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「澁澤卿個人展」の成功裡に開催されたことを祝うため、2007年11月4日午後6時より、中国の国会でもある北京人民大会堂【マカオ四季ホール】(人民大会堂の部屋には、国内各省・各国の名前がつけられている)にて祝宴が催され、答謝会の宴にて国賓待遇のもてなしを受ける。 先ずNPO聚友日中友好交流促進協会の相澤友子理事長の開会挨拶から、中国対外協会副会長のご祝辞、今回の訪中団長でもある千足伸行先生(美術評論家・成城大学教授)乾杯の挨拶等の後、 澁澤画伯からは今回個展への参加お礼と、次回の2009年北京個展開催への抱負と皆さんへ参加のお願い答辞の後、最後に各テーブルに奥様と一人一人丁寧にお礼のご挨拶にと回られ楽しくご歓談をされておられていた。 めったにない好機会なので、菜単(メニュー)の内容の一部を記載します。 冷盤(前菜)、松茸竹湯(松茸スープ)、酒香魚翅四宝(フカヒレ煮込み)、黒椒小牛肉(牛肉ステーキ胡椒味)、香茹鮮蔬(椎茸と野菜の煮込む)、清蒸石班魚(魚の蒸物)、冰淇淋(アイスクリーム)、点心(お菓子)、水果(果物)流石に人民大会堂でふるまわれる料理だけあって、絶品、しっかりと楽しませて貰った。実は人民大会堂で出される料理は余り美味しくないという話も一方で聞いたことがあるのだが、それはもう昔のことなのかな?この夜は、今回の中でも文句なく美味しかった。そして料理の味だけでなく、変に安っぽい料理が沢山並ぶのではなく、洗練された厳選料理が適当な量だけ、スピーディーに出てくるというのも大変良かった。 中華料理の宴会って、時として「こんなに食べられる訳ないじゃ~ん!」というほど次々に皿が運ばれてきて、時間が掛かるのをちょっと苦手に感じることがあるのだが、今日はそういう点でも適当だった。恐らくホストをする中国側の代表者も、日々の職務に忙しいだろうし、宴会の機会も多いだろうから、合理的に考えるようになっているということの現われなのだろう。やはり、中国は北京オリンピックに向けて確実にどんどん進化しているようだ!
2007年11月30日
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“北京秋天(北京は秋が一番良い季節)”。人民大会堂(じんみんだいかいどう)と言えば、中華人民共和国の首都北京の天安門広場西端に位置する、人民英雄紀念碑の前にどっしりと居座る巨大な建物で、中国の国会にあたる全国人民代表者会議が年に一度開催される場所。普段は海外の賓客が国家要人と会見する時などに使われている。 この人民大会堂は、中華人民共和国の建国10周年を記念して、ボランティアの手によって、1958年から1959年にかけてわずか10ヶ月で建造された。17万平方メートルを超える床面積を有し、300室の会議場・休憩室・事務室を備えている。各会議場には中国の行政区分にちなんだ名前が付けられており、各地の風土にちなんだ装飾がなされている。 ライトアップした大きな人民大会堂の玄関入口から中に入った所にて飛行場のような厳重なX線手荷物検査やボデーチェックの後、初めて入館、中には先ず分厚い真紅の絨毯が敷き詰められた廊下と広大な中央ホールの壁には十数メートル幅の紅梅大額やその他、とても大きな色々な芸術品の数々が掲げてあった。 ここ人民大会堂内では毎年3月、全国人民代表大会(全人代)と中国人民政治協商会議が、2週間から3週間の期間で行われる。全人代は1万席を備えた大会議場において開催され、その別室では全国人民代表大会常務委員会が開かれる。また、人民大会堂の中央ホールでは5年に1度、中国共産党の総会が開かれている。内部は全人代や特別の行事がない限り昼間は一般人でも見学ができるが、今回のような宴会は特別な場合だけにしか許されないという。日本の国会議事堂ではこのような宴会はとても考えられない。 11月4日今回最後の夕食の宴は、中国人民憧れの会場の人民大会堂の中、マカオの間・四季ホールにおいて開催され、小生も「日本画家澁澤卿画展答謝宴會」の末席を汚す機会を得ました。詳細は次回に・・・
2007年11月29日
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坤寧宮(にんねいきゅう)は明代永楽18(1420)年の創建で、皇后の寝室として使用された。清時代はここの西暖閣は祭神の場所でもあり、釈迦牟尼、関羽・蒙古神などの画像が祀られた。 坤寧宮の後方には坤寧門で、門内周囲の回廊には太監値房・薬房・太医値房が有り、その門を通り抜けると御花園(ぎょかえん)と呼ばれる東西130m・南東90m、面積1万1700平方mの宮廷式の庭園がある。因みに外朝及び内廷内に何処にも木が植えられてないのは、囲まれた城内に木が有ると困るという文字になるので、縁起を担ぎあえて御花園のみに限定し木を纏めて植え楽しんだという。 故宮の建物には気迫がみなぎり、豪壮華麗で、中国の古建築の粋を集める。勿論、博物館としても一級で収蔵品は百万点に及ぶとされる。北京随一の見所といってもよいだろう。しかし今回も2008年の北京オリンピックのため随所が、未だ工事中であったのはとても残念でした。 周壁は長さ約3kmで、周壁の外側に幅52メートルの護城河(堀)がめぐらされている。東西南北に各一門があり、南が正門の午門、北が神武門、東が東華門、西が西華門である。因みに今回は殆ど真っ直ぐ城内を歩いて通り抜けるだけでも約一万歩も歩いた。 改めて中国皇帝の偉大な権威の物凄さと、行けども々何時までも同じ景色がこれでもかと続く中華(世界の衷心で東西南北の人は皆な野蛮人)思想と、72万平方m余りの敷地の中に9999室の建物があり、延床総面積は約15万平方m。毎日1部屋に泊まると27年もかかるとガイドさんからの説明に驚く。映画「ラストエンペラー」の舞台太和殿の前庭も沢山の観光客で埋め尽くされていた。夕日に沈みゆく紫禁城を見る時、何故か台湾の故宮博物院を思い出した。入れ物(城)はこちら中国北京に、中の宝物は台湾台北へ。国家が二つに別れるとはこういうことなのか・・・。
2007年11月28日
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紫禁城・内廷 乾清宮、交泰殿、坤寧宮のある場所が内廷で、日常政務を処理するところです。残りの東西六宮、御内廷は乾清宮・交泰殿・坤寧宮と東六宮、西六宮などからなり、皇帝と皇后の生活空間であり、皇帝が日常の政務を処理し、祭祀を行うところであった。花園は后妃と皇子が生活し、側室妃たちが起居、遊楽、休憩をした場所です。 乾清門(けんせいもん)は内廷の正門で清時代はここで「御門聴政」が行われた。皇帝は門内に臨時に設けられた寶座に座り、各大臣の報告を聞き、詔勅を下した。門前には左右一対の塗金青銅獅子像と10個の塗金罐が置かれ、罐自体の1個の重さは200kgで、水は合計2000リットルも貯水ができたという。 乾清宮>(けんせいきゅう)は皇帝の寝室・執務室であり、上奏文の批閲、官員の詔見、外国使節の接見、内廷の全てがこの乾清宮で行われた。 皇帝は暗殺防止の為、毎日27室の寝室一つを選んで寝ていたという。因みに宮廷内には皇帝の長寿を祈った鶴や亀の置物が造られている。 交泰殿は正方形の建物で、皇后を立てる際に「冊」「宝」を与える儀式や毎年、元旦・冬至・千秋(皇后の誕生日)の三大節に皇后はここで朝賀を受けた。
2007年11月27日
