2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全33件 (33件中 1-33件目)
1

〔なぜ、大晦日に除夜の鐘を108回撞くのですか?] 鐘を撞くこの数は仏教の「百八煩悩(ぼんのう)」に由来しています。そしてこれはあまり知られてませんが、釣り鐘の本体上部には25個づつ4ケ所と2個づつ4ケ所の計108個イボが付いてます。この「百八の煩悩」については、仏教では古来から次ぎのように説明をされています。人間の感覚を司る眼(げん)耳(に)鼻(び)舌(ぜつ)身(しん)意(い)の六つ(これを六根と呼びます)が、それぞれに好(気持ちがよい)悪(不快)平(どちらでもない)の三種があって、3×6=18の煩悩となり、これが、また浄(きれい)染(きたない)の二種に分かれて、18×2=36の煩悩になり、さらに、過去・現在・未来の三つの時間が関わって、36×3=108ケとなります。 これが、百八が煩悩の数だと一般に伝えられる謂われです。 これを鐘の妙音が淨めて行くという訳です。我国では、鐘や鈴の音に浄化作用が有るというのは古くから信じられていました。つまりこの釣り鐘の音は、人間の仏性(ぶっしょう)を揺り動かす力が有るとされ、その音色は日本古来の音階である「十二律(じゅうにりつ)」の中「黄鐘(おうしょう)調」を以て最高とされ、もし鋳造(ちゅうぞう)した際にこの音が出なかった場合は金の配合等を加減し繰り返し、改鋳(かいちゅう)して作り上げるそうです。 因みに当山の梵鐘は700有余年元祖の伝統と、一子相伝の秘術を誇る滋賀県の金壽堂(黄地耕造社長)にて鋳造謹製され、立教開宗750年を慶讃してご納入された逸品です。尚、左右の一遍首題(お題目)は身延山第91世故藤井日光法主猊下の御染筆によるものです。法善寺梵鐘(西南役供出)H14年復元(直径2尺3寸・重さ103貫) 昔、中国の有名な詩人の白楽天が、道林というお坊さんに、「仏教とは何ですか」と尋ねました。すると道林は、『 願諸衆生 諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教 』【七仏通戒偈】(悪いことをせず、善いことを実行し、自分の心を清めるのが仏様のみ教えです)と、答えました。「そんなことは三才の子どもでも知っている」と白楽天が言うと、道林は、「三才の子供でも知っていることだが、八十才の老人でもなかなか実行は出来ない。」と、答えたというお話があります。 そうです。仏教とは決してむつかしい理屈ではないのです。人に迷惑を掛けたり、害を与えたりするのが悪であり、人を喜ばしたり、人に利益を与えたりするのが善なのです。この善・悪をよくわきまえれば良いのですが、実行となるとなかなか大変です。この一年間、一つも悪いことをした覚えはないという人は恐らくいないと思います。大なり小なり人に迷惑をかけたり、知らず知らずのうちに人を傷つけたりしているものです。ですから大事なことは、自分の行いを常に反省し、先ず懺悔することです。懺悔すれば罪も消え去るのです。 今年は先ず大晦日の除夜の鐘を撞いてその音色を心で聞いてみましょう。煩悩を除いて往く年を反省し、清らかな心で新年を迎える。何と素晴らしい行事でありませんか!そして今年一年の心の垢を一つ一つ洗い流して、清浄な心と身体で来る年に夢と希望を託して、ご家族揃って明るい新年を迎えたいものですね。再拝 本妙山 法善寺 第26世 遠照院(村口泰則)日孝記
2006年12月31日
コメント(2)

今夕今冬4回目の、だるま夕日がやっとヒットをしました。また、大勢のカメラマンが撮影に来られていました・・・。 最初は雲が少し厚く無理かな?と思ってましたが、雲と海のわずかな間に久しぶりのだるま夕日が見事に沈みました。とても綺麗でした!*フジFinePix-S9000(28~300)×デジタルズーム(600mm相当) 松山市北条立岩川河口、通称(モンチッチ海岸)にて
2006年12月30日
コメント(0)

早いもので平成18年も12月、もう残り少なくなって来ましたね。大晦日の夜になると、各地で除夜の鐘が聞こえてきます。今はテレビでも中継しますので、こたつに入っていても聞くことができますが、除夜の鐘を聞いていると、この一年間のさまざまなことが思い出され、心が洗われるような気がいたします。◆【除夜の鐘法要のご案内】◆ 平成15年から大晦日の夜に百八の除夜の鐘を打ち鳴らしております。百八回は百八煩悩に由来し、往く年を反省し、来る年に希望を託して除災招福を祈ります。12月31日午後11時45分頃から平成14年春に落慶した法善寺鐘楼門の下で行われます。本年一年の反省と新しい年への希望を込めて、皆様方のお名前を彫り込んで新しく新調しました梵鐘を鳴らしましょう。 ご参加いただいた先着108名の方々には、甘酒等のお飲み物等のご接待も有ります。厳寒の時節ゆえなるべく暖かく身支度をしてお誘い合わせの上、どうぞご参詣を下さいませ。 なお、ご遠方やご多忙でご来寺の出来ないお方は、近隣の寺院かテレビ放送の「往く年来る年」等の鐘音を聞きながら、愛媛県松山市北条の地に向かって手をお合わせ下されば幸甚です。住職、合掌 日蓮宗本妙山法善寺鐘楼門(2階に梵鐘を吊る門)元禄5(1697)年巳卯年11月新造立建立・天保15(1844)甲辰年4月19日修理再建立、平成13(2001)辛巳年7月29日解体修理修復再々建立の砌 来る12月31日午後11時30分集合、番号札108枚を配布 大晦日は、「大つごもり」ともいわれます。「晦」という字は「暗い」という意味です。旧暦30日は月の出ない闇夜ですので、月が隠れるということで、「月ごもり」といい、それが「つごもり」と呼ばれるようになり、一年の最後の日を「大晦日」「大つごもり」と言われるようになりました。また大晦日は除日ともいい、除日の夜が除夜と正式に云います。つまり、除夜の法要は大晦日から新年の元旦への引継ぎの大切な儀式なのです。 〔なぜ、大晦日に除夜の鐘を打つのですか?] これについては、時間の「鬼門」封じではないかと推察されます。12月は「丑」の月であります、そして1月は「寅」の月であります。ということは、12月31日の大晦日の夜から1月1日の元旦にかけては、時空における「鬼門」が発生します。この時空の「鬼門」である大晦日の夜を除きとるための呪術の儀式が本来、除夜の鐘の始まりでありました。 それでは、なぜ、除夜に鐘なのか? これを陰陽道的に推理すればこうも考えられます。つまり、鐘=金気であります、そして金気は金剋木で木気をいためつけます。春は木気に配当されますので、新春を迎えるにあたっては、それを妨げる要因を潰す必要がありますので、なにか金気のものを傷めつけることが求められます。この金気を傷めつけることが、鐘を打つということにつながったのかもしれません。 そして、春を迎える前にやってくる鬼門を封じる行為が重なって行ったのではないでしょうか?・・・ 日本人はなんでも取り入れるのが得意ですので、陰陽道+神道+仏教などの融合でこんな風習が生まれたのでしょう。正月に餅を焼いたりして食べるのも古来金気を封じる呪術だとも言われてますから、似たような意味があるのですね。
2006年12月29日
コメント(0)

今日も2時から松山の大法寺さんで月施餓鬼法要出仕と松山地区の檀信徒へ月守り配布が有り、夕方5時までに北条の海岸に戻ることが出来ませんでした。池之内さんの夕日ブロクによれば、夕景は良かったそうですが、西の海上全体が厚い雲に覆われて肝心の「だるま夕日」見えなかったそうです。それでは3年前の今日、平成15(2003)年12月28日には立岩河口から素晴らしいだるま夕日が見れましたので3枚組写真でUPしてみます。Reflex1:8~12 400~600mmズーム+2XAPKTELEPLUSMC7フジカラーSUPERRIA VENUS iso400/27CH 135DXf(1200ミリ相当)アサヒペンタックスカメラ・K2DMDにて、三脚で連続オート撮影
2006年12月28日
コメント(0)

