだが、夕焼けの空の描写など、なかなかの力量ぶりだった。こんだけの素晴らしい作品群を「マンガは残らない。作者と一緒に時代とともに、風のように吹きすぎていく。それでいいんです」と(石ノ森章太郎に)言った手塚先生…数々の未来を「予言」した大天才だが、ここだけは大ハズシした。ただ…その言葉が「本当の本音」だったかというと…違うかもしれない。図書コーナーで未読の手塚作品を読みたかったが、さすがに夕方になって帰る時間が近づく。入場者はかなり年配の方々(おそらく『鉄腕アトム』直球世代)から親と一緒の小さな子供まで年齢層は幅広い。シニア層の男性は漫画を読み、男の子たちは熱心にアニメの画面に向かっている。大阪の夜、御堂筋線に乗ったのだが、なんと文庫本の『ブラック・ジャック』を読んでいる青年を見た。そーそー、ブラック・ジャックは面白いよね。山口の図書館でも、貸し出しが多くて、なかなか連続で借りられないのですよ。しかし…ストーリーを追うだけなら文庫本でも構わないが、やはり漫画のタッチを味わうには文庫本は小さすぎる。漫画を文庫本にするのは、Mizumizuは基本的に反対。個人的には『MW』を文庫本で買って後悔した。とりあえず、安く読みたかったから買ったのだが、一度文庫本で読むと、もっと大判の同じ作品を買う気になれない。それ以来、漫画の文庫本は買わないことに決めている。帰りの時間が近づいて、ランチ抜きだったので、目の前に「美味しい」シナモントーストのイメージが浮かぶ。もう朝トースト食べたからとか、どうでもいい。もう少し原画を見たり(何度見るのよ)、図書コーナーで本を読みたかったが、空腹に勝てず、ついに記念館をあとにした。こんだけ長く粘る入館者も多分、珍しいだろうな。グッズも買いましたよ、ほぼ1万円。紹介してもらった駅前のティーハウスサラは、満席に近くてびっくりした。オススメされたシナモントーストとアイスティーを頼む。一口食べて…うわっ、美味しいわ、これ。厚切りのパンは外はカリッと、中はもちっと。じゃりついたシュガーの歯ざわりにシナモンの香りがしっかり。朝の切れっぱしトーストとの違いは、なんなんだ。まったく。紅茶は、のどが渇いていたのでアイスにしたけれど、次はやはりポットでいただきたい。もう次に来る気になってるMizumizu。平日の宝塚ホテルが安い時にしよう。で、また次回も1日中手塚治虫記念館で粘りそう。シナモントーストも外せないから、いったん出て再入場パターンかな、いや早めの夕食か。
2024.05.12
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2024年は手塚治虫『火の鳥』発表から70周年。それを記念する形で実現したのが、日本を代表する絵本作家、鈴木まもるとのコラボレーション。火の鳥 いのちの物語/手塚治虫/鈴木まもる【3000円以上送料無料】この絵本、あちこちのメディアで取り上げられてるので、内容については、そっちをお読みいただくとして。Mizumizuは、あえてこの絵本の技法、そしてその画力の素晴らしさについて書きたい。絵本だから「絵」がキモになるはず。だが、不思議と絵本となると、絵そのものの魅力について語られることが少ないのはなぜなんだろう?まずは色彩構成が素晴らしい。表紙は黄色と赤色を配した、「非常に目立つ」構成。みんなが知ってるマクドナルドの配色もコレね。だから、本屋に並んでいても、パッと目立つはず。そして、表紙に描かれた火の鳥(ニワトリじゃないよ)の線描の美しさ。特に首のたおやかな曲線が色っぽい。線描といいつつ、微妙に色が違い、しかも「パステル併用した?」と思わせるようなカスレに画力を感じる。サイン会で鈴木まもる先生に直接うかがったところ、画材はアクリルのみだという。アクリル絵の具は使ったことのないMizumizu。