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紫禁城殿宇の配置は大きく外朝と内廷の二つに分かれている。外朝は、太和殿・中和殿・保和殿の三大殿が中心をなし、その両翼に文華・武英両殿を配し、皇帝が儀式を行い、群臣を召見するなど公的な場所であった。 太和殿は基台の高さを加えると35.3mに達し、明清代を通じて紫禁城内では最も高い建築物であり、現存する中国最大の木造建築でもあるが、現在未だ工事中で誠に残念!。 中和殿は明代は太和殿で執り行われる大典の準備の場所で、清代から大典の前に皇帝は先ずここで休憩し、内閣や礼部など役人からの朝拝を受けて赴いた。 保和殿は明代永楽18(1420)年に創建され、翌年4月に雷による火災で焼失し、正統6(1441)年に再建された。建築方法は減柱法がとられ、寶座前の6本の柱を省いて広い空間を造り出している。創建当時は謹身殿と呼ばれ、皇帝が礼服に着替えていた。 保和殿の裏、北側には石段があり、中央は御道と呼ばれ、皇帝のみが輿で通行した。この石段の中央には「大石雕」と呼ばれる巨大なレリーフがある。龍を彫刻した巨石で、故宮最大の石造物。長さ16.72m、幅3.67m、厚さ1.7m、重さは200トンある一枚岩。北京西郊外約50キロにある房山から切り出され、冬期に水を撒いて凍結させた道路に丸太を並べて滑らせ、2万人以上の人手により28日間かけて運ばれた。
2007年11月26日
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<故宮博物院>(こきゅうはくぶついん)1987年、ユネスコの世界文化遺産に登録、旧称を紫禁城といい、北京市の市街中心部にある。紫禁城(Forbidden City / Forbidden Palace)は、明・清二王朝の王宮であり、世界最大で最も完全な形で保存されている中華帝国の宮殿です。 明・清両代の皇宮で、明の永楽4(1406)年に着工、同18年に基本的に完成し、それ以来、560年余りの間に24人の皇帝が住み、皇帝が政務に携わり、起居したところであったため、紫禁城と称され、明の永楽四(1406)年から建造を始め、14年がかりで完成させました。 全体の面積は72万平方メートル、建築面積は約15万平方メートル。太和、中和、保和三殿の所在するところは外朝で、政治活動の舞台でした。新しい皇帝の即位、年号の改め、戦争など重要な国事活動と皇帝の生誕、結婚、春節(旧正月)などの重要な祝典が太和殿で行われていました。昨年6月に紫禁城に来た時は、この太和殿には覆い屋根と外にその絵を描いた幕を張っていましたが、今回は仮屋根も取り外されて、次第に中国最大の木造建築であるその本体が姿を現していました。昨年は間に合うかどうか心配しましたが、2008年8月迄には全ての修復が完成しているでしょう。
2007年11月25日
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倣膳飯荘からA・B・C号車の3つに別れて天安門広場に集まり故宮・紫禁城へと向かう。 ここからここまで、と人目で見渡せないくらい広い。1989年の事件に想いを馳せるが、たくさん行き交う車,あふれる人々に圧倒されながら、一同記念の撮影。<天安門広場> 総面積40万平方メートル。南北は天安門から正陽門までの880m、東西は人民大会堂から歴史博物館までの500mの世界最大の広場。明・清の時代の地図に描かれている現在の広場は、南北に長い「T」字型で、両側には役所が並んでいた。明清時代には皇帝の即位などに使われる聖なる場所であった。1911年の辛亥革命以後一般に公開されるようになり、49年の建国の式典の時に広場として整備され、58年に人民英雄紀念碑が、建国十周年の記念に人民大会堂、歴史博物館、革命博物館が、そして77年には毛主席記念堂が建てられ現在の姿になった。 広場の中は、北から人民英雄紀念碑、毛主席紀念堂、正陽門(前門)があり、広場の西には人民大会堂(全国人民代表大会議事堂)、東には中国国家博物館(旧・中国歴史博物館および中国革命博物館)がある。これは、太陽の昇る方角を過去、沈む方角を未来に比喩したものである。周囲の歩道の敷石にまじって長方形の鉄板が敷かれている部分があるが、下に水を流せる構造になっており、大人数の集会等がある際、鉄板をはずして周囲を天幕で覆い、臨時のトイレとして使用できるようになっている。 新中国を象徴する聖域として存在でもあり、それだけに転換期におけるさまざまな事件の舞台ともなった。一度に50万人を収容できるという。敷石は花崗岩。北は北京一の大通り・長安路でその向こうに故宮の入り口だった天安門がある。
2007年11月24日
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万里の長城を堪能して大ゲートをくぐり、オリンピックメインスタジアムの「鳥の巣」や近くの中国ミニ建造物展示会場の近くを車窓見学して午前11時半頃に北京市内の天安門に戻る。 午後は天安門の近くにある「倣膳飯荘」にて倣膳(西太后宮廷食の一部を再現)の昼食、 「倣膳飯荘」本店は北海公園の中の宮廷料理、故宮の裏に位置する北海公園。その公園の中にある宮廷料理の老舗が、ここ「倣膳飯荘」(倣は人偏に方)。北海公園は、千年以上の歴史があり、北京の重点文物保護単位に指定され、明、清時代には皇帝の御園とされていた場所。清の乾隆帝は、北海公園内の瓊華島に景観の見事な”猗瀾堂”をつくり、そこで本を読んだり詩を書いたり、皇后と一緒にゆったりと湖を眺めたりしたのだそうだ。 天安門倣膳飯荘は、もともと、1925年に、宮廷の厨房”御膳房”にて使用人をしていた趙仁斎と息子の趙炳南が、当時の厨房のコックであった趙永寿らを雇って始めた茶荘だった。宮廷の厨房”御膳房”の料理を真似してつくっているので、お店に”倣膳”という名前をつけたのだそうだ。
2007年11月23日
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万里の長城(ばんりのちょうじょう、ワンリー・チャンチョン)は中華人民共和国にある遺跡。ユネスコの世界遺産(文化遺産)。河北省山海関から、甘粛省まで至り、総延長は6.352kmに及ぶ。その大きさから「月から見える唯一の建造物」とも言われていたが、2004年12月8日に宇宙空間から肉眼で観測することはできないと、中国科学院により否定された。 万里の長城(Great Wall of China)は中国の古代文明のシンボルであり、世界に知られた古代中国の防御建造物です。延々と1万2700里に及んでいることから「万里の長城」と呼ばれています。世界文化遺産にも登録されています。 北京市街から北に約60km行ったところにある「八達嶺長城」は修復が施され状態が最もよく、万里の長城の中でも代表的な区間となっています。北京近郊には他に、金山嶺長城・慕田峪長城・司馬台長城・居庸関長城などの長城もある。 八達嶺長城(はったつれいちょうじょう・バーダーリン チャンチョン)とは北京市街の北西部、北京市延慶県にある長城。世界遺産・万里の長城の訪問可能な地点のうち、もっとも有名かつ一般的な観光地で、長城のうち、もっとも早く観光地として一般公開された場所である。 明代に建設された。北京から近く、北京直通の八達嶺高速道路が近くにあるなど、交通も便利なために、年間を通じて多くの観光客が訪問する。ただし7月頃には霧に覆われていることが多く、温暖で晴天の多い秋が最も混雑する。今日も日曜日で下の登山口では、もの凄い大混雑だった。 この付近の長城は首都北京を防衛するために特に堅牢に作られていた。万里の長城と言われて誰もが思い浮かべる、煉瓦で建築され所々に望楼がある姿は、北京近郊の長城に特有の姿と言える。ただし、当地を含めて観光客に一般公開されているところは、大規模な修復が行われている。谷の底にある入場口から両側の山に伸びる長城のいずれも途中までは公開されている。 関所の城楼は明の弘治18(1505)年に建造され、城楼の東西両側に門が一つずつあり、額として東の門の上に「居庸外鎮」の四字が彫ってあり、西の門の上に「北門鎖鑰」の四字が彫ってあるという。 