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多忙のため半月間もブログをご無沙汰いたしておりました。やっと当山の宗祖報恩お会式も終わりましたので、少しづつ写心ブログをUPしたいと思います。中国旅行の報告を首を長くして楽しみに待っておられる方もおられますが、先ず10月31日松山市保護司会北条分区で岡山方面に少年院視察1日研修旅行で、行きは「しまなみ海道」を通り、帰りは「瀬戸大橋」のルートを渡って戻って参りました。「瀬戸内しまなみ海道」とは、 平成11(1999)年5月に開通した、愛媛県今治市と広島県尾道市を結ぶ約60kmの西瀬戸自動車道の愛称です。日本のエーゲ海とも称えられる美しい瀬戸内海に浮かぶ島には、個性的な10本の橋が架けられており、また各橋には、自転車歩行者専用道路(総延長は約80km)が設置されているため、全線を通じていつでもウォーキングやサイクリングを楽しむことが出来ます。 西瀬戸自動車道(にしせとじどうしゃどう)は、本州四国連絡道路尾道・今治ルートとして広島県尾道市の尾道福山自動車道(国道2号松永バイパス)西瀬戸尾道ICを起点とし、向島、因島、生口島、大三島、伯方島、大島等を経て愛媛県今治市の今治ICに至る、延長59.4kmの高規格幹線道路(一般国道317号の自動車専用道路)である。本州四国連絡高速道路が管理し、本州四国連絡橋に本州四国連絡道路である西瀬戸自動車道を通している、という形をとっている。総事業費7464億円。一般には、本四公団が公募した愛称である「瀬戸内しまなみ海道」又は単に「しまなみ海道」と呼ばれる。 来島海峡大橋(くるしまかいきょう おおはし)は、愛媛県今治市、瀬戸内海の来島海峡を跨いで大島と四国を結ぶ長大橋で、来島海峡第一大橋、来島海峡第二大橋、来島海峡第三大橋の総称。本州四国連絡橋の尾道・今治ルートを構成する橋の一つ。3つの長大橋梁により構成された世界初の3連吊り橋であり、全長は4105mである。中央が西瀬戸自動車道(しまなみ海道)で北側に自転車歩行者道、南側にバイク道を併設している。夜間はライトアップされる。この架橋工事で1998年6月10日に橋桁落下事故が発生し、7名殉職と言う重大災害が発生している。馬島の現場と、来島海峡SAに慰霊碑がある。 伯方・大島大橋(はかたおおしまおおはし)は、西瀬戸自動車道(しまなみ街道、国道317号バイパス)を構成する10の橋のうちの、一体構造になっている伯方橋と大島大橋の総称である。全長1230m 供用開始:1988年1月17日 大三島橋(おおみしまばし、「おおみしまきょう」とも)は、瀬戸内海の鼻栗瀬戸に架かるアーチ橋である。伯方島と大三島を結ぶ。単径間ソリッドリブ2ヒンジアーチ橋。1979年、本州四国連絡橋の橋の中で最初に開通した橋梁である。全長:328m(アーチ支間297m) 路線名:国道317号(西瀬戸自動車道) 多々羅大橋(たたらおおはし)は、日本の瀬戸内海にかかる、広島県生口島と愛媛県大三島を結ぶ斜張橋。世界最長890mの斜張橋で1999年に完成。3径間連続鋼箱桁斜張橋。概要は歩行者道、バイク道が併設されている。風速15mで歩行者道、バイク道の通行止め、及び自動車専用道路部の2輪通行止めと4輪が50km/h規制となる。風速25mで自動車専用道路部が通行止めとなる。計画当初は吊り橋の予定であったが、架橋技術の進歩と景観を配慮した斜張橋へ設計が変更された。鳴き龍現象。塔の下の歩道で手を叩くと日光東照宮の鳴き龍のように反響する。塔の形状からくる現象。フランスのノルマンディー橋とは姉妹橋である。 生口橋(いくちばし)は、生口島と因島を結ぶ斜張橋。構造は3径間連続鋼箱桁斜張橋。完成:1991年全長:790m(中央径間:490m )橋桁が、側径間にコンクリート桁、中央径間に鋼桁となっている珍しい構造。完成時は世界最長の斜張橋で、この技術が多々羅大橋を斜張橋として建設させた。 因島大橋(いんのしまおおはし)は、瀬戸内海の布刈(めかり)瀬戸に架かる吊り橋である。向島と因島を結ぶ。構造は3径間2ヒンジ補剛トラス吊橋。布刈瀬戸は主要航路になっているので、橋桁は満潮時の海面より50mの高さをとってある。開設:1983年 全長:1270m (中央径間:770m )建設当時は、日本最長であった。 新尾道大橋(しんおのみちおおはし)は、瀬戸内海の尾道水道に架かる吊り橋。本州と向島を結んでいる。尾道大橋とは双子橋で、こちらは自動車専用道路となっている。構造は、5径間(向島地上部の高架橋を含む)連続鋼箱桁斜張橋。全長:546m(向島地上部の高架橋を含む) 中央径間:215m
2007年10月31日
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帰路、徳島自動車道ドライブの際に途中下車してトイレ休憩で リフレッシュ! 吉野川屈指の名勝「美濃田の淵」に隣接する吉野川SAは、全国でも数少ない川に直接触れることのできる「開かれた サービスエリア」です。県立自然公園 美濃田の渕 奇岩・怪岩 吉野川中流域唯一の景勝遊楽の地として、昔から詩歌に詠まれ、絵筆に親しまれてきた徳島県の名勝・天然記念物に指定の「美濃田の渕」。藍碧透明の水面には「獅子岩」「鯉釣岩」「作造岩」などと名付けられた奇岩、怪岩がぽっかりと浮かび、神秘的な趣をたたえています。長さ2キロメートル、幅100メートルにわたる美濃田の淵は四季折々の美しい花や木々に囲まれ、川面には鮎が舞い、道と自然と露天風呂が一体となって旅の疲れを癒してくれます。ここでは、のんびり自然を楽しんだり、 地元の恵みを味わったり、お風呂でくつろいだりできる 「吉野川ハイウェイオアシス」が皆んなをやさしく迎えてくれました。 美しい夕日の沈みゆく中、伊予へ松山自動車道に入り、夕方18時30分松山市高島屋前に一同無事到着、めでたく解散。来年度は本年5月20日に本堂を新築落慶された伊予市の上行寺様をかわきりに南予地区の日蓮宗寺院を巡拝の予定です。どうぞ、お誘い合わせご参加下さい。愛媛県日蓮宗寺院紹介
2007年10月30日
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なんばグランド花月(かげつ)は、大阪府大阪市中央区にある、吉本興業が世界に向けて笑いの文化を発信していく活動の本拠地とも言える劇場。略称NGH(エヌジーケー)。昭和62(1987)年に老朽化したなんば花月に代わる劇場として建設された吉本芸人の劇場。吉本興業の歴史は、吉本泰三・せい夫婦が明治45年4月1日、現在でいうところの大阪市北区南森町2丁目、天満天神宮の裏門に面した一角にある「第二文芸館」という二流どころの奇席の経営に乗り出したことに始まる。時は流れ、昭和62年11月1日、大阪市南区千日前に吉本会館という、吉本の牙城がオープンした。別の名を“なんばグランド花月(NGK)”。4階建ての白い外壁。延べ面積は11225.61平方メートル。総工費約60億円のこの建物は、21世紀を見据えた吉本の拠点である。オープンしたこの年度に年商は85億円を越えた。マンザイ・ブーム以降7~8年ぶりの大幅増収だった。この原動力になったのは、まぎれもなくこの“なんばグランド花月”であった。 なんばグランド花月HP今年はなんばグランド花月も20周年記念の年だという。※撮影禁止の為、館内写真はなし。 花月の由来は、一説ではないんや 現在、“なんばグランド花月”という名に代表される吉本興業の劇場の代名詞“花月”。その名の由来は一説ではない、というのが吉本的でなお面白い。大正7年は吉本にとって記念すべき年といえる。大阪ミナミ・法善寺裏という演芸のメッカにあった超一流の演芸場“金沢亭”。そこを吉本の創始者“吉本泰三・せい”夫婦が苦労の末に買い取ったのが、この年。早速、劇場名を“南地花月”に改めたのが“花月”という名称の初登場である。劇場近くの法善寺・金毘羅さんで、泰三・せい夫婦がおみくじを引いたところ“吉”が出た。その文句に「欠くるとも月と輝き、栄えては桜の花と咲く」とあり、そこから生まれたという説がもっとも有力らしい。 これならば「月は欠けても、また満ちる。花は散っても、また咲く季節がくる。浮世の浮き沈みに惑わされず、がんばり続ければ必ず成功する」という意味だそうだ。 10/21(日)プログラム 第1回目 09:45より開演、出演者、 つばさきよし/おかけんた・ゆうた/桂小枝/西川のりお・上方よしお/今いくよ・くるよ/ 桂きん枝 / 中田カウス・ボタン / 休憩 / 吉本新喜劇、 終 演、12:15分 昼食は、館内で吉本弁当・二段重お茶付き(1570円)を食べて一同充分楽しみ満足し、満員御礼のグランド花月を後にして、2台のバスへと戻り、一路再び昨日と逆コースを再び、明石大橋~淡路島を経て四国松山へ向けて帰省をす。