水彩のような透明感は出ないが、水彩にはない力強さが出て、かつ、これだけ幅広い表現ができるのか。実は、スライドで制作過程を見たときは、遠目にはキャンバスに描いているように見えて、「え? もしかして油彩なの?」と思ったのだ。答えはアクリルオンリーでしたとさ。表紙は火の鳥の永遠の生命力を感じさせるような強い色彩構成だが、物語は漆黒の闇に浮かぶ青い地球から始まる。それから、海から山までを見開きに一挙に収めた、さまざまな生き物たち。画面いっぱいに「その場所に住む生命」を描いて見せるのは、ちょっと「かこさとし」を思い出して懐かしくなった。図鑑的なかこさとしに対して鈴木まもるはもっと絵画的。個々の動物の表現を見ていくのも楽しいページ。それから植物の発芽や動物の子育てをピックアップしたページが来て、次のページをめくると、バーンと飛び立つ火の鳥。ここから火の鳥の「再生」の物語が始まる。「手塚先生は、幼鳥の火の鳥が炎の中から飛び立つ場面は描いても、そのあとを描いてなかった。だから、そのあとの物語を書こうと思った」と鈴木先生。トークイベントでの発言だが、それを聞いて、「そーなのだ。描いてない物語をこちらが作れるようになってるのだ」と心の中で思いっきり頷く。萩尾望都は『新選組』を読んで、自分の中でいくつもの物語を作ったという。全部説明されていないからこそ、こちらの想像力をかきたてる。単に「話が飛んでる。分からない」と思う読者もいるようで、浦沢直樹は、それを踏まえてなのだろう。「(手塚先生は)よくこんなに読者を信頼していると思う。普通ならもっと説明したくなる。この(手塚先生の)数コマで、普通の漫画家は20枚ぐらい描いちゃう」というようなことを言っていたが、描かれなかった物語を作れるか、作れないか。それが手塚マンガを好むか好まないかの分かれ目になるのかもしれない。そして、手塚マンガの二次創作の難しさも実はここにある。自分で別のストーリーを作りたくなる。あるいは、複雑な手塚物語をもっとシンプルな展開にして分かりやすくしようとする。だが、たいていそれは(作り手が情熱をもって取り組んだとしても)凡庸なものになり、あげくガチ手塚から「つまらない。手塚作品の冒涜」などと酷評されるというオチになる。絵についても、そう。それこそ漫画家でも浦沢直樹ぐらいの力量がなければ、「なにこの下手な絵」と言われ、お決まりの「手塚作品への冒涜」というレッテルが待っている。鈴木まもるの『火の鳥』は、この2つのハードルを超えている。炎の中から再生した幼鳥の火の鳥(ここは手塚作品に描かれている)が、巣の中で憩い、成長し、周囲の動物たちに影響を与えていく。世界で唯一の(←自称)「鳥の巣研究家」鈴木まもるにしか描けないストーリーだ。トークイベントで手塚るみ子氏が、「手塚(治虫)がこの絵本を見たら、『これ、アニメにしたいよね』と言い出しそう」と絶賛していたが、そう言われて、「確かに!」と思った。巣の中で休む火の鳥の「静」と踊る火の鳥の「動」の描き分けも素晴らしい。これは踊る火の鳥。鳥の体のふくらみの柔らかなセクシーさ、脚の硬い質感と動きの自然さ――写実一辺倒ではないのに、よく感じが出てる。いや~、うまいな~。だから、この『火の鳥』は、子供に買い与えるというだけのものではなく、絵の勉強をしたい人たちにも、強くオススメしたい本なのだ。水彩画に近いにじみやカスレ、油彩に近いマットな重ね塗りなど、使われている技法は枚挙にいとまがない。で、その鈴木まもる先生が手塚治虫原画を見ての感想が…http://blog.livedoor.jp/nestlabo4848/archives/58371708.html会場には手塚先生の「火の鳥」の原画が展示されていました。これが凄い!今回手塚先生の生の原画を始めて見ましたが、ものすごく美しい。ペンの線とか描き込みとか、「ウワ~~これが原画か!!!」と驚き、舐めるように見てしまいました。