2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
全30件 (30件中 1-30件目)
1

紫陽花の花言葉はその他に「移り気」もあります。咲いたばかりの時から花の終わりまでに色の変化が見られます。また,植えられている土壌のpHによっても色が変わるそうです。リトマス紙の原理ですね。「酸性液に浸けた青いリトマス試験紙は赤くなる」ということからそう考えていたんですが、どうも逆のようです(;_;)。植物関連のサイトを調べると「酸性土壌で青,アルカリ性土壌で赤」と書いてあります。ちょっと色々と実験をしてみる必要がありますね。
2007年06月30日
コメント(2)

・6月2日、7月1日の誕生花(紫陽花) 7月13日誕生花(萼(がく)紫陽花)・花言葉は「辛抱強い愛情、元気な女性」(紫陽花) 「 謙 虚 」 (萼(がく)紫陽花)
2007年06月29日
コメント(1)

・江戸時代にオランダ商館の医師として日本に滞在したシーボルトはこの花に魅せられ、愛人の「お滝さん」の名前にちなんで学名の一部に「オタクサ」の名前を入れたとのこと。(でも実際にはシーボルトより前に学名がつけられていたため、シーボルトがつけた学名は、採用されなかったそうです。)
2007年06月28日
コメント(4)

・色がついているのは「萼(がく)」で、花はその中の小さな点のような部分。しかしやはり萼(がく)が目立つ。 ・「萼(がく)紫陽花」の”萼”は ”額”と表記することもある。 ・紫、ピンク、青、白などいろいろあり。花の色は土が酸性かアルカリ性かによっても変わるみたいです。具体的には、酸性土壌では青色が強く、アルカリ性土壌では赤色が強くなる。 白は中性? また、花の色は、土によるのではなく遺伝的に決まっている、という説もある。
2007年06月27日
コメント(0)

・開花時期は、6/ 1頃~ 7/15頃。ちょうど梅雨時期と重なります。 紫陽花は日当たりが苦手だそうです。 ・名前は「あづさい」が変化したものらしい。 「あづ」は「あつ」(集)、「さい」は「さあい」(真藍)で、青い花が集まって咲くさまを表した。「集真藍」 「味狭藍」 「安治佐為」 いろいろあります。
2007年06月26日
コメント(0)

・雪の下(ゆきのした)科。 ・本来の「紫陽花」とは、唐の詩人の白居易さんが命名した別の紫の花(ライラックか?)のことで、平安時代の学者、源順(みなもとのしたごう)が今のあじさいにこの漢字をあてたため誤用が誤って広まったらしい。 (でもいい雰囲気の漢字ですね) ・また中国では「八仙花」または「綉球花」と呼ぶ。
2007年06月25日
コメント(1)

原産地は日本。いわゆる最も一般的に植えられている球状のアジサイはセイヨウアジサイであり、日本原産のガクアジサイ Hydrangea macrophyllaを改良した品種である。 花の色は、助色素というアントシアニンの発色に影響を与える物質のほか、土壌のpH濃度、アルミニウムイオン量によって様々に変化する。そのため、「七変化」とも呼ばれる。日本原産の最も古いものは、青色だという。花はつぼみのころは緑色、それが白く移ろい、咲くころには水色、または薄紅色。 咲き終わりに近づくにつれて、花色は濃くなっていく。「あじさい」の名は「藍色が集まったもの」を意味する「あづさい(集真藍)」が訛ったものと言われる。
2007年06月24日
コメント(0)

・アジサイ(紫陽花)は、アジサイ科 アジサイ属の植物の総称。 学名 Hydrangea macrophylla form. macrophylla (萼(がく)紫陽花) Hydrangea macrophylla form. normalis Hydrangea : アジサイ属 macrophylla : 大きな葉の ormalis : 通常の,正規の 学名のHydrangea(ハイドランジア)は、ギリシャ語の「hydro(水)+ angeion(容器)」が語源。大量の水を吸収し蒸発させる性質から(諸説あり)「水の容器」という意味。 海外では学名のままヒドランジアあるいはハイドランジアと呼ぶこともある。
2007年06月23日
コメント(0)

鑑真(688年-763年)の数奇な生涯については、日本に同行した弟子の思託が記した『大和上伝』、それをもとにした淡海三船(おうみのみふね)の『唐大和上東征伝』、井上靖著の『天平の甍(いらか)』等が詳しい。 鑑真は仏教者に戒律を授ける導師「伝戒の師」として日本に招請された。「戒律」とは「規範」「きまり」といった意味で、仏教者が日常生活上守らなければならない事柄であり、一般の仏教信者に授ける「菩薩戒」と、正式の僧に授ける「具足戒」とがある。出家者が正式の僧となるためには、「戒壇」という施設で、有資格者の僧から「具足戒」を受けねばならないが、当時(8世紀前半)の日本には正式の戒壇はなく、戒律を授ける資格のある僧も不足していた。 天平五(733)年遣唐使とともに渡唐した留学僧の普照と栄叡(ようえい)は、日本に正式の戒壇を設立するため、しかるべき導師を招請するよう、朝廷からの命を受けていた。彼らが揚州(現・江蘇省)の高僧鑑真に初めて会ったのは西暦742年のことであった。鑑真は渡日を承諾するが、当時の航海は命がけで、鑑真は足掛け12年の間に5回も渡航に失敗、5回目の航海では中国最南端の海南島まで流され、それまで行動をともにしてきた栄叡を失い、自らは失明するという苦難を味わった。753年、6回目の渡航でようやく来日に成功するが、この時も国禁を犯し、日本の遣唐使船に便乗しての渡航であった。鑑真は当時すでに66歳にもなっていた。 天平勝宝五(753)年12月、薩摩(琉球ともいう)に上陸した鑑真は、翌天平勝宝六(754)年2月、ようやく難波津(大阪)に上陸し、同年、東大寺大仏殿前で、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授けた。日本で過ごした晩年の10年間のうち、前半5年間を東大寺で過ごした後、天平宝字二(758)年朝廷は鑑真に「大和上」の尊称を与え、同時に余生を過ごすために現在の地を与えらた。 鑑真は70歳になっていたが簡単に隠居するはずもない。彼はその地に、戒律の専門学校として唐招提寺を建立。ここに日本中から僧が集まり、教えを受けて巣立っていった。鑑真の高弟、忍基が夢を見たのは、唐招提寺が出来てから4年程経った頃のこと。その夢は、唐招提寺の講堂の棟木と梁が折れていくというものだった。寺の主の余命が短いことを察した忍基は上の「鑑真和上座像」を作った。それから間もない5月6日、鑑真は西を向いて座ったまま、静かに入寂。75年の、見事なまでの信念を貫いたご一生だった。唐招提寺2010年プロジェクト※戒壇-境内西側にある。戒壇は、出家者が正式の僧となるための受戒の儀式を行う場所。戒壇院の建物は江戸時代末期の嘉永元四(1851)年に焼失して以来再建されず、三段の石壇のみが残っている。1980年にインド・サンチーの古塔を模した宝塔が壇上に置かれた。この唐招提寺の戒壇は創建時からあったものとする説と、鎌倉時代の弘安七(1284)年に初めて造られたとする説とがある。 唐招提寺HP
2007年06月22日
コメント(5)