この八達嶺長城はとても壮観で城壁の高さが平均7.8メートル、その土台が重さ500キロの大きな花崗岩で築かれています。城壁の上では馬なら5頭、人なら10人が横に並んで進むことが出来るという。城壁の外側に凹凸があり、パトロールする時、そこから遠見していました。矢を射るための射撃孔もついています。ほぼ800メートルおきに宿泊・兵器保管・見張りに使う敵楼、墻(狼煙)台が設けてありました。 日本の旅行会社やガイドブックは便宜的に関所に向かって左側・南側を「男坂」と呼んでおり、日本語の現地ガイドもそのように紹介します。男坂と呼ばれている関所から急な坂が続く、単純に歩いていくときついのですが、関所手前の大駐車場の脇から出ているロープウェーで最高所まで登って男坂を下るととてもラク。しかし一人の1本足の障害を持った男性が一番下から松葉杖を突きながら、もの凄い勢いで登って来られたのには驚いた。 関所の右側・北側長城のほうが普段は観光客がとても多い。「女坂」の坂は最初はなだらかで楽勝です。途中に一部男坂を上回る坂の階段があるのが難点ですが、女坂は観光客が少ないのでのんびり歩けます。だいたい片道で1時間半くらい歩くと未修復の場所まで行って行き止まり。標高の最も高い「北八楼」は海抜1015メートルもあり、北京市街よりも気温はかなり低いと聞いていたが、この日は登りながらも少し汗をかく程、暖かい好天で素晴らしい絶景を観ることができた。 また、現地では長城の標高の高い地点に容易に登ることができる日本製6人乗りの観光用の索道ロープウェイが両側の山の上まで2路線設置されているほか、小さなトロッコのような乗り物も設置されており、これを利用して山の上の入場口から観光する人も多い。この索道ロープウェイもこれらは登りだけ利用する観光客が多い。 観光用のロバやラクダもいたが、あまり上の方まで行くわけではない。また、2008年開催の北京オリンピックに向けて、バリアフリー化のために2007年末までにエスカレーター設置の計画も発表されているらしいが、どこに設置されているかは分からなかった。
2007年11月22日
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11月4日(日曜日)早朝、天安門広場は最大で50万の人々を収容でき、国家行事や歴史の大事の舞台となってきた。そのために幾度となく革命運動の舞台にもなり抗争が起こってきた。普段日中は国内外の観光客で溢れているが、早朝は国家のシンボル的施設であるため多数の警備兵がパトロールをしており、物々しい雰囲気が漂っている。 広場の北部天安門の正面に国旗掲揚台があり、毎日・日の出と日没時に警備兵による国旗掲揚・奉納式が行われる。この様子は中国の地方からの団体観光客に人気があり、相当早く現地に行かないと前の方で見学ができないが、今回は朝日を撮りに紫禁城を一周した際に偶然丁度その時間帯へ幸運に遭遇して撮影することができた。 広場の警備兵交代式見学の後、通行止めだった天安門の前も通常通り横断ができるようになり、大勢の人達の動きが始まった。北京のお洒落なギャル達もカメラの前を通り過ぎて行ったのでパチリ、先程まだ暗い中入って行った南池子門前の前を通過、丁度紫禁城の周辺を一周した事になる。歩いて見て改めて中国・北京・紫禁城の大きさや嘗ての皇帝の権力のもの凄さに驚いた。 今日は結局、紫禁城の廻りをただ1周しただけで1時間半、約8800歩も歩いていた。北京飯店ホテルに戻り、朝食の為に偶然通された一番奥の部屋で同行の政岡さん達と再会、7時15分から食事中に今回北京ではもう無理だと諦めていた旭のご来光を、ホテルのガラス越しに幸運にも撮影に初めてやっと成功することが出来た。
2007年11月21日
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11月4日朝5時30分起床、北京3日目の今日も又暖かい素晴らしいお天気、美しい星空の元、今朝は北京飯店ホテルから右側に出て、南池子大街から北池子大街を左折、景山前街の裏玄武門前を通過して、左廻りで紫禁城の周囲をぐるりと一周をすることにした。 紫禁城(しきんじょう、または故宮(こきゅう)は、中華人民共和国の北京に所在する旧王宮、歴史的建造物。面積は約725,000平方m2もあり、世界最大の宮殿の遺構である。現在は、博物館(故宮博物院)にもなっている裏門は現在工事中。北京故宮南北の長さ961m、東西の幅753m、周囲には幅52m の護城河が囲む。城牆の高さ12m、底厚10m、頂厚は6m から7m。6つの門があり、南に天安門・最も外には端門と午門・東に東華門・西に西華門・北に玄武門(神武門)である。各門にはそれぞれの用途があると言う。 「紫禁城」は中国の天文学に従い、北極星(天帝)を皇帝に擬え、地上に「紫微垣」を再現ものとされる。そのため「天子は南面す」の言葉どおり、北に皇帝の宮殿が置かれている。 紫禁城の北側、裏側には紫禁城の堀と北海公園の池を掘った土を盛って人工的に造られた標高92メートルの景山公園が有り、そこに当初日の出前に登ろうと計画したが、6時半までは門が閉まっており、開門を待つ長蛇の列なので今日も7時30分にホテル出発であまり時間が無く、頂上からのご来光撮影は諦めて、紫禁城の堀をその侭ぐるりと左回りして北長街から天安門広場の前に出てホテルに戻ることにした。
2007年11月20日
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王府井にて各自楽しいショッピングの後、一旦ホテル北京飯店に戻り着替えてから、5時30分集合バスに乗り、北京市内の夜景を車窓でゆっくりと見学しながら、 今夜の夕食は北京前門にある有名な北京ダック(鴨と書きます)の専門店、『全聚徳』へ6時ジャストに到着しました。 『要術』に記されている「炙鴨」が中国におけるローストダックの先駆けです。『飲膳』に出てくるローストダックが現在の北京ダックの起源と言われています。北京ダックはかつて明朝宮廷の高級料理で宮廷では「金陵ダック」と呼ばれていました。15世紀初期、明朝が都を北京に移すと同時に、ローストダックの調理技術も北京に伝わりました。北京ダックは皇帝や宮廷の人々に愛され、清の時代には宮廷料理としての地位をさらに高めました。 全聚徳の創始者は楊全仁(1822‐1890)、河北省出身で飢饉のために故郷から北京へ逃れてやって来てから、前門の肉売り市場で鶏や鴨を売っていた。1864年、乾果店を譲り受けて新たに全聚徳と名づけた。彼は頭の切れる人物で、苦心の経営の末、全聚徳を普通の窯を使った店から、鴨を一羽ずつ吊るし焼きする窯を使うことを特徴とした店へと発展させ、全聚徳の北京ダックを一躍有名にするためのしっかりとした基礎を築いたそうです。 この北京ダックは全聚徳のメインメニューで、鴨選びから窯で焼く過程まで、まったく手抜きしない。鴨は飼われてから百日以下のもので、体重は2.5キロ以上と決められている。焼きあがった鴨は窯から出てくると、皮が脂肪を帯びている。 全聚徳のコック長さんが北京ダックの肉を切っているところです。その技術は大変上手です。食べ方は餅(ライスペーパ)を一枚を手に持って、北京ダックの皮に甘い味噌付けて餅の中には入れて、白髪葱で包んで食べます。口に入れると、肉は柔らかく脂っこくなく、香りも良い。だから何度食べても飽きることはないそうです。この北京料理の三大名物「北京ダック」の他、注文した料理は、ほとんどアヒルの内臓とか肉とか作っていますが、本当に沢山の美味しい料理をを充分に堪能して頂戴をしました。 澁澤さんからは「この『和平発展貢献賞』は日本人ではこれまで東芝と松下電器の社長さんの2名が頂いただけで、個人では私が初めての受賞です。」と、 1991年に北京故宮博物院にて開催された「現代日本画展」において、澁澤先生の芸術が中国政府に認められてから16年が経ち、この度中国政府より栄誉あり貢献賞を受賞される喜ばしい場に立ち会えた素晴らしさの説明を兼ねて、各席にまでその盾とリトグラフの目録を持参して一人一人丁寧にご挨拶に回られ、各テーブルでは澁澤さんを囲んで記念撮影。今夜も我很好吃、謝謝滿足!で一同解散、 その後、澁澤さんと北京マッサージ「足部保健」(西安風足裏マッサージ)300元にて足と身体の疲れを癒して、再びホテルの部屋に戻り風呂に入ってから直ぐに就寝しました。