さすがの域を超えている。恐ろしい画力。もっと見たい。分かる分かる。Mizumizuも丸善丸ノ内本店の手塚治虫書店コーナーでアトムの原画を見たときは、びっくらしたのだ。ばらばらになったロボットの残骸を片膝をついて嘆くアトムがコマ割りなしで描かれているページで、V字になった背景の構図とか、凄すぎた。こちらのエントリーhttps://plaza.rakuten.co.jp/mizumizu4329/diary/202404270000/で書いたように、1950年代初頭に手塚をしのぐ人気を誇った福井英一は、手塚の画力の凄さに、おそらく最初に気づいた人間の一人なのだ。一流は一流を知る、ということ。悪書追放運動が盛んになった時、やり玉にあがったのが手塚治虫で、それについて藤子不二雄A氏が、「読んでもいない人たちが非難していた」と、珍しく怒りをにじませて語っていたが、この稀代の才能を世の中がよってたかってつぶそうとしていた時代があったとは…。ストーリーテラー手塚治虫についてはだいぶ理解が進んでるが、手塚治虫の画力評価については、まだまだだとMizumizuは思っている。パリのオークションで手塚原画に3500万の値段がついたと知って、「貴重な文化遺産の流出をどう食い止めるか」などと新聞に書かれ、慌てて動き出してるお上の姿は滑稽だ。漫画同様、絵本の絵についても、まだまだ「子供向け」と思い込まれている風潮が強いが、現代美術がエログロや奇をてらった「わけの分からない」オブジェに流れている状況を見ると、絵本の中にこそ、正統派の「絵画の伝統」が受け継がれているのではないかと思うことも多い。こちらは宝塚での鈴木まもるトークイベント会場の写真(始まる前)。トークの前に、「落書き」と言って、手塚キャラを即興で描く鈴木まもる先生。たちまち人々が寄ってきてスマホをパチパチ。だが…!ちょ…、これ、アトム? 描いてるの、このすんごい絵本を描いた鈴木まもる先生、本人だよね?次に描いたヒョウタンツギも、なんか…(以下、自粛)「昔はよく描いたんだけど、描けなくなっちゃった…」と、言い訳っぽいことを言いながら、いったん袖に引っ込み(資料を見に行ったか??)、三度目に描いた「オムカエデゴンス」のイラストはしっかりサマになっていた。アトムはウォームアップでしたか? トークイベントは『火の鳥』のコンセプトから、制作過程のスケッチから、鳥の巣の話にまで及び、非常に面白かった。COM連載当時の『火の鳥』を切って自家製の本にしている現物も見せていただいた。COM連載のって、アレですよね。浦沢直樹が、先を読みたくて読みたくて…でも、ある時から本屋に並ばなくなった…並ばない新刊を待って何度も本屋に通ったという…手塚好きだった鈴木まもる少年は、『火の鳥』に登場する石舞台に触発されて、満天の星のもとの石舞台を想像して野宿覚悟で現地に足を運んだら、日が暮れてから雨が降りだしたという…いいエピソードだなあ。こういう知的好奇心を掻き立ててくれる漫画も減ってしまった。「手塚先生と(鳥の)話をしたかったですね」という鈴木まもる先生の一言には実感がこもっていた。本当に……現在は、講演に展示イベントにと八面六臂の活躍の絵本作家・鈴木まもる。東京の麻布台ヒルズでも5月19日にトーク&サイン会がある。https://www.books-ogaki.co.jp/post/54455このサインがまたアートなのだ。単に「xxxさんへ 鈴木まもる」とだけ書かれるのだろうと思っていたら、なんと!初見の名前の文字を見て、すぐにそれを軽く図案化(茶色マーカーで塗りつぶした部分ね)。そこに文字と一体化した鳥や巣のイラストを細いペンでさらさらっと。えーー、あのしょーもない落書きアトムを描いたのと同じ人ですか? すごっ!このサイン、いただく価値ありですよ。明日の日曜日は麻布台ヒルズの大垣書店へGO!