今日はやっとお天気が良くなりました。小生は生憎、午後1時から松山谷町の檀家Kさんの奥様87歳の葬儀が夕方までかかり、撮影をする自由時間がありませでした。池之内さんのブロク情報によると、やはり西の空海面上は厚い雲に覆われて「だるま夕日」は拝めなかったそうです。それでは、今日も過去の夕景を1枚UPします。一眼レフカメラ・ミノルタα7xi、レンズ100~300mmAFZOOMにて、フイルムフジカラー UPERRIA VENUS iso400/135、三脚オート撮影 2001年1月北条鹿島南側の新開海岸で撮影した夕日です。日没の瞬間、テトラポット上で二人の釣り人がリールを操りながら、夢中で釣りの準備をしている姿をシルエットにして、その右にまさに瀬戸内海に沈まんとしてるダルマになった夕陽を配置してみました。
2006年12月27日
コメント(0)

本日も朝から風雨がひどく、一日中天候が悪くて、夕景さえも全く撮影が不可能でした。そこで今日も過去の夕景作品で小生お気に入りの中から傑作1枚をUPしてみます。REFLEXZOOM 1:8~12 400~600mmレンズ、フジカラーSUPERRIA VENUS iso400/135,2XAPKTELEPLUSMC7アサヒ ペンタックスカメラ ・ K2DMD、にて、三脚でオート撮影 2000年12月23日北条の立岩川河口(通称モンチッチ海岸)の沖を小舟で釣り竿を垂れ、魚を1本釣りしている漁師さんを撮影した落陽です。 大きなダルマ夕日がゆらゆらと沈みかけた時、丁度煙草を吸おうと、ライターで煙草に火を付けようとした瞬間をシルエットにして捕えてみました。しかし、後で見るとまるで夕日に向かい合掌して拝んでいる仏さまのお姿のように偶然写っており、改めて驚きました。 何回見ても瀬戸内海にジュンと音がするように沈む太陽は本当に感動的です。毎日が「一期一会」!日没の表情は実に様々ですよ。
2006年12月26日
コメント(0)

今日はお天気が悪く、全く西の空全体が厚い雲に覆われて「だるま夕日」どころか、夕焼けさえも全然見えませんでした。それでは、これから時々過去の夕景を少しずつUPしてみます。REFLEXZOOM 1:8~12 400~600mmレンズ、フジカラー SUPERRIA VENUS iso400/27°CH 135 DXf、アサヒ ペンタックスカメラ ・ K2DMD、にて、オート手持ち撮影 何回見ても瀬戸内海にジュンと音がするように沈む太陽は本当に感動的です。毎日が「一期一会」日没の表情は実にさまざまです。 1999年12月20日北条の立岩川河口(通称モンチッチ海岸)で撮影した夕日です。丁度来ていた親子がシルエットになり、日没の瞬間に偶然子供が左にいる父親に何かを渡そうと走り出した一瞬を捕えてみました。
2006年12月25日
コメント(0)

ほとんど毎日、夕景を撮影に行くのですが、今年は何故か、海面近くの雲が厚くて、難々ダルマ夕日になりませんでしたが、 立岩川河口にて今日も駄目かと諦めかけた時、太陽真ん中に横筋雲があり完全ではありませんが、12月24日やっと今冬3回目の「だるま夕日」を何とかゲットすることが出来ました。 FUJI-S9000にて 久しぶりの美しい「だるま夕日」でした。詳しくは池之内さんの【夕日のブログ】をご覧下さい。素晴らしい夕景がご覧頂けます。
2006年12月24日
コメント(2)

しめやかに遺徳を偲ぶ 9月21日に98歳でご遷化された、身延山久遠寺前法主(第91世)で日蓮宗前管長(第49・50代)の藤井日光上人(妙道院日光上人)の本葬儀が12月4日、山梨県身延町の総本山身延山久遠寺本堂で、全国から参列した僧侶檀信徒約1500人が見守る中、しめやかに行われた。 本葬儀に先立ち、本通夜が前日3日の午後6時から久遠寺仏殿で井上瑞雄身延山久遠寺総務を導師に営まれ、遺弟・遺族を中心とした関係者約150人が参列した。 本葬儀は、4日午後1時から日蓮宗管長・大本山池上本門寺貫首の酒井日慈猊下を大導師に、樋口是澄師(覚林坊住職)・貴家是勝師(北之坊住職)・池上玄庸師(山本坊住職)・町田是正師(延寿坊住職)を副導師に、身延山支院僧侶が出仕して営まれた。 式中、酒井管長猊下がご宝前で歎徳文を読み上げ、「日光上人の人となりは、誠実にして闊達、思慮深く他に接するに慈愛温情溢るるものあり。あたかも雲を呼ぶ龍の如く、その布教活動の行跡は面目躍如たるものあり、上人の行くところ不可無きが如く衆人の瞠目するところとなる」と讃えた。 内野日総身延山久遠寺法主猊下・井上総務・遺弟・親族が焼香し、遺影を前に静かに合掌。読経が続く中、仏教界各代表・宗門関係者はじめ、本堂を埋めつくす参列者と、本堂に入りきれず境内で参列したすべての人々が日光上人を偲んで香を手向けた。 その後、小松浄慎宗務総長、堀龍雄身延山参与(厚木市本山妙純寺貫首)、檀信徒を代表して衆議院議員の堀内光雄身延山参与が弔辞を述べ、安部晋三内閣総理大臣からの弔電が読み上げられた。 堂内に響き渡る唱題と大導師による回向の後、日光上人の遺骨が遺弟・遺族に分骨され、最後に井上総務が挨拶に立った。井上総務は「日光上人の悲願である身延山五重塔再建の円成こそが、上人に対する最大の御報恩であると確信し、全山一丸となって精進して参ります」と参列者に感謝の意を述べた。 法要後、久遠寺境内で「四門三匝之義」が営まれ、晴れ渡った青空の下、ご遺骨の納められた霊龕と井上総務・遺弟・遺族が葬列をなし、この日のために造られた四つの門をゆっくりと三回巡った。 葬列はそのまま西谷へ向かい、日蓮聖人御廟の脇にある歴代廟に到着。ご遺骨が丁重に埋葬されると、一人ひとりが焼香をし、改めて日光上人の増円妙道を祈念した。(日蓮宗新聞、12月20日号より)
2006年12月23日
コメント(0)