「鑑真和上立像」渡来、中国・揚州市から唐招提寺に 中国の揚州市から寄贈された鑑真和上立像(奈良市の唐招提寺で)奈良時代に、失明しながらも6回目の渡航で日本に戒律を伝え、律宗総本山・唐招提寺(奈良市)を開いた鑑真和上の立像が19日、古里の中国・揚州市から同寺に贈られた。 4月に来日した中国の温家宝首相が国会演説で、鑑真の日中友好に果たした功績をたたえたのが寄贈のきっかけ。船のへさきに立ち、風を受けて合掌する姿で希望に燃えている様子を表した「鑑真和上立像」は高さ1・65メートル。同寺の国宝・鑑真和上坐(ざ)像(奈良時代)と同様に、粘土像の上に漆塗りの麻布を何枚も重ねて型どり、乾いた後、中の粘土を取り除く技法で制作されている。 同寺の松浦俊海長老は「お像の姿に和上の毅然(きぜん)とした決意を感じた。日中友好にこれからも貢献したい」と話しており、像の公開を今後検討するという。(2007年6月19日 読売新聞より)
2007年06月21日
コメント(0)

先日6月14日午前中、東大寺大仏参拝の後、薬師寺の東西両塔と【玄奘三蔵院伽藍大唐西域壁画殿特別公開】の拝観から、さらに徒歩で唐招提寺の戒壇院にまで参詣して、お昼には柿ノ葉寿司懐石を堪能後、帰山しました。奈良・唐招提寺に参拝訪問中、下記の鑑真和上立像搬入に偶然遭遇しました。梱包中ではっきりとお顔は撮影出来ませんでしたので、どういう経緯か気にはなっておりましたが、やっとその内容が判明しましたので最新情報をご紹介します。★【日中/文化】故郷から「鑑真立像」寄贈 奈良・唐招提寺 故郷から「鑑真立像」寄贈 奈良・唐招提寺 唐の高僧・鑑真の故郷、中国江蘇省揚州市が19日、鑑真が奈良時代に創建した唐招提寺(奈良市)に「鑑真和上立像」を寄贈。同寺中興堂で、鑑真がかつて住職だった揚州大明寺と唐招提寺の僧が法要を行った。 この立像は鑑真が船の上で荒波に向かって祈る姿。唐招提寺にある国宝「鑑真和上座像」の晩年の柔和な面持ちとは対照的に躍動感がある。 4月に訪日した中国の温家宝首相が演説で、日中友好における鑑真の功績に触れたのをきっかけに贈呈が決まった。高さ215センチ(うち台座が50センチ)で、塑像に麻布を張り、漆を塗って乾かした後で中の土を取り除く「脱活乾漆像」。「座像」とほぼ同じ古来の技法で、中国の人間国宝に当たる「中国工芸美術大師」の謝世強さん(49)=揚州市=が制作した。(共同) 東京新聞[06/19]より引用
2007年06月20日
コメント(0)

「あおによし ならのみやこは さくはなの におうがごとく いまさかりなり」と、詠われた古都奈良。 東西両塔を有する薬師寺の大伽藍は我が国随一の壮美を誇っていました。しかし度重なる災害によって諸堂が灰燼に帰し、昭和初期に至っては辛うじて難を逃れた東塔のみが往時のたたずまいを偲ばせていました。失われた堂宇の再建は薬師寺歴代住職の大悲願でもありました。そんな折り、昭和42(1967)年に有名な高田好胤和上が住職に就任し、写経の勧進による白鳳伽藍の復興を発願しました。「発菩提心・荘厳国土」(浄らかな心に目覚めて 国を美しく)という願いのもと百万巻の写経勧進運動は全国に広まり、昭和51(1976)年ついに金堂復興という永年の悲願が達成、この写経は伽藍の復興という枠組みを越えて今や七百万巻(平成15年現在)も納経され、薬師寺の金堂・西塔・大講堂に奉安し永代に供養されています。全国からの尊い功徳の振り分けによって建立された堂塔は正に人々の清らかな結晶が集まり、平成10(1998)年には世界文化遺産にも登録され国際的にも注目されています。 西塔は享禄元(1528)年に戦火で焼失し、昭和56(1981)年4月に453年ぶりに創建当初の白鳳様式をもって復元されました。華麗な西塔が長年の風雪に耐えた東塔と並び立つさまは、大変印象的な光景でした。 この相輪は当法善寺へも梵鐘と銅像を納入された滋賀金壽堂さん制作の作品でした。金壽堂HP
2007年06月19日
コメント(0)

五重塔の上層部を相輪といい、その頂上部に尊い塔が火災に遭わないようにとの願いを込めて、四枚の水煙が祀られています。水煙に透かし彫りされた24人の飛天は笛を奏で、花をまき、衣を翻し祈りを捧げる自由な姿で、晴れわたった大空にみ佛を讃えています。 1976年以降、失った建物の再建が続き、この30年間で金堂、西塔、中門、大講堂が順に復元されてきた。創建当初の建物で現在まで残った唯一のものが高さ33.6メートルの東塔。 三重塔だが各層に裳階(もこし)という小さな屋根があるので一見六重塔に見える。大小の屋根が重なってリズムを生み出しており、屋根と裳階の大小が生み出す律動感を、アメリカの建築家フェノロサは「凍れる音楽」と称え驚嘆した。国宝。復元された朱色が鮮やかな西塔と対照的。
2007年06月18日
コメント(0)

この「薬師寺」は「興福寺」と並んで「法相宗」の大本山です。現在の薬師寺所在地の「西ノ京」とは、平城京を朱雀大路で東西に分けられた西の半分で右京全体を指しましたが、現在では薬師寺、唐招提寺のある界隈だけを指します。西ノ京で創建当初の面影を留めた建造物は薬師寺と唐招提寺に限られましたからこのような呼び方になったのでしょうか。近鉄「西ノ京駅」は薬師寺の旧境内にありますので近鉄線は薬師寺の旧境内を走っております。 薬師寺HP大池越しに見る伽藍。左から復元された金堂と西塔、右端が国宝東塔。 法相宗の大本山薬師寺は、日本で初めて天皇が皇后のために建立した寺院。天武天皇が妻(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して680年発願し建て始めたが、先に自身が没してしまい持統天皇が698年に藤原京に本尊開眼創建した。710年の平城京への遷都にともない、薬師寺も718年に現在の右京六条二坊に移った。当時は南都七大寺の一つとして、その大伽藍は我が国随一の壮麗さを誇りました。すなわち中門から左右にコの字に延びた回廊と、それに囲まれた中庭の中央に金堂を、その前後左右に東西両塔を配した造り。金堂・東西両塔、回廊は朱登と緑で鮮やかに彩色され、中でも裳階(もこし)を施した金堂や三重塔のたたずまいの美しさは、さながら“竜宮造り”と呼ばれて人々の目を奪いました。爾来1300年を経て、この間幾多の災害を受け、特に享禄元(1528)年、豪族間の兵火では金堂から救い出された本尊と東塔(国宝・白鳳時代)を除く大半の諸堂がすべて灰燼に帰してしまいました。
2007年06月17日
コメント(0)