2024.05.18
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ある日の午後、クレープシュゼットが食べたくなった。フレンチのコースの最後に作ってくれるレストランはあるものの、その日はクレープシュゼットだけが食べたかった。もちろん、目の前で作ってもらわなければ。たしか、ホテル・オークラのオーキッドルームでサービスしていたハズ。もうそろそろ夕方に近い時間だった。さっそく電話をしてみると、ディナーに向けてクローズ時間があるという。今から行くとディナータイムになってしまう。おそるおそる「クレープシュゼットだけの予約でもいいいですか?」と聞くと、こころよくOKの返事が。オークラに着き、オーキッドルームで名前を告げると、「クレープシュゼットのお客様ですね」きわめてジャパネスクな意匠の施された、高い天井をもつ大空間に腰を下ろす。さっそくワゴンが運ばれてくる。クレープシュゼット、それは1つの儀式。オレンジピールと砂糖を練りこんだシュゼットバターをピカピカの銅製フライパンで溶かすのが、秘密めいた儀式の始まり。グランマルニエに加えてコアントロー、それにキルシュを加えるのがオークラ流。さくらんぼのリキュールを入れるのは珍しいかもしれない。リキュールが一筋の青い炎となって、折りたたまれたクレープにふりそそぐ。レモンの皮がソースに加えられ、香りを移したところですぐに取り出される。残り香が苦味に変わる前に。角砂糖をオレンジとレモンの皮にぎゅっとこすりつけ、移り香もろともソースに溶かす。最初は激しく燃え上がり、それからまとうようにフライパンをつつみこむ炎。巫覡がオレンジの皮をむく。ヴァチカンの奥でとぐろを巻く、あの螺旋階段のよう。そして、炎で昂ぶったコニャックを鍋の頭上でたらすと、青い翼をひろげて、天使が螺旋階段を降りてくる。それが儀式のクライマックス。ソースはかなり煮詰めてとろみを出す、クラシカルなフィニッシュ。艶やかな逸品。何層にもなったリキュールの芳香、大地の恵みを貪欲に吸い込んだクレープの舌触り。フレッシュなオレンジの果肉とアイスの冷たい甘み。時間と手間がかかりすぎるためか、クレープシュゼットを供してくれる店は少なくなった。その意味でもオークラは貴重。一度は行くべし!
2008.04.06
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『オルフェ』といえば、鏡。公開から60年近くたった今でも、人々の好奇心を刺激し続けているシーンがある。映画を見る前は、いったい何をやっているのか、非常に気になった。これがどういう場面なのか知りたくて映画を見たと言ってもいいかもしれない。あまりにミステリアスでエロティックなためか、このスチールをDVDのカバー写真に使っているものもある。これを見て感じざるをえないのは、やはり自己愛。物語上は重要とは言えないのに、視覚的には最高に鮮烈に訴えかけてくる場面だ。そしてその「原型」は、やはり『白書』にある(『白書』については3月26日のエントリー参照)。『白書』では、そこは公衆浴場。12ある浴室のうち1つだけに、鏡に特別な仕掛けが施されている。浴室に隣接した暗いボックスに入り、内扉をあけると向こうが透けて見渡せる。そこは浴室のほうからはただの鏡。ボックスに入れるのは特別に金を払った客だけ。浴室では若い労働者が服を脱ぐところから始め、裸になって「ある行為」を行い、自分からは見えない客の見世物となる。「ある時、自惚れたナルキッソスが鏡に口を寄せて押し当て、自分自身とのアバンチュールを最後まで推し進めたことがあった。ギリシアの神々のように姿の見えぬ私は、唇を彼の唇に重ね、彼の動作に倣った。彼が知ることは決してなかったが、この鏡は映していたのではなく、行動を起こしていたのである。鏡は生き物だった、そして彼を愛したのだ」(ジャン・コクトー『白書』山上昌子訳)文章は詩的な幻想美にあふれているが、やってることはとっても即物的(笑)。『オルフェ』は、もちろん『白書』のようなお下劣(再笑)な筋書きではない。だが上のカットはまさしく、『白書』のこのくだりから滑り出てきたようだ。言うまでもなく、ナルキッソスとは、ナルシストの語源。