2007年11月19日
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午後1時30分友誼館から3台の観光バスのA号車に乗車、澁澤さんからお礼と今後予定の2009年3月に北京での展覧会の話が車中で動き出す前に一言、 「中国で一番大きな国立美術館で1階の左右の部屋を予約してます。今迄この部屋を使ったのは、日本人では平山郁夫先生と加山又造先生のお二人しかおりません、私で三人目です。今回は外務省主催でしたが、多分次回は文化部主催(日本で言うと文部省主催)になる予定です。これは今まで文化部主催は日本人では誰もおりません。」と、ご挨拶があった。 午後は市内観光、先ず中国美術館も前を車窓から見学した後、清代の街並みを修復した書画骨董の店が軒を並べている通り琉璃廠(リゥリーチャン、中国簡体字:琉璃厂)へ、 1時40分から2時45分まで「琉璃廠文化街」で色々な店舗の他に筆や雑貨を売る屋台も沢山有りました。国営店の他に個人商店もあり、値段は観光客価格でちょっと高目かもしれませんが、北京の書画骨董のショッピングを約1時間楽しみました。 一旦またホテル北京飯店に着替えの為に戻り、3時45分から再び近くの王府井(わんふうちん)の高級デパートやスーパで色々な品物の値札を見ながら買い物を楽しみました。 特に今回驚いたのは中国人の格差で、我々が最初に連れて行かれた百貨店の商品の値段が日本と殆ど変わらない(パジャマ298元(5000円以上)、背広が3000元~6000元(5万円から10万円以上)で、大変高価(最低月収1ヶ月6000円~2万円程度、当日のレート1元17.19円で計算)なのに、それを一般の人々が日本と同じように平気でバンバン購入出来ていることでした。隣のスーパでは一桁違う値段30元~60元(500~1000円)のバーゲン品に大勢の若者達が群がっていました。 途中、王府井では歩行者天国で、色々なパフォーマンス等も行われており、特に土曜日の午後ということでもう大変な人手で、日本の銀座のように大いに賑わっていました。
2007年11月18日
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午前11時30分より中国対外友好協会(外務省)の迎賓館講堂にて歓迎宴会が催され、先ず今回の窓口NPO聚友日中友好交流促進協会理事長の張瑜(日本に帰化名、相澤友子)女史から開会の挨拶から、 次ぎに中国平和友好発展基金会の夏国珠秘書長から「中日国交正常化35周年記念、日本画家澁澤卿個展」の盛大な開幕にあたり、本展覧会のご成功を心からお祝い申し上げると共に、遙々ご訪問された澁澤個展訪中団の皆さん方を熱烈に歓迎致します。ようこそいらっしゃいました!。先程澁澤卿先生の傑作を拝見いたしました。 何の変哲もないの静寂さの中に深淵なものが見え、ひっそりとした静けさの中から調和の取れたやわらかな空気がくっきりと伝わって来ます。その中でも印象の深かった作品は『深翠清影』です。屋根一杯に茂った松森の遠い彼方の一角から明るい月の光が差し込んでいます。当に中日友好の輝かしい明るい未来の調和を示しているものでしょう。今まで中日友好事業の為に力を尽くされた皆さんに謹んで深い感謝と崇高な敬意を表します。」と、 今回中国政府から「栄誉証書(謹對迩為促進中日文化芸術交流所模範的貢献表示衷心感謝。特発此証、以資表彰。)」を特別に参加者我々全員にも授与され、千足伸行団長が代表をして全証書を受賞し預かられた。 昼食には沢山の大変美味しいご馳走のもてなしを受けて、「我很好吃、謝謝滿足!」。最後に全員起立してから、もう一回最後に祝杯を上げて和やかな歓迎宴会の幕を閉じました。
2007年11月17日
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オープニングセレモニーの後、中国対外友好協会内にある友誼館の展覧庁に移動、 各国の大統領や首相しか出入りができず、普段中国国宝作品しか展示されていないエキシビジョンホールの2階にて、3日から9日まで「日本画家澁澤卿個展」が中国要人を対象に2009年の中国美術館一般公開に先駆けての啓蒙を兼ねて開催されますが、先ず私達参加者全員で今回の図録に掲載された澁澤画伯の素晴らしい原画一つ一つ作品をゆっくりと拝見しました。展示作品は展示スペースの関係上、15号~50号の17点程でしたが、建物も大変お洒落な歴史的洋館で、とても味わいある展覧会でありました。 「和風光栄」30号の前で美しい奥様・貴賓のある奥様のお母様と一緒に澁澤さんとの記念撮影。
2007年11月16日
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11月3日(土)北京は素晴らしい温かい秋晴れ。午前10時30分より中国対外友好協会(外務省)主催による「日本画家澁澤卿個展」のオープニングセレモニーと中国政府より澁澤画伯の芸術活動に対して戴けることになった「和平発展貢献賞」の授賞式が中国対外友好協会内にある友誼館において執り行われた。 今回日本から応援のために北京まで集まった98名の熱心なファンやご家族の方々や澁澤さんの絵画を扱っている画商さん達が見守る中、中国対外協会副会長から「ご来賓の皆さんを心より歓迎致します。・・・」と個展開催の宣言、今回の訪中団長でもある美術評論家千足伸行先生(成城大学教授)から「このお目出度い席に同行参加させて頂き、今日は素晴らしいお天気きにも恵まれまして誠にもう中国の方々や参加の皆さんだけではなく、お天気迄もこの素晴らしい展覧会を祝って下さっているように感じております。」とのご祝辞、次ぎに日本国駐中華人民共和国大使館川上参事官からもご祝辞、 いよいよ澁澤画伯から先ず「沢山の方々が駆けつけて下さり有り難うございます。」とお礼の言葉から、 「平和の為に少しでも自分の芸術が貢献出来れば大変幸せに思っております。これからも隣国である中国と日本が平和で有りますよう祈ります。・・・」とのご挨拶と続き、参列の中国美術館・日本中国友好協会・中国文化部の皆さんと共に個展開幕式のテープカットをして、オープニングセレモニーが無事盛大に終わりました。 続いて中国政府が外国人に与える最高の賞とされている「和平発展貢献賞」の賞状と、下記の盾が中国対外協会副会長より澁澤画伯に授与されました。芸術という特定分野で外国人が中国政府よりこの賞を頂けるのは初めてのことで、澁澤さんも「大変光栄なことと身の引き締まる思いです。中国から伝わった水墨画を基盤とし、その上に私独自の技法で多彩な岩絵具を加えていくことによって生まれた新しい調和が中国と日本の文化交流の深い係わりを象徴しており、今回の受賞につながったのだと嬉しく受け止めております。」と語っておられました。 澁澤画伯が絵に込められた日本の心がその侭、中国の人々にも伝わり同じ心を感じて貰える芸術の心には政治も宗教も国境もなく、一枚の絵を通して絵の中に込められた心で会話することができる。今回澁澤画伯の絵が大きく日本と中国との友好と平和の発展に貢献したことが認められたのは同じ日本人として大変嬉しく思いました。澁澤画伯も頂いた賞に恥じぬようこれからも心の篭った絵を画いて行かれるようにご精進されるそうで、更に益々お元気になられて今後ご活躍をされる事を一同心から祈り、開幕式の記念写真となりました。
2007年11月15日