752年に奈良の東大寺に高さ320尺(約100メートル)の七重塔が東西二基が建設され、何度か消失の後に再建されたが、室町時代以降は再建されなかった。この塔が日本で最高を誇った木造塔であった。1970年日本万国博覧会の古河館パビリオンとして、東大寺七重塔が設置された。日本万博終了後、相輪が東大寺に寄進され、東大寺に移設された。※七重塔そのものは永久建築でないため、取り壊された。 東大寺の大仏殿から鐘楼に向かうところ(東塔跡北、大仏殿東南よりの位置)にある相輪のレプリカは昭和51(1970)年の万博の時のものだそうです。私は大阪万博には行ってないのですが、実際に再現されたていたことを初めて知りました。大阪万博会場に建てられたこの七重塔に登ってみたかったな!って思います。 以下は、大仏殿の境内のこの相輪について書かれていた説明文です。東大寺 七重塔相輪 レプリカ東大寺七重塔の相輪 此の相輪は1970年日本万国博覧会に出展された東大寺七重塔の相輪である。万博古河館は1200年前に東大寺にあった七重塔の姿を会場に表現した。万博修了後その相輪が出展各社により東大寺に寄進され1971年10月此の地に移設を完了した。万国七重塔には皇太子殿下、皇孫殿下はじめ常陸宮、三笠宮、秩父宮妃等金枝玉葉の方々、米国特使アイゼンハウワー夫妻、ソ連特使ノビコフ第一副首相はじめ参加諸国の元首、王族、首相等内外多数の貴賓、文化人の来訪があり登塔された。一般来館者も会期中935万人に及び180万人がその七重塔上に登り、世紀の祭典を展望した。 いみじくも世界の人々に天平の文化の一端を紹介した仏縁ある七重塔の相輪と云えよう。1966年此の地点から近い東塔跡を訪ねた万博準備委員が天平の人々の偉大なる霊感に打たれたことが万博七重塔起案の動機となったと伝えているが、アジアに於ける最初の万博の記念として、此の相輪が由緒深い此の地に移設されたことは誠に意義深い。此の相輪を此の地に移設するにあたり、露盤の内部には大仏殿の寶讀が収蔵され、又私共現代人の願いが込められた数々の宝物、資料も亦奉納されている。此の相輪を燈として幻の塔を現実のものとした万博が終了した後も、七重の塔が決して幻の如く消え去ることなく、何時の日か後世に遺すべき優れた七重塔が大地に湧出する日を宿願とするものである。(相輪のみの総高、23.3メートル) 現代のようなクレーン装置や色々な建設機械が揃っていても70メートル以上ある塔身の上に、この大きな相輪を乗せることは一筋縄にはいかないでしょう。それを何の重機ももたない時代に成し遂げた工人の技量には驚くばかりです。私は建築にはずぶの素人ですが、奈良時代の「七重塔の建設」は、現在では「百階建てのビル建築」に相当すると思えます。高さ100メートルに及ぶ七重塔が東西に二塔がそそり立つかつての東大寺の光景は素晴らしい眺めだったことでしょう。 東大寺七重塔資料
2007年06月16日
コメント(0)

華厳宗総本山。良弁僧正が開山。南都七大寺(東大寺、興福寺、薬師寺、西大寺、大安寺、元興寺、法隆寺)のひとつ。聖武天皇が一歳で亡くなった息子の基(もとい)皇太子供養の為に神亀五年(728)年に建てた金鐘山寺(きんしょうせんじ)が、後に東大寺になった。 天平十五(743)年、知恵と慈悲の光で世界を満たす『盧遮那(るしゃな)仏』の造立を聖武天皇が計画建立の勅願を発令し、、金鐘寺で制作が始まる。中国に対して東の大寺とするべく国家財政が傾くほど資金を費やし、国家事業として人々に就労を呼びかけ、資金調達の勅命を受けた名僧・行基が寄進を募る勧進行脚を行なった。大仏は8度の鋳造で約500トンの銅と、440kgのメッキ用の金を使用し、9年間で延べ260万人が工程に係わった。 日本書紀に記された552年の仏教伝来から200年目にあたる天平勝宝四年(752)年4月9日。金色に光り輝く高さ約16m(耳だけで3m)の大仏が、世界最大の木造建築となる大仏殿と共に完成したことを受け、国立寺院となった東大寺で大仏開眼供養会が催された。開眼の儀をインド人の高僧・菩提僊那(ぼだいせんな)が務めたように、この大法要は非常に国際色が強く、海外から多数の名僧を招待し、クライマックスでは内外一万人の僧侶による地鳴りのような読経が行なわれたという。 その後も高さが100mに達する超高層の七重塔(現在最も高い京都東寺の五重塔のさらに倍!)が東と西に建てられ、789年に発願から46年をかけ全工程が完了し七堂伽藍の寺観が整いました。 ひとつの宗派に捉われず、華厳宗、法相宗、律宗など南都六宗(後に真言宗、天台宗も加わる)を兼学できる学問の場として、境内に修行道場が並んだ。学僧たちは自由に宗派間を行き来し、東大寺は総合大学のような存在だった。 都が長岡へ移ったあとも歴代天皇の手厚い保護を受けて、興福寺とともに栄華を誇りました。しかし、治承四年(1180)年平重衡の軍勢によって大仏殿をはじめ伽藍の大半を焼き払われてしました。重源上人によって再興されましたが、永禄十年(1567)年の三好・松永の乱で、わずかな建物を残して再度焼失してしまいます。現在の伽藍の多くは江戸時代に再興されたものです。 しかも明治維新の廃仏毀釈の嵐は、京都、奈良の諸大寺にも深刻な打撃を与え、廃藩置県による寺社領没収は東大寺の存立そのものに大きな危機をもたらしました。 しかし東大寺では寺門改革などを経て、明治・昭和の二度に渡る大仏殿大修理をはじめ、南大門・轉害門の解体修理、平成の南大門仁王尊像の解体修理、総合防災事業の実施など伽藍の維持に努め、平成十(1998)年には「古都奈良の文化財」として世界文化遺産にも登録され現在に至っています。 東大寺HP
2007年06月15日
コメント(0)

「秋風や囲ひもなしに興福寺」と、正岡子規が詠んだ通り、興福寺の境内は今も奈良公園入口に位置し、五重塔はその美しい姿を猿沢池(さるさわのいけ)に映している。
2007年06月14日
コメント(0)