2007年10月29日
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京都三本山各様のご丁寧な接待や詳しい縁起説明、有りがたい法話の参詣を一同無事終え、1時間遅れで琵琶湖温泉(旧雄琴)の「緑水亭」絵葉書のような景色に出会える、景色にとことんこだわった宿♪に到着、19時半よりは70名の参加者で美味しい夕食、2時間余り賑やかな楽しい宴会のひとときでした。 雄琴温泉、びわこ禄水亭HP イタリアの家具でコーディネートされた開放感あるロビーからは琵琶湖から昇る日の出!がキャッチフレーズで、有名料亭で修行した調理長の旬の素材と地の食材を使った会席料理や天然温泉の露天風呂が自慢。昨年11月に新館が完成して「バリヤフリープラン」も用意してありました。 車椅子で部屋の中まで入れること、家族も同時に泊まれること(計6名)万が一の場合の為、家族風呂があること、食事は車椅子でも可能な事等を確認する事が出来ました。 小生の部屋は旧西館でしたが、ついでに新館の方も見せてもらうと、各部屋のトイレにも手すりがしっかりついて、ベッドが老人にも適当な低さであり、和室だけでも十分広く、琵琶湖の眺めがとても良い(雄琴港が見える)3人がゆったりと入れる部屋付きの露天風呂がベランダにあり、とても素晴らしい施設でした。 びわこ緑水亭新館案内 翌朝、琵琶湖から上がる赤い太陽がぽっかりと日の出!美しい旭日の「大日輪ご来光」を久し振りにゆっくりと部屋から拝む事が出来ました。朝食後8時にホテルを出発、大阪へと向かいました。
2007年10月28日
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本山立本寺(上田日瑞御貫首)説法第一・日審上人のお寺 京都市上京区七本松仁和寺街道上ル一番107西龍華・具足山(松ヶ崎法縁)法善寺旧本山、大覚大僧正御遠忌事業に当日壱口(50萬)を寄進。立本寺公式HP立本寺縁起 具足山立本寺は日蓮宗京都八本山の一つ。京都の法華系本山16ヶ寺の内、大本山妙顯寺・本山妙覚寺・本山立本寺を三具足山と言い、何れも日蓮聖人の孫弟子にあたる龍華樹院日像上人(幼名、経一丸)により開山される。 日蓮聖人ご入滅に際し、京都布教の命を受けた日像上人は、いく度も都を追放されながらも民衆救済の使命に燃え、暦応四(1341)年、四条の櫛笥に妙顯寺を建立するが、叡山僧兵によって破却され、明徳四(1393)年、日実上人がその地に再建、「本寺を立てる」という意味を込め「立本寺」と改名した。 しかし天文五(1536)年、再び僧兵によって破却され、いち早く再興されたものの、文禄三(1594)年、秀吉の命で京極今出川(寺町今出川)に移転。広大な寺域を得たが、宝永五(1708)年の大火で焼失し現在地に移転、今に至る。本堂は日蓮宗七間堂の典型的な平面構成で、棟札により享保三(1743)年の上棟であることがわかります。京都市の文化財に指定されており、堂内須弥壇には本尊:十界大曼荼羅の諸佛。正面中壇には『冑(かぶと)の御影』と呼ばれる祖師像(日蓮聖人座像)が奉られております。また、本堂内や書院には多くの寺宝が安置されています。◆つぼ日審上人 瞬時の不信も許さない絶対的な題目信仰◆ 江戸時代初期に霊鷲院日審上人という人がいます。上人の生まれについては大そう珍しく不思議な事が有りました。京都に江村久茂(大本山法華経寺28世・日養上人は久茂の子。親戚に江村專齋という名医がある)という人がおり、その奥方は子供を身ごもってました。久茂も楽しみにしてましたが、生まれるのも間近く、奥方が僅かな病気が元で急に亡くなってしまったのです。久茂の嘆きは一方でありませんでしたが、致し方ありません。お寺に行き、お葬式をすませて墓地に葬りました。 雨がシトシト降る暗い晩でした。寺男のお爺さんが用しに出て、帰りに墓地を通り抜けようとすると、何処か地の底から、微かに赤ん坊の泣き声が聞こえてきます。ゾォッとしたお爺さんは「お化けが出たあ」と吃驚仰天、手にした荷物も、提灯も捨てて、暗い墓道を転けつまろびつ寺へ飛んで帰り、この事を上人に話しました。上人がお爺さんに連れられて墓地へ行くと、確かに赤ん坊の泣き声が微かに聞こえます。「あ、これはひょっとしたら江村さんところの新仏(あらぼとけ)かも知れんぞ」と恐がるお爺さんを促し、そこへ行って見ると、どうもこの塚から聞こえているようです。大急ぎで塚を堀り、埋められた壷のふたを取ると泣いている赤ん坊が見えました。慶長四(1599)年6月2日、日審上人はこうして生まれた。と広く伝えられています。上人の花押(かおう)が壷形に書かれているのはこの為であると言われ、上人の書かれたご本尊は日本のどの地方でも安産守りになっていて、お産をする婦人は上人のご本尊をかければ安産する事が出来るというので、今でも「壷日審様」と崇められています。 日審上人は小さい時から非常に聡明(そうめい)で、京都や下総の宗門の学校(檀林に学んで30余歳で京都本山本圀寺にある檀林の化主校長になり、多くの学生を育成しました。上人が学問に優れていた事は言うまでもありませんが、また弁舌に長じ、西は九州方面、東は関東奥羽に及ぶ日本全国を遊説し、9万余人の人々が信服して受法しました。その説法の回数2万余座、ご本尊を書き授けた数は10万余幅に及び、人々は「富楼那日審」と尊称しました。仏さまの十大弟子の一人に説法第一と称せられた「ふるな尊者」の名をおくったわけです。上人は49歳の正法四(1647)年に京都、本山立本寺20世の貫首となりましたが、近衛信尋(後陽成天皇の皇子で近衛家養子)の招請によって法華経を講じました。この時、後水尾上皇も親しく、この講筵に列なられ、その後も二条康道(摂政)の館に幸し上人を講じ、再び法を開かれましたが、叡感あって「今や仏法において疑問がなくなった」と仰せられ、立本寺に園林堂が八条宮智忠親王によって建てられた時、ご辰筆「園林堂」の三大字を賜った程でした。以て上人の行徳が上下に及んだ事が知られましょう。また、上人は寺の傍に老父母を招き毎日見舞って孝を尽くしました。上人の常々の言葉に「もし私が仏につかえ、親に孝行が出来ぬならば、仏を捨てて親に仕えよう」と、その至孝の言行を讃えぬ者は無かったと言います。寛文六(1666)年3月15日、68歳で入寂されました。※幽霊子育飴の伝説母の愛 味わい深く、幽霊子育飴の伝承が残る「六道の辻」 一粒、口に放り込む。徐々に溶け出すと、柔らかい甘みが口いっぱいに広がる。甘すぎず、ほのかに懐かしい味。六道珍皇寺門前で四百年余り前から売られていた麦芽糖の飴「幽霊子育飴」。慶長四(1599)年、夜な夜な若い女が飴を買いに来た。不審に思った飴屋の主人が後をつけると、鳥辺山の墓地で姿を消した。翌日、寺の住職と一緒に墓地に向かうと、盛り土の中から赤子の声がする。掘り返すと、女の遺体の横で赤子が飴をしゃぶっていた。 赤子は八歳で僧となり母の菩提を弔い、寛文六(1666)年三月十五日、高名な僧として68歳で亡くなった。平安時代以来の葬送の地、鳥辺山のふもとにあり、現世と冥界との境域とされた「六道の辻」。上京区・立本寺に伝わる話では、赤子は同寺二十世貫首、日審上人(1599~1666)だと言う。壺(つぼ)を図案化した花押を用いたことから「壺日審」と親しまれ、生涯に二万回余りの説法を行ったという。同寺に祀られる上人の木像は安産守護の信仰を集める。 上田尚正貫首(65)は「飴は滋養のある食べ物。墓の近くで、飴を与えて子育てした母親がいたのだろう。ある程度、史実に基づいた話では」と推測される。死が身近だった殺伐とした時代を思わせるが、心に染み入る飴に劣らず、味わい深い話であった。 立本寺の庭園 春になると本堂前には多くの桜の木がその花を咲かせ、夏になると、色々な蓮の花が鮮やかに境内を彩ります。蓮華(ハス)(6月下旬~8月中旬)、秋から冬は、名勝龍華苑(庭園)の紅葉が見事。実は立本寺は、京都でも知る人ぞ知る蓮の名所だそうです。立て札には「はすのその」とふりがなが打ってあって、名は「龍華苑」と書きます。他の蓮園が有料の観光地化しているのに対し、立本寺の龍華苑は全くの無料公開...ってゆーか、本堂境内に堂々と置かれているだけ!約80種が1種1鉢に個別に植わってあり、各々には名札が付いているので、それを見比べるのが楽しみ方なんだとか。勿論境内は24時間開いているので、早朝に行けば「ポンっ」と開花の音が聞けるかも?しれませんヨ。8月中旬まで順々に咲きますので、まただま楽しめます。お時間のある方、来年は是非訪れてみては如何ですか?