青島幸男さんを悼む、はかま満緒 「スイスイスイダララッタ、スラスラスイスイスイ」。東京上野のバーで青島幸男さんが歌い出し、「どうだ、面白いだろう。これがクレイジーキャッツの植木等に作った詩なんだ。日本全国大ヒット間違いなしだ」 私は「そんなスイスイいうふざけた詩が当たるわけないよ。もし大ヒットしたら、僕はここから上野駅まで逆立ちしてやる」。 ところが、この「スーダラ節」が爆発的な大ヒットとなり、しばらく青島さんから逃げまくった。 以後「参院選に立候補するぞ」「おれ、直木賞取るぞ」「今度は都知事になるぞ」と続く。有言実行の代表者みたいな人でした。 都知事を辞めた後に「今度は?」と聞くと、「画家だ」と答えた。スーダラ節以来、私は彼の言うことには絶対に逆らわないことにしていた。 「青島だーっ」。画面で見ていると、いかにもずぶとい神経の持ち主に見えることもあったが、彼はテレ屋でナイーブな人だったと思う。その反動のテレ隠しに「青島だー、文句あるか」とやっていたんだろう。 初めて新車を買うとき、まだ幼稚園児の長男に大金を持たせて車のディーラーに行かせ、「おじさん、これ一台ちょうだい」とやらせ、それを陰からこっそりとのぞいていたこともあった。 都知事時代、青島さんを悪く言う友人知人がいたのは、「青島幸男でございます。どんなご用件でございましょうか」という本来のまじめで誠実な面が出たからだと思う。参議院の反骨精神だけでは、知事は務まらないことを悟ったのだろう。 青島さんが放送作家になったきっかけは、結核の治療中、漫才の台本募集に応募したのがきっかけだった。 焼き鳥屋の通の食べ方というテーマで「食べながら何本かのくしを下に落として勘定をごまかし、帰りに汚れた指先をのれんでふいてくりゃ一流だ」。確か、リーガル・万吉の当たりネタだったと思う。 そんな庶民的なギャグが、その後テレビのバラエィーショー「シャボン玉ホリデー」でも生かされていた。昭和30年代から40年代にかけて約10年続いたヒット番組の前半を青島さんらが担当し、後半は私が中心になり台本を作った。 順風満帆に見えた青島さんの人生だが、肺結核に始まり、がんとも闘っている。その手術の後遺症で右手が上がらなくなり、左手ばかりを使っていると、今度は左手も上がらなくなった。 「国会で質問に立つんだけれど、手を挙げないと質問ができないんだ。まさか足挙げて質問は出できねえし、困った」 それを聞いた私は、山梨にいる友人で大概のことは治せる整体の名人が、たまたま私の家に来ていたので、すぐに青島さんに連絡。彼は奥さまと一緒にわが家を訪れた。 1時間後には両手ともすっきり上がるようになり、そのときの笑顔が思い出される。 数々の青春時代の底抜けに楽しかった思い出を背負って突然逝ってしまった。心よりご冥福をお祈りします。(作家・タレント)【愛媛新聞・2006年12月22日朝刊、P20文化面】より引用
2006年12月22日
コメント(0)

「ママ、ビール飲もうよ」青島さん最期まで洒脱な言葉 骨髄異形成症候群のため20日、都内の病院で死去した放送作家で前東京都知事の青島幸男さん(享年74)。死の前日、病院で「ママ、ビール飲もうよ」と最期まで洒脱な言葉をもらしていたという。 妻の美千代さん(69)と長女でエッセイストの美幸さん(47)は20日夕、東京都江東区の自宅マンション集会所で会見。美幸さんは「死ぬときまで青島幸男らしい死に方だった」「生まれ変わってもまた同じ時間を過ごしたい」と涙目で語った。 亡くなる前日の19日夜には穏やかな表情で美千代さんを呼び、「ママ、ママ、ビールでも飲もうか。でもここは病院だからな」と笑わせたという。家族が「ビールは明日持ってくるから」となだめたが、これが最後の会話になった。 (写真提供 産経新聞社) 青島さんは、11月1日に自宅で貧血を起こして倒れ、病院の検査で“前白血病状態”である骨髄異形成症候群と判明して入院した。 脊髄に穴を開ける治療法も勧められたが「延命のためだけに苦しみたくない」と拒否。病名は最後まで青島さんには告知されなかったという。 20日朝に容体が急変。午前8時50分に病院から連絡を受け、家族が駆けつけると、酸素マスクをつけたまま昏睡状態で、間もなく息を引き取った。美千代さんと美幸さん、長男の利幸さんと妻、2人の孫が最期をみとった。 都知事時代に特別秘書を務めた番組制作会社社長の辺見広明さん(56)は病院に着くのが30分遅く、臨終には立ち会えなかった。 辺見さんは、「大変安らかな顔をされていました。酒の強い方だったが、最近は少し飲むだけで酔うようになっていた」と振り返った。 青島さんは、04年の参院選を落選してからは、政治活動から退き、ここ2年間は自宅で読書や映画鑑賞などをして過ごしていたという。(夕刊フジ)2006年12月21日より引用愛すべき“意地悪ばあさん”前都知事の青島幸男さんが急死 “マルチ人間”逝く-。タレントで前東京都知事の青島幸男(あおしま・ゆきお)氏が20日午前9時31分、骨髄異形成症候群のため東京都内の病院で死去した。74歳だった。放送作家、作詞家、俳優、直木賞作家、参院議員、都知事…。多芸多才ぶりをいかして昭和30年代以降のテレビ時代に各方面で活躍、「青島だあ」の流行語も生み出した。前夜まで「ビールが飲みたい」と元気だったが、20日朝に容体が急変した。 芸能界での軽妙洒脱さと、政界での硬骨漢ぶり-。まさに「マルチ」な生涯だった。 死の前夜まで元気だった。11月初めに東京都江東区の自宅で貧血を起こして倒れ、病院の検査で骨髄異形成症候群と判明した。入院はしたが面会に来た家族を笑わせ、19日夜には長男の利幸さんを相手に「ビールが飲みたいなあ。でも病院だから無理か」と笑いながら話していた。 しかし20日朝に容体が急変。午前9時前に病院から連絡が入り家族が駆けつけたがすでに昏睡(こんすい)状態で、妻の美千代さん(69)と利幸さん、長女の美幸さん(47)らが見守る中で静かに息を引き取った。 昭和7年、東京・日本橋の仕出し弁当店に生まれた。30年に早大商学部を卒業。放送作家として芸能界入りし、「シャボン玉ホリデー」の構成、ヒット曲「スーダラ節」の作詞、俳優として「意地悪ばあさん」の主演などで話題を呼んだ。 「タレント議員のパイオニア」でもあった。43年の参院選で全国区から立候補して2位で初当選。無所属院内会派の第二院クラブに属し、佐藤栄作首相らを相手に歯にきぬ着せぬ言動で物議を醸した。選挙運動も街頭演説などをしない独自の手法で、金権政治を批判し続けた。 落選中の平成3年にリンパ節のがん(悪性リンパ腫)にかかったが手術して克服した。翌4年に参院に返り咲き、金丸信元自民党副総裁の不正献金疑惑に関して同年、議員辞職を求める抗議のハンガーストライキを敢行。脱水症状で断念するまで約30時間続けた。 5期24年間、参院議員を務めた後、7年の東京都知事選に無所属で出馬し当選。開催予定だった世界都市博覧会を公約通り中止した。しかしそれ以降は“気楽な稼業”とはいかず、「役人任せ」などと批判も噴出して1期4年間のみで退任。その後タレント活動を再開し、13年と16年の参院選に出馬したが落選した。 入院前の今年10月中旬、関係者に対し映画を製作する夢と今後の参議院のあり方について熱く語っていたという。来年の参院選出馬をひそかに視野に入れていた可能性もある。死の直前まで、芸能界と政界に思いをはせていた。分かっちゃいるけど、やめられなかった~。 (サンケイスポーツ)2006年12月21日より引用
2006年12月21日
コメント(0)