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全員集合後、歩いて東長安街通りの南向こう側の中国人民対外友好協会へ到着。元イタリア大使館という事で、とても美しい建物と素晴らしい庭園、開会式までの時間を散策す。中国人民対外友好協会 (対外友協)友誼館 中国人民対外友好協会は1953年5月3日に発足した。その主旨は中国人民と世界各国の人びとの間の理解と友情を深め、相互間の経済、社会、文化、科学技術、教育などの面の交流と協力を促し、世界平和を擁護することである。 中国人民対外友好協会には弁公室、アジア・アフリカ部、日本部、ヨーロッパ・アジア部、アジア・オセアニア部、文化交流部、機関党委員会等の機構が設置されている。 田中角栄首相が周恩来総理の招きに応じて1972年9月25日から30日まで中華人民共和国を訪問し、両国政府は同月29日に『中日共同声明』を発表した……今年は、中日国交正常化35周年、そしてまた中日スポーツ・文化交流年でもあります。この重要な節目に当たり、中国国際放送局の日本語放送では、27日から29日までの3日間、シリーズ番組「みんなが育む中日の絆」をお送りました。1回目は、「温故知新、友好伝承」と題し中国と日本の間の青年交流にまつわる話題でした。「温故知新、友好伝承」簡単な8文字ですが、実は、意味深いもので、中国と日本の人々が遠い昔から今日まで払ってきた努力によって生まれた言葉だと思います。中日国交正常化35周年記念・中日スポーツ・文化交流年記念 「 日 本 画 家 澁 澤 卿 個 展 」主催:中国対外友好協会・中国平和友好発展基金会(外務省)会期:2007年11月3日~9日会場:中国・北京「友誼館」(中国対外友好協会内)
2007年11月14日
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北京(ペキン / ベイジン)は、中華人民共和国の首都であり、直轄市。中国共産党中央委員会の所在地。中国の東部、河北省の中央部に位置する。古くは大都・燕京・北平とも呼ばれた。日本語での読みは唐音である。面積は日本の四国に相当する。中国第三の都市である。行政機能が集積している他、紫禁城や天安門広場、庭園、古くからの街並みである胡同などがあり海外からの観光客も多く訪れる都市で歴史が長く世界で著名な古都です。北京市データ略称: 京 (ベイジン) 、政府所在地 東城区、市委書記 劉淇氏、市長 王岐山氏、 面積 16,808 km² (中国内29位) 、人口1100万人 (2006年) - 人口密度 14,930,000 (26位)888/km² (4位) 域内総生産 (2006年) - 428,3億元 (15位)一人あたり 28,700元 (2位) 主な民族、漢民族- 96%、満族- 2%、回族- 2%、モンゴル族-0.3% 市花、月季・菊。市樹、側柏・国槐。北京市公式サイト 市全体の総人口は1400万人(内昼間の労働者が約300万人)。 北京の気候は典型的な温湿帯半湿潤大陸性季節風気候で、年平均気温は摂氏10~12℃です。一年の降水量の75%は夏季に集中しています。北京は豊富な旅行資源を具えており、世界で一番大きな皇居である紫禁城(故宮)、天上の神を祭る天壇、八達嶺(万里の長城)、皇室の庭園であるなどの名高い旧跡があります。2008年8月8日~24日まで第29回国際オリンピック大会がこの北京市で開催の予定。 11月3日朝、朝食後9時25分ホテルロビーに集合、昨夜遅くご到着された澁澤さん一行にもやっとご対面が出来ました。思ったよりも大変お元気で、奥様と長男さんや娘さんなど多くのご家族を含めて、今回は98名の多くの方々が澁澤さんの応援に北京に集いました。
2007年11月13日
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朝食時間まで余り時間もなくなったので、今日は朝日の撮影を諦めて建国路・北京商務中心区の友誼商店前迄約4キロの地点で折り返して、北京飯店方面への帰路を西へと仕方なく引き返す。 建国門橋を過ぎて北京駅前を再び通過、途中何故か今回太極拳をしている人は殆どいなかったが、剣舞を楽しむ女性やマラソンの練習風景のみをなんとか撮影できた。 昨夜から宿泊のホテル北京飯店に7時20分にやっと戻る。約1時間30分、東方に約6600歩程も歩いたが、全くご来光を拝することの出来る場所には辿り付かなかった。やはり、中国・北京の町はとてつもなく広い。2階の中華礼儀庁にてバイキングで朝食。
2007年11月12日
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中国 面積 約960万km2(台湾は含まず。日本の約26倍) 人口 約13億人(2005年末、台湾は含まず。日本の約13倍) 11月3日(土)北京2日目、午前5時半起床、6時前に北京飯店から朝日を撮ろうと、先ずホテルから左へ、未だ暗い中を取りあえず東の建国門方面に徒歩で向かう。 前のメインの大きな長安道には地下道が有り、横断は危険との標識、6時15分になると未だ暗い中、突然一斉に全ての照明が切れる。どうも毎日日の出時間に合わせてタイマーで自動消灯するらしい。 行けども行けども近代的な建物が回りに沢山有り、又小高い所を捜し、ホテルにも入るが何処も屋上は立入禁止、結局3日朝のご来光は建物に反射する朝日しか撮影が出来なかった。
2007年11月11日
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関空から北京へ 11月2日、朝6時40分法善寺よりタクシーにて松山空港へ。天気は快晴、7時55分発の関西国際空港行で関空へ。8時40分頃、関空に到着し、JTB団体受付に荷物を預け、関西空港をゆっくりと散策、お昼にがんこ寿司でうどん定食を食べて12時ターミナルビル4階国際線出発ロビー南団体受付カウンター待合所に集合、 関西空港からの参加は13名、深夜に合流の澁澤さん達、成田空港からの皆さんを入れると、総勢98名、JTBの松浦添乗員が「この4日間が楽しく意義ある訪中に」と挨拶。出国手続きを済ませ、免税店で買い物をし、14時発の中国国際航空CA928便は15分遅れで一路北京へ出発しました。 2時間半ほどで16時40分北京空港に到着。北京はさぞや寒かろうと予想していましたが、日本とほとんど変わりない気温なので一同安心をしました。 北京空港はリフォームされたのか、昨年7月に訪中した時より施設が新しくなっているように思いました。到着出口には、受入窓口である中日友好協会の皆さんや宇ガイドさん達が笑顔で出迎え、曲さんの運転する観光バスに乗車、空港からは18.75キロの距離にある宿泊予定の北京市東長安街33号にある5つ星ホテル北京飯店に先ず向かう、18時10分に無事ホテルに到着、澁澤さん一行の成田便組は深夜到着の予定。 各自チエクインしてから歩いて北京市内観光案内して貰いながら、近くの王府井(ワンフウチン)東来順店で日本では珍しい北京風しゃぶしゃぶ(とても柔らかく美味しい子羊の肉)でもてなしてくれました。 北京飯店は、約1世紀前に建てられたホテルで市街地の中心にあり、天安門広場からは約200メートルである。すぐ近くには、有名なショッピング街である王府井大街もあり、北京の中では抜群のロケーションに位置する。客室は平均的に広々としており、内装が美しく近代的な設備が整っている。浴室には大理石が使われ、客室同様に充分手入れが行き届いている。北京飯店HP ホテルの部屋は3014号室、大変豪華で同室の方は東大阪市からご参加のM樋口さんという男性でお互い初対面なのに澁澤さんとの出会いの話で意気投合、時間を忘れて深夜まで話が弾みました。
2007年11月10日