2007年10月27日
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本山本法寺(大塚日行御貫首)鍋かぶり日親さまのお寺京都市上京区小川通寺ノ内上ル本法寺前町617(堀川寺ノ内上東側)妙顕寺に続いて徒歩にて15時20分より2ヶ寺目に本山本法寺へ約1時間の参詣、 千本寺の内一筋東小川通りに面し、本法寺の裏向かいには現在も「今日庵」「不審庵」(裏千家・表千家家元の茶室)がある。日蓮宗本山本法寺。(親師法縁)山号を叡昌山と称する。本尊:十界大曼荼羅。開基は久遠成院日親上人で、永享八(1436)年に東洞院綾小路に開創される。 日親上人は時の将軍足利義教に「立正治国論」を献じ、平和の招来を直言したが、これが将軍の逆鱗に触れ投獄、本法寺も焼却された。さらに将軍政教が上人に加えた刑罰は次第に苛酷となり、ある時は焼鍋を頭にかぶせる等の残虐眼を覆う迫害もあった。世に「冠鐺日親上人」と称するのはこの法難を言う。しかし、上人の大慈大悲の法華弘通の大不動心は、遂に後花園天皇の叡感に適い、康正元(1455)年四条高倉辺りに官地を賜り本堂の再建が実現され、※中世から近世初頭には、本阿弥家(本光・光悦・妙秀など)一門の大檀越として外護を受ける。天正15(1587)年豊臣秀吉の帰依を受け現在の土地を与えられ、天正十八(1590)年秀吉の命(聚楽第造営)で現在地に移転再建。豊臣・徳川政権下では権力を慮り、受不施の立場に転じ、徳川政権下の宗教政策に組み込まれる。天明八(1788)年の大火に類焼(経蔵・宝蔵を除く)し、現伽藍はその後の再建による。近世は徳川紀州家及び多くの檀信徒で維持された。冠鐺日親上人(なべかむりにっしんしょうにん)のいわれ・生涯は、興味深い。 下総国に生まれる。妙宣寺において父の実弟にあたる日英に学び、中山法華経寺に入門する。1427年に上洛し、鎌倉や京都など各地で布教活動を行う。1433年には肥前国へ赴く。同年に再び上洛し、本法寺を開く。日親は諸寺院を日蓮宗に改宗させ、6代将軍足利義教への説法の機会を得た際に他宗の喜捨を説いて建言を禁止される。禁に背いた為に投獄され、本妙寺は破却となる。拷問を受けた際に灼熱の鍋を被せられたまま説法を説いたという伝説が誕生し、「鍋かぶり上人」・「鍋かぶり日親」等と呼ばれた。1441年の嘉吉の乱で義教が殺されると赦免されるが、その後も八代将軍足利義政の上洛命令などを受け、投獄もされている。1463年には町衆の本阿弥清延の協力を得て本妙寺を再興する。その足跡は全国に及び、他宗との問答は66回、建立した寺院は30有余とも言われている。法難に耐えながら、まさに血みどろの布教の旅であった。日親上人は1488年に82歳で遷化されたが、京都・九州の宗門発展の基礎を創るのみならず、日蓮宗の宗門史の上においても特にその法勲は偉大なものとして伝えられている。 大涅槃図(長谷川等伯作) 京都三大涅槃図の一つで、総縦約10メートル、総横約6メートルに及ぶ紙本濃彩画で、国の重要文化財指定を受けている。今、この貴重な大涅槃図を目の当たりにして思いをいたす時、嘗ての大本堂に掛けられた400年前の感激を新たにする。阿難尊者が、釈尊の枕辺に悲泣し、天人阿修羅をはじめ、生きとし生けるものどもの、声をあげて泣き叫ぶありさまが、天地を振るわすのを感ずる。 長谷川等伯は、桃山画壇の覇者、狩野永徳を脅かすほど絵師としての成功を治め、自ら「雪舟五代」を名乗り長谷川派の長として活躍した画家で、天文八(1539)年、能登国の戦国大名畠山家家臣・奥村文之丞宗道の子として、七尾(小島町付近)に生まれ、幼名は又四郎と言った。幼い頃に一族で染物屋を営む奥村文次を通じて染物屋・長谷川宗清の元へ養子となった。養父には絵の心得があり、絵を学び、また雪舟の弟子・等春からも学んだ。名を等春から一字を取り、長谷川信春と名乗り、その頃から仏画を描く絵師として徐々に有名になっていった。親しくした人物の肖像や「大涅槃図」なども描き、本法寺所蔵の「大涅槃図」は、京都三大涅槃図の一つに数えられる大幅で、華やかな描表具を含めると高さ10メートルにも及ぶ。供養を行う前に宮中に持参し、披露したという記録も残っている作品で、「雪舟五代」と「六十一歳」の書き込みがあり、60歳前後から「自分は雪舟より五代目なのだ」ということを強く打ち出し、より長谷川派の結束を固めようとした。注目されるのは、表具の裏には日蓮聖人以下の諸祖師、本法寺開山の日親上人以下歴代住職及び、祖父母や養父母、先立った息子などの供養銘が記されている。等伯70歳の時、親しくしていた本法寺の日通上人が亡くなり、等伯は日通上人の肖像を描いている。また、71歳の時には大徳寺塔頭の高桐院住職・玉甫紹王宗の肖像も描いている。慶長十五(1610)年徳川家康から招きを受け、江戸に赴く。その旅の途中で病を得て、到着後2日目に病死した。享年72歳。 本法寺多宝塔 寛政年間(1789~1801)年代再建塔。伽藍は天明八(1788)年の大火で類焼した。今の本堂は寛政九(1796)年の再建と伝えられ、多宝塔もその頃の再建と推定されている。 本法寺の庭園「巴の庭」 国指定名勝 三つ巴の庭と呼ばれる庭園は、本阿弥光悦の作と言われ、室町期の書院風枯山水の影響を強く残しながらも、桃山時代の息吹を感じさせる名庭である。書院の東側を主体として約600平米の広さ、全体の平面形態は鍵形となっており、東南隅の奥深い部分にはこの庭の主役とも言える枯瀧石組が据え置かれ、中央には大小の立石を用いた三尊石組の形式と手前に配置された縦縞紋様の青石により水流の落ちる様相を表現、縁先間近い位置には、長さ1.5メートル程の切石10本により、十角形に縁取られた蓮池があり、その北部の半円を2個組み合わせた円形石と共に図形的意匠の斬新さを見せてくれた。
2007年10月26日
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大本山妙顕寺(南条孝仁御貫首)日像上人帝都弘教の拠点四海唱導、京都市上京区寺之内通新町西入妙顕寺前町514、14時より先ず四海唱導 大本山妙顕寺HPへ一同参詣、勅願寺、妙顕寺の由来 四海唱導妙顕寺は山号を具足山、又の名を龍華といい、日蓮大聖人の孫弟子に当たる日像聖人が660余年の昔、創建(1321)された関西法華宗団の根本をなす由緒ある寺で、大本堂の両柱に掲げられた聯に「宗祖直授の大導師として、妙法の教を弘め、法華宗号の発祥をなし、勅願寺として四海唱導の公許を誇る、日本国中の宗門の棟梁の零場である」(文意)とある通り、創立以来法華下第一の誉れを伝え、都の法華門下派21本山(現在は16)の正に草分けであり、大本山として中心的存在として今日に至っている。 開山日像聖人の御出自 御開山の日像聖人は、身延の碩学日潮上人が「その徳は宗祖直弟子の六老僧と等しいかも知れないが、功績は遥かに優れている」(文意)と讃えられているように、宗門史上並ぶ者のない偉聖である。その御出生は甲斐源氏の名門平賀忠治卿を父に、上総野手の豪族印東祐照の娘(六老第一日昭聖人の妹)を母上として、下総平賀の郷(今の松戸市本山本土寺の地)に、文永六(1269)年8月10日生誕されて万壽麿と名付けられた。満6才の時、兄に当る日朗聖人の手引きで身延山に登ったが、宗祖は一目御覧じて、この童児こそ後日都に法華経を弘め、天子にもお題目を伝えられる器であると喜ばれ、親しく経一丸と名付けられて、有名な護衛の御本尊、玄旨伝法本尊をしたためられて授けられた。身延の澤に5ヶ年の春秋、身延に宗祖の教育を受けられ、御入滅の池上では、並みいる数多のお弟子や信者方の中より枕辺に呼ばれ最后の御遺命として、改めて都へのお題目の弘通と、天子に妙法をお勧めせよとの大役を托されたのが、歳わずか13歳の弘安五年の秋であった。直ちに名を日像と改められて、日朗聖人を師として、暇を断ち眠りをつめて行学に励まれること12年、来る宗祖の十三回忌の年を京都開教と決し、種々の難に耐えぬくための修練として、由比ヶ浜の氷浪を浴びての百日の寒行を続け、又信念統一の為には、凡眼では読めない程の細字で法華経を書写し終わって、師であり兄である日朗聖人や、御母平賀の妙朗尼等と永の別れを告げられ、大聖人の御生涯の足跡をことごとく巡拝されて、都に入られた。京都開教 永仁二(1294)年4月28日、宗祖の立教開宗のその聖日、その晩、御所の正門に立たれ、登る旭の光の中に高らかにお題目を唱えられて、都の開教を誓われたのが、歳未だ25才の晩春である。