法相宗大本山。藤原鎌足の妻が夫の病気平癒を祈願して宇治に建てた山階寺が、飛鳥に移され厩坂寺と名付けられ、最終的に710年、平城京遷都の際に藤原不比等(鎌足の次男)によって移転され興福寺と改名された。以後、都が平安京に移ってからも、朝廷や藤原氏の庇護を受け「北の比叡山、南の興福寺」と並び称されるほど一大勢力となっていく。平安後期には神道の春日社まで支配して、僧兵も非常に強力になった。1180年の平重衡(しげひら)の南都焼き討ちで東大寺の巻き添えを食って全焼。しかし朝廷・幕府のW支援と、荘園からの巨額の収入ですぐに復活。焼けた仏像は運慶ら慶派一門に制作を依頼したほか、過激な僧兵たちが飛鳥の山田寺を襲撃し本尊の薬師三尊像を強奪、興福寺のものにした(この仏は後に火災に遭い“仏頭”になる)。 鎌倉・室町の両幕府は興福寺の権勢に恐れをなし、大和国の守護職に幕府の人間ではなく興福寺を任命した。つまり、一つの寺が一国を支配したんだ。江戸時代には寺社領として、東大寺の3700石に対し、2万1千石(!)を受け、法隆寺や薬師寺など他の名刹を支配下においた。興福寺は高僧になる為の登竜門となり、最盛期には175棟が境内に建ち、169体の仏像を安置するまでになった。諸行無常。幾人も名僧を輩出した興福寺だったが、1717年の大火で殆どの建物を焼失。そして明治に入り状況はさらに深刻に。神道を重視する新政府が主導した、1868年から1876年まで8年間続いた廃仏毀釈の嵐は、国内の半数の寺院を廃墟と化した。興福寺も例外に漏れず、寺領は没収、僧は春日社の神官に転職させられ、せっかく焼け残った三重塔や五重塔が250円で売りに出され、境内は塀が取り払われ鹿が遊ぶ奈良公園となり、僧侶の食堂は奈良県庁に売却された。そしてついに、興福寺は誰もいない無住の荒れ寺となってしまう。明治政府も「さすがにこれはやりすぎだろう」ということになり、1881年に興福寺復興の許可が出てたものの、今も興福寺には塀が無く奈良公園と完全に一体化している。興福寺HP とにかく、7回以上も焼失と再建を繰り返したが、鎌倉時代の北円堂と三重塔、室町時代の東金堂と五重塔は残った。この五重塔は全高50m。京都東寺の五重塔に次いで日本第二位の高さである。多くの日本人が愛する奈良期の仏像『阿修羅(あしゅら)像』も無事だった。 古代インドの異教神から仏法を守護する八部衆となった一尊。憂いを帯びた表情に人間感情が見られる有名な国宝像※『阿修羅像』脱活乾漆造り(734年、将軍万福作)の名は古代インド語の「ア(否定)スラ(天)」からきている。阿修羅は帝釈天(仏側戦闘部隊総大将)と互角に渡り合った悪の最強戦闘神。元々は正義の神だったけど、あまりに正義感が強すぎた為に人を許す慈悲心を失い魔物化した。その阿修羅が釈迦の説法を聞き感銘を受けた瞬間を描く。阿修羅はこの後、仏法の守護神となった。中学や高校の歴史の教科書に必ず出てくる三つの顔と6本の腕を持つ仏教守護の鬼神だ。密教の影響が色濃く出ており、異教の神を少年の気高い姿として表現している。
2007年06月13日
コメント(0)

西塔浄土院への道 戒壇院横の細い道を辿っていくと(今回は西塔駐車場までバスで移動した)弁慶水のわきにさしかかる。比叡山にはいくつもの湧水がある。この弁慶水もその一つである。弁慶水の先のドライブウエイに架かる橋を渡るとかつて円珍の住坊であった山王院を通り過ぎる。ドライブウエイで東塔と遮断されているように見えるがそれ以前は東塔の奥座敷のような場所に思える。山王院前の苔むした石段を下っていくとやがて浄土院が見えてくる。この道が浄土院へ向かう参道であり、回峰行者もここを通る。比叡山の天候は変わりやすく、突然驟雨になることがある。そんな時の浄土院は霧に包まれ、一層の静けさが石段の両脇に聳える杉の古木に漂う。ひっそりとした静寂に包まれた清浄な地域に伝教大師最澄が眠る御廟がある。石段を下りて浄土院脇の潜り戸から庭に入ると、そこは枯れ葉の一枚、雑草の一本もないほどに浄められた比叡山の聖域となる。この浄土院では侍真という修行僧が伝教大師の霊前にお仕えしている。侍真とは伝教大師の真影に侍るという意味で、伝教大師が今も生きておられるが如く、十二年間一日も欠かすことなくお給仕を勤め、定められた勤行や修法を実践し続けている。 この浄土院には伝教大師御自刻と伝えられる阿弥陀如来像を安置し、その拝殿の裏側に伝教大師の御廟がある。御廟の前の大きな香炉の一昼夜香の煙が絶えない不断香が香りを放っている。御廟の両側には沙羅双樹と菩提樹が御廟を護るかのように聳えている。比叡山に大乗戒壇を設立し、そこで菩薩戒を授けさせた僧を十二年間山で修行させ、国の宝として育てようという伝教大師の壮大な夢。天台教学の勉学、摩訶止観の実践、密教の研修と修法の体得。伝教大師は弟子たちが修行し、国宝として比叡山を下り、活躍する姿を夢に描いていたに違いない。 しかし、その夢は遂に叶えられることがなかった。弘仁十三(822)年、病床に臥した伝教大師は弟子たちに後事を託した。かつて入唐求法のとき通訳として同行した義真を後継者に指名した。6月4日朝、伝教大師は比叡山中道院で静かに56年の生涯を終えた。『伝述一心戒文』の「我が為に佛を作る勿れ 我が為に経を写す勿れ 我が志を述べよ。」「わたしのために仏像を作ったり写経をしないでおくれ・・・・私の志を伝えておくれ・・・・」最澄の思いが伝わってくるようであった。 奇しくも丁度今回比叡山を訪れた6月4日は伝教大師の祥月命日長講会の当日であった。 最澄の廟所である浄土院の右側の脇から細い山道をしばらく辿っていくと、小さなお堂がひっそりと佇んでいる。光定の廟は、信長による元亀の兵乱にも所在を失うことなく、現在の我々も光定の葬られた地を訪ね、いにしえに思いをはせることができる。見ると、小さな方堂である。墓石を保護するための覆堂かと思い、まわりを一周してみて驚いた。出入り口がないのである。窓さえもない、まるで木箱のような堂であった。中に墓石があるのかどうかも分からない。あったとしても拝することはできない。光定の墓は、まるで暗闇の中に密封されているかのようだった。これが伝教大師の名秘書役であった別当大師光定の墓所である。 伝教大師の活動をつぶさに見てきた光定は、日に日に衰弱していく伝教大師が最後の力を振り絞るように戒壇院設立への嘆願を光定に託し、その大師の願いを藤原冬継、良峯安世らに働きかけ、必死になって嵯峨帝や奈良仏教界を動かそうとしていた。その労は伝教大師の生前には実現しなかったとは言え、光定の献身的な活動がなければ比叡山に大乗戒壇院設立の実現は困難だったかも知れない。 浄土院に比べると小さく質素な建物でしたが、木造の建物が廟所に建てられているのは比叡山内では他に伝教大師最澄、慈恵大師良源ぐらいのものです。そのことからも比叡山の僧侶たちの別当大師光定へ寄せる思いがなみなみならぬものであったことが伺われます。寄り添うように、伝教大師のすぐ傍に眠る光定は今も伝教大師と語り合いながらお仕えしておられるようにさえ思えた。観光客がとうてい訪れるとは思えない辺鄙な場所にありましたが、真新しいサカキが備えられ掃き清められていたのが印象的でした。
2007年06月12日
コメント(0)