女優の岸田今日子さん死去 「砂の女」などの個性派演技 映画「砂の女」や、アニメ「ムーミン」の声などで知られ、演劇でも活躍した個性派女優の岸田今日子さんが17日午後3時33分、脳腫瘍による呼吸不全のため東京都内の病院で死去した。76歳。東京都出身。後日「お別れの会」を開く。 喪主は長女の西条まゆさん。主な舞台に「今日子」など。「砂の女」(64年)の演技では、海外でも高い評価を受けた。(共同通信)2006年12月20日より 個性派女優の岸田今日子さん死去 映画「砂の女」やアニメ「ムーミン」の声で知られる個性派女優の岸田今日子さんが、脳腫瘍(しゅよう)による呼吸不全のため17日午後3時33分、都内の病院で亡くなったことが20日、分かった。76歳。 葬儀は近親者のみで行われ、年明けにお別れの会を開く。今年1月下旬に脳腫瘍と分かり入院していた。11月16日には前夫の俳優仲谷昇さんが亡くなっている。喪主は仲谷さんとの間に生まれた長女西條(さいじょう)まゆさん。 岸田さんは昨年暮れまで精力的に仕事をこなした。11月に舞台「オリュウノオバ物語」に主演し、12月にはドラマ「あいのうた」に出演し、コンサートのステージにも立った。今年1月下旬に体調を崩して頭痛などを訴えたため、病院で精密検査を受けたところ脳腫瘍と分かった。すでに手術ができない状態で、投薬治療などが行われた。8月に一時危篤状態になったが、持ち直して小康状態が続いた。亡くなる前日も見舞い客と言葉を交わしたが、17日に容体が急変。長女まゆさんら家族にみとられて息を引き取った。 近親者で葬儀が行われ、親友の吉行和子(71)富士真奈美(68)も出席した。吉行は所属事務所を通して「『さみしい』の一言です」とコメントし、富士は気持ちが落ち着いたらコメントしたいとしている。 劇作家で文学座創立者の1人、岸田国士さんの二女として生まれた。50年に文学座で初舞台を踏み、64年の主演映画「砂の女」はカンヌ映画祭審査員特別賞を受けた。69年からアニメ「ムーミン」の主人公の声を担当し、ドラマ「大奥」のナレーションも務めるなど、独特の声質と語り口でも人気を集めた。映画「八つ墓村」やドラマ「傷だらけの天使」で独自の存在感を示す一方、バラエティー番組にも出演。舞台でも「欲望という名の電車」やつかこうへい作「今日子」に主演するなど、ミステリアスな雰囲気の喜劇からシリアスな役まで幅広く演じた。エッセイストとしても活躍し、98年には「妄想の森」で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。 54年に仲谷さんと結婚して長女をもうけたが、78年に離婚。その後も仲谷さんとは同じ「演劇集団円」に属して良好な関係が続き、晩年は長女一家と一緒に暮らした。仲谷さんは11月16日に死去し、1カ月後に後を追うように岸田さんも亡くなった。岸田さんは仲谷さんの死を知っていたが、病床のため葬儀などには出席できなかった。 ◆岸田今日子(きしだ・きょうこ) 1930年(昭和5年)4月29日、東京生まれ。姉は詩人の岸田衿子さん。いとこに俳優の故岸田森さん。50年に「キテイ颱風(たいふう)」で初舞台。63年に文学座を脱退し、劇団雲を経て、75年に演劇集団円の創立に参加。94年に紫綬褒章を受章、99年に紀伊国屋演劇賞個人賞。 (日刊スポーツ)2006年12月21日より「ミステリアス女優」岸田今日子さんが死去…76歳、脳腫瘍 映画「砂の女」やアニメ「ムーミン」の声で知られた女優、岸田今日子さんが17日午後3時33分、脳腫瘍(しゅよう)による呼吸不全のため、都内の病院で死去した。76歳だった。ミステリアスな雰囲気を備えた個性派として、喜劇からシリアスな役まで幅広い演技で魅了した。先月16日に元夫の俳優、仲谷昇さん(享年77)が亡くなったばかりで、あとを追うように天国へ旅立った。 独特の語り口とミステリアスな演技で、人々を魅了し続けた岸田さんが逝った。 体調を崩したのは今年1月下旬。幾度となく激しい頭痛に襲われるようになり、都内の病院で精密検査を受けたところ、脳腫瘍が見つかった。手術を受けず放射能治療での回復をめざし、すぐに入院。一度は快方に向かい3月に退院して自宅静養に努めていたが、4月に再び体調を崩して入院。その後は退院することなく、帰らぬ人となった。最期は長女の西條まゆさん(38)ら親族に看取られ、静かに息を引き取ったという。 まゆさんは、岸田さんが所属していた演劇集団「円」の代表で、11月16日に慢性閉塞(へいそく)性肺疾患で他界した故仲谷昇さんとの一人娘。元夫が他界した1カ月後に、岸田さんもあとを追うように天国へ旅立った。葬儀は遺族の意向で密葬として20日、都内の斎場で近親者のみが参列して営まれた。 岸田さんは劇作家で文学座創設者の岸田国士(くにお)さんの二女として生まれ、高校卒業後に文学座研究所入り。35年に作家、三島由紀夫が演出した主演舞台「サロメ」が話題となり、39年には安部公房原作、勅使河原宏監督の映画「砂の女」でカンヌ映画祭審査員特別賞を受賞。国内のみならず、海外でも高い評価を得た。 つぶらな瞳に厚い唇、低い声のゆったりとした語り口が印象的で、情念を漂わせた名演からユーモアに満ちた弾けた演技まで、幅広く演じられる数少ない個性派女優として名をはせた。 38年には夫だった仲谷さんとともに文学座を脱退し、劇団「雲」を設立。さらに、50年には仲谷さんらと「円」を結成した。仲谷さんとは“おしどり夫婦”と呼ばれたが、52年に離婚した。声優としても人気を集め、人気アニメ「ムーミン」の主人公の声やドラマ「大奥」のナレーションを務めた。また、著書「妄想の森」で平成10年に日本エッセイスト・クラブ賞を受賞するなど執筆活動でも有名だった。ミステリアスな存在感を見せたあの笑顔は、もう見ることはできない…。 (サンケイスポーツ)2006年12月21日より引用
2006年12月21日
コメント(0)