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はじめに 澁澤 卿さんとの出会いは、昭和53(1978)年4月日蓮宗の僧侶になる為に入られた信行道場に小生が書記として61名の道場生のお世話係教官部の一員になったことから始まる。因みにブログ仲間のトドオスさんは堀副主任先生、心優しくも道場生からはその風貌から当初は鬼軍曹のように恐れられていた?(^o^ゞ。 昭和53年第1期信行道場入場式、4月15日・身延山久遠寺にて、前列左から二人目小生(23歳)、4人目トドオスさん、2列目右端が澁澤さん(28歳) 平成15(2003)年6月24日松山妙清寺で開催の第18回園明会愛媛大会参加者、前列右端小生、2列目右端トドオスさん、その左横が澁澤さん 翌25日、北条市本妙山法善寺(村さんの寺)へもご参詣、 ご近所の割烹かをり・政岡さん方にて鯛めしの昼食後、記念撮影 来島海峡大橋前にて園田麗厚主任先生と澁澤さんを囲んで この道場生の修了生61名達と教官部5名でその後、昭和54年に園明会として組織されて、それ以来30年にも亘って毎年道場生の各寺に集い、全国大会が開催されている。色々な方々が各地で多彩な方面で活躍されているが、その中でも特に異彩を放つのがこの澁澤卿画伯こと、僧名澁澤 榮俊上人である。なお澁澤画伯は画家としての評価は現在1号(葉書大)50万円もの著名な日本画家でもある。詳細は先ず画伯のHPをご参照下さい。 前回は2002年3月11日~、日中国交30周年記念で、会場は『中国・上海美術館』において、日本画家「澁澤卿」の展覧会が、日本人では初めてになる上海美術館の主催により『日中国交正常化30周年記念澁澤卿画展』として盛大に開催された。 今年は中日国交正常化35周年記念&中日スポーツ・文化交流年記念「日本画家澁澤卿個展」として、会期は2007年11月3日~9日、会場は中国・北京「友誼館」(中国対外友好協会内)にて、主催は中国対外友好協会・中国平和友好発展基金会(外務省)などで記念行事を計画され、全国の澁澤ファンの皆さんにも参加を呼びかけられて、前回の上海を上回る98名もの方々が北京に集い、54回目の個展が開催られ、中国政府よりは和平発展貢献賞を授与されました。 それではこれより澁澤画伯と共に渡った98名の激励・友好訪中団が経験した北京での4日間にわたる『日本画家澁澤卿画展訪中団』にまつわる道中模様の一部を澁澤先生の許可を得て大変遅くなりましたが、この写心ブログで今日から少しずつ掲載したいと存じます。
2007年11月09日
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今回の行きは「しまなみ海道」を、帰りは「瀬戸大橋」の二ルートを渡って四国に戻って参りました。瀬戸大橋(せとおおはし)は、瀬戸内海を跨いで本州(岡山県倉敷市)と四国(香川県坂出市)を結ぶ本州四国連絡橋のひとつ。着工から9年6ヶ月の年月を経て1988年4月10日に供用開始。人工衛星写真でも確認できるほど大きい優美な多島美を誇る瀬戸内海をまたぐ本州と四国を結ぶ長大橋です。3つの吊橋と2つの斜張橋・1つのトラス橋があり、この6つの長大橋とこれらをつなぐ高架橋を総称して「瀬戸大橋」と呼んでいます。道路・鉄道併用橋(上部が自動車道路、下部に鉄道)としては、世界最大の橋です。6つの長大橋について下津井瀬戸大橋 最も本州側に渡る橋で、この橋のほぼ中央が香川県と岡山県の県境になります。全長1447m・主塔の高さは149m・橋桁から海面までは31m・ケーブルの直径94cm・中央支間長は940mです。長い支間を持つ橋に適した吊橋であるこの橋のケーブルは、鷲羽山の景観を損なわないとの配慮から、その北端を2本のトンネルの中にコンクリートで固定されており、この工法は世界でも珍しいものです。櫃石島橋 櫃石島と岩黒島を結ぶ美しい橋で、当初はトラス橋の建設が計画されていましたが、瀬戸内海の景観を損なわないようにとの配慮で,白鳥が羽をひろげたような優美な形の斜張橋が架けられることになりました。吊橋についで長い支間に適しているこの斜張橋は、全長792m・中央支間長420m・主塔の高さ152mです。H型の主塔から左右対称に張られたケーブルの数は1基の塔につき88本で、このケーブルが橋を支えています。岩黒島橋 岩黒島と羽佐島を結ぶ斜張橋で、並んで架かる櫃石島橋とその形式・大きさとも全く同じ双子の橋です。この二つの橋は,道路と鉄道が併用した斜張橋としては、世界でも最大規模のもので、二つ合わせて1677mの長さがあります。気品にあふれた優美な景観は、美しい瀬戸内海の眺望にピッタリとマッチしてまさに白鳥が羽をひろげたような趣きがあり、斜張橋ならではの美しさを誇っています。与島橋 6つの大橋の内で、ただ一つのトラス橋が、この与島橋です。トラス橋とは、三角形を合わせて作ったジャングルジムのような安定のよい橋で、吊橋や斜張橋と比較すると、簡素でいかにも鉄橋らしい趣があります。もちろんトラス橋としては世界に類を見ない大規模橋梁で、その全長は877m・中央支間長245mです。与島橋は、力学的にもバランスのとれたシンプルな景観を見せています。北備讃瀬戸大橋 与島と坂出市番ノ州の間3.2kmを南備讃瀬戸大橋と共に結ぶ吊橋です。この海域は国際航路にあたる瀬戸内海の主要航路で大型船の往来が最も激しいところであるため、橋台や橋脚はできるかぎり三子島の付近に集めてあります。また橋桁の高さは海面から65mもあり、世界最大といわれる50万トン級の大型船がゆうゆうと通過できる高さを誇っています。全長は1611m・中央支間長990mケーブルの直径は101cmです。南備讃瀬戸大橋坂出市HP「瀬戸大橋」 北備讃瀬戸大橋に続けて坂出市番の州側に架けられた瀬戸大橋ルート最大の吊橋です。建設時、道路と鉄道の併用橋としては世界第一の橋でしたが、1997年に中国のツインマ橋が完成し、1つの道路鉄道併用橋としては世界第二位の長大橋です。南北二つのケーブルを地面の一箇所で固定させる為に設けられた共用アンカレッジなど世界でも初めての技術が駆使されており、その全長は1723m・中央支間長1100m・主塔の高さ194m・ケーブルの直径107cmです。 瀬戸大橋豆知識全長、9368m 世界第一位。瀬戸大橋は上部が自動車道路と下部に鉄道の2段構造になっている。道路と鉄道の2段構造になっている6つの橋と4つの高架橋をあわせた総延長13.1km(道路鉄道併用部分)は、道路鉄道併用橋では現在も世界最長の規模。 種類、吊り橋・斜張橋・トラス橋の3種類を併設、総事業費は1兆1338億円。世界初、工事に採用された「超音波による海底無線発破」は世界初の方法。 起終点と延長、道路/岡山県早島町(国道2号線)から香川県坂出市(国道11号線)に至る37.3km。 鉄道/茶屋町駅から南下し、下津井瀬戸から備讃瀬戸までの区間は道路との併用橋で、坂出市・宇多津町に至る32.4キロ。 明治22年 大久保堪之丞が瀬戸大橋の架橋を最初に提唱、 工期 約9年(昭和63年4月10日開通) 車線 道路/4車線構造鉄道/在来線の複線構造(将来は新幹線も併設できるようになっている) 設計速度 速度/道路は100キロ・鉄道は160キロを設計速度としている。 耐荷重 荷重/道路は総重量43トン級のトレーラー連結車が走行でき、鉄道は総重量1,400トン(新幹線では16両編成)の2列車が同時に走行できる。 耐風、秒速60~70メートル。過去の瞬間最大風速は53メートル(与島で)を記録。 耐震、マグニチュード8~8.5程度の大規模の地震を対象としている。紀伊半島および土佐沖において,100年に1~2回の発生が予想される。(南海地震) ケーブル、直径107センチメートル(南備讃瀬戸大橋)・アンカレイジ(橋の両端でケーブルを支える固定台)最大のものは1基59メートル×75メートル×高さ131メートル。 主要資材の量、鋼材/70万5千トン、コンクリート/364万6千立方メートル 瀬戸大橋全景のライトアップ360度パノラマ、撮影場所は鷲羽山の山頂。 四国に渡り坂出で17時半より一同夕食、美味しい讃岐タライうどんセットに舌鼓、松山自動車道を小松ICで降り今治から高縄半島を回り20時半頃北条へ無事に全員到着、大変有意義な北条分区保護司会の視察1日研修旅行でした。 次回からは長らくお待たせ致しておりました11月2日から5日迄の「日中国交正常化35周年記念・澁澤卿訪中団」の北京旅行での写心を掲載いたします。お楽しみに!合掌、再見。