【別当大師光定】 昨年、大講堂の肖像に光定というお坊さんの木像が加わりました。まだ新しくて木の香りが匂ってくるような木像です。6月4日光定さんの古里風早の地から北条仏教会の寺院住職12名と、各寺院総代会の併せて53名で訪れて参りました。昨年11月8日(水)午後、ふるさと館(北条)で、北条仏教会恒例の仏教講演会で講師をお勤め頂いた天台宗比叡山延暦寺、薬樹院住職、即真(つくま)大僧正にお迎え戴き天台宗を代表してご挨拶を賜りました。 この光定という方は最澄の右腕的存在でした。最澄は生前、大乗戒壇院を比叡山に設けることを生涯の目標に掲げていました。戒壇院とは僧侶に戒律を与える場所のことで、当時は戒律を受けてはじめて国家公認の僧侶として認められる仕組みになっていました。すでに日本には戒壇院が3カ所あったのですが、これに加えて比叡山にも戒壇院を設けることは奈良を中心とする既存の仏教に対して最澄率いる天台宗が独立することを意味しています。最澄はいろいろと朝廷に働きかけていたようですが、ついに認められることなくこの世を去りました。最澄の高弟であった光定は、最澄の遺志を引き継ぎ師の悲願であった大乗戒壇の設立に奔走することによって、ようやく戒壇院の設置が認められました。最澄の死からわずか一週間後のことだったといいます。設立許可の勅使来山を実現させた功労者である光定が受戒の証明として朝廷から賜わった「光定戒牒」は、三筆の一人である嵯峨天皇の雄渾な筆致を今に伝えている。没後には別当大師と尊称され、近年まであった坂本の別当大師堂では大黒天の姿で祀られていた。また光定は延暦寺と天台宗の経営に力をそそぎ、また教団内の逸材であった円仁の中国留学に尽力しました。最澄亡き後の延暦寺を支え続け80歳の高齢でこの世を去りました。彼は延暦寺の総別当の地位についたものの天台宗の最高位である天台座主にはなりませんでした。死後別当大師とおくりなされました。自らの栄達を求めるよりも他者のためにあった生涯といえるでしょう。天台宗に「忘己利他」という教えがありますが、“おのれを忘れて他を利する”という言葉どうり実践したのが光定の人生でした。光定(こうじょう) 779-858 最澄の弟子。最澄の大乗戒壇院設立に奔走し、生涯を師のために尽くした。別当大師と称され「伝述一心戒文」を著した。これは戒壇独立運動の実情を細かに記したもので、比叡山草創の頃の困難な状況がわかる。北条仏教講演会 別当大師光定讃仰のご和讃
2007年06月11日
コメント(0)

大講堂 根本中堂から已講坂を登ったところに論義の道場、大講堂がある。大講堂では比叡山の主要な法要行事が行われているが、その大部分は論義法要となっている。その論義法要の舞台となっているのが大講堂である。比叡山にはいつころからか「論湿寒貧」と言う言葉が伝わっている。比叡山名物として語られてきた言葉であるが、夏は蒸し暑く、冬は格別寒い。夏の朝、早い時間琵琶湖から水蒸気が吹き上がってくる。木立を吹き抜けて霧が山全体を覆い隠してしまうのである。深い渓もあっという間に霧に包まれ、先刻まで陽光を浴びて光り輝いていた琵琶湖は既に見えない。陽が登ると琵琶湖の水面が温められ蒸気となり上昇する。比叡山の夏は琵琶湖の水蒸気によって湿度が高くなるので、涼しいと感じることが少ない。一方、冬の山上では足の底から凍り付くような寒さで、麓で晴れていても山上では雪となることもある。「湿」と「寒」は比叡山の名物というのはそういうことである。「貧」は荘園制が崩れ寺領が削り取られて以来、寺の運営には相当厳しかったようである。最澄は十二年籠山行の基礎を作ってから比叡山は学問修行の山となり、修行僧にとっては収入の道はなかった。「貧」はそうした厳しい生活を言い表したもので、「湿」、「寒」と併せて「貧」に堪え、ひたすら修行する以外に道はなかったと言うことであろう。「論」はそうした厳しさにうち勝って、論義を通して自分を磨いていく学生のひたむきな姿を言い表した言葉であると言える。比叡山から多くの名僧が輩出したのは、山修山学の歴史が物語っている。 この大講堂は、論義の歴史を伝え今も論義が生きている道場である。現在の建物は昭和三十一年の焼失後、坂本にあった讃仏堂(東照宮本地道)を移築したもので、焼失前の規模は九間四面二層の堂々とした建物であった。大講堂の回りを取り囲む杉の古木の中に、大講堂を向いた面が黒くなっている木がある。これはその焼失のときの焦げた名残だと言う。大講堂は僧侶の学問研鑽の根本道場であり、慈恵大師良源によって始められた五年一会の法華大会広学竪義(前回は平成十年十月)や、年中行事として最澄が初めて行った天台会法華十講などの論義法要が行われる道場です。 堂内には日本仏教の祖ともいえる聖徳太子、最澄のスポンサー的存在であった桓武天皇、そのほか天台宗の高僧や比叡山で学んだ各宗派の開祖たちの彫像がまつられています。順を追って見ていくことで日本の仏教史をひとめで見渡すことができます。堂内には正面に本尊大日如来、左に十一面観音、右に弥勒菩薩。脇の壇には中国天台宗の開祖天台大師智ギ像、伝教大師像、聖徳太子像、桓武天皇像をはじめ、比叡山で修学した諸宗派の祖師像が祀られている。 天台寺門宗開祖・智証大師円珍、融通念仏宗開祖・聖応大師良忍、浄土宗開祖・法然上人源空、臨済宗開祖・千光祖師栄西、浄土真宗開祖・見真大師親鸞、曹洞宗開祖・承陽大師道元、日蓮宗開祖・立正大師日蓮、時宗開祖・証誠大師一遍、天台真盛宗開祖・慈摂大師真盛、 これらの祖師像はそれぞれの宗派から奉納され安置されたものであるが、比叡山に学び、山を下りてからも苦難の末に信じる道を切り開いていったそれぞれの開祖たちの思いが刻まれている。比叡山が日本仏教の「母なる山」と呼ばれるのは、それぞれの開祖たちを育んだ修学の山であったからである。今で言えば母校とでも言うべきものである。最澄は「山家学生式」という僧侶の養成指針を示し、その中で「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝と為す。一隅を照らす此れ則ち国宝なり」と記した。その国宝的人材養成が最澄の思いであった。 大講堂の長押(なげし)には、釈迦牟尼如来(釈尊)をはじめ、釈迦の十大弟子、天台宗の開祖・天台大師智ギとその弟子、最澄とその弟子たち、比叡山ゆかりの名僧たち、桓武天皇などの画像が掲げられている。馬堀喜孝画伯の揮毫した画像である。脈々と伝えられてきた天台の教えがこの大講堂には込められている。比叡山では様々な法要行事が行われている。それらの行事の多くは論義法要であり、比叡山の歴史を色濃くいまに伝えている。最澄は比叡山で自前の僧を育てることを生涯の目標にしていた。後年比叡山が学問山、論義の山(仏教総合大学)として知られるようになったのは宗祖最澄伝教大師の教育方針によって育てられた弟子たちが、最澄の死後も学問修行を怠らず研鑽に励んだことによるのである。その論義の主舞台になってきたのがこの大講堂である。
2007年06月10日
コメント(0)