風大ならば波また高く、音強ければ響大なりの譬えの通り「正法を忘れ邪法に迷えば、国も危うく民は苦しむ。速やかに妙法に帰一して安楽地を築けよ」との辻説法の大獅子吼に、たちまち上下の帰信が集まったが、他宗派の攻撃も又盛んとなって、勅命で三度も都を追放されると言う法難を始め、日々忍難の28年の後、遂にその正法の真義が天皇にも伝わって、元亨元(1321)年12月第三次の勅勘が直ちにゆるされて、後醍醐天皇より洛内に寺地を賜って、妙顕寺が創立されたのである。続いて建武元年4月14日には、「妙顕寺を勅願寺となす。殊に一乗圓頓の宗旨を弘め、四海泰平の精祈をこらすべし」との御綸旨を戴き、帝都に妙法を弘める大法城が打建てられ、四海に流布する大道が開かれて、宗祖の御遺命を見事に達成された。たちまちに妙法の光は都の内外を明るくし、お題目の風は北陸、畿南、西国等に吹き渡りました。興国三(1342)年宗祖の御入滅と同じ壬午の年を迎えられた春、日像聖人は、故郷の東国へ身延、鎌倉、池上、平賀と報恩展墓の旅を果されて秋11月、一期の大事を大覚上人に托し終られて、宗祖の御命日と同じ十三日、御年74才を以て安祥として入滅された。お荼毘所と並びに御廟所は深草の宝塔寺である。 大覚大僧正 やがて法華教団は都の人口の半ばを制し、町衆という文化、経済の中心勢力を掌握した室町期の最盛期を迎えるのであるが、日像聖人のこの徳化が大木であり、加うるにお弟子の大覚大僧正の功も忘れることは出来ない。元弘三(1333)年、この妙顕寺は後醍醐天皇の京都還幸を祈願を託され、還幸が実現した。このことにより、尾張・備中に三ヵ所の寺領が寄進され、次いで建武元(1334)年には「妙顕寺は勅願寺たり、殊に一乗円頓の宗旨を弘め、宜く四海泰平の精祈を凝すべし」後醍醐天皇よりいただいた勅願寺としての証(重要文化財)の後醍醐天皇の綸旨を賜わった。更に、妙顕寺は足利将軍家の祈祷所となり揺るぎない地位を獲得した。妙顯寺の庭園 客殿の前庭は龍華飛翔の庭(四海唱導の庭)、書院の前庭は光琳曲水の庭と謂われている。天明の大火の焼失後は原形を失う程であったが、古図により再現、識者の讃める処であり、殊に坪庭の孟宗竹林は来訪者に喜ばれている。
2007年10月25日
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僅か5分程で明石海峡大橋を通って本州神戸側へ渡り、 10月20日12時30分京都に到着、鴨川を渡り左京区聖護院・平安神宮周辺の近く、京都最大級の京都土産店アミタ本店にて四季折々の京の素材を盛り込んだ京風弁当精進料理の昼食&買い物を楽しむ。このアミタ本店は京ぐるめ和物専門店として、伝統工芸品からアクセサリー・書籍・化粧品・インテリア・アパレル雑貨に至るまで、他に類をみない品揃えが自慢だそうです。旅行の旅の想い出に、6種類の伝統工芸体験教室も随時開催。アミタ本店葵錦織・京繍(きょうぬい) 京繍は、平安京が造られた時、刺繍をするための職人をかかえる織部司(おりべのつかさ)という部門が置かれたのが始まりとされている。江戸時代中期に、宮崎友禅斉が友禅染めを完成させるまで、刺繍は、鹿の子絞、摺(す)り箔とともに布地を加飾するための重要な方法でした。特に、経済力を持つようになった町人たちによって作り出された、「寛文文様」と呼ばれる新しいデザインの表現の中で、刺繍は重要な役割を果たした。京象嵌(きょうぞうがん) 昔々、遥か東方シリアからシルクロードを通り、平安の都に伝来したといわれています。京都の象嵌は鉄・銅・真鍮などの地金(じがね)に縦横の細かい布目状の溝を掘り、金・銀・銅などを鎚(つち)で打ち込んでいく、布目象嵌を中心としており、黒地に金・銀のコントラストと繊細な美しさが特徴です。職人さんに許可を得て店内で撮影させて頂きました。 象嵌 とは金属に金や銀、銅などを象(かたど)り模様を嵌(は)め込んだ象嵌はシリアのダマスカスで生まれ、日本にはシルクロードを伝わって飛鳥時代(6~7世紀)に伝わったとされている。平安時代(8~12世紀)には技術の基礎ができ、江戸時代(17~19世紀) には京都の埋忠(うめただ)、正阿弥(しょうあみ)など、刀やよろいなどをつくる職人が優れた象嵌を生み出した。京都の象嵌は鉄・銅・真鍮などの地金(じがね)に縦横の細かい布目の溝を掘り、金・銀・銅などを鎚(つち)で打ち込んでいく布目象嵌を中心としており、繊細な美しさが特徴です。
2007年10月24日
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この明石海峡大橋(あかしかいきょうおおはし)は、兵庫県淡路市(旧津名郡淡路町)と兵庫県神戸市垂水区とを結ぶ、明石海峡を縦断して架けられた吊り橋である。全長3,911m、中央支間1,991mで世界最長の吊り橋である。明石海峡大橋の主塔の高さは海面上298.3mであり、国内では東京タワー(333.0m)に次ぐ日本第2の構造物である。1998年(平成10年)4月5日に供用が開始された。建設費は約5,000億円。建設当初は全長3,910m、中央支間1,990mであったが、1995年1月17日の阪神・淡路大震災では地盤がずれて1mも伸びた。なお2007年現在の今も世界最長の吊り橋である。
2007年10月23日
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大鳴門橋を渡り淡路島の「淡路ハイウェイオアシス」で休憩、この淡路島は大阪湾、播磨灘、紀伊水道の海域に囲まれ、南北に約40km、東西に約20kmに伸びている。本州など四島を除いて、面積は日本で第7位の島。北端は松帆崎で明石海峡に面し、南東端は生石鼻で紀淡海峡に面する。全長約4kmの吊り橋である明石海峡大橋(パールブリッジ)で本州に連絡する。
2007年10月22日
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皆さん暫くのご無沙汰でしたが、久し振りに京都三ヶ寺団参の模様を掲載します。10月20日(土)より21日(日)まで、京都本山(妙顕寺・本法寺・立本寺)へ愛媛県中予地区寺院合同団参で松山高島屋前を朝7時にバス2台70名にて出発、高速道路で愛媛県から徳島県へ、更に大鳴門橋から先ず淡路島へと渡りました。 大鳴門橋(おおなるときょう)は、徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦(大毛島孫崎)と兵庫県南あわじ市福良丙 (淡路島門崎)間の鳴門海峡両端を結ぶ吊り橋である。1985年6月8日に開通。 橋長は1,629m、中央径間は876m、幅は25m、主塔の高さは144.3m。橋は上下2層式となっており、上部は片側2車線の道路(6車線の内、中央4車線を使用)、下部は将来的に鉄道 (四国新幹線)を通すことが出来る構造となっているが、明石海峡大橋が道路単独橋で建設されたので、神戸からの鉄道が大鳴門橋に通じる可能性はなくなってしまった。しかし、橋下の鉄道空間に徳島県立「渦の道」歩道を建設し、鳴門公園の新たな観光スポットとして最近人気を集めている。
2007年10月21日
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秋祭り地域が一体 せーのっせ!「みこしみそぎ」で豪快フィナーレ・松山北条地区 松山市北条地区の秋祭りは八日、同市北条辻の明星川にみこしを投げ入れる「みこしみそぎ」などが行われ、四日間の幕を閉じた。 北条沖の鹿島にある鹿島神社二台のみこしが同日午後四時十分ごろ、各地の巡行を終えて明星川に到着。かき手らが約三百キロのみこしを「せーのっせ!」の掛け声で徐々に横に倒しながら、最後は豪快に放り込んだ。河口に近づきながら何度も引き上げて投入。 幅四メートルほどの川がせき止められてほぼ満水状態になっており、はね飛んだしぶきで見物客から悲鳴が上がった。小学生の長男と見物していた近くの会社員男性(44)は「迫力があり毎年きている。これを見ると祭りも終わりだと感じる」と話していた。みこしみそぎは同日午後六時の宮入を前に、けがれを落とすために行われる。ずぶぬれになったみこしは少年らが船上で勇壮な舞を披露する「櫂(かい)練り船」に先導され、夕凪の伊予灘を鹿島へ向かった。 【愛媛新聞、2007(平成19)年10月9日(火曜日)号より引用】 【鹿島櫂練りの解説】 昭和41年4月5日 指定(無形文化財) 櫂練(かいね)りの起源は遠く河野水軍の昔、治承年間(1177~1181)にさかのぼるといわれ、水軍の出陣に際し、鹿島の神前に終結して戦勝を祈願し、凱旋の時の祝勝奉賛が鹿島神社の神事となったものと伝えられる。