2007年11月08日
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大山名人記念館 将棋界にとって最も偉大で前人未到の大記録を次々に生み出した倉敷出身の不世出の棋士、大山康晴十五世名人の功績を偲ぶ関係資料を展示し、広く皆様に親しんでもらうために建設された記念館です。館内には数多くの優勝カップ類、名人書の掛け軸、陶板、飾り皿や大山名人が使用されていた盤・駒・駒袋・トレードマークだった眼鏡など多数が展示されていました。大山名人記念館HP
2007年11月07日
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倉敷の美しい町並みを色々と店内の珍しい土産を買いつつ、各店で許可を得て美しい作品を撮影をしながら16時半までゆっくりと散策をしました。
2007年11月06日
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10月31日午後3時より倉敷美観地区の美しい町並みや店内の一コマを撮影しながら散策。
2007年11月05日
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倉敷美観地区(くらしきびかんちく)は岡山県倉敷市にある伝統的建造物群(白壁の残るレトロな町並み)保存地区。 国選定の重要伝統的建造物群保存地区としての正式名称は『倉敷川畔伝統的建造物群保存地区』ともいうらしい。 江戸時代初期の寛永19(1642年)年、江戸幕府の天領に定められた際に倉敷代官所が当地区に設けられ、以来備中国の政治経済の中心地として発展した歴史を持つ。1979年に県内2件目となる重要伝統的建造物保存地区に選定されたのは、白壁なまこ壁の屋敷や蔵が並ぶ倉敷川の畔から鶴形山南側の街道一帯で、天領時代の町並みをよく残している。倉敷美観地区)大原美術館児島虎次郎記念館 - 大原美術館の名画を収集した画家・児島虎次郎を紹介。建物は旧工場倉庫。大原美術館は昭和5年、倉敷の実業家大原孫三郎が設立したもので、ギリシャ神殿風の本館の中には世界画壇の巨匠作品が多数展示されています。 ツタにおおわれた石垣、門を入るとロダンの彫刻「洗礼者ヨハネ」・「カレーの市民」の像が迎えてくれます。隣接して、分館、工芸・東洋館があります。 倉敷アイビースクエアー ホテルを中心にした複合観光施設。明治時代以降も大原美術館や代官所跡地に建つ旧倉敷紡績工場の赤レンガ倉庫を保存した商業施設倉敷アイビースクエアなど、名建築が点在する。 建物は江戸幕府の代官所跡に明治22年に建設された倉敷紡績創業の旧工場を再生したもの。 白壁の町を抜けると、そこはヨーロッパを思わせるレトロな世界。アイビー学館 - 高階秀爾の西洋近代絵画の解説、中村昭夫の写真等を展示。 アイビーの蔦と赤レンガのコントラストが美しい広場では、ゆっくりと休息する観光客やカップルの姿も。倉紡記念館 - 倉敷紡績の史料を年代順に展示。建物は旧原綿倉庫。
2007年11月04日
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岡山少年院視察 昼食後、13時30分より2003年に改築された岡山市箕島の岡山少年院を視察した。同少年院は1956年に初等中等少年院として開設され、現在、中四国9県で唯一の特別少年院を併設する中等特別少年院。収容人員100人で、近年はほぼ満員状態という。総事業費約26億円で、体育館と25メートルプールが新設され、従来のグラウンドに教育棟・庁舎棟・寮舎棟等が改築された。 会議室で行われた施設説明会で小林孝院長は「青少年の健全育成を願う各方面の期待に応え、矯正施設としての役割を全うしたい」とあいさつ。式後、北条分区の保護司一同で院内を見学した。教育棟で少年たちには、1人1台ずつパソコンを配備され、ワープロや表計算などを学ぶ。教員と情報をやりとりする院内LANが整備され、他の少年院と光ファイバーで結ばれたテレビ会議システムで、共通のテーマについて討論会もできる。 実習棟は溶接科、窯業科、縫工科、木工科、資材庫と部屋が分かれ、実習後に金具を持ち出さないように、少年は金属探知機をくぐらなければならない。少年の居住する寮舎棟の壁や廊下には曲線を多用し、やわらかな雰囲気が出るよう工夫され、居住空間を明るくするため、太陽光が入りやすいデザインになっていた。 職員さんの案内の話の中で、今年の3月14日オリンピックの銀メダリスト有森裕子さんが岡山少年院で講演とランニング教室を行ない、76人の院生に対し自分の中学、高校時代の経験をもとに、「自信を持つことの大事さ」など人生についての指針を熱く語りかけたそうです。その後場所をグラウンドに移してランニング教室。フォームや呼吸法など走りの基本を伝えた後、院生代表9人と1500メートル走を行ないました。終了後、院生手作りの貼り絵(東京マラソンのゴールを描いたもの/写真)や千羽鶴が有森にプレゼントされ、早速アニモミュージアムに展示する事になりました。今回の訪問を終えて有森さんは次のように話されたそうです。「少年院の訪問は2度目ですが、院生の皆さんは熱心に聞いてくれました。少しでも私の話からヒントを得て、自分なりにこれからの人生を考えてくれればと思います。ランニング教室ではみんな生き生きとした表情で頑張っていました。当然かもわかりませんが、とても規律正しい生活を送っているようですので、しっかりと自分を見詰めなおし更生してほしいと思います。頑張ってください」と・・・。 今回岡山少年院を訪れた時に、待合会議室の壁に「有生塾」という言葉の額が掲げられていました。「有生塾」とはこの岡山少年院の通称で、犬養 健(いぬかい たける・1896年7月28日~1960年8月28日、64歳で死去)は、日本の政治家・小説家・正三位勲一等。元首相犬養毅の三男にあたる。この犬養健国会議員さんが中心となり、この少年院を昭和32年11月岡山県に招致した際に、ご自分で子供達の為にこの書を書いて岡山少年院に有生塾の命名をしたそうです。 帰ってから早速調べてみると「菜根譚」という中国の古い教えの一部で有る事が判りました。中国の道教・儒教・仏教の教えを合わせたもので、菜の花「菜」という字と、根っこの「根」と書いて「菜根」といいます。この意味は中国の汪信民という人の言葉に「人ヨク菜根ヲ咬ミエバ、則チ百事ナスベシ」とあるのに基づいているそうです。つまり「菜根」とは、粗末な食事の事で、そういう苦しい境遇に耐えた者だけが大事を成し遂げることが出来るという意味です。 その「菜根譚」に、「天地ニ万古アルモ、コノ身再ビ得ズ。人生タダ百年、コノ日最モ過ギ易シ。幸イソノ間ニ生マルル者ハ、有生ノ楽シミヲ知ラザルベカラズ、マタ虚生の憂イヲ懐カザルベカラズ」というもので、意味は、天地は永遠であるが、人生は二度と戻らない。人の寿命はせいぜい百年、あっという間に過ぎ去ってしまう。幸いこの世に生まれたからには、楽しく生きたいと願うばかりではなく、無駄に過ごすことへの恐れを持たなければならない。ということです。少年院に書いてあったものなので、恐らく、悪いことをして、ここで時間を過ごすことより、二度と戻らない一度きりの短い人生、こんな所に入らなくてもいいように、一日一日を大切に、若々しく充実した人生を送りなさいよ。と教えているのだと思いました。若いときには、まだまだたくさん時間があると思って、無茶をしたり、何も考えずに無駄に行動することがありますが、年を取るにつれて、また、病気になると はじめて一日を大切に、さらには自分の人生を真剣に考えるようになるのでしょうね。 今回初めて少年院を訪れて今までの非行少年に対する偏見を恥じ、ここに入って来る少年達は殆どが先ず挨拶さえ出来ない、又その親は誕生日さえ知らない、誕生日さえ祝って貰ったことが無い子供たちで、改めて躾は9歳までに、先ず毎日の朝の挨拶と食事の頂きますから、親は子供の誕生日を祝い、子供は自分の誕生日に親に感謝をできる温かい家庭の大切さを実感しました。