青島さんと同じ日の午後、俳優の岸田今日子さんが亡くなった。岸田さんは日蓮宗とも大変ご縁の有る方で昭和56年日蓮聖人第700遠忌記念し、毎日放送(MBS)の制作により、10月5日~9日迄の5日間、日蓮聖人のご生涯を連続ラジオドラマ「炎の如く」(主な出演者、平幹次郎・栗原小巻・解説、桂米朝、他)で放送された時、語り手として5時間ものナレーション全てを担当された。 また同じく宗祖700遠忌記念の松竹映画「日蓮」萬屋錦之介主演では母親の「梅菊さま」を好演された素晴らしい女優さんでした。今回の訃報を聞きラジオドラマと松竹映画を再び懐かしく見聞しながら、改めて岸田さんのご冥福を心よりお祈り申し上げました。合掌岸田今日子さんが死去/幅広い演技の個性派女優 映画「砂の女」や、アニメ「ムーミン」の声などで知られ、演劇でも活躍した個性派女優の岸田今日子さんが17日午後3時33分、脳腫瘍による呼吸不全のため東京都内の病院で死去した。76歳。東京都出身。葬儀は近親者のみで行い、後日「お別れの会」を開く。喪主は長女の西条まゆさん。 父は劇作家で文学座創立者の一人である故岸田国士。1950年に初舞台に立ち、文学座で「サロメ」などに出演した後脱退、劇団雲を経て演劇集団円の創立に参加した。 主な舞台に「今日子」「更地」など。「こどもステージ」をはじめ、劇作家別役実さんの作品に数多く出演。ミステリアスな雰囲気で喜劇からシリアスな役まで幅広く演じた。 安部公房原作、勅使河原宏監督「砂の女」(64年)で、昆虫採集に来た男を砂の世界へ引きずりこむ女の役を演じ、海外でも高い評価を受けた。60年代から「ムーミン」の主人公の声を務めるなど、独特の声質と語り口で人気を集めた。 (愛媛新聞)2006/12/20(水)より引用<岸田今日子さん>舞台、映画、TVで活躍 76歳で死去 (毎日新聞) 演劇集団円の創立メンバーで「サロメ」や別役実作品などの舞台、「砂の女」などの映画、テレビで人気を博し、童話、エッセーなど幅広く活躍していた女優の岸田今日子(きしだ・きょうこ)さんが17日、脳しゅようによる呼吸不全のため東京都内の病院で亡くなったことが20日分かった。76歳。葬儀は近親者で済ませた。お別れの会を後日開く予定。自宅は非公表。喪主は長女西絛(さいじょう)まゆさん。 東京都生まれ。今も戯曲賞に名を残し、文学座の創立者の劇作家・小説家、岸田国士の二女。姉は詩人の岸田衿子さん。自由学園高を卒業後、舞台美術を志して文学座付属演劇研究所に入所、「キティ颱風」で初舞台。 「一人前の社会人になってから俳優になれ」という父の教えに従って同研究所を離れ、3年間の社会人生活を経て1952年に文学座に入り、「孤憑(こひょう)」で正式に女優デビューした。54年、「どん底」の舞台けいこ中に、演出を担当していた父国士が死去。60年に作家、三島由紀夫の演出で文学座「サロメ」に主演し話題を呼んだ。 63年に文学座を脱退、現代演劇協会「雲」の結成に参加。75年には芥川比呂志らと演劇集団円を創立した。「聖女ジャンヌ・ダーク」「欲望という名の電車」など翻訳劇に主演する一方、清水邦夫、別役実各氏ら日本を代表する劇作家の創作劇に積極的に挑んだ。99年、別役作「猫町」と平田オリザ作「遠い日々の人」の演技で紀伊国屋演劇賞と読売演劇大賞優秀女優賞を受賞。子供も楽しめる舞台を目指して、「円・こどもステージ」を81年から企画し、今年で25回目になる。 映画でも存在感ある演技で定評があり、62年「破戒」「秋刀魚の味」などの映画で第17回毎日映画コンクール女優助演賞を受賞した他、64年に主演した「砂の女」(勅使河原宏監督)はカンヌ映画祭審査員特別賞を獲得した。97年の「八つ墓村」(市川崑監督)などでブルーリボン助演女優賞。テレビでも「男嫌い」「傷だらけの天使」「徳川慶喜」などに出演、ムーミン役の声優として参加したアニメーションの「ムーミン」シリーズは、温かく包み込む声で茶の間に親しまれた。童話、小説、エッセーなど著作も多く、98年に「妄想の森」でエッセイストクラブ賞を受賞している。 俳優で今年死去した仲谷昇と結婚したが、後に離婚。最後の舞台は昨年10月に主演した中上健次原作の「オリュウノオバ物語」(大橋也寸演出)。今年1月下旬から体調を崩し入院加療を続けていた。 【高橋豊記者】 ◇抽象的な存在感 劇作家、別役実さんの話 日本人離れしたいい意味での抽象的存在感があり、日本的な風景に根ざさない僕の芝居とはよく合い、意図したことを的確に表現して下さいました。84年からは「円・こどもステージ」で一緒にお仕事をしました。出演はされなくても、企画には参加され、作家的な感性でいいアイデアを出された。お若かったのに残念です。 [毎日新聞12月20日]より 引用
2006年12月20日
コメント(0)

青島幸男氏が死去/前都知事、放送作家 放送作家、俳優、小説家、国会議員とテレビ時代を代表した「マルチ人間」で、前東京都知事の青島幸男氏が20日午前9時31分、骨髄異形成症候群のため東京都内の病院で死去した。74歳。東京都出身。自宅は東京都江東区。葬儀・告別式は27日正午から東京都港区南青山2の33の20、青山葬儀所で。喪主は長男利幸氏。 1955(昭和30)年、早大商学部卒。同大学院中退。在学中に漫才の台本を書いたのがきっかけで芸能界とかかわり、日本テレビ系の「シャボン玉ホリデー」などでコント作家として活躍。 俳優としてはフジテレビ系の「意地悪ばあさん」が代表作。81年には祖母をモデルにした「人間万事塞翁が丙午(ひのえうま)」で第85回直木賞を受賞。68年、参院全国区で初当選し5期24年間、参院議員を務めた。95年の東京都知事選に無所属で立候補し、既成政党の候補らを抑えて当選。99年に退任後、タレント活動を再開していた。(愛媛新聞)2006/12/20(水)より引用<訃報>青島幸男さん74歳=前都知事、放送作家、タレント (毎日新聞) 放送作家、タレントとしてお茶の間の人気を集める一方、95年の東京都知事選で無党派旋風を巻き起こすなど政治家としても活躍した前同知事、青島幸男さんが20日午前9時半、骨髄異形成症候群のため都内の病院で亡くなった。74歳。都知事は1期限りで引退、04年の参院選に出馬したが、復帰はならなかった。 「なすべきことはすべてした」と不出馬を表明する青島都知事(当時)=99年2月1日萩原義弘カメラマン撮影 <青島幸男さん>反骨精神 戦後の社会、文化、政治に話題 戦後の社会、文化、政治に、話題をふりまき続けたマルチタレントの元祖、青島幸男さんが20日、亡くなった。根っからの反骨精神を信念に、「青島だぁ」と叫び続けた青島さんの突然の訃報(ふほう)に、芸能界、政界からは驚きと悲しみの声が上がった。 日本橋の仕出し弁当店に生まれた青島さんは、少年時代から江戸っ子気質のガキ大将。だが、早稲田大4年の秋、ろく膜炎で療養を余儀なくされる。「医者が深刻な本なんか読んじゃだめっていうもんだからラジオで落語や漫才ばかり聴いていた。そうしたらこれならオレ書けるって……」と1956年、漫才台本で放送作家としてデビュー。 59年「おとなの漫画」(フジテレビ)で「ハナ肇とザ・クレージーキャッツ」と出会い、61年の「シャボン玉ホリデー」(日本テレビ)では自ら番組に登場。「青島だぁ」は流行語となった。 62年、植木等さん主演の映画「ニッポン無責任時代」が大ヒット。無責任で調子のいい植木さん演じる平均(たいらひとし)は「実は青島そのもの」だという。映画と共に「スーダラ節」「黙って俺についてこい」「ハイ、それまでよ」といったコミックソングも次々にヒット。高度成長時代の矛盾を、本音と笑いで表現した作品は、共感を集めた。 青島さんの反骨精神は、政治の世界へも持ち込まれていく。68年、参院議員に無所属で初当選。金権政治の打破を訴え、2期目の選挙からは「公営選挙に徹したい」と街頭演説など金のかかる選挙を一切しないと宣言。89年には自民党の予算案の強行採決に抗議して、突然辞職する。 一方で、81年には「人間万事塞翁が丙午」で直木賞を受賞するなど、世間をあっと言わせるマルチな才能と“青島節”を見せつけた。 95年の東京都知事選に出馬。政党推薦の候補を破り、「無党派層の反乱」と世論の圧倒的支持を受けた。1期務めた後は、「意地悪ばあさん」を演じる一方、参院選に挑戦(01年、04年)するなど、最後まで青島節を貫き通したが、最近は体調を崩し表舞台から遠ざかっていた。【油井雅和記者】(毎日新聞)2006年12月20日より引用
2006年12月20日
コメント(0)