水軍は近世にいたり、衰微絶滅したが北条辻浜、土手浜一帯の住民は先祖の武勇をたたえ、昔の遺風をしのぶため毎秋重陽(ちょうよう)の節句に漁船の競漕を試み、櫂練りを演じる風習が伝承されていた。江戸末期にいたってこれを鹿島神社の祭礼に奉賛するようになり、さらに、神輿渡御(とぎょ)の御乗船に供奉警護にあたることになって今日に及んだものである。 祭神、武甕槌命(たけみかずちのみこと)・経津主命(くつぬしのみこと)武勇の神であり、海の守護神でもあって男性的で勇壮な櫂練りは神意にかなったものと言えよう。また、櫂練船の艤装奉仕者(ぎそうほうししゃ)の扮装みなり、漕ぎ方、舸子楫取りの漕法・舳先(へさき)の樽の上で櫂をあやつっている動作、掛け声、鉦鼓(かねたいこ)の囃(はやし)など、すべて古式にのっとる独特の伝承行事で、地元少年、青年、壮年が奉仕するのが慣例となっている。3+12回にわたり、北条秋祭りの模様をご紹介させて頂きました。沢山のご訪問誠に有り難う。20日から21日迄バス2台で京都三本山(妙顕寺・本法寺・立本寺)へ75名団参して参ります。PS、最近BBSに迷惑投稿が毎日有り、小生のPCは高校3年生の娘も共有していますので困っています。暫く留守をしますので削除は出来ませんが、皆さんご容赦を!出来れば投稿される方の心にもし良識が有れば場違いな投稿はお止め頂きたいのですが・・・よろしく!お願いします。合掌。
2007年10月20日
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北条の鹿島神社の祭礼の宮入には、「櫂練踊り(かいねりおどり)」が出て船渡御(ふなとぎょう) をする。その宮入り前には、町内の全てを神御した二台の神輿を明星川にかき夫が何度も何度も投げ込み、水で禊(みそ)ぎ清めます。 鹿島祭り最終日は、北条港へと流れる明星川では、かき夫らが豪快にみこしを川へと投げ込んだ。辻区から北条区へと神輿の掛け渡し場所でもある。宮入り前の御輿を川で清める「みこしみそぎ」だ。 激しい水しぶきが上がり、近くの観客もびしょ濡れになる。若者達も一斉に川へとダイブだ!北条の道頓堀川?みたいなお世辞にも綺麗な川とは言えないが、豪快にダイブする姿は勇壮である。やっぱり、こういった祭り男がいつまでも必要かも・・・。最後に御旅所での神事へ、 御祭神の神様が鹿島神社へと渡御する前に、一時的にお鎮まりになられる御旅所でここからs更に櫂練り船を先頭に二双の船に乗せられ、大きく船に揺られながら北条港をゆっくりと数度回遊する。
2007年10月19日
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愛媛県下には、数多くの獅子舞がありますが、特に北条八反地の国津比古命神社の獅子舞保存会は、数百年余り前に国津比古命神社の「御供獅子」として始められ、現在では10月の秋祭りには欠かせない存在になっています。 ここ数年、我が町内の朝養(朝日町&養開)区では、午後二時より毎年会堂前にこの獅子舞いを迎えて楽しんでいます。 済みきった秋空にひびく、笛や太鼓の音に合わせ、楽しく舞い踊る獅子の姿は、大人達の郷愁を呼び、子供達の夢を育くむ。 八反地獅子舞の説明 【太夫】 神宮を表している。これは八反地の獅子がお供獅子であることを証拠づける為のもの、舞いの形は、神主さんのお払いを表現しているらしい。<どこかの神樂から持って来たのか、神社のお太夫さんから教わったのかは?> 【三番叟】 一番始めに演じるめでたい獅子。獅子を演じるグループの良い所だけを集めて作りあげているのでまず美しく見えることを一番に考えられ、また、三ツ切・四ツ切・八ツ切と、いうようにリズム感を大切にしている。獅子頭の使い手も、足の運びと共にリズムを大切に綺麗に使い美しく見せ、狩人もリズム感よく現れて、獅子も一寸起きては又眠る。(総てに出る狩人は、獅子を銃で殺さず、結局なだめて連れて帰る) 【稲まき】 先ず、親爺が出て来て日より(天候)を見ながら、田んぼの中央稲穂の出来ぐあいを見て回っている。今年も豊作だなあと思いながら回っていると稲が荒らされているので倒れた稲を起こしている時、獅子が目立たないように頭を下げて現れる。腹のすいた獅子はまず、稲穂を口にくわえて食べる。少し腹が太るとあぞながら食べ、食後の運動をして眠ってしまう。これを見ていた親爺は獅子がよく眠っていることを確かめ縄で生け捕りにしようとして失敗するが、狩人が急いで登場して救う。親爺は嬉しいような、邪魔されたような複雑な気持ちで退場する。黒面の親爺は、昔親爺と今親爺の二役を演じる。 昔親爺の躍りは、地味でありながら洗練されている。スローな動きの節目に、きちんとポーズを決めているようにも見えた。沖縄の躍りでは、お腹を中心に大きな円を表現するが、それに似たポーズを見た。なんだか、日本の伝統文化の繋がりみたいなものさえも感じる。 今親爺は、舞台の上で獅子を生け捕りにしようとしたり、キツネとの知恵比べを演じるのが本来の昔親爺なのだが、時々場外へ出て幼い子供達を追いかけ廻して脅かしながら笑わせたり泣かせたり、珍妙でユーモラスな動きで会場を笑いで大いに楽しく盛り上げてくれました。
2007年10月18日
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10月8日(月)体育の日 <鹿島神社祭り>4日目最終日 北条各地区の小祭りにも宮出し・宮入りがあり、ダンジリも出て町内を練り歩きます。 鹿島神社では朝5時に御旅所から2体のみこしの宮出しあり、旧北条各町への神輿が巡業、また各町内では子供神輿が出て新築の家々や世話役の家々に担ぎ込み、接待をうけます。
2007年10月17日
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みこし落としの後、北条の小祭りでの隠れた見所!、家内の実家でもある河野地区の柳原(やなぎはら)の三穂(みほ)神社と高縄神社では、最近開通した高縄山参道の広いバイパス道に集い、提灯を点けた子供ダンジリや府中のアンパンマン等様々な提灯ねぶた台の前で練り競い、夜の火祭りを美しく彩りました。 我が町内の朝養(朝日町&養開)区のダンジリは大黒さんをダンジリの上に祀り、隣の辻町区は布袋さんを、恵比寿(上町・胡子町)・福禄寿(北本町)・寿老人は名前のみを旧北条の色々な町で七福神を祀る。七福神(しちふくじん)とは、福をもたらすとして日本で信仰されている七柱の神である。インドのヒンドゥー教(大黒・毘沙門・弁才)、中国の仏教(布袋)、道教(福禄寿・寿老人)、日本の土着信仰(恵比寿)が入り混じって形成された、神仏習合からなる、いかにも日本的な信仰対象である。室町時代末期頃から信仰されていると言われている。一般には恵比寿、大黒天、毘沙門天、弁才天、福禄寿、寿老人、布袋の七柱の神とされる。おめでたい存在とされ、七福神めぐりが行われたり、正月に枕の下に七福神の乗った宝船の絵を入れておくと良い初夢が見られるなどとされている。
2007年10月16日
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10月7日の北条秋祭り宮入りには、祭りのクライマックスといえる「みこし落とし」があります。 これは、神輿を神社の高い石段から何回となく豪快に投げ落とし、御神体(御分霊・オショウネ) が神輿より飛び出すまで繰り返します。神輿がバラバラになり、まっすぐ下に落ちないで左右の見物客や氏子に当たっていく時があります。 大変危ないことではあるが、祭り好きの若衆は、このオショウネの争奪に血が躍る。 誰しも身近で拝見すると自身の血も沸くかもしれない! 先日ご案内の★テレビ朝日 スーパーJチャンネル★で10月7日の大氏神(国津比古命神社・櫛玉比賣命神社)北条秋祭りが全国放送されました。生憎小生も当日は4時から7時まで仏教会理事会が有り、留守録をセットして出掛けたのですが、何故か?全く録画がされておらず、折角の全国放送を生で見れなかったのは誠に残念でした。 しかし高田の檀家総代、野田高明区長さんが録画をされていましたので、後日分けて貰いました。命懸けでみこしの御神体を長年に亘り追い求め続け今回やっと目出度くゲットをされた英風会、萬こと(森田)さん親子の熱き姿を『密着!そうだったのか~奇祭!