根本中堂へ 延暦七(788)年奈良仏教と決別した伝教大師最澄は比叡山に籠もり、山修山学の道を切り開いた。そして、ここに小さな草庵を建て一乗止観院と名付け、そこに自ら刻んだ薬師如来像を安置し、法灯を掲げた。そのお堂が発展したのが根本中堂である。根本中堂は幾度も災禍に遭遇し、焼失したがそのたびに再建された。現在の建物は織田信長の比叡山焼き討ち後、三代将軍徳川家光の命により復興されたもので、寛永十九(1642)年に落慶供養が行われた。 根本中堂は、桁行11間、奥行6間、入母屋造りで銅板葺きの堂々とした国宝木造大建造物で、左右に延長90.9メートルの回廊が繋がっている。中庭の左右に二つの竹台がある。右の竹を箔篠(いんじょう)と呼び日本国中の三千七百余社の神々を勧請し、左の竹を篆篠(しゅうじょう)呼び、こちらには日吉大社山王七社を祀っている。最澄が中国逝江省の天台山から持ち帰ったと伝えられている。天の神、地の神を勧請するところとされている。堂内は、外側から中へ外陣、中陣、須弥壇のある内陣とに分かれている。中陣の格天井には再建の時、諸大名が寄進したという二百枚の草花の図が描かれている。江戸時代に各藩で見かけた草花であろうか。中には当時の日本にはなかった草花もあると言う。内陣は中央壇の厨子深く秘仏薬師瑠璃光如来が安置され、その前に過去現在未来の三つの釣燈籠がうっすらと灯りを放っている。伝教大師掲げて以来守り継がれてきた「不滅の法灯」が1200年の時を刻んで輝いている。不滅の法灯は信長焼き討ちを受けて一旦途絶えたが山形県立石寺に分灯していた法灯を移して現在まで連綿として伝えてきたもので比叡山の命である。毎日欠かすことなく菜種油を注ぎ足している。この灯りは伝教大師の教えの象徴でもある。 本尊は薬師如来。秘仏の右に文殊菩薩像、左に最澄像と薬師如来像が祀られている。右の壇には毘沙門天像、そして左の壇には、伝教、慈覚、仁忠、慈恵の四大師像が祀られている。中陣から中央壇の薬師如来を拝むと、その高さは参拝者の高さと同じであることに気がつくだろう。参拝者と同じ目線に薬師如来が目に入る。大乗仏教の教えがこの同じ目線の配置の中に込められているのである。毎日の勤行はこの左の壇で当番僧が読経をするのであるが、他の僧たちは当番僧の後ろで読経している。一般の参拝者は内陣には降りることはできない。早朝、ひっそりと静まりかえった根本中堂の前に立つと、堅く閉ざされた門扉の向こう側から僧侶の読経の声が響き渡ってくる。その声は合唱にも似て、ひとつに溶け合い朝霧を揺らすように聞こえてくる。外陣の鴨居の額に書かれた「伝教」の文字は、千二百年の風雪に耐えてきた比叡山の姿を現在に生きる私たちに伝えているようである。
2007年06月09日
コメント(0)

母なる比叡山 比叡山延暦寺HP 京都市街から東北の方角にひときわ雄大に羽根を延ばしたような秀麗な山。そして一方、琵琶湖湖畔の里坊坂本の背後に迫るように聳える山が比叡山である。京都府と滋賀県にまたがる比叡山は大比叡、四明ヶ岳、小比叡、阿弥陀峯、三石山、八王子山などの頂から成り、南は京都市山科区、北は大原周辺まで裾野を広げた山である。比叡山は1200前、伝教大師最澄が奈良仏教と決別し、大乗仏教の思想を根付かせてから、日本の歴史・政治・文化に大きな影響を与えながら連綿として現在までその教えを伝えてきた日本天台宗の総本山である。比叡山は「三塔十六谷」と言われ、三塔は東塔地域、西塔地域、横川地域を指し、それぞれに中心となる堂宇がある。「谷」とは渓谷の意味ではなく寺院や住坊の集まる場所と言う意味である。これらの谷には「三千坊」と言われた僧坊があったという。 東塔地域は最澄が最初に開いたところで、比叡山の中心地域となっている。主だった年中行事はこの東塔地域の堂塔伽藍で行われる。 西塔地域は修行の地で、いまも最澄の定めた厳しい修行が続けられている。 横川地域は東塔、西塔地域から北に三・七キロの離れた地域にあり、学問修行の歴史を色濃く伝えている。 東塔、西塔、横川の三地域を巡り、それらの地域で1200年の時を超えて、いまも続けられ、伝えられ、そして守られてきた最澄とその弟子たちの真摯な姿が比叡山には生きている。1988年、比叡山が世界文化遺産に登録されたのはこうした修行がいまも続けられていることによる。 東塔巡礼 根本中堂前の真向かいに急勾配の石段がある。石段の上に聳えるように建っているのが三代座主慈覚大師円仁創建と伝えられている文殊楼である。文殊楼はケーブルカーとドライブウエイがない頃、里坊のある坂本から登ってきたときの総門のような役割を果たしていた。その文殊楼から眺める根本中堂は回廊の屋根越しに見事な瓦棒銅板葺きの堂宇で、およそ20メートルもある急勾配の石段の下の谷底を思わせるところにある。石段の最上段の高さは根本中堂の屋根の高さと同じになるように設計されている。文殊楼の様式は中国五台山の文殊堂を模したもので、楼上には獅子の背中に坐した文殊菩薩が安置されている。楼上から眺める琵琶湖の景観もすばらしい。比叡山を歩くとそこかしこに比叡山ゆかりの建物や記念碑に出会う。中堂前の高台に詩人宮沢賢治の歌碑がある。人生の苦悩を背負った宮沢賢治は比叡山に登り、法華経の神髄に触れた。「アメニモマケズ」は法華経の真理を表現しているという。
2007年06月08日
コメント(0)