「念ずれば花ひらく」などの作品で知られる詩人坂村真民さん=伊予郡砥部町=が11日、97歳で亡くなった。坂村さんが1989年から15年間、毎月講話していた「朴庵(ほうあん)」がある飲食店「開花亭」=同町拾町=の稲荷滋明社長(69)に在りし日の姿を振り返ってもらった。坂村真民さんを悼む、稲荷滋明さん「万民受け入れる慈悲深さ」 真民先生に初めて出会った時、俗世間に生きる私には、あらゆることが驚きだった。先生の生き方や詩の内容に共鳴し、一人でも多くの人に先生の存在と詩を知ってほしいと思い、朴庵例会が始まった。 先生は吉田高校勤務時代に座禅を組んで「どう生きるべきか」を考えた末、自分の使命として41歳から詩作に専念。開眼しようと、厳しい自戒、激しい読書など猛烈な精進をした。 8歳での父の急逝、満州引き上げ後のどん底生活、大病の経験もあり、どんな立場の人も受け入れる慈悲深さがあった。そういう意味では、仏に近いものの考え方だった。先生のすごいところは、念ずるだけでなく自ら行動を起こし、継続した点。真の実践者だったからこそ、花が開いたのだと思う。 先生がよく口にしていたのは「人間は欲を捨てないと駄目」「60歳を過ぎてからの人生が一番大切。どう生きるかで評価が決まる」。また、「人間の体の中では人を支える足の裏が一番大事で、感謝しないといけない」など、みんなが見ていない、見えていない部分に常に目を向けていた。 今年10月、入院先に見舞いに行ったのが最後の別れとなった。その日は体調が良かったらしく、先生はアリランの曲に合わせ、次のような詩を三回口すさんだ。「私は私の道をゆく あなたはあなたの道をゆく」。どんな親しい間柄でも、考えや生き方がピタリと重なることはない。自分が思う道を突き進み、それを全うすれば幸せではないか。最後の言葉として、そう解釈した。 亡くなった翌日、お別れをさせてもらったが、とても安らかできれいなお顔だった。何かに語りかけているような優しい表情だった。先生は母なる海に到達し、飛天になった。(談) 【愛媛新聞・2006年12月18日朝刊、P15文化面】より引用
2006年12月19日
コメント(1)

個人誌・講演会 喜び悲しみ共有 97歳で11日亡くなった坂村真民さんは「詩を通じて人々と喜びや悲しみを共有したい」と“命のうた”を紡ぎ続けた。1962年刊刊の個人雑誌「詩国」は42年間、毎月発行。89年からの講話会15年間、毎月開催。多くの人々に干天の慈雨をもたらし、明かりをともした“国民詩人”は詩作一筋に生き抜いた。 午前零時に起き、自宅近くの重信川河川敷で、「寅(とら)の一刻」に祈った後、詩作。自らを厳しく律する一方、花や朴(ほう)の木をこよなく愛する優しさも併せ持っていた。 砥部焼人形作家、森元青芳さん(78)=伊予郡砥部町五本松=は香川県で坂村さんの詩と自身の人形の二人展を開くなど、40年以上の交友があった。窯を訪れ、作業風景や人形を見ながら即興的に作った坂村さんの「あふれるように言葉がわき出る様子と、純粋さ、こだわりを持った生き方」が強く印象に残っているという。 坂村さんは、下駄などに使われる朴の木が自生していると聞けば、すぐ見に行った。酉(とり)生まれで、鶏肉は「共食いになる」と一切口にせず。「詩国」郵送のあて名は一枚ずつ自筆し、封筒に「気」を込める姿勢を崩さなかった。 20数年の付き合いがあった飲食店「開花亭」=同町拾町=の稲荷滋明社長(69)の胸には、坂村さんがよく口にした言葉「人間は思い立ったら継続が大事」が深く刻まれている。店では坂村さんの講話会を計170回開催。全国からのファンが駆けつけた。 「念ずれば花ひらく」の詩に曲を付け、夫婦で長く交流してきた元教員の松田忠昭(72)、馨さん(71)=松山市御幸2丁目=は「ざっくばらんで庶民的。子どものころから体が弱かったそうだが、長生きできたのは、先生がいつもみんなの、地球の幸せを考えていたから」と悼んだ。
2006年12月18日
コメント(0)

2006年12月17日
コメント(0)

「愛媛県は詩人にしてくれた県」 11日に老衰のため97歳で亡くなった詩人の坂村真民さんは、分かりやすい言葉で人生を歌った詩が多くのファンに愛された。県功労賞、県教育文化賞などを受賞し、県内産の農林水産物の統一キャッチフレーズ「愛媛産には愛がある。」の揮毫者としても知られ、県内では死を惜しむ声が聞かれた。 熊本県出身の坂村さんは、終戦間もない1946年、旧三瓶町(現西予市)の第二高等女学校への赴任をきっかけに県内に移住。吉田、宇和島東、新田の各高校で国語を教えながら、詩を創作。62年に創刊した「詩国」は04年に500号を迎えるまで続けられた。67年に砥部町に居を定め、02年には毎日新聞の取材に「愛媛というのは僕を詩人にしてくれた県なんです。『愛』というのは、いい字ですな。県名では一番いいですね」と愛媛への愛着を述べている。 同年には、農林水産物のポスターやのぼりなどでよく見かける「愛媛産には愛がある」の揮毫を無料で引き受けた。当時の県農産園芸課長の木原敏夫さん(58)は「90歳を超えているとは思えない力強い字を書いていただいた。『心を込めて書きました』と言っていただき、ありがたく思いました。ご冥福をお祈りします」と話した。 親族の一人は「いつも老人や子どもにも分かってもらえる詩を書こうとしていた。『感動した』などの手紙をもらうと喜んでいた」と話していた。【津久井達記者】12月15日・毎日新聞、愛媛・地域のニュースより
2006年12月16日
コメント(0)

『真民さん』 年末恒例となった「今年の漢字」は 「 命 」 。ちょうどその年に、命の尊さを詩で訴えてきた坂村真民さん(伊予郡砥部町)が亡くなった。これも何かの縁だろうか。「命」が選ばれたのは、いじめによる子どもの自殺が続いたことが大きな理由だ。こんな悲劇はもう起きてほしくない。「一つしかない大切な命を、見つめ直してもらいたい」との一応募者の切実な声は真民さんの思いにも通じる。 「悲しいことがあったら誰かに話そうではないか、 困ったことがあったら助け合おうではないか 死んでしまいたいことがあっても 捨てたまわぬ方のあることを知り 生きてゆこうではないか。」 『連帯』という詩の一節だ。 真民さんは体が弱く、長生きできないと思っていた。父親が亡くなった40歳を超えたとき、「これは父の加護だ。大恩に応えるためには詩の道しかない」と決意し、詩作と禅の修行に打ち込んだ。そのなかで、自分は大きな力で「生かされてきた」ことに気づき、世界観が変わった。 いま悩んでいる子どもたちも、どこかで誰かが見守ってくれているはずだ。話を聞き、助けてくれる人がいるはずだ。そのことに気づくことができれば、悲しみを乗り越える力がわくのではなかろうか。 「二度とない人生だから、どんな失敗をしても、どんな挫折をしても、どんな病気になっても、生きねばならぬ」と真民さんは訴える(「生きてゆく力がなくなる時」柏樹社)。苦しみの中で得た教訓に勇気をもらうのは大人たちも同じである。【愛媛新聞】2006/12/15(金)付の地軸より
2006年12月15日
コメント(0)