そして、この『オルフェ』から影響を受けたと思える場面が、『太陽がいっぱい』にもある。「口を寄せて押し当て」ているアラン・ドロンのほうがむしろ、『白書』のイメージに近いかもしれない。もちろんそれは視覚的イメージのことであって、映画でのこの場面に『白書』との物語上の類似点はない。そして、もう1つ、似て非なるカット。ここでは鏡のような水溜りの水面が、空に浮かぶ雲とオルフェを映している。誰とも絡まないで、これほど妖しい雰囲気を出せるジャン・マレーや、恐るべし。いや、この人の場合は、1人で自己陶酔しているときが最高に妖しい瞬間なのかもしれない。ますます恐るべし。『オルフェ』では、2人の男性が黄泉の世界を進んでいく場面も非常に美しいのだが、個人的に気に入っているのは、パリの街中でオルフェが死神を見かけるシーン。なぜか突然街から人影が消え、少女が1人縄跳びをしながら通り過ぎる。この視覚的イメージは、明らかにシュールレアリズムの画家キリコのイメージだ。上の写真の場面のあと、キリコの絵に描かれた回廊そっくりの場所で、オルフェが死神を追いかけるシーンが来る。ヴィスコンティの『ベニスに死す』でアッシェンバッハが美少年タージオを追い回すシーンともイメージがダブる。追いかけているのが「死」だという点でも。そして、もう1つ、『オルフェ』での鏡の重要な意味。それは、その向こうが「死の世界」だということだ。鏡を抜けると別の世界…… というのは『鏡の国のアリス』にすでにあるが、コクトー・ワールドではアリスの世界と違って別世界というのは明確に、黄泉の国を指す。「鏡を通り抜ける=死」というのは、ジャン・マレーが『オルフェ』以降、非常に意識して使っているタームでもある。たとえば、1975年に出版した自伝では、1963年にコクトーが亡くなったときの絶望感をこんなふうに書いている。「私の生は停止した。どうやってミリィ(注:コクトーはマレーと購入したここの館で亡くなり、その当時ミリィではエドゥアール・デルミットがコクトーの面倒を見ていた。パリのマレーにコクトーの死を連絡したのもデルミット)まで車を運転したのか、思い出せない」「彼(=コクトー)の演出で、ユリディースを探しに鏡の中に入ったことを思い出さすにはいられない。死神が私の手を取り、この鏡の背後に旅立ったジャンの魂を追い、本当に鏡を通過してあの世に渡らせてくれればどんなによいことか!」つまり、「後を追ってしまいたい」と思っているということだ。そのコクトーの演出による『オルフェ』の鏡通過の場面はこれ。↓さらにマレーは、1993年、つまり自身の死の5年前に執筆した、『私のジャン・コクトー』でも、コクトーの死の衝撃を次のように書いている。「1963年10月11日。ジャン・コクトーは鏡を通り抜けた」「私はおよそ考えられないものを眼の前にしていた。幸運も、あれほど謳歌された幸福も崩れ去っていた」(ジャン・マレー『私のジャン・コクトー』岩崎力訳 東京創元社)このように、マレーにとって死とは鏡を通過することだった。しかも、マレーが鏡を通り抜けた『オルフェ』で、コクトー監督+マレー主演の映画は最後になる。実はコクトーは少なくとももう1本、マレー主演でオリジナル脚本の映画を撮りたいと思っていた。それは『バッカス』といい、すでに1930年代の半ばには構想があった。コクトーはまだ本も書かないうちから、『バッカス』はカラーで撮りたいと言っていた。『バッカス』は『オルフェ』のあと、マレー主役を念頭に、まずは戯曲として完成するが、皮肉にもマレーが演じることはなかった。これ以降は、コクトーはマレーとドラノワのために、『クレーヴの奥方』を脚色したり、自分の過去の作品『山師トマ』でマレーにナレーションを依頼したり、『オルフェの遺言』でオイディプス役(撮影日はわずか1日)を依頼したりしてはいるが、詩人コクトーに詩神(ミューズ)マレーがぴったり寄り添い、「君は次はどんな役がやりたい?」と聞いては、オリジナルの戯曲を次々執筆したあの蜜月時代が戻ることはない。2人の演劇でのコラボレーションは『オルフェ』で終焉を迎えたのだ。さらに言えば、オルフェとは詩人。そして、その詩人とはコクトーでもある。コクトーが自身最後の映画に『オルフェの遺言』とタイトルをつけたことからもそれは明らかだ。