比叡山に広大な寺域を持つ、天台宗の総本山 平成六年に世界文化遺産に登録されています。奈良時代末期、19歳の最澄(さいちょう)(767-822)が、比叡山に登り草庵(そうあん)を結んだのが始まりです。最澄が中国に留学して天台宗を開立してからは、弘法大師(こうぼうだいし)の開いた高野山金剛峰寺(こうごうぶじ)とともに、約1200年もの間、日本の宗教界最高の地位に君臨し、この比叡山からのちに日本仏教をささえた円珍(えんちん)(814-891)、円仁(えんにん)(794-864)、慈円(じえん)(1155-1225)、源信(げんしん)(942-1017)、法然(ほうねん)(1133-1212)、親鷲(しんらん)(1173-1262)、一遍(いっぺん)(1239-89)、道元(どうげん)(1200-53)、日蓮(にちれん)(1222-82)などの傑僧(けっそう)を輩出しています。全盛を誇った平安時代末期には、三塔・十六谷・三千坊を数えていたといわれています。この時代に門下の対立が激しくなり、分立した三井寺(園城寺)の寺門に対して、山門と呼ばれています。 杉木立が深く生い茂っている比叡山中の境内は、天台宗修行道場としての威厳に満ちみちた雰囲気が漂い、訪れる者の心を引き締めます。延暦寺は比叡山の山上山下に大別されており、山上には、根本中堂を中心とした東塔、釈迦堂を中心とした西塔、円仁によって開かれた横川の3地区に分かれています。一方、山下になる坂本には、延暦寺の鎮守社(ちんじゅしゃ)だった日吉大社や本坊だった滋賀院などがあります。 戦国時代に織田信長(1534-82)によって、一山焼き打ちに遭いましたが、豊臣秀吉(1536-98)・徳川家康(1541-1616)の手によって復興された諸堂は、数多く国宝・重要文化財の指定を受けており、宝物類も目を見はる物ばかりです。 比叡山延暦寺HP 延暦寺にはこの三十番神を祀った萬拝堂(延暦寺東塔)があります。 ちなみに三十番神は数パターンあり、法華経守護・王城守護・禁闕守護・如法守護・法華守護・ 仁王経守護・如法経守護などです。 萬拝堂は、日本全国の神社仏閣の諸仏諸菩薩諸天善神を勧請し、合わせて世界に遍満する神々をも共に迎えて奉安して、日夜平和と人類の平安を祈願している平成8(1996)年 10月1日, 延暦寺一隅を照らす会館並びに萬拝堂 の落慶の新堂である。 左隣の一隅を照らす会館は、参拝者のための無料休憩所である。休憩所内には、比叡山全景の立体模型が設置されており、比叡山が進めている一隅を照らす運動の実践や、延暦寺を紹介する映像を大型スクリーンで常時放映している。 萬拝堂と一隅を照らす会館
2007年06月07日
コメント(0)

この東寺五重塔初層の一般公開は1月1日~5日のみ、本年6月4日この東寺の初層内部を特別拝観することが出来た。今回内部は撮影禁止で残念ながら写真はありませんので、東寺さんの発行のパンフレットから内部の詳細文を引用します。 落ち着いた彩色をほどこされた江戸時代初期の秀作である初層の内部には、阿弥陀などの四如来座像と八大諸菩薩立像の華麗な姿で安置されている。本尊である大日如来がいないのは、中央心柱の角柱を大日如来に見立てているためで、現在は剥落はしているが、四天柱には金剛界曼荼羅諸尊が描かれている。外陣周りは、四方の扉の内面に護法八方天が、扉の左右の柱には八大龍王が火災除けに描かれ、そして周囲の壁の上段に真言八祖像、下段には蓮池が描かれている。さらに天井は折上小組格天井とされ、長押等にも全面にわたって極彩色の文様が装飾されている。【耐震構造】 創建以来、四度の火災焼失を経ているが、地震で倒壊したという記録は見当たらない。これは五重塔の塔身が各層ごとに、軸部・組み物・軒を組み上げ、これを最上層まで繰り返す積み上げ構造になっていて、材木同士も切り組や単純な釘打ち程度で、緊結されていない柔構造だからである。したがって、地震のエネルギーは接合部で吸収され、上層へ伝わるにつれて弱くなるとともに、下と上の層が互い違いに振動することになる。柱も各層では短いため倒れようとする復元力の方が大きいので、地震に強いと考えられる。 【 心 柱 】 須彌壇下の心柱の基部には弘法大師が唐から持ち帰った仏舎利を納入したという。この心柱の彩色が少しずれていたが、建築後に次第にに心柱が屋根を突き上げてしまい、それを直すために元禄五(1692)年一尺五寸(約50センチ)ほど切り下げた証拠と云われる。心柱が突き上げるのは年を経ると多くの部材で組み上げられた塔身は乾燥で収縮するが独立した心柱は収縮が少ないからだそうだ。
2007年06月06日
コメント(0)

京都市南区の東寺(東寺真言宗総本山、正式名称経王護国寺・世界遺産)を知らなくても、国宝五重塔を知らない人はまずないだろう。テレビや観光案内では、この塔を見るだけで「ああ、京都だ」となる。この京都のシンボル、東寺の五重塔が出来たのは、弘法大師の没後約50年経ってから。 天長三(826)年に大師は塔の造立を願い出るが、完成したのは元慶七(883)年頃とみられる。その後四回落雷等で焼亡を繰り返し、現在の塔は五度目の塔。寛永(1644)年徳川家光の寄進によって再建せられた。高さは約55メートルもあり、現存する日本の古塔中、木造としては日本最高の規模を誇る大五重塔である。 全体の形やバランスも良く、安定感のある再建五度目の現在の五重塔は、外観に細やかな装飾を付けない古式な姿で、細部の組ものの手法は純和様を守っており、仰ぎ見る者に創建当時の塔を思い描かせる。四度目の塔は寛永12(1635)年に焼失し、現在の塔は寛永18(1641)年の着工、1644年入仏落慶した。
2007年06月05日
コメント(2)

京都伏見の醍醐寺(真言宗醍醐派総本山)国宝五重塔(京都最古)は、後醍醐天皇の菩提を弔い冥福を祈るため、第一皇子・朱雀天皇が承平六(936)年に着工し、第一皇子・村上天皇の天歴五(951)年に完成した。この醍醐寺五重塔は礎石・基檀・塔身(初重~五重)・相輪によって構成されている。礎石は目にふれることは無く、実際に見えるのは基檀から上部構造だけとなる。塔身部分の特徴は、平安古式に則ったもので、まず初重下に縁廻りや高欄が無く、長押や戸などの外廻りの装飾も一切無い。木組みは精微で、屋根も隅棟を二重にして稚児棟を設けるなど優美な建築そのものも技巧に長けてる。初層内部の壁画には両界曼荼羅や真言八祖が描かれて日本密教絵画の源流をなすものといわれている。 相輪は全高37.5メートルの三分の一強、約13メートルもあるわりに、全体にどっしりとした安定感を与えている。塔全体のバランスは、この相輪によって左右されている。そして、相輪には別の、本来の意義付けがある。「舎利を奉安する場所」が塔本来の価値であり、相輪以外の何者もこの価値を満足させない。さらに言えば、相輪を構成している(伏鉢)のうち、舎利を奉安する意義を持つところは、覆鉢のみである。2500年前のインドで、釈尊の遺骨はお椀伏せたような形状の墓(伏鉢)に納められた。これをストゥーパと称した。ストゥーパは時代とともに拡張され、紀元前1世紀のシュンガ王朝の頃は基檀、ついでと、仏像を安置するや塔門が設けられた。このような変遷は、建築様式の変化ではなく、舎利尊崇の信仰形態の変化が生じたことを意味した。紀元前2世紀クシャーナ朝時代になると、奉安された「仏舎利」は基檀の下に沈む傾向が現れた。さらに、舎利ではなくブッタの教えを信奉する「法舎利(経巻)塔」も現れ、意義付けが多様化した。「法舎利」の概念は、仏像もこれに含まれるようになり、基檀回りの壁籠にあった仏像は塔内部に取り込まれた。中国に至って、基檀の下に木造楼閣が組み込まれ、重層化の端緒がつき日本の塔の原型が出来上がった。
2007年06月04日
コメント(0)