愛媛“神輿落とし”』のドキュメント番組で長時間特集で放映していました。なおテレビ画像は著作権上、そのままUPは出来ませんが、その雰囲気だけでも小生の【写心ギャラリー】 秋清高・みこし落とし動画でご覧下さい。御神体を獲得す若者又上がり神職に戻す神輿を壊すこと 松山市北条八反地にある国津比古命神社の秋祭りでは、祭りの最後の宮入り行事として、神輿を高い石段から何度となく投げ落とし、オショウネ(御神体)が飛び出るまで投げ続けるのである。御神体が神輿から飛び出るとすぐに本殿に運ばれて祭りが終了する。この「暴れ神輿」の風習は全国的にも珍しいものである。これは、神事に用いる道具については本来、毎年新調したものでなくてはならず、そのために祭りの最後に壊すのであるという説もあるが、実際には神威を発動させて神を示現させる魂振りの所作が極端な形で発達し、神輿を壊すようになったのではないだろうか。 また、同じ北条地区では、鹿島神社の神輿を、海上渡御の前に、明星川に何度も投げ込む行事がある。(近日UP予定)これも国津比古神社同様に、魂振りの究極の形と言えるのである。 なお、中予地方では神輿の鉢合わせが多いが、これも魂振りの一種である。神輿を静かに担ぐことでは神威が発動しないとする観念が中予地方では強いのであろう。つまり、神輿を壊すということは、神輿を壊して翌年再生させることで年の改まりを認識する機会とするともに、祭りの中で強く御神体を揺さぶり、神威を発動させることで五穀豊穣を祈る目的の祭りとして、強い民衆の願いが北条風早地区で全国でも珍しい独特な御輿文化を発達させた。
2007年10月15日
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祭りムード一色、迫力満点みこし落とし・松山の国津比古命神社、ー 作物の再生願う ー 「風早の火事(ひのこと)祭り」と呼ばれる松山市八反地の国津比古命神社の秋祭りで七日夕、恒例のみこし落としがあり、境内を埋めた観客は豪快な神事に酔った。みこし落としは、同神社と境内南右側の櫛玉比古命神社のみこし計四体を中央境内の三十九段の石段の上から投げ落として壊す行事。翌年はみこしを新しく作り直すことから、作物の再生を願う儀式といわれている。 午後四時半ごろ、地域を練り歩いた四体のみこしが神社に到着。「コテコイ、モテコイ」の掛け声が響く中、かき手が石段の上から高々とみこしを持ち上げ、壊れるまで何度も放り投げた。みこしは大きな音とともに転がり落ち、中に収められた御神体が現れると、若者らが殺到。迫力満点の奪い合いに観客から歓声が上がっていた。 北条地域秋祭りは、最終日の八日午後四時から、北条港近くの明星川にみこしを投げ入れる鹿島神社の宮入り前の神事「みそぎ」でクライマックスを迎える。【愛媛新聞、2007(平成19)年10月8日(月曜日)号より引用】
2007年10月14日
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10月7日朝神輿の宮出しの後に境内では英風会内(八反地獅子保存会)の獅子舞が次々色々と繰り出して更に祭りを盛り上げます。英風会さんの素晴らしいHP(相互リンク)もぜひご覧下さい。【親爺とキツネ】まず、親爺が出て田んぼが、キツネに荒らされていると確認して、天候や風向きや仕掛けをかける所を確認するために田んぼの周りを見て回り仕掛けをかけるが、キツネはかからず、親爺にこっち、こっちとさそうが、親爺はよう捕まえず、帰る。そこで、キツネはこれ見たかと、いろいろ見事な舞(芸)をして帰って行く。-- 御供獅子とは -- 旧北条市八反地には県社である「国津比古命神社」があり、その昔御神体が大洪水で流出した際、猪木地区の人々によって見つけ出され大浜に上げられたと言う伝説があります。御神体は「猪木大魔」・「御供獅子」を従えて国津宮に帰ったとされ、その御供獅子が八反地の獅子舞として伝承されていると言われます。時代は定かではありませんが、当地区の最も古い獅子頭は神社に奉納されており、その由緒のほどが伺えます。また、「太夫」の舞で使われる小面はかなり古く値打ちあるものとされ、舞としての無形の文化価値同様、道具類にも有形の価値があると思われます。
2007年10月13日
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早朝6時よりは4台の神輿の宮出しがあり、大勢の氏子青年によって渡御(とぎょう)が始まる。 その後、各地区に渡御道(とぎょうみち)を通って神輿は夕方の宮入まで旧北条全域に亘って氏子の家々をまわります。その昔御神体が大洪水で流出した際、猪木地区の人々によって見つけ出され大浜に上げられたと言う伝説があります。御神体は「猪木大魔」・「御供獅子」を従えて国津宮に帰ったとされ、その時以来、猪木地区の者が大魔(だいま)という鬼面に扮し先供して行きます。 これが「猪木大魔」です。昔は子供が怖がって良く泣きましたが、最近は子供が逆にからかいます。しかし大魔に抱かれた子供は健康に育つとされ、また、大魔の竹を手に入れた家はその年、福が来るとして各家庭に親しまれています。「また集まった皆さんが、猪木大魔が持っている竹を、無病息災のお守りとして分けてもらって帰るそうです。
2007年10月12日
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10月7日(日) <国津比古命神社と櫛玉比売命神社 宮出し 宮出しに際して、各地区の氏子によってダンジリを半鐘・太鼓を勇ましく叩き上げ ながら、神社の馬場まで一斉に集結します。特に早朝4時からは正岡小学校に25台以上のダンジリが暗闇から提灯の灯りに照らされた若衆の担ぐ炎のようなダンジリは、迫力があります。 (ジャンジャンジャン、ジャカ、ジャンジャンジャン・・・・・)と、一斉に半鐘・太鼓を鳴らしながら、笹に日の丸の小旗を付けた炎のように錬り競う姿は、まさに「風早の火事(ひのこと)祭り」です。旧北条市のダンジリ 愛媛県では、東予地方や南予地方のダンジリや太鼓台、牛鬼といった神幸行列を引き立てる風流が見られるが、中予地方にはそういったものが見られない。ところが中予でも風早地方にのみダンジリがあり、民俗的に越智郡との繋がりも見られ、中予と東予の中間地域と見ることができる。 この北条の国津比古命神社や鹿島神社の祭礼に登場するダンジリは、西条市のダンジリや新居浜市の太鼓台とは異なり、彫刻や金糸の刺繍などの装飾がほとんどみられない。また、屋根はなく、吹き抜けで、四本柱に日の丸の小旗を付けた笹竹を立てている。中央には提灯を吊し、台座部に半鐘と太鼓を据える。ダンジリ本体の高さは大きいもので三メートル弱、かき棒の長さは十メートル強である。豪華壮麗さは無いが、ダンジリの原初的形態を保っており、県内のダンジリの発達を考える上で指標となるものである。つまり、この北条ダンジリに高欄が付き、彫刻を施すと西条型ダンジリとなり、布団屋根を付けて、周囲に飾り幕を飾ると新居浜型太鼓台となるわけである。なお、笹を四本柱に立てる風は、南予の四ツ太鼓にも共通する。この北条ダンジリの形態の原初性は、全国的に見ても珍しく、愛媛を代表するダンジリと言っても過言ではない。なお、現在、旧北条市内には40数台のダンジリが存在し、祭りでは半鐘を打ち鳴らしながら地区内をまわる。鐘がうるさいので「火事祭」などと言われます。このことから、祭りを「風早火事祭り」とも称している。 北条祭二題 秋祭はやうに聞こゆ鐘太鼓 録音の囃子通りし在祭
2007年10月11日
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当日夜、かき比べ間のイベントで旧北条市、「庄地区獅子舞保存会」の賑やかで楽しい三連の獅子舞いもご披露されました。 超スローで撮影しましたら、幻想的な獅子舞いの作品になりました。庄地区・十輪坊HP北条庄地区の伝統を守り、メンバーの親睦と地域の活性化を推進している団体です。
2007年10月10日
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先日から御会式(おえしき日蓮聖人の726回目の法事)組寺17ヶ寺のお手伝い巡業で忙しく、今月当初に紹介しました北条風早火事祭りの今年度作品整理がやっと出来ましたので、これら毎日少しずつUPして参ります。お楽しみに! 先ず最初は10月6日夜7時半から行われました上難波農事試験場線のバイパス道路での(庄・上難波・中通り・下難波・大浦)五地区ダンジリ屋台の2007年かき比べの模様からご紹介します。