坂村真民さん、死去、詩人「念ずれば花ひらく」 明治42(1909)年1月6日生まれ、97歳 「念ずれば花ひらく」などの作品で知られ“仏教詩人”“国民詩人”とも称された詩人の坂村真民(さかむら・しんみん、本名昂・=たかし)さんが11日午前4時40分、老衰のため伊予郡砥部町内の病院で死去していたことが、14日分かった。97歳。熊本県出身。自宅は同町内。葬儀は家族のみで済ませた。 神宮皇学院(現皇学館大)卒業後、熊本や朝鮮で教職に就き、1946年、第二山下高等女学校(現三瓶高校)に国語教師として赴任。その後も宇和島東高などに勤め、67年、新田高の講師となって砥部町に居を定めた。 18歳で短歌を志し、46年に短歌雑誌「海燕」を創刊。愛媛に移ってから一遍上人に傾倒し、仏教精神に基づく詩作を始めた。62年創刊の個人雑誌「詩国」は札を民衆に配った同上人に倣い、毎月約千部を無料配布。同紙は2004年、500号を機に「鳩寿」と改名し、再スタートした。 飾らない言葉で人生の喜びや希望をうたった詩は多くの人を勇気づけ、支持を拡大。中学、高校の教科書にも採用された。ファンらが建てた詩碑は国内外700基以上に及ぶ。初詩集「自選坂村真民詩集」は1967年の刊行以来34版を重ね、現代詩集として異例の約約十万部を売り上げている。ほか主な著作に詩集「朴」「坂村真民全詩集」、随筆集「念ずれば花ひらく」など。 74年に愛媛新聞賞、89年に県教育文化賞、99年に県功労賞。2001年には砥部町名誉町民、03年には熊本県近代文化功労賞に選ばれた。教育文化向上に貢献 加戸守行知事の話 突然の訃報(ふほう)にただ驚いている。坂村先生は長年にわたり詩作に打ち込まれ、代表作「念ずれば花ひらく」の出版などを通じて本県の教育、文化の向上に多大なご貢献を賜った。また、「愛媛産には 愛がある。」の先生の題字には、多くの農林水産関係者が勇気づけられた。先生のご功績に深く敬意を表するとともに、心からご冥福をお祈り申し上げる。【愛媛新聞朝刊2006(平成18)年12月15日号1面】より引用
2006年12月14日
コメント(0)

訃報:坂村真民さん、明治42(1909)年まれ、97歳=詩人坂村真民さん(さかむら・しんみん<本名・坂村昂=たかし>詩人) 12月11日、老衰のため死去、満97歳。葬儀・告別式は12日に親族のみで営まれた。喪主は妻久代さん。愛媛県砥部町在住で、自宅は非公表。 熊本県生まれ出身。愛媛県を本拠として、まず国語の教師となり教職の傍ら詩人として活動を始めた。仏教の精神に根ざした詩作で知られ「癒やしの詩人」と呼ばれ多数の作品が人気を集めた。 1956年に発表した「念ずれば花ひらく」は国内外で反響を呼び、全国各地の石碑に刻まれた。「仏教詩人」ともいわれ、62年に個人月刊詩誌「詩国(しこく)」(後に「鳩寿(きゅうじゅ)」と改題を創刊主宰。80年、正力松太郎賞受賞、91年には仏教伝道文化賞を受賞、99年に愛媛県功労賞などを受賞した。2003年には熊本県近代文化功労者にも選ばれた。主な著書に「自選坂村真民詩集」(大東出版社)、随筆集「念ずれば花ひらく」(柏樹社)「地球に額をつけて」など。【故、坂村真民さんの履歴】へ
2006年12月13日
コメント(0)

祈りの詩人、「坂村真民氏詩でつづる日めくりカレンダー」より『わたしの詩』 わたしの詩は 生きるために苦しみ 生きるために泣き 生きるために さげすまれ はずかしめられても なお生きようとする そういう人たちに ささげる わたしの願いの かたまりであり 湧き水である 『一人でもいい』 一人でもいい わたしの詩を読んで 生きる力を得て下さったなら 涙をふいて 立ち上がって下さったら きのうまでの闇を 光にして下さったら 一人でもいい 私の詩集をふところにして 貧しいもの 罪あるもの 捨てられたもの そういう人たちのため 愛の手を さしのべて下さったら坂村真民 詩でつづる 日めくりカレンダー 『鳥は飛ばねばならぬ 人は生きねばならぬ』34枚綴り タテ18.2×ヨコ26センチ(定価、千円) オールカラー 今までこのブログで計23回にわたり、坂村真民さんの詩を掲載させて戴きました。誠に残念ですが、本日12月11日早朝、先生が97才の天寿を全うされて亡くなられました。心よりご冥福を祈り上げます。合掌。なお詳しいことは未だよく分かりませんが、後日先生の最後の様子はこのブログで掲載させて頂きます。しかし何回読んでも坂村先生の詩には心を動かされ、残された33篇の詩でつづられたカレンダーは悲しみや苦しみをいやし、生きる力が湧いてきます。先生の本かカレンダーを読まれていない方は、ぜひご購入をされてゆっくりと一度味わって見て下さい。再拝。◎日めくりカレンダーの注文HPへ
2006年12月12日
コメント(0)

グランドアンカーPDF 今回はグランド(地盤)アンカー工事について紹介します。身延山久遠寺の境内は山の中の中腹にひらかれており、現在その一角で五重塔の建設工事が進められています。この工事は山側の頑丈な地盤まで、長さ26メートルのワイヤーを斜め45°の角度で埋め込む工事で、2本のアンカーで五重塔の基礎をしっかりと緊結することが目的です。前回紹介した杭とともにグランドアンカーを設置することにより、より安全な基礎を形成するための二重の安全策となります。1、アンカー長の検査 直径約10センチのチューブの中に 8本のワイヤーが挿入されたアンカーの長さを検査します。2、重機設置 検査したアンカーを挿入するための穴を掘る 重機を所定の位置、角度に設置します。3、堀孔 先端に歯が付いた鋼管を回転しながら堀進み同時 に水圧で掘った土を排出します。4、鋼管装着 1.5メートルの鋼管をつなぎ合わせて 26メートルまで掘り進めます。5、アンカー挿入 掘削した孔にアンカーを挿入します。6、セメントミルク加圧注入 アンカーが納まったことを 確認して、セメントミルクを注入し地盤と定着させます。7、ケーシング引抜 26メートルにつなぎ合わせたケーシングを少しずつ引抜ます。8、余長確認 次ぎに予定のマットスラブが完成後、緊張し 定着するためワイヤーの先端を残して工事完了です。(身延山五重塔2006年12月05日現在の工事状況・まだ基礎のみ)宗教法人 身延山久遠寺【境内の工事経過報告写真02より】設計・管理、財団法人文化財建造物保存技術協会、施工、大成建設株式会社 平成18年10月3日現在久遠寺五重塔アーカイブス
2006年12月11日
コメント(0)

現在工事を進めている五重塔は、元和5(1619)年に身延山で初めて建てられた五重塔「を復元」することを目標としています。塔のデザインや構造などは当時の工法を取り入れた木造であることを基本としており完成すると高さ39メートルの壮大な姿をあらわします。 杭工事PDF 今回は五重塔の基礎となる杭について紹介します。一般的に地震に強いといわれる五重塔ですが、基礎がしっかりしていなければなりません。18メートル下の頑丈な地層に到達するまで直径1.1メートルの杭を4本打ち込み、杭によって支持された土台を作ります。あまり目立ちませんが基礎中の基礎といえる工事です。1、全周回転機、ケーシング設置 直径1.1メートルの円筒 形のケーシングが回転しながら地下18メートルまで掘り進み・・・2、掘削 同時にケーシング内部の土をハンマーグラブでつかみ取ります。3、支持地盤確認 つかみ取った土はサンプルを採取して、 事前調査の結果と照らし合わせて確認します。4、杭鉄筋検査 杭の骨組みとなる鉄筋が設計図通り作られているか確認し・・・5、鉄筋設置 クレーンで吊り上げて穴底に降ろしていきます。6、コンクリート打設 鉄筋がきちんと納まった事を確認し て、コンクリートを流し込みます。7、ケーシング引抜 ケーシングを少しずつ引抜きながら さらにコンクリートを地表面まで充填します。8、完成 同じ工法を繰り返し、4本の杭が完成します。 宗教法人 身延山久遠寺【境内の工事経過報告写真01より】 設計・管理、財団法人文化財建造物保存技術協会 施工、大成建設株式会社 平成18年8月21日現在、身延山久遠寺公式HP
2006年12月10日
コメント(0)