身延山の五重塔はデザインや構造などは現在日本で三番目の古さを誇る上記写真の京都醍醐寺(高さ38メートル)の図面を参考に、元和五(1619)年創建の上ノ山に現存をした五重塔の復元を基本としており、完成すると関東ではダントツの高さ39メートルの壮大な姿をあらわします。(因みに中山法華経寺五重塔は塔高29.7メートル、池上本門寺五重塔は28.5メートル、佐渡妙宣寺五重塔は24メートル、能登妙成寺五重塔は34.2メートル) 木工事【木材の調達と加工】 五重塔を復元する上で最も重要なものが檜を中心とした木材です。主に檜を用い、杉、欅、松といった材料も適所に使用します。全て国産のものとしており、特に心柱が身延山から切り出された杉であることは意義深いものといえるでしょう。断面寸法の大きい柱などを除き、ほとんどの部材が狂いの少ない「芯去材」であるため、部材によってはより大きな丸太が必要になります。こうして集められた木材は、製材所で丸太から腐りやすい白太を取り除いた赤身だけで四角や八角に仕立てられ、現在ほぼ全数の木材調達と検査が完了しています。また一方で、木材調達と平行して仕上加工を行っており、伝統技術を受け継いだ宮大工の技が遺憾なく発揮されています。※芯去材;樹芯を含んでいない材のこと1、原木の状況 檜の原木が長さごとに積み上げられ、十分に乾燥を待って製材します。2、身延の心柱 最大径86センチ、長さ17メートルの杉材を2本、身延山より切り出しました。 3、製 材 芯去材の製材は、丸太を二分するため、より大径の丸太が必要になる。4、材料検査 製材された寸法や、年輪・節・乾燥度を全て検査し、材面の検討をします。5、木材保管状況 検査済みの木材は一箇所に集積され、ゆっくりと乾燥させます。6、木材の加工 専門の宮大工により組立てに必要な加工を施していきます。7、加工済の部材少しずつ仕上加工が進み、これらの部材がいよいよ現場で組立てられます。 宗教法人 身延山久遠寺【境内の工事経過報告写真04より】 五重塔復元工事レポート No.05 【木材の調達と加工】 (PDF形式) 復元工事映像アーカイブス 設計・管理、財団法人文化財建造物保存技術協会 施工、大成建設株式会社 平成19年2月27日現在、身延山久遠寺公式HP
2007年06月03日
コメント(0)

現在工事を進めている身延山五重塔はデザインや構造などは当時の工法を取り入れた総予算20億円の本格木造建築で、完成すると高さ39メートルの壮大な姿をあらわしますが、4月からは素屋根と呼ばれる覆屋根の組み立てがもうすでに始まっていました。身延山五重塔素屋根工事(2007年3月上旬~4月下旬)のビデオ画像五重塔素屋根工事石工事【柱礎石】五重塔の初重には1本の心柱と16本の柱があり、各々の柱は「礎石」と呼ばれる大きな石の上に建てられます。特に心柱を受ける礎石を「心礎」と呼び、他と比較して一回り大きいことが特徴です。今回の復元工事では江戸時代の例に倣い、花崗岩自然石を使用します。山梨県旧白州町の大武川から採取されたものです。自然の形状を残しながら柱を載せられるよう、礎石の上面はできるだけ平らなものを選別し、目立つ凹凸はびしゃんで叩き平坦に加工しています。現代では加工や運搬は機械化されていますが、古来、手作業でのみやびしゃん、滑車やコロを使っていたことを考えると、石ひとつに大変な苦労があったことでしょう。 現在の工事 工事完了の範囲1、礎石採取 旧白州町大武川産の自然石花崗岩を採取し、最適なものを選別しました。2、材料検査 石の形状や向きを考慮しながら配置を決め、割れなどがないか検査しました。 3、びしゃん仕上げ 荒取りした表面をびしゃんで叩き、整えます。4、現場搬入 茨城県の加工工場から現場に搬入し、決められた配置どおりに仮置きします。こまめに高さを測定しながら、上面が平坦になるように均していきます。5、礎石据付 微調整は、人の手によって木製の楔を打ち込み、計測を繰り返します。6、レベル調整 測量機器を用いて、礎石それぞれの高さが一定になるよう調整します。7、礎石据付完了礎石下面とマットスラブの隙間をセメントで埋め込み、据付完了です。心礎(しんそ)礎石(そせき)束石・葛石・雨落葛石決め、割れなどがないか検査しました。※葛石・雨落葛石・束石は未施工※レポート中の"びしゃん"とは……〔びしゃん bush hammer〕石工事用工具の一。柄の長さは20センチ前後で柄頭に長さ15センチ程度の槌がついている。その端面は3.6センチ角で、碁盤目に切った突起が付いている。この突起の数により、25目で5枚、64目で8枚、100目で10枚びしゃんなどと呼ぶ。石材表面の叩き仕上の一つに用いる。『建築大辞典 第2版 彰国社1993年6月10日発行』より抜粋宗教法人 身延山久遠寺【境内の工事経過報告写真04より】 五重塔復元工事レポート No.04 【柱礎石】 (PDF形式) 設計・管理、財団法人文化財建造物保存技術協会 施工、大成建設株式会社 平成19年1月11日現在、身延山久遠寺公式HP
2007年06月02日
コメント(0)

現在工事を進めている五重塔は、元和5(1619)年に身延山で初めて建てられた五重塔「を復元」することを目標としています。塔のデザインや構造などは当時の工法を取り入れた木造であることを基本としており完成すると高さ39メートルの壮大な姿をあらわします。 杭工事から始まった基礎工事ですが、今回は今後、マットスラブの上面に柱礎石を据付け、その主役であるマットスラブ について紹介します。五重塔の全ての重量を受けるマットスラブは厚さ1.1m、一辺14mの鉄筋コンクリート造です。より高い耐震性能を得る目的があり、構造的な役割は非常に大きいと言えます。18年10月中旬より鉄筋の組立を始まり、コンクリートを打設、4週間の養生期間を経て、強度試験を行い、十分な強度を確認しました。今後、マットスラブの上面に柱礎石を据付け、素屋根と呼ばれる覆屋を建設し木工事が始まります。1、鉄筋・型枠組立適正検査 鉄筋と型枠の間隔や、鉄筋同士の間隔などを適正であるか検査します。2、配筋検査3、コンクリート打設 コンクリートを打設します。今回はミキサー車35台分のコンクリートを使用しました。4、表面均し こまめに高さを測定しながら、上面が平坦になるように均していきます。5、養 生 コンクリートと外気温の差が大きくなりすぎないよう注意しながら4週間養生します。6、強度試験 採取したテストピースの圧縮試験を行い設計以上の強度が発現したことを確認しました。7、グラウンドアンカー緊張 前回施工したアンカーをジャッキで引張り、余長を切断してマットスラブに止めます。見える穴には床下補強用鉄骨が納まります。状態の良いマットスラブが完成しました。8、マットスラブ完成 ※マットスラブの骨組みとなる鉄筋を組み、型枠を取り付けて輪郭を形成していきます。 宗教法人 身延山久遠寺【境内の工事経過報告写真03より】 五重塔復元工事レポート No.03 【マットスラブ】 (PDF形式) 設計・管理、財団法人文化財建造物保存技術協会 施工、大成建設株式会社 平成19年12月20日現在、身延山久遠寺公式HP
2007年06月01日
コメント(0)
全30件 (30件中 1-30件目)
1