2007年10月09日
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北条地方の秋祭りは、10月8日、 鹿島神社の宮入でフィナーレ。荒々しいミコシのみそぎで毎年多くの観衆を魅了する珍しい文化遺産(伝統行事)である。 午後4時すぎ、折から降り始めた雨をついて北条明星川河口で恒例の“みそぎ”が始まると、祭りは最高潮。「モテコーイ・モテコーイ。ソリャー」とほとばしる掛け声でかき夫の力に高々とかつぎ上げられたミコシは、ゆらりと宙に舞い川面を突き破る。二度三度、ミコシがほうり上げられる度に、大きな水柱があがり、かき夫も一緒に飛び込む。浴衣も雨としぶきにずぶぬれ。 力感あふれるミコシの躍動に川辺を取り巻いた観衆から大きな拍手と歓声がわいた。荒っぽく清められたミコシはこの後、港に待ち受けた満艦飾の櫂練り船に移されて、北条鹿島へ左右に揺られながら船はゆっくりと海を渡って宮入し、夕暮れ迫る海上に優雅な時代絵巻を描いてゆく。 櫂練り船(手前)に引かれ、2体のみこしを乗せた御乗船は鹿島へと渡御し鹿島神社へ宮入する=北条港
2007年10月08日
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10月7日(日) <国津比古命神社と櫛玉比売命神社 宮出し・宮入り> 早朝より神輿の宮出しがあり、氏子青年によって渡御(とぎょう)がなされる。 神輿のあとには、獅子舞も繰り出し祭りを盛り上げます。 その後、各地区に渡御道(とぎょうみち)を通って神輿は氏子の家々をまわります。 その時猪木地区の者が提婆(だいば)という鬼面に扮し先供します。 宮出し・宮入りには、各地区の氏子によってダンジリを半鐘・太鼓を勇ましく叩き上げ ながら、神社の馬場まで一斉に集結します。特に早朝4時からは正岡小学校に25台以上のダンジリが暗闇から提灯の灯りに照らされた若衆の担ぐ炎のようなダンジリは、迫力があります。 一斉に半鐘・太鼓を鳴らしながらの姿は、まさに「風早の火事祭り」です。 午後4時半からの宮入りには、祭りのクライマックスといえる「みこし落とし」があります。 これは、神輿を神社の高い石段から何回となく投げ落とし、オショウネ(御分霊) が神輿より飛び出すまで繰り返します。 神輿がバラバラになり、まっすぐ下に落ちないで左右の見物客や氏子に当たっていくときがあります。大変危ないことではあるが、祭り好きの若衆は、このオショウネの争奪に血が躍る。 村さんの四季写心館(秋澄高・風早荒御輿ビデオ 火事祭り(ひのことまつり)の由来
2007年10月07日
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今日から北条秋祭り本番です!! ★☆★ 2007年北条秋祭りは、10月5日から10月8日です ★☆★(昨日5日は宵祭りでした。)北条上辻柳会祭りHP 火事祭りって何? 愛媛県松山市北条地域(旧北条市)は、昔から「風早」と呼ばれてきました。神社に祭られている神様の名前から、「火事(ひのこと)祭り」風早火事祭りと呼ばれています。 このダンジリ(屋台)には、太鼓と半鐘が取り付けてあり、町内を鳴らしながら練ります。 昔は、何処でも消防や避難の連絡に地区ごとに火の見櫓(ひのみやぐら)があり、半鐘で 知らせていたと思いますが、風早地方では秋祭りの時にもこの半鐘と太鼓を鳴らし気持ちを昂ぶらせ、町中にこのダンジリの太鼓と半鐘の音で祭りがやってきたことを知らせます。夜になると日の丸の旗を笹に付けて、沢山の提灯で彩られた数十台のダンジリが練り競い歩きます。スローシャッターで撮影すると、まるで火事の現場で炎がうねるような大変勢いある賑やかな(うるさい)お祭りです。
2007年10月06日
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我が故郷・伊予の北条の田舎にはまだまだ自然があちらこちらに残っている。 春には川原一面に咲く菜の花・ 初夏五月の田植前には黄金色の麦秋や、 レンゲ草摘み、 秋にはこの美しい彼岸花(曼珠沙華)・・など。 この素晴らしい四季の移り変りと共に、この写真に写っている娘、長女の三佳子(平成元年12月12日生まれ)も見違えるようにすくすくと成長をして早いもので、現在はもう高校3年生になった。 これからも自然を愛する優しく可愛い女の子に育って欲しいと願うと共に、これらの写真のような自然が、いつまでも何時までも残るようにと心から祈りつつ、この写心に託して娘へと贈った過去の作品集である。村さんの写真ギャラリー
2007年10月05日
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秋のお彼岸の明け9月26日、松山市(旧北条市)立岩米之野へ、久しぶりに撮影ドライブをした。 丁度実りの秋、段々畑には稲穂が黄くたわわに色づく畦道にはあたり一面真っ赤に燃え盛る炎のように曼珠沙華が咲き乱れていた。
2007年10月04日
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今まで12回にわたり、今年の法善寺七面山登詣団参の様子を掲載して参りましたが、最後にそのまとめとして今後の七面山へ登詣される皆さん方へのご参考までに、色々なご来光の写真を掲載しながら、改めて七面山の紹介をいたしたいと存知ます。 七面山頂の標高は 1,989メートル あり 一般的には 早川町赤澤羽衣橋(標高505メートル) 登山口より表参道を登ります。山頂手前付近にあります七面山敬慎院までは、登山口より五十丁、約4キロ(4~6時間)の道のりです。 また、身延・下部駅から角瀬までは、バスで1時間10分くらいで到着いたします、角瀬から赤沢登山口までは、徒歩で40分、タクシーで約10分程かかります。 表参道入り口は、春木川にかかる羽衣橋の西詰め。対岸に見えるのは、徳川家康公の側室「お万の方」が身を清めて七面山の女人禁制を解いたといわれる「白糸の滝」です。杉木立の中を行く登山道はかなり登り甲斐いのある道。日蓮宗の聖地として名を馳せるこの山には、お題目を唱える白装束姿の信者たちが行き交い、山の神聖性を深めます。 参道には、2丁目・13丁目・23丁目・36丁目と、4ヶ所に坊があり、休憩する事ができます。 初めの 2丁目の神力坊を経て、13丁目肝心坊までは50~60分、 13丁~23丁目中適坊(標高約1100メートル) までは40~50分、 23丁~36丁目晴雲坊までは40~50分、 36丁~50丁目までは50~60分です。 敬慎院(標高約1710メートル)までは 合計標高差1205m、更に七面山々頂(標高1989メートル) までは 標高差 279m。約60分 敬慎院までの歩く時間は早い人で、2時間半、一般的には3時間半~4時間、途中休憩時間(3回)を含めましても、4時間~6時間かければ充分ゆっくりと登れます。七面山は修行の御山ですので、登山時に他のお参りの方とすれ違うときには、お互いに挨拶するのが七面山での登詣のルールです。登山していて苦しくなってくると人間は自分のことしか考えなくなってしまいますが、「祈りと感謝を心に秘めて掛け合う挨拶、ご苦労様です!」・「顔晴って(ガンバって)下さい!」と見知らぬ人々にもお互いご挨拶をしましょう。ジグザグになっている道には四つの宿坊やベンチがあるので休憩をとりながら登りましょう。和光門(標高1650メートル)まで行くと七面大明神が祀られる敬慎院の入口吉祥門はもうまもなくです。「いにしえに思いを馳せる日蓮の路、富士を望めば息も整う」随身門前の遥拝台(約1720メートル)から一望できる荘厳なパノラマ富士の姿は、筆舌に尽くしがたいほどの素晴らしさです。日帰りでは厳しいコースのため敬慎院で宿を取ることも可能です。 山頂付近手前の大崩壊地・大ガレは、頂上直下まで食い込み迫力満点!(立ち入り禁止箇所有り注意)。辿りついた七面山々頂は(1989メートル)木々が生い茂り森林浴には最適ですが、ここからの展望は良くありません。 さて、敬慎院は、午後5時から夕食です。午後4時くらいまでに着きますと、ゆっくり汗を流せます。但し、風呂では石鹸、シャンプー等の使用は出来ません。夕食を済ませますと、山務員係り方の案内で「七面大明神のお開帳式」が行われます、七面大明神のやさしいお顔をよく拝して下さい。 