2007年11月03日
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【岡山後楽園・こうらくえん】江戸時代に岡山藩主・池田綱政によって造られた「大名庭園」で、日本三名園の一つ。14年の歳月をかけ1700年に一応の完成を見た「林泉回遊式庭園」で、日本で唯一、築庭当時の姿をほぼ残すと言われる。広大な芝生の合間にきらりと輝く池には、中島が浮かぶ。そしてしっとりと佇む延養亭。ここから、優雅に流れる曲水(きょくすい)や見事な造形の唯心山を望めば五感が研ぎ澄まされる。四季催事や花木の表情の変化もまた魅力のひとつです。延養亭(えんようてい) 藩主の居間で、園内で最も重要な建物でしたが、戦災で焼失し、昭和三十五年に当時第一級の木材と技術で築庭当時の間取りに復元されました。園内外の景勝が一望できるように作られており、歴代藩主もここから眺めました。今もこの景観の保全に多くの職人さんが毎日つとめています。 岡山後楽園は、岡山藩主池田綱政公が家臣の津田永忠に命じて、貞享4(1687)年に着工、元禄13(1700)年には一応の完成をみました。その後も、藩主の好みで手が加えられましたが、江戸時代の姿を大きく変えることなく現在に伝えられてきました。また、江戸時代の絵図や池田家の記録、文物が多く残され、歴史的な変遷を知ることのできる、地方では稀な大名庭園となっています。後楽園は、かつて藩主の静養の場、賓客接待の場として使われましたが、日を定めて藩内の人々にも観覧が許されていました。明治17(1884)年岡山県に譲渡され、岡山県の所有となり、以来地方では稀に見る歴史的背景を持った大名庭園として一般に公開されています。 昭和9(1934)年の水害、昭和20年の戦災では大きな被害を被りましたが、池田家の絵図に基づいて復旧をおこないました。昭和27年には文化財保護法による「特別名勝」に指定され、後世に伝える歴史的文化遺産として岡山県が維持管理にあたっています。 唯心山(ゆいしんざん) 唯心山は池田綱政(いけだつなまさ)の子、継政(つぐまさ)の時に築かれ、平面的だった庭園が立体的な景観へと変化しました。山腹には唯心堂(ゆいしんどう)があり、斜面には石組に合わせて、ツツジやサツキが植えられ、季節には紅白の花で彩られます。所在地〒703-8257 岡山市後楽園1-5 TEL (086)272-1148 FAX (086)272-1147城下電停から 徒歩10分 ●岡山後楽園HP 全体面積 約4万坪(133,000平方メートル) 唯心山 高さ約6m芝生面積 約5,600坪(18,500平方メートル)曲水 全長約640m、池総面積 約10,400平方メートル ●利用案内開 園:4 月~9月 午前7時30分~午後6時(入園は5時45分まで)10月~3月 午前8時00分~午後5時(入園は4時45分まで)休 園:年中無休、入 園 料:大人350円・小人140円団体は30名以上2割引、見学時間:約40分丹頂鶴舎(タンチョウ) 昭和31年、岡山の旧制第六高等学校に学んだことのある中国科学院の郭沫若(かくまつじゃく)氏から、戦後途絶えたままであったタンチョウ2羽が贈られました。その後、釧路市の協力もあり多くが生まれ育ち、その美しい姿が園内に蘇りました。現在では8羽飼育され時々飼育員について後楽園内に放鳥されています。 後楽園を散策後、岡山を代表する観光名所に至近の岡山パークホテルにて昼食。ここで身延山大学時代の岡山県宗務所衣笠通謙上人ご夫妻と待ち合わせて、第3・4回の「岡山法華和讃の集い」のDVDビデオを贈呈しました。 岡山パーク ホテル〒700-0825 岡山県岡山市田町2丁目5-12 TEL.086-232-1101
2007年11月02日
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しまなみ海道から本州尾道から先ず、岡山県備中高松最上稲荷(さいじょういなり)へ向かう。途中、参道の大きな鳥居をくぐる。高さは27mということだから、日本一とまでは言わないまでもとりあえず日本最大級と言って良い大きさだ。最上稲荷 ~ 吉備路 合掌の里 ~ 数多くの伝説とロマンを秘め、古代から豊かな文化を花開かせてきた吉備の国。雄大な古墳群に加え、備中国分寺・国分尼寺などかつての繁栄を物語る史跡とともにすぐれた自然景観にいろどられ、今なお人々の郷愁を誘います。また中世においては、羽柴秀吉の備中高松城水攻めに際して、その舞台の中心となったのも吉備路でした。 最上稲荷は、これらの景観を含めはるかに吉備平野を展望できる景勝の地にあり、今から千二百余年前に報恩大師によって開かれました。以来、祈祷の名刹として霊験は遠近に名高く、伏見・豊川と並ぶ日本三大稲荷・「不思議なご利益がある最上さま」と、広く大衆の尊信を集めており“商売繁盛” “交通安全”“学力増進”等々の祈願に参詣者は絶えない。 インド風の山門をくぐり、広々とした石段を登って山上へ向かう。山上には巨大な本堂が建っている。祈祷はこの中で受け付けている。意匠は伝統的だが各部材のスケールが尋常ではない。巨大すぎる寺務所も巨大だ。 最上稲荷の歴史は、天平勝宝4(752)年に報恩大師が八畳岩でご本尊の最上位経王大菩薩を感得されたことに始まる。爾来「龍王山神宮寺」として繁栄を極めたものの、中世の戦乱時、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の備中高松城水攻めの際、戦火によって堂宇焼失の憂き目にあう、ただし、ご本尊の最上さまだけは八畳岩の下の元宮と呼ばれる場所に安置され難を免れた。新たに領主となった花房公が関東より日円聖人を招かれ、最上さまの霊跡を復興されたのが慶長6(1601)年のこと。寺名も「稲荷山妙教寺」と改めて、今日の興隆の礎が築かれた。 以来「不思議なご利益をお授け下さる最上さま」として多くの人々の信仰を集める。 最上稲荷は1200余年の歴史を通じて仏教の流れを汲んで発展を遂げてきた最上稲荷(さいじょういなり)は、岡山県岡山市にある寺である。正式名称は、最上稲荷教総本山稲荷山妙教寺。岡山県内で唯一、明治初年の廃仏毀釈の被害を逃れた所といわれ、日蓮系「神仏習合」の祭祀形態を現在も残す。稲荷山妙教寺最上稲荷(さいじょういなり)のある場所には古来から寺があったらしいが、戦火などで灰燼に帰し、現在の妙教寺の元になった寺は江戸初期に成立したらしい。「最上」は本尊の「最大上位教王大菩薩」からとったもの現在は日蓮宗系の独立宗派“最上稲荷教”の総本山になっている。境内右側で旧本堂とした部分が本来の妙教寺であり、山上の伽藍は寺付属の鎮守社ということになる。とは言え、この妙教寺本堂は鎮守社の繁栄からは想像もできないほど重層の建物であったが、かつては老朽化が進んで荒れ果て屋根も崩れかけていた。この根本大堂は2005年に現在地へ曳き屋工法で移転・改修、翌2006年12月に完工され、今回訪れて見事に修復されていたのに驚いた。 最上稲荷HP
2007年11月01日
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