日蓮聖人の足跡と中山法華経寺のいわれ 法華経寺は日蓮大聖人が最初に教えを説き開かれた寺院です。中山法華経寺HP 境内に建つ法華堂(ほっけどう)は日蓮宗最古のお堂で、聖人が自ら釈迦牟尼仏を供養し安置したと伝えられます。初祖日常上人(にちじょうしょうにん)は最初の信徒であり、生涯聖人の教えと直筆の文章を守り通し、法華経の教えが広まるよう尽力されました。また、大聖人御親刻(ごしんこく)の鬼子母神(きしもじん)像は、「中山の鬼子母神さま」と親しまれ、広く信仰を集めています。 (初祖日常上人像) 日蓮宗の祈祷道場としての伝統寺院法華経寺は、日蓮宗唯一の祈祷根本道場として、全国に名高い「大荒行」の聖地です。毎年11月1日から百ヶ日間、荒行堂は壮絶な読経の声に包まれます。結界の中で続けられる、一日七回の水行と読経の日々。12月6日からの面会に行って参りました。今年は全国から180名、愛媛県からも久万高原町の正法寺修徒田坂正潤上人が初行僧として修行に励んでおられ、小生日孝も今回行中見舞の励ましに午前12時からの水行前に面会に伺いました。 2月10日、百ヶ日の修行を無事に終え、荒行堂を出る際には(成満会・・じょうまんえ)、多くの親族や檀信者たちが、僧名を染め抜いたのぼりを掲げ、未明から開門を待ちます。なお、田坂上人帰山式の日時は2月21日午前10時半頃の予定です。(法華経寺五重塔)元和8年(1622)18世正教院日慈上人代本阿弥光室の本願によって加賀(石川)前田公の寄進により建立、三間四面銅板葺(国指定重要文化財)一辺約4,9m、高さ約30m。基本的に和様の意匠ですが、5重のみは唐様(明治45年の半解体修理で変更されたという)を用いる。昭和54年修理で全面に弁柄を塗装。心柱は初重から建ち、唐様の須弥壇と荘厳があり、釈迦如来・多宝如来坐像を安置するという。平成20年完成予定の身延山五重塔が楽しみです。
2006年12月09日
コメント(0)

現在岡山大学四回生の長男泰寛(やすひろ)が来年三月卒業後身延山大学に編入するための口頭試問面接試験が12月5日午後身延山学園で行われ、無事見事に合格、来年4月に入学の予定。
2006年12月08日
コメント(0)

2006年12月07日
コメント(0)

一、出篭 一、四門三匝(しもんさんそう)之儀 葬式を営む式場の前庭に、場所を画して四方に設けた四つの門、即ち、東(発心門)・南(修行門)・西(菩提門)・北(涅槃門)を右匝(めぐり)に三回まわることをいう。この四門は、釈尊入涅槃の後の荼毘所が城内にあったという故事に由来し、城の四門に擬して設けるようになったものであるといい、右めぐりに三匝することは葬送するところの死者が身口意三業に釈尊の如く順次修行の段階を積んで成仏するようにという意味で、現代では非常に珍しい古儀式である。 大本堂前より西谷を経て宗祖大聖人の眠る祖廟奥にある身延山歴代法主墓所へと行列一行は進み日光法主のご遺骨が納骨された。
2006年12月06日
コメント(0)

本葬儀 式次第第一鐘 12時30分第二鐘 12時45分先、奏 楽 師衆昇堂 式衆身延山支院次、開式之辞 司 会 石川浩徳布教部長次、総 礼 大導師 池上本門寺貫首次、三寶礼 日蓮宗管長 酒井日慈次、勧 請 副導師 覚林坊 樋口是澄次、開経偈 々 北之坊 貴家是勝次、読 経 方便品次、咒 讃 鐃鉢 二・四四・三三・一次、茶 湯 山本坊 池上玄庸次、霊 膳 延壽坊 町田是正次、歎 徳 大導師 酒井日慈猊下次、弔 辞 宗務院 小松浄慎総長 久遠寺総代 堀内光男衆議院議員次、読 経 自我偈次、祖 訓 観心本尊抄次、唱 題 次、回 向 次、四 誓次、御分骨次、謝 辞 身延山第92世内野日聰法主猊下次、三 帰 次、奏楽 結、閉式之辞
2006年12月05日
コメント(0)

平成18年9月21日御遷化、世壽98歳総本山身延山久遠寺第91世法主第49代・第50代日蓮宗管長藤井(妙道院日光)上人本葬儀日光猊下略歴12月4日午後1時より久遠寺大本堂にて日蓮宗管長 酒井日慈猊下(大本山池上本門寺貫主)御親修
2006年12月04日
コメント(0)

12月3日長男(岡山大学4回生)の住む備前に泊まり岡山城の朝焼けの景色を撮影しました。明4日は身延山へ
2006年12月03日
コメント(0)

日蓮宗総本山身延山久遠寺前法主(第91世)で日蓮宗前管長(第49代、第50代)の藤井日光猊下が9月21日午前7時20分ご遷化された。数え年天壽98歳だった。法号は妙道院日光上人。9月23日午後6時から久遠寺で仮通夜、24日午前11時から密葬儀が営まれ、遺徳を偲び全国から多数の参列者が訪れ、26日は西安草堂寺団参にて中国にてご住職より初七日の御回向、12月4日午後1時からは身延山久遠寺にて本葬儀が厳修される。小生も長男泰寛と共に臨席の予定で3日から岡山経由で身延山へ。 藤井猊下は平成11年月から本年までの7年間にわたり身延山久遠寺法主を務められ、日蓮大聖人立教開宗750年慶讃にあたっては国内外を盛んにご巡錫されるなど宗風宣揚にご尽力された。 藤井日光猊下は明治42年山梨県生まれ。師父は身延山第86世法主藤井日静上人。(小生泰則が3年間随身)大正11年に得度され、昭和12年に立正大学仏教学科を卒業。昭和17年京都市満願寺、昭和34年東京都身延別院、昭和48年石川県本山妙成寺の住職に就任され、宗門においては昭和40年から新聞部長、伝道部長、各種委員など数々の要職を歴任された。 祖山においては平成2年から総務として岩間日勇法主(当時)を補佐され、祖師堂改修等の大事業を完遂。平成11年3月に身延山久遠寺第91世法主に就任し祖廟格護の法燈を継承された。 時期を同じくして第49代日蓮宗管長に就任され、日蓮大聖人立教開宗750年慶讃にあたっては全国6教区の教区大会を巡錫。平成14年4月のご正当には大本山清澄寺における立教開宗750年慶讃大法要、平成15年4月には身延結願大法要の大導師を務められた。 藤井猊下は海外布教への志が強く、日蓮宗アジア仏教振興会会長・世界仏教徒協議会会長として海外に向けた諸事業にも尽力。平成12年にはドイツハノーバーにおける国際永久平和祈念祭典ならびにドイツ大聖恩寺開山法要、平成15年にはハワイ開教百周年慶讃大法要の大導師を務められるなど海外へも盛んにご巡錫され、自ら四海帰妙の先頭に立たれて宗風宣揚にご尽力された。 なお、平成15年に第50代日蓮宗管長に再任され、翌16年には第26期全日本仏教会会長に就任せれ、今年の3月任期満了ももって交代されていた。 藤井猊下は、平成16年1月に身延山五重塔建立の誓願を立てられ、平成20年の完成に向けて心力を注がれていたが、御高齢による体調の衰えにより本年7月1日に法主職の引退を表明し身延山病院にて御療養をされていた。【日蓮宗新聞10月1日号より転載】
2006年12月02日
コメント(0)

今日も雲が厚く、あいにくだるま夕日は見れませんでしたが、立岩川河口には藍鷺・白鷺や鴨など沢山の鳥達が戯れてました。「アオサギ」出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2006年12月01日
コメント(0)
全33件 (33件中 1-33件目)
1