ニ度目の案内で 夜の勤行となります、夜のお勤めでは各自、色々なご祈願・先祖様方のご回向をお願いする事が出来ます。最後に三百編の唱題行等も有ります。夜のお勤めが終わりますと、敬慎院の消燈は午後九時です。それまではお部屋でご自由に信仰談義や本殿でお題目修行をして、なるべく早くお休み下さい。 本堂の向かい側は斜面になっており、 階段を使って登るようになっている。 この階段の登り着いた先には 随身門と呼ばれる立派な門があり、 その出入口から富士山が見えるようになっている。 階段を登っていくと門が現れ、 その門を額縁のようにして目に飛び込んできた富士山の姿は素晴らしく、 ハッと息を飲むばかりだ。 先人の心憎いばかりの演出に感心することしきりである。 門を抜けると、そこは小さな広場になっていて、富士山まで遮るもののない、素晴らしい景観を手に入れることができる。宗教的に言えば、ここは霊峰富士と御来光の遙拝地となっているとのことだが、 御来光はこの随身門を抜け、 敬慎院本堂まで降り注ぐというから、 これまた感心せずにはいられない。 また、七面山は「ご来光遥拝」のお山でもあります、起床時間、ご来光遥拝時間、朝のお勤めの時間は 季節によって異なります。ご来光・お勤めが済みますと、朝食をいただいて下山となります。帰路は、また、表参道をおりる方がほとんどですが、時間に余裕の有る方は、裏(北)参道から二の池、県指定の大イチイ、奥之院(標高1660メートル)、大トチノキを通って角瀬バス停に下りる昔の旧道コースも有ります。 身支度については、夏季は軽装でいいと思いますが、夜は強く冷え込む時もありますので、各々の体調に合わせて着替え、雨具・汗取り・洗面具の用意をして下さい。盆地の気候より、約12度は下がります。靴については好みがあると思いますが、参道にはトガッタ石が沢山ありますので、靴底が厚くて軽いものが良いと思います。また途中お腹が空きますので、各自お握り弁当(俵屋さんで予約)を持って登って下さい。登山の荷物は、手提げカバンは避け、リュクサックを奨めます。PS、前記HP「MINOBU.TV」に小生の来光写真を3枚投稿しておりましたが、10月2日マイアルバムにやっと登録されました。ぜひ投票か感想をご投稿下さい。何れその内、22日撮影のビデオムービーも投稿します。(いまのふじ)では七面山遙拝所から見える雲海の富士山を毎日ライブで放映しています。最新の映像で解像度はテレビ並み、コマ数はワンセグ並みのライブ感をご自宅で味わえます。先ずは、ユーザー登録(現在は無料)をしてから、スペシャルムービー「身延.ch」を是非お楽しみ下さい。 特に2006年9月24日のダイヤモンド富士のご来光は圧巻ですよ。「MINOBU.TV」 なお次回の法善寺七面山登詣は平成21年9月24~26日を予定しています。 以上、13回の長きに亘りご訪問有り難うございました。平成18年7月に開設したこの写心ブログもお陰様で本日10月3日に、二万カウントを突破しました。今後共宜しく! 合掌。
2007年10月03日
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再び八丁の参道を敬慎院に戻り、荷物を持って村松別当さんや敬慎院山内の皆さん方にお礼のご挨拶をして七面本社殿前にて全員合掌でお題目三唱してから、午前8時出発、吉祥門から出て鐘楼堂にて代表が1回鐘を撞き、和光門を経て表参道より団扇太鼓を叩き、一同大きな声で感謝のお題目を唱えながらゆっくりと下山しました。 途中団体の霊友会の会長さんが乗るお駕籠に出会い、一休みしている四人の強力さんの一人にそっと耳元で金額を聞いて驚きました。昔は10万でしたが、今は約30万円以上もするそうです。自分の足で登詣が出来た事に一同改めて感謝しました。 それから途中また、登りに出会った杉の皮を剥いでいた山林部の職人さんにお会いし、話を聞きました。今回は工事中で残念ながら参詣が出来なかった「大野山本遠寺」本堂の檜皮葺き屋根に使う材料を敢えてお万さまご縁の七面山の登山道からも11月迄に集めて揃い次第工事を着手、来年には完成するそうです、次回は立派に完成した大野山へも是非お参りしたいものです。 午前11時半、何とか10名全員元気で下山、白糸の滝前のお万さま像にご挨拶。角瀬の俵屋さんにて入浴・昼食を頂き、下部駅から身延山に戻る長男と別れて帰路に向かう。9月20日14時20分発の特急富士川8号にて、静岡駅から15時14分発新幹線ひかり415号にて、名古屋駅を経由して、小牧空港18時50分発50人乗りの小型ジェットのJAL4397便にて松山空港へ20時到着、予約しておいた粟井ジャンボタクシーにて北条法善寺に20時40分無事帰山、本堂にてご本尊さんに帰山奉告式後、めでたく解散しました。皆さん大変お疲れさまでした。本妙山・法善寺HP 10月20~21日は京都三本山(妙顕寺・本法寺・立本寺)へ松山門中会寺院17ヶ寺合同団参、明年4月頃には第43回日蓮宗聖徒団全国結集身延大会参加&京都本山(妙顕寺・本満寺)団参&南座歌舞伎座の鑑賞等、京都観光(4泊5日)の旅も計画中です。平成20年11月竣工、21年春落慶予定の身延山五重塔(高さ39メートル、現在二重層迄の工事)も四月には更に建築が進んでいる事と思います。またお誘い合わせの上、ご参加の程を!。再拝。
2007年10月02日
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お互い素晴らしいご来光の感激にひたりながら、敬慎院に戻り美味しい精進の朝食を頂いてから、昨日に時間が無くて参拝が出来なかった「二之池」と「奥之院」に向かう。先ず本社殿正面右に続く回廊の下をくぐると、高山には珍しい大きな池が見渡せます。 今から710年の昔、永仁五(1297)年9月日朗上人が登山され19日の未明、池の湖畔に日蓮聖人の大曼荼羅ご本尊を掲げて法華経にて法味を捧げられたところ、七面大明神が龍の姿で現れたと伝えられています。この日を七面山開創の日とされ、毎年この前日から2日間七面山大祭が奉行され大勢の信者で賑わっています。この一之池では今でもある日突然に龍が泳いだような不思議な波紋が現れることが有ると言われる七面山信仰にかかわる不思議な存在で、池そのものが信仰の対象にもなっています。一年中涸れることのない神秘的な水をたたえ、四季折々に幽玄なたたずまいを見せていました。続いて、七面本社の右手をしばらく進むと、小さな鳥居奥に二之池と呼ばれる池が左手に現れる。 一之池に比べると規模ははるかに小さい池の周囲には二之池宮と書かれた額が掲げられている立派な社殿の他、赤地に白い文字で南妙法蓮華経と書かれた旗等がいくつも立てられていました。 小生は三之池までしか知りませんが、伝説では七面山には七つの池があるそうです。 更に右手に見える美しい富士山を楽しみながら、車道のような平坦な道を約900メートル進んで行くと、やがて奥之院に至りました。奥之院の七面宮も立派な建物であり、また影嚮石 (ようごうせき) と呼ばれる大きな石が前にあって荘厳なたたずまいでありました。 日蓮聖人は、ご在世の間に、いつか七面山に登って七面大明神をお祀りしようと思っていましたが、残念ながら日蓮聖人は七面山には登られてはおりません。お弟子さん達に何度も「七面山に登りたい」とお話をされていたのでしょうか、日蓮聖人ご入滅後十六年目に、お弟子の中でも師孝第一と仰がれていた日朗上人は波木井公(当時は出家して日円)等と共に、七面大明神をお祀りするために、はじめて七面山へ登られました。当時の七面山は道なき山でありましたので、日朗上人一行は尾根伝いに、この山へ登られたといわれています。七面山に登るとそこに大きな石があり、その前で休まれたところ、この大きなお石の上に、七面大明神が龍の姿を現して日朗上人一行をお迎えになりました。日朗上人は、この大きなお石を影嚮石(ようごうせき)と名付け、その前に祠を結んで七面大明神をお祀りし、「影嚮宮」(ようごうのみや)と名付けられました。これが七面山奥之院の開創で、永仁五年(1292)の9月19日のことでした。 この奥之院には七面大明神を祀る七面宮と参籠殿からなる富士山眺望の良い堂舎で、200名くらいの人数が参籠が出来きます。前回平成17年の登詣はこちらに初めて泊まりました。夏期には青少年を対象に毎年修養講座が行われています。 七面山奥之院のホームページ(相互リンク)
2007年10月01日
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