つまりマレー=オルフェ=詩人=コクトーとなったことで、2人の世界は完結し、それ以上どこへも行きようがなくなったのかもしれない。実際2人は、とくに『オルフェ』以降、コクトーはマレーに、マレーはコクトーに一体化しようとしているような行動を取っていく。しかも、この『オルフェ』の撮影直前、コクトーの映画には欠かせない存在だった美術家クリスチャン・ベラールが突然亡くなっている。ベラールは『オルフェ』のためにさまざまな装置を考案してくれていた。コクトーがベラールをどれほど頼っていたかは、オルフェの台本執筆と前後してマレーにあてた手紙を読めば明らかだ。「なにしろ、『オルフェ』はぼくの仕事でいちばん難しいもので、ベベ(=ベラール)さえいてくれたら、まだ漠然としたままのものに具体的な形が与えられると思うのです」「ドシャルムのばかときたら、ぼくにはどうしてもベベが必要だということがわかりません。なんとか引き止めておかないと、アメリカにとられてしまいます」ベラールの死を受けて、コクトーは映画『オルフェ』の冒頭にベラールへの献辞を自筆で入れている。このあまりに「死」のイメージが色濃い『オルフェ』。マレーも『私のジャン・コクトー』でオルフェを演じていた役者が突然鏡の前で死んでしまった話を出している。しかも、今年になって奇妙すぎる符合が起こった。それはこの記事↓http://ncr2.net/2008016267.php2008年1月22日に急死したヒース・レジャー(1月のエントリー参照)の遺作となる『The Imaginarium of Doctor Parnassus』。最後まで撮ることなくヒースが亡くなったことで、テリー・ギリアム監督は、彼の代役にジョニー・デップを起用して撮影を続行させることを決心したというのだが……「ヒースが魔法の鏡を通り抜けるシーンがあるんだ。彼はそこで別の人物に変化することができる。そこでジョニーが登場するわけだ。奇妙で幻想的なタイムトラベル作品だから、ヒースが演じていた役の見た目が変わることに問題はない。心に焼き付く瞬間になるだろうね」つまり、鏡を通り抜けるところが、俳優ヒース・レジャーの映画での最後の姿になるということだ。ジャン・マレーが繰り返し言っていた「鏡の通過=死」にあまりにピッタリではないか。オルフェは当然ギリシア神話に由来するが、「パルナッソス博士(Doctor Parnassus)」のパルナッソスもギリシア神話では、太陽の神アポロンを祭った山とされている。言うまでもなく、ヒースの代表作は20年におよぶ男同士の秘められた関係を演じた『ブロークバック・マウンテン』。ジャン・マレーもジャン・コクトーの死から24年たって、生前コクトーから25年にわたって送られつづけた愛の書簡を公開して、2人の秘められた関係を明らかにし、世間に衝撃を与えた。コクトーはしだいにマレーとの関係を公けに口にしなくなるが、それは人気俳優として世界的な名声を確立したマレーにとっては、同性愛者である自分の存在がむしろ害になると考えたためでもある。マレーがフランス一の人気俳優になったころの『占領下日記』には、すでにその苦悩が綴られている。「ぼくにでっちあげられる醜悪な混乱、ぼくの真の生の代役を果たしている愚劣な風評。だから恐らくぼくはジャノのためには、役に立つどころか害をなしている」(『占領下日記』筑摩書房)晩年のコクトーは、マレーを愛し続けながら、「ぼくたちが一緒にいるだけで、犯罪行為と見なすような連中」(マレーへの手紙)からの攻撃がマレーに及ぶのをできるだけ避けようとした。『オルフェ』の映像美は、どこよりもハリウッドの映画界に強い影響を与えたと思う。特殊撮影による鏡通過(この技術はどんどん進歩した)、バイクに乗った死の国の使者(=悪者)、スーツを着た場違いな裁判官。ハリウッドの映画やプロモーションビデオには、『オルフェ』から借りた、あるは『オルフェ』から発展させたイメージが、延々と繰り返し使われている。そんなハリウッドでもっとも将来を嘱望されていた若手俳優の突然の死が、映画の中では「鏡通過」で暗示されるとなると、心穏やかではいられない